2013年04月15日
新歓に芽吹く里の春 ★施設長 宮澤京子【2013年3・4月号】
『弱いロボット』の登場
ゴミを見つけるけど拾えず、雑談はするけど何を話しているか分からない、一見役に立たないロボット・・・敢えてそんなロボットを作っている工学博士、岡田美智男氏が書いた本。ロボットというと、人間を超えて正確かつ迅速に作業を処理したり、人間に代わって優秀な作業をこなす便利な「機械」という概念が一般的だろう。ところが、ロボット開発の最前線で、人間のメンタルに働きかける機能を「弱いロボット」に託して追求している人がいる。シンプルで不完全で曖昧な存在であるが故に、逆に人間が心を遣ったり、身体を動かす結果になり、ロボットは便利さを追求する機械や道具ではなくなった。今までのロボットに対する概念をくつがえしてしまったキーワードが、「弱さ」にあるという。弱さをあえてロボットに持たせたことで、人間が心を動かし、つい手をだし、何やら出会ってしまう。人間の感情を揺さぶり疑問を持たせ、能動的な行為を引き出すという現代人が苦手とするコミュニケーションの究極を、これからはロボットが担う時代になるのだろうか。(『弱いロボット』は、医学書院の『ケアを開く』シリーズの一冊である。)
それはさておき、「弱さ」は新人の初々しさとも通じるように思えるのだが、事実、今年度11名の新人を迎えた里のあちこちで、弱さに引き出されたエピソードが輝いているように感じたので、その一つを紹介したい。
【弱さのミラクル】
グループホーム第2に入居されている歩さん(仮名・87歳)は、厳しくも温かく、目配り気配りの行き届いた日本的な良妻賢母が身についた、きちんとした生き方をされてきた人だ。身だしなみに関しては特に厳しく、スタッフがボタンを開けてラフな格好でいようものなら、何気に近づいてボタンをかけようとする。一番上のボタンまでキチンとはめるので、のどに引っ掛かって苦しい。また髪の毛が少しでも顔にかかっていると、すかさず手櫛で押さえて「切った方がいいじゃない?」と声をかけてくれる。ボタンやチャックがだらしなく開いていると、その人のためというより、歩さんの流儀上、許せなくて正さずにはおれないようだ。自分の流儀にのっとって料理・洗濯・掃除等の家事全般を、きちんとこなしてきた人だが、認知症の進行で「洗い方が汚い、味付けがおかしい、ふきんと雑巾がごっちゃだ」など周囲から諭される機会が多くなり、火の始末の危険もあって、ここ数年は台所に立つことはなくなっていた。食事時もテーブルを拭くくらいで、あとは配膳された食事を遠慮がちに食べるのが日常になっていた。
ところが今年度の男性新人、佐々木伸也君が実習期間を終えて業務の独り立ちの日のこと。食事当番で緊張しながら台所に立った彼を見た歩さんは、何のためらいもなく台所に入り、お鍋がかかっているガスの火元を確認し、みんなのお椀に味噌汁を注ぎ始めた。スタッフは、そんな歩さんの姿を久しく見たことがないので驚いた。誰が頼んだ訳ではない。若い頼りなげな男性が台所に立っているのを見て「これは大変なことだ。ここで私が入らずば、事は収まるまい。黙って見過ごす事は、母としての流儀に背く」と思ったのだろうか。そんな大上段に構える歩さんの性格ではないが、凄味を感じさせられる話だった。新人の伸也君は純な感じで、どこか母性本能をくすぐる要素を大いに持っている。そうした「弱さ」を感じ取った歩さんは、ごく自然に身体が動いたのだろうと思う。
伸也君はその時、歩さんに大いに救われたにちがいない。作業を手伝ってもらったという事で、助かったとか楽になったということでは全くない。社会人1年生の彼が、長い間に渡って支えられ育てられる大事な瞬間だったと想像するからだ。歩さんの往年の彼女らしさを遺憾なく発揮させ、復活させたのは、おぼつかない新人の初々しさであったとするなら、それは誰にでもできることではない。ベテランでは起こりえない、新人にしかできない奇跡の場面ではなかったか。
【ケアの相互性】
歩さんは新人の戸惑い、緊張を見逃さなかっただけでなく、ためらうことなく自らの本性を蘇らせ助っ人に入ってくれた。介護現場におけるケアする側・される側という役割の固着をどう乗り越えるかというのは、現場にとって大きな課題である。表面上の体制としては、全く揺るぎようのないこの関係だが、次元が変われば簡単に逆転しうるし、どちらがケアしケアされているのか全くわからなくなっていく。私は、こうしたケアの対称性が曖昧になり、相互性が生まれてくる次元に至らなければ、介護現場は瞬く間に管理収容施設に成り下がってしまうのではないかという危機感を常に持っている。今回のミラクルが、介護される側の「弱さ」と新人の「弱さ」によって引き起こされ、二人は台所で「不安と孤独」から救われ癒されるという大いなる経験をした。この経験をした二人の関係が、今後どのように展開していくのか・・・。その先は誰にもわからない。わからないからこそみんなワクワクしながら見守っている。
里は今、春の芽吹きと新人達の初々しさに、何かが起こり、何かが始まっていく「ときめき」に満たされている。
ゴミを見つけるけど拾えず、雑談はするけど何を話しているか分からない、一見役に立たないロボット・・・敢えてそんなロボットを作っている工学博士、岡田美智男氏が書いた本。ロボットというと、人間を超えて正確かつ迅速に作業を処理したり、人間に代わって優秀な作業をこなす便利な「機械」という概念が一般的だろう。ところが、ロボット開発の最前線で、人間のメンタルに働きかける機能を「弱いロボット」に託して追求している人がいる。シンプルで不完全で曖昧な存在であるが故に、逆に人間が心を遣ったり、身体を動かす結果になり、ロボットは便利さを追求する機械や道具ではなくなった。今までのロボットに対する概念をくつがえしてしまったキーワードが、「弱さ」にあるという。弱さをあえてロボットに持たせたことで、人間が心を動かし、つい手をだし、何やら出会ってしまう。人間の感情を揺さぶり疑問を持たせ、能動的な行為を引き出すという現代人が苦手とするコミュニケーションの究極を、これからはロボットが担う時代になるのだろうか。(『弱いロボット』は、医学書院の『ケアを開く』シリーズの一冊である。)
それはさておき、「弱さ」は新人の初々しさとも通じるように思えるのだが、事実、今年度11名の新人を迎えた里のあちこちで、弱さに引き出されたエピソードが輝いているように感じたので、その一つを紹介したい。
【弱さのミラクル】
グループホーム第2に入居されている歩さん(仮名・87歳)は、厳しくも温かく、目配り気配りの行き届いた日本的な良妻賢母が身についた、きちんとした生き方をされてきた人だ。身だしなみに関しては特に厳しく、スタッフがボタンを開けてラフな格好でいようものなら、何気に近づいてボタンをかけようとする。一番上のボタンまでキチンとはめるので、のどに引っ掛かって苦しい。また髪の毛が少しでも顔にかかっていると、すかさず手櫛で押さえて「切った方がいいじゃない?」と声をかけてくれる。ボタンやチャックがだらしなく開いていると、その人のためというより、歩さんの流儀上、許せなくて正さずにはおれないようだ。自分の流儀にのっとって料理・洗濯・掃除等の家事全般を、きちんとこなしてきた人だが、認知症の進行で「洗い方が汚い、味付けがおかしい、ふきんと雑巾がごっちゃだ」など周囲から諭される機会が多くなり、火の始末の危険もあって、ここ数年は台所に立つことはなくなっていた。食事時もテーブルを拭くくらいで、あとは配膳された食事を遠慮がちに食べるのが日常になっていた。
ところが今年度の男性新人、佐々木伸也君が実習期間を終えて業務の独り立ちの日のこと。食事当番で緊張しながら台所に立った彼を見た歩さんは、何のためらいもなく台所に入り、お鍋がかかっているガスの火元を確認し、みんなのお椀に味噌汁を注ぎ始めた。スタッフは、そんな歩さんの姿を久しく見たことがないので驚いた。誰が頼んだ訳ではない。若い頼りなげな男性が台所に立っているのを見て「これは大変なことだ。ここで私が入らずば、事は収まるまい。黙って見過ごす事は、母としての流儀に背く」と思ったのだろうか。そんな大上段に構える歩さんの性格ではないが、凄味を感じさせられる話だった。新人の伸也君は純な感じで、どこか母性本能をくすぐる要素を大いに持っている。そうした「弱さ」を感じ取った歩さんは、ごく自然に身体が動いたのだろうと思う。
伸也君はその時、歩さんに大いに救われたにちがいない。作業を手伝ってもらったという事で、助かったとか楽になったということでは全くない。社会人1年生の彼が、長い間に渡って支えられ育てられる大事な瞬間だったと想像するからだ。歩さんの往年の彼女らしさを遺憾なく発揮させ、復活させたのは、おぼつかない新人の初々しさであったとするなら、それは誰にでもできることではない。ベテランでは起こりえない、新人にしかできない奇跡の場面ではなかったか。
【ケアの相互性】
歩さんは新人の戸惑い、緊張を見逃さなかっただけでなく、ためらうことなく自らの本性を蘇らせ助っ人に入ってくれた。介護現場におけるケアする側・される側という役割の固着をどう乗り越えるかというのは、現場にとって大きな課題である。表面上の体制としては、全く揺るぎようのないこの関係だが、次元が変われば簡単に逆転しうるし、どちらがケアしケアされているのか全くわからなくなっていく。私は、こうしたケアの対称性が曖昧になり、相互性が生まれてくる次元に至らなければ、介護現場は瞬く間に管理収容施設に成り下がってしまうのではないかという危機感を常に持っている。今回のミラクルが、介護される側の「弱さ」と新人の「弱さ」によって引き起こされ、二人は台所で「不安と孤独」から救われ癒されるという大いなる経験をした。この経験をした二人の関係が、今後どのように展開していくのか・・・。その先は誰にもわからない。わからないからこそみんなワクワクしながら見守っている。
里は今、春の芽吹きと新人達の初々しさに、何かが起こり、何かが始まっていく「ときめき」に満たされている。
修造いくぞう100歳だぞう! ★グループホーム第2 佐藤寛恵【2013年3・4月号】
修造さん(仮名)は入居してから9年を迎える。部屋にはたくさんの写真が貼ってある。そのどれもが修造さんと過ごした記録のひとつひとつで、人柄あふれる作品なので見ていて笑顔になる。いろいろなスタッフと出かけた思い出。リビングでお菓子作りをしている最中につまみ食いされてびっくりして大笑いのスタッフとの一枚、などなど。
その修造さんが100歳の誕生日を迎えた。修造さんはグループホームの守り神のような存在だ。お風呂が大好きで入れば本当に気持ちよさそうに「丁度いいよぉ−」と言ってくれるし、すごい食欲で居眠りをしていてもバナナが出れば嗅覚で気がついて、起きて食べてくれる。なぜ目覚めてくれるのかは分からないが、すでに神の域に達しているレベルなのでバナナも見えてしまうのかもしれない。とてもパワフルで不思議な、なんで分かるんだろうという言葉をくれることもある。ライブが終わったときには「ご苦労様」と握手でねぎらってくれたり、練習中は「大丈夫だぁ」や「いいよぉ−」と励ましてくれる。修造さんの前で俯せたら、頭を最初はなでてくれて、最後はパシンと叩かれた。気合の入る一発で、よしっと思わされる。
100歳の誕生日を目前にしたある日「おれがいなくても大丈夫だべ?」と聞いてきた。インフルエンザにもかかった。『大丈夫だぁ』がないと私たちはまだまだダメなのになに言ってんの。「だめだあ、頼む〜。まだまだ、頼むよぉ」と心から思った。
敬老の日には賞状と銀杯と漆器をもらった。待ちに待った誕生日は家族さんがお寿司を持っていらした。普段はソフト食の修造さんが、この日は娘さんの食事介助で、寿司もそばもたいらげた!息もピッタリで、一緒に食べているという感じで、ぱくぱくと食は進むし、そばもすすってくれる。ノンアルコールビールも「飲め、飲め−」とお孫さんが銀の杯についで、むせることなく実にうまそうに飲んだ。さらに大皿にのせたムースケーキも全部食べた!やっぱり修造さんはすごい。見事な100歳の飲みっぷり食べっぷりは本当に素晴らしかった。0歳のひ孫さんも一緒に過ごしながら「一世紀違うんだな、すごいなぁ」と家族さんが感嘆していたら、そのひ孫さんの手まで食べてしまった。なんか御利益あげたんだなぁと思う。
スタッフの美貴子さんは、100歳を記念して入居からの日々の特選100枚の写真を用意してくれた。真白さんからのケーキも、修造さんはそれを分かって食べているようで、ふたりの関係を感じた。
後日、改めて、夜の誕生日会を開き、歌とノンアルコールビールとバナナとデザートで100歳を祝った。修造さんは、歌を肴に思う存分ビールをのみ、最後は「酔っぱらったぁ」と顔をまっ赤にしていた。でも酔っぱらって(飲み過ぎて?)吐いてしまったので不安になったが、少し寝ると蘇った。翌日はいつも通りの食欲で、さすがだ。
先日は寝言で「まだ歩くよ〜、やっぱり歩く〜」と言っていた。花見の話をしていると「家さ行く〜」とはっきり言う。花見だよ?と聞き返したが、「家さぁ」とまた繰り返すので、家の八重桜のことだ!と気がついた。「ビールは何本持って行くの?」と聞いたら、「4本!」と明快だった。100歳が見る桜とノンアルコールビールは格別だろう。部屋にいても、時空を超えてどこへでも行ってしまえる修造さんは、たまにはあの世に行ってきたりすることもあるらしい。寝ぼけて「ここはあの世かこの世か?」と聞いたことがある。それでもまだまだ現実でもいろんなところに行きたいし、私たちを連れて行ってほしい。第2グループホームにいつもドンといて見守ってくれる修造さんを、みんな頼りにしていて大好きだ。
その修造さんが100歳の誕生日を迎えた。修造さんはグループホームの守り神のような存在だ。お風呂が大好きで入れば本当に気持ちよさそうに「丁度いいよぉ−」と言ってくれるし、すごい食欲で居眠りをしていてもバナナが出れば嗅覚で気がついて、起きて食べてくれる。なぜ目覚めてくれるのかは分からないが、すでに神の域に達しているレベルなのでバナナも見えてしまうのかもしれない。とてもパワフルで不思議な、なんで分かるんだろうという言葉をくれることもある。ライブが終わったときには「ご苦労様」と握手でねぎらってくれたり、練習中は「大丈夫だぁ」や「いいよぉ−」と励ましてくれる。修造さんの前で俯せたら、頭を最初はなでてくれて、最後はパシンと叩かれた。気合の入る一発で、よしっと思わされる。
100歳の誕生日を目前にしたある日「おれがいなくても大丈夫だべ?」と聞いてきた。インフルエンザにもかかった。『大丈夫だぁ』がないと私たちはまだまだダメなのになに言ってんの。「だめだあ、頼む〜。まだまだ、頼むよぉ」と心から思った。
敬老の日には賞状と銀杯と漆器をもらった。待ちに待った誕生日は家族さんがお寿司を持っていらした。普段はソフト食の修造さんが、この日は娘さんの食事介助で、寿司もそばもたいらげた!息もピッタリで、一緒に食べているという感じで、ぱくぱくと食は進むし、そばもすすってくれる。ノンアルコールビールも「飲め、飲め−」とお孫さんが銀の杯についで、むせることなく実にうまそうに飲んだ。さらに大皿にのせたムースケーキも全部食べた!やっぱり修造さんはすごい。見事な100歳の飲みっぷり食べっぷりは本当に素晴らしかった。0歳のひ孫さんも一緒に過ごしながら「一世紀違うんだな、すごいなぁ」と家族さんが感嘆していたら、そのひ孫さんの手まで食べてしまった。なんか御利益あげたんだなぁと思う。
スタッフの美貴子さんは、100歳を記念して入居からの日々の特選100枚の写真を用意してくれた。真白さんからのケーキも、修造さんはそれを分かって食べているようで、ふたりの関係を感じた。
後日、改めて、夜の誕生日会を開き、歌とノンアルコールビールとバナナとデザートで100歳を祝った。修造さんは、歌を肴に思う存分ビールをのみ、最後は「酔っぱらったぁ」と顔をまっ赤にしていた。でも酔っぱらって(飲み過ぎて?)吐いてしまったので不安になったが、少し寝ると蘇った。翌日はいつも通りの食欲で、さすがだ。
先日は寝言で「まだ歩くよ〜、やっぱり歩く〜」と言っていた。花見の話をしていると「家さ行く〜」とはっきり言う。花見だよ?と聞き返したが、「家さぁ」とまた繰り返すので、家の八重桜のことだ!と気がついた。「ビールは何本持って行くの?」と聞いたら、「4本!」と明快だった。100歳が見る桜とノンアルコールビールは格別だろう。部屋にいても、時空を超えてどこへでも行ってしまえる修造さんは、たまにはあの世に行ってきたりすることもあるらしい。寝ぼけて「ここはあの世かこの世か?」と聞いたことがある。それでもまだまだ現実でもいろんなところに行きたいし、私たちを連れて行ってほしい。第2グループホームにいつもドンといて見守ってくれる修造さんを、みんな頼りにしていて大好きだ。
死と音楽を学ぶ ★特別養護老人ホーム 川戸道美紗子【2013年3・4月号】
銀河の里に来てから1年がたつ。同時に、私が初めてドラムに触れてからも1年になる。
始めたばかりの下手な演奏だが、里バンド、特養バンドでドラムを叩かせてもらって、1年が過ぎた。「なんのためにドラムを叩いているの?」という問いは、周りからも自分の中にもあったが、「叩きたいから」と子供っぽい浅い単純なことしか言えなかった。
去年の秋からショートステイを利用していた徳紀さん(仮名)は、しっかりしていて「自由な人」という印象だった。語り口調は独特でおもしろかった。この2月にショートで「こと」にやってきた時は、今までの印象ががらっと変わって弱気な感じだった。体の不調を訴え、「もう俺はだめなんだ」と今までなかった投げやりな言葉が増えていて、その変わりようにスタッフは驚いた。
ショート中、不調を訴え徳紀さんは病院受診した。元々あった肺ガンが進行して、長くはもたないだろうとの診断だった。私は、そもそも肺ガンの事も知らなかったし、その上長くないと聞かされて言葉が出なかった。徳紀さん本人はそれを理解し解っていたんだと、今になって思う。
ある時、私が部屋に行くと「もう死にてぇ〜、楽になりてぇ〜」と力なく話した。私はそれに何と返したらいいのかわからなかった。楽にしてあげたい気持ちはあるが、それは死ぬことなのだからなんとも言えなかった。そのとき、一緒に部屋にいたスタッフの酒井さんが「そんなに行きたいなら行っちまえ、誰か待ってんのか?」と返した。少し笑顔で「・・・皆待ってらぁ〜」と答える徳紀さん。
ふたりのやりとりを見て、死という現実を本人と直球で共有するということに衝撃を受けた。ある程度は死ぬことも考えながらの関係であるのは分かっていたが、私は少なからず死から目を背けてしまう。だから思っても口に出せないことがたくさんある。だが徳紀さんや酒井さんには、死は恐ろしい事でも失う事でもなく、次に行くべき世界ということだけなんだろうかとこの時感じた。だから徳紀さんも死を待ち望めたのかな、と思う。
徳紀さんはその時「おれももうあと一週間だ」と話していたが、その言葉通り、一週間後に病院で亡くなった。体調不良とドクターの判断で、ショート中だが入院となっていた。それを聞いたとき、私は悲しさよりも「言葉通り行ったんだな」と徳紀さんの凄さを感じた。
徳紀さんが私に一生懸命語ってくれたことがある。「宗教じゃ人は幸せになれない、世界に宗教はたくさんあるけど戦争もたくさんある・・・」私の顔を見るたび、使命があるかのようにその言葉を連ねる。あとで聞くと、よく話していた話題ではあったそうだが、私はその言葉が特別の意味があった様に思えて仕方がない。徳紀さんが生きてきて、最後に残すべき言葉として伝えてくれた選んだ言葉としての重みを感じた。
人の死が、こんなにも晴れやかなものなんだろうかと感じてしまった。これまで何人かの利用者さんの死に接しては来たが、いつも「悲しみ」が大きすぎて向き合うことのできなかった私には初めての感覚だった。
徳紀さんが亡くなって運営推進会議のライブをやった。そこでバンドリーダーの酒井さんは徳紀さんに歌を捧げた。私も「歩く花」という曲でドラムを叩いた。
『 知ってるかい
忘れてはいけないことが
何億年も昔
星になったどんな時代のどんな場所でも
おんなじように見えるように 』
このフレーズから始まるこの歌を初めて聞いた時、まさしく徳紀さんの歌だと感じた。なんと明るくて優しくて切ない曲なんだろうと思った。この曲の練習をしたのはライブ当日の数時間前だった。不安もあったがどうしても私はこれをやりたかった。
今までの演奏とは全くちがう感じだったのには自分でも驚いた。「間違えないかな、うまくやれるかな」ではなく、徳紀さんに聞いてもらいたくて、捧げる想いで演奏できた。誰かの事を想いながらだと、すべてが違う光景になった。徳紀さんも一番いい席で歌を聞いてくれているように思えた。
最後、「歩く花」を演奏する前に、徳紀さんが買い占めていたという野菜ジュースで酒井さんと乾杯した(徳紀さんが亡くなった後、家族さんが特養に寄付してくれたもの)。徳紀さんとも乾杯しているような気分だった。
完璧な演奏とはならなかったが、達成感がものすごかった。いままでやった演奏とは違う感覚で不思議だった。あとで理事長に話したら、「想いを込めて演奏できた体験は大きかったんじゃないかな」と言われた。
これまで様々なライブをさせてもらってきたが、想いを伝える演奏を徳紀さんに教えてもらったように思う。私は「歩く花」を演奏している間、徳紀さんの言葉、表情、徳紀さんへの感謝で頭がいっぱいだった。だから演奏内容はあまり覚えていない。終わった後、酒井さんと握手をした。その時は徳紀さんも一緒に握手をしているようだった。3人が繋がった気がした。
徳紀さんと出会ったのは、たんなる偶然かもしれないが奇跡だと思う。徳紀さんがショートステイ利用をしてくれて、生きているうちも亡くなってからも教わることばかりだ。徳紀さんと出会えていなかったら私は迷い続けていただろう。徳紀さんの死によって、私は遠子さん(仮名)や様々な人の死に改めて向き合えるような気がする。もしかしたらずっと分からないままだった私を見かね、徳紀さんが教えに来てくれたのかもしれないし・・・徳紀さんには感謝することばかりだ。
ショート中、酒井さんが徳紀さんのために「上を向いて歩こう」を歌ったとき「坂本九は死んだけど、歌は残るもんな」と語った徳紀さん。死は終わりではないことをおぼろに感じつつある私だ。そうでなければその人と生きて出会った意味も無くなるだろう。
里に来て1年の間、利用者さんから命をかけて教えてもらったことがたくさんある。私はそれらをひとつひとつ大切に抱いて生きていこうと思う。ひとりでもドラムは叩けるが、それでは音楽の意味が無い。誰かと繋がれるドラム演奏でありたい。そう思えるようになってきた気持ちを胸に音楽をやっていきたい。
始めたばかりの下手な演奏だが、里バンド、特養バンドでドラムを叩かせてもらって、1年が過ぎた。「なんのためにドラムを叩いているの?」という問いは、周りからも自分の中にもあったが、「叩きたいから」と子供っぽい浅い単純なことしか言えなかった。
去年の秋からショートステイを利用していた徳紀さん(仮名)は、しっかりしていて「自由な人」という印象だった。語り口調は独特でおもしろかった。この2月にショートで「こと」にやってきた時は、今までの印象ががらっと変わって弱気な感じだった。体の不調を訴え、「もう俺はだめなんだ」と今までなかった投げやりな言葉が増えていて、その変わりようにスタッフは驚いた。
ショート中、不調を訴え徳紀さんは病院受診した。元々あった肺ガンが進行して、長くはもたないだろうとの診断だった。私は、そもそも肺ガンの事も知らなかったし、その上長くないと聞かされて言葉が出なかった。徳紀さん本人はそれを理解し解っていたんだと、今になって思う。
ある時、私が部屋に行くと「もう死にてぇ〜、楽になりてぇ〜」と力なく話した。私はそれに何と返したらいいのかわからなかった。楽にしてあげたい気持ちはあるが、それは死ぬことなのだからなんとも言えなかった。そのとき、一緒に部屋にいたスタッフの酒井さんが「そんなに行きたいなら行っちまえ、誰か待ってんのか?」と返した。少し笑顔で「・・・皆待ってらぁ〜」と答える徳紀さん。
ふたりのやりとりを見て、死という現実を本人と直球で共有するということに衝撃を受けた。ある程度は死ぬことも考えながらの関係であるのは分かっていたが、私は少なからず死から目を背けてしまう。だから思っても口に出せないことがたくさんある。だが徳紀さんや酒井さんには、死は恐ろしい事でも失う事でもなく、次に行くべき世界ということだけなんだろうかとこの時感じた。だから徳紀さんも死を待ち望めたのかな、と思う。
徳紀さんはその時「おれももうあと一週間だ」と話していたが、その言葉通り、一週間後に病院で亡くなった。体調不良とドクターの判断で、ショート中だが入院となっていた。それを聞いたとき、私は悲しさよりも「言葉通り行ったんだな」と徳紀さんの凄さを感じた。
徳紀さんが私に一生懸命語ってくれたことがある。「宗教じゃ人は幸せになれない、世界に宗教はたくさんあるけど戦争もたくさんある・・・」私の顔を見るたび、使命があるかのようにその言葉を連ねる。あとで聞くと、よく話していた話題ではあったそうだが、私はその言葉が特別の意味があった様に思えて仕方がない。徳紀さんが生きてきて、最後に残すべき言葉として伝えてくれた選んだ言葉としての重みを感じた。
人の死が、こんなにも晴れやかなものなんだろうかと感じてしまった。これまで何人かの利用者さんの死に接しては来たが、いつも「悲しみ」が大きすぎて向き合うことのできなかった私には初めての感覚だった。
徳紀さんが亡くなって運営推進会議のライブをやった。そこでバンドリーダーの酒井さんは徳紀さんに歌を捧げた。私も「歩く花」という曲でドラムを叩いた。
『 知ってるかい
忘れてはいけないことが
何億年も昔
星になったどんな時代のどんな場所でも
おんなじように見えるように 』
このフレーズから始まるこの歌を初めて聞いた時、まさしく徳紀さんの歌だと感じた。なんと明るくて優しくて切ない曲なんだろうと思った。この曲の練習をしたのはライブ当日の数時間前だった。不安もあったがどうしても私はこれをやりたかった。
今までの演奏とは全くちがう感じだったのには自分でも驚いた。「間違えないかな、うまくやれるかな」ではなく、徳紀さんに聞いてもらいたくて、捧げる想いで演奏できた。誰かの事を想いながらだと、すべてが違う光景になった。徳紀さんも一番いい席で歌を聞いてくれているように思えた。
最後、「歩く花」を演奏する前に、徳紀さんが買い占めていたという野菜ジュースで酒井さんと乾杯した(徳紀さんが亡くなった後、家族さんが特養に寄付してくれたもの)。徳紀さんとも乾杯しているような気分だった。
完璧な演奏とはならなかったが、達成感がものすごかった。いままでやった演奏とは違う感覚で不思議だった。あとで理事長に話したら、「想いを込めて演奏できた体験は大きかったんじゃないかな」と言われた。
これまで様々なライブをさせてもらってきたが、想いを伝える演奏を徳紀さんに教えてもらったように思う。私は「歩く花」を演奏している間、徳紀さんの言葉、表情、徳紀さんへの感謝で頭がいっぱいだった。だから演奏内容はあまり覚えていない。終わった後、酒井さんと握手をした。その時は徳紀さんも一緒に握手をしているようだった。3人が繋がった気がした。
徳紀さんと出会ったのは、たんなる偶然かもしれないが奇跡だと思う。徳紀さんがショートステイ利用をしてくれて、生きているうちも亡くなってからも教わることばかりだ。徳紀さんと出会えていなかったら私は迷い続けていただろう。徳紀さんの死によって、私は遠子さん(仮名)や様々な人の死に改めて向き合えるような気がする。もしかしたらずっと分からないままだった私を見かね、徳紀さんが教えに来てくれたのかもしれないし・・・徳紀さんには感謝することばかりだ。
ショート中、酒井さんが徳紀さんのために「上を向いて歩こう」を歌ったとき「坂本九は死んだけど、歌は残るもんな」と語った徳紀さん。死は終わりではないことをおぼろに感じつつある私だ。そうでなければその人と生きて出会った意味も無くなるだろう。
里に来て1年の間、利用者さんから命をかけて教えてもらったことがたくさんある。私はそれらをひとつひとつ大切に抱いて生きていこうと思う。ひとりでもドラムは叩けるが、それでは音楽の意味が無い。誰かと繋がれるドラム演奏でありたい。そう思えるようになってきた気持ちを胸に音楽をやっていきたい。
クニエさん発表 ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2013年3・4月号】
3月12日に、盛岡市アイーナで行われた岩手県認知症高齢者グループホーム協会の研修会で事例の発表をした。「クニエさんと生きる 〜継がれる命〜」というタイトルだったが、約90分の発表をさせてもらい、その後40分ほどの質疑応答をするというワークショップ形式で行われた。会場は50名ほどの参加者で、県内のグループホームで働いているベテランから経営者、入ったばかりの新人など様々な参加者だった。
この研修は「10月に開かれる全国大会では、今までとは違った形で、現場で起きていることを生の形で伝え議論できないか」という提言を行うことになっており、その前に地元岩手で新しい形になじんでおいてもらいたいと企画された研修だった。この研修に合わせて1ヶ月以上前から、クニエさん(仮名)の事例に取りかかったのだが、クニエさんが亡くなったのは昨年の暮れで、まだ間もなくて、ふり返るには早かった気持ちもあった。また、渦中にいた私はクニエさんとの関わりや、他のスタッフとクニエさんとの関わりが、いまいちつかめていなかった。当時、気持ちは激しく揺れ動き、クニエさんとの関わりのなかで心はめまぐるしく動いたのだが、その意味や動いた想いの細かな内容はくみ取れていないままだった。それを、文章にしようとすればするほど、出来事や想いが簡単になったり軽くなってしまう感じがして苦しかった。
大会の10日前になっても原稿は完成していなかった。毎日のようにパソコンに向かい事例をまとめようと、文章を作ろうとはするのだが、気持ちはついていかなかった。書けば書くほど、当時のその時の想いや心の動きからはかけ離れていってしまう。しまいには、今クニエさんとの関係を文章にまとめることによって、そのときの体験を限りなく小さく簡潔にしてしまい、ものすごく傷つけたり閉ざしてしまっているのではないかという感覚になっていった。
「クニエさんと過ごしてきた時間を発表したことで何が変わるのか?」「今、とてもひどいことをしているのでは?」と自問自答するようになった。
そのことを理事長に話した。理事長は「確かに一面暴力ではある。だから傷つける事になるし、傷つくだろう。でもそれをしないと、自分では見えてこないものがたくさんあるし、他者には伝えられない。それをあえてやる必要がある。そして時もある」「言葉にすると、言葉は限定するものだから、そこには抜け落ちてしまうことが出てくる。実際の体験そのものは語れないし、語ったとたん違ってしまうのは免れない。しかしだからこそどう語るかが問われるし、どう語ったかが大事になってくると思う」と言われた。意味はよく解らなかったが「傷つくんだ」という事だけはわかった。「じゃあどうすればいいですか」と迫ると「傷つくしかない、傷つきながら癒していくんだ」と言われた。甘えていてはいけないことと、これは自分にとっての戦いなんだと思った。
ギリギリの前日に原稿はなんとか完成した。そして12日当日、会場に着くと、1年前に神戸でも事例を発表したことが思い出された。神戸の発表は時間が20分で、全く伝えたいことも伝えられず、会場の方もぽかーんとして聞いていて、質問もひとつとして手が上がらず、呆然としたまま終わった感じだった。
時間終了5分前にならされるはずのベルさえ、私の発表では鳴らなかった。あの静まりかえった場違いな感じは何だったんだろうと思い出す度に不思議だった。今回は発表時間は充分に取ってもらっているが、私は何を伝えたいのかが分からないまま発表する感じだった。それもあって、発表後の質疑応答は全く期待しておらず、神戸のような違和感で終わるものだと自分で勝手に思いこんでいた。
発表は、会場を暗くしパワーポイントで写真を見てもらいながら行った。はじめに戸來さんが、クニエさんのお葬式に参加した時の様子を話してくれた。お葬式は実家の遠野で行われ、山奥で遠野物語を彷彿とさせるような環境と、遠野らしい儀式の様子を紹介してくれた。その後を継いで、私は「クニエさんと生きる 〜継がれる命〜」の発表を始めた。発表を始めると私はいつの間にかクニエさんの世界に入り込んでしまい、読みながら一人でクニエさんとの日々に浸っている感じになった。その時々のクニエさんとのことを思い起こしたり、これで良かったんだろうか、もっとやれることはあったはずだった、などと考えが巡ってしまい、新しい発見や感覚が次々に出てくる感じになった。途中でやめてもう一度考える時間が欲しくなったほどだ。それでもなんとか90分の発表を終えた。そのとたん「あ、今事例発表していたんだ。」と我に返るような感じで現実に戻った。
発表中は、原稿の中のクニエさんだけが気になって、クニエさんと一緒に生きているような感じになった。それで会場の雰囲気や反応はまったく感じることができなくなっていた。発表が終わったとき「どうせまた神戸のように、質問もなにも出ないんだろうな」と思っていたので、それまでの15分の休憩の間に、私の方から会場に投げかける質問を10個以上考えていた。理事長は理事長で、会場の静まりかえった雰囲気を背中で感じながら、「これはだめだ、みんな寝てるな」と思っていたらしい。
質疑応答が始まった。すると、先ほどまでの「どうせ…」が吹き飛んだ。会場から次々に手があがり、発言があった。しかも勤務体制や日課やマニュアルなどといった表面的な事ではなく、発表を聞いて「個人として父親の死を思い起こさせられた」「似たような経験をした」「私の施設でも看取りの時…」「心が動いて…上手く言葉に出来ないけれど…」と、言葉では説明できない、こころの大きな動きを伝えてくれて、涙ながらに語ってくれた。会の事務局の内出さんも興奮気味で「これが現場の本当の話でしょ。午前中の研修なんか、これと比べるとクソみたいなもんじゃないですか。みんな今の気持を伝えてくださいよ」と発言を引き出してくれた。次から次に上がる感想や、それぞれの体験が語られて、40分の討議の時間は全く足りない感じで終わった。「現場の感度はいいんだ!みんな何かしらを感じてくれてる」それぞれの発言に、私は涙が流れそうになるのを押さえるのが精一杯だった。
恐れていた神戸の発表の時の印象とは全く違った手応えと雰囲気の事例検討会になって私自身驚いたし、会場に支えられ救われた。書くことで負った傷はそこで充分に癒され元気をもらった。私の発表を守るために、これには里の重鎮6名が揃って出席していたのだが、ほとんど出る幕はなかった。しかも、10月の大会で発表する予定になっている誌穂美さんもこの会場に支えられた感じで「これで書ける」と思ったというほどだった。ふり返ると「事例とはこうゆうものだ」と決めつけていて、自分自身がもったいないものにしていたように思う。銀河の里に就職してから3年目にして、なにか大きな体験ができた。銀河の里の外でも、現場の人たちが同じように感じて心が動く人もいるんだと実感できたことは大きい。事例研究・事例検討ということがいかに重要で大きな可能性を秘めているのかを発見できたように思う。そして、私は銀河の里4年目!対外的にもいろんな動きがあるという。楽しみだ。
この研修は「10月に開かれる全国大会では、今までとは違った形で、現場で起きていることを生の形で伝え議論できないか」という提言を行うことになっており、その前に地元岩手で新しい形になじんでおいてもらいたいと企画された研修だった。この研修に合わせて1ヶ月以上前から、クニエさん(仮名)の事例に取りかかったのだが、クニエさんが亡くなったのは昨年の暮れで、まだ間もなくて、ふり返るには早かった気持ちもあった。また、渦中にいた私はクニエさんとの関わりや、他のスタッフとクニエさんとの関わりが、いまいちつかめていなかった。当時、気持ちは激しく揺れ動き、クニエさんとの関わりのなかで心はめまぐるしく動いたのだが、その意味や動いた想いの細かな内容はくみ取れていないままだった。それを、文章にしようとすればするほど、出来事や想いが簡単になったり軽くなってしまう感じがして苦しかった。
大会の10日前になっても原稿は完成していなかった。毎日のようにパソコンに向かい事例をまとめようと、文章を作ろうとはするのだが、気持ちはついていかなかった。書けば書くほど、当時のその時の想いや心の動きからはかけ離れていってしまう。しまいには、今クニエさんとの関係を文章にまとめることによって、そのときの体験を限りなく小さく簡潔にしてしまい、ものすごく傷つけたり閉ざしてしまっているのではないかという感覚になっていった。
「クニエさんと過ごしてきた時間を発表したことで何が変わるのか?」「今、とてもひどいことをしているのでは?」と自問自答するようになった。
そのことを理事長に話した。理事長は「確かに一面暴力ではある。だから傷つける事になるし、傷つくだろう。でもそれをしないと、自分では見えてこないものがたくさんあるし、他者には伝えられない。それをあえてやる必要がある。そして時もある」「言葉にすると、言葉は限定するものだから、そこには抜け落ちてしまうことが出てくる。実際の体験そのものは語れないし、語ったとたん違ってしまうのは免れない。しかしだからこそどう語るかが問われるし、どう語ったかが大事になってくると思う」と言われた。意味はよく解らなかったが「傷つくんだ」という事だけはわかった。「じゃあどうすればいいですか」と迫ると「傷つくしかない、傷つきながら癒していくんだ」と言われた。甘えていてはいけないことと、これは自分にとっての戦いなんだと思った。
ギリギリの前日に原稿はなんとか完成した。そして12日当日、会場に着くと、1年前に神戸でも事例を発表したことが思い出された。神戸の発表は時間が20分で、全く伝えたいことも伝えられず、会場の方もぽかーんとして聞いていて、質問もひとつとして手が上がらず、呆然としたまま終わった感じだった。
時間終了5分前にならされるはずのベルさえ、私の発表では鳴らなかった。あの静まりかえった場違いな感じは何だったんだろうと思い出す度に不思議だった。今回は発表時間は充分に取ってもらっているが、私は何を伝えたいのかが分からないまま発表する感じだった。それもあって、発表後の質疑応答は全く期待しておらず、神戸のような違和感で終わるものだと自分で勝手に思いこんでいた。
発表は、会場を暗くしパワーポイントで写真を見てもらいながら行った。はじめに戸來さんが、クニエさんのお葬式に参加した時の様子を話してくれた。お葬式は実家の遠野で行われ、山奥で遠野物語を彷彿とさせるような環境と、遠野らしい儀式の様子を紹介してくれた。その後を継いで、私は「クニエさんと生きる 〜継がれる命〜」の発表を始めた。発表を始めると私はいつの間にかクニエさんの世界に入り込んでしまい、読みながら一人でクニエさんとの日々に浸っている感じになった。その時々のクニエさんとのことを思い起こしたり、これで良かったんだろうか、もっとやれることはあったはずだった、などと考えが巡ってしまい、新しい発見や感覚が次々に出てくる感じになった。途中でやめてもう一度考える時間が欲しくなったほどだ。それでもなんとか90分の発表を終えた。そのとたん「あ、今事例発表していたんだ。」と我に返るような感じで現実に戻った。
発表中は、原稿の中のクニエさんだけが気になって、クニエさんと一緒に生きているような感じになった。それで会場の雰囲気や反応はまったく感じることができなくなっていた。発表が終わったとき「どうせまた神戸のように、質問もなにも出ないんだろうな」と思っていたので、それまでの15分の休憩の間に、私の方から会場に投げかける質問を10個以上考えていた。理事長は理事長で、会場の静まりかえった雰囲気を背中で感じながら、「これはだめだ、みんな寝てるな」と思っていたらしい。
質疑応答が始まった。すると、先ほどまでの「どうせ…」が吹き飛んだ。会場から次々に手があがり、発言があった。しかも勤務体制や日課やマニュアルなどといった表面的な事ではなく、発表を聞いて「個人として父親の死を思い起こさせられた」「似たような経験をした」「私の施設でも看取りの時…」「心が動いて…上手く言葉に出来ないけれど…」と、言葉では説明できない、こころの大きな動きを伝えてくれて、涙ながらに語ってくれた。会の事務局の内出さんも興奮気味で「これが現場の本当の話でしょ。午前中の研修なんか、これと比べるとクソみたいなもんじゃないですか。みんな今の気持を伝えてくださいよ」と発言を引き出してくれた。次から次に上がる感想や、それぞれの体験が語られて、40分の討議の時間は全く足りない感じで終わった。「現場の感度はいいんだ!みんな何かしらを感じてくれてる」それぞれの発言に、私は涙が流れそうになるのを押さえるのが精一杯だった。
恐れていた神戸の発表の時の印象とは全く違った手応えと雰囲気の事例検討会になって私自身驚いたし、会場に支えられ救われた。書くことで負った傷はそこで充分に癒され元気をもらった。私の発表を守るために、これには里の重鎮6名が揃って出席していたのだが、ほとんど出る幕はなかった。しかも、10月の大会で発表する予定になっている誌穂美さんもこの会場に支えられた感じで「これで書ける」と思ったというほどだった。ふり返ると「事例とはこうゆうものだ」と決めつけていて、自分自身がもったいないものにしていたように思う。銀河の里に就職してから3年目にして、なにか大きな体験ができた。銀河の里の外でも、現場の人たちが同じように感じて心が動く人もいるんだと実感できたことは大きい。事例研究・事例検討ということがいかに重要で大きな可能性を秘めているのかを発見できたように思う。そして、私は銀河の里4年目!対外的にもいろんな動きがあるという。楽しみだ。
カヨさんの魅力と憂鬱 ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2013年3・4月号】
カヨさん(仮名)のおしゃべりは、いっつも微妙にかみ合わない。カヨさん独特のイメージ世界があって、常識だけで外から見ていたら何を言っているのか永遠にわからないだろう。その世界は、つい隣に座ってゆっくりしたくなる雰囲気が醸し出され、何とも言えない不思議な魅力に溢れている。かみ合わないズレ具合が生じた隙間に、温かく深い何かと繋がれる体験が起こってくるようだ。それを感じるには、外から見ているのではなく、その隙間からその世界に入らなくてはわからないような気がする。
手作りおやつができたので「どう?」とカヨさんに尋ねると、間髪入れずに「にち!」と返ってくる(土と日です、わかります?)。カラの皿をいつまでもいじっているので「何してらったの?」と聞くと「山!」との返事!? もしや・・・と期待して、さらに「んで、次は何するの?」と尋ねると、期待通り「・・・川!」ときた。突拍子がないんだけども抜群に切れ味がいいような・・・よくわからない気分になっちゃうけど、とっても愉快なやりとりに展開してくれる。“聞きまちがい”も結構ある。入れ歯をとった後、「うがいしよっか?」と言うと「上着?オメ、寒いのっか?」と、着ていた自分の上着を着せてくれる。「くすぐってぇ〜」には「薬、買ってこ?オメ、どこか悪くしたのっか?何薬?」となったりする。おかしくって笑っちゃうけど、カヨさんのさりげない優しさを感じる。正しい話より、聞きまちがった物語の方がはるかに豊かなのにはいつも感動する。
小さい子どもや赤ちゃんを見ると、まるっきりの“おばあちゃん”になるカヨさん。すっかり虜になって、「あんや〜、めんこだぁ♪」と、くしゃくしゃの笑顔で嬉し泣き、息切れするほど追っかけていく。赤ちゃんはビックリして大泣き、カヨばあちゃんはさらにハッスルして「ばあちゃんに、ばっぱ、ほれ、おんで♪」と、めんこめんこする。「なして、そったに泣くの〜?」と困りながらもニコニコなので、まさか「カヨさんのこと、ちょっと怖がってるみたいよ…」とは言えず、この状況をみんなでワイワイと楽しんじゃった方がいいのだ。
そんなカヨさんは、スタッフの手を引いて、よく一緒に歩いてくれる。「学校さ行ってくる」とか「土沢まで行かねやねぇから」と言って歩き出すが、「オメも行くっか?」と誘ってくれたり、後ろからついて行くと手を繋いでくれたりして、しばらくのんびりお散歩になる。カヨさんの行きたいところへ想いをはせながら、時空を超えた旅に連れて行ってもらっているかのような感覚になる。特養の中を巡りながら、まるで全体を見守ってくれているようだ(通信H24年4月号参照)。
微妙にズレながらも絶妙な相づちで聞き役になってくれるカヨさんを相手に、利用者さん同士で大いに話が盛り上がることもある。あるときグループホームから特養に遊びに来た方が、カヨさんと近所で顔見知りだったらしく、「あやっ、カヨさんじゃねっか?」と話が始まった。会話の流れにイメージ世界も絡まって、何十年ぶりかで再会した古い親友同士みたいな展開になり、ついにはお互いに手を握り見つめ合って、「無事でまた会えたんだ、これからも頑張るべぇ!」「んだ、んだ、そうなんだぁ〜」と感極まって涙している。側で見ていたスタッフも感動してもらい泣きしそうになる。その場面で、カヨさんとっておきのセリフが出る。「ところでお宅さん、どちらさんだったっけ?」絶妙のタイミングで、このとぼけた一言をかっ飛ばすのがカヨさんだ。一瞬キョトン・・・となって、その後はみんなで大爆笑。いやぁ、やっぱりカヨさんは、やってくれること間違いなしなのだ。
スタッフは普段はほとんど意識しないで付き合っているのだが、カヨさんはかなりの認知症状がある人だ。それでも(それだから、なのか)、カヨさんは周囲の様子を的確に掴んでいる。ユニットがバタバタしていたり、スタッフが悩んでいたり、ここぞ!という時をなぜか的確に察していて、すかさず“レスキュー”してくれるのもカヨさんだ。ある日、一日の作業に追われてカリカリしていた私の視界に、ふと見ると、椅子を持ち上げてテーブルに乗せようとしているカヨさんが目に入った。一見トンチンカンな行動なので“現実組(認知症でない)”の利用者さんらにヤンヤヤンヤと文句を言われたりする。それでも必死の形相で頑張っているカヨさんの姿に、忙しさから引き戻されたようにフッと一息ついた自分がいて、「カヨさん、がおれねっか?(疲れるんじゃない?)」と声をかけて手伝った。重たい椅子をふたりでやっとこテーブルの上に乗せると、カヨさんはチラッとこちらを見て「がおってらのは(しんどかったのは)オメでねかったか?」ときた・・・。見事に鋭いセリフにギクッとする。いろいろあってピリピリして、自らの怒りに囚われ苦しくなっていた自分を見抜かれた。そんな私を人知れずずっと見ていてくれたカヨさんの、めちゃくちゃ優しいまなざしを感じる。そういう“心のレスキュー”を、スタッフ誰もがカヨさんから経験しているはずなのだ。
お正月の書き初めに『カヨヨ・カヨです』と記し、七夕の短冊には『カヨはカヨをする』と書いてスタッフを感動させた。そうだ、カヨさんはカヨさんだ、とみんな納得した。カヨさん“らしさ”をのびのびと全開にしてほしい!と願うこちらまで嬉しくなる、まさにカヨさんらしい言葉だ。ズレた相づちで相手を和ませ、とぼけたセリフでユニットの雰囲気を明るくし、レスキューで周りを癒しながら、守りのまなざしで支えてくれる・・・。カヨさん自身が疲れ果ててしまうんじゃないかと心配になるほど大活躍なんだけれど、ひとり静かに考え事でもしているような時間も増えてきた近頃のカヨさん。カヨさんがカヨさん自身のためにひとりで過ごす時間も大切にしていきたい、とスタッフも思う。
そんなある日、カヨさんのお友達が3人で賑やかに面会に来られた。2年ぶりという久しぶりの人が「おらのこと、おべぇてらっか?わかるっか?」と一生懸命話しかける。もちろんカヨさんはわかっているんだろうけど、例によってかみ合わない言葉で返す。お友達は当然、認知症になる前のカヨさんのイメージが強いので、「あいやぁ、こったに訳わからねぇ事ばりしゃべるようになったってかぁ」と本人の前で落胆する。それを聞くとさすがのカヨさんも、だんだんに困った表情になっていった。それとなく間に入ろうとお茶を出してくれたスタッフの真白くんも、ちょっと苦しそうな顔だ。「忘れてしやったんだな」「おらのことだって、誰だか、いっこぉ、わかってねぇようだっけじゃ」と口々に言われるので、見ているこちらも切なくなって、なるべく早めに引き取っていただきたい気分になる。それでもカヨさんはなんとか笑顔を見せて踏ん張っていた。皆さんが帰られた後、ひとり「はぁ・・・」と大きなため息をついたカヨさん。その背中が辛かった。
その日の夕方、リビングの手すりを擦って往復するカヨさんがいた。いつもならスタッフと一緒にテーブルでお茶のみしながら、ゆったりした夜更かしの時間になるのだが、この日は何か考え込んでいる表情で懸命に手すりに向き合っていた。声をかけてみたけれど、チラッとこちらを見るだけで、一緒に居てくれる感じはなく、カヨさんがカヨさんと対話している時間なのだと感じた(今日はしんどかったもんね、頑張ってたもんね、カヨさん・・・)。
翌日の夜、リビングに行くと、いつもの夜更かしタイムで、ソファでゆっくりしているカヨさんがいた。他の利用者さんはもう寝ていて、リビングにはカヨさんひとり。「カ〜ヨさん」と呼びかけると「ふふ」と柔らかい笑顔をくれたので、隣に腰掛けた。すると、いきなりひと言、「大根はなさ、煮て食うのが一番うまいんだよ♪」・・・一瞬「ん?」と面食らったけど、いかにもカヨさんらしい言葉に「そっかぁ!」と嬉しくなった。両手を膝の上で、忍者の“にんにん”の形に組んだカヨさん、「ふふふ♪」と含み笑いをしながら“にんにん”の指をこちらに向けてくる。遊んでくれる感じに私も嬉しくなって、私も“にんにん”で返す。そんなやりとりをしながら、カヨさんの魅力をかみしめてほっこりした気分になる。“にんにん”でやり合って、ふたりでひとしきり笑った後、カヨさんが静かに言った、「そういうもんなんだよ」・・・。カヨさんの言葉は深く心に響く。私は深くうなずいた。
手作りおやつができたので「どう?」とカヨさんに尋ねると、間髪入れずに「にち!」と返ってくる(土と日です、わかります?)。カラの皿をいつまでもいじっているので「何してらったの?」と聞くと「山!」との返事!? もしや・・・と期待して、さらに「んで、次は何するの?」と尋ねると、期待通り「・・・川!」ときた。突拍子がないんだけども抜群に切れ味がいいような・・・よくわからない気分になっちゃうけど、とっても愉快なやりとりに展開してくれる。“聞きまちがい”も結構ある。入れ歯をとった後、「うがいしよっか?」と言うと「上着?オメ、寒いのっか?」と、着ていた自分の上着を着せてくれる。「くすぐってぇ〜」には「薬、買ってこ?オメ、どこか悪くしたのっか?何薬?」となったりする。おかしくって笑っちゃうけど、カヨさんのさりげない優しさを感じる。正しい話より、聞きまちがった物語の方がはるかに豊かなのにはいつも感動する。
小さい子どもや赤ちゃんを見ると、まるっきりの“おばあちゃん”になるカヨさん。すっかり虜になって、「あんや〜、めんこだぁ♪」と、くしゃくしゃの笑顔で嬉し泣き、息切れするほど追っかけていく。赤ちゃんはビックリして大泣き、カヨばあちゃんはさらにハッスルして「ばあちゃんに、ばっぱ、ほれ、おんで♪」と、めんこめんこする。「なして、そったに泣くの〜?」と困りながらもニコニコなので、まさか「カヨさんのこと、ちょっと怖がってるみたいよ…」とは言えず、この状況をみんなでワイワイと楽しんじゃった方がいいのだ。
そんなカヨさんは、スタッフの手を引いて、よく一緒に歩いてくれる。「学校さ行ってくる」とか「土沢まで行かねやねぇから」と言って歩き出すが、「オメも行くっか?」と誘ってくれたり、後ろからついて行くと手を繋いでくれたりして、しばらくのんびりお散歩になる。カヨさんの行きたいところへ想いをはせながら、時空を超えた旅に連れて行ってもらっているかのような感覚になる。特養の中を巡りながら、まるで全体を見守ってくれているようだ(通信H24年4月号参照)。
微妙にズレながらも絶妙な相づちで聞き役になってくれるカヨさんを相手に、利用者さん同士で大いに話が盛り上がることもある。あるときグループホームから特養に遊びに来た方が、カヨさんと近所で顔見知りだったらしく、「あやっ、カヨさんじゃねっか?」と話が始まった。会話の流れにイメージ世界も絡まって、何十年ぶりかで再会した古い親友同士みたいな展開になり、ついにはお互いに手を握り見つめ合って、「無事でまた会えたんだ、これからも頑張るべぇ!」「んだ、んだ、そうなんだぁ〜」と感極まって涙している。側で見ていたスタッフも感動してもらい泣きしそうになる。その場面で、カヨさんとっておきのセリフが出る。「ところでお宅さん、どちらさんだったっけ?」絶妙のタイミングで、このとぼけた一言をかっ飛ばすのがカヨさんだ。一瞬キョトン・・・となって、その後はみんなで大爆笑。いやぁ、やっぱりカヨさんは、やってくれること間違いなしなのだ。
スタッフは普段はほとんど意識しないで付き合っているのだが、カヨさんはかなりの認知症状がある人だ。それでも(それだから、なのか)、カヨさんは周囲の様子を的確に掴んでいる。ユニットがバタバタしていたり、スタッフが悩んでいたり、ここぞ!という時をなぜか的確に察していて、すかさず“レスキュー”してくれるのもカヨさんだ。ある日、一日の作業に追われてカリカリしていた私の視界に、ふと見ると、椅子を持ち上げてテーブルに乗せようとしているカヨさんが目に入った。一見トンチンカンな行動なので“現実組(認知症でない)”の利用者さんらにヤンヤヤンヤと文句を言われたりする。それでも必死の形相で頑張っているカヨさんの姿に、忙しさから引き戻されたようにフッと一息ついた自分がいて、「カヨさん、がおれねっか?(疲れるんじゃない?)」と声をかけて手伝った。重たい椅子をふたりでやっとこテーブルの上に乗せると、カヨさんはチラッとこちらを見て「がおってらのは(しんどかったのは)オメでねかったか?」ときた・・・。見事に鋭いセリフにギクッとする。いろいろあってピリピリして、自らの怒りに囚われ苦しくなっていた自分を見抜かれた。そんな私を人知れずずっと見ていてくれたカヨさんの、めちゃくちゃ優しいまなざしを感じる。そういう“心のレスキュー”を、スタッフ誰もがカヨさんから経験しているはずなのだ。
お正月の書き初めに『カヨヨ・カヨです』と記し、七夕の短冊には『カヨはカヨをする』と書いてスタッフを感動させた。そうだ、カヨさんはカヨさんだ、とみんな納得した。カヨさん“らしさ”をのびのびと全開にしてほしい!と願うこちらまで嬉しくなる、まさにカヨさんらしい言葉だ。ズレた相づちで相手を和ませ、とぼけたセリフでユニットの雰囲気を明るくし、レスキューで周りを癒しながら、守りのまなざしで支えてくれる・・・。カヨさん自身が疲れ果ててしまうんじゃないかと心配になるほど大活躍なんだけれど、ひとり静かに考え事でもしているような時間も増えてきた近頃のカヨさん。カヨさんがカヨさん自身のためにひとりで過ごす時間も大切にしていきたい、とスタッフも思う。
そんなある日、カヨさんのお友達が3人で賑やかに面会に来られた。2年ぶりという久しぶりの人が「おらのこと、おべぇてらっか?わかるっか?」と一生懸命話しかける。もちろんカヨさんはわかっているんだろうけど、例によってかみ合わない言葉で返す。お友達は当然、認知症になる前のカヨさんのイメージが強いので、「あいやぁ、こったに訳わからねぇ事ばりしゃべるようになったってかぁ」と本人の前で落胆する。それを聞くとさすがのカヨさんも、だんだんに困った表情になっていった。それとなく間に入ろうとお茶を出してくれたスタッフの真白くんも、ちょっと苦しそうな顔だ。「忘れてしやったんだな」「おらのことだって、誰だか、いっこぉ、わかってねぇようだっけじゃ」と口々に言われるので、見ているこちらも切なくなって、なるべく早めに引き取っていただきたい気分になる。それでもカヨさんはなんとか笑顔を見せて踏ん張っていた。皆さんが帰られた後、ひとり「はぁ・・・」と大きなため息をついたカヨさん。その背中が辛かった。
その日の夕方、リビングの手すりを擦って往復するカヨさんがいた。いつもならスタッフと一緒にテーブルでお茶のみしながら、ゆったりした夜更かしの時間になるのだが、この日は何か考え込んでいる表情で懸命に手すりに向き合っていた。声をかけてみたけれど、チラッとこちらを見るだけで、一緒に居てくれる感じはなく、カヨさんがカヨさんと対話している時間なのだと感じた(今日はしんどかったもんね、頑張ってたもんね、カヨさん・・・)。
翌日の夜、リビングに行くと、いつもの夜更かしタイムで、ソファでゆっくりしているカヨさんがいた。他の利用者さんはもう寝ていて、リビングにはカヨさんひとり。「カ〜ヨさん」と呼びかけると「ふふ」と柔らかい笑顔をくれたので、隣に腰掛けた。すると、いきなりひと言、「大根はなさ、煮て食うのが一番うまいんだよ♪」・・・一瞬「ん?」と面食らったけど、いかにもカヨさんらしい言葉に「そっかぁ!」と嬉しくなった。両手を膝の上で、忍者の“にんにん”の形に組んだカヨさん、「ふふふ♪」と含み笑いをしながら“にんにん”の指をこちらに向けてくる。遊んでくれる感じに私も嬉しくなって、私も“にんにん”で返す。そんなやりとりをしながら、カヨさんの魅力をかみしめてほっこりした気分になる。“にんにん”でやり合って、ふたりでひとしきり笑った後、カヨさんが静かに言った、「そういうもんなんだよ」・・・。カヨさんの言葉は深く心に響く。私は深くうなずいた。
新人研修:タテタカコ LIVEの感想【2013年3・4月号】
銀河の里では、芸術プロジェクトとしてコンサートライブを開催してきたが、今回は新人研修を兼ねて銀河の里タテタカコLIVEを開催した。一昨年から研修に組ませてもらってきたタテタカコさんだが、今回で里では2回目のライブとなった。タテさんの渾身の歌を新人達はどのような感性で受け取ったのだろうか。感想を書いてもらった。
特別養護老人ホーム 清信 江梨
今回のライブにあたり、タテタカコさんはどのような歌を歌っているのかと前もってインターネットで検索した。私がライブの告知ポスターを見て受けた印象は、ギターを弾きながら爽やかな曲を歌う男性だった。失礼ながらタテさんが女性と知った時は驚いた。使用する楽器もギターではなくピアノであるし、曲も人生をテーマにしたものが多いように思い、私のタテタカコさん予想は見事に全て外れた。
ライブ当日、会場に着いて席に座る時は、会場の奥に座ろうとする母を制し、タテタカコさんの顔が見える位置をキープした。実際にライブが始まると鳥肌が立った。動画で見た時と全く違い、生で聞く彼女の声量には単純に「すごい」と思った。また強弱の差がありすぎて、いきなり音調が強くなった時は驚いた。彼女の声の透明度も素晴らしいと思う。会場に染み渡り響いていた。特に歌の後半に入るハミングでは、声なのに別の楽器が奏でているような“音”であったように感じた。タテタカコさん自身が一つの楽器に相当する声の持ち主なのだと思う。彼女の歌っている姿を見ていると、命や魂も削りながら歌っているように感じた。
デイサービス 米田 亜紗美
優しい印象を受ける曲が多い中、“誕生日”という曲は少し怖いなと感じました。誕生日というと、その人が生まれた特別な日であり、楽しくお祝いするというイメージを持っています。誕生日の音楽は、私が知っているものは明るい感じのものであり、誕生日は一般的に明るく捉えられるものであると思っていました。しかし、タテタカコさんの“誕生日”という曲はそのようなイメージとは逆に、暗い印象を受けました。そのような表現の中に、どのようなことが意図されているのか考えました。生まれてきたことを祝福されることが当たり前であると思っていたけれど、中にはそのことが望まれず、誕生日に対して良いイメージを持てない場合もあると思います。一般的な考え方のみならず、そういった部分に焦点が当てられた曲となっているのかなと考えました。このことは、多く占める考え方にのみ目を向けるのではなく、一部にある考え方にも目を向けるべきなのであるということを気付かせてくれました。
特別養護老人ホーム 晴山 仁美
コンサートが始まり、会場の静けさも深まる中、演奏以外の間の途中途中で、タテさんの出身の長野県のお話やコンサートの前に見た岩手の風景の話、そして海外で(のコンサート前後での)タテさんが見かけた方のお話など、見た情景や体験談もふまえたそのお話は一気に会場を笑いのムードに変えました。演奏だけでなく、その場の空気を吸い込んでしまうような強い求心力だと思いました。
特別養護老人ホーム 中村 祥子
デイサービスの照明が空調で揺れ、それが窓に反射したり、影が壁に映ったりして幻想的だなぁとも感じた。正直な話、慣れない介護や研修に体がついていかず、この日も疲れており、途中で寝てしまうのではないかと思っていた。しかし、始まるとどんどん惹きこまれた。ステージやデイサービスの雰囲気とタテさんの音楽が相まって幻想的で素敵だったこと、タテさんの歌声や曲調に知らず知らず感動したこと等、聞いていたいという気持ちが生まれ眠気はなくなっていた。また、私は楽器の演奏ができないため、ピアノひとつでこんなにも曲の印象を変えることができるのかという驚きもあった。
ワークステージ 今野 美稀子
音楽や美術というものは、見て聴いて楽しむだけのものではなく、人と関わり、自分を表現するためのツールにもなり得るものであると、タテタカコさんのライブを観て、改めて考える機会となりました。
そう深く考えずとも、タテタカコさんの歌はとても心に響く歌で、一曲目では、歌声を聴いて、訳も分からず涙腺が緩んでしまいそうになりました。
厨房 高橋 仁美
一番印象に残っているのは、原発避難者の方が書かれたという詞の「ふるさと」です。私は東日本大震災の直後に福島県で2年間の短期大学生生活を送りました。仮設住宅にボランティアへ行きましたが、子どもが自由に遊べず老人が一人きりで生活し、これまでの生活と一転して先の見えない生活を強いられている人々を思い出しました。帰る家があり、家族がいて、故郷と呼べる場所が存在することがどれだけ大きいかを改めて感じました。
グループホーム第2 佐々木 伸也
タテさんが伝えたいことは理解できていませんが、希望があるなら前を見て、上を見て生きなさいと心に言われているような気がして、込み上げる思いがありました。
ワークステージ 小原 久昭
芸術と音楽で紡ぐ、人と人の広場プロジェクト 第8弾 タテタカコさんのLIVEに参加させていただき、とても光栄でした。
特別養護老人ホーム 清信 江梨
今回のライブにあたり、タテタカコさんはどのような歌を歌っているのかと前もってインターネットで検索した。私がライブの告知ポスターを見て受けた印象は、ギターを弾きながら爽やかな曲を歌う男性だった。失礼ながらタテさんが女性と知った時は驚いた。使用する楽器もギターではなくピアノであるし、曲も人生をテーマにしたものが多いように思い、私のタテタカコさん予想は見事に全て外れた。
ライブ当日、会場に着いて席に座る時は、会場の奥に座ろうとする母を制し、タテタカコさんの顔が見える位置をキープした。実際にライブが始まると鳥肌が立った。動画で見た時と全く違い、生で聞く彼女の声量には単純に「すごい」と思った。また強弱の差がありすぎて、いきなり音調が強くなった時は驚いた。彼女の声の透明度も素晴らしいと思う。会場に染み渡り響いていた。特に歌の後半に入るハミングでは、声なのに別の楽器が奏でているような“音”であったように感じた。タテタカコさん自身が一つの楽器に相当する声の持ち主なのだと思う。彼女の歌っている姿を見ていると、命や魂も削りながら歌っているように感じた。
デイサービス 米田 亜紗美
優しい印象を受ける曲が多い中、“誕生日”という曲は少し怖いなと感じました。誕生日というと、その人が生まれた特別な日であり、楽しくお祝いするというイメージを持っています。誕生日の音楽は、私が知っているものは明るい感じのものであり、誕生日は一般的に明るく捉えられるものであると思っていました。しかし、タテタカコさんの“誕生日”という曲はそのようなイメージとは逆に、暗い印象を受けました。そのような表現の中に、どのようなことが意図されているのか考えました。生まれてきたことを祝福されることが当たり前であると思っていたけれど、中にはそのことが望まれず、誕生日に対して良いイメージを持てない場合もあると思います。一般的な考え方のみならず、そういった部分に焦点が当てられた曲となっているのかなと考えました。このことは、多く占める考え方にのみ目を向けるのではなく、一部にある考え方にも目を向けるべきなのであるということを気付かせてくれました。
特別養護老人ホーム 晴山 仁美
コンサートが始まり、会場の静けさも深まる中、演奏以外の間の途中途中で、タテさんの出身の長野県のお話やコンサートの前に見た岩手の風景の話、そして海外で(のコンサート前後での)タテさんが見かけた方のお話など、見た情景や体験談もふまえたそのお話は一気に会場を笑いのムードに変えました。演奏だけでなく、その場の空気を吸い込んでしまうような強い求心力だと思いました。
特別養護老人ホーム 中村 祥子
デイサービスの照明が空調で揺れ、それが窓に反射したり、影が壁に映ったりして幻想的だなぁとも感じた。正直な話、慣れない介護や研修に体がついていかず、この日も疲れており、途中で寝てしまうのではないかと思っていた。しかし、始まるとどんどん惹きこまれた。ステージやデイサービスの雰囲気とタテさんの音楽が相まって幻想的で素敵だったこと、タテさんの歌声や曲調に知らず知らず感動したこと等、聞いていたいという気持ちが生まれ眠気はなくなっていた。また、私は楽器の演奏ができないため、ピアノひとつでこんなにも曲の印象を変えることができるのかという驚きもあった。
ワークステージ 今野 美稀子
音楽や美術というものは、見て聴いて楽しむだけのものではなく、人と関わり、自分を表現するためのツールにもなり得るものであると、タテタカコさんのライブを観て、改めて考える機会となりました。
そう深く考えずとも、タテタカコさんの歌はとても心に響く歌で、一曲目では、歌声を聴いて、訳も分からず涙腺が緩んでしまいそうになりました。
厨房 高橋 仁美
一番印象に残っているのは、原発避難者の方が書かれたという詞の「ふるさと」です。私は東日本大震災の直後に福島県で2年間の短期大学生生活を送りました。仮設住宅にボランティアへ行きましたが、子どもが自由に遊べず老人が一人きりで生活し、これまでの生活と一転して先の見えない生活を強いられている人々を思い出しました。帰る家があり、家族がいて、故郷と呼べる場所が存在することがどれだけ大きいかを改めて感じました。
グループホーム第2 佐々木 伸也
タテさんが伝えたいことは理解できていませんが、希望があるなら前を見て、上を見て生きなさいと心に言われているような気がして、込み上げる思いがありました。
ワークステージ 小原 久昭
芸術と音楽で紡ぐ、人と人の広場プロジェクト 第8弾 タテタカコさんのLIVEに参加させていただき、とても光栄でした。
家神様に守られて ★特別養護老人ホーム 齋藤隆英【2013年3・4月号】
響子さん(仮名)は食事以外はほとんど居室で休んでいて、部屋から何度もナースコールを押しスタッフを呼ぶ人だった。時には凄い力で職員の腕を握って「駄目だぁ、全然駄目だぁ。さっぱりわがねぇ」と怒ることもあった。スタッフが居室から出たとたんにナースコールが鳴る。そんな繰り返しに滅入ってしまうこともよくあった。
ある日、あまり自分では動かない響子さんが、キッチンの狭いスペースに車椅子を自走してやってきたので驚いた。「うちの神社のお祭りが24日にあるから、家さ帰るぅ。家さ電話してけてぇ」といつもと違う必死な感じで訴えてきた。その時は家に電話してみたが、繋がらなかった。「明日、電話してみるね」と伝えると「昔はねぇ、どっこのうち、神社でもやったたのぉ。大っきい弓持ってさぁ、踊りっこもあってさぁ、たくさん人集まってたんだよ。明日必ず電話してよぉ」と響子さんから指切りをしてきた。珍しい事だった。
翌日、出勤すると、すぐに「24日ね」と言われた。夕方、娘さんと電話が繋がった。毎年9月24日には家の神様のお祭りをしていて、響子さんが取り仕切っていたとの事だった。一緒に見に行きたいと伝えたが、その日は平日で仕事があって難しいとのことだった。響子さんにそう伝えると「はあぁ」と大きなため息をついて下を向いてしまった。「休みの土、日なら遊びに来ていいって言ってたよ」と言うと、「ほんとぉ、いがったぁ」と言ってくれるが、どことなく響子さんの中では解っていることのように思えた。
以前から毎年9月になると、「うちさ帰りたい。家神様の祭りさ行きたい」と言っていたそうだが、これまで実際に家に帰った事はなかった。翌週の土曜日は、家の方で稲刈りで忙しいとのことでだめだった。「もしかして、また家に帰りたいって言いだしているんですか?」と心配をされてしまった。事情を伝えると「稲刈りで家には誰も居なくて、家には入れないけど、神社を見に来るくらいならいいですよ」と言ってもらえたので10月6日に行く事に決めた。響子さんはその日「ありがとう、齋藤さん」と初めて名前で呼んでくれた。
そして、待ちに待った当日になり「今日だよ!出掛けるよ!」と声をかけたが、静かに頷くだけの響子さんだった。ナースコールで呼ばれたスタッフが「今から出掛けるんでしょ」と言っても、「どこさ?知らね」と知らん顔もしていた。それでも、いざ車に乗り込むとニコニコの表情になった。
車中では静かに景色を見ていたが、自宅が近づくと目がキラキラと輝き、家が見えると「あそこ!おれのうちだぁ!」と教えてくれた。自宅に着いてチャイムを鳴らすと、ちょうど仕事に出かける前だということで息子さんが出てこられた。「響子さんが家の神社の事をとても気にかけているので、一緒に見たくて来ちゃいました!」と伝えると、息子さんも車の響子さんと手を握り合っていい雰囲気だった。私が「家神様の事が心配だったんだもんね?」と言うと「じゃ、見に行くっか?ちょっと待ってて」と息子さんは鍵を持ってきてくださった。響子さんも行きたそうだったのだが、急な山道なのでしかたなく、私が見てくるから、ということで待ってもらうことにした。
響子さんの家から田んぼのあぜ道を通って、しばらく行くと立派な石の鳥居が建っていた。そこから山に向かってとても急な獣道が続いていた。登り始めると前日の雨で道はぬかるんで、まさに登山だった。息が切れたが必死で15分程歩くと、なんとか頂上について驚いた。立派な鳥居が建っていて、その奥に“立派”な神社と、その脇に小さな神社、石碑までも並んでいた。正直、家神様がここまでのスケールだとは想像だにしていなかった。神社の前には、神楽を踊る広場もちゃんとあった。あっけにとられていると、息子さんが神社の扉の鍵を開けてくれた。その中には響子さんが話していた、馬に股がり、大きな弓を持った御神体があり、その造りの精巧さにも感動した。神社の後ろには、樹齢何百年もあるような大きい杉の木が立っていた。「平成元年に親戚の大工に頼んで立て直したんだよぉ。いやぁ、ここまで材料を運ぶのは容易でねがったぁ」と話された。代々大事に守られてきた大切な神社なんだと改めて感心した。
山から下りて、待ちくたびれた響子さんに「神社みてきた!!立派だったよ!とても綺麗だったよ!」と伝えると、「ほんと?いがったぁ」と安心してくれた。響子さんと神社まで行けなかったのは申し訳なかったし悔しかったが、帰りに、銀河モールでおやつをしながら、神社の写真を見て話をした。響子さんは「いがったぁ、安心したぁ」と涙目で喜んでくれた。普段は自分で食べる響子さんが「これ(ソフトクリーム)食べさせてけてぇ」と甘えてくれたので驚いたが嬉しかった。
後日、神社の写真を大きくプリントして渡すと、「あやぁ!」と、また涙目に・・・。「本当にありがと、いがったぁ」と何度も言ってくれた。響子さんは、神社の祭りを準備し、家族や大勢の親戚、地域の人々が祭りに集まり、賑やかに輝いていた時代に帰りたかったのかもしれないと感じた。
それからナースコールで呼ばれて部屋に行くと、今までとは違った響子さんがいた。何も言わず目をつぶって手を合わせ、拝んでいる響子さん。職員が居室を出るとまたナースコールが鳴り、行ってみるとまた拝んでいた。また、ベッドへの移乗の後など、「ありがとう〜」と目をじ〜っとみて拝んでくれるようになった。そして、響子さんはどこか明るくなった。以前より、職員と遊んだり会話することが増えた。また、戦時中の苦しかった話などを聞かせてくれたり、感情が表情に出てくるようになった。
居室の壁に鳥居、神社、神社の大木の写真を貼った。それを毎日拝む響子さん。神社が今も大切にされていたという安心感もあったと思うが、それよりも神様に“祈り”を捧げることが響子さんの仕事になったように感じた。今までは、心の葛藤を抱えて苦しくて、それをナースコールを繰り返す行為にぶつけていたのかもしれない。
年末のある日、昼食後に、ナースコールで呼ばれた万里栄さんが居室に行くと、腕を痛い程強く握り、「一番大切なあねっこ、どこさもやりたくない、行くな」と言う。しばらく一緒に横になるが「誰さもやらねよ、行くな」と体を押さえて「どうして?」と聞くと「淋しい」と言った。
おやつ後にトイレ介助に入った山岡さんに「ありがとう!いつもいつも本当にありがとう」と抱きしめて、「迷惑かけて申し訳ない〜」と何度も言った。その後も「ありがとう」のナースコールが続き「いつまでも生きてて、申し訳ない〜。早く死ねばいいのに・・・。いっごと迎えに来ね、うちのバカ息子よ・・・」と、何か押さえきれない想いをぶつけてきて、現実とイメージの狭間にいるような感じだった。
この日の夜、就寝後にナースコールで居室へ行くと、ベッド脇に貼ってあった誕生カードがベッドの上に落ちていて、家神様の写真も剥がされていた。私は驚いて、何と言葉をかけてよいのか解らずしばらく悩んだ。起きると言うので、一旦リビングに出てお茶を飲んだが、ウトウトしてきたので、居室へ戻った。そこで勇気を出して写真を出し「これ、ベッドに落ちていたけど、貼らない方がいいかな・・・?」と聞いた。「んでね〜、そうじゃね〜」と腕をがっちりと掴む響子さん。「じゃ・・・、反対側の壁に貼る?」と聞くと無言で頷いた。
壁に貼った写真とは別の、引き延ばしていない家神様の写真がベッドの枕元に数枚おいてあった。御神体が馬に股がっている写真を指差して「これね〜、とっても強い馬なんだよ〜、守ってくれるんだよ〜」と言う。そして、次に小さな石碑と神社の写真を差して「これも神様が居て、いっつも拝んでらったぁ」と、二枚の写真を手に取り「これと、この写真も貼ってけてぇ」と頼まれた。
ベッドに横になると、涙目で、「お願いします・・・」と言ながら抱きしめられた。いつものすがりつく感じではなく、このときはとても優しく抱きしめてくれた。そのとき私は何か大事なことに気がついた・・・。「今まで、ごめんね・・・」と自然に私から言葉が出た。「そっだな事ねぇ。お兄ちゃん、お願いします・・・」とまた抱きしめられて拝まれた。
私は、最近の響子さんを見て、どこか理解したような気になり、勝手に納得していた自分が浅かったと気がついた。家神様がどれだけ大切か解っていなかったし、響子さんが何を想い祈っているのか解っていなかった。申し訳なかったと思った。それを言葉で伝えられたことも私には大きかった。
それから響子さんのナースコールは極端に少なくなって、今までのように何も用がないのに呼ぶことはほとんどなくなった。最近、ナースコールを湯たんぽと一緒に布団の中に入れて、「これも一緒に暖めるの。これ、灯りつくべ?(押すとナースコールのボタンが赤く光る)人形の灯りなの。何百年も前からあるの。土
でできてらんだよ」と拝みながら話してくれた。
ナースコールが家神様の御神体の人形になったように感じた。神社にあったのが、今は響子さんの身近なところにあって、響子さんと一体になっているように感じた。誕生カードに「雪が溶けたら、また一緒に家神様拝み行こうね」と書いた。響子さんはそれを見ながら満面の笑みで、「オレの夢だぁ」と言ってくれた。
今、時々ある、用がない時のナースコールは、以前のような渦巻いた葛藤ではなく「オレの夢」それは響子さんの「願い」や「祈り」だと感じる。今でも不安はあると思うが、響子さんにとって、特養ホームが少しずつ安らげる場所になりつつあるのかもしれない。
ある日、あまり自分では動かない響子さんが、キッチンの狭いスペースに車椅子を自走してやってきたので驚いた。「うちの神社のお祭りが24日にあるから、家さ帰るぅ。家さ電話してけてぇ」といつもと違う必死な感じで訴えてきた。その時は家に電話してみたが、繋がらなかった。「明日、電話してみるね」と伝えると「昔はねぇ、どっこのうち、神社でもやったたのぉ。大っきい弓持ってさぁ、踊りっこもあってさぁ、たくさん人集まってたんだよ。明日必ず電話してよぉ」と響子さんから指切りをしてきた。珍しい事だった。
翌日、出勤すると、すぐに「24日ね」と言われた。夕方、娘さんと電話が繋がった。毎年9月24日には家の神様のお祭りをしていて、響子さんが取り仕切っていたとの事だった。一緒に見に行きたいと伝えたが、その日は平日で仕事があって難しいとのことだった。響子さんにそう伝えると「はあぁ」と大きなため息をついて下を向いてしまった。「休みの土、日なら遊びに来ていいって言ってたよ」と言うと、「ほんとぉ、いがったぁ」と言ってくれるが、どことなく響子さんの中では解っていることのように思えた。
以前から毎年9月になると、「うちさ帰りたい。家神様の祭りさ行きたい」と言っていたそうだが、これまで実際に家に帰った事はなかった。翌週の土曜日は、家の方で稲刈りで忙しいとのことでだめだった。「もしかして、また家に帰りたいって言いだしているんですか?」と心配をされてしまった。事情を伝えると「稲刈りで家には誰も居なくて、家には入れないけど、神社を見に来るくらいならいいですよ」と言ってもらえたので10月6日に行く事に決めた。響子さんはその日「ありがとう、齋藤さん」と初めて名前で呼んでくれた。
そして、待ちに待った当日になり「今日だよ!出掛けるよ!」と声をかけたが、静かに頷くだけの響子さんだった。ナースコールで呼ばれたスタッフが「今から出掛けるんでしょ」と言っても、「どこさ?知らね」と知らん顔もしていた。それでも、いざ車に乗り込むとニコニコの表情になった。
車中では静かに景色を見ていたが、自宅が近づくと目がキラキラと輝き、家が見えると「あそこ!おれのうちだぁ!」と教えてくれた。自宅に着いてチャイムを鳴らすと、ちょうど仕事に出かける前だということで息子さんが出てこられた。「響子さんが家の神社の事をとても気にかけているので、一緒に見たくて来ちゃいました!」と伝えると、息子さんも車の響子さんと手を握り合っていい雰囲気だった。私が「家神様の事が心配だったんだもんね?」と言うと「じゃ、見に行くっか?ちょっと待ってて」と息子さんは鍵を持ってきてくださった。響子さんも行きたそうだったのだが、急な山道なのでしかたなく、私が見てくるから、ということで待ってもらうことにした。
響子さんの家から田んぼのあぜ道を通って、しばらく行くと立派な石の鳥居が建っていた。そこから山に向かってとても急な獣道が続いていた。登り始めると前日の雨で道はぬかるんで、まさに登山だった。息が切れたが必死で15分程歩くと、なんとか頂上について驚いた。立派な鳥居が建っていて、その奥に“立派”な神社と、その脇に小さな神社、石碑までも並んでいた。正直、家神様がここまでのスケールだとは想像だにしていなかった。神社の前には、神楽を踊る広場もちゃんとあった。あっけにとられていると、息子さんが神社の扉の鍵を開けてくれた。その中には響子さんが話していた、馬に股がり、大きな弓を持った御神体があり、その造りの精巧さにも感動した。神社の後ろには、樹齢何百年もあるような大きい杉の木が立っていた。「平成元年に親戚の大工に頼んで立て直したんだよぉ。いやぁ、ここまで材料を運ぶのは容易でねがったぁ」と話された。代々大事に守られてきた大切な神社なんだと改めて感心した。
山から下りて、待ちくたびれた響子さんに「神社みてきた!!立派だったよ!とても綺麗だったよ!」と伝えると、「ほんと?いがったぁ」と安心してくれた。響子さんと神社まで行けなかったのは申し訳なかったし悔しかったが、帰りに、銀河モールでおやつをしながら、神社の写真を見て話をした。響子さんは「いがったぁ、安心したぁ」と涙目で喜んでくれた。普段は自分で食べる響子さんが「これ(ソフトクリーム)食べさせてけてぇ」と甘えてくれたので驚いたが嬉しかった。
後日、神社の写真を大きくプリントして渡すと、「あやぁ!」と、また涙目に・・・。「本当にありがと、いがったぁ」と何度も言ってくれた。響子さんは、神社の祭りを準備し、家族や大勢の親戚、地域の人々が祭りに集まり、賑やかに輝いていた時代に帰りたかったのかもしれないと感じた。
それからナースコールで呼ばれて部屋に行くと、今までとは違った響子さんがいた。何も言わず目をつぶって手を合わせ、拝んでいる響子さん。職員が居室を出るとまたナースコールが鳴り、行ってみるとまた拝んでいた。また、ベッドへの移乗の後など、「ありがとう〜」と目をじ〜っとみて拝んでくれるようになった。そして、響子さんはどこか明るくなった。以前より、職員と遊んだり会話することが増えた。また、戦時中の苦しかった話などを聞かせてくれたり、感情が表情に出てくるようになった。
居室の壁に鳥居、神社、神社の大木の写真を貼った。それを毎日拝む響子さん。神社が今も大切にされていたという安心感もあったと思うが、それよりも神様に“祈り”を捧げることが響子さんの仕事になったように感じた。今までは、心の葛藤を抱えて苦しくて、それをナースコールを繰り返す行為にぶつけていたのかもしれない。
年末のある日、昼食後に、ナースコールで呼ばれた万里栄さんが居室に行くと、腕を痛い程強く握り、「一番大切なあねっこ、どこさもやりたくない、行くな」と言う。しばらく一緒に横になるが「誰さもやらねよ、行くな」と体を押さえて「どうして?」と聞くと「淋しい」と言った。
おやつ後にトイレ介助に入った山岡さんに「ありがとう!いつもいつも本当にありがとう」と抱きしめて、「迷惑かけて申し訳ない〜」と何度も言った。その後も「ありがとう」のナースコールが続き「いつまでも生きてて、申し訳ない〜。早く死ねばいいのに・・・。いっごと迎えに来ね、うちのバカ息子よ・・・」と、何か押さえきれない想いをぶつけてきて、現実とイメージの狭間にいるような感じだった。
この日の夜、就寝後にナースコールで居室へ行くと、ベッド脇に貼ってあった誕生カードがベッドの上に落ちていて、家神様の写真も剥がされていた。私は驚いて、何と言葉をかけてよいのか解らずしばらく悩んだ。起きると言うので、一旦リビングに出てお茶を飲んだが、ウトウトしてきたので、居室へ戻った。そこで勇気を出して写真を出し「これ、ベッドに落ちていたけど、貼らない方がいいかな・・・?」と聞いた。「んでね〜、そうじゃね〜」と腕をがっちりと掴む響子さん。「じゃ・・・、反対側の壁に貼る?」と聞くと無言で頷いた。
壁に貼った写真とは別の、引き延ばしていない家神様の写真がベッドの枕元に数枚おいてあった。御神体が馬に股がっている写真を指差して「これね〜、とっても強い馬なんだよ〜、守ってくれるんだよ〜」と言う。そして、次に小さな石碑と神社の写真を差して「これも神様が居て、いっつも拝んでらったぁ」と、二枚の写真を手に取り「これと、この写真も貼ってけてぇ」と頼まれた。
ベッドに横になると、涙目で、「お願いします・・・」と言ながら抱きしめられた。いつものすがりつく感じではなく、このときはとても優しく抱きしめてくれた。そのとき私は何か大事なことに気がついた・・・。「今まで、ごめんね・・・」と自然に私から言葉が出た。「そっだな事ねぇ。お兄ちゃん、お願いします・・・」とまた抱きしめられて拝まれた。
私は、最近の響子さんを見て、どこか理解したような気になり、勝手に納得していた自分が浅かったと気がついた。家神様がどれだけ大切か解っていなかったし、響子さんが何を想い祈っているのか解っていなかった。申し訳なかったと思った。それを言葉で伝えられたことも私には大きかった。
それから響子さんのナースコールは極端に少なくなって、今までのように何も用がないのに呼ぶことはほとんどなくなった。最近、ナースコールを湯たんぽと一緒に布団の中に入れて、「これも一緒に暖めるの。これ、灯りつくべ?(押すとナースコールのボタンが赤く光る)人形の灯りなの。何百年も前からあるの。土
でできてらんだよ」と拝みながら話してくれた。
ナースコールが家神様の御神体の人形になったように感じた。神社にあったのが、今は響子さんの身近なところにあって、響子さんと一体になっているように感じた。誕生カードに「雪が溶けたら、また一緒に家神様拝み行こうね」と書いた。響子さんはそれを見ながら満面の笑みで、「オレの夢だぁ」と言ってくれた。
今、時々ある、用がない時のナースコールは、以前のような渦巻いた葛藤ではなく「オレの夢」それは響子さんの「願い」や「祈り」だと感じる。今でも不安はあると思うが、響子さんにとって、特養ホームが少しずつ安らげる場所になりつつあるのかもしれない。
神戸研修を終えて ★特別養護老人ホーム 佐々木広周【2013年3・4月号】
銀河の里に来て早くも3年が経つが、1年目に出会ったマサさん(仮名)と過ごした日々に今でも私は支えられているように感じる。マサさんは四肢麻痺で言葉を発することも出来ず寝たきりの方だった。意思の疎通が困難であるとされた方だったが、先輩から、豊かなコミュニケーションは言葉がなくてもできることを教えてもらった。私も、次第に心と心で繋がることが出来る人間の可能性を感じさせられるなかで、この仕事を続ける自信のようなものが湧いてきた。
今年の3月16日、奇遇にもマサさんの2年目の命日に私は神戸のユニットケアのセミナーで、マサさんのケースを発表することになった。他の施設での勤務経験のない私にとって、今回のセミナーは初の対外試合とも言えるもので、「銀河の里」とは何かを改めて客観的に考えさせられる機会となり、新たな広がりを感じた研修となった。
神戸へ向かう車中、銀河の里からの電話で、ユニットすばるの洋治さん(仮名)が「行け行け〜!餞別だ〜!」と靴下を脱いで投げたと、聞かされた。なんでわかるんだろうと不思議に思うことがたくさんあって、今では当たり前に感じてしまうのだが、認知症の人は、普通とは違う別の能力で事がわかってしまうようだ。思えば、洋治さんはよくマサさんの居室を訪れては「大丈夫か〜?」などと声をかけたり、時にはマサさんのベッドの横で寝転がっていたり・・・と、マサさんが気になっていたらしい。洋治さんも私の発表を応援してくれていた。
翌日の発表本番の日、私は緊張より“マサさんと過ごした日々を伝えたい!”という気持ちでワクワクしていた。他の施設の発表も楽しみにしていたが・・・聞いていると、「あれっ?」という感じで拍子抜けだった。私の発表の感じとはズレがありすぎて、なんだか場違いなところへ来たような気がしてきた。他の発表は、管理のしかたやグラフや水分摂取量が・・・といった感じで、専門用語が飛び交い、話について行けない感じだった。確かに、20分という限られた発表時間で伝えようと思ったら、数値やマニュアルといった科学的なまとめ方がわかりやすいのかもしれない。ただ、利用者さんの人柄やスタッフとの関係性や、味わいや奥深さが消された感じがして、聞いていて苦しくなった。
私の発表の順番が近づいてきた頃、メールが入り、洋治さんが、「しっかり喋れ〜!祈ってる!」と叫んでいるという。さすが洋治さんだと思った。
発表の順番がきて、自分の発表の内容の異質さに不安を抱きながら壇上にあがった。初めは少し緊張したが、想いを伝えたい気持ちが勝り緊張はすぐに解れていった。画像をほとんど使わなかったこともあって、視線は私に向けられ、一人一人の表情が見えた。私の発表はやはり場違いなのか初めザワザワしていたが、次第に静まって行くのがわかった。発表後半の山場でマイクの不調というアクシデントがあったが、私は“マサさんか洋治さんがくれた試練だな”と感じて頑張った。発表を終えた瞬間、マサさんと過ごした日々が思い出され、満たされた気持ちになった。質疑応答は5分しかないので、質問して下さったのは、前夜祭で知り合った博愛の園の田中さんだけで終わってしまった。みんなどう感じたのか分からないままだった。どう感じたか質問したかったがその勇気も時間も無かった。けれども会場を出ると、博愛の園の田中さんが声をかけてくださり「とても良かったです。ちゃんと物語が見えてきて入り込めました。私もああいう事がしたいです」と言って下さり、大変救われた気持ちになった。
発表の後、終わったというより、何かが始まったという感じがした。他の発表を聞きながら、「もっと相手と深く繋がることが出来るはずだ」。と感じるケースが幾つかあった。“利用者さんがこう言ったから、こうした”などといった結果の報告だけでなく、なぜその利用者さんがそうしたかったのかという気持ちや、こころの揺れなども掘り下げて欲しいと感じた。
生きるということと死とが介護現場と密接に関わる以上、私たちはこころやたましいをみつめながら生きていく必要に迫られることになると思う。マサさんが今も私を支え続けてくれていると感じるし、これからもマサさんと切り離して私の仕事が成り立つことはないと思う。そこには、たましいを想定したことによる関係性が成り立っているように思う。こころやたましいは目には見えないが想定することはできる。有る・無いではなく想定することが大事なのではないだろうか。それによって言葉での意思疎通を超えてマサさんと繋がれたのだし、死者とも繋がりが生まれてくるように思う。そうした想定がないと目に見えない何かと繋がる事は難しいと思う。
今年の3月16日、奇遇にもマサさんの2年目の命日に私は神戸のユニットケアのセミナーで、マサさんのケースを発表することになった。他の施設での勤務経験のない私にとって、今回のセミナーは初の対外試合とも言えるもので、「銀河の里」とは何かを改めて客観的に考えさせられる機会となり、新たな広がりを感じた研修となった。
神戸へ向かう車中、銀河の里からの電話で、ユニットすばるの洋治さん(仮名)が「行け行け〜!餞別だ〜!」と靴下を脱いで投げたと、聞かされた。なんでわかるんだろうと不思議に思うことがたくさんあって、今では当たり前に感じてしまうのだが、認知症の人は、普通とは違う別の能力で事がわかってしまうようだ。思えば、洋治さんはよくマサさんの居室を訪れては「大丈夫か〜?」などと声をかけたり、時にはマサさんのベッドの横で寝転がっていたり・・・と、マサさんが気になっていたらしい。洋治さんも私の発表を応援してくれていた。
翌日の発表本番の日、私は緊張より“マサさんと過ごした日々を伝えたい!”という気持ちでワクワクしていた。他の施設の発表も楽しみにしていたが・・・聞いていると、「あれっ?」という感じで拍子抜けだった。私の発表の感じとはズレがありすぎて、なんだか場違いなところへ来たような気がしてきた。他の発表は、管理のしかたやグラフや水分摂取量が・・・といった感じで、専門用語が飛び交い、話について行けない感じだった。確かに、20分という限られた発表時間で伝えようと思ったら、数値やマニュアルといった科学的なまとめ方がわかりやすいのかもしれない。ただ、利用者さんの人柄やスタッフとの関係性や、味わいや奥深さが消された感じがして、聞いていて苦しくなった。
私の発表の順番が近づいてきた頃、メールが入り、洋治さんが、「しっかり喋れ〜!祈ってる!」と叫んでいるという。さすが洋治さんだと思った。
発表の順番がきて、自分の発表の内容の異質さに不安を抱きながら壇上にあがった。初めは少し緊張したが、想いを伝えたい気持ちが勝り緊張はすぐに解れていった。画像をほとんど使わなかったこともあって、視線は私に向けられ、一人一人の表情が見えた。私の発表はやはり場違いなのか初めザワザワしていたが、次第に静まって行くのがわかった。発表後半の山場でマイクの不調というアクシデントがあったが、私は“マサさんか洋治さんがくれた試練だな”と感じて頑張った。発表を終えた瞬間、マサさんと過ごした日々が思い出され、満たされた気持ちになった。質疑応答は5分しかないので、質問して下さったのは、前夜祭で知り合った博愛の園の田中さんだけで終わってしまった。みんなどう感じたのか分からないままだった。どう感じたか質問したかったがその勇気も時間も無かった。けれども会場を出ると、博愛の園の田中さんが声をかけてくださり「とても良かったです。ちゃんと物語が見えてきて入り込めました。私もああいう事がしたいです」と言って下さり、大変救われた気持ちになった。
発表の後、終わったというより、何かが始まったという感じがした。他の発表を聞きながら、「もっと相手と深く繋がることが出来るはずだ」。と感じるケースが幾つかあった。“利用者さんがこう言ったから、こうした”などといった結果の報告だけでなく、なぜその利用者さんがそうしたかったのかという気持ちや、こころの揺れなども掘り下げて欲しいと感じた。
生きるということと死とが介護現場と密接に関わる以上、私たちはこころやたましいをみつめながら生きていく必要に迫られることになると思う。マサさんが今も私を支え続けてくれていると感じるし、これからもマサさんと切り離して私の仕事が成り立つことはないと思う。そこには、たましいを想定したことによる関係性が成り立っているように思う。こころやたましいは目には見えないが想定することはできる。有る・無いではなく想定することが大事なのではないだろうか。それによって言葉での意思疎通を超えてマサさんと繋がれたのだし、死者とも繋がりが生まれてくるように思う。そうした想定がないと目に見えない何かと繋がる事は難しいと思う。
銀座「すきやばし次郎」に行く 〜職人の魂に触れる〜 ★副施設長 戸來淳博【2013年3・4月号】
【自身を養う】
銀河の里の研修は、「観る」「聴く」「食べる」を組み込み、東京を中心に機会があれば、美術館や博物館、能や演劇、コンサートに出掛けてきた。心理学者の霜山徳爾さんが、ある料理人の「ものの味わいの判る人は人情も分かるのではないかと思いやす」という言葉を紹介していた。芸術や文化、味わいや趣、情熱や生き様に触れ、感性を磨き、個人を養うことで、現場での新たな出会いや発見が生まれる。舞踏家のピナ・バウシュの公演や夢幻能、若手演奏家が集まる珠響や和太鼓奏者の林英哲の公演など、これまで研修に選び観賞してきた。
今回は、ミシュラン3つ星を6年連続の、国内外で評価の高い「すきやばし次郎」に行こうということになった。店主の小野二郎さんは鮨職人として生き、究極の鮨を求め、鮨と向き合ってきた職人である。NHKの番組「プロフェッショナル〜仕事の流儀」で取り上げられ、最近ではアメリカ人監督による『二郎は鮨の夢を見る』というドキュメンタリー映画も上映され話題になっている。
小野二郎さんは、大正14年生まれで今年で88歳。今のうちに行っておかなければと、厨房の栄養士小野寺祥さんと盛り上がった。ただしランチもディナーも「本日のおまかせコース30.000円から」ということだ。はたして本当においしい鮨、究極の鮨が有るものだろうか、まして私の実家は沿岸の久慈で食卓には新鮮な魚介類が並ぶし、おいしい鮨屋は地の利からしてどうなんだろう・・・と疑心暗鬼なところもあったが、まず行ってみることになった。
【驚きの世界】
2泊3日の研修最終日、私と栄養士の祥さん、ほくとのスタッフの菜摘さん、新厨房スタッフの仁美さんの4人で「すきやばし次郎」に入った。銀座のビル地下にある店は大きな看板もなく、なかなか探しにくかった。予約30分前に着いたので、廊下から店を覗くと暖簾のない玄関からは、店の中がよく見えた。比較的若いお弟子さんが慌ただしく開店準備をするなか、年配の細身の男性がカウンターの中から店内を見渡している。小野二郎だった!彼がいるだけで店は神々しく輝き、観音さんでも見るような感覚になる。圧倒され銀座散策をして改めて気持ちを整えた。
さあ、予約の時間5分前、4人そろって入店。暖簾をくぐると店の中は磨き上げられ、やはり柱やカウンターの鼈甲色がまぶしい。店内はもの静かで、ぴーんと張り詰めた空気を感じる。カウンターに通され、着席すると小野二郎と長男さんが立っていた。お弟子さんが奥から出てきて、飲み物と鮨ネタの好き嫌いを聞く。煎茶が運ばれ、カウンターに置かれると、二郎が始まりの声を掛ける。静けさの中に緊張感が増し、二郎は鮨に集中する。長男さんがネタを仕込み、タレなどを準備する。二郎がシャリとネタをとり、握り始める。二郎の指は細いが力強く感じた。それでも柔らかく繊細に動く、細く長くきれいな指先だった。テンポ良く鮨を握ると、二郎の手のひらから各人の前にある黒い盆の上に、寿司が置かれてゆく。
はじめはヒラメ。握りは大きくもなく小さくもなく、一口で食べられる程度に纏まっている。ネタはシャリに巻き付くように斜めに乗っている。そして二郎の指の形が程よい曲線で残っている。さて、味が分かるだろうかと心配になりながら食べてみる。「・・・なんだこれは!!」という驚き。唸るしかない。一緒に行った栄養士の祥さんと目を合わせ2人でウンウンと驚きを確認。すぐに二郎は次の握りを運んでくる。2つめは、スミイカ。3つめは、ブリ。握りのテンポは速い。次から次へとやってくる。初めて味わう鮨の感覚で、言葉にならない。確かにおいしい。口に入れた瞬間、シャリが発泡するように口の中でほぐれる。ネタが口の中を泳ぎ回る。海か宇宙か、そんな世界が口の中に広がってゆく感じ。
長男さんが菜摘さんに「うちの鮨はね、(先に醤油を塗って)味がついてるから。醤油をつけるならガリに浸けてネタにトントンッて塗って食べるんだよ!シャリに浸けたら(米粒かほぐれて)皿だって汚れちまうだろ・・・!」とカウンター越しに身を乗り出し、べらんめぇ口調で教えてくれる。教えるというか指導という緊張感。しばらくして盆に鮨が残っているのを見ると長男さんが再び登場し「出されたらすぐに食べて!」と指導が入る。置いた瞬間が一番おいしくなるように出しているのだという。各人の右端に、小さい濡れ布巾が置いてあった。私と祥さんが、ひそひそ声で「これなんだろね」と話していると、長男さんは遠くから、手で食べるお客さんが指先を拭く為においてあると教えてくれる。確かに細長く折りたたんだ後に中央を指先でつまみやすいように盛り上げ置いてある。長男さんは二郎のサポートをしながらカウンターの客をよく見ている。
二郎のテンポ良い握りはつづく。そのペースに私たちも合わせていく。2貫食べると一回のペースで奥からお弟子さんがやってきて盆を拭き、もう一人のお弟子さんが客席側に出てきて茶を入れて回る。二郎は鮨に集中している。相変わらず握る所作もテンポ良く軽やかで、力強く握られている。しっかり握っているようで、その割に食べたとき、シャリは柔らかく、ほぐれて口の中いっぱいに広がる。
タコの握りが運ばれてきた。二郎が「この鮨はネタを暖めているから暖かいうちに食べて」と説明してくれる。先の握りと比べ、ほんのり暖かさを感じ、フワッと甘みと旨味が広がる。ウニの軍艦を口に入れると、濃厚なウニの旨味と共に巻かれた海苔の香りが素晴らしかった。温度といい、スピードといい、最高の食材を最高の方法で握りにする。ご飯と鮨ネタを握るという作業は単純な料理だが、二郎の鮨を食べると、その裏に広がる世界の奥深さを感じる。最後、タマゴを頂き、あっとういう間のおまかせコースの19貫を食べ終える。
【魂に触れる瞬間】
「すきやばし次郎」に入る前に、築地市場へ足を運んだ。交通整理の警備員に祥さんは「そんな可愛い靴じゃなく長靴を履いて来なさい」と笑われていた。市場の中はターレットトラック(動力付の台車)がめまぐるしく走り回っていた。合羽を着て長靴をはいた卸人たちの目は殺気を感じるほど鋭く、その迫力に圧倒されてしまう。築地場内はブロック毎で区分けされ、マグロやエビ、蟹、海苔など専門店がひしめき合っていた。世界中の魚介が集まる築地では、すきやばし次郎の為にマグロを用意する職人や海苔の専門店もあるという。二郎は、そういったバックグランドと日本の伝統や文化を抱えて鮨を握っているのだ。「いいとこ取りだよ」と言っていた。
すきやばし次郎をふり返ってみると、二郎はあくまでも鮨を出すことを通じて、自分を賭けた勝負をしているように思える。一般の店のようにお客様のためとは思っていないのではないか。二郎による鮨のための時間であり、場だったと感じる。私たちがコースを終えテーブル席に移ってデザートをいただいていると、中国の女性3人が来店した。弟子の一人が英語でやりとりをする。飲み物とアレルギーを確認すると、同じように二郎の掛け声で握りが始まる。まず1貫目を3人前握り、1人目、2人目とカウンターに置いてゆく。3人目に置こうとしたとき、女性がいきなり席を立った。その瞬間、二郎は調子を外された感じで鮨を落としてしまった。名人二郎が鮨を落とす瞬間を見てしまった。勝負を掛けた二郎の魂はすかされてしまったのだろう。
席を外すといえば菜摘さんは、コースの途中、一度退席した。急に「吐きそうになった」とトイレに駆け込んだ。後から聞くと、出てくるテンポについて行けず胸が苦しくなったという。築地で、あれだけ「食べたい」と騒いでいたウニが出る前の中座だった。緊張感に満ちた食事は胸焼けを起こすというのも分かるが、二郎の魂との対決であったならばなおさらである。恐るべし。
「すきやばし次郎」は、ただ単においしい鮨を食べさせるという店ではなく、後世に弟子を育て、客を育てる場になっているのではないかと感じた。そこで客は、カウンターを挟んで鮨職人小野二郎と向き合い、鮨を通じて、お互い対決をしているのではないか。二郎が、鮨を通じて己に向き合う姿勢は、料理人という枠を超えて、我々の現場にも通じるものがあるように思う。私は、半世紀以上、鮨と向き合ってきた二郎の勝負にすっかりのまれ、鮨を食わされて帰ってきた気分になった。もう一度あのカウンターに座り、小野二郎と勝負をしてみたい。その前に、まずは、映画「二郎は鮨の夢を見る」を観てからにしようと思う。
銀河の里の研修は、「観る」「聴く」「食べる」を組み込み、東京を中心に機会があれば、美術館や博物館、能や演劇、コンサートに出掛けてきた。心理学者の霜山徳爾さんが、ある料理人の「ものの味わいの判る人は人情も分かるのではないかと思いやす」という言葉を紹介していた。芸術や文化、味わいや趣、情熱や生き様に触れ、感性を磨き、個人を養うことで、現場での新たな出会いや発見が生まれる。舞踏家のピナ・バウシュの公演や夢幻能、若手演奏家が集まる珠響や和太鼓奏者の林英哲の公演など、これまで研修に選び観賞してきた。
今回は、ミシュラン3つ星を6年連続の、国内外で評価の高い「すきやばし次郎」に行こうということになった。店主の小野二郎さんは鮨職人として生き、究極の鮨を求め、鮨と向き合ってきた職人である。NHKの番組「プロフェッショナル〜仕事の流儀」で取り上げられ、最近ではアメリカ人監督による『二郎は鮨の夢を見る』というドキュメンタリー映画も上映され話題になっている。
小野二郎さんは、大正14年生まれで今年で88歳。今のうちに行っておかなければと、厨房の栄養士小野寺祥さんと盛り上がった。ただしランチもディナーも「本日のおまかせコース30.000円から」ということだ。はたして本当においしい鮨、究極の鮨が有るものだろうか、まして私の実家は沿岸の久慈で食卓には新鮮な魚介類が並ぶし、おいしい鮨屋は地の利からしてどうなんだろう・・・と疑心暗鬼なところもあったが、まず行ってみることになった。
【驚きの世界】
2泊3日の研修最終日、私と栄養士の祥さん、ほくとのスタッフの菜摘さん、新厨房スタッフの仁美さんの4人で「すきやばし次郎」に入った。銀座のビル地下にある店は大きな看板もなく、なかなか探しにくかった。予約30分前に着いたので、廊下から店を覗くと暖簾のない玄関からは、店の中がよく見えた。比較的若いお弟子さんが慌ただしく開店準備をするなか、年配の細身の男性がカウンターの中から店内を見渡している。小野二郎だった!彼がいるだけで店は神々しく輝き、観音さんでも見るような感覚になる。圧倒され銀座散策をして改めて気持ちを整えた。
さあ、予約の時間5分前、4人そろって入店。暖簾をくぐると店の中は磨き上げられ、やはり柱やカウンターの鼈甲色がまぶしい。店内はもの静かで、ぴーんと張り詰めた空気を感じる。カウンターに通され、着席すると小野二郎と長男さんが立っていた。お弟子さんが奥から出てきて、飲み物と鮨ネタの好き嫌いを聞く。煎茶が運ばれ、カウンターに置かれると、二郎が始まりの声を掛ける。静けさの中に緊張感が増し、二郎は鮨に集中する。長男さんがネタを仕込み、タレなどを準備する。二郎がシャリとネタをとり、握り始める。二郎の指は細いが力強く感じた。それでも柔らかく繊細に動く、細く長くきれいな指先だった。テンポ良く鮨を握ると、二郎の手のひらから各人の前にある黒い盆の上に、寿司が置かれてゆく。
はじめはヒラメ。握りは大きくもなく小さくもなく、一口で食べられる程度に纏まっている。ネタはシャリに巻き付くように斜めに乗っている。そして二郎の指の形が程よい曲線で残っている。さて、味が分かるだろうかと心配になりながら食べてみる。「・・・なんだこれは!!」という驚き。唸るしかない。一緒に行った栄養士の祥さんと目を合わせ2人でウンウンと驚きを確認。すぐに二郎は次の握りを運んでくる。2つめは、スミイカ。3つめは、ブリ。握りのテンポは速い。次から次へとやってくる。初めて味わう鮨の感覚で、言葉にならない。確かにおいしい。口に入れた瞬間、シャリが発泡するように口の中でほぐれる。ネタが口の中を泳ぎ回る。海か宇宙か、そんな世界が口の中に広がってゆく感じ。
長男さんが菜摘さんに「うちの鮨はね、(先に醤油を塗って)味がついてるから。醤油をつけるならガリに浸けてネタにトントンッて塗って食べるんだよ!シャリに浸けたら(米粒かほぐれて)皿だって汚れちまうだろ・・・!」とカウンター越しに身を乗り出し、べらんめぇ口調で教えてくれる。教えるというか指導という緊張感。しばらくして盆に鮨が残っているのを見ると長男さんが再び登場し「出されたらすぐに食べて!」と指導が入る。置いた瞬間が一番おいしくなるように出しているのだという。各人の右端に、小さい濡れ布巾が置いてあった。私と祥さんが、ひそひそ声で「これなんだろね」と話していると、長男さんは遠くから、手で食べるお客さんが指先を拭く為においてあると教えてくれる。確かに細長く折りたたんだ後に中央を指先でつまみやすいように盛り上げ置いてある。長男さんは二郎のサポートをしながらカウンターの客をよく見ている。
二郎のテンポ良い握りはつづく。そのペースに私たちも合わせていく。2貫食べると一回のペースで奥からお弟子さんがやってきて盆を拭き、もう一人のお弟子さんが客席側に出てきて茶を入れて回る。二郎は鮨に集中している。相変わらず握る所作もテンポ良く軽やかで、力強く握られている。しっかり握っているようで、その割に食べたとき、シャリは柔らかく、ほぐれて口の中いっぱいに広がる。
タコの握りが運ばれてきた。二郎が「この鮨はネタを暖めているから暖かいうちに食べて」と説明してくれる。先の握りと比べ、ほんのり暖かさを感じ、フワッと甘みと旨味が広がる。ウニの軍艦を口に入れると、濃厚なウニの旨味と共に巻かれた海苔の香りが素晴らしかった。温度といい、スピードといい、最高の食材を最高の方法で握りにする。ご飯と鮨ネタを握るという作業は単純な料理だが、二郎の鮨を食べると、その裏に広がる世界の奥深さを感じる。最後、タマゴを頂き、あっとういう間のおまかせコースの19貫を食べ終える。
【魂に触れる瞬間】
「すきやばし次郎」に入る前に、築地市場へ足を運んだ。交通整理の警備員に祥さんは「そんな可愛い靴じゃなく長靴を履いて来なさい」と笑われていた。市場の中はターレットトラック(動力付の台車)がめまぐるしく走り回っていた。合羽を着て長靴をはいた卸人たちの目は殺気を感じるほど鋭く、その迫力に圧倒されてしまう。築地場内はブロック毎で区分けされ、マグロやエビ、蟹、海苔など専門店がひしめき合っていた。世界中の魚介が集まる築地では、すきやばし次郎の為にマグロを用意する職人や海苔の専門店もあるという。二郎は、そういったバックグランドと日本の伝統や文化を抱えて鮨を握っているのだ。「いいとこ取りだよ」と言っていた。
すきやばし次郎をふり返ってみると、二郎はあくまでも鮨を出すことを通じて、自分を賭けた勝負をしているように思える。一般の店のようにお客様のためとは思っていないのではないか。二郎による鮨のための時間であり、場だったと感じる。私たちがコースを終えテーブル席に移ってデザートをいただいていると、中国の女性3人が来店した。弟子の一人が英語でやりとりをする。飲み物とアレルギーを確認すると、同じように二郎の掛け声で握りが始まる。まず1貫目を3人前握り、1人目、2人目とカウンターに置いてゆく。3人目に置こうとしたとき、女性がいきなり席を立った。その瞬間、二郎は調子を外された感じで鮨を落としてしまった。名人二郎が鮨を落とす瞬間を見てしまった。勝負を掛けた二郎の魂はすかされてしまったのだろう。
席を外すといえば菜摘さんは、コースの途中、一度退席した。急に「吐きそうになった」とトイレに駆け込んだ。後から聞くと、出てくるテンポについて行けず胸が苦しくなったという。築地で、あれだけ「食べたい」と騒いでいたウニが出る前の中座だった。緊張感に満ちた食事は胸焼けを起こすというのも分かるが、二郎の魂との対決であったならばなおさらである。恐るべし。
「すきやばし次郎」は、ただ単においしい鮨を食べさせるという店ではなく、後世に弟子を育て、客を育てる場になっているのではないかと感じた。そこで客は、カウンターを挟んで鮨職人小野二郎と向き合い、鮨を通じて、お互い対決をしているのではないか。二郎が、鮨を通じて己に向き合う姿勢は、料理人という枠を超えて、我々の現場にも通じるものがあるように思う。私は、半世紀以上、鮨と向き合ってきた二郎の勝負にすっかりのまれ、鮨を食わされて帰ってきた気分になった。もう一度あのカウンターに座り、小野二郎と勝負をしてみたい。その前に、まずは、映画「二郎は鮨の夢を見る」を観てからにしようと思う。
“深い関心=好き”が基本 〜認知症を生きる支える〜 ★ケアマネージャー 板垣由紀子【2013年3・4月号】
ここ10年で認知症に対する一般の理解はかなり進んだように感じる。ドライブに出かけたり、買い物やレストランの食事など、かなり気楽に出かけられるようになった。以前より「変な年寄りを連れて歩くな」といった非難の目で見られるようなことは少なくなった。病院でもたらい回しにされたり、「何でこんなの連れてきた」と怒られたりしたものだが、さすがにそうしたことは減った。しかし認知症の人は検査や治療を受けることが難しい。そこを本人と家族の意向を伝え、理解を求めるのもケアマネージャーとしての私の大事な役目となっている。ところが先日、ある方の退院のカンファレンスで、「他人から手を挙げられても怒ることはありません。穏やかになりました」と病院のケースワーカーが説明するので驚いた。それって薬物拘束じゃないの?と悩むようなことなので、こちらの感覚がおかしいのかと不安に駆られる。認知症の人は感情を制限されて当然なんだろうか。
一般的に若年性認知症の場合は高齢者の認知症よりも大きな葛藤を抱えがちだ。働き盛りで経済的にも中心である上、若くて体力もあるし、能力も気力もあるのに仕事ができなくなるという、受け入れがたい状況にたたき込まれる。怒りや憤懣やるかたなくて暴力が現れるのも痛いほど解る。しかし、いくら他人が解っても、本人の感情から遠いのは当然だろう。そうした本人の気持ちとの距離を丁寧にすり合わせていくことが重要になってくる。やるかたない怒りと暴力を、どう理解し受け止めて向き合うのかは、認知症を生きる本人や周囲の関係者にとって、中核で基本の課題だと思う。怒りや暴力を出さないで済むような環境や対応をどうするか、出たとしてもそれは限られた大切な表現であって、丁寧に捉える姿勢が重要になる。
認知症で自分の人生が根こそぎ覆らされた体験から来る怒りは激しいものがある。燃え上がる怒りに、誰がどう理解し寄り添うのかは至難の技だ。銀河の里のデイサービスでは認知症対応型ということで、そうしたケースに繊細に向き合ってきた。微妙な綱渡りの時期がしばらく続く。チーム全員で、深い関心を持って臨む。深い関心というのは端的に言えば“好き”という感覚と言っていい。接し方がほんの少しでも形式的だったり表面的だと、傷ついた心は敏感に感じ取り反応して、たちまち怒りが吹き出てくる。“好き”という感覚だけが受け入れられ、癒しに繋がるわずかな可能性を残している。人間、四六時中そうした感覚では向き合えないとはいえ、それでも根には“好き”がなければ理不尽な運命に苛まれた魂は鎮まらない。その人の抱えた運命まで含めて、深く理解し受け入れるには、“好き”という感覚が唯一、お互いの救いに繋がるように思う。そうした微妙で繊細なやりとりを日々、間近で見ている立場からすると「怒りが爆発したから薬で抑えました」というのは単純すぎて暴力的に感じる。生活があるので防衛的に守らざるを得ないこともあるが、専門職のアプローチがこの10年、それほど進んだとは思えない。教科書や教育機関では、「客観的態度を失わず、個人的感情を挟んではならない」と教えられるのだろうが、それは社会性としては大事なこととして理解するとしても、その先に行かなければ問題は解決しない課題に満ちている時代になっているのではないだろうか。“好き”など主観を持ち込むのは、とんでもないと言われそうだ。しかし、人間の深い事象に客観性がどこまで通用するだろうか。人間は科学的対象には成り得ない、心や魂のテーマを抱える存在だからだ。認知症はその傾向が極度に強くなる。客観性ばかりにすがりついていて、本質的なことは何も見えないまま、お粗末な対応が増え、結果的に周辺症状を悪化させたり、破壊的な状況に追い込んだりしてしまうケースを多く見聞きする。
薬で感情を抑えられている方でも、デイに来られて少しずつ怒りが出てくるようになると、むしろ安心する。そうでなくちゃと思う。怒りが爆発するとやはりハッとするが、スタッフが絡んで気持ちを和らげる。ゲームをやったり、お菓子を作ったりしていると表情がとても穏やかになっていく。利用者さん同士のやりとりも、スタッフでは及ばないかけひきや会話が成り立つことも頻繁にあって、お互いを受け入れられる関係が展開していく。そうした役割を実に絶妙にこなしてくれる利用者さんにいつも支えられる。そうした場の雰囲気やそれぞれの気持ちを直感的に感じとれるスタッフの感性も大事だ。
全国的に認知症の重度化とその対応の難しさが取りざたされている。一方、10年後には認知症の数は300万人を超えると予想されている。これは施設で抱えきれる数字ではない。この数量を受け止めることのできる地域社会を築いていくしかない。それは市民ひとりひとりの成熟に関わる問題とも言える。認知症の人の居場所や居心地は、周囲の人間の成熟度や地域社会の成熟度と直接結びついているように感じる。子供じみた未成熟な扱いに堕するのではなく、身についた大人の振る舞いとゆとりある精神性で、懐の深い地域社会を育てることをめざさなければ、10年後の認知症の人たちが生きていく環境はとても厳しいものになる。
一般的に若年性認知症の場合は高齢者の認知症よりも大きな葛藤を抱えがちだ。働き盛りで経済的にも中心である上、若くて体力もあるし、能力も気力もあるのに仕事ができなくなるという、受け入れがたい状況にたたき込まれる。怒りや憤懣やるかたなくて暴力が現れるのも痛いほど解る。しかし、いくら他人が解っても、本人の感情から遠いのは当然だろう。そうした本人の気持ちとの距離を丁寧にすり合わせていくことが重要になってくる。やるかたない怒りと暴力を、どう理解し受け止めて向き合うのかは、認知症を生きる本人や周囲の関係者にとって、中核で基本の課題だと思う。怒りや暴力を出さないで済むような環境や対応をどうするか、出たとしてもそれは限られた大切な表現であって、丁寧に捉える姿勢が重要になる。
認知症で自分の人生が根こそぎ覆らされた体験から来る怒りは激しいものがある。燃え上がる怒りに、誰がどう理解し寄り添うのかは至難の技だ。銀河の里のデイサービスでは認知症対応型ということで、そうしたケースに繊細に向き合ってきた。微妙な綱渡りの時期がしばらく続く。チーム全員で、深い関心を持って臨む。深い関心というのは端的に言えば“好き”という感覚と言っていい。接し方がほんの少しでも形式的だったり表面的だと、傷ついた心は敏感に感じ取り反応して、たちまち怒りが吹き出てくる。“好き”という感覚だけが受け入れられ、癒しに繋がるわずかな可能性を残している。人間、四六時中そうした感覚では向き合えないとはいえ、それでも根には“好き”がなければ理不尽な運命に苛まれた魂は鎮まらない。その人の抱えた運命まで含めて、深く理解し受け入れるには、“好き”という感覚が唯一、お互いの救いに繋がるように思う。そうした微妙で繊細なやりとりを日々、間近で見ている立場からすると「怒りが爆発したから薬で抑えました」というのは単純すぎて暴力的に感じる。生活があるので防衛的に守らざるを得ないこともあるが、専門職のアプローチがこの10年、それほど進んだとは思えない。教科書や教育機関では、「客観的態度を失わず、個人的感情を挟んではならない」と教えられるのだろうが、それは社会性としては大事なこととして理解するとしても、その先に行かなければ問題は解決しない課題に満ちている時代になっているのではないだろうか。“好き”など主観を持ち込むのは、とんでもないと言われそうだ。しかし、人間の深い事象に客観性がどこまで通用するだろうか。人間は科学的対象には成り得ない、心や魂のテーマを抱える存在だからだ。認知症はその傾向が極度に強くなる。客観性ばかりにすがりついていて、本質的なことは何も見えないまま、お粗末な対応が増え、結果的に周辺症状を悪化させたり、破壊的な状況に追い込んだりしてしまうケースを多く見聞きする。
薬で感情を抑えられている方でも、デイに来られて少しずつ怒りが出てくるようになると、むしろ安心する。そうでなくちゃと思う。怒りが爆発するとやはりハッとするが、スタッフが絡んで気持ちを和らげる。ゲームをやったり、お菓子を作ったりしていると表情がとても穏やかになっていく。利用者さん同士のやりとりも、スタッフでは及ばないかけひきや会話が成り立つことも頻繁にあって、お互いを受け入れられる関係が展開していく。そうした役割を実に絶妙にこなしてくれる利用者さんにいつも支えられる。そうした場の雰囲気やそれぞれの気持ちを直感的に感じとれるスタッフの感性も大事だ。
全国的に認知症の重度化とその対応の難しさが取りざたされている。一方、10年後には認知症の数は300万人を超えると予想されている。これは施設で抱えきれる数字ではない。この数量を受け止めることのできる地域社会を築いていくしかない。それは市民ひとりひとりの成熟に関わる問題とも言える。認知症の人の居場所や居心地は、周囲の人間の成熟度や地域社会の成熟度と直接結びついているように感じる。子供じみた未成熟な扱いに堕するのではなく、身についた大人の振る舞いとゆとりある精神性で、懐の深い地域社会を育てることをめざさなければ、10年後の認知症の人たちが生きていく環境はとても厳しいものになる。
里売り商品の製造を特訓中! ★ワークステージ 村上幸太郎【2013年3・4月号】
★銀河の里では、ワークステージのワーカーとともに、週に2回の社内販売を行っております。水耕ハウス班や畑班の野菜の他、惣菜班による手づくり惣菜やパン等を販売しています。このイラストでは肉まんの特訓、ハイジの白パン、マッシュポテトの製造工程を詳しく描かれています!
新年会 ★ワークステージ 村上幸太郎【2013年3・4月号】
★ワークステージでは毎年恒例となった新年会が、2月6日に花巻温泉郷にある志戸平温泉で行われました。温泉に入り、美味しい食事とお酒をいただき、メインイベントのカラオケも盛り上がりました!村上君は宴会で出た食事を細かく覚えており、それを間違いなく描きました!すごい記憶力です!
奈良の大仏 ★ワークステージ 昌子さん(仮名)【2013年3・4月号】
★2月に奈良で開催された「BIG幡プロジェクト」に出席した際に、間近で見た奈良の大仏と、全国の障がい者施設の描いた絵を元に作成された幡を描きました。(詳細はあまのがわ通信2013年2月号参照)
昌子さんらしい、とってもカラフルでニコニコの大仏がかわいらしいですね!
昌子さんらしい、とってもカラフルでニコニコの大仏がかわいらしいですね!