2013年01月15日
今年もよろしくお願いします ★理事長 宮澤健【2013年1月号】
通信の内容が段々マニアックになってきた感があって誰にでも読んでもらえるものではなくなってきたような気がする。それでいいものか数年前から悩んではいるのだけど、勢いというものもあって確信犯的にもうこれで行こうと突っ走ってきてしまった。あまりに長い文や、訳のわからない論の展開に閉口している方もあるのではないかと、申し訳ない気持ちもあるのだが、気づいたり感じたりしたことはある程度表現して伝えたい気持ちが抑えられないところがある。
6年ぐらい前、他の施設の管理者の方に通信の感想を伺ったところ「字が小さい」とのことだった。それからしばらくは字を大きくしようと努力した時期もあったのだが、それもむなしく、当時と比べて、今はさらに半分ぐらい小さくなってしまっている。機内誌の企画もしているコーディネーターからは、写真を多く大きくして、文章は少なくするのが基本だとして、「商品を送るときには通信は入れないでくれ」と言われてしまう始末だ。そんなだからもう誰も読んでくれないものと覚悟していたのだが、去年は案外いろんなところから好意的な反響をいただいた。いつも全文を熟読していると言われるカナンの園の菅生さんは毎月のようにメールで感想を送ってくださる。昨年6月に研修で行った鎌倉で偶然ご縁ができてお世話になっている『くずきりみのわ』」のオーナーさんも通信を楽しみにしていただいている。各方面に配っていただいて、新潟のお知り合いからはお葉書をいただいたりした。そんな応援があったりして、余計に図に乗って字数多くなり字が小さくなってしまったかもしれない。
11月号から書いているように、今年の10月にグループホーム協会の全国大会が盛岡で開催される。これを契機に、数は整備されたものの、「安かろう悪かろう」状態の日本の福祉の質をなんとかしなければならないという危機的な切羽詰まった状況に追い詰められて、通信にも余計に力が入る傾向になっている。また、グループホーム銀河の里の10年の経験と蓄積を、特養ユニットケアに活かしてみたいと開設した銀河の里特養も、3年目にして体制がかなり整い、里らしい物語を生み出せるように育ってきて、特養スタッフの原稿も長文になる傾向にある。
わかりやすさ、読みやすさを意識しながらも、現場の具体的なエピソードを具体的に、意味ある形で伝えていく使命もあると考えているので、これからも現場の実践と平行して、通信もがんばっていきたいと思う。
20年以上前に、東京の板橋で障害者更生施設で同僚だった渡辺由美子さんから年賀状代わりのお手紙をいただいた。毎月送ればいいのだが、夏と冬に2回にわけて通信をお送りした。こんな分量が半年分届くのも迷惑な話だと思うが、彼女は全文を読破して感想を送ってくれた。夏に半期分を読んで感想文を書き始めたが、半年かかってしまい、後半、半年分が12月に送られてきたので、総決算の感想文を書いたということだった。時間がかかったのは、通信を「あだやおろそかに」扱いたくない気持ちがあり、しっかり読み込んで理解して感想を書きたかったと言ってくれているのはとてもうれしい。彼女がある種見えない力の導きを感じたというのは、通信で話題にした、泉鏡花、世阿弥の能楽、松井冬子、ピナバウシュのそれぞれに彼女も同じ時期に触れていたからだ。偶然の一致と言えばそれまでだが、メデイアに登るピナバウシュや松井冬子は重なったとしても、鏡花や能まで符合するとは驚きだと言うわけだ。彼女はそれぞれについて論じたいところだが、今回はそれらすべてに共通するエロスについて書いてくれた。彼女の定義によるとエロスは「人を恋うる気持ち」なんだそうで、文語で言う方がぴったりくるらしい。それは人に限定しなくてもよくて、なにかにつながりたい気持ちじゃないかと言う。
ここから便せん7枚の展開が独特でおもしろくて楽しかった。彼女は坂口安吾を高校時代から読んでいて、この数ヶ月、また読み返しているのだそうだ。無頼派と呼ばれ、破天荒な人物とみられがちな安吾には、狂気と紙一重ながら、他の人にない、「人をよきものとして(自分も他人も)信じ恋いふる気持ち」が根底にあることを今回読み返して感じたという。三千代夫人の書いた『クラクラ日記』が大好きだというので、早速取り寄せて読んでみると、確かに二人の、「人を(他人も自分も)よきものとして恋いふる」たましいの清らかさが感じられる。メチャクチャなんだけど、なんて尊いんだろうと感じさせる人間がそこにある。
渡辺さんは、おおらかで度量の大きい男という印象の安吾が、三千代夫人に対しては狭量でひどいこともしていて「なんだこいつは小さな男だなあ」とますます好きになると言う。そして、世間からみればアホで幼稚でメチャクチャな三千代さんが、どれだけ安吾を癒やしていたかを思い知るとして、本当にステキな人だと言う。
『クラクラ日記』には、当時の多くの文人が登場する。小林秀雄や青山二郎なども出てきて、それだけでもわくわくさせられる。精神的に病んだ安吾が暴れて入院したとき、小林秀雄がお見舞いに来る場面がある。小林は「テメエは大バカ野郎だ」と十何回も叫ぶ。安吾のわがままに苦労させられているので最初は「ざまあみろ」と思って聞いていた三千代さんも、薬でもうろうとして口がどもってしまう安吾がしゃべろうとする度に「テメエは大バカ野郎だ」とかぶせるのでかわいそうになったと言うのだが、それが小林さん流の友情だったと書いている。これには感動する。きれい事や作り事ではない、震えるたましいそのもので「テメエは大バカ野郎だ」と怒なる小林秀雄がすごい。二人の関係がいい。
渡辺さんは学生時代、京都と東京で能をたくさん見たそうだ。しかも自身も謡と仕舞いをやっていたという。「今は福祉の現場からは離れているけれど、通信を読んで、知性、感性、いろんなものを総動員して取り組む、なんとスリリングな魅力にみちた現場だろう」と評してくれている。
私としては、このところ知性も感性もまるで足りなくてガス欠気味だが、こうした刺激をもらえるとまた、燃料満タンで走れるような気がしてくる。今年は全国大会の開催など大きな勝負もあるので、いろいろ吸収したり考えたりしながら臨んでいきたい。
6年ぐらい前、他の施設の管理者の方に通信の感想を伺ったところ「字が小さい」とのことだった。それからしばらくは字を大きくしようと努力した時期もあったのだが、それもむなしく、当時と比べて、今はさらに半分ぐらい小さくなってしまっている。機内誌の企画もしているコーディネーターからは、写真を多く大きくして、文章は少なくするのが基本だとして、「商品を送るときには通信は入れないでくれ」と言われてしまう始末だ。そんなだからもう誰も読んでくれないものと覚悟していたのだが、去年は案外いろんなところから好意的な反響をいただいた。いつも全文を熟読していると言われるカナンの園の菅生さんは毎月のようにメールで感想を送ってくださる。昨年6月に研修で行った鎌倉で偶然ご縁ができてお世話になっている『くずきりみのわ』」のオーナーさんも通信を楽しみにしていただいている。各方面に配っていただいて、新潟のお知り合いからはお葉書をいただいたりした。そんな応援があったりして、余計に図に乗って字数多くなり字が小さくなってしまったかもしれない。
11月号から書いているように、今年の10月にグループホーム協会の全国大会が盛岡で開催される。これを契機に、数は整備されたものの、「安かろう悪かろう」状態の日本の福祉の質をなんとかしなければならないという危機的な切羽詰まった状況に追い詰められて、通信にも余計に力が入る傾向になっている。また、グループホーム銀河の里の10年の経験と蓄積を、特養ユニットケアに活かしてみたいと開設した銀河の里特養も、3年目にして体制がかなり整い、里らしい物語を生み出せるように育ってきて、特養スタッフの原稿も長文になる傾向にある。
わかりやすさ、読みやすさを意識しながらも、現場の具体的なエピソードを具体的に、意味ある形で伝えていく使命もあると考えているので、これからも現場の実践と平行して、通信もがんばっていきたいと思う。
20年以上前に、東京の板橋で障害者更生施設で同僚だった渡辺由美子さんから年賀状代わりのお手紙をいただいた。毎月送ればいいのだが、夏と冬に2回にわけて通信をお送りした。こんな分量が半年分届くのも迷惑な話だと思うが、彼女は全文を読破して感想を送ってくれた。夏に半期分を読んで感想文を書き始めたが、半年かかってしまい、後半、半年分が12月に送られてきたので、総決算の感想文を書いたということだった。時間がかかったのは、通信を「あだやおろそかに」扱いたくない気持ちがあり、しっかり読み込んで理解して感想を書きたかったと言ってくれているのはとてもうれしい。彼女がある種見えない力の導きを感じたというのは、通信で話題にした、泉鏡花、世阿弥の能楽、松井冬子、ピナバウシュのそれぞれに彼女も同じ時期に触れていたからだ。偶然の一致と言えばそれまでだが、メデイアに登るピナバウシュや松井冬子は重なったとしても、鏡花や能まで符合するとは驚きだと言うわけだ。彼女はそれぞれについて論じたいところだが、今回はそれらすべてに共通するエロスについて書いてくれた。彼女の定義によるとエロスは「人を恋うる気持ち」なんだそうで、文語で言う方がぴったりくるらしい。それは人に限定しなくてもよくて、なにかにつながりたい気持ちじゃないかと言う。
ここから便せん7枚の展開が独特でおもしろくて楽しかった。彼女は坂口安吾を高校時代から読んでいて、この数ヶ月、また読み返しているのだそうだ。無頼派と呼ばれ、破天荒な人物とみられがちな安吾には、狂気と紙一重ながら、他の人にない、「人をよきものとして(自分も他人も)信じ恋いふる気持ち」が根底にあることを今回読み返して感じたという。三千代夫人の書いた『クラクラ日記』が大好きだというので、早速取り寄せて読んでみると、確かに二人の、「人を(他人も自分も)よきものとして恋いふる」たましいの清らかさが感じられる。メチャクチャなんだけど、なんて尊いんだろうと感じさせる人間がそこにある。
渡辺さんは、おおらかで度量の大きい男という印象の安吾が、三千代夫人に対しては狭量でひどいこともしていて「なんだこいつは小さな男だなあ」とますます好きになると言う。そして、世間からみればアホで幼稚でメチャクチャな三千代さんが、どれだけ安吾を癒やしていたかを思い知るとして、本当にステキな人だと言う。
『クラクラ日記』には、当時の多くの文人が登場する。小林秀雄や青山二郎なども出てきて、それだけでもわくわくさせられる。精神的に病んだ安吾が暴れて入院したとき、小林秀雄がお見舞いに来る場面がある。小林は「テメエは大バカ野郎だ」と十何回も叫ぶ。安吾のわがままに苦労させられているので最初は「ざまあみろ」と思って聞いていた三千代さんも、薬でもうろうとして口がどもってしまう安吾がしゃべろうとする度に「テメエは大バカ野郎だ」とかぶせるのでかわいそうになったと言うのだが、それが小林さん流の友情だったと書いている。これには感動する。きれい事や作り事ではない、震えるたましいそのもので「テメエは大バカ野郎だ」と怒なる小林秀雄がすごい。二人の関係がいい。
渡辺さんは学生時代、京都と東京で能をたくさん見たそうだ。しかも自身も謡と仕舞いをやっていたという。「今は福祉の現場からは離れているけれど、通信を読んで、知性、感性、いろんなものを総動員して取り組む、なんとスリリングな魅力にみちた現場だろう」と評してくれている。
私としては、このところ知性も感性もまるで足りなくてガス欠気味だが、こうした刺激をもらえるとまた、燃料満タンで走れるような気がしてくる。今年は全国大会の開催など大きな勝負もあるので、いろいろ吸収したり考えたりしながら臨んでいきたい。
必死の送迎 ★デイサービス 高橋清子【2013年1月号】
認知症対応型の銀河の里のデイサービスは、他の施設で断られたり、合わなかった方の利用も多いので、普通のデイサービスとはかなり違った緊張感や注意力が求められる。他の施設で掲げてあったりする、利用上の注意として「集団行動にあわせ、他の人に迷惑をかけないこと」等といった上から目線の常識などは全く通用しない。そんな常識が通用するぐらいならデイなど利用する必要がないといった感がある。そんなデイの日常を楽しく盛り上げながら過ごしてもらうコツは、「ダメ」とは一切言わない、“ゆるゆるの雰囲気”をつくり出す、柔らかな人間関係が基本だ。他では暴れたりして断られた方や、デイの利用を頑なに拒否していた方も、安心してなじんでもらえて、楽しみに来てもらえる居場所でありたい。認知症高齢者の在宅を支える一助として役立ちたいと願っている。
デイサービスでは毎日朝の送迎から業務が始まる。迎えに行くと、ご家族の方が準備をして利用者さん本人も待っていてくれる場合が一般的なのだが、なかなか普通にはいかないケースが多々あるのも銀河の里のデイの特徴だ。朝送迎で、車に乗ってもらうまでにかなり気を遣い、うまくその気になってもらうように工夫が必要な場合も少なくない。先日、私はある利用者さんと朝の迎えで、40分の格闘をした。Aさんはすでに2年くらい利用をされているなじんだ方なのだが、このところ寒くなって出かけるのがおっくうになられたのか、布団の中から出ようとしなかった。92歳のそのおばあちゃんは近所に住む親族に食事などお世話になりながら一人暮らしで頑張っている。猫と一緒に住んでいるのだが、ここ半年で足腰の力が弱くなり、散歩中に何度も転んで膝をすりむいたりしている。何度も打撲している為に、膝の皿の下が変形している。Aさんは「こんなになってしまったんですよ!婦長さん」と私にたくさん話をしてくれる。私はAさんが昔お世話になった看護師さんに似ているらしく、私は口腔ケアを担当していることもあってか、Aさんに婦長と呼ばれている。
ある月曜日、その日は大雪の朝だった。自宅に車で迎えに行くと、いつもと違ってカーテンが閉められ部屋は暗かった。部屋に入るとAさんは猫といっしょに熟睡していた。「Aさん、デイのお迎えに伺いましたよ!」と声をかける「ん…、今何時です」「9時です、朝のお迎えに来ましたよ!ゆっくり起きて準備しましょう」と誘った。ところがAさんはこの日、妙に頑なだった。「今朝4時ごろ起きた時、とっても寒くて、グラッと目眩がして、今日は駄目だなと思い、行かない事に決めました」と言う。私は顔色の具合、呼吸の様子、熱の有無などを確認したのだが、体調は悪くはなさそうだ。土曜日の送迎でスタッフの2時間の説得に応じなかったことも頭にあった私は、ここで食い下がらなかったらAさんは段々弱って、出かけられなくなり、寝たきりになるのではないかと感じた。私の元来の性格もあって、ここは何としても起きてもらってデイに連れ出さなければと思った。まず布団から出てもらって着替えをしなければ話にならないと考え「準備のお手伝いをしますよ、ゆっくり座りましょう」と促すのだがAさんは起きる気配が全くない。「今日はだめです、いくら婦長が言ってくれても行きません」と布団にしがみ付く。確かに寒い日だし、布団から出るにはおっくうかも知れない。「外は晴れていて段々暖かくなりますよ、さあ行きましょう、行けます、行けます」と私は掛け布団を剥ごうとするのだが、Aさんはさらに頑なになって「絶対に駄目です、ごはんも2日前から食べてないし、薬も飲んでいないし」と布団にしがみついている。食事も食べ薬も飲んでいる事は息子さんから聞いていたので、私は「今日は起きれる大丈夫」とさらにしつこく誘う。私はもう、馬乗りになって力ずくで布団を剥ごうとするのだが、Aさんも対抗してさらに固く布団にしがみついている。そんな格闘に猫も寝てられなくなって、その辺をうろうろと動き回っている。Aさんは「こんなに寒いので、絶対に無理です」とさらに頑なだ。万策尽きた感じだがあきらめる訳にはいかないとばかり「そんなに寒いなら私が布団に入って暖めますから、入れてください」と言ってみるが「騙されませんよ、そう言って座らせていつの間にか洋服を着せるんでしょう」と受けつけてくれない。あれこれ押し問答が30分も続いたろうか。私は突き詰める感じで「Aさん、土曜日のスタッフとの約束覚えていますか?」「覚えていますよ、その時も寒くて駄目でした」「この次は、行くって約束しましたよね。約束は守りましょう」と言った。私の譲らない態度にあきらめたのか強い口調が効いたのか、約束に観念したのか、その時フッと一瞬Aさんの布団にしがみつく力が弱くなった。私はその隙を逃さなかった。このときとばかり一気に布団を剥いだ。掛け布団がはがれるとAさんは上体をあげて座ってくれたので、そのまま洋服を着てもらった。格闘したおかげか目はパッチリと開いて、顔も体も寝ぼけてはいない。暖かいお茶でも飲んでもらいたいところだったが、水しか無かったので水を飲んでもらい、なんとか立ち上がって外に出て車に乗ってもらうことができた。乗った途端に「暖かい、こんなに暖かいなら早く来ればよかった」と言われた。ホッとしながらも私は心の中で<あたりまえでしょ。40分もエンジンかけっぱなしで暖気してるんだもの暖かいよ>と思った。Aさんは走る車の中で「それにしても婦長さんはしつこいし、ガンコだな、アッハハハ」と笑っていた。
なんとか誘えてホッとしながらも、私は汗びっしょりで、1日のエネルギーを使い果たしたように体の力が抜けそうだった。布団剥がしの格闘は、Aさんが飼っている猫にとってはせっかく気持ちよく寝ていたところ迷惑千万な話だったろうし、「人さらい」の様に見えたかもしれない。運転をしながらその情景を思い返した。車に乗ってからはすっかり落ち着いて機嫌も良いAさんの笑い声に安堵しながら「寝たきりにならないで行ける。またデイで楽しくすごしてもらえる」と救われた気持ちになった。一人暮らしのAさんに限らず、利用者さんそれぞれの思いがあり、その時々の気持ちは動く。今回は私も頑なな強引さを前面に出してしまったが、Aさんとのこれまでの関係に支えられてやれたことだと思う。どうやって説得しようか、どうすれば起きてくれるのか私なりに必死だった。この瞬間さえ乗り超えれば、Aさんはデイで楽しく過ごしてくれるのだという確信もあった。これほど汗をかき、言葉を探り、時間をかけた送迎はめったにない。これは、ある月曜日の大雪の朝に格闘した送迎にまつわるエピソードの一つだ。
デイサービスでは毎日朝の送迎から業務が始まる。迎えに行くと、ご家族の方が準備をして利用者さん本人も待っていてくれる場合が一般的なのだが、なかなか普通にはいかないケースが多々あるのも銀河の里のデイの特徴だ。朝送迎で、車に乗ってもらうまでにかなり気を遣い、うまくその気になってもらうように工夫が必要な場合も少なくない。先日、私はある利用者さんと朝の迎えで、40分の格闘をした。Aさんはすでに2年くらい利用をされているなじんだ方なのだが、このところ寒くなって出かけるのがおっくうになられたのか、布団の中から出ようとしなかった。92歳のそのおばあちゃんは近所に住む親族に食事などお世話になりながら一人暮らしで頑張っている。猫と一緒に住んでいるのだが、ここ半年で足腰の力が弱くなり、散歩中に何度も転んで膝をすりむいたりしている。何度も打撲している為に、膝の皿の下が変形している。Aさんは「こんなになってしまったんですよ!婦長さん」と私にたくさん話をしてくれる。私はAさんが昔お世話になった看護師さんに似ているらしく、私は口腔ケアを担当していることもあってか、Aさんに婦長と呼ばれている。
ある月曜日、その日は大雪の朝だった。自宅に車で迎えに行くと、いつもと違ってカーテンが閉められ部屋は暗かった。部屋に入るとAさんは猫といっしょに熟睡していた。「Aさん、デイのお迎えに伺いましたよ!」と声をかける「ん…、今何時です」「9時です、朝のお迎えに来ましたよ!ゆっくり起きて準備しましょう」と誘った。ところがAさんはこの日、妙に頑なだった。「今朝4時ごろ起きた時、とっても寒くて、グラッと目眩がして、今日は駄目だなと思い、行かない事に決めました」と言う。私は顔色の具合、呼吸の様子、熱の有無などを確認したのだが、体調は悪くはなさそうだ。土曜日の送迎でスタッフの2時間の説得に応じなかったことも頭にあった私は、ここで食い下がらなかったらAさんは段々弱って、出かけられなくなり、寝たきりになるのではないかと感じた。私の元来の性格もあって、ここは何としても起きてもらってデイに連れ出さなければと思った。まず布団から出てもらって着替えをしなければ話にならないと考え「準備のお手伝いをしますよ、ゆっくり座りましょう」と促すのだがAさんは起きる気配が全くない。「今日はだめです、いくら婦長が言ってくれても行きません」と布団にしがみ付く。確かに寒い日だし、布団から出るにはおっくうかも知れない。「外は晴れていて段々暖かくなりますよ、さあ行きましょう、行けます、行けます」と私は掛け布団を剥ごうとするのだが、Aさんはさらに頑なになって「絶対に駄目です、ごはんも2日前から食べてないし、薬も飲んでいないし」と布団にしがみついている。食事も食べ薬も飲んでいる事は息子さんから聞いていたので、私は「今日は起きれる大丈夫」とさらにしつこく誘う。私はもう、馬乗りになって力ずくで布団を剥ごうとするのだが、Aさんも対抗してさらに固く布団にしがみついている。そんな格闘に猫も寝てられなくなって、その辺をうろうろと動き回っている。Aさんは「こんなに寒いので、絶対に無理です」とさらに頑なだ。万策尽きた感じだがあきらめる訳にはいかないとばかり「そんなに寒いなら私が布団に入って暖めますから、入れてください」と言ってみるが「騙されませんよ、そう言って座らせていつの間にか洋服を着せるんでしょう」と受けつけてくれない。あれこれ押し問答が30分も続いたろうか。私は突き詰める感じで「Aさん、土曜日のスタッフとの約束覚えていますか?」「覚えていますよ、その時も寒くて駄目でした」「この次は、行くって約束しましたよね。約束は守りましょう」と言った。私の譲らない態度にあきらめたのか強い口調が効いたのか、約束に観念したのか、その時フッと一瞬Aさんの布団にしがみつく力が弱くなった。私はその隙を逃さなかった。このときとばかり一気に布団を剥いだ。掛け布団がはがれるとAさんは上体をあげて座ってくれたので、そのまま洋服を着てもらった。格闘したおかげか目はパッチリと開いて、顔も体も寝ぼけてはいない。暖かいお茶でも飲んでもらいたいところだったが、水しか無かったので水を飲んでもらい、なんとか立ち上がって外に出て車に乗ってもらうことができた。乗った途端に「暖かい、こんなに暖かいなら早く来ればよかった」と言われた。ホッとしながらも私は心の中で<あたりまえでしょ。40分もエンジンかけっぱなしで暖気してるんだもの暖かいよ>と思った。Aさんは走る車の中で「それにしても婦長さんはしつこいし、ガンコだな、アッハハハ」と笑っていた。
なんとか誘えてホッとしながらも、私は汗びっしょりで、1日のエネルギーを使い果たしたように体の力が抜けそうだった。布団剥がしの格闘は、Aさんが飼っている猫にとってはせっかく気持ちよく寝ていたところ迷惑千万な話だったろうし、「人さらい」の様に見えたかもしれない。運転をしながらその情景を思い返した。車に乗ってからはすっかり落ち着いて機嫌も良いAさんの笑い声に安堵しながら「寝たきりにならないで行ける。またデイで楽しくすごしてもらえる」と救われた気持ちになった。一人暮らしのAさんに限らず、利用者さんそれぞれの思いがあり、その時々の気持ちは動く。今回は私も頑なな強引さを前面に出してしまったが、Aさんとのこれまでの関係に支えられてやれたことだと思う。どうやって説得しようか、どうすれば起きてくれるのか私なりに必死だった。この瞬間さえ乗り超えれば、Aさんはデイで楽しく過ごしてくれるのだという確信もあった。これほど汗をかき、言葉を探り、時間をかけた送迎はめったにない。これは、ある月曜日の大雪の朝に格闘した送迎にまつわるエピソードの一つだ。
里の音楽だより「―音をつかめ!」【2013年1月号】 グループホーム第2 佐藤寛恵
去年、私がベースを持つことになって、はじめてのライブがグループホームの利用者、豊さん(仮名)の99歳誕生日だった。それが3月だったからもう1年になる。それからライブを何回やっただろう。初めは演奏をお願いされてから練習を始めるような受け身だった。やがて音を楽しんでいるうちにそれだけでは物足りなくなって、里バンドから派生ユニットも生まれ、それぞれが自主的なライブの企画もするようになった。そのうちピアノとドラムも加わって、11月にはワークステージの「たらふくまつり」からはじまり、すばるユニット、ことユニットと、たてつづけに大忙しで3公演をこなした。そして総まとめとして外部にお披露目デビューを果たすという目標があったわけだが、ついに12月23日、その念願の里バンドデビューライブを行なうことができた。3月の時点で、もやっとだがデビューライブを意識していた。とはいえ外部のお客さんに聴かせるまでにやれるのかどうか直前まで悩んだ。チケット代も悩んだが、ドリンク付きで100円。ドリンクの方が高いくらいの!?入場料だったが、お心遣いの募金箱を設けさせてもらって募金もいくらか寄せてもらった。
デビュー初ライブ直前の楽屋では、緊張感をみなぎらせて3人娘が心細くこたつに座っていた。緊張と乾燥で喉が乾いて水分を摂り続ける木間さん(ピアノ、ヴォーカル)、「えぇ!?お客さんいっぱい入ってます〜」と緊張で胸の張り裂けそうな川戸道さん(ドラム)、練習からずっと本番に不安を抱いていた二唐さん(ヴォーカル)である。そこへ当日までリハーサルができず、ぶっつけ本番の司会となった詩穂美さんの顔が強張っている。酒井さんはいつもの通り、本番前には言葉が全く通じない(気持ちがライブに切り替わっている)。私はみんなを緊張させまいと普通にふるまう。いや本当は、大丈夫だとは思いながら本当に大丈夫なのか!?と揺れ動いて、緊張する余裕さえなかった。実は私は前日の夜に体調不良でダウンした。他のメンバーも数日前に風邪でダウンする人が続出していた。そんななか、頼むから、みんな楽しめますように!と何度も何度も願い、祈りながら本番の舞台を迎えた。
ライブの度に、音を合わせるということに、こんなに壁がいくつも現れてくれるものなんだろうかと戸惑うほど、必ずドラマがあった。そのたびにヒヤヒヤし、それぞれが自分自身と向き合って葛藤し、目に見えないところで成長を余儀なくされた。その葛藤はいつも突然現れて自分自身を動けなくする。迷宮に迷い込んだみたいに、解決策なんてものはみあたらない。不安にさいなまれながら、考えてもどうにもならないことは分かっている。音を出してもどうにもならず、音を出さないことで自分自身を見つめ直すときもあった。いつもそんな感じで、ライブは成功するだろうかと揺れながら本番までの日々を過す。
私の初ライブでのこと。自分の作った詩を読んでいたのだが、その詩を読むという心がお客さんの前で負けてしまった。用意しているどの詩を読んでも、早くこれを読み終わりたいとしか思えない自分がいた。なんとか心を整えようと酒井さんのソロ中に抜けて外に出た。ああ、もうだめだと思っていると、暗闇の中、理事長と哲哉さんが、私の車のパンクを直してくれていた。自分の車がパンクしていることすら私は知らなかった。裏で支えてもらっている。ああ、里ってこうなんだよなぁって感じて、これを詩にするしかないとその場で即興の詩を書いた。急いで作ったので詩といえるかどうかあやしいものだったが、そのとき私が伝えたいことを、それ以外の手法で言葉に心をのせることができないことも分かっていた。その詩を声に出して読んでいるうちに涙が出そうになった。そこからやっと気持ちのエンジンがかかった。ライブ前はもちろんのこと、ライブ中だって何が起こるか分からない。
場数を踏んできたこともあってか、ライブに向かう気持ちは1年前とは全く違うものになっている。私だって私の音を奏でたい。バンドもメンバーそれぞれがその人らしい音で楽しんで
欲しいと思いながらみんなを信じるしかない。
ベースと平行して私はピアノも弾きたくなった。音づくりは楽しいばかりではいられない。音に成るのはやっぱり苦しい、苦しいけれど私でいられる。私でいられる自由はたまらなくうれしい。思うように音が奏でられないことばかりで、それはとてもとても怖い。それでも音に向かう。見つからなくても、音を奏でる。そうするとわたしが、そこにいるのがよくわかる。私の弱さがよく分かる。
失敗がそれほど怖くなくなった。いや、失敗したくないが、でもそれにとらわれていては自分の音を見失って、音が死んでしまう。楽しめ、楽しめ。楽しめるところまで、楽しめ。23日のライブでは酒井さんではなく、私がピアノで突っ走った。初めてだった。酒井さんは「何か合わねえなあ」とすぐに分かったようだ。本番でこうなるとは予測もしていなかっただろう。
酒井さんの音は聴衆をあっという間に飲み込んでしまう。隣でベースを弾いている私さえ飲み込む。私はまだ感情の殻を破りきれず、酒井さんと対等にはまだまだ戦えない。それで私はピアノを弾いてみようと思った。ピアノでも感情をむき出しにしすぎて、互いの音を消し合ったこともあった。それでもやっと、「カモメ」という曲で優雅に海を越えていくカモメの姿をとらえることが出来るようになってきた。どれほど合わせても終わりがないが、もっともっと良くなると思って練習していると新しい発見がいつもある。
メンバーだけではなく支えてくれる人のまなざしも心強かった。グループホームの利用者の守男さん(仮名)はこの一年、その都度、的確な言葉を私たちにくれて、エールを送ってくれた。今年がどんな年になるか、まだまだ分からない。それでも今年はこれをやるんだという方向性はある。里では、これからいろいろなユニットが出てくるだろう。23日のライブをさらに越えられるように各人が成長していきたい。
「里バンド」は仮の名前だが、もう少しバンドがパワーアップしたら、自然とバンドの名前も決まるだろう。いつかぴったりの名前が決まる日が来ると思う。まだまだ発展途上の里バンドだが、未開拓の場所がたくさんあるので、枠にとらわれずに自由に音楽を楽しんでいきたい。
里の人や、地域の人たちにも楽しんでもらうことができれば幸いです。どうぞ里バンドをこれからもよろしくお願い致します。
12月23日の裏話は次回をお楽しみに。
デビュー初ライブ直前の楽屋では、緊張感をみなぎらせて3人娘が心細くこたつに座っていた。緊張と乾燥で喉が乾いて水分を摂り続ける木間さん(ピアノ、ヴォーカル)、「えぇ!?お客さんいっぱい入ってます〜」と緊張で胸の張り裂けそうな川戸道さん(ドラム)、練習からずっと本番に不安を抱いていた二唐さん(ヴォーカル)である。そこへ当日までリハーサルができず、ぶっつけ本番の司会となった詩穂美さんの顔が強張っている。酒井さんはいつもの通り、本番前には言葉が全く通じない(気持ちがライブに切り替わっている)。私はみんなを緊張させまいと普通にふるまう。いや本当は、大丈夫だとは思いながら本当に大丈夫なのか!?と揺れ動いて、緊張する余裕さえなかった。実は私は前日の夜に体調不良でダウンした。他のメンバーも数日前に風邪でダウンする人が続出していた。そんななか、頼むから、みんな楽しめますように!と何度も何度も願い、祈りながら本番の舞台を迎えた。
ライブの度に、音を合わせるということに、こんなに壁がいくつも現れてくれるものなんだろうかと戸惑うほど、必ずドラマがあった。そのたびにヒヤヒヤし、それぞれが自分自身と向き合って葛藤し、目に見えないところで成長を余儀なくされた。その葛藤はいつも突然現れて自分自身を動けなくする。迷宮に迷い込んだみたいに、解決策なんてものはみあたらない。不安にさいなまれながら、考えてもどうにもならないことは分かっている。音を出してもどうにもならず、音を出さないことで自分自身を見つめ直すときもあった。いつもそんな感じで、ライブは成功するだろうかと揺れながら本番までの日々を過す。
私の初ライブでのこと。自分の作った詩を読んでいたのだが、その詩を読むという心がお客さんの前で負けてしまった。用意しているどの詩を読んでも、早くこれを読み終わりたいとしか思えない自分がいた。なんとか心を整えようと酒井さんのソロ中に抜けて外に出た。ああ、もうだめだと思っていると、暗闇の中、理事長と哲哉さんが、私の車のパンクを直してくれていた。自分の車がパンクしていることすら私は知らなかった。裏で支えてもらっている。ああ、里ってこうなんだよなぁって感じて、これを詩にするしかないとその場で即興の詩を書いた。急いで作ったので詩といえるかどうかあやしいものだったが、そのとき私が伝えたいことを、それ以外の手法で言葉に心をのせることができないことも分かっていた。その詩を声に出して読んでいるうちに涙が出そうになった。そこからやっと気持ちのエンジンがかかった。ライブ前はもちろんのこと、ライブ中だって何が起こるか分からない。
場数を踏んできたこともあってか、ライブに向かう気持ちは1年前とは全く違うものになっている。私だって私の音を奏でたい。バンドもメンバーそれぞれがその人らしい音で楽しんで
欲しいと思いながらみんなを信じるしかない。
ベースと平行して私はピアノも弾きたくなった。音づくりは楽しいばかりではいられない。音に成るのはやっぱり苦しい、苦しいけれど私でいられる。私でいられる自由はたまらなくうれしい。思うように音が奏でられないことばかりで、それはとてもとても怖い。それでも音に向かう。見つからなくても、音を奏でる。そうするとわたしが、そこにいるのがよくわかる。私の弱さがよく分かる。
失敗がそれほど怖くなくなった。いや、失敗したくないが、でもそれにとらわれていては自分の音を見失って、音が死んでしまう。楽しめ、楽しめ。楽しめるところまで、楽しめ。23日のライブでは酒井さんではなく、私がピアノで突っ走った。初めてだった。酒井さんは「何か合わねえなあ」とすぐに分かったようだ。本番でこうなるとは予測もしていなかっただろう。
酒井さんの音は聴衆をあっという間に飲み込んでしまう。隣でベースを弾いている私さえ飲み込む。私はまだ感情の殻を破りきれず、酒井さんと対等にはまだまだ戦えない。それで私はピアノを弾いてみようと思った。ピアノでも感情をむき出しにしすぎて、互いの音を消し合ったこともあった。それでもやっと、「カモメ」という曲で優雅に海を越えていくカモメの姿をとらえることが出来るようになってきた。どれほど合わせても終わりがないが、もっともっと良くなると思って練習していると新しい発見がいつもある。
メンバーだけではなく支えてくれる人のまなざしも心強かった。グループホームの利用者の守男さん(仮名)はこの一年、その都度、的確な言葉を私たちにくれて、エールを送ってくれた。今年がどんな年になるか、まだまだ分からない。それでも今年はこれをやるんだという方向性はある。里では、これからいろいろなユニットが出てくるだろう。23日のライブをさらに越えられるように各人が成長していきたい。
「里バンド」は仮の名前だが、もう少しバンドがパワーアップしたら、自然とバンドの名前も決まるだろう。いつかぴったりの名前が決まる日が来ると思う。まだまだ発展途上の里バンドだが、未開拓の場所がたくさんあるので、枠にとらわれずに自由に音楽を楽しんでいきたい。
里の人や、地域の人たちにも楽しんでもらうことができれば幸いです。どうぞ里バンドをこれからもよろしくお願い致します。
12月23日の裏話は次回をお楽しみに。
鏡餅 ★グループホーム第1 鈴木美貴子【2013年1月号】
・新年の 思いを込めて 餅をつく今年もお米 穫れたらいいね
・みかんだけ 誰が食べたか 鏡餅 おいしいわねと 知らん顔
里では毎年暮れに鏡餅用の餅つきをする。今回は2升ずつ4回ついた。グループホーム1、2とデイサービス、ワークステージ合同でやった。今回の餅つきは11月号の記事で書いたようにぜひ真知子さんと餅つきをしたかった。12月12日に98歳になった真知子さん(仮名)と田んぼに出て、春に手植えをし秋には手刈りをした、その餅米で餅をついて食べるのを私は楽しみにしていた。餅つきの日は寒くて外屋に出るのは難しいかなと思うほどだった。真知子さんは戸が少しでも開いていると「寒さむ」と背を丸くして戸を閉めに行く人だから。
そこで、餅つきの様子は、デイサービスのいろりのある屋内から見学することにした。リビングの椅子に座っている真知子さんの隣に静かに車いすをつける。私は特に何も言わなかったが真知子さんは「乗ればいいの?」と言ってくれた。「うん!」と応えるとすぐ車いすに座ってくれた。いろりにつくと、ちょうど1回目の餅がつき上がってきて、鏡餅をみんなで作っているところだった。「今日、餅つきの日で鏡餅つくるの、お願い」と言うと「フフフ」と下を向いて笑ったが、少しすると餅を手にして上手に丸めてくれた。みんなの手で鏡餅があっという間に何個もできあがった。
鏡餅とは別におやつ用の餅を3臼ついた。それを各部署で作ったあんこ、大根おろし、ゴマのあんにからめて、みんなでたらふく食べた。腹一杯になったところで4回目の餅がつきあがった。もう食べられないので、さあどうしようということになった。そこでもっと大きい鏡餅を作ろうということになり、真知子さんはお餅をのせたお盆をしっかり持ってくれて「ほーずいぶん、重いごど〜」と言った。確かに重い。去年の春から育ててきた餅米なんだもの、いっぱい思いが詰まっている。こもった思いはずっしりと重く感じられる。
おやつのお餅を食べ終わった後、鏡餅にのっけていたみかんがなかった。あれ?と思い、周りをみると真知子さんがみかんを食べていた。みかん好きの真知子さん、ちゃっかりしっかり「おいしい」と満足した顔で食べていた。私は、なんか嬉しくなって、近くにいたスタッフの西川さんに「真知子さん、みかん食べてる」と伝えると、西川さんも解っていたようで真知子さんを横目で見ながら、笑顔で私とうなづきあった。みんなどこか満足げだった。
鏡餅はもち肌とはいかず、でこぼこのなんとも味のある形のものもあったが、今年の餅つきも楽しくておいしく盛り上がった。
・みかんだけ 誰が食べたか 鏡餅 おいしいわねと 知らん顔
里では毎年暮れに鏡餅用の餅つきをする。今回は2升ずつ4回ついた。グループホーム1、2とデイサービス、ワークステージ合同でやった。今回の餅つきは11月号の記事で書いたようにぜひ真知子さんと餅つきをしたかった。12月12日に98歳になった真知子さん(仮名)と田んぼに出て、春に手植えをし秋には手刈りをした、その餅米で餅をついて食べるのを私は楽しみにしていた。餅つきの日は寒くて外屋に出るのは難しいかなと思うほどだった。真知子さんは戸が少しでも開いていると「寒さむ」と背を丸くして戸を閉めに行く人だから。
そこで、餅つきの様子は、デイサービスのいろりのある屋内から見学することにした。リビングの椅子に座っている真知子さんの隣に静かに車いすをつける。私は特に何も言わなかったが真知子さんは「乗ればいいの?」と言ってくれた。「うん!」と応えるとすぐ車いすに座ってくれた。いろりにつくと、ちょうど1回目の餅がつき上がってきて、鏡餅をみんなで作っているところだった。「今日、餅つきの日で鏡餅つくるの、お願い」と言うと「フフフ」と下を向いて笑ったが、少しすると餅を手にして上手に丸めてくれた。みんなの手で鏡餅があっという間に何個もできあがった。
鏡餅とは別におやつ用の餅を3臼ついた。それを各部署で作ったあんこ、大根おろし、ゴマのあんにからめて、みんなでたらふく食べた。腹一杯になったところで4回目の餅がつきあがった。もう食べられないので、さあどうしようということになった。そこでもっと大きい鏡餅を作ろうということになり、真知子さんはお餅をのせたお盆をしっかり持ってくれて「ほーずいぶん、重いごど〜」と言った。確かに重い。去年の春から育ててきた餅米なんだもの、いっぱい思いが詰まっている。こもった思いはずっしりと重く感じられる。
おやつのお餅を食べ終わった後、鏡餅にのっけていたみかんがなかった。あれ?と思い、周りをみると真知子さんがみかんを食べていた。みかん好きの真知子さん、ちゃっかりしっかり「おいしい」と満足した顔で食べていた。私は、なんか嬉しくなって、近くにいたスタッフの西川さんに「真知子さん、みかん食べてる」と伝えると、西川さんも解っていたようで真知子さんを横目で見ながら、笑顔で私とうなづきあった。みんなどこか満足げだった。
鏡餅はもち肌とはいかず、でこぼこのなんとも味のある形のものもあったが、今年の餅つきも楽しくておいしく盛り上がった。
わら打ち作業で、心を打たれた私 ★特別養護老人ホーム 高橋菜摘【2013年1月号】
ユニットほくとの茂樹(仮名)さんは、怒って騒ぐので、何カ所かの他の施設で利用を断られて銀河の里の特養にやってきた。入居当初は激しく怒るだけでなく、外出に誘っても拒否する人だった。一昨年の春に特養の前のりんご畑の植樹に出たが「寒い」「帰る」と怒って目をつむったままだった。一年のうち外出はそれだけだった。ユニットから出ることすらほとんどなかった。それが昨年は田植え・花火・誕生日ドライブなど・・いっぱい出かけられたし、楽しんでくれた。怒らなくなって外出も楽しめるようにずいぶんと変わってきた。そこで私は、デイサービスの軒下で行われる、しめ縄作りにも誘いたかった。かなり前から誘ってみたのだが、そのたびに「いいよ」とOKだったり「行かない」と断られたりしていた。気まぐれはいつものことだが、当日の気分と、どう誘うかで決まると覚悟していた。
12月20日の当日の朝、私が誘うと「先にしごいてから打たねばねぇの」とやる気十分で答えてくれたので嬉しかった。その後熟睡して入浴も出来なかったにも関わらず、しめ縄作りの始まる直前には起きて「行く」と言う茂樹さんには驚いたが、よしと思った。それでも雪がはらはらと舞う天気で、寒がりの茂樹さんだから、外に一歩出たら怒りだして気が変わるんじゃないかと心配だった。ところが会場について車から降りると茂樹さんは「いいね」と微笑んで、わら打ちをするみんなの作業を眺めた。
里から集まった20人ほどの利用者とスタッフが、切り株の上にのせたわらを木槌で叩いていた。屋外なので会場には焚火もあった。手際よくぱっぱと作業を進めていく、じいちゃんばあちゃん達。全くやったことのない若いスタッフが教えてもらいながら、危なっかしい手つきでわらを打っている。そんな光景に私も「いいな」と感じた。
「茂樹さんも打つ?」と聞くと「いい、見てる」と言うので、私も茂樹さんの隣に座って、皆の作業を見守ることにした。そのうちデイサービスからおしるこがふるまわれたので、作業をしていなかった私と茂樹さんは一番にそれをいただく。毛布にくるまっているので手が出せない茂樹さんの口元におしるこを近づけると一口飲んで「おいしい」と、とても良い表情をしてくれた。私は少し幸せな気分になって二人でほっこりと過ごしていた。そこへしめ縄作りの担当の三浦さんが白い息を吐きながらやってきて元気いっぱいに「茂樹さん、どうですか!!」と大きな声で言った。私は穏やかな時間が突然引き裂かれた感じでビックリしたのだが、茂樹さんは力強く「最高だよ!」と返した。これには私も三浦さんも予想外で、驚いて一瞬思考が止まった。三浦さんが「どこが最高ですか」と聞くと「この音聞いてるだけで最高だよ」と茂樹さんは語ると、突然その目から涙がこぼれた。
茂樹さんはかつて大工だった。東京で大きな建築物を建てた話や、山で苦労した話をしてくれたり、ユニットを見回して「あの柱じゃだめだ」と、普請のために道具を持ってくるよう要求することもある。怒って取っ付きにくい感じなのだが、子どもや孫の事をいつも気にかけていて、スタッフが子どもや孫と重なって優しい顔をして声をかけてくれることもある。私はこの約2年間の茂樹さんとの日々が蘇り、茂樹さんの「最高だよ」に自然に「そうだね」という言葉が出た。茂樹さんにとって、みんなが集まって何か作っている作業の光景や音は本当に最高なんだろうなと感じた。茂樹さん自身が作業そのものをやらなくても、できなくても、そんなことはどうでもよくて、やはり最高だったんだろうと思う。一緒に来れてよかったと心から思った。
1時間ぐらい見学して、おしるこをおかわりして、焚火の前で暖を取っていたのだが「寒いから帰ろう」と茂樹さんが私に言った。怒りじゃない、ごく普通の言葉に私が驚く。「じゃ帰る前にお礼を言って帰ろう」と私は話しかけた。「最高だ」という言葉から、どこかお礼を言ったほうが茂樹さんにとっていいと思った。すると茂樹さんは「どうも、ありがとう!!」と大きな声で叫んだ。ちょうど近くにいた三浦さんも、その声にビックリしながら、茂樹さんの特別の言葉を受け取って喜んでくれた。
車に乗りこみ「今日よかったね」と声をかけると「よかった」と言ってくれた。「来年も行く?」とたずねると「行くよ」とハッキリと応えてくれる茂樹さん。いつもどこかに出かけて、楽しめていても、また来ようねというと「もう十分」「もういい」と言うことが多い茂樹さんなのにこの日はちがった・・。
特養に戻ると、みんなにも「良かったよ」と伝える茂樹さん。いつもの席に戻って「今日一緒に行けてうれしかったよ」と手を握ると「よかったよ」と茂樹さんも笑顔で手を握り返してくれた。毛布にずっとくるまっていた茂樹さんの手はとてもあたたかく「あったかいね」と言うと「あったかいよ〜・・・よかったよ〜〜」と言いながら私の手を繋いでブンブンと力強く上下に振る。これは初めてのことだったので驚いたが、今日の茂樹さんの気持ちなんだと感じて嬉しくなった。茂樹さんは「さぁ、あったかくして、帰りましょう!」と私を誘うので「もうここに帰ってきたんだよ。ここが帰るところ」と話すと「そう、ここに帰るんだよ」と暖房の前に行って「あぁ〜あったかいよ」と幸せそうな顔で眠りに入った。
この話を誰かに伝えたくて、事務所の中屋さんに話した。「すごいね。茂樹さん変わったね。よかったね」と言ってくれた。その言葉を聞きながら、この2年の日々と、今日という日がどれだけすごかったのかということが実感として迫ってきた。
どこにも出かけず、ユニットで腕を組んで怒ってばかりだった茂樹さん。その茂樹さんが、「最高だ」と言い、みんなにお礼の言葉まで投げかけ、柔らかな優しい表情で私を包んでくれた今日の出来事は何だったのか。何もできない困った人にされ、介護されるだけの日々では怒りも爆発しただろう。みんなでトントンと音を響かせている、わら打ち作業の光景は、自分が作業に参加しないまでも癒される何かがあったのだろう。怒りに隠れて、今までは見えなかった怒りの向こうにいる本来の茂樹さんがかなり見えるようになってきた。しめ縄作りの会場で、茂樹さんの隣にいて、今までとは全く違う茂樹さんに触れることができた。それは私にとって感動の体験だった。これからもいろんな茂樹さんと出会っていきたい。
12月20日の当日の朝、私が誘うと「先にしごいてから打たねばねぇの」とやる気十分で答えてくれたので嬉しかった。その後熟睡して入浴も出来なかったにも関わらず、しめ縄作りの始まる直前には起きて「行く」と言う茂樹さんには驚いたが、よしと思った。それでも雪がはらはらと舞う天気で、寒がりの茂樹さんだから、外に一歩出たら怒りだして気が変わるんじゃないかと心配だった。ところが会場について車から降りると茂樹さんは「いいね」と微笑んで、わら打ちをするみんなの作業を眺めた。
里から集まった20人ほどの利用者とスタッフが、切り株の上にのせたわらを木槌で叩いていた。屋外なので会場には焚火もあった。手際よくぱっぱと作業を進めていく、じいちゃんばあちゃん達。全くやったことのない若いスタッフが教えてもらいながら、危なっかしい手つきでわらを打っている。そんな光景に私も「いいな」と感じた。
「茂樹さんも打つ?」と聞くと「いい、見てる」と言うので、私も茂樹さんの隣に座って、皆の作業を見守ることにした。そのうちデイサービスからおしるこがふるまわれたので、作業をしていなかった私と茂樹さんは一番にそれをいただく。毛布にくるまっているので手が出せない茂樹さんの口元におしるこを近づけると一口飲んで「おいしい」と、とても良い表情をしてくれた。私は少し幸せな気分になって二人でほっこりと過ごしていた。そこへしめ縄作りの担当の三浦さんが白い息を吐きながらやってきて元気いっぱいに「茂樹さん、どうですか!!」と大きな声で言った。私は穏やかな時間が突然引き裂かれた感じでビックリしたのだが、茂樹さんは力強く「最高だよ!」と返した。これには私も三浦さんも予想外で、驚いて一瞬思考が止まった。三浦さんが「どこが最高ですか」と聞くと「この音聞いてるだけで最高だよ」と茂樹さんは語ると、突然その目から涙がこぼれた。
茂樹さんはかつて大工だった。東京で大きな建築物を建てた話や、山で苦労した話をしてくれたり、ユニットを見回して「あの柱じゃだめだ」と、普請のために道具を持ってくるよう要求することもある。怒って取っ付きにくい感じなのだが、子どもや孫の事をいつも気にかけていて、スタッフが子どもや孫と重なって優しい顔をして声をかけてくれることもある。私はこの約2年間の茂樹さんとの日々が蘇り、茂樹さんの「最高だよ」に自然に「そうだね」という言葉が出た。茂樹さんにとって、みんなが集まって何か作っている作業の光景や音は本当に最高なんだろうなと感じた。茂樹さん自身が作業そのものをやらなくても、できなくても、そんなことはどうでもよくて、やはり最高だったんだろうと思う。一緒に来れてよかったと心から思った。
1時間ぐらい見学して、おしるこをおかわりして、焚火の前で暖を取っていたのだが「寒いから帰ろう」と茂樹さんが私に言った。怒りじゃない、ごく普通の言葉に私が驚く。「じゃ帰る前にお礼を言って帰ろう」と私は話しかけた。「最高だ」という言葉から、どこかお礼を言ったほうが茂樹さんにとっていいと思った。すると茂樹さんは「どうも、ありがとう!!」と大きな声で叫んだ。ちょうど近くにいた三浦さんも、その声にビックリしながら、茂樹さんの特別の言葉を受け取って喜んでくれた。
車に乗りこみ「今日よかったね」と声をかけると「よかった」と言ってくれた。「来年も行く?」とたずねると「行くよ」とハッキリと応えてくれる茂樹さん。いつもどこかに出かけて、楽しめていても、また来ようねというと「もう十分」「もういい」と言うことが多い茂樹さんなのにこの日はちがった・・。
特養に戻ると、みんなにも「良かったよ」と伝える茂樹さん。いつもの席に戻って「今日一緒に行けてうれしかったよ」と手を握ると「よかったよ」と茂樹さんも笑顔で手を握り返してくれた。毛布にずっとくるまっていた茂樹さんの手はとてもあたたかく「あったかいね」と言うと「あったかいよ〜・・・よかったよ〜〜」と言いながら私の手を繋いでブンブンと力強く上下に振る。これは初めてのことだったので驚いたが、今日の茂樹さんの気持ちなんだと感じて嬉しくなった。茂樹さんは「さぁ、あったかくして、帰りましょう!」と私を誘うので「もうここに帰ってきたんだよ。ここが帰るところ」と話すと「そう、ここに帰るんだよ」と暖房の前に行って「あぁ〜あったかいよ」と幸せそうな顔で眠りに入った。
この話を誰かに伝えたくて、事務所の中屋さんに話した。「すごいね。茂樹さん変わったね。よかったね」と言ってくれた。その言葉を聞きながら、この2年の日々と、今日という日がどれだけすごかったのかということが実感として迫ってきた。
どこにも出かけず、ユニットで腕を組んで怒ってばかりだった茂樹さん。その茂樹さんが、「最高だ」と言い、みんなにお礼の言葉まで投げかけ、柔らかな優しい表情で私を包んでくれた今日の出来事は何だったのか。何もできない困った人にされ、介護されるだけの日々では怒りも爆発しただろう。みんなでトントンと音を響かせている、わら打ち作業の光景は、自分が作業に参加しないまでも癒される何かがあったのだろう。怒りに隠れて、今までは見えなかった怒りの向こうにいる本来の茂樹さんがかなり見えるようになってきた。しめ縄作りの会場で、茂樹さんの隣にいて、今までとは全く違う茂樹さんに触れることができた。それは私にとって感動の体験だった。これからもいろんな茂樹さんと出会っていきたい。
追伸 ★施設長 宮澤京子【2013年1月号】
鷲田清一先生
先生宛の手紙を、先月号の「あまのかわ通信」に書いたものの、手紙を出せず年を越してしまいました。
『老いの空白』についての私の違和感に対して、理事長から「あなたの読み方、間違ってないか?」と指摘されました。「老いは空白ではない!」と怒る私に、「老いが文化として空白であることを指摘し、その文化を模索している本じゃないか」と言うのです。私は、著者自身に「老いは空白だ」という観念があるからこんなタイトルになったのでは・・という偏見を捨てきれずにいました。そんなやりとりをしているところに角川ソフィア文庫の新刊(12月)鷲田清一著『大事なものは見えにくい』の帯に、“日常の違和感から考える「鷲田哲学」エッセイ!”との文字が目に止まりました。先生が「違和感からものを考える」ことと、私が偏見で違和感を持つのとでは、まるで違うことは重々承知のうえで、哲学と現場の「とっかかり」を模索している私のあがきと寛容に受けとめて頂きたいのですが・・・。理事長は、「空(くう)は大事で、それはカラで白ではなく「空実」で、そこから全てが生まれる空なんだ」と言います。私共の現場の実践は、その「空実」から何が生まれてくるのかを問いかけてきたつもりです。それが本当に空白を埋めることのできる意味のあるものかどうか先生に見てもらいたいと願っています。
私は「違和感」が高じて「怒り」に結びつく傾向があるので、自分でもよくよく気をつけなければと自戒しているのですが、どうしても「怒り」に結びついて、悶々とする日が続いていました。
そんなおり、正月にNHK主催の第39回「日本賞」のグランプリに輝いたスペインのアニメ映画『皺 しわ』(パコ・ロカ作)を家族で見ました。老人ホームで暮らすことになった認知症のエミリオと天涯孤独のミゲルの二人の老人の「友情」を描いた作品でした。ややもすると介護や深刻な認知症が問題として取り上げられやすい中で、老人ホームで暮らす高齢者側の内面が描かれたこの作品は、アニメということもあり、心情的にすんなり入ってきました。いろんな場面でじわっと心が温かくなり、見終わると人との繋がりに「希望」を託せるような気持ちが湧いてきます。
この作品の老人ホームの2階フロアーは、「重度の認知症」の方や寝たきりの方が生活しているという設定になっています。時々叫び声が聞こえ、1階に住む老人達には「あそこに移されたらおしまい」という認識があります。二人の関係が同室者から友情を持つ関係になると、ミゲルは認知症検査の日に、エミリオが2階に移されないように、あの手この手と小細工をします。やがて「帰りたい」と興奮するエミリオと二人で「ホーム脱出」の大冒険を実行します。ミゲルは老人ホームの入居者から巧みな話術で巻き上げてきた隠し貯金を使いきって、「自由」を求め、認知症のエミリオの運転で出発するのです。この脱出劇の結末は語らないとして、私は二人の純粋な情熱に感動し、その大胆な行動に少年の輝く目を見るような気がしました。老人ホームで出会った同室者にすぎない二人が、友情を育てていく過程が感動的です。認知症の深まるエミリオが、失意からプールに飛び込んだと勘違いしたミゲルは、服を着たまま一緒に泳ぐという出来事から彼らの「友情」が始まります。そして命と全財産を賭けた脱出大作戦を体験することで、その友情が「絆」に育っていきます。しかしその大事件以来、1階フロアーには二人の姿はありませんでした。
このアニメには、認知症の高齢者が繰り広げる豊かな世界を描いたエピソードがちりばめられており、そこには「問題行動」や「妄想」として見る冷たい客観的な視点ではなく、作者パコ・ルカの人間を見つめる暖かさと、厳しく透徹したまなざしを感じさせられます。
この二人の友情はアニメ映画という芸術作品として提示されて、私たちに伝わるのですが、こうした一般に見え難い世界のことは、現実では誰にも知られることなく、本人さえ意識することなく、消し去られてしまいます。見えないものは、違った視点を意識的に持って見るように努力しなければ永遠に見えないものなのでしょう。この作品でも二人は認知症が進んで「徘徊をする困った老人」として扱われ、2階フロアーに移されます。問題として捉え、それを処置してしまうことで、多くの認知症老人が消されている現状が多々あります。二人に芽生えた友情のような、人と人の繋がりや関係性に視点が当てられることは少ないのです。
これはアニメの話であって、実際には認知症の人の友情なんかあり得ないと考える人が大半だと思います。でも実際にはそうした深い関係は数多く起こっていると思います。ただ、それは見えないものが見えてこないと気がつきません。アニメの作者の芸術家としての目は、それを逃さなかったし、芸術はそこにこそ価値を見いだします。そうした視点や価値観が、日本の介護や福祉を含めた、老人を巡る世界にほんのかけらでもあるでしょうか。それこそ空白です。
正月にこのアニメを見ながら、昨年グループホーム協会に「重度生活支援」の事例として提出したケースが重なりました。まさにそこにも友情があるのです。少し長くなりますがそのケースを紹介します。
事例1:Aさん74歳 男性
Aさんは60代で認知症になり、銀河の里のデイサービスを利用していたが、他のグループホームに入居が決まった。ところが入居後3ヶ月のうちに、離ホームが繰り返されたのと、モノ集めや多飲水、異食、奇声などの周辺症状が激しくなって、精神病院に入院となる。デイサービスでの関わりから、当方のスタッフが病院にお見舞いに行くと、すっかりやつれて、薬も入ったせいで廃人のような状態だった。変わり果てたAさんを「何とか蘇らせたい」との思いで受け入れを申し入れた。主治医は「グループホーム対応は無理」との判断だったが、奥さんの「もう一度人間らしい生活を」との強い願いが後押しとなり、Aさんは銀河の里にやってきた。入居して数ヶ月で精神薬の服用を止め、本来のAさんが戻ってきた。それから10年を経るが、いろいろな経過を辿りながらもAさんは今もグループホームで元気に過ごしている。
4年前からAさんは言葉を発しなくなり、その代わりに、うなり声で気持ちを表現するようになった。スタッフはAさんのうなり声から、体調の変化や様々な要望や微妙な気持を読み取りながらのコミュニケーションを軸に過ごしている。
事例2:Bさん81歳 女性
Bさんは、他のグループホームに入居し4年間過ごすが、介護抵抗が激しいとの理由で、精神病院に保護入院となった。退院後も介護拒否は変わらず異食、不潔行為が激しくなり、退去を迫られグループホーム銀河の里に移ってきた。
入居当初は、異食が激しく、ほぼ毎日、自らの便を口にした。身体に触れられることに怯え、入浴・着替え・食事等介護全般に抵抗し暴力的な行為も見られた。閉じこもって、部屋から出てこず、食事も3食とも部屋で摂った。
入居当日、顔面外傷の痕が生々しく、紫色の内出血が顔半分に広がっていた。顔を伏せ怯えるようにうずくまり、髪の毛は伸び放題で、洗髪もしていなかった。ご家族に「何か心配なことは?」と聞くと、「ただただ、便のことです。壁に塗りたくるのが一番困っている」と不安そうで、本人の凄まじい形相と家族の憔悴した表情が痛々しかった。
うずくまったまま顔を上げなかったBさんは入居して1週間で段々顔が上がっていく。発語はほとんどなく、たまに「ダメなんでしょ?」の言葉が聞かれた。
入居半年で精神薬を止める。異食はかなり減り精神的にも安定してきた。入居1年目には異食はほとんどなくなり、言葉で主張をするようになり、ほぼリビングで過ごし、外出・外食にも参加し、楽しめるようになった。
介護への抵抗は時々あるものの協力的になる。リビングで過ごせるようになったばかりか、他の居室にも入るなど行動範囲も広がる。閉じこもりから逆に、利用者間のトラブルが気にかかるくらいになった。現在3年目だが、リビングのソファに陣取り、守り神のような存在のBさんにスタッフは癒されるという。
当初、Bさんには、怯えや不安、不信が渦巻いており、それが拒否や暴力に繋がっているように感じた。しばらく会話は通じずコミュニケーションが難しい状態が続いた。
入居当初の3ヶ月は、ほぼ毎日便を食べた。まるで自己完結するかのように口にする。その処置をしようとすると激しい抵抗にあう。スタッフは予防や処置に躍起になって対立的になるより、異食後の対応がBさんと関れるチャンスと捉え、スタッフがそれぞれの工夫で関わりを始めた。ガムやチョコレートと物々交換が成立して、緊張が緩んだところで、お茶で口をすすいでもらうなどいろいろ挑戦した。失敗すると指をかまれたり、頭やみぞおちにパンチが飛んできたり、脛に蹴りを入れられたりと悪戦苦闘だった。そのうち「のどを見せて下さい」とか「歯医者さんです」で、口を開けてくれるようになった。やがて自分から、便をコップやお皿に載せたりして渡してくれるようになった。ついには「お願いね、きれいにしてね」と言葉が出るようになり、スタッフとの関係ができるにしたがって異食は消えていった。
不思議なことにBさんは事例1の男性利用者Aさんと近しい感じになった。言葉でのやりとりはないが、いつも一緒に並んで過ごすようになった。Aさんも他のグループホームから精神病院に送られ、銀河の里に入居になった経緯がある。Aさんとの関係でBさんの居場所ができ、お互いの部屋の行き来をしたり、リビングのソファで一緒に並んで座る姿がお決まりの風景になった。
憤り:まちがった対応が、周辺症状を悪化させた典型!
この二つのケースは、認知症に理解のない施設のまずい対応に、周辺症状が極限まで悪化し、悲惨な状況に陥りながらも、グループホームの場で豊かな関係性を取り戻していった例です。もともと社交的ではないBさんにとって、グループホームで集団生活を余儀なくされたことはかなりのストレスだったと思われます。そのBさんに、集団生活の大義名分による管理、命令、指示は、傷つき体験となったように感じます。現在、精神薬を全く必要としないAさんBさんを思うと、介護現場の対応のまずさでこうした悲劇が繰り返されることに無念を感じます。
むしろ異食はBさんにとっても、スタッフにとっても救いだったのです。異食はBさんとスタッフを繋ぐ、唯一の通路でした。現実、排便を食べるというのは強烈な迫力があります。ただどうやっても避けられないので、あとはそれを渡してもらってきれいにするしかありません。この勝負が毎日Bさんとの間に繰り広げられました。手を合わせ拝み倒して渡してもらったり、物々交換で成功する人など、毎回真剣勝負です。異食は1年2ヶ月に及びましたが、その間、Bさんの周囲との関係性は劇的に変わっていきました。本来のBさんが戻ってきただけではなく、Bさんらしさが先鋭化されているように感じます。その人らしさの先鋭化は老化の特徴なのに、介護側の不安から圧力を加えて周辺症状を悪化させるのです。人間は自分の個性の先鋭化を必要とするのかもしれません。ヒルマンは『老いることでわかる性格の力』で「高齢期は性格が輝くためにある」と指摘しています。Bさんは先鋭化を成し遂げ、ストレートなセリフでスタッフを鍛え、グループホームの暮らしを盛り上げてくれています。上っ面な理念や目標を謳い、マニュアルで「一丁上がりの介護」をしていては、全く見えてこない世界がそこには隠されています。
発見:深い次元での出会い
一方、Bさんが自分らしさを取り戻す過程で、事例1のAさんの存在は重要でした。Aさんも他のグループホームで病院に送られ、二人は同じようなひどい経験をしています。二人の「親和性」がなぜ生まれたのかは知るよしもないのですが、二人はお互いの部屋を行き来したり、ソファに並んで座って過ごすペアになっていきました。そこには、私たちが考える「うまがあう」とか「友情」とはまた違う、人間存在を傷つけられたもの同士が、深い次元で「出会っている」と感じさせられます。Aさんとの関係がなければ、Bさんの心はもっと長く閉ざされ続けたかもしれません・・・。Bさんの心を開くために、言葉を発しないAさんの存在は必要だったのです。
お二人とも言語的なコミュニケーションは難しいので、告発や真意を直接聞くことはできませんが、それはひとつの優しさのようにさえ感じます。先生の言われる『大事なものは見えにくい』に繫がる秘儀なのかもしれません。
私の憤りは、「怒り」を超えて「凄いこと」の発見でしか癒されないようです。どうか、先生の卓見で、この発見とその意味を深めていただきたいと願っています。
長い追伸になりましたがよろしくお願いします。
先生宛の手紙を、先月号の「あまのかわ通信」に書いたものの、手紙を出せず年を越してしまいました。
『老いの空白』についての私の違和感に対して、理事長から「あなたの読み方、間違ってないか?」と指摘されました。「老いは空白ではない!」と怒る私に、「老いが文化として空白であることを指摘し、その文化を模索している本じゃないか」と言うのです。私は、著者自身に「老いは空白だ」という観念があるからこんなタイトルになったのでは・・という偏見を捨てきれずにいました。そんなやりとりをしているところに角川ソフィア文庫の新刊(12月)鷲田清一著『大事なものは見えにくい』の帯に、“日常の違和感から考える「鷲田哲学」エッセイ!”との文字が目に止まりました。先生が「違和感からものを考える」ことと、私が偏見で違和感を持つのとでは、まるで違うことは重々承知のうえで、哲学と現場の「とっかかり」を模索している私のあがきと寛容に受けとめて頂きたいのですが・・・。理事長は、「空(くう)は大事で、それはカラで白ではなく「空実」で、そこから全てが生まれる空なんだ」と言います。私共の現場の実践は、その「空実」から何が生まれてくるのかを問いかけてきたつもりです。それが本当に空白を埋めることのできる意味のあるものかどうか先生に見てもらいたいと願っています。
私は「違和感」が高じて「怒り」に結びつく傾向があるので、自分でもよくよく気をつけなければと自戒しているのですが、どうしても「怒り」に結びついて、悶々とする日が続いていました。
そんなおり、正月にNHK主催の第39回「日本賞」のグランプリに輝いたスペインのアニメ映画『皺 しわ』(パコ・ロカ作)を家族で見ました。老人ホームで暮らすことになった認知症のエミリオと天涯孤独のミゲルの二人の老人の「友情」を描いた作品でした。ややもすると介護や深刻な認知症が問題として取り上げられやすい中で、老人ホームで暮らす高齢者側の内面が描かれたこの作品は、アニメということもあり、心情的にすんなり入ってきました。いろんな場面でじわっと心が温かくなり、見終わると人との繋がりに「希望」を託せるような気持ちが湧いてきます。
この作品の老人ホームの2階フロアーは、「重度の認知症」の方や寝たきりの方が生活しているという設定になっています。時々叫び声が聞こえ、1階に住む老人達には「あそこに移されたらおしまい」という認識があります。二人の関係が同室者から友情を持つ関係になると、ミゲルは認知症検査の日に、エミリオが2階に移されないように、あの手この手と小細工をします。やがて「帰りたい」と興奮するエミリオと二人で「ホーム脱出」の大冒険を実行します。ミゲルは老人ホームの入居者から巧みな話術で巻き上げてきた隠し貯金を使いきって、「自由」を求め、認知症のエミリオの運転で出発するのです。この脱出劇の結末は語らないとして、私は二人の純粋な情熱に感動し、その大胆な行動に少年の輝く目を見るような気がしました。老人ホームで出会った同室者にすぎない二人が、友情を育てていく過程が感動的です。認知症の深まるエミリオが、失意からプールに飛び込んだと勘違いしたミゲルは、服を着たまま一緒に泳ぐという出来事から彼らの「友情」が始まります。そして命と全財産を賭けた脱出大作戦を体験することで、その友情が「絆」に育っていきます。しかしその大事件以来、1階フロアーには二人の姿はありませんでした。
このアニメには、認知症の高齢者が繰り広げる豊かな世界を描いたエピソードがちりばめられており、そこには「問題行動」や「妄想」として見る冷たい客観的な視点ではなく、作者パコ・ルカの人間を見つめる暖かさと、厳しく透徹したまなざしを感じさせられます。
この二人の友情はアニメ映画という芸術作品として提示されて、私たちに伝わるのですが、こうした一般に見え難い世界のことは、現実では誰にも知られることなく、本人さえ意識することなく、消し去られてしまいます。見えないものは、違った視点を意識的に持って見るように努力しなければ永遠に見えないものなのでしょう。この作品でも二人は認知症が進んで「徘徊をする困った老人」として扱われ、2階フロアーに移されます。問題として捉え、それを処置してしまうことで、多くの認知症老人が消されている現状が多々あります。二人に芽生えた友情のような、人と人の繋がりや関係性に視点が当てられることは少ないのです。
これはアニメの話であって、実際には認知症の人の友情なんかあり得ないと考える人が大半だと思います。でも実際にはそうした深い関係は数多く起こっていると思います。ただ、それは見えないものが見えてこないと気がつきません。アニメの作者の芸術家としての目は、それを逃さなかったし、芸術はそこにこそ価値を見いだします。そうした視点や価値観が、日本の介護や福祉を含めた、老人を巡る世界にほんのかけらでもあるでしょうか。それこそ空白です。
正月にこのアニメを見ながら、昨年グループホーム協会に「重度生活支援」の事例として提出したケースが重なりました。まさにそこにも友情があるのです。少し長くなりますがそのケースを紹介します。
事例1:Aさん74歳 男性
Aさんは60代で認知症になり、銀河の里のデイサービスを利用していたが、他のグループホームに入居が決まった。ところが入居後3ヶ月のうちに、離ホームが繰り返されたのと、モノ集めや多飲水、異食、奇声などの周辺症状が激しくなって、精神病院に入院となる。デイサービスでの関わりから、当方のスタッフが病院にお見舞いに行くと、すっかりやつれて、薬も入ったせいで廃人のような状態だった。変わり果てたAさんを「何とか蘇らせたい」との思いで受け入れを申し入れた。主治医は「グループホーム対応は無理」との判断だったが、奥さんの「もう一度人間らしい生活を」との強い願いが後押しとなり、Aさんは銀河の里にやってきた。入居して数ヶ月で精神薬の服用を止め、本来のAさんが戻ってきた。それから10年を経るが、いろいろな経過を辿りながらもAさんは今もグループホームで元気に過ごしている。
4年前からAさんは言葉を発しなくなり、その代わりに、うなり声で気持ちを表現するようになった。スタッフはAさんのうなり声から、体調の変化や様々な要望や微妙な気持を読み取りながらのコミュニケーションを軸に過ごしている。
事例2:Bさん81歳 女性
Bさんは、他のグループホームに入居し4年間過ごすが、介護抵抗が激しいとの理由で、精神病院に保護入院となった。退院後も介護拒否は変わらず異食、不潔行為が激しくなり、退去を迫られグループホーム銀河の里に移ってきた。
入居当初は、異食が激しく、ほぼ毎日、自らの便を口にした。身体に触れられることに怯え、入浴・着替え・食事等介護全般に抵抗し暴力的な行為も見られた。閉じこもって、部屋から出てこず、食事も3食とも部屋で摂った。
入居当日、顔面外傷の痕が生々しく、紫色の内出血が顔半分に広がっていた。顔を伏せ怯えるようにうずくまり、髪の毛は伸び放題で、洗髪もしていなかった。ご家族に「何か心配なことは?」と聞くと、「ただただ、便のことです。壁に塗りたくるのが一番困っている」と不安そうで、本人の凄まじい形相と家族の憔悴した表情が痛々しかった。
うずくまったまま顔を上げなかったBさんは入居して1週間で段々顔が上がっていく。発語はほとんどなく、たまに「ダメなんでしょ?」の言葉が聞かれた。
入居半年で精神薬を止める。異食はかなり減り精神的にも安定してきた。入居1年目には異食はほとんどなくなり、言葉で主張をするようになり、ほぼリビングで過ごし、外出・外食にも参加し、楽しめるようになった。
介護への抵抗は時々あるものの協力的になる。リビングで過ごせるようになったばかりか、他の居室にも入るなど行動範囲も広がる。閉じこもりから逆に、利用者間のトラブルが気にかかるくらいになった。現在3年目だが、リビングのソファに陣取り、守り神のような存在のBさんにスタッフは癒されるという。
当初、Bさんには、怯えや不安、不信が渦巻いており、それが拒否や暴力に繋がっているように感じた。しばらく会話は通じずコミュニケーションが難しい状態が続いた。
入居当初の3ヶ月は、ほぼ毎日便を食べた。まるで自己完結するかのように口にする。その処置をしようとすると激しい抵抗にあう。スタッフは予防や処置に躍起になって対立的になるより、異食後の対応がBさんと関れるチャンスと捉え、スタッフがそれぞれの工夫で関わりを始めた。ガムやチョコレートと物々交換が成立して、緊張が緩んだところで、お茶で口をすすいでもらうなどいろいろ挑戦した。失敗すると指をかまれたり、頭やみぞおちにパンチが飛んできたり、脛に蹴りを入れられたりと悪戦苦闘だった。そのうち「のどを見せて下さい」とか「歯医者さんです」で、口を開けてくれるようになった。やがて自分から、便をコップやお皿に載せたりして渡してくれるようになった。ついには「お願いね、きれいにしてね」と言葉が出るようになり、スタッフとの関係ができるにしたがって異食は消えていった。
不思議なことにBさんは事例1の男性利用者Aさんと近しい感じになった。言葉でのやりとりはないが、いつも一緒に並んで過ごすようになった。Aさんも他のグループホームから精神病院に送られ、銀河の里に入居になった経緯がある。Aさんとの関係でBさんの居場所ができ、お互いの部屋の行き来をしたり、リビングのソファで一緒に並んで座る姿がお決まりの風景になった。
憤り:まちがった対応が、周辺症状を悪化させた典型!
この二つのケースは、認知症に理解のない施設のまずい対応に、周辺症状が極限まで悪化し、悲惨な状況に陥りながらも、グループホームの場で豊かな関係性を取り戻していった例です。もともと社交的ではないBさんにとって、グループホームで集団生活を余儀なくされたことはかなりのストレスだったと思われます。そのBさんに、集団生活の大義名分による管理、命令、指示は、傷つき体験となったように感じます。現在、精神薬を全く必要としないAさんBさんを思うと、介護現場の対応のまずさでこうした悲劇が繰り返されることに無念を感じます。
むしろ異食はBさんにとっても、スタッフにとっても救いだったのです。異食はBさんとスタッフを繋ぐ、唯一の通路でした。現実、排便を食べるというのは強烈な迫力があります。ただどうやっても避けられないので、あとはそれを渡してもらってきれいにするしかありません。この勝負が毎日Bさんとの間に繰り広げられました。手を合わせ拝み倒して渡してもらったり、物々交換で成功する人など、毎回真剣勝負です。異食は1年2ヶ月に及びましたが、その間、Bさんの周囲との関係性は劇的に変わっていきました。本来のBさんが戻ってきただけではなく、Bさんらしさが先鋭化されているように感じます。その人らしさの先鋭化は老化の特徴なのに、介護側の不安から圧力を加えて周辺症状を悪化させるのです。人間は自分の個性の先鋭化を必要とするのかもしれません。ヒルマンは『老いることでわかる性格の力』で「高齢期は性格が輝くためにある」と指摘しています。Bさんは先鋭化を成し遂げ、ストレートなセリフでスタッフを鍛え、グループホームの暮らしを盛り上げてくれています。上っ面な理念や目標を謳い、マニュアルで「一丁上がりの介護」をしていては、全く見えてこない世界がそこには隠されています。
発見:深い次元での出会い
一方、Bさんが自分らしさを取り戻す過程で、事例1のAさんの存在は重要でした。Aさんも他のグループホームで病院に送られ、二人は同じようなひどい経験をしています。二人の「親和性」がなぜ生まれたのかは知るよしもないのですが、二人はお互いの部屋を行き来したり、ソファに並んで座って過ごすペアになっていきました。そこには、私たちが考える「うまがあう」とか「友情」とはまた違う、人間存在を傷つけられたもの同士が、深い次元で「出会っている」と感じさせられます。Aさんとの関係がなければ、Bさんの心はもっと長く閉ざされ続けたかもしれません・・・。Bさんの心を開くために、言葉を発しないAさんの存在は必要だったのです。
お二人とも言語的なコミュニケーションは難しいので、告発や真意を直接聞くことはできませんが、それはひとつの優しさのようにさえ感じます。先生の言われる『大事なものは見えにくい』に繫がる秘儀なのかもしれません。
私の憤りは、「怒り」を超えて「凄いこと」の発見でしか癒されないようです。どうか、先生の卓見で、この発見とその意味を深めていただきたいと願っています。
長い追伸になりましたがよろしくお願いします。
ケアマネ日記 ★ケアマネージャー 板垣由紀子【2013年1月号】
暮れに車をぶつけてダメにしてしまった。幸い怪我はたいしたことはなかったのだが、通勤の足を失い、しかも先立つものがない・・・・。すっかりめいった。理事長に相談するととりあえず里の車を使えるようにしてくれて「10年乗った車だったから買い換え時だと思って車を探せばいい。買い物を楽しめば」と言われて気持が切り替わった。「お金は???何とかなるか」そう思えた。そこで子供達も誘って早速車種選びを始めた。いろんな車に乗ってみる機会なんて滅多にないとお店に出かけた。子供達とも結構楽しめて、乗りたい車も決まった。新年の初売りだと値引きできるというので、正月を待った。事故の後処理で追われながら、仕事も年末で忙しかったが、どこかゆとりを取り戻せて仕事ができる自分がいた。
ところが、年が明け初売りでディーラーに出かけたら、話が違ってこれができない、あれもダメというので、一気にワクワク気分が吹き飛んでしまった。営業マンにとってはその通りだったのだろうが、こちらはだまされた感じで、当初の思惑よりも高い値段で契約する羽目になってしまった。家に帰って支払いの計算をやり直し「仕方ない」かと思って寝た。ところが翌日出勤してからなんだかモヤモヤして仕方がない。新車が来るのを楽しめないし、メンテナンスでその店に行くことさえ嫌になる感じだった。後で思い起こすと、ディーラーの体質が厳しいのではないかと感じる所があった。担当の営業マンは新人で慣れておらず、戸惑いもあっただろう。ただその担当が対応に困ったとき、誰もサポートしない感じがあった。一対一で嫌な空気のなかに置かれ、いたたまれない気分になった。営業の世界ではお互い孤立しているのだろうか。担当から見れば数売るうちの1台に過ぎないのかもしれないが、こちらにとっては、ライフプランと重なって、大きな買い物だしメンテナンスでのおつきあいも続くのだから、人との信頼が欲しい。少しくらいなら高くてもかまわないから他で買うという気持ちにまでなってキャンセルの電話を入れたら、留守電で3日間休業だった。3日後、店長に電話を入れると、店長の対応は真摯で「お客様の声を店舗で伝え今後の勉強にさせてもらいます」とのことだった。新人のスタッフにはがんばって欲しいと伝えると、「そういってもらってありがたい」と言ってくれて、モヤモヤが消えた。
私のデスクは、銀河の里のデイサービスの傍らにある。そのことは一人職種ながら孤立しない大きな理由かもしれない。ある日、私が訪問に出かけようとすると、デイホールでは恒例のおやつ作りの最中だった。テーブルにカセットコンロが置かれ、リンゴを煮ていた。スタッフは他の準備に追われているようだった。そのスタッフを尻目に、今にも煮立った鍋に手を突っ込んでリンゴを食べてしまいそうなチサトさん(仮名)がいた。準備に必死のスタッフと、そんな事情にはお構いなしでリンゴを狙うチサトさん。このスリリングな場面に遭遇してしまったので、私は思わず遊び心が湧いて「チサトさ〜ん」と声をかけた。すると「こいづ何や?」と返ってきた。「3時のおやつだよ」(残念見つかっちゃたね)という思いで、お預けの声をかけると、チ)「何??名物?なんぼや」ときた。チサトさんは見事な聞き違いで話が展開していく。「ただだよ」と私は応える。すると「ただの名物だってがぁ〜」と来る。「う〜ん、これから名物になる??かもよ」とこっちも調子に乗る。「んだってがぁ〜俺食っていいのが?」とやってるとスタッフが戻ってきて「うん、美味しかったら近所でみんなに話してね」と会話にのっかってきてくれる。「んで、一ついただく」とチサトさん、「一つでも二つでも好きなくらいどうぞ」とほっこりとした気持ちに場が和む。その暖かさに送りだされ訪問へと向かった。
このエピソードを思い出しながらいろいろ考えた。一対一の緊迫感…事故と私・車の営業マンと私・スタッフとチサトさん。一対一で重い空気になったとしても、そこへ誰か第三者がはいることで救われることがある。そこにはシステムやマニュアルでは語れない何かがある。それは、人の心に関わることだろう。だから、遊びの発想や、常識に囚われない柔軟な心が、人と人との関係性の中で大事になってくる。手段だけで物事を考えない柔軟さと幅の広さが大切になってくるのではないだろうか。
同業者から「一人ケアマネって大変でしょ」と言われることがある。私の場合は一人でケースを抱えて困ったということは一度もない。どの部門も積極的に相談に乗ってくれるし、毎月の居宅会議も施設長とデイサービスの主任、特養の副施設長が参加してくれる。会議だけでなく日々のやりとりで、かなり状況を理解してもらえている。ケースの話をいつも外さずに聞いてもらえるのは、銀河の里では部門を超えて、ケースに対して共通の理解があるからだ。サービス提供のみに終始するのではなく、その人の置かれた環境と暮らし全体をどう考えていくかが根底にある。サービス提供はそのほんの一部にすぎない。わざわざつまらない仕事にするのは愚かだ。繋がったり支えられたりしながら、クリエイティブでワクワク感がないと仕事はつまらなくなると思う。世間ではどうやらそうではないことが多いようだ。
ところが、年が明け初売りでディーラーに出かけたら、話が違ってこれができない、あれもダメというので、一気にワクワク気分が吹き飛んでしまった。営業マンにとってはその通りだったのだろうが、こちらはだまされた感じで、当初の思惑よりも高い値段で契約する羽目になってしまった。家に帰って支払いの計算をやり直し「仕方ない」かと思って寝た。ところが翌日出勤してからなんだかモヤモヤして仕方がない。新車が来るのを楽しめないし、メンテナンスでその店に行くことさえ嫌になる感じだった。後で思い起こすと、ディーラーの体質が厳しいのではないかと感じる所があった。担当の営業マンは新人で慣れておらず、戸惑いもあっただろう。ただその担当が対応に困ったとき、誰もサポートしない感じがあった。一対一で嫌な空気のなかに置かれ、いたたまれない気分になった。営業の世界ではお互い孤立しているのだろうか。担当から見れば数売るうちの1台に過ぎないのかもしれないが、こちらにとっては、ライフプランと重なって、大きな買い物だしメンテナンスでのおつきあいも続くのだから、人との信頼が欲しい。少しくらいなら高くてもかまわないから他で買うという気持ちにまでなってキャンセルの電話を入れたら、留守電で3日間休業だった。3日後、店長に電話を入れると、店長の対応は真摯で「お客様の声を店舗で伝え今後の勉強にさせてもらいます」とのことだった。新人のスタッフにはがんばって欲しいと伝えると、「そういってもらってありがたい」と言ってくれて、モヤモヤが消えた。
私のデスクは、銀河の里のデイサービスの傍らにある。そのことは一人職種ながら孤立しない大きな理由かもしれない。ある日、私が訪問に出かけようとすると、デイホールでは恒例のおやつ作りの最中だった。テーブルにカセットコンロが置かれ、リンゴを煮ていた。スタッフは他の準備に追われているようだった。そのスタッフを尻目に、今にも煮立った鍋に手を突っ込んでリンゴを食べてしまいそうなチサトさん(仮名)がいた。準備に必死のスタッフと、そんな事情にはお構いなしでリンゴを狙うチサトさん。このスリリングな場面に遭遇してしまったので、私は思わず遊び心が湧いて「チサトさ〜ん」と声をかけた。すると「こいづ何や?」と返ってきた。「3時のおやつだよ」(残念見つかっちゃたね)という思いで、お預けの声をかけると、チ)「何??名物?なんぼや」ときた。チサトさんは見事な聞き違いで話が展開していく。「ただだよ」と私は応える。すると「ただの名物だってがぁ〜」と来る。「う〜ん、これから名物になる??かもよ」とこっちも調子に乗る。「んだってがぁ〜俺食っていいのが?」とやってるとスタッフが戻ってきて「うん、美味しかったら近所でみんなに話してね」と会話にのっかってきてくれる。「んで、一ついただく」とチサトさん、「一つでも二つでも好きなくらいどうぞ」とほっこりとした気持ちに場が和む。その暖かさに送りだされ訪問へと向かった。
このエピソードを思い出しながらいろいろ考えた。一対一の緊迫感…事故と私・車の営業マンと私・スタッフとチサトさん。一対一で重い空気になったとしても、そこへ誰か第三者がはいることで救われることがある。そこにはシステムやマニュアルでは語れない何かがある。それは、人の心に関わることだろう。だから、遊びの発想や、常識に囚われない柔軟な心が、人と人との関係性の中で大事になってくる。手段だけで物事を考えない柔軟さと幅の広さが大切になってくるのではないだろうか。
同業者から「一人ケアマネって大変でしょ」と言われることがある。私の場合は一人でケースを抱えて困ったということは一度もない。どの部門も積極的に相談に乗ってくれるし、毎月の居宅会議も施設長とデイサービスの主任、特養の副施設長が参加してくれる。会議だけでなく日々のやりとりで、かなり状況を理解してもらえている。ケースの話をいつも外さずに聞いてもらえるのは、銀河の里では部門を超えて、ケースに対して共通の理解があるからだ。サービス提供のみに終始するのではなく、その人の置かれた環境と暮らし全体をどう考えていくかが根底にある。サービス提供はそのほんの一部にすぎない。わざわざつまらない仕事にするのは愚かだ。繋がったり支えられたりしながら、クリエイティブでワクワク感がないと仕事はつまらなくなると思う。世間ではどうやらそうではないことが多いようだ。
守り神を守る ★特別養護老人ホーム 田村成美【2013年1月号】
特養のユニットことのミエさん(仮名)は、食べることが大好きで、ユーモアのセンスがあり、時々鋭いドキッとする言葉をくれる。ことの守り神のような存在で、この通信にも度々登場している。ミエさんは「帰りたい」と気持ちが動く日がある。そんな日の最後にはいつも重い言葉をくれる。ミエさんは話さなくても解ってしまうようで、なんでもお見通しかと思うことがある。自分が悩んでいること、克服しなければいけない課題…そんなことを特に敏感に察知する。こちらの心を見通しているかのように、励ます応援の言葉をかけてくれたり、時には強く叱咤激励のハッパをかけられたりする(今まで私も何度も気合いを入れてもらっている。通信先月号の山岡さん記事参照)。
私がユニットことに異動してきた当初、利用者さん一人ひとりが個性的で興味深いのだが、スタッフ間でうまく気持ちの共有ができず、一緒に感動したりすることができず苦しかった。私はいっぱいいっぱいになると自分を閉ざしてしまう傾向がある。そうなると誰とも繋がることができず、言いたいことも言えず、もどかしさと不安に駆られていった。そんなつらい時期をミエさんに支えられた。チームができていないと、ユニットの雰囲気も悪くなる。そうなると転倒や事故が増える。ミエさんも居室で何度か転ぶことがあった。転倒の度にどうしたら守れるのか話し合い、見守れる位置にスタッフが意識して座ったり、布団に鈴をつけて動きを察知できるようにして様々な対策をしたのだが…それでもミエさんの転倒は繰り返された。私は焦って、なんとかしようとムキになっていた。そんなときミエさんは言葉をくれた。「あのね、あんたいつも一人で一生懸命働いてていいども、みんな一緒に働かねばわがんねんだよ。あなた何か始めるんでしょ?あるような感じのタイプだもん。何かあったら先生でもいいし、心の許せる友達でもいいから話すんだよ」ミエさんの言葉は色んな意味にとれる。ハッとさせられた。私は『一人』ではないし『一人』じゃできないとミエさんが言ってくれたと捉えた。
そのうち3月の末ころにはチームも雰囲気も変わって、幾分良くなってきた。新年度になって新人の川戸道さんに「ミエさんは転ぶ事があるから、トイレに行く時、起床、就寝時も注意してね。車いすのブレーキも忘れないように」と伝えた。素直で真面目な川戸道さんは、ミエさんが動く度に居室に行った。ある日ミエさんは「あんたたち、なしてそったにいつも早く来るの?」と言った。この言葉をケース記録で読んで私はハッとした。その言葉は私への言葉だった。私は『見守り』ではなく『見張り』をさせてしまったのではないか…。やがてチームが少しづつできてくると『守り』が自然と意識できるようになってきた。いちいち意識して神経質になって右往左往しなくても大丈夫な環境ができつつある。「見張るのと守るのはまるで違うんだよ」とミエさんにまた教えてもらった。
春に新人の川戸道さんが加わってから、ミエさんは私たちを見守り続けてくれる。育てる人が一人増えたという感じで張り切っている感じだった。二人の『赤ちゃん』をイメージで語ってくれたこともあった。なかなか育たない私に投げやりになったのか「育てるの途中でやめてもいいんでしょう?…長くかかることだからね〜」と脅されたこともあった。
先月のある日、ミエさんの「帰りたい」想いが高まった日があった。いつものように帰りたい気持ちは自分の中に収めたようで、床についた。しばらくして私が他の利用者のパット交換をしているとき、ミエさんの後ろ姿が目に入った。見ていると、フラ〜ッと傾きかけるミエさん。「危ない!!」と全力ダッシュした。間一髪、何とかミエさんの体を後ろから支えたのだが、不安定な姿勢とミエさんのふくよかな体の重さにたじたじで、私も倒れそうになる。「わあ〜」と叫ぶ。そのとき近くにいた川戸道さんが走ってきて、前から支えてくれて助かった。無事に椅子に座ったミエさんは「あぁ〜〜〜いがった〜!二人いなかったら私どうなってたかわからながった〜!」とお礼を言ってくれた。私は「やっと守れた…!」と思った。何度も防げなかったミエさんの転倒を今回は守れた。しかも一人じゃなく二人で。私が後ろから支え、川戸道さんが前から支えたこの位置関係にも私は納得してグッときた。今までの転倒の苦難がここでようやく実を結んだと感じた。ミエさんは自分の体を張って、私たちに教えてくれたんだと思った。
「まずあなた大きくなって、船になってみんなをまとめなさい。必ずできるから。ここから見てるども、できるよ」
去年ミエさんからもらった言葉。私もこの仕事を始めてまもなく3年目に入る。
そろそろおっきな船に育っていきたい。頑張るぞ!!
私がユニットことに異動してきた当初、利用者さん一人ひとりが個性的で興味深いのだが、スタッフ間でうまく気持ちの共有ができず、一緒に感動したりすることができず苦しかった。私はいっぱいいっぱいになると自分を閉ざしてしまう傾向がある。そうなると誰とも繋がることができず、言いたいことも言えず、もどかしさと不安に駆られていった。そんなつらい時期をミエさんに支えられた。チームができていないと、ユニットの雰囲気も悪くなる。そうなると転倒や事故が増える。ミエさんも居室で何度か転ぶことがあった。転倒の度にどうしたら守れるのか話し合い、見守れる位置にスタッフが意識して座ったり、布団に鈴をつけて動きを察知できるようにして様々な対策をしたのだが…それでもミエさんの転倒は繰り返された。私は焦って、なんとかしようとムキになっていた。そんなときミエさんは言葉をくれた。「あのね、あんたいつも一人で一生懸命働いてていいども、みんな一緒に働かねばわがんねんだよ。あなた何か始めるんでしょ?あるような感じのタイプだもん。何かあったら先生でもいいし、心の許せる友達でもいいから話すんだよ」ミエさんの言葉は色んな意味にとれる。ハッとさせられた。私は『一人』ではないし『一人』じゃできないとミエさんが言ってくれたと捉えた。
そのうち3月の末ころにはチームも雰囲気も変わって、幾分良くなってきた。新年度になって新人の川戸道さんに「ミエさんは転ぶ事があるから、トイレに行く時、起床、就寝時も注意してね。車いすのブレーキも忘れないように」と伝えた。素直で真面目な川戸道さんは、ミエさんが動く度に居室に行った。ある日ミエさんは「あんたたち、なしてそったにいつも早く来るの?」と言った。この言葉をケース記録で読んで私はハッとした。その言葉は私への言葉だった。私は『見守り』ではなく『見張り』をさせてしまったのではないか…。やがてチームが少しづつできてくると『守り』が自然と意識できるようになってきた。いちいち意識して神経質になって右往左往しなくても大丈夫な環境ができつつある。「見張るのと守るのはまるで違うんだよ」とミエさんにまた教えてもらった。
春に新人の川戸道さんが加わってから、ミエさんは私たちを見守り続けてくれる。育てる人が一人増えたという感じで張り切っている感じだった。二人の『赤ちゃん』をイメージで語ってくれたこともあった。なかなか育たない私に投げやりになったのか「育てるの途中でやめてもいいんでしょう?…長くかかることだからね〜」と脅されたこともあった。
先月のある日、ミエさんの「帰りたい」想いが高まった日があった。いつものように帰りたい気持ちは自分の中に収めたようで、床についた。しばらくして私が他の利用者のパット交換をしているとき、ミエさんの後ろ姿が目に入った。見ていると、フラ〜ッと傾きかけるミエさん。「危ない!!」と全力ダッシュした。間一髪、何とかミエさんの体を後ろから支えたのだが、不安定な姿勢とミエさんのふくよかな体の重さにたじたじで、私も倒れそうになる。「わあ〜」と叫ぶ。そのとき近くにいた川戸道さんが走ってきて、前から支えてくれて助かった。無事に椅子に座ったミエさんは「あぁ〜〜〜いがった〜!二人いなかったら私どうなってたかわからながった〜!」とお礼を言ってくれた。私は「やっと守れた…!」と思った。何度も防げなかったミエさんの転倒を今回は守れた。しかも一人じゃなく二人で。私が後ろから支え、川戸道さんが前から支えたこの位置関係にも私は納得してグッときた。今までの転倒の苦難がここでようやく実を結んだと感じた。ミエさんは自分の体を張って、私たちに教えてくれたんだと思った。
「まずあなた大きくなって、船になってみんなをまとめなさい。必ずできるから。ここから見てるども、できるよ」
去年ミエさんからもらった言葉。私もこの仕事を始めてまもなく3年目に入る。
そろそろおっきな船に育っていきたい。頑張るぞ!!
TERM90の存在の力(その2) ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2013年1月号】
■ユキさん
ユキさん(仮名)は、この通信にもよく登場する。ユキさんは特養の開設当初から入居しているすごくかわいい?人だ。特養は平成21年に開設されたのだが、いきなり特養に30名の職員が増えて、銀河の里の元々のスタッフが少ない中での1年目は最悪だったらしい。他の施設の経験者が各ユニットに配置され、全く里らしさは出せなかったということだ。利用者とスタッフの関係は、見事に“介護する側”と“介護される側”にきっぱりと分かれてしまい、定時の時間に退勤することが目的になっていたという。そこが目的になると、時間に向かってひたすら作業がこなされてしまう。そうなると作業が前面に出て、利用者は消える。扱われるモノになってしまって人間としては消されてしまう。人間の個性も人生も苦悩も全く見えなくなってしまう。利用者は、ただのおじいさんおばあさんですらなくなり、悪く言えば刑務所の受刑者と変わらない。そして管理されるだけのおとなしいお年寄り像を一方的に求められる。もちろん、そんなのおかしいに決まっている。当時の特養は介護工場になりそうで、スタッフはただの介護屋だったわけだ。そんなのが日本の介護現場の現状なのだという。確かに一律、平等の好きな日本らしい、つまらなさがそこには思いっきりある。そんな仕事なんかしたくもないと思う。でもそこが銀河の里の特養立ち上げの勝負だったのだろうと思う。10年のグループホームの経験を生かした、他にはない特養を作りたいというのが、特養開設の目的だった訳だが、簡単にはそれは実現させてもらえず、現実との過酷な戦いが必要とされたわけだ。もちろん銀河の里のことだから、しっかりと行くべき道を見失わないだけの人と力量があって、その困難な時期をなんとか乗り切ってこそ今があるというわけだ。
私は特養開設2年目からのスタッフだが、当時もまだまだ厳しいところがたくさんあった。里らしい特養にしようという思い入れでスタッフも戦ったのだが、それを援護するかのようにユキさんも戦ってくれた。ベットに寝かせられたら、ベット柵をぶん投げて、這ってリビングに出てきたり、お風呂の時間だと言われても「オラは夜しか入らない」と激しく抵抗したり、浴室に連れて行かれても、「殺す気かーー!!」と大声をあげて、殴ったり蹴ったり引っ掻いたりと激しい抵抗をした。スタッフは、その時はいたたまれない思いをするのだが、そんなユキさんがいて頑張ってくれたからこそ、里はスタッフに利用者が完全支配された介護工場に堕落しなくて助かったところもある。大暴れと暴言で抵抗し続けたユキさんだったが、それでもまだ足らなかったのか、ついにはお尻に大きなジョクソウを作った。もちろん作ったと言っても自分で簡単にできる訳ではないのだが、それはどう見ても、口では足らないので、もう一つの傷口を作って語ろうとしたとしか思えないようなジョクソウだった。確かにそのジョクソウはスタッフを振り回し、治るまでに2年近くを要した。3年目に入り、特養が作業ではなく、里らしいやりとりで成り立ちはじめたころにそれは治る。そんなユキさんとも真正面から向き合い、勝負していたスタッフもいた。そんな関わりをしていると、介護屋さん達からは後ろ指を指されるのだが、手に負えない暴れ方をするユキさんなので、誰も近寄りがたく、彼らも黙認するしかなかったわけだ。毎日が戦争だったのだが、それはそれで介護作業屋になるよりは楽しかったという。そのうちユキさんはそのスタッフを通じて少女がえりをやる。意地悪で、かわいくて、反抗的で、素直じゃなく、特別扱いでなければ我慢できない、そんな少女を約2年もやり続けた。2年目から広周さんが新人スタッフとしてやってくると、彼を恋人やダンナさんにしてユキさんの少女は育っていった。3年目の昨年、少女期を終えようとするユキさんをふり返っての事例検討会を行った。3時間の検討会は興奮と感動の渦に巻き込まれるようだったが、私は「ユキさんは、これから先、何をするのか…」が気になった。そしてユキさんに対して興味がどんどん湧いた。
そのユキさんのいるユニットすばるに私は昨年の4月から移動になった。すばるに異動した当初から、ユキさんは自分に対して当たりがものすごく強かった。怒鳴り、ぶん殴り、引っ掻き、文句たらたらのクソババァだった。ひたすらつっかかってくるユキさん。銀河の里で、私は普通のおじいさんおばあさんより、意味深な言葉を投げかけてきたり、手を上げる人、とっつきにくく、頭にくるような人の方が魅力的に感じていた。だから、「よっ!待ってました♪」とユキさんが大嫌いで大好きになっていった。
その日は、朝からユキさんと私は一騎打ちでドンパチやっていた。原因は、『ユキさんの大切なティッシュを使った使わない』ということだった。他の人から見たら、そんなのどっちだっていい。新しいティッシュをもってくればいいと思うだろう。けれども、ユキさんも自分も一歩も譲らない。お互い声が枯れるまでやり続ける。もはや怒鳴り合いと、減らず口の戦いだ。ユキさんが本気なんだもの!オレだって本気でしょ!謝りなんかするもんか!絶対自分が正義であいつが悪者!そんなクソババァとクソガキの本気の戦いが午前中続く。戦いが終盤に近づくと、マシンガンのように出続けた言葉も底をつき“あっかんべー”だけの戦いになった。
昼食中は、お互い相手の出方をチラチラと気にする。「箸を間違えでもしてみろー!第2ラウンドしかけるぞ!」とでも言いたそうに、箸を配る私を睨んでいるユキさん。「今日のメインディッシュ。鶏肉の照り焼きに文句でもつけてみろ!オレはいつでもいくぞ!」と私の心の中ではすでにバチバチ火花が散っている。ただ、すばるの昼食は「早く早く早く!早くだよー!」と煽る幸子さん(仮名)がいたり、フライング王の洋治さん(仮名)が手で食べ始める。それに対して「コラ!洋治!!川っぷじさ繋ぐぞ!」と鬼の形相で叱る祥子さん(仮名)がいたりする。周りの激しさにユキさんと私の対決はお預けになって、昼食時間はお互い出方を伺うだけにとどまった。
事が起こったのは、オヤツの時間だった。この日のオヤツは、厨房特製のテカテカに光っているおいしそうなパンだ。しかし、過去に何度も誤嚥性肺炎で入退院を繰り返しているユキさんにはプリンが付いた。それを見たユキさんはここぞとばかりそのプリンに噛みついた。ついに戦闘開始「オラだってタダで入ってるんでねぇ!みんなさば大きな饅頭付いて、オラばりべちゃべちゃづいの!先生から証明書もらったもん!」と爆発。『オヤツはパンかプリンか』戦が勃発した。ユキさんの猛攻撃は、かの織田信長・桶狭間の戦いのような一点集中で攻めてくる。それに対し私は今川軍のようになってはいけないと必死に抵抗する。ある程度やり合った時点でユキさんが動いた。今までは、文句で攻撃を仕掛け、相手を討ち取ってからオヤツをおいしく食べていたユキさんだった。しかし、この日の猛攻撃は口合戦だけに留まらず、他の利用者のパンを取り、プリンとパンを自分の前に持ってきた。その時点でユキさんは息を荒くし、唇が震えていた。ユキさんがそういった行動をとったのは初めてだったが、私はいつもと違ってかなり冷静だった。ユキさんは、ソフトではなくパンを食べたいという気持ちもあるが、今日はそうではない『なにか』を訴えているように感じた。
頭の中ではパンを食べようとするユキさんに備えて「吸引器の場所とスタッフやナースの勤務体制」を確認しつつ、ユキさんの中で動いている何かに「なんだろう?」と構えた。そして、その『なにか』が出てきた。私はまさかと思いながらたじろいだ。ユキさんは怒りと悲しみに充ち満ちた声でわめくように、今にも泣き出しそうな表情で私に向かって怒鳴った。「またガガ(奥さん)といなくなんのか!オラばり置いてって!そーだべ!いっつも二人!ガガとばり!出て行け!!オメだぢ出てったら、オラもこの家出てくから!ガガと行けばいい!オラばりだ…」
ユキさんは、夜寝る前に語ってくれることがよくある。農家の仕事について。千葉に出稼ぎに出ていた時の話。貧しい時代の話。旦那さんの話。子供を3人産んだ話。長女さんや次女さんの話…。ニコニコでたくさん話してくれる。1時間以上かけて、人生の出来事を話してくれることもあった。でも、長男さんの話だけはユキさんはしなかった。以前、長男さんのことを聞くと、ユキさんはニコニコはしていたものの、声が小さくなり「息子は…ずっと会ってないの。とってもいい子だったんだけどね。結婚式挙げたんだよ。でも何ヶ月かして、オラが畑さ行ってる間に…いなくなってしまった…。そっから会ってないねー。今はどこにいるんだか…」と言った。息子さんは父親であるユキさんの旦那さんの葬式にも顔を出さなかったらしい。
『なにか』が起こったその瞬間、私がユキさんの息子さんになっているとすぐに感じた。全く返す言葉が出てこない…。ユキさんの一番の深いところ、もしかしたら生きている内は語らず墓場までもっていったはずの心の奥の深い語り。「オレはユキさんの息子じゃないよ」とも言えず、かといって息子さんのフリをして、謝ることも出来なかった。しかし、私の中でユキさんに対しての怒りと悲しみがふつふつと湧き上がってきて、私は息子さんになっていた。なんとも言い表せないやるせない悔しい感覚が襲ってきた。とたんに時空が変わり、他の利用者やスタッフの音や声が消え、ユキさんの言葉しか聞こえなくなって二人きりの世界にいた。一方ユキさんは何度も何度も後ろを振り返り、そこにいる『誰か』と相談しているようだった。ユキさんは、一言伝えてくるたび、後ろにいる『誰か』に「そうだもんね」と小声で話しかけている。ユキさんは心の中に住む、息子が出ていったあのときの自分と話しているのではなかったろうか。私は、私の後ろに息子さんがいて、私の体を突き抜けてユキさんの言葉が息子さんに語られている感覚だった。異次元の不思議な感覚だった。
その時間は、5分程度だったと思うが、長い時間に感じた。その後ユキさんはプリンだけを食べて、パンには手を付けなかった。ユキさんの長年の息子さんへの想いや恨みや色んな気持ちは語れたのだろうか、これで終わりなのかまだ語るのか・・・。
少女期を終えた91歳のユキさんは、さらに第二期の少女期を巡るのかと思ったが、何か重要なことを語って、新しい章に入っていくのかもしれない…。
ユキさん(仮名)は、この通信にもよく登場する。ユキさんは特養の開設当初から入居しているすごくかわいい?人だ。特養は平成21年に開設されたのだが、いきなり特養に30名の職員が増えて、銀河の里の元々のスタッフが少ない中での1年目は最悪だったらしい。他の施設の経験者が各ユニットに配置され、全く里らしさは出せなかったということだ。利用者とスタッフの関係は、見事に“介護する側”と“介護される側”にきっぱりと分かれてしまい、定時の時間に退勤することが目的になっていたという。そこが目的になると、時間に向かってひたすら作業がこなされてしまう。そうなると作業が前面に出て、利用者は消える。扱われるモノになってしまって人間としては消されてしまう。人間の個性も人生も苦悩も全く見えなくなってしまう。利用者は、ただのおじいさんおばあさんですらなくなり、悪く言えば刑務所の受刑者と変わらない。そして管理されるだけのおとなしいお年寄り像を一方的に求められる。もちろん、そんなのおかしいに決まっている。当時の特養は介護工場になりそうで、スタッフはただの介護屋だったわけだ。そんなのが日本の介護現場の現状なのだという。確かに一律、平等の好きな日本らしい、つまらなさがそこには思いっきりある。そんな仕事なんかしたくもないと思う。でもそこが銀河の里の特養立ち上げの勝負だったのだろうと思う。10年のグループホームの経験を生かした、他にはない特養を作りたいというのが、特養開設の目的だった訳だが、簡単にはそれは実現させてもらえず、現実との過酷な戦いが必要とされたわけだ。もちろん銀河の里のことだから、しっかりと行くべき道を見失わないだけの人と力量があって、その困難な時期をなんとか乗り切ってこそ今があるというわけだ。
私は特養開設2年目からのスタッフだが、当時もまだまだ厳しいところがたくさんあった。里らしい特養にしようという思い入れでスタッフも戦ったのだが、それを援護するかのようにユキさんも戦ってくれた。ベットに寝かせられたら、ベット柵をぶん投げて、這ってリビングに出てきたり、お風呂の時間だと言われても「オラは夜しか入らない」と激しく抵抗したり、浴室に連れて行かれても、「殺す気かーー!!」と大声をあげて、殴ったり蹴ったり引っ掻いたりと激しい抵抗をした。スタッフは、その時はいたたまれない思いをするのだが、そんなユキさんがいて頑張ってくれたからこそ、里はスタッフに利用者が完全支配された介護工場に堕落しなくて助かったところもある。大暴れと暴言で抵抗し続けたユキさんだったが、それでもまだ足らなかったのか、ついにはお尻に大きなジョクソウを作った。もちろん作ったと言っても自分で簡単にできる訳ではないのだが、それはどう見ても、口では足らないので、もう一つの傷口を作って語ろうとしたとしか思えないようなジョクソウだった。確かにそのジョクソウはスタッフを振り回し、治るまでに2年近くを要した。3年目に入り、特養が作業ではなく、里らしいやりとりで成り立ちはじめたころにそれは治る。そんなユキさんとも真正面から向き合い、勝負していたスタッフもいた。そんな関わりをしていると、介護屋さん達からは後ろ指を指されるのだが、手に負えない暴れ方をするユキさんなので、誰も近寄りがたく、彼らも黙認するしかなかったわけだ。毎日が戦争だったのだが、それはそれで介護作業屋になるよりは楽しかったという。そのうちユキさんはそのスタッフを通じて少女がえりをやる。意地悪で、かわいくて、反抗的で、素直じゃなく、特別扱いでなければ我慢できない、そんな少女を約2年もやり続けた。2年目から広周さんが新人スタッフとしてやってくると、彼を恋人やダンナさんにしてユキさんの少女は育っていった。3年目の昨年、少女期を終えようとするユキさんをふり返っての事例検討会を行った。3時間の検討会は興奮と感動の渦に巻き込まれるようだったが、私は「ユキさんは、これから先、何をするのか…」が気になった。そしてユキさんに対して興味がどんどん湧いた。
そのユキさんのいるユニットすばるに私は昨年の4月から移動になった。すばるに異動した当初から、ユキさんは自分に対して当たりがものすごく強かった。怒鳴り、ぶん殴り、引っ掻き、文句たらたらのクソババァだった。ひたすらつっかかってくるユキさん。銀河の里で、私は普通のおじいさんおばあさんより、意味深な言葉を投げかけてきたり、手を上げる人、とっつきにくく、頭にくるような人の方が魅力的に感じていた。だから、「よっ!待ってました♪」とユキさんが大嫌いで大好きになっていった。
その日は、朝からユキさんと私は一騎打ちでドンパチやっていた。原因は、『ユキさんの大切なティッシュを使った使わない』ということだった。他の人から見たら、そんなのどっちだっていい。新しいティッシュをもってくればいいと思うだろう。けれども、ユキさんも自分も一歩も譲らない。お互い声が枯れるまでやり続ける。もはや怒鳴り合いと、減らず口の戦いだ。ユキさんが本気なんだもの!オレだって本気でしょ!謝りなんかするもんか!絶対自分が正義であいつが悪者!そんなクソババァとクソガキの本気の戦いが午前中続く。戦いが終盤に近づくと、マシンガンのように出続けた言葉も底をつき“あっかんべー”だけの戦いになった。
昼食中は、お互い相手の出方をチラチラと気にする。「箸を間違えでもしてみろー!第2ラウンドしかけるぞ!」とでも言いたそうに、箸を配る私を睨んでいるユキさん。「今日のメインディッシュ。鶏肉の照り焼きに文句でもつけてみろ!オレはいつでもいくぞ!」と私の心の中ではすでにバチバチ火花が散っている。ただ、すばるの昼食は「早く早く早く!早くだよー!」と煽る幸子さん(仮名)がいたり、フライング王の洋治さん(仮名)が手で食べ始める。それに対して「コラ!洋治!!川っぷじさ繋ぐぞ!」と鬼の形相で叱る祥子さん(仮名)がいたりする。周りの激しさにユキさんと私の対決はお預けになって、昼食時間はお互い出方を伺うだけにとどまった。
事が起こったのは、オヤツの時間だった。この日のオヤツは、厨房特製のテカテカに光っているおいしそうなパンだ。しかし、過去に何度も誤嚥性肺炎で入退院を繰り返しているユキさんにはプリンが付いた。それを見たユキさんはここぞとばかりそのプリンに噛みついた。ついに戦闘開始「オラだってタダで入ってるんでねぇ!みんなさば大きな饅頭付いて、オラばりべちゃべちゃづいの!先生から証明書もらったもん!」と爆発。『オヤツはパンかプリンか』戦が勃発した。ユキさんの猛攻撃は、かの織田信長・桶狭間の戦いのような一点集中で攻めてくる。それに対し私は今川軍のようになってはいけないと必死に抵抗する。ある程度やり合った時点でユキさんが動いた。今までは、文句で攻撃を仕掛け、相手を討ち取ってからオヤツをおいしく食べていたユキさんだった。しかし、この日の猛攻撃は口合戦だけに留まらず、他の利用者のパンを取り、プリンとパンを自分の前に持ってきた。その時点でユキさんは息を荒くし、唇が震えていた。ユキさんがそういった行動をとったのは初めてだったが、私はいつもと違ってかなり冷静だった。ユキさんは、ソフトではなくパンを食べたいという気持ちもあるが、今日はそうではない『なにか』を訴えているように感じた。
頭の中ではパンを食べようとするユキさんに備えて「吸引器の場所とスタッフやナースの勤務体制」を確認しつつ、ユキさんの中で動いている何かに「なんだろう?」と構えた。そして、その『なにか』が出てきた。私はまさかと思いながらたじろいだ。ユキさんは怒りと悲しみに充ち満ちた声でわめくように、今にも泣き出しそうな表情で私に向かって怒鳴った。「またガガ(奥さん)といなくなんのか!オラばり置いてって!そーだべ!いっつも二人!ガガとばり!出て行け!!オメだぢ出てったら、オラもこの家出てくから!ガガと行けばいい!オラばりだ…」
ユキさんは、夜寝る前に語ってくれることがよくある。農家の仕事について。千葉に出稼ぎに出ていた時の話。貧しい時代の話。旦那さんの話。子供を3人産んだ話。長女さんや次女さんの話…。ニコニコでたくさん話してくれる。1時間以上かけて、人生の出来事を話してくれることもあった。でも、長男さんの話だけはユキさんはしなかった。以前、長男さんのことを聞くと、ユキさんはニコニコはしていたものの、声が小さくなり「息子は…ずっと会ってないの。とってもいい子だったんだけどね。結婚式挙げたんだよ。でも何ヶ月かして、オラが畑さ行ってる間に…いなくなってしまった…。そっから会ってないねー。今はどこにいるんだか…」と言った。息子さんは父親であるユキさんの旦那さんの葬式にも顔を出さなかったらしい。
『なにか』が起こったその瞬間、私がユキさんの息子さんになっているとすぐに感じた。全く返す言葉が出てこない…。ユキさんの一番の深いところ、もしかしたら生きている内は語らず墓場までもっていったはずの心の奥の深い語り。「オレはユキさんの息子じゃないよ」とも言えず、かといって息子さんのフリをして、謝ることも出来なかった。しかし、私の中でユキさんに対しての怒りと悲しみがふつふつと湧き上がってきて、私は息子さんになっていた。なんとも言い表せないやるせない悔しい感覚が襲ってきた。とたんに時空が変わり、他の利用者やスタッフの音や声が消え、ユキさんの言葉しか聞こえなくなって二人きりの世界にいた。一方ユキさんは何度も何度も後ろを振り返り、そこにいる『誰か』と相談しているようだった。ユキさんは、一言伝えてくるたび、後ろにいる『誰か』に「そうだもんね」と小声で話しかけている。ユキさんは心の中に住む、息子が出ていったあのときの自分と話しているのではなかったろうか。私は、私の後ろに息子さんがいて、私の体を突き抜けてユキさんの言葉が息子さんに語られている感覚だった。異次元の不思議な感覚だった。
その時間は、5分程度だったと思うが、長い時間に感じた。その後ユキさんはプリンだけを食べて、パンには手を付けなかった。ユキさんの長年の息子さんへの想いや恨みや色んな気持ちは語れたのだろうか、これで終わりなのかまだ語るのか・・・。
少女期を終えた91歳のユキさんは、さらに第二期の少女期を巡るのかと思ったが、何か重要なことを語って、新しい章に入っていくのかもしれない…。