2013年07月15日

願い事一つ ★佐藤万里栄【2013年7月号】

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デイサービスの男社会 ★デイサービス 太田代宏子【2013年7月号】

 デイサービスを利用してこられた政志さん(仮名)が、他施設のグループホームへ入所が決まったので、利用最終日の今日、政志さんへの感謝の気持ちを込めて「ありがとうの会」を開くことにした。午前中から豪華なおやつをつくり、思い出の写真をそえたカードを作ったりして準備した。会場をセッティングし、特別な日のテーブルクロスをかけ、みんなが集まった。
 ところが主役の政志さんは、いつものごとく座ってくれる状況ではなく、落ち着かない様子で歩いていた。とても上座に座ってもらえる感じはなく、帰りたいのか、どこかに出かけたいのか、玄関と送迎車の間を行き来していた。
 ある程度そういうことも予想はしていたので、会は開かず、全体ではいつものようにみんなでおやつを食べて、カードは個人的に政志さんに手渡した。
 さて夕方帰る準備を始めると、健司さん(仮名)が手招きで私を呼んだ。学校の先生だった健司さんに呼ばれると、いつも少し緊張する。雰囲気からも、何か言われそうだなと覚悟して隣に座った。すると「どういうことなのですか?」と、普段よりさらに改まった口調で切りだしてきた。大工の棟梁だった隣の隆治さん(仮名)も「会がしまらない」と一言突いてきた。どうやら二人は、開かれるはずの「ありがとうの会」が開かれなかったことと、主賓の挨拶がないことに気持ちが収まらず、私に説明を求めてきているようだった。
 私は会を開けなかったことについて、「政志さんは今、それどころではないようです」と、行かなければいけないところへ向かっている政志さんの状況を説明するつもりで伝えた。すると「どう思う?」と私に返してきた。「会が開けなかったことについては、本当に残念でした」と私が言うと、「残念じゃ、すまされないんだ。あの男に仁義はないのか?」と隆治さん。さらに「こういうことになった経緯を、みんなの前で謝罪するべきだ!」と言ってくる。自分の説明不足が招いた状況なので「すみませんでした」と謝るが、「おめぇさんに謝られだって」と、あくまでも政志さんが謝るべきだという感じの隆治さん。健司さんはそれを横で見ながら「どうする?」と少しニヤリとした表情をしていた。
 私はこのとき、気持ちが収まらないのは隆治さんで、健司さんはそれに付き合っているのだとわかった。「会は残念だったですが、政志さんがここに来るのは最後なので、いい思い出にしてください」と持ちかけた。「覚えていたくないね」と、意地悪を言いながらも収めてくれる隆治さんだった。健司さんはその時は、もうニコニコと笑っていた。

 デイサービスではこんな感じで、計画通りにはいかないことはよく起こる。それに戸惑うのは、これまではスタッフだったのだが、利用者さんの方から「どうなってるんだ」と声をかけられ、新鮮な感じもあった。最近、男性の利用者さんが増え、以前とはひと味違う感じが出てきている。男社会で生きてきた人たちの「四角いものは、四角く!」というような固さと、仲間を思い合う熱い気持ちや男同志の絆を感じさせられる。認知症の人たちとずっと過ごしてきた銀河の里のデイサービスは、普段から型にはまらずふにゃふにゃで、スタッフもそんな感じの人ばかりで、締まらないといえば全くしまらない。でもその一方で、どこか安らげ、心地よい雰囲気が特徴であり自慢でもある。そこに男社会の固さが入ってくると、私もピリリと緊張させられる。しかし、そうした固い男性諸君も、ふにゃふにゃな感じは味わっているうちにどこか心地よくなるようで、最初は緊張して固くなっていても、帰る頃にはすっかり馴染んでいるので、こちらが驚いたりすることもよくある。「どうなってるんだ」「ちゃんとやれ」といいながら、そのうちみんなでふにゃふにゃになって、いいかげんな雰囲気に漂っていられるようになると、その人らしさも全開になって面白くなってくる。
 しかし柔らかさに漂いながら、その場を「ちゃんと守れる」という高度な能力やセンスが必要とされていると感じる。頼りなくて、いつも心配をかけている私だが、先生や棟梁といった、たくさんの大先輩たちに見守られながら、固さを壊しても大丈夫な守りの力を、個人としてもデイとしても培っていきたいと思った。
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驚きの栄養学! ★厨房 小野寺祥【2013年7月号】

 私は特養の開設時に新卒で銀河の里に就職し、特養とともに4年の日々を重ねてきた。一つ先輩の畑中さんと二人で、厨房を担い、経験はないものの理想のイメージを実現しようと挑戦してきた。
 特養の食事形態は普通食、一口大、極刻み、ソフト食と大きく分けて4種類ある。その他、銀河の里では、血糖値や体重が気になる人向けに考案した「ダイコンご飯」がある。大根飯というと貧しいイメージだが、刻んだ大根を湯がいて、炊き上がったご飯と混ぜた「ダイコンご飯」は、大根の甘みとご飯がよく合いなかなかおいしい。
 料理を作って出せば終わりではなく、厨房スタッフは一緒に食事をし、食事介助もする。食べる人の生の声をダイレクトに聞けるだけでなく、言葉にならない体調や様子を感じることも食事を作る上で重要だ。そこから個々に合わせた「あなたのための食事」を目指してきた。厨房で出来上がったものを並べるだけではなく、一緒に作ったり、野菜を切る音や、ナベが煮えて香りが漂ってくるのがとても大事なことで、それで食欲はかなり違ってくる。一緒に料理を作ると「昔はこったなものなかったんだよぉ」と語りが出てくる。またベランダで天気がいい日にテーブルを出して、気持ちいい空気を感じながらの食事もまた違う。話も弾み、普段は箸が進まないのに食べられたりして、驚きと発見がある。
 歯がない利用者さんや、嚥下機能の低下、誤嚥性肺炎の危険などがある利用者さんはソフト食になる。ソフト食作りにはかなり力を入れてきたがこれはかなり難しい。利用者さん自身もない歯が歯痒いに違いない。ユキさん(仮名)は「こったなヌタヌタづいの食わせて!!みんなには来てるのに、おらにはバナナのひとっつも来ない!!」と怒り散らす。なぜか普通食の人より、ソフト食の方のほうが意気軒昂で元気だったりする。普段ソフト食対応の人が、せんべいをかじっていたり、出かけたデパートのにぎり寿司はむせることもなく食べたりすることもよくあり、常識を覆される驚きに満ちている。

【マルカンパワー?マグロ尽くしのお寿司】
 前述のユキさん。みんなと一緒がいいと言いながら、本当は自分だけ特別が大好きだ。食事は絶対デザートから食べる。緑の野菜や、ひじきなど黒いものは嫌いでオレンジ色や赤色のものが好き。口の中にソフト食を詰め込んでよくむせて「気持ち悪い。もう食わね」となることも多い。お風呂上がりに大好きなオロナミンCもトロミをつけるので「これ違う」となる。そりゃそうだ。瓶をくわえてシュワッと炭酸のきいたところをグイッと飲むのがおいしいのに、トロミを付けるとそりゃ違う。ユキさんに限らず、みんな花巻のマルカンデパートの大食堂が好きだ。入り口にはガラスケースに入った料理のディスプレイが並び、全体が昭和にタイムスリップしたような雰囲気だ。和洋中なんでもある。そこでユキさんは「まぐろ尽くし寿司」をむせもせずぺロッと食べてしまった。「なんで普段ソフトなの?」とマルカンマジックがある。
 普段はソフト食で歯もほとんどないのに、とれたて胡瓜はぼりぼり食べる繁樹さん(仮名)・・・。ソフト食でさえ食べないのに、一緒に作ったみそぱんは、スタッフのむせ込みの心配をよそに、ペロッと食べてしまう人など。刻み、一口大、ソフト等という形態は、条件のほんの一部でしかないことを思い知らされる。

【好きなものを好きな人達と】
 この4年、特養のショートを利用されている透さん(仮名)は下半身不随でベッドの上で過ごしている。食の進まない透さんに「この人うちの料理人、好きなものなんでも作ってくれるよ」とスタッフが私を紹介してくれた。透さんは「うどんとか中華そばとか、麺が好きなんだ」と話してくれた。私は翌日中華そばを作って出した。「ほんとに作ってくれたんだな」とぱっちり目で驚いてくれた。「おめ、どこの人?年はなんぼになるの?」と会話もはずみ、中華そばを全部食べてくれた。それからショートに来る度に、好きなものを作って食べてもらおうと私は張り切った。最近は以前に比べても食が進まず、脱水症状もあり、ショート利用のために点滴をしてくるほどで、食も細くなった。
 今回のショート利用にあたりユニットスタッフと「おいしいものをちょっとだけでもいいから、一緒に食べたい」と話し合った。「透さんとお寿司食べたい!」との声も出た。一人で食べるよりも楽しくみんなと食べた方が食がすすむ。利用初日は食事が進まず、言葉数も少なかった透さんだったが、中華そば、鍋焼きうどん、天ぷら、お寿司・・・と好きなメニューを並べていった。日につれて食事も少しずつ進むようになり、一緒に食べるスタッフとも会話が弾むようになった。ショート4日目、出勤して朝一番に会いに行くと、ベットから手を出して「おはよう。今日はなんだべか。たのしみだぁ!」と顔色も声のはりも全然違ってきた!!4日前は「手、動かせなくなった」と言っていたのに、帰る日の昼食は食事の最中ずっと自分で茶碗を持って食べてくれた。「昨日はお寿司食べれたし、ビールも飲めたし・・・幸せだったぁ」といいながら全部平らげてくれた!!そして帰るとき「おめには一番世話になった。ありがとうな」と言ってくれた。

 料理には想いを込められる。厨房スタッフ、ユニットスタッフのそれぞれの想いがのせられた料理がひとりひとりの前に届く。やはり料理も作業ではないのだと思う。高齢者はなかなか食事が進まないことも多い。だからこそ関係の中で想いを込めることがとても大事になってくる。それは一緒に生活する中での関係からしか見いだせない事だと思う。ただ献立通りに作って出すだけでは発見もなく感動も生まれてこない。ソフト食だからソフトでは絶対ない。ソフト食のはずなのになんで!という驚きが面白い。これからの栄養士は人間の関係や雰囲気なども、重要な要素として取り入れ、研究していかなければならないと体験的に思う。
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文化研修に参加して ★特別養護老人ホーム 齋藤隆英【2013年7月号】

 銀河の里に就職して初めて宿泊の研修に参加した。私以外の参加者は新人のスタッフで、出発前にとても緊張した。研修前日「新人職員の事をよろしくお願いします」と、同僚の菜摘さんに言われ気が引き締まった。
 初日は宮城県白石町まで車で走ったのだが、新人スタッフ3人はとりわけおとなしい女性で、普段話す機会が無かったこともあってか、なかなか話が弾まなかった。会場の碧水園能楽堂は、日本庭園がみごとで心が落ち着く景色が広がっていた。枯山水や茶室もありとても風流なところだった。和服姿のお客さんも多く普段の生活や街では見かけない雰囲気に包まれていた。銀河の里にきて、歌舞伎、文楽を鑑賞する機会はあったのだが、能楽堂は初めてだった。
 今回の研修は、ここで上演される能の鑑賞がメインに組まれていた。「見どころ解説」の小島英明さんの話はとても解り易く、能を見るのが初めての私にもすんなりと入り込めた。登場人物も平清経、平知章、源義経、武蔵坊弁慶と東北にも縁のある人物で興味深かった。仕舞の「清経」、「知章」は少々難しかったが、狂言の「寝音曲」は太郎冠者と主人の掛け合いが、とてもおかしくて、会場が笑いで湧いた。太郎冠者を演じた石田幸雄さんの謡いには演者の力量を感じて素人ながら感動した。そしてメインの能「船弁慶」は小島英明さんが静御前と平知盛の亡霊という二役を演じる構成になっており、どちらも能面を着けている。別れの舞いでは悲しい表情を見せ、襲いかかる亡霊が現れると、怒り、狂いの表情が見て取れた。体の動き、語りによって、こちらに表情を豊かに想像させた。「能面のような」という表現は、感情を表さないという意味だが、役者がかけた能面は極限まで抑制された動きのなかで、すさまじい迫力でイメージを喚起させることに驚いた。大海原の船上での戦いという設定なのだが、船頭と平知盛の亡霊の掛け合いはとてもテンポ良く迫力があった。CGの映画のような表面的に激しく責め立てる鮮明な映像などとは全く違った迫力があって、私には新鮮に感じられた。個人的に日本の伝統芸能の中では、「能」が一番相性が合っているようで興味が持てた。
 研修2日目は山形の山寺、後藤美術館、芭蕉記念館、出羽桜美術館とその分館の斎藤真一心の美術館と盛り沢山の観光だった。山寺は2年前、前職を辞めて求職中に、母、叔母、祖母と訪れたことがあった。自分にあったいい仕事が見つかるようにと祈りをしたのだった。今こうして銀河の里の研修で、また山寺に来られたことは、何か感慨深く繋ったような気持ちで、足取りも軽く山頂の五大堂に着いた。新人達は若いのに運動不足なのか、息を切らしていたが、私の気持ちは実に晴れやかだった。頂上で見える周辺の景色は最高だった。下山したあとはみんな晴々しい表情になっていた。
 そして山寺の近くにある芭蕉記念館では、山寺に登った後だからか自然に芭蕉の気持ちに近付けたような感覚で作品を鑑賞した。

 後藤美術館では、ヨーロッパ絵画、花瓶などの陶器が展示してあった。入館して私が見入ったのは「難破船」、「波」という作品だった。どちらも海が荒れて水しぶきに洗われる感じがユニット利用者の陽子さん(仮名)を思い起こさせられた。陽子さんとはよく言い争いになる。陽子さんは気が強く、スタッフ、利用者となにかとぶつかる。陽子さんは情が深くその分、余計なことや強く言わなければならなくなるようだ。そして、悩み込むとなかなか眠れず、体調を崩てしまう程の繊細さもある。出勤し、廊下を歩いていると、奥のオリオンのほうから陽子さんの元気な声が聞こえてくる。心の中で「陽子さん、今日も元気だな!」と、少し嬉しくなる。そんな陽子さんを思い出しながら、お土産に、この絵の絵はがきを数枚購入した。陽子さんはこの絵を見てなにを感じるだろうと想いながら。
 他には、有名なブランドのティファニーの創設者、チャールズ・ルイス・ティファニーの息子で、ルイス・カムフォート・ティファニーがデザインしたステンドグラスや、モザイク加工のガラスランプ、花瓶なども多く展示されていて、まさにきらびやかだった。
 そして、なんと言っても今回、脳裏に焼き付いて離れないのが、斎藤真一の作品だった。出羽桜美術館別館に入館して真っ先に目に飛び込んできたのが、「紅い陽の雪原−越後瞽女 冬の旅」という作品だった。そして、その「赫」の色には、やられてしまう。斎藤真一は「瞽女」シリーズで盲目の女性旅芸人に魅了され40代から描き始めたという。その後、吉原の女性を描いたというのだが、辛い生活の中で、切なく、悲しげでありながら、力強さもある「女性」を描くというコンセプトにも心を動かされるものがあった。私は数年前映画「吉原炎上」をみてとても衝撃を受けたのだが、斎藤真一がその原作『紙草紙 吉原炎上』という作品を書いた事を知り驚いた。昨年、施設長があまのがわ通信で、斎藤真一の記事を書いていたのを思い出したが、作品をみて私にもリアリティが湧いてきた。あまりに斎藤真一が衝撃的で、向かいの本館の展示はあまり記憶に残っていない程だった。帰宅して、山寺に登って疲れたのか食事も摂らずに布団に入ったのだが、斎藤真一の絵がまぶたの奥に残っていて目が覚めてしまい、飛び起きてインターネットで情報を調べ漁ってしまった。
 今回の研修では、いくらか自分をふり返る事ができたと同時に、世界が広がり新たな道に繋がるような感覚を発見できたように感じる。それらを現場でどう活かせるか模索していきたい。
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利用者サチさんと出会って ★特別養護老人ホーム 小田島泰子【2013年7月号】

 私は2年前、介護職として銀河の里に就職した。ユニットでサチさん(仮名)と初めて会った時、とても衝撃的だった。ひとりでテーブルに座り、手掴みでモクモクと昼食を食べている。スタッフが声をかけると、ペッペと唾を吐きかけ、近寄るなと言わんばかりに睨む。介護の職場が初めての私は、怖くて声もかける事が出来なかった。
 しかしそんなことは言っていられない。サチさんとの入浴がやってきた。ドキドキの私。そんな私を見通してか腕を組んだまま、服すら脱いでくれそうもない。オロオロしていると手が飛んでくる、足が飛んでくる…私もイライラして「こんなばあさん嫌いだ」と思った。それでも必死の思いでどうにか入浴を終えホッとしていた私に、サチさんはアッカンベーと思い切り舌を出した。「やられた」と思った。私はサチさんにスタッフとして認めてほしいと強く思った。そこで、とにかく挨拶だけはちゃんとしようと「おはようございます」と出勤すると一番に声をかけるようにした。それからいくらかサチさんは私を見てくれるようになったと感じた。
 私がサチさんを意識しているのを見ていてくれたのか、ユニットリーダーから「サチさんの担当にならない?」と言われた。やってみたい気持ちと不安な気持ちで揺れて、すぐには返事が出来なかったが「まずやってみようよ」の言葉に、私は「はい」と答えた。サチさんは「神さま」と言われていたが、私にはなぜ「神さま」なのか分からないでいた。半年が過ぎたころ、私は夜勤専門の勤務になった。同時にサチさんの担当も離れた。当初は何とも思わなかったのだが、サチさんと一緒に過ごす時間も少なくなり、なんだか心にポカンと穴が開いてしまったようになった。それならば夜勤を終えてからサチさんと過ごそうと思い、サチさんが起きてくるのを待って朝食を一緒に食べ、サチさんとの時間を自分で作った。ところが、この頃からサチさんは、自分で食べることもなくなり、食事の介助が必要になった。唾を吐きかけることもなくなり、手が出ることも減った。たまに手が出れば「元気なんだな」と嬉しく思うくらいだった。
私はこのころになって、まるで心の中を読まれているかのような言葉をくれるサチさんに気がついた。まさしく「神」だった。そんな私とサチさんを見ていてくれたスタッフが「またサチさんの担当に戻りませんか?」と言ってくれた。夜勤者でいいのかと思ったが、私はすぐにやりたいと思った。自分なりにサチさんと深めていこうと思って嬉しかった。ところが今度は、日に日に私のなかに独占欲という厄介な感情が出てきた。他のスタッフがサチさんと一緒に過ごしているのを見て、嫌な感じになってしまう。そうなると私は、サチさんを見られなくなった。他のスタッフとの関係も見られなければ、担当を受け持てる訳がない。苦しんだが、サチさんの担当を降り「遠くから見守ろう」、「ちょっと距離をあけよう」と思った。
 そう決めた夜の出来事だった。声をかけると、サチさんはボロボロと涙を流していた。驚きながらも、私は何も言わずにサチさんの手を握っていた。サチさんは「オメに迷惑かけたな、こったなオレだから辛かったべ、苦しかったべ、ごめんな、ごめんな」と語り続けた。私は人前で泣くとか感情を表に出すのが苦手で意地が強かった。そうしなきゃ生きていかれないような生い立ちがある。そんな私の固い心が音を立てて崩れていくようだった。自然に涙が溢れて、サチさんと二人でいっぱい泣いた。一人でこの夜の出来事を背負っているのは辛くて、理事長に面談をしてもらった。話していても泣きそうになる。私の心は、サチさんにこんなに動かされる。話し終えると理事長が「日勤で、サチさんと過ごしたらどうだ」と言う。私はその言葉に救われるような気持だった。サチさんと居てもいいんだ。一緒に過ごせるんだと素直に受け止められた。何をしたい、何を見にいきたい、ではなくただ隣にいたい。サチさんとの出会いで私は感情を取り戻せた。もしこの出会いがなかったら私は、感情を押し殺したまま意地を張り続けて生きていくしかなかったと思う。泣く事も、本当の意味で誰かに触れることも出来ないままだったような気がする。 
 私は今、サチさんと生きている。同じものを食べ、同じ場所の空気を吸っている。今ではほとんど眠ってばかりのサチさんだが、そこにいてくれるだけでいい。私は99歳のサチさんと共に生きていることを実感していきたい。
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「母のように」 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2013年7月号】

 コラさん(仮名)は一日のほとんどを居室で過ごす。以前はグループホームに居たが、血栓による右足の切断を機に特養へ移った。グループホーム時代からコラさんの生活スペースはほぼ居室がメイン。時々リビングに出て歌を歌ったり、スタッフと話っこをしながら過ごす。白内障で本人曰く“目が見えない不安”から、毎日のように下着や衣類の枚数をスタッフに数えさせたり、ご飯は一口サイズのおにぎりしか食べない等、コラさん流のこだわりがたくさんあった。だが特養ユニットに来て4年目になってそのこだわりが消えてきた。
コラさんは一日中ラジオを聞いているので政治面や時事のニュースにめっぽう強い。気性も激しく、自称(他称)“ぐずめく藤田コラ”には理不尽に責められたりひねられたりしてきた・・・「コラさんのことが心配なんだよ」と言っても「そうやって!みんな藤田コラのことが嫌いなんだ」とか、本当は甘えたいのに素直になれなれず、ひねってねじってくるコラさんがいる。「こういう風に歳をとると変にひねくれてしまって、わがねなぁ」と自分でも言う。世の中の酸いも甘いも経験してきているであろうコラさん。壮絶な人生を生き抜いてきたことと、元々の性格とが相まってなかなか手強い。こちらも苦しくなってつい喧嘩になってしまったりする。でもそんな後には結構反省していたりする。飾らないざっくばらんな性格もあって、むしろぶつかることでコラさんと出会える。ただコラさんの言葉は鋭く痛いところをついてくる。
 5月の半ば「藤田はどこにいるの?」「ここはどこなの?」と、夢うつつのいつもとは違う変な様子で、どこか違う世界にいるような感じになった。その後、急に「息子が撃たれて苦しんでいる。うーうーって唸ってる。何したの?何か悪いことしたの?」と息子さんが心配でご飯どころではないという感じの日が続いた。自分がどこにいるのか、という自分の不安と、母として自分の息子のことを案じる気持ちとでグルグルして、食べることから離れてしまっているようだった。スタッフは、どうやったら食べてくれるだろうと真剣に悩んだ。
 そんなある日の夕食時、部屋に行くと「暗くなったね、電気消したのっか?」と言う。「日が暮れてきたんだよ。夕飯少し食べる?」と返すと「もう夕飯かぁ」と言う。「食べたくない」とは言わないので期待した。「風邪引いたかなぁ、のどが痛い」と言うので「喉ごしのいいものから」とゼリーを勧め、それからご飯もまずまず食べてくれた。貰っていた羊羹も食べてくれた。すると突然「お母さんみたいに傍さついてくれる人、あんたくらいなんだな」とコラさんが言った。最近、他の利用者さんとのやりとりもあり“母”や“母性”について自分の中で考えていたのでびっくりした。コラさんから“お母さん”という言葉が出るのも驚いた。
 「あんたいくつ?」「28」「あや〜めんけぇ〜!かわいい、かわいい!」今までのコラさんなら“かわいい”なんてスタッフには言わない(皮肉で言うことはあっても)。でもこの時はどこか違った。きっと“かわいい”も色んな意味が含まれているんだろうけど。“お母さんみたいに”と言ったあとに“かわいい”というのはなんだろうと思った。
 「みんな心が分かり合えていればいいなぁ。宮沢賢治さん信じると仏さん生まれるよ」と教えてくれる(今のコラさんにとっての絶対的存在は“賢治さん”で、ベットの横に賢治さんの写真を貼っている)。「だからコラさんも仏さんみたいなんだね」と言うと「そうなの」と頷く。自分の旦那さんが亡くなった時の話をしながら、「まだ死にたくねぇなぁ」と呟くコラさんの中で“生”と“死”が交錯している。でも「死にたくない」というのがコラさんの本音なんだろうなと思い、「力っこつけねばねえね」と言葉をかける。「うん・・・人間の力はね、ただの力でねよ?優しい力・・・優しい力が一番。具合悪いよーって言う時、大丈夫だっかー?って言うのがいいの」「んだよね、思ってくれる人がいればそれだけで力になるもんね」「んだよ、あーあ、俺もハァハァって苦しくなるのかなぁ・・・」「まずさ、優しい力と、食べてそこから貰う力とつけて、無理せずいきましょうよ」コラさんの欲しい力はそこなんだよなぁと感じながら、精一杯の気持ちを込めて言うと、「はぁ〜!あんたと話っこして生きた!」と微笑んだ。そして「ありがとう・・・あ〜りがっとう〜ありがっとう〜♫」と桃太郎のリズムで歌った。「人間の言葉はどこからくるかわがらね。色んな言葉あるから。言葉を信じよう、言葉しかないから」とコラさんは続ける。“言葉を信じる”って難しい。でも繋がるためには言葉も必要だったりする。コラさんは自分に言い聞かせながら言ってたのかもしれないと思った。
 重い言葉の連続に私も考えてしまい、ふと沈黙になった。すると「いだっか?」とコラさん。「居たよー」と返すと、フッと笑い「あんたに居たよーって言われると、とっても楽だ。安心する」と言うので、なんだか暖かい気持ちになる。「自分が面白くないことは人にはわかんないんだよなぁ」とコラさん。「人の痛みわかるって難しいなぁ。でもわかりたいなぁと思う」と私も言う。「若いから、人の痛みを信じていった方いいよ。こういう人もあるんだな、ああいう人もあるんだなって」「うん、そうする」・・・すると「ありがとう、あなたの言葉をありがとう」と言うので“あなたの言葉を”という言い回しに胸がいっぱいになった。
 これまでのコラさんからはあまり母を感じなかった。そのコラさんの“お母さんのように”との言葉が印象的だった。自分は何者で、どこへ行くのかとどこかで死を意識しているコラさんだからこその言葉なのかもしれない。優しくて、大きくて、安心出来る・・・母なるもののイメージは「死」に近いような気がする。生きてきたこれまでと、次なる世界への狭間にいるコラさんに必要なのは“母”なのかもしれない。
 人は誰しも“母なるもの”求める。誰かの中にある“母”や、自分の中に宿っているはずの母。でも、自分の中に宿すことも、誰かの“母”に出会うことも難しいことなのだと思う。私にとっても、“母”を育てていくのは一つのテーマなんだろうと思う。幸運なことに私は今銀河の里にいて、色んな“母”に出会う。“母”たちの存在に囲まれて私のなかの“母”も育っていけばいいと思う。
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我が家の『毎アル』 ★施設長 宮澤京子【2013年7月号】

 YouTube で20万人が見たと言われる人気の動画『毎日がアルツハイマー』は、昨春作品化され劇場でも上映された。関口祐加監督は、アルツハイマーの母親の介護のために、オーストラリアから日本に戻って一緒に暮らすことになり、その日々を日記風のドキュメンタリーとして描いた。認知症の世界を日常の葛藤と共に、「介護」という限定した枠にとらわれず、飾らないやり取りが微笑ましい。認知症に対すると言うより、人間に対する新たな視点を投げかける鋭さが秘められており、人気になったのもわかるような気がする。
最近、我が家にも『毎アル』がある。その鬼気迫るやり取りや、解けない謎かけの数々を貴重な思い出としても留めておきたいので書いてみた。

我が家の『毎アル』パートT
 我が家では、早起きの母(夫の実母)と夫の弟のヒロ君の親子ゲンカから一日が始まる。認知症と思われる義母の執拗な攻撃に、ヒロ君がパニックを起こすという壮絶な経過があり、最後は「もぉ−、もぉ−、やだ!」とヒロ君の地団駄と叫びで終る。
 義母は88歳(要介護度3)、ヒロ君は40歳(脳性麻痺と知的障害の重複)。
 二人は8年前、広島から長男(私の夫)の住む岩手にやってきた。母は5年前に頸椎性症脊椎症で突然動けなくなり、大きな手術をしたが、後遺症で四肢麻痺が残った。当初は寝たきり状態だったが、リハビリの効果もあり、現在は歩行器を使い、ヒロ君の助けを借りながら何とか日常生活を送っている。性格は、頑ななほど「きちん」としており、認知症によって性格が精鋭化してくると、本人も周りも「しんどい状況」に追い込まれる。「他人に迷惑をかけない」を信条に生きてきた人だけに、高齢や病の為とはいえ、誰かのお世話を受け入れるには、かなりの「捻れ」を必要とするようだ。

■正しいようだが、捻れている?
 ある朝も例のごとく喧噪の中で「そんなら、京子さん(私)に聞いたらええわ」とヒロ君が叫んだ。私が寝室のある2階から降りると、待ち構えたように義母が、歩行器のキコキコという耳障りな音と共に近づいてきた。(母)「具合が悪るうてのぉ」、私は歩行器のことかと思った。(私)「ひどい音だね」と、しゃがんで車輪を点検しようとすると、「具合悪いのは、歩行器の足じゃのうて、わしの足じゃ!」と大声が降ってきた。やばいとばかり話を身体に戻す。(母)「夕べから足が動かんようになってしもうた」(私)「はぁ、昨日からですか・・・(ホントは5年前だ)、「大変なことになりましたね」と私はワザとらしく同情を見せる。(母)「わしが思ぉちょるに、外の冷たい風がガラス窓を通してカーテンに移り、わしの左足をつめとう冷やして動けんようにしてしもた。だから左足だけが、動けん」(私)「はぁ、冷気がカーテンを通して左足に直撃ですかぁ・・・?」(母)「こんな身体になってしもうては、集会所(デイサービス)に行っても、皆さんに迷惑をかけるだけなので、辞めさせてもらいます」ときた。なるほど、集会所に行かない理由のためかと理解したので「お義母さんの言うとおり、行かない方がいいと思いますが、集会所の人がもうすぐ来るので、直接お話してみて下さい」と返した。「はぁはぁ、私がね」と頷きながら、足取り軽やかに戻っていった。(足が痛かったのでは・・・?)以前「集会所は、どんな人が来ても迷惑とは思いませんよ!」と言ったことがある。すると目を三角にして「集会所がどう思おうと関係ありゃせん、わしが迷惑かけたくないんじゃ」と怒鳴られた。(なるほど・・・)それから私が決定するような言葉は控えるようにした。母としては、自分も嫁(私)も集会所を「辞めたい・辞めさせたい」と思っているのに、集会所の職員に説得されたから「仕方なく行く」というストーリーがいいらしい。そのほうが、気が楽なのだろう。案の定、難しい講釈をたれながらも、手を引かれお迎えの車に乗り込み「行ってきます」と、元気に手を振ってくれる。

・ある日曜日の朝、一段と苦渋に満ちた表情で「腹が痛うて痛うて、薬をくれんかのぉ」とやって来た。義母は毎夕「早う殺ろうてくださぇ。何故こんな身体になっても生かしておくんでしょうか、むげぇことせずに、はよう殺おてくださぇ」と仏壇に向かって祈りのような呪いのような言葉を唱えている。ふすま越しに聞こえるその呪詛は、聞き慣れても、やっぱり気持ちのいいものではない。ヒロ君も「お母さんは、いっつも死にたい、死にたいばっかり言いよるが、薬くれ薬くれとも言よる」と首をかしげている。確かに義母は、主治医から出る毎食後の薬の他に、お腹が痛いと言っては「正露丸」・頭が痛いと言っては「バファリン」・足腰には「メンソレータム」と「サロンパス」、さらに「冷えピタ」と夏でも「ホッカイロ」は欠かせない。これらの常備薬は、ヒロ君がタクシーで毎週出かけて、大量購入してくる。

・この日は、すでに正露丸を飲んだらしい。(飲んだことはすぐに忘れるが、お腹が痛いのは忘れない?)そこで、さらに飲むと言い張るが、ヒロ君に「だめじゃ、もう飲んだ」と強く断られ、今度は私のところにやって来た。
 「ここで、ご飯をもろうて食べておるが、必ず腹が痛うなる。何でかいなぁ。ご飯の中に、何か入ってるんじゃなかろうか」(私がご飯に毒を入ているという物語ができている?)、カッとなって私は現実を突きつける。「8年間、同じご飯を食べているけど、だれもそんなことになってないでしょ。それにこの間の検診では完璧な検査結果で、先生も驚いていたじゃない」と言ってしまった。するとすかさず「痛いのはわしじゃ!医者にゃあわからん!」とばっさりやられた(確かに・・・)。義母は「意地悪せんで、薬を飲ませてください」と諦めない。仕方なく漢方の胃薬を渡すと、「これで様子見るわ」と、そそくさと部屋に戻った。そのうち昼の時間になった。毒の話があったからと言って昼ごはんを用意しないわけにもいかず、部屋に持って行くと、2人の姿が見えない。「あれっ?」と慌てて外にでると、庭先の柿の木の下で、なんと白ツエにすがりつきながら崩れ落ちる母と、側に立ちすくんでいるヒロ君の姿があった。慌てて駆けつけると「坂の上にある○○さんのところで、一口ご飯をもろうて来ようと家を出たものの・・・わしゃ力尽きてしもうた」と悔しそうな様子で語る。どういう世界を演出してるんだ・・・勘弁して下さいよと、(私)「ご飯用意したところだから・・・毒味も済ませてあるし、大丈夫食べてね」とヒロ君と二人で両脇を支えて部屋に戻った。昼ご飯を温め直して、食べてもらうと「ありがとうございました」と普段の義母に戻って、慇懃なほど深々と頭を下げて何度も礼を言うのだった。

・あれだけ「死にたい」と呪詛しながらも、ご飯の毒を警戒するのは何故なのか?私は問いを立ててみる。「生きたい」という思いが底にはあるのか。はたまた、私への優しさか。しかし、部屋ではヒロ君に「京子さんに薬をもろたけど、いっこと効きゃせんわ」と辛口トークが始まっている。義母にとって、嫁が毒入りご飯を作っているイメージがあった方が、世話になることへの心理的負担が軽くなるのかも知れない。

・モノ盗られ
 5年前にクリスマスでプレゼントした真っ白なダウンジャケットが「無い!」と大騒ぎしたことがある。内側の背に大きく名前を書いていたので、すぐに見つかるだろうと、あまり心配はしていなかった。ところが、深夜0時にリビングに歩行器を押した義母が突然入ってきた。「夜分にご無理を申しに参りました」(常套句でやって来たぞ)、今日はなんの話だ?と構える私。すると「京子さんに謝らんといけんことがあります。わしの育て方が悪るうて、タケちゃん(夫)がよそに女を作ってしもてのぉ、その女に白いジャンパーをやってしもうたんじゃ」「えっ?」と戸惑う私に「パンツと胴巻きものうなった」と、声を潜める。なんと、夫が浮気相手に、母親のパンツをプレゼントしたという筋書きだ。義母は着る物はもちろん、整理整頓をきちんとする人であるが、この話はちぐはぐ過ぎてフィクションにもならない。夫も「おかんの物は、やらんよ」と説明していたが、なんでそうした物語が必要になったのかわからない。しかし認知症の義母にとっては、事実よりリアルな“真実”がそこにあるのだろう。私が「何、馬鹿なこと言ってるの」と理屈で否定しても、目をつり上げて「わしゃ、正しい」と逆上するだろう。不思議なことに、何処を探してもダウンジャケットもパンツも見あたらない。

■義母とヒロ君の関係
 ふたりは実際に支え合って生きている。障害のある子を持った義母は、その運命を一人で抱え込むかのように全てを背負ってきた。人嫌いで社交を苦手とする義母が、生まれ育った広島から80歳になって、岩手に移り住むことを決意したのも、ヒロ君の行く末を案じてのことだ。岩手に着いたとき「わしゃ、これでもう、死んでもえぇ」と安堵しながら語る姿が印象に残っている。その時、義母の“母親”としての役目は終わったのかも知れない。その後は、障害を持ったヒロ君の自立のために、スパルタ訓練を始めた。洗濯や掃除、茶碗洗いなど厳しく躾ける日々になった。我が家は内も外もぴかぴかに掃除され、家の周りの草は一本もないほどになり、軒下の蜘蛛の巣も全くなくなった。そんな働き者の義母が夜間に廊下で倒れ、四肢が全く動かないまま大声で助けを求めた。人に世話になるくらいなら死んだ方がましだと常々言っていただけに、その後の生活では、どんなにか悔しい思いをしているだろう。認知症が現れるのもそうしたストレスが原因とも考えられる。半年入院したリハビリ病院は、缶詰工場の集団就職先になって「苦しい思いをさせられたのに、一銭も給金をもらわず、強制労働をさせられた」というイメージで語られることもあった。今は5年前に倒れたことも、手術を受けたことも記憶からは飛んでしまっている。この頃は「つかぬことをお聞きしますが、わしはどうしてこんな身体になったんでしょうか?」と、本当に困った顔をして聞きに来たりする。理不尽この上ない出来事に違いない。いくら病名や治療方法を伝え、後遺症で現在こうなっていると伝えてもやはり納得はいかないようだ。「罰があたったんじゃろか」とか「年だからのぉ、治らないんじゃ」と自問自答しているときもある。その答えが「ご飯に毒」となることもある。自分で作る物語でしか納得はいかないのだろう。
 ヒロ君にとっては、生まれてこのかた身の回り全てを看てくれた母を、今度は逆にお世話しなければならなくなったことや、ますます激しくなるスパルタ訓練が非常なストレスとなり、パニックを起こすことも多くなった。彼は母親の「介護」を通じて、今までの恩返しをしているとも見える毎日だが、傍目からみると切なすぎる場合もある。炎天下で草取りをしている二人に、家に入ってもらおうと声をかけにいくと、素早く裏玄関から部屋に戻ってベッドに潜り込み、「ずっとここにいました」という涼しげな顔で寝たふりをするのだ。日頃、「足が痛い、足が動かない」、「手がしびれる、指が曲がらない」等と訴えるのに、こういう時は、まるで素早い身のこなしで驚かされる。フィクションに出来ないチグハグな現実のドキュメントだ。

■長男と嫁
 ある日、歩行器なしでは歩けない母が、階段を這って二階に上がってきた。寝ていた夫は、一段一段母が這い上がってくる感じがわかったという。途中の踊り場までよじ登って「あんちゃんよーい」と切なげな声で呼ぶ。これではもう寝ておれず「どうしたんじゃ」と声をかけると、「わしゅー殺ろーてくれぇ」と叫んだ。「心配せんでもそのうち死ぬけー、まちょれー」と言うが、「早よぉ、死にたぁ」と叫び続ける。踊り場は、まさしく鬼気迫る修羅場になっている。夫は、そのおぞましさに「呑み込まれてはまずい」と、自分を奮い立たせながら「おかん、自分で上がったんじゃけん、自分で降りぃよ!」と、手を出さずに見ていた。すると踊り場からの5段の階段を、まるで地獄の崖から崩れ落ちるかのように「どしーん、どしーん」と音を立て、体をグラグラにしながら降りたという。夫が支えても軟体動物のように、くねくねで変な感じだったらしい。そのままベッドに寝せると、何かうわごとを言いながら異界を漂ってるようだったが、やがて寝てしまった。怪我はなかったものの、凄まじい朝の光景だったという。
 嫁の私には極力迷惑をかけまいと気を使っている。一方で看護師さんやヘルパーさんは、役割で仕事としてやってくれる人と見ているようで、ヒロ君がパニックを起こしたときなどは「どうか、わしを施設に入れるよう手続きして下さい」と歯切れ良く、お願いしに来る。ところが、かなりの気まぐれで、いざショートスティが利用できるようになると、「わしゃ、何処にも行きゃせん」と、荷造りした箱を全部もとに戻して我を張ったりする。
 我が家の在宅介護は、介護保険サービスも利用しながら、まだ体力的にも精神的にも余裕があるように思うが、常に義母と二人でいるヒロ君の限界が「家族介護」の限界だと思っている。私は、なるべくヒロ君のストレスをほぐすように、後方支援に徹している。残念ながら、私と義母との直接対決には至らず“ヒロ君頼み”で、もどかしいところもある。
時々だが、なぜか決まって深夜に、「ご無理を言いに参りました。お風呂をお願いします」と頼まれる事がある。以前、調子に乗って私からお風呂に誘ったら「結構です。入りゃせん!」と、見事に断られて、それからは深夜の歩行器の足音に気をつけながら、お誘いを待つことにしている。嫁と姑、これでなかなか距離とタイミングが難しいものなのだ。

■『毎アル』を楽しむ
 日常的に「死ぬ」だの「殺せ」という言葉が飛び交う“我が家”は、広島弁だけあってなかなかの迫力と味がある。おまけに、そこにワークステージ利用者で、グループホーム「みつさんち」入居者のナベちゃんが登場する。「やぁ、こんばんわ。今度、動物公園に行ってもいい?」と、我が家のリビングに上がり込み、脈絡無く自分のスケジュールを確認しようとする。母に当てられ、パニくっていたヒロ君も、現実に引き戻され、「ナベ、何しに来たん?よその家に勝手に上がったら、だめじゃろ!」と対決している。以前は「黙って家に上がり込むなんてぇ、“親”の顔が見たいわ!」と捨て台詞を吐いていたが、この頃は、自分の親を指摘されては困ると思うのか、ヒロ君から“親”という言葉が一切出なくなった。

 我が家の『毎アル』の主人公は、一本の白髪もない黒々した髪の88歳。それだけで、もうすでに異界の様相を呈している。深夜リビングに突如現れる姿は、能舞台の鬼の迫力に似ていて、「来る」と分かっていても背筋がビリッとする。
 『毎アル』のスタッフとしては、捻れの威力に屈せず、謎かけには“柔らか頭”で対峙しつつ、見えない大切な世界を味わっていきたい。だが、「小心者の私なので、お手柔らかにお願いします!」と手を合わせる。
さて皆さん、我が家の『毎アル』パートU、ご期待のほど。
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存在をかけて闘う ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2013年7月号】

 他のグループホームに4年間入居していたAさん。「周辺症状が強く出るようになり、集団生活が難しくなった」との理由で退所を迫られていると家族さんが銀河の里に来られた。主な症状として、幻聴・幻覚・暴言・暴力・異食行為などがあるということだった。さっそく私も含めスタッフ何名かでご本人の面会に行った。
 リビングの暗く重い雰囲気の中で、利用者もスタッフも無表情で、静まりかえっているのには驚いたが、当のAさんの姿にさらにギョッとする。薄暗い居室のベッドにうつむいたまま腰掛け、声をかけるとビクッと肩が震える。ボサボサで垂れた髪の奥にある表情をうかがってのぞき込むと、顔面が青黒く腫れている。怯えた警戒の色で目が光っている。絶句する私に、スタッフから一方的に事務的な説明がはじまった。それは文句かグチだった。「こうやって他利用者の部屋に閉じ籠もるのでトラブルになって困る、体に触れるのを極度に嫌がって介護に抵抗するので大変だ、アザは転倒してできたものだ…」等々。なんだかものすごく抑圧された空気に息苦しくなってくる。私は「Aさん、一刻も早くここを出よう!」と思った。

 Aさんは銀河の里のグループホームへ移って、4年の日々の暮らしのなかで見違えるように変わってきた(通信2013年1月号:施設長の記事を参照)。そのプロセスを事例にまとめようということになり、先日、Aさんとの関わりの深いメンバーが集まり、ゼミ形式で振り返りをした。
 常に顔を伏せていた姿勢のAさんが、一週間で腰が伸び、姿勢がまっすぐになって顔が上がった。「ダメでしょ?」の口癖が「いいでしょ?」に変わった。怯えた表情や、周囲を威嚇するかのような怒りの表情は消え、笑顔も見せるようになり、今では堂々として、凛としたカッコイイAさんがリビングの真ん中で過ごしている。他人を寄せ付けず、凄まじい抵抗と暴力の辛い時期を経て、今は守り神のようにソファに座ってリビングのみんなを見守ってくれる姿がある。・・・などなど、入居当初からのAさんの変容ぶりとエピソードが、それぞれのスタッフから、他利用者との関わりも含めて語られた。どれも誰もが驚く変化だったし、見えない部分も含めて、すごいことが起こっていたんだと改めて考えさせられる時間だった。
 終わり頃「あんなに毎日のように便を食べていたAさんが、今では全く口にしない、手で触ることもない。なんで食べなくてよくなったんだろう?」という疑問が投げかけられた。石鹸やハイターを口にしたり、花やティッシュなど目についたものをなんでも食べてしまう人がいる。巷では、訳のわからなくなった問題行動とし、“異食”と呼んでいるようだが、排泄物を口にするなどは問題行動の最たるものなんだろう。里では、一方的に問題行動と切り捨てることはしない。何かのメッセージがあるだろうと考えるし、その人のなんらかの表現のひとつと捉え、それと向き合っていく姿勢が基本にある。便を食べるっていうのは確かにギョッとすることだが、Aさんにとってはどんな意味があったんだろう?と、みんなの関心が向く。私は、唐突に、大学時代の自分が思い出されて、しばらくものが言えなくなった。

 学生時代、芸術の道に進み、絵ばっかり描いていた頃。周りは、同級生も先輩や後輩も、そして教授たちも、“表現すること”に賭けている人たちばっかりという環境だった。その中で私らしい表現って何だろうと悩み、自分自身と向き合うことになり苦しんだ。絵を描くことが好きだったはずなのに、描きたいはずなのに、まったく描けなくなったこともあった。「表現しないで、食ったモノ出して生きてるなんて、これじゃ私は、ただのウンコ製造マシーンだ」と愕然とした。表現の出てこないそんな自分に、まさに「クソ食らえ!」と思った。
 当時それなりに深く彷徨って苦しんだが、表現者にとってはアウトプットできない時期も大切で必要なことなのだと、今はわかる。昨年から里とも縁のできたタテタカコさんも、震災後の3年間、まったく曲が作れなかったという。インプットのみだと便秘のごとくものすごく苦しい。むりくり出そうとしても、未消化なまま、健康的ではないモノが出てしまう。人に見せられる代物ではない。自分で見るのだって恐ろしくてたまったもんじゃない。無責任に垂れ流してはならない。心と体と頭と感覚をフル稼働して取り入れたモノを、うまい具合に自分のなかで消化して、ちゃんと自分の身になった実感のあるときは、自分でもびっくりするぐらい気持ちいい作品が生まれ出る。新しい自分に出会う素晴らしい体験となる。そうやって表現された作品を通して、他の人の精神世界にも触れることができる喜びがある。また、作品を通じて私の精神世界に触れたいと思ってくれる人や、私が次に再び描くこと、表現することを待ってくれている人が周りにたくさんいた。苦しみ悶える体感を伴ったことだけど、お互いに刺激し合い高め合っていける環境だった。恵まれた環境で贅沢な悩みをじっくり味わえたのは有り難いことだった。まだまだ甘えた自分だったと今解る。

 僭越ながら、私の当時の苦しかった経験から照らすと、Aさんは、自分を表現することを許されなかったのだろうと思う。自分から出たモノを自分で消し去らなきゃならないところまで追い込まれた(それが便だなんて究極すぎるが、それは象徴的には自分自身そのものだ)。自分を否定してくるものとの闘いを、自身の存在を賭けて戦い抜いたのだと思う。よく頑張ったと感謝の気持ちさえ湧いてくる。Aさんにとって、便の異食は自分自身を守ることに他ならなかった。異食の続いたこの時期をニコイチ状態で過ごした居室担当の寛恵さんも「自由を守る戦いだった」と自身のことを語っている。二人はそれぞれ深い傷を負いながら戦友として戦い続けた日々だったのではないかと想像する。
 グループホームが人間存在を消してしまう場であってはならない。表面的な管理で、こころの深い理解をしようともせず、口うるさく指導し、たましいまでも傷つけて平然と善人面をしている介護職員は社会的にも迷惑だ。簡単ではないが、認知症の言動に対して、グループホームが、誰もが表現することを喜べる場、他者に出会い、自分に触れることのできる場であるようでなくては意味がない。それを守る知恵と力をつけていかなければならないと思う。
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今月の書「込」 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2013年7月号】

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伝えること

受け止めること

たった一言でも

想いがあればきっと繋がる
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つながるのが戦い ★理事長 宮澤健【2013年7月号】

 銀河の里を開設して今年は13年目になる。当初は、認知症対応型デイサービスとグループホームだけで、こじんまりと始まったのだが、いろんなことが起こり特に最初の3ヶ月は感動の連続だった。この最初の3ヶ月でなにか決まったのではないかと思うほど激動が内的にあって、出会う利用者の個々が豊かで魅力に満ちていた。こうした、現場で発見される人間の魅力をなんとか記録し伝えたいと思った。10ヶ月経った頃には、ひとりひとりの利用者をある程度事例にまとめることができるプロセスが見えてきた。ケースを書いてみると読み上げるだけでも3時間を要するほどの分量になった。それをなんとか1時間くらいにまとめた。「実践報告会」なるものがあると言うので、さっそく参加を決めたのだが、なんと発表時間は8分ということだった。A4の30枚を一枚半にするのだから、ほとんど話にならない。それでもなんとか短くして報告会に出てみた。すると会場から「最初に要介護度を言ってください。それでほとんどわかりますから」という発言があって驚いた。8分もいらない、介護度で充分なんだと、あきれ果ててしまった。
 開設2年目の年に、盛岡で全国大会が行われ実行委員になった。現場の様子を具体的に伝えられるよう1時間程度の事例発表をやったらどうかと提案した。会をしきっていたドクターは「多くの人が参加できるように短く要約して発表すべきだ」と真っ向からの反対で受け入れられなかった。現場の生きた感覚を伝えるにはプロセスを語る必要があり、要約では難しいと食い下がり、なんとかワークショップの名目で20分の発表と10分の議論の時間を取ることができた。その発表はかなり反響もあり、大会終了後も全国から何件か問い合わせもあったのだが、それだけで終わってしまって、その後も発表時間が延びるような動きは全くなかった。それどころか業界内では異端視され、変人扱いされるような空気もでてきた。
 そこでそれ以降は、世間の時間に合わせて仕事をしてもつまらないし、発表を聞いても退屈でしかないので里の内部にこもった。やはり現場は感動の連続で、深めていけばいくほど奥が深かった。その方向を大事にしていきたかった。研修で知り合った名古屋の臨床心理士吉田先生はじめ明治大の弘中先生や放送大学の大場先生などにお世話になりながら内部で事例検討会を毎年やってきた。
 10年籠もったのは、それはそれで正しかったように思う。無理に出て波風を立てるのもお互いにストレスだったろうし、やりたいことをやるエネルギーも減じる。なんと言っても素人集団でなんの力もなかった。ところが昨年あたりから、いろいろと外へ出る機会が増えてきて、事例を外で発表する機会が出てきた。初めはどうせ通じないだろうと、内輪の人材を大量動員して迎えたのだが、そうした守りが必要ないほど会場の確かな反応があったりするのでむしろ驚いた。グループホームの現場はかなり感性を鍛えて大半の人が、報告という一方的なあり方に行き詰まりを感じているのかもしれないと感じるようになった。
 グループホーム関連の団体が8分程度の短い時間で報告をやっているなかで、ユニットケア研究会では20分というわりあい長い時間をもって発表を行っている。しかも毎回数百という発表参加があるようだ。ユニット特養を5年前に開設したのを機に、その大会に参加するようになった。外に出て行くと見えてきたのは、自分たちのやっていることの意味合いや独自性だった。
 20分というのはなかなかの発表時間なのだが、それでも残念ながら一方的な報告に留まっていて、現場の利用者やスタッフの関係や、そこでの心の動きなどに迫り深める場としては考えられていない。会場は聴くだけで議論の時間はほとんどなく、質問を2、3する程度の枠しかない。昨年の発表から選ばれた、リクエスト報告が3ケースあったのだが、そのうち2つはなんとマニュアルづくりだった。みんなマニュアルがほしいのだとその現状にがっかりだった。作業をするのならマニュアルでいいかも知れないが、人と密接に関わる仕事にマニュアルは悲しい。そんな感覚は通じない業界なのだろうか。確かに監査では理念とマニュアルとそれに基づいた書類整備だけが要求される。だからみんなそれをやればいいと思ってしまっているのだろうか。
 そこで気がついたのは、里は「理念を掲げない」「メソッドを持たない」「マニュアルを作らない」でやってきたと言うことだった。理念は掲げてはならない。なぜなら掲げたと同時に形骸化が始まるからだ。掲げるのではなく日々深めていくのが理念だと思ってきた。100年掲げて腐るよりは、100年深めた方が人間として美しいに決まっているというわけだ。メソッドは徹底した訓練を受けて、厳密な評価基準に耐える評価査定ができてこそメソッドで、安易に扱ってはならず、甘い考えで適当にやるのは危険である。何かで人間を操作してやろうという傲慢に呑み込まれて利用者をメソッドで利用してしまうようであってはならない。我々はあくまで暮らしの達人としてやっていこうという立場でやってきた。マニュアルはその枠に人間をはめ込み、一般化されてしまうと、個別の人生や人間から離れてしまう。個別性を利用者にもスタッフにも失わせてしまう危険がある。ぶっつけ本番の関係重視の立場でありたい。あなたしかできないとか、あなただからできるといったことこそ重要であって、誰でも同じ事ができたら不気味だ。
 くだらないことだが、世間との対比で、全く世間一般とは真逆の考えでやってきたんだと改めて気がついたりする。自らの異端ぶりに驚いていると、シュピーゲルマンという人が(とても重要な人)インタビューでこう言っているの見つけてホッとした。「個性化の過程は、ある意味で疎外されていくことです。自分の生きている場所、自分の社会や周りの人からある種の疎外を感じる。疎外を感じたらどうするかというと、より深く進んで行くしかない。より深く進んだところでつながりを見つける、周りの人だけでなく、自然や石までつながりをみつけていくということではないでしょうか」自分の存在の根っことつながろうとすることは疎外されていくことだと言い切っているのが凄い。「疎外されていくこと」だという言葉には能動的な響きさえある。これはありがたい言葉だった。「良かったんだこれで」と助かったような感じがしてくる。
 ただ、疎外された者が、世間に出るまでとは行かずとも、世間と関わろうとするだけで葛藤が生じる。反発もあるし抵抗もある。ある程度理解のある人にさえ、最低でも説明は必要になる。どうしてもそこで言葉を使わざるを得ず、言語的能力を求められる。ただあまり言葉に頼ると違ったものになってしまう危険もある。「つながることだ」というのはほとんど言葉なしで理解し合える関係を言っているように感じるが、いずれにせよ困難なことだ。
 10年の籠もりから出て、他の一般の人たちとなにかしていくことは結構大変なことだと気がついてきた。7月の大阪の内部研修は内部だから、支え受け入れてもらえるのでいいとして、10月のグループホーム大会などは関わらないで静かにしておくべきだったと悔やんでしまった。時期尚早だったのではないかとか。外に出ないで終わったほうがいいんじゃないかとか、今後は事例をまとめることさえしない方がいいような気さえしてくる。自分自身が誰とも何ともつながってなんかいないのに、外に出ることなんかしてはならないんだと思ってしまう。
 実際、外と関わるととたんにかなり傷つくことが頻発する。それはある程度仕方ないとしても、無為にスタッフやケースまで傷つけることは避けたい。世の中の大半は個性化など関係ないから、作業処理的な仕事をしようとする。「理念を掲げる」「マニュアルを作る」「書類を揃える」というのは事務処理の流れでしかない。一方で我々はもの作りの仕事をしているように感じる。芸術や職人などの仕事の向き合い方と同じだと思う。どんな仕事でも、どちらもありうるんだろうと思う。作業を処理して終わればいい仕事と、仕事を通じて何かを発見し大いなるものとつながろうとするのとでは、一見、表面では同じ仕事をしているようでも、文化が全く違っているのだから、一緒にはなかなか組めない。やるしかないからやってるとかなり傷つくことになる。それも疎外のひとつなんだろうか。
 実際は里のスタッフひとりひとりが、もっと疎外されていかなければならないのかもしれない。内部で甘えてぬくぬくしているだけでは、深まりもしないし、誰とも何ともつながりようがない。シュピーゲルマン先生は「より深く進んだところでつながりを見つける。周りの人だけでなく、自然や石までつながりをみつけていく」と軽く言っているのだが、これこそ偉大な戦いだと思う。
 深めながら、自然や石までつながりをみつけていくのは相当きびしい修行であり戦いだ。深めることも、つながることもせず、安穏と甘えられる柔らかい環境で惰眠をむさぼっていては、外になど出て行きようがない。そこは最低でも説明を必要とし、攻撃と反発が必至な世界なのだとの覚悟がいる。里は外と渡り合うのか、中に留まり続けるのかの分かれ目に今いるような気がする。
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ブーケレタスのラベル ★ワークステージ 昌子さん(仮名)【2013年7月号】

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★現在水耕ハウスで栽培しているブーケレタスのパックには、昌子さんの写真が掲載されたラベルが貼られて、店頭に並んでいます。そこで職員もラベルにしてしまいました。このカラフルなラベルだと、人目を引きますね!
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惣菜マンガ ★ワークステージ 村上幸太郎【2013年7月号】

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★村上君が所属する惣菜班では、餃子の他に、社内販売(里売り)用のパンやおはぎなども作ります。その作る様子をマンガ形式で描きました。みんなニコニコ笑顔で楽しそうに作っている様子が伝わってきますね!
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