2013年10月15日
地域の中で活き、世代を継ぐ「ゆとろぎとファンタジー」の空間〜 銀河の里の新たなステージを目指して ★施設長 宮澤京子【2013年10月号】
「銀河の里」設立15年目にあたる平成27年4月を目標に、新たな事業展開のビジョンを描いてみようと、ようやく前向きに取り組みはじめた。
日本の「地域」は昭和30年代に崩壊したというのが、社会学の常識だという。ところが福祉の世界では「住み慣れた地域で」とか「地域密着型」という言葉がよく聞かれる。これは、全ての場所がセンターになるというグローバル化の時代に、地域を再構成したり、人との繋がりを考えていくという積極的な意味合いからではなく、増え続ける高齢者介護の経済的視点からの詭弁として、意図的な縛りがあるように感じる。
地域は、人々が生きていく重要な環境であり、人が社会の一員として依って立つ土台となるものだ。地域からは「協働作業」がなくなり、それぞれが経済的に自立して、人々は遠く離れて都会に集まり、全国に崩壊集落や限界集落ができている。
ただ、急激な高齢化が地域崩壊の要因でもあると同時に、一方で認知症などの大量の出現が、新たなつながりを否応なしに作り直してくれているようにも感じる。ひとりでは生きられない人々の出現は、それを支える人とつながり、そのつながりがまた、新たなつながりを作る可能性を秘めている。そうした広がりの輪を支えるような拠点や人材が求められる。
伝統的な社会では、長や、長老、地域の有力者がリーダーとなって地域を形成してきたが、今ではその仕組みは機能しなくなっている。そこに、「弱さ」によって他者を必要とする人々が社会に大量に出現してくる。彼らこそが、新たな地域のクリエイターではないか。そこに、高齢者ばかりでなく、障害者も参画していくことで、より豊かな地域社会が構成できるに違いない。さらには、未来を指向するときに、「子ども」の存在は外せない。少子化で、数が少ないからこそ、彼らと共に生きる時間と場所が貴重である。
福祉を総合的に構築しようとしたとき、子ども・大人・そして高齢者が包括されていく必要があるだろう。しかし措置制度の流れを汲む大規模の複合施設は、往々にして同敷地内にありながら制度上のたて分けに縛られ硬直化している。
里の構想は、有機的な関係で輻輳し合う柔らかな空間をイメージしている。開設当初は高齢者事業で始まり、3年後に障害者の就労の場やグループホームの住いを作り、今では高齢者の相談事業から終の棲家の特養ホームの運営までを行っている。多種の事業所があっても、そこに集い暮らす人々は、農業を基盤に、老若男女、みんな有機的に繋がっている。
これまでの里には、「子ども」の部門がすっぽり抜け落ちていた・・・当初から視野には入れていたが、敢えて手がけずにきた。子どもの存在は、それだけですでに「未来」であり、「希望」である。しかし、福祉にからみつく高齢や障害のイメージは、どうしても「負」であり「アンチ」で、社会的問題や経済問題にされがちである。里の13年間は、そんな社会的な既成概念を打ち破る関係性の物語を暮らしの中で紡ぎながら、高齢者、認知症、障害そのものに「希望」を見いだす可能性を追求してきた。その意味は大きいと思う。
ただ、現実の未来においては、農業の疲弊と過疎や高齢化に喘ぐ地域の未来は、若者や子どもの「育ち」を抜きには考えられない。多世代で暮らしながらも、断絶した家族や、冷え切った関係を繕い、形骸化した家族像も浮かび上がる現実がある。その背景には、様々な「分断」がある。銀河の里では、その分断を子どもの空想や幻想と、老人の深い魂の次元の妄想力「ファンタジー」の力で繋いでいきたい。
そうした「ゆとろぎの場」の実現が、銀河の里の次のステージとなる。それには「子ども」の存在が必須だ。子どもの魂こそが、このような関係性と空間を渇望していると感じる。(『ゆとろぎ』は、イスラームの「ラーハ」をゆとろぎと訳した豊かな時間:片倉もと子著)
そんな「時」の流れる場を銀河の里に創り上げて行きたい。
さて、これから事業計画と資金計画を立て、ハードやソフトを整備していく事になるが、それも「計画ありき」ではなく、「プロセス」が基盤にあるのは里らしい。この地域に息づく文化や資源を元に、地霊の守りを得ながら実現に向けていきたい。
地霊の守り
銀河の里がある花巻市幸田は、戦後、樺太からの引き揚げ者が開拓で入ったところだ。棚田の美しい田園風景は、開拓者の血と汗が作り上げてきた。この地で「農業」を引き継いだ摂理を感じる。地域の「八雲神社」の杉木立に囲まれたその様相は、中世そのままだ。そこでは、長く引き継がれてきた伝統の「神楽」が奉納される。銀河の里でも、毎年、宵宮の「神楽」を見物にいく。
里から車で15分ほどの所に呼石という奥深い雰囲気の集落地域がある。ワークステージに通っている塚地さん(仮名、67歳)は、そこに一人で住んでいたが、里に障害者のグループホームができたのを機に引っ越してきた。塚地さんの家は「呼石神社」を何代にもわたって守ってきた家系だったが、お父さんが亡くなってからは、本家さんが神社を守っている。塚地さんの家は、茅葺きの大きな家だが、塚地さんが出てからは廃屋となっていた。
家の庭から続く道には「呼石大明神」の鳥居があり、雑木林の奥にご神体が苔むしている。近くの杉の根本には水が湧いており、一帯が何とも不思議な空間だ。この呼石大明神の「親」にあたる神社が、幸田の「八雲神社」で、塚地さんも、毎年、元朝参りに幸田神社に歩いてお参りに来ていたという。
その塚地さんの古民家を移築して、銀河の里の「ゆとろぎファンタジー空間」にする企画が進行中である。できるなら茅葺き屋根にして、カヤなども育てながら、葺き替えの協働作業を行い地域復活の精神的な一端が担えないかと考えている。かつては貧乏だったからこそ、人のつながりの中で協働作業ができたが、今では経済的な豊かさの中で、それぞれが孤立して生きている。こんな時代だからこそ、代々協働作業で維持されて行く「家」を作ってみたいと思う。
開拓者の霊が、そして縄文からの地霊が、無機質に乾いた「関係性の分断」に、潤いと守りを与えてくれるようにと、私も手を合わせたい。
日本の「地域」は昭和30年代に崩壊したというのが、社会学の常識だという。ところが福祉の世界では「住み慣れた地域で」とか「地域密着型」という言葉がよく聞かれる。これは、全ての場所がセンターになるというグローバル化の時代に、地域を再構成したり、人との繋がりを考えていくという積極的な意味合いからではなく、増え続ける高齢者介護の経済的視点からの詭弁として、意図的な縛りがあるように感じる。
地域は、人々が生きていく重要な環境であり、人が社会の一員として依って立つ土台となるものだ。地域からは「協働作業」がなくなり、それぞれが経済的に自立して、人々は遠く離れて都会に集まり、全国に崩壊集落や限界集落ができている。
ただ、急激な高齢化が地域崩壊の要因でもあると同時に、一方で認知症などの大量の出現が、新たなつながりを否応なしに作り直してくれているようにも感じる。ひとりでは生きられない人々の出現は、それを支える人とつながり、そのつながりがまた、新たなつながりを作る可能性を秘めている。そうした広がりの輪を支えるような拠点や人材が求められる。
伝統的な社会では、長や、長老、地域の有力者がリーダーとなって地域を形成してきたが、今ではその仕組みは機能しなくなっている。そこに、「弱さ」によって他者を必要とする人々が社会に大量に出現してくる。彼らこそが、新たな地域のクリエイターではないか。そこに、高齢者ばかりでなく、障害者も参画していくことで、より豊かな地域社会が構成できるに違いない。さらには、未来を指向するときに、「子ども」の存在は外せない。少子化で、数が少ないからこそ、彼らと共に生きる時間と場所が貴重である。
福祉を総合的に構築しようとしたとき、子ども・大人・そして高齢者が包括されていく必要があるだろう。しかし措置制度の流れを汲む大規模の複合施設は、往々にして同敷地内にありながら制度上のたて分けに縛られ硬直化している。
里の構想は、有機的な関係で輻輳し合う柔らかな空間をイメージしている。開設当初は高齢者事業で始まり、3年後に障害者の就労の場やグループホームの住いを作り、今では高齢者の相談事業から終の棲家の特養ホームの運営までを行っている。多種の事業所があっても、そこに集い暮らす人々は、農業を基盤に、老若男女、みんな有機的に繋がっている。
これまでの里には、「子ども」の部門がすっぽり抜け落ちていた・・・当初から視野には入れていたが、敢えて手がけずにきた。子どもの存在は、それだけですでに「未来」であり、「希望」である。しかし、福祉にからみつく高齢や障害のイメージは、どうしても「負」であり「アンチ」で、社会的問題や経済問題にされがちである。里の13年間は、そんな社会的な既成概念を打ち破る関係性の物語を暮らしの中で紡ぎながら、高齢者、認知症、障害そのものに「希望」を見いだす可能性を追求してきた。その意味は大きいと思う。
ただ、現実の未来においては、農業の疲弊と過疎や高齢化に喘ぐ地域の未来は、若者や子どもの「育ち」を抜きには考えられない。多世代で暮らしながらも、断絶した家族や、冷え切った関係を繕い、形骸化した家族像も浮かび上がる現実がある。その背景には、様々な「分断」がある。銀河の里では、その分断を子どもの空想や幻想と、老人の深い魂の次元の妄想力「ファンタジー」の力で繋いでいきたい。
そうした「ゆとろぎの場」の実現が、銀河の里の次のステージとなる。それには「子ども」の存在が必須だ。子どもの魂こそが、このような関係性と空間を渇望していると感じる。(『ゆとろぎ』は、イスラームの「ラーハ」をゆとろぎと訳した豊かな時間:片倉もと子著)
そんな「時」の流れる場を銀河の里に創り上げて行きたい。
さて、これから事業計画と資金計画を立て、ハードやソフトを整備していく事になるが、それも「計画ありき」ではなく、「プロセス」が基盤にあるのは里らしい。この地域に息づく文化や資源を元に、地霊の守りを得ながら実現に向けていきたい。
地霊の守り
銀河の里がある花巻市幸田は、戦後、樺太からの引き揚げ者が開拓で入ったところだ。棚田の美しい田園風景は、開拓者の血と汗が作り上げてきた。この地で「農業」を引き継いだ摂理を感じる。地域の「八雲神社」の杉木立に囲まれたその様相は、中世そのままだ。そこでは、長く引き継がれてきた伝統の「神楽」が奉納される。銀河の里でも、毎年、宵宮の「神楽」を見物にいく。
里から車で15分ほどの所に呼石という奥深い雰囲気の集落地域がある。ワークステージに通っている塚地さん(仮名、67歳)は、そこに一人で住んでいたが、里に障害者のグループホームができたのを機に引っ越してきた。塚地さんの家は「呼石神社」を何代にもわたって守ってきた家系だったが、お父さんが亡くなってからは、本家さんが神社を守っている。塚地さんの家は、茅葺きの大きな家だが、塚地さんが出てからは廃屋となっていた。
家の庭から続く道には「呼石大明神」の鳥居があり、雑木林の奥にご神体が苔むしている。近くの杉の根本には水が湧いており、一帯が何とも不思議な空間だ。この呼石大明神の「親」にあたる神社が、幸田の「八雲神社」で、塚地さんも、毎年、元朝参りに幸田神社に歩いてお参りに来ていたという。
その塚地さんの古民家を移築して、銀河の里の「ゆとろぎファンタジー空間」にする企画が進行中である。できるなら茅葺き屋根にして、カヤなども育てながら、葺き替えの協働作業を行い地域復活の精神的な一端が担えないかと考えている。かつては貧乏だったからこそ、人のつながりの中で協働作業ができたが、今では経済的な豊かさの中で、それぞれが孤立して生きている。こんな時代だからこそ、代々協働作業で維持されて行く「家」を作ってみたいと思う。
開拓者の霊が、そして縄文からの地霊が、無機質に乾いた「関係性の分断」に、潤いと守りを与えてくれるようにと、私も手を合わせたい。
「認知症を考える」 〜今私がやりたいこと〜 ★ケアマネージャー 板垣由紀子【2013年10月号】
最近の厚生労働省の報告によると、2025年に、要介護認定を受けている認知症高齢者の推計数は470万人、実に65歳以上の高齢者の10人に1人が認知症という時代が来ると予測されている。もはや認知症は、他人事でも、珍しい病気でもなくなっている。それを受け認知症施策推進5カ年計画(通称オレンジプラン)が今年から始まった。この計画を受け、県でも、市でも、認知症と名のついた研修会が開かれている。今年の家族介護者教室(社協主催)では、私も担当させていただいた。例年7〜8名の参加者と聞いていたが、20名を越える参加者になり、関心の高さが感じられた。集まった方々からは、それぞれ自身の抱える介護の大変さや、不安が語られ、1時間以上を要した。「一人一人の話を丁寧に聞きたい」という思いに駆られた。
家族の中に、認知症の方がいる。ということは、どういうことなのだろうか?まずは「家族が認知症になった」という事実を受け入れる困難さがある。気づいたときにはだいぶ進行しているということもある。少しずつ進行していく、明日はどうなるかという不安。失認失行が進行してくると、常時見守りが必要となり、家族が仕事を辞めるなど、今までのライフスタイルを変えなければならないことも起きてくる。若年性の認知症の場合、大黒柱である本人が仕事を失うなど、経済的な負担も出てくる。家族介護教室で語られた家族一人一人が抱える問題は切実で、認知症の周辺症状に悩まされているご家族も多い。肉親として、本人と向き合うには、家族だけで対応していくことは難しく、一生懸命になればなるほど、ストレスを抱え、追い込まれてしまう危険性を感じた。現に孤軍奮闘し、がんばったうえでの介護事件が後を絶たない。
認知症といっても、症状も置かれている環境も様々だ。一般論では向き合えない問題がそこにはある。今まで抱えてきた、家族間の関係や、本人自身の抱えてきた課題が、認知症によって表に出てくることもある。「この人が、認知症になったのは、この関係を取り戻すためではないか」とさえ感じることもある。認知症を発症して初めて、ご家族と本人が向き合うというケースもあるように思う。家族の一員としての役割や、社会の中での役割から離れて(解放されて)、人との関係の中で、自分自身が現れ、家族の関係も変えていく可能性もそこには感じる。
オレンジプランでは、@「認知症ケアパス」(認知症の症状に応じた適切なサービス提供の流れ) A「早期診断・早期対応」(医療機関の整備)「地域ケア会議」(多職種がいろいろな角度から支援を検討する会議)の推進 B「地域での生活を支える医療サービス」(退院支援・地域連携クリティカルパスなど) C「地域での生活を支える介護」(必要な介護サービスの整備) D「地域での日常生活・家族支援の強化」(認知症地域支援員・認知症サポーター・市民後見人等人材育成)(認知症の人やその家族に対する支援「認知症カフェ」)などシステムの構築を進めている。計画の背景には、認知症高齢者の予想を上回る推計数があり、施設や病院だけでは対応しきれない。という現実がある。
私がオレンジプランのなかで注目しているのが、「認知症カフェ」(ネーミングはどうかと思うが・・)だ。相談できる窓口。困ったとき思いを聞いてもらえる場所が重要になってくると思う。銀河の里のデイサービスを見ていて思うのだが、認知症の人が安心できる場所、思い思いに過ごせるところ、というのも魅了的だ。地域の人との交流の場所になり、様々な文化的な活動の基盤になっていったらいい。認知症になってもそれを障害として意識しないで、穏やかに過ごすことが出来たらいい。
社会学的にはすでに消滅してしまったと言われる地域が、そこから新たに発生してくる可能性がある。それは支え合うことを前提に生まれてくる柔らかい地域として希望される。
家族の中に、認知症の方がいる。ということは、どういうことなのだろうか?まずは「家族が認知症になった」という事実を受け入れる困難さがある。気づいたときにはだいぶ進行しているということもある。少しずつ進行していく、明日はどうなるかという不安。失認失行が進行してくると、常時見守りが必要となり、家族が仕事を辞めるなど、今までのライフスタイルを変えなければならないことも起きてくる。若年性の認知症の場合、大黒柱である本人が仕事を失うなど、経済的な負担も出てくる。家族介護教室で語られた家族一人一人が抱える問題は切実で、認知症の周辺症状に悩まされているご家族も多い。肉親として、本人と向き合うには、家族だけで対応していくことは難しく、一生懸命になればなるほど、ストレスを抱え、追い込まれてしまう危険性を感じた。現に孤軍奮闘し、がんばったうえでの介護事件が後を絶たない。
認知症といっても、症状も置かれている環境も様々だ。一般論では向き合えない問題がそこにはある。今まで抱えてきた、家族間の関係や、本人自身の抱えてきた課題が、認知症によって表に出てくることもある。「この人が、認知症になったのは、この関係を取り戻すためではないか」とさえ感じることもある。認知症を発症して初めて、ご家族と本人が向き合うというケースもあるように思う。家族の一員としての役割や、社会の中での役割から離れて(解放されて)、人との関係の中で、自分自身が現れ、家族の関係も変えていく可能性もそこには感じる。
オレンジプランでは、@「認知症ケアパス」(認知症の症状に応じた適切なサービス提供の流れ) A「早期診断・早期対応」(医療機関の整備)「地域ケア会議」(多職種がいろいろな角度から支援を検討する会議)の推進 B「地域での生活を支える医療サービス」(退院支援・地域連携クリティカルパスなど) C「地域での生活を支える介護」(必要な介護サービスの整備) D「地域での日常生活・家族支援の強化」(認知症地域支援員・認知症サポーター・市民後見人等人材育成)(認知症の人やその家族に対する支援「認知症カフェ」)などシステムの構築を進めている。計画の背景には、認知症高齢者の予想を上回る推計数があり、施設や病院だけでは対応しきれない。という現実がある。
私がオレンジプランのなかで注目しているのが、「認知症カフェ」(ネーミングはどうかと思うが・・)だ。相談できる窓口。困ったとき思いを聞いてもらえる場所が重要になってくると思う。銀河の里のデイサービスを見ていて思うのだが、認知症の人が安心できる場所、思い思いに過ごせるところ、というのも魅了的だ。地域の人との交流の場所になり、様々な文化的な活動の基盤になっていったらいい。認知症になってもそれを障害として意識しないで、穏やかに過ごすことが出来たらいい。
社会学的にはすでに消滅してしまったと言われる地域が、そこから新たに発生してくる可能性がある。それは支え合うことを前提に生まれてくる柔らかい地域として希望される。
小さな勝負 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2013年10月号】
トヨミさん(仮名)は、本当は色んなことを楽しみたいのに、誘うと「出来ね」「行かね」「やんか」と自分にブレーキをかけてしまう。自分に「出来ない」と暗示をかけるかのように、頑なに拒む。トヨミさんは夜に怯える。夜、トヨミさんはより一層“出来ない”人になる。「おっかね〜」「早く助けて〜」と泣きそうな表情と声でスタッフを頼る。暗闇は死を連想せる。トヨミさんは死に怯えるのだろうか。
トヨミさんは入居当初、頑なに部屋に籠もって何に誘っても拒否した。今は日課になっている事務所通いも、ユニットの外へ出る大きな変化だったが、さらに外出の機会が増えて楽しめるよう、トヨミさんの頑なな心のブレーキが緩むのを願って、その都度誘ってきた。そして最近では、けっこうすんなりと出かけられることも増えて来ていた。
9月は花巻まつりもトヨミさんの地元の石鳥谷まつりもある。8月にトヨミさんに「花巻まつりと石鳥谷まつり、どっちに行きたい?」と聞くと「やっぱり、石鳥谷かなぁ。んでも花巻まつりもいいなぁ」と言った。「行こうか」と言うと「んだね〜」と乗ってくれた。いつもなら「おら行かね」と返ってくるので、思いがけない反応に驚きながら、これは行けるかも!一緒に行きたい!と期待して計画を立てていた。ところが、9月に入るとトヨミさんは一転して「オラ行かね。行けね」となった。しかもここ最近にはないような久々の頑なさだった。
ある日さりげなく、「石鳥谷にもまつりあるんでしょ?」と聞くと「おめはん、よく覚えてたね!おめはんお祭り好き?」と笑顔だった。「面白れぞ〜!やーれやーれやーれやーれってやるのす」と手真似で「お祭りの雰囲気いいんだよなぁ」とキラキラした表情で語るので、やっぱりトヨミさんと一緒に行きたいと思わずにはいられなかった。
祭り前日、「明日石鳥谷まつり行くよ」とさらりと言ってみると、「えっ!?誰と行くの?」「私」「あ、おめはん?」「うん、2人で行くべ」「うーん…オラ行かね」と言う。あとひと押しかと「トヨミさん行かねんだば私も行かね。だって私が祭りに行きたいんじゃなくてトヨミさんと行きたいんだもん」と突っ込んでみた。それでも「ん〜、そっか!…オラ行きたくね」と言う。「私も行かね行かね、残念だ〜」「何その言い方!」「トヨミさんの真似っこ!」「ほんとに行くの?」「トヨミさんが行くなら」「行かねくていい〜」・・・そんな微妙なやりとり。あとはもう当日、勝負するしかないと思った。
当日の午前中のトイレで「よーし!」と気合い十分のトヨミさん。「今日は調子いいね!祭りも行けそうだね!」とさり気なく言うと、「うん、行っておいで」とさらりと返されてそれ以上言えなくなってしまった。午後、スタッフで祭りに出かける打ち合わせをしていると「おれのこと?違うべ?」と気にするトヨミさん。「トヨミさんは夕方から」と言うと、「何?どこさ行くの?祭り?石鳥谷?石鳥谷だばおれだべ?」と祭りの話題を出してきた。気になっているようだが、「行かね」となる・・・。「行ってこようよ。石鳥谷に行くとしたらトヨミさんしかいないし」と言うと、「おれ行くんだば家の人たちと行く」と言われてちょっと落ち込む。
もうあきらめ気味で、計画書をワザとトヨミさんの前に置く。駆け引きだ!覗き込むトヨミさん。私も素知らぬ顔で日誌を書いている。目が合うが黙ったまま・・・少しするとトヨミさんの方から「あのさ、私さ、歩けないから。お祭りでもなんでも行けね」と話しかけてきた。「私押していくし、一緒に歩くよ」と言うと「うん、まずさ」と笑う。「トヨミさんが行きたくないんだったら無理しなくていいよ。でも “行けね”って言うんだば私連れていきたいな」と言うと黙るトヨミさん。
夕方のトイレ介助が最後の勝負と決め、私が介助に入ることをスタッフと打ち合わせた。トイレで「トヨミさん、祭り行こうよ」とストレートに迫る。「オラ行げね。行ぎてぇところもあるども行かなくていい」と言う。行ぎてぇところもあるども”の言葉に手応えを感じ、「行ぎてぇところもあるんだば行こうよ!」と言うと、「おめはんも行く?」と乗り気だ。「行くよ、もちろん」「へっへ〜♪」とまんざらでもない。出かける準備は既に整えていたので、「あとは行くだけだよ」というと「行がね行がねって言って結局行く人だもんな〜」と笑った。上着を着て、帽子を被った姿をオリオンの宮川くんが褒めてくれる。事務所では中屋さんに「お土産買ってきて〜」と声をかけられてご機嫌だった。玄関では万里栄さんに「奥様みたいだね」と声をかられ「奥様だもん♪」と得意げなトヨミさんがいた。
出発したがトヨミさんは車の揺れがおっかない。ほんの少し揺れるだけでも「おっかね〜!」と大騒ぎ。それでも「行がねつもりしてたったども、行ぐより他ねんだな」と笑っていた。私は「行かね!もうやんか!」と言われないかとハラハラだった。それでも石鳥谷が近づくと見慣れた景色に「ここは八幡小学校!」などとその気になってくる。思えば、トヨミさんと石鳥谷来たことなかったんだなぁと嬉しくなる。
まつり会場の砂利道も「おっかね」と気が気でなかったが、トヨミさんは屋台でたこ焼きと焼きそばを選んだ。「オラ食べれね〜」と言うが「2人で半分こしよう」と言うと食べた。一緒にいることでトヨミさんは安心するんだなぁと思う。
神輿が「わっしょい!」とトヨミさんを煽る。両手を挙げて「わっしょい!」と返すトヨミさん。とてもいい表情に嬉しくなる。山車を「やま来るかな?下組はおらのどこ。兄貴来るかなぁ?」とわくわくして待っている。通り過ぎる山車を目を輝かせて眺める。疲れる様子もなく楽しむトヨミさんの隣で私も自然に楽しめた。「いがったね」と満たされた気持ちで言うと、「見だね〜。おめはん方にもご相伴に預かりまして」とやけに丁寧なお礼を言ってくれる。
帰りはすっかり暗くなってしまったが、帰るとスタッフに「いがったよ〜」「わっせーわっせーってやったの!」とジェスチャー付きで教えているトヨミさん。“楽しめた”ことが確信できた。翌日も、スタッフにも祭りの話を振られると「行ってきた!楽しかったよ〜」と語る得意げな姿に“行けた”ことが自信みたいなものになっている気がして嬉しくなる。
私は日誌を書きながら、トヨミさんに隣に来て欲しいと感じた。「トヨミさんこっちこない?」と誘うと、「おじゃましまーす」と来てくれた。さらに「ちょっとお話してもいい?おたくの・・・」と言いかけ、「やっぱ言わね」とやめた。「何なに話して」と迫る私。「恥ずかしくなった〜、言わね」ともったいぶるトヨミさん。「えー?気になる〜」とやりとりする。「あのね・・・この間おまつりさ行ってきたえ?私。・・・面白れがったー」とにんまり。「くだらねね、ごめんね。何かかにか話っこしたいと思った」と照れ笑い。こんなトヨミさん見たことないなぁ・・・驚きと共に嬉しい気持ちになる。「私も嬉しいよ」と伝える。すると「おめはん行った?」ととぼけるトヨミさん「私一緒に行ったじゃん!(笑)」と笑いながら、胸がいっぱいになった。
最後の最後まで行けそうではなかったが、必死の駆け引きの勝負だった。最後のトイレで勝負をしなければ行けなかったかもしれない。諦めなくて良かったなと思う。どうチャンスを作るか、いい方法があるわけではない。二人の関係の中で挑んだ勝負が、祭りに行けて、幸せな余韻をもたらしてくれた。
トヨミさんは入居当初、頑なに部屋に籠もって何に誘っても拒否した。今は日課になっている事務所通いも、ユニットの外へ出る大きな変化だったが、さらに外出の機会が増えて楽しめるよう、トヨミさんの頑なな心のブレーキが緩むのを願って、その都度誘ってきた。そして最近では、けっこうすんなりと出かけられることも増えて来ていた。
9月は花巻まつりもトヨミさんの地元の石鳥谷まつりもある。8月にトヨミさんに「花巻まつりと石鳥谷まつり、どっちに行きたい?」と聞くと「やっぱり、石鳥谷かなぁ。んでも花巻まつりもいいなぁ」と言った。「行こうか」と言うと「んだね〜」と乗ってくれた。いつもなら「おら行かね」と返ってくるので、思いがけない反応に驚きながら、これは行けるかも!一緒に行きたい!と期待して計画を立てていた。ところが、9月に入るとトヨミさんは一転して「オラ行かね。行けね」となった。しかもここ最近にはないような久々の頑なさだった。
ある日さりげなく、「石鳥谷にもまつりあるんでしょ?」と聞くと「おめはん、よく覚えてたね!おめはんお祭り好き?」と笑顔だった。「面白れぞ〜!やーれやーれやーれやーれってやるのす」と手真似で「お祭りの雰囲気いいんだよなぁ」とキラキラした表情で語るので、やっぱりトヨミさんと一緒に行きたいと思わずにはいられなかった。
祭り前日、「明日石鳥谷まつり行くよ」とさらりと言ってみると、「えっ!?誰と行くの?」「私」「あ、おめはん?」「うん、2人で行くべ」「うーん…オラ行かね」と言う。あとひと押しかと「トヨミさん行かねんだば私も行かね。だって私が祭りに行きたいんじゃなくてトヨミさんと行きたいんだもん」と突っ込んでみた。それでも「ん〜、そっか!…オラ行きたくね」と言う。「私も行かね行かね、残念だ〜」「何その言い方!」「トヨミさんの真似っこ!」「ほんとに行くの?」「トヨミさんが行くなら」「行かねくていい〜」・・・そんな微妙なやりとり。あとはもう当日、勝負するしかないと思った。
当日の午前中のトイレで「よーし!」と気合い十分のトヨミさん。「今日は調子いいね!祭りも行けそうだね!」とさり気なく言うと、「うん、行っておいで」とさらりと返されてそれ以上言えなくなってしまった。午後、スタッフで祭りに出かける打ち合わせをしていると「おれのこと?違うべ?」と気にするトヨミさん。「トヨミさんは夕方から」と言うと、「何?どこさ行くの?祭り?石鳥谷?石鳥谷だばおれだべ?」と祭りの話題を出してきた。気になっているようだが、「行かね」となる・・・。「行ってこようよ。石鳥谷に行くとしたらトヨミさんしかいないし」と言うと、「おれ行くんだば家の人たちと行く」と言われてちょっと落ち込む。
もうあきらめ気味で、計画書をワザとトヨミさんの前に置く。駆け引きだ!覗き込むトヨミさん。私も素知らぬ顔で日誌を書いている。目が合うが黙ったまま・・・少しするとトヨミさんの方から「あのさ、私さ、歩けないから。お祭りでもなんでも行けね」と話しかけてきた。「私押していくし、一緒に歩くよ」と言うと「うん、まずさ」と笑う。「トヨミさんが行きたくないんだったら無理しなくていいよ。でも “行けね”って言うんだば私連れていきたいな」と言うと黙るトヨミさん。
夕方のトイレ介助が最後の勝負と決め、私が介助に入ることをスタッフと打ち合わせた。トイレで「トヨミさん、祭り行こうよ」とストレートに迫る。「オラ行げね。行ぎてぇところもあるども行かなくていい」と言う。行ぎてぇところもあるども”の言葉に手応えを感じ、「行ぎてぇところもあるんだば行こうよ!」と言うと、「おめはんも行く?」と乗り気だ。「行くよ、もちろん」「へっへ〜♪」とまんざらでもない。出かける準備は既に整えていたので、「あとは行くだけだよ」というと「行がね行がねって言って結局行く人だもんな〜」と笑った。上着を着て、帽子を被った姿をオリオンの宮川くんが褒めてくれる。事務所では中屋さんに「お土産買ってきて〜」と声をかけられてご機嫌だった。玄関では万里栄さんに「奥様みたいだね」と声をかられ「奥様だもん♪」と得意げなトヨミさんがいた。
出発したがトヨミさんは車の揺れがおっかない。ほんの少し揺れるだけでも「おっかね〜!」と大騒ぎ。それでも「行がねつもりしてたったども、行ぐより他ねんだな」と笑っていた。私は「行かね!もうやんか!」と言われないかとハラハラだった。それでも石鳥谷が近づくと見慣れた景色に「ここは八幡小学校!」などとその気になってくる。思えば、トヨミさんと石鳥谷来たことなかったんだなぁと嬉しくなる。
まつり会場の砂利道も「おっかね」と気が気でなかったが、トヨミさんは屋台でたこ焼きと焼きそばを選んだ。「オラ食べれね〜」と言うが「2人で半分こしよう」と言うと食べた。一緒にいることでトヨミさんは安心するんだなぁと思う。
神輿が「わっしょい!」とトヨミさんを煽る。両手を挙げて「わっしょい!」と返すトヨミさん。とてもいい表情に嬉しくなる。山車を「やま来るかな?下組はおらのどこ。兄貴来るかなぁ?」とわくわくして待っている。通り過ぎる山車を目を輝かせて眺める。疲れる様子もなく楽しむトヨミさんの隣で私も自然に楽しめた。「いがったね」と満たされた気持ちで言うと、「見だね〜。おめはん方にもご相伴に預かりまして」とやけに丁寧なお礼を言ってくれる。
帰りはすっかり暗くなってしまったが、帰るとスタッフに「いがったよ〜」「わっせーわっせーってやったの!」とジェスチャー付きで教えているトヨミさん。“楽しめた”ことが確信できた。翌日も、スタッフにも祭りの話を振られると「行ってきた!楽しかったよ〜」と語る得意げな姿に“行けた”ことが自信みたいなものになっている気がして嬉しくなる。
私は日誌を書きながら、トヨミさんに隣に来て欲しいと感じた。「トヨミさんこっちこない?」と誘うと、「おじゃましまーす」と来てくれた。さらに「ちょっとお話してもいい?おたくの・・・」と言いかけ、「やっぱ言わね」とやめた。「何なに話して」と迫る私。「恥ずかしくなった〜、言わね」ともったいぶるトヨミさん。「えー?気になる〜」とやりとりする。「あのね・・・この間おまつりさ行ってきたえ?私。・・・面白れがったー」とにんまり。「くだらねね、ごめんね。何かかにか話っこしたいと思った」と照れ笑い。こんなトヨミさん見たことないなぁ・・・驚きと共に嬉しい気持ちになる。「私も嬉しいよ」と伝える。すると「おめはん行った?」ととぼけるトヨミさん「私一緒に行ったじゃん!(笑)」と笑いながら、胸がいっぱいになった。
最後の最後まで行けそうではなかったが、必死の駆け引きの勝負だった。最後のトイレで勝負をしなければ行けなかったかもしれない。諦めなくて良かったなと思う。どうチャンスを作るか、いい方法があるわけではない。二人の関係の中で挑んだ勝負が、祭りに行けて、幸せな余韻をもたらしてくれた。
神は祈りのなかに ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2013年10月号】
夏には恒例の「銀河さんさ隊」が活躍する。ベテランから、踊りも太鼓も初めての新人スタッフも交えて、勤務を終えたあと毎晩のように練習が始まる。利用者さんの顔を思い浮かべながら練習に励む姿はたくましい。「今年も、さんさの時期が来たんだねぇ」と楽しみにしてくれる利用者さんがたくさんいる。太鼓の音とともに「えんやぁさ、えんやっさ〜♪」の掛け声がリビングに響くと、一緒に手踊りしたり涙を流す利用者さんもいて、何とも言えない幸せな場ができる。スタッフも利用者も、わくわく感が日々高まっていく。
地域の公民館で行われる盆踊り大会でも活躍する。盆踊り大会には利用者さんと一緒に出かけるのだが、当日に行けない人もあるので、デイサービスと特養のユニットを回ってお披露目する。それが、今年は4年目なのだが、いつもよりどこか違った。
特養さんさの日。“ユニットすばる”のリビングでは、“ほくと”のメンバーも集まって、今か今かと待っていた。「始まるよ〜!」の声に、私も事務所から向かう。そこへ、奥のユニット“こと”からやってくる五七さん(仮名)と出くわした。賑やかな雰囲気に誘われてやってきたものと思って、笑顔で声をかけた。ところが「わがねんだじゃ!」と、なんだか険しい表情で怒っている。ん…何にお怒りだろう?と、ちょっとひるんだが、五七さんの方から手を握ってくれたので一緒に歩いて会場へ向かった。さんさ会場は人混みと熱気に満ちており、五七さんも少々興奮気味なのかな?と思いながら、一緒に隅の和室へ陣取った。促されて腰掛ける五七さんだが、「こういうことは、ちゃんとやらねばねんだ!」と目は三角のまま怒りムードだ。いよいよ浴衣で衣装を決めたさんさ隊が登場!歓声と拍手が起こる。太鼓の音が鳴り響く・・・。
盛り上がってきたと思ったそのとき、五七さんの怒りが大爆発した。「うるせぇ!」と叫ぶと、ガバッと立ち上がり、目を見開いて「やめ・ろぉーーっ!」渾身の叫びだった。太鼓と手拍子のなかでも、その声はリビング全体にはっきりと響いた。何事かと緊張が走る。でもそこは銀河の里の持ち前のゆるゆるムードで臨機応変に、みんなふんわり笑顔で受けとめ、白けたり嫌悪したりする雰囲気はない。いぶかしがる利用者さんはいたが、五七さんだけが浮いてしまわないように配慮しながら、さんさは盛り上がろうとしている。少々の怒りにも臆さず、むしろ関心をもって向き合っていく流儀は、里の得意ワザだ。
ところが、このときの五七さんの怒りは収まらず、さらに燃え上がるようだった。体は怒りに震え、歩調も乱れる。私は五七さんの体を支えるが、それを振り切るようにして、さんさ隊のなかに歩み出ると、拳を震わせながら顔を真っ赤にして、大きな声で訴えた。「こったにしてらったって、わがねんだっ!」踊り手も、本気で怒る五七さんが目の前に立ちはだかってはもう笑顔でいられなかった。踊り続けることはできず直立不動になる。五七さんは、さらに太鼓の方をキッと睨んで叫んだ、「やめてください!こういうことは神社でやるもんなんだ!」と言った。・・・神社?そうか!
なんだかわからないけどピンときた。ここは一旦、席を外そうと、アイコンタクトで他のスタッフと合図し合う。私は、怒りの収まらない五七さんの手をとり、踊りの真ん中をすり抜け、なんとか廊下へ出た。背中に太鼓と笛の音、掛け声・・・。踊りは続いていた。
五七さんは歩きながら、怒りで語り続ける。「おめだちのとこでは、こったなやり方なのか?わがねんだ、こったでは。ちゃんと神社の踊り、神様の踊りをやらねんば。男だち、ちゃんと出はって、神様さ納めて。おらえの部落ではそうするのさ」歩きながら、五七さんは真剣に、ゆっくり何度も話す。
「神様の踊り、神社の踊り、ちゃんとさねばねぇのよ、な。神の祈りをちゃんと納めて、そやして、みんなで、ちゃんとやってください、祈り」
歩きながら、まっすぐ前を見て語り続ける。時折、心して聴けよと言うかのように、私の顔をちらっと見ては、「な、わがってらべ?」と確認する。いくらか怒りも収まりかけたところで、再び、踊りの会場に戻る。今度は大丈夫かなと思ったが、太鼓の音が近づくにつれ、表情はまたきつくなってきた。スタッフ達も暖かい眼差しで五七さんを見守っている。私も、なんとか一緒に楽しめないものだろうかと、踊り手を神社の巫女さんに見立て、「神様に奉納する踊りっこ、やってらよ〜」と声をかける。が、やはり怒りはやってくるようで、「やめろ、ちゃんとやらねばねぇ!」と怒鳴った。
それでも、私の腕を引いて、第二部の“オリオン”でのさんさにも顔を出す五七さん。「怒ってますか?」と私に目で合図しながら五七さんの隣に座ったスタッフは、「ただで座るな!」と一喝され、その瞬間、そのまま床に正座した。「不用意に神様の座る席にうっかり腰掛けてしまったような気持ちになった」とスタッフは後から語ってくれた。私も隣で身動きできなくなった。
五七さんは何を怒っていたのか、私は感じることがあった。今の銀河の里の現状について、とても大事なことを語ってくれているのではないか、と。勤務の終わった後に頑張って練習してきたさんさだ。地域の盆踊りでも喜ばれているし、里の利用者さんも大喜びなのだからそれは凄いことなのだが、どこかイベント馴れした感じで、確かに何か大事な事を忘れているような気がする。楽しけりゃ良しの、現代的なバラエティ感覚に留まってしまってはいないか。五七さんの怒りのその奥の物語に私は耳を傾けようとしていたのだが・・・。怒りの五七さんと歩むとき、どこか孤独を感じて、私のなかにも怒りが湧いてきた。“本当の深いところをわかってもらえない寂しさ”が、五七さんのなかにもあったのではないか。「神社でやるべきことだ」という激しい怒りは、「神が不在で祈りがない」と言ってるのかもしれない。あまりに鋭い指摘だ。認知症の人の語りは、そういう深い次元に到達することがよくある。表面はどうでも、深いところでは鋭い。そうした深い次元からはかけ離れた、単なるイベントになってしまっている…と言われればその通りだ。利用者さんに関心がないわけでも、ないがしろにしているわけでもないのに、なんか微妙で、それでも深いところではとんでもなく外しているかもしれない。なんでだろう?
これまで積み上げてきた伝統も経験もあって“里っぽく”はできる。チームの雰囲気もよく、利用者への眼差しもあって、“共に在りたい”という姿勢が基本にはある。イベントにも協力し合い、利用者も一緒に盛り上がる。悪くはない。でも、根本的なところで何かが足りない。目に見えない最も大切な何かとつながれていない。五七さんの厳しい怒りと“祈り”というキーワード。この先、里が更なる10年の道を深めていくための大事な何かがそこにある。気がつかないうちに大きな落とし穴にはまらないために。
翌日、廊下で五七さんと会うと「はい、どうも♪」と、昨日の怒りとは打って変わって穏やかな表情。つないだ手にも穏やかさが伝わってくる。「あのな、山さ行ってよ、みんなして、な。じいさんもばあさんもみんな」と、歩きながら語る。「山の祈りをするって言ってな、みんなで」「祈り?」と私はハッとする。「んなのよ、山の祈り。山の神社のな、祈り。神様の祈り」やっぱり“祈り”だ!と、鳥肌が立つ私に、五七さんは「ふふふ」と柔らかく笑って続ける。「祈りは神のなか、神は祈りのなか」・・・もう核心になる。鷲掴みにされたような・・・!そんな気分だ。「祈りは神のなか、神は祈りのなか」と繰り返す。震えてくる。五七さんは余裕の笑みで私を見ながら言った、「そやして、おめは、どこさ行く?」・・・“お前の祈りは何に向かっているのだ?”そう問われたようで涙が出てくる。この先、里も、私も、迷うことなく行くべき道を進んでいけるだろうか。超越に祈りながら歩を進めるしかない。「はは、ひとりだば、迷子になるんだじゃ♪」どこまでも鋭い五七さんだった。
【コメント:理事長】
この話を聞いたとき、林英哲の太鼓が思い浮かんだ。英哲の太鼓は、里の研修で何度も講演を聴きに行った。昨年は、英哲の弟子集団「風雲の会」のメンバーに、里でもコンサートを打ってもらった経緯もある。
里のありようは、一般の管理やシステムではなく、人の想いや関わり、関係性などを重視してやってきた。言わば母性的なありようが基本にある。他の施設で利用を断られた方を受け入れできるのも、母性的な雰囲気に依るところが大きいと思う。スタッフもそうした感覚の人が多く、里的な雰囲気はそこに生まれてくるのだろう。ただ、それも表面的になってしまうと簡単に偽物になる。形ができてしまえば、仕事だってルーチンワークに流れがちだろうし、形骸化することは免れない。そうした母性的な雰囲気に魂を入れ、守り支えるのは男性原理だと五七さんは言っているのかもしれない。おそらく五七さんは地域や一族のなかで、神とつながり祈りを捧げるような父性的な役割を担ってきたのだろう。それは神の世界との通路を作り、この世とつなぐことで、世界全体を秩序立てるような役割ではなかったか。里のさんさが、はたして神の世界と繋がっているのか、それが大事だ。それがないのは浮かれた宴会に過ぎないと、五七さんは怒ったと考えてみることに意味はあると思う。
なぜ英哲を思い出したかというと、彼の太鼓は祈りだと常に感じて来たからだ。英哲は演奏中、観客を意識していない。観客席に後ろを向いて太鼓を叩くスタイルが多いのだが、前に向いている時でさえ、英哲は観客には向いていない。その音は、舞台から聴こえて来るのではなく、背後から腹に直接轟いてくるように私は感じる。つまり、観客に聴かせ、見せる太鼓ではなく、大いなるものへの祈りを共に捧げる太鼓なのだ。それだからこそ太鼓イベントを越えて芸術になり、世界中で感動をもたらしているのだと思う。あの、ひたすら何ものかに捧げるような祈りの太鼓に、父性、男性原理の本質を見るような心地に、いつもなる。あれが男なのではないかと感じる。何も語らず、ひたすら打ち、祈り続ける。そのことが、柔らかく大らかな母性を支えるのではないだろうか。
ちゃらちゃらと表面的にきらびやかな浮ついたものじゃダメだ。祈りによって神なるものと繋がっていないとそれは偽物だ、と五七さんは叫んだのではないか。人の良い五七さんだが、この日はちゃんと厳しい父をやってくれたんだと思う。父の司る祈りの儀式が、我々ひとりひとりの中にも必要なのだと思う。
地域の公民館で行われる盆踊り大会でも活躍する。盆踊り大会には利用者さんと一緒に出かけるのだが、当日に行けない人もあるので、デイサービスと特養のユニットを回ってお披露目する。それが、今年は4年目なのだが、いつもよりどこか違った。
特養さんさの日。“ユニットすばる”のリビングでは、“ほくと”のメンバーも集まって、今か今かと待っていた。「始まるよ〜!」の声に、私も事務所から向かう。そこへ、奥のユニット“こと”からやってくる五七さん(仮名)と出くわした。賑やかな雰囲気に誘われてやってきたものと思って、笑顔で声をかけた。ところが「わがねんだじゃ!」と、なんだか険しい表情で怒っている。ん…何にお怒りだろう?と、ちょっとひるんだが、五七さんの方から手を握ってくれたので一緒に歩いて会場へ向かった。さんさ会場は人混みと熱気に満ちており、五七さんも少々興奮気味なのかな?と思いながら、一緒に隅の和室へ陣取った。促されて腰掛ける五七さんだが、「こういうことは、ちゃんとやらねばねんだ!」と目は三角のまま怒りムードだ。いよいよ浴衣で衣装を決めたさんさ隊が登場!歓声と拍手が起こる。太鼓の音が鳴り響く・・・。
盛り上がってきたと思ったそのとき、五七さんの怒りが大爆発した。「うるせぇ!」と叫ぶと、ガバッと立ち上がり、目を見開いて「やめ・ろぉーーっ!」渾身の叫びだった。太鼓と手拍子のなかでも、その声はリビング全体にはっきりと響いた。何事かと緊張が走る。でもそこは銀河の里の持ち前のゆるゆるムードで臨機応変に、みんなふんわり笑顔で受けとめ、白けたり嫌悪したりする雰囲気はない。いぶかしがる利用者さんはいたが、五七さんだけが浮いてしまわないように配慮しながら、さんさは盛り上がろうとしている。少々の怒りにも臆さず、むしろ関心をもって向き合っていく流儀は、里の得意ワザだ。
ところが、このときの五七さんの怒りは収まらず、さらに燃え上がるようだった。体は怒りに震え、歩調も乱れる。私は五七さんの体を支えるが、それを振り切るようにして、さんさ隊のなかに歩み出ると、拳を震わせながら顔を真っ赤にして、大きな声で訴えた。「こったにしてらったって、わがねんだっ!」踊り手も、本気で怒る五七さんが目の前に立ちはだかってはもう笑顔でいられなかった。踊り続けることはできず直立不動になる。五七さんは、さらに太鼓の方をキッと睨んで叫んだ、「やめてください!こういうことは神社でやるもんなんだ!」と言った。・・・神社?そうか!
なんだかわからないけどピンときた。ここは一旦、席を外そうと、アイコンタクトで他のスタッフと合図し合う。私は、怒りの収まらない五七さんの手をとり、踊りの真ん中をすり抜け、なんとか廊下へ出た。背中に太鼓と笛の音、掛け声・・・。踊りは続いていた。
五七さんは歩きながら、怒りで語り続ける。「おめだちのとこでは、こったなやり方なのか?わがねんだ、こったでは。ちゃんと神社の踊り、神様の踊りをやらねんば。男だち、ちゃんと出はって、神様さ納めて。おらえの部落ではそうするのさ」歩きながら、五七さんは真剣に、ゆっくり何度も話す。
「神様の踊り、神社の踊り、ちゃんとさねばねぇのよ、な。神の祈りをちゃんと納めて、そやして、みんなで、ちゃんとやってください、祈り」
歩きながら、まっすぐ前を見て語り続ける。時折、心して聴けよと言うかのように、私の顔をちらっと見ては、「な、わがってらべ?」と確認する。いくらか怒りも収まりかけたところで、再び、踊りの会場に戻る。今度は大丈夫かなと思ったが、太鼓の音が近づくにつれ、表情はまたきつくなってきた。スタッフ達も暖かい眼差しで五七さんを見守っている。私も、なんとか一緒に楽しめないものだろうかと、踊り手を神社の巫女さんに見立て、「神様に奉納する踊りっこ、やってらよ〜」と声をかける。が、やはり怒りはやってくるようで、「やめろ、ちゃんとやらねばねぇ!」と怒鳴った。
それでも、私の腕を引いて、第二部の“オリオン”でのさんさにも顔を出す五七さん。「怒ってますか?」と私に目で合図しながら五七さんの隣に座ったスタッフは、「ただで座るな!」と一喝され、その瞬間、そのまま床に正座した。「不用意に神様の座る席にうっかり腰掛けてしまったような気持ちになった」とスタッフは後から語ってくれた。私も隣で身動きできなくなった。
五七さんは何を怒っていたのか、私は感じることがあった。今の銀河の里の現状について、とても大事なことを語ってくれているのではないか、と。勤務の終わった後に頑張って練習してきたさんさだ。地域の盆踊りでも喜ばれているし、里の利用者さんも大喜びなのだからそれは凄いことなのだが、どこかイベント馴れした感じで、確かに何か大事な事を忘れているような気がする。楽しけりゃ良しの、現代的なバラエティ感覚に留まってしまってはいないか。五七さんの怒りのその奥の物語に私は耳を傾けようとしていたのだが・・・。怒りの五七さんと歩むとき、どこか孤独を感じて、私のなかにも怒りが湧いてきた。“本当の深いところをわかってもらえない寂しさ”が、五七さんのなかにもあったのではないか。「神社でやるべきことだ」という激しい怒りは、「神が不在で祈りがない」と言ってるのかもしれない。あまりに鋭い指摘だ。認知症の人の語りは、そういう深い次元に到達することがよくある。表面はどうでも、深いところでは鋭い。そうした深い次元からはかけ離れた、単なるイベントになってしまっている…と言われればその通りだ。利用者さんに関心がないわけでも、ないがしろにしているわけでもないのに、なんか微妙で、それでも深いところではとんでもなく外しているかもしれない。なんでだろう?
これまで積み上げてきた伝統も経験もあって“里っぽく”はできる。チームの雰囲気もよく、利用者への眼差しもあって、“共に在りたい”という姿勢が基本にはある。イベントにも協力し合い、利用者も一緒に盛り上がる。悪くはない。でも、根本的なところで何かが足りない。目に見えない最も大切な何かとつながれていない。五七さんの厳しい怒りと“祈り”というキーワード。この先、里が更なる10年の道を深めていくための大事な何かがそこにある。気がつかないうちに大きな落とし穴にはまらないために。
翌日、廊下で五七さんと会うと「はい、どうも♪」と、昨日の怒りとは打って変わって穏やかな表情。つないだ手にも穏やかさが伝わってくる。「あのな、山さ行ってよ、みんなして、な。じいさんもばあさんもみんな」と、歩きながら語る。「山の祈りをするって言ってな、みんなで」「祈り?」と私はハッとする。「んなのよ、山の祈り。山の神社のな、祈り。神様の祈り」やっぱり“祈り”だ!と、鳥肌が立つ私に、五七さんは「ふふふ」と柔らかく笑って続ける。「祈りは神のなか、神は祈りのなか」・・・もう核心になる。鷲掴みにされたような・・・!そんな気分だ。「祈りは神のなか、神は祈りのなか」と繰り返す。震えてくる。五七さんは余裕の笑みで私を見ながら言った、「そやして、おめは、どこさ行く?」・・・“お前の祈りは何に向かっているのだ?”そう問われたようで涙が出てくる。この先、里も、私も、迷うことなく行くべき道を進んでいけるだろうか。超越に祈りながら歩を進めるしかない。「はは、ひとりだば、迷子になるんだじゃ♪」どこまでも鋭い五七さんだった。
【コメント:理事長】
この話を聞いたとき、林英哲の太鼓が思い浮かんだ。英哲の太鼓は、里の研修で何度も講演を聴きに行った。昨年は、英哲の弟子集団「風雲の会」のメンバーに、里でもコンサートを打ってもらった経緯もある。
里のありようは、一般の管理やシステムではなく、人の想いや関わり、関係性などを重視してやってきた。言わば母性的なありようが基本にある。他の施設で利用を断られた方を受け入れできるのも、母性的な雰囲気に依るところが大きいと思う。スタッフもそうした感覚の人が多く、里的な雰囲気はそこに生まれてくるのだろう。ただ、それも表面的になってしまうと簡単に偽物になる。形ができてしまえば、仕事だってルーチンワークに流れがちだろうし、形骸化することは免れない。そうした母性的な雰囲気に魂を入れ、守り支えるのは男性原理だと五七さんは言っているのかもしれない。おそらく五七さんは地域や一族のなかで、神とつながり祈りを捧げるような父性的な役割を担ってきたのだろう。それは神の世界との通路を作り、この世とつなぐことで、世界全体を秩序立てるような役割ではなかったか。里のさんさが、はたして神の世界と繋がっているのか、それが大事だ。それがないのは浮かれた宴会に過ぎないと、五七さんは怒ったと考えてみることに意味はあると思う。
なぜ英哲を思い出したかというと、彼の太鼓は祈りだと常に感じて来たからだ。英哲は演奏中、観客を意識していない。観客席に後ろを向いて太鼓を叩くスタイルが多いのだが、前に向いている時でさえ、英哲は観客には向いていない。その音は、舞台から聴こえて来るのではなく、背後から腹に直接轟いてくるように私は感じる。つまり、観客に聴かせ、見せる太鼓ではなく、大いなるものへの祈りを共に捧げる太鼓なのだ。それだからこそ太鼓イベントを越えて芸術になり、世界中で感動をもたらしているのだと思う。あの、ひたすら何ものかに捧げるような祈りの太鼓に、父性、男性原理の本質を見るような心地に、いつもなる。あれが男なのではないかと感じる。何も語らず、ひたすら打ち、祈り続ける。そのことが、柔らかく大らかな母性を支えるのではないだろうか。
ちゃらちゃらと表面的にきらびやかな浮ついたものじゃダメだ。祈りによって神なるものと繋がっていないとそれは偽物だ、と五七さんは叫んだのではないか。人の良い五七さんだが、この日はちゃんと厳しい父をやってくれたんだと思う。父の司る祈りの儀式が、我々ひとりひとりの中にも必要なのだと思う。
オリオン奮闘記@ ★特別養護老人ホーム 佐藤寛恵【2013年10月号】
9月17日。私はグループホームから特養ユニットオリオンへ異動、異動前の実習日。
隣に座った私に文一さん(仮名)が話し始めた。
「仲とりもってけろ。話さないのは損なんだ。(桃子さんをみて)喋るんだども頭がぱーだから。頭きれるから俺を呼べばいいんだ。俺喋る気してた。バラバラと。稼がなきゃ。黙ってたって稼ぐ。点数はとれるくらいはとってやること。喋るくらいのことは喋ろ。やるくらいのことは」
「喋るくらいは…喋ろ」まさしく私にずしんと重い言葉だ。感じていることや、思っていることを伝えるのが苦手というよりはあきらめているような私。どうして初対面でそれがわかるの?と驚くと同時に、さすがだなぁと感心する。このところぼんやりしていて考える力も残っておらず、異動の不安も何もかも突き抜けて、状況をただ受け入れるだけの私だった。だからか、実習中は、一対一の時間がとれる、こんなに時間がある、よかったなぁと感じてしまったほどだった。
ところが実際に入るとそれは甘かった。利用者が動き始めた!と思った時にはもう遅かった。私はもうぐるぐるして、業務、時間、利用者の語り、スタッフとつながれない孤独…あれやこれやに打ちのめされた。そんな私を、文一さんは戦場に見立てて指南してくれる。「戦が始まるから、気をひきしめねばない!」と語っていたそうだ。何かが動くのがわかっているようだった。思っていることを見透かされることはよくあるものだが、強烈なことがこれほど続くものとは・・・。
こうして戦が始まった。それは三日間の短期決戦だったが、私には余りに長く感じられた孤独な戦いだった。結果は敗北。もう戦闘不能…という状態までに追い込まれる。何に負けたのかわかるようでわからない。でも負けたということがとても悔しくて仕方がなかった。宣戦布告も、敗北宣言を出したのも文一さんだった。
文一さんはにこにこと微笑みながら語るが、核心をついて鋭い。そうそう、そうなの!と頷くようなことばかり言うのである。「一緒に稼ぎにきてそうだもの。メンバーもだいたいわがったがら、がっちりしてやるべ!がんばってけで。われのためだから」
「やると決めたら?」穏やかに私の答えを待っている。やると決めたら…「やる!」なんて最も私には遠いセリフだ。やるにしたっていつまでもモヤクヤ(ぐずぐず)でさっぱり意気地がない。やると決めたらやる!と意気込んではいたけれど…。文一さんはそれから私をずっと支えてくれる。
上野の山の動物園行き。動物園の中かんますにいいからな。おめえもこーよ。わるぐはないから。いちばんいいところ、しめるにいいからな。良い地位だ。あとの者はおれの言うこと聞けって、そうでねばおもしろくねえんだもんな」そんな語りから始まった。
動物園…。動物園のイメージは、たくさんの動物がいる、見る側と見られる側にはっきり分かれている、檻の中…。それっていいの?! と思いながら実習が終わった。
9月21日。異動初日。まず、乗り越えなければならないのはスタッフとの距離だった。
「気使わなくていいから。我慢してや。今やってんのはあいづ思考」
あいづ?会津?いや、あいつ、ね。あいつ思考。作業をテキパキとこなす、しっかり者のスタッフのことだ。「だけどおれたちみたいな年くったのは忘れてしまってるんだよな、かわいそうなもんだよ」オリオンの現状。確かにそうなのだ。
身体介護は作業としてできている。しかもかなり丁寧にやっている。ただ心の語りや体の語りを聞くということがとても弱い。そうした語りを聞けない人ではない、ケースも細かく書く。自分が利用者の隣に行かないにしても、スタッフと利用者の関わりを見ていてわかってくれている。利用者の語りを一対一でじっくり聞けば、ぐるぐるはするし、自分だってむき出しになるし、守らなければならない他の利用者の時間もある。でも、でも。見抜かれた心の奥のことを照らされると精神的にきつくなるのはわかるが、もったいない。
@時間を考えて、細かく大切にやっていてすごいなぁと思う。Aそれなのに、あともう少し!という残念さがある。
B何につけ的確で、ユニットと医務をつないでもいる。
C文一さんは「忘れてしまってるんだよ」と言う。そうなんだなぁと納得するしかない。
「おめさんたち、だめなんだよな。頭がおかしくなってるんだ。おれは時々見れば思い出すんだよな。おれたちもそうやったんだってなぁ。やめれねぇ、しょうがねえんだ」
頭がおかしく…かぁ。つらいところではある。
「あれ…ああやって喋ってるけど時勢の流れには勝てないってことを覚えてればいい。時勢の流れってのは難しいもんだ。覚えたのはつい最近のことだから」
時勢の流れ?何かが変わるのか?どういうことだ?
「ようするにここ(頭)だ。よし、がんばるんだ。この人たちと一緒に。勉強だ、勉強。勉強しなきゃだめなんだ」勉強なぁ。本当だよなぁ、と強く思った。
まだ私がスタッフとなじめない中で、文一さんはそれぞれのスタッフの解説をしてくれているようだった。そして私もその通りに感じた。
「ここにいる人はみんな優しい人だからなぁ。ばんばん言うんだもんなぁ。遠慮したってしょうがねえんだ。なんともねえんだ、慣れねえからな、なんともないよ」
「なんともないよ」はこの時期の私に心強かった。
文一さんは見抜いている。話が聞けない人には下ネタ話(周りを元気づけているつもり?若い姉ちゃんにあいさつ代わり?みたいな?)で攻めてくる。なんでそんなことを言うんだよ、と思うような下ネタ話もあるが、すごくいい顔で喋るから許せてしまう。
9月22日。二日目。
一対一の時間がとれるのが嬉しかったが、逆にその時間に飲み込まれる。どの時間帯にどう動けばいいか自分の動きが分からなくなって、パニックになる。午前中に力つきて折れて泣いてしまう。折れるのが早すぎだろう、自分でもその弱さに驚く。
そんな中、文一さんはスタッフの説明を続けてくれる。
・ユニットのリーダー:内回りも外回りもやる(たぶんリーダーとしてオリオンの中の仕事も外の仕事もできているという意味?)やろうと思ったら倍できる。
・今年の新人さん:ピカイチ。あいつはなんでもやる。
・支えてくれるお姉さん的スタッフ:あいつは勉強したんだ。わからないことがあったら聞け。
・やさしい感じの男性スタッフ:一生懸命やる男だ。
的確だ。確かに文一さんはよく見ている。
9月24日。三日目。
休みが入り、新しい気持ちで!と思ったにも関わらず、午前中でめちゃくちゃになり途中棄権。お昼に理事長に面談を頼むぐらいの落ちっぷり。しんどくて帰りたくなったが、桃子さんの通院に付き添って切り替えることができた。戻ると文一さんが呼ぶ。
「戦には負けたんだよ。俺もあんたも一生懸命やったけどな。今やったってちょっとは勝てるかもしれないけどな、全面的に勝たねばわがんねんだよ、計算が足りねかったんだ。大きな戦いだもの。これからさ、また立つこともある人たちだから、若い人殺すことねんだもん。残念だけどしょうがない。このお姉さん(お姉さん的スタッフ)にも喋ったんだもの。勝つ戦はするんだけど負ける戦はしねんだよ。このお姉さん好きだしな。半分しか勝てねえぞ。半分も勝てねえ戦はしたくねぇもん。あとの戦の戦士が負けてもさ、俺は若い人たちを殺したくねえからな、絶対に」
初戦は負けだったか。悔しいやら命拾いしたような思いやらで、ぐちゃぐちゃになるが、やっぱり悔しかった。半分しか勝てない、全部勝たなきゃ意味がない。そうなんだ、と思う。そして頑張ろうとする私を殺さないために退却したと言う文一さんを、ありがたく思った。ありがとう、力が足りないと悔しくなった。文一さんはまだまだ語る。
「バクチやったもんだよな、いいさ。おそらく世界に残る戦だったと思うよ。負けても勝ってもさ、しょうがねえなぁ。俺に責任を負ってもらったって仕方ねえよなあ。俺は先見えた。だめだなぁと思ったからさ。なんじょにもならねもんなぁ。こんなにぶっこわれてれば、そうかと言ったってさぁ、半分しか勝てねえもんな。戦力が足りない、かわいそうだけどしょうがねえな」
世界に残る戦って…文一さん。ありがとう。文一さんのやさしさに涙がこぼれる。私の守っていきたかったものはなんなんだろうと、苦しくなった。
「俺から言わせれば先の見えない戦は、『戦』ってのは勝つべき人がやるのであって負けるべき人がやるのではない。半分は担いだもんな、しょうがねぇ。先の見える人と見えない人はそれだけの違いがある。あんたもこれから戦あると思うけど無茶な戦はしねえんだ。『戦』したってしょうがねえんだって言ったんだけどな。始まる前だって負けるべくして負けた。全力投入したって、本当の話できるのあんたと二人だけだ。第一、話がわかんねんだもん。かわいそうだけどしょうがない。敗軍の将、兵を語らず。やってわかる戦だらやるんだ。わからねんでばやらねんだ。半分は勝ち、負けるが勝ち。ここまで力つけるってことは大変なこと」
「がらくたな兵隊集めたってしゃあねんだもの。鍛えてかなきゃだめだ。よわっこな兵隊ばっかり集めたってだめだ。これだけの強兵よこしたのにもったいねえなぁ。いつの日かまた蒸し返すんだあ。そう思う時があるかないかだな。その能力がある人が勝てる。頭抱えたって戦には勝てねえんだから。申し訳なかったな。今度戦があったら負けねえからな。兵隊を二度と立てないぐらい強くしねばね。今はだめだ。二回戦やるぐらいの力をもってねばだめだ。今度の戦には絶対負けないと自信を持っていたけど。これだけのことやったんだから、できないことはないと思うんだよな。いつの日か」
文一さんに清々しい顔で敗北宣言をされる。「負けました」と事務所に言いに行き、理事長にも電話で伝えた。折れに折れた心を抱えながら、じゃあこれからどうすりゃいいのよ、と頭を抱える。そのときは何に負けたかよくわからなかったけれど、今になってみるとなんとなくわかる。その人らしい生活を守る戦い、それは私も私らしく居させてもらえる戦いだったのだな、と。私らしく居る、ということは一見するととってもわがままな行為で、正しいと信じてやっていても分かってもらえなければ意味がない。
業務ではなく、暮らしになるように。自然と日々のことが流れていくように(気持ちへの柔軟さと身体への繊細さを持ちつつ)、時間で生活が動いていくのではなく、その人のペースで動いていくように。
その戦いはとても難しい。二年半前、私は見事に業務に負けて、自分らしさを失い、特養からグループホームに異動になった。半年間の特養は、春からちょうど今頃までだった。この時期にまた異動になるなんて、リベンジのようである。かつて過ごせなかった季節をここで過ごしながら、また戦いが始まる。
日々を過ごす中で、昨日の自分と今日の自分が違うことがよくわかる。よかったり、だめだったり。自信をなくしていたり、何も見えなくなってしまっていたり。そのことを教えてくれる文一さんに、いつも考えさせられる。どういう意味なんだ?と言葉の捉え方が難しいときもある。自分に都合の良いようにとってしまいたいときもあるけど、本当は叱咤激励だよなと思い返す。
軍師の文一さんは私をずっと見ている。そして実はいつの間にか二回戦に突入し、戦に私はまた巻き込まれていく。
その話はまた次回につづく。
隣に座った私に文一さん(仮名)が話し始めた。
「仲とりもってけろ。話さないのは損なんだ。(桃子さんをみて)喋るんだども頭がぱーだから。頭きれるから俺を呼べばいいんだ。俺喋る気してた。バラバラと。稼がなきゃ。黙ってたって稼ぐ。点数はとれるくらいはとってやること。喋るくらいのことは喋ろ。やるくらいのことは」
「喋るくらいは…喋ろ」まさしく私にずしんと重い言葉だ。感じていることや、思っていることを伝えるのが苦手というよりはあきらめているような私。どうして初対面でそれがわかるの?と驚くと同時に、さすがだなぁと感心する。このところぼんやりしていて考える力も残っておらず、異動の不安も何もかも突き抜けて、状況をただ受け入れるだけの私だった。だからか、実習中は、一対一の時間がとれる、こんなに時間がある、よかったなぁと感じてしまったほどだった。
ところが実際に入るとそれは甘かった。利用者が動き始めた!と思った時にはもう遅かった。私はもうぐるぐるして、業務、時間、利用者の語り、スタッフとつながれない孤独…あれやこれやに打ちのめされた。そんな私を、文一さんは戦場に見立てて指南してくれる。「戦が始まるから、気をひきしめねばない!」と語っていたそうだ。何かが動くのがわかっているようだった。思っていることを見透かされることはよくあるものだが、強烈なことがこれほど続くものとは・・・。
こうして戦が始まった。それは三日間の短期決戦だったが、私には余りに長く感じられた孤独な戦いだった。結果は敗北。もう戦闘不能…という状態までに追い込まれる。何に負けたのかわかるようでわからない。でも負けたということがとても悔しくて仕方がなかった。宣戦布告も、敗北宣言を出したのも文一さんだった。
文一さんはにこにこと微笑みながら語るが、核心をついて鋭い。そうそう、そうなの!と頷くようなことばかり言うのである。「一緒に稼ぎにきてそうだもの。メンバーもだいたいわがったがら、がっちりしてやるべ!がんばってけで。われのためだから」
「やると決めたら?」穏やかに私の答えを待っている。やると決めたら…「やる!」なんて最も私には遠いセリフだ。やるにしたっていつまでもモヤクヤ(ぐずぐず)でさっぱり意気地がない。やると決めたらやる!と意気込んではいたけれど…。文一さんはそれから私をずっと支えてくれる。
上野の山の動物園行き。動物園の中かんますにいいからな。おめえもこーよ。わるぐはないから。いちばんいいところ、しめるにいいからな。良い地位だ。あとの者はおれの言うこと聞けって、そうでねばおもしろくねえんだもんな」そんな語りから始まった。
動物園…。動物園のイメージは、たくさんの動物がいる、見る側と見られる側にはっきり分かれている、檻の中…。それっていいの?! と思いながら実習が終わった。
9月21日。異動初日。まず、乗り越えなければならないのはスタッフとの距離だった。
「気使わなくていいから。我慢してや。今やってんのはあいづ思考」
あいづ?会津?いや、あいつ、ね。あいつ思考。作業をテキパキとこなす、しっかり者のスタッフのことだ。「だけどおれたちみたいな年くったのは忘れてしまってるんだよな、かわいそうなもんだよ」オリオンの現状。確かにそうなのだ。
身体介護は作業としてできている。しかもかなり丁寧にやっている。ただ心の語りや体の語りを聞くということがとても弱い。そうした語りを聞けない人ではない、ケースも細かく書く。自分が利用者の隣に行かないにしても、スタッフと利用者の関わりを見ていてわかってくれている。利用者の語りを一対一でじっくり聞けば、ぐるぐるはするし、自分だってむき出しになるし、守らなければならない他の利用者の時間もある。でも、でも。見抜かれた心の奥のことを照らされると精神的にきつくなるのはわかるが、もったいない。
@時間を考えて、細かく大切にやっていてすごいなぁと思う。Aそれなのに、あともう少し!という残念さがある。
B何につけ的確で、ユニットと医務をつないでもいる。
C文一さんは「忘れてしまってるんだよ」と言う。そうなんだなぁと納得するしかない。
「おめさんたち、だめなんだよな。頭がおかしくなってるんだ。おれは時々見れば思い出すんだよな。おれたちもそうやったんだってなぁ。やめれねぇ、しょうがねえんだ」
頭がおかしく…かぁ。つらいところではある。
「あれ…ああやって喋ってるけど時勢の流れには勝てないってことを覚えてればいい。時勢の流れってのは難しいもんだ。覚えたのはつい最近のことだから」
時勢の流れ?何かが変わるのか?どういうことだ?
「ようするにここ(頭)だ。よし、がんばるんだ。この人たちと一緒に。勉強だ、勉強。勉強しなきゃだめなんだ」勉強なぁ。本当だよなぁ、と強く思った。
まだ私がスタッフとなじめない中で、文一さんはそれぞれのスタッフの解説をしてくれているようだった。そして私もその通りに感じた。
「ここにいる人はみんな優しい人だからなぁ。ばんばん言うんだもんなぁ。遠慮したってしょうがねえんだ。なんともねえんだ、慣れねえからな、なんともないよ」
「なんともないよ」はこの時期の私に心強かった。
文一さんは見抜いている。話が聞けない人には下ネタ話(周りを元気づけているつもり?若い姉ちゃんにあいさつ代わり?みたいな?)で攻めてくる。なんでそんなことを言うんだよ、と思うような下ネタ話もあるが、すごくいい顔で喋るから許せてしまう。
9月22日。二日目。
一対一の時間がとれるのが嬉しかったが、逆にその時間に飲み込まれる。どの時間帯にどう動けばいいか自分の動きが分からなくなって、パニックになる。午前中に力つきて折れて泣いてしまう。折れるのが早すぎだろう、自分でもその弱さに驚く。
そんな中、文一さんはスタッフの説明を続けてくれる。
・ユニットのリーダー:内回りも外回りもやる(たぶんリーダーとしてオリオンの中の仕事も外の仕事もできているという意味?)やろうと思ったら倍できる。
・今年の新人さん:ピカイチ。あいつはなんでもやる。
・支えてくれるお姉さん的スタッフ:あいつは勉強したんだ。わからないことがあったら聞け。
・やさしい感じの男性スタッフ:一生懸命やる男だ。
的確だ。確かに文一さんはよく見ている。
9月24日。三日目。
休みが入り、新しい気持ちで!と思ったにも関わらず、午前中でめちゃくちゃになり途中棄権。お昼に理事長に面談を頼むぐらいの落ちっぷり。しんどくて帰りたくなったが、桃子さんの通院に付き添って切り替えることができた。戻ると文一さんが呼ぶ。
「戦には負けたんだよ。俺もあんたも一生懸命やったけどな。今やったってちょっとは勝てるかもしれないけどな、全面的に勝たねばわがんねんだよ、計算が足りねかったんだ。大きな戦いだもの。これからさ、また立つこともある人たちだから、若い人殺すことねんだもん。残念だけどしょうがない。このお姉さん(お姉さん的スタッフ)にも喋ったんだもの。勝つ戦はするんだけど負ける戦はしねんだよ。このお姉さん好きだしな。半分しか勝てねえぞ。半分も勝てねえ戦はしたくねぇもん。あとの戦の戦士が負けてもさ、俺は若い人たちを殺したくねえからな、絶対に」
初戦は負けだったか。悔しいやら命拾いしたような思いやらで、ぐちゃぐちゃになるが、やっぱり悔しかった。半分しか勝てない、全部勝たなきゃ意味がない。そうなんだ、と思う。そして頑張ろうとする私を殺さないために退却したと言う文一さんを、ありがたく思った。ありがとう、力が足りないと悔しくなった。文一さんはまだまだ語る。
「バクチやったもんだよな、いいさ。おそらく世界に残る戦だったと思うよ。負けても勝ってもさ、しょうがねえなぁ。俺に責任を負ってもらったって仕方ねえよなあ。俺は先見えた。だめだなぁと思ったからさ。なんじょにもならねもんなぁ。こんなにぶっこわれてれば、そうかと言ったってさぁ、半分しか勝てねえもんな。戦力が足りない、かわいそうだけどしょうがねえな」
世界に残る戦って…文一さん。ありがとう。文一さんのやさしさに涙がこぼれる。私の守っていきたかったものはなんなんだろうと、苦しくなった。
「俺から言わせれば先の見えない戦は、『戦』ってのは勝つべき人がやるのであって負けるべき人がやるのではない。半分は担いだもんな、しょうがねぇ。先の見える人と見えない人はそれだけの違いがある。あんたもこれから戦あると思うけど無茶な戦はしねえんだ。『戦』したってしょうがねえんだって言ったんだけどな。始まる前だって負けるべくして負けた。全力投入したって、本当の話できるのあんたと二人だけだ。第一、話がわかんねんだもん。かわいそうだけどしょうがない。敗軍の将、兵を語らず。やってわかる戦だらやるんだ。わからねんでばやらねんだ。半分は勝ち、負けるが勝ち。ここまで力つけるってことは大変なこと」
「がらくたな兵隊集めたってしゃあねんだもの。鍛えてかなきゃだめだ。よわっこな兵隊ばっかり集めたってだめだ。これだけの強兵よこしたのにもったいねえなぁ。いつの日かまた蒸し返すんだあ。そう思う時があるかないかだな。その能力がある人が勝てる。頭抱えたって戦には勝てねえんだから。申し訳なかったな。今度戦があったら負けねえからな。兵隊を二度と立てないぐらい強くしねばね。今はだめだ。二回戦やるぐらいの力をもってねばだめだ。今度の戦には絶対負けないと自信を持っていたけど。これだけのことやったんだから、できないことはないと思うんだよな。いつの日か」
文一さんに清々しい顔で敗北宣言をされる。「負けました」と事務所に言いに行き、理事長にも電話で伝えた。折れに折れた心を抱えながら、じゃあこれからどうすりゃいいのよ、と頭を抱える。そのときは何に負けたかよくわからなかったけれど、今になってみるとなんとなくわかる。その人らしい生活を守る戦い、それは私も私らしく居させてもらえる戦いだったのだな、と。私らしく居る、ということは一見するととってもわがままな行為で、正しいと信じてやっていても分かってもらえなければ意味がない。
業務ではなく、暮らしになるように。自然と日々のことが流れていくように(気持ちへの柔軟さと身体への繊細さを持ちつつ)、時間で生活が動いていくのではなく、その人のペースで動いていくように。
その戦いはとても難しい。二年半前、私は見事に業務に負けて、自分らしさを失い、特養からグループホームに異動になった。半年間の特養は、春からちょうど今頃までだった。この時期にまた異動になるなんて、リベンジのようである。かつて過ごせなかった季節をここで過ごしながら、また戦いが始まる。
日々を過ごす中で、昨日の自分と今日の自分が違うことがよくわかる。よかったり、だめだったり。自信をなくしていたり、何も見えなくなってしまっていたり。そのことを教えてくれる文一さんに、いつも考えさせられる。どういう意味なんだ?と言葉の捉え方が難しいときもある。自分に都合の良いようにとってしまいたいときもあるけど、本当は叱咤激励だよなと思い返す。
軍師の文一さんは私をずっと見ている。そして実はいつの間にか二回戦に突入し、戦に私はまた巻き込まれていく。
その話はまた次回につづく。
朝陽に祈る−満月の夜のドライブ ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2013年10月号】
先月入居になったばかりの、学さん(仮名)は93歳、ダンディな人だ。ハンチング帽を被って、ベストを羽織り、おしゃれも決まっている。交流ホールのカウンターに座り、コーヒーを飲みながらクラシックやジャズを聴き、女性スタッフに愛をささやく。とにかくかっこいい。オーディオマニアである学さんとは、ショートステイ時代から音楽や音について話をしてきた。しかし、それは表面上の付き合いだった。入居になってから学さんは私の気持ちを激しく揺さぶってくる。これまでも怒りや不安の感情をストレートにぶつけて、普段は出ないような私の感情を引き出される利用者さんに出会ってきた。学さんもそうした凄まじい人だった。
8月に、ユニットすばるでふたりの方が亡くなられた。普段は優しく、仏のような暖かい人だが、怒りが沸くと鬼に変身し、テーブルやソファーをひっくりかえす洋治さん(仮名)。深い言葉で若者を照らし、成長を見守って支えてくれたタクヤさん(仮名)。通信にも何度も登場した魅力溢れるふたりは、特養開設時からスタッフと共に4年間を過ごしてきた。そんなふたりがいなくなって、ユニットは静まりかえった感じで、ぽっかりと穴があいてふさがらないままだった。そこへ9月はじめ、学さんが入居してきた。
奥さんを亡くし、独居生活が長かった学さんだが、近くに住む娘さんの見守りで、デイサービスやショートステイを利用しながら暮らしてきた。特養入居の日から学さんは独りぼっちになってしまった。ユニットでも、一緒にコーヒーを飲んだり音楽を聴いて過ごしてみるのだが、日中は「帰る」の一点張りで玄関へ向かう。その帰りたい先は現実の「家」ではなくて、大切な人と過ごした過去のように感じる。その想いはとても強く、引き止める事は難しい。「娘さんが今日は泊まってってと言ってたよ」「家は、みんな仕事だから居ないんだよ」などと伝えながら一緒に歩くことしか出来なかった。学さんは事務所に通うようになる。「ここにいれば家族が迎えに来る」「電話をかけさせてくれ。家に誰かいるはずだ!」「俺は帰らないといけないんだ!」と切羽詰まった感じの学さん。現実を突きつけても「えぇ?そんな訳はないだろ」「どうゆうことだ?さっぱり…。馬鹿になってしまった」「電話して確認してみる」と更にこんがらがってしまう。
夜は、日中とは違って、仕方ないから泊まっていく、となるのだが、一緒に寝てくれる女性を探し求める。コーヒーを飲みながら女性を口説くダンディーな姿とはまったく違い、しがみつく感じで女性を探し求める。声をかけられた女性スタッフも切なくて切羽つまり苦しくなり、耐えきれず逃げ出すしかないこともあった。そうなるとその人を探して、歩き続け、力尽きて眠ってしまう頃には日付が変わっているということがよくあった。寂しさや孤独感から母性や安心感を求めるのは理解はできたが、学さんも女性スタッフもまいってきた。ユニットに突然、空いたふたつの穴、そこに学さんの計り知れない寂しさと不安。それに対してチームは力不足で何も出来ず日々が過ぎていた。
そんな折り「朝陽ドライブ」に出かけた。水平線に上がってくる瞬間の太陽を見てみたいと、3ヶ月前から考えていた。新人の私に畑仕事を教えてくれた祥子さん(仮名)は、時折、キラキラ輝く少女の目でファンタジーを語る一面がある。その祥子さんと煎れたてのコーヒーを飲みながら、海の日の出を見るというロマンチックな企画だ。それに学さんも誘った。寂しさと不安の揺れの渦中にいる学さんにとって少しでも癒しになれば・・と思ったからだ。
研修で最近知り合った宮古の「グループホーム愛宕の丘」の川崎さんに、日の出が見えるベストスポットを教えてもらった。
下見など準備を進めながら、祥子さんや学さんにも、楽しみにしてもらいたくて、毎日のようにその話を伝えた。みんなでワクワクして当日が待ち遠しかった。
9月20日当日深夜am1:30に寝ていた祥子さんと学さんを起こす。祥子さんは一睡もせず、着ていく服を選んで待っていた。「もうドキドキして眠ってなんかいられなかったよー♪今日は月見の日だったからお月さまきれいだっけ〜」とニコニコでリュックを背負う。一方、普段は夜遅くまで起きている学さんだが、19日は夕食後すぐに入床した。深夜に起こされたにもかかわらず支度をして、万里栄さんとともに、寝ぼけ眼で居室から出てきた。「なんだかこの人が朝陽が見たいって。まぁついて行くさ・・・で、どこ行くの?」学さんは、さっき話したこともすぐに忘れてしまうけど、“万里栄さんとどこかに行く”という事だけは、しっかりと入っていた。
この日は中秋の名月で、雲も少なく、夜空には燦然と輝く満月が浮かんでいた。夜の静けさと月夜の明るさ。砂浜で朝陽を見るというワクワクも相まって気持ちは高揚した。am2:00に銀河の里特養を出発、一路、宮古へ!向かって片道100kmのドライブ。車内では、暖かいコーヒーを飲みながらお菓子を食べながら、遠足のようにはしゃぐ。学さんは「うわ〜、夜景がキレイだ〜。・・・で、どこに行くの?」「月がまん丸だ〜。・・・で、今何時ですか?」とはしゃいだ感じが新鮮で嬉しく楽しかった。「うまいコーヒーだねぇ」と学さんも楽しそうだった。
出発して一時間半、トイレ休憩に道の駅に寄る。学さんとトイレにいると「いや〜、冷えますな〜。おたくはどこから来たんですか?」と話しかけてきた。ん?急に他人?と不思議な感じ。「私は、なんだかよくわかんないけど着いてきたんですよ、子供たちがドライブしたいって。どこだかに向かってるって言ってたが…アハハ、忘れたな〜」私はせっかくなので通りがかりの他人になって「朝陽を見に宮古市まで向かっている途中です。キレイな朝陽を知り合いに見せたくて」と返す。「えぇ!?宮古!?なんとま〜遠くまで。ん〜、ここはどこでしたっけ?」「まぁ、運転にお気をつけて!」と他人のままだ。トイレから出ると、手を振って“さよなら”をして、おのおの車へと向かう。車の前でばったり会うと、「えぇ!?あなたもこの車?運転席?…あぁそうか!」と笑っている。なんだかおかしくてくすぐったい。再び走り始めると「どこへ行くんですか?」と学さんが聞いてくる。「宮古です」と返しながら笑ってしまう。学さんは「351km?そろそろまんまかせにゃーいかんのでは?」と尋ねる。車中全員クエスチョンマークが浮かんだ。「そこに書いてあるでしょ、351って」と、車のデジタル時計の3時51分を指さした。みんななるほどと納得。「あ、352kmになった。この車もだいぶ走ったから、まんま入れないとガス欠になってしまう」と心配する学さん。「ガス欠が一番怖いからな。私は戦争中、船に乗ってたから、常に満タンで出発したもんだ。海の上でガス欠になったら死んでしまうからなぁ」海軍時代の経験から燃料をやけに気にする。そこからずっとkm数とガス欠の心配は続いた・・・。“海に昇る日の出を見る”という目的は忘れても、学さんは“学さんの海”を語ってくれた。嬉しくなった。
4時半を過ぎたころには行く手の空が明るくなりはじめ、満月の夜空とは違う色彩と明るさになってきた。「お〜!明るくなってきた。こりゃ夜が明けるぞ。朝陽が上がるところだ!」日の出に間に合うかどうか・・・と学さんが焦らせる。「予定では…」と話す最中から、「ほーら!出る出る!」と学さんは聞く耳を持たない。
5時には目指す砂浜に到着した。「GH愛宕の丘」の川崎さんと伊藤さんはすでに先に来て待っていてくれた。砂浜に椅子を置き、7人、毛布を被って寒さをしのぎながら、朝陽が昇るのをじっと待った。「来る!来るぞ!」と声を上げたのは学さんだった。「カメラ、前に!ここから撮りなさい!1…2…たったの2台か!足りないよ、俺もカメラ持ってくりゃよかった!!」と学さん、「うほー!来たぞ!」とはしゃぎだす。無邪気な少年のように浮かれている。いよいよ昇り始める太陽。それまで一緒にはしゃいでいた祥子さんは思わず立ち上がる。そして神妙な表情で手を合わせた。太陽がサーモンピンクから始まり、赤、オレンジ、黄色、白と、ゆっくり表情を変えていく。西に満月が沈み、東の朝陽と入れ替わる様はとても幻想的だった。そしてこのメンバーで今ここに居ることに感動して、私は言葉が出なかった。
朝陽が昇り切ると、コーヒー豆を挽いたり、卵やウインナーを炒めて朝食の準備に取りかかった。大騒ぎでとてもロマンチックな朝食タイムとはならなかったが、学さんは、「こんなに準備してきたの?あなたが?うわー、最高だー!今日のことは絶対に忘れられないな!一生覚えておく!」と言ってくれた。この瞬間だけは“学さんは独りではなく、今この7人と一緒に居るんだ”と感じて、“やっぱり一緒に来てよかった”と思った。パンにかぶりつきコーヒーを飲んで「うまい!」と言いながら、「戦争中を思い出すなぁ」と昔の事も語ってくれた。
川崎さん達に見送られ、帰りは山田、大槌、釜石と海沿いを走ってお昼に花巻に帰ってきた。そのままユニットで昼食につくと「今日はとっても良い日だった。だから、ここは俺がおごる!」と学さんが言う。「みんなで食べよう!あれ、みんなどこに行った?」と落ち着かくなる。ついに「7〜8人は居たはずだ。どうゆうことだ!!」と怒り出す学さん。宮古の二人もまだ一緒にいる?!その想いを大切にしたくて、交流ホールへ場所を移し、ドライブに行ったメンバーだけで昼食にする。学さんにも笑顔が戻り、「たくさん食えよ、お代わりして」と言ってくれる。途中、他のメンバーが席を外し、学さんと二人きりになると、「おまえさんよ!ちゃんとやってくれよ!」と急に真顔になって語りかけてきた。「俺はここにいると訳がわかんなくなってしまうんだ。馬鹿なせいもあるんだろうが、訳わからなくするやつがいる。だから、おまえさんがちゃんとやってくれよ!頼むよー!!今日みたいに!今日のはとっても分かる!な!今日みたく流れでさ!分かったか?流れでだぞ!ややこしくするなよ!」学さんの中にある孤独や混乱を初めて語ってくれたように感じた。そして、スタッフが戻ってくると「お代わりあったかー?ほーっ、山盛り!!」といつもの学さんに戻った。
学さんが入居して1ヶ月が経った。今でも「帰る」気持ちは動き、女性を求める姿もある。学さんの孤独や悲しみはもっともっと深いところにあって、決して癒されることはないことかもしれない・・・。そんな学さんの気持ちを受けとめつつ、居場所となる場や時間、人間関係を作って行きたい。その中で、学さんも私も、何かと向き合えるのではないだろうか。ユニットに空いた大きな穴と止まった時間が、学さんとの新しい出会いで、やっと動きだしつつある。私自身も学さんに惹きつけられている。今度は、ジャズを聴きにライブハウスへ出掛けようと思っている。
8月に、ユニットすばるでふたりの方が亡くなられた。普段は優しく、仏のような暖かい人だが、怒りが沸くと鬼に変身し、テーブルやソファーをひっくりかえす洋治さん(仮名)。深い言葉で若者を照らし、成長を見守って支えてくれたタクヤさん(仮名)。通信にも何度も登場した魅力溢れるふたりは、特養開設時からスタッフと共に4年間を過ごしてきた。そんなふたりがいなくなって、ユニットは静まりかえった感じで、ぽっかりと穴があいてふさがらないままだった。そこへ9月はじめ、学さんが入居してきた。
奥さんを亡くし、独居生活が長かった学さんだが、近くに住む娘さんの見守りで、デイサービスやショートステイを利用しながら暮らしてきた。特養入居の日から学さんは独りぼっちになってしまった。ユニットでも、一緒にコーヒーを飲んだり音楽を聴いて過ごしてみるのだが、日中は「帰る」の一点張りで玄関へ向かう。その帰りたい先は現実の「家」ではなくて、大切な人と過ごした過去のように感じる。その想いはとても強く、引き止める事は難しい。「娘さんが今日は泊まってってと言ってたよ」「家は、みんな仕事だから居ないんだよ」などと伝えながら一緒に歩くことしか出来なかった。学さんは事務所に通うようになる。「ここにいれば家族が迎えに来る」「電話をかけさせてくれ。家に誰かいるはずだ!」「俺は帰らないといけないんだ!」と切羽詰まった感じの学さん。現実を突きつけても「えぇ?そんな訳はないだろ」「どうゆうことだ?さっぱり…。馬鹿になってしまった」「電話して確認してみる」と更にこんがらがってしまう。
夜は、日中とは違って、仕方ないから泊まっていく、となるのだが、一緒に寝てくれる女性を探し求める。コーヒーを飲みながら女性を口説くダンディーな姿とはまったく違い、しがみつく感じで女性を探し求める。声をかけられた女性スタッフも切なくて切羽つまり苦しくなり、耐えきれず逃げ出すしかないこともあった。そうなるとその人を探して、歩き続け、力尽きて眠ってしまう頃には日付が変わっているということがよくあった。寂しさや孤独感から母性や安心感を求めるのは理解はできたが、学さんも女性スタッフもまいってきた。ユニットに突然、空いたふたつの穴、そこに学さんの計り知れない寂しさと不安。それに対してチームは力不足で何も出来ず日々が過ぎていた。
そんな折り「朝陽ドライブ」に出かけた。水平線に上がってくる瞬間の太陽を見てみたいと、3ヶ月前から考えていた。新人の私に畑仕事を教えてくれた祥子さん(仮名)は、時折、キラキラ輝く少女の目でファンタジーを語る一面がある。その祥子さんと煎れたてのコーヒーを飲みながら、海の日の出を見るというロマンチックな企画だ。それに学さんも誘った。寂しさと不安の揺れの渦中にいる学さんにとって少しでも癒しになれば・・と思ったからだ。
研修で最近知り合った宮古の「グループホーム愛宕の丘」の川崎さんに、日の出が見えるベストスポットを教えてもらった。
下見など準備を進めながら、祥子さんや学さんにも、楽しみにしてもらいたくて、毎日のようにその話を伝えた。みんなでワクワクして当日が待ち遠しかった。
9月20日当日深夜am1:30に寝ていた祥子さんと学さんを起こす。祥子さんは一睡もせず、着ていく服を選んで待っていた。「もうドキドキして眠ってなんかいられなかったよー♪今日は月見の日だったからお月さまきれいだっけ〜」とニコニコでリュックを背負う。一方、普段は夜遅くまで起きている学さんだが、19日は夕食後すぐに入床した。深夜に起こされたにもかかわらず支度をして、万里栄さんとともに、寝ぼけ眼で居室から出てきた。「なんだかこの人が朝陽が見たいって。まぁついて行くさ・・・で、どこ行くの?」学さんは、さっき話したこともすぐに忘れてしまうけど、“万里栄さんとどこかに行く”という事だけは、しっかりと入っていた。
この日は中秋の名月で、雲も少なく、夜空には燦然と輝く満月が浮かんでいた。夜の静けさと月夜の明るさ。砂浜で朝陽を見るというワクワクも相まって気持ちは高揚した。am2:00に銀河の里特養を出発、一路、宮古へ!向かって片道100kmのドライブ。車内では、暖かいコーヒーを飲みながらお菓子を食べながら、遠足のようにはしゃぐ。学さんは「うわ〜、夜景がキレイだ〜。・・・で、どこに行くの?」「月がまん丸だ〜。・・・で、今何時ですか?」とはしゃいだ感じが新鮮で嬉しく楽しかった。「うまいコーヒーだねぇ」と学さんも楽しそうだった。
出発して一時間半、トイレ休憩に道の駅に寄る。学さんとトイレにいると「いや〜、冷えますな〜。おたくはどこから来たんですか?」と話しかけてきた。ん?急に他人?と不思議な感じ。「私は、なんだかよくわかんないけど着いてきたんですよ、子供たちがドライブしたいって。どこだかに向かってるって言ってたが…アハハ、忘れたな〜」私はせっかくなので通りがかりの他人になって「朝陽を見に宮古市まで向かっている途中です。キレイな朝陽を知り合いに見せたくて」と返す。「えぇ!?宮古!?なんとま〜遠くまで。ん〜、ここはどこでしたっけ?」「まぁ、運転にお気をつけて!」と他人のままだ。トイレから出ると、手を振って“さよなら”をして、おのおの車へと向かう。車の前でばったり会うと、「えぇ!?あなたもこの車?運転席?…あぁそうか!」と笑っている。なんだかおかしくてくすぐったい。再び走り始めると「どこへ行くんですか?」と学さんが聞いてくる。「宮古です」と返しながら笑ってしまう。学さんは「351km?そろそろまんまかせにゃーいかんのでは?」と尋ねる。車中全員クエスチョンマークが浮かんだ。「そこに書いてあるでしょ、351って」と、車のデジタル時計の3時51分を指さした。みんななるほどと納得。「あ、352kmになった。この車もだいぶ走ったから、まんま入れないとガス欠になってしまう」と心配する学さん。「ガス欠が一番怖いからな。私は戦争中、船に乗ってたから、常に満タンで出発したもんだ。海の上でガス欠になったら死んでしまうからなぁ」海軍時代の経験から燃料をやけに気にする。そこからずっとkm数とガス欠の心配は続いた・・・。“海に昇る日の出を見る”という目的は忘れても、学さんは“学さんの海”を語ってくれた。嬉しくなった。
4時半を過ぎたころには行く手の空が明るくなりはじめ、満月の夜空とは違う色彩と明るさになってきた。「お〜!明るくなってきた。こりゃ夜が明けるぞ。朝陽が上がるところだ!」日の出に間に合うかどうか・・・と学さんが焦らせる。「予定では…」と話す最中から、「ほーら!出る出る!」と学さんは聞く耳を持たない。
5時には目指す砂浜に到着した。「GH愛宕の丘」の川崎さんと伊藤さんはすでに先に来て待っていてくれた。砂浜に椅子を置き、7人、毛布を被って寒さをしのぎながら、朝陽が昇るのをじっと待った。「来る!来るぞ!」と声を上げたのは学さんだった。「カメラ、前に!ここから撮りなさい!1…2…たったの2台か!足りないよ、俺もカメラ持ってくりゃよかった!!」と学さん、「うほー!来たぞ!」とはしゃぎだす。無邪気な少年のように浮かれている。いよいよ昇り始める太陽。それまで一緒にはしゃいでいた祥子さんは思わず立ち上がる。そして神妙な表情で手を合わせた。太陽がサーモンピンクから始まり、赤、オレンジ、黄色、白と、ゆっくり表情を変えていく。西に満月が沈み、東の朝陽と入れ替わる様はとても幻想的だった。そしてこのメンバーで今ここに居ることに感動して、私は言葉が出なかった。
朝陽が昇り切ると、コーヒー豆を挽いたり、卵やウインナーを炒めて朝食の準備に取りかかった。大騒ぎでとてもロマンチックな朝食タイムとはならなかったが、学さんは、「こんなに準備してきたの?あなたが?うわー、最高だー!今日のことは絶対に忘れられないな!一生覚えておく!」と言ってくれた。この瞬間だけは“学さんは独りではなく、今この7人と一緒に居るんだ”と感じて、“やっぱり一緒に来てよかった”と思った。パンにかぶりつきコーヒーを飲んで「うまい!」と言いながら、「戦争中を思い出すなぁ」と昔の事も語ってくれた。
川崎さん達に見送られ、帰りは山田、大槌、釜石と海沿いを走ってお昼に花巻に帰ってきた。そのままユニットで昼食につくと「今日はとっても良い日だった。だから、ここは俺がおごる!」と学さんが言う。「みんなで食べよう!あれ、みんなどこに行った?」と落ち着かくなる。ついに「7〜8人は居たはずだ。どうゆうことだ!!」と怒り出す学さん。宮古の二人もまだ一緒にいる?!その想いを大切にしたくて、交流ホールへ場所を移し、ドライブに行ったメンバーだけで昼食にする。学さんにも笑顔が戻り、「たくさん食えよ、お代わりして」と言ってくれる。途中、他のメンバーが席を外し、学さんと二人きりになると、「おまえさんよ!ちゃんとやってくれよ!」と急に真顔になって語りかけてきた。「俺はここにいると訳がわかんなくなってしまうんだ。馬鹿なせいもあるんだろうが、訳わからなくするやつがいる。だから、おまえさんがちゃんとやってくれよ!頼むよー!!今日みたいに!今日のはとっても分かる!な!今日みたく流れでさ!分かったか?流れでだぞ!ややこしくするなよ!」学さんの中にある孤独や混乱を初めて語ってくれたように感じた。そして、スタッフが戻ってくると「お代わりあったかー?ほーっ、山盛り!!」といつもの学さんに戻った。
学さんが入居して1ヶ月が経った。今でも「帰る」気持ちは動き、女性を求める姿もある。学さんの孤独や悲しみはもっともっと深いところにあって、決して癒されることはないことかもしれない・・・。そんな学さんの気持ちを受けとめつつ、居場所となる場や時間、人間関係を作って行きたい。その中で、学さんも私も、何かと向き合えるのではないだろうか。ユニットに空いた大きな穴と止まった時間が、学さんとの新しい出会いで、やっと動きだしつつある。私自身も学さんに惹きつけられている。今度は、ジャズを聴きにライブハウスへ出掛けようと思っている。
遠い日より ★理事長 宮澤健【2013年10月号】
10年も前のことになる。ずっと書いておきたいと思いながら書けないできたことがある。
そのころ研修などで上京する度に、浅草に宿を取るようになった。都心より安めの宿が浅草に多かったからだ。町を歩くと浅草には風情というか、都心にはない懐かしい雰囲気があった。東京には18年住んでいたのだが、浅草に行くことはほとんどなく、気がつかずにいたが、昔ながらのたたずまいの店も多く残っていて、どこか心和むものがあった。浅草に泊まることが多くなり、町の散策もした。
そんなある時、なにげなくある天ぷら屋に入った。そのとき客はなく、私ひとりだったと思う。カウンターに座り、おまかせのコース「金竜」を頼んだ。1200円でそう高くはない。注文をとり「お酒はいかがですか」と進めてくれたのは、80歳は越えただろうと思われるお婆さんだった。背筋も伸びて、凛とした品のある女性だが、普通、働いている年齢とは思えない。都心ではあり得ないことだ。この店の家族で、雇われている人ではないだろう。オーナーなのかも知れない。浅草ならではのことだと感心していた。その「お酒はいかがですか」という語りかけも、一般の居酒屋などの「お飲み物はいかがなさいますか」とは全く違った響きがあった。まさに愛しい人にささやかれているような新鮮さと、ときめきがある。私は日本酒は冷酒に限る方なのだが、その言葉に誘われてお燗を頼んだ。お婆さんがお酒を持ってくる。でもそれは、ただ持ってきたのではなかった。大事そうに抱えて、お銚子やぐい飲みを置く位置も繊細な配慮に血が通っている。なんだろうと私は驚き戸惑った。飲みながら、動揺は深まっていく。あのお婆さんは何者なのだろう。そして私は何を動転しているのか。
やがてカウンターに天ぷらがひとつひとつ、置かれていく。天ぷらを肴に飲みながら、酔いも少し回ってくるにつれ、私の中の動揺は収まらないまま、さらに揺れていく。いつの間にかお銚子が一本空になっていた。お婆さんはさりげなく二本目を尋ねてくれる。
コースがあらかた終わるころ、「お食事お持ちしますか」と聞いてくる。お婆さんはご飯と味噌汁を、それぞれ別々に持ってきた。お銚子の時もそうだったが、お婆さんは、何か大切なものを携えるように持ってきて、何とも言えない何かをそこに置いていく。その度に私は動揺する。なんなんだ、これは?お婆さんはほとんど喋っていない。仕草にやられているのか。あの大切そうに抱えて持ってきたモノは、ただのご飯と、味噌汁じゃないか。ダメだ、耐えきれなくなって涙が出てくる。出てくるってものじゃない、留めようがなく滂沱にあふれる。自分でも驚く。客のいない広い店内でひとり、天ぷらで酒を飲みながら流れる感涙に酔う。
「江戸だ」と思った。私は江戸にやられたのだ。お婆さんは江戸を運んで来たにちがいない。東京でも浅草でも、現代でもない。江戸が時代の裂け目から私を呑み込んでいた。いつまでも涙は止まらない。私は江戸にいた。
勘定をするとき、お婆さんが浅草のマップを渡してくれた。「浅草を見ましたか」と言ってくれた。江戸の響きだった。私は「見せてもらいました」とひれ伏すような感謝を込めた。
その後、そのお婆さんのことが気にかかった。8年前の、平成17年の新人研修では能と、折口信夫『死者の書』の映画を観ることになり、浅草のそのお婆さんの店でも食事をしようと予約を入れた。ところが、出発の朝、我が家のお婆さん、ミツさんが亡くなった。私は参加できなくなり、仕方なく新人だけで行ってもらったのだが、慣れない都会の道に戸惑っているうちに、時間が無くなり、店の予約は取り消した。
それから、私は何度かその店に行ったが、お婆さんは見かけなかった。お婆さんはどうしたか尋ねたかったが、尋ねてはいけないような気もして、ついに聞けなかった。数年後、久しぶりに訪れると、フィリピン系の若い女性がホールにいた。笑顔に品もある、南洋系の人にしては柔らかいおとなしい感じの人だったが、そこに江戸があるわけはなかった。もしかしたらあのお婆さんは、私の見た幻で、江戸の精が、浅草を徘徊する私に憑いたのかもしれないと思ってみたりする。おそらく浅草に生き残った最後の江戸と私は接触したのだろう。
今年に入って、その店の前を通りかかると、店はなくなり、チェーンの居酒屋に変わっていた。浅草には100年を越える老舗はそこいら中にある。その一軒だっただろうに、ショックだった。わずかこの10年のことだ。‘十年一昔’はそれこそ昔の話で、今では10年は大昔だ。銀河の里にもその間、ワークステージが開設し、特養が立ち上がり、震災もあり、原発事故もあって、世の中はずいぶん変わった。
私のイリュージョンだったかも知れないお婆さんは、ほとんど語らなかったが、大切な何かを私に伝えてくれている。それは江戸の時間、振る舞い、関係だっただろうか。止まったような時間。お酒、ご飯、味噌汁など、食器も含めて、ひとつひとつのモノに対する果てしないいとおしさ。「あなたがいて私がいる」その刹那への深い畏敬。比べれば我々現代人はいかに粗暴で乱雑なことか。そこに感謝も感激も生まれないとしたら、それはまちがっているにちがいない。あの涙は、失われた大切な何かへの惜別の想いとして流れたのだろうか。
10年も書けなかったことを今書いておきたくなった。今後10年の銀河の里、将来の地域と日本人を考えるうえでも、重要なことをあのとき、伝えてもらっていたにちがいない。
そのころ研修などで上京する度に、浅草に宿を取るようになった。都心より安めの宿が浅草に多かったからだ。町を歩くと浅草には風情というか、都心にはない懐かしい雰囲気があった。東京には18年住んでいたのだが、浅草に行くことはほとんどなく、気がつかずにいたが、昔ながらのたたずまいの店も多く残っていて、どこか心和むものがあった。浅草に泊まることが多くなり、町の散策もした。
そんなある時、なにげなくある天ぷら屋に入った。そのとき客はなく、私ひとりだったと思う。カウンターに座り、おまかせのコース「金竜」を頼んだ。1200円でそう高くはない。注文をとり「お酒はいかがですか」と進めてくれたのは、80歳は越えただろうと思われるお婆さんだった。背筋も伸びて、凛とした品のある女性だが、普通、働いている年齢とは思えない。都心ではあり得ないことだ。この店の家族で、雇われている人ではないだろう。オーナーなのかも知れない。浅草ならではのことだと感心していた。その「お酒はいかがですか」という語りかけも、一般の居酒屋などの「お飲み物はいかがなさいますか」とは全く違った響きがあった。まさに愛しい人にささやかれているような新鮮さと、ときめきがある。私は日本酒は冷酒に限る方なのだが、その言葉に誘われてお燗を頼んだ。お婆さんがお酒を持ってくる。でもそれは、ただ持ってきたのではなかった。大事そうに抱えて、お銚子やぐい飲みを置く位置も繊細な配慮に血が通っている。なんだろうと私は驚き戸惑った。飲みながら、動揺は深まっていく。あのお婆さんは何者なのだろう。そして私は何を動転しているのか。
やがてカウンターに天ぷらがひとつひとつ、置かれていく。天ぷらを肴に飲みながら、酔いも少し回ってくるにつれ、私の中の動揺は収まらないまま、さらに揺れていく。いつの間にかお銚子が一本空になっていた。お婆さんはさりげなく二本目を尋ねてくれる。
コースがあらかた終わるころ、「お食事お持ちしますか」と聞いてくる。お婆さんはご飯と味噌汁を、それぞれ別々に持ってきた。お銚子の時もそうだったが、お婆さんは、何か大切なものを携えるように持ってきて、何とも言えない何かをそこに置いていく。その度に私は動揺する。なんなんだ、これは?お婆さんはほとんど喋っていない。仕草にやられているのか。あの大切そうに抱えて持ってきたモノは、ただのご飯と、味噌汁じゃないか。ダメだ、耐えきれなくなって涙が出てくる。出てくるってものじゃない、留めようがなく滂沱にあふれる。自分でも驚く。客のいない広い店内でひとり、天ぷらで酒を飲みながら流れる感涙に酔う。
「江戸だ」と思った。私は江戸にやられたのだ。お婆さんは江戸を運んで来たにちがいない。東京でも浅草でも、現代でもない。江戸が時代の裂け目から私を呑み込んでいた。いつまでも涙は止まらない。私は江戸にいた。
勘定をするとき、お婆さんが浅草のマップを渡してくれた。「浅草を見ましたか」と言ってくれた。江戸の響きだった。私は「見せてもらいました」とひれ伏すような感謝を込めた。
その後、そのお婆さんのことが気にかかった。8年前の、平成17年の新人研修では能と、折口信夫『死者の書』の映画を観ることになり、浅草のそのお婆さんの店でも食事をしようと予約を入れた。ところが、出発の朝、我が家のお婆さん、ミツさんが亡くなった。私は参加できなくなり、仕方なく新人だけで行ってもらったのだが、慣れない都会の道に戸惑っているうちに、時間が無くなり、店の予約は取り消した。
それから、私は何度かその店に行ったが、お婆さんは見かけなかった。お婆さんはどうしたか尋ねたかったが、尋ねてはいけないような気もして、ついに聞けなかった。数年後、久しぶりに訪れると、フィリピン系の若い女性がホールにいた。笑顔に品もある、南洋系の人にしては柔らかいおとなしい感じの人だったが、そこに江戸があるわけはなかった。もしかしたらあのお婆さんは、私の見た幻で、江戸の精が、浅草を徘徊する私に憑いたのかもしれないと思ってみたりする。おそらく浅草に生き残った最後の江戸と私は接触したのだろう。
今年に入って、その店の前を通りかかると、店はなくなり、チェーンの居酒屋に変わっていた。浅草には100年を越える老舗はそこいら中にある。その一軒だっただろうに、ショックだった。わずかこの10年のことだ。‘十年一昔’はそれこそ昔の話で、今では10年は大昔だ。銀河の里にもその間、ワークステージが開設し、特養が立ち上がり、震災もあり、原発事故もあって、世の中はずいぶん変わった。
私のイリュージョンだったかも知れないお婆さんは、ほとんど語らなかったが、大切な何かを私に伝えてくれている。それは江戸の時間、振る舞い、関係だっただろうか。止まったような時間。お酒、ご飯、味噌汁など、食器も含めて、ひとつひとつのモノに対する果てしないいとおしさ。「あなたがいて私がいる」その刹那への深い畏敬。比べれば我々現代人はいかに粗暴で乱雑なことか。そこに感謝も感激も生まれないとしたら、それはまちがっているにちがいない。あの涙は、失われた大切な何かへの惜別の想いとして流れたのだろうか。
10年も書けなかったことを今書いておきたくなった。今後10年の銀河の里、将来の地域と日本人を考えるうえでも、重要なことをあのとき、伝えてもらっていたにちがいない。
傷を乗り越えるために ★グループホーム第2 佐々木詩穂美【2013年10月号】
先月、より子さん(仮名)はガンになったと思いこんだ。3年前に胃のポリープの手術をしているが、99%の確立で再発はないと言われている。その残りの1%をより子さんは疑った。スタッフは根拠のないガンになったという主張に困惑した。心配とか気にしているのとは少し違って、自分はガンだと確信を持って主張する、妄想チックなガンだった。困ったのはそれを理由に食事をしなかったり、やってほしいことをやらなかったりすることだった。
「ガンじゃないから大丈夫なの!」とスタッフが言うと「ガンじゃないと言われても私はガンなんだから!自分の体のことは分かる!みんなで口裏合わせしてるんでしょ!」とヒステリックに攻撃的になる。そのうち定期の検査日がやってきた。検査はどういう物語になってくるのだろうとスタッフで話していた。検査通院の当日「ガンだからしばらく入院になるので帰ってこないから」とひとりで入院の仕度をしている。大荷物を持って「それじゃあ行ってくるから」とどこか腹をくくって、意気揚々という感じで病院へ出かけて行った。
さてどうなるのかな?とみんなで帰りを待っていた。すると手のひらを返したように「胃の写真見せてもらったらなんともなかったー!よかった〜こんな荷物持ってってな〜」とちょっと恥ずかしそうに帰ってきた。「やっぱりガンじゃなかったでしょ!?」とスタッフも笑って迎えた。なんとかこれでより子さんの「気持ちのガン」は乗り越えたと思って一安心した。
ところがその日の夕方のことだった。「私の薬に変なのが入ってるから足元がフラつくようになった」とより子さんが騒ぎ出した。そして、朝、昼、夜と処方されている薬を飲まないと言う。ガン騒動も大変だったが、服薬拒否もなかなかきびしい。それからスタッフとより子さんの薬を飲む飲まないのバトルが始まった。スタッフとしては処方されている薬はキチンと飲んでもらわないと困る。ましてや心臓病の治療薬も入っているので、致命的だ。なんとか飲んでもらおうと説得するスタッフにより子さんは毒舌で攻撃してくる。「足元フラつくのにあんた達はそれでも薬飲めっていうの!?倒れて骨折したら寝たきりになるんだよ。寝たきりにさせたいのか」と大声で怒る。「ふらつくんだったら、それを病院に行ってお医者さんに相談してからじゃないと、勝手に止めるのはよくない」とスタッフも必死に正論で責める。ところがより子さんは「怪しいからもう病院にも行かない」と居室に籠もってしまって出てこなくなった。スタッフは心臓病の薬だけでも飲んでとお願いするがより子さんは頑としてきかない。
あの手この手で説得を試みるが全く聞いてくれなかった。息子さんも来てもらって何度も説得してもらったが、激しい言い合いになって、頑なになるだけで飲んではくれなかった。さらに、なんとか病院に行ったと思ったら、処方された薬を自分の部屋に持ち込んで隠してしまった。なんとか薬を返してもらわないと、一度に飲んだりすることも考えられるので困り果ててしまった。
以前、より子さんは部屋で自分で薬を飲むので、実際に飲んだかどうか確認できなかった。理事長が直接やんわりと世間話をして、リビングでスタッフの居るところで飲んでほしいと頼んだ。その時は「そうだね責任があるんだもんね」と聞いてくれて、スタッフの前で飲んでくれるようになった。今回も理事長に入ってもらったが、結構激しく抵抗して、「転倒骨折して寝たきりになったら責任とるのか」と反発していた。それでもその翌日の朝は薬を飲んでくれたのでホッとした。ところが、部屋に隠した薬はなかなか出してくれなかった。「手持ちの薬がなくなる」と戦々恐々としていたら、なくなった日に隠してあった薬を出してきてくれたので、また一息つくことができた。
ところがまた新たにもらってきた薬を部屋に隠して飲まなくなり振り出しに戻った。息子さんが1時間も激しいやりとりをして何とか返してもらったのだが、飲まない日が続いて閉口していた。なんとか打開したいと、ご家族、本人、施設長、理事等、スタッフで会議を持ったが、本人はしらばっくれて会議をすっぽかした。息子さんと激しいやりとりの後から、ここを出ていくとも言い始めた。そこで施設長とケアハウススの見学に出かけ、随分気に入っていたという。しかし7人待ちというのであきらめたのだが、そのあきらめ方はあっさりしたものだった。
服薬ができないと入院になるので今も総力戦での攻防が続いている。当初は、なんてわがままなんだろうとか、勝手なことばかりしてとあきれたり、怒ったりしていたのだが、よく考えると、より子さんの心の傷が原因になっているのではないかと気がつきはじめた。子ども達が自立して離れていき、ダンナさんと死に別れた寂しさもあるに違いない。理不尽な運命に対する怒りは行き場がなく、反発やひねくれとして、ガンや薬拒否が出てきたのではないだろうか。自分自身をふり返ってみるとよくわかる。わがままで自分勝手だ。そのことが他人にばれないよう常識的に振る舞っているが、時には抱えた傷や不安に耐えられなくなって、爆発するときがある。より子さんはどこか自分に似ているかもしれない。怒ったり、泣いたり、ひねくれたりして生きているのは一緒だ。私は自分で抱えて、内側に籠もり、ひとりになって他人を遮断する。怒りや、イライラを極力、他人には見せないように無理している。そうでないと嫌な自分がさらけ出されて誰にも相手にされなくなる。ところがより子さんはすごい。スタッフ全員を巻き込み、みんなを動揺させたりイラつかせたり心配させたり、怒りを引き出して生きている。それはある意味で見事な影響力で、善悪を越えて他人を惹きつける。私はそれができないでいる。それは私の弱さなのか度量のなさなのか、より子さんが羨ましくさえ感じる。
この9月、特養から異動した新卒社会人の米田さんは、より子さんとの関係はまだ遠いのだが、先日、夕食を作っている米田さんに、「おぼえてろよ。あんたみたいな小娘なんかに負けないんだからね!」といきなりより子さんが怒鳴りつけた。息子さんとの格闘のとき、たまたま側にいた米田さんへのとばっちりなのだが、挑戦状を新人に投げつけたより子さん。米田さんも現代っ子らしく私同様、怒りも含め全ての感情を内に隠して出さない。そんな新人に「それじゃダメよ。あんた出てきなさいよ」とより子さんは迫ったように思えた。またそうした言葉を怒りと共にぶつけることができた米田さんの存在に、より子さんも救われたのではないか。スタッフとチームをこれからより子さんがどう鍛えてくれるのか?期待している。
「ガンじゃないから大丈夫なの!」とスタッフが言うと「ガンじゃないと言われても私はガンなんだから!自分の体のことは分かる!みんなで口裏合わせしてるんでしょ!」とヒステリックに攻撃的になる。そのうち定期の検査日がやってきた。検査はどういう物語になってくるのだろうとスタッフで話していた。検査通院の当日「ガンだからしばらく入院になるので帰ってこないから」とひとりで入院の仕度をしている。大荷物を持って「それじゃあ行ってくるから」とどこか腹をくくって、意気揚々という感じで病院へ出かけて行った。
さてどうなるのかな?とみんなで帰りを待っていた。すると手のひらを返したように「胃の写真見せてもらったらなんともなかったー!よかった〜こんな荷物持ってってな〜」とちょっと恥ずかしそうに帰ってきた。「やっぱりガンじゃなかったでしょ!?」とスタッフも笑って迎えた。なんとかこれでより子さんの「気持ちのガン」は乗り越えたと思って一安心した。
ところがその日の夕方のことだった。「私の薬に変なのが入ってるから足元がフラつくようになった」とより子さんが騒ぎ出した。そして、朝、昼、夜と処方されている薬を飲まないと言う。ガン騒動も大変だったが、服薬拒否もなかなかきびしい。それからスタッフとより子さんの薬を飲む飲まないのバトルが始まった。スタッフとしては処方されている薬はキチンと飲んでもらわないと困る。ましてや心臓病の治療薬も入っているので、致命的だ。なんとか飲んでもらおうと説得するスタッフにより子さんは毒舌で攻撃してくる。「足元フラつくのにあんた達はそれでも薬飲めっていうの!?倒れて骨折したら寝たきりになるんだよ。寝たきりにさせたいのか」と大声で怒る。「ふらつくんだったら、それを病院に行ってお医者さんに相談してからじゃないと、勝手に止めるのはよくない」とスタッフも必死に正論で責める。ところがより子さんは「怪しいからもう病院にも行かない」と居室に籠もってしまって出てこなくなった。スタッフは心臓病の薬だけでも飲んでとお願いするがより子さんは頑としてきかない。
あの手この手で説得を試みるが全く聞いてくれなかった。息子さんも来てもらって何度も説得してもらったが、激しい言い合いになって、頑なになるだけで飲んではくれなかった。さらに、なんとか病院に行ったと思ったら、処方された薬を自分の部屋に持ち込んで隠してしまった。なんとか薬を返してもらわないと、一度に飲んだりすることも考えられるので困り果ててしまった。
以前、より子さんは部屋で自分で薬を飲むので、実際に飲んだかどうか確認できなかった。理事長が直接やんわりと世間話をして、リビングでスタッフの居るところで飲んでほしいと頼んだ。その時は「そうだね責任があるんだもんね」と聞いてくれて、スタッフの前で飲んでくれるようになった。今回も理事長に入ってもらったが、結構激しく抵抗して、「転倒骨折して寝たきりになったら責任とるのか」と反発していた。それでもその翌日の朝は薬を飲んでくれたのでホッとした。ところが、部屋に隠した薬はなかなか出してくれなかった。「手持ちの薬がなくなる」と戦々恐々としていたら、なくなった日に隠してあった薬を出してきてくれたので、また一息つくことができた。
ところがまた新たにもらってきた薬を部屋に隠して飲まなくなり振り出しに戻った。息子さんが1時間も激しいやりとりをして何とか返してもらったのだが、飲まない日が続いて閉口していた。なんとか打開したいと、ご家族、本人、施設長、理事等、スタッフで会議を持ったが、本人はしらばっくれて会議をすっぽかした。息子さんと激しいやりとりの後から、ここを出ていくとも言い始めた。そこで施設長とケアハウススの見学に出かけ、随分気に入っていたという。しかし7人待ちというのであきらめたのだが、そのあきらめ方はあっさりしたものだった。
服薬ができないと入院になるので今も総力戦での攻防が続いている。当初は、なんてわがままなんだろうとか、勝手なことばかりしてとあきれたり、怒ったりしていたのだが、よく考えると、より子さんの心の傷が原因になっているのではないかと気がつきはじめた。子ども達が自立して離れていき、ダンナさんと死に別れた寂しさもあるに違いない。理不尽な運命に対する怒りは行き場がなく、反発やひねくれとして、ガンや薬拒否が出てきたのではないだろうか。自分自身をふり返ってみるとよくわかる。わがままで自分勝手だ。そのことが他人にばれないよう常識的に振る舞っているが、時には抱えた傷や不安に耐えられなくなって、爆発するときがある。より子さんはどこか自分に似ているかもしれない。怒ったり、泣いたり、ひねくれたりして生きているのは一緒だ。私は自分で抱えて、内側に籠もり、ひとりになって他人を遮断する。怒りや、イライラを極力、他人には見せないように無理している。そうでないと嫌な自分がさらけ出されて誰にも相手にされなくなる。ところがより子さんはすごい。スタッフ全員を巻き込み、みんなを動揺させたりイラつかせたり心配させたり、怒りを引き出して生きている。それはある意味で見事な影響力で、善悪を越えて他人を惹きつける。私はそれができないでいる。それは私の弱さなのか度量のなさなのか、より子さんが羨ましくさえ感じる。
この9月、特養から異動した新卒社会人の米田さんは、より子さんとの関係はまだ遠いのだが、先日、夕食を作っている米田さんに、「おぼえてろよ。あんたみたいな小娘なんかに負けないんだからね!」といきなりより子さんが怒鳴りつけた。息子さんとの格闘のとき、たまたま側にいた米田さんへのとばっちりなのだが、挑戦状を新人に投げつけたより子さん。米田さんも現代っ子らしく私同様、怒りも含め全ての感情を内に隠して出さない。そんな新人に「それじゃダメよ。あんた出てきなさいよ」とより子さんは迫ったように思えた。またそうした言葉を怒りと共にぶつけることができた米田さんの存在に、より子さんも救われたのではないか。スタッフとチームをこれからより子さんがどう鍛えてくれるのか?期待している。
ライブを経て ★特別養護老人ホーム 佐々木広周【2013年10月号】
運営推進会議のライブを木間さんと川戸道さんでやってみてはと、理事長から言われて練習を始めたらしい。ところがヴォーカルとドラムだけではなかなか難しいと言うことで、私にピアノで参加するよう頼まれた。二人はジャズをやろうとしていて、私も乗りたかったが、ためらいはあった。今まで“技術やリズム感が無い”とジャズを敬遠していたからだ。一方で、いつかはやってみたいという願望はあった。この機会に不安はあったが思い切ってやってみることにした。
木間さんが持ってきたCDはやはり難しそうだった。楽譜が無く、ベースも不在の中で、決まったのは6曲。“ 1ヶ月で6曲!? 無茶だ”と思う反面、新たな挑戦にワクワクする自分もいた。
まず、耳コピから始めなければならなかった。選曲したCDを聴き、それ以外の音楽は聴かなかった。曲が頭の中に入ると実際に弾いてみて、1フレーズごとに確認していった。やはり難しかった。ジャズの基本のリズムは3連符だが、楽譜をそのまま弾いたのではジャズ感が出ない。3連符を更に細分化した音符と音符の絶妙な“間”、それが難しくて苦労した。技術がないのは繰り返せば練習でなんとかなるとしても、自分らしさを出すにはほど遠かった。
ライブの日程は決まっており練習の時間も限られたなかでの試練となった。焦る気持ちもあったが、どこか前向きに挑む感覚があって楽しんでいる自分もいたので驚いた。今まで、音の美しさや心地よさなどを理論に向けがちで、自分の感情を音楽に乗せるということがなかったと気がついた。3人で練習を繰り返すが、いつまでもバラバラでまとまらなかった。“なぜ出来ないのか、もっと良い音を出したい”と悔しかった。楽しい曲のはずなのに、自分の中から苦しみや痛みを伴ったドロドロとしたものが出てきて止まらなかった。繰り返しても、次第に澄んでいくわけではなく、いつまでも出てくる。今までの自分を葬る鎮魂歌のようにさえ聴こえて来る。それでも逃げようとか嫌だとは感じなかった。どこかでその辛さを越えて挑戦しようとする私がいて楽しかった。
9月30日、ライブの日。私は演奏の失敗は怖れていなかったが、自分のドロドロをさらけ出すのが怖かった。こんな未熟なまま聴いてもらうのが申し訳ないくらいだった。演奏は3人の息もあわずバラバラだった。けれども、観客の後押しを感じた。これが“ライブか!”とライブの楽しさを味わえた。
その夜、ユニット「こと」を通ると、入居者のトヨミさん(仮名)に声をかけられた。トヨミさんは音楽が好きでライブの度に「良がったよ〜」と褒めてくれる。ところが今回は「ちょっと、こっち来て」と居室に誘われた。初めてのことだった。何事かと驚いていると「寝る前に着替えしたくて」と頼まれた。私は隣のユニットのスタッフなのでトヨミさんの着替えをしたことはないので戸惑った。でもわざわざの御指名なので着替えを手伝っていると、トヨミさんが言った。「おめさん、ピアノ弾く人だべ?」“そうだよ”と返すと「今日、弾いてたっけもんねぇ?」「ふふ、今日のピアノとっても良がったよ♪」ニカッと笑ってそう言った。一方的な演奏だったと思っていたが、トヨミさんは受け止めてくれてたんだと嬉しくなった。あの苦しかった練習をトヨミさんはどこかで解ってくれてわざわざ声をかけてくれたんだと感じた。人は、見えないところで通じることができるのだと言うことを教えられた。
木間さんが持ってきたCDはやはり難しそうだった。楽譜が無く、ベースも不在の中で、決まったのは6曲。“ 1ヶ月で6曲!? 無茶だ”と思う反面、新たな挑戦にワクワクする自分もいた。
まず、耳コピから始めなければならなかった。選曲したCDを聴き、それ以外の音楽は聴かなかった。曲が頭の中に入ると実際に弾いてみて、1フレーズごとに確認していった。やはり難しかった。ジャズの基本のリズムは3連符だが、楽譜をそのまま弾いたのではジャズ感が出ない。3連符を更に細分化した音符と音符の絶妙な“間”、それが難しくて苦労した。技術がないのは繰り返せば練習でなんとかなるとしても、自分らしさを出すにはほど遠かった。
ライブの日程は決まっており練習の時間も限られたなかでの試練となった。焦る気持ちもあったが、どこか前向きに挑む感覚があって楽しんでいる自分もいたので驚いた。今まで、音の美しさや心地よさなどを理論に向けがちで、自分の感情を音楽に乗せるということがなかったと気がついた。3人で練習を繰り返すが、いつまでもバラバラでまとまらなかった。“なぜ出来ないのか、もっと良い音を出したい”と悔しかった。楽しい曲のはずなのに、自分の中から苦しみや痛みを伴ったドロドロとしたものが出てきて止まらなかった。繰り返しても、次第に澄んでいくわけではなく、いつまでも出てくる。今までの自分を葬る鎮魂歌のようにさえ聴こえて来る。それでも逃げようとか嫌だとは感じなかった。どこかでその辛さを越えて挑戦しようとする私がいて楽しかった。
9月30日、ライブの日。私は演奏の失敗は怖れていなかったが、自分のドロドロをさらけ出すのが怖かった。こんな未熟なまま聴いてもらうのが申し訳ないくらいだった。演奏は3人の息もあわずバラバラだった。けれども、観客の後押しを感じた。これが“ライブか!”とライブの楽しさを味わえた。
その夜、ユニット「こと」を通ると、入居者のトヨミさん(仮名)に声をかけられた。トヨミさんは音楽が好きでライブの度に「良がったよ〜」と褒めてくれる。ところが今回は「ちょっと、こっち来て」と居室に誘われた。初めてのことだった。何事かと驚いていると「寝る前に着替えしたくて」と頼まれた。私は隣のユニットのスタッフなのでトヨミさんの着替えをしたことはないので戸惑った。でもわざわざの御指名なので着替えを手伝っていると、トヨミさんが言った。「おめさん、ピアノ弾く人だべ?」“そうだよ”と返すと「今日、弾いてたっけもんねぇ?」「ふふ、今日のピアノとっても良がったよ♪」ニカッと笑ってそう言った。一方的な演奏だったと思っていたが、トヨミさんは受け止めてくれてたんだと嬉しくなった。あの苦しかった練習をトヨミさんはどこかで解ってくれてわざわざ声をかけてくれたんだと感じた。人は、見えないところで通じることができるのだと言うことを教えられた。
花巻まつり’2013 ★ワークステージ 村上幸太郎【2013年10月号】
★9月13〜15日の日程で開催された花巻まつりに、村上君ら惣菜班は販売員として参加しました。出店した屋台では、恒例のギョウザ・シューマイの他、生ビールや缶酎ハイ、リンゴジュースを販売しました。最終日はあいにくの雨模様でしたが、惣菜班のメンバーの活躍もあり、多くのお客様に購入いただきました!
たくさんの家 ★ワークステージ 昌子さん(仮名)【2013年10月号】
★現在、映画館で公開されているジブリ映画最新作「風立ちぬ」を観た昌子さんは、その映画の中で一番印象に残った、空からたくさんの家が立ち並ぶ風景を、昌子さんらしい、とてもカラフルな様子で表現しました。
こんなにステキな家並みを、空から眺めてみたいですね。
こんなにステキな家並みを、空から眺めてみたいですね。