2012年11月15日

“麹”との出会いで広がった世界 ★ワークステージ 米澤充【2012年11月号】

【今年の味噌作り】
 2月末から5月上旬までかけて仕込んだ味噌の量は60kgの樽で33樽分、総量約2トンにもなった。その間、麹(こうじ)の手入れに夜遅くまでかかった。味噌の仕込みは利用者と行い、全33樽にはそれぞれ製造者の名前も記録してある。味噌の原料となる米、大豆は銀河の里で栽培したもので、米麹も自前だ。大豆と米麹の割合が同じ比率の10割味噌で東北地方ならではの赤味噌である。味噌作りは2年目だが、その味噌作りが実現するきっかけとなった“麹”との出会いを綴りたい。

【麹屋女将、浅利さんとの出会い】
 今年の8月末にNHKのテレビ番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」に浅利妙峰(あさりみょうほう)さんが特集された。浅利さんは昨今大ブームになった万能調味料「塩麹」の火付け役で、大分県佐伯市にある300年以上も続く老舗麹屋の女将でもある。
 浅利さんの娘さんと私の妻が韓国の留学時代の友人で、浅利さんとは以前りんご交流があり、りんごやギフトの餃子・焼売のお返しに甘酒や塩麹、味噌などをいただいていた。その頃私自身、味噌作りに関わっていなかった事もあり、麹に関心がなかったので、失礼ながら不気味なモノが送られてきた感覚だった。さらに、浅利さんからいただいたペットボトル入りの甘酒を開栓後、キャップをして部屋に置きっぱなしにして外出したのだが、醗酵によってペットボトルが膨らみ爆発したようで、帰宅後の部屋は“甘酒爆弾”による悲惨な状況だった。そんな事もあって個人的に麹に対するイメージはあまりよくなかった。
 一昨年、新規事業の営業活動に理事長と一緒に大分に出向き、浅利さんの麹屋を訪ねた。(詳細はあまのがわ通信2010年10月号を参照) しかもその11月には遠方はるばる銀河の里を訪ねていただき麹を使った料理講習会ひらいていただくなど、いつも励ましと応援をいただいている。浅利さんと出会ったおかげで私の麹や発酵食品に対する見かたが180度変わり、私は日本人が発見した麹の持つ醗酵の不思議な力に魅了されるようになった。
 大分から戻ってすぐに浅利さんから甘酒作りを勧められ、最初は近くの味噌屋から麹を購入し甘酒を作っていた。甘酒は特に高齢者に好評で、食欲がない高齢者にも適したようだ。さらに「お米も作っているんだから、米麹も作りましょう!」と、米麹作りにもチャレンジする事になった。米麹を作るにあたり、稲作で使用する育苗器(芽出し機)で作る事を勧められた。試しにハウスで使っていた育苗器で仕込んでみた。2日後に、取り出してみると菌糸がぼうぼうの麹が出来上がっていた。その時の感動は今でも忘れられない(その後育苗器内に麹菌が残っていたようで、ネギの芽に麹が絡みつき、芽が伸びにくくなってしまった…恐るべし麹菌達の力!)
 実験が成功したので、新品の育苗器を購入し発酵器を自作した。これで米麹も自前で作れることとなり「大豆も作っているんだから、味噌も作りましょう!!」という必然的な流れになり味噌作りが始まることになる。

【醸造技術の研究員、畑山さんとの出会い】
 新しい育苗器も準備し、いよいよ米麹を仕込む前日に、たまたまインターネットで「育苗器を使った製麹(せいぎく)」というタイトルの研究報告書を発見した。しかもその筆者は岩手県工業技術センターの畑山さんという食品醸造技術部の研究員であった。私はこのタイミングの良さに少々興奮気味で技術センターに電話をかけた。するとなんと翌日の仕込みに合わせて畑山さんが来てくれる事になった。
 畑山さんは、岩手県内の産直でいろいろな味噌が販売されているが、品質がバラバラ。それらの味噌が岩手の味として観光客に思われるのは悔しいし困るので、味噌生産者の所に出向き指導にあたっているとの事だった。畑山さんはいかにも研究者といった感じで、自作したという味噌作りのマニュアルを見せながら、味噌の食塩濃
度の計算式や育苗器内部の温度経過グラフを使って熱心に説明していただいた。感覚でなんとなく作ろうとしていた米麹作りに、科学的根拠が加わり、モヤモヤしていた部分がすっと晴れた感じだった。しかも出来上がった米麹が理想の酵素力に近づくまで、何度も成分分析を繰り返していただき、おかげで味噌用の麹としてのお墨付きももらえた。
 そんな研究肌の畑山さんから「麹は生き物です。麹の都合に合わせる事ができなければ、良い麹作りはできないのです。子育てと一緒。自分の都合で作業をするのはダメ。漬け物作りのような感覚で、ぱぱっとやってしまうような麹作りでは失敗します」と言われたのを今でも覚えている。生き物である事を意識しないでいたため、“甘酒爆弾”のような事をしてしまったのだ。また、浅利さんからも「麹作りの決め手は愛情を込めて仕込む事。赤ちゃんを扱うように丁寧に、愛情こめて仕込むと、出来上がりが全然ちがうのよね〜」とおっしゃられていた。目には見えないけれど、菌は生きている。麹作り、それは子育てと一緒。私の長男が生まれたばかりだった事もあり、子育てへの姿勢を問われているかのようで、その言葉は胸に強く響いた。

【味噌作りから味噌ソムリエへ】
 私が婿に入った時、妻の祖母の手作り味噌の味が苦手だった。おそらく熟成2年以上の味噌だったためか古臭い味がして、どうしても味噌汁が飲めずに残してしまい、いつも申し訳ない気持ちだった。その事もあってか、味噌は「何か目に見えない菌が、大豆を腐らせて出来上がったもの」と間違った認識を持っていたため、味噌をはじめとする発酵食品全般に対するイメージがよくなかった。
 しかし、銀河の里で味噌作りに関わるようになり、その考え方が変わった。さらに味噌の事をもっと知りたい!という気持ちから、味噌ソムリエなる資格が存在する事を知り受けてみることにした。
 味噌ソムリエは「社団法人 東京味噌会館」が設立した「みそソムリエ認定協会」が認定する資格で、日本に根づいた味噌文化を正しく多くの人々に伝承し、また醗酵のメカニズムや幅広い知識を持った理解者を増やす事を目的とした資格である。
 私は第3期生として受講し、講義のあと、利き味噌試験や筆記試験、味噌をお題とした小論文試験を行った。受講生の年齢層も広く、味噌への関心の高さを実感した。
 赤味噌以外ほとんど口にした事がないので、利き味噌試験は自信が無かったが、後日認定証が届き資格を取得する事ができた。この資格取得に向けて様々な文献に目を通し、味噌の持つパワーについて興味深い話もあった。それは長崎に原爆が落とされた時の、味噌の活躍だった。長崎の爆心地から1.4kmの病院で勤務中に被爆した秋月医師らは、玄米、ワカメの味噌汁、野菜食を中心とした食事療法を行っており、日頃から味噌汁を飲んでいた。また、その病院内にたまたま大量保存していた味噌を使って毎日味噌汁を飲んで飢えをしのいでいたという。その病院の患者と医師、従業員に原爆症を発症した方はおらず、がんで亡くなった方もいなかったというエピソードがある。これはマウスによる実験でも証明されており、どうやら日頃から味噌汁を飲み続けている事で、放射線から体を守れることがあるようだ。味噌にはまだまだ解明されていない秘めたパワーがありそうだ。

【商品と共に伝える事】
 浅利さんとお会いしてお話した際に、「私が麹の良さを伝えているのは、ご先祖様が残した智恵を継承し、全国の麹屋さんに元気になってほしいんです」とおっしゃられていた。その言葉は、麹や味噌を単なる商品として扱うのではなく、日本の食文化や伝統の継承も担っていることを大事にして、人と人が世代を超えてつなげていく必要があるというメッセージだと捉えた。塩麹がこんなにも世間で注目を浴びたのは、単なる便利な万能調味料として紹介されただけではなく、浅利さんの人柄もあって、日本の食文化の見直しに関心が集まったからだと思う。私自身甘酒作りから始まった麹菌を通じて、色々な人と出会い、これまでは縁のなかった文化や伝統にも触れる事ができた。商品を通じ、物の売買だけではなく、そういう文化伝承者である事を自覚して誇れるような仕事をしていきたいと思う。
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考えること ★理事長 宮澤健【2012年11月号】

 10月5、6日と、日本認知症グループホーム協会が主催した、第三回大会に参加してきた。この種の大会や会合には参加する度に失望し辟易するのが関の山なので、最近はまったく関わらないようにしてきた。ところが、施設長が今年度から岩手の支部組織の理事に、持ち回り的になるはめになったばかりか、この大会の4回目の開催が来年岩手で行われることになっているという。理事になっている以上、大会運営に関わらざるを得ず、かといってくだらない慰安旅行や宴会並の集まりに、労力を注ぐのは時間も無駄になる。ほとんど意味のない組織にいるよりは脱会した方が気が楽だという話になったのだが、理事でありながら、簡単に脱会するのもちょっと卑怯かなという思いもあり、とりあえず、大阪の大会を見てみようということになった。
 そこで、大阪の大会で来年の開催県から案内のチラシぐらいは必要だろうと、岩手でやるならこんなイメージでやりたいという思いを込めていろいろ考えた。メインタイトル「鎮魂と癒しの物語」サブタイトルとして「我々は21世紀の遠野物語を紡げるか、人はどこから来てどこへ行くのか」だった。震災以降、今、岩手や東北が置かれている現状とグループホームの現場の実感とその使命を見つめる大会こそ、岩手で全国大会をやる意味があるという訳だ。もちろんこれは原案で、理事会や実行委員会でこれを議論し、決定してほしかったのだが、この原案は素通りのまま印刷に回ったようで原案そのまま、確認のデータが送られてきた。そのまま通ったのかと驚いたのだが、後日実際に印刷され仕上がって来たチラシにはタイトルもサブタイトルも一切が消去されていた。魂を抜かれたようなチラシは、「来年は岩手です」という間の抜けたお軽いチラシになって配布されてしまった。どういう決定がどこでなされたのかまるで見えない。しかも原案として提案した内容が、なんの議論も問い合わせもなく消されてしまう組織はどうなっているのだと不可解過ぎて、極めて暴力的な組織のありようにいらだちを覚えた。

 大会は会場費が相当かかりそうな豪華な一流ホテルの会場で参加者も1350人という盛況ぶりだった。しかしその内容は、例のごとくほとんど意味を感じないようなお粗末なものだった。形骸化した儀式と、現場の利用者やスタッフの顔も見えてこない乾ききった発表形式で、実際に現場の最前線で取り組んでいる生々しいリアリティは完全に削がれた、もったいない限りのものだった。全国1万カ所を超えるグループホームで日々取り組まれている現場の様子や課題が語られ、近い将来や未来がイメージできるくらいでなければ集まる意味がないではないか。専門性を問われ、今後地域ケアの中核として位置づけられ、その役割を果たすべく期待されているグループホームとそのスタッフが、慰安旅行と宴会レベルの会合を毎年繰り返しても仕方がない。形式的な部分も大会では必要かもしれないが、極力抑えて、現場の実際を語り合う場であってもらいたいとの思いはいつも砕かれる。

 現場の実際をと期待をするのは、特に分科会として行われる実践報告会なのだが、これが極めて貧弱で、且つ暴力的に感じてしまった。なるべく数多くの発表をと目論んでいるのか、3分科会あるにも関わらず、発表時間はひとケース7分だ。しかも3ケースをまとめて発表させて討議の時間は3ケースに対して5分というのだから、ここまで現場の実践をバカにした話はないと私は感じる。しかも1分前にはリンがならされ、時間がくるとブザー
でしきられる。3時間弱の分科会のなかで、16ケースが発表されるのだからとても忙しい。司会の人もおちおち質問など聞いていられないだろう、まだ発表者が残っているのに「それでは終わりましたので討議に」などという場面も実際あった。現場の実践を大事にしない姿勢がこれひとつ取ってもありありで、本末転倒な大会運営のあり方に失望してしまう。ましてやコメンテーターはケースに集中もできず、実践報告の内容からかけ離れた一般論を終始語るしかない。しかもなぜか、その実践は正しいか正しくないかという事を言いたがる傾向があって、せっかくの暮らしや取り組みが傷つく感じの場面もあった。人の暮らしに対して正しいかどうかの判断はほとんど必要がないのではないだろうか。それより、その生き方にどう触れるかがとても重要だと思うのだが、それができるような時間配分ではないので仕方がないということなのだろう。
 コメンテーターは「認知症でも、脳血管性、アルツハイマー型、レビー小体型、ピック病などの違いで関わりも違うのでそれを区別しなければならない」と言っていた。これは最近よく語られ教科書にも載っていることなのだが、それは医療の視点ではないだろうか。症状の出方や予後が違うので、見通しを立てたりする場合に我々も、もちろん違いを認識しておくべきであるが、実際の暮らしの場面で、むしろこれを立て分けて、対応が変わっていいものだろうかと思う。たとえば、「帰りたい」と言われた場合、それがどの型かでどう対応が違えばいいと言うのだろう。その場面その時で、またその人によって違うだろうし、誰が対応するかでも違ってくる。まさに個性や人格の勝負で関係性が重要な場面であって、対応パターンを定式化できるものではない。むしろパターンや答えを求めたり頼ったりしてはまずい場面である。病名に向きあうのではなく、まさにその人に向きあうことが大事になってくる。なぜそのような基本的なことが認識されず、関係性の否定につながるような見解がまかり通るのか解らない。

 私の出た分科会では、「園芸療法を取り入れている」というのが4つもあった。なぜわざわざ「療法」などと言わなければならないのか理解に苦しむ。療法と言うからには体系的な訓練を受け、それなりの専門性があって、結果も厳密に査定されなければならないのではないかと思ってしまう。「暮らしとして野菜を育てた。楽しくておいしかった」というほうがよっぽど自然で楽しい。楽しんでいいはずの暮らしに、なぜ療法などという因果論や客観性を持ち込みたがるのかよく解らない。今月号にも稲刈りの記事があるように、里でも5haの稲作をやり、その他リンゴや野菜作りハウスもやっていて、みんなの生きがいや楽しみにばかりでなく色んな影響があるが、それらは療法の効果とは考えたくもない。あくまで暮らしだ。ただ、ある報告で1カ所、園芸療法と言わないで「つるの恩返し」というタイトルで実践報告した所があって、このセンスには感心した。「つる」は鶴ではなく蔓で、夏熱いのでみんなでグリーンカーテンを作って冷房費を節約できたという話だった。これこそ暮らしではないか。蔓を伸ばしてグリーンカーテンを育てる過程はみんな楽しかっただろうし、それで生活感も出て、しかもエコだったというのは、認知症の人をどう扱うかというような傲慢な態度から解放されて、一緒に暮らしている感じが伝わってくる。なぜ「園芸療法」と言ったのか、なぜそう言わないで「つるの恩返し」と言ったのかについて話し合うと、大事な議論ができるような気がしたが、とてもそんなことを話し合える空気ではなかったし、質問さえはばかられる感じで黙っているしかなかった。
 発表時間7分はどこからきた7分なのか解らないが、おそらく医学関係の学会の感じなんだろうと思う。医療は診断に対してど
う処置をするか、マニュアル化されている因果論なので話は早い。それなら7分もあれば充分だ。しかし、グループホームの現場は因果論はあり得ない。この人がアルツハイマーだからといってマニュアル化できない。脳血管性だろうとアルツハイマーだろうと、その人ひとりひとりの個性や、生育歴や、思いや今の感情などが統合的に作動するのが人間であり、暮らしというものだ。我々グループホームの専門性は、暮らしであり、個々の利用者との関わりとやりとりにある。それは「診断して処置する」というような因果論とはまったく違った次元の仕事であり、答えのない人生を共にどう歩いたかが最終的に問われる仕事だと思う。グループホームの現場に限らず、介護の現場で、暮らしを欠き、因果論的な処置に終始するなら、そこでは簡単に人間の尊厳は抹殺され、瞬く間に確実に虐待の域に入ってしまう。それがグループホームなどの施設の最も陥りやすい落とし穴になることさえ自覚もされていないのだろう。

 暮らしであり、個々の人生である以上、現場の発表は極めて個別性を持たざるをえないのであり、7分の枠では語りきれない物語が生まれてくることこそが重要なのだと思う。人間の尊厳を守るべきグループホームで、物語でしか語れない個々の人生に対する専門性を必要とされる現場でありながら、なぜ、それらを危うくし、損なうような方向で発表が行われるのだろうか。チラシの
一生懸命考えた大会テーマが、一方的に削除してしまったと同じ暴力性が組織に存在しているのではないかと恐れを感じてしまう。

 「もうこれは脱退しかない」というのが結論だったが、会場で会った、岩手県グループホーム協会の立役者である内出さんにそれを伝えると、「来年の大会から変えていきたい」と言う。できてしまった巨大な組織の体質が簡単に変わるものだろうかと疑心暗鬼ではあるが、可能性があるなら挑戦したい。
 モデル事業の時代から15年を経て、すでに全国1万2000カ所に広がったグループホームが、そろそろ現場から、現場らしい発言と現場でしかできない思索を始める時期ではないかと思う。それをやるだけの実践蓄積と課題認識はすでに充分あると思うが、引き出せていないどころか、何ものかに封印されて閉ざされているように感じられてならない。

 介護民俗学を提唱され、民俗学者の立場で介護現場に身を置いておられる六車由実さんや、現代民俗学の重鎮で、東北学を立ち上げられた赤坂憲雄先生の応援もいただけるようなので、多方面のお力をお借りしつつ、グループホームの未来を切り開いていけるような意義深い大会にしていきたいと願っている。
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風雲の会の銀河ライブの夕べ ★グループホーム第2 佐々木詩穂美【2012年11月号】

 2年前の秋、東京のサントリーホールで行われた『珠響〜たまゆら〜』の公演を、銀河の里の研修で観に行った。公演内容は和太鼓、歌舞伎、ピアノ、ギター、尺八などの若手演奏者が共演するという企画で斬新な内容だった。その中でも私は特に英哲風雲の会の和太鼓と歌舞伎の迫力が印象的で今でも忘れられない。その英哲風雲の会のメンバーが10月20日に、銀河の里にやってきてライブコンサートを行うという話を聞いたときには、本当のことなんだろうかと信じられない気持ちで驚くと共に、とても楽しみだった。
 
 当日、いよいよ緊張の中、予定時間より早く風雲の会のメンバーが銀河の里に到着した。凛々しくてカッコ良く、しかも礼儀正しい、ここいらではめったにお目にかかれないような若い男性が5人もやってきただけでこころ沸き立つものがある。「来たぞー」とグループホーム内にもざわめきと緊張が走った。早速夕方のライブに向けて準備が始まる。デイホールからリハーサルの和太鼓の大音響が里中に響き渡り、少し離れた特養までも腹に響く低い音が届いたほどだ。その音に誘われてグループホームのベランダにクミさん(仮名)と歩さん(仮名)が出て聞いていた。私は夜の公演まで待ちきれなくなり、クミさんと歩さんを誘ってリハーサルをのぞきにデイホールに行ってみた。玄関を入ろうとすると会場準備をしていた酒井さんが中から出てきた。酒井さんは打ちのめされている感じで「俺ダメだ。リハーサルだけでやられた。これはずっと見ていられない」と言った。私たちがデイホールに入ると、はせさん、上田さん、田代さんの3人が揃った動きと迫力の演奏を目の当たりにして釘付けになる。祭りでみるような太鼓とは次元が違って、さすがプロの太鼓打ちだと引きつけられる。直接心臓に響いてくるような和太鼓の轟音と張り詰めた空気で私も息ができなくなりそうになってきた。先ほど酒井さんが「やられた」と言った意味がわかった気がした。

 グループホームの利用者さんで太鼓といえば守男さん(仮名)だ。守男さんは地元の神楽で太鼓を叩いていた人で、グループホームの日常でもテーブルを叩いたり、食器を叩いたりして、太鼓のリズムを常に持っている人だ。今年の4月から、グループホームの新体制と軌を一にしたように守男さんが動き始め、彼を軸に今年のグループホームが動いてきたと言っていいほどだ。語りつくせない程のたくさんのエピソードを作りながら、物語が紡がれてきた。私はこの半年のいろんな思いを込めて、今日のこのコンサートは守男さんと一緒に和太鼓の演奏に触れて観たいという思いを強くしていた。
ただ、その日の守男さんは、朝から歩行の調子が悪く、ほとんど一日立ち上がれず過ごしていた。一日の内でも体調の波はあるのだが、歩けるかどうか気になった。それでも公演時間が近づいてきた頃、私は守男さんにぜひ今日の太鼓は観てほしいと伝えた。すると守男さんは迷うことなく「よし、行くぞ」と立ち上がった。その守男さんの勢いにグループホーム中に歓声が湧き、玄関ではみんなが出て見送ってくれた。すでに外は真っ暗だったし、守男さんが歩けるかどうか微妙だったので、デイサービスの会場までは車イスに乗ってもらって移動した。私は守男さんにいい席で観てほしくて一番前の席に座りたいと頼んだ。会場に入ると、守男さんは日中の歩行の悪さが嘘だったかのようにスタスタと快調に歩くので驚いた。最前列に守男さんを間に挟んで、二唐さんと私で座った。二唐さんは里バンドのボーカルで、コーラスの全国大会に参加した経歴もある、音楽の才能がある人だ。酒井さんと同じく、公演前のリハーサルを見た時点で太鼓の音や迫力にやられて、気持ちがいっぱいになっていた。「詩穂美さん、途中で具合悪くなったらごめんなさい。そのときは席をたちます」と言う。音楽の才能には乏しい私でも、体全体に響いてくる何かがあるのだから、二唐さん達が具合を悪くするのは当たり前だろうと思った。ただ、二唐さんがいなくなると、ひとりで守男さんを守りきれるだろうかと不安になった。受けつけで前に座りたいと言ったとき、責任者の戸来さんも「立ち上がったりしないかな」と気にかけていた。確かに演奏が始まる前からすでに、興奮しているようで、見ると守男さんは、気持ちの中がワナワナと奮え立っているようで、体が震えはじめて止まらくなった。これはやばい、ここで倒れたりするわけにはいかないと、私は必死で守男さんの背中をさすり続けた。そのうち何とか気持ちも体も何とか落ち着いてきた感じで、ホッとしたところで演奏が始まった。
 始まったとたん左手を高くあげて何か叫んだ守男さんだったが、それは歓迎のしるしだったんだろうか。やがてステージを見つめる守男さんの表情は、奏でる太鼓の世界へ一気に入りこんでいった。二唐さんも具合が悪くなるどころではなかった。そんな心配を通り越して、目の前で展開される太鼓の世界に惹き込まれた。以前サントリーホールで聞いた時も感動したが、いくら音響に定評があるホールとはいえ、巨大ホールで聞くのと、目の前数メートルの間近に見ながら聞くのとでは訳が違った。そしてなんと言っても里での演奏は守男さんと一緒に観たということがものすごく大きい。「生きている」感じ、つながる感じ、そうしたリアリティが圧倒的だった。表情、汗、声、すべてが別次元の力強さと迫力を持って迫ってきて押しつぶされるような感動に浸った。
 夢のような心地で、あっという間に演奏が終わった感じだった。途中ゲーム的な和やかな場面をいれて、会場の参加もあったりしたのだが、体中の血が沸き返っている感じはずっと続いていた。守男さんも同じだったのだろうと思う。会場に笑いが起こっても表情は変わらず、常時真剣な顔で何かにとりつかれたように演奏を見続けていた。最後の曲目が終わり、アンコールの演奏が終わったその最後の所で守男さんは両手を上げて万歳のように掲げた。言葉は何も語らず、ただ目の力強さと表情で気持ちが伝わってきた。「よかったね」と私が言うと「うん」と前を向いたまま返事をくれた。
 興奮したし、疲れただろうと、二唐さんが車イスを持ってきてくれたのだが、守男さんは車イスの前をスタスタと通り過ぎて歩いていった。周りのみんなも驚いて声をかけてくれる。「あれ、守男さん足取りいいね」さすがに外に出ると夜で真っ暗だし、グループホームまでは上り坂なので車イスに乗ってもらうつもりでいたが、守男さんは来たときと違って、平気で歩いた。坂道だと思うのはこちらだけで、驚くばかりに足取り軽く、片方さんと私を伴って手を繋いで、軽やかに坂を登って帰ってきた。玄関を入ると部屋まで片方さんと一緒に歩いていき、寝床に着いて微笑みながら「あ〜よかったなぁ」と深い息をはきながらひとこと言った。そして「今日いつもの黒いのいねがったな」とつぶやいた。「黒い」というのは、守男さんのイメージの世界では酒井さんだと私たちは理解している。翌日酒井さんを交えて「黒いのいなかったな」と守男さんがつぶやいた話をしていると、酒井さんも「それ俺のことだ…」と目を真ん丸くして驚いていた。里バンドのリーダーであり、街中でもライブをこなしている酒井さん。グループホームではいつもギターを抱えて歌う存在感バッチリの酒井さんも、風雲の会の迫力の演奏には打ちのめされてどこかに姿を消していたようだった。そのことをどこかで守男さんは知っていて、そして気にかけてくれているようだった。

 私は里に来て4年目になるのだが、今はかつてよりもすごく『音楽』に近いところにいる感じがする。毎月のように里コンサートライブがあり、今回のような最先端で一流の演奏に触れる機会がある。里にいなければ英哲風雲の会などとも無縁だった。グループホーム第2には里バンドもある。残念ながら私には音楽を演奏する才能やセンスはないけど、音と人と一緒に生きている感じは好きだ。英哲風雲の会の和太鼓は守男さんと一緒にみれて本当によかった。私の中で和太鼓と守男さんの生き方がひとかたまりとなって大きな生命力としてひとつになったような感覚をもった。寄り添って、悩んだり迷ったり、今私は、生きている実感が湧いてくるようなところにいると思う。
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−アートシーン− 「 残 照 」 ★施設長 宮澤京子【2012年11月号】

【‘赫(あか)’との出会い】
 11月はじめ、紅葉を見に仙台から仙山線に乗って山形にひとり旅をした。面白山高原で 降りて「山寺」まで歩いた後、山寺から天童までバスが出ているというので足を伸ばした。天童には出羽桜酒造の美術館があって、斎藤真一の作品が展示してある。そこで以前から気になっていた「残照」のリトグラフを迷わず買った。普通、瞽女(ごぜ)さんは3人で組んで旅をするのだが、この「残照」には2人組の、それぞれ笠をかぶり風呂敷包みを背負い縦縞模様の着物を着た後ろ姿が印象的だ。中央に描かれている道路と立木で遠近を採り、彼女らの道行きは、まっかに燃え輝く浄土に向かっているようだ。中央の道路に分割された両サイドの平原の色が、太陽の返り血を浴びたかのようなどす黒い静脈血の赤い色で染められていて、全体にかなりの迫力がある。(私は後で、このコンラストの意味を感じることになるのだが・・・。)

 我が家の階段の踊り場の壁に飾ると「残照」はさらに迫力を増して輝いた。斎藤真一の絵を初めて見たのは、1999年、東京ステーションギャラリーで、新幹線の時間待ちに入館したときだった。「失われし心の旅 斎藤真一展」と題して、氏の没後5年の開催で、130点ほどの作品が展示されていた。印象的だったのは強烈な今までに見たことのない「赤」だった。いわゆる「赤」とは異質の、心象が滲み出たような赤だった。斎藤真一本人は「赤」ではなく「赫」と言っている。私にとっては、画家との出会いもあるが「赤」との衝撃的な出会いでもあった。氏は「瞽女」と呼ばれる盲目の旅芸人や遊郭「吉原」など日陰の存在として、歴史の伝承において消され、忘れ去られていくものの足跡をたどり、それらの風景のみならず、そこに生きる人間の息遣いを繊細な感性で丁寧に拾い上げ「哀愁」を帯びた日本の原風景として描いた画家・・というのがその時点での斎藤に対する私なりの理解だった。それは銀河の里が生まれる1年前のことだった。何気ない記憶のひとつに過ぎなかったのだが、その「赤」がその後も妙に気になっていた。そこで絵だけではなく、著書の『瞽女日記』シリーズや『吉原炎上』そして彼の放浪記やエッセイなども読んでみた。最近になって、彼の作品が所蔵されている出羽桜美術館に何度か足を運んでいるうちに手元に置いておきたい気持ちが高まってきた。ちょうど、ある美術商からの紹介もあって「明星」という小さな作品を手に入れた。この絵は3人の瞽女が黒いマントに身を包み、雪の積もる広い平原を並んで歩く場面が横向きの姿で描かれている。雪原のむこうには雪をかぶった山々が連なり、その山合いから太陽が昇ろうとしてうっすらと赤く燃えている。群青色の空には明けの明星が瞬いている。雪原の白と群青色の間に一直線の赤が効果的に映え、凜とした落ち着きのある絵で、斎藤真一の描く瞽女絵の代表的な構図のひとつでもある。この絵はとても気に入っているのだが、リトグラフの「残照」は全体が真っ赤で斎藤真一のあの「赫」が迫ってくる迫力があり、また違った魅力にやられてしまうのだ。

 朝、目を覚まし、歯磨きしながら「残照」が目に入ると「いいねぇ」とつぶやいてしまう。夜二階に上がるときは、ライトに照らし出されるその絵の幻想的な色彩にまた「いいねぇ」と見とれてしまう。1枚の絵によって、日々こんなに幸せで感動的な気持ちになるなんて思いもよらなかった。

【絵に込められた‘魂’を体感する】
 「残照」に朝夕浸っていたそんな矢先、ユニット:オリオンで、10年の歳月を里で一緒に暮らしたハルエさん(仮名)が亡くなられた。担当の万里栄さんはユニット会議で「ハルエさんと出会ったときにいろんな声やいろんな音が聞こえてきた。いつからかそれは聞こえなくなったのだが、死の床で再びそれが聞こえてきた」というのだ。彼女は通信の表紙を描いてくれているのだが、毎月、里の歳時などを柔らかいタッチで彩ってくれている。彼女がハルエさんと出会ったのは、里での10年のうちの最後の数ヶ月で、ハルエさんはすでにねたきりで経管栄養になってからだった。入居当初のとても活発でユーモア溢れる饒舌な語りのハルエさんに、圧倒されっぱなしのあの時代ではなく、コミュニケーションの手段がかなり制限され、身体的ケアや医療管理的な配慮にウエイトが占められる生活になってからの出会いである。そんなハルエさんから、いろいろな音が聞こえるという彼女の感性の鋭さには驚かされる。万里栄さん自身、ハルエさんに支えられてやってきたこの数ヶ月だった。理事長は「ハルエさんが生きてくれているうちに2枚目を描こうとして実現できなかったのは残念だったが、ハルエさんとの10年を事例として物語る作業を通じて、そうした音も含めたハルエさんの肖像を作品として描く必要があるのではないか」と万里栄さんに期待する言葉をかけていた。絵で表現する才能と豊かな感性を持った万里栄さんの挑戦に私も心から期待したい。「音が聞こえてくる絵かぁ」と興味深く感じたが、その時は絵が視覚だけでなく音とも関わるとはあまり実感としては持っていなかった。

 その数日後、毎日徹夜のような夫の不摂生に「早死にする気でいるのではないか」という心配が高じ、怒り狂って眠れなくなり、起き出した。すると踊り場の壁の「残照」が目に飛びこんできた。浄土と思えたあのまばゆい赤の輝きは、爆発し噴火するマグマとなり、煮えくりかえる地獄の血の池、六道輪廻の修羅道に変貌していた。おまけに、能の演目「道成寺」の見せ場で激しく乱舞する白拍子の音まで聞こえてきた。描かれた2人の瞽女さんは2人ではなくなって「慈悲と阿修羅」を併せ持った一体になっていた。その間が数分なのか数秒なのか分からないが、時が止まっていた。はっとして、もう一度見たときには、爆発も白拍子も聞こえず、夕日に向かう2人の瞽女さんの姿も元に戻っていた。
 絵の威力というか、見る側のその時々の心境によって、極楽浄土が地獄にも変化する体験は自分でも驚きだった。絵にはまさに「魂が入っている」のだろう。そこに描かれた瞽女さんの道行きは、近代以前の厳しい差別と貧困と離別を繰り返す修羅の道であり、繊細な感性によって、わずかな人への信頼の心だけで繫がっていたのだろう。悲哀の赫が、少し自分の身に帯びて感じられたような気がする。そんな経験の後で、この絵に向かうと、私の気持ちが炙り出されるようで、ちょっと怖い気持ちにもなる。

【斎藤真一をデッサンする】
 斎藤真一は1922年に岡山県倉敷で、軍人でありながら都山流尺八大師範であった父の長男として生まれる。父からは軍人になることを勧められるが、美術を志し岡山師範に進む。その後東京美術学校に入学するが在学中に学徒出陣する。戦後復学し卒業したあと、高校の美術教員をしながら、制作を続けるが渡仏への思いが強くなり準備を始める。フランスでは藤田嗣治との親交があり、彼から「絵を描くことを主眼におくのではなく、よく見てよく歩くこと」との勧めがあった。そこでモーター付き自転車でオランダ・ベルギー・イタリアを巡り、中世の町や教会の壁画を見て歩いたという。帰国の際、やはり藤田から「東北は面白いと思うよ」といわれ、東北を旅する。幼い頃から邦楽に慣れ親しむ環境もあってか、津軽三味線と出会い、その繋がりで瞽女の存在を知る。瞽女を初めて描いたのが昭和37年だったという。それから約10年の歳月をかけて越後信濃路の瞽女宿を自ら訪ね歩き、瞽女の心象世界を描き続けることで、斎藤真一の独特な画境を生みだすことになった。

− 独特な色彩「赫」−
 この「赫」は、瞽女さんが失明する以前に見た色の中で一番印象に残って忘れられない記憶が、越後平野に沈む真っ赤な太陽だったというところからきている。その赤は、失明してからの何年かの年月を経て、色の純度を高めつつやがて「赫」と表現するにふさわしい深みのある色有り様や人間としての生き様が、彼女らとの出会いによって変容していき世界が広がって行ったのだと感じる。そうした次元からもたらされる「赫」だからこそ、見るものにピュアな感動を引き起こす力を持っているのではなかろうか。

−「越後瞽女日記展」から −
 画家として生きる斎藤は、瞽女さんの慎ましやかな日常の暮らしや人生の理不尽さをも宿命として受け止める柔軟さに感動し、また旅芸人として三味線一本で自活しなければならない厳しいその道行きの中に、芸術が目指す「美」が何であるかをも教えられたに違いない。ここに、「越後瞽女日記展」の作者のことばの一部を引用する。
 私は、この長い年月、瞽女さんたちや瞽女宿の人たちから、人間とは何か、真実美とは何か、ということをこんこんと教わったような気がする。それは、彼女たちが、私たちにとって一番大切な視覚というものを失っていて、唄と人情の中に恐ろしいほど開眼していたことであり、その開眼こそ、実は絵画の内なる美である、という気づきであった。だから私は、単なる視覚の上で見える瞽女さんや瞽女宿の人たちを描くのではなく、彼女たちの心の中で感じている何か・・・を表現してみたいという祈願に明け暮れたように思える。
 これを読んだとき、斎藤の画境が開かれる「鍵」となる心情が書かれてあると思った。そして、その対峙する姿勢は人間の生き方として、とても美しいと感動した。

− リアリズム −
 斎藤にとって瞽女の連作以降、斎藤独自のリアリズムの追求が始まった。その師、岸田劉生のリアリズムのように目に見える総てを描き込もうとするリアリズムとはちがった、心のリアリズムを大切にしていったと云える。斎藤自身が「私はここでそこにあるものを克明に再現するとかしないという方法論ではないと言いたいのだ。真実を見抜いて、これは真実だと信じたその感動の表現がリアリズムと言いたい。自分はこのように見て、こうありたいと願う熱い思いをカンヴァスの中に封じ込めてしまおうとする心なのだ。その心情と行為とに偽りがなければそれが本当の意味のリアリズムであると信じたいのだ。」と語っている。

 その後彼は、北海道に渡った瞽女を描いてはどうかという勧めがあったが、彼のステージは、己のさすらいに向う。描いたのは、ヴァイオリンやチェロを奏でる楽師、それもチョビ髭を生やし、風にそよぐひょろひょろの自画像であった。そして彼は、さすらいについてこう言っている。「さすらいとは、遠くの見知らぬ地をさまようことではなく、身近な日常すべてなのだ」と。

【私の夢想】
 斎藤真一が残してくれた、瞽女日記が写し出す悲哀の心象は、日本人の原風景に繫がっているとするなら、銀河の里の暮らしで綴られる老若男女の繋がりの物語は、人間の原風景になっていくのではないかと夢想する。里でいう「物語」や「事例」と、斎藤のいう心象のリアリズムは、どこか非常に近いものだと感じる。斎藤が瞽女の心象を祈りながら描くことで「赤」が「赫」に純度を増し、画境が開かれていったように、銀河の里の事例が精度を高めていくことで、人間の原風景を形付けられるのではないかという期待でもある。それは、単に事実の羅列や因果論的な記述ではなく、綴る者の感性によってお互いに変容が起こり、新たな世界が開けていくそのプロセスを綴ったものだからである。斎藤が瞽女さんと本当の意味で出会ったように、私たちは里で出会う利用者の人たちを鏡に、過去と未来を見据えた現在の関係性を成熟させていくべきなのだろう。

 私が特に惹かれる斎藤真一の絵がもう一枚ある。それは、瞽女さんを迎え入れる瞽女宿としての農家の座敷で、芸で身を立てる凜とたくましい瞽女さんの正面向きの絵である。いつか正面を向いた瞽女さんと対峙できるよう、私も精進を重ねていきたい。
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いのちに触れる ★デイサービス 米澤 里美【2012年11月号】

 5月に次男を出産した。妊娠33週目での早いお産となり、産休前だったこともあって、私としては想定外のことばかり、心の準備がままならぬ内に、事が起きて、現実を受け止めようとして、意識を走らせても追いつかない程だった。それでも、覚悟を決めてお産へ挑んでいくしかないので、心は岸壁に必死でしがみついていた。
 切迫早産と診断されて2週間後の高位破水だった。少しずつ流れ出る羊水を感じながら、心はざわめいていた。日曜日、救急車で転院となったが、搬送される直前に主治医が「タイミングよかったよ。すべてはお母さんと赤ちゃんが、ちょうどよくなるようにできているからね」と背中を押してくれた。考えてみれば、4月に逆子が直ったことも、日曜日の早朝、30分違ったら新幹線に乗っていたはずの主治医と連絡がとれたことも、ちょうどよく成っている事ではないか。搬送先の病院では「羊水がかなり流れ出ている。週数に比べて体重も1600g前後と少ない。羊水が少なくなると、感染の可能性も高い。陣痛の痛みに赤ちゃんが耐えられないかもしれない。帝王切開の方がストレスなくお産できるかも。待っても、せいぜい4日。感染しているとわかったら即手術だからね」と言われる。私は、「自然に産みたい」と伝え、陣痛が来るのを待つ事にした。早く産まれる事に対して、受け入れざるを得ない状況となった。医療介入はできるだけしたくなかった私は、もし手術になった場合の不安や、命の危険に対する不安が爆発しそうだったが、羊水が流れ出てもお腹をグリングリンと動いている赤ちゃんを感じると、「不安がっている場合ではない」と思わされた。入院2日目、動くと羊水が流れ出てしまうので、極力動かないように過ごした。陣痛はまだこない。一日激しい頭痛がして、もしこのまま産まれてしまうのだったら、私自身も危ないかもしれないと弱気になってしまう。なぜか夫も同じく頭痛でうなされている。3日目、お腹の中の羊水はほとんど無くなっていた。Dr.からは、「羊水がなくなり、へその緒が締まって赤ちゃんが苦しくなる可能性がある。本格的な陣痛になってどうなるか。まずは待ちましょう。」といわれる。それでもお腹の中の赤ちゃんは動いている。モニターをつけると、心拍は落ちることなく元気だ。命の音を聞き、「なんて強い子なんだ」と心が熱くなった。産まれるまでどうなるかわからない、生きるのか、死ぬのか。陣痛の痛みに耐えられるのだろうか。そんな私の不安を心拍で「大丈夫」と伝えてくれているような気がした。その命の音を聞きながら、なぜ彼は逆境を選んで産まれてくるのだろう、とぼんやり考えていた。そしてついに夜中、陣痛が来た。もうごちゃごちゃ考えている場合ではない。長男のお産の時には、助産師も
夫もずっとついててくれたのだが、今回は病室に私だけ。夜勤の看護師も少なく、陣痛の痛みは赤ちゃんと私、二人だけの対話の時間となった。5分おきの陣痛は「産まれたい」という彼の意思と感じた。陣痛と陣痛の間隔は「眠れ」と暗示がかかったみたいに意識が遠のく。そして痛みで、はっと起きる。痛みは苦手で逃げ出したいほどだが、逃げれば命も去ってしまう気がした。痛みは、ゆっくりとお腹から腰へ、腰から仙骨へ、ゆっくり、そして確実に移動している。「ぐぅっと下に降りるんだよ〜」と念じて、祈る。宇宙から波が押し寄せるみたいに、痛みは規則的に押しては去ってゆく。陣痛が3分間隔になって、いよいよ夫に電話し、ナースコールを押した。一人では到底耐えられない痛みになった時、夫が来た。「長男が産まれたときと同じ空だ」と言ってカーテンをあけてくれた空には、長男が誕生した朝と同じように、空から金色の強い光が降りていた。きっと命は大丈夫だと確信した。陣痛室に移動して間もなく、突然陣痛の間隔がなくなり、分娩室へ。自分自身が裂けてしまうのではないかと思う程の強烈な痛みで「いたい!」と何度も叫び、理性はすべて吹っ飛んでしまった。もう、これ以上は無理、というところで「にゅるん!」赤ちゃんが産まれた。両手程の小さな身体と小さな声で「おぎゃーおぎゃー」と確かに泣いている!生きている!「よかった、えらいね、ありがとう」涙がでた。赤ちゃんを抱かせてもらい、赤ちゃんはそのままNICUへ入院となった。身体が少し落ち着いてから、NICUに行くと、赤ちゃんの顔は黒く腫れていた。通常、赤ちゃんは顔を守るためにつむじから産まれてくるのだが、私の赤ちゃんはおでこから産まれてしまったらしい。前日に私も夫も激しい頭痛に襲われていたのは、このことだったかもしれない。陣痛がくる直前まで頭痛があったのに、陣痛が来ると頭痛は遠のいた。前日から赤ちゃんと共鳴していたのだ、と妙に納得してしまった。
 今、私が息を吸って、吐いて「生きている」ことの奇跡を感じる。人は死に近づくと、生をリアルに感じるのかもしれない。命は混沌としていて、神秘的だ。もしかして、無かったかもしれない命がここにしっかりあって、神様に感謝するしかない。お産を経験してみて、「生と死、どちらも受け入れるしかない」と、どこか肝がすわった気持ちになっている自分に驚いている。今回のお産は、これ以上は受け入れられないと思う自分を受け入れていくという心の鍛錬だった気がする。
 高齢者介護の現場に身を置いている私は、あの世に近い、神に近い存在の方々と出会うことができる。そして、お産であの世から来たばっかりのわが子と出会った。人間が、産まれて、生きて、逝く、という人生に触れて立ち会っている気がして、今後の子育ても、仕事に復帰してからの高齢者介護も、学び多いものになるに違いないと期待している。
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利用者の見抜く力に育てられて ★特別養護老人ホーム 三浦 元司【2012年11月号】

 銀河の里で働き始めて3年目に入る。特養のユニットすばるに配属になってから約半年が過ぎた。人間としても単純・薄っぺらで、介護者としてはまったくの素人でしかない。そんな自分でも、情熱だけは失わないでやってきたつもりだ。これまでも幾度となく大きな壁にぶち当たり、やりきれない感情に押しつぶされそうになりながら挫折を繰り返してきた。ユニットのリーダーとしても、チーム作りに悩んでボロボロになったりする。その度に、利用者さんの存在に救われてきた。しかし、最近はその利用者さんさえ見えなくなりそうで苦しかった。目で見て、耳で聴いて言葉を綴る。けれども、自分の心は誰のそばにもいなくなっていた。自分の心が動かないまま、距離が離れていく感じは自分でもしんどかった。
 それでも利用者さんは、私の心の中に入って来てくれる。力ずくで入ってくる人、ゆっくりと教えてくれる人、ただ横に居てくれる人など…。さまざまだが、どれも今時あり得ない‘人と人との繋がり’で支えてくれて、いつも救われる。
 10月の初め、約1ヶ月ほど入院していたタクヤさん(仮名)が、退院してユニットに戻ってきた。帰ってきたタクヤさんは、生死をさまよったところでたくさんの人と会ってきた話をしてくれた。いわゆる“三途の川”も見てきたらしい。タクヤさんは、腕を組んで目をつぶりいろいろな過去の時代にタイムスリップしていることがある。戦争真っ只中の時代だったり、地域でリーダーとして活躍していた時代などによく戻る。そして、その話をしながら、そこからスタッフ1人1人の生き方について言葉をくれることがある。
 退院して最初に私にくれた言葉は「私はずっとココに居ました…。あなたはココに置いて行きなさい。他ではない。ココに」だった。その言葉で、自分は体はココにいても、心はココにはいなかった自分に気づかされる。タクヤさんは日々、そんな意味深いたくさんのメッセージを伝えてくれる。
 入浴中には、「オメさん…迷子だっか?最近迷子増えているからな〜。アハハハ」と言われた。自分の今の状況が図星で、ひれ伏す思いだった。恐れ入っている私に、また腕を組んで少し考えてから「オレの目は見える!何でも比較的見えるほうだ!オレの目からオメさんを見たら、ま〜だぬるいな!!!」と来た。見抜かれてあまりの的確な指摘に言葉がでなかった。
 数日後のこと、タクヤさんは、例のごとく過去にタイムスリップしながら、目を閉じたまま、当時の苦労話を始めた。その話を横でずっと聞いていた私に、突然目を開けてこちらを向き、「嵐の中の先生たちに、どっから話せばいいのか…。切り口が〜ねぇ。ハハハ!」と、なかなか育たない私に困って、お手上げという感じの言葉だった。そうかと思うと、車椅子でユニットの外の廊下へ行ったところで反転して「もう終わり!手がつけられません!ははは!」と言ったこともあった。なんとかするからそんなこと言わないでと思うが、確かにタクヤさんとしても面倒見切れない感じになるのだろう。それでも後で「あなたは…牛になりなさい。牛になって、車に引っぱってもらいなさい!」と語ってくれた。
 そんなタクヤさんの言葉に、いつも救われる。ただ単に、言葉を伝えているのではなく、その人のための言葉をはずさずキチンと選んで語ってくれている。タクヤさんは毎日たくさんの言葉をくれるのだが、どうにも自分の感受性や理解力が足りないせいで、意味合いがよく分からないこともある。それでも、タクヤさんがあきらめずメッセージをくれるので、自分もタクヤさんにしがみついて頑張ろうとしている日々だ。こうなると、どっちが支えられているのか解らなくなって、どっちが給料を貰っていいのかわからなくなる。
 こうやって繋がって、言葉を紡いでくれる人は、タクヤさんだけではない。他の利用者さんも、いろいろと語ってくれたりして、支えられ、励まされている。今の日本で、社会でそんな人間関係が作れることはほとんどあり得ない。不思議で驚くし、重くて受け止めきれないこともあるけど、何か重要なことを伝えられているということは強く感じる。それを、将来、私は理解して活かすことができなければならないと思う。そういう意味で私は、とても恵まれた環境で、多くの利用者さんに、貴重な言葉やまなざしで支えられていると思う。
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一緒にいることを許された時間 ★特別養護老人ホーム 中屋 なつき【2012年11月号】

 クニエさん(仮名)の発する言葉は多くはない。言語よりも瞳の動きや手真似などでやりとりをすることがほとんどだ。毎日一緒に過ごしているユニットのスタッフは、ちょっとした仕草や目線からクニエさんの意思や感情をくみ取り、日々のやりとりをしている。一緒にいるだけで気持ちが通じ合えるというスタッフもいる。クニエさんはユニットの雰囲気やスタッフの頑張り、他の利用者さんの様子まで、“すばる”全体を見守ってくれる眼差しを持っている。
 クニエさんの体調の良いときや気分がのっているときには、こちらが挨拶したりちょっかいをかけたりすると遊んでくれて、受け入れてくれる感じがあるのだが、その微妙なニュアンスが、普段は事務所にいて、時々ピンチヒッターのようにユニットに入る程度でしか関われない私には、すぐにはクニエさんの考えていることや気持ちの奥まで察するのはとても難しい。最近は、食事がなかなか進まなくなり、熱発もしやすく、点滴を受ける日々で、一日のほとんどをベッドで過ごすことが多くなった。通りがかりに居室にお邪魔して声をかけても、窓の外や天井の一点をじっと見つめながら、一人でどこか遠くに行っているような、深い物思いにふけっているような表情でいることが増えた。そういうときのクニエさんとは、すんなりとは繋がれない感じがこちらに残る。

 久々に“すばる”に日勤で入った日のこと。最近のそんな感じのクニエさんに会うのがなんとなくつらいと感じていた私は、あえて最初にクニエさんの部屋に行ってみた。やっぱりどこか遠くを見つめていて静かな感じだったが、「今日は一日よろしくね」と声をかけた私の顔をちらりと見て頷いてくれる。少しホッとして、ベッドサイドの椅子にゆっくり腰掛けることができた。さて、何を話そうか…と考えながらふと見ると、サイドテーブルに置いてあった分厚い本が目に入った。手に取ると誰が持ってきたのか『ニーチェの言葉』というタイトル。これには心が躍った。(後で解ったのだがこの本は三浦君が持ってきたらしい。なかなかのセンスだ)
 正直に白状すると、このとき私はこの本に救われた気分だった。クニエさんと面と向かって過ごす時間が少し私は怖かったのだと思う。おむつ交換や食事介助などの介護作業を通せば、こちらのすべきことがハッキリする分、関わり方としてはわかりやすい。しかし、ただ作業だけこなせばいいというものではない。作業は利用者その人と繋がるための窓口や通路なのであって、どう繋がれたか、私と利用者がどう出会えたかを大切にしたいといつも思う。それでも、クニエさんとの場合には、“一
緒にいる” という時間や空間にどこか息苦しさを感じてしまう自分がいた。
 そこへ思いがけなく登場したのがこの一冊の本。1ページ毎にひとつ、短い文節が載っていて、どこから開いても読めるので取っ付きやすく、どの文章も興味をそそられる内容。クニエさんにも見えるように目の前で開いてみると、クニエさんも食い入るようにしてページに目を向けてくる。二人の距離がグッと近づく。ゆっくり朗読してみる。「素敵だね」とか「なんだかちょっと難しいね」とか、私がつぶやく感想にも“うん、うん”と頷きながら聴き入ってくれる。ときどきリビングの様子を見るために席を外さなければならなかったが、膝の上に開いておいた本を、右から左へゆっくり、クニエさんの視線が活字を追っているのがわかった。“次へページをめくって”とでも言うように顎で合図したり、気に入ったところはじっくり時間をかけて読んでいる。そうやって、しばらく一緒に無言の、極上の読書の時間となった。いつの間にか息苦しさは吹っ飛んでいた。
 昼食の時間も一緒に居室で食べ、本の続きを二人で読んだ。口をギュッとつぐんで“もう食べたくない”と伝えてくるクニエさんに、ただ「食べて」と勧めるだけではお互いに苦しくなってしまう。でも、間にニーチェの本があったことで、単に食事介助をこなすだけにならずに済んだ。1ページごとにゆっくり内容を噛みしめながら読むのと、ひと口を呑み込むまでにゆっくり咀嚼して味わうクニエさんのペースとが、なんだかうまい具合にしっくりくる感じだった。実際の食事量はさほどではないにせよ、この贅沢な美味しい時間が二人を満腹にしてくれたように感じるのだった。
 結局、私はその日のほとんどをクニエさんの部屋で過ごした(もちろん、いつも全体を見ていてくれる“すばるのお母さん”的スタッフ、宮さんの守りがあったからこそできたことだ)。ちょっと時間が空くとすぐにクニエさんのところに行きたくなる。眠っているクニエさんのベッドサイドで、ひとり本を開く。しばらくの間、本の世界に心地よく浸ってふと目を上げると、クニエさんと目が合う。隣にいていいんだ、と感じる。クニエさんが、私がここにいることを許してくれている、と感じた。


※以下の抜粋は、クニエさんと読みながら心に残った文章です。

一緒に黙っていることは素敵だ。
もっと素敵なのは、一緒に笑っていることだ。
二人以上で、一緒にいて、同じ体験をし、共に感動し、
泣き笑いしながら同じ時間を共に生きていくのは、
とても素晴らしいことだ。
〜フリードリヒ・ニーチェ〜
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忘れない ★特別養護老人ホーム 田村 成美【2012年11月号】

 今年も花巻まつりの季節がやってきた。昨年は、以前所属していたユニットすばるでフミさん(仮名)と特別な時間を過ごせて感動的な貴重な体験をさせてもらった。今年は6月にユニットことに入所した、パワー溢れる御年98歳!の清子さん(仮名)と行きたいと思った。私は清子さんが大好きだ。ツンとするときもあるけれど、そこがとても愛らしく、みんなにも好かれていて清子さんは人気者だ。自宅が祭りの道中にあるということで、自宅にも一緒に行きたいと思った。それを息子さんの五郎さん(仮名)にお話しすると「是非、家に寄ってってください」と言っていただけた。五郎さんは毎週のように清子さんに会いに来られ、しばらく時間を過ごしていかれる。その二人のやり取りや関係を見ていると心温まる思いにさせられる。お孫さんやひこ孫さん達もよく来てくれて、清子さんは家族さんにとても愛されているんだなと感じる。
 清子さんは6月に病院からそのまま里に来たので、入院して以来まだ自宅に帰っていない。久々の帰宅に清子さんの気持ちを想像しながら、9月の祭りの日のお出かけが楽しみだった。

 お祭り当日、準備をして、あとは車に乗って出発だーっ!と意気込んで玄関で靴を履き終えたとたん、「…うんこ出る!!」と普段よりもはっきりした口調で清子さんが言った。びっくりしたのと、時間が迫っている焦りとで、「ホント!?」と聞き返す。でも「うん!!」とはっきりしている。トイレですっきりしての出発!となった。
 駐車場で車から降りると、祭りの囃子が聞こえてきた…なんとそこに偶然!山車が到着、祭り会場まで一緒に歩いた。このタイミングは、清子さんのトイレのおかげだな〜とありがたかった。
清子さんの自宅につくと私は気分が高揚し「清子さんお家だ〜!」と大声で話しかける。何も言わず家を見上げる清子さん。ここが玄関か…あっ、花が飾ってあるなどと、私はいちいちドキドキしながらチャイムを鳴らす。
「おばあちゃんよく来たね〜!!」清子さんのお孫さんの和子さん(仮名)が笑顔で迎えてくれる。和子さんの言葉にクシャクシャの笑顔になりながら、手をぎゅっと握って応えている。五郎さんが現れるとさらにクシャクシャの顔になる清子さんだった。それぞれのいろいろな思いを感じて私も同じクシャクシャの顔になっていたと思う。
 ところが、五郎さんが「おばあちゃん、帰ってきたね!家に入っていくっか?」とせっかく誘ってくれたのに清子さんは「・・・いい、入らね」と断ってしまうので、私は驚く。五郎さんが「みんなと行くの?」と聞くと清子さんはやはり「うん、入らね」と言う。自宅に来て「入らね」はどんな気持ちだったのだろう。私は強引に清子さんを誘って少しだけお邪魔する。五郎さんの「ここでご飯食べたね。こっちでは寝たり一緒に過ごしたね」との話にしっかりうなずく清子さんだった。
 キンキンに冷えたスイカ、自家製の漬物、麦茶などをごちそうになりながら昔の清子さんの話を聞く。新しいものが好きで、チャレンジャーだったとの話が出る。花が大好きで丁寧に手入れしていたという庭を見せてもらった。苗から育てたという立派な柿の木や椿、松の木などの植物で庭が溢れかえっている。清子さんが自分で作ったという小屋もあった。「毎日庭にでて、草とったり水やったり、世話して…。おばあちゃんは土に触って、太陽の光いっぱい浴びて、だからここまで長生きしてるんだな〜」と五郎さんが語る。私は庭で木や花を世話して過ごす清子さんの姿、草を取る姿を想像し、さらにこの家でお米を研いだり主婦として活躍していた時代に思いを馳せる。お話を聞きながら昔の清子さんの暮らしの中に居るようで、幸せな気持ちと切ない気持ちが複雑に入り交じっていっぱいいっぱいになった。
 感傷に浸っていると和子さんが「花巻まつりもみたいもんね」と言ってくれて、4人で里のメンバーに合流した。金魚すくいをしたり、みんなで歩いていると大家族でお祭りにきているみたいで嬉しくなった。
 ひとしきり楽しんだが、時間がきたので名残惜しく家族さんと別れる。「おばあちゃん、また来てね。私たちも会いに行くし泊まりに行くからね」「うん」とうなずく表情がやわらかかった。
 ユニットに帰ってくると、スタッフに迎えられ「どうだった?」と聞かれるとなぜかツンとする清子さんだった。らしいと言えばらしかった。その後、居室に入って「休もうか!」と私が顔を近づけると、清子さんは急に私の左ほっぺをつかんでひねった。驚いていると次に右ほっぺをやさしくひとちぎりした。そして私の目をじっと見ながら「忘れね」と言ってくれた。この言葉に打たれた。ズシッと来た。『今日のこと忘れないよ』と言ってくれたんだと思う。一緒に行けてよかった…色々な思いが込みあげ涙が出てきた。
 清子さんはすごく強い人だ。先日は肺炎になってしまったけど、2週間ほどで元気になった。体も強いが、何より心が強い。「負けね、死なね」療養中の清子さんはそう語っていた。わたしがパワーをあげなければいけないのだが、逆に私がいつも力をもらっている。私の気持ちが落ちているときそばに居てくれる。これからも私は清子さんとの時間を大事にし、私も清子さんのような強い心を育てていけたらと思う。続きを読む
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稲刈りと今年の稲作 ★特別養護老人ホーム 高橋 菜摘【2012年11月号】

 晴れた・・!恐る恐る開けたカーテンの向こうに広がる青空を見て私は思わずガッツポーズで喜んだ。雨で二度延期を余儀なくされて迎えた10月16日、3度目の正直、最後の挑戦と臨んだ稲刈りの朝だった。
 一番乗りに田んぼに来たのは、私の所属するほくと・すばるの利用者さんたちだった。「行かね!」と言いながら帽子を自分で被ってきたというユキさん(仮名)は、「オラできね!」と言いながら軍手をつけて、しっかり3株も稲を刈った。刈った後の稲を持って嬉しそうに笑い、広周さんに「この後どうすればいいの?どうやってまとめるの?」と聞いていた。すると隣にいたデイサービスのイサムさん(仮名)が「これはね・・」とユキさんの持っていた稲の束をまとめてくれた。なんて自然に繋がっていくのだろう、と二人の姿をそばで見ていて、他人に繋がることの苦手な私は感動してしまう。
 延期の度に、職員の勤務シフトを調整し、当日の動きを考えた。二度ともこびる作りもお願いしながらフイにしてしまって、私はすっかり気落ちしていた。いくら大事な稲刈りでも何度も延期してまでやるべきことだろうか、無理して里全体でやらなくてもいいんじゃないか、この無理がたたって、ただのイベントになるんじゃないだろうか・・・そんな思いがグルグルして不安でしかたがない日々が続いていた。その不安が、この日、ユキさんイサムさんの姿を見て一気に吹き飛んだ。「がんばってよかったんだ」と思えた。
 その日のイサムさんの出で立ちは、まるでサラリーマンのようで、稲刈りには似つかわしくなかった。それが、田んぼに入った途端に誰よりも速く稲を刈り、結わえ、はせにかけていく・・若いスタッフに指導もしてくれる。「稲刈りをするぞ!」というイサムさんの姿勢にこちらがグングン引っ張ってもらった。イサムさんだけじゃない、田んぼのあちらこちらで、そうしてスタッフを引っ張る利用者さんの姿が見られた。 
 刈った後の稲の結わえ方、はせへのかけかたはそれぞれの流派があり、田んぼの中を歩き回っていろんな結び目を見るのも楽しかった。一人一人に「長年の経験で身体に染みついたやり方」があり、それを言葉や姿で、若いスタッフに教えてくれているのが嬉しかった。
 午前に稲刈りができそうな利用者さんはみんな出てきたから午後はどうなるだろうと思っていると、午前の利用者さんたちが「午後も稼ぐぞ!」「まだ刈り終ってねぇべ?」と再び出て来てくれた。午前のペースでは今日中に稲刈りが終わらないと、ワークも急遽全員出動になり、田んぼの中は大勢の人でいっぱいになった。刈る人、結わえる人、かける人。教える人、教わる人、見ている人・・・田んぼの中でいろんな姿が見られた。
 見学席として田んぼの上に設けたベンチに座る利用者さんのところにも、刈った稲を持っていった。すると、「そこに置いて、まとめるから」と、デイサービスに来ているフミさん(仮名)がふっと立ち上がり、素早く結わえてくれた。それではと次を運ぶと次々にやってくれる。そこは見学席ではなく作業の場となった。フミさんは、最後には「刈るのもする」と田んぼに入って
稲刈りまでしてくれた。また特養ほくとで最近毎日絵を描いている剛さん(仮名)が稲刈りの絵を描いてくれた。春の田植えの時は、見学席と田んぼとでどこか隔たりを感じて苦しかったのだが、今回はみんなが繋がっていて、うれしかった。
 今年の3月、私と成美さんと万理栄さんの三人は『田んぼを任される』ということを『時々田んぼ作業を手伝う』ぐらいにしか捉えておらず、昨年と同様に、自分では何も考えず、人任せで指示待ちの姿勢では意味がないのではないかと指摘された。それでも今年が自分たちで考えて米作りをやってきたかと言えば・・・・まるで程遠い。せいぜい「一年の米作りの流れが何となく分かった」というくらいだ。私たちは「米作り体験クラブ」と言われていて「米がとれなければ生きていけない」という生活のかかった農家の真摯な米作りからは、遠くかけ離れている。
 二度の雨による延期に泣かされ、自然には勝てないと肩を落とした。しかし、一方で自覚もないまま自然の力に助けられてもいた。去年の稲刈りでは水抜きが甘く利用者が全然入れなかった田んぼが、今年は車で入れるほど乾いていた。「あんな水抜きの仕方で、こんなに乾くのは日照りがつづいた今年だけだ」とワークステージの哲哉さんに言われ、自分たちの管理に対する意識の低さを振り返る。
 天気予報を見ながら、空を見ながら、長年の経験を踏まえて明日の予定を組み立て、天気に相談しながら、祈りながら米作りをしてきた、祖父母や父母の姿を見て育ってきたはずなのに本当は何もわかってはいない自分がいる。午後も稲刈りに精を出す利用者さん達の姿を見ながらそんなことを感じた。
 正直なところ、私はずっと、祖父母や父母が身体を痛くしながら米作りをしているのが見ていて辛く、休みの日に一日中田んぼ作業を手伝うのもイヤだった。我が家の田んぼは狭いので機械代が払えるほど稼げず、ほとんど手作業で行われる。そのため、時間はかかるし大変だが毎年おいしいお米が出来る。そのお米と農家に誇りを持ちながら、一方で米作りなんてしたくないという気持ちもあり、私は米作りから離れることも近づくこともできないでいた。今年、「何も考えていない」と何度も言われ、自覚しながら里のもち米作りを行った。祖父母に任せっきりだった知らない作業をその中で知った。介護の仕事の合間に行う農作業に「もうイヤだ」という気持ちもあった。本当にもち米がとれるんだろうかと不安にかられて、入水の時期は日に何度も田んぼを見に行ったりもした。そうして、みんなと繋がった稲刈りが行われて、「やってきてよかった」と心から思えた。おいしいお米が出来るように、という祈りの気持ちがようやく少しわかったような気がした。来年はもっとおいしいお米がみんなで収穫できるように、今年から準備をしっかりしなくては、という気持ちも出てきた。
 来年の稲刈りはどうなるだろうか。「この田んぼじゃだめだね」なんて利用者さんに言われないよう、頑張りたい。また、来年はしっかり計画を立てて、一つ一つの作業を利用者さんと共に行っていきたい。塩水選・種まき・田植え・水の管理・・・何をしても、先人達がやってきた米作りの精神を受け止めたいと思う。稲刈りを終えて何かが私のこころの中に芽生えている。
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稲刈りもやった真知子さん ★グループホーム第1 鈴木 美貴子【2012年11月号】

・待っていた 稲もみんなも この時を 手に鎌握り 田に人盛り

・3度目の 晴れたこの日に 稲刈りへ 育てて実った 黄金の束

・おやつより 稲刈りせねば 食われまい 美味しいよは 次の楽しみ
 

今年の稲刈りは、予定していた日の天候が悪くて延期になり、さらに次に予定した日も雨が降ったりやんだりでパッとせず、またまた延期になった。毎年、全体行事でやっていた手刈りだったが今年は各部署で、それぞれ行けるときに行く感じになるのかとあきらめかけていたが、3度目の正直で、予定していた日が晴れて、また大賑わいの稲刈りができた。
 私は、今年は特に真知子さん(仮名)と稲刈りをしたかった。真知子さんは今年3月に入院して、一時期は危なくて親族を呼び寄せることもあったのだが、その後回復し、5月に退院して帰ってきた。退院してまもなく、もち米の手植えがあり、真知子さんの舞台かのように田んぼで輝いた姿があった。たまたまその場面に家族さんが面会に来られたりして、田植えをする復活の姿をみせることができた。真知子さんは今年12月で98歳。約30年ぶりの田植えだった。田植えをしたのでぜひ稲刈りもしたいと思ったが、予定していた最初の稲刈りの日は天候が良くなく足場が悪いので、足に痛みのある真知子さんは無理しないでおこうという思いになってしまった。でも中止になってしまったおかげで、3度目の稲刈りには行くことができた。ただ、なかなか気がのらないと外に向かわない真知子さんなので、どう声をかけようか迷った。不思議と真知子さんを病院や草取りなどにもすんなり誘えるスタッフの勝巳君はこの日体調を崩して休みだったのもあって、誘えるかどうか不安だった。稲刈りだから麦わら帽子かとも思ったが、いつも外に行く時にかぶるお気に入りの帽子を持って、私はリビングのイスに座っていた真知子さんの隣に座った。帽子を真知子さんが見える所に置き「今から稲刈りに行きましょう」とストレートに誘ってみた。どんな反応かドキドキしていたら「稲刈りか・・・」とテーブルにおでこをつけて伏せてしまった。あや!これはダメかと少々諦め気味になりながらも、車イスを真知子さんの近くに置いてみた。しばし、テーブルにおいた帽子を手にして帽子と相談でもしているかのような様子だったが、やがて「行くのっか、これに座ればいいのっか」と言ってくれた。よし!気が変わらないうちにと車椅子に座ってもらい車に乗り田んぼへ向かった。
 田んぼで「着いたよ」と車の戸を開けると「降りるのっか?」と足をさすりながら「いででで」と言いながらも、車から降りて田んぼに入って歩く。鎌を握ると「いででで」と言いながらも稲を刈りだした。やったー!とカメラを向ける、でも小さくかがんでの作業なので顔がなかなかカメラに収まらない。それでも97歳の真知子さんの稲刈りを見せてもらうと私も力が湧いてくる。「いででで」と言いながらも手を止めることなく刈る真知子さん。おやつの時間になっても食べるより稲を刈る真知子さん。いなりずしを一口食べて「美味しいよ」と言うがすぐ手は稲のほうへ。稲かりの方に気持ちが入るのでいなりずしが転がってしまった。真剣な表情で稲を刈る姿は年齢を超えたものがあった。「お昼になるからそろそろ帰ろう」と声をかけるまで稲刈りをやめなかった。
 しばらくして、もち米の脱穀をデイサービスの軒下でやった。真知子さんも脱穀を見に行ったのだが、脱穀は「人を雇ってやってもらっていたからやったことがない。見てるから」と言うことで参加はしなかったが、今年は手植え、手刈り、脱穀と一連の作業を真知子さんと一緒に過ごせた。どの作業もずっとつながっている感じがした。次は餅つきしたいな。そして真知子さんの「美味しいよ」を聞きたい。


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ワークステージ たらふくまつり ★ワークステージ 村上幸太郎【2012年11月号】

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★前ページでも紹介しました「たらふくまつり」のそれぞれの様子を細かく描いてくれました。たらふくだけあって、無料の新米ごはん、きのこ汁、つきたてのもち、あつあつの焼きイモ、厨房特製カレーパンにコロッケ、ネギ班のネギたっぷりチヂミ、ギョウザ・シューマイなどなど。ぜひ恒例のイベントとして来年も開催したいですね。
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今月の書「眼」 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2012年11月号】

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揺らがないまなざし

自分の心を映す鏡がそこにある

見つめること
そして信じること

ありのままの自分を生きたい


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ブーケレタス ★ワークステージ 昌子さん(仮名)【2012年11月号】

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★昌子さんが所属する水耕ハウス班では、この秋よりブーケレタスと呼ばれる野菜を栽培する事になりました。その名のとおり、ブーケのように広がるのですが、その様子を大胆に表現してもらいました。
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