2013年02月15日
「帰りたい」の“い” ★デイサービス 千枝悠久【2013年2月号】
「帰りたい」という言葉は、デイサービスにいると、本当によく耳にする。雄介さん(仮名)は、ふだん家にいるときはコタツでボーッとして過ごしていることが大半なのだが、デイに来ると、ここぞとばかりに、「家で仕事さねばね!送ってってけろ!」と迫ってくる。マリさん(仮名)は、「家さ行く〜、ずっと遠いところだ」と、どうやら実家へ帰りたい気持ちのよう。様々な利用者さんの、様々な「帰りたい」がある。その場所も違えば、目的も違う。それぞれ聞いているとどれもなかなか難しい。実際にはどうしてよいか分からず、辛くなってしまうこともある。
年明けから利用をはじめているアヤさん(仮名)の「帰りたい」は、そんな辛くなってしまうような「帰りたい」とはちょっと違う。アヤさんはよく「家さ連れてってけて〜、お父ちゃんどこさ行ったべ?」と言うのだが、その言葉がどこかドラマか何かのセリフのように聞こえる。多分、言葉を巧みに操るアヤさんだからなのだと思う。
アヤさんの「帰りたい」のピークは、お昼を食べた少し後。眉間にシワを寄せ、「連れってってけて〜、連れてってけて〜」ついには、「めめぇ(目眩)する〜」とまで言い出す。まるで眠くてぐずっている赤ん坊のように見えてくる。私が「(それでは)連れてくっか?」と、ホールの隅に置いてあるリラックスチェアまで案内してみる。すかさずスタッフの太田代さんが、「連れてってくれるって言ったって、寝るとこさ連れてくだけで、(アヤさんの言う帰りたいところへ)連れてくのとは違うんだもんね」とつっこみを入れる。するとアヤさんは、大田代さんのそのセリフを、全くそのまま、私に向かって繰り返す。長いセリフも一度聞いただけで覚えてしまうので驚く。思わず、「台本、作りますか?」と言ってしまう私だ。
リラックスチェアに座ってもらっても、相変わらず「連れてってけて〜」は続いているが、やがて、時々目を閉じて眠そうにしている。私が「本当は眠いでしょ?」と言うと、コクンと頷くアヤさん。「寝てもいいよ」と言うと「寝たらわねぇ〜、起きれなくなる」と拒む。「起こすから、一緒にいるから」と言うと今度は「一緒に居る〜」と言ってくれる。そんなやりとりをしているうちに、こっくりこっくり眠り始めるアヤさん。油断して私も一緒に眠りそうになっていると、急に目を覚まし「寝たらわねぇ〜、寝たらオメと別れることになる」と迫る。まるで、今生の別れとなってしまうかのような気持ちの入ったセリフなので、思わず緊張してドキドキしてしまう。
その後「連れてって、連れてって、一緒に、一緒に・・・」と繰り返しているうちにだんだん言葉が弱くなって、ついに言葉が出なくなると、今度は「えーん、えーん」と泣きが入る。私も困って「まず、気持ち落ち着けて」と慰めると、泣きも徐々に収まっていく。今度は小さい声で「行く」と私と一緒にテーブル席へ戻る。その様子は一見、私がアヤさんの気持ちを落ち着けたように見えるかもしれない。ところが、実際は全くそうではない。「気持ち落ち着けて」と言うと、それまでのぐずる感じがなくなり、そのとたんに小さい声で「行く」という技をアヤさんは持っている。つまり、泣いていると、周囲の人が心配して声をかけてくる。そのときサッと切りかえて小声で「行く」と言うと、声をかけた人は慌ててついて行くしかない。そうやって連れてってもらえるワザなのだ。役者もびっくりの演技と切りかえの“名女優”なのである。テーブル席に戻ると「眠い〜」と言いながらも、何食わぬ顔で「(家さ行くの)まだまだなんだな〜」と言っていることもある。まるで、一つの舞台が終わったかのような感じだった。
ある日の午後、やはり「連れってってけて〜、お父ちゃんどこさ行ったべ?」と繰り返し語っているアヤさんがいた。私は言葉を繰るのが上手いアヤさんに刺激されて、しりとりを仕掛けてみた。「どこさ行ったべ」の“べ”を受けて「弁当。“う”だよ、アヤさん?」と言ってみた。するとさすが言語能力の高いアヤさん「嘘だ」と返してくれた。おもしろい、でもたまたまかな?と思いながら「ダルマ」と続けた。すると「負けた」ときた。いや、これは凄い動詞のしりとりは初めてだ!と感動していると「旅人!」には「年寄りだから分からね」「猫!」には、「子どもでねぇから止める」ときた。単語で返す私に対し、しりとりでも見事に主役を張るアヤさんだった。
「帰りたい」の“い”は、怒り・憤り・痛み・・・の“い”のように聞こえることもあって、聞いていて辛くなることもある。しりとりを始めてみたのは、そんな辛さをどうにか楽しみに変えることができないか、という思いも働いていた。ところが、そんな私の浅い考えをあさっりと越え、しりとりに付き合ってくれながらも、しっかりと思いを伝えているアヤさん。アヤさんとのしりとりは「“い”に繋がるのは、それだけじゃない」と、私に教えてくれたようだった。帰りたいの“い”は、辛いの“い”であるのと同時に、きっと、慈しみ・労り・癒し…の“い”でもあるのだ。
帰り送迎の少し前、「車来ねぇ〜、連れてってけて〜」とアヤさん。ちょうど、テレビで相撲中継をやっていて「相撲は見ないの?」と聞いてみると「見ない」と言う。「じゃあ、何を見るの?」と聞くと「オメのこと、見る」と言うのでドキッとした。まだまだ力不足でアヤさんの助演を務めるには、役不足な私だが、どうやらアヤさんは私を見ていてくれるようだ。“い”から始まる辛くて楽しい、嬉しくて悲しい無限の世界を、アヤさんに指南してもらいながら、一緒に自由気ままに歩いてみたいと思う。
年明けから利用をはじめているアヤさん(仮名)の「帰りたい」は、そんな辛くなってしまうような「帰りたい」とはちょっと違う。アヤさんはよく「家さ連れてってけて〜、お父ちゃんどこさ行ったべ?」と言うのだが、その言葉がどこかドラマか何かのセリフのように聞こえる。多分、言葉を巧みに操るアヤさんだからなのだと思う。
アヤさんの「帰りたい」のピークは、お昼を食べた少し後。眉間にシワを寄せ、「連れってってけて〜、連れてってけて〜」ついには、「めめぇ(目眩)する〜」とまで言い出す。まるで眠くてぐずっている赤ん坊のように見えてくる。私が「(それでは)連れてくっか?」と、ホールの隅に置いてあるリラックスチェアまで案内してみる。すかさずスタッフの太田代さんが、「連れてってくれるって言ったって、寝るとこさ連れてくだけで、(アヤさんの言う帰りたいところへ)連れてくのとは違うんだもんね」とつっこみを入れる。するとアヤさんは、大田代さんのそのセリフを、全くそのまま、私に向かって繰り返す。長いセリフも一度聞いただけで覚えてしまうので驚く。思わず、「台本、作りますか?」と言ってしまう私だ。
リラックスチェアに座ってもらっても、相変わらず「連れてってけて〜」は続いているが、やがて、時々目を閉じて眠そうにしている。私が「本当は眠いでしょ?」と言うと、コクンと頷くアヤさん。「寝てもいいよ」と言うと「寝たらわねぇ〜、起きれなくなる」と拒む。「起こすから、一緒にいるから」と言うと今度は「一緒に居る〜」と言ってくれる。そんなやりとりをしているうちに、こっくりこっくり眠り始めるアヤさん。油断して私も一緒に眠りそうになっていると、急に目を覚まし「寝たらわねぇ〜、寝たらオメと別れることになる」と迫る。まるで、今生の別れとなってしまうかのような気持ちの入ったセリフなので、思わず緊張してドキドキしてしまう。
その後「連れてって、連れてって、一緒に、一緒に・・・」と繰り返しているうちにだんだん言葉が弱くなって、ついに言葉が出なくなると、今度は「えーん、えーん」と泣きが入る。私も困って「まず、気持ち落ち着けて」と慰めると、泣きも徐々に収まっていく。今度は小さい声で「行く」と私と一緒にテーブル席へ戻る。その様子は一見、私がアヤさんの気持ちを落ち着けたように見えるかもしれない。ところが、実際は全くそうではない。「気持ち落ち着けて」と言うと、それまでのぐずる感じがなくなり、そのとたんに小さい声で「行く」という技をアヤさんは持っている。つまり、泣いていると、周囲の人が心配して声をかけてくる。そのときサッと切りかえて小声で「行く」と言うと、声をかけた人は慌ててついて行くしかない。そうやって連れてってもらえるワザなのだ。役者もびっくりの演技と切りかえの“名女優”なのである。テーブル席に戻ると「眠い〜」と言いながらも、何食わぬ顔で「(家さ行くの)まだまだなんだな〜」と言っていることもある。まるで、一つの舞台が終わったかのような感じだった。
ある日の午後、やはり「連れってってけて〜、お父ちゃんどこさ行ったべ?」と繰り返し語っているアヤさんがいた。私は言葉を繰るのが上手いアヤさんに刺激されて、しりとりを仕掛けてみた。「どこさ行ったべ」の“べ”を受けて「弁当。“う”だよ、アヤさん?」と言ってみた。するとさすが言語能力の高いアヤさん「嘘だ」と返してくれた。おもしろい、でもたまたまかな?と思いながら「ダルマ」と続けた。すると「負けた」ときた。いや、これは凄い動詞のしりとりは初めてだ!と感動していると「旅人!」には「年寄りだから分からね」「猫!」には、「子どもでねぇから止める」ときた。単語で返す私に対し、しりとりでも見事に主役を張るアヤさんだった。
「帰りたい」の“い”は、怒り・憤り・痛み・・・の“い”のように聞こえることもあって、聞いていて辛くなることもある。しりとりを始めてみたのは、そんな辛さをどうにか楽しみに変えることができないか、という思いも働いていた。ところが、そんな私の浅い考えをあさっりと越え、しりとりに付き合ってくれながらも、しっかりと思いを伝えているアヤさん。アヤさんとのしりとりは「“い”に繋がるのは、それだけじゃない」と、私に教えてくれたようだった。帰りたいの“い”は、辛いの“い”であるのと同時に、きっと、慈しみ・労り・癒し…の“い”でもあるのだ。
帰り送迎の少し前、「車来ねぇ〜、連れてってけて〜」とアヤさん。ちょうど、テレビで相撲中継をやっていて「相撲は見ないの?」と聞いてみると「見ない」と言う。「じゃあ、何を見るの?」と聞くと「オメのこと、見る」と言うのでドキッとした。まだまだ力不足でアヤさんの助演を務めるには、役不足な私だが、どうやらアヤさんは私を見ていてくれるようだ。“い”から始まる辛くて楽しい、嬉しくて悲しい無限の世界を、アヤさんに指南してもらいながら、一緒に自由気ままに歩いてみたいと思う。
『出会いで変わる』 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2013年2月号】
ことに入所している上小路さん(仮名)。かつて会社の社長さんをしていた方で、洒落た感覚と頑固で独特の雰囲気がある。話には心ひかれる深い味わいがある。
以前はデイサービスと併用して時折ショートステイを利用していた。銀河の里では他の施設では対応が難しい方を受け入れる場合が多いが、里独自の対応として、マンツーマンの一対一対応をとることがある。上小路さんも“上小路さんフリー”で対応してきた方だ。暴れる人や歩いて行ってしまう人や色んなタイプがあるのだが、上小路さんは「帰る」という思いが強く、とにかく歩いて行く人だった。現役で仕事をしているイメージだったり、旅行の最中のイメージだったり、“行かなければいけない理由”は様々だった。しばらく会話が弾んだと思っても、すぐに「それでは私は行かなくてはなりません」と笑顔で挨拶して立ち上がる。それを説得して止めたりすると激しい怒りになってしまうので、一緒に歩いたり、ドライブに出かけたりして一日過ごしていた。
語り始めると止まらなくなるので“話を聞く”のも、相当の覚悟と意気込みが必要だった。でも語りは実に豊かで楽しくて、いつの間にか引き込まれる感じだった。また一方で“女性”に対して生々しく迫る空気になることがあって、受ける側がキツくなる感じで、向き合うにはこちらも相当な覚悟が必要だった。
半年くらい前のショートステイのある日、上小路さんは朝起きた時から“騙された”という思いがあって、どこかに帰らなければならない思いがつのっていた。ドライブに出たのだが、一時間くらい走って戻っても、車から降りなかった。5月末の暑い日で心臓疾患もあるのでなんとか休ませたいと、気持ちよりも体を心配して私は少し焦ってしまった。朝から続く“騙された”思いが、私への不信感になって怒り狂った。「車を動かしなさい!じゃないと歩いていきます!鍵を貸しなさい、ほら!」とヒートアップしていく。二人きりでいるのが難しくなった。「壊してやろうか!?暴れてやろうか!?全部あなたの責任ですよ!?鍵をよこしなさい!」「私はこの車と心中する気ですよ!鍵よこせ!どこにやった!?」と顔を真っ赤にしている。もうドライブどころではない。「あんたらの顔覚えた!花巻じゅうに言ってやる!私にはそれくらいの力がある。(特養の看板を見て)何が地域密着型だ!私も悪態つきたくない。私を悪者にしたいんですか?あなたたちも悪者になるんですよ!?」と怒りは止まらない。ただどこか悪者になりきれない上小路さんがいるように私には感じられた。
私との関係はこじれてしまって、「あなた人間ですか!?違う・・・けだものだ!」「生きている価値もない!生きてる価値ないよ!?」とグサリとやってくるので、受け止め切れなくなり涙が出てくる。私は限界で、フリーの平野さんにしばらく代わってもらって自分の気持ちを落ち着かせる。少し時間を置いて再び行くが、私の顔を見るや否や、「あなたには責任がある!鍵よこせ!」と攻撃は続いた。
私は少しゆとりができていたので、いくら罵倒されようととことん向きあうぞと覚悟を決めて挑んだ。でも上小路さんは私を拒み続ける。私に向かって「あなたを殴りたい!これで殴ってやるか!?」と荷物を振り上げる。始めはフリだったが、揺らがない私に「首切ってやるか!?殴るぞ!」と今度は本当にかかってきた。私は真剣白刃取りよろしく上小路さんの手を中空で押さえた。手がふさがった上小路さんは足で蹴って、私は突き飛ばされた。よろめいて足をぶつけた私に、止めを刺すように側にあった鍬を取り振りかざしてきた。鍬でやられてはたまらないとばかり、必死の思いで二度目の白刃どりで押さえるが、私もいっぱいになり「もういいです」とあきらめて離れる。ところが上小路さんはもはや何で怒っているのかわからないような状態で、私を追いかけてくる。そこに事務の瀬川さんが入ってくれたのだが、怒りは収まらず勢いで玄関のライトを引っこ抜いた。ところが「これは危ないな」と自分で戻して「もういい、歩いていく」と行ってしまった。私はもうあきらめて平野さんについて行ってもらった。しばらく歩いて気持ちが落ち着いたのかドライブになって、お昼の代わりにおにぎりを持って行ってもらった。
私は自分の感情や思いを落ち着かせながら、上小路さんはどんな風に帰ってくるだろう?大丈夫かな?とずっと気になっていた。1時間ほどして帰ってきたが、やはり車から降りなかった。それでもかなり落ち着いていて平野さんから私に替わることもできた。「あれ?どこかで会った顔だな」と受けてくれる。私はもうこうなったらとことんドライブしようという気持になっていた。ドライブが続くと「新緑はいいね。緑の中こうやって走るのいいね」「気分爽快です!」と楽しそうな上小路さんになってきた。行くあてもなく遠野方面に向かっていると、“稲荷穴”の看板があった。「行ってみますか?」と聞くと「行ってみますか!そういうのもいいですよね!」と乗り気で「参拝しましょう」と言うではないか。稲荷穴に着くと、あれだけ降りなかった車からサッと降りた上に「あなたにリードしてもらって来れた。良かったなぁ」と言ってくれる。「あなたが行くところに行きましょう」という感じでついてきてくれる。稲荷穴の神社に特別な感慨を込めて二人で手を合わせた。
帰りのドライブは打って変わったように「申し訳ないね、ご迷惑かけて・・・本当にありがとうございました」と私に何度も言い、里に着くとすんなり車から降りて「ここはゆっくりしていいね」と言うので驚いて笑ってしまった。さらに「おたく、頑張ってましたよね。よく頑張ってくださいました」と来たときは泣きそうになった。やっと休める上小路さん。上小路さんも頑張ったんだと思う。この時はわからなかったけれど、今思うと、自分の沸き起こる怒りや激しい感情を出さなければならなかった時期だったのかもしれない。「今回は私が悪いんだから。ごめんなさいね」「世の中計算通りにいかない。社会っていうのは難しいね」「男から謝るってなかなか出来ない。相手を傷つけないような言い方ってなかなかないもんだね」と語り続けるので、いろいろ詰め込まれた1日をふり返っているような気がした。私にとっても鍬で耕されそうになったりしたが、味わい深い1日になった。
そんな上小路さんが、体調を崩して入院になった。退院してショート利用になり迎えに行ったが、すぐに発熱し病院受診に…ということが続いたりもした。やがて、あれだけ歩いた上小路さんが、ほとんど歩けなくなり車いすになって、自宅での生活も厳しくなり入居になった。
ある雪の日。おやつに誘いに居室に起こしに行くと「あー!来た!?もうだめかと思った〜。いがった〜!」と何か「助かった」らしく私を見て安心している。「我慢してた。3回目来るって言ったから・・・覚悟してた」と何やら窮地に追い詰められていたようなイメージから、私が上小路さんを救った様子だった。私も何かドキドキした。だが半年くらい前の上小路さんとは違って、今は多くを語らず“何がどう動いている”のか解らないままだった。そのままおやつを食べ、しばらくリビングで過ごしていたのだが、突然、「私は子どもを守るためにいつまで持つかです!可哀想だ・・・」と語り出した!「あと何日しかないけども・・・子どもたちを・・・なんとか頑張りたいと思ってます。あまりにも可哀想です、今の子どもたち。涙が出る、涙が出る・・・」と切羽詰まったような思いを語り始めた。私に、なのか、その場にいた皆に、なのか語り続ける。「私の気持ちを汲んでくれてありがとうございます。皆さんのお腹に入ってる赤子がどの程度成長するか・・・子どもたちは出よう出ようと考えている。親も子どもも大変。この雪じゃあ出ようにも出られない。でも親の気持ち無視して出ようとする子どももいるから大変なの」と、子どもや親の大変さを語る。「私も一人の親としてね」と言うので自分も入っているようだ。
まだ開設されて4年目の銀河の里特養、意欲はあるが、見習い程度の新人スタッフ。一生懸命頑張っているが、介護の仕事は社会的にも低く見られて評価はされない。でも大事な仕事なんだけど、世間は解ってくれない。それでも人間の本質に迫る仕事なんだと訴えたい。でもちゃんと伝えるだけの力もない。一人前の専門職として育って社会に認められるまでになるものだろうか。上小路さんの語りは、今のユニットの課題そのものだ。“お腹に入っている赤子”も、それぞれが育てていかなければならない自分自身や、内に秘めてまだ育っていない何か、自分と向きあっていかなければならない何か、そういうことを言っているように私は思えてならなかった。毎月の通信の記事にあるように、銀河の里では、利用者のこうした言葉や、イメージは実に多く見られる。私も銀河の里6年目ながら、ユニットチームを育てようと、この1年戦ってきた。「上小路さんも育ててくれる人なんだ!」とありがたくてぐっと胸に込み上げてきた。
「私の体はこれ以上太くなりません。けれども皆さんが上げてくれるからこうして居る。・・・いくらか残っている方ありますか?」と私に問う。「頑張って残ってる人あります」と私なりに解釈して答えてみると、頷いてくれた。「皆ね、我慢して生きてるわけですから。あともう少し!本当にね、世の中はひどいもんです。子どもたち、なんとかかんとかって出ようとしてるんだよ?世の中の隊長、引っ張り出さねばね!」と、世の中を嘆きながら、「ぶちやぶろうとしないと!自分で生きてくればいいんだ」と最後には“子どもたち”の背中を押すような言葉をくれる。
高齢者は若いスタッフを育てようとしてくれる。ミエさん(仮名)を始めとして、フミさん(仮名)も亡くなった遠子さん(仮名)もそうだった。上小路さんの存在が一人加わった。
以前の上小路さんの語りに考えさせられたが、今はまた全く別次元に上小路さんはいるように感じる。その語りはより一層深みと重みを増してきている。あのどうしようもないような怒りと向きあって私も傷ついて辛かった時期とはまるで違って、ユニットで上小路さんの存在に救われる。守ってくれているなと実感する。わずか半年の間にこんなにも変わるものだろうかと不思議だけれど、上小路さん自身も何かを乗り越える必要があったのだろし、それを受け止める場所や人も必要だったと感じる。
実際、他事業所では女性スタッフへの“ボディタッチが激しい”という理由で利用を断られている。確かに一時期、とても苦しい感じで迫られることがあったのだが、かといって一概に“触る人”とか“帰宅願望とその行動化が強い人”と表面的に括ってしまうのは、やってはならないことだ。認知症の人の行動のその奥にある何かに、想像力を働かせ考えていく姿勢が必要だ。そこを意識するだけで世界が変わる。事実、1日苦しめられて泣いたあの頃とはまるで違う上小路さんが、今ユニットにいて私を支え守ってくれる存在になっている。簡単に因果論では語れない変容を人間はすることがある。理由や原因がはっきりしないからこそ、そこには計り知れない事が起こってくる。それを暮らしのなかで器として構築するのが、我々の専門性として立ち上げる事ではないだろうか。そうした器が場としても人としても用意されるなら、利用者は次なるステージへの展開の可能性を開いていくように思う。
以前はデイサービスと併用して時折ショートステイを利用していた。銀河の里では他の施設では対応が難しい方を受け入れる場合が多いが、里独自の対応として、マンツーマンの一対一対応をとることがある。上小路さんも“上小路さんフリー”で対応してきた方だ。暴れる人や歩いて行ってしまう人や色んなタイプがあるのだが、上小路さんは「帰る」という思いが強く、とにかく歩いて行く人だった。現役で仕事をしているイメージだったり、旅行の最中のイメージだったり、“行かなければいけない理由”は様々だった。しばらく会話が弾んだと思っても、すぐに「それでは私は行かなくてはなりません」と笑顔で挨拶して立ち上がる。それを説得して止めたりすると激しい怒りになってしまうので、一緒に歩いたり、ドライブに出かけたりして一日過ごしていた。
語り始めると止まらなくなるので“話を聞く”のも、相当の覚悟と意気込みが必要だった。でも語りは実に豊かで楽しくて、いつの間にか引き込まれる感じだった。また一方で“女性”に対して生々しく迫る空気になることがあって、受ける側がキツくなる感じで、向き合うにはこちらも相当な覚悟が必要だった。
半年くらい前のショートステイのある日、上小路さんは朝起きた時から“騙された”という思いがあって、どこかに帰らなければならない思いがつのっていた。ドライブに出たのだが、一時間くらい走って戻っても、車から降りなかった。5月末の暑い日で心臓疾患もあるのでなんとか休ませたいと、気持ちよりも体を心配して私は少し焦ってしまった。朝から続く“騙された”思いが、私への不信感になって怒り狂った。「車を動かしなさい!じゃないと歩いていきます!鍵を貸しなさい、ほら!」とヒートアップしていく。二人きりでいるのが難しくなった。「壊してやろうか!?暴れてやろうか!?全部あなたの責任ですよ!?鍵をよこしなさい!」「私はこの車と心中する気ですよ!鍵よこせ!どこにやった!?」と顔を真っ赤にしている。もうドライブどころではない。「あんたらの顔覚えた!花巻じゅうに言ってやる!私にはそれくらいの力がある。(特養の看板を見て)何が地域密着型だ!私も悪態つきたくない。私を悪者にしたいんですか?あなたたちも悪者になるんですよ!?」と怒りは止まらない。ただどこか悪者になりきれない上小路さんがいるように私には感じられた。
私との関係はこじれてしまって、「あなた人間ですか!?違う・・・けだものだ!」「生きている価値もない!生きてる価値ないよ!?」とグサリとやってくるので、受け止め切れなくなり涙が出てくる。私は限界で、フリーの平野さんにしばらく代わってもらって自分の気持ちを落ち着かせる。少し時間を置いて再び行くが、私の顔を見るや否や、「あなたには責任がある!鍵よこせ!」と攻撃は続いた。
私は少しゆとりができていたので、いくら罵倒されようととことん向きあうぞと覚悟を決めて挑んだ。でも上小路さんは私を拒み続ける。私に向かって「あなたを殴りたい!これで殴ってやるか!?」と荷物を振り上げる。始めはフリだったが、揺らがない私に「首切ってやるか!?殴るぞ!」と今度は本当にかかってきた。私は真剣白刃取りよろしく上小路さんの手を中空で押さえた。手がふさがった上小路さんは足で蹴って、私は突き飛ばされた。よろめいて足をぶつけた私に、止めを刺すように側にあった鍬を取り振りかざしてきた。鍬でやられてはたまらないとばかり、必死の思いで二度目の白刃どりで押さえるが、私もいっぱいになり「もういいです」とあきらめて離れる。ところが上小路さんはもはや何で怒っているのかわからないような状態で、私を追いかけてくる。そこに事務の瀬川さんが入ってくれたのだが、怒りは収まらず勢いで玄関のライトを引っこ抜いた。ところが「これは危ないな」と自分で戻して「もういい、歩いていく」と行ってしまった。私はもうあきらめて平野さんについて行ってもらった。しばらく歩いて気持ちが落ち着いたのかドライブになって、お昼の代わりにおにぎりを持って行ってもらった。
私は自分の感情や思いを落ち着かせながら、上小路さんはどんな風に帰ってくるだろう?大丈夫かな?とずっと気になっていた。1時間ほどして帰ってきたが、やはり車から降りなかった。それでもかなり落ち着いていて平野さんから私に替わることもできた。「あれ?どこかで会った顔だな」と受けてくれる。私はもうこうなったらとことんドライブしようという気持になっていた。ドライブが続くと「新緑はいいね。緑の中こうやって走るのいいね」「気分爽快です!」と楽しそうな上小路さんになってきた。行くあてもなく遠野方面に向かっていると、“稲荷穴”の看板があった。「行ってみますか?」と聞くと「行ってみますか!そういうのもいいですよね!」と乗り気で「参拝しましょう」と言うではないか。稲荷穴に着くと、あれだけ降りなかった車からサッと降りた上に「あなたにリードしてもらって来れた。良かったなぁ」と言ってくれる。「あなたが行くところに行きましょう」という感じでついてきてくれる。稲荷穴の神社に特別な感慨を込めて二人で手を合わせた。
帰りのドライブは打って変わったように「申し訳ないね、ご迷惑かけて・・・本当にありがとうございました」と私に何度も言い、里に着くとすんなり車から降りて「ここはゆっくりしていいね」と言うので驚いて笑ってしまった。さらに「おたく、頑張ってましたよね。よく頑張ってくださいました」と来たときは泣きそうになった。やっと休める上小路さん。上小路さんも頑張ったんだと思う。この時はわからなかったけれど、今思うと、自分の沸き起こる怒りや激しい感情を出さなければならなかった時期だったのかもしれない。「今回は私が悪いんだから。ごめんなさいね」「世の中計算通りにいかない。社会っていうのは難しいね」「男から謝るってなかなか出来ない。相手を傷つけないような言い方ってなかなかないもんだね」と語り続けるので、いろいろ詰め込まれた1日をふり返っているような気がした。私にとっても鍬で耕されそうになったりしたが、味わい深い1日になった。
そんな上小路さんが、体調を崩して入院になった。退院してショート利用になり迎えに行ったが、すぐに発熱し病院受診に…ということが続いたりもした。やがて、あれだけ歩いた上小路さんが、ほとんど歩けなくなり車いすになって、自宅での生活も厳しくなり入居になった。
ある雪の日。おやつに誘いに居室に起こしに行くと「あー!来た!?もうだめかと思った〜。いがった〜!」と何か「助かった」らしく私を見て安心している。「我慢してた。3回目来るって言ったから・・・覚悟してた」と何やら窮地に追い詰められていたようなイメージから、私が上小路さんを救った様子だった。私も何かドキドキした。だが半年くらい前の上小路さんとは違って、今は多くを語らず“何がどう動いている”のか解らないままだった。そのままおやつを食べ、しばらくリビングで過ごしていたのだが、突然、「私は子どもを守るためにいつまで持つかです!可哀想だ・・・」と語り出した!「あと何日しかないけども・・・子どもたちを・・・なんとか頑張りたいと思ってます。あまりにも可哀想です、今の子どもたち。涙が出る、涙が出る・・・」と切羽詰まったような思いを語り始めた。私に、なのか、その場にいた皆に、なのか語り続ける。「私の気持ちを汲んでくれてありがとうございます。皆さんのお腹に入ってる赤子がどの程度成長するか・・・子どもたちは出よう出ようと考えている。親も子どもも大変。この雪じゃあ出ようにも出られない。でも親の気持ち無視して出ようとする子どももいるから大変なの」と、子どもや親の大変さを語る。「私も一人の親としてね」と言うので自分も入っているようだ。
まだ開設されて4年目の銀河の里特養、意欲はあるが、見習い程度の新人スタッフ。一生懸命頑張っているが、介護の仕事は社会的にも低く見られて評価はされない。でも大事な仕事なんだけど、世間は解ってくれない。それでも人間の本質に迫る仕事なんだと訴えたい。でもちゃんと伝えるだけの力もない。一人前の専門職として育って社会に認められるまでになるものだろうか。上小路さんの語りは、今のユニットの課題そのものだ。“お腹に入っている赤子”も、それぞれが育てていかなければならない自分自身や、内に秘めてまだ育っていない何か、自分と向きあっていかなければならない何か、そういうことを言っているように私は思えてならなかった。毎月の通信の記事にあるように、銀河の里では、利用者のこうした言葉や、イメージは実に多く見られる。私も銀河の里6年目ながら、ユニットチームを育てようと、この1年戦ってきた。「上小路さんも育ててくれる人なんだ!」とありがたくてぐっと胸に込み上げてきた。
「私の体はこれ以上太くなりません。けれども皆さんが上げてくれるからこうして居る。・・・いくらか残っている方ありますか?」と私に問う。「頑張って残ってる人あります」と私なりに解釈して答えてみると、頷いてくれた。「皆ね、我慢して生きてるわけですから。あともう少し!本当にね、世の中はひどいもんです。子どもたち、なんとかかんとかって出ようとしてるんだよ?世の中の隊長、引っ張り出さねばね!」と、世の中を嘆きながら、「ぶちやぶろうとしないと!自分で生きてくればいいんだ」と最後には“子どもたち”の背中を押すような言葉をくれる。
高齢者は若いスタッフを育てようとしてくれる。ミエさん(仮名)を始めとして、フミさん(仮名)も亡くなった遠子さん(仮名)もそうだった。上小路さんの存在が一人加わった。
以前の上小路さんの語りに考えさせられたが、今はまた全く別次元に上小路さんはいるように感じる。その語りはより一層深みと重みを増してきている。あのどうしようもないような怒りと向きあって私も傷ついて辛かった時期とはまるで違って、ユニットで上小路さんの存在に救われる。守ってくれているなと実感する。わずか半年の間にこんなにも変わるものだろうかと不思議だけれど、上小路さん自身も何かを乗り越える必要があったのだろし、それを受け止める場所や人も必要だったと感じる。
実際、他事業所では女性スタッフへの“ボディタッチが激しい”という理由で利用を断られている。確かに一時期、とても苦しい感じで迫られることがあったのだが、かといって一概に“触る人”とか“帰宅願望とその行動化が強い人”と表面的に括ってしまうのは、やってはならないことだ。認知症の人の行動のその奥にある何かに、想像力を働かせ考えていく姿勢が必要だ。そこを意識するだけで世界が変わる。事実、1日苦しめられて泣いたあの頃とはまるで違う上小路さんが、今ユニットにいて私を支え守ってくれる存在になっている。簡単に因果論では語れない変容を人間はすることがある。理由や原因がはっきりしないからこそ、そこには計り知れない事が起こってくる。それを暮らしのなかで器として構築するのが、我々の専門性として立ち上げる事ではないだろうか。そうした器が場としても人としても用意されるなら、利用者は次なるステージへの展開の可能性を開いていくように思う。
TERM90の存在の力 その3 ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2013年2月号】
12月に入り、新しくクニエさん(仮名)の居室に1月のカレンダーを貼った。11月とは違い、クニエさんはもうほとんど食べることができなくなり、1日200mlの点滴だけで栄養を取り命を繋いでいて、日中も目を閉じていることが多くなった。それでもいっぱいクニエさんは話してくれた。発語のない人だから話してくれたというのはおかしいのだが、言わばたましいの次元でのやりとりは益々濃密で豊かになった。またクニエさんはよくどこかに出かけた。これまた、体はここにあるのだが、たましいはしょっちゅう出かけるのだった。出かけたときはそっとしておいて、帰ってきたかどうか頻繁に居室を見に行ったり、隣で座って待った。戻ってくると「おかえり」と声をかけた。
出産で妻のほなみが大船渡に里帰りしてから、前号の通信でも書いたように、クニエさんとほなみは壁抜けなのか、テレパシーなのか、不思議なところで行き来したり、繋がったりしているようだった(ほなみも常時クニエさんが来ていると言うし、話もしているようす)。ともあれ現実を生きるしかない私は、予定日が近いこともあって気が気ではなく、ただそわそわしている毎日が続いていた。ほなみの実家の大船渡まで、何もできないのに、車で90分の距離を毎日のように行き来した。いつ子どもが産まれてもいいように、着替えや歯ブラシ、それと現金の入った大きなリュックを常に持ち歩いてかけまわっていた。車を走らせてうろうろするだけだった(男は無力で辛い…)。
子どもが産まれてくる事と、まもなくクニエさんが旅立ってしまうことの二つを抱えて、私はそのどちらも、どう受け止めればいいのか解らず、押しつぶされそうで、日々不安がふくれあがりいっぱいいっぱいになった。その不安をクニエさんの傍らで毎日話した。クニエさんはゆっくり頷いたり、指をくっつけたり離したりして何かを語ってくれる。何かはわからないけどクニエさんに聞いてもらわないと頭がおかしくなりそうだった。言葉はないけど、毎日クニエさんはいっぱい語ってくれた。
私は実家に帰ったほなみとは時間があれば電話をしていた。話す内容は「今日のクニエさん」と「今日のお腹の中の赤ちゃん」のことだった。特養で3年間ほなみを支えてきたクニエさんが、ほなみが生む赤ちゃんを楽しみに生きてきた。予定日は12月24日。そこまでクニエさんの命が持つだろうか。生まれた赤ちゃんを抱いてもらいたい。せめてそこまでは生きていてほしい。すがりつくように私も他のスタッフも祈った。そんないっぱいいっぱいの渦中でフラフラになっているとき、突然不思議なビジョンが見えた。産まれて来る赤ちゃんはクニエさんで、ほなみはクニエさんを産もうとしていた。それを理事長に話すと「そうか、そういうことか・・・」とひとりうなっていた。どういうことだ?!よくわからないけど、すごいことが起きていることは感じていた。そんな只中で、とにかく私は現実を駆けずりまわっていた。
クニエさんは、面会にやってくる息子さんをいつも楽しみに待っていた。ところが、ほなみが実家に帰ったあたりから、息子さんがきても、クニエさんは例のカレンダーを通路に壁抜けをして、飛んで行ってしまう。行き先はほなみさんのところとみんな解っているのだが、息子さんも「また行っちゃったよ!」とあきれていた。クニエさんが帰ってくるのを待ちながら、傍らで私は息子さんに昔の話を聞かせてもらいながらすごした。息子さんに子どもの頃や、若い頃のエピソードなど、いろいろ話してもらった。二人で盛り上がっている最中にいつの間にかクニエさんが戻ってきていて、話を聞いていることもあった。ちょうど息子さんがいたずらをした話だったりすると、バッと目を見開いて怒ってることもあった。息子さんが小学生の頃、授業がいやで学校を抜け出し、友達と十円玉を握りしめて町へ出て、こっそり映画を見ていたら、先生が映画館まで連れ戻しにきた話の時には、クニエさんが、毛布の下の手をガンガン降り、見ると毛布の下の手はグーで、まさに息子を厳しく叱る母親がそこにいた。
ある日、仕事がうまくいかず苦しんでいた私は、深夜クニエさんの居室へ行った。クニエさんの眠っているワキで、ひとり悔し涙を流していると、いつのまにかクニエさんが目を開けて、毛布から手を出そうとしてくれていた。私は驚きながら「目が覚めたの、どうしたの?」とクニエさんの手を握った。クニエさんは弱った微かな力だったが、私の手を何度も何度も握りしめてくれた。私はまた別の涙が出てきて止まらなくなった。
翌日、私はほなみに会いに大船渡に向かった。ほなみとまもなく生まれてくる赤ちゃんがいる膨らんだお腹をクニエさんに見せたくて、ビデオカメラを買おうと電気店に入っていたら電話が鳴った。クニエさんがいよいよ危ないという連絡だった。急いでビデオカメラでほなみとお腹を写し、銀河の里へ戻った。クニエさんは、体が黄色くなり目も薄目の状態で、手も動かなくなっていた。私は大きなTV画面にビデオレターを映し出し、クニエさんに見せた。駆けつけていた息子さんも「ほなみちゃんだよ!分かるべ!赤ちゃんこんなに大きくなったんだよ!まだ早いよ!!まだだよ!!あと一週間がんばるんだ!」と一生懸命声をかけてくれた。その翌日、クニエさんのお子さんやお孫さん達がたくさん訪れて、クニエさんは、みんなと会った。
12月18日、クニエさんは体が白くなり、薄目で口も開いたままだった。この日も家族さんが訪れ、クニエさんの子供さん4人が全員顔を合わせた。クニエさんは、静かな呼吸で苦しそうではなかったが、目も口も開いたまま、全く動かなくなっていた。今夜だろうという予感があった。私はこの日は大船渡に行かずに自宅で控えていた。夜の10時過ぎ、スタッフからクニエさんの呼吸状態がよくないと連絡が入った。居室に行くと、息子さんがクニエさんを抱きかかえて「まだ早い!!もう少し頑張れ!ほなみちゃんの赤ちゃん抱っこするんだろ!戻ってこい!」と声をかけていた。私もクニエさんに声を掛けるが、呼吸は止まった。「今までありがとう。お袋の子供でよかったよ…」と息子さんはクニエさんを静かに寝かせた。それでも息子さんはクニエさんを抱いたままクニエさんに話しかけている。このとき二人の姿は、側で見ていてとても神々しく感じた。そこにいる私まで不思議な安らぎを感じるような時間が流れ、なぜかとても満たされて、安心感に包まれる自分がいた。
深夜にもかかわらず、次々と銀河の里のスタッフがクニエさんに会いに来た。ナースとドクターもすぐに駆けつけてくれたが、二人の様子をそっと見ていてくれて、「クニエさんのお子さんが全員揃うまで待ちましょう」と遠野などから駆けつける子どもたちが全員揃ってから、ドクターは亡くなったことを告げた。日付は19日になっていた。
ほなみに連絡を入れると、泣きながら「あのね、昨日の朝、夢見たんだよね。クニエさんが私たちの赤ちゃん抱っこしてあやしてて、私はそれを隣でみていたの」と言う。18日の朝方、クニエさんはいつものように出かけたが、あのときほなみのお腹の中の赤ちゃんを抱きに来ていたのだった。
それから10日後、ほなみは、12月28日に元気な女の子を産んだ。クニエさんが亡くなってからも、ほなみはクニエさんと一緒に写っている写真を見ながらがんばった。私は出産に立ち会ったのだが、産まれた瞬間ほなみと目を合わせ二人とも思わずうなずいた。そこにクニエさんがいたのを二人とも同時に感じたのだった。
出産で妻のほなみが大船渡に里帰りしてから、前号の通信でも書いたように、クニエさんとほなみは壁抜けなのか、テレパシーなのか、不思議なところで行き来したり、繋がったりしているようだった(ほなみも常時クニエさんが来ていると言うし、話もしているようす)。ともあれ現実を生きるしかない私は、予定日が近いこともあって気が気ではなく、ただそわそわしている毎日が続いていた。ほなみの実家の大船渡まで、何もできないのに、車で90分の距離を毎日のように行き来した。いつ子どもが産まれてもいいように、着替えや歯ブラシ、それと現金の入った大きなリュックを常に持ち歩いてかけまわっていた。車を走らせてうろうろするだけだった(男は無力で辛い…)。
子どもが産まれてくる事と、まもなくクニエさんが旅立ってしまうことの二つを抱えて、私はそのどちらも、どう受け止めればいいのか解らず、押しつぶされそうで、日々不安がふくれあがりいっぱいいっぱいになった。その不安をクニエさんの傍らで毎日話した。クニエさんはゆっくり頷いたり、指をくっつけたり離したりして何かを語ってくれる。何かはわからないけどクニエさんに聞いてもらわないと頭がおかしくなりそうだった。言葉はないけど、毎日クニエさんはいっぱい語ってくれた。
私は実家に帰ったほなみとは時間があれば電話をしていた。話す内容は「今日のクニエさん」と「今日のお腹の中の赤ちゃん」のことだった。特養で3年間ほなみを支えてきたクニエさんが、ほなみが生む赤ちゃんを楽しみに生きてきた。予定日は12月24日。そこまでクニエさんの命が持つだろうか。生まれた赤ちゃんを抱いてもらいたい。せめてそこまでは生きていてほしい。すがりつくように私も他のスタッフも祈った。そんないっぱいいっぱいの渦中でフラフラになっているとき、突然不思議なビジョンが見えた。産まれて来る赤ちゃんはクニエさんで、ほなみはクニエさんを産もうとしていた。それを理事長に話すと「そうか、そういうことか・・・」とひとりうなっていた。どういうことだ?!よくわからないけど、すごいことが起きていることは感じていた。そんな只中で、とにかく私は現実を駆けずりまわっていた。
クニエさんは、面会にやってくる息子さんをいつも楽しみに待っていた。ところが、ほなみが実家に帰ったあたりから、息子さんがきても、クニエさんは例のカレンダーを通路に壁抜けをして、飛んで行ってしまう。行き先はほなみさんのところとみんな解っているのだが、息子さんも「また行っちゃったよ!」とあきれていた。クニエさんが帰ってくるのを待ちながら、傍らで私は息子さんに昔の話を聞かせてもらいながらすごした。息子さんに子どもの頃や、若い頃のエピソードなど、いろいろ話してもらった。二人で盛り上がっている最中にいつの間にかクニエさんが戻ってきていて、話を聞いていることもあった。ちょうど息子さんがいたずらをした話だったりすると、バッと目を見開いて怒ってることもあった。息子さんが小学生の頃、授業がいやで学校を抜け出し、友達と十円玉を握りしめて町へ出て、こっそり映画を見ていたら、先生が映画館まで連れ戻しにきた話の時には、クニエさんが、毛布の下の手をガンガン降り、見ると毛布の下の手はグーで、まさに息子を厳しく叱る母親がそこにいた。
ある日、仕事がうまくいかず苦しんでいた私は、深夜クニエさんの居室へ行った。クニエさんの眠っているワキで、ひとり悔し涙を流していると、いつのまにかクニエさんが目を開けて、毛布から手を出そうとしてくれていた。私は驚きながら「目が覚めたの、どうしたの?」とクニエさんの手を握った。クニエさんは弱った微かな力だったが、私の手を何度も何度も握りしめてくれた。私はまた別の涙が出てきて止まらなくなった。
翌日、私はほなみに会いに大船渡に向かった。ほなみとまもなく生まれてくる赤ちゃんがいる膨らんだお腹をクニエさんに見せたくて、ビデオカメラを買おうと電気店に入っていたら電話が鳴った。クニエさんがいよいよ危ないという連絡だった。急いでビデオカメラでほなみとお腹を写し、銀河の里へ戻った。クニエさんは、体が黄色くなり目も薄目の状態で、手も動かなくなっていた。私は大きなTV画面にビデオレターを映し出し、クニエさんに見せた。駆けつけていた息子さんも「ほなみちゃんだよ!分かるべ!赤ちゃんこんなに大きくなったんだよ!まだ早いよ!!まだだよ!!あと一週間がんばるんだ!」と一生懸命声をかけてくれた。その翌日、クニエさんのお子さんやお孫さん達がたくさん訪れて、クニエさんは、みんなと会った。
12月18日、クニエさんは体が白くなり、薄目で口も開いたままだった。この日も家族さんが訪れ、クニエさんの子供さん4人が全員顔を合わせた。クニエさんは、静かな呼吸で苦しそうではなかったが、目も口も開いたまま、全く動かなくなっていた。今夜だろうという予感があった。私はこの日は大船渡に行かずに自宅で控えていた。夜の10時過ぎ、スタッフからクニエさんの呼吸状態がよくないと連絡が入った。居室に行くと、息子さんがクニエさんを抱きかかえて「まだ早い!!もう少し頑張れ!ほなみちゃんの赤ちゃん抱っこするんだろ!戻ってこい!」と声をかけていた。私もクニエさんに声を掛けるが、呼吸は止まった。「今までありがとう。お袋の子供でよかったよ…」と息子さんはクニエさんを静かに寝かせた。それでも息子さんはクニエさんを抱いたままクニエさんに話しかけている。このとき二人の姿は、側で見ていてとても神々しく感じた。そこにいる私まで不思議な安らぎを感じるような時間が流れ、なぜかとても満たされて、安心感に包まれる自分がいた。
深夜にもかかわらず、次々と銀河の里のスタッフがクニエさんに会いに来た。ナースとドクターもすぐに駆けつけてくれたが、二人の様子をそっと見ていてくれて、「クニエさんのお子さんが全員揃うまで待ちましょう」と遠野などから駆けつける子どもたちが全員揃ってから、ドクターは亡くなったことを告げた。日付は19日になっていた。
ほなみに連絡を入れると、泣きながら「あのね、昨日の朝、夢見たんだよね。クニエさんが私たちの赤ちゃん抱っこしてあやしてて、私はそれを隣でみていたの」と言う。18日の朝方、クニエさんはいつものように出かけたが、あのときほなみのお腹の中の赤ちゃんを抱きに来ていたのだった。
それから10日後、ほなみは、12月28日に元気な女の子を産んだ。クニエさんが亡くなってからも、ほなみはクニエさんと一緒に写っている写真を見ながらがんばった。私は出産に立ち会ったのだが、産まれた瞬間ほなみと目を合わせ二人とも思わずうなずいた。そこにクニエさんがいたのを二人とも同時に感じたのだった。
フユさんの夢見ごこち ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2013年2月号】
毎度おなじみ、特養ユニット「ほくと」の入居者「眠りのフユさん」(仮名)は、最近、よりいっそう眠りの時間が多くなった。食事の間も気持ちよさそうに目を閉じている。呼びかけにも“うんうん” と目をつむったままで応える。それでも口元にスプーンを運ぶと口はしっかり開ける。ときどき目を開けてこちらの顔を見てくれるので、「腹減ったよぉ、何か、かせてぇ(食べさせて)」などとフユさんにせがむと、ニコッと笑顔の “おばあちゃん” の顔になる。
そんなフユさんが、今年に入って二度入院した。フユさんがユニットにいないとどうも寂しい。入院中のフユさんに会いにお見舞いに行くと、たいていは例によってすやすや寝ている。何度目かのお見舞いの時、顔を近づけ呼びかけると、目を閉じたまま、思いも寄らないセリフが返ってきた。「なぁんと、いっぺぇ食ったったぁ〜♪」「・・・はぁ?」と私は一瞬絶句した後、吹き出してしまった。 だって、フユさんのベットの頭の上には“欠食中”の札がぶら下がっている・・・。治療的にしばらく食べないから、よほどお腹がすいたのだろうか。思わず声をあげて笑うと、フユさんも目を開け「はっはぁ〜♪」と笑った。とっても美味しい夢を見ていたに違いないと思って「何、食べたの?」と聞いてみるが、それには応えず、また夢の中へ戻っていくフユさんだった。
そろそろ退院してもいいんじゃないか・・・という頃、病院から、「なかなか食事が摂れないでいる。食べれるようになったら退院できるのだが」という連絡が入った。家族さんにお話をうかがうと、ドクターから「胃瘻も考えては?」と言われた、とのこと。「いやいや、そうじゃない」と私は思った。「普段、いっつも寝ているフユさんは目覚めるタイミングが微妙で、みんなと一緒の食事の時間では食べないことも多く、食事時間をずらしたり、食事中もこまめに声をかけながら、少しずつ食べてもらい、たっぷりと時間をかける。病院では配膳や下膳の時間も決まっているだろうから、フユさんのペースには合わせられないのは仕方ないだろう。嚥下機能が弱って呑み込みができず食べられない、というのなら胃瘻の選択が視野に入ってくるのもわかるけど、食事を途中で下げてしまうために食べれていない、ということに過ぎない」と私は確信を持っていた。その考えを家族さんにお伝えして、治療が終わっているのならいつでも帰ってきていい旨を、里の意向として、ドクターにも伝えてもらうことにした。
間もなく退院許可が出て、フユさんはユニットに戻ってきた。食事には、これまで以上に、フユさんの眠気と目覚めのタイミングに気を配った。それに応えるかのように、ウトウトながらもニコニコと食べてくれるフユさんの姿が嬉しかった。
でも悔しいことに、退院してすぐ4日後に38℃の発熱で再入院となってしまった。幸いにもインフルエンザではなかったが、個室で点滴しながら、またもや絶食の日々・・・。数日後、お見舞いに行くと36℃台に落ち着いており、声かけにも表情が良い感じだった。これは早く帰ってこれるかも!と期待して、その数日後に再びお見舞いに行くと、個室から四人部屋に移っていた。
ちょうどお昼時、他の患者さんはもう食べ始めていて、フユさんのベッドサイドにもお膳は来ていたけれど、しばらく待っても看護師さんが来ない。ギャッジアップして起きてもらうと目が覚めたようなので、「いっか、食べよう」と私が介助に入った。久しぶりのフユさんの食事介助、なんだか嬉しくて、一口ごとにいっぱい語りかける。「しっかり食べて力つけねばねんだよぉ」とか「早く退院して戻ろうね、みんなして待ってらったよ」などと話していると、お向かいのベッドから「お孫さんだっか?おばあちゃん、いいねぇ、かせで(食べさせて)もらってぇ」と声が届く。この際だから孫ってことにして、同室のお婆さんたちとおしゃべりする私を、時々ジッと見ながら、もぐもぐ食べてくれるフユさん。眠気で少しずつしか進まないけど、こっくん、といい音をたてて呑み込みもしっかりしている。いいぞ、と思っているところへ看護師さんが来た。「あ、銀河の里の方?ありがとうございます」と私の介助の助っ人にお礼を言って、また詰め所に戻って行った。私もフユさんと一緒にゆっくり過ごしたかったので、任せてもらえて良かった。
ただ、病院の感覚では考えられないくらい、二時間はたっぷりかかるゆっくりペースでの食事になるので、看護師さんは、その後も何度か顔を出し、進み具合を見に来られた。私はその度に、「寝ちゃったけど、もう少し食べそうなので・・・」とか「下げる時間、大丈夫ですか?すいません」とか、一応、気を遣いながらやりすごした。私の本心は「なんぼでも時間もらって、フユさんペースでゆっくりやったるわい!」と、なんだか意地になっていた。
二時間弱の食事タイムで、フユさんはおかゆもおかずも半分以上食べてくれて、デザートのプリンも平らげた。フユさんの笑顔に「ばあちゃん、ありがと〜」と抱きつきたくなる。他の患者さん達はとっくに食べ終わってお昼寝している。窓の外は、ちらほらと雪が降ってきた。
その翌日に退院になった。食事で二時間も居座られてはかなわない、と急遽の退院になってしまったのかと、私もちょっと反省したが、フユさんは元気そうだった。「おかえり!待ってたよ〜」と大喜びするみんなの大歓迎にも「は〜」とマイペースに応えている。
その後もフユさんは、毎食完食とはいかないまでも、ゆっくりじっくり、スタッフとのおしゃべりも味わいながら食事をしている。
先日、ほくとスタッフの角津田さんと厨房スタッフの鎌田くんの恒例企画「かくかまラーメン店」が開催された。特養の交流ホールが、昭和の雰囲気を醸し出したラーメン屋に衣替えして、利用者もスタッフも盛り上がり、みんなで楽しく美味しくいただいた。もちろんフユさんも食べに出かけた。雰囲気というのは凄い力があるんだろう。フユさんは、ラーメンが出てくると、どんぶりをガッチリ掴んで離さなかった!しかも、普段は介助でしか食べていないというのに、なんと久々に自分でスプーンを持って食べたのだ。私はメニューを見ながら「フユさん、どれおごってくれるの〜?」と尋ねるてみる。フユさんは優しい顔で「なっても頼め〜」と“気前のいいおばあちゃん”だった。おいしい手作りの本格ラーメンに満足して、その後は二人で至福のお昼寝タイムに入ったことは言うまでもない。
そんなフユさんが、今年に入って二度入院した。フユさんがユニットにいないとどうも寂しい。入院中のフユさんに会いにお見舞いに行くと、たいていは例によってすやすや寝ている。何度目かのお見舞いの時、顔を近づけ呼びかけると、目を閉じたまま、思いも寄らないセリフが返ってきた。「なぁんと、いっぺぇ食ったったぁ〜♪」「・・・はぁ?」と私は一瞬絶句した後、吹き出してしまった。 だって、フユさんのベットの頭の上には“欠食中”の札がぶら下がっている・・・。治療的にしばらく食べないから、よほどお腹がすいたのだろうか。思わず声をあげて笑うと、フユさんも目を開け「はっはぁ〜♪」と笑った。とっても美味しい夢を見ていたに違いないと思って「何、食べたの?」と聞いてみるが、それには応えず、また夢の中へ戻っていくフユさんだった。
そろそろ退院してもいいんじゃないか・・・という頃、病院から、「なかなか食事が摂れないでいる。食べれるようになったら退院できるのだが」という連絡が入った。家族さんにお話をうかがうと、ドクターから「胃瘻も考えては?」と言われた、とのこと。「いやいや、そうじゃない」と私は思った。「普段、いっつも寝ているフユさんは目覚めるタイミングが微妙で、みんなと一緒の食事の時間では食べないことも多く、食事時間をずらしたり、食事中もこまめに声をかけながら、少しずつ食べてもらい、たっぷりと時間をかける。病院では配膳や下膳の時間も決まっているだろうから、フユさんのペースには合わせられないのは仕方ないだろう。嚥下機能が弱って呑み込みができず食べられない、というのなら胃瘻の選択が視野に入ってくるのもわかるけど、食事を途中で下げてしまうために食べれていない、ということに過ぎない」と私は確信を持っていた。その考えを家族さんにお伝えして、治療が終わっているのならいつでも帰ってきていい旨を、里の意向として、ドクターにも伝えてもらうことにした。
間もなく退院許可が出て、フユさんはユニットに戻ってきた。食事には、これまで以上に、フユさんの眠気と目覚めのタイミングに気を配った。それに応えるかのように、ウトウトながらもニコニコと食べてくれるフユさんの姿が嬉しかった。
でも悔しいことに、退院してすぐ4日後に38℃の発熱で再入院となってしまった。幸いにもインフルエンザではなかったが、個室で点滴しながら、またもや絶食の日々・・・。数日後、お見舞いに行くと36℃台に落ち着いており、声かけにも表情が良い感じだった。これは早く帰ってこれるかも!と期待して、その数日後に再びお見舞いに行くと、個室から四人部屋に移っていた。
ちょうどお昼時、他の患者さんはもう食べ始めていて、フユさんのベッドサイドにもお膳は来ていたけれど、しばらく待っても看護師さんが来ない。ギャッジアップして起きてもらうと目が覚めたようなので、「いっか、食べよう」と私が介助に入った。久しぶりのフユさんの食事介助、なんだか嬉しくて、一口ごとにいっぱい語りかける。「しっかり食べて力つけねばねんだよぉ」とか「早く退院して戻ろうね、みんなして待ってらったよ」などと話していると、お向かいのベッドから「お孫さんだっか?おばあちゃん、いいねぇ、かせで(食べさせて)もらってぇ」と声が届く。この際だから孫ってことにして、同室のお婆さんたちとおしゃべりする私を、時々ジッと見ながら、もぐもぐ食べてくれるフユさん。眠気で少しずつしか進まないけど、こっくん、といい音をたてて呑み込みもしっかりしている。いいぞ、と思っているところへ看護師さんが来た。「あ、銀河の里の方?ありがとうございます」と私の介助の助っ人にお礼を言って、また詰め所に戻って行った。私もフユさんと一緒にゆっくり過ごしたかったので、任せてもらえて良かった。
ただ、病院の感覚では考えられないくらい、二時間はたっぷりかかるゆっくりペースでの食事になるので、看護師さんは、その後も何度か顔を出し、進み具合を見に来られた。私はその度に、「寝ちゃったけど、もう少し食べそうなので・・・」とか「下げる時間、大丈夫ですか?すいません」とか、一応、気を遣いながらやりすごした。私の本心は「なんぼでも時間もらって、フユさんペースでゆっくりやったるわい!」と、なんだか意地になっていた。
二時間弱の食事タイムで、フユさんはおかゆもおかずも半分以上食べてくれて、デザートのプリンも平らげた。フユさんの笑顔に「ばあちゃん、ありがと〜」と抱きつきたくなる。他の患者さん達はとっくに食べ終わってお昼寝している。窓の外は、ちらほらと雪が降ってきた。
その翌日に退院になった。食事で二時間も居座られてはかなわない、と急遽の退院になってしまったのかと、私もちょっと反省したが、フユさんは元気そうだった。「おかえり!待ってたよ〜」と大喜びするみんなの大歓迎にも「は〜」とマイペースに応えている。
その後もフユさんは、毎食完食とはいかないまでも、ゆっくりじっくり、スタッフとのおしゃべりも味わいながら食事をしている。
先日、ほくとスタッフの角津田さんと厨房スタッフの鎌田くんの恒例企画「かくかまラーメン店」が開催された。特養の交流ホールが、昭和の雰囲気を醸し出したラーメン屋に衣替えして、利用者もスタッフも盛り上がり、みんなで楽しく美味しくいただいた。もちろんフユさんも食べに出かけた。雰囲気というのは凄い力があるんだろう。フユさんは、ラーメンが出てくると、どんぶりをガッチリ掴んで離さなかった!しかも、普段は介助でしか食べていないというのに、なんと久々に自分でスプーンを持って食べたのだ。私はメニューを見ながら「フユさん、どれおごってくれるの〜?」と尋ねるてみる。フユさんは優しい顔で「なっても頼め〜」と“気前のいいおばあちゃん”だった。おいしい手作りの本格ラーメンに満足して、その後は二人で至福のお昼寝タイムに入ったことは言うまでもない。
テクノロジーとのせめぎ合いを実感した旅 ★施設長 宮澤京子【2013年2月号】
1月20日から一ヶ月間、カナダでホームスティをしてシニアボランティアと託児所ボランティアを体験してきた。ホストマザーは、休暇で「ボランティア」をすることが理解し難いようだった。「休暇は観光三昧で楽しく過ごすことを考えるわ。カナダ人は、ルーズでファーニーで、仕事はあまり好きじゃないのよ・・・」と言う。そんなカナダの一般家庭の国民性として、何世代も続いたカナダ人であることのプライドと、移民の受け入れに解放的な国であること、移民への援助や優遇に責任や誇らしさを持っているというのが印象的だった。街中には様々な人種が入り乱れ、小学校のクラスも肌の色が様々で、アジア系からヨーロッパ系、アフリカ系などの子ども達が一緒に学び遊んでいた。私も異邦人であることを意識する必要がないくらい、すぐに受け入れてもらえる感じがした。人種や国籍は違っているのが当たり前で、差別意識どころか違和感さえない。多種多様で違っていることが前提なのは、日本とはまるで逆だ。そうした環境では「甘え」という概念が通用しないのもよく解る。言語的に明確に立場を表明し、可視可能な表現や説明が求められ、自己責任による自己選択が重視される文化にならざるを得ない。今回の滞在を企画してくれた日本人エージェントも「ここでは主張しなければ、あなた自身を分かってもらうことはできません。“察し”という日本の文化はここにはありませんので、イエス・ノーはもちろん、分からない時に笑って頷くと、誤解を招きますので注意して下さい」と言っていた。外に出れば、日本人の奥ゆかしさは、ただ曖昧で、下手をすれば「ずるい」とか「卑怯者」と受け取られてしまう。
ただ、確かにはっきりと主張することも、説明することも必要だとは思うが、日本人がはっきりしないで曖昧にするのは、もしかしたら、はっきりしたときに失う“何ものか”の大切さをどこかで知っているからなのかもしれないとも思った。しかし、それを説明し主張することは、日本人(自分自身)を相当深く理解していなければできないことだ。
バンクーバーではハイテクが充実していた。積極的にテクノロジーを取り入れ、生活の中に活かして便利な環境を作り効率を上げ、それは見事なものだ。電話は光回線で市内は通話無料だし、あらゆる場所で無線らんが使用可能だ。一方で家庭では、子どもはゲームやビデオに釘付けだった。私自身、タブレットでナビして街を歩くので、人に道を尋ねることもなく、英語を使うこともなく(?)目的地に着くことができた。買い物やカフェでのコーヒー1杯もカードで決済だ。とても快適で便利だが人間関係は希薄になる。
ホームスティ先で英語のレッスンを契約していたが、教師であるホストマザーは「あなたは何を私に求めますか?あなたのやりたいことに、私は全力でお応えしますよ」と何度も言う。レッスンの最中にも、「Are you ok? Are you happy?」と何度も確認される(責任感というより、物事をはっきりさせなければならない脅迫観念のように聞こえてならない)。福祉の制度や教育制度を知りたいと言うと、パソコンでその情報を取り出し説明してくれる。映像入りで理解しやすい。私は、パソコンに入れた翻訳ソフトを用いて質問をする。そして必要があれば(私が望めば)、すぐに関係機関に連絡を入れて、施設見学のアポも取ってくれる。そして何度も「これは、あなたの要望ですることです」と、あくまでも「私の意志」であることを確認された。そして、提供したサービスが「あなたにとってどうだったか」という評価も気にしていた。日本では、相手との境界さえ曖昧になりがちな私の日常から、この対峙的なやり取りは最後まで違和感があった。
ホームスティ先の家庭で、文化を子どもに継ぐためにしていることがあるという。それは、毎週土曜日に、離れて暮らすお婆ちゃんの家に息子を泊まりに行かせること。日曜日には教会の礼拝に行き、毎週火曜日の夜7時から教会学校に行くこと。そして秋には、父方の祖父達と「狩猟」のキャンプに参加するという。やはりどこの国でも、自国の行事や伝統を大事にしているのだと思った。しかし、現実とのギャップは大きいようで、子ども部屋は高価なおもちゃで埋め尽くされ、我が儘ぶりが目に余る。母親は、それをヒステリックに怒鳴り散らすか、逆に、なだめすかすために大量のお菓子やおもちゃをあてがうことになる。子どもの要求はだんだんエスカレートして悪循環に陥る。一ヶ月のステイ中、子どもと夕食をしたのは一度きりだった。彼はその間、スナック菓子をむさぼりながらアニメに夢中だ。一緒に食事をすることには価値がおかれてないようで、両親も放置していた。
食事に関しては、家庭も街のフードコートもかなりひどかった。日本語の「いただきます」「ごちそうさま」は宗教性や精神性に絡んだ言葉で、それがあるとないとでは、食べることに対する文化が決定的に違ってくるようだ。もちろん「もったいない」もないから、平気で食べ残して、どんどん捨てている。日本ほどおいしいものがないのは当然だろうと思った。
オーロラは確かに在った!?
滞在中、バンクーバーから飛行機で2時間ほど北に位置するユーコン準州ホワイトホースにオーロラを見に行った。ホテルから更に20分、街の光に影響されない場所を求めて原野をバスで移動した。今年はオーロラの当たり年で70〜90%の確率で見ることができるという話だった。夜9時半から夜中の1時半まで観測するツアーだ。焚き火を囲み、ロッジで温かい飲み物を飲みながら、オーロラの出現を待つ。オーロラに魅せられ世界各地を巡っているという人たちも参加していた。
2泊3日のツアーの初日は快晴で満点の星空だった。降るような星に感動したが、そんな夜はオーロラは出ないそうで、気配さえ感じることはできなかった。2日目は、雲の流れがあり期待が高まる。観光客も「今日はオーロラの力が強いね」などとささやいている。しかし、私にはそれがよく判らない。高感度カメラで覗くと、確かにグリーンの色が空を覆っている。肉眼ではほとんど何も見えない。私が合流した日本からのオーロラツアーの一行は、一週間泊まり込むだけあって、オーロラ撮影用の高感度カメラを準備している。
「じゃぁ、ここいらで撮影しましょうか!」と現地のツアー担当者から声がかかり、オーロラをバックに記念撮影をした。「画像は日付順にネットにアップしているので、ダウンロードしてお使い下さい」ということだった。さらに、ユーコン準州からはオーロラ観賞証明書までもらった。確かに高感度カメラで捉えた画像には、オーロラらしきものが私の頭の上に映っている。しかし私は肉眼ではそれを見ていない。これではとても「オーロラを見た!」とは言い難いものがある。「オーロラは存在していたらしく、カメラでそれを捕らえました」くらいにしか言えない。
今回、出発前、理事長から馬場あき子著の『古典を読む 風姿花伝』の文庫を手渡された。オーロラ観測前の空き時間にホテルでこれを読み切った。能と言えば私は『弱法師』が好きで何度か観能している。俊徳丸は、さる人の讒言によって父に追放され、悲しみのあまり盲目となり、弱法師という乞食となっている。彼は四天王寺の彼岸に集まる群衆の賑わいの中で、西方にあるという極楽浄土を拝み、かつて目に焼き付いている難波浦の美しい景色の数々を「心眼」で見つめる。開眼への願いを一心に祈るその姿は、見ることに惹かれる人間の性なのか。彼はついに心眼で極楽浄土を捕らえる。盲目の目が開かれ「見えた!見えた!」と驚喜する様は、世間の目から見れば狂気でしかない。行き交う人にはじき飛ばされ、転び伏す光景は弱法師の哀れを深めながら「萬目青山は心にあり(目に見える風景は、全て心に映じる)」という『弱法師』のテーマが、心の闇と光を描く。
盲目の弱法師が極楽浄土や、かつて見た美しい海を心眼で見ようとする心情が、オーロラの出現を待つ心境と重なる。ところが状況は全く逆で「見えた」とカメラの映像に喜ぶマニアの隣で「見えない」私がいる。昔このあたりに住んでいた先住民は、厳冬の夜空に繰り広げられるオーロラの幽遠な色彩の乱舞に、神の業を見たであろう。そして雪原に座して、ひれ伏し祈ったのではないだろうか。しかし今、オーロラは畏敬される存在ではなく、高感度カメラで捉えられて記念撮影の映像として残るに過ぎないとしたら、先住民の畏敬の念はおろか、弱法師のような狂気の幻影の行き場はどこにもない。風姿花伝の「秘すべし、秘さずば花なるべからず」を現代のテクノロジーに囲まれた生活のなかで、私はどう読み取ればいいのだろうか。
日本に戻ると定期検診で内臓のエコー検査を受けた。ディスプレイには腎臓や少し脂肪の付いた肝臓が映し出され、ドクターは異常なしを告げる。検査の数値も服薬治療のおかげで正常を保ち、いつまでも生きていけそうな感じだ。以前、心不全をカテーテル手術で完治したりして、私は医療技術の恩恵を十分に受け信頼もしている。しかし、高度に進んだテクノロジーの裏で、人間の「生と死」「生きる実感」は薄らいでいる。DNAが解明されても「私はなぜ生きているのか(存在しているのか)」との答えからは遠ざかるばかりだ。
テクノロジーの急激な発達と依存で、私たちの生活もやたら便利になった。一方で実際の星空を見て「プラネタリウムみたい」と声を上げるような出来事がいっぱい起こっている。バンクーバーにいる私に、日本から「結構、日本の車が走ってますね」とのメールが送られてきてビックリした。Googleのストリートビューで、私のいる場所の映像がタイムリーに映し出せるのだ。
ここまで見られるようになると、逆に見えないものを大切にしたくなってくる。古来、見えないもの、説明のつかないものに、人間はひれ伏し畏敬を感じ、それによって人間としての節度や品位を保ってきたのではないか。日本社会の均一さは、違いよりも質を追求する土壌になり、空気とか雰囲気とか場といった、言語化や数値化、可視化の難しい曖昧な事柄に、繊細な感覚を磨いていったのかもしれない。違いを競うのではなく、深さを求めるのは、日本の伝統芸能や茶道や花道、武道、工芸品などに特に透徹されているし、武器である刀にさえ「美」としての精神性を追求し、弓道などにもスポーツを超えた高い精神性を求める文化は、貴重で誇るべきことなのではないかと改めて感じた。
しかし、日本では「同質」故に、「異質」に対する許容が極端に狭く、「はじく文化」に傾きがちだ。「同質」の良さは、説明をしなくても理解し合える気心知れた安心感にある。しかし「一緒」や「平等」の強要は、個性や自我意識の強い者には息苦しいし、はじかれると「地獄」になる。長い過渡期を渡りきれない現代日本が抱えた課題ではあるが、そろそろ過渡期を越えて日本人なりの主張をしたいところだが、英語でやらなければならないところが私には難しい。
旅の途中で、日本からの移民三世の男性と話をする機会があった。彼は「日本に行ったこともないし、日本語はとてもプアーです」という人で、私の片言英語と彼の片言日本語での会話だったが、話が通じる感じがしてうれしかった。彼は「宗教」を大事にしていて、別れの際も「神のご加護を」と十字を切って手を振ってくれた。カナダで、脅迫的なテクノロジーの猛威を、ホームスティ先やエージェントの仕事ぶりで感じていた私は、同時に「自然」への畏敬や「魂」「霊性」「精神性」「宗教性」なしでは人間が空洞化すると感じた。
3.11東日本大震災は、近代生活の脆弱さを露呈し、原子力発電の安全神話を覆した。この震災の大きな犠牲は無駄にはできない。生産と消費が分断された情報化社会にあって、「銀河の里」でもライフラインが止まり、情報が遮断され、食料の供給が止まり、移動さえままならず、混乱と不安の中にたたき込まれる体験をした。しかし里が制度の枠を越えて、「農業」を基盤に暮らしを作ってきたことは、生産と消費を分断することなく、命を守り、逞しく生きていく知恵を得ることに繫がっていることを改めて実感した。さらに今回の旅では、自然への畏敬や見えないものに対する想像力を高め深めていくことが、里の向かう道であることを再度確認することになった。
笑えないおまけがある。オーロラ鑑賞時にレンタルした防寒ジャケットの内ポケットに、携帯電話を入れたまま忘れて帰ってきた(私はテクノロジーを置き去りにしたかったのだろうか・・・)。さすがに携帯電話がないと困るので、送り返してもらうよう手配した。バンクーバーの旅行会社は、業務的に料金を提示してきたが、オーロラの現地ホワイトホースの担当者は、すぐさま手紙をつけて無料で送付してくれた。オーロラの神秘に照らされて生きているのと、テクノロジーで功利性のみを追求する生き方の違いが現れたと言えるような、「切る関係」と「繫がる関係」をここでも感じた。テクノロジーを駆使しその恩恵にあずかる分、細やかな感性や深い霊性による洞察力がなければ、自分自身は誰とも繋がれない平板でつまらない人間になってしまいそうだ。
そんな折にも、里の高齢者とのやりとりをはじめ、農業や雪かきなど暮らしの一コマ一コマが、人間の真の豊かさを支えてくれている事実に心から感謝したいと思う。
ただ、確かにはっきりと主張することも、説明することも必要だとは思うが、日本人がはっきりしないで曖昧にするのは、もしかしたら、はっきりしたときに失う“何ものか”の大切さをどこかで知っているからなのかもしれないとも思った。しかし、それを説明し主張することは、日本人(自分自身)を相当深く理解していなければできないことだ。
バンクーバーではハイテクが充実していた。積極的にテクノロジーを取り入れ、生活の中に活かして便利な環境を作り効率を上げ、それは見事なものだ。電話は光回線で市内は通話無料だし、あらゆる場所で無線らんが使用可能だ。一方で家庭では、子どもはゲームやビデオに釘付けだった。私自身、タブレットでナビして街を歩くので、人に道を尋ねることもなく、英語を使うこともなく(?)目的地に着くことができた。買い物やカフェでのコーヒー1杯もカードで決済だ。とても快適で便利だが人間関係は希薄になる。
ホームスティ先で英語のレッスンを契約していたが、教師であるホストマザーは「あなたは何を私に求めますか?あなたのやりたいことに、私は全力でお応えしますよ」と何度も言う。レッスンの最中にも、「Are you ok? Are you happy?」と何度も確認される(責任感というより、物事をはっきりさせなければならない脅迫観念のように聞こえてならない)。福祉の制度や教育制度を知りたいと言うと、パソコンでその情報を取り出し説明してくれる。映像入りで理解しやすい。私は、パソコンに入れた翻訳ソフトを用いて質問をする。そして必要があれば(私が望めば)、すぐに関係機関に連絡を入れて、施設見学のアポも取ってくれる。そして何度も「これは、あなたの要望ですることです」と、あくまでも「私の意志」であることを確認された。そして、提供したサービスが「あなたにとってどうだったか」という評価も気にしていた。日本では、相手との境界さえ曖昧になりがちな私の日常から、この対峙的なやり取りは最後まで違和感があった。
ホームスティ先の家庭で、文化を子どもに継ぐためにしていることがあるという。それは、毎週土曜日に、離れて暮らすお婆ちゃんの家に息子を泊まりに行かせること。日曜日には教会の礼拝に行き、毎週火曜日の夜7時から教会学校に行くこと。そして秋には、父方の祖父達と「狩猟」のキャンプに参加するという。やはりどこの国でも、自国の行事や伝統を大事にしているのだと思った。しかし、現実とのギャップは大きいようで、子ども部屋は高価なおもちゃで埋め尽くされ、我が儘ぶりが目に余る。母親は、それをヒステリックに怒鳴り散らすか、逆に、なだめすかすために大量のお菓子やおもちゃをあてがうことになる。子どもの要求はだんだんエスカレートして悪循環に陥る。一ヶ月のステイ中、子どもと夕食をしたのは一度きりだった。彼はその間、スナック菓子をむさぼりながらアニメに夢中だ。一緒に食事をすることには価値がおかれてないようで、両親も放置していた。
食事に関しては、家庭も街のフードコートもかなりひどかった。日本語の「いただきます」「ごちそうさま」は宗教性や精神性に絡んだ言葉で、それがあるとないとでは、食べることに対する文化が決定的に違ってくるようだ。もちろん「もったいない」もないから、平気で食べ残して、どんどん捨てている。日本ほどおいしいものがないのは当然だろうと思った。
オーロラは確かに在った!?
滞在中、バンクーバーから飛行機で2時間ほど北に位置するユーコン準州ホワイトホースにオーロラを見に行った。ホテルから更に20分、街の光に影響されない場所を求めて原野をバスで移動した。今年はオーロラの当たり年で70〜90%の確率で見ることができるという話だった。夜9時半から夜中の1時半まで観測するツアーだ。焚き火を囲み、ロッジで温かい飲み物を飲みながら、オーロラの出現を待つ。オーロラに魅せられ世界各地を巡っているという人たちも参加していた。
2泊3日のツアーの初日は快晴で満点の星空だった。降るような星に感動したが、そんな夜はオーロラは出ないそうで、気配さえ感じることはできなかった。2日目は、雲の流れがあり期待が高まる。観光客も「今日はオーロラの力が強いね」などとささやいている。しかし、私にはそれがよく判らない。高感度カメラで覗くと、確かにグリーンの色が空を覆っている。肉眼ではほとんど何も見えない。私が合流した日本からのオーロラツアーの一行は、一週間泊まり込むだけあって、オーロラ撮影用の高感度カメラを準備している。
「じゃぁ、ここいらで撮影しましょうか!」と現地のツアー担当者から声がかかり、オーロラをバックに記念撮影をした。「画像は日付順にネットにアップしているので、ダウンロードしてお使い下さい」ということだった。さらに、ユーコン準州からはオーロラ観賞証明書までもらった。確かに高感度カメラで捉えた画像には、オーロラらしきものが私の頭の上に映っている。しかし私は肉眼ではそれを見ていない。これではとても「オーロラを見た!」とは言い難いものがある。「オーロラは存在していたらしく、カメラでそれを捕らえました」くらいにしか言えない。
今回、出発前、理事長から馬場あき子著の『古典を読む 風姿花伝』の文庫を手渡された。オーロラ観測前の空き時間にホテルでこれを読み切った。能と言えば私は『弱法師』が好きで何度か観能している。俊徳丸は、さる人の讒言によって父に追放され、悲しみのあまり盲目となり、弱法師という乞食となっている。彼は四天王寺の彼岸に集まる群衆の賑わいの中で、西方にあるという極楽浄土を拝み、かつて目に焼き付いている難波浦の美しい景色の数々を「心眼」で見つめる。開眼への願いを一心に祈るその姿は、見ることに惹かれる人間の性なのか。彼はついに心眼で極楽浄土を捕らえる。盲目の目が開かれ「見えた!見えた!」と驚喜する様は、世間の目から見れば狂気でしかない。行き交う人にはじき飛ばされ、転び伏す光景は弱法師の哀れを深めながら「萬目青山は心にあり(目に見える風景は、全て心に映じる)」という『弱法師』のテーマが、心の闇と光を描く。
盲目の弱法師が極楽浄土や、かつて見た美しい海を心眼で見ようとする心情が、オーロラの出現を待つ心境と重なる。ところが状況は全く逆で「見えた」とカメラの映像に喜ぶマニアの隣で「見えない」私がいる。昔このあたりに住んでいた先住民は、厳冬の夜空に繰り広げられるオーロラの幽遠な色彩の乱舞に、神の業を見たであろう。そして雪原に座して、ひれ伏し祈ったのではないだろうか。しかし今、オーロラは畏敬される存在ではなく、高感度カメラで捉えられて記念撮影の映像として残るに過ぎないとしたら、先住民の畏敬の念はおろか、弱法師のような狂気の幻影の行き場はどこにもない。風姿花伝の「秘すべし、秘さずば花なるべからず」を現代のテクノロジーに囲まれた生活のなかで、私はどう読み取ればいいのだろうか。
日本に戻ると定期検診で内臓のエコー検査を受けた。ディスプレイには腎臓や少し脂肪の付いた肝臓が映し出され、ドクターは異常なしを告げる。検査の数値も服薬治療のおかげで正常を保ち、いつまでも生きていけそうな感じだ。以前、心不全をカテーテル手術で完治したりして、私は医療技術の恩恵を十分に受け信頼もしている。しかし、高度に進んだテクノロジーの裏で、人間の「生と死」「生きる実感」は薄らいでいる。DNAが解明されても「私はなぜ生きているのか(存在しているのか)」との答えからは遠ざかるばかりだ。
テクノロジーの急激な発達と依存で、私たちの生活もやたら便利になった。一方で実際の星空を見て「プラネタリウムみたい」と声を上げるような出来事がいっぱい起こっている。バンクーバーにいる私に、日本から「結構、日本の車が走ってますね」とのメールが送られてきてビックリした。Googleのストリートビューで、私のいる場所の映像がタイムリーに映し出せるのだ。
ここまで見られるようになると、逆に見えないものを大切にしたくなってくる。古来、見えないもの、説明のつかないものに、人間はひれ伏し畏敬を感じ、それによって人間としての節度や品位を保ってきたのではないか。日本社会の均一さは、違いよりも質を追求する土壌になり、空気とか雰囲気とか場といった、言語化や数値化、可視化の難しい曖昧な事柄に、繊細な感覚を磨いていったのかもしれない。違いを競うのではなく、深さを求めるのは、日本の伝統芸能や茶道や花道、武道、工芸品などに特に透徹されているし、武器である刀にさえ「美」としての精神性を追求し、弓道などにもスポーツを超えた高い精神性を求める文化は、貴重で誇るべきことなのではないかと改めて感じた。
しかし、日本では「同質」故に、「異質」に対する許容が極端に狭く、「はじく文化」に傾きがちだ。「同質」の良さは、説明をしなくても理解し合える気心知れた安心感にある。しかし「一緒」や「平等」の強要は、個性や自我意識の強い者には息苦しいし、はじかれると「地獄」になる。長い過渡期を渡りきれない現代日本が抱えた課題ではあるが、そろそろ過渡期を越えて日本人なりの主張をしたいところだが、英語でやらなければならないところが私には難しい。
旅の途中で、日本からの移民三世の男性と話をする機会があった。彼は「日本に行ったこともないし、日本語はとてもプアーです」という人で、私の片言英語と彼の片言日本語での会話だったが、話が通じる感じがしてうれしかった。彼は「宗教」を大事にしていて、別れの際も「神のご加護を」と十字を切って手を振ってくれた。カナダで、脅迫的なテクノロジーの猛威を、ホームスティ先やエージェントの仕事ぶりで感じていた私は、同時に「自然」への畏敬や「魂」「霊性」「精神性」「宗教性」なしでは人間が空洞化すると感じた。
3.11東日本大震災は、近代生活の脆弱さを露呈し、原子力発電の安全神話を覆した。この震災の大きな犠牲は無駄にはできない。生産と消費が分断された情報化社会にあって、「銀河の里」でもライフラインが止まり、情報が遮断され、食料の供給が止まり、移動さえままならず、混乱と不安の中にたたき込まれる体験をした。しかし里が制度の枠を越えて、「農業」を基盤に暮らしを作ってきたことは、生産と消費を分断することなく、命を守り、逞しく生きていく知恵を得ることに繫がっていることを改めて実感した。さらに今回の旅では、自然への畏敬や見えないものに対する想像力を高め深めていくことが、里の向かう道であることを再度確認することになった。
笑えないおまけがある。オーロラ鑑賞時にレンタルした防寒ジャケットの内ポケットに、携帯電話を入れたまま忘れて帰ってきた(私はテクノロジーを置き去りにしたかったのだろうか・・・)。さすがに携帯電話がないと困るので、送り返してもらうよう手配した。バンクーバーの旅行会社は、業務的に料金を提示してきたが、オーロラの現地ホワイトホースの担当者は、すぐさま手紙をつけて無料で送付してくれた。オーロラの神秘に照らされて生きているのと、テクノロジーで功利性のみを追求する生き方の違いが現れたと言えるような、「切る関係」と「繫がる関係」をここでも感じた。テクノロジーを駆使しその恩恵にあずかる分、細やかな感性や深い霊性による洞察力がなければ、自分自身は誰とも繋がれない平板でつまらない人間になってしまいそうだ。
そんな折にも、里の高齢者とのやりとりをはじめ、農業や雪かきなど暮らしの一コマ一コマが、人間の真の豊かさを支えてくれている事実に心から感謝したいと思う。
音を楽しめばいいじゃん!! ★グループホーム第2 佐藤寛恵【2013年2月号】
ある朝、ワークステージの充さんがGH2に一枚のDVDを持ってきてくれた。
それは何を隠そう、12月23日の里バンドライブの模様を録画したDVDだった。
「映っているかわからないけど、映ってなかったら連絡下さい」と言い残して足早に立ち去ってしまう。DVD持ってきてくれました!と酒井さんに伝えると、「んで見るべ」とすぐにグループホーム第2で上映会が始まった。バンドの構成によってビデオを撮る位置を変えてあって、本当に上手く映っている。プロ顔負けのアングルも手伝ってか、演奏した私たち本人も恥ずかしいより何より、演奏を客観的に見入ることができた。
おかげで23日の本番の様子を見ながら、ここまでよくやったなぁと改めて、本番当日までのことがあれこれと蘇ってきた。11月初め、里バンドのライブをやると決めてから、練習でいつもやっている曲合わせをした。しかし、そこで「このままじゃだめだ」と痛烈に感じた。これじゃあ今までやっていたのと同じで、おもしろみにかける。前に曲を合わせていた時は笑いしか出なくて楽しくてしょうがなかったのに、なぜだかそれが無くなってしまっていた。そこで、みんなで選曲を決め直し、いつもやっている曲を外す決断をした。さらに「木間さん歌ったら?」となって、二唐さんとふたりのツインボーカルにしようということになった。
ここでただひとり、おいマジか!?と内心焦っている酒井さん。それは、木間さんがボーカルに移ることでピアノが抜け、楽器の構成が変わる。つまり、ギター・ベース・ドラムの3つで音を奏でることになるからだ。酒井さんの言葉を借りれば「バンドは楽器の構成が変わるだけで同じバンドでも一からの出発になるんだぞ」ということだった。「同じバンドでもですか?」私は思わず焦って聞き返すと「だからマジでやべえぞ」と言われて顔面蒼白になった。
川戸道さんのドラムが入ったことで、バンド全体の音量も迫力も増したのだが、演奏を録音して聴いてみると、アコースティックギターの音が完全に消えていた。もちろんアンプの音量は最大にしているのに、ギターの音が聞こえずドラムに負けている。ドラムと勝負するにはエレキギターしかない、と酒井さんも決断して次の練習はエレキギターの音で合わせることになった。ところが練習で合わせてみると、ギターの音は聞こえるようになったものの、一気に曲のイメージまで変わってしまい、ボーカルでついていくのがやっとの二唐さんがいた。練習の様子を見に来た戸來さんもこれには驚いていたようで「電子ドラムで音を調整しては…」という案も出た。けれど、生のドラムの音で勝負したいし、調子の出てきた川戸道さんの勢いもある。「おもいっきり叩かねば強弱もつかねし、うまくならねんだ」と川戸道さんを応援したい酒井さんの気持ちにみんな納得する。そこで、酒井さんが新しい曲でエレキギターを弾くことにしたのだが、音をどういう風に作ったらいいのだ!?と一からの出発になり、本番講演を目の前にして、時間の無さにパニックを起こしている。酒井さんは、プレイヤーとして入っている音楽居酒屋ウッドストックのスタッフ、あつしさんに相談しながら、自分の音を作っていたらしい。そしてひとりで音の迷宮に入り込み、夜な夜な音作りをしていたようだった。
そんなバラバラ状態での練習は、やっぱりバラバラに終わる。本当に大丈夫なのか…という雰囲気がバンドの中に気まずく流れる。「まず、大丈夫だから」とボーカル組(二唐・木間)を早々と帰し、音作りに専念する酒井さんと気まずく残る川戸道さんと私。しかしここから怒濤の復活劇が幕をあけたのだった。そこへ特養バンドを率いる成美さんが現れて、「エレキだ〜、かっこいい〜」といろいろ楽器を触りつつ遊んでいった。音楽って楽しいものだよねという雰囲気に『やりたいようにやるべ!』と師匠酒井さんの号令のもと、川戸道さんもドラムを楽しく叩きはじめて、やっと笑顔を取り戻せたのだった。そして次回のバンド練習の時、音作りで疲れ切り、半ば狂い始めている酒井さんは東京ブギをシャウトして歌い、和田アキ子風に歌い始め、ついには『笑って許して』と歌っていた(それが結構上手かった)。新しい課題がやってくるとどこまでも食らいついていく根性のある木間さんもやっぱり歌っている。すっかりシャウトして物にしてしまっている。そして何よりとっても楽しそうな木間さんの姿に、バンド自体が楽しんでいけるように安定していくような気がした。
グループホーム第2では、利用者の守男さん(仮名)がライブ数日前に「祭りやるんだべ?」と二唐さんに言ってくれた。悩み苦しんでいた酒井さんも、その言葉を聞いて「んだよな」と肩の力が抜けた。祭りみたいに、楽しく俺たちの世界に引き込めばいいんだよなと吹っ切れたらしい。
とは言え、当日が本当にどうなるかわからない、とてもヒヤヒヤだった。が、本番は意外とうまくいったのである。当日、演奏が終わって、ああちゃんと音になっていてよかった、と肩の荷が降りた気持ちになったのを覚えている。グループホーム第2の利用者の動きもあった。里バンドのDVDの演奏を聴きながら、その歌詞をクミさん(仮名)が口ずさんでいたし、いつもズレる歩さん(仮名)も手拍子をしていた。(このことがどんなにすごいことか!)二唐さんの大ファンである修さん(仮名)は本番でずっと泣いていたそうで、DVDにも曲が終わるごとに拍手をしていた。
バンドでいろいろな音楽を吸収し、さらに強くたくましくなった二唐さんは、専門の合唱で念願の全国大会に出場が決まった。今の里バンドの状況は、各人からやりたい曲が出始めている。歌いたくて仕方がない木間さんと叩きたくて仕方がない川戸道さんとさらに道を究める二唐さん。特養に部署異動して新しい世界の狭間でもがき苦しむ酒井さんと、予防でタミフルを飲み続けたあげく最後の最後にインフルエンザにかかってしまい、お払いをしたような気持ちになっている私、佐藤。今年の里バンドもまた何かが起こる予感がある。
音楽をやりながら、グループホームの利用者など、見守ってくれている人の大事な言葉を大切にしていきたい。私がインフルエンザから体調が戻ってグループホーム第2にいくと、「いがった」と笑ってくれる守男さんがいた。そして「守男さんのおかげで治ったよ」と言うと、「はは、勝負だ」ときた。まさにこれからのことを言われたようで気が引き締まる思いだ。今後の銀河バンドどうかご期待下さい。
それは何を隠そう、12月23日の里バンドライブの模様を録画したDVDだった。
「映っているかわからないけど、映ってなかったら連絡下さい」と言い残して足早に立ち去ってしまう。DVD持ってきてくれました!と酒井さんに伝えると、「んで見るべ」とすぐにグループホーム第2で上映会が始まった。バンドの構成によってビデオを撮る位置を変えてあって、本当に上手く映っている。プロ顔負けのアングルも手伝ってか、演奏した私たち本人も恥ずかしいより何より、演奏を客観的に見入ることができた。
おかげで23日の本番の様子を見ながら、ここまでよくやったなぁと改めて、本番当日までのことがあれこれと蘇ってきた。11月初め、里バンドのライブをやると決めてから、練習でいつもやっている曲合わせをした。しかし、そこで「このままじゃだめだ」と痛烈に感じた。これじゃあ今までやっていたのと同じで、おもしろみにかける。前に曲を合わせていた時は笑いしか出なくて楽しくてしょうがなかったのに、なぜだかそれが無くなってしまっていた。そこで、みんなで選曲を決め直し、いつもやっている曲を外す決断をした。さらに「木間さん歌ったら?」となって、二唐さんとふたりのツインボーカルにしようということになった。
ここでただひとり、おいマジか!?と内心焦っている酒井さん。それは、木間さんがボーカルに移ることでピアノが抜け、楽器の構成が変わる。つまり、ギター・ベース・ドラムの3つで音を奏でることになるからだ。酒井さんの言葉を借りれば「バンドは楽器の構成が変わるだけで同じバンドでも一からの出発になるんだぞ」ということだった。「同じバンドでもですか?」私は思わず焦って聞き返すと「だからマジでやべえぞ」と言われて顔面蒼白になった。
川戸道さんのドラムが入ったことで、バンド全体の音量も迫力も増したのだが、演奏を録音して聴いてみると、アコースティックギターの音が完全に消えていた。もちろんアンプの音量は最大にしているのに、ギターの音が聞こえずドラムに負けている。ドラムと勝負するにはエレキギターしかない、と酒井さんも決断して次の練習はエレキギターの音で合わせることになった。ところが練習で合わせてみると、ギターの音は聞こえるようになったものの、一気に曲のイメージまで変わってしまい、ボーカルでついていくのがやっとの二唐さんがいた。練習の様子を見に来た戸來さんもこれには驚いていたようで「電子ドラムで音を調整しては…」という案も出た。けれど、生のドラムの音で勝負したいし、調子の出てきた川戸道さんの勢いもある。「おもいっきり叩かねば強弱もつかねし、うまくならねんだ」と川戸道さんを応援したい酒井さんの気持ちにみんな納得する。そこで、酒井さんが新しい曲でエレキギターを弾くことにしたのだが、音をどういう風に作ったらいいのだ!?と一からの出発になり、本番講演を目の前にして、時間の無さにパニックを起こしている。酒井さんは、プレイヤーとして入っている音楽居酒屋ウッドストックのスタッフ、あつしさんに相談しながら、自分の音を作っていたらしい。そしてひとりで音の迷宮に入り込み、夜な夜な音作りをしていたようだった。
そんなバラバラ状態での練習は、やっぱりバラバラに終わる。本当に大丈夫なのか…という雰囲気がバンドの中に気まずく流れる。「まず、大丈夫だから」とボーカル組(二唐・木間)を早々と帰し、音作りに専念する酒井さんと気まずく残る川戸道さんと私。しかしここから怒濤の復活劇が幕をあけたのだった。そこへ特養バンドを率いる成美さんが現れて、「エレキだ〜、かっこいい〜」といろいろ楽器を触りつつ遊んでいった。音楽って楽しいものだよねという雰囲気に『やりたいようにやるべ!』と師匠酒井さんの号令のもと、川戸道さんもドラムを楽しく叩きはじめて、やっと笑顔を取り戻せたのだった。そして次回のバンド練習の時、音作りで疲れ切り、半ば狂い始めている酒井さんは東京ブギをシャウトして歌い、和田アキ子風に歌い始め、ついには『笑って許して』と歌っていた(それが結構上手かった)。新しい課題がやってくるとどこまでも食らいついていく根性のある木間さんもやっぱり歌っている。すっかりシャウトして物にしてしまっている。そして何よりとっても楽しそうな木間さんの姿に、バンド自体が楽しんでいけるように安定していくような気がした。
グループホーム第2では、利用者の守男さん(仮名)がライブ数日前に「祭りやるんだべ?」と二唐さんに言ってくれた。悩み苦しんでいた酒井さんも、その言葉を聞いて「んだよな」と肩の力が抜けた。祭りみたいに、楽しく俺たちの世界に引き込めばいいんだよなと吹っ切れたらしい。
とは言え、当日が本当にどうなるかわからない、とてもヒヤヒヤだった。が、本番は意外とうまくいったのである。当日、演奏が終わって、ああちゃんと音になっていてよかった、と肩の荷が降りた気持ちになったのを覚えている。グループホーム第2の利用者の動きもあった。里バンドのDVDの演奏を聴きながら、その歌詞をクミさん(仮名)が口ずさんでいたし、いつもズレる歩さん(仮名)も手拍子をしていた。(このことがどんなにすごいことか!)二唐さんの大ファンである修さん(仮名)は本番でずっと泣いていたそうで、DVDにも曲が終わるごとに拍手をしていた。
バンドでいろいろな音楽を吸収し、さらに強くたくましくなった二唐さんは、専門の合唱で念願の全国大会に出場が決まった。今の里バンドの状況は、各人からやりたい曲が出始めている。歌いたくて仕方がない木間さんと叩きたくて仕方がない川戸道さんとさらに道を究める二唐さん。特養に部署異動して新しい世界の狭間でもがき苦しむ酒井さんと、予防でタミフルを飲み続けたあげく最後の最後にインフルエンザにかかってしまい、お払いをしたような気持ちになっている私、佐藤。今年の里バンドもまた何かが起こる予感がある。
音楽をやりながら、グループホームの利用者など、見守ってくれている人の大事な言葉を大切にしていきたい。私がインフルエンザから体調が戻ってグループホーム第2にいくと、「いがった」と笑ってくれる守男さんがいた。そして「守男さんのおかげで治ったよ」と言うと、「はは、勝負だ」ときた。まさにこれからのことを言われたようで気が引き締まる思いだ。今後の銀河バンドどうかご期待下さい。
システムを超えて ★理事長 宮澤健【2013年2月号】
雪の日、T君のリハビリで中部病院に通院した。中部病院は花巻北上地区の広域センター病院として3年前に開設された県立病院だ。普段なら車で30分程度の距離なのだが、横殴りの猛吹雪の中を行くその距離は遠かった。「病院に行くのも命がけだね」などと話ながらやっとついた。ところがついてからが大変だった。駐車場には何かのイベント会場のように車が並んでいる。すごい車の数だ。駐車場も巨大で空きもあるのだが、かなり端のほうになった。玄関までは200メートルはある。吹雪の中をこの距離は厳しい。車から降りると吹雪で目を開けておられないくらいで視界が悪い。車もやってくるのでひかれないように注意を払いながら、やっと玄関にたどり着く。「こりゃ元気で気力がないと病院なんか来られないな」と真面目に感じる。
中に入ると病院は巨大で広い、どこに行けばいいのかたちまち途方に暮れる。総合案内で整形の外来を尋ねて、待合い所に向かう。途中どの外来も大勢の人であふれているので再び驚く。静かな田舎なのに、都会の喧噪や祭りの真っ只中に来たみたいだ。なんかもう急に元気がなくなる。人混みが嫌いだというのもあるけど、こうやって人間が並べられるのが特に苦手だ。ブロイラーや兵隊になったような気持ちがしてくる。つまり人間としての個を奪われてしまうようで嫌になるのだ。みんなこういうのに慣れてしまうのか、平気そうなのが私には解らない。
道中、T君の爪が伸びていたのに気がついた。診察前に切ろうとコンビニによって爪切りを買うつもりだったが、病院の周囲にはコンビニがなかった。薬局に入ったが、ありませんと言われてしまった。病院で借りられないか、聞いてみた。「お待ち下さい」と受付の女性は奥に入ってしばらくかかって戻ってきたが、そのままパソコンの前に座って仕事を始めた。「あれ、声をかけてくれないのかな」といぶかりながら私の方から「爪切りどうでした?」と聞く。「ああ、外来にはありませんでした。よろしいですか」と軽く応えられた。「よろしいですか」と言われても仕方ないから「はあ、いいです」と応えたが釈然とはしない。「売店にありますか」と聞くが、「さあどうでしょう」てな感じでどうにもならない。あきらめて売店を探しに行くことにした。途中で総合案内によって、爪切りがないか聞くと「中央処置室にあると思います」ときた。どんな爪切りだ。「いやいいです。売店はどこですか」と売店で買うことにした。
システムは、そのシステムラインを外れると全く小回りがきかない。爪切りひとつ出てはこない。顔なじみではなく番号のやりとりで事が済むのは、気を使わなくて便利でいいところもあるが、寂しいところもある。おびただしい人の中で、自分の顔どころか、人格も人生も消し去られ、ただの番号になる。ナチスの強制収容所で番号にされる体験を書いたフランクルの気持ちが少しは解るような気がする。番号でしかなくなった自分は、一体何者なんだろうか。たぶん誰でもなくなるんだろう。自分が消えてしまう。病院では一旦消してしまった人間を取り戻そうという意図はないだろうが、消しすぎて事故もあるのだろう。診察室には「中に入ったらまず名前を言ってください」と張り紙がしてあった。寒々しい話だ。受け付け番号が機械から吐き出され、支払いも自動精算機でお願いしますと言われる。慣れてしまえばこれは楽なんだろうか。
巨大システムに呑み込まれなければ生きていけない現代社会の実状がある。地域が細々と暮らしを営んで生きていける時代ではない。世界全体がごうごうと激しくうごめいて、地球全体が資源消費してしまいそうな時代に、顔見知りの感覚だけで生き残ることはできない。飢えて死んでしまう。ただ、巨大病院の爪切りのように、システムの外に置かれたものはなかなか手が届かなくなる。人間も弱者と呼ばれたりする人たちは、おうおうにしてシステム外に投げ出されやすい。システムから外れると弱者になりやすい。ただ、昨今は外れたところもさらにシステムに取り込もうとする強迫めいた時代や社会がある。
巨大システムが必要で不可欠ならば、それを利用はしながらも、同時に人間として努力しなければならないことがあるように思う。適当にお金を使って軽く生きていくだけのコンビニ人生ではまずい。人間存在を番号に貶めるのではなく、それとは逆のベクトルの努力を、個々人がしていく必要を感じる。銀河の里は、人間としての、そうした方向性を持とうとする運動体だと捉えていいのではないだろうか。だから音楽をやったり、本当においしいものを求めたり、演劇や能を見たり、農業をやったりいろいろしているんだと思う。そして何より、師匠である利用者から、何を学び、何を受け止めたか、何を伝えられたのかが根幹にある。これからも介護や支援をシステムで一丁あがりにかたづけてしまうような姿勢とは戦っていきたい。爪切りだろうがなんだろうが、いつでも顔見知りのあなたの必要とするものを、誠心誠意用意できる存在でありたい。
中に入ると病院は巨大で広い、どこに行けばいいのかたちまち途方に暮れる。総合案内で整形の外来を尋ねて、待合い所に向かう。途中どの外来も大勢の人であふれているので再び驚く。静かな田舎なのに、都会の喧噪や祭りの真っ只中に来たみたいだ。なんかもう急に元気がなくなる。人混みが嫌いだというのもあるけど、こうやって人間が並べられるのが特に苦手だ。ブロイラーや兵隊になったような気持ちがしてくる。つまり人間としての個を奪われてしまうようで嫌になるのだ。みんなこういうのに慣れてしまうのか、平気そうなのが私には解らない。
道中、T君の爪が伸びていたのに気がついた。診察前に切ろうとコンビニによって爪切りを買うつもりだったが、病院の周囲にはコンビニがなかった。薬局に入ったが、ありませんと言われてしまった。病院で借りられないか、聞いてみた。「お待ち下さい」と受付の女性は奥に入ってしばらくかかって戻ってきたが、そのままパソコンの前に座って仕事を始めた。「あれ、声をかけてくれないのかな」といぶかりながら私の方から「爪切りどうでした?」と聞く。「ああ、外来にはありませんでした。よろしいですか」と軽く応えられた。「よろしいですか」と言われても仕方ないから「はあ、いいです」と応えたが釈然とはしない。「売店にありますか」と聞くが、「さあどうでしょう」てな感じでどうにもならない。あきらめて売店を探しに行くことにした。途中で総合案内によって、爪切りがないか聞くと「中央処置室にあると思います」ときた。どんな爪切りだ。「いやいいです。売店はどこですか」と売店で買うことにした。
システムは、そのシステムラインを外れると全く小回りがきかない。爪切りひとつ出てはこない。顔なじみではなく番号のやりとりで事が済むのは、気を使わなくて便利でいいところもあるが、寂しいところもある。おびただしい人の中で、自分の顔どころか、人格も人生も消し去られ、ただの番号になる。ナチスの強制収容所で番号にされる体験を書いたフランクルの気持ちが少しは解るような気がする。番号でしかなくなった自分は、一体何者なんだろうか。たぶん誰でもなくなるんだろう。自分が消えてしまう。病院では一旦消してしまった人間を取り戻そうという意図はないだろうが、消しすぎて事故もあるのだろう。診察室には「中に入ったらまず名前を言ってください」と張り紙がしてあった。寒々しい話だ。受け付け番号が機械から吐き出され、支払いも自動精算機でお願いしますと言われる。慣れてしまえばこれは楽なんだろうか。
巨大システムに呑み込まれなければ生きていけない現代社会の実状がある。地域が細々と暮らしを営んで生きていける時代ではない。世界全体がごうごうと激しくうごめいて、地球全体が資源消費してしまいそうな時代に、顔見知りの感覚だけで生き残ることはできない。飢えて死んでしまう。ただ、巨大病院の爪切りのように、システムの外に置かれたものはなかなか手が届かなくなる。人間も弱者と呼ばれたりする人たちは、おうおうにしてシステム外に投げ出されやすい。システムから外れると弱者になりやすい。ただ、昨今は外れたところもさらにシステムに取り込もうとする強迫めいた時代や社会がある。
巨大システムが必要で不可欠ならば、それを利用はしながらも、同時に人間として努力しなければならないことがあるように思う。適当にお金を使って軽く生きていくだけのコンビニ人生ではまずい。人間存在を番号に貶めるのではなく、それとは逆のベクトルの努力を、個々人がしていく必要を感じる。銀河の里は、人間としての、そうした方向性を持とうとする運動体だと捉えていいのではないだろうか。だから音楽をやったり、本当においしいものを求めたり、演劇や能を見たり、農業をやったりいろいろしているんだと思う。そして何より、師匠である利用者から、何を学び、何を受け止めたか、何を伝えられたのかが根幹にある。これからも介護や支援をシステムで一丁あがりにかたづけてしまうような姿勢とは戦っていきたい。爪切りだろうがなんだろうが、いつでも顔見知りのあなたの必要とするものを、誠心誠意用意できる存在でありたい。
昌子さんの旅 奈良へ ★ワークステージ 日向菜採【2013年2月号】
昨年末、奈良の「たんぽぽの家」さんから「BIG幡(バン)プロジェクト」という企画のお誘いを受けた。「幡」というのは、奈良の東大寺の重要な法要のときに立てられる「旗」のことで、大仏殿前の芝生に立て、平和への祈りや、魔除けの願いが込められるという。この幡を、全国の障がい者の描いた絵を元にデザインして掲げ、日本全国を元気づけようという企画が「BIG幡プロジェクト」だ。東日本大震災で被災した岩手・宮城・福島からも参加して祈りにしようというとても粋な企画だった。お誘いを受けて、ワークの昌子さんに声をかけると、二つ返事で「やる」ということになった。昌子さんは毎月の通信にも季節に合わせた絵を描いてくれているが、今年度は絵を出展する機会が少なかったため、どこか物足りなさも感じていたようだった。そのこともあってか、昌子さんは全く迷わずすぐに「やる」と意気込んで応えた。そこで中屋さんの協力も得て、早速作品づくりにとりかかった。テーマは「花鳥風月」で、説明が難しいと悩んでいたのはこちらだけで、「かちょうふうげつってなに?」という質問に、中屋さんが「花と鳥と自然…」と応えただけで、すぐにイメージが浮かんできたようで、2日後には作品を完成させて持ってきてくれた。昌子さんらしいピンクや赤などの色使いの明るい絵で、画用紙を隅から隅まで目一杯書き込んだ作品だった。
その絵を送って1ヶ月が立つころ。昌子さんも「ならにおくったえはどうなりましたか?」と気にかけていた。そこへ、たんぽぽさんから「奈良へのご招待」というファクシミリが届いた。応募のあった絵はすべて幡にデザインされることになり、昌子さんの絵も晴れて幡になって掲げられることになったのだった。さらに2月6日に東大寺で式典があるので参加してほしいという内容だった。思いがけない招待に驚いたが、せっかくのチャンスと、急遽奈良に行くことを決めた。
動物嫌いで、犬どころか猫も苦手な昌子さんは、奈良は初めて。「しか、たくさんいるの?おそってこない?」など心配しながらも、楽しみにしているようだった。一つ気になったのは、お父さんから奈良行きの2泊のお許しをもらえるかどうかだった。私も心配だったが、まず昌子さんが自分で頼んでみることにした。翌日、あっさり了解がとれたとのことだった。聞くと昌子さんは、お父さんが一番機嫌のいい「お風呂に入る前」の時間を狙って話しを持ち出したという!そして作戦成功で、しっかりOKをもらってきた。全くの子ども扱いで、お父さんに従うだけだった数年前とは別人のようで、的確な作戦を考えるあたりは、今や昌子さんのほうが上手だと言うべきか。お父さんも、昌子さんの絵が東大寺の幡になって翻るのは誇らしい事に違いないし、何より昌子さんの大きな成長を頼もしく感じておられるのではないだろうか。
●奈良1日目
まだ外が真っ暗な朝6時、始発の新幹線で花巻を出発。昌子さんは奈良に着くまで、ほとんど寝ることなくずっと窓の外を眺めていた。車窓の景色をどう見ているのか、何を考えているのか気になった。昼の12時半には近鉄奈良駅に到着。たんぽぽの家のスタッフさんが出迎えてくれた。人見知りが激しく、特に初対面の人が苦手な昌子さんなのだが、今回は戸惑ってはいるようだが顔はニコニコと余裕だ。たんぽぽのスタッフさんが関西弁で「奈良にくるのは初めてですか?」と優しく声をかけてくださる。言葉は出ないもののニンマリして、動じない様子に驚いた。いつもなら初めての場所や人などに強く不安を感じ、泣いたり動けなくなったりするのだが、ずいぶんと逞しくなったものだ。
いよいよ東大寺に到着。大仏殿の前では、鮮やかな幡がなびいている。用意された席につくと、すぐ目の前に大仏様がいた。その席は、普段はお坊さんしか登れない壇上で、観光客はその下のところまでしか行けない。大仏様が座っている蓮の花の、無数の模様が確認できるほどの近さだ。大仏様に見守られながら、式典で昌子さんの名前も呼ばれ、前に出て焼香するという大役もしっかり務めた。
その日は天気が悪く小雨が降っていたが、式典が始まるころには雨が止み、一気に空が明るくなった。昌子さんの絵は、岩手の宮古市の方たちの絵と一緒にデザインされて一枚の「幡」になっていた。個々の絵を組み合わせて作られた幡なのだが、不思議なほど一体感があり、それぞれの個性もしっかり主張されていた。プロジェクトに携わっている県庁の方が「幡のおかげで東大寺がパッと明るくなってお坊さんも喜んでいましたよ」とおっしゃっていたが、平和への祈りを込めただけあって、8本並んだ鮮やかな幡には相当な存在感があり不思議な力がこもっているように感じた。
式典が終わると、奈良県の杉田副知事が昌子さんに声をかけてくれた。とても気さくな方で、昌子さんは名刺をいただいた。副知事がその場から去ったあと、「昌子ちゃんも名刺つくってくればよかったね」と中屋さん。私は出発前に昌子さんの名刺を作っていたにも関わらず、すっかり忘れていた。慌てて名刺を取り出すと、「じゃあ名刺交換しないと!」ということなった。すると県庁の方が副知事をわざわざ呼んできてくれた。緊張しながらも自分の絵入りの名刺を手渡す昌子さん。人生初めての「名刺交換」を副知事と果たすことができた。
まだこれは1日目のことだが、書ききれないほどたくさんの発見や出会いがあった。8年前、昌子さんが里にやってきたときは、対人恐怖と不安で今にも消え入りそうな様子だったという。通所は続かないのではないかと前の施設では言っていたほどだったそうだ。怯えや恐れで震えていた彼女の心が、絵を描くことを通じてここまで逞しくなろうとは当時だれも想像できなかっただろう。今も人見知りがなくなった訳ではないが、不思議と芸術関連の人たちとは初対面でも平気で話していたりするので驚く。芸術家や、今回のたんぽぽの家のスタッフさん達にはその場で心が通じるようで、人見知りが出ないで済む。彼女の絵を描く才能は、人間も含め世の中の事象の本質を感じてしまう繊細な感性にも依るのだろう。彼女は銀河の里に来るまで、学校や施設を通じて怖い人ばかりと出会ってきたということだ。副知事ともその気さくさに助けられて昌子さんは怯えることはなかった。昌子さんの怯えがどう形成されたのか気にかかる。奈良では、昌子さんが出会う人たちと心を通わせているという実感があった。岩手では福祉のイベントでもそうした感触はまずない。たんぽぽの家の方を始め、気さくで暖かく迎え入れてくれる気持ちが、昌子さんに通じて、安心して楽しめるのだと思う。たんぽぽの家の方たちの姿勢には毎度の事ながら感心する。今回もわざわざ食事会まで持っていただいた。感謝この上ない。
奈良県障害者芸術祭「HAPPY SPOT NARA」は、2011年から始まり今年で2回目とのこと。このBIG幡の他にも、プライベート美術館などいろんな企画があり、それらも見ることができた。次回はそれらを紹介したい。
その絵を送って1ヶ月が立つころ。昌子さんも「ならにおくったえはどうなりましたか?」と気にかけていた。そこへ、たんぽぽさんから「奈良へのご招待」というファクシミリが届いた。応募のあった絵はすべて幡にデザインされることになり、昌子さんの絵も晴れて幡になって掲げられることになったのだった。さらに2月6日に東大寺で式典があるので参加してほしいという内容だった。思いがけない招待に驚いたが、せっかくのチャンスと、急遽奈良に行くことを決めた。
動物嫌いで、犬どころか猫も苦手な昌子さんは、奈良は初めて。「しか、たくさんいるの?おそってこない?」など心配しながらも、楽しみにしているようだった。一つ気になったのは、お父さんから奈良行きの2泊のお許しをもらえるかどうかだった。私も心配だったが、まず昌子さんが自分で頼んでみることにした。翌日、あっさり了解がとれたとのことだった。聞くと昌子さんは、お父さんが一番機嫌のいい「お風呂に入る前」の時間を狙って話しを持ち出したという!そして作戦成功で、しっかりOKをもらってきた。全くの子ども扱いで、お父さんに従うだけだった数年前とは別人のようで、的確な作戦を考えるあたりは、今や昌子さんのほうが上手だと言うべきか。お父さんも、昌子さんの絵が東大寺の幡になって翻るのは誇らしい事に違いないし、何より昌子さんの大きな成長を頼もしく感じておられるのではないだろうか。
●奈良1日目
まだ外が真っ暗な朝6時、始発の新幹線で花巻を出発。昌子さんは奈良に着くまで、ほとんど寝ることなくずっと窓の外を眺めていた。車窓の景色をどう見ているのか、何を考えているのか気になった。昼の12時半には近鉄奈良駅に到着。たんぽぽの家のスタッフさんが出迎えてくれた。人見知りが激しく、特に初対面の人が苦手な昌子さんなのだが、今回は戸惑ってはいるようだが顔はニコニコと余裕だ。たんぽぽのスタッフさんが関西弁で「奈良にくるのは初めてですか?」と優しく声をかけてくださる。言葉は出ないもののニンマリして、動じない様子に驚いた。いつもなら初めての場所や人などに強く不安を感じ、泣いたり動けなくなったりするのだが、ずいぶんと逞しくなったものだ。
いよいよ東大寺に到着。大仏殿の前では、鮮やかな幡がなびいている。用意された席につくと、すぐ目の前に大仏様がいた。その席は、普段はお坊さんしか登れない壇上で、観光客はその下のところまでしか行けない。大仏様が座っている蓮の花の、無数の模様が確認できるほどの近さだ。大仏様に見守られながら、式典で昌子さんの名前も呼ばれ、前に出て焼香するという大役もしっかり務めた。
その日は天気が悪く小雨が降っていたが、式典が始まるころには雨が止み、一気に空が明るくなった。昌子さんの絵は、岩手の宮古市の方たちの絵と一緒にデザインされて一枚の「幡」になっていた。個々の絵を組み合わせて作られた幡なのだが、不思議なほど一体感があり、それぞれの個性もしっかり主張されていた。プロジェクトに携わっている県庁の方が「幡のおかげで東大寺がパッと明るくなってお坊さんも喜んでいましたよ」とおっしゃっていたが、平和への祈りを込めただけあって、8本並んだ鮮やかな幡には相当な存在感があり不思議な力がこもっているように感じた。
式典が終わると、奈良県の杉田副知事が昌子さんに声をかけてくれた。とても気さくな方で、昌子さんは名刺をいただいた。副知事がその場から去ったあと、「昌子ちゃんも名刺つくってくればよかったね」と中屋さん。私は出発前に昌子さんの名刺を作っていたにも関わらず、すっかり忘れていた。慌てて名刺を取り出すと、「じゃあ名刺交換しないと!」ということなった。すると県庁の方が副知事をわざわざ呼んできてくれた。緊張しながらも自分の絵入りの名刺を手渡す昌子さん。人生初めての「名刺交換」を副知事と果たすことができた。
まだこれは1日目のことだが、書ききれないほどたくさんの発見や出会いがあった。8年前、昌子さんが里にやってきたときは、対人恐怖と不安で今にも消え入りそうな様子だったという。通所は続かないのではないかと前の施設では言っていたほどだったそうだ。怯えや恐れで震えていた彼女の心が、絵を描くことを通じてここまで逞しくなろうとは当時だれも想像できなかっただろう。今も人見知りがなくなった訳ではないが、不思議と芸術関連の人たちとは初対面でも平気で話していたりするので驚く。芸術家や、今回のたんぽぽの家のスタッフさん達にはその場で心が通じるようで、人見知りが出ないで済む。彼女の絵を描く才能は、人間も含め世の中の事象の本質を感じてしまう繊細な感性にも依るのだろう。彼女は銀河の里に来るまで、学校や施設を通じて怖い人ばかりと出会ってきたということだ。副知事ともその気さくさに助けられて昌子さんは怯えることはなかった。昌子さんの怯えがどう形成されたのか気にかかる。奈良では、昌子さんが出会う人たちと心を通わせているという実感があった。岩手では福祉のイベントでもそうした感触はまずない。たんぽぽの家の方を始め、気さくで暖かく迎え入れてくれる気持ちが、昌子さんに通じて、安心して楽しめるのだと思う。たんぽぽの家の方たちの姿勢には毎度の事ながら感心する。今回もわざわざ食事会まで持っていただいた。感謝この上ない。
奈良県障害者芸術祭「HAPPY SPOT NARA」は、2011年から始まり今年で2回目とのこと。このBIG幡の他にも、プライベート美術館などいろんな企画があり、それらも見ることができた。次回はそれらを紹介したい。
餃子製造 ★ワークステージ 村上幸太郎【2013年2月号】
★惣菜班による餃子作りの工程を細かく表現しました。冷凍した餃子は真空機で8個ずつ袋詰めを行います。また、製造の段階で形が崩れてしまったり、皮が割れてしまった餃子は「ハジキ」として分け、社内販売も行っています。