2012年10月15日
花巻まつり2012 ★ワークステージ 村上幸太郎【2012年10月号】
★9月7日〜9日にかけて花巻まつりが開催され、屋台を出店しました。屋台では恒例のギョウザやシューマイの他、ご当地サイダーや生ビールも販売しました。ワークステージのメンバーの活躍もあり、目標の売り上げ達成する事ができました!
私の戦い〜出征兵士として見送られた私〜 ★グループホーム第2 佐々木 詩穂美【2012年10月号】
守男さん(仮名)は、2年前にグループホームに入居された。守男さんは戦争体験があり、その心の傷に苛まれる様子が時折見られた。守男さんの戦地での残虐な体験は、若い私たちスタッフの想像も及ばないことで、時に、涙をこぼしながら懺悔するようないたたまれない様子に私たちスタッフは立ちすくむだけだった。守男さんが抱えている戦争の深い傷をどう癒し、死を迎えるのかというテーマをそこに感じながらも、まったくアプローチの端緒さえ見いだせないまま2年が過ぎた。
今年の1月になって、夜勤の北舘さんに守男さんが語った。「これを若い人たちに伝えないと俺は死んでも死ねない」スタッフはみんなでこの言葉を重く受け止め、守男さんの動きに注目していた。守男さんは、踊りの名手で太鼓や音楽に合わせて踊る姿には、なんとも味がある。ただ、踊っているうちに、楽しむと言うより、憑かれたような、迫真にせまった踊りになる。戦争の傷と踊りは関連があって、守男さんの踊りは癒しや鎮魂に結びついているに違いないと感じさせられていた。
今年の4月から私は特養からグループホームに戻って、新体制が始まった。スタッフの顔ぶれは個性豊かな、里らしい面々で、現実感は薄いが異界には親和性の強い、怪しいが、面白そうなメンバーだった。しっかり感はとぼしく、頼りがいはイマイチなのだが、どんな異界でも漂えて、受け入れてしまえるような不思議なチームだ。
第2グループホームのリビングは薄暗く、それだけでなんともいえない異空間を感じる。そこに重なるように、利用者さんは、なかなか一般には理解できない、違う世界に繋がっていて、不思議な異界パワーがそれぞれすごい。何かの声が聞こえるようで、その「お声」に従って、歩いて出て行ってしまうクミさん(仮名)。独自の世界に生きていて、居室にもスタッフはめったにいれてもらえず、お風呂も半年に一回程度だった久子さん(仮名)。最近になって二唐さんと相性が合い、お風呂には入れるようになったものの、子どもはいないはずなのに、毎日息子に電話をするのはこの7年間変わらない。99歳の豊さん(仮名)はあの世に居るのか現実にいるのかよくわからない所がある。自分でも夜中に起きたとき、「ここはあの世かこの世か?」と夜勤者に聞いたりする。夜はだいたい朝までうなったり、ベッドをたたいて寝てるんだか起きてるんだかよくわからない。入居10年になるトモミさん(仮名)は、現実的な人で、グループホーム全体をよく観察している。修羅場に強く、争いがあると目が輝く。全国広しと言えどもこんな怪しさ満点のグループホームは他にないんじゃないだろうか。そしてこの怪しさが守られていくところが里らしいところだと思う。
その怪しさに支えられてか守男さんも、入居3年目にしてついに動き出した。4月のある日「さあ始めるぞ」と守男さんは私と寛恵さんに語った。戸惑いながらもいよいよ来たかと身構える私たちだった。クミさんが歩き出して部落の神社に向かう。クミさんを拾った車に同乗した守男さんは、神社の前で車で待機する。ちょうど神社ではなにか会合が開かれていた。「まだまだ」と守男さんは時を待つように抑えていた。しばらくして何か一区切りついたのだろうか「よし今だ!」と叫んで神社の神棚の前に出て踊り始めた。神社に集まっていた人たちからすれば、乱入された形なのだが、守男さんの踊りの真剣で切迫した様子にあっけにとられて見守っている。やがて囃子と手拍子が起こって守男さんの踊りは頂点に達し、奉納された踊りとなって終わった。
この神社への奉納の舞が皮切りになったように、4月から5月には守男さんは、スタッフの酒井さんに毎日何かを語り続けた。酒井さんはその内容をほとんど覚えていない。あまりに切迫したリアルさがあって受け止めがたかったのだろうか。利用者の語る言葉を一言一句逃さず聞いて書き留める、聞き書きの量に関してはダントツ世界一だと思われる里の記録の細かさ、分厚さのなかで、ほとんどこの時の言葉が記録されなかったのは不思議でなら
ない。「あまりにリアルで残らなかった」という酒井さんの体力は消耗しその言葉を語られ続けた一月間で、酒井さんはフラフラになって、しばらく心理的に上がったり下がったりが入り交じって、調子が狂った感じになるほどだった。語りの内容は大まかには軍隊の上官が部下に訓辞を与える感じだったという。
周囲から見ていても、その頃の守男さんは深い井戸の底におりていって、そこに籠もり、何か別の世界と井戸の底でつながろうとしている感じだった。村上春樹の小説『ねじ巻き鳥クロニクル』に井戸の底におりて出口を塞がれ、壁抜けをする場面があるが、まさにその様子を守男さんによって目の当たりにしたような感じだった。臨床心理士の岩宮恵子先生は村上春樹のこの場面に関して“常識では考えられないことが起こり、現実的にまったく八方ふさがりになっているときには、自分の心の深層におりてそこで考え抜くことこそが意味をもってくる。そしてこれは、ただ単に「まるで井戸の底にもぐったように深く考える」といったたとえとして井戸に降りることを描いているのではない。人は心の井戸に降りるとき、本当に身体ごと井戸の底に降りていくのである(『思春期をめぐる冒険』2004)”と言っている。深い癒しが必要とされるとき、大きな傷を癒そうとするとき、何かと繋がる必要があるとき、人間は井戸の底におりて深い作業をすることがあるらしい。井戸の底におりたと同時に守男さんの体が重くなった。それまで踊ったりしていた守男さんが重くなると、歩くこともできなくなり、お風呂に入ると湯船から上がれず、3人がかりで持ち上げなければならなかった。
ちょうどその頃、現実に守男さんの実家で古い井戸を埋めるという話が出た。守男さんの許可がないとできないとして、家族の方は守男さんに相談にこられた。守男さんは埋める許可を出し、みんなで集まって埋めるための儀式が行われた。それにはスタッフの私と寛恵さんを伴って守男さんも参加した。そして工事が始まったのだが、始まった日に工事を請け負った方の身内に不幸があったとのことで、工事は中断した。まだ埋めるわけにはいかなかったのだろうか。それから4ヶ月経ったが井戸はまだ埋まっていない。
ほぼ1ヶ月に渡る酒井さんへの守男さんの語りが終わったのは6月の始めだった。ちょうどその頃、日勤だった私は、みんなが夕食を食べ始めた頃合いで、勤務を終えて、いつものようにリュックサックを背負って帰ろうと玄関で靴を履いていた。そこへ寛恵さんが走ってきて、「待って!守男さんが見送るって言っている」と引き止められた。守男さんは夕食の最中だったが席から立ち上がろうとしていた。なんだろう?守男さんに見送られるなんて初めてだ‥と思いながら、玄関で靴を履いて立っていた。守男さんはスッと歩いてくると、かぶっていた帽子を取って私に一礼した。真剣な表情で、目には涙を浮かべていた。そして大声で叫ぶように言った。「日本軍として恥じぬよう‥毎日を元気に頑張ってください」私はびっくりしたがすぐに出征兵士の見送りのイメージが湧いた。こうやって守男さんも見送られて戦地へ赴いたのだろう。またこうやって地元から多くの兵士を送ったのだろう。私にとって戦争は教科書やドラマの過去の歴史の中のことでしかないものだった。しかしこのとき私は本当に送られる兵士になった。守男さんと一緒に利用者の歩さん(仮名)も追いかけるように席を立って、玄関に守男さんと2人並んだ。歩さんは優しく気を配る人で、母のイメージの人だ。二人が並んで見送ってくれるその姿が私には自分の両親にみえた。守男さんの戦争のイメージとはまた違った別のところで動いている歩さんだったが、私にかける言葉は「1人で行くの?気の毒だよ。かわいそうで‥元気でいるんだよ」とまるで出征する私を心配する母のような言葉だった。おまけに、リビングで夕食を食べていたサチさん(仮名)が、その様子を知ってか知らずか、いきなり“君が代”を大きな声で歌い始めた。ここまで揃ってしまって、私はいったいここがどこで、今がいつなのか?何がなんだか分からなくなってきた。すると「それでは万歳三唱!」と守男さんが合図して、その場にいたスタッフの寛恵さん二唐さんも入ってみんなで万歳を叫んだ。私はもうすっかり本当に出征兵士になって、実際に戦いに出かける責任と誇りが湧き上がってきて涙が溢れてきた。過去にタイム
スリップしたのか、未来に向かって立ち上がったのか解らなかったが、とてもリアルだった。実際の戦争を知らない私が今、戦地へと送り出される。私は何かと戦わなければならないのだろう。その相手が何なのか、武器はあるのか、どう闘うのか。なにも分からないまま、整理されてない中身のリュックサックを背負って立つ私。でもそんな私を守男さんは送りだしてくれたのだから、とにかく戦ってみようとその時、私は思った。
実際には私は戦いと最も遠いところにいる人間だ。戦うどころか、怒ることもほとんどないし、誰かと争うこともまずない。いつもニコニコしているのが取り柄だ。しかもぼんやりしてるので、ときどき、グループホームのどっぷりした異界に、自分の位置が分からなくなるほどだ。当初は特にそうだった。新体制が始まったばかりの頃、私が台所でおやつを作っていると、守男さんが私の方をみてスタッフの片方さんに「どっち向いてるか分からない人だ」と言った。隣で片方さんがおやつを作っているんだよ
と説明するが、守男さんは「いや違うな」と疑う言葉だった。私は見破られてしまったとハッとしたことがある。でもその後、守男さんは私の側に来て、優しく微笑みながらこう言ってくれた「どっちもやった方がいい。どっちもやれば落ち度ないから」。こっそり教えてくれた守男さんに救われる思いだった。
そんな守男さんに私は支えられ、助けられてやってきたのだが、出征した私はどう戦えばいいのだろう。あのとき感じた責任と誇りは忘れられないが、何をどう戦うのか、戦略やら訓練やらが相当必要だろうとは思う。
理事長は、「守男さんは4、5、6月の間にほぼ癒しの作業は終えたのではないか。それは深すぎて見えないけど、次に守男さんがやろうとしているのは若い人に継ぎ伝えることだろう」と言う。酒井さんへの語りも、私の出征もそうした一環のできごとなのだろうか。私たちは何を受け継げるのだろう。大きい責任を感じる。
今年の1月になって、夜勤の北舘さんに守男さんが語った。「これを若い人たちに伝えないと俺は死んでも死ねない」スタッフはみんなでこの言葉を重く受け止め、守男さんの動きに注目していた。守男さんは、踊りの名手で太鼓や音楽に合わせて踊る姿には、なんとも味がある。ただ、踊っているうちに、楽しむと言うより、憑かれたような、迫真にせまった踊りになる。戦争の傷と踊りは関連があって、守男さんの踊りは癒しや鎮魂に結びついているに違いないと感じさせられていた。
今年の4月から私は特養からグループホームに戻って、新体制が始まった。スタッフの顔ぶれは個性豊かな、里らしい面々で、現実感は薄いが異界には親和性の強い、怪しいが、面白そうなメンバーだった。しっかり感はとぼしく、頼りがいはイマイチなのだが、どんな異界でも漂えて、受け入れてしまえるような不思議なチームだ。
第2グループホームのリビングは薄暗く、それだけでなんともいえない異空間を感じる。そこに重なるように、利用者さんは、なかなか一般には理解できない、違う世界に繋がっていて、不思議な異界パワーがそれぞれすごい。何かの声が聞こえるようで、その「お声」に従って、歩いて出て行ってしまうクミさん(仮名)。独自の世界に生きていて、居室にもスタッフはめったにいれてもらえず、お風呂も半年に一回程度だった久子さん(仮名)。最近になって二唐さんと相性が合い、お風呂には入れるようになったものの、子どもはいないはずなのに、毎日息子に電話をするのはこの7年間変わらない。99歳の豊さん(仮名)はあの世に居るのか現実にいるのかよくわからない所がある。自分でも夜中に起きたとき、「ここはあの世かこの世か?」と夜勤者に聞いたりする。夜はだいたい朝までうなったり、ベッドをたたいて寝てるんだか起きてるんだかよくわからない。入居10年になるトモミさん(仮名)は、現実的な人で、グループホーム全体をよく観察している。修羅場に強く、争いがあると目が輝く。全国広しと言えどもこんな怪しさ満点のグループホームは他にないんじゃないだろうか。そしてこの怪しさが守られていくところが里らしいところだと思う。
その怪しさに支えられてか守男さんも、入居3年目にしてついに動き出した。4月のある日「さあ始めるぞ」と守男さんは私と寛恵さんに語った。戸惑いながらもいよいよ来たかと身構える私たちだった。クミさんが歩き出して部落の神社に向かう。クミさんを拾った車に同乗した守男さんは、神社の前で車で待機する。ちょうど神社ではなにか会合が開かれていた。「まだまだ」と守男さんは時を待つように抑えていた。しばらくして何か一区切りついたのだろうか「よし今だ!」と叫んで神社の神棚の前に出て踊り始めた。神社に集まっていた人たちからすれば、乱入された形なのだが、守男さんの踊りの真剣で切迫した様子にあっけにとられて見守っている。やがて囃子と手拍子が起こって守男さんの踊りは頂点に達し、奉納された踊りとなって終わった。
この神社への奉納の舞が皮切りになったように、4月から5月には守男さんは、スタッフの酒井さんに毎日何かを語り続けた。酒井さんはその内容をほとんど覚えていない。あまりに切迫したリアルさがあって受け止めがたかったのだろうか。利用者の語る言葉を一言一句逃さず聞いて書き留める、聞き書きの量に関してはダントツ世界一だと思われる里の記録の細かさ、分厚さのなかで、ほとんどこの時の言葉が記録されなかったのは不思議でなら
ない。「あまりにリアルで残らなかった」という酒井さんの体力は消耗しその言葉を語られ続けた一月間で、酒井さんはフラフラになって、しばらく心理的に上がったり下がったりが入り交じって、調子が狂った感じになるほどだった。語りの内容は大まかには軍隊の上官が部下に訓辞を与える感じだったという。
周囲から見ていても、その頃の守男さんは深い井戸の底におりていって、そこに籠もり、何か別の世界と井戸の底でつながろうとしている感じだった。村上春樹の小説『ねじ巻き鳥クロニクル』に井戸の底におりて出口を塞がれ、壁抜けをする場面があるが、まさにその様子を守男さんによって目の当たりにしたような感じだった。臨床心理士の岩宮恵子先生は村上春樹のこの場面に関して“常識では考えられないことが起こり、現実的にまったく八方ふさがりになっているときには、自分の心の深層におりてそこで考え抜くことこそが意味をもってくる。そしてこれは、ただ単に「まるで井戸の底にもぐったように深く考える」といったたとえとして井戸に降りることを描いているのではない。人は心の井戸に降りるとき、本当に身体ごと井戸の底に降りていくのである(『思春期をめぐる冒険』2004)”と言っている。深い癒しが必要とされるとき、大きな傷を癒そうとするとき、何かと繋がる必要があるとき、人間は井戸の底におりて深い作業をすることがあるらしい。井戸の底におりたと同時に守男さんの体が重くなった。それまで踊ったりしていた守男さんが重くなると、歩くこともできなくなり、お風呂に入ると湯船から上がれず、3人がかりで持ち上げなければならなかった。
ちょうどその頃、現実に守男さんの実家で古い井戸を埋めるという話が出た。守男さんの許可がないとできないとして、家族の方は守男さんに相談にこられた。守男さんは埋める許可を出し、みんなで集まって埋めるための儀式が行われた。それにはスタッフの私と寛恵さんを伴って守男さんも参加した。そして工事が始まったのだが、始まった日に工事を請け負った方の身内に不幸があったとのことで、工事は中断した。まだ埋めるわけにはいかなかったのだろうか。それから4ヶ月経ったが井戸はまだ埋まっていない。
ほぼ1ヶ月に渡る酒井さんへの守男さんの語りが終わったのは6月の始めだった。ちょうどその頃、日勤だった私は、みんなが夕食を食べ始めた頃合いで、勤務を終えて、いつものようにリュックサックを背負って帰ろうと玄関で靴を履いていた。そこへ寛恵さんが走ってきて、「待って!守男さんが見送るって言っている」と引き止められた。守男さんは夕食の最中だったが席から立ち上がろうとしていた。なんだろう?守男さんに見送られるなんて初めてだ‥と思いながら、玄関で靴を履いて立っていた。守男さんはスッと歩いてくると、かぶっていた帽子を取って私に一礼した。真剣な表情で、目には涙を浮かべていた。そして大声で叫ぶように言った。「日本軍として恥じぬよう‥毎日を元気に頑張ってください」私はびっくりしたがすぐに出征兵士の見送りのイメージが湧いた。こうやって守男さんも見送られて戦地へ赴いたのだろう。またこうやって地元から多くの兵士を送ったのだろう。私にとって戦争は教科書やドラマの過去の歴史の中のことでしかないものだった。しかしこのとき私は本当に送られる兵士になった。守男さんと一緒に利用者の歩さん(仮名)も追いかけるように席を立って、玄関に守男さんと2人並んだ。歩さんは優しく気を配る人で、母のイメージの人だ。二人が並んで見送ってくれるその姿が私には自分の両親にみえた。守男さんの戦争のイメージとはまた違った別のところで動いている歩さんだったが、私にかける言葉は「1人で行くの?気の毒だよ。かわいそうで‥元気でいるんだよ」とまるで出征する私を心配する母のような言葉だった。おまけに、リビングで夕食を食べていたサチさん(仮名)が、その様子を知ってか知らずか、いきなり“君が代”を大きな声で歌い始めた。ここまで揃ってしまって、私はいったいここがどこで、今がいつなのか?何がなんだか分からなくなってきた。すると「それでは万歳三唱!」と守男さんが合図して、その場にいたスタッフの寛恵さん二唐さんも入ってみんなで万歳を叫んだ。私はもうすっかり本当に出征兵士になって、実際に戦いに出かける責任と誇りが湧き上がってきて涙が溢れてきた。過去にタイム
スリップしたのか、未来に向かって立ち上がったのか解らなかったが、とてもリアルだった。実際の戦争を知らない私が今、戦地へと送り出される。私は何かと戦わなければならないのだろう。その相手が何なのか、武器はあるのか、どう闘うのか。なにも分からないまま、整理されてない中身のリュックサックを背負って立つ私。でもそんな私を守男さんは送りだしてくれたのだから、とにかく戦ってみようとその時、私は思った。
実際には私は戦いと最も遠いところにいる人間だ。戦うどころか、怒ることもほとんどないし、誰かと争うこともまずない。いつもニコニコしているのが取り柄だ。しかもぼんやりしてるので、ときどき、グループホームのどっぷりした異界に、自分の位置が分からなくなるほどだ。当初は特にそうだった。新体制が始まったばかりの頃、私が台所でおやつを作っていると、守男さんが私の方をみてスタッフの片方さんに「どっち向いてるか分からない人だ」と言った。隣で片方さんがおやつを作っているんだよ
と説明するが、守男さんは「いや違うな」と疑う言葉だった。私は見破られてしまったとハッとしたことがある。でもその後、守男さんは私の側に来て、優しく微笑みながらこう言ってくれた「どっちもやった方がいい。どっちもやれば落ち度ないから」。こっそり教えてくれた守男さんに救われる思いだった。
そんな守男さんに私は支えられ、助けられてやってきたのだが、出征した私はどう戦えばいいのだろう。あのとき感じた責任と誇りは忘れられないが、何をどう戦うのか、戦略やら訓練やらが相当必要だろうとは思う。
理事長は、「守男さんは4、5、6月の間にほぼ癒しの作業は終えたのではないか。それは深すぎて見えないけど、次に守男さんがやろうとしているのは若い人に継ぎ伝えることだろう」と言う。酒井さんへの語りも、私の出征もそうした一環のできごとなのだろうか。私たちは何を受け継げるのだろう。大きい責任を感じる。
ほなみさんの事例発表に触れて ★理事長 宮澤健【2012年10月号】
3年前、介護士養成の高校から18歳の新卒で里に就職したほなみさんが、今回初めて事例発表を行った。里の特養立ち上げの3年間の苦闘と、そこでの利用者ユキさん(仮名)との歩みを追った事例だった。この発表会に『驚きの介護民俗学』の著者六車由実さんの来里が重なりゲストとして参加していただいた。この6月に出版された六車さんの著作は、里のアプローチとかなり近いと感じ、お便りをしたところ早速訪ねて来てくださり、事例発表会に参加していただいたというわけだ。「介護民俗学」の中心技法は「聞き書き」で、これはとても明確で解りやすい。しかも民俗学や文化人類学で裏打ちされたフィールドワークの歴史がそこにある。里では「介護民俗学」にあたるのは「暮らし」であり、「聞き書き」にあたるのが「事例」なのだが曖昧で、今ひとつ解りにくい。範としては河合隼雄先生の事例主義に依っているのだが、充分に咀嚼できているわけでもなく手探りが続いている状態だ。ただひとつの事例をまとめ、発表する度に新たな発見があり、感動が湧き起こる。
ほなみさんには小学校時代からの夢があった。この時代、若者達は夢を持てないが、夢を持ったほなみさんはそれだけでも今どき希な人なのかもしれない。「介護者になる」子どもの頃からのその夢に真っ直ぐに突き進んで介護福祉士養成の科のある高校に進む。しかし実習で現場に入るとまったく描いていたイメージと違って、寒々しい実態を目の当たりにする。その現実に夢は打ち砕かれそうになる。ところが、高校卒業間際に恩師の紹介で銀河の里に出会う。そこで再び夢は叶うかもしれないとの希望が湧いた。早速里の実習に入ると、まさにそこは自分が子どもの頃から思い描いていた通りの所だった。これで夢は実現できるとほなみさんは思った。ところが、その年、銀河の里では特養が開設され、ほなみさんは特養に配属になって、そこでまったく実習先と同じような寒々しい現実にぶつかってしまう。その現実は、実習の時のような他人事の問題ではなく、自分が潰れるかどうかの瀬戸際の課題となって、ほなみさん自身に迫ってきた。
子ども達に夢を与えることのできない今の時代と社会がある。それはとても嘆かわしくて冷たい社会だ。しかしそれが我々の抱えた現実でもある。たとえ夢を持ったとしてもそれは簡単に打ち砕かれる。高校生にして社会に出る前にすでにほなみさんの夢も一旦打ち砕かれた。しかしほなみさんはあきらめなかったのだろう、出会いが起こる。「銀河の里、どうだろう」と声をかけてくれた担任の先生もほなみさんのことをよくわかってくれた大人のひとりだったにちがいない。まれに子どものこころをよく解ってくれる大人がいる。そうした大人と出会うことも、自らの夢をあきらめず、自分自身を打ち砕かれないためにも重要なことだ。しかしそれを活かすには運も、覚悟も必要なのかもしれない。現実は甘くなかった。また、夢はほなみさん自身が闘って勝ち取る必要もあったのだろう。特養立ち上げの苦闘と、荒れた現場の真只中でほなみさんの奮闘が展開されることになる。
人間の持つ悪はここまで凄惨なものかと言うくらい、たやすく「悪」は引き出され荒れ狂う。介護工場化した現場では、利用者は介護されるモノで、人生も人間も剥奪され見下される。こうした悪の本性は人間の持つ特性であって、誰にでも起こりうるし、引き出されることだ。そして一旦そうなると、歯止めがきかなくなり吹き荒れる。そのくせ表面上は何事もないように覆い隠し、利用者のためにかいがいしく働く介護者を演じきれるからやっかいだ。そうした大半の人たちは、おそらく、自分の意志でそうしているのではなく、無意識的に引き出され、演じさせられている感じに近いのだと思う。自らの悪や暴力性に対してもともと無自覚で、本人は介護者として他人のお世話をする、優しい仕事をして役に立っているものと信じ切っている。だから「それなのにどこが悪いのか」という気持ちでいるのではないだろうか。それでも現実には引き出されて嫌がらせや、意地悪をしてしまそれらの悪は、通常は引き出されないのだが、ほなみさんのような夢を持った人や、理想を目指そうとする人が居ることで、相対的に照らし出されてしまう。夢や理想を持つということは、そうしたコンステレーションをつくり出すことになるので、双方にとって、かなりきつい現状を生きざるを得なくなってしまうのではないだろうか。夢や理想を持つことは必然的に疾風怒濤の悪戦苦闘を引き受ける覚悟がなくては実現には至らないということでもある。
ほなみさん自身にはそこまでの苦闘を闘い抜く力は、まだ若過ぎて備わっていなかっただろう。本来は簡単に潰されて終わったに違いない夢だった。しかし、里には何らかの器や守りがあったのだと思う。何よりも利用者はほなみさんの夢に敏感に反応し、それぞれが全霊を使って応援してくれたことが事例では語られる。ほなみさんの人生が始まる瞬間と言っていいのではないだろうか。ほなみさんが心理的に生まれ出る瞬間。そこに布置された困難や葛藤を突き抜けて生まれ出るには、かなりのエネルギーが必要だ。それはいまだ洗練されていないプリミティブなエネルギーとして怒りが湧き起こってくる。おそらく人間は心理的に怒りによって生まれ出るしかないのかもしれない。ほなみさんは語っている、「そのころのことはよく覚えていないのだが、怒りだけが自分を支えるものだった。怒りによってやっとユニットにいることができた」。河合隼雄先生は竹宮恵子のコミック『風と木の詩』を女性の思春期心性を見事に描いている作品と評しているが、そこに描かれているのは怒りと、内的に少女に同行してきた少年との死別がテーマになっている。結果から見れば、この時期は、ほなみさんの発達段階として怒りの噴出が必要で、それが他のスタッフにもコンステレートされて、荒れ狂い、ユニット全体を舞台として展開したとも読める。怒りはほなみさんひとりでは足りなかったのか、怒りがシンクロしていったのか、ユキさんの怒りがほなみさんを応援する形で支えていくという思いもよらない展開になる。ユキさんはユキさんでもう一度少女から生き直す必要があった。「結婚するもんじゃない、全部奪われてしまった」90歳のユキさんの怒りが語る。描いてきた老後が打ち砕かれ、人生を元から見直しやり直すしかない状況に追い込まれていた。息子に見捨てられ、切れたまま生きる自分ではなく、なにかと繋がりながらも別々に生きていく自分を見いだす必要があったのではないだろうか。そこに広周さんが現れたのは運命であり必然でもあったろう。ただここに広周さんが現れたからいいのではない。それなりの資質をもった男性でないとこの役は成り立たなかった。こうしたことが起こりうる可能性を開いているのが銀河の里という器ではないだろうか。そこには、ゲニウス・ロキと言われるような地霊やトポスとしての里が意識される。あらゆる土地が均一化された現代では、地霊もトポスも意識されることはない。あるとすれば地価相場くらいだ。その中でグループホームや特養などは多くの人の人生が集約される重要な場である。この事例は、90歳のユキさんと18歳のほなみさんが出会い、お互いに少女から大人へのイニシエーションの儀式を、怒りの大噴出と共に成し遂げたその過程を描いていたと思う。その儀式が成り立つ上で、銀河の里というトポスが重要な意味を持っていたと感じる。このあたりを、民俗学が専門の六車さんといつか語り合えればと願っている。
先日、第2グループホームで、スタッフが持ってきた六車さんの本『驚きの介護民俗学』がテーブルに置いてあった。それを目にしたサチさん(仮名)が、例のごとく大きな声で、「驚きの銀河の里」と叫んだ。それを聞いてみんなで「すごいすごい」と盛り上がっていると、玄関のドアが開いて、誰かが入ってきた。引き戸に鈴がぶら下がっているのでがらがらと神社のような音がする。それを聞いた守男さん(仮名)は「清めたまえ、払いたまえ」とお祈りを始める。ドンとリビングの中央に陣取っているサチさんが今度は「驚きの神社の里」と叫ぶ。こうなるともう何が何だか訳が解らなくなるのだが、異界への出入り口のようなところ、これが銀河の里のトポスだと感じるのだがどうだろう。
この世の現実だけではなく、多層な次元の世界につながってこそ本当の夢ではないだろうか。ほなみさん始め、若い人たちがそうした夢を抱きながら、未来に活躍する姿を思い描き続けたい。
う自分に嫌気がさしてくることになり、結局は自分自身がズタズタに傷つく形になって疲弊し精神的にも肉体的にもきつい状況に追い込まれていく。
ほなみさんには小学校時代からの夢があった。この時代、若者達は夢を持てないが、夢を持ったほなみさんはそれだけでも今どき希な人なのかもしれない。「介護者になる」子どもの頃からのその夢に真っ直ぐに突き進んで介護福祉士養成の科のある高校に進む。しかし実習で現場に入るとまったく描いていたイメージと違って、寒々しい実態を目の当たりにする。その現実に夢は打ち砕かれそうになる。ところが、高校卒業間際に恩師の紹介で銀河の里に出会う。そこで再び夢は叶うかもしれないとの希望が湧いた。早速里の実習に入ると、まさにそこは自分が子どもの頃から思い描いていた通りの所だった。これで夢は実現できるとほなみさんは思った。ところが、その年、銀河の里では特養が開設され、ほなみさんは特養に配属になって、そこでまったく実習先と同じような寒々しい現実にぶつかってしまう。その現実は、実習の時のような他人事の問題ではなく、自分が潰れるかどうかの瀬戸際の課題となって、ほなみさん自身に迫ってきた。
子ども達に夢を与えることのできない今の時代と社会がある。それはとても嘆かわしくて冷たい社会だ。しかしそれが我々の抱えた現実でもある。たとえ夢を持ったとしてもそれは簡単に打ち砕かれる。高校生にして社会に出る前にすでにほなみさんの夢も一旦打ち砕かれた。しかしほなみさんはあきらめなかったのだろう、出会いが起こる。「銀河の里、どうだろう」と声をかけてくれた担任の先生もほなみさんのことをよくわかってくれた大人のひとりだったにちがいない。まれに子どものこころをよく解ってくれる大人がいる。そうした大人と出会うことも、自らの夢をあきらめず、自分自身を打ち砕かれないためにも重要なことだ。しかしそれを活かすには運も、覚悟も必要なのかもしれない。現実は甘くなかった。また、夢はほなみさん自身が闘って勝ち取る必要もあったのだろう。特養立ち上げの苦闘と、荒れた現場の真只中でほなみさんの奮闘が展開されることになる。
人間の持つ悪はここまで凄惨なものかと言うくらい、たやすく「悪」は引き出され荒れ狂う。介護工場化した現場では、利用者は介護されるモノで、人生も人間も剥奪され見下される。こうした悪の本性は人間の持つ特性であって、誰にでも起こりうるし、引き出されることだ。そして一旦そうなると、歯止めがきかなくなり吹き荒れる。そのくせ表面上は何事もないように覆い隠し、利用者のためにかいがいしく働く介護者を演じきれるからやっかいだ。そうした大半の人たちは、おそらく、自分の意志でそうしているのではなく、無意識的に引き出され、演じさせられている感じに近いのだと思う。自らの悪や暴力性に対してもともと無自覚で、本人は介護者として他人のお世話をする、優しい仕事をして役に立っているものと信じ切っている。だから「それなのにどこが悪いのか」という気持ちでいるのではないだろうか。それでも現実には引き出されて嫌がらせや、意地悪をしてしまそれらの悪は、通常は引き出されないのだが、ほなみさんのような夢を持った人や、理想を目指そうとする人が居ることで、相対的に照らし出されてしまう。夢や理想を持つということは、そうしたコンステレーションをつくり出すことになるので、双方にとって、かなりきつい現状を生きざるを得なくなってしまうのではないだろうか。夢や理想を持つことは必然的に疾風怒濤の悪戦苦闘を引き受ける覚悟がなくては実現には至らないということでもある。
ほなみさん自身にはそこまでの苦闘を闘い抜く力は、まだ若過ぎて備わっていなかっただろう。本来は簡単に潰されて終わったに違いない夢だった。しかし、里には何らかの器や守りがあったのだと思う。何よりも利用者はほなみさんの夢に敏感に反応し、それぞれが全霊を使って応援してくれたことが事例では語られる。ほなみさんの人生が始まる瞬間と言っていいのではないだろうか。ほなみさんが心理的に生まれ出る瞬間。そこに布置された困難や葛藤を突き抜けて生まれ出るには、かなりのエネルギーが必要だ。それはいまだ洗練されていないプリミティブなエネルギーとして怒りが湧き起こってくる。おそらく人間は心理的に怒りによって生まれ出るしかないのかもしれない。ほなみさんは語っている、「そのころのことはよく覚えていないのだが、怒りだけが自分を支えるものだった。怒りによってやっとユニットにいることができた」。河合隼雄先生は竹宮恵子のコミック『風と木の詩』を女性の思春期心性を見事に描いている作品と評しているが、そこに描かれているのは怒りと、内的に少女に同行してきた少年との死別がテーマになっている。結果から見れば、この時期は、ほなみさんの発達段階として怒りの噴出が必要で、それが他のスタッフにもコンステレートされて、荒れ狂い、ユニット全体を舞台として展開したとも読める。怒りはほなみさんひとりでは足りなかったのか、怒りがシンクロしていったのか、ユキさんの怒りがほなみさんを応援する形で支えていくという思いもよらない展開になる。ユキさんはユキさんでもう一度少女から生き直す必要があった。「結婚するもんじゃない、全部奪われてしまった」90歳のユキさんの怒りが語る。描いてきた老後が打ち砕かれ、人生を元から見直しやり直すしかない状況に追い込まれていた。息子に見捨てられ、切れたまま生きる自分ではなく、なにかと繋がりながらも別々に生きていく自分を見いだす必要があったのではないだろうか。そこに広周さんが現れたのは運命であり必然でもあったろう。ただここに広周さんが現れたからいいのではない。それなりの資質をもった男性でないとこの役は成り立たなかった。こうしたことが起こりうる可能性を開いているのが銀河の里という器ではないだろうか。そこには、ゲニウス・ロキと言われるような地霊やトポスとしての里が意識される。あらゆる土地が均一化された現代では、地霊もトポスも意識されることはない。あるとすれば地価相場くらいだ。その中でグループホームや特養などは多くの人の人生が集約される重要な場である。この事例は、90歳のユキさんと18歳のほなみさんが出会い、お互いに少女から大人へのイニシエーションの儀式を、怒りの大噴出と共に成し遂げたその過程を描いていたと思う。その儀式が成り立つ上で、銀河の里というトポスが重要な意味を持っていたと感じる。このあたりを、民俗学が専門の六車さんといつか語り合えればと願っている。
先日、第2グループホームで、スタッフが持ってきた六車さんの本『驚きの介護民俗学』がテーブルに置いてあった。それを目にしたサチさん(仮名)が、例のごとく大きな声で、「驚きの銀河の里」と叫んだ。それを聞いてみんなで「すごいすごい」と盛り上がっていると、玄関のドアが開いて、誰かが入ってきた。引き戸に鈴がぶら下がっているのでがらがらと神社のような音がする。それを聞いた守男さん(仮名)は「清めたまえ、払いたまえ」とお祈りを始める。ドンとリビングの中央に陣取っているサチさんが今度は「驚きの神社の里」と叫ぶ。こうなるともう何が何だか訳が解らなくなるのだが、異界への出入り口のようなところ、これが銀河の里のトポスだと感じるのだがどうだろう。
この世の現実だけではなく、多層な次元の世界につながってこそ本当の夢ではないだろうか。ほなみさん始め、若い人たちがそうした夢を抱きながら、未来に活躍する姿を思い描き続けたい。
う自分に嫌気がさしてくることになり、結局は自分自身がズタズタに傷つく形になって疲弊し精神的にも肉体的にもきつい状況に追い込まれていく。
「人生最後のドライブ」それを支えた家族 ★ 〜ケアマネの仕事の本質とは…〜 板垣由紀子【2012年10月号】
ある日、S事業所の相談員から電話が入った。「Kさんが、事故で入院したらしいけど、知ってますか?」Kさんは私の担当しているケースの妻で、認知症の夫をかいがいしくお世話し見守っている方だ。夫の通院や買い物などの利便性もあって頑張って車の運転をしていたが、高齢で体力も衰え運転するのが厳しくなりつつあり、家族は心配していた。本人は「大丈夫」とがんとしてなかなか運転をやめようとしなかったのだが、地域からも「危ない」と声があがり始め、人身事故を起こす危険性を回避するために家族は運転をやめるように説得し、やっと本人も自分の限界を感じたのか免許を返すことに話が決まったばかりだった。
連絡を受けて、慌てて家に電話すると、お嫁さんが落ち着いた声で出られた。「今日退院です。これからむかえに行くところなんです。念のため3泊しましたけど軽傷でしたから。自損事故でした。」との説明に一応ホッとする。翌日、訪問すると、いつものように旦那さんが玄関で出迎えてくれたのだが、顔に大きなあざがあるのでびっくりした。たずねると、旦那さんは助手席に乗って事故に遭ったことなどはすっかり忘れていて、なんのこと?不思議そうにしていた。奥さんは私に小さくうなずく。「旦那さんも一緒だったんですね、大丈夫ですか?」と聞くと胸の辺りを指して微笑んだ。言葉少なだ。「旦那さんの受診か何かだったんですか?」と聞くと「大迫の早地峰神社に行ってきた。」というではないか。意外な答えに驚いた。2週間くらい前に、お嫁さんから「嬉しいお知らせがあります。うちのおばあちゃん、今回免許を更新しないで返すことに決めたようです。車を廃車にする相談も今朝業者としてました。今乗り納めしています。」とお話しがあった。その時、乗り納めという言葉が私はどこか気にはなった。
「早地峰神社に、夫婦で最後のドライブをしたんだ」と私が感動していると、お嫁さんが語ってくれた「慰安旅行だったんですよ。前日、二人で草取りして稼いで、私に断って出かけたんです。その日私は祭りの手伝いがあって、明日にしようっていったんですけど、どうしてもって二人で出かけたんです。免許が切れる前の日だったんです。神社の狭い道で切り返していて、前からがけに落ちてしまったんです。おばあちゃんすごかったんですよ、自分も痛かったはずなのに、車を降りてがけを上って助けを呼んだんです。私は怖くて見に行けなかったけど、息子が現場見てきて、よくあそこに落ちて無事だったと言ってました。」
人生最後の夫婦ふたりでのドライブは、お互いの慰安旅行としての早地峰神社詣だった。とても暖かい話で、そこにはふたりの深い想いを感じる。事故は命を落としかねない状況だったが、幸いふたりとも軽傷で済み、免許も返すことが出来た。
ケアマネージャーの私や周囲の働きかけで事故を起こさないように働きかけることはできたかもしれない。しかしそれが最良とは言い切れないところに人生の深さがある。命がけの大冒険は結果からしてこの御夫婦と御家族に必要な冒険だったのかもしれない。そこで生まれた物語は大きな支えとなって私も含めそれぞれのこれからの人生に効いてくると思う。
本来ケアマネージャーは、人生の伴奏者であるべきで、その人が、どう人生の最後と向き合うのかに寄り添う仕事だと思う。このご夫婦と、お嫁さんの物語にふれて、大事なことを気づかされたように感じる。冷たいケアマネージャーにはならないように、これからもケースやそのご家族と一緒に歩いていきたい。
連絡を受けて、慌てて家に電話すると、お嫁さんが落ち着いた声で出られた。「今日退院です。これからむかえに行くところなんです。念のため3泊しましたけど軽傷でしたから。自損事故でした。」との説明に一応ホッとする。翌日、訪問すると、いつものように旦那さんが玄関で出迎えてくれたのだが、顔に大きなあざがあるのでびっくりした。たずねると、旦那さんは助手席に乗って事故に遭ったことなどはすっかり忘れていて、なんのこと?不思議そうにしていた。奥さんは私に小さくうなずく。「旦那さんも一緒だったんですね、大丈夫ですか?」と聞くと胸の辺りを指して微笑んだ。言葉少なだ。「旦那さんの受診か何かだったんですか?」と聞くと「大迫の早地峰神社に行ってきた。」というではないか。意外な答えに驚いた。2週間くらい前に、お嫁さんから「嬉しいお知らせがあります。うちのおばあちゃん、今回免許を更新しないで返すことに決めたようです。車を廃車にする相談も今朝業者としてました。今乗り納めしています。」とお話しがあった。その時、乗り納めという言葉が私はどこか気にはなった。
「早地峰神社に、夫婦で最後のドライブをしたんだ」と私が感動していると、お嫁さんが語ってくれた「慰安旅行だったんですよ。前日、二人で草取りして稼いで、私に断って出かけたんです。その日私は祭りの手伝いがあって、明日にしようっていったんですけど、どうしてもって二人で出かけたんです。免許が切れる前の日だったんです。神社の狭い道で切り返していて、前からがけに落ちてしまったんです。おばあちゃんすごかったんですよ、自分も痛かったはずなのに、車を降りてがけを上って助けを呼んだんです。私は怖くて見に行けなかったけど、息子が現場見てきて、よくあそこに落ちて無事だったと言ってました。」
人生最後の夫婦ふたりでのドライブは、お互いの慰安旅行としての早地峰神社詣だった。とても暖かい話で、そこにはふたりの深い想いを感じる。事故は命を落としかねない状況だったが、幸いふたりとも軽傷で済み、免許も返すことが出来た。
ケアマネージャーの私や周囲の働きかけで事故を起こさないように働きかけることはできたかもしれない。しかしそれが最良とは言い切れないところに人生の深さがある。命がけの大冒険は結果からしてこの御夫婦と御家族に必要な冒険だったのかもしれない。そこで生まれた物語は大きな支えとなって私も含めそれぞれのこれからの人生に効いてくると思う。
本来ケアマネージャーは、人生の伴奏者であるべきで、その人が、どう人生の最後と向き合うのかに寄り添う仕事だと思う。このご夫婦と、お嫁さんの物語にふれて、大事なことを気づかされたように感じる。冷たいケアマネージャーにはならないように、これからもケースやそのご家族と一緒に歩いていきたい。
ゴッホに会いに ★ 施設長 宮澤京子【2012年10月号】
【初めて出会ったのは】
中学の美術の教科書の『ひまわり』だった。太陽のイメージの明るい向日葵というより、グロテスクな首(茎や額)の曲線と、まとわりつくような主張の強い花弁が花瓶からはみ出しているのが印象に残っているくらいで、これまでゴッホに興味も関心も持たずにいた。
ところが2009年に天王洲の銀河劇場で『炎の人、ゴッホ』を見たのをきっかけに、私の中でゴッホとの関係がチョットやばいことになった。(ゴッホの生い立ちや使命感の凄まじさ、画家としての苦悩やアルルでのゴーギャンとの諍い、その後の耳切事件、精神病院に入院中も描き続け、最晩年2ヶ月の間で80点あまりの作品制作をするという神業的な集中力など・・・。今の時代、こんな激しい生き方に出会う事はないだろう。とんでもない人に出会った。)
それで黒澤明監督の『夢』にゴッホが出てきたことを思い出した。麦畑に迷い込んだ画家、スクリーンいっぱいの黄色。絵の中に飛び込んだ夢なのか、夢の中に入り込んだ絵なのか?その時は、オムニバスの1シーンの認識だったが、なぜ黒澤明はゴッホを登場させたのだろう。
私は自分の目で確かめたい好奇心に駆られると、セーブできない想いが募る。それを後押しするように時と場が不思議とやってくる。ある日、買ったばかりの印象派の画集をリビングで開いた。ちょうどその時付けたテレビで、今開いている画集のゴッホの『オーヴェールの教会』と『医師ガシェの肖像』の絵が現れた。この共時性に「あーっ、これはもう、行って、会って来るしかない!」とその場でフランス行きを決意した。この2点の絵はオルセー美術館に所蔵されている。さらにパリから30qほど離れた郊外のオーヴェール・シュル・オワーズの町には、ゴッホが銃で自殺する直前の70日間を過ごしたラヴーの宿と、そのオーヴェール教会がある。ゴシック建築のこの教会は、私にはどう映るのだろうという興味もあった。『カラスのいる麦畑』の風景やガシェ医師の家もそのまま残っているという。『夢』に出てきたあの絵の麦畑を、ゴッホが眺めた同じ場所に立って見渡す。その時、私は何を感じるだろう。沸き立つ思いでオプショナルツアーを探すと、パリから日曜日だけ、英語ガイドのツアーが催行されているというので申し込んだ。(英語の説明は聞き取れないが、前もってガイドブックを読み込めば何とかクリアできるだろうと高を括ったのだが・・・。)
しかし、海を渡って会いに行く相手は、没後120数年が経ち、狂気に満ちた巨匠フィンセント・ファン・ゴッホだ。興味だけで会いに行っていいものだろうか・・・そんな心配もあったが思い切って6日間の‘ゴッホ旅行’に出かけた。
【オルセー美術館で】
パリに着いた翌日、オルセー美術館に出かけた。まずは館内のレストランで腹ごしらえをした。私にとって、ゴッホの作品が展示されているこの同じ屋根の下でランチをすることに意味があったように思う。
さて、印象派の絵画の作品が多数収められたこの美術館は、興味ある作品でいっぱいだ。モネを始め、マネやドガ、ルノワール、セザンヌ、ロートレックなどをゆっくり味わい、とても幸せな時が巡る。しかし本命はゴッホだ。順路では一番最後の部屋にゴッホの作品がある。いざゴッホのフロアーが近づいたとき、なぜか急におなかが痛み出しトイレに駆け込んだ。動悸がして脂汗が出てくるのでベンチで少し休んだ。体調が戻らないまま覚悟を決めてゴッホの部屋に足を踏み入れたが、その途端に動悸と脂汗はひどくなった。正面にはドーンと存在感のあるあの『オーヴェールの教会』がある。その向かって右側の壁に『ガシェ医師の肖像画』があった。一瞬にしてあてられ、「(ゴッホが)在る・(作品が)有る」と感じながら一旦部屋を出た。もう一度ベンチに座り汗を拭い、動悸を押さえて、再度ゴッホに向かった。今度は、筆使いの細部までがよく見え、立体的に浮き上がって迫ってきた。絵の中の教会前の草は、いきいきとそよぎ生命力に満ちた明るさを感じさせる。しかしその空は青黒く妖しく動いていた。逆光を受けて建つ歪んだ教会からは、人を寄せ付けない‘死’の不気味さが漂っている。だが道には教会へ向かう婦人が描かれていた。生と死の対峙を見るようなキャンバスは、死の世界に押され気味だったが、婦人の一点は「日常」という現実で迫り、全体が絶妙なバランスで保たれているように感じた。『夢』の映画さながら、絵の中に入ってしまいそうに私は釘付け状態になった。そのうち斜め後ろから熱い視線を感じて振り向くと、ガシェ医師の淡いグレーがかったブルーの目が、優しく潤み、実に魅力的にこちらを見ていた。突然彼は私にウインクして「ゴッホの絵をじっくりと見るがいい、心の目でね。」と語った。「えっ、喋るの?ウインクまでするかぁ?」と驚いて動悸も冷や汗も一遍に吹き飛んだ。彼は精神科の医師としてゴッホの治療にもあたっていたという。彼自身も、憂鬱質の気に悩まされていたと記されていた。あの優しい目は狂気をも呑み込み、あるがままを受け入れ、私のような新参者にも声をかけてくれる人だった。
ゴッホは「思想のある肖像画!それは、モデルの魂まで実現するものでなければならない」と語る。ゴッホによる、魂の実現としてのガシェ医師の肖像画は、時空を超えて私に語りかけ、腹痛と動悸をも治してくれたのだろう。
【いざ、オーヴェル・シュル・オワーズへ】
ガイドのフランス人青年の英語は、私の語学力ではさっぱりわからないまま、ゴッホの最晩年「for 70days」のフレーズだけが耳に入ってきた。「オーヴェル・シュル・オワーズ、いよいよ来た。」と叫びたくなる。この町に降りたって「真実は、隠されている!」と直感した。かなり観光地化されていて、集団で歩く観光客の喧噪や大通りの町並みは私が抱いた静かで穏やかな町のイメージを覆すに十分だった。ラヴーの宿は、裏に入り口があり、ゴッホの居た部屋は狭い階段を上っていったところにある。天窓のある屋根裏とかび臭いひびの入った壁から、精神を病んだゴッホの息遣いを感じた。
例の教会は、もっと隠されていた。向かう道端の草は無造作にのびて、本当にこの坂を上がっていけば教会があるの?と不安になる。しかし、やがて細い階段の先に、まず教会の一部が現れる。教会の建物の全容が見えてくるのは、階段を上りきり、空を見上げながら建物の裏を半周ほど回ったところで、「あっ」と気づかされる。残念ながら、ゴッホの絵の生命観溢れるあの道は舗装されており、揺らめくゴシックの教会は、落ち着いた静かな佇まいを見せていた。群青色に渦巻く怖い空も、逆光を受けて青く妖しく歪み、死の予感を漂わせる教会の建物の本質も私には見えない。教会へのアプローチがアスファルトに舗装されても不自然には感じない。ゴッホの内的世界の凄さを改めて実感したのと、凡人の私の健康さに「ほっと」した瞬間でもあった。
さて、この教会をさらに上っていくと、急に視界がひらけ田園風景が広がる。『カラスのいる麦畑』の絵は、オランダのゴッホ美術館にあるが、ここにはその絵の看板が立てられていた。これも『オーヴェールの教会』同様に、厚塗りで激しいタッチの群青色の空と黄色い大地、生と死の布置を感じさせられる。しかし大地の麦の実りは、豊かさよりも荒々しさが強調され、飛び交う鴉によって、死の予感を強く受けた。(鴉はその時代、不吉な鳥ではなかったらしいが、十分に不吉だ)そして、ゴッホはこの麦畑のなかで、銃で自殺を図った。長閑なこの麦畑も、ゴッホの目にはこんなにも激しく天と地がせめぎ合い、揺れてみえたのだろうか。
ゴッホは、「本物」だった! 間違いなく「炎の人」だった!
ゴッホに本当に近づくには、鍛えられた精神性や魂のピュアさが求められ、私には大きすぎて、深すぎて、今回は出会いの感動で終わった。しかし、この先に何かがあるように思えてならない。絵画のガシェさんが語ってくれたように、心の目でこれからも彼の作品に出会っていきたい。労働者や、種まく農民、明るい色彩に照らされる公園の恋人達、沢山の自画像。苦悩と精神の病のなかで表現し続けたゴッホ。生きて名声を得ることなく37歳の若さで自死したゴッホ。彼の作品を通じてその魂に触れてみたいと思う。
日本に帰って、改装中のゴッホ美術館から『弟テオの肖像画』など日本初公開の36点ばかりの作品が長崎で展示されていると知ってこれもほっておけず出かけてきた。音声ガイドを聞きながら見たが、これは失敗だった。解説されると知識として解ってしまって、感動がない。つまり、「隠されている真実に触れる」のは解説ではない世界の出来事だということだ。解説されると答えは出るのだが、こころの能動性は消え、感覚が閉じてしまう。解説的知識があるのは悪くはないし、あればあった方がいいのだが、へたをすれば、私が世界に「出会う」ためには、解説的知識はとんでもない間違いを犯す事さえある。本当の所は、自らの在りようでしか判らない。
私の場合、その人(ゴッホ)を知ろうとする探究心は、押さえがたいものがあり、さまざまな文献や歴史的事実また映画や演劇といった脚本化された映像や舞台があるなら、できる限り自分の
目で確かめなければ納得出来ない。それらを知識としてまず自分の中に取り込んで、次の作品や文献に出会うと、新たな発見がありまた次に繫がる。もう一度戻って見直すと以前には感じなかったことに気づいたりする。方向は直線的に一方向に進むのではなく、円環的であったり放射状であったりする。気づくと最初に感じた印象を裏付けるために再びその人を探す旅をしたような感じにもなるし、そうした出会が私自身にも変容を起こさせているわけで、結局は自分に出会い続ける旅だと解る。その場合、事実を超えて、より自分に引き寄せて取捨選択して事柄を解釈していることも多い。つまり、本当のところは、自らの在りようでしか判らないのが、世界だと言えよう。そうなると「私が、どう感じたのか」が重要になってくる。この「感じ」は、銀河の里で人と人が出会う重要なポイントになっている。
ゴッホが自画像を描き続けたということは、非常な勇気を伴うことだったろう。自らの魂の本質に迫り、表現し続け、作品として残してくれたおかげで、没後120年経った今、遠く離れた日本の私にも感動を湧き興し魂を揺さぶってくる。銀河の里では日々紡ぎ出されるそれぞれの生きた「ものがたり」に迫り、たとえ今は「怪しい・いかがわしい」等と誰にも理解されず、無視され後ろ指をさされながらも、記録し発信し続ける使命があるにちがいない。ゴッホが闘い続けたように、里もその闘いから逃げてはいけない、そんなことを改めて感じさせられ勇気づけられた旅となった。
中学の美術の教科書の『ひまわり』だった。太陽のイメージの明るい向日葵というより、グロテスクな首(茎や額)の曲線と、まとわりつくような主張の強い花弁が花瓶からはみ出しているのが印象に残っているくらいで、これまでゴッホに興味も関心も持たずにいた。
ところが2009年に天王洲の銀河劇場で『炎の人、ゴッホ』を見たのをきっかけに、私の中でゴッホとの関係がチョットやばいことになった。(ゴッホの生い立ちや使命感の凄まじさ、画家としての苦悩やアルルでのゴーギャンとの諍い、その後の耳切事件、精神病院に入院中も描き続け、最晩年2ヶ月の間で80点あまりの作品制作をするという神業的な集中力など・・・。今の時代、こんな激しい生き方に出会う事はないだろう。とんでもない人に出会った。)
それで黒澤明監督の『夢』にゴッホが出てきたことを思い出した。麦畑に迷い込んだ画家、スクリーンいっぱいの黄色。絵の中に飛び込んだ夢なのか、夢の中に入り込んだ絵なのか?その時は、オムニバスの1シーンの認識だったが、なぜ黒澤明はゴッホを登場させたのだろう。
私は自分の目で確かめたい好奇心に駆られると、セーブできない想いが募る。それを後押しするように時と場が不思議とやってくる。ある日、買ったばかりの印象派の画集をリビングで開いた。ちょうどその時付けたテレビで、今開いている画集のゴッホの『オーヴェールの教会』と『医師ガシェの肖像』の絵が現れた。この共時性に「あーっ、これはもう、行って、会って来るしかない!」とその場でフランス行きを決意した。この2点の絵はオルセー美術館に所蔵されている。さらにパリから30qほど離れた郊外のオーヴェール・シュル・オワーズの町には、ゴッホが銃で自殺する直前の70日間を過ごしたラヴーの宿と、そのオーヴェール教会がある。ゴシック建築のこの教会は、私にはどう映るのだろうという興味もあった。『カラスのいる麦畑』の風景やガシェ医師の家もそのまま残っているという。『夢』に出てきたあの絵の麦畑を、ゴッホが眺めた同じ場所に立って見渡す。その時、私は何を感じるだろう。沸き立つ思いでオプショナルツアーを探すと、パリから日曜日だけ、英語ガイドのツアーが催行されているというので申し込んだ。(英語の説明は聞き取れないが、前もってガイドブックを読み込めば何とかクリアできるだろうと高を括ったのだが・・・。)
しかし、海を渡って会いに行く相手は、没後120数年が経ち、狂気に満ちた巨匠フィンセント・ファン・ゴッホだ。興味だけで会いに行っていいものだろうか・・・そんな心配もあったが思い切って6日間の‘ゴッホ旅行’に出かけた。
【オルセー美術館で】
パリに着いた翌日、オルセー美術館に出かけた。まずは館内のレストランで腹ごしらえをした。私にとって、ゴッホの作品が展示されているこの同じ屋根の下でランチをすることに意味があったように思う。
さて、印象派の絵画の作品が多数収められたこの美術館は、興味ある作品でいっぱいだ。モネを始め、マネやドガ、ルノワール、セザンヌ、ロートレックなどをゆっくり味わい、とても幸せな時が巡る。しかし本命はゴッホだ。順路では一番最後の部屋にゴッホの作品がある。いざゴッホのフロアーが近づいたとき、なぜか急におなかが痛み出しトイレに駆け込んだ。動悸がして脂汗が出てくるのでベンチで少し休んだ。体調が戻らないまま覚悟を決めてゴッホの部屋に足を踏み入れたが、その途端に動悸と脂汗はひどくなった。正面にはドーンと存在感のあるあの『オーヴェールの教会』がある。その向かって右側の壁に『ガシェ医師の肖像画』があった。一瞬にしてあてられ、「(ゴッホが)在る・(作品が)有る」と感じながら一旦部屋を出た。もう一度ベンチに座り汗を拭い、動悸を押さえて、再度ゴッホに向かった。今度は、筆使いの細部までがよく見え、立体的に浮き上がって迫ってきた。絵の中の教会前の草は、いきいきとそよぎ生命力に満ちた明るさを感じさせる。しかしその空は青黒く妖しく動いていた。逆光を受けて建つ歪んだ教会からは、人を寄せ付けない‘死’の不気味さが漂っている。だが道には教会へ向かう婦人が描かれていた。生と死の対峙を見るようなキャンバスは、死の世界に押され気味だったが、婦人の一点は「日常」という現実で迫り、全体が絶妙なバランスで保たれているように感じた。『夢』の映画さながら、絵の中に入ってしまいそうに私は釘付け状態になった。そのうち斜め後ろから熱い視線を感じて振り向くと、ガシェ医師の淡いグレーがかったブルーの目が、優しく潤み、実に魅力的にこちらを見ていた。突然彼は私にウインクして「ゴッホの絵をじっくりと見るがいい、心の目でね。」と語った。「えっ、喋るの?ウインクまでするかぁ?」と驚いて動悸も冷や汗も一遍に吹き飛んだ。彼は精神科の医師としてゴッホの治療にもあたっていたという。彼自身も、憂鬱質の気に悩まされていたと記されていた。あの優しい目は狂気をも呑み込み、あるがままを受け入れ、私のような新参者にも声をかけてくれる人だった。
ゴッホは「思想のある肖像画!それは、モデルの魂まで実現するものでなければならない」と語る。ゴッホによる、魂の実現としてのガシェ医師の肖像画は、時空を超えて私に語りかけ、腹痛と動悸をも治してくれたのだろう。
【いざ、オーヴェル・シュル・オワーズへ】
ガイドのフランス人青年の英語は、私の語学力ではさっぱりわからないまま、ゴッホの最晩年「for 70days」のフレーズだけが耳に入ってきた。「オーヴェル・シュル・オワーズ、いよいよ来た。」と叫びたくなる。この町に降りたって「真実は、隠されている!」と直感した。かなり観光地化されていて、集団で歩く観光客の喧噪や大通りの町並みは私が抱いた静かで穏やかな町のイメージを覆すに十分だった。ラヴーの宿は、裏に入り口があり、ゴッホの居た部屋は狭い階段を上っていったところにある。天窓のある屋根裏とかび臭いひびの入った壁から、精神を病んだゴッホの息遣いを感じた。
例の教会は、もっと隠されていた。向かう道端の草は無造作にのびて、本当にこの坂を上がっていけば教会があるの?と不安になる。しかし、やがて細い階段の先に、まず教会の一部が現れる。教会の建物の全容が見えてくるのは、階段を上りきり、空を見上げながら建物の裏を半周ほど回ったところで、「あっ」と気づかされる。残念ながら、ゴッホの絵の生命観溢れるあの道は舗装されており、揺らめくゴシックの教会は、落ち着いた静かな佇まいを見せていた。群青色に渦巻く怖い空も、逆光を受けて青く妖しく歪み、死の予感を漂わせる教会の建物の本質も私には見えない。教会へのアプローチがアスファルトに舗装されても不自然には感じない。ゴッホの内的世界の凄さを改めて実感したのと、凡人の私の健康さに「ほっと」した瞬間でもあった。
さて、この教会をさらに上っていくと、急に視界がひらけ田園風景が広がる。『カラスのいる麦畑』の絵は、オランダのゴッホ美術館にあるが、ここにはその絵の看板が立てられていた。これも『オーヴェールの教会』同様に、厚塗りで激しいタッチの群青色の空と黄色い大地、生と死の布置を感じさせられる。しかし大地の麦の実りは、豊かさよりも荒々しさが強調され、飛び交う鴉によって、死の予感を強く受けた。(鴉はその時代、不吉な鳥ではなかったらしいが、十分に不吉だ)そして、ゴッホはこの麦畑のなかで、銃で自殺を図った。長閑なこの麦畑も、ゴッホの目にはこんなにも激しく天と地がせめぎ合い、揺れてみえたのだろうか。
ゴッホは、「本物」だった! 間違いなく「炎の人」だった!
ゴッホに本当に近づくには、鍛えられた精神性や魂のピュアさが求められ、私には大きすぎて、深すぎて、今回は出会いの感動で終わった。しかし、この先に何かがあるように思えてならない。絵画のガシェさんが語ってくれたように、心の目でこれからも彼の作品に出会っていきたい。労働者や、種まく農民、明るい色彩に照らされる公園の恋人達、沢山の自画像。苦悩と精神の病のなかで表現し続けたゴッホ。生きて名声を得ることなく37歳の若さで自死したゴッホ。彼の作品を通じてその魂に触れてみたいと思う。
日本に帰って、改装中のゴッホ美術館から『弟テオの肖像画』など日本初公開の36点ばかりの作品が長崎で展示されていると知ってこれもほっておけず出かけてきた。音声ガイドを聞きながら見たが、これは失敗だった。解説されると知識として解ってしまって、感動がない。つまり、「隠されている真実に触れる」のは解説ではない世界の出来事だということだ。解説されると答えは出るのだが、こころの能動性は消え、感覚が閉じてしまう。解説的知識があるのは悪くはないし、あればあった方がいいのだが、へたをすれば、私が世界に「出会う」ためには、解説的知識はとんでもない間違いを犯す事さえある。本当の所は、自らの在りようでしか判らない。
私の場合、その人(ゴッホ)を知ろうとする探究心は、押さえがたいものがあり、さまざまな文献や歴史的事実また映画や演劇といった脚本化された映像や舞台があるなら、できる限り自分の
目で確かめなければ納得出来ない。それらを知識としてまず自分の中に取り込んで、次の作品や文献に出会うと、新たな発見がありまた次に繫がる。もう一度戻って見直すと以前には感じなかったことに気づいたりする。方向は直線的に一方向に進むのではなく、円環的であったり放射状であったりする。気づくと最初に感じた印象を裏付けるために再びその人を探す旅をしたような感じにもなるし、そうした出会が私自身にも変容を起こさせているわけで、結局は自分に出会い続ける旅だと解る。その場合、事実を超えて、より自分に引き寄せて取捨選択して事柄を解釈していることも多い。つまり、本当のところは、自らの在りようでしか判らないのが、世界だと言えよう。そうなると「私が、どう感じたのか」が重要になってくる。この「感じ」は、銀河の里で人と人が出会う重要なポイントになっている。
ゴッホが自画像を描き続けたということは、非常な勇気を伴うことだったろう。自らの魂の本質に迫り、表現し続け、作品として残してくれたおかげで、没後120年経った今、遠く離れた日本の私にも感動を湧き興し魂を揺さぶってくる。銀河の里では日々紡ぎ出されるそれぞれの生きた「ものがたり」に迫り、たとえ今は「怪しい・いかがわしい」等と誰にも理解されず、無視され後ろ指をさされながらも、記録し発信し続ける使命があるにちがいない。ゴッホが闘い続けたように、里もその闘いから逃げてはいけない、そんなことを改めて感じさせられ勇気づけられた旅となった。
通路としてのグループホーム ★理事長 宮澤 健【2012年10月号】
(※この文は機関誌「ゆったり11月号」に寄稿した文の転載です。)
「グループホーム銀河の里」は岩手県の中央部、宮沢賢治の故郷、花巻市にある。花巻は『武士道』の新渡戸稲造ゆかりの地でもあり、柳田国男の『遠野物語』で有名な遠野市も生活圏に入る。平成13年この地域では初発のグループホームとして開設され12年が過ぎた。この間の星霜は実に濃密だった実感がある。その濃密な感覚は、言うまでもなく認知症の高齢者との出会いとその深い関わりによってもたらされたものだ。若い素人集団で始めた取り組みだったが、認知症の豊かな世界を発見するオリジナルな視点を見い出すには、そうした出発がむしろ功を奏したように思う。当初、既存の介護経験者の方が、利用者と深く向き合う経験がなく戸惑うことが目立った。一つ屋根の下、限られた空間で個と個が向き合ってしまうグループホームという場は、互いの心理的ダイナミズムが活性化され、通常の社会の経験を遙かに超えた劇的な時間が訪れることを知った。
我々もスローガン通り「ゆったり、のんびり」を掲げてのスタートだったが、そのイメージは3ヶ月で打ち砕かれた。朝早くから茶碗をハシでたたいて「早くマンマ喰わせろ」とはやし立てる人。そのうちどこかにいなくなって探さなければならなかった。また、一日中独り言で、誰か目に見えない人と喋っている人。時にはその誰かとケンカになるようで怒りに包まれて怒鳴っている。その人は入居したものの、荷物をほどこうとすると怒り狂うので、結局3年間、最後まで荷物はそのままだった。またある人は「私はもう働けないから若い人に任せる」と深夜、書き置きを残して居室の窓から出て行き、40分後、捜索で発見された。またある人は、普段はほぼ車椅子対応なのだが、「帰る」と言って歩き、庭の塀を乗り越えた。開設後3ヶ月の間に、利用者が深夜にいなくなり職員総出で捜索隊を出したことが4回あった。ある日は、利用者が行方不明になりスタッフで手分けして周囲を探すも見つからなかったが、結局、隣の居室の押し入れで寝ていたということもあった。その時、慌てたスタッフが工事現場の斜面から滑り落ちたり、田んぼにはまって泥だらけになったが、それはどちらかと言えば不安の強いタイプのスタッフだった。日々事が起こり揺り動かされる。これは「ゆったり、のんびり」じゃないということがわかった。
ただ、この最初の3ヶ月が決め手だったと思う。と言うのも、「これは大変だと」思うスタッフと「これは面白い」と感じるスタッフに、はっきりと分かれたのだが、幸いなことに、面白いと感じるスタッフの感覚が増殖する形で、やがて銀河の里独特の感性が育っていったと思うからだ。この時期、起こってくる事の凄まじさに怯えて、圧力的な管理に走ってしまっていたら、認知症の人たちの豊かな世界を味わうことも、深い繋がりを生きることもあり得なかったに違いない。
認知症の人の行動の突飛さに覆われて見失いがちなのだが、それを超えてひとりひとりにじっくりと向き合うとを安定させる働きはしているのだろうが、人と人の距離も同時につくり出す。それらが品位をもたらすことも事実だが、表面で社交だけの関係が先鋭化すると寂しいものになる。そこに現代社会の影がある。孤独死や、無縁社会、個族などが社会現象として取り上げられて久しいが、その手だては見えてこない。我々は便利で物質的に豊かな中を生きることと引き替えに多くの繋がりを失ってきた。人との繋がり、自然との繋がり、死者との繋がり、モノとの繋がり、さらには自分自身との繋がりさえも薄らぎつつある。震災以降「絆」という言葉が氾濫しているのも、繋がりを喪失した現代人の不安と期待が入り交じった象徴的な現象なのかもしれない。そんな時代に、認知症高齢者の存在はとても大きいと感じる。彼らはひとりでは生きていけないが、側に誰か居て、そこに良い関係が成り立つなら、その関係を通して豊かな生の実感をもたらしてくれる存在である。認知症は「関係を必要とする病」だと考えているが、特に若者にとっては、自分が必要とされる感覚や、誰かと関係を繋ぐ体験をもたらす存在との出会いは大きくて貴重だ。こうした実感は多くの現場で体験されているのではないだろうか。しかしその体験が発言される機会はほとんどなく、一般的には認知症予防とか治療方法などの医学的な指向が主流のままだ。それはそれで大切だが、もっと暮らしや関係性の次元から認知症の意味が語られてもいいのではないか。そこにこそグループホームケアの現場のこれからの大きな仕事があるように思う。高齢者は現役でもなく、あの世でもない中間領域、移行領域に属しているところにその価値や意味が見い出せると思う。縁側が外と中を繋ぐ領域として大切にされていたように、中間領域は日本人にとって全体性を形作る上で重要な通路として位置づけられてきた。かつては、床の間の掛け軸や仏壇も重要な通路として機能していただろう。
我が郷土の詩人宮沢賢治は、よき理解者であった妹のトシ子との死別を悲しむ。それは「永訣の朝」や「青森挽歌」などに表現されるが、賢治は想いをトシ子に向け続け、その深いイメージ力で死の世界にまで旅をなさしめ、その体験が『銀河鉄道の夜』に結実していったとされる。賢治の透徹したイメージには恐れ入るばかりだが、グループホームに必要なのはこうした深いイメージ力だ。病や死が我々が営んでいる現実とは違う世界と繋がっているように、認知症が深い人たちは異界を繋いでくる感覚がある。それを訳のわからない、いかれた話として聞き流すのはあまりに専門性に欠けているようでもったいない。銀河鉄道がこの世とあの世の通路となり、死者と生者を繋ぐ通路となったように、グループホームは認知症の威力によって、現代社会の硬い現実に、異界やあの世との通路を見いだす重要なトポスとなりうる可能性を秘めているように思う。
現実を生きるしかない我々は、自然にせよ、死者にせよ、直接には繋がることはできないし、下手に繋がれば呑み込まれてしまう危険もある。大事なのはそれらと行き来する通路の回復だが、グループホームという場は、今の時代が失った様々な通路を、再び開きうる貴重な可能性を秘めていることを、出会った利用者と12年の濃密な日々が語りかけてくれているように思う。
「グループホーム銀河の里」は岩手県の中央部、宮沢賢治の故郷、花巻市にある。花巻は『武士道』の新渡戸稲造ゆかりの地でもあり、柳田国男の『遠野物語』で有名な遠野市も生活圏に入る。平成13年この地域では初発のグループホームとして開設され12年が過ぎた。この間の星霜は実に濃密だった実感がある。その濃密な感覚は、言うまでもなく認知症の高齢者との出会いとその深い関わりによってもたらされたものだ。若い素人集団で始めた取り組みだったが、認知症の豊かな世界を発見するオリジナルな視点を見い出すには、そうした出発がむしろ功を奏したように思う。当初、既存の介護経験者の方が、利用者と深く向き合う経験がなく戸惑うことが目立った。一つ屋根の下、限られた空間で個と個が向き合ってしまうグループホームという場は、互いの心理的ダイナミズムが活性化され、通常の社会の経験を遙かに超えた劇的な時間が訪れることを知った。
我々もスローガン通り「ゆったり、のんびり」を掲げてのスタートだったが、そのイメージは3ヶ月で打ち砕かれた。朝早くから茶碗をハシでたたいて「早くマンマ喰わせろ」とはやし立てる人。そのうちどこかにいなくなって探さなければならなかった。また、一日中独り言で、誰か目に見えない人と喋っている人。時にはその誰かとケンカになるようで怒りに包まれて怒鳴っている。その人は入居したものの、荷物をほどこうとすると怒り狂うので、結局3年間、最後まで荷物はそのままだった。またある人は「私はもう働けないから若い人に任せる」と深夜、書き置きを残して居室の窓から出て行き、40分後、捜索で発見された。またある人は、普段はほぼ車椅子対応なのだが、「帰る」と言って歩き、庭の塀を乗り越えた。開設後3ヶ月の間に、利用者が深夜にいなくなり職員総出で捜索隊を出したことが4回あった。ある日は、利用者が行方不明になりスタッフで手分けして周囲を探すも見つからなかったが、結局、隣の居室の押し入れで寝ていたということもあった。その時、慌てたスタッフが工事現場の斜面から滑り落ちたり、田んぼにはまって泥だらけになったが、それはどちらかと言えば不安の強いタイプのスタッフだった。日々事が起こり揺り動かされる。これは「ゆったり、のんびり」じゃないということがわかった。
ただ、この最初の3ヶ月が決め手だったと思う。と言うのも、「これは大変だと」思うスタッフと「これは面白い」と感じるスタッフに、はっきりと分かれたのだが、幸いなことに、面白いと感じるスタッフの感覚が増殖する形で、やがて銀河の里独特の感性が育っていったと思うからだ。この時期、起こってくる事の凄まじさに怯えて、圧力的な管理に走ってしまっていたら、認知症の人たちの豊かな世界を味わうことも、深い繋がりを生きることもあり得なかったに違いない。
認知症の人の行動の突飛さに覆われて見失いがちなのだが、それを超えてひとりひとりにじっくりと向き合うとを安定させる働きはしているのだろうが、人と人の距離も同時につくり出す。それらが品位をもたらすことも事実だが、表面で社交だけの関係が先鋭化すると寂しいものになる。そこに現代社会の影がある。孤独死や、無縁社会、個族などが社会現象として取り上げられて久しいが、その手だては見えてこない。我々は便利で物質的に豊かな中を生きることと引き替えに多くの繋がりを失ってきた。人との繋がり、自然との繋がり、死者との繋がり、モノとの繋がり、さらには自分自身との繋がりさえも薄らぎつつある。震災以降「絆」という言葉が氾濫しているのも、繋がりを喪失した現代人の不安と期待が入り交じった象徴的な現象なのかもしれない。そんな時代に、認知症高齢者の存在はとても大きいと感じる。彼らはひとりでは生きていけないが、側に誰か居て、そこに良い関係が成り立つなら、その関係を通して豊かな生の実感をもたらしてくれる存在である。認知症は「関係を必要とする病」だと考えているが、特に若者にとっては、自分が必要とされる感覚や、誰かと関係を繋ぐ体験をもたらす存在との出会いは大きくて貴重だ。こうした実感は多くの現場で体験されているのではないだろうか。しかしその体験が発言される機会はほとんどなく、一般的には認知症予防とか治療方法などの医学的な指向が主流のままだ。それはそれで大切だが、もっと暮らしや関係性の次元から認知症の意味が語られてもいいのではないか。そこにこそグループホームケアの現場のこれからの大きな仕事があるように思う。高齢者は現役でもなく、あの世でもない中間領域、移行領域に属しているところにその価値や意味が見い出せると思う。縁側が外と中を繋ぐ領域として大切にされていたように、中間領域は日本人にとって全体性を形作る上で重要な通路として位置づけられてきた。かつては、床の間の掛け軸や仏壇も重要な通路として機能していただろう。
我が郷土の詩人宮沢賢治は、よき理解者であった妹のトシ子との死別を悲しむ。それは「永訣の朝」や「青森挽歌」などに表現されるが、賢治は想いをトシ子に向け続け、その深いイメージ力で死の世界にまで旅をなさしめ、その体験が『銀河鉄道の夜』に結実していったとされる。賢治の透徹したイメージには恐れ入るばかりだが、グループホームに必要なのはこうした深いイメージ力だ。病や死が我々が営んでいる現実とは違う世界と繋がっているように、認知症が深い人たちは異界を繋いでくる感覚がある。それを訳のわからない、いかれた話として聞き流すのはあまりに専門性に欠けているようでもったいない。銀河鉄道がこの世とあの世の通路となり、死者と生者を繋ぐ通路となったように、グループホームは認知症の威力によって、現代社会の硬い現実に、異界やあの世との通路を見いだす重要なトポスとなりうる可能性を秘めているように思う。
現実を生きるしかない我々は、自然にせよ、死者にせよ、直接には繋がることはできないし、下手に繋がれば呑み込まれてしまう危険もある。大事なのはそれらと行き来する通路の回復だが、グループホームという場は、今の時代が失った様々な通路を、再び開きうる貴重な可能性を秘めていることを、出会った利用者と12年の濃密な日々が語りかけてくれているように思う。
悲劇の大女優、お天道様を拝む ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2012年10月号】
一日のうちに何人かの利用者さんが、代わる代わる事務所を訪ねてくる。ティータイムをしてゆっくりおしゃべりを楽しんでいく人もあれば、体調不良を嘆いていく人もある。いちばんは「家に帰りたい」という訴え。家族や我が家を恋しく想う気持ちがうんと強い人も多い。
ヤス子さん(仮名)は特養に来て一年半になるが、「もう二年も三年もここにいる」と話す。病院に入院しているということになっていて、毎日のように「いつ退院させてもらえるの?」と事務所にやってくる。
朝一番に、廊下の奥から聞こえてくる、ぎゅぎゅぎゅうぅ…という車椅子の音。ヤス子さんだな…と覚悟を決めて待っていると、やがて「ごめんください」ぬぅ…っと現れる。車椅子から転げ落ちそうなほど体を横に傾け、演出もバッチリ、「今日、ここ、出してください。頭も痛いし、目も見えねぇの…うちへ帰って、眼科さ行くべと思ってね。ここへ来て長くなるけど、一回も薬も何ももらったことねぇの」と、表情は暗くグッタリしながら不満をもらす。かと思えば、「今すぐ出してください!帰してください!ここの人たち、なんと立派で頭も良くて、私みたいな馬鹿がいるところでないですから!」と、嫌みもたっぷり、ユニットの他利用者さんとケンカでもしたのか、ものすごい形相で怒っていることもある。「請求書、書いてくださいね!家に行けばお金あるから、後からちゃんとお支払いしますから」と、目をキッと三角にして強気で迫ったり、「息子も、いっこう、迎えさも来ねぇ…、うっ、うぅ」と、手拭いの端を噛んで泣き落としにかかったり…。ヤス子さんもいろいろ工夫して手を替えてくるからスゴイ。一日に何度も長い廊下を車椅子でやってきて、事務所の手前で一瞬とどまると、毎回、しっかり役作りをしてから扉をくぐる。さすが、「若い頃は女優になりたかった」と言うだけある。息子を溺愛するヤス子さんとしては、男性スタッフを息子さんに見立てるのか、私が話を聞くよりも戸來さんや瀬川さんに物申したい気持ちがあるようで、彼らが電話中でも手が空くのをジッと待っている。相手役もちゃんと決まっているのだ。事務所内に私だけしかいない時なんか、「ごめんください…、あら、誰もいないのね」と呟いたりもする。「私、いるじゃん!」と言いたくなるところだが、やっぱり“息子”がいいんだね…。配役もシナリオも自ら描く、悲劇の主演女優だ。
あんまりじっくりと聞き入って、引き留めたり説得したりしても、悲劇っぷりがエスカレートするわ、こっちも疲れちゃうわ、なので、「じゃ、気分転換に、午後からドライブでも行くっか?」と切り出してみる。すると、あんなにグッタリ倒れかかっていた姿勢が、一瞬のうちにピーン!となって、「ほんと?!連れてってけんの?!」と笑顔に早変わりするヤス子さん。「あぁ〜、お姉ちゃんに話してみて、よかったぁ♪」と、この時ばかりは私にも配役がまわってくる。
青空の下、ニコニコのドライブに出ると、景色を眺めながら手を合わせるヤス子さんの姿。「草も木もあんなに一生懸命に青くなって、山もきれいで、お空もこんなに明るくって…あぁ!」と、
感激に声を震わせながら、手拭いを目にやって泣き笑いのヤス子さん。山道に花が咲いていると「わぁっ!満開になってくれてる…、ありがとうごぜぁんす」と、また手を合わせて頭を下げる。なんて感動屋さんなんだろう!と、こちらも嬉しくなってくる。事務所でお互い苦しくなるまでにらめっこしてるより、やっぱり外へ出てみてよかった〜と楽しくなる。何より、花や山や空に感謝し手を合わせるという感覚が、私にはとても新鮮だった。
そういえば、日に何度か外へ散歩に出るヤス子さんは、よく、「草っこに話し相手になってもらったの」とか「花っこと一緒に、おやつ食べてきたの」などと語る。ユニット内でごたごたがあるとその場に居られなくなり、「立派な人たちばかりいた、あそこは私のいる所じゃない、誰ともお話もできねえの、私が馬鹿なの」と悲痛な面持ちで外へ出る。散歩から戻ると「私の話っこ聞いてくれるのは、犬っこだの花っこしかねぇの」と語る。まぁ、そう言いたくなるのは嫌みも多少は入ってるんだろうけど、でも、普段から草花や動物、山や空などの自然物と繋がって生きているからなんだろうなぁ、と強く感じる。そういうモノに支えられていることに感謝する心の表れなんだろう。
ドライブの行き先自体は、「ヤス子さんち、行ってみようよ」とこちらから誘っても「いいの、行かなくて」とか「今日でなくてもいいから」となる。たぶん、シナリオが重要なんだと思う。大事に育てた自慢の息子が迎えに来てくれるはずだと毎週末になると待ちわびているが、仕事が忙しくて迎えに来れない、ここにいても私はひとりぽっちで話し相手もない、目も見えないし歩くこともできなくなった・・・と嘆きの訴えをして涙する。そういう悲劇の物語を主役で生きているのであって、実際に家に行くかどうかはそんなに大きな問題ではないような気がする。毎朝、「出してください、今日こそ家に帰っていいですね?」と迫ってくるが、その日、お出かけしようがしまいが、夕方になると決まって「今日もお世話様でした、おかげさんだった〜」と笑顔を見せる。今日も一日よく演じきった…とでもいうことだろうか、とても満足気な笑顔だ。そうして翌朝には、また悲痛な表情の語りが始まる。ヤス子さん自身が語る、ヤス子さんの“私の物語”が重要なのだ。
思うに、“私の物語”が立ち上がってくるのには、何かと密に繋がって、何かに強固に支えられている必要があると考えるが、ヤス子さんの場合、それは山や空、草花などの自然だろう。散歩に出て、あるいはお部屋の窓から、いつでもどこでも太陽に向かって手を合わせる姿がある。「お天道様にね、今日もよろしくってご挨拶」と朝、夕食後には玄関まで来て「お天道様に今日の最後のご挨拶。一日無事に暮らしました、明日もまたお願いします、ってね」とニッコリ笑う。そしてスタッフには、「気ぃつけてお帰りやんせや、夕飯、ちゃんと食べなさいよ」と、まるでお母さんのように穏やかに労ってくれる。
自然などの超越世界と繋がる通路をもって、そこに支えられ、感謝しながら、いかに自分らしい物語を生きていくのか…。私にとっても大切なテーマだと思う。ヤス子さんの物語がどう展開していくのか、大注目!それと共に、私の物語にも丁寧に向き合っていきたい。
ヤス子さん(仮名)は特養に来て一年半になるが、「もう二年も三年もここにいる」と話す。病院に入院しているということになっていて、毎日のように「いつ退院させてもらえるの?」と事務所にやってくる。
朝一番に、廊下の奥から聞こえてくる、ぎゅぎゅぎゅうぅ…という車椅子の音。ヤス子さんだな…と覚悟を決めて待っていると、やがて「ごめんください」ぬぅ…っと現れる。車椅子から転げ落ちそうなほど体を横に傾け、演出もバッチリ、「今日、ここ、出してください。頭も痛いし、目も見えねぇの…うちへ帰って、眼科さ行くべと思ってね。ここへ来て長くなるけど、一回も薬も何ももらったことねぇの」と、表情は暗くグッタリしながら不満をもらす。かと思えば、「今すぐ出してください!帰してください!ここの人たち、なんと立派で頭も良くて、私みたいな馬鹿がいるところでないですから!」と、嫌みもたっぷり、ユニットの他利用者さんとケンカでもしたのか、ものすごい形相で怒っていることもある。「請求書、書いてくださいね!家に行けばお金あるから、後からちゃんとお支払いしますから」と、目をキッと三角にして強気で迫ったり、「息子も、いっこう、迎えさも来ねぇ…、うっ、うぅ」と、手拭いの端を噛んで泣き落としにかかったり…。ヤス子さんもいろいろ工夫して手を替えてくるからスゴイ。一日に何度も長い廊下を車椅子でやってきて、事務所の手前で一瞬とどまると、毎回、しっかり役作りをしてから扉をくぐる。さすが、「若い頃は女優になりたかった」と言うだけある。息子を溺愛するヤス子さんとしては、男性スタッフを息子さんに見立てるのか、私が話を聞くよりも戸來さんや瀬川さんに物申したい気持ちがあるようで、彼らが電話中でも手が空くのをジッと待っている。相手役もちゃんと決まっているのだ。事務所内に私だけしかいない時なんか、「ごめんください…、あら、誰もいないのね」と呟いたりもする。「私、いるじゃん!」と言いたくなるところだが、やっぱり“息子”がいいんだね…。配役もシナリオも自ら描く、悲劇の主演女優だ。
あんまりじっくりと聞き入って、引き留めたり説得したりしても、悲劇っぷりがエスカレートするわ、こっちも疲れちゃうわ、なので、「じゃ、気分転換に、午後からドライブでも行くっか?」と切り出してみる。すると、あんなにグッタリ倒れかかっていた姿勢が、一瞬のうちにピーン!となって、「ほんと?!連れてってけんの?!」と笑顔に早変わりするヤス子さん。「あぁ〜、お姉ちゃんに話してみて、よかったぁ♪」と、この時ばかりは私にも配役がまわってくる。
青空の下、ニコニコのドライブに出ると、景色を眺めながら手を合わせるヤス子さんの姿。「草も木もあんなに一生懸命に青くなって、山もきれいで、お空もこんなに明るくって…あぁ!」と、
感激に声を震わせながら、手拭いを目にやって泣き笑いのヤス子さん。山道に花が咲いていると「わぁっ!満開になってくれてる…、ありがとうごぜぁんす」と、また手を合わせて頭を下げる。なんて感動屋さんなんだろう!と、こちらも嬉しくなってくる。事務所でお互い苦しくなるまでにらめっこしてるより、やっぱり外へ出てみてよかった〜と楽しくなる。何より、花や山や空に感謝し手を合わせるという感覚が、私にはとても新鮮だった。
そういえば、日に何度か外へ散歩に出るヤス子さんは、よく、「草っこに話し相手になってもらったの」とか「花っこと一緒に、おやつ食べてきたの」などと語る。ユニット内でごたごたがあるとその場に居られなくなり、「立派な人たちばかりいた、あそこは私のいる所じゃない、誰ともお話もできねえの、私が馬鹿なの」と悲痛な面持ちで外へ出る。散歩から戻ると「私の話っこ聞いてくれるのは、犬っこだの花っこしかねぇの」と語る。まぁ、そう言いたくなるのは嫌みも多少は入ってるんだろうけど、でも、普段から草花や動物、山や空などの自然物と繋がって生きているからなんだろうなぁ、と強く感じる。そういうモノに支えられていることに感謝する心の表れなんだろう。
ドライブの行き先自体は、「ヤス子さんち、行ってみようよ」とこちらから誘っても「いいの、行かなくて」とか「今日でなくてもいいから」となる。たぶん、シナリオが重要なんだと思う。大事に育てた自慢の息子が迎えに来てくれるはずだと毎週末になると待ちわびているが、仕事が忙しくて迎えに来れない、ここにいても私はひとりぽっちで話し相手もない、目も見えないし歩くこともできなくなった・・・と嘆きの訴えをして涙する。そういう悲劇の物語を主役で生きているのであって、実際に家に行くかどうかはそんなに大きな問題ではないような気がする。毎朝、「出してください、今日こそ家に帰っていいですね?」と迫ってくるが、その日、お出かけしようがしまいが、夕方になると決まって「今日もお世話様でした、おかげさんだった〜」と笑顔を見せる。今日も一日よく演じきった…とでもいうことだろうか、とても満足気な笑顔だ。そうして翌朝には、また悲痛な表情の語りが始まる。ヤス子さん自身が語る、ヤス子さんの“私の物語”が重要なのだ。
思うに、“私の物語”が立ち上がってくるのには、何かと密に繋がって、何かに強固に支えられている必要があると考えるが、ヤス子さんの場合、それは山や空、草花などの自然だろう。散歩に出て、あるいはお部屋の窓から、いつでもどこでも太陽に向かって手を合わせる姿がある。「お天道様にね、今日もよろしくってご挨拶」と朝、夕食後には玄関まで来て「お天道様に今日の最後のご挨拶。一日無事に暮らしました、明日もまたお願いします、ってね」とニッコリ笑う。そしてスタッフには、「気ぃつけてお帰りやんせや、夕飯、ちゃんと食べなさいよ」と、まるでお母さんのように穏やかに労ってくれる。
自然などの超越世界と繋がる通路をもって、そこに支えられ、感謝しながら、いかに自分らしい物語を生きていくのか…。私にとっても大切なテーマだと思う。ヤス子さんの物語がどう展開していくのか、大注目!それと共に、私の物語にも丁寧に向き合っていきたい。
ニューヒーロー☆ ★ワークステージ 日向 菜採【2012年10月号】
この春からの新人のA君は、支援学校からの申し送りでは「対人関係に不安、自己肯定感が低い」などとあった。とてもユニークな性格で、ヒーローに憧れて自分も正義の味方になりたいというイメージが強い。ところが現実では学校・仕事・大人などの枠にはめ込まれた感じで、とてもしんどそうだった。
私は、彼の中で甘えられる存在のようで、気持ちが落ち着かなくなると事務所の私のところにやってきて暴れた。「おまえらいちいちうるせんだよ!!」「どうして親はこんなところに連れてきたんだ!こんなところ辞めてやるよ!!」などと大きな体で怒鳴って暴れるのでかなりの迫力だ。あおりで隣の施設長の机の書類が蹴散らされその度に被害が出た。一暴れすると、今度は大きな体を小さく丸めて落ち込みモードになる。「僕はみんなを傷つけてしまった。僕は見放されてしまう」「ここにいたって迷惑かけるだけだよ」とおどおどしている。不安を吐き出しながら、どう受け止められるか試しているようだった。
支援学校からの実習で、A君はりんご班の作業指導員中島さんに「ぜひりんご班にきてほしい」と選ばれた。中島さんは、元自衛隊員で作業中は「お前なにやってんだぁ!!」と「自衛隊流」の罵声が飛ぶ。でも本当は優しい。A君のことを育てたい中島さんなのだが、その厳しさにA君は作業を抜け出し「中島さんは人のことを人だと思っていない!」と私にグチりに来た。そのくせ一方で抜け出したことを怒られるのでは…とビクビクしていた。そのとき中島さんはA君を迎えに来てくれて怒らなかった。そんな中島さんの父親的な存在もありA君はりんご班になじんでいった。
ある日、A君は相性の悪い先輩利用者・雅義くん(仮名)に頭を叩かれた。そのとき、中島さんや先輩利用者が駆け寄ってA君をかばってくれたことが嬉しかったようで「みんなありがとう!僕をかばってくれてありがとう!」と涙ながらに感激していた。叩かれたことはさておき、みんなが自分を守ってくれたことが、感動的な体験となったようだった。
通所を初めて約3ヶ月、何度も大暴れしながらも受け入れてもらえる感じが彼の中で安心感をもたらし、信頼関係に繋がっていったように思える。自分で「暴れてはいけない」と押さえつける気持ちが逆に暴れやすくなっていたのだと思う。「暴れたいときは暴れればいいじゃん」と言われて戸惑っていたが、暴れたい気持ちを表現してもいいんだ、受け入れてもらえるんだという感覚が彼の中で定着していったように感じる。
相性の悪かった先輩利用者・雅義くんとの関係も次第に変化していく。雅義くんは、過去にある施設で厳しく訓練された経験がある。自分は二度と行きたくないくらい嫌なくせに、その感覚でA君に教えようとする。A君は、そんなきつい指導を怖がっていたが、いつからか「どうして雅義さんはそうなってしまったの?家庭環境はいいはずなのに」と気遣う。また、雅義くんの作るプリンを引き合いに出して「あんなおいしいプリンを作れる人がどうしてああなんだろう?」と考え込んでいる。「本当は仲良くしたいけど、どうしたらいいのかわからないのだと思うよ」と言うと「そうか」となぜか妙に納得していた。
やられっぱなしだったA君が、雅義くんに「いちいちうるさいんだよ!」と半べそをかきながらも言い返したことがあった。怒りが収まらない雅義くんは、翌日、A君が準備している水筒を無理やり取って「A君のバーカ!バーカ!」となじった。いつもに増して興奮している様子に私は「このままじゃ花巻祭りに連れて行けないよ!」と脅した。数日後に控えていた花巻祭りに参加できないとなるとワークの営業部長雅義くんとしては痛い。急におとなしくなって1時間ほど真剣に悩んだあと、「A君くんに謝りたい」と言ってきた。さらに「ひとりじゃ話せないから日向さん
もいてほしい」と言うので驚いた。祭りのことばかりじゃなく雅義くんは何か伝えたいことがあるんだと感じた。夕方、A君に「雅義くんが話したいことがあるんだって」と伝えると、A君は一瞬ニヤッと笑ったが「なんですか?」と平然を装っていた。雅義くんは「ごめんなさい」となかなか言えずにいたが、「最初に言うことがあるんじゃない?」と私が言うと、「今日はすみませんでした」とやっとの思いで言った。するとA君から「僕の方こそごめんなさい。雅義さんは悪くないよ。きっと今までつらい思いをしてきたんだね」と思いもよらない言葉。雅義くんは強がって「別につらい思いなんかしてないよ」と返すが「雅義さんは今までひとりぼっちだったんだね」とさらに続く。それに対し、いつもは「みんなとはケンカになるからいっしょに作業はできません!」と一人でいることが多い雅義くんが、「おれはひとりじゃないよ。ほらここのみんなといっしょだから寂しくねーよ?」と照れ隠しで必死に言い返す。ふたりとも最後まで目を合わさずうつむいて話していた。この半年ぶつかり続けてきた二人のこのやりとりに私は感動した。雅義くんも自分の孤独を嫌がらせでしか表現できないところがある。そんな二人だからこそ、何か通じるものがあったのだろうか。
A君が通所し始めて半年、本人も周囲も大きな変化があった。当初どこかに逃げてしまいそうな感じだったが、今はいつも横に居てくれるような安心感さえある。ひとつ大きな段階を乗り越えたA君は、この先どんな変身をしてくれるだろうか。
理事長コメント
自分の中に湧いてくる、大暴れしたくなる感情に怯えていたA君は、今までそれを必死で否定し抑えて来たのだと思う。暴れて誰かを傷つけそうだと、警察に自首することもある。そうした怯えを抱えるA君に、日向さんは「暴れればいいじゃん」とあっさり言ってのけた。その意外な反応にあっけにとられながら「それはダメだよ。人を傷つけてはダメなんだ」と戸惑っていたA君だったが、受け止めてもらえた実感はあったのではないだろうか。当初、暴れては落ち込むを繰り返し、施設長の机の書類はその度に散乱した。その頃、支援学校の会合で卒業生の近況を聞かれ、日向さんは「Aくんは順調に暴れてます」と報告をする。地域の支援関係者の集まりだから、笑って受け止めてもらえると思ったが、一同顔を引きつらせたので、返って日向さんが驚いた。ひとりだけ笑ってくれた人が居て救われた。
私自身、A君が荒れるのに戸惑ったが、日向さんの「暴れればいいじゃん」には救われた。ある時、A君が演劇的世界を持って生きていることに気がついてから、彼と私の通路が急に開けた。「A君、正義は必ず勝つんだ。負けるな」と演劇調で語りかける。すると「正義は勝つんだ。でも悪を排除するのはかわいそうだ。悪も生かしてやらないと」と返ってくる。「そうか、殺すんじゃなくて救ってやるんだな」「そうだよ。悪も生きてていいんだよ」端から見ればクサイセリフのやりとりだが、彼の世界に触れる瞬間だ。内容は哲学的で、それは彼自身を語っているかのようだった。
これまでは、A君の内的世界へのまなざしがなく、表面的に安定して暴れないことばかりが強調されてきたのではないだろうか。世間の秩序とは少し違った世界を彼は生きており、その世界は豊かな魅力に満ちている。そのことを直感的に理解し、暴れることで繋いで来ればいいと感じた日向さんのセンスはかなりのものだ。
今後、事務所で暴れることはもう無いだろうと思われる。同僚やスタッフとの人間関係も深いところで進展し、あらたな関係が開かれている。施設長の書類も安心というところだが、一度施設長に「くそばばあ」と叫んだことがある。それは許されないだろう。
私は、彼の中で甘えられる存在のようで、気持ちが落ち着かなくなると事務所の私のところにやってきて暴れた。「おまえらいちいちうるせんだよ!!」「どうして親はこんなところに連れてきたんだ!こんなところ辞めてやるよ!!」などと大きな体で怒鳴って暴れるのでかなりの迫力だ。あおりで隣の施設長の机の書類が蹴散らされその度に被害が出た。一暴れすると、今度は大きな体を小さく丸めて落ち込みモードになる。「僕はみんなを傷つけてしまった。僕は見放されてしまう」「ここにいたって迷惑かけるだけだよ」とおどおどしている。不安を吐き出しながら、どう受け止められるか試しているようだった。
支援学校からの実習で、A君はりんご班の作業指導員中島さんに「ぜひりんご班にきてほしい」と選ばれた。中島さんは、元自衛隊員で作業中は「お前なにやってんだぁ!!」と「自衛隊流」の罵声が飛ぶ。でも本当は優しい。A君のことを育てたい中島さんなのだが、その厳しさにA君は作業を抜け出し「中島さんは人のことを人だと思っていない!」と私にグチりに来た。そのくせ一方で抜け出したことを怒られるのでは…とビクビクしていた。そのとき中島さんはA君を迎えに来てくれて怒らなかった。そんな中島さんの父親的な存在もありA君はりんご班になじんでいった。
ある日、A君は相性の悪い先輩利用者・雅義くん(仮名)に頭を叩かれた。そのとき、中島さんや先輩利用者が駆け寄ってA君をかばってくれたことが嬉しかったようで「みんなありがとう!僕をかばってくれてありがとう!」と涙ながらに感激していた。叩かれたことはさておき、みんなが自分を守ってくれたことが、感動的な体験となったようだった。
通所を初めて約3ヶ月、何度も大暴れしながらも受け入れてもらえる感じが彼の中で安心感をもたらし、信頼関係に繋がっていったように思える。自分で「暴れてはいけない」と押さえつける気持ちが逆に暴れやすくなっていたのだと思う。「暴れたいときは暴れればいいじゃん」と言われて戸惑っていたが、暴れたい気持ちを表現してもいいんだ、受け入れてもらえるんだという感覚が彼の中で定着していったように感じる。
相性の悪かった先輩利用者・雅義くんとの関係も次第に変化していく。雅義くんは、過去にある施設で厳しく訓練された経験がある。自分は二度と行きたくないくらい嫌なくせに、その感覚でA君に教えようとする。A君は、そんなきつい指導を怖がっていたが、いつからか「どうして雅義さんはそうなってしまったの?家庭環境はいいはずなのに」と気遣う。また、雅義くんの作るプリンを引き合いに出して「あんなおいしいプリンを作れる人がどうしてああなんだろう?」と考え込んでいる。「本当は仲良くしたいけど、どうしたらいいのかわからないのだと思うよ」と言うと「そうか」となぜか妙に納得していた。
やられっぱなしだったA君が、雅義くんに「いちいちうるさいんだよ!」と半べそをかきながらも言い返したことがあった。怒りが収まらない雅義くんは、翌日、A君が準備している水筒を無理やり取って「A君のバーカ!バーカ!」となじった。いつもに増して興奮している様子に私は「このままじゃ花巻祭りに連れて行けないよ!」と脅した。数日後に控えていた花巻祭りに参加できないとなるとワークの営業部長雅義くんとしては痛い。急におとなしくなって1時間ほど真剣に悩んだあと、「A君くんに謝りたい」と言ってきた。さらに「ひとりじゃ話せないから日向さん
もいてほしい」と言うので驚いた。祭りのことばかりじゃなく雅義くんは何か伝えたいことがあるんだと感じた。夕方、A君に「雅義くんが話したいことがあるんだって」と伝えると、A君は一瞬ニヤッと笑ったが「なんですか?」と平然を装っていた。雅義くんは「ごめんなさい」となかなか言えずにいたが、「最初に言うことがあるんじゃない?」と私が言うと、「今日はすみませんでした」とやっとの思いで言った。するとA君から「僕の方こそごめんなさい。雅義さんは悪くないよ。きっと今までつらい思いをしてきたんだね」と思いもよらない言葉。雅義くんは強がって「別につらい思いなんかしてないよ」と返すが「雅義さんは今までひとりぼっちだったんだね」とさらに続く。それに対し、いつもは「みんなとはケンカになるからいっしょに作業はできません!」と一人でいることが多い雅義くんが、「おれはひとりじゃないよ。ほらここのみんなといっしょだから寂しくねーよ?」と照れ隠しで必死に言い返す。ふたりとも最後まで目を合わさずうつむいて話していた。この半年ぶつかり続けてきた二人のこのやりとりに私は感動した。雅義くんも自分の孤独を嫌がらせでしか表現できないところがある。そんな二人だからこそ、何か通じるものがあったのだろうか。
A君が通所し始めて半年、本人も周囲も大きな変化があった。当初どこかに逃げてしまいそうな感じだったが、今はいつも横に居てくれるような安心感さえある。ひとつ大きな段階を乗り越えたA君は、この先どんな変身をしてくれるだろうか。
理事長コメント
自分の中に湧いてくる、大暴れしたくなる感情に怯えていたA君は、今までそれを必死で否定し抑えて来たのだと思う。暴れて誰かを傷つけそうだと、警察に自首することもある。そうした怯えを抱えるA君に、日向さんは「暴れればいいじゃん」とあっさり言ってのけた。その意外な反応にあっけにとられながら「それはダメだよ。人を傷つけてはダメなんだ」と戸惑っていたA君だったが、受け止めてもらえた実感はあったのではないだろうか。当初、暴れては落ち込むを繰り返し、施設長の机の書類はその度に散乱した。その頃、支援学校の会合で卒業生の近況を聞かれ、日向さんは「Aくんは順調に暴れてます」と報告をする。地域の支援関係者の集まりだから、笑って受け止めてもらえると思ったが、一同顔を引きつらせたので、返って日向さんが驚いた。ひとりだけ笑ってくれた人が居て救われた。
私自身、A君が荒れるのに戸惑ったが、日向さんの「暴れればいいじゃん」には救われた。ある時、A君が演劇的世界を持って生きていることに気がついてから、彼と私の通路が急に開けた。「A君、正義は必ず勝つんだ。負けるな」と演劇調で語りかける。すると「正義は勝つんだ。でも悪を排除するのはかわいそうだ。悪も生かしてやらないと」と返ってくる。「そうか、殺すんじゃなくて救ってやるんだな」「そうだよ。悪も生きてていいんだよ」端から見ればクサイセリフのやりとりだが、彼の世界に触れる瞬間だ。内容は哲学的で、それは彼自身を語っているかのようだった。
これまでは、A君の内的世界へのまなざしがなく、表面的に安定して暴れないことばかりが強調されてきたのではないだろうか。世間の秩序とは少し違った世界を彼は生きており、その世界は豊かな魅力に満ちている。そのことを直感的に理解し、暴れることで繋いで来ればいいと感じた日向さんのセンスはかなりのものだ。
今後、事務所で暴れることはもう無いだろうと思われる。同僚やスタッフとの人間関係も深いところで進展し、あらたな関係が開かれている。施設長の書類も安心というところだが、一度施設長に「くそばばあ」と叫んだことがある。それは許されないだろう。
「ユニットこと」の中の私と支え ★特別養護老人ホーム 川戸道美紗子【2012年10月号】
「こと」の利用者フミさん(仮名)は、現実と異界を行き来しているような人で、普段は眠気でこっくりこっくりしていることが多いおばあちゃんですが、毎回いろんな世界にいていろんな顔があって、「こと」の神様みたいな存在です。フミさんは怪我をして入院して帰ってきてから、また何か世界が変わったように思います。前よりも「守り」や「慈愛」のパワーが大きくなったように感じるのです。そんなフミさんは、ここ数ヶ月・・・険しい雰囲気でスタッフに掴みかかったり、ぎゅう〜っと痛いくらい手を握ったり髪を引っ張ったり・・・何処か別の世界と繋がっていて、それがその痛みを伴う行動に反映しているような気がします。毎日のように「今日はフミさんに眉間をぐりぐりされた」「わたしはやっぱり手を握られる」というスタッフ間の会話がありました。皆、何回かフミさんとのそうしたやりとりがあるようなのに、私は1回もそういうことが無かったので「皆そういうやりとりがあるのか・・・なんだかうらやましいなあ」と思っていました。自分だけ何も無いという気持ちで寂しく感じていたんだと思います。
しかし先日、何の気なしにフミさんを昼食に誘いに居室へ行くと「こいこい」とフミさんに手招きされました。そこで私がそばへ寄ると、柵越しにずいっ!!と伸びてくるフミさんの右手!すごい勢いと迫力でその手は私の目の前に来ました。「わ!ついに私もフミさんからつねりがもらえるのかも・・・!!」と、私は妙な期待をしながら構えていました・・・。ところがその手が私の鼻に触れたかと思うと“ふにふに”と・・・拍子抜けするくらい優しく鼻をつままれました。「えー!?」私はてっきり痛い事になるかと思ってたのですが、まったく真逆で、フミさんも「ふふふ」と優しくほほえんでいます。なんで鼻をつままれたのか・・・分かりませんが、とりあえず理由などはどうでもいいと思えるやりとりでした。
そこで気付いた事は、「私には私の位置がある」という事です。皆と同じようになりたくて意識していたところがあります。感じ方も存在の感覚も人それぞれだと頭では分かっていたつもりですが、そのフミさんとのやりとりでようやく体感出来た気がします。そして、私は、「こと」で最年少で新人という立場からか、利用者さ
んから強い見守りや励ましをもらっているのかな、とも感じました。利用者さんの視線で守って、支えてもらっている気がします。
例えば、同じく「ユニットこと」の利用者ミエさん(仮名)はおっとりしていて、食べることが大好きな方です。そのミエさんの気持ちが動いていた日、一日中そばに居させて貰った日の夜でした。「あんた・・・小さい頃は可愛かったんだよ。でも、今は・・・なんだか分からないなは。考えすぎてしまって・・・訳が分からなくなってる・・・」と言われました。この言葉に私はつい泣いてしまいました。もちろんミエさんは私の小さい頃なんて見たこと無いし、もしかしたら他の誰かのイメージに語りかけた言葉かもしれないですが、その言葉は本当にそうだと自分の中に入ってきて、訳が分からなくなっている今の私の現状と重なり、また生まれる前からミエさんという存在に守って貰っていたのかもしれないというような温かい感激がありました。とてもきらめきのある鋭いその言葉を思い出すと、胸が締め付けられるような気持ちになります。
「フミさんの鼻ふにふに」、「ミエさんの言葉」・・・その二人と、表現の先にいる私、という繋がりが、私をとても支えてくれている気がします。やりとりは誰とでもいいわけじゃない、きっと私は皆と同じやりとりは出来ないと思うし、自分なりのやりとりが大事なんだと思います。
最近、私は銀河の里の事例検討会や毎日の出来事で、ぐるぐるしたり辛くなったり・・・自分の中でいっぱいいっぱいになってしまうことが多く、そのたび理事長や山岡さんと話す機会を設けてもらって話を聞いてもらっていたのですが、どうも抜け出せずさまよっている様な・・・ずっとそんな感覚でした。でもそのもやもやは、少しずつですが晴れてきているような気がします。フミさんやミエさんは、きっとそんなもやもやすらお見通しでその都度こころに響く何かをくれているように感じます。私自身の位置を知ることは、いろんなやりとりの実感にも繋がるだろうしピントも合ってくると思います。どこにいるか分からない私もまだ居ますが、それは避けられない葛藤でもあると思うので、皆に支えて貰いながらぐるぐるもやもやして・・・乗り越える打たれ強さも同時に手に入れていきたいです。
しかし先日、何の気なしにフミさんを昼食に誘いに居室へ行くと「こいこい」とフミさんに手招きされました。そこで私がそばへ寄ると、柵越しにずいっ!!と伸びてくるフミさんの右手!すごい勢いと迫力でその手は私の目の前に来ました。「わ!ついに私もフミさんからつねりがもらえるのかも・・・!!」と、私は妙な期待をしながら構えていました・・・。ところがその手が私の鼻に触れたかと思うと“ふにふに”と・・・拍子抜けするくらい優しく鼻をつままれました。「えー!?」私はてっきり痛い事になるかと思ってたのですが、まったく真逆で、フミさんも「ふふふ」と優しくほほえんでいます。なんで鼻をつままれたのか・・・分かりませんが、とりあえず理由などはどうでもいいと思えるやりとりでした。
そこで気付いた事は、「私には私の位置がある」という事です。皆と同じようになりたくて意識していたところがあります。感じ方も存在の感覚も人それぞれだと頭では分かっていたつもりですが、そのフミさんとのやりとりでようやく体感出来た気がします。そして、私は、「こと」で最年少で新人という立場からか、利用者さ
んから強い見守りや励ましをもらっているのかな、とも感じました。利用者さんの視線で守って、支えてもらっている気がします。
例えば、同じく「ユニットこと」の利用者ミエさん(仮名)はおっとりしていて、食べることが大好きな方です。そのミエさんの気持ちが動いていた日、一日中そばに居させて貰った日の夜でした。「あんた・・・小さい頃は可愛かったんだよ。でも、今は・・・なんだか分からないなは。考えすぎてしまって・・・訳が分からなくなってる・・・」と言われました。この言葉に私はつい泣いてしまいました。もちろんミエさんは私の小さい頃なんて見たこと無いし、もしかしたら他の誰かのイメージに語りかけた言葉かもしれないですが、その言葉は本当にそうだと自分の中に入ってきて、訳が分からなくなっている今の私の現状と重なり、また生まれる前からミエさんという存在に守って貰っていたのかもしれないというような温かい感激がありました。とてもきらめきのある鋭いその言葉を思い出すと、胸が締め付けられるような気持ちになります。
「フミさんの鼻ふにふに」、「ミエさんの言葉」・・・その二人と、表現の先にいる私、という繋がりが、私をとても支えてくれている気がします。やりとりは誰とでもいいわけじゃない、きっと私は皆と同じやりとりは出来ないと思うし、自分なりのやりとりが大事なんだと思います。
最近、私は銀河の里の事例検討会や毎日の出来事で、ぐるぐるしたり辛くなったり・・・自分の中でいっぱいいっぱいになってしまうことが多く、そのたび理事長や山岡さんと話す機会を設けてもらって話を聞いてもらっていたのですが、どうも抜け出せずさまよっている様な・・・ずっとそんな感覚でした。でもそのもやもやは、少しずつですが晴れてきているような気がします。フミさんやミエさんは、きっとそんなもやもやすらお見通しでその都度こころに響く何かをくれているように感じます。私自身の位置を知ることは、いろんなやりとりの実感にも繋がるだろうしピントも合ってくると思います。どこにいるか分からない私もまだ居ますが、それは避けられない葛藤でもあると思うので、皆に支えて貰いながらぐるぐるもやもやして・・・乗り越える打たれ強さも同時に手に入れていきたいです。
六車由実さんと出逢って ★デイサービス 米澤里美【2012年10月号】
「驚きの介護民俗学」は、読み出したら一気に最後まで読んでしまった。感性や感覚が、里の現場と似ていて、とても親近感が持てた。そして「介護民俗学」を提唱したのだからすごい、業界に革命的なアプローチが登場したと感じる。以前は、「民俗学」という学問は、福祉や介護には関係がないように思っていたが、2007年に河合隼雄先生の一周忌の記念講演で、赤坂憲雄先生がお話しされたのを期に先生の著書を拝読し親しみは感じていた。先日のNHKの特集番組「日本人は何を考えてきたのか」にも出演されていて「民俗学はそこに生きてきた人の人生を物語ることだ」と言われていて、フィールドは違えど、我々の取り組みと近い心を確信めいて感じた。その赤坂先生のお膝元におられた六車さんが、なぜか介護業界の現場に身を置かれ、今年こうした本を上梓されたのはやはりすごいことだ。その六車さんが里に来られた!そこで夜、六車さんを囲んでセミナーが開かれた。 「驚きの介護民俗学」を読んだ上での参加だったのだが、参加者は20名を越えた。一人ひとり、本を読んだ感想や、今感じていることを語るのだが、なぜか皆涙が止まらない…私もそのひとり、この感覚は一体何なんだ、と思う。この著書を読み、六車さんと自分を重ね、日頃接している利用者さんと重ね、そして 私自身と重ね、「自分」を語る瞬間、涙が溢れてしまう。ただの泣き虫なのかもしれないが、内にある心を語ろうとすると、溢れ出るものがあるんだろうと思う。今回、大多数が涙を見せたのも、内なる自分と重ねてこの著書を読んだからかもしれない。
私自身、里以外の人物とこのような出逢いをすることはめったにない。福祉学部を卒業したので、同級生はそれぞれ福祉の分野で活躍している。しかし、仕事の話をすると全く話が合わない。利用者との向き合い方が根本的に違う。「助ける・お世話する立場」に立っているのと、「私とあなたの関係で出逢い、共に人生を歩む」という向き合い方の違い。つまり、前者では「助ける立場」なので個人的な感情は絡ませない(絡ませるのはプロじゃないという意識がある)。後者では「私」が出逢うために私自身の心がかなり絡むのである。里の向き合い方は、福祉業界ではある意味タブーのことをやっているような気がしていた。同級生には「そんな向き合い方してたら、自分が壊れるぞ」「何熱くなってんだよ」と言われる始末で、全く理解してもら
えず悲しくなったことが幾度もあった。それからは同業者には仕事のことは語らないようにしてきた。障がい者福祉にしろ、高齢者介護福祉にしても、語り合える同業者はなく、孤独の中にいた。そんな中、六車さんの著書は「そうだ!その通り!」と共感に満ちて触れることができた。
セミナーで六車さんは、「けっこう泣くんですね…」と異様な?光景に驚きながらも、「みんな苦しい…んですねぇ…」と話された。利用者さんと向き合うことは、自分自身が引き出されることであり、自分と向き合う次元で闘うしかない現場だ、ということをわかってくれているのだと思った。(「闘うという言葉は好きでないけれど・・」とも語っていた)
六車さんは民俗学的な好奇心を持って介護現場に入る。「高齢者と出逢ったことが救いだった」と語り、著書では、「自分がこれから生きていくためのヒントを得たいというすがりつくような思いで」利用者さん達の話を聞くようになったと述べられている。私はこの部分にとても同感できる。私は利用者さんと自分の人生を重ね合わせながら、「すがりつくような思い」で「人生のヒントやメッセージ」を期待して待っているところがある。認知症の深い方ほど、核心的な言葉をくれるし、感動の学びがある。
子育て真っ最中の私にとって六車さんの「物語世界を共有するのが、老人と子どもである」との文に関心が行く。「民俗学では、老人も子どもも神に近い存在として説明される。つまり、生まれて間もない子どもと死を間近に迎えた老人は、世俗にまみれたこの世の両端に生きる存在であり、したがって両者ともあの世に近い、神に近い存在として民俗世界では認識されてきた…」とある。河合隼雄先生も著書で「老人と子どもとは不思議な親近性をもっている。子どもはあちらの世界から来たばかりだし、老人はもうすぐあちらに行くことになっている。両者ともあちらの世界に近い点が共通なのである。青年や壮年がこちらの世界のことで忙しくしているとき、老人と子どもは不思議な親近性によって結ばれ、お互いをかばいあったり、共感し合ったりする」と語っている(河合隼雄 1987 『子どもの宇宙』)。現在、育児休暇中の私は、お産も育児も里の現場とものすごく近いと感じている。人生や、生と死や、魂などと正面から向き合うからだと思う。現在の閉塞的な社会や地域の未来を思うとき、老人と子どもという新たな可能性に期待をはせる。六車さんとの出逢いを通して「介護民俗学」と共に現場が切り開く新たな地平の開拓に挑戦していきたい。
私自身、里以外の人物とこのような出逢いをすることはめったにない。福祉学部を卒業したので、同級生はそれぞれ福祉の分野で活躍している。しかし、仕事の話をすると全く話が合わない。利用者との向き合い方が根本的に違う。「助ける・お世話する立場」に立っているのと、「私とあなたの関係で出逢い、共に人生を歩む」という向き合い方の違い。つまり、前者では「助ける立場」なので個人的な感情は絡ませない(絡ませるのはプロじゃないという意識がある)。後者では「私」が出逢うために私自身の心がかなり絡むのである。里の向き合い方は、福祉業界ではある意味タブーのことをやっているような気がしていた。同級生には「そんな向き合い方してたら、自分が壊れるぞ」「何熱くなってんだよ」と言われる始末で、全く理解してもら
えず悲しくなったことが幾度もあった。それからは同業者には仕事のことは語らないようにしてきた。障がい者福祉にしろ、高齢者介護福祉にしても、語り合える同業者はなく、孤独の中にいた。そんな中、六車さんの著書は「そうだ!その通り!」と共感に満ちて触れることができた。
セミナーで六車さんは、「けっこう泣くんですね…」と異様な?光景に驚きながらも、「みんな苦しい…んですねぇ…」と話された。利用者さんと向き合うことは、自分自身が引き出されることであり、自分と向き合う次元で闘うしかない現場だ、ということをわかってくれているのだと思った。(「闘うという言葉は好きでないけれど・・」とも語っていた)
六車さんは民俗学的な好奇心を持って介護現場に入る。「高齢者と出逢ったことが救いだった」と語り、著書では、「自分がこれから生きていくためのヒントを得たいというすがりつくような思いで」利用者さん達の話を聞くようになったと述べられている。私はこの部分にとても同感できる。私は利用者さんと自分の人生を重ね合わせながら、「すがりつくような思い」で「人生のヒントやメッセージ」を期待して待っているところがある。認知症の深い方ほど、核心的な言葉をくれるし、感動の学びがある。
子育て真っ最中の私にとって六車さんの「物語世界を共有するのが、老人と子どもである」との文に関心が行く。「民俗学では、老人も子どもも神に近い存在として説明される。つまり、生まれて間もない子どもと死を間近に迎えた老人は、世俗にまみれたこの世の両端に生きる存在であり、したがって両者ともあの世に近い、神に近い存在として民俗世界では認識されてきた…」とある。河合隼雄先生も著書で「老人と子どもとは不思議な親近性をもっている。子どもはあちらの世界から来たばかりだし、老人はもうすぐあちらに行くことになっている。両者ともあちらの世界に近い点が共通なのである。青年や壮年がこちらの世界のことで忙しくしているとき、老人と子どもは不思議な親近性によって結ばれ、お互いをかばいあったり、共感し合ったりする」と語っている(河合隼雄 1987 『子どもの宇宙』)。現在、育児休暇中の私は、お産も育児も里の現場とものすごく近いと感じている。人生や、生と死や、魂などと正面から向き合うからだと思う。現在の閉塞的な社会や地域の未来を思うとき、老人と子どもという新たな可能性に期待をはせる。六車さんとの出逢いを通して「介護民俗学」と共に現場が切り開く新たな地平の開拓に挑戦していきたい。