2012年12月15日
グループホームの現場から新たな道と文化を ★理事長 宮澤健【2012年12月号】
先月号で、大阪で開催された「グループホーム協会全国大会」の感想と違和感を書いた。この通信は内輪のものなので、グループホーム協会関係者の目にとまることはないし、あったとしても内容は理解されないだろう。そのくらい「銀河の里」の意識と世間のグループホームなど介護関係者との意識は隔たりがある。12年前「銀河の里」が開設されてまもなく、現場で起ってくることの深さに驚いた。そのどれもが興味深いことばかりなので事例にまとめはじめた。まだグループホームが全国でも数少なかった時代だ(当時600カ所程度、今は12000カ所)。初年度の10月に全国で実践報告会をやるというので、勇んで参加を申し込んだ。ところが発表時間が8分と制限されていて困った。我々がまとめた事例は読み上げるだけでも2時間の文章量だったからだ。起こったことを物語として語り伝えるにはせめて30分は欲しいのだが、何とか縮めて概要のような形で発表に臨んだ。その実践報告会では他の多くの発表も聞いたが、どこか大事な所を外しているような気の抜けた感じがした。おまけに会場から「介護度を言ってください。それでだいたいわかりますから」などと発言があったりするのであきれてしまった。人間や人生に迫ろうとする視点ではなく、問題や症状を扱おうとする操作的な意識を感じて、これは違うとどこかあきらめたような感じになった。ただ、その会合で我々の発表に注目してくれたのが認知症介護研究・研修東京センターの永田久美子先生だった。わざわざ会場で声をかけていただいた。その後「銀河の里」を訪ねてくださるなど、永田先生は数少ない理解者のひとりだ。それでもその後は、実践報告会には距離を置き、もっぱら内部で事例検討会を行ってきた。そこに守りとして、名古屋の臨床心理士の吉田耕治先生にコメンテーターをお願いしてきた経緯がある。
ケース記録から事例をまとめてみると、その時には気がつかなかったことがたくさん発見されるし、事例を発表する場でもいろいろなことに気づかされる体験はとても新鮮で感動的だ。やはり事例こそ我々の現場の命なんだとその都度確信を深めてきた。また事例の発表を誰がどう聴くかが決定的に重要で、コメンテーターの力量やセンスが求められることを知った。以前盛岡で、事例研究をテーマにしたセミナーがあった。実際の事例を自分では持っていないような福祉大学の準教授が基調講演を行い、学校の授業のような教科書的な話をするのには閉口した。現場プロの研修会にしてはレベルの低い散々な基調講演だったが、さすがに事例発表は現場の実際の話だけあって興味深いものだった。しかし今度はコメンテーターが全く事例を読めず、細かいところを良いとか悪いとかのコメントになって「認知症の人に嘘を言うのは良いのか悪いのか」などとくだらない議論になり、事例のプロセスや物語に視点があたることはなく、せっかくの事例が台無しだった。業界のそんな状況に距離を置きながら「銀河の里」は特殊だとか、宗教だとか、怪しいとか揶揄されながらも独自路線を進んできた。ひたすら現場で起こってくることの凄まじさと、人間の存在の圧倒的な魅力に魅せられながらマイノリティでやってきた。ところが、前号に書いたように、持ち回りで協会の理事になってしまった上に、来年は、大阪大会の後を受けて第4回全国大会の岩手開催が決まっている。急に、距離を置いてはいられなくなった。そこで大阪大会に参加してみたが、やはり違和感があった。岩手大会では、今までのグループホームのあり方を考えなおそうと有志で話し合い、大会に向けて本気で取り組もうということになった。
そんな折、先日、岩手のグループホーム協会で実践報告会が開催されたので参加した。ところが案の定せっかくの現場の実践がないがしろにされているのを、またまた目の当たりにすることになった。発表順位が、グループホームを何年やっているかの経年の順で、しかも、1年未満は「とまどい」3年以上は「本質」、10年クラスは「共生」とタイトルまで決まっている。こんなところに年功序列が出てくるのはどういう感覚なのか。怪しいと言われ続けて来た私の方が怪しさを感じてしまう。経年で向きあうテーマが決まっているのは不可解だし、グループホームの組織や職員がこうした直線的な発展をしていくとは思えない。何年かすれば自動的に本質に触れ、さらに積み上げれば共生にいたると本当に考えているのだろうか。実際には古い組織ほど形骸化に苦しんでおり、ルーチンワークに陥り、情熱や新鮮さを失い、「昔は良かった」などと冷めたノスタルジーに浸っているのが現状だ。
塩麹のブームに火をつけた有名な大分の「麹屋」のおかみさんが、銀河の里でお話をしてくれたことがある。「発酵と腐れは、ある時点で別れる」という話で、そして「一旦別れたら後戻りはできない」と言う。人間や組織と同じだと感動した。特にグループホームは開設の3ヶ月で決まると思う。そこで利用者と出会うか出会わないかで決まる。出会えなかったグループホームもしくはスタッフは、利用者を扱う介護作業屋に堕してしまう。出会えれば、その関係性から様々な発見と創造が展開していき、そして死によって別れた後もその関係は支えとなり続ける。これがグループホームの場で生成される人間と人間の関係の醍醐味だと感じてきた。このあたりの視点が違うと全く違った世界になってしまう。グループホームでは、一旦発酵の方へ行ったとしても、いつでも腐れに転じてしまう危険が常にある。その危険は慣れてきた2、3年目が危ないように思う。自信が傲慢に変わり利用者を支配しはじめると、出会うことはなくなる。少人数のグループホームでは、利用者がひとり入れ替わっただけでグループダイナミズムがまるで違ったものになる。組織も個人も年を重ねるほど危険も課題も大きくなるという認識は必要だろう。
報告会では古い施設の行き詰まりがありありと出ていた。開設1年前後の若いグループホームの発表は、現場の感じをリアルに表現していて、新鮮で物語があり、戸惑いや驚きを含めて、こちらまでときめく感じがあった。それに対して、5年以上のところの発表になると、「本質」などと言いながら、むしろ本質から遠ざかった発表になっていた。現場を語らないで説明や解説に流れてしまって、現場の生命観やリアリティが全く消えている。その原因は発表の形式にもある。発表時間は15分なのだが、現場の人となりや関係性までは語り得ない時間だ。実践報告会であって、事例検討会や研究会ではないからかもしれないが、討議の時間が設けられていないのと、何より問題は、コメンテーターや指定討論者が置かれていないことだ。これでは発表者だけでなく、ケースそのものが傷ついてしまう危険がある。発表しても聴いてくれる人がいないのは痛い。発表にはかなりのエネルギーが必要だし、その背後には現場での日々の苦闘が脈々とある。そのベクトルを誰も受け止めない発表はやらない方がいい。私は発表ごとに手を挙げて感想を述べ質問をして発表者を守らなければと焦るような感覚になった。ところが5年以上の発表は説明的な紹介や理念を語る感じなので、守るも支えるも関係ない話だった。長年やってきたところは、感度を落とし、戸惑いや驚きを失ったか、抑制しているのだ。9月に里を訪ねていただいた、『驚きの介護民俗学』の著者六車由実さんもその本の中で触れられているように、「業務に追われるうちに驚けなくなるのではなく、驚かないようにしてしまう」と述べられている。そうなると、全く感度を失った自分が立ち現れて全くつまらなくなったという体験を語られている。我々の現場にはそうした落とし穴が常にあると思う。古い施設は深化し成熟して精度が増していくのではなく、自ら慣れて感じないようにしてしまう。これは重要な課題だと思う。グループホームの利用者の重度化が取りざたされるが、利用者の問題なのではなく、施設やスタッフの形骸化にこそ問題がある。ともあれ、経験を積めば単純に本質や共生になっていくというステレオタイプな思惑とは裏腹に、古い施設ほど形骸化している現状が明白だった。開設当初の戸惑い、驚き、おののきなどを欠いた閉塞性が露呈してしまった格好だ。
古い施設の発表のつまらなさは、内容が説明的になった所にある。物語を語ることをやめて説明になってしまうと、現場の生命感やリアリティは失われ、本質は伝わらなくなってしまう。もう一つは「聴き手」のいない、語りっ放しの報告会を続けているうちに、傷つきから身を守るために説明に切りかえて安全を図るようになったということも考えられる。とにかくこうした発表では現場が育たないことは明らかだ。こうした問題点に気がつかず危機感がないこと自体かなり危機的だ。
10年超のグループホームの発表で、震災で家族を失った認知症の利用者を受け入れた報告あった。その利用者の方は当初、包丁を振り回すような状況だったが、数ヶ月の取り組みで落ち着きを取り戻したという内容だった。会場から「そんなときどう対処したらいいのか」という質問があった。発表者は、「若い職員ではダメだったので、経験の豊富な職員で対応した」という説明だった。大事なのは、その時、利用者への理解がどうなされていたかだ。震災で親族を失ったことを本人は認識していたか。震災と認知症の関連、包丁を持ったのは震災以降なのかどうかなどの事実関係が気になった。経験豊富な職員も理解なしでは向き合えない。常識では、包丁を振り回す人からは逃げるしかない。グループホームでは他の利用者を守るために逃げるわけにはいかないので、その人を受け入れられない。逃げることもなく、グループホームでその方を受け入れられたのは、何らかの理解があったからだ。理解の内容と理解の深さが重要だが、そこがじっくりと語られるような研修こそが必要だと感じる。このケースも、職員スタッフがその方をどこかで好きだと感じられるくらいの深い理解があってこそ、乗り切ることができたのだと思う。「本当は暴れたり、斬りかかる人ではない」とか、「包丁は震災への怒りであって、この方の持っている怒りの象徴的な表現だった」などの理解の内容が議論できないのは残念でもったいない。私はこのケースに触れながら、この春公開された園子温(そのしおん)監督の『ヒミズ』を思い浮かべた。詩人でもある園監督は世界的にも注目されているらしいが、初めての原作ものとして古谷実のコミック「ヒミズ」の映画化に取り組み、そのクランクイン当日の震災だったという。監督は表現者として、今この時期に震災をテーマにした映画を作る必要を感じ、それまでのシナリオを全面的に書き換え、被災地を舞台にした映画として完成させた。原作のとおり、中学生の主人公が包丁を振り回す。この世の理不尽さ、人間の持つ暴力と弱さなど現代的なテーマに重ねて、自然の脅威と暴力、震災に向きあう人間がテーマとして描かれているように感じた。そのテーマはこの認知症の方が抱えたこととそのまま重なるのではないか。「認知症の力を借りた怒り」でしか表せない、この方の受けた理不尽に思いを馳せるしかないが、おそらく現場のスタッフにはその方へのそうした深い理解があったと思う。「包丁を振るう利用者にどう対処したらいいか」というハウツーとは、次元の違う理解がなければ乗り切れることではない。
グループホームの現場には監査や外部評価、第三者評価などいろいろ入ってくる。閉ざされた空間で起こりやすい虐待や暴力を防止するという意義があるのだが、どれもひどいもので、マニュアルと書類の整備の有無を問うだけの薄っぺらなものになっている。要は何か事件が起こっても体制側が逃げられる根拠が欲しいだけだ。そうした見え透いた社会構造とどうやったら決別できるのだろう。施設側も、そうした制度に合わせた対応ばかりを繰り返しているうちに、グループホームには創造性も専門性も立ち上がらず年数だけが過ぎ去った。15年に渡る実績と12000カ所の数を持ってして、現場らしい実際的な議論や考察が始まってもいい時期だろう。マニュアルやプログラムが現場でそのまま役に立つ訳はない。「包丁を振り回す人にどう対応したらいいのか」との問いにも、マニュアルやプログラムでなんとかしようという薄っぺらな考えが見え透く。
中沢新一が2008年に上梓した『アースダイバー』があるが、最近『大阪アースダイバー』が出版された。東京や大阪の都市がどのように発生したのかを探っていくのだが、街の形成はプログラムされたものではなく、なるべくして形作られた土地の意味合いが解き明かされる。一神教では神がプログラムで世界を創造するが、環太平洋地域の神話では、多くの小動物達が海に潜り、小さな手で泥をすくい、それを幾度となく繰り返して世界を創り上げたというアースダイバー神話があって、それが本のタイトルになっている。我々の現場の仕事はまさにアースダイバーである。そこにはプログラムではない語りが求められると思う。
「銀河の里」では能の鑑賞を新人研修などに取り入れてきた。能の構成がグループホームケアの構造ととても近いと感じるからだ。能舞台がグループホームで、利用者はシテ、スタッフはワキで、観客は社会にあたる。能舞台には橋がかりがあり、異界や無意識の世界との通路がある。一般の人には解りにくい物語と人物を、ワキは選ばれた特殊な立場と能力で「語り聴かせ給え」と照らし出して行く。能において、前シテはただの人であるが、ワキが聴くことによって歴史の舞台で名の知れた人物としてその本体を現わす。幽霊として現れた本体の後シテの語りを聴くのもまたワキである。観客はワキとシテとのやりとりを通じて物語を読み取るのだが、グループホームはこうした機能を備えていると思う。シテ(利用者)の本体を、語りによって登場させるワキとしてのスタッフの意義は深い。そして後シテの語りを外部や一般の人に理解できる形で伝えるワキとしてのグループホームの位置づけが、そろそろ理論化されてもいい時期だと思う。ワキは脇役の意味ではなく「分ける」「理解させる」に繋がっているという。利用者の語りを聴き、その本質的な本体を明らかにする仕事は医療でも、今までの福祉でもない、暮らしを器に人間の存在と生きる意味を問う、新たな分野の専門性が成し遂げる創造的な仕事がそこに必要とされる。その自覚がグループホーム関係者に今こそ求められるのではないか。
グループホームの現場のテーマは、高齢者や認知症に限ったことでは決してない。人間がいかに生きていくのかという本質的なテーマや、現代という時代や地域の課題がそのまま投影されている。宴会気分で大会を主催していては、将来が語れずグループホームが社会から無用なものとして消えてしまう恐れさえある。社会から必要とされなければ消えるのは仕方ないが、せっかくの現場の体験、経験を叡智として積み上げ、文化にまで育てていくことも不可能ではないと思う。そうした文化が目覚めるとしたらおそらく、西欧の真似ごとのグループホームではなく、日本人独特の「察し」や、「自我の境界の薄さ」などを活かした、操作的ではない、真の意味での共生に繋がる文化として立ち上がるのではないだろうか。それはまさに震災以降人類が希求し始めた、あるべき人類の道に連なっているように感じる。震災以降の拓くべき道への細い通路が、人間が生きる本質に迫る現場としてのグループホームにこそ開かれていると信じる。
ケース記録から事例をまとめてみると、その時には気がつかなかったことがたくさん発見されるし、事例を発表する場でもいろいろなことに気づかされる体験はとても新鮮で感動的だ。やはり事例こそ我々の現場の命なんだとその都度確信を深めてきた。また事例の発表を誰がどう聴くかが決定的に重要で、コメンテーターの力量やセンスが求められることを知った。以前盛岡で、事例研究をテーマにしたセミナーがあった。実際の事例を自分では持っていないような福祉大学の準教授が基調講演を行い、学校の授業のような教科書的な話をするのには閉口した。現場プロの研修会にしてはレベルの低い散々な基調講演だったが、さすがに事例発表は現場の実際の話だけあって興味深いものだった。しかし今度はコメンテーターが全く事例を読めず、細かいところを良いとか悪いとかのコメントになって「認知症の人に嘘を言うのは良いのか悪いのか」などとくだらない議論になり、事例のプロセスや物語に視点があたることはなく、せっかくの事例が台無しだった。業界のそんな状況に距離を置きながら「銀河の里」は特殊だとか、宗教だとか、怪しいとか揶揄されながらも独自路線を進んできた。ひたすら現場で起こってくることの凄まじさと、人間の存在の圧倒的な魅力に魅せられながらマイノリティでやってきた。ところが、前号に書いたように、持ち回りで協会の理事になってしまった上に、来年は、大阪大会の後を受けて第4回全国大会の岩手開催が決まっている。急に、距離を置いてはいられなくなった。そこで大阪大会に参加してみたが、やはり違和感があった。岩手大会では、今までのグループホームのあり方を考えなおそうと有志で話し合い、大会に向けて本気で取り組もうということになった。
そんな折、先日、岩手のグループホーム協会で実践報告会が開催されたので参加した。ところが案の定せっかくの現場の実践がないがしろにされているのを、またまた目の当たりにすることになった。発表順位が、グループホームを何年やっているかの経年の順で、しかも、1年未満は「とまどい」3年以上は「本質」、10年クラスは「共生」とタイトルまで決まっている。こんなところに年功序列が出てくるのはどういう感覚なのか。怪しいと言われ続けて来た私の方が怪しさを感じてしまう。経年で向きあうテーマが決まっているのは不可解だし、グループホームの組織や職員がこうした直線的な発展をしていくとは思えない。何年かすれば自動的に本質に触れ、さらに積み上げれば共生にいたると本当に考えているのだろうか。実際には古い組織ほど形骸化に苦しんでおり、ルーチンワークに陥り、情熱や新鮮さを失い、「昔は良かった」などと冷めたノスタルジーに浸っているのが現状だ。
塩麹のブームに火をつけた有名な大分の「麹屋」のおかみさんが、銀河の里でお話をしてくれたことがある。「発酵と腐れは、ある時点で別れる」という話で、そして「一旦別れたら後戻りはできない」と言う。人間や組織と同じだと感動した。特にグループホームは開設の3ヶ月で決まると思う。そこで利用者と出会うか出会わないかで決まる。出会えなかったグループホームもしくはスタッフは、利用者を扱う介護作業屋に堕してしまう。出会えれば、その関係性から様々な発見と創造が展開していき、そして死によって別れた後もその関係は支えとなり続ける。これがグループホームの場で生成される人間と人間の関係の醍醐味だと感じてきた。このあたりの視点が違うと全く違った世界になってしまう。グループホームでは、一旦発酵の方へ行ったとしても、いつでも腐れに転じてしまう危険が常にある。その危険は慣れてきた2、3年目が危ないように思う。自信が傲慢に変わり利用者を支配しはじめると、出会うことはなくなる。少人数のグループホームでは、利用者がひとり入れ替わっただけでグループダイナミズムがまるで違ったものになる。組織も個人も年を重ねるほど危険も課題も大きくなるという認識は必要だろう。
報告会では古い施設の行き詰まりがありありと出ていた。開設1年前後の若いグループホームの発表は、現場の感じをリアルに表現していて、新鮮で物語があり、戸惑いや驚きを含めて、こちらまでときめく感じがあった。それに対して、5年以上のところの発表になると、「本質」などと言いながら、むしろ本質から遠ざかった発表になっていた。現場を語らないで説明や解説に流れてしまって、現場の生命観やリアリティが全く消えている。その原因は発表の形式にもある。発表時間は15分なのだが、現場の人となりや関係性までは語り得ない時間だ。実践報告会であって、事例検討会や研究会ではないからかもしれないが、討議の時間が設けられていないのと、何より問題は、コメンテーターや指定討論者が置かれていないことだ。これでは発表者だけでなく、ケースそのものが傷ついてしまう危険がある。発表しても聴いてくれる人がいないのは痛い。発表にはかなりのエネルギーが必要だし、その背後には現場での日々の苦闘が脈々とある。そのベクトルを誰も受け止めない発表はやらない方がいい。私は発表ごとに手を挙げて感想を述べ質問をして発表者を守らなければと焦るような感覚になった。ところが5年以上の発表は説明的な紹介や理念を語る感じなので、守るも支えるも関係ない話だった。長年やってきたところは、感度を落とし、戸惑いや驚きを失ったか、抑制しているのだ。9月に里を訪ねていただいた、『驚きの介護民俗学』の著者六車由実さんもその本の中で触れられているように、「業務に追われるうちに驚けなくなるのではなく、驚かないようにしてしまう」と述べられている。そうなると、全く感度を失った自分が立ち現れて全くつまらなくなったという体験を語られている。我々の現場にはそうした落とし穴が常にあると思う。古い施設は深化し成熟して精度が増していくのではなく、自ら慣れて感じないようにしてしまう。これは重要な課題だと思う。グループホームの利用者の重度化が取りざたされるが、利用者の問題なのではなく、施設やスタッフの形骸化にこそ問題がある。ともあれ、経験を積めば単純に本質や共生になっていくというステレオタイプな思惑とは裏腹に、古い施設ほど形骸化している現状が明白だった。開設当初の戸惑い、驚き、おののきなどを欠いた閉塞性が露呈してしまった格好だ。
古い施設の発表のつまらなさは、内容が説明的になった所にある。物語を語ることをやめて説明になってしまうと、現場の生命感やリアリティは失われ、本質は伝わらなくなってしまう。もう一つは「聴き手」のいない、語りっ放しの報告会を続けているうちに、傷つきから身を守るために説明に切りかえて安全を図るようになったということも考えられる。とにかくこうした発表では現場が育たないことは明らかだ。こうした問題点に気がつかず危機感がないこと自体かなり危機的だ。
10年超のグループホームの発表で、震災で家族を失った認知症の利用者を受け入れた報告あった。その利用者の方は当初、包丁を振り回すような状況だったが、数ヶ月の取り組みで落ち着きを取り戻したという内容だった。会場から「そんなときどう対処したらいいのか」という質問があった。発表者は、「若い職員ではダメだったので、経験の豊富な職員で対応した」という説明だった。大事なのは、その時、利用者への理解がどうなされていたかだ。震災で親族を失ったことを本人は認識していたか。震災と認知症の関連、包丁を持ったのは震災以降なのかどうかなどの事実関係が気になった。経験豊富な職員も理解なしでは向き合えない。常識では、包丁を振り回す人からは逃げるしかない。グループホームでは他の利用者を守るために逃げるわけにはいかないので、その人を受け入れられない。逃げることもなく、グループホームでその方を受け入れられたのは、何らかの理解があったからだ。理解の内容と理解の深さが重要だが、そこがじっくりと語られるような研修こそが必要だと感じる。このケースも、職員スタッフがその方をどこかで好きだと感じられるくらいの深い理解があってこそ、乗り切ることができたのだと思う。「本当は暴れたり、斬りかかる人ではない」とか、「包丁は震災への怒りであって、この方の持っている怒りの象徴的な表現だった」などの理解の内容が議論できないのは残念でもったいない。私はこのケースに触れながら、この春公開された園子温(そのしおん)監督の『ヒミズ』を思い浮かべた。詩人でもある園監督は世界的にも注目されているらしいが、初めての原作ものとして古谷実のコミック「ヒミズ」の映画化に取り組み、そのクランクイン当日の震災だったという。監督は表現者として、今この時期に震災をテーマにした映画を作る必要を感じ、それまでのシナリオを全面的に書き換え、被災地を舞台にした映画として完成させた。原作のとおり、中学生の主人公が包丁を振り回す。この世の理不尽さ、人間の持つ暴力と弱さなど現代的なテーマに重ねて、自然の脅威と暴力、震災に向きあう人間がテーマとして描かれているように感じた。そのテーマはこの認知症の方が抱えたこととそのまま重なるのではないか。「認知症の力を借りた怒り」でしか表せない、この方の受けた理不尽に思いを馳せるしかないが、おそらく現場のスタッフにはその方へのそうした深い理解があったと思う。「包丁を振るう利用者にどう対処したらいいか」というハウツーとは、次元の違う理解がなければ乗り切れることではない。
グループホームの現場には監査や外部評価、第三者評価などいろいろ入ってくる。閉ざされた空間で起こりやすい虐待や暴力を防止するという意義があるのだが、どれもひどいもので、マニュアルと書類の整備の有無を問うだけの薄っぺらなものになっている。要は何か事件が起こっても体制側が逃げられる根拠が欲しいだけだ。そうした見え透いた社会構造とどうやったら決別できるのだろう。施設側も、そうした制度に合わせた対応ばかりを繰り返しているうちに、グループホームには創造性も専門性も立ち上がらず年数だけが過ぎ去った。15年に渡る実績と12000カ所の数を持ってして、現場らしい実際的な議論や考察が始まってもいい時期だろう。マニュアルやプログラムが現場でそのまま役に立つ訳はない。「包丁を振り回す人にどう対応したらいいのか」との問いにも、マニュアルやプログラムでなんとかしようという薄っぺらな考えが見え透く。
中沢新一が2008年に上梓した『アースダイバー』があるが、最近『大阪アースダイバー』が出版された。東京や大阪の都市がどのように発生したのかを探っていくのだが、街の形成はプログラムされたものではなく、なるべくして形作られた土地の意味合いが解き明かされる。一神教では神がプログラムで世界を創造するが、環太平洋地域の神話では、多くの小動物達が海に潜り、小さな手で泥をすくい、それを幾度となく繰り返して世界を創り上げたというアースダイバー神話があって、それが本のタイトルになっている。我々の現場の仕事はまさにアースダイバーである。そこにはプログラムではない語りが求められると思う。
「銀河の里」では能の鑑賞を新人研修などに取り入れてきた。能の構成がグループホームケアの構造ととても近いと感じるからだ。能舞台がグループホームで、利用者はシテ、スタッフはワキで、観客は社会にあたる。能舞台には橋がかりがあり、異界や無意識の世界との通路がある。一般の人には解りにくい物語と人物を、ワキは選ばれた特殊な立場と能力で「語り聴かせ給え」と照らし出して行く。能において、前シテはただの人であるが、ワキが聴くことによって歴史の舞台で名の知れた人物としてその本体を現わす。幽霊として現れた本体の後シテの語りを聴くのもまたワキである。観客はワキとシテとのやりとりを通じて物語を読み取るのだが、グループホームはこうした機能を備えていると思う。シテ(利用者)の本体を、語りによって登場させるワキとしてのスタッフの意義は深い。そして後シテの語りを外部や一般の人に理解できる形で伝えるワキとしてのグループホームの位置づけが、そろそろ理論化されてもいい時期だと思う。ワキは脇役の意味ではなく「分ける」「理解させる」に繋がっているという。利用者の語りを聴き、その本質的な本体を明らかにする仕事は医療でも、今までの福祉でもない、暮らしを器に人間の存在と生きる意味を問う、新たな分野の専門性が成し遂げる創造的な仕事がそこに必要とされる。その自覚がグループホーム関係者に今こそ求められるのではないか。
グループホームの現場のテーマは、高齢者や認知症に限ったことでは決してない。人間がいかに生きていくのかという本質的なテーマや、現代という時代や地域の課題がそのまま投影されている。宴会気分で大会を主催していては、将来が語れずグループホームが社会から無用なものとして消えてしまう恐れさえある。社会から必要とされなければ消えるのは仕方ないが、せっかくの現場の体験、経験を叡智として積み上げ、文化にまで育てていくことも不可能ではないと思う。そうした文化が目覚めるとしたらおそらく、西欧の真似ごとのグループホームではなく、日本人独特の「察し」や、「自我の境界の薄さ」などを活かした、操作的ではない、真の意味での共生に繋がる文化として立ち上がるのではないだろうか。それはまさに震災以降人類が希求し始めた、あるべき人類の道に連なっているように感じる。震災以降の拓くべき道への細い通路が、人間が生きる本質に迫る現場としてのグループホームにこそ開かれていると信じる。
秋の日の癒やし ★グループホーム第2 佐々木詩穂美【2012年12月号】
この春、グループホーム第2が新体制になり、私自身リーダーとして不安ながら出発したのだが、そこからずっと第2を引っ張ってきてくれたのが守男さん(仮名)だった。新体制が始まったばかりの4月。「よし始めるぞ」と言って動き始めた守男さん。その言葉通りまさに始まった。この通信でも何回か書いてきた通り、それは不思議で力のある動きだった。守男さんは入居当初から戦争の傷を語ることがあった。スタッフはその傷にどうアプローチしていけばよいものか全く手がかりがなく2年が過ぎてしまった。おそらく守男さんは認知症にならなければその傷を一人で抱えて、誰にも語らずあの世に持って行ったのだろうと思う。守男さんは認知症の威力をかりてその傷を何とかしなければならなかったのではないかとさえ感じる。守男さんは地元の神楽を担ってきた中心人物で太鼓と踊りの名手だった。その踊りは、祈りだったり、狂乱だったりこの世のものとは少しかけ離れた何かを感じさせる、憑かれたような踊りだった。その踊りには鎮魂や懺悔の祈りがこもっているように感じさせられた。そうした踊りで守男さんの戦争の傷は果たして癒やされるのだろうか。あまりに深い傷にスタッフは遠くから見ているしかなかった。たまに踊りのどさくさに紛れるように、女性を誘って踊ったり抱きついたりすることもあった。そのとき選ばれるのは優しい母親的な女性のように感じた。性的な感じはなく、どちらかと言えば甘えるような感じだった。
今年、入居から2年を経て、新体制の4月「さあ始めるぞ」という守男さんの言葉に、頼りないチームだったが、「いよいよ来たな」と感じ、「よし、きちんとついて行こう。支えよう。逃さず記録しよう」と身構えた。そして皮切りは、クミさん(仮名)と出かけた神社への踊りの奉納だった。守男さんが辿った半年の癒しの儀式には不思議なことがいっぱい起こるのだが、そのひとつはクミさんが儀式の場に必ずいることだ。クミさんは一日に何回も、家に帰ると言って外に出て歩いて行く人だが、いわゆる認知症の周辺症状の当事者とは全く思えない感じで、守男さんの儀式には参加してちゃんと支えてくれていた。
それから半年の間、守男さんは本当に兵隊になり、私や男性スタッフの酒井さんを兵隊に見立てて毎日語り尽くす感じで語った。それと平行して守男さんは時折、体が重くなり全く動けなくなることがあった。イメージとして深い井戸の底に入ってしまったような感じだった。重くなってしまうと、お風呂の介助も二人体制での介助が必要になった。男性スタッフの酒井さんは力ではなく、兵隊関係で「大将お願いします」とやりとりしてお風呂から上がってもらっていた。女性だと兵隊になれないので、なかなか上がれなかった。もうこれは男の兵隊になるしかないとハラを決め、敬礼をして「大将上がります」などとやって何とか上がってもらったりした。普段は普通に歩けるのに、時折、重くなって全く動けない感じになるのは不思議だったが、深い傷を癒す作業をするために、本当に井戸の底に降りていっているのだと生々しく感じたものだった。そしてちょうどそのころ、現実に守男さんの実家の井戸を埋めるという話が出た。家族の方は、埋めるには守男さんの許可がないとできないと、グループホームの守男さんに相談に来られた。守男さんは埋めることを許可したのだが、埋めてはならないと語ることもあった。家族さんは埋める工事のための儀式を行なった。守男さんを筆頭に例のクミさんと私とスタッフのェ恵さんでその儀式に参加した。ところがいざ工事が始まる前日、頼んだ業者の奥さんが亡くなられて工事は延び延びになり、実家の井戸はいつ埋められるのか予定がたたなくなってしまった。守男さん自身の井戸もまだ埋まる感じはなく、守男さんは井戸の底から上がってこられないでいた。6月、7月、8月と守男さんは井戸の底にあって、厳しくつらい作業をしている様子だった。7月の1ヶ月間は酒井さんに重い内容を語り続けた。その内容は軍隊の上官としての言葉なのだが、あまりにリアルで酒井さんは全く記録できず、強い印象を残しながらも具体的な内容は残っていない。当時メンタル面で少し弱っていた酒井さんが、守男さんの語りの重さに耐える余力はなかったのだろうし、そんな状態の酒井さんにだからこそ守男さんは語れたのかもしれない。8月には以前通信に書いたように、私を出征兵士に見立てて玄関で送り出してくれた。認知症の人と触れたことのない人にはわかりにくいかと思うが、実際に体験したものとして言わせてもらうと、認知症の人の訳のわからない話と思うのはまったくまちがっている。それは生々しい現実感を伴って迫ってくる体験だった。実際私は感極まって涙が出てくるし、本当に出征する人になっていた。そこに居合わせたスタッフの二唐さんも寛恵さんも、利用者の歩さん(仮名)、そしてこうした儀式は決してはずさないクミさんもいて本気で送り出してくれた。確かに現実のことではないと私も認識をしているが、内的な事実としては本当に私は出征兵士になっていたし、みんなもその場に本気で参加していた。それは守男さんの深い傷がもたらす、戦争体験の癒しの過程であったからこそ起こった事ではないだろうか。そしてその頃は、守男さんの癒やしは、若いスタッフに何かを継ぐことでなされるんだとスタッフの誰もが感じていた。主に守男さんに言葉で伝えられたのは、私と酒井さんだった。寛恵さんや二唐さんもモノをもらったり体を預けられたりしながら伝えてもらった。守男さんの癒しの儀式は6月、7月でほとんど完了したように感じた。その後、語り伝える8月9月があって、秋になった。
10月4日、夕方のリビングで守男さんは涙を流しながら「私は満州に行って戦ってまいりました。死にたくない奴、殺したくない奴は帰れと言ってやってきたのであります。私は日本男児を忘れないために届けにきました」と語った。軍隊の上官の厳しい口調で語るのだが、その表情はいつも悔やんでいるような苦しさがあった。スタッフは重苦しい感じを和らげようと「おかげでそれから日本は平和になりました」と語ると、守男さんは微笑んで目を閉じた。
この半年、スタッフの酒井さんは軍隊で守男さんの部下になっていた。酒井さんが守男さんを入浴に誘うと「俺はあとでいいから若い奴らを先に入れてやってくれ」と上官の言葉が帰ってくる。「はい!それでは新兵から入らせていただきます」と酒井さんも応える。軍隊調のやりとりで、敬礼の挨拶を交わしていた。「さあ始めるぞ」の言葉から半年、守男さんとともに我々は戦場にいた。そしてこういうことが「さあ始めるぞ」に込められていたことも確信を持って理解していた。年が明ければ1月で93歳になる守男さん。今、人生をかけて私達に何かを伝え、育てようとしてくれている。私達も守男さんの思いをしっかりと受け止めたいと必死で、守男さんの言葉を真剣に聞き、記録した。
10月24日、守男さんと酒井さんはいつものように向き合って敬礼をしていた。夕方、守男さんがいきなり「八幡神社の祭礼を祝う」と言って立ち上がった。ゆったりしていたリビングに緊張感が漂う。「お集まりになっておめでとうございます。佐々木守男でございます。私は家族のもの、神社の別当になった以上は良い花を責任もって…そう感じております。八幡の式をあげたいと思います。無礼ではありますが、皆さんと一緒になってあげたいと思ってますから」そう言って玄関に向かった。同じタイミングで玄関に座っていたクミさんが外へと歩き出す。これは八幡神社に行けということなのか?寛恵さんと私は慌てて車を用意した。「誰が付いて行けばいいですか?」と守男さんに尋ねると、「誰でもいい…男だな」と酒井さんを選んだ。酒井さんの運転で、先に歩いていたクミさんを拾って助手席に乗せ、後部座席には守男さんと私の4人で守男さんの自宅近くの八幡神社へ向かった。冷たい秋風が吹く中、神社に着くとクミさんと酒井さんに両脇を支えてもらって拝殿に向かった。この日の神社詣には、始まりの日から半年過ぎた一連の儀式を納めるような意味があったのだろうと思う。
10月31日、この日は朝1番に起きて、1日中スタッフを呼び止めて語る日だった。夕方「私は天皇陛下の佐々木守男だ。いつもの佐々木守男とは違うぞ」と威厳ある様子で語った。その後「おっかさんさ電話する」と立ち上がり、傍にいたスタッフの片方さん、二唐さん、私にそれぞれ言葉を伝えてくれた。それは断片的で明確には内容がとらえられないのだが、真剣な言葉であることは間違いなかった。その言葉を我々は必死で受け止めようとする。最後に守男さんは「すでに自動車が閉じております」と言った。あとから振り返るとこの日を最後に守男さんは敬礼をしなくなり、軍隊の感じが抜けた。
11月1日、入居時からかぶっていた皮の帽子を「これ頼むじゃ、無くしちゃダメだぞ」「他の人にはやるな」と二唐さんに託した。スタッフの間ではこの帽子を鉄兜と呼んでいて、守男さんは寝るときも肌身離さずかぶっていた。この帽子をかぶっているときは兵隊になり、「これは俺の魂だ」と言った事もあった。入居以来片時も離さず持っていたその帽子はこうして二唐さんに受け継がれた。その帽子を二唐さんはそのまま台所の棚に置いたというのだが、その日から見当たらなくなった。理事長は「守男さんは二唐さんの持つ、異界の裂け目に預けたので、その帽子はもう出てこないかもしれない。いずれにしても、その帽子は鉄兜として二唐さんに預けられた」と言う。確かに二唐さんをよく知る人なら、彼女には鉄兜を被った果敢な戦いが必要だと感じる。その帽子は12月になってタンスから出てきたが、それは、すでに二唐さんの鉄兜であって、二唐さんは守男さんから継いだこの鉄兜で生涯戦い続けられるのではないかと感じる。守男さんは帽子がなくても以前のように探すこともなく、帽子のことは何も言わない。その日の夕方、守男さんはキッチンに立っていた私を指差して「兵隊覚えてらか?」と確かめるように言った。出征兵として見送られた日から守男さんはずっと私を見守ってくれている。深い認知症はそういう大事なところを怖いぐらいにはずさない。「これから戦うのはおまえだ。俺ではない」と言われているように感じる。戦いは私に引き継がれた。幸い私の戦いは、人を殺すむごい所作はない。介護の現場で「人を人として発見し直す、新たな時代への取り組みがお前の戦いだ」と守男さんが教え励ましてくれているように思う。
守男さんから兵隊が抜けていく変化の日々を過ごしていた11月3日、家族さんがグループホームに来られた。そして「井戸がやっと10月31日に閉じられました」と知らせてくれた。半年を経てやっと井戸の工事が行われ、現実の井戸が閉じられたのと、守男さんの井戸が閉じられ、軍隊から解放されたのと同じ日だった。我々スタッフも現実の井戸と守男さんの入った井戸がいつ閉じるのだろうと気にしながらやってきたのだが、その両者はぴたりと重なって同じ日に閉じた。不思議な事だが事実であるし、当然のことのようにも感じる。
両方の井戸が閉じたのに伴って、11月に入ってから守男さんの様子は変わった。戦友の酒井さんとは顔を合わせても敬礼の挨拶は一切しなくなった。酒井さんの方から敬礼をしても、守男さんは優しく微笑んで会釈するだけで、もうすっかり兵隊ではなくなっている。以前の上官の厳しい雰囲気は一変して、柔らかい表情で微笑んでいる。その一方で夜間、スタッフの北舘さんに「母さん」と呼んで泣くことが何度か見受けられるようになった。日本男児として勇ましく戦わなければならなかった守男さんは、ようやくその戦いを終え、負った傷を癒し、母なる存在を求めて優しいお母さんの元に返ろうとしているのだろうか。
5、6、7月で戦争の傷を癒す儀式をほぼ成し遂げ、8、9、10月で私達若い世代に伝え渡して、長年秘めてきた守男さんの長い戦いはひとまず終わった。今は打って変わって穏やかな表情になり、柔らかな雰囲気に包まれている。これから守男さんは母なる世界に向かって旅を続けるのだろうか。グループホームという場で我々若い世代は確かに何かを守男さんから伝え渡された。それが何なのかはまだ明確ではないが、スタッフそれぞれが自覚して探って行きたい。それは守男さんが生きた時代とその経験すべてを伝えてくれているように感じる。守男さんは「日本人として戦え」と言っているようにも「祈れ」とも「踊れ」とも言っているように感じる。
守男さんの中では、今やっと昭和の戦争が終わって平穏が訪れた。そして守男さんから何かを継いだ私の戦いがこれから始まる。覚悟して臨んで行きたい。
今年、入居から2年を経て、新体制の4月「さあ始めるぞ」という守男さんの言葉に、頼りないチームだったが、「いよいよ来たな」と感じ、「よし、きちんとついて行こう。支えよう。逃さず記録しよう」と身構えた。そして皮切りは、クミさん(仮名)と出かけた神社への踊りの奉納だった。守男さんが辿った半年の癒しの儀式には不思議なことがいっぱい起こるのだが、そのひとつはクミさんが儀式の場に必ずいることだ。クミさんは一日に何回も、家に帰ると言って外に出て歩いて行く人だが、いわゆる認知症の周辺症状の当事者とは全く思えない感じで、守男さんの儀式には参加してちゃんと支えてくれていた。
それから半年の間、守男さんは本当に兵隊になり、私や男性スタッフの酒井さんを兵隊に見立てて毎日語り尽くす感じで語った。それと平行して守男さんは時折、体が重くなり全く動けなくなることがあった。イメージとして深い井戸の底に入ってしまったような感じだった。重くなってしまうと、お風呂の介助も二人体制での介助が必要になった。男性スタッフの酒井さんは力ではなく、兵隊関係で「大将お願いします」とやりとりしてお風呂から上がってもらっていた。女性だと兵隊になれないので、なかなか上がれなかった。もうこれは男の兵隊になるしかないとハラを決め、敬礼をして「大将上がります」などとやって何とか上がってもらったりした。普段は普通に歩けるのに、時折、重くなって全く動けない感じになるのは不思議だったが、深い傷を癒す作業をするために、本当に井戸の底に降りていっているのだと生々しく感じたものだった。そしてちょうどそのころ、現実に守男さんの実家の井戸を埋めるという話が出た。家族の方は、埋めるには守男さんの許可がないとできないと、グループホームの守男さんに相談に来られた。守男さんは埋めることを許可したのだが、埋めてはならないと語ることもあった。家族さんは埋める工事のための儀式を行なった。守男さんを筆頭に例のクミさんと私とスタッフのェ恵さんでその儀式に参加した。ところがいざ工事が始まる前日、頼んだ業者の奥さんが亡くなられて工事は延び延びになり、実家の井戸はいつ埋められるのか予定がたたなくなってしまった。守男さん自身の井戸もまだ埋まる感じはなく、守男さんは井戸の底から上がってこられないでいた。6月、7月、8月と守男さんは井戸の底にあって、厳しくつらい作業をしている様子だった。7月の1ヶ月間は酒井さんに重い内容を語り続けた。その内容は軍隊の上官としての言葉なのだが、あまりにリアルで酒井さんは全く記録できず、強い印象を残しながらも具体的な内容は残っていない。当時メンタル面で少し弱っていた酒井さんが、守男さんの語りの重さに耐える余力はなかったのだろうし、そんな状態の酒井さんにだからこそ守男さんは語れたのかもしれない。8月には以前通信に書いたように、私を出征兵士に見立てて玄関で送り出してくれた。認知症の人と触れたことのない人にはわかりにくいかと思うが、実際に体験したものとして言わせてもらうと、認知症の人の訳のわからない話と思うのはまったくまちがっている。それは生々しい現実感を伴って迫ってくる体験だった。実際私は感極まって涙が出てくるし、本当に出征する人になっていた。そこに居合わせたスタッフの二唐さんも寛恵さんも、利用者の歩さん(仮名)、そしてこうした儀式は決してはずさないクミさんもいて本気で送り出してくれた。確かに現実のことではないと私も認識をしているが、内的な事実としては本当に私は出征兵士になっていたし、みんなもその場に本気で参加していた。それは守男さんの深い傷がもたらす、戦争体験の癒しの過程であったからこそ起こった事ではないだろうか。そしてその頃は、守男さんの癒やしは、若いスタッフに何かを継ぐことでなされるんだとスタッフの誰もが感じていた。主に守男さんに言葉で伝えられたのは、私と酒井さんだった。寛恵さんや二唐さんもモノをもらったり体を預けられたりしながら伝えてもらった。守男さんの癒しの儀式は6月、7月でほとんど完了したように感じた。その後、語り伝える8月9月があって、秋になった。
10月4日、夕方のリビングで守男さんは涙を流しながら「私は満州に行って戦ってまいりました。死にたくない奴、殺したくない奴は帰れと言ってやってきたのであります。私は日本男児を忘れないために届けにきました」と語った。軍隊の上官の厳しい口調で語るのだが、その表情はいつも悔やんでいるような苦しさがあった。スタッフは重苦しい感じを和らげようと「おかげでそれから日本は平和になりました」と語ると、守男さんは微笑んで目を閉じた。
この半年、スタッフの酒井さんは軍隊で守男さんの部下になっていた。酒井さんが守男さんを入浴に誘うと「俺はあとでいいから若い奴らを先に入れてやってくれ」と上官の言葉が帰ってくる。「はい!それでは新兵から入らせていただきます」と酒井さんも応える。軍隊調のやりとりで、敬礼の挨拶を交わしていた。「さあ始めるぞ」の言葉から半年、守男さんとともに我々は戦場にいた。そしてこういうことが「さあ始めるぞ」に込められていたことも確信を持って理解していた。年が明ければ1月で93歳になる守男さん。今、人生をかけて私達に何かを伝え、育てようとしてくれている。私達も守男さんの思いをしっかりと受け止めたいと必死で、守男さんの言葉を真剣に聞き、記録した。
10月24日、守男さんと酒井さんはいつものように向き合って敬礼をしていた。夕方、守男さんがいきなり「八幡神社の祭礼を祝う」と言って立ち上がった。ゆったりしていたリビングに緊張感が漂う。「お集まりになっておめでとうございます。佐々木守男でございます。私は家族のもの、神社の別当になった以上は良い花を責任もって…そう感じております。八幡の式をあげたいと思います。無礼ではありますが、皆さんと一緒になってあげたいと思ってますから」そう言って玄関に向かった。同じタイミングで玄関に座っていたクミさんが外へと歩き出す。これは八幡神社に行けということなのか?寛恵さんと私は慌てて車を用意した。「誰が付いて行けばいいですか?」と守男さんに尋ねると、「誰でもいい…男だな」と酒井さんを選んだ。酒井さんの運転で、先に歩いていたクミさんを拾って助手席に乗せ、後部座席には守男さんと私の4人で守男さんの自宅近くの八幡神社へ向かった。冷たい秋風が吹く中、神社に着くとクミさんと酒井さんに両脇を支えてもらって拝殿に向かった。この日の神社詣には、始まりの日から半年過ぎた一連の儀式を納めるような意味があったのだろうと思う。
10月31日、この日は朝1番に起きて、1日中スタッフを呼び止めて語る日だった。夕方「私は天皇陛下の佐々木守男だ。いつもの佐々木守男とは違うぞ」と威厳ある様子で語った。その後「おっかさんさ電話する」と立ち上がり、傍にいたスタッフの片方さん、二唐さん、私にそれぞれ言葉を伝えてくれた。それは断片的で明確には内容がとらえられないのだが、真剣な言葉であることは間違いなかった。その言葉を我々は必死で受け止めようとする。最後に守男さんは「すでに自動車が閉じております」と言った。あとから振り返るとこの日を最後に守男さんは敬礼をしなくなり、軍隊の感じが抜けた。
11月1日、入居時からかぶっていた皮の帽子を「これ頼むじゃ、無くしちゃダメだぞ」「他の人にはやるな」と二唐さんに託した。スタッフの間ではこの帽子を鉄兜と呼んでいて、守男さんは寝るときも肌身離さずかぶっていた。この帽子をかぶっているときは兵隊になり、「これは俺の魂だ」と言った事もあった。入居以来片時も離さず持っていたその帽子はこうして二唐さんに受け継がれた。その帽子を二唐さんはそのまま台所の棚に置いたというのだが、その日から見当たらなくなった。理事長は「守男さんは二唐さんの持つ、異界の裂け目に預けたので、その帽子はもう出てこないかもしれない。いずれにしても、その帽子は鉄兜として二唐さんに預けられた」と言う。確かに二唐さんをよく知る人なら、彼女には鉄兜を被った果敢な戦いが必要だと感じる。その帽子は12月になってタンスから出てきたが、それは、すでに二唐さんの鉄兜であって、二唐さんは守男さんから継いだこの鉄兜で生涯戦い続けられるのではないかと感じる。守男さんは帽子がなくても以前のように探すこともなく、帽子のことは何も言わない。その日の夕方、守男さんはキッチンに立っていた私を指差して「兵隊覚えてらか?」と確かめるように言った。出征兵として見送られた日から守男さんはずっと私を見守ってくれている。深い認知症はそういう大事なところを怖いぐらいにはずさない。「これから戦うのはおまえだ。俺ではない」と言われているように感じる。戦いは私に引き継がれた。幸い私の戦いは、人を殺すむごい所作はない。介護の現場で「人を人として発見し直す、新たな時代への取り組みがお前の戦いだ」と守男さんが教え励ましてくれているように思う。
守男さんから兵隊が抜けていく変化の日々を過ごしていた11月3日、家族さんがグループホームに来られた。そして「井戸がやっと10月31日に閉じられました」と知らせてくれた。半年を経てやっと井戸の工事が行われ、現実の井戸が閉じられたのと、守男さんの井戸が閉じられ、軍隊から解放されたのと同じ日だった。我々スタッフも現実の井戸と守男さんの入った井戸がいつ閉じるのだろうと気にしながらやってきたのだが、その両者はぴたりと重なって同じ日に閉じた。不思議な事だが事実であるし、当然のことのようにも感じる。
両方の井戸が閉じたのに伴って、11月に入ってから守男さんの様子は変わった。戦友の酒井さんとは顔を合わせても敬礼の挨拶は一切しなくなった。酒井さんの方から敬礼をしても、守男さんは優しく微笑んで会釈するだけで、もうすっかり兵隊ではなくなっている。以前の上官の厳しい雰囲気は一変して、柔らかい表情で微笑んでいる。その一方で夜間、スタッフの北舘さんに「母さん」と呼んで泣くことが何度か見受けられるようになった。日本男児として勇ましく戦わなければならなかった守男さんは、ようやくその戦いを終え、負った傷を癒し、母なる存在を求めて優しいお母さんの元に返ろうとしているのだろうか。
5、6、7月で戦争の傷を癒す儀式をほぼ成し遂げ、8、9、10月で私達若い世代に伝え渡して、長年秘めてきた守男さんの長い戦いはひとまず終わった。今は打って変わって穏やかな表情になり、柔らかな雰囲気に包まれている。これから守男さんは母なる世界に向かって旅を続けるのだろうか。グループホームという場で我々若い世代は確かに何かを守男さんから伝え渡された。それが何なのかはまだ明確ではないが、スタッフそれぞれが自覚して探って行きたい。それは守男さんが生きた時代とその経験すべてを伝えてくれているように感じる。守男さんは「日本人として戦え」と言っているようにも「祈れ」とも「踊れ」とも言っているように感じる。
守男さんの中では、今やっと昭和の戦争が終わって平穏が訪れた。そして守男さんから何かを継いだ私の戦いがこれから始まる。覚悟して臨んで行きたい。
TEAM90の存在の力(その1) ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2012年12月号】
■はじめに
すばるユニットで巻き起こっているダイナミズムや、言葉、コミュニケーション、繋がり、育て、過去、リアルタイムでの出来事など、ものすごい事が日々起こっていることを伝えたくて書きます。「TEAM90」とは、すばるユニットで90歳を超えている3名の事を指しています。(私が勝手に名付けました)。この3名が中心になって若いスタッフを支え、ユニットを守り動かしてくれています。そしてユニットやスタッフ個々の課題を常に提示してくれます。90歳を超えた人たちのこのパワーはどこから湧いてくるのか…。もちろん、その他の利用者さんもすごいので、毎日さまざまな話題が巻き起こります。認知症や老いは、人間をアスリートや芸術家に近い存在にすると感じます。もしかしたらそれらよりもさらに超人的な存在なのかもしれません。私はこうした利用者に支えられて、仕事を続けられているような気がします。楽しくて、辛くて心が動かざるえないのです。
■タクヤさん
タクヤさん(仮名)はいつもすごい!毎日、タクヤさん会議を開きたいくらい、見通していてビシッと言葉をくれる。この日は、朝方から火事・電気・水を題材にタクヤさんのストーリーが始まった。早番の仕事は朝は忙しく、私がパタパタと動いていると「ちょい!」と呼ぶタクヤさん。近寄ると「あなたの〜仕事〜…誰にでも火をつけたり、終わらせたり、消すことも出来る。スイッチを切ることもつけることもだ。だから、難しくて怖い仕事なんだからね!でも、あなたにはいい機会なんだ」と語ってくれる。朝一のその言葉で心が動かされる。まさしくその通りだがすぐには「はい!!」と返事が出来なかった(タクヤさんは、私には言葉のハードルを下げて解りやすく伝えてくれているように感じる)。今日も言葉をくれる日なんだ!と感じて、タクヤさんの横にメモ帳を置く。タクヤさんは自分のことで悩んで、答えを出せずにいることがある。その時は、言葉を細かくメモに書き写し、一緒に考えてみる。もちろんその問いを解決したり、答えを出すなんてことはできない。問いの次元がこの世を超えていることだって多いので、適当な答えや、それらしい答えが通用しないからだ。だから、ひたすら一緒に悩む。
朝食後、腕を組みながら「まいった〜まいった〜!どーしようもない〜!今すぐにって訳にゃ〜いかんね〜!」と話すタクヤさん。「そうですね…うまくいかないものですね…」と返す。ちょうどその時、すばるのユニットがバラバラでどうすればチームが出来るのか悩んでいた時のことだった。過去にもタクヤさんは、ユニットのことで悩んでいたり、特養のことで悩んでいた時に、たびたび言葉や突破口の見つけ方などを助言してくれていたので、もしかして今回も助言してくれるのでは?と思いすぐにペンを持ちメモをとる。すると、「時間…時間が経てば良くなるもんかな〜。少しは時間が経てば良くはなるとは思うけど…ちょっとお手上げぇ〜〜〜〜!はっはっは〜!」と、さすがのタクヤさんもお手上げのよう。それでも、タクヤさんは見捨てない人だと今までの経験上分かっているので、少しの沈黙の後「オレは、タクヤさんの言葉を大事にしているつもりです。頭悪いから、なかなかすぐには分からないですけど…すみません」と伝える。それを聞いたタクヤさんは、またしても「はっはっは〜!」と笑う。そして「それはそれは〜ありがたい!私もね、そろそろこの世の人ではなくなると思うから…。逝く前にと頑張っているのだから!」と話す。「分かりました!オレもタクヤさんの言葉を一生留めておきます!」と伝えると、「ほっほー!そうだそうだ!そうじゃないと、私もやる意味がないからねー!他の人達にも教え教えられて。やってらはずだ!と、思う。」とニッコリと微笑む。やはりタクヤさんはすごい人だ!その後も教えは続く。しかし、こんなに教えてもらったり助けてもらっていたのでは、どちらが給料をもらっていいのか分からない。そこで、「オレ…タクヤさんから貰ってばかりで…。何をしたら恩返しになりますか?」とたずねる。タクヤさんから返ってきた言葉はこうだ!「うーん…。苦労!苦労しなさい!今のうちにたっくさんとね!」だった。頭の中で『恩返し=苦労』を考えたが、よく分からず「えーっと…なんで苦労ですか?しかも今?」と質問をする。すると、タクヤさんはまた笑った後、少ししてから「私は…早くに父さん母さんを亡くした…」とゆっくりと話し出す。「両親がないから、両親から全部教わることが出来なかった。…でもね、その後私の爺さんと暮らした時があったんだ。爺さんってーのはすんごいよ!なっても教えてくれる!私もこの歳になったから、こうやって教えることが出来る!あなた方に!!あなた方も今のうちに苦労して、学んでから爺さんになりなさい!ねっ!」と言い切ってから笑みを見せる。「はい…。分かりました。オレ、今出来ることを全力でやって、苦労もたくさんします!んで、オレも爺さんになったらタクヤさんみたく伝えれる人になります!若い人達に!」と返すと、タクヤさんも「はっはっはー!!上出来だ!でもね、あなたはまず父親として苦労しなさい!ね!そーしなさい!はっはっはー!」と言うので驚いて言葉が出なかった。私がまもなく父親になることをなぜタクヤさんは解っているのだろう。固まっている私を見て、「うん!」と深く頷いたタクヤさんは「では、またいずれあなたとは一緒になると思うので、その時を楽しみにしていますよ。はーい!」と言うと目をつぶり、寝た…。
朝の1時間たらずの間にこんな会話がなされる。体に高圧の電気が流れるような感覚になる。タクヤさんの言葉にはいつも重みがあり、濃くて刺激的だ。タクヤさんの言葉が、私の生きる力になっていく。今の私のパワーの大半が、タクヤさんの言葉からもたらされているような気がする…タクヤさんは…いったい何者なんだ???
■クニエさん
クニエさん(仮名)は、寝たきりの状態で、両肘から上と首から上しか動かせない。それさえも自由自在に動かせる訳ではない。発語もほとんどできず「うー!」「あー!」とたまに声が出る程度。このところ食事も数口しか食べられず、点滴でなんとか持っている状況にある。秋からターミナル体制で臨んでいる。そんなクニエさんの部屋にみんな行きたがる。そしてたくさん話ができたとか、いっぱい語ってくれたとか報告がある。話せない人なのに、クニエさんは口から出る言葉ではなく豊かに語ってくれるのがすごい。そんなクニエさんとのやりとりを経験すると、若者同士のおしゃべりや、携帯やメールなどの繋がりが腐った表面上の繋がりに感じてきてしまう。それは全く繋がってなんかいない繋がりで、クニエさんとのやりとりのようにどーんとハラに応えるような迫力はまるでない。実際、今、私が世の中で1番コミュニケーションを感じるのは、ダントツクニエさんだ。表情・目線・手の動きや指の動きを通して莫大な情報や想いがガンガンと伝わって来る。もちろんクニエさんの気持ちや想いを正確に正しく私がキャッチできてはいない。「こうゆう事なのかな?」「なんだろう?」「わからない…」が常にあり99パーセント外しているような気もする。それでもクニエさんと居て、ほんの1パーセントでもいいから感じたいと、クニエさんの居室へ足が向かう。
これは考えの浅い私がはずしてしまった失敗談だ。クニエさんには今目標がある。それは特養に入居してからずっと一緒に過ごしてきたスタッフのほなみさんの出産だ(クニエさんとほなみさんとの関係は、過去の通信参照)。2人の関係は特別な関係だった。予定日の12月24日がクニエさんの部屋のカレンダーに○がしてある。クニエさんはそれをじっと毎日見て過ごしている。クニエさんとしても我々スタッフとしてもほなみさの赤ちゃんが生まれるまではあちらに逝くことは許されない感じがある。息子さんが来られようが、スタッフが話しかけようが、クニエさんは窓から見える空をじっと見つめている時がある。寝ていても、眉間にシワを寄せて何かを考えているような感じになる。そんな時こそ私は隣に居たいと思い、居室でコーヒーを入れたり、音楽をかけたり、本を読んだりしてクニエさんと同じ空を見つめる(打ち明けると、ほなみは私の妻で生まれるのは私の子ども)。
日が暮れて暗くなり窓のカーテンが閉まるとカレンダーを見つめるクニエさん。睨みつけているようなすごい迫力がある。なにかと会話をしている感じもある。ほなみさんが産休に入る前の11月から、予定日の12月24日に赤丸をつけ、毎日、日が暮れたら1日ずつ消してきた。そのカレンダーを見つめ、瞬きをせず睨みつけている。ほなみさんが産休に入って、実家の大船渡に帰ってからは、クニエさんは、カレンダーを通路にして大船渡のほなみさんと繋がっているのだ。
その話をした理事長からも「そうかクニエさんはカレンダーを通って本当に大船渡に行っているんだな」とイメージはもらっていたはずなのに、私はうかつにもつい居室でほなみさんの声を聞かせてあげたいと思って、スマホでほなみさんに電話をかけてしまった。電話でほなみさんがクニエさんに話しかけても、クニエさんは表情一つ変えずカレンダーを睨み続けていた。クニエさんは耳は聞えるはずなのになぁと思いつつ、私は電話口のほなみさんの言葉を大きな声でリピートした。それでも、やはりクニエさんは無反応だった。電話が終ると、クニエさんはキッと私の方を睨んだ。そして、またカレンダーを睨む。たまに、カレンダーと会話をしているようにうなずいたりもしている。そのクニエさんを見てやっと私は気がついた。電話なんかじゃだめなんだ、カレンダーの通路のほうが繋がれるし、想いも伝わるんだったんだと…。そして、軽率なことをしてしまったと気づいてクニエさんに謝った。するとクニエさんは私の方を向いて泣き始めた。その時、私はクニエさんと深く心を交し合った気がした。
後日、ほなみさんから手紙が届いた。その手紙を一緒に読む。クニエさんは目をパッチリと開いて読み始める。そして、「う〜!う〜!」と声を出して大泣きをした。そしてその後の夕食では、久しぶりにご飯をモリモリと食べたので驚いた。
ターミナル期に入ったクニエさんが、今新たなる命の誕生を待ちわびている。それはクニエさんの今の目標であり生きる意味がそこにある。何が何でもクニエさんに赤ちゃんを抱っこしてもらわないといけない!クニエさんにはその意味と義務がある!そして赤ちゃんにどんなメッセージを残すのか…そのメッセージをもらうために私はクニエさんの隣にいたい!クニエさんは今日も生きている!
次号に続く
すばるユニットで巻き起こっているダイナミズムや、言葉、コミュニケーション、繋がり、育て、過去、リアルタイムでの出来事など、ものすごい事が日々起こっていることを伝えたくて書きます。「TEAM90」とは、すばるユニットで90歳を超えている3名の事を指しています。(私が勝手に名付けました)。この3名が中心になって若いスタッフを支え、ユニットを守り動かしてくれています。そしてユニットやスタッフ個々の課題を常に提示してくれます。90歳を超えた人たちのこのパワーはどこから湧いてくるのか…。もちろん、その他の利用者さんもすごいので、毎日さまざまな話題が巻き起こります。認知症や老いは、人間をアスリートや芸術家に近い存在にすると感じます。もしかしたらそれらよりもさらに超人的な存在なのかもしれません。私はこうした利用者に支えられて、仕事を続けられているような気がします。楽しくて、辛くて心が動かざるえないのです。
■タクヤさん
タクヤさん(仮名)はいつもすごい!毎日、タクヤさん会議を開きたいくらい、見通していてビシッと言葉をくれる。この日は、朝方から火事・電気・水を題材にタクヤさんのストーリーが始まった。早番の仕事は朝は忙しく、私がパタパタと動いていると「ちょい!」と呼ぶタクヤさん。近寄ると「あなたの〜仕事〜…誰にでも火をつけたり、終わらせたり、消すことも出来る。スイッチを切ることもつけることもだ。だから、難しくて怖い仕事なんだからね!でも、あなたにはいい機会なんだ」と語ってくれる。朝一のその言葉で心が動かされる。まさしくその通りだがすぐには「はい!!」と返事が出来なかった(タクヤさんは、私には言葉のハードルを下げて解りやすく伝えてくれているように感じる)。今日も言葉をくれる日なんだ!と感じて、タクヤさんの横にメモ帳を置く。タクヤさんは自分のことで悩んで、答えを出せずにいることがある。その時は、言葉を細かくメモに書き写し、一緒に考えてみる。もちろんその問いを解決したり、答えを出すなんてことはできない。問いの次元がこの世を超えていることだって多いので、適当な答えや、それらしい答えが通用しないからだ。だから、ひたすら一緒に悩む。
朝食後、腕を組みながら「まいった〜まいった〜!どーしようもない〜!今すぐにって訳にゃ〜いかんね〜!」と話すタクヤさん。「そうですね…うまくいかないものですね…」と返す。ちょうどその時、すばるのユニットがバラバラでどうすればチームが出来るのか悩んでいた時のことだった。過去にもタクヤさんは、ユニットのことで悩んでいたり、特養のことで悩んでいた時に、たびたび言葉や突破口の見つけ方などを助言してくれていたので、もしかして今回も助言してくれるのでは?と思いすぐにペンを持ちメモをとる。すると、「時間…時間が経てば良くなるもんかな〜。少しは時間が経てば良くはなるとは思うけど…ちょっとお手上げぇ〜〜〜〜!はっはっは〜!」と、さすがのタクヤさんもお手上げのよう。それでも、タクヤさんは見捨てない人だと今までの経験上分かっているので、少しの沈黙の後「オレは、タクヤさんの言葉を大事にしているつもりです。頭悪いから、なかなかすぐには分からないですけど…すみません」と伝える。それを聞いたタクヤさんは、またしても「はっはっは〜!」と笑う。そして「それはそれは〜ありがたい!私もね、そろそろこの世の人ではなくなると思うから…。逝く前にと頑張っているのだから!」と話す。「分かりました!オレもタクヤさんの言葉を一生留めておきます!」と伝えると、「ほっほー!そうだそうだ!そうじゃないと、私もやる意味がないからねー!他の人達にも教え教えられて。やってらはずだ!と、思う。」とニッコリと微笑む。やはりタクヤさんはすごい人だ!その後も教えは続く。しかし、こんなに教えてもらったり助けてもらっていたのでは、どちらが給料をもらっていいのか分からない。そこで、「オレ…タクヤさんから貰ってばかりで…。何をしたら恩返しになりますか?」とたずねる。タクヤさんから返ってきた言葉はこうだ!「うーん…。苦労!苦労しなさい!今のうちにたっくさんとね!」だった。頭の中で『恩返し=苦労』を考えたが、よく分からず「えーっと…なんで苦労ですか?しかも今?」と質問をする。すると、タクヤさんはまた笑った後、少ししてから「私は…早くに父さん母さんを亡くした…」とゆっくりと話し出す。「両親がないから、両親から全部教わることが出来なかった。…でもね、その後私の爺さんと暮らした時があったんだ。爺さんってーのはすんごいよ!なっても教えてくれる!私もこの歳になったから、こうやって教えることが出来る!あなた方に!!あなた方も今のうちに苦労して、学んでから爺さんになりなさい!ねっ!」と言い切ってから笑みを見せる。「はい…。分かりました。オレ、今出来ることを全力でやって、苦労もたくさんします!んで、オレも爺さんになったらタクヤさんみたく伝えれる人になります!若い人達に!」と返すと、タクヤさんも「はっはっはー!!上出来だ!でもね、あなたはまず父親として苦労しなさい!ね!そーしなさい!はっはっはー!」と言うので驚いて言葉が出なかった。私がまもなく父親になることをなぜタクヤさんは解っているのだろう。固まっている私を見て、「うん!」と深く頷いたタクヤさんは「では、またいずれあなたとは一緒になると思うので、その時を楽しみにしていますよ。はーい!」と言うと目をつぶり、寝た…。
朝の1時間たらずの間にこんな会話がなされる。体に高圧の電気が流れるような感覚になる。タクヤさんの言葉にはいつも重みがあり、濃くて刺激的だ。タクヤさんの言葉が、私の生きる力になっていく。今の私のパワーの大半が、タクヤさんの言葉からもたらされているような気がする…タクヤさんは…いったい何者なんだ???
■クニエさん
クニエさん(仮名)は、寝たきりの状態で、両肘から上と首から上しか動かせない。それさえも自由自在に動かせる訳ではない。発語もほとんどできず「うー!」「あー!」とたまに声が出る程度。このところ食事も数口しか食べられず、点滴でなんとか持っている状況にある。秋からターミナル体制で臨んでいる。そんなクニエさんの部屋にみんな行きたがる。そしてたくさん話ができたとか、いっぱい語ってくれたとか報告がある。話せない人なのに、クニエさんは口から出る言葉ではなく豊かに語ってくれるのがすごい。そんなクニエさんとのやりとりを経験すると、若者同士のおしゃべりや、携帯やメールなどの繋がりが腐った表面上の繋がりに感じてきてしまう。それは全く繋がってなんかいない繋がりで、クニエさんとのやりとりのようにどーんとハラに応えるような迫力はまるでない。実際、今、私が世の中で1番コミュニケーションを感じるのは、ダントツクニエさんだ。表情・目線・手の動きや指の動きを通して莫大な情報や想いがガンガンと伝わって来る。もちろんクニエさんの気持ちや想いを正確に正しく私がキャッチできてはいない。「こうゆう事なのかな?」「なんだろう?」「わからない…」が常にあり99パーセント外しているような気もする。それでもクニエさんと居て、ほんの1パーセントでもいいから感じたいと、クニエさんの居室へ足が向かう。
これは考えの浅い私がはずしてしまった失敗談だ。クニエさんには今目標がある。それは特養に入居してからずっと一緒に過ごしてきたスタッフのほなみさんの出産だ(クニエさんとほなみさんとの関係は、過去の通信参照)。2人の関係は特別な関係だった。予定日の12月24日がクニエさんの部屋のカレンダーに○がしてある。クニエさんはそれをじっと毎日見て過ごしている。クニエさんとしても我々スタッフとしてもほなみさの赤ちゃんが生まれるまではあちらに逝くことは許されない感じがある。息子さんが来られようが、スタッフが話しかけようが、クニエさんは窓から見える空をじっと見つめている時がある。寝ていても、眉間にシワを寄せて何かを考えているような感じになる。そんな時こそ私は隣に居たいと思い、居室でコーヒーを入れたり、音楽をかけたり、本を読んだりしてクニエさんと同じ空を見つめる(打ち明けると、ほなみは私の妻で生まれるのは私の子ども)。
日が暮れて暗くなり窓のカーテンが閉まるとカレンダーを見つめるクニエさん。睨みつけているようなすごい迫力がある。なにかと会話をしている感じもある。ほなみさんが産休に入る前の11月から、予定日の12月24日に赤丸をつけ、毎日、日が暮れたら1日ずつ消してきた。そのカレンダーを見つめ、瞬きをせず睨みつけている。ほなみさんが産休に入って、実家の大船渡に帰ってからは、クニエさんは、カレンダーを通路にして大船渡のほなみさんと繋がっているのだ。
その話をした理事長からも「そうかクニエさんはカレンダーを通って本当に大船渡に行っているんだな」とイメージはもらっていたはずなのに、私はうかつにもつい居室でほなみさんの声を聞かせてあげたいと思って、スマホでほなみさんに電話をかけてしまった。電話でほなみさんがクニエさんに話しかけても、クニエさんは表情一つ変えずカレンダーを睨み続けていた。クニエさんは耳は聞えるはずなのになぁと思いつつ、私は電話口のほなみさんの言葉を大きな声でリピートした。それでも、やはりクニエさんは無反応だった。電話が終ると、クニエさんはキッと私の方を睨んだ。そして、またカレンダーを睨む。たまに、カレンダーと会話をしているようにうなずいたりもしている。そのクニエさんを見てやっと私は気がついた。電話なんかじゃだめなんだ、カレンダーの通路のほうが繋がれるし、想いも伝わるんだったんだと…。そして、軽率なことをしてしまったと気づいてクニエさんに謝った。するとクニエさんは私の方を向いて泣き始めた。その時、私はクニエさんと深く心を交し合った気がした。
後日、ほなみさんから手紙が届いた。その手紙を一緒に読む。クニエさんは目をパッチリと開いて読み始める。そして、「う〜!う〜!」と声を出して大泣きをした。そしてその後の夕食では、久しぶりにご飯をモリモリと食べたので驚いた。
ターミナル期に入ったクニエさんが、今新たなる命の誕生を待ちわびている。それはクニエさんの今の目標であり生きる意味がそこにある。何が何でもクニエさんに赤ちゃんを抱っこしてもらわないといけない!クニエさんにはその意味と義務がある!そして赤ちゃんにどんなメッセージを残すのか…そのメッセージをもらうために私はクニエさんの隣にいたい!クニエさんは今日も生きている!
次号に続く
変わる力、変えていく力 【2012年12月号】特別養護老人ホーム 山岡睦
11月のある週末、特養のユニット「こと」でのこと。私は休日で不在だった。朝から利用者のミエさん(仮名)は何やら思いのある日だったらしい。昼過ぎになると「家に帰りたい」という思いから動き始めた。その思いはかなり強かったということだ。ちょうどこの日、他のユニットで紅葉ドライブを計画していて、午後から出かけることになっていたので、ミエさんの“行く”という気持ちを受けてスタッフの田村さんとミエさんが一緒に出かけることにしたらしい。紅葉ドライブに出かけて、それにうまい具合にはまれたら、ミエさんの気持ちも切り替わるかもしれない、紅葉を一緒に楽しめるかもしれない、そう思っての外出だった。
ところが実際出かけると、ミエさんのイメージは“お寺に行って拝む”とか、“お金を集める”といったところにあって、“紅葉を楽しむ”感じとはほど遠く…外は寒くて、田村さんは車酔いをしてしまい、ミエさんと話がかみ合わず、すれ違ったまま結局ミエさんとは向き合えない散々なドライブになってしまった。その上、容赦なく問い詰めてくるミエさんに、田村さんの車酔いはさらに悪化してしまった。特養に帰ってくるとミエさんは「今日は失敗だな!!」と言い、まさにそのとおりなのだけど、とどめを指す一言…その場にいなくても聞いただけで苦しくなってしまう話だった。
その後、田村さんがユニットに戻り、スタッフで集まって話をしていると、「それじゃあ…」とミエさんが話の輪に入ってきた。ミエさんは会議のイメージだったらしく意見を言った。「ここにはぴゃっぴゃっとした人たちばりいて、根元しっかりした人いないじゃない。だから書かなかったの。私はこういう場で喋る事はあまりしませんでした。意見が出てきたから…過酷だなと思うけど、少し過酷な方がいいと私は思うの。時期尚早だけど、改革しないと。誰かがどこかで改革していかないとダメだと思って。改革派がもう少し強ければ、それに私も引き込まれると思うの。若い人はどんどん入ってくるし。爆発すればいいと思う。正しいことは正しいと叫ぶ世の中になって欲しいと思います」。ミエさんがこう語ったとの日誌を、後日読んで、私はぐっと熱いものがこみ上げてきて涙が出そうだった。そしてミエさんさすがだなと思った。今年度の4月に私はグループホームから異動してきてユニットのチーム作りに私なりに奮闘してきたが、なかなか思うようにはいかなかった。私がこれまで所属していたグループホーム第1は銀河の里の設立当初からある伝統の現場で、さすがに空気が違って、新人が入ってきてチームが入れ替わったり、スタッフの異動があったりしても、確かにグループダイナミズムは変化するが、揺らがない雰囲気や空気はあった。しかし特養は立ち上げ3年目とはいえ、やっと開設時の混乱から抜け出して落ち着きかけたところで、まだまだチームができているとは言いがたい感じがあり、スタッフ間のやりとりや、起こったことへのチームでの焦点のあて具合がしっくりとは来ないところがあった。2年目の田村さんと今年の新人の川戸道さんのフレッシュな勢いが私には大きな頼りだった。その感じを利用者の人たちはかなり敏感に正確に感じ取る。8月に亡くなられた遠子さん(仮名)と、ミエさん、フミさん(仮名) の3人はそれぞれ認知症や認知症でなくても不思議な異界を持っている人たちなのだが、そういう人たちだからこそ若い人を育てる点に関してのセンスが鋭敏に動いた。「この二人を育てましょう。そのために私たちががんばるのよ」という空気が6月にはすでに出てきていた。それは異動してきてユニット「こと」にいる私の職務上の使命とも重なるので同志を感じてきた。
若い人たちが育っていく必要がある。人と向き合ったり、自分と向き合うことはミエさんの言葉を借りれば“過酷な”ことだと思う。決して楽ではない。見ないふりをしてやり過ごすことはできるけれど、それでは何も深まってはいかないし自分も育たない。自分を深めていく、誰かとの関係を作り繋いでいく、それが出来るかどうかは自分次第。過酷だけども思い切って自分の殻を破って、いい意味で誰かを巻き込んで人生を豊かにしていったほうが面白いじゃないか。そうミエさんはこの会議の発言で語っているように私は感じて心打たれたのだった
自分の思いをぶつけるのは勇気がいる。怖さも伴う。でも伝えなければ始まらない。心が動き、そこに思いがあるのなら、それをなかったことにはしてはいけないのだと思う。ミエさんの言う“正しいことは正しいと叫ぶ”というのは、自分という存在と向き合い、自信をもつこと、信じること、伝えること・・・そういった強さをもつこと、なのかな。相手を理解し、自分を理解していくためにも“伝える”ことが大事なのだと思う。一方的に押し付けるのではない形にするには、伝える側と受け取る側がお互いに意識していないと難しいけれど、意識するだけで随分変わると思う。“伝えたい”という思いがあれば、何かしら動いていくのではないだろうか。
自分を押し殺して周りに合わせるしかなかったり、自分を出せずに苦しんでいる人が多い。そんな中で、もっと思い切ってもいいんだよとミエさんは教えてくれている。そんな思い切りを里の利用者は受け止めてくれると、私はグループホームで経験的に学んできた。
もうすぐ新年を迎え、数ヶ月もすればまた新人も入ってくる。“若い人がどんどん入ってくる”のだ。まさにこのタイミングでミエさんの語り。田村さんはその言葉を受け止めた。
『“爆発”“改革派”“強さ”どれも自分に必要なもの』と、ミエさんの言葉を日誌に記録した田村さんが、自分へのメッセージとして受け止めている。後で「山岡さんがいなくて、他の「こと」のスタッフが皆そろっていた時で、その場にいた皆に言っているような気がした」と田村さんは話してくれた。ミエさんのメッセージを受け止め、爆発するぞと話す田村さんを見て私もワクワクした。それは田村さんだけではなく、今の特養全体に向けたメッセージに聞こえる。私自身もミエさんのエールを受け止めたい。
私が不在だったその夜、田村さん、川戸道さん、美由樹さんのスタッフ3人からそれぞれメールが届いた。一日の様子を伝えてくれるメールだった。その内容も三者三様でそれぞれの視点が面白い。その日に起きたことをそれぞれが感じ、伝えてくれたことが嬉しかった。
介護現場は暮らしの現場だから、毎日何かが動いて何かが起こってくる。利用者、スタッフ、ひとりひとりが絡みあって不思議なことがたくさん起こる。それらを“感じて受け止める”力を、そして“伝える”力を個々が持つチームに育っていけたらいいなと思う。
ところが実際出かけると、ミエさんのイメージは“お寺に行って拝む”とか、“お金を集める”といったところにあって、“紅葉を楽しむ”感じとはほど遠く…外は寒くて、田村さんは車酔いをしてしまい、ミエさんと話がかみ合わず、すれ違ったまま結局ミエさんとは向き合えない散々なドライブになってしまった。その上、容赦なく問い詰めてくるミエさんに、田村さんの車酔いはさらに悪化してしまった。特養に帰ってくるとミエさんは「今日は失敗だな!!」と言い、まさにそのとおりなのだけど、とどめを指す一言…その場にいなくても聞いただけで苦しくなってしまう話だった。
その後、田村さんがユニットに戻り、スタッフで集まって話をしていると、「それじゃあ…」とミエさんが話の輪に入ってきた。ミエさんは会議のイメージだったらしく意見を言った。「ここにはぴゃっぴゃっとした人たちばりいて、根元しっかりした人いないじゃない。だから書かなかったの。私はこういう場で喋る事はあまりしませんでした。意見が出てきたから…過酷だなと思うけど、少し過酷な方がいいと私は思うの。時期尚早だけど、改革しないと。誰かがどこかで改革していかないとダメだと思って。改革派がもう少し強ければ、それに私も引き込まれると思うの。若い人はどんどん入ってくるし。爆発すればいいと思う。正しいことは正しいと叫ぶ世の中になって欲しいと思います」。ミエさんがこう語ったとの日誌を、後日読んで、私はぐっと熱いものがこみ上げてきて涙が出そうだった。そしてミエさんさすがだなと思った。今年度の4月に私はグループホームから異動してきてユニットのチーム作りに私なりに奮闘してきたが、なかなか思うようにはいかなかった。私がこれまで所属していたグループホーム第1は銀河の里の設立当初からある伝統の現場で、さすがに空気が違って、新人が入ってきてチームが入れ替わったり、スタッフの異動があったりしても、確かにグループダイナミズムは変化するが、揺らがない雰囲気や空気はあった。しかし特養は立ち上げ3年目とはいえ、やっと開設時の混乱から抜け出して落ち着きかけたところで、まだまだチームができているとは言いがたい感じがあり、スタッフ間のやりとりや、起こったことへのチームでの焦点のあて具合がしっくりとは来ないところがあった。2年目の田村さんと今年の新人の川戸道さんのフレッシュな勢いが私には大きな頼りだった。その感じを利用者の人たちはかなり敏感に正確に感じ取る。8月に亡くなられた遠子さん(仮名)と、ミエさん、フミさん(仮名) の3人はそれぞれ認知症や認知症でなくても不思議な異界を持っている人たちなのだが、そういう人たちだからこそ若い人を育てる点に関してのセンスが鋭敏に動いた。「この二人を育てましょう。そのために私たちががんばるのよ」という空気が6月にはすでに出てきていた。それは異動してきてユニット「こと」にいる私の職務上の使命とも重なるので同志を感じてきた。
若い人たちが育っていく必要がある。人と向き合ったり、自分と向き合うことはミエさんの言葉を借りれば“過酷な”ことだと思う。決して楽ではない。見ないふりをしてやり過ごすことはできるけれど、それでは何も深まってはいかないし自分も育たない。自分を深めていく、誰かとの関係を作り繋いでいく、それが出来るかどうかは自分次第。過酷だけども思い切って自分の殻を破って、いい意味で誰かを巻き込んで人生を豊かにしていったほうが面白いじゃないか。そうミエさんはこの会議の発言で語っているように私は感じて心打たれたのだった
自分の思いをぶつけるのは勇気がいる。怖さも伴う。でも伝えなければ始まらない。心が動き、そこに思いがあるのなら、それをなかったことにはしてはいけないのだと思う。ミエさんの言う“正しいことは正しいと叫ぶ”というのは、自分という存在と向き合い、自信をもつこと、信じること、伝えること・・・そういった強さをもつこと、なのかな。相手を理解し、自分を理解していくためにも“伝える”ことが大事なのだと思う。一方的に押し付けるのではない形にするには、伝える側と受け取る側がお互いに意識していないと難しいけれど、意識するだけで随分変わると思う。“伝えたい”という思いがあれば、何かしら動いていくのではないだろうか。
自分を押し殺して周りに合わせるしかなかったり、自分を出せずに苦しんでいる人が多い。そんな中で、もっと思い切ってもいいんだよとミエさんは教えてくれている。そんな思い切りを里の利用者は受け止めてくれると、私はグループホームで経験的に学んできた。
もうすぐ新年を迎え、数ヶ月もすればまた新人も入ってくる。“若い人がどんどん入ってくる”のだ。まさにこのタイミングでミエさんの語り。田村さんはその言葉を受け止めた。
『“爆発”“改革派”“強さ”どれも自分に必要なもの』と、ミエさんの言葉を日誌に記録した田村さんが、自分へのメッセージとして受け止めている。後で「山岡さんがいなくて、他の「こと」のスタッフが皆そろっていた時で、その場にいた皆に言っているような気がした」と田村さんは話してくれた。ミエさんのメッセージを受け止め、爆発するぞと話す田村さんを見て私もワクワクした。それは田村さんだけではなく、今の特養全体に向けたメッセージに聞こえる。私自身もミエさんのエールを受け止めたい。
私が不在だったその夜、田村さん、川戸道さん、美由樹さんのスタッフ3人からそれぞれメールが届いた。一日の様子を伝えてくれるメールだった。その内容も三者三様でそれぞれの視点が面白い。その日に起きたことをそれぞれが感じ、伝えてくれたことが嬉しかった。
介護現場は暮らしの現場だから、毎日何かが動いて何かが起こってくる。利用者、スタッフ、ひとりひとりが絡みあって不思議なことがたくさん起こる。それらを“感じて受け止める”力を、そして“伝える”力を個々が持つチームに育っていけたらいいなと思う。
拝啓 鷲田清一 先生へ ★施設長 宮澤京子【2012年12月号】
私は岩手県花巻でグループホームなど、小さな福祉施設を運営しているものです。高齢者だけではなく、様々な世代が入り交じり、関わりあって生きる、そんな暮らしの場を作りたいと、都会から移り住んで20年になります。2001年から認知症の人たちと暮らしはじめ、障がい者の人たちとも一緒に働きながら生きています。今回、訳あって先生のお力をお借りしたく、失礼ながら通信を通じて、お手紙を書かせていただきました。
【銀河の里の思索】
グループホーム「銀河の里」は、認知症高齢者に鍛えられ、暮らしの中で貴重な発見の日々を重ねつつ12年間を過ごしてきました。ちょうど立ち上げの時期に出版されたジェームス・ヒルマンの『老いることでわかる性格の力』と、皆藤 章先生の『生きる心理療法と教育-臨床教育学の視座から』の二冊の書物に大きな影響を受けました。老いやボケをあくまで目的論的な視野に入れ、たましいの所作として高齢者を発見する姿勢を貫いたヒルマンと、操作主義的に流れる時代にあって、あくまで「生きる」ことから臨床を眼差そうとする皆藤先生の姿勢に、我々の切り開く道を模索してきました。2004年には岩宮恵子先生の『思春期を巡る冒険-心理療法と村上春樹の世界』が上梓され、一見畑違いなタイトルとはまったく違って、異界との通路を繋ぐ物語の力の考察に、現場での経験を照らされるような深い示唆を得ました。こうした背景に大きな存在として河合隼雄先生がおられたのですが、我々も07年に逝去されるまで先生の存在に支えられてきました。今後も河合先生の実践と思索に銀河の里が支えられ続けていくことは間違いないと思います。
「銀河の里」は、暮らしを重視して農業に本格的に取り組み、5haの田んぼに作付けをし、リンゴの生産販売もはじめています。米と味噌は完全自給で、福祉の制度を活用しながら、その本質は「人材育成塾」だの「教育機関」だのと言い、世間の常識とはかけ離れたところで思索し実践してきました。そのため、業界では完全なマイノリティと言うより異端の存在です。それは仕方ないことと自覚して独自の道を歩いてきたのですが、今年度持ち回りで地域のグループホーム協会の理事になったことから、これまで距離を置いていた業界を久々にのぞいてみて驚かされました。日本のグループホームケアはモデルケースの時代から17年を経て、今では全国に12000カ所が整備されています。ただどこか雲行きの怪しさを感じました。これだけの数と歴史を経た現場の経験があるというのに、そこで起こったことはまったく検証されておらず、知的、体験的なマテリアルの蓄積が全く成されていないのです。現場で起こっているはずのことが、全く注目されず、意識されないまま見捨てられている状態なのです。こんなもったいないことがあるだろうかと居ても立ってもいられないような気持ちにさせられます。ヒルマンが言うように、人は高齢になってこそ、本来その人に備わった性格(たましい)が、いよいよ輝きを増すということを日々感じさせられてきたからです。人類において「老いの発見」はまだ成されていないのだろうと思います。アカデミズムに所属しないアリエスが「子どもの発見」をしたように、「老いの発見」はグループホームの現場から成されるのではないかと感じるのです。認知症に向きあう深さとその数量に置いて郡を抜いた環境にある「グループホーム」における本質的な仕事はそこにあると思うのです。この通信の先月号の理事長のレポートにあるように、全国大会に1000人を超える現場のプロが集まって「宴会」ではもったいないし、道は開けないと痛感させられます。
グループホームの「現場で起こってくる事」は、人間が生き、存在している「関係」によってそこから新たな世界が広がると言うことです。一般の介護現場のような認知症高齢者を集めて問題を起こさないように管理し、社会から排除する姿勢では現れては来ない世界であり、現代社会の秩序とはかなり異質な感触があります。例えるなら遠野物語的な世界と感じるのですが、次のような特徴があると思います。
・各々が個別性を持つので、一般論や法則では括れない。
・個々の性格、たましいの世界が情念と共に噴出する。
・異界との通路を通じて異界と現実が交錯する。等、
個別性が強いのと、法則がないので、説明がつかないため、物語ることでしか伝えられません。また異界に足を取られてしまう危険もあるので、「暮らし」という現実に軸を置くことが大事で、「暮らし」は物語を異界から闇雲に垂れ流して暴発させない守りになっていると思います。そうした強固な守りを持ちながら、異界と連なる物語を紡ぐ必要があるのではないかと考えてきました。ここらあたりに高齢者の発見の道しるべがあるような気がするのです。現場の実感では、こんな凄いことが日々起こっているのに、このままでは高齢者どころか人間存在までが、空しく消費し消滅するだけになってしまうのではという危惧があります。しかし、こうした危惧を打ち払う突破口が今の社会ではほとんど見あたりません。数少ない可能性のひとつとして、グループホームにその可能性と使命があると確信しています。
折しも3.11の震災があり、東北の地域や日本人に、本質的な生き方の問いなおしが求められる状況が生まれました。それは世界中の期待も含めた視点となっています。ただ実際には残念ながら日本人は「軽く忘れて、なかったこと」にして、風化させてしまうだろうと思います。ですが、可能性がないわけではなく、もともとグループホームや福祉現場にあった「人間存在そのもの」に対峙する姿勢を、ここで外に出してみる時ではないかと感じてならないのです。
【何故、鷲田先生なのか】
我々の現場はまさに臨床哲学の最前線です。老いること、病むこと、障がいを持つこと、死に向かうこと、死を受け入れること、死者と繋がることなど、人間の生きることの本質が鏤められています。『聴くことの力』は、まさに物語ることの意味を問う作業そのものであり、『待つことの力』は我々の現場の最重要の作法と言えます。弱さの力は、障がい者支援のあり方を探った鋭い視点です。先生の思索と仕事は我々「銀河の里」の活動とかなり近しい関係にあるに違いないと感じるのです。
先生の臨床哲学には二つの方向性があるということで、知識や文献による研究と、現場に出かけて、その場を共有する経験としての哲学のことを述べられています。業界ではかなり異端の実践者ですが、その現場の実践が先生の臨床哲学の知見に、どのように映るのか、とても関心を持っています。ただの異端なのか、本質に近いのかそのあたりを確認してみたい思いもあります。一方的で押しつけがましく失礼ではありますが、この数年の「あまのがわ通信」をお送りします。是非先生にお目を通していただいてご意見、ご感想をいただけるものなら、とても幸いに思います。願わくば、議論討論の場を持てるなら、私共の狭い視点を脱皮して、何か開けるのではないかとの期待も持っている次第です。
動の威力と静の威力について
銀河の里で10年間を共に暮らし、先月亡くなられたHさんのことをお話ししたいと思います。彼女は認知症になって他県から岩手に移り、その後銀河の里に入居されました。品のある佇まいが印象的で、社交的で洒落た会話の言葉の豊かな方でした。しかしグループホームが、最後まで居場所にはならなかったのではないかと思います。彼女は朝4時から深夜の1時、2時までグループホームから出て外に向かって出かけました。グループホームは学生時代の寄宿舎や、地域の集会所や、家族で湯治に来た温泉だったり、旅行先の旅館になったりと、彼女が出かけたであろう出先でした。実家でも嫁ぎ先でもなく、常に
出先から帰る所、行く所に向かうべき出発点であったと思います。故に、彼女は1日何回もグループホームを出て行くのです。雨の日も風の日も雪の日も極暑極寒の日も、また昼夜にかかわらず、記録では1日23回の外出がありました。そのため、彼女に対応する特別シフトが組まれていました。
「徘徊」というとても嫌な病院用語がありますが、彼女には、出かける目的や行き先がはっきりとあり、目的もなくうろつくという意味合いの「徘徊」とは全く違ったイメージで、我々はそれを「旅」とイメージしました。朝一番は「学校へ行く」であることが多く、その後も「お婆ちゃんのお見舞いに」「子ども達のご飯支度のために」「PTAの会合に」「晩ご飯のお買い物」から、さらに、お爺ちゃん(父親)がいる実家に帰る、お父さん(夫)が待っている家に帰るなど、幼児期から活躍したであろう中年期までの間を時空を超えて自在に行き来するようでした。スタッフも彼女の今いる時空をはずさずついて行かなければなりません。ズレてしまうと激しい怒りを引き出したり、無視されたりします。スタッフは、常に真剣勝負で彼女の時空に対峙しなければなりません。彼女は4年間歩き続け、日中はグループホームで過ごすことのない日もありました。歩いて行く彼女をピックアップして車で走る距離は200kmを超える日が続きました。5年目あたりから急に外出はなくなっていくのですが、それでもグループホームの中を歩かれました。旅は続いていたのですが、その頃、彼女の旅をイメージできないスタッフが増えるようになり、管理的に扱うようになったのです。こうなると彼女の旅は急に消され、ただの徘徊に貶められそうになりました。そこでチームリーダーを入れ替えたのですが、むしろリーダーが浮いた感じにされてしまうようなチームの状況でした。孤立しそうなリーダーを支えたのはHさんでした。後ろに仰け反り、斜めに傾きながらも室内を歩き回るHさんにかき回されることで、再びチームは息吹を取り戻していきました。その後、認知症が深くなり、Hさんは歩くこともない時期に入りましたが、スタッフはHさんに見守ってもらっている感じがありました。
3年前に当法人の特養ホームに居を移し、昨年から経管栄養になり寝たきりの生活になりましたが、彼女の威力は、今までの時空を超えた旅や饒舌な語りではない形で健在でした。言葉は出なくなっても、特養ユニットの守り神のような存在で特養の立ち上げ時期の苦難を支えてくれたのです。最後の半年間は、Hさんの健康面での見守りのために、リビングで過ごしていましたが、しっかりユニットを見守ってくれていたという、ケアの逆転が起こっていたのです。ユニットで巻き起こる日常茶飯事の様々な騒動も、暴発して崩壊してしまうことがなく、彼女の見守りの中で収束していく感じでした。理不尽な状況に追い込まれたスタッフが、彼女の傍らで幾度も涙を流させてもらったのです。「私の気持ち」をしっかり見ていてくれるHさんの存在にスタッフも利用者も支えられていました。10年を経て、Hさんがいなければ今の「銀河の里」はなかったと言えます。彼女の時空を超えた旅に連れて行ってもらうことで、教えられ鍛えられ力をつけさせてもらいました。Hさんは、グループホームやユニットを居場所にせず、最後まで過去・現在・未来を「旅」し続けていたように思います。
でもその旅こそが、関わった多くのスタッフを見守り、育ててくれたと感じています。
著書『老いの空白』の違和感について
私の中で、老が空白だろうかという違和感が最後まで残りました。「空白」と言われると何もないような虚しさが漂います。「空」はエンプティのカラではなく、むしろ「空実」と言うべき何かであるように感じます。インド人が発見したというゼロも無い訳ではありません。ゼロがなくては何も無くなるくらいの存在感です。「空」は空白ではなく充満した「空」で、その存在そのものが「実」ではないかと思うのです。その「実」は、とても意味があり、存在そのもので宇宙に遍満した「命」そのものと捉えることはできないでしょうか。削ぎ落として「空」になるのではなく、一切のまとわりものを必要としなくなり、私という「個」が精鋭化されて「実」になり、「実」を引き継いで「空」になれる循環をイメージします。
【老人の発見と死の復権】
高齢者はまだ発見されておらず、それは認知症の奥に隠れていて、かなり解りにくいと考えています。ヒルマンのいう「性格の力」はそういう意味でたましいの次元から老人を発見したと言っていいのではないかと思うのです。また、近代以降、医学が絶大な成果をもたらしたことから、社会全体が医療化した感があります。それで最もやられてしまったのは、「死」ではないかと思います。医療の死は敗北としての死です。その医療の死を現代人の我々は受け入れすぎています。その死は終わりでしかないのです。我々は死者と繋がれない切れた死しか持てなくなっています。これはある意味異常な状態ではないでしょうか。医療から死を取り戻す仕事を、高齢者介護の現場はやらなければならないと感じます。死を初めとして、現代的な課題を解く端緒が介護現場なかんずくグループホームにはあるし、そこを思索する使命があると考えています。今後、日本だけでも300万人を超えると予想される認知症の力を借りて、高齢者を発見することは、多くの発想の転換を生むと思います。もともと、老人の知恵の文化を育んできた日本人だからこそ見えてくることもあると感じます。21世紀の老人の知恵を日本から発信していくことにも意味があるのではないでしょうか。
【さいごに】
先生の臨床哲学の実際の場として、東北の遠い地ではありますが「銀河の里」を加えていただければと願っています。来年、グループホーム協会の全国大会が岩手の盛岡で開催の予定です。我々はこの大会を通じて、グループホームの本質的な役割や使命を考え始めていくような、転換点にしていきたいと願っています。ただ、それはかなり大変なことと覚悟しています。介護業界のレベルは、正直決して高くはないように感じます。ただいつまでも、そんなことを言っていても始まりません。どうか、先生の臨床哲学の応援をいただいて、その質の向上の後押しをいただきたいと願ってやみません。グループホームの現場の哲学的視点が高まることは、高齢者介護の世界に留まらず、高齢社会の成熟にそのまま影響があるように感じます。先生とのご縁がありますよう、心から願っております。
【銀河の里の思索】
グループホーム「銀河の里」は、認知症高齢者に鍛えられ、暮らしの中で貴重な発見の日々を重ねつつ12年間を過ごしてきました。ちょうど立ち上げの時期に出版されたジェームス・ヒルマンの『老いることでわかる性格の力』と、皆藤 章先生の『生きる心理療法と教育-臨床教育学の視座から』の二冊の書物に大きな影響を受けました。老いやボケをあくまで目的論的な視野に入れ、たましいの所作として高齢者を発見する姿勢を貫いたヒルマンと、操作主義的に流れる時代にあって、あくまで「生きる」ことから臨床を眼差そうとする皆藤先生の姿勢に、我々の切り開く道を模索してきました。2004年には岩宮恵子先生の『思春期を巡る冒険-心理療法と村上春樹の世界』が上梓され、一見畑違いなタイトルとはまったく違って、異界との通路を繋ぐ物語の力の考察に、現場での経験を照らされるような深い示唆を得ました。こうした背景に大きな存在として河合隼雄先生がおられたのですが、我々も07年に逝去されるまで先生の存在に支えられてきました。今後も河合先生の実践と思索に銀河の里が支えられ続けていくことは間違いないと思います。
「銀河の里」は、暮らしを重視して農業に本格的に取り組み、5haの田んぼに作付けをし、リンゴの生産販売もはじめています。米と味噌は完全自給で、福祉の制度を活用しながら、その本質は「人材育成塾」だの「教育機関」だのと言い、世間の常識とはかけ離れたところで思索し実践してきました。そのため、業界では完全なマイノリティと言うより異端の存在です。それは仕方ないことと自覚して独自の道を歩いてきたのですが、今年度持ち回りで地域のグループホーム協会の理事になったことから、これまで距離を置いていた業界を久々にのぞいてみて驚かされました。日本のグループホームケアはモデルケースの時代から17年を経て、今では全国に12000カ所が整備されています。ただどこか雲行きの怪しさを感じました。これだけの数と歴史を経た現場の経験があるというのに、そこで起こったことはまったく検証されておらず、知的、体験的なマテリアルの蓄積が全く成されていないのです。現場で起こっているはずのことが、全く注目されず、意識されないまま見捨てられている状態なのです。こんなもったいないことがあるだろうかと居ても立ってもいられないような気持ちにさせられます。ヒルマンが言うように、人は高齢になってこそ、本来その人に備わった性格(たましい)が、いよいよ輝きを増すということを日々感じさせられてきたからです。人類において「老いの発見」はまだ成されていないのだろうと思います。アカデミズムに所属しないアリエスが「子どもの発見」をしたように、「老いの発見」はグループホームの現場から成されるのではないかと感じるのです。認知症に向きあう深さとその数量に置いて郡を抜いた環境にある「グループホーム」における本質的な仕事はそこにあると思うのです。この通信の先月号の理事長のレポートにあるように、全国大会に1000人を超える現場のプロが集まって「宴会」ではもったいないし、道は開けないと痛感させられます。
グループホームの「現場で起こってくる事」は、人間が生き、存在している「関係」によってそこから新たな世界が広がると言うことです。一般の介護現場のような認知症高齢者を集めて問題を起こさないように管理し、社会から排除する姿勢では現れては来ない世界であり、現代社会の秩序とはかなり異質な感触があります。例えるなら遠野物語的な世界と感じるのですが、次のような特徴があると思います。
・各々が個別性を持つので、一般論や法則では括れない。
・個々の性格、たましいの世界が情念と共に噴出する。
・異界との通路を通じて異界と現実が交錯する。等、
個別性が強いのと、法則がないので、説明がつかないため、物語ることでしか伝えられません。また異界に足を取られてしまう危険もあるので、「暮らし」という現実に軸を置くことが大事で、「暮らし」は物語を異界から闇雲に垂れ流して暴発させない守りになっていると思います。そうした強固な守りを持ちながら、異界と連なる物語を紡ぐ必要があるのではないかと考えてきました。ここらあたりに高齢者の発見の道しるべがあるような気がするのです。現場の実感では、こんな凄いことが日々起こっているのに、このままでは高齢者どころか人間存在までが、空しく消費し消滅するだけになってしまうのではという危惧があります。しかし、こうした危惧を打ち払う突破口が今の社会ではほとんど見あたりません。数少ない可能性のひとつとして、グループホームにその可能性と使命があると確信しています。
折しも3.11の震災があり、東北の地域や日本人に、本質的な生き方の問いなおしが求められる状況が生まれました。それは世界中の期待も含めた視点となっています。ただ実際には残念ながら日本人は「軽く忘れて、なかったこと」にして、風化させてしまうだろうと思います。ですが、可能性がないわけではなく、もともとグループホームや福祉現場にあった「人間存在そのもの」に対峙する姿勢を、ここで外に出してみる時ではないかと感じてならないのです。
【何故、鷲田先生なのか】
我々の現場はまさに臨床哲学の最前線です。老いること、病むこと、障がいを持つこと、死に向かうこと、死を受け入れること、死者と繋がることなど、人間の生きることの本質が鏤められています。『聴くことの力』は、まさに物語ることの意味を問う作業そのものであり、『待つことの力』は我々の現場の最重要の作法と言えます。弱さの力は、障がい者支援のあり方を探った鋭い視点です。先生の思索と仕事は我々「銀河の里」の活動とかなり近しい関係にあるに違いないと感じるのです。
先生の臨床哲学には二つの方向性があるということで、知識や文献による研究と、現場に出かけて、その場を共有する経験としての哲学のことを述べられています。業界ではかなり異端の実践者ですが、その現場の実践が先生の臨床哲学の知見に、どのように映るのか、とても関心を持っています。ただの異端なのか、本質に近いのかそのあたりを確認してみたい思いもあります。一方的で押しつけがましく失礼ではありますが、この数年の「あまのがわ通信」をお送りします。是非先生にお目を通していただいてご意見、ご感想をいただけるものなら、とても幸いに思います。願わくば、議論討論の場を持てるなら、私共の狭い視点を脱皮して、何か開けるのではないかとの期待も持っている次第です。
動の威力と静の威力について
銀河の里で10年間を共に暮らし、先月亡くなられたHさんのことをお話ししたいと思います。彼女は認知症になって他県から岩手に移り、その後銀河の里に入居されました。品のある佇まいが印象的で、社交的で洒落た会話の言葉の豊かな方でした。しかしグループホームが、最後まで居場所にはならなかったのではないかと思います。彼女は朝4時から深夜の1時、2時までグループホームから出て外に向かって出かけました。グループホームは学生時代の寄宿舎や、地域の集会所や、家族で湯治に来た温泉だったり、旅行先の旅館になったりと、彼女が出かけたであろう出先でした。実家でも嫁ぎ先でもなく、常に
出先から帰る所、行く所に向かうべき出発点であったと思います。故に、彼女は1日何回もグループホームを出て行くのです。雨の日も風の日も雪の日も極暑極寒の日も、また昼夜にかかわらず、記録では1日23回の外出がありました。そのため、彼女に対応する特別シフトが組まれていました。
「徘徊」というとても嫌な病院用語がありますが、彼女には、出かける目的や行き先がはっきりとあり、目的もなくうろつくという意味合いの「徘徊」とは全く違ったイメージで、我々はそれを「旅」とイメージしました。朝一番は「学校へ行く」であることが多く、その後も「お婆ちゃんのお見舞いに」「子ども達のご飯支度のために」「PTAの会合に」「晩ご飯のお買い物」から、さらに、お爺ちゃん(父親)がいる実家に帰る、お父さん(夫)が待っている家に帰るなど、幼児期から活躍したであろう中年期までの間を時空を超えて自在に行き来するようでした。スタッフも彼女の今いる時空をはずさずついて行かなければなりません。ズレてしまうと激しい怒りを引き出したり、無視されたりします。スタッフは、常に真剣勝負で彼女の時空に対峙しなければなりません。彼女は4年間歩き続け、日中はグループホームで過ごすことのない日もありました。歩いて行く彼女をピックアップして車で走る距離は200kmを超える日が続きました。5年目あたりから急に外出はなくなっていくのですが、それでもグループホームの中を歩かれました。旅は続いていたのですが、その頃、彼女の旅をイメージできないスタッフが増えるようになり、管理的に扱うようになったのです。こうなると彼女の旅は急に消され、ただの徘徊に貶められそうになりました。そこでチームリーダーを入れ替えたのですが、むしろリーダーが浮いた感じにされてしまうようなチームの状況でした。孤立しそうなリーダーを支えたのはHさんでした。後ろに仰け反り、斜めに傾きながらも室内を歩き回るHさんにかき回されることで、再びチームは息吹を取り戻していきました。その後、認知症が深くなり、Hさんは歩くこともない時期に入りましたが、スタッフはHさんに見守ってもらっている感じがありました。
3年前に当法人の特養ホームに居を移し、昨年から経管栄養になり寝たきりの生活になりましたが、彼女の威力は、今までの時空を超えた旅や饒舌な語りではない形で健在でした。言葉は出なくなっても、特養ユニットの守り神のような存在で特養の立ち上げ時期の苦難を支えてくれたのです。最後の半年間は、Hさんの健康面での見守りのために、リビングで過ごしていましたが、しっかりユニットを見守ってくれていたという、ケアの逆転が起こっていたのです。ユニットで巻き起こる日常茶飯事の様々な騒動も、暴発して崩壊してしまうことがなく、彼女の見守りの中で収束していく感じでした。理不尽な状況に追い込まれたスタッフが、彼女の傍らで幾度も涙を流させてもらったのです。「私の気持ち」をしっかり見ていてくれるHさんの存在にスタッフも利用者も支えられていました。10年を経て、Hさんがいなければ今の「銀河の里」はなかったと言えます。彼女の時空を超えた旅に連れて行ってもらうことで、教えられ鍛えられ力をつけさせてもらいました。Hさんは、グループホームやユニットを居場所にせず、最後まで過去・現在・未来を「旅」し続けていたように思います。
でもその旅こそが、関わった多くのスタッフを見守り、育ててくれたと感じています。
著書『老いの空白』の違和感について
私の中で、老が空白だろうかという違和感が最後まで残りました。「空白」と言われると何もないような虚しさが漂います。「空」はエンプティのカラではなく、むしろ「空実」と言うべき何かであるように感じます。インド人が発見したというゼロも無い訳ではありません。ゼロがなくては何も無くなるくらいの存在感です。「空」は空白ではなく充満した「空」で、その存在そのものが「実」ではないかと思うのです。その「実」は、とても意味があり、存在そのもので宇宙に遍満した「命」そのものと捉えることはできないでしょうか。削ぎ落として「空」になるのではなく、一切のまとわりものを必要としなくなり、私という「個」が精鋭化されて「実」になり、「実」を引き継いで「空」になれる循環をイメージします。
【老人の発見と死の復権】
高齢者はまだ発見されておらず、それは認知症の奥に隠れていて、かなり解りにくいと考えています。ヒルマンのいう「性格の力」はそういう意味でたましいの次元から老人を発見したと言っていいのではないかと思うのです。また、近代以降、医学が絶大な成果をもたらしたことから、社会全体が医療化した感があります。それで最もやられてしまったのは、「死」ではないかと思います。医療の死は敗北としての死です。その医療の死を現代人の我々は受け入れすぎています。その死は終わりでしかないのです。我々は死者と繋がれない切れた死しか持てなくなっています。これはある意味異常な状態ではないでしょうか。医療から死を取り戻す仕事を、高齢者介護の現場はやらなければならないと感じます。死を初めとして、現代的な課題を解く端緒が介護現場なかんずくグループホームにはあるし、そこを思索する使命があると考えています。今後、日本だけでも300万人を超えると予想される認知症の力を借りて、高齢者を発見することは、多くの発想の転換を生むと思います。もともと、老人の知恵の文化を育んできた日本人だからこそ見えてくることもあると感じます。21世紀の老人の知恵を日本から発信していくことにも意味があるのではないでしょうか。
【さいごに】
先生の臨床哲学の実際の場として、東北の遠い地ではありますが「銀河の里」を加えていただければと願っています。来年、グループホーム協会の全国大会が岩手の盛岡で開催の予定です。我々はこの大会を通じて、グループホームの本質的な役割や使命を考え始めていくような、転換点にしていきたいと願っています。ただ、それはかなり大変なことと覚悟しています。介護業界のレベルは、正直決して高くはないように感じます。ただいつまでも、そんなことを言っていても始まりません。どうか、先生の臨床哲学の応援をいただいて、その質の向上の後押しをいただきたいと願ってやみません。グループホームの現場の哲学的視点が高まることは、高齢者介護の世界に留まらず、高齢社会の成熟にそのまま影響があるように感じます。先生とのご縁がありますよう、心から願っております。
厨房奮闘記 ★厨房 畑中美紗【2012年12月号】
毎月1回の行事食は厨房の一大イベントであり、挑戦・勝負でもある。お正月、雛祭り、子供の日、七夕、クリスマス・・といった定番の行事意外にも里では旬のものをおいしくいただく行事食を作っている。ひな祭りや七夕など、ちらし寿司だとかそうめんだとかなんとなく決まったものがある月よりも、9月や10月といった特にイベントのない月は自分たちのオリジナルの行事食を考えるのでかなり力が入る。
この10月もそうだった。里の田んぼで採れた新米をみんなで味わおうと、わざわざ土鍋で炊いて新米ご飯を味わった。土鍋で炊くと、米一粒一粒が立って、すごくおいしかった。またユニットでカセットコンロを持ち出してみんなの目の前で炊いたので利用者の反応もかなりあった。ご飯が炊きあがって、ふたを開ける時のドキドキ感や、みんながいっせいに窯をのぞきこんで「うわぁーっ!!」となる感じが楽しかった。オリオンでは最近食の進まない紀子さん(仮名)が一杯目のご飯をよそってもらいながら「ぺっこ盛ってけろや。たりねぇばまたもらうからよ」と初めからお代わりを要求するほどだった。そこで「今回はおにぎりでいこう!!」と紀子さん、清子さんをはじめとしておにぎり食ブームもあって、新米でおにぎり大会の行事食になった。さらに、9月に研修で出かけた熱海の旅館の料理や、北上の大安楼のイメージを思い出しながら、角皿を使って少量ずつでいろいろあるけどごちゃごちゃしていない雰囲気でおかずの5点盛りをやってみた。華やかに盛ったら、清子さん(仮名)や邦恵さん(仮名)が反応してくれないかなとの期待も大いにあった。みんなに喜んでもらいたいのはいつも大前提なのだが、その中にもいつも誰々さんの顔を思い浮かべて料理を作っている。
いろいろ考えれば考えるほど手間暇がかかる。毎回行事食の前日は厨房スタッフは全員出勤して、準備は夜中までかかる。料理のためには手間も苦労も全くいとわない。それが厨房スタッフの心意気だ。利用者ひとりひとりの顔を思い浮かべながら、支えられて頑張れる。
ところが当日。清子さんは体調を崩してしまい、絶食となってしまった。残念な気持ちを立て直してユニットで土鍋で栗ご飯を炊いて盛り付けを始める。土鍋の前に座った紀子さんと康子さん(仮名)は、本当にうまく炊けるのかと不安げな表情で土鍋を見つめる。「本当にこれでたけるってか?」「何かこげくせぇんでねっか?」蒸らし中、あんまり言われるので心配になってちょっとだけふたを開けようとする私に「こらっ。あけねえんだ!」と怒る桃子さん(仮名)。こんなやりとりも緊張感もあって楽しい。結果、土鍋で炊いた栗ご飯はとてもおいしくて、普段は「おらこんなもの食ねぇ」と小言の絶えない康子さんさえ「こんなおいしいもの初めて食べた。もう最高!!」と言ってくれた。康子さんから「最高!!」の一言が聞けるなんて・・とすごくうれしかった。桃子さんも「こんなのはな、たまにでいんだぞ。そりゃ食べたいけどよ?あんまり出されるとおら明日死ぬんだべかと思って心配になってしまうからよ」と話を盛り上げる。紀子さんも「なんだ。これ身っこさっぱりねぇべっちゃ。食べようと思えばこれだもんな・・」とぼやきながらもみそ汁のエビの頭をすすっていた。「それダシだからね・・・」と思うがおいしいところはちゃんと押さえていて、おにぎりや刺身にはあまり手をつけなかったが、ハマったのはデザートのブドウだった。「えっ?筋子でもマグロでもなくそっち?」と外された感はあったものの、何かにハマるものがあってとりあえずホッとする。隣の邦恵さんも小料理屋の女将だっただけあって5点盛りには、「うわぁ!きれいね!!」と見た目のこだわりもちゃんと褒めてくれた。
里の厨房をまかされて3年、全く経験のなかった私だが、経験がないなりに自分のイメージを現実に形にする食事に挑戦してきた。少ないスタッフでこんなにこだわって料理を作っている施設は他にないと思う。
特養は基本的に終の棲家であり、利用者は私達の考える献立で、私たちの作る料理をずっと食べていく。私たちの作る食事で命を繋ぎ生きていくんだと思うと、プレッシャーも感じるが、燃えてくるものもある。料理のバリエーションも日々どんどん増えていくし、いろんなことにも挑戦したくなる。
最近特に感じるのは、料理や食事は献立そのものを超えて、色んな生活の要素が絡んでくるんだなと言うことだ。料理の仕方、食事の仕方で、食欲もかなり影響を受ける。例えば献立がひっつみ(すいとん)だったとして、厨房で作って出したのと、ユニットで利用者と一緒に作るのとでは食べる量も食欲も違ってくる。当然みんなで作ったひっつみはおいしいのだ。「これ大きすぎたな」とか「下手だ」とか「うまい」だとか会話も盛り上がる。調理の音や、ナベが煮えて香りが漂ってくる感じとかとても大事な事なんだと感じる。当然料理の温度や、順番などもかなり大切なことだと思う。ひと手間加えるだけで、同じ食事でも全く違うことがある。厨房の想い、スタッフの想いをのせた食事がひとりひとりの前に届く、“そんな給食を超えた料理と食事”をこれからも届けていきたい。
この10月もそうだった。里の田んぼで採れた新米をみんなで味わおうと、わざわざ土鍋で炊いて新米ご飯を味わった。土鍋で炊くと、米一粒一粒が立って、すごくおいしかった。またユニットでカセットコンロを持ち出してみんなの目の前で炊いたので利用者の反応もかなりあった。ご飯が炊きあがって、ふたを開ける時のドキドキ感や、みんながいっせいに窯をのぞきこんで「うわぁーっ!!」となる感じが楽しかった。オリオンでは最近食の進まない紀子さん(仮名)が一杯目のご飯をよそってもらいながら「ぺっこ盛ってけろや。たりねぇばまたもらうからよ」と初めからお代わりを要求するほどだった。そこで「今回はおにぎりでいこう!!」と紀子さん、清子さんをはじめとしておにぎり食ブームもあって、新米でおにぎり大会の行事食になった。さらに、9月に研修で出かけた熱海の旅館の料理や、北上の大安楼のイメージを思い出しながら、角皿を使って少量ずつでいろいろあるけどごちゃごちゃしていない雰囲気でおかずの5点盛りをやってみた。華やかに盛ったら、清子さん(仮名)や邦恵さん(仮名)が反応してくれないかなとの期待も大いにあった。みんなに喜んでもらいたいのはいつも大前提なのだが、その中にもいつも誰々さんの顔を思い浮かべて料理を作っている。
いろいろ考えれば考えるほど手間暇がかかる。毎回行事食の前日は厨房スタッフは全員出勤して、準備は夜中までかかる。料理のためには手間も苦労も全くいとわない。それが厨房スタッフの心意気だ。利用者ひとりひとりの顔を思い浮かべながら、支えられて頑張れる。
ところが当日。清子さんは体調を崩してしまい、絶食となってしまった。残念な気持ちを立て直してユニットで土鍋で栗ご飯を炊いて盛り付けを始める。土鍋の前に座った紀子さんと康子さん(仮名)は、本当にうまく炊けるのかと不安げな表情で土鍋を見つめる。「本当にこれでたけるってか?」「何かこげくせぇんでねっか?」蒸らし中、あんまり言われるので心配になってちょっとだけふたを開けようとする私に「こらっ。あけねえんだ!」と怒る桃子さん(仮名)。こんなやりとりも緊張感もあって楽しい。結果、土鍋で炊いた栗ご飯はとてもおいしくて、普段は「おらこんなもの食ねぇ」と小言の絶えない康子さんさえ「こんなおいしいもの初めて食べた。もう最高!!」と言ってくれた。康子さんから「最高!!」の一言が聞けるなんて・・とすごくうれしかった。桃子さんも「こんなのはな、たまにでいんだぞ。そりゃ食べたいけどよ?あんまり出されるとおら明日死ぬんだべかと思って心配になってしまうからよ」と話を盛り上げる。紀子さんも「なんだ。これ身っこさっぱりねぇべっちゃ。食べようと思えばこれだもんな・・」とぼやきながらもみそ汁のエビの頭をすすっていた。「それダシだからね・・・」と思うがおいしいところはちゃんと押さえていて、おにぎりや刺身にはあまり手をつけなかったが、ハマったのはデザートのブドウだった。「えっ?筋子でもマグロでもなくそっち?」と外された感はあったものの、何かにハマるものがあってとりあえずホッとする。隣の邦恵さんも小料理屋の女将だっただけあって5点盛りには、「うわぁ!きれいね!!」と見た目のこだわりもちゃんと褒めてくれた。
里の厨房をまかされて3年、全く経験のなかった私だが、経験がないなりに自分のイメージを現実に形にする食事に挑戦してきた。少ないスタッフでこんなにこだわって料理を作っている施設は他にないと思う。
特養は基本的に終の棲家であり、利用者は私達の考える献立で、私たちの作る料理をずっと食べていく。私たちの作る食事で命を繋ぎ生きていくんだと思うと、プレッシャーも感じるが、燃えてくるものもある。料理のバリエーションも日々どんどん増えていくし、いろんなことにも挑戦したくなる。
最近特に感じるのは、料理や食事は献立そのものを超えて、色んな生活の要素が絡んでくるんだなと言うことだ。料理の仕方、食事の仕方で、食欲もかなり影響を受ける。例えば献立がひっつみ(すいとん)だったとして、厨房で作って出したのと、ユニットで利用者と一緒に作るのとでは食べる量も食欲も違ってくる。当然みんなで作ったひっつみはおいしいのだ。「これ大きすぎたな」とか「下手だ」とか「うまい」だとか会話も盛り上がる。調理の音や、ナベが煮えて香りが漂ってくる感じとかとても大事な事なんだと感じる。当然料理の温度や、順番などもかなり大切なことだと思う。ひと手間加えるだけで、同じ食事でも全く違うことがある。厨房の想い、スタッフの想いをのせた食事がひとりひとりの前に届く、“そんな給食を超えた料理と食事”をこれからも届けていきたい。
ケアマネ訪問記 「畳の上で亡くなるということ」 ★ケアマネージャー 板垣由紀子【2012年12月号】
Aさんは奥さんと息子さんの3人で暮らしていた。初訪問で6ヶ月もお風呂に入っていないということがわかり、ともかく「早くケアマネージャー 板垣 由紀子お風呂に入れてあげたい」と思った。自宅は、林に囲まれて、昭和初期にタイムスリップしたような光景。訪ねると奥さんに丁寧な挨拶で迎えていただいた。座敷に通されるとタイムスリップはより一層深まり、異次元に迷い込んだような感覚になる。奥の寝室でAさんは体育座りをしていた。部屋には、畳一面に新聞紙が敷いてある。何だろうと思っていると、奥さんが「そこらで垂れでもいいけど、新聞くらいかけどげ、踏んだら困るがら」と声をかけたので、理由がわかったが、余りの環境に驚いてしまった。奥さんは、「どれだけここで自分が肩身の狭い思いをして暮らしているか…。神経痛と更年期で体が言うことを聞かなくなった。息子とは折り合いが悪い」といろいろと辛そうな話をされた。
介護計画やサービス提供もあるがともかく、すぐにでもお風呂に入ってもらいたくて、デイサービスにお風呂だけ利用をお願いした。ところが当のAさんは、「どこへも行かない。ここで天井見て死ぬばり。あと3年もすれば死ぬべ…」と頑なだった。つい先日まで畑仕事をし、釣りにも出かけたりして、夫婦で温泉に行くのが楽しみで活動的だったという。ところが骨折や胃腸炎で入院が続き、一挙に動けなくなった。すでに自分で立つことを諦めたようだった。幸い近所に親戚があり、見守りや支えには恵まれていたので、周りからも励まされて、なんとかお風呂に誘うことができた。自分では立てないという状態なので、職員と看護師が二人がかりで慎重な対応をした。入浴後は遠慮からなのか、おやつにも手を付けずかしこまっていた。翌週も誘ったのだが、頑として「行かない」と断わられてお風呂には入れなかった。このまま寝たきりになって床ずれでもできたら大変だからと、親戚の方に息子さんと会ってお話をする場を設けていただいた。息子さんは終始笑顔の温厚な方で「また元気になって歩いて貰いたい。そのためなら俺もお金は協力する」と言われた。「何とか入浴を…」から「元気になって歩いて欲しい」へ動いた。どこまでサービスを入れていいものか悩んでいたのだが、息子さんの受け入れ姿勢を頼りに、具体的なサービスの提案ができた。「デイサービスでつかまり立ちができるようになったら、介護ベッドを入れてポータブルトイレを…」と自宅の環境の提案にも、早速、現行のベッドを片付け介護用ベッドを入れられる環境に整えていただいた。
息子さんの思いをAさんに伝えると「天井を見て死ぬばり…あと3年」と、あの言葉を繰り返した。あきらめながらも3年は生きるという意志と私は感じた。「Aさん、あと3年も天井ばり見てるの〜?つまんないよ〜。天井見ても3年、外に出てお天道さん見ても3年。どっちにする〜?」と語りかけると、Aさんは微笑んでくれた。そして次のデイサービスは拒否せずに利用してくれたのだった。しかもワイシャツとズボンを着こなし、よそ行き姿でキッチリ決めてきた。良かったと思った。
夏にはもうデイサービスに通い慣れてきたのだが、この夏の暑さで食欲が落ちた。それでも親戚の方の応援もあって、通院もしながら何とか暑い夏を乗り切った。いくらか食欲の出てきたAさんに、奥さんが焼きナスが好物だからと「みんなにも食べさせて」と自宅の畑で採れたナスをデイサービスに持たせてくれた。その日はデイで焼きナスが昼食の一品に加わった。Aさんは「おらいのナスうめよ〜」と自慢げに勧めていた。そんな和気あいあいの
雰囲気にすっかり馴染んだAさんに、さらに嬉しい変化があった。奥さんに「デイサービスでの食事が少なかった」とこぼしたと言うのだ。細くなった食を気にしていた奥さんも、我々も喜んだ。そこで次のデイではおかわりを勧めてみたが、遠慮もあってか断われてしまった。ところがある日、隣で食べていた私に「申し訳ない、べっこけねっか」と声をかけてくれた。遠慮深く四角四面の性格のAさんとの距離が縮まったようで私は嬉しかった。
この頃親戚の人からも「ほんと人が変わったようだよ。とても表情が柔らかい」と喜んでいただいていた。ところがデイサービスを使い始めて5ヶ月を過ぎた頃、Aさんの訃報が入った。つい先日までデイサービスで元気だったのにと、驚きながらAさんの家に向かった。自宅で朝、家族が気付いたら亡くなっていたという事だった。息子さんの話では、前日の夕方、苦しいというので病院へ行くようにみんなで説得したが、頑として言うことを聞かなかった。落ち着いてきたので、「病院が嫌なら行かなくていい。明日銀河の里に行って、風呂に入って元気になるべ」と励ましたという。その時は笑顔で頷いていたとのことだった。集まってきた近所の親戚の人達に「後は寝るから今日は来なくていい。明日でいい」とAさんらしい気遣いを見せていたという。寝る前Aさんは奥さんに「俺ダメかもしれね」と話し、奥さんは「私をおいて死なれては困る、死ぬときは一緒って言ったでしょ」と声をかけたという。
Aさんは、亡くなる前日の夜、家族や親族を枕元に集めた。本人が集合をかけたわけではないのだが、苦しくなって集まってもらえた。そこで、Aさんは病院に行かないという最後の頑固を貫き、家族も見守ることができた。妹さんは「Aは畳の上で死にたかったんだ、あのまま病院に連れて行ってたら話もできなかった」と感慨深そうだった。更に「息子に、デイサービスを週2回にしたらいい、金出すから、と言われて嬉しそうだった」と聞かせていただいた。息子さんの「元気になって欲しい」という想いに、Aさんも応えたように思う。「あと3年・・」は数ヶ月しかなかったのだが、Aさんは時間では計れない濃密な時間を過ごし、家族や親戚の思いやりに感謝しながら安心して旅立たれたように感じた。葬儀のとき息子さんが「たまには来て(母のこと)見てやって、寂しいど思うから」と声をかけてもらった。しばらくして自宅にうかがうと、奥さんは料理をしているところだった。「弁当に持ってくべがらよ」と息子さんのお弁当のおかずを作っていた。私はAさんが繋いだ奥さんと息子さんの関係を感じて感動した。
生きていくのにあまりに忙しい現代。豊かな日本が生んだ忙しさ。そのなかでお互いを思いやるゆとりやきっかけを失っていただけかもしれない。実は繋がりを求め愛情をもってお互いを思いやっていた。わずかなボタンの掛け違えは、ちょっとした何かでこうした回復をみせるものなのかと感心した。Aさんは近代や現代とは少し違った時代の人だったかもしれない。だから結果として、自分の死を見事にマネージメントできたのではないかと、現代に染まりきっている私は考えさせられてしまった。誰もが畳の上で死にたいと願いつつも、それが難しい時代になった。しかし、Aさんはそれをやってのけた。しかもお世話になった人たちを枕元に集め、夜に奥さんにお別れの言葉を告げたというのは見事すぎるくらいだ。今改めて、Aさんの持つ「暖かさ」に触れ、「人生とは何か」を深く考えさせてもらう機会になった。感謝とともに、ご冥福をお祈りします。
介護計画やサービス提供もあるがともかく、すぐにでもお風呂に入ってもらいたくて、デイサービスにお風呂だけ利用をお願いした。ところが当のAさんは、「どこへも行かない。ここで天井見て死ぬばり。あと3年もすれば死ぬべ…」と頑なだった。つい先日まで畑仕事をし、釣りにも出かけたりして、夫婦で温泉に行くのが楽しみで活動的だったという。ところが骨折や胃腸炎で入院が続き、一挙に動けなくなった。すでに自分で立つことを諦めたようだった。幸い近所に親戚があり、見守りや支えには恵まれていたので、周りからも励まされて、なんとかお風呂に誘うことができた。自分では立てないという状態なので、職員と看護師が二人がかりで慎重な対応をした。入浴後は遠慮からなのか、おやつにも手を付けずかしこまっていた。翌週も誘ったのだが、頑として「行かない」と断わられてお風呂には入れなかった。このまま寝たきりになって床ずれでもできたら大変だからと、親戚の方に息子さんと会ってお話をする場を設けていただいた。息子さんは終始笑顔の温厚な方で「また元気になって歩いて貰いたい。そのためなら俺もお金は協力する」と言われた。「何とか入浴を…」から「元気になって歩いて欲しい」へ動いた。どこまでサービスを入れていいものか悩んでいたのだが、息子さんの受け入れ姿勢を頼りに、具体的なサービスの提案ができた。「デイサービスでつかまり立ちができるようになったら、介護ベッドを入れてポータブルトイレを…」と自宅の環境の提案にも、早速、現行のベッドを片付け介護用ベッドを入れられる環境に整えていただいた。
息子さんの思いをAさんに伝えると「天井を見て死ぬばり…あと3年」と、あの言葉を繰り返した。あきらめながらも3年は生きるという意志と私は感じた。「Aさん、あと3年も天井ばり見てるの〜?つまんないよ〜。天井見ても3年、外に出てお天道さん見ても3年。どっちにする〜?」と語りかけると、Aさんは微笑んでくれた。そして次のデイサービスは拒否せずに利用してくれたのだった。しかもワイシャツとズボンを着こなし、よそ行き姿でキッチリ決めてきた。良かったと思った。
夏にはもうデイサービスに通い慣れてきたのだが、この夏の暑さで食欲が落ちた。それでも親戚の方の応援もあって、通院もしながら何とか暑い夏を乗り切った。いくらか食欲の出てきたAさんに、奥さんが焼きナスが好物だからと「みんなにも食べさせて」と自宅の畑で採れたナスをデイサービスに持たせてくれた。その日はデイで焼きナスが昼食の一品に加わった。Aさんは「おらいのナスうめよ〜」と自慢げに勧めていた。そんな和気あいあいの
雰囲気にすっかり馴染んだAさんに、さらに嬉しい変化があった。奥さんに「デイサービスでの食事が少なかった」とこぼしたと言うのだ。細くなった食を気にしていた奥さんも、我々も喜んだ。そこで次のデイではおかわりを勧めてみたが、遠慮もあってか断われてしまった。ところがある日、隣で食べていた私に「申し訳ない、べっこけねっか」と声をかけてくれた。遠慮深く四角四面の性格のAさんとの距離が縮まったようで私は嬉しかった。
この頃親戚の人からも「ほんと人が変わったようだよ。とても表情が柔らかい」と喜んでいただいていた。ところがデイサービスを使い始めて5ヶ月を過ぎた頃、Aさんの訃報が入った。つい先日までデイサービスで元気だったのにと、驚きながらAさんの家に向かった。自宅で朝、家族が気付いたら亡くなっていたという事だった。息子さんの話では、前日の夕方、苦しいというので病院へ行くようにみんなで説得したが、頑として言うことを聞かなかった。落ち着いてきたので、「病院が嫌なら行かなくていい。明日銀河の里に行って、風呂に入って元気になるべ」と励ましたという。その時は笑顔で頷いていたとのことだった。集まってきた近所の親戚の人達に「後は寝るから今日は来なくていい。明日でいい」とAさんらしい気遣いを見せていたという。寝る前Aさんは奥さんに「俺ダメかもしれね」と話し、奥さんは「私をおいて死なれては困る、死ぬときは一緒って言ったでしょ」と声をかけたという。
Aさんは、亡くなる前日の夜、家族や親族を枕元に集めた。本人が集合をかけたわけではないのだが、苦しくなって集まってもらえた。そこで、Aさんは病院に行かないという最後の頑固を貫き、家族も見守ることができた。妹さんは「Aは畳の上で死にたかったんだ、あのまま病院に連れて行ってたら話もできなかった」と感慨深そうだった。更に「息子に、デイサービスを週2回にしたらいい、金出すから、と言われて嬉しそうだった」と聞かせていただいた。息子さんの「元気になって欲しい」という想いに、Aさんも応えたように思う。「あと3年・・」は数ヶ月しかなかったのだが、Aさんは時間では計れない濃密な時間を過ごし、家族や親戚の思いやりに感謝しながら安心して旅立たれたように感じた。葬儀のとき息子さんが「たまには来て(母のこと)見てやって、寂しいど思うから」と声をかけてもらった。しばらくして自宅にうかがうと、奥さんは料理をしているところだった。「弁当に持ってくべがらよ」と息子さんのお弁当のおかずを作っていた。私はAさんが繋いだ奥さんと息子さんの関係を感じて感動した。
生きていくのにあまりに忙しい現代。豊かな日本が生んだ忙しさ。そのなかでお互いを思いやるゆとりやきっかけを失っていただけかもしれない。実は繋がりを求め愛情をもってお互いを思いやっていた。わずかなボタンの掛け違えは、ちょっとした何かでこうした回復をみせるものなのかと感心した。Aさんは近代や現代とは少し違った時代の人だったかもしれない。だから結果として、自分の死を見事にマネージメントできたのではないかと、現代に染まりきっている私は考えさせられてしまった。誰もが畳の上で死にたいと願いつつも、それが難しい時代になった。しかし、Aさんはそれをやってのけた。しかもお世話になった人たちを枕元に集め、夜に奥さんにお別れの言葉を告げたというのは見事すぎるくらいだ。今改めて、Aさんの持つ「暖かさ」に触れ、「人生とは何か」を深く考えさせてもらう機会になった。感謝とともに、ご冥福をお祈りします。
事務所でのひととき 【2012年12月号】 特別養護老人ホーム 中屋なつき
トメさん(仮名)は毎朝のように事務所に遊びに来てくれる。私はそのトメさんと一日の始まりをティータイムで過ごすのが朝の日課となり楽しみになっている。長い廊下を車イスを自操して、ちょうど私の出勤時間に合わせるかのようにやってくる。「誰かいますか〜? あ、いたいた♪ おっはよぉ!」とあふれる笑顔を見せてくれる。「おめさんも一緒にお茶っこにさねっか?」「いいねぇ♪」「今日は何か、あるっか?」と眼をキラキラさせるトメさん。トメさんお気に入りのお茶のお供はおせんべい。「あるよ〜、はいっ」「うっはは〜♪」本当に嬉しそうに食べてくれるので、私も嬉しくなってくる。そんなだからせんべいはきらさないように気をつけて買い置きしておくことにしている。
そうやって毎朝おせんべいをバリバリ頬張りながら、他愛のないおしゃべりに花が咲くのだが、何気ない会話なのだがなかなか味がある。
トメ(以下、ト):「もう12月だってっか? はえぇねぇ!」
中屋(以下、中):「んだねぇ、そしたらす〜ぐ年越しで」
ト:「まぁた、ひとっつ歳とって」
中:「そんで、す〜ぐ夏になったと思ったら、またあっという間に冬が来て」
ト:「あんや、おめさん、そったに生き急がねんでやぁ!」
中:「あはは〜、そうだね、まんずゆっくりクリスマスやろうね」
去年のクリスマス会で田村さん達が演奏したのやらご馳走いっぱい食べたのやらを思い出して話が弾み、二人で楽しくなる。
中:「今年もサンタさん、来てくれるかなぁ?」
ト:「来るんだ来るんだ、良い子にしてれば」
中:「良い子のトメさんは何か欲しい物あるの?」
ト:「ん〜…、おめさんは? おめさんも良い子だべ?」
中:「えっとねぇ、(手を組んで)…サンタさん、素敵なお家、建ててください!」
ト:「あや! せづは(そいつは)ダメだ、そったなおっきなもん、いくらサンタさんでも、それは欲たかりっちゅうもんだよぉ、おめさん」
中:「あはは〜、じゃ、車でいいです、サンタさん!」
ト:「や〜はは、せづはまだまだ大きい」
中:「そう? じゃ…、ダイヤモンド!」
ト:「あっははぁ〜、ちっちゃぐはなったが、せづは値段がおっきい!」
ひとしきり笑った後、ふと気がつくと空き袋の山…! 今日もけっこう食べたね、トメさん…。その絶妙のタイミングで、「おら、プレゼントはせんべいがいいなは♪」と、おどけたポーズで言うトメさん。せんべいじゃ何もクリスマスプレゼントじゃなくってもいいのに…と思ったが、「じゃあ、ツリーにぶら下げて飾ろうよ!」と言うと、手をヒラヒラさせて「うっはは〜い
♪」と喜んでくれる。そんなトメさんに、こっちまで楽しくなる。
10時に近くなってくると、「そろそろ、あのしだぢ(あの人達)、来るんでねっか?」と、首を伸ばして玄関の窓を覗くトメさん。そろそろ出勤してくるワークステージの女の子達を心待ちにしている。日曜日はワーカーさん達はお休みなので「あいや〜、今日は来ねんだおんな…」とホントに寂しそうにしている。各ユニットに入って掃除やリネン交換、食器洗い等のお仕事をしてくれるワーカーさん達だが、彼女達の持ち前の人懐っこさも大いに発揮して、特養の利用者さん達とはとっても仲良しでケンカもしょっちゅうだ。そんなワーカーさんはトメさんにとっても格別な存在のようで、彼女達を“にぎやかさん達”と呼んでいる。「あのしだぢ、みんな元気よくていいね」といつも言う。
「ト〜メさんっ、おっはよぉ!」と口々に挨拶するワーカーさん達。トメさんも「おっ、来た来た♪ おはようさん! 寒かったぇ?」と次々にやってくる美穂子さんや奈美さん、冬美さんに真央さんら(上記4名全て仮名)をニコニコで迎えるトメさん。ワーカーさん達も今朝の送迎バスでの様子などを銘々に語る。「ほぉ〜」とか「あや〜」とか、トメさんも楽しそうに聞いている。時には、ワーカーさん同士でケンカしちゃったとか、好きな人とうまくいかなくて落ち込んでいるとか、なんだか悩み相談室のようになることもある。「ん、でもね、だんだんに良い方に向かうんだ、ね?」と、ふんわり受けてくれるトメさん。聞いていると私は、イライラしたり、具体的にああしろこうしろと言ってしまいたくなるんだけど、そんな私は口出し無用で、彼女達にもお茶を煎れながら、そのやりとりの豊かさにいつも感心している。
なかでも美穂子さんとトメさんの関係には特別な感じがある。「おめさん」と呼ばれると、決まって「美穂子だよ!」と名前で呼んで欲しい美穂子さん。「美穂ちゃんっか」と言われるととても嬉しそうにしている。さもないことですぐにケンカになる二人は、ホントにマジになって言い合いになるので見ていて可笑しい。本人達も「ケンカ友達だもんね♪」といつも言っている。「でもね、おら、躾だと思ってらんだよ。だからガングリ怒るの」と言うトメさんに、どこか嬉しそうに「ふふん♪」と笑う美穂子さん。幼い頃に両親と別れ施設で育ってきた美穂子さんにとって、トメさんは、暖かい家族以上の存在になっていると感じる。姉妹のようにケンカもし、お母さんのように叱ってもくれる存在は大きいと思う。トメさんの方でも「張り合いがあって、とってもいい♪」と可愛がり、車イスを「押してけで」と頼んだりして、お互いに気の置けない仲でとても頼りにもしているようだ。
こんな何気ないおしゃべりがある“トメさんとのティータイム”の時間は、その日一日の私の活力になる。ワーカーさん達も同じだろう。トメさん、いつもありがとう! おせんべい、忘れずそろえておかなきゃ!
そうやって毎朝おせんべいをバリバリ頬張りながら、他愛のないおしゃべりに花が咲くのだが、何気ない会話なのだがなかなか味がある。
トメ(以下、ト):「もう12月だってっか? はえぇねぇ!」
中屋(以下、中):「んだねぇ、そしたらす〜ぐ年越しで」
ト:「まぁた、ひとっつ歳とって」
中:「そんで、す〜ぐ夏になったと思ったら、またあっという間に冬が来て」
ト:「あんや、おめさん、そったに生き急がねんでやぁ!」
中:「あはは〜、そうだね、まんずゆっくりクリスマスやろうね」
去年のクリスマス会で田村さん達が演奏したのやらご馳走いっぱい食べたのやらを思い出して話が弾み、二人で楽しくなる。
中:「今年もサンタさん、来てくれるかなぁ?」
ト:「来るんだ来るんだ、良い子にしてれば」
中:「良い子のトメさんは何か欲しい物あるの?」
ト:「ん〜…、おめさんは? おめさんも良い子だべ?」
中:「えっとねぇ、(手を組んで)…サンタさん、素敵なお家、建ててください!」
ト:「あや! せづは(そいつは)ダメだ、そったなおっきなもん、いくらサンタさんでも、それは欲たかりっちゅうもんだよぉ、おめさん」
中:「あはは〜、じゃ、車でいいです、サンタさん!」
ト:「や〜はは、せづはまだまだ大きい」
中:「そう? じゃ…、ダイヤモンド!」
ト:「あっははぁ〜、ちっちゃぐはなったが、せづは値段がおっきい!」
ひとしきり笑った後、ふと気がつくと空き袋の山…! 今日もけっこう食べたね、トメさん…。その絶妙のタイミングで、「おら、プレゼントはせんべいがいいなは♪」と、おどけたポーズで言うトメさん。せんべいじゃ何もクリスマスプレゼントじゃなくってもいいのに…と思ったが、「じゃあ、ツリーにぶら下げて飾ろうよ!」と言うと、手をヒラヒラさせて「うっはは〜い
♪」と喜んでくれる。そんなトメさんに、こっちまで楽しくなる。
10時に近くなってくると、「そろそろ、あのしだぢ(あの人達)、来るんでねっか?」と、首を伸ばして玄関の窓を覗くトメさん。そろそろ出勤してくるワークステージの女の子達を心待ちにしている。日曜日はワーカーさん達はお休みなので「あいや〜、今日は来ねんだおんな…」とホントに寂しそうにしている。各ユニットに入って掃除やリネン交換、食器洗い等のお仕事をしてくれるワーカーさん達だが、彼女達の持ち前の人懐っこさも大いに発揮して、特養の利用者さん達とはとっても仲良しでケンカもしょっちゅうだ。そんなワーカーさんはトメさんにとっても格別な存在のようで、彼女達を“にぎやかさん達”と呼んでいる。「あのしだぢ、みんな元気よくていいね」といつも言う。
「ト〜メさんっ、おっはよぉ!」と口々に挨拶するワーカーさん達。トメさんも「おっ、来た来た♪ おはようさん! 寒かったぇ?」と次々にやってくる美穂子さんや奈美さん、冬美さんに真央さんら(上記4名全て仮名)をニコニコで迎えるトメさん。ワーカーさん達も今朝の送迎バスでの様子などを銘々に語る。「ほぉ〜」とか「あや〜」とか、トメさんも楽しそうに聞いている。時には、ワーカーさん同士でケンカしちゃったとか、好きな人とうまくいかなくて落ち込んでいるとか、なんだか悩み相談室のようになることもある。「ん、でもね、だんだんに良い方に向かうんだ、ね?」と、ふんわり受けてくれるトメさん。聞いていると私は、イライラしたり、具体的にああしろこうしろと言ってしまいたくなるんだけど、そんな私は口出し無用で、彼女達にもお茶を煎れながら、そのやりとりの豊かさにいつも感心している。
なかでも美穂子さんとトメさんの関係には特別な感じがある。「おめさん」と呼ばれると、決まって「美穂子だよ!」と名前で呼んで欲しい美穂子さん。「美穂ちゃんっか」と言われるととても嬉しそうにしている。さもないことですぐにケンカになる二人は、ホントにマジになって言い合いになるので見ていて可笑しい。本人達も「ケンカ友達だもんね♪」といつも言っている。「でもね、おら、躾だと思ってらんだよ。だからガングリ怒るの」と言うトメさんに、どこか嬉しそうに「ふふん♪」と笑う美穂子さん。幼い頃に両親と別れ施設で育ってきた美穂子さんにとって、トメさんは、暖かい家族以上の存在になっていると感じる。姉妹のようにケンカもし、お母さんのように叱ってもくれる存在は大きいと思う。トメさんの方でも「張り合いがあって、とってもいい♪」と可愛がり、車イスを「押してけで」と頼んだりして、お互いに気の置けない仲でとても頼りにもしているようだ。
こんな何気ないおしゃべりがある“トメさんとのティータイム”の時間は、その日一日の私の活力になる。ワーカーさん達も同じだろう。トメさん、いつもありがとう! おせんべい、忘れずそろえておかなきゃ!
シャル・ウイ・ダンス 【2012年12月号】 グループホーム第1 西川光子
グループホームの入居者ヨツ子さん(仮名)は11月16日に、97歳の誕生日を迎えた。入居以来8年間ずっと和服で過ごしてきたのだが、今年になって転倒もあり、介護的にも和服での生活には限界が感じられた。それでもせっかくの和服生活を終わりにしたくない思いがスタッフにあって頑張ってはいたのだが、春に胃腸炎で入院になったのをきっかけに「洋服」の生活に変更をすることになった。まさに粋な女性を絵に描いたようなヨツ子さん。90数年間、和の粋を代表するかのように、着物の生活を貫いてきた。いろいろな現実を考慮して洋服の生活への変更を余儀なくされた。その現実を受け止めるのは、スタッフにもかなりの戸惑いがあった。本人が衣生活の変更を望んだわけではなく、介助の関係から変更せざるを得ないことは仕方ないこととは言っても、辛い選択だった。ところがそんなセンチメンタルな思いに駆られたスタッフの心配を吹き飛ばすかのように、洋装のヨツ子さんはセーターやスラックスを上品に着こなして格好良く決まっていた。内股で小走りするところは、転倒を心配するスタッフのハラハラを脇目に最高に色っぽい。ヨツ子さん本人はひょうひょうと洋装を楽しんでいるような余裕さえ感じられ、着物のヨツ子さんが粋なのではなく、ヨツ子さんの人間そのものと生き方が粋なのだと、改めて感じさせられたのだった。
そのヨツ子さんの今年の誕生会は、出かけずにグループホームでやることになった。この6年間、実家である料亭「枕流亭」に出かけての食事会が恒例になっていた。だが、体力や介護状況の理由での事情があって、どちらかと言えばネガティブな気持ちが出かけるのをやめた理由としてあった。出かける上では、あれこれと配慮しながら、周囲にも気を使いながらになるので、今年はのびのびと内輪で「シャル・ウイ・ダンス」と洒落てみてはどうかという提案が上がった。ヨツ子さんの洋装のかっこよさに刺激された男性スタッフ佐々木勝巳君の熱い想いもそこにあった?!
確かに出かけるのはとても楽しいことだが、認知症の人たちと外に出る時は、世間との整合性をとるのにかなりの配慮がいる。スタッフはそのために、準備も含めて相当の繊細な気配りや、俊敏な対応が求められる。外出も外での宴会もスタッフのかなりの力量とチームの質が求められる。守りが弱いと、利用者を世間の偏見の目に晒してしまったり、傷つけることになりかねない。その点、グループホーム内での宴会なら守りは完ぺきなので、心おきなく宴会を楽しめる良さがある。
誕生会当日、グループホームのリビングは、パーティ会場に変わり、妖しい赤と青の照明が、雰囲気を盛り上げていた。休みのスタッフも、全員が当然のように参加していた。利用者も全員おしゃれをし、スタッフも正装でフロアーに集まった。今年の新人スタッフ木間さんがピアノでハッピーバースデイを奏でて、今日の主役のヨツ子さんが、黒のロングスカートに刺繍入りの上着、ラメ入りのストールの出で立ちで登場してくる。はっと息をのむほどの華やかさをたたえている。一瞬・・・沈黙が流れたあと歓声が上がった。もちろんエスコート役は、佐々木勝巳君だ。さて、いよいよダンス音楽がかかる場面に入った。ところが、かかった曲は「炭坑節」だった。ロングスカートに「炭坑節」をミスマッチと考えるのは素人の考え。炭坑節を耳にしたミサさん(仮名)は「私、踊る」と車いすから立ち上がった。それまで目を閉じていたキリさん(仮名)も、急ににんまりと微笑みを浮かべ、踊りの輪に入ってきて独特の振り付けで踊り始めた。炭坑節は完全にみんなの心にヒットしている。ますます盛り上がってくる雰囲気に最長老98歳の真知子さん(仮名)も、ノリノリになって「えぇーねぇ、えぇーねぇ」と笑顔で身を乗り出してきた。意図した企画だっただけに、そのはまり方に誕生会担当の私は、「よっしゃー」とガッツポーズ。不思議な「炭坑節」で利用者スタッフ老若男女が一つの輪になって繫がった。そして何と言っても、主役はやはりヨツ子さんだった。「炭坑節」と洋装のミスマッチなど全く意に介していない。例のごとく粋にスマートに艶っぽく全体を盛り上げてくれた。
さて宴会もそんな感じで、いい雰囲気に酔いながら後半に入る。一旦お色直しに居室に戻ったヨツ子さん。今度も決めてきました!久しぶりに見るヨツ子さんの和服姿だった。長年着慣れてきた人だけのことはある。見事な着こなしぶりが際だって華やかだった。こんなに服装の出で立ちだけで、会場の雰囲気を決めてしまえる人などめったにいない。歓声が上がるやら、ため息が漏れるやら、すごい貫禄の和服姿だった。そして音楽がかかる。
ダンス曲は「マライヤキャリー」の歌声でムードあふれた曲だ。今度もまたミスマッチを狙った。和服で出てきたヨツ子さんに、盆踊りの「炭坑節」から一転し、ムード音楽だ。そこもヨツ子さんは粋に決める。佐々木君をリードして見事なステップを踏んでいるのだ。ソシアルダンスの素養もあるヨツ子さんだけのことはある。見事なリードに佐々木君も照れながらではあるが、結構決まっている。それに合わせるかのように、他の人たちも各々ペアになって、いい感じで踊りはじめた。高齢者介護施設でこれだけ自然に雰囲気が出て、これだけ盛り上がれる所はそうそうないだろう。人に愛されるヨツ子さんの人柄や、華やかさを醸し出す独特な魅力に助けられていると実感させられる。
リビングは広いわけではない。スタッフと利用者総勢16人が入り乱れて踊るのだから、肩がぶつかる、足を踏むといったダンス会場でよく起こるハプニングがそこら中で起こる。ところがそれを楽しんでいるように「あーら、ごめんなさい」「あーら、失礼」と社交場でのセリフを交わしている。何だかいつもと違って、よそ行き風だ。「みんな役者だねぇ」と驚いていると、またお尻がデンと飛ばされたりして、格闘気味になってくるところも面白い。みんな逞しく力強い。グループホーム第1の唯一
の男性利用者のフクさん(仮名)は、今日は格別に決まっていた。誕生日に招待された主客のような感じだった。みんなフクさんに注目する。フクさんもそのことはどこかで感じるのだろう。いつもと違った雰囲気を漂わせて踊っている。ブルーのワイシャツに縦縞模様のネクタイ、黒の背広でダンディーに決めたフクさんは、「炭坑節」よりやはり「ブルース」が似合っていた。
皆で飲んで食べて、踊って大盛り上がりの楽しい宴となった。グループホームを華やかな社交場に演出してくれたヨツ子さん、洋も和もミスマッチな音楽でさえ見事に調和させてしまう彼女の魅力に、心からの敬意を込めて「誕生日おめでとう」と言いたい。衣生活の変更や、落ちていくかも知れない体力におどおどしてしまったのは、私たち周囲だけだったかもしれない。何がどう変わろうと、ヨツ子さんの粋は不滅だった。本物の粋があることを私たちは見せつけられ、思い知らされた。そして「出かける、出かけない」も超えて、どこであろうとヨツ子さんはヨツ子さんだった。
ヨツ子さん97歳「万歳」・・・年を重ねることは、
ステキなことかもしれない!
そのヨツ子さんの今年の誕生会は、出かけずにグループホームでやることになった。この6年間、実家である料亭「枕流亭」に出かけての食事会が恒例になっていた。だが、体力や介護状況の理由での事情があって、どちらかと言えばネガティブな気持ちが出かけるのをやめた理由としてあった。出かける上では、あれこれと配慮しながら、周囲にも気を使いながらになるので、今年はのびのびと内輪で「シャル・ウイ・ダンス」と洒落てみてはどうかという提案が上がった。ヨツ子さんの洋装のかっこよさに刺激された男性スタッフ佐々木勝巳君の熱い想いもそこにあった?!
確かに出かけるのはとても楽しいことだが、認知症の人たちと外に出る時は、世間との整合性をとるのにかなりの配慮がいる。スタッフはそのために、準備も含めて相当の繊細な気配りや、俊敏な対応が求められる。外出も外での宴会もスタッフのかなりの力量とチームの質が求められる。守りが弱いと、利用者を世間の偏見の目に晒してしまったり、傷つけることになりかねない。その点、グループホーム内での宴会なら守りは完ぺきなので、心おきなく宴会を楽しめる良さがある。
誕生会当日、グループホームのリビングは、パーティ会場に変わり、妖しい赤と青の照明が、雰囲気を盛り上げていた。休みのスタッフも、全員が当然のように参加していた。利用者も全員おしゃれをし、スタッフも正装でフロアーに集まった。今年の新人スタッフ木間さんがピアノでハッピーバースデイを奏でて、今日の主役のヨツ子さんが、黒のロングスカートに刺繍入りの上着、ラメ入りのストールの出で立ちで登場してくる。はっと息をのむほどの華やかさをたたえている。一瞬・・・沈黙が流れたあと歓声が上がった。もちろんエスコート役は、佐々木勝巳君だ。さて、いよいよダンス音楽がかかる場面に入った。ところが、かかった曲は「炭坑節」だった。ロングスカートに「炭坑節」をミスマッチと考えるのは素人の考え。炭坑節を耳にしたミサさん(仮名)は「私、踊る」と車いすから立ち上がった。それまで目を閉じていたキリさん(仮名)も、急ににんまりと微笑みを浮かべ、踊りの輪に入ってきて独特の振り付けで踊り始めた。炭坑節は完全にみんなの心にヒットしている。ますます盛り上がってくる雰囲気に最長老98歳の真知子さん(仮名)も、ノリノリになって「えぇーねぇ、えぇーねぇ」と笑顔で身を乗り出してきた。意図した企画だっただけに、そのはまり方に誕生会担当の私は、「よっしゃー」とガッツポーズ。不思議な「炭坑節」で利用者スタッフ老若男女が一つの輪になって繫がった。そして何と言っても、主役はやはりヨツ子さんだった。「炭坑節」と洋装のミスマッチなど全く意に介していない。例のごとく粋にスマートに艶っぽく全体を盛り上げてくれた。
さて宴会もそんな感じで、いい雰囲気に酔いながら後半に入る。一旦お色直しに居室に戻ったヨツ子さん。今度も決めてきました!久しぶりに見るヨツ子さんの和服姿だった。長年着慣れてきた人だけのことはある。見事な着こなしぶりが際だって華やかだった。こんなに服装の出で立ちだけで、会場の雰囲気を決めてしまえる人などめったにいない。歓声が上がるやら、ため息が漏れるやら、すごい貫禄の和服姿だった。そして音楽がかかる。
ダンス曲は「マライヤキャリー」の歌声でムードあふれた曲だ。今度もまたミスマッチを狙った。和服で出てきたヨツ子さんに、盆踊りの「炭坑節」から一転し、ムード音楽だ。そこもヨツ子さんは粋に決める。佐々木君をリードして見事なステップを踏んでいるのだ。ソシアルダンスの素養もあるヨツ子さんだけのことはある。見事なリードに佐々木君も照れながらではあるが、結構決まっている。それに合わせるかのように、他の人たちも各々ペアになって、いい感じで踊りはじめた。高齢者介護施設でこれだけ自然に雰囲気が出て、これだけ盛り上がれる所はそうそうないだろう。人に愛されるヨツ子さんの人柄や、華やかさを醸し出す独特な魅力に助けられていると実感させられる。
リビングは広いわけではない。スタッフと利用者総勢16人が入り乱れて踊るのだから、肩がぶつかる、足を踏むといったダンス会場でよく起こるハプニングがそこら中で起こる。ところがそれを楽しんでいるように「あーら、ごめんなさい」「あーら、失礼」と社交場でのセリフを交わしている。何だかいつもと違って、よそ行き風だ。「みんな役者だねぇ」と驚いていると、またお尻がデンと飛ばされたりして、格闘気味になってくるところも面白い。みんな逞しく力強い。グループホーム第1の唯一
の男性利用者のフクさん(仮名)は、今日は格別に決まっていた。誕生日に招待された主客のような感じだった。みんなフクさんに注目する。フクさんもそのことはどこかで感じるのだろう。いつもと違った雰囲気を漂わせて踊っている。ブルーのワイシャツに縦縞模様のネクタイ、黒の背広でダンディーに決めたフクさんは、「炭坑節」よりやはり「ブルース」が似合っていた。
皆で飲んで食べて、踊って大盛り上がりの楽しい宴となった。グループホームを華やかな社交場に演出してくれたヨツ子さん、洋も和もミスマッチな音楽でさえ見事に調和させてしまう彼女の魅力に、心からの敬意を込めて「誕生日おめでとう」と言いたい。衣生活の変更や、落ちていくかも知れない体力におどおどしてしまったのは、私たち周囲だけだったかもしれない。何がどう変わろうと、ヨツ子さんの粋は不滅だった。本物の粋があることを私たちは見せつけられ、思い知らされた。そして「出かける、出かけない」も超えて、どこであろうとヨツ子さんはヨツ子さんだった。
ヨツ子さん97歳「万歳」・・・年を重ねることは、
ステキなことかもしれない!
惣菜班のキャプテンより ★ワークステージ 村上幸太郎【2012年12月号】
★惣菜班の皆は、お歳暮用の焼売作りを頑張って作ったり、フォークで具を押して包んで綺麗に形を整えるのが難しい方もして、シューマイの形がななめになったり、お花みたいにひらくシューマイもあったりしています。
惣菜班の皆は、スタッフに教わってきれいにシューマイが包めるようになったひともいます。
たまに機械の調子が悪かったり、なかなか進まない時もあったり、4時過ぎくらいまでかかる事も多いですが、惣菜班の皆とスタッフと共に頑張っていきたいと思います。
これからもレンジャーの活躍にご期待ください!!
惣菜班の皆は、スタッフに教わってきれいにシューマイが包めるようになったひともいます。
たまに機械の調子が悪かったり、なかなか進まない時もあったり、4時過ぎくらいまでかかる事も多いですが、惣菜班の皆とスタッフと共に頑張っていきたいと思います。
これからもレンジャーの活躍にご期待ください!!