2013年06月15日

2人でつんだ花 ★佐藤万里栄【2013年6月号】

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100歳とライブ ★特別養護老人ホーム 中村祥子【2013年6月号】

 新卒で銀河の里に就職して3ヵ月目に入った。1ヵ月目は、「新人だし、何かしなければ!」と業務をこなそうと必死だった。ユニットの利用者さんがどういう人なのかを把握できず、ただ時間に合わせて動く毎日だった。そのために、トメさん(仮名)のことも“100歳になるおばあちゃん”という薄っぺらい表面上のことしかわからないままだった。そんな日々を送っていると「ちゃんとやろうとしないんだよ。“作業”になっちゃうからね。利用者さんと向き合って出会うことが大事なんだ」と理事長に言われた。その言葉の意味がまるで理解できず、悩むまでもいかなかったが先輩の助言もあり、まずはゆっくりと座って利用者さんと一緒にいてみた。一見、仕事をしていないように見えるが、座ると利用者さんと距離が近くなる。手を繋いでくれたり、その繋いだ手からメッセージが伝わってくることも解ってきた。正面から感情をぶつけてくれる場合もあって、伝わり方は様々だが、いつも利用者さんはスタッフ(時には他の利用さんも)を見守ってくれ、支えてくれていることが解るようになってきた。動き回っていると、利用者さんの語ってくれる言葉も受け止められなかったりする。
 2ヵ月目に入って、利用者さんのそばで過ごせるようになったころ、トメさんがその変化に気づいてくれたのか、私の存在を見てくれるようになった。「新人」と解っているようで、失敗しても笑って許してくれたり、くだらない話も聞いてくれたりと、どこか繋がる感じが出てきた。寄り添って時間や気持ちを共有すると、利用者さんのいる世界が見えてくる。このことが“出会う”ということなのかと感じ始めた。そんなある日、トメさんが「あ〜〜〜」と顔をしかめて苦しそうな声を出した。体の異常ではなく、気持ちがグルグルして辛そうだった。何を訴えたいのか解らないまま、先輩の万里栄さんが付きっきりで、外に出かけたり、三味線を弾いたりしてなんとか落ち着いたのだが、こんなに苦しそうに悩むトメさんは初めてみたが、自分が何もできないことが悔しかった。トメさんの渦巻いた気持ちを少しでも解りたいと思った。
 その数日後、里ライブが開催された。私はトメさんを誘おうと思った。先日の件もあって、トメさんと出かけてみたかった。トメさんは音楽が好きなのか、夜に出かけても大丈夫なのかなど心配な点もあったが、一緒に行きたい私の気持ちが強く、先輩たちにも支えられて夜のライブに出かけた。
 出かける前、トメさんを迎えに行くとライブのことを知っていたのか、「今すぐにでも行ける!」と言わんばかりの、生き生きとした感じで待っていてくれていた。トメさんに「今日はライブだよ〜」と言うと、「は〜い、ぐふふ♪」と笑顔で返してくれた。誘われることが解っているのか、待ち遠しいのか、私をずっと目で追うトメさん。トメさんとの初ライブはどんな感じになるのかというワクワク感と、100歳のトメさんと夜、出かけることへの不安で、落ち着けない私。それを察したのか、安心させるようなやわらかい視線で「大丈夫」と伝えてくれているような気がした。こんなに頼もしいトメさんが一緒ならきっと何があっても大丈夫だ!と思えた。「よし!行こう!」といざライブ会場へ向かった。
 会場ではすでにライブは始まっていた。多くの人といつもとは違う雰囲気に、落ち着かない感じのトメさんだった。ステージに注目するが、後ろの席でステージが見えず困惑した表情になる。その時、前の方が席を譲ってくれて、ステージが見える場所に移ることができた。曲を聞きながら目をパッチリと開け、キラキラとさせ(おまけに口も半開きにさせながら)「わ〜」という感嘆の表情でライブに釘付けになるトメさん。甘いものを食べている時のトメさんもキラキラとしたオーラをまとっているが、この時のトメさんは100歳とは思えないほど若々しかった。そんなトメさんを驚いて見つめていると、その視線に気づいたのかトメさんも私を見て、会場に響くくらいの声で「ぐっふっふっふ〜」と楽しそうに笑った。私も一緒に笑顔になった。その後も、目が合う度に笑顔を見せてくれるトメさん。何度か私に言葉を発してくれたのだが、うまく聞き取れず…。それでも楽しそうな表情を浮かべていたので曲の感想を言ってくれていたのかな?と思う。前半の部が終わるころには「あつい〜」と言ってスカーフとひざ掛けを取った。ライブを楽しむトメさんがいた。その様子を隣で見ていた施設長と私は顔を合わせて「すごいねぇ」とうなずいた。
 前半の部が終わると、いつもなら布団に入って寝ている時間になり、「ここまでかなぁ」と思ったが、トメさんは「次の曲は!?」という勢いで目をギラギラさせて待っている感じだった。そして「たーのしーいよ〜」と言った。えっ!このとき、私は驚き、嬉しさなどいろんな感情が混ざって涙が出そうになった。もう最後まで一緒に楽しむしかない。
 後半の部もしっかりと見入るトメさんだった。最後の曲が終わっても元気なトメさんを見ながら、一緒にきて本当によかったと感じた。中屋さんがトメさんに駆け寄り声をかけると拳をあげて「まーだまーだ〜♪」と言っていた。余程楽しかったのかイケイケな感じで、100歳パワーが溢れていた。出演者のエウロパさんたちも「100歳なの?!すごい!握手お願いします」と写真を撮り、優しい表情で握手をした。今日の演奏者と右手も左手も握手したトメさん。感謝の気持ちを伝えていたように見えた。
 ところが帰り際「あ〜〜〜」と切ない声を出すトメさん。「また次も一緒に見に来よう?」と特養に戻っても切ない声が続いた。リビングに入って万栄里さんに「お帰り、トメさん!どうだった?」と迎えられてやっと笑顔に戻った。待っていてくれ
た万栄里さんに楽しかった事を伝えているようだった。その後はずっと笑顔で興奮冷めやらぬ感じのトメさん。いつもよりも夜更かししてライブの様子をスタッフにも伝えてくれた。
 ライブにトメさんと行けたことは、私にとって大きな体験だった。暮らしのなかで一緒に生きていく潤いを大切にする。そのことを私に気付かせるために、トメさんは、ライブの日に力を蓄えていたんじゃないかと思う。ライブを一緒に楽しむことで、介護作業ではない大切な何かを教えてくれたトメさん。まだまだ私は認識が浅いし、これからも大きな壁や悩みにぶつかると思う。それでも一人じゃない。頼りになる先輩と、優しさと鋭さを兼ね備えたたくましいトメさん達利用者さんがいる。みんなに支えられて育っていきたい。そしていつか少しでも恩返できるようになりたいと思う。

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奥州市「おうちカフェMIUMIU」をホームに活動中の、ツインギター・ツインジャンベの4人編成バンド“エウロパ”のライブがありました。爽やかな演奏で会場を盛り上げてくださいました!

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銀河の里バンドの編成ユニット“壱”のライブも同時開催し、ライブの最後ではオリジナル曲の披露もありました。今後の活躍に期待です!

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ニューヨーク在住37年。デューク・エリントン楽団、ライオネル・ハンプトン楽団で活躍するジャズピアニスト“クニ三上”氏のジャズライブを開催しました。スタンダードなナンバーから、アニメソング、観客のリクエストに応えるなど、プロの演奏を間近で聴くことができました。

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波のような音を奏でる楽器や壷のような楽器など、様々な楽器もお目にかかる事ができました。
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介護ってなに、認知症ってなに ★グループホーム第2 佐々木伸也【2013年6月号】

 新卒で今年大学を卒業し銀河の里で働き初めて3ヶ月が経った。新社会人1年生としての私は、ひと言で言えば楽しい日々を過ごしているということになる。そう振り返りながら「変わった福祉施設に就職したものだなぁ」と改めて感じる。というのは、現場で働いて、今まで持っていた介護の仕事のイメージが一転したからだ。私は大学では福祉とは全く関係ない学部で、野球をやってきた。だから介護のことは全く知識も実習での経験もなく、だた単純に高齢者のお世話をする仕事とだけ理解していた。また認知症の人は「訳の解らなくなった人で何をするか分からない」というイメージしかなかった。
 ところが実際やってみると、介護ではなく、一緒に過ごしているだけのような感じがしてくる。しかも面談で理事長は「介護はしてはいけない」と言い切っていた。さらに「ちゃんとやろうとしてはいけない。新人は戸惑わなきゃだめだ」とも言う。訳が解らなくなる。しかし現場に少しいると何となくその意味が解るような気がしてきた。と言うのも「利用者に支えられたり助けられている」と感じることが結構あるし、むしろそのほうが多いくらいだ。学校の友人にたまに会うと「今、何の仕事してるの?」と聞かれることがあるが「介護」とは言いたくない自分がいて、「何て言ったらいいんだろう」と考える。ただこれを説明して伝えるのはかなり難しい。確かに介護職ではあるが、利用者に助けられることが多いのに介護になっているのかと思う。しかし、真の介護というのは、利用者とスタッフがケアしてケアされるというのが本当の意味での介護なのではないかと思う。銀河の里でないとそう感じることはかったような気がする。確かにちょっと変わったところに就職したようだが、助かったような気もする。 
 同じように「認知症ってなんだ」と考えることがある。今までは「訳の解らなくなった何をしでかすか分からない人」とばかり思い込んでいた。ところが、「訳がはっきりある」ということが解ってきた。解らなかったのは認知症者ではなく私の方だった。なんという認識違いだったのだろうと日々感じる。例えばサチさん(仮名)はいつも「バスは?」と繰り返す。バスや車に乗ることが好きで、乗りたい気持ちが常に募っているので「バスは?」と言うのだが、言葉では「バスは?」でも、内容は違った意味で言っていることが時折ある。それは膝のことであったり、食べ物の事であったりいろいろだが、こちらに何か自分の思いを訴えているのだ。ただ「バスは?」に言葉は統一されているので、スタッフ側が「いつものことだ」と流してしまいそうになる。それは危ないと思う。本当は、その言葉に思いが入っているのに、うっかり流してしまうと、その人の世界に入っていけないし、その人を理解もできない。ひどい場合には、その人の個性を壊しかねない。
 クミさん(仮名)は「家さ帰ります」となると、自分の世界に入り込み、他人の声など聞こえない感じになる。だから歩き始めると、しばらく歩き続けてもらうしかなかったという。しかし、私と歩いていると途中で戻ってくることがあり、他のスタッフがビックリしていた。私はそのビックリしていることが何でなのか解らなかったが、話を聞くと、今まで戻ることなく、歩いている途中にはなかなか切り替わらず、話しが入っていくまで時間がかかるとのことだった。ところがなぜか、私が話すとクミさんは聞いてくれるようだ。私はクミさんの世界に入れてもらえるのだろうか。こうして私はクミさんに支えられている訳だ。
 こんな感じは、他の介護施設で成り得ただろうかと考える。私は、おそらく他では出来ない貴重な経験をしているのだと感じる。認知症の人の世界に入り込むことはとても難しく、大抵は拒まれるだろう。クミさんとの体験は他の人にはできない体験だと思うし、自分とクミさんの関係が絡んでいる事だと思う。こんな体験ができて、ますます楽しくなってきている。

〔認知症のイメージ〕
 こんな具合だから認知症のイメージは自分の中ですっかり変わってしまった。世間では認知症はあまり良いイメージで受け入れてもらえていない。「同じ事を何回も言ってる」や「何をするか解らない」といったイメージが強い感じがする。しかし、認知症だというサチさんやクミさんはじめ他の利用者の人たちもなぜか私を暖かく受け入れてくれている。これは実感だ。私は母子家庭で育ったので、おじいちゃんおばあちゃんと過ごす時間が長かったせいもあってか、野球をやっていたので高校からも寮に入ってひとり暮らしが長く、誰かと深く親密に過ごす時間はあまり経験してこなかったかもしれない。しかし、9人の利用者の方々もそれぞれ超個性的に私を受け入れてくれているし、スタッフも私を見守ってくれている。グループホームは私が今まで感じたことのない世界を見せてくれたり自分自身を鏡として映し出してくれる。認知症でないとこんなに個性的には生きていけないだろうし、また認知症の人だから一緒に居て底抜けに楽しかったりする。歌を歌い続けるサチさん。一般から見れば「何あの人、変?」となるが、グループホームでは理解があるので、にぎやかで楽しくなる。その上で歌詞をじっくり聴いていると、その時のサチさんの気持ちまで解ってくる。
 「認知症ってなんですか」と理事長に聞くと「はあ、中核症状、周辺症状って説明でもさせたいの?あなたはどう感じる?」と言う。そこで「寂しくないし、楽しいっス」と答えたら「じゃあ認知症は、この世で一番暖かくて楽しい人たちということでどう?」と言われた。世間の認知症の捉え方に惑わされずに、自分で感じていくと、さらなる発見が待ち受けているかもしれない。それは自分自身の発見に繋がっているのかもしれない。

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一緒に植えます
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恐怖の第5ユニット! ★特養事務 瀬川芳貴【2013年6月号】

 事務所って、どんなイメージをお持ちですか?一般的には「お堅い」「冷たい」「寄せ付けない」「定時帰宅」など、ちょっと敷居の高いイメージが強いのではと思います。ところが銀河の里特養事務所はまるで違った雰囲気です。常に利用者や職員、ご家族さんや業者など多くの顔が集結します。特に利用者は日々入り乱れ、笑顔もあれば涙顔、脱力顔に鬼の顔。様々な顔が集まってにぎやかです。事務所スタッフの私も巻き込まれ表情さえ変貌します。存在しないはずの「第5ユニットのスタッフ」になるのです。

 第5ユニットの主任スタッフの私は「口先」と「表情」のみで利用者の不安や怒り、悲しみなどを癒そうとしたり、一時的でもいいから笑顔を取り戻そうとがんばる。こう言うとなんかネオン街の煌びやかなお店みたいだが・・・。しかし、これが簡単な事ではない。既存ユニットの場合、食事や排泄や入浴、着替えなどの日常生活を通じて信頼関係が構築される強みがある。しかし所詮、事務所である第5ユニットにはそうした関係の厚みがなく、かなり無防備で戦わなければならない。私はガラス細工を扱うかの如く、言葉を選びつつ利用者とのやり取りを迫られる。しかも本来ここは事務所なので、利用者にばかり目を向けてはいられない。施設経営に関わる業務など多方面に渡った繊細な事務業務を滞りなく遂行しなければならない。外部からの電話や訪問もかなりの数をこなさなければならない場所である。「利用者VS事務業務」の狭間で追い込まれ、かなり苦しくなった時期もあった。

 第5ユニットの常連中の常連のヤスコさん(仮名)。彼女は基本、気持ちの中では特養入所を受け入れていない。当初、笑顔を見せることもなく、「帰らせてほしい、みんなにいじめられる」という偏見に満ちた物語に生きていた。ヤスコさんの本音は「こんな人たちと一緒にいたくない」のだと思う。でも品の良さがそれを言わせない。そこで「いじめられる、帰りたい、だれとも話ができない」になっているのだと感じる。事務所のユニット化はヤスコさんの入居3日後くらいから始まった。ユニットから車イスを自走して事務所に来て「あそこには立派な人ばっかりで、私みたいな貧乏人がいるところじゃないです。帰してください!」と語る。それからというもの、毎日やって来て、様々なシナリオを作っては自らに役柄を与え、ほとんど第5ユニットで過ごすようになった。言いたいことはひとつ「帰らせてほしい」。私はヤスコさんのその物語に対して、どう向きあったらいいのか困惑するばかりだった。ユニットスタッフのように言葉の根底に潜む本音を探し出すほど心理読解はできないし、なんと言っても気持ちに余裕がない。私は悩み苦しむようになった。ヤスコさんが向かってくる車イスの音が遠くから聞こえてきたり、声がかすかに聞こえたりするだけで怯えるようになり、隠れてしまった事すらあった。事務員が悩むようなことではないことで悩んでいた渦中「ヤスコさんのケースをやるのでオリオンのユニット会議に参加してみない?」と誘われた。本音は「ヤスコさんのことかぁ・・・出たかねぇーなぁ」だったが、参加して心の奥に隠していた本音や忘れたいような出来事を語ると、どこか楽になった感じがした。また理事長からは「攻められっぱなしじゃなくて、ちょっと変化球を投げてみたら?」と、アドバイスをもらったりしているうちに、少し変わってきて、ユニット会議でヤスコさんの今月の様子を発表したりもするようになった。「ユニットの職員のケースより面白かった」などと言われたりしながら、かなり苦しみが和らいできた。
 ヤスコさんは本来のユニットでは、周りの目を気にして、怒りや不安、悲しみなどの感情をぶつけることができないでいる。その代わりに第5ユニットが必要で私にぶつけてくる。ぶつけやすい相手と話しやすい環境が第5ユニットを形成したのだと思う。思い切り振られるとこちらは辛いが、その辛さを乗り越え三振に仕留めたときの快感や喜びもある。苦しみも喜びも含めて、それらが蓄積されることが人生そのものかもしれない。

 つい最近、ちょっとした変化球を盛り込んで、こんなやり取りをした。
ヤ「(ヤクルトレディから買ったヨーグルトを持ってきて)お兄ちゃん。これ食べて」
瀬「さっき買ったばかりでしょ?もらえないよ」
ヤ「人のいう事は聞きなさい(怒)!さあ手を出して!ほらっ早ぐ!」
瀬「そんな怒らないでよ。貰いづらいなぁ・・・かわいく言ってくれると貰いやすいんだけどなぁ・・・」
ヤ「なぁにまた婆様バカにして(笑)!お兄ちゃんには負けた・・・(かわいく)これどうじょ!」
瀬「えっ何?聞こえないよ。もっと大きい声で言ってくれないと貰えないな!」
ヤ「まーたバカにして。ほんと困った息子だ。(さらにかわいく)これどうじょぉ!」

 最終的には受け取るにしても、面白みがある変化球を投げた上で受け取ろうとした会話だが、毎回このようなハッピーエンドになるとは限らない。私自身も直球しか投げられないときだってあるし、罪悪感を持ちつつも「耳無し芳一」状態を装い、逃げたくなる時もある。まだまだ未熟で先は長い。
 そんなことを言っているうちに、第5ユニットの利用者はいつの間にか増えていて、ヤスコさん含め4〜5人が私を囲んでいる時もある。「はい!銀河の里でございます」と外線の電話にすがりついてなんとか救われている私がいる。

1306-segawa.jpg第5ユニット入口にて
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第5ユニット外伝 ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2013年6月号】

 去年からショートステイを利用している広一さん(仮名)。この一年、月に2〜3回ショートステイでやってくるのだが、初利用の初日が強烈だった。朝はとても優しそうな表情で、手のひらを顔の横に持ってきて「やぁやぁ」と挨拶したり、手を合わせてお礼をしたり柔らかな物腰だった。車イスを使用し杖を持ち歩いている。ケアマネージャーからの情報では、他の施設では落ち着かず、「帰る」と言って騒いだり、持っている杖を振り回して暴れたり結構派手で、他の施設で利用を断わられた。「断られたら銀河の里」という暗黙の流れが業界にはあるそうなのだが、そうした難しいと思われるケースには銀河の里シフトとして、一対一の専属フリー対応で臨んできた。広一さんのショート利用で、初日の専属フリーを担当したのが私だった。
 ショート初日、午前中は、仏の広一さんで「専属フリーなんかいらないのでは…?」とまで思うほど穏やかだった。しかし昼食後、突然その時はやってきた。「帰る!帰るがら!!」と怒りが爆発。私が「え?急に?3時間ぐらい前に来たばっかりだよ。ゆっくりしていって」と返すと「なにコノ〜!!!」と鬼のような形相で杖を振り上げ床に叩きつけた。「バチン」と大きな音が響いてユニットが凍りつく。さらに杖を高く上げ「やるぞ!」と振り回す宣言をし、また床を叩く。現実的な言葉をかけても怒りを煽るだけだった。そして杖をカヤックのオールのように使いこなし特養内を車イスで歩き回った。私はついて行くのだが「何しに来た!!」と怒って杖を振る。そのまま玄関から出て坂を登り、畑の柿の木の下で立ち止まった。そして、目を閉じ下を向いた。私は隣で何も言わず地面に座り込んでじっとしていた。少しすると、仏の広一さんが帰ってきて、手を合わせて微笑んでいた。しばらく広一さんは、そんな感じで鬼になったり仏になったりして過ごしていた。
 それでもなんとか半年ほど経った頃から、ショートステイでの専属フリーはいらなくなった。理由は二つあって、一つは、たまに派手な動きはあるものの、居室で眠って過ごす時間が増え、リビングでもゆったりと過ごせることが増えたからだ。二つ目は、帰るスイッチが入ると自分で事務所へ向かい、そこで過ごすようになったことがある。事務所では事務の瀬川さんの少し斜め後ろに車イスを付け、瀬川さんの仕事ぶりを見張る。最初はニコニコ見ていたのだが、段々過激になり、最近は杖を振りかぶってデスクを叩いたり、足で瀬川さんを蹴りつけたりもする。そんな感じでも、事務所にずっといるので、外へ出たり、特養内をせわしなく巡ることはないので専属フリーははずした。
 なぜ事務所に落ち着いたのかは謎だ。瀬川さんはショートステイの送迎もするので、送ってくれる人といると安心するのかも知れない。また、瀬川さんは施設の玄関としての事務所を守っているので、広一さんが怒鳴ろうが杖で大きな音を立てようが、事務所から逃げ出せない。仕事道具のパソコンも、利用者情報や施設の大切な書類も事務所から持ち出しが出来ない。広一さんはこの人は逃げたりせず、向き合ってくれる人とふんだのかも知れない。ともあれ二人の関係がどんどん密になっていったのは確かだ。

 先日、私は数時間ほど事務所の留守番を任された。事務所は次々とやってくる利用者で賑わった。「お兄ちゃん!みんなして私のこと馬鹿だって言ってきて、もういられないの…。どこかに行かないの?連れてってちょうだい」と買い物に誘うヤス子さん(仮名)。「おいっす!便、出ないのよ。薬もらえないっか?薬よ」と、便秘薬をもらいにくる武雄さん(仮名)。「私…何伝えたいか忘れてしまったの。なんだったかなー。それを聞きに来たの」と困り顔のフミさん(仮名)。「ちょっと遊びに来たの♪そこの棚の下にせんべいっこあるっけよ。オラ知ってるもの。フフフ」と“お茶”をしに来たトヨミさん(仮名)。個性的な利用者さんが集まり賑わう。そんなだから事務所は第5ユニットとささやかれるようになった。

 その日の午後、瀬川さんは外出中だったが、広一さんは昼食を食べると事務所へやってきた。瀬川さんの姿を探すが居ない。「さっきはここに居たんだ!待ってる!」と広一さんはピリピリして、鼻息も荒く目つきが鋭くなりながら、瀬川さんを待つ。第5ユニットの利用者が一旦居なくなり、事務所に広一さんと私の二人っきりになった。すると「あいつはいつもここで仕事をしていたんだ。この机に毎日座って居るんだ」と私と目が合うたび、広一さんは瀬川さんの話をしてくる。「そっかー。帰ってくるかなー?」と返すと、黙って玄関を見つめていた。
 コーヒーとせんべいを「広一さんもどうですか?」と勧めると「ふぅ…」とため息をついてテーブルに来てくれた。そこでは打って変わって仏の広一さんになる。昔やっていた仕事や、家族の話などをしてくれる。また第5ユニットの来客者のそれぞれの話や訴えをニコニコと聞いている。困った話には、広一さんも一緒に困った表情をする。こんな広一さんも居るんだと、一年過ぎて気づいたりする。
 夕方になって瀬川さんが戻ってきた。瀬川さんが自分のデスクに座ると、広一さんの表情がみるみるうちに鬼の形相になった。そして、いつもの瀬川さんの少し斜め後ろのポジションにどしっと構える。「広一さん、俺のこと待っていてくれたの?」と瀬川さんが声をかけると「コノ〜!!」と杖を一振り。「すみません!仕事始めますー」と瀬川さんは慌ててパソコンへ向かい仕事を始める。書類をめくりながらパソコンに打ち込む瀬川さんと、それをじっと見つめる広一さん。時々広一さんが喝をいれる。この二人の関係はなんなのだろうと思いつつも、私はユニットへ戻った。
 夕食の時間になっても広一さんは戻ってこない。事務所をのぞくと二人は数時間前のそのままの位置にいて変わらなかった。私が「広一さん。ごはん出来たけど〜…」と伝えるが「まだいい!」ときっぱり。「そうですよね」と私は引き下がるしかなかった。
 19時になり、さすがにお腹空いただろう、広一さんと私の夕食を持って事務所に行く。やはり、二人は同じ位置にいた。食べようと言うが断られる。瀬川さんが「夕食どうぞ。暖かいうちに」と勧めると「お前は!」と広一さんは瀬川さんの心配をしている。「この仕事が終わったら食べるから。ね!」と言われて、ようやく広一さんは食べた。食事中は会話もなく、ただ急いで食事を済ませた。広一さんが食べ終えた頃、瀬川さんも「うぅ〜!」と背伸びをし「今日の仕事は終わったよ。どーも」とパソコンを閉じた。広一さんも緊張がほぐれたような表情だった。そこで私が「広一さんも今日は休むっか?」と声をかけると、小さくうなずき瀬川さんに声もかけず事務所を出た。瀬川さんは苦笑いで「広一さん、おやすみー」と声をかけた。
 ユニットに戻って「広一さん、明日もあそこに行くの?」と尋ねてみると、「あぁ!!!」と太い声で一言。「ひぃぃ」とその声の迫力にびびってしまったが、二人の関係はとてもいい感じで、私には父と息子のように思えて暖かいものを感じた。
 広一さんは、事務所で瀬川さんと過ごしながら、昔ばりばりと働いていた自分に帰っているのか…。それとも、息子のことを誰より気にかけながら、決して甘い顔はしない父親をやっているのか。真相は分からない。第5ユニットの二人の関係はこれからどうなって行くのか…。今、第5ユニットから目が離せない。
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認知症ケアの現場における「聞き書き」とその向こう〜赤坂憲雄著『東北学へ』1996作品社を読んで〜 ★施設長 宮澤京子【2013年6月号】

 昨年3月に六車由実著『驚きの介護民俗学』が出版された。これは業界にとって大きな波紋をもたらす実践であり著作であると直感し、さっそくご本人にお手紙を送ると、まもなくメールをいただいた。そして9月に来里され事例検討会にも同席いただき有意義な時を過ごすことができた。そのすぐ後に、遠野で赤坂憲雄先生がセミナーを開催された折りに、名刺を交換して、お荷物になるご迷惑も顧みず、里の通信を数年分まとめてお渡しした。実は何年も前から、通信を是非とも赤坂先生に読んでもらいたいと願ってきた。遠野物語研究の第一人者である赤坂先生に、通信に描いてきた現場の物語がどう映るのか伺ってみたかった。もっと言えば「これは現代の遠野物語にならないだろうか」と問いたい衝動があった。そんな矢先の六車氏の介護現場における本の出版だったので、大いに感動し、「時」が来たと興奮した。
 そして今年10月、岩手で日本認知症グループホーム大会が開催される予定になっていたので、講演をお願いすると、両先生とも快く引き受けて下さった。お二人とも、東北芸術工科大学の東北文化研究センターで、「聞き書き」を主軸にしたフィールドワークで人間を見つめる研究をされてきた。
 先月、大会の打合せのために赤坂先生とお話しする機会があった。20分程の短い時間だったが、かつて東北で「聞き書き」をされたお二方の話を宝物のように語られた。「民俗学者は聞き書きと称して情報をとり、それの成果物として論文を書く。いわば“盗む”わけです。私は、そういうやり方で話を聞いたことは一度もないです」と言われた。これにはかなりの迫力があった。その時、語られたお二方の「聞き書き」が納められた2冊の本を紹介され読んだ。先生が語られたお話のトーンと、文字として緻密に裏付けられた内容が重なって、まるでその方達にお会いしたような気持ちにさせられた。
 その一冊『東北学へ』には、聞き書き16編が納められている。歴史の表に出てこない、ある意味虐げられ翻弄された人生が、「人に語ることで折り合いをつけ、聞くものの未来に繋げたい」という強い意思として伝わってくる。そうした個々の人生から、日本における東北という地域、近代化や戦後の高度経済成長の大きな波によって変容させられた時代の持つ暴力性、また未来に繋ぐ大切な事柄などが、赤坂先生の真摯な姿勢と相まって、クリアーに迫ってくる。

− 聞き書きが眼差す光景 − 鎮魂は明日のためにある
 戦争を経験し昭和という時代に翻弄されながら、ただ黙々と、自分やその家族の小さな歴史を抱いて生きてきた人々のそれぞれの人生。日常の暮らしや埋もれようとしている手職の技の記憶。語り部としての老人達は、それらの軌跡や記憶を次代へ語り継がれることを願っている。先生は、その語りの群れを、現代へと仲立ちする役目を負わされていると感じるようになったという。その聞き書きは、一方通行ではなく、語り部と聞き手の緊張を孕んだ共同作業の場となっていく。その語り部達は、わずかな田畑を耕し、マタギをやり、炭を焼き、木挽きをし、カンジキを作り亜炭を掘り、屋根葺きをし、鮭を捕り、紙を漉き、船下りの船頭となり、馬の種付けをやり、遠くに出稼ぎにも行くといった多種多様な生業を担う人々であった。これらの記録は、ある時代とそこに生きた人々への鎮魂の碑と化していくのかもしれないと言う。今日から明日へと生きていく人々のための、精神の糧としてこそ、昨日という記憶は必要とされている。聞き書きという方法を、この時代の可能な知の道具として、むしろ武器として鍛えあげてゆかなければならない・・・聞き書きは、明日を戦う者たちのための武器である・・・との言葉は非常に示唆的だ。語りも佇まいも穏やかな先生が、「聞き書き」を戦いの武器として位置づけていることに、現場に立つ私にも強い共感が引き起こされた

−【対談】− 聞き書きの旅を終えて森氏と赤坂先生
『東北学へ』は、山形県最上郡を舞台に、3年あまりをかけて聞き書きした記録である。赤坂先生は、老人の最上弁がわかるだろうかという不安から、「もう開き直るしかない」と腹をくくり、「マニュアルはいらない、その人の語る言葉に一心に耳を傾けよう」そして「先入観のない、真っ白な状態」で、訪ねることにしたと言う。この本の背景に、村役場の職員であり舞踏家として活動する森繁哉氏の存在が大きいと感じた。また語られる文脈から、そのお人柄にも惹かれる。お二人の対談は、赤坂先生が言っているのか森さんが言っているのか、区別がつかないような一体になったやり取りで、違いを明確に対立させていくような今どきの討論とは全く違った、広がり深まっていく対話の心地よさがある。

 こうした対談のハーモニーは、里の現場で認知症の方達と生活を共にし“事”に向き合い、場に居合わす佇まいにも通じている。おそらくそこには日本人の民族的な特徴があって、和を元に置きながら場を形成していく、ある種のシンクロを作り出す感覚がある。これは、今の日本の社会作りに全く活かされていない。そうした現状に、お二人は抵抗として挑まれたようにも感じる。そしてグループホームケアの現場は、まさにそれと同じ挑戦をしているように思えてならない。

 ここからは、この本の対談のテーマと、銀河の里の活動の“スタンス”を並べて考えてみたい。
■聞き書きの即興性
− 何かを聞き出そうとする聞き書きではないということ −
 森さんは、その人の情報をあれこれ調べて筋立てして、「あなたの人生を教えてください」という態度では臨まなかったという。その場その場で、その人の言葉に立ち会いながら方法論なしでその人に向き合っていった。赤坂先生は、筋書きを作っているのは、一人一人の語り部なのだと言う。この語り部たちは、森さんが即興で選んだのだというが、それはまるで森さんが即興で踊っているような印象だったと言う。

□里の「物語」の即興性
 グループホームでも認知症の方々とのやりとりは、まさに即興性そのものだ。興味本位で恣意的な、あるいは管理的な立場からの聞き取りは元から成り立たない。筋道立った論理性はなく、言葉でのやりとりは意味不明で、単発的な投げかけが突然やってきたりする。理不尽な怒りを含んだ言葉や、溢れた感情が行動として荒れ狂うこともある。聞く者は、時空を自在に移動して、全ての感覚を開いて聞かなければ、その時と場所は瞬時に消え去り、もう二度とやって来ないこともある。通常の語りに耳を傾ける感じとは少し違う。赤坂先生が「全身が耳」と表現されたが、聞くだけでなく時空のイメージにもシンクロできないと大事なことを外してしまう。
語り部は、そんな緊張した空気を察してか、場をホッとさせるようなトリックスター的な一言で救ってくれることもある。また内面を突く励ましや癒しの一言、そして課題を突きつける厳しい言葉が投げつけられることもある。不思議とそれらの言葉は、時を外さず的を得ていて実に適切だ。死者と繋がった祈りや、気持ちの高揚を感じさせられる事も多い。また、「作話」・「妄想」と切り捨てられている話の中にこそ、深い悲しみや孤独、恨みなどの深い情念が込められていると感じさせられる。特にも深い認知症の方からは、死の世界や異界と行き来する「たましい」の言葉が語られることも経験する。聞く者が理解できないからと言って、認知症の「問題行動」と一括りにしてはならない。
 グループホーム利用者の即興的で謎かけに満ちた言葉を、真摯に受けとめ、丁寧に聞き取り、記録し考えることは知的な冒険であると感じる。語り部である認知症の高齢者は、聞く相手を選んで語ることが多い。誰彼に語るわけではない。以前から感じているのだが、グループホームは「能」の構成によく似ている。夢幻能における「ワキ」は、誰でもがなれるわけではない。旅や修行中の僧であることが多いが、少し世間から離れて異界に親和性をもつ、ある種特別な人だ。だからこそ、「シテ」は語りはじめ、本体を顕す事ができる。観客は「ワキ」のビジョンを通じて、本来は見えないもの(悪霊や精霊や情念等)を見せて貰えるという構造になっている。「ワキ(聞く者)」の存在によって、「シテ(語り部としての認知症高齢者)」が本体を顕すのだが、能の「ワキ」は、登場すると、大抵はほとんど動かずワキ柱の角に座って何もしない。この何もしない姿勢によって事が起こってくる。まるでグループホームの理想的なありようだ。赤坂先生の聞き書きの姿勢もそうした感覚なのではなかろうか。

■等身大の出会い
− 対象を謳い上げるのでもなく、現実を肥大化させる思想を巡らすでもない −
 森さんは、「村」と一括りすることの疑問を語っている。村に生きるということは、とても複雑で重層的な営みだという。だから生きている生々しい現実にふれていくような聞き書きでありたいと言う。赤坂先生は、村・辺境に暮らす老人に向かい合うときの眼差しについて、一つは「底辺民衆史」という言葉を使う人たちが、上から目線に立って彼らの人生を同情を持って掬い取ろうとし、もう一つは民衆の逞しさや忍耐強さを「凄い」と謳いあげる下からの目線があるという。先生は、これらのどちらにも与することなく、語り部の老人たちと等身大で出会って行こうとしている。森さんは、赤坂先生の聞く姿勢を「言葉が生み出されるというのは、向き合っている対象との関わりであり、流動している状態と切実に交渉していること」と表現している。

□認知症を一括りにする暴力性
 現行の医療やケアの現場では、認知症の症状だけに視点をあて「対処」しようとする暴力性に満ちている。認知症の世界は個別個性的であり、多様でしかも多重性を秘め豊かであるとともに、他者を巻き込む力や、薄っぺらな社交を打ち砕くエネルギーに満ちている。「ちぐはぐ感」や「強いこだわり」「他を寄せ付けない没入」、時には攻撃的な言動といった衝撃的な出会いから始まることが多い。本人の理不尽さや違和感そして不安感から、現場では思いもよらない言動に直面させられる。等身大でありたいという理想論は簡単に吹き飛ばされ、揺り動かされる。常識や理屈の正攻法を持ち出そうものなら、却って不安を煽り混乱を深める結果になる。「介護人」という上からの立場や、同情を示す心優しい「博愛主義者」でもなく、“たじろぎ揺らぐ”等身大の素の「わたし」が対峙し、出会っていることが大切だ。

■伝統と現代をつなぐ接点
 赤坂先生は人々の意識の底に残る芸能や技を伝える大切な手掛かりが、老人の「記憶」にあると言う。その語りを丁寧に聞き取り、鋭い分析力で現代を見据える。例えば、茅葺き屋根がトタン屋根になり、村の風景が変わる。それは屋根葺き職人がいらなくなったというだけではなく、村全体の共同作業が奪われ伝統の切断になる。これはものすごい暴力だと指摘する。もちろん住居として不便であったり、今では消防法にひっかかったり、茅や茅職人を捜すことさえ難しく、貴重で贅沢な建築になってしまった。赤坂先生は、トタン屋根は美しくないし、住む人の精神を貧しく囲い込んでいるように感じると言い、伝統的な文化の様式として茅屋根を惜しまれる。

□日本の高齢化と地域の繋がり
 日本は「人生50年」と言われていた時代から、医療技術の進歩や少子化の拍車をうけ、人生80〜100年?という超高齢社会を迎えるに至った。子育てを終えたところで、自らの人生を締めくくる時代ではなく、定年を過ぎてもなお、20〜40年を生き続ける時代になった。後期高齢期と比例するように認知症の発現率が高くなり、2025年には500万〜700万人とも予測が出ているが、実際は1000万人を超えてくるだろうと思われる。そうなると病院や施設への収容的な考え方では破綻を来たし、「在宅介護」も崩壊するだろう。地域で共に支え合って生きる時代が否応なしにやってくる。
 共に生き支え合うとは、一方的な問題として扱って終われないと言うことだ。個別に認知症ひとりひとりとどう向き合い、
そこから何を学ぶのかとの問いが立てられる必要がある。近代が追いかけてきた生産効率や利便、物質的な豊かさではなく、新たな価値を発見していくしかない。それは「心」や「魂」の次元まで降りた、深みのある価値観に繫がるに違いない。
深い認知症の方の場合、単なる「聞き書き」は通用しないかもしれない。妄想とか問題行動と蔑まれ忌み嫌われている言動の中にこそ意味があるのであって、そうした言動は「通路」として我々の未来に繋がっているのではないか。認知症の人たち個々のそうした深い世界こそ現代の我々が失って久しい、人間の存在の本質と繋がっている。グループホームで紡がれる若者と認知症利用者の関係の物語はそうした魂の次元からの語りであるように思う。そうした物語の生成は、一対一で成し遂げるには荷が重過ぎ、通常の個人では抱えきれない。物語の生成をなさしめる場に、器としての守りが必要不可欠になる。グループホームの「チーム」は、そうした器として構成され機能しなければ、深い物語は紡げない。
そして将来は、かつての茅葺き作業が地域の共同作業としてあったように、「地域」で認知症の物語を紡ぎ合っていくことが、新しい時代の協働作業として復活するのではないかという希望(妄想)を抱く。かつての茅葺き作業からすれば、かなりの知的な精神労働へとシフトするが、そうした時代の布石となるのがグループホームの存在であり、活動だと位置づけたい。

■時代と拮抗する語り
 小国は馬産の地で、日清・日露・第一次世界大戦や太平洋戦争へと続く戦争の歴史にあっては、優秀な軍馬を提供することで、お国に奉仕する誇りの地であった。また「五族協和・王道楽土」という政治的な美しい理念をかぶせられ、新天地「満州」へ開拓移民に加わった国策に翻弄された歴史の地でもある。「満州の侵略行為」は、国策といえどもそれを我が身の贖罪と受け止める人たちがいた。集落の外れに満州の方角に向けて建てられたお堂「虚空蔵さん」は、満州で亡くなった肉親を鎮魂し、中国の人たちに対する贖罪として建てられたものだという。赤坂先生は、そこには日本人の戦争責任の引き受け方の一つの形があるような気がすると語られている。日本人の思いは、そうした形で祈りになっているのだろうか。

□里の事例との共時性
 今年10月に行われるグループホームの全国大会で銀河の里が取り組んでいるのは、お国のために兵士として大陸に赴き、戦ってきた93歳のS老人の事例である。彼は復員後、戦争によって亡くなった同胞の兵士たちの鎮魂と、敵国の兵士に対する贖罪を、地域神社における「祭り」や「踊り」に託してきたと思われる。しかし認知症によって現実の枠組みが破綻し、グループホームに入居されるが、戦争のイメージが現実の日常生活の中で湧き上がる。その強烈なイメージは、スタッフも巻き込んで廊下や居室、
リビングがそのまま大陸の戦場と化す。上官として部下である若い兵士(スタッフ)に訓辞を与え、突撃命令を出す様は、生々しいリアリティに満ちていて、スタッフも戦場にたたき込まれる。生き残った悔恨と胸中に渦巻く暗闇の底に、スタッフ共々身を沈めるような日々が続いた。認知症にならなければ、おそらく胸に秘めてあの世に持っていったであろう「記憶」は、認知症の力を借りて、若者に戦争の悲惨さを体験としてリアルに伝え、日本の未来のために戦うことを語り継いだ。託された若者たちが、語り継がれたその戦いを遂行するなかで、Sさんが人生で負った深い傷もまた癒されることになるだろう。
 この事例は、対談の「時代と拮抗する」という内容と共時性を感じさせられたが、それだけでなく、認知症の持つエネルギーが、一方で戦争を若者世代に継ぎ、また一方で老兵の傷を癒すという双方に繫がっている。世代間の分断が問題となっている現代において、その相互性の意味は大きいと感じる。

■小さな人生のなかの豊かな記憶
 − わくわくとスリリング −
 森さんは、村のたくさんの方々が自分の言葉で、自分や家族やその周辺を語ってくれたが、それは村の歴史と村の現在を浮き彫りにする事だったと言う。この聞き書きの旅は、語られた一つ一つの言葉が像となって体の奥深くに沈殿していくような不思議な時間の体験だったと言う。そしてこんな豊かな、深い時間と驚きの場に生きたことのわくわくとスリリングさを語っている。赤坂先生も、小さな人生が開かれ、それぞれの身体に刷り込まれている記憶が語られる現場にいることのスリリングさを語っている。そして、この聞き書きの旅が意味を持つとしたら、マニュアル以前の場所でやった記録であった所にあると言う。できあがった学問の方法を相手に押しつけるのではなく、素手で、裸で、生きている人の人生に向き合い、やり取りすることは、小さな闘いの連続でもあったとしながら、お二人とも楽しかったと締めくくっているのが印象的だ。

□里も、わくわくとスリリングの連続
 銀河の里は、グループホーム事業が開始されて13年目を迎えているが、停滞、膠着という状態に陥ることなくやってこられた。それは、理念を掲げないことで形骸化をふせぎ、メソッドを持たないことで人間が人間を扱うことをせず、一辺倒な管理に陥るのを防ぐためにマニュアルを作らなかったことにあると思う。それによって利用者、スタッフを含め人間の持つ生命の発現が可能になってきたのではないかと思う。
「事なかれ」ではなく、逆に「わくわくとスリリング」がいい。そこに知的な冒険が可能になる。正しい答えはいらない、必要なのは正しいかどうかではなく「新しい理論」だ。
 認知症はその人の本来の性格が精鋭化してくる特徴がある。身体や精神や魂に刷り込まれた多様で多層な記憶が、直接的に、または謎かけとして表現される。一般的にはそれらは混乱や異常と
して見捨てられるが、そこにこそ「通路」は開かれると見るべきである。聞き手のわれわれの専門性は、謎かけを読み解くイメージ力や、かすかな断片的な発信を逃さない研ぎ澄まされた感受性によって、通路を通ってあちらの世界を自ら体験することではないか。もちろん「現実の暮らしの守り」が器としてしっかりとできていないと、「異界」から戻れなくなる危険も伴う。そこには守りのためのチームやスーパービジョンという器が、いかに形成されているかが重要となってくる。

− あとがき − 戦場に赴く兵士
 1996年に書かれたこの本で、赤坂先生の「何故、辺境の地、東北だったのか」の理由が、少し判ったような気がする。逃避や癒しを求めての東北ではなく、今戦場に赴こうとしている兵士のような自分を感じたと記されている。東北は時代の知が凝縮されていく最前線のひとつになる、その最前線に向けて出立しようとしているという下りは、まさに執筆から15年後に起こった「3.11 東日本大震災」のその後を予見しているかのようで戦慄が走る。『東北学を再建する−3.11から考えるこの国のかたち−』と併せて読みながら、先生に託された、東北から発信して日本や世界へ継ぐという、そのミッションを感じさせられる。

□あとがき − 若者に未来を託した日本兵 
 一般の介護施設では、日常的に起こっているにも関わらず、記録されることも、眼差されることもなく、発見されないまま、見
捨てられそうな現場の物語を、銀河の里では「事例」として紡いできた。「聞き書き」という方法を知っていたわけではいが、精神は近いと感じる。これは介護現場における操作主義への挑戦であり、近代科学一辺倒で管理しようとする時流への抵抗であり、人間の尊厳を守る戦いと提言でもある。
 10月のグループホーム全国大会で発表するタイトルは「若者に未来を託した日本兵」だ。ここにも一兵士として東北に赴いた赤坂先生との共時性を感じる。専門分野は違えども、現場で命を張る闘いの同士として、繋がっていくことができればと願う。
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今月の書「声」 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2013年6月号】

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あなたの声で

あなたの言葉で

あなたの思いを
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守男さんから引き継いだ私の戦い ★グループホーム第2 佐々木詩穂美【2013年6月号】

 「英哲の太鼓は祈りだ」と聞いていた。私は「風雲の会」の太鼓は何度か聴いて感動したし、里のライブでも圧倒されたが、その師匠の英哲さんの公演はまだ知らなかった。いつか聴いてみたいという願いが叶って、今年の3月、横浜での20周年記念公演を同僚の川戸道さんと聴きに行った。「英哲の太鼓は引き込まれてしまう」と聞いていたが、私はいつもの癖で眠ってしまうのではないかと心配だった。公演が始まり、舞台の袖から英哲さんがゆっくりと歩いて出てきた。大きな足音がすでに演奏だった。薄暗い舞台の中、その足音はだんだん心臓の音に聞こえてきた。目を閉じると母の胎内にいる感じがしてきた。とても心地よくて、いつの間にか私は眠りに入っていた。ところが突然、女の人の声で「寝てる場合じゃない」と大きな声がして起こされた。目を開けると、とても眩しく舞台が金色に輝いていた。それはただの金色ではなく、舞台全体に金色の稲穂が揺れていた。私は一気に目が覚めた。本当に寝てる場合じゃない!実をつけて輝く稲穂と、母親の胎内から産まれ出た自分が重なり「生まれたんだ」と思った。このとき生まれたと感じた意味はまだよく分からないが、そのまま太鼓の世界に引き込まれていった。演奏から強いメッセージが伝わってきた。別次元の太鼓の轟きに、私は無心でその響きを感じていた。
 太鼓と踊りには鎮魂の想いが込められる。戦争の悲惨を体験してきた守男さん(仮名)が、太鼓と踊りに打ち込んできたのはそうした意味があったことが、私にもよく解った。あの激しい去年の半年を過ごして、今は落ち着き、戦いは私や酒井さん、寛恵さん二唐さんなどスタッフに引き継がれ、我々の奮闘を守男さんは期待している。
 このところ、守男さんの家族さん、お嫁さんのYさんと孫のSさんがよく面会に来られる。来られる時間帯は昼食中が多い。食事に手をつけないでいるとYさんが食事介助に入る。守男さんが残したお粥をYさんがきれいに食べた。それを食べることでパワーをもらうかのように私は感じた‥。飲み込みを考慮して食べやすさを優先したお粥は、どろどろで決して見栄えもおいしそうではない。それを食べるのは、心理的な別の意味があるに違いない。Yさんは以前から「ここに来ると、とっても落ち着く」と話してくれた。Yさんは他の利用者さんとも明るく関わり、お話もされる。そんなYさんがある日、利用者と話している最中に突然涙を流された。そして「ここは競争もないし、人間が人間らしく生きられる場所だ」と言われた。Yさんの心の中で何が動いているのか深いところは分からないが、私はそう話してくれたことがとても嬉しかった。

 10月の全国大会で銀河の里が事例を発表することに決まり、私が守男さんの事例をまとめることになった。これはとても大きなことで、理事長は「日本の認知症ケアの将来がかかっている」と言う。私は人と話すのも苦手だし、文章も書けない、なんと言っても喋るべき所で言葉がまるで出てこない。事例をまとめ、全国大会で発表し、検討会に臨むなどとは、想像するだけで、自分には無理だと確信できる。理事長も銀河の里13年の歴史をかけての大勝負の時が来たが、その戦いの「駒」が私とは、あまりに頼りなくて、震えてしまうと冗談半分に笑っている。
 確かに自信は全くないのだけれど、守男さんがここまで生きてグループホームでやってくれた戦いと癒しの物語を、傍らにいさせてもらった私が、語り伝えなきゃいけないと思う。ところが、思いはあるのだが、実際には今年に入り、私は全く事例を書き進めることができなくなった。そんなとき、守男さんの部屋に入った途端「オレの新聞、書かなくてもいいんだよ」と言われて驚いた。そのときの守男さんの表情は、優しい顔で微笑んでいた。いつまでも迷っている私を試したのだろうか。それからいろいろ考えた。私は全く役不足で戦いにならないことは分かる。でも守男さんのメッセージを伝えなければ、私が生まれてきた意味がなくなるとまで思った。事例を振り返りながら、私はみんなに支えられてここまできたことに気がつく。「守男さん‥やるよ!」と心の中で伝えた。その頃、一日何度も私を指差して、目に涙を浮かべながら「頼むぞ」と語る日が続いた。ある日は「一回深い穴に落ちてしまえばいい」と言葉をくれた。このとき私に覚悟ができた。ところがそうなったら、今度は急に「孤独」が迫ってきた。目に見えないものに不安を覚え、私は書けない原稿を前に一晩泣いて過ごした。小学生のとき6年間、人前で涙を見せずに過ごしたことが私の自慢だった。大人になった今、なんで自分がこんなに泣くのかよく分からない。事例を紡ぐなかで、自分と向き合うことがこんなに孤独で辛いことなのかと苦しんだ。以前通信で書いたように、守男さんに出征兵として見送られた日から、すでに私の戦いはあったはずだが、いよいよ前線が迫り本格的な戦闘が始まろうというこの場に及んで、自分の中に迫ってくる孤独に苛まれようとは意外でもあった。
 そんな葛藤の日々が続く中、じっと座って日中を過ごしていた守男さんが私を見て手招きし、「トイレに行きたい」と言った。トイレに向かいながら、目がいつもと違って力強く、トイレではないことに気がつき、守男さんの部屋に入った。すると「オメ寒くねっか?」と聞いてくれた。守男さんが寒いのかと思って聞き返すと「オレは寒くねーよ」と言う。守男さんは暑さには強いが、寒さには弱い人だった。守男さんがずっと抱えてきたその寒さは、戦争の傷からくるものだったのかもしれない。去年の一連の儀式を通じて、守男さんの戦争の傷はかなり癒され、私達に「日本を守れ」と伝え託した。私への寒さの気遣いは、孤独と向き合う私に「怖くないか?」と心配してくれているように聞こえた。

 6月1日夕方、急に体調を崩し意識を失った守男さんは、病院へ救急搬送された。休みだった私は救急車に同乗した寛恵さんから連絡を受け、病院へ向かった。脈拍数が少なく、不整脈で「心臓の寿命」と診断を受けた。家族さんは担当医師から「ペースメーカーを入れるか、入院して脈拍数を上げる薬を毎日注射で投与し続けるか、どちらにするかの決断は数日のうちに」と言われ、守男さんはそのまま入院となった。難しい選択に、家族さんと私達は一緒に悩んだ。
 翌日は「満月組」の太鼓のコンサートに、守男さんと家族さんと私で聴きに行く予定になっていた。前日に入院になり一緒に行けなくなったことが残念で悔しかった。私はごちゃごちゃと混乱して迷ってしまった。「家族さんと一緒に守男さんと行きたかったな・・」と残念がる私の顔を見て、寛恵さんが「無理しなくていいんだ」と心配して言ってくれた。そのときの私はかなり不安で、怖い顔をしていたのだと思う。私は行かないことに決めた。ところが施設長が「守男さんが病院で闘っているのに、今ここで逃げてどうするの!これから闘うんじゃないの?」と熱く気持ちをぶつけてきてくれた。それから自分の気持ちが動き出して訳が分からなくなりながら、日本兵として出征したはずの私なのに、戦えないでいる自分が情けなくなった。「籠もってはだめだ、ここは守男さんと闘わなければいけない」と思い直した。私を心配してくれていた寛恵さんも「グループホームは守るから、行ってきて」と支えてくれた。様子を見に来てくれた前川さんも話を聞いてくれた。
 行くと決めて施設長に連絡すると、すでに手配はできていた。みんなが支えてくれていた。数日前まで孤独に泣いていた私は、守男さんの部屋で出発ギリギリの時間まで「1人じゃないんだ」と心強く感じて泣いた。満月組の太鼓はクミさんとセイ子さん(仮名)の3人で並んでみた。「守男さんと見たかったな」という寂しい気持ちは消えて、一緒に闘っているように感じた。闘ったあとの疲れを感じながら満月組から帰ってきたら、ちょうどYさんが里に来られた。「退院が明日か明後日になるみたいなんですよ」と言う。耳を疑って「ペースメーカーとかはどうしたんですか?」と聞き返すと「脈拍が戻ったみたいで、ペースメーカーも薬の投与もいらなくなりました」と、驚きの内容。この逆転劇に「守男さんは闘って生き延びた!」と嬉しくなり、一気に疲れが飛んだ。
 検査の関係で退院が少し延びたが、結果は「異常なし」で、6月5日に退院がきまった。この日はちょうど私の誕生日、一番嬉しい知らせだった。私はすぐに守男さんを迎えに行った。ベッドに寝ていた守男さんは私の姿に気がつくと、握った拳を高く上げて笑顔を見せた。私も拳を上げて「やるよ!」と、守男さんと拳と拳を合わせた。
 英哲の太鼓の響きの中で生まれた私がいた。私の誕生日に守男さんが復活した。私は守男さんとこの戦いを通じて「生まれるんだ」と実感できた。眠りの中から黄金の稲穂と共に生まれ目覚めた私。守男さんの兵士としての戦いを引き継ぎ、闘う中で新たな大人の自分が生まれてくるにちがいない。まずは戦いありきだ。なんとか語ってみようと思う。
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田植えから見えたこと ★特別養護老人ホーム 角津田美香【2013年6月号】

 銀河の里に来て2年目の今年、同期の川戸道さんと二人で里のもち米作りを任せてもらうことになった。4月の種蒔きから約1カ月間、育苗と田植えに向けて畦うち、田起こし、代掻きなど準備を進めてきた。
 いつも川戸道さんと相談し計画・実行してきたのだが、田植えが近づくにつれ、川戸道さんと歩調が合わなくなった。勤務時間が合わずなかなか会えないのに加えて、計画の進行状況や互いの思いをきちんと共有できなくなり、二人でやっている感覚は次第に薄れてきていた。田植え直前の仕上げの代かきは、勤務の都合から私一人で行うことになった。夜勤明けの私に、ほくとの重雄(仮名)さんが「がんばれ~、がんばれ〜、げんかい〜♪」と、応援歌(重雄さんいわく『限界ブルース』)を贈ってくれた。川戸道さんと繋がれないモヤモヤもあり、意地でもやらなくてはという思いで代かきに臨んだが思うように仕上げられなかった。ワークステージ(以下「WS」)の哲哉さんや正一さん(仮名)、戸來さんたちが見に来てくれて「何のための代掻きなのか考えて」と助言してくれたが、自分自身の甘さを情けなく思った。

 田植えの前夜、川戸道さんとユニット「こと」を訪れた。私はリビングに居た上小路さん(仮名)の隣に何気なく座った。挨拶すると上小路さんが語り始めた。「人はね、変わっていくものなんです」「協力して……片方だけ頑張ってもだめなんだしなぁ」と解っているかのようなずしりとくる一言。やれやれ、というような表情で笑みを浮かべながら語る上小路さん。「一緒に話しながらやったら良いんだ」と川戸道さんを指さして言う。あまりにもすべてお見通しな言葉の数々に怖くなるほどだった。最後に「頑張ってくださいよぉ!勉強して、ねっ」という上小路さんの言葉に背中を押され、翌日の田植えの日を迎えることとなった。

 田植えの当日は、朝から完ぺきな晴天に恵まれた。先輩スタッフの三浦さんと新人スタッフの中村さんが、田んぼの線引きや苗運び等の準備を手伝ってくれた。WSの哲哉さんも来て、テントやパラソルを設置してくれた。
 そして今年も、各部署から多くの利用者とスタッフが田んぼにやってきた。特養ほくとで今年100歳を迎えたトメさん(仮名)と、数日前から「田植えを見に行こう」と話していた。トメさんはかつて4反歩の田を一人で手植えしていたと言う人だ。麦わら帽子を被り「フッフッフ〜」と笑うトメさん。しかし、当日出発直前になってトメさんの携帯用の酸素が無いのに気がついた。準備不足が露呈した。もう田んぼへ向かう気持ちが溢れ出ているトメさんに、中止はできない。医務から借りてなんとかなった。田んぼに行くとスタッフの菜摘さんと並んで田植えの様子を見守った。作業をしっかりと見てくれていた。同じくほくとのフユさん(仮名)は、新人スタッフ中村さんと一緒に田んぼへ来た。いつもは夢の世界(最近では更に遠い場所?)で過ごしていることの多いフユさん。この日も、どこか遠くへ出掛けていた。ところが田んぼでは田植えも人の動きもよく見ていた(田んぼを見下ろすのではなく、見上げている)。心配された体調は落ち着いており、中村さんと二人の時間も過ごせたようだった。
 すばるの政治さん(仮名)は、顔の大きさほどもあるおにぎりを片手にやって来て、田んぼそっちのけで頬張っていた。数日前、政治さんは「あれ……、頼むっ」とユニットから窓の向こうの田んぼを指さして言ったことがあった。普段は眠っていることが多い政治さんだが、なぜか押さえるところは外さないのが不思議だ。
 オリオンの桃子さん(仮名)は、新人スタッフの清信さんと来ていた。田んぼに二人とも入らなかったことは残念だったが、苗の束を勢いよく田に投げ入れてくれた。同じくオリオンの明子さん(仮名)は、数日前に居室のナースコールが『苗』のイメージになり、田植えの話をしていたことから、急遽田植えに参加することになった。入居4年目にして初めてのことだった。明子さんは両脇をスタッフに支えられ、車椅子から降りて田んぼに足をつけると、5束程の苗をゆっくり、しっかりと横一列に植えていった。様子を見ていた周りの人々の歓声の中で、明子さんの満足気な笑顔が印象的だった。手植えがこんなにもそれぞれを生き生きとさせることを経験しながら、私も嬉しかった。

 川戸道さんとの連携のとれなさから「一緒にやるってどういう事なんだろう、二人でやっている意味はあるのだろうか」とぐるぐるしながら田植えの日を迎えた。私たちは当日は全体を見る「目」として居なくてはならなかったが、その役目を十分に果たせたとは言えなかった。田植えが終わって川戸道さんと反省会をもった。「角津田さんと一番繋がれていなかった気がする」と川戸道さんも言った。それぞれが同じことを感じながら、でも言葉にできずすれ違っていた。

 田植えまで、あらゆる場面で多くの方々の力を借り助けてもらってきた。一人ではとても出来ないことでも、誰かがいると可能になるし、心強い。ただ、いつも周りに助けてもらってばかりで、ほとんど自分で生きていないし考えていないのは課題だ。川戸道さんと息を合わせて、今後の田んぼ作業に向き合っていきたい。秋にはおいしい餅米でいろいろ作って、みんなと祝いたい。

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がんばれ新人たち!
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ありがたい大きな時間 ★特別養護老人ホーム 川戸道美紗子【2013年6月号】

 5月31日、銀河の里の田植えをした。もち米の田を手植えした。天気はすごく良く、きれいな青空だった。
 午前、午後と田んぼにたくさんの利用者さんが集まった。利用者さんごとにいろんな苗の植え方がある。田んぼには前もって線を引いてあるので、その線に従えばきれいに植えられるはずなのに、十人十色の植え方でごちゃごちゃになるのがまた楽しかった。
 私と一緒に植えた祥子さん(仮名)は、種まきの時も苗箱にタネをぎっしり蒔いてくれたのだが、田植えも「こんなに苗と苗、離れてていいの〜!?」と自己流で隙間に苗を足していく。祥子さんの田植えは本気だ。(私は所詮体験的な田植えをしている感覚が少なからずあるが…)不作だと飢えたり、死んだりもするかも知れない命がけの米作りだった。昔から祥子さんは稼いできたんだなと思った。その強い表情から、生きるか死ぬか…半端じゃない作業を感じさせられた。
 午後、利用者さん達がまた続々と集まってくる。そんなとき、田んぼの脇の側溝にバンの前輪がはまって田んぼ前の道路を塞いでしまった。田んぼ前の道路は狭く、この状況で一般の自動車が通るとなったら大変なことだ。ましてやバンの後ろにはまだ利用者さんが乗ったキャラバンが続いていた。
 この時間は理事長・施設長も戸來さんも中屋さんもおらず…全体の指揮をとってくれる人がいなかった。自分自身どうしたらいいのか分からなかった。この時何となく…焦りも手伝ってか、将来の銀河の里像を浮かべてしまった。いつまでも頼れる人がいるとは限らない。皆が見守る中、最終的には酒井さん達の誘導のもと齋藤さんがバンを動かしてくれて、怪我人もなく何とかなった。私は見守りながら心の中で「そうだよ、こうやって“皆で”守っていくんだよ」とホッとした。
 午後も多くの利用者さんの参加があって、15時過ぎに田植えは無事に終了した。遅れて来た利用者さんは田んぼには入れなかったが、植え終わった田んぼを眺めるのもいい時間だった。私はタクヤさん(仮名)とユキさん(仮名)と並んで田んぼを眺めた。ユキさんは、小昼(こびる:おやつ)のヨウカンを広周さんと二人で食べて笑顔だった。私はその二人を見ているとすごく幸せな気持ちになった。ユキさんはずっと前から手植えの話題になると「おら出来ねえもん…歩けないから…」と言っていた。しかしいざ田んぼに行くと、しっかり見て、「ちゃんと育つかな?」と聞くと、ユキさんは「なるんだ、いっぺーなるんだ」と微笑んでくれた。
タクヤさんは…ぽつっと、「間違えなさい…でも壊さない様に」なんと怖い一言だ。

 田んぼ作業を共にしてきた同僚の角津田さんと気持ちがすれ違い、前日までやりとりがうまく行かなかった。角津田さんも私もモンモンとしていて、お互いそれに気付きながらどうにも出来なかった。前日の夜、ユニット「こと」へふらっと行ってみると、角津田さんが上小路さん(仮名)の隣に座って話を聞いていた。そこには清子さん(仮名)もいて、私は清子さんの隣に何となく座った。角津田さんと私が揃ったからか、上小路さんの語りは上小路さん自身のやってきた仕事の話をしつつ、やがて私たち二人への言葉になってきた。「二人で話していきなさい」「失敗しなきゃダメ!!」…私たちの目を見ながら真剣に語ってくれる。清子さんも神妙な顔で上小路さんや私を見つめる。時々聞こえる五七さん(仮名)の「早くやらねばねんだ」というつぶやきも私達の田んぼの作業の事にしか聞こえない。
 その時ユニット「こと」にいたスタッフ山岡さん、酒井さん、米田さんは皆、その上小路さんの言葉に耳を傾けていた。ピンと張り詰めて、皆がドキドキしながらその語りを聞く空間になっていた。私はずっと涙をこらえていた。利用者さんは、角津田さんと私のことをこんなに見ていてくれている。不思議でありがたくって嬉しかった。

 この田植えを通して、私は利用者さんに、私自身や角津田さんとの関係を見つめさせられたように感じる。自分を見つめたり、角津田さんとのコンビの連携などを問われるいい機会だったように思う。まるで段取りができず…申し訳なく思う。それはこれから取り組む、稲刈りや来年の手植えへの課題だと思う。これからもそうした課題を角津田さんと話ながら頑張っていきたい。

 田植えは終わったがこれから水の管理、草刈りと稲を育てていく作業がたくさんある。これからも利用者さんやスタッフと一緒にやっていきたい。今回感じた他の部署との連携不足、前後の段取りなど反省点もたくさんある。それらを乗り越えながら、秋の稲刈りがすごく楽しみだ。すごくわくわくする。
 他の部署との打ち合わせは手植えの4日前でギリギリになってしまった。それでも各ユニットのスタッフ達が助けてくれた。段取りが悪い私達を支えてくれた皆さん、本当にありがとうございました。

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田植え行くぞ〜!
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カラフルな動物園 ★ワークステージ 昌子さん(仮名)【2013年6月号】

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★休日に職員と動物園に行ってきた昌子さんは、たくさんの動物を見てきたようです。カラフルな動物たちが楽しそうにしていますね!
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里売り ★ワークステージ 村上幸太郎【2013年6月号】

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★週に2回、通称“里売り”と呼ばれる社内販売を開催しています。惣菜班の利用者と職員で各部署を回る移動販売です。商品はお馴染みのギョーザやシューマイの他、出来立てのパンや唐揚げ、手作りのプリンやコロッケ、味噌も販売しています。毎回違うメニューを販売するよう心がけ、みんなに喜ばれる里売りができるようがんばってま〜す!
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