2012年09月15日

異界な人々に支えられて ★グループホーム第2 片方裕子【2012年8月号】

 私は4月からグループホーム第2に異動になった。その時は、特養で一年以上一緒に過ごして、なじんだ利用者さんと離れる寂しさがこみ上げてきた。一方で、私にとって銀河の里のグループホームは未知の世界で、現実から離れた世界というイメージがあり、それが実際はどんな感じなのか、期待と好奇心でワクワクするような思いも湧き起こってきた。
 いざグループホームに移ると、利用者にも、スタッフにも違和感なく受け入れてもらえて、私もすんなりとなじんで行けた。しかし考えていた以上に異界度は高く、壊れたのかしばらく音を出さなかった、アンティーク調の大きな柱時計が、新体制が始まると同時期にいきなり「ボーンボーン」と鳴り出した。深夜0時には12回もなるその音はグループホームに鳴り響き、みんなで何かが始まるんだなという感慨に浸った。
 実際に、新体制に入ったとたんに利用者が一斉に動き出した。先陣を切ったのは守夫さん(仮名)だ。守夫さんは入居して3年目だが、戦争の傷を抱えておられることに利用当初からスタッフが気にかかっていたそうだ。お国のためながら殺戮を経験したことを、今も苦しんでいるようだった。そうした深い傷をどう癒すのかというのはグループホーム入居時からの課題だったのだが、これと言って方法があるわけでもなく、時折、狂ったように踊ることや、涙をこぼしながら殺戮を悔やむ言葉を漏らすなどはありながら、2年の月日が過ぎたということだった。これまでは体制としてもそうした深い傷に寄り添うだけの力をもったスタッフもなく、チームもできていなかった。ところが、この4月からの詩穂美さん、寛恵さん体制になったことが守夫さんが動くきっかけになったようだった。ある日、守夫さんはこの二人を脇にして「よし始めるぞ」と叫んだ。みんなこの言葉に、本当に始まるんだということをどこかで実感し、「よし来るぞ」と腹を決めた。
 クミさん(仮名)は頻繁にお告げが来て、その声に従って出かけて行かなければならない人だ。この春はお告げが頻繁なのか、一日に何回も出かけて歩いていた。そのクミさんの声に誘われて、守夫さんと詩穂美さんも一緒にクミさんの実家近くの神社に行ったことがある。そこではちょうど儀式が行われていた。外でしばらく待っていた守夫さんは、あるタイミングでまさに満を持したかのように進み出て神様の前で舞を奉納した。そしていつもそうなのだが、このときクミさんは当たり前のように、守夫さんを支える脇の役をキチンと務めたのだった。
 5月には守夫さんはほぼ一ヶ月に渡って、スタッフの酒井さんに、兵士の上官からの訓辞のような言葉を毎日のように語り続けた。酒井さんはその言葉はあまりにリアルで衝撃的で受け止めきれなかったらしく、残念ながら記憶にも記録にも一切残すことができなかった。6月には詩穂美さんがリュックを背負って帰ろうとしたところ、守夫さんが見送りに出て、盛大な壮行会になった。それは出征兵士の見送りだと詩穂美さんもその場にいた誰もが感じた。詩穂美さんもたまらない気持ちが込み上げて涙が止まらなくなるほどだった。
 4月から6月の守夫さんは、戦争の暴力の惨状の傷を癒すために深い井戸におりていくようなイメージだった。実際に体が重くなり、お風呂からあがってもらうのに、3人がかりであげなければならないことが何度もあった。それと同時に、現実に自宅の井戸を埋めるという話が出た。井戸を埋める前の儀式にも、守夫さんとクミさん、詩穂美さん、寛恵さんで参加してきたが、作業としては2日もあれば埋まってしまう井戸が、2ヶ月経ってもまだ埋まっていない。守夫さんの井戸の底での癒しの儀式はまだ成さねばならない何かを残しているのだろうか。 一方で、守夫さんが何事か語り続けた相手の酒井さんに異変が起こっていた。銀河バンドラビッツの結成があり、そこにのめり込んでいく酒井さん。どう戦うのか、誰と戦うのか、気合いが入りすぎて、ぶっ飛びながら方向が定まらない。酒井さんは勢い余ってモヒカン刈りの頭になったが、まだ先は見えてこ ない。おそらく守夫さんの傷と闇は酒井さんと詩穂美さんに託され、二人は託されはしたもののそれぞれの道で今だに方向を見失って迷っているように感じる。その二人を、寛恵さんが必死で支えているのだが、今度は寛恵さんがギリギリと追い込まれそうにもなる。そこを99歳の豊さん(仮名)がドンとして支えてくれる。クミさんも毎日歩いてはいるが、大事なところでは役割が解っていて支えてくれる。
 豊さんはいつも上座に居て、腕を組んでみんなを見守ってくれている。酒井さんが野外ライブの勝負に出かけたとき、豊さんには話していないし、話しても普通に通じるような感じはないのだが、不思議なことにライブと同じ時間に、豊さんの気持ちも動き始める。豊さんがいつもの席で、その時間に立ち上がり、手を叩き拍手をしている。一緒に参加しているに違いない。そして翌日、「昨日はごくろうさん」と酒井さんに言葉をかけた。酒井さんものけぞるばかりに驚いたことは言うまでもない。
 豊さんは、毎日年齢が変わる。「豊さん歳なんぼ〜?」と聞いて「13歳」と答える日は学校の生徒のイメージになっている。豊さんは年齢も場所も自由自在だ。  
 ホワ~ンと柔らかい雰囲気の歩さん(仮名)。スタッフや、利用者をいつも気にかけてくれる。優しい笑顔で「おめさん寒ぐねっかぁ〜」と言ってくる。疲れた顔をしていると「大丈夫!大丈夫だがら」と声をかけ、背中をさすってくれる。癒し系だ。それでも会話はいつもちぐはぐでやりとりにはならない。たまに言葉が繋がって会話になると「やったぁー」と嬉しくなる。歩さんはお茶目なところもある。裏の畑に出たとき、クミさんは直ぐにシャベルを持ち、手袋をせずに素手で作業をする。一方、歩さんは準備万全の作業姿に決める人なのだが、その日も思いが入ってしまったのか時間がかかった。やっと畑に来たときその手にはシャベルではなく、なぜか「トンカチ」を持っていた。クミさんに「畑にトンカチいらねーじゃー」と言われるが「これ?トントンてね」とニッコリとしながら土をたたいた。笑いが渦巻く中、何気に手を見るとゴム手袋を2枚重ねにしているので再び驚いた。
 特養では、表情をなくしがちだった私だが、グループでは、日々、笑いと感動が沸き起こって、まるでタイムスリップしたような異界感覚に陥ってしまう。私にとってこの不思議な空間はとても居心地の良い場所で、あまりの居心地の良さに異界ボケになってしまいそうなところもある。毎年恒例の梅漬け作業でそのことに気づかされた。デイサービスとグループの合同で梅をつけるのだが、グループ1のスタッフと利用者の梅漬けの作業は「お祭りでも始まったの」と思うほどの大騒ぎで、利用者とスタッフがひとつになり楽しんでいるのを見て、私まで楽しくなった。「これだ」と衝撃が走り「これではいけない」と異界ボケを反省した。しかしなかなかそこから目覚めるのは難しい。
 どこかへ飛んでしまっているようなグループ2の雰囲気の中、なんとか現実を取り戻したくて急きょスイカ割りを提案した。玄関前にシートを敷きながら、内心「こんな猛暑の中やるの〜?!暑くてみんなバテそうだ〜」と心配もしたが、始めると全員で玄関先のベンチや日陰に集まり、大いに盛り上がった。
 そこに出てきたのも守夫さんだった。「ここは俺にまかせろ!」と言わんばかりに守夫さんがスタッフに支えられて「オォー」と掛け声をかけて挑んだ。亀裂は入ったが割れなかった。そこでクミさんに声をかけると「やってみるがなぁ」とニコニコしながらスイカを叩いたがそれでも割れない。一旦座った守夫さんだったが、今度は一人で立ち上がって軽々と歩いてスイカの前へ向かった。そして竹の棒をうやうやしく振りながら「祓いたまえ〜 清めたまえ〜」とお祓いを始めた。お祓いが終わるやいなや再度振り下ろした。その凄い勢いでスイカはパックリと割れた。盛り上がったスイカ割りのスイカの味は格別で、普段はおやつも食べない歩さんが2個も食べてくれた。
  今、守夫さんの深い闇と傷をグルーホーム全体で抱えながら進んでいる状態で、スタッフ個々人もかなり異界度が高くなってしまっている第2グループホームだが、私がちょっと現実で頑張ってみんなを支えて行かなければならないと感じている。
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未来へ向けて ★理事長 宮澤健【2012年9月号】

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未来へ向けて【2012.09】
理事長 宮澤 健

 12年間、現場の最前線で挑戦し、自分としては、斬新で画期的な活動をしてきたつもりなのだが、周囲からは常に異端児扱いで敬遠されてきた。宮沢賢治が法華狂いと揶揄され、啄木が石持て追われた地域なのだから、いじめられるのは本物である証拠だと自分を慰めてきたのだが、寂しさはある。来年、認知症高齢者グループホーム協会の全国大会が岩手で予定されているというので、せっかくなら今後10年、20年先を見通すような内容のある大会にしたいと意気込んだが、それは通じず、シラっとした空気が満ちている。岩手にも中央にも見識を持ったリーダーは不在なのだ。末端の現場の息吹や課題を拾い上げる事のできない組織は無用で、多くの人を迷わすだけの弊害をもたらし協会の未来はない。組織は、時代や現場をリードできなければ形骸化し自然と信頼を失い人々から忘れられるだろう。個人にせよ、組織にせよ、感動が必要だ。それがないまま自己愛的な生き方ばかりで突き進めば、いつかその主体は滅びる。他者と交流したり,こころの中にある対極性の間で揺さぶられるようなことがなければ、いきいきとした生命のエネルギーは生まれてこない。生命のエネルギーが湧き上がるような話を同業者と話したかったが、それは望めないことのようだ。
 何年も前から、同業者とは違和感と嫌悪感がつのり、そうした空気に嫌気がさして敬遠するようになった。しかしこのままでいいのか、何とかならないかという思いは常にあるのだが、結論は、通じる人と繋がりながらやっていくしかない。そうでなければこちらも腐ってしまいそうな重く暗い空気にやられてしまう。わかる人は説明をしなくても解るし、わからない人はいくら説明しても本質的には通じない。
 里の取り組みを理解をしてくれる人は少数ながら当初からあった。全国に散らばっているが、これからは、そうした人たちを探して繋がりながら、ネットワークを組みたてていくことが必要ではないかと考えている。
 数年前、遠野物語出版100周年記念の行事が遠野であった。その時、大江健三郎氏が講演をされた。文体と推敲について語りながら、そろそろ日本人はダブルスタンダードを止めようという話だった。平地人の代表である柳田国男が平地人に遠野物語を読ませたいとして、「平地人をして戦慄せしめよ」と言っているのは見事なダブルスタンダードだ。そこで、大江氏は現代の遠野で地元の文体で新たな遠野物語を作ってもらいたいと期待をよせた。しかし現実に我々は何を語りうるのだろうと途方に暮れる。語り部が残っているのは救いだが、夜な夜な物語が伝えられた時間は、すでにテレビやゲームに置き換わり、我々に独自の文体が生き残っているのだろうかと心許ない。
 ある時、里の現場の膨大な聞き書きは、もしかしたら現代の遠野物語になりうるのではないかとふと感じた。日々繰り返される語り、日々起こってくるエピソードとリアルな物語。日誌は膨大なテクストを記録し積み上げられている。そのひとつひとつは物語として世代を超えて何ものか重要なたましいを伝えているという確信がある。まさに平地人にはおよびもつかない戦慄すべき世界の顕現がそこにある。
 「これは現代の遠野物語になりうるのではないか」という問いかけを、誰にすれば答えてくれるのだろうか。私はそれは赤坂憲男先生しかいないと思った。 赤坂先生とは、6年前、日本ユング心理学会の講演に前川さんが参加して感動して帰ってきたのが最初だった。それから何度か先生の講演に接してきた。2007年には河合隼雄先生の一周忌の講演会に里から6人が参加し、印象的なお話しを伺った。通信でも、赤坂先生の現代人の死の儀式の幼稚さを指摘した文章に刺激されて、施設長が20代前半で経験した富山の山奥の盆踊りを想起したことを書いている。直接先生とお話しをしたことはないが、この数年、講演や本で親しみ、身近に感じてきたのだった。
 長年、赤坂先生は山形芸術工科大学におられ、隣の県であり、東北学の創始者として、東北から離れることはあり得ないと思っていつか訪ねて行くつもりでいた。過去の通信を冊子にして、赤坂先生に読んでもらおうと準備を始め、今年の春に冊子は完成した。さてどうやって渡すか迷っているうちに、赤坂先生は山形を離れて学習院大学に移られた。福島県立博物館の館長や復興委員会の委員にもなられて、忙しそうな様子に躊躇していたところ、この6月に六車由実さんの『介護民俗学』に出会った。六車さんは東北文化研究センターに所属しておられた経歴があり、まさに東北学の本拠地、赤坂先生のお膝元にいた方ではなかったか。何かが通じているような気がしてきた。
 六車さんの『介護民俗学』の提唱は介護業界にとって革命的な出来事だ。民俗学や文化人類学などのフィールドワークでは、実際に現場で話を聞いて入り、そこで生活することが研究の姿勢として貫かれている。生半可な姿勢で話は聞かないという研究者の精神と知性は、介護現場で人間の重要な何かが発見されうるという新たな地平を開いた。これまでの伝統的な介護現場では、介護作業に終始し、高齢者や認知症の人の言葉を適当にごまかしてきた。六車さんは「聞き書き」という具体的な概念を提示され、その実践と成果が明示された。平易で解りやすい表現も現場向きでありがたい。さらに重要なのは、現場に「主観」を持ち込んだということだと思う。近代以降、科学の全盛の時代が進む中、あらゆるものが客観視される傾向にある。峻厳な客観性が科学の神髄としてある。そこでは高度な普遍性が求められるあまり、個人の感情や感覚は排除される。科学的思考は強力且つ有効で、決定的に人類の役に立ち続けてきたが、その悪弊が目立ちつつあるのだが反省はされないまま、我々の社会は突き進んでいる。
 事実として介護計画、ケアプラン、介護記録、第三者評価、情報公表、なにひとつとして、そこに生きている人間を見ようとはしていない。そこにも客観的な対象化と操作主義に縛られた我々の社会が透いて見える。全てが人間の命のありようとその関係を切り刻む姿勢に貫かれていると言っていい。それが現状なのだ。それらと関わる度に、里のスタッフは深い傷付きを感じるし、現実にスタッフと利用者の関係性をも傷つけている。それが制度上致し方ないアプローチであったとしても、それが内包する暴力性や、相手の傷に対して、かなりの次元で意識的でなければならないと思う。そこに意識的であることこそ、本来の科学性だとも思う。六車さんの実践と提唱は、そんな時代に主観と関係を持ちこんだのは革命的なことで、介護現場や業界を越えて、現代の社会にとって極めて重要なことだと思う。
 感動のあまり、通信を六車さんの出版社に送った。まもなく六車さんからメールが届いた。六車さんも例の「驚き」を駆使して通信とその内容に共感し、そして里の実践に関心を持っていただいたようだった。早速この20日に里にお迎えできることになり、2日間お話しをする機会を作っていただいたのでスタッフ一同とても楽しみにしている。
 六車さんとの出会いに湧いているさなか、遠野で「柳田国男国際フォーラム」が開かれることが解った。遠野の「遠野文化研究センター」の所長が赤坂先生だということも知った。これは、参加しないわけにはいかないと、改めて遠野物語を読み直したりしながら、職員研修ということで、スタッフ7人で参加した。初日のシンポジュームが我々にとって盛り上がりに欠けたのは、研究者達の科学的、分析的アプローチの姿勢に終始したところにあったと思う。会場からの質問も民俗学と文化人類学の違いといったラインでの質問が多かった。私は質問票に二つ書いた。ひとつは国際フォーラムだからか、柳田の民俗学を世界に認識されるにはどうすればいいかという話題が出たのに対して、『日本には「秘める」ということがある。世阿弥も「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」と言っている。大事なことは秘すことで、守り深めようとする文化があったのではないか。秘仏、ご開帳などと、秘す行為によって、重みや深みを演出している。秘伝の味、とか、門外不出などと内輪に止めて、守り深まることもあるのではないか。光を当ててしまってはたいしたことのないものも、隠すことで力を持つ事もあるのではないか。柳田の民俗学もそうした意味で秘すことで深めていく方途を探れないだろうか』というちょっ とふざけた提案をいれた質問だった。シンポジュームのなかで、赤坂先生の講演にあった、「たましいの行方」についてもっと詳しく語って欲しいという質問があった。先生は「私がこの質問に答える代わりに何人かの会場の言葉から」と言われて、私のこの質問を取り上げてくれた。同時に取り上げた質問は「境界の重なりにグレーゾーンができる。そこは言葉の説明ができない場所だ。説明が効かないグレーゾーンにアプローチしていくなかで、日本人の深い部分に迫り、バラバラになった個を繋いでいく何かが発見できるのではないか」という質問だった。これは同じ事を言っていると思うと述べ、言葉で表すことよりも秘められたことに価値や美を見いだそうとし、ある意味、外の世界とは背を向ける形になるが、普遍的な議論の枠組みからくみ取れるもので明らかにしていく学問ではなく、見えないものの深いところへの欲望といえるような日本人独特の文化感覚をどう思うかと英語圏の研究者に振った。 「たましいの行方」を模索できるかと思いきや、英語圏の研究者はおそらくその質問の意味自体が解らなかったのではなかろうか。「日本人が特別に深い所を欲するというのはマチガイだ。人間は生物学的に世界共通」という反応でこの話は終わってしまった。その研究者は遠野物語を英訳した人で、会場で「遠野物語は西洋の物語と比べると物語の形になっておらず、起承転結がなく結論がないまま終わってしまう」と述べているので、日本の文化の特徴をとらえながらも、その違いに関心は持てないのだろうかと残念だった。遠野物語は、ポエムなのか、レジェンドなのかそれとも・・と分類分けに終始したがるからつまらなくなる。明確に分類されたとたんに個々の人生とは関わりがなくなってしまう。赤坂先生はそれを「遠野物語はカオスなんだ」と言われたのはスカッとした。だからエネルギーが湧くし、引きつけると言うわけだ。カオス(混沌)といってしまえば乱れているようだが、それは原初的な統合でもある。ところでもう一つ質問は前川さんだろうと施設長に話していたらやはりそうだった。多くの質問の中から、里から上がった二つを選んで「たましい」の課題として提起してくれたのはさすがに赤坂先生だ。こうした通じる感覚が赤坂先生にはある。他の学者先生にはまったく通じないのも印象的だった。初めて先生に接した里のスタッフも「赤坂先生はいい」とすっかりファンになったようだ。
 シンポジュームが終わった会場で、失礼ながら赤坂先生に声をかけ通信を渡すことができた。東京に帰るのに、重い荷物を背負わせてしまったが、私としては長年の目的を果たせた。施設長は、来年、岩手で開催予定の全国グループホーム大会への参加をお願 いした。「呼んでください、行きますよ」という返事だった。ありがたいことだ。通信を渡したとき、先生から即座に「六車というのがいてね」と言われたので「はい繋がってます」と応じた。「そういうことやっている人もいるんだ」と言われたので「初めて同じ感覚のアプローチに出会ったと思います」と応えたが、これからこの出会いはどう育っていくんだろうとときめくものがある。
 余談だが、八月の終わりに佐渡に行った。以前から関心はあったが今回初めての訪問だった。わずか一泊の短い滞在だったがいろいろ感じた。佐渡と聞くと、冬の厳しい寒さと横殴りの雪を思い浮かべるのだが、今年の猛暑もあってか佐渡はまるで熱帯の島だった。海は深く青く、穏やかで、海産物にあふれ、島の中央には割と広い平野が開けて農地も広い。歴史上、豊かな暮らしが営まれてきたに違いない。新潟の港の職員は高齢者がほとんどだったが、丁寧で好感が持てた。ゴミ箱を探していると「お預かりしましょうか」と言われるので恐縮して断ったほどだ。
 島に着くと、佐渡おけさの看板やモニュメントが目立った。金山などの史跡をたずねて夕方ホテルで食事をしていると、佐渡おけさが始まり、相川音頭などが披露された。それを見て打たれるものがあった。踊り手は傘をかぶって姿勢もうつむき気味なので、表情どころか顔も見えない。元気よくはねたり、飛んだり声を出したりは一切しない、淡々と静かな踊りは、舞に近かった。源流は鹿児島と言うが、佐渡の祈りを感じた。歴史上、流刑の地であり、様々な運命や社会の葛藤に翻弄された人々を迎え入れてきた佐渡、全国から集められ、金山の坑道で厳しい労働に明け暮れ短命で亡くなった無数の人々。坑道の距離は400kmにも及ぶといい、鉱脈の山は削られて真っ二つに割れていた。岩盤をノミとゲンノウだけで人が手でやったとは思えない。江戸時代には北前船で多くの船乗りや商人が中継地として幾多の思いを抱きながら島に立ち寄っただろう。長い歴史を通じて、多種多様な人間とその過酷な運命を受けれてきた佐渡の心は、波間を漂うようになににも逆らわず、静かに哀愁漂うおけさや音頭で人々を癒し続けてきたのかも知れない。それは深く静かな祈りのように私には感じられた。翌日は有名な、佐渡国際トライアスロンの大会の日だった。おけさの踊り子達が去った舞台に現れた司会の女性が、「明日はトライアスロン頑張ってください」と語り、鉄人達の戦いさえも静かに受け入れている佐渡がそこにあった。「静かに祈りながら舞い続けること」過酷な運命を癒すおけさのような美的な所作が今求められていることのように感じた。
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2回目訪問も会えなかったけれど ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2012年9月号】

 ある日、リビングで何かを眺めている武雄さん(仮名)。覗いてみると、それは川戸さん(仮名)からの手紙だった。早番の田村さんに、「便箋頼んでなかったか?」と聞いたと言うことだった。前回の通信でも書いたように、若い頃からの親友の川戸さんの自宅を7月に訪ねたが、あいにく留守で会えなかった。その川戸さんから手紙が届いたのは一ヶ月ほど前だった。その際、すぐに返事を書いて出したのだが、武雄さんはそれを忘れたようで、しまってあった手紙を見て、返事を書かねばという思いになったようだった。実はすでに返事を書いて、私からの手紙もを添えて出したのだということを伝えると、「そうだったか…」と言いつつも、“手紙”と“川戸さん”が気になる様子の武雄さんだった。
 前回会えなかったのでそろそろリベンジのタイミングかなぁと感じ、日程を決めるためシフトを確認する。ちょうど川戸さんが指定した水曜日に私がフリー勤務になっている日がある!ここを逃すまいと調整をとった。
 あまり早く予定を言うと、武雄さんは気にして落ち着かなくなってしまうので、言うタイミングも見計らっていた。予定の前日、病院受診があり、暑い中通院した。武雄さんは病院を出ると「100円店あるのわがるか?」と、ポケットから財布を取り出しながら言う。心がモヤモヤすると体の不調を訴える武雄さんが、受診よりも買い物を楽しむ気持ちで外出できるのは嬉しい。武雄さんにとっては病院受診の内容は気になっていないようだ。100円ショップで羊かん2本と黒飴をひと袋買った。
 通院の往復の車内で、ずっと話し続ける武雄さん。今なら話せると思い「明日さ、もう一回川戸さんのところに行ってみない?私時間とれるからさ!」と切り出した。「んだか?」とあっさりな感じで返事が返ってきた。でもそこから川戸さんの話を楽しげに始めた。「出かけるのいつだった?この羊かん(土産に)持っていくか?」とも話す。「わー!お土産持ってく気持ちだ!」と嬉しくなる。いつもなら、買ったものはスタッフや利用者に配るか、ほとんど全部一人で食べちゃうのに。川戸さんのところに、という話をしたことで、思いがけず買い物も繋がった。さて、明日はどんな外出になるだろう?と楽しみになった。
 当日は朝から、「今日どこさか行くって言ってたな?」「誰と行くんだった?」と私を探す武雄さん。時間帯を考えて、夕方くらいに行く予定にしていたが、ずっと待っている武雄さんを見ているとなんだかこっちも落ち着かなくなり、少しだけ早めに出かけた。お土産にケーキを焼き、袋に入れて渡すと、いつの間にかその中に昨日買った羊かんが入っていた。しっかり“お土産”を忘れていない武雄さんを見て、「今日こそは会えるといいなぁ」と思った。
 川戸さんの住む、北上への道中、武雄さんは色んな話をしてくれる。「今日は会えるといいなぁ」と呟く私に「んだなぁ」と武雄さん。でもなんとなく、「もし今日も会えなかったらすごいなぁ・・・でも私の場合、なんだかそれも有り得そうだな」とも思っていた。
 頭に入れた川戸さん宅への地図を辿り、細い道を曲がる。目印の自転車はあるか!?と武雄さんよりも私の方が必死。訪問は水曜日か日曜日に、と言っていたのに自転車はなく・・・玄関には“柴田医院”と書かれた札がかけられていた。「病院!!・・・今日に限ってかぁ・・・」と肩を落とす私。「いねんだなぁ」と武雄さんは前回同様、まるで動じない感じ。「今日こそは会いたい、病院なら終わり次第帰るだろう」と予測して、 北上市内をドライブし、お茶をしたりしながら時間を潰すこと にした。北上はホームグラウンドなので武雄さんはあちこちナビをしてくれて色んな話もでる。適当なところで「そろそろいいんでねが?」と戻るのを促してくれる。
 一時間半程して戻ってみるが、まだ帰ってきてなかった。仕方なく車内で待つことにする。しばらく待っていると、近所の方が声をかけてくれた。「山さん待ってるの?病院なら帰ってくるかもしれないけど、出かけると遅いときは本当に遅いっけよ。あんた達、待ってるの見てちょっと可哀想になってね」と親切だった。もう少し・・・と粘ってみたが帰ってこない。
 武雄さんは車を降り、玄関の方に行って戻ってきた。そして「諦めたか?」と一言。「え!?武雄さん次第だよ〜」と笑って返したが、よく考えてみると武雄さんは落ち着いていて、待っているのは私のような気がしてきた。武雄さんは私次第という感じだ。「じゃあ18時まで待って来なかったら帰ろう。でもまた来よう!次は来る日を書いていこう!」と力む私に「んだな」と武雄さんはなんだか余裕。帰りの車内では「残念でしたなぁ」と笑っていた。武雄さんを川戸さんに会わせたいという思いで来ているのだが、彼らは独特の何かで繋がっていて、会えようが会えまいが同じ事のような感覚がある。会えない事に焦り、やきもきしているのは前回同様、私の方だ。繋がると言うことに関して、私は表面的、直接的で、彼らはもっと深いところでも繋がれているように感じる。会えようと会えまいとそんなに大差ないという感覚は私にはほど遠くて解らない。川戸さんに会うことはすでに私のテーマになったかのようだった。
 「ごめんね、付き合わせて」と思わず謝ってしまった。そんな私に「またあるんだ」と穏やかに笑う武雄さん。そのうち会える、また会える・・・武雄さんには心の中に“また会える”というその確信がある。私は会えなかったから残念とか、失敗だったとか、成果なしとか感じてしまうのだが、前回から感じたことだが、武雄さんは会えなくても、手紙や、おみやげや、待っている事などを通じて川戸さんと繋がっているように感じる。会えなくても繋がっているので、実際に会わなくてもいいのかもしれない。
 目に見えないものにしっかり支えられていると、もう少し心に余裕が持てるのだろうか。携帯やメールなどで常に繋がれて、便利な時代を生きている私には、目に見える約束がないと不安になり、余裕がなくなってしまう。大事な何かが抜け落ちてしまっているような気がするなぁとふと思ってしまった。  
 
 またもや会えなかったけど、ユニットの中にいるとどうしても武雄さんとゆっくり話をしたり、やりとりをする時間が取れず、寂しい感じになってしまうのがずっと気になっていた。そのことを考えると、受診を含め、こうして一緒に外出することはすごく大事な時間なんだと思う。しっかり診てもらったかどうか、とか、会いたい人に会えたかどうか、とか、目的が果たされたかどうかが重要なのではなくて、“一緒に出かけること”に、そこでなされる何気ないやりとりが、実はとても大事なことなのだと感じる。そういった時間を大切にしながら、これから武雄さんと出かける機会を丁寧に味わっていけたらと思う。
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イメージ豊かな物語に包まれて ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2012年9月号】

 オリオンのリビングの窓に広がる田んぼの風景。そこにご近所さんの家もある。その家の屋根に人がいて、「いっつもこっちを見てる」と言う紀子さん(仮名)。スタッフは訝って、「え〜?あの白いやつのこと?あれ、アンテナだよ」とか、「あの、ベランダの所?あれは布団だよぉ、お布団、干してるの」などと最初は現実で返していたのだが、「人だ、ふたり立ってらんじぇ!」と紀子さんは譲らない。…うーん、その人たちは屋根の上でいったい何やってるんだろう?「見張ってらんでねっか?ここらで火事があったから」とか「話し語りしてら」「ほっかむりしてら」などと、ずいぶん具体的な話になる。そのうちみんなその気になって「どう?今日もいる?」と尋ねたりする。「今日はいねぇなぁ…」と探すこともあれば、「雨でも降ったか?コウモリ傘さしてら。おなご三人よ、みんな女だ」と人数が増えたり、しまいには、「ひとりは白い着物着て、自転車、乗り回してる。ウ〜ラウ〜ラ、ウ〜ラウ〜ラ♪ってな。ふたりは色っぺ悪ぃ服着て、歩いてこっちさ来る。今、屋根おりたばりだ」と、だんだんこちらに近づいて来ている?!あまりに鮮明な描写で「オメには見えねぇのっか?」なんて言うもんだから、「ぜひ見てみたい!」とスタッフの関心も高まっていく。
 紀子さんは認知症ではない。認知症の方が持つイメージ世界の物語とはまたひと味違って、普段は現実のやりとりがしっかりした紀子さんが言うので、不思議な感じがして興味が湧いてくる。“屋根の上の人々がこちらを見ている、守っている”というストーリーは、この春くらいから始まって、毎日のように語られている。紀子さんにとってどんな意味があるのか、どういう展開を見せるのかとその話に注目してきた。
 
 そして6月に入り、唐突な感じで「オレよぉ、月のやつ、来ねぇ…」と言ってきた紀子さん。“妊娠”したとのことで、「近々、行かねばねぇ、下ろしさな」と病院に連れて行ってくれと頼まれ、戸惑うスタッフの宮川くん。これまでも時々「夢だったか?」と本人も不思議そうに言いながら独特な世界がさまざまに現れてくることのある紀子さんだが、どうやらこの“妊娠の話”は、夢でも若い頃の体験がふと蘇った訳でもないよう。なぜかその話は男性の宮川くんにしか話さず、時間が経ってもストーリーは一環している。昼寝から起きて来ておやつの時、「な、頼むじゃ、花巻の病院さよ」と宮川くんに再度のお願い。うーん…と返答に困り、宮川くんは「産んだら、わぁねの?」と言ってみた。「わがねぇに決まってらじゃ〜!歳なんだじゃ、ここでは育てられねぇし、だから頼むじゃ」
 ユニットスタッフの平野さんやナースの明美さんにも相談。「どうしたの?どこか調子でも悪いの?」と、あえて“妊娠”には触れずに声をかけるが、やっぱり女性にはハッキリとは話さない紀子さん、はにかみ笑いを見せて曖昧にするだけ…。「水曜の回診で先生に相談してみようよ」と提案するが、「あの先生じゃわがね」ときた。そこで明美さんが、内科も外科も婦人科も整形も…と「なっても看てくれる先生だから」と促すと、「…んだか」と一旦は納得したようだった。
 突如として出てきた“妊娠の話”。しかも“育てる”のではなく「ここでは育てられねぇ」から“下ろす”と言ってること/タイムスリップしてる訳でもない“93歳の妊娠”であること/なぜ男性にしか話さないのか/この後どう展開していくのか・・・。不可思議な点がいくつもあったが、いずれ、とてもデリケートな内容だから「丁寧にみていこうね」とユニットで話し合う。
 翌日は“妊娠の話”は出ず、回診の日にも「何か先生に相談したいこと、あったんじゃなかったっけ?」と切り出した明美さんだったが、いつも通りヒザや腰の痛みを訴えるだけの紀子 さんで拍子抜けだった。数日しても宮川くんにも紀子さんからはいっさい話が出てこなかったので、平野さんが思い切って聞いてみたりする。それでも、「子供?」と本人はピンと来てない 様子だった。“妊娠の話”はすっかり消えてしまったのだろうか。あぁ…、充分に暖められなかったかなぁ。オメたちの今の力じゃまだ育てられねぇべ?ってことかなぁ…と、少し残念な気持ちもしていた。

 “妊娠の話”が消えてしまってから一週間後のある日、“屋根の上の人々”が“人”ではなくなる。「33番の観音様が並んでら。1番の観音様、きれいだな」と言うので、驚きながら「私には見えない…どうすれば見えるの?」と問う片桐さん。
 「なぁに、登れば見えるんだ。札に書いでらからよ」
 「ふだ?」
 「どこそれの観音様は何番の観音様だかってことがわかるようになってらのよ。33番まで書かさってら帳面、売ってらからよ、オレも持ってらったし」
 どうやら家の屋根にかけて一階から二階まで観音様がズラリと並んでいるらしく、“1番の観音様”は一番右側に居るらしい。「1番の観音様よぉ、山の上から下まで飛んで来たんだ。だからオレ、1番の観音様、拝みさ行ってる」と続くが、「上から飛んで降りて来たんだじゃ!」と、「すげぇべ!」と言わんばかりの表情の紀子さん。
 「んだから、下に清水様って立派な寺建ててよ、拝みさ行くのよ」
 清水寺は紀子さんの自宅の近くに実際にあるお寺さん。そこへ熱心に拝みに行っていた話がとつとつと語られる。若い頃から信心深い人だったことが伺われるが、それにしても、そんなにハッキリと観音様が見えちゃうもんなんだろうか?観音様が並んでておったまげたとか、見えて感激しているとか、そんな感じは全くなく、当然のことのようにサクッと言ってのける姿が印象的。

 そして、そのさらに一週間後。紀子さんが久しぶりに事務所にやってきた。「家さ電話かけてけで」とのこと。家には孫の孝男さん(仮名)がいる。おやつやパーマ代などのお小遣いが欲しくなったタイミングでお金のお願いをするため、今までもときどき電話をかけていた紀子さん。今日は何の用件かと聞いてみる。すると、思いがけない返事が返ってくる。「このめぇ、だなどの、会いさ来たったからよぉ、家さ居るかと思ってよ」…一瞬、ん?と思うが、すぐに、わぁ!という感激に変わる。紀子さん、すごい、会えるんだ!だって、紀子さんの旦那さんという人は実際にはもう亡くなっている。その事実を忘れてしまっているとか、夢を見たとか、そういうんじゃない感じで、紀子さんも平然として言うので、こちらもあえて平然と尋ねる。
 「そっか、会いに来てくれたんだぁ!いつ?」
 「2〜3日前よぉ」
 「そう、久しぶりだったでしょ?元気そうだった?」
 「ん…、まずな」
 「何かお話ししたの?」
 「なぁに、別に何も話はさねかったが」
 付き添ってきていた片桐さんは、私と紀子さんとのやりとりを、(え?亡くなった人じゃないの?え?)という表情で後ろから見ている。(うん、そうだよ、そうだけど、紀子さん、ホントに会えたんだねぇ!)と目で伝える。(ほえ〜!)と驚き顔の片桐さん。「もしかしたら、だなどの、孝男の所に行ってるかもしれねぇから、電話して確かめてぇのす」との要求に応えて電話してみる。孫さんの所には居ないそうだと伝えると、「んなんだな」とあっさりした感じの紀子さん、「秋田さ居るんだ、生まれた家によ」そう納得すると、“だなどのが会いに来た話”はこれで終わりとなった。
 この一連のストーリー展開、紀子さんときたら、なんて豊かに満たされているんだろう!子供を授かり、観音様に祝福され、旦那さんまで会いに来てくれて…!こんなふうに恵まれた物語を生きていけるんだぁ…と関心させられる。というのも、3年前、銀河の里へやってきたばかりの頃を振り返ると「紀子さんの世界もずいぶんと大らかに広がったなぁ」と感じさせられるのだ。
 里に来る前はケアハウスにいて、身の回りのことは自力でやっていたが、だんだんと身体的にも衰えてきて、生活のあれこれが心配になってきた頃、ちょうど銀河の里の特養が開設となり、縁あって入居となった。「何一つ自分ではできなくなった、何をするにも人の手を借りなければならない」と落ち込み、開設当初のドタバタで職員の入れ替えが目まぐるしいなか「誰に何を頼んでいいものやら、いっこう訳がわからない…」と不安も不満も大きかった。「いっこ、できなくなった」を繰り返し、「申し訳ねぇなぁ」と遠慮の塊だった。こちらも「心配なことは何でも言ってね」と折ある毎に声をかけ、なんとか安心してもらえるようにとアプローチしてきたのだった。3年経った今ではスタッフとも気心が通じ、すっかりリラックスしている様子がうかがえる。うまの合ったスタッフ、勝巳くんを頼りにし、「あいつ、ががぁ、もらったか?」と気にかけてくれ、彼がグループホームに異動になってからも、折を見て一緒にお出かけするほど慕っている。新しくオリオンのリーダーとなった万里栄さんには、「オメ、本当に結婚してねってか?」とさっそく世話を焼いている。紀子さんが大好きでたまらないという片桐さんに至っては、孫さんの名前で「おい、孝男!」と呼ばれることもあったり(女性なんだけど…)。ユニット内の利用者同士の関係性も大きく動いていて、紀子さんも苛立ちや怒りなどの感情を紀子さんらしく豊かに出してくれることが増えている(通信H24.3月号の施設長の文章を参照)。入所当初、あんなにオドオドと遠慮して、不安に身を小さくしていた紀子さんとは大違いの姿! 毎日一緒に過ごす周囲の人との関係が広がったのを感じて、こちらも嬉しくなる。
 8月の誕生日にはドライブに出かけ、久々の清水寺参りをしてきた紀子さんだが、自分がお参りしたいというよりも、初めて行く片桐さんに見せてやりたいという気持ちの方が強い様子だっ た。ピカピカの観音様に感激する片桐さんをしっかり見守ってくれていたという。そして、「山のてっぺんから観音様、降りてきたんだ」という“八方山”にも寄ってきた二人。数日前から、その山道を登る気満々だった紀子さんは、「わらじ、あったったか?」とか、「オメ、わらじ、こしぇれるってか?ワラあるっか?」と、これもやっぱり、自分が履くためというよりは片桐さんのために用意したい、無いなら作ってやる、作ったことねんば教えてやる・・・という気持ちがすごく動いていた。“継ぐ者”を得た紀子さんの物語が始まったように感じる。これからも、紀子さんの語りの世界に楽しませてもらいながら、関係のプロセスを歩んでいきたい。
   
 【 解 説 】
 人生の最後にぶち当たる“わたしの宿題”ってのがあるのかもしれない。銀河の里でこれまで出会った利用者さんひとり一人が、それぞれに繰り広げてきた“物語”は、どれも凄まじいリアルな存在を感じさせてくれた。年齢を重ねるに従って、途方もない喪失感や失望感を味わった末に、病や障がいを得て里に来た方々。抗いもがき、戸惑ったり、諦めの境地に入る姿もある。それに対して私はただ必死にそばにいるだけ。紀子さんも、身体の衰えの不安を感じ、他人に頼ることに引け目を感じ、身を小さくして暮らしていた。単純に励ますことはできなかった。というより、「できなくなる」ことくらい、大した問題じゃない…と思う私がいたのかもしれない。「どんなあなたであっても、あなたと居る」という想いが私の根底にいつもある。そうやって覚悟を決めて一緒に居ると、わけの解らない不思議なことがたくさん起こってきて、おのずと関係性が動いてくる。“わたしの語り”が展開され、言葉を超えて“体感”的な出来事も展開される。頭で理解しようとすると見えてこないことばかりだが、“あなたとわたし”の間に起こったその出来事は、“物語”となって、深く心に響いて、“わたしたち”を繋ぐ、大きな支えとなっていく。“物語の最終章”を描く人と“次に継いでいく者”とが出会う場に生まれてくる豊かな物語。我々は傷によって初めて互いを理解し合い、その物語の力に支えられ、生きていけるのだと思う。
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花火 ★グループホーム第1 鈴木美貴子【2012年9月号】

・空高く 上がる花火に 万歳で 今年も見たぞ 空に咲く花
  ・夏の夜に 輝くひかり 一瞬の 思いでばかり 心にとめて

 今年も矢沢農協の駐車場をお借りして銀河の里の花巻花火見物に出かけた。グループホーム第1第2と特養が合同で出かけるので、大人数になる。今年はグループホーム全員でという感じではなく、スタッフが誰と行きたいか、この人は花火見たいよな等を考えて行く人を決めた。私は、97歳の真知子さん(仮名)と行きたいなと思った。真知子さんは今年3月に入院して生死をさまよい親族を病院に集めたものの、その後奇跡的な復活を見せ、退院直後の田植えで活躍し完全復活をとげた。その真知子さんが、今年の花火でどんな表情を見せてくれるか、是非一緒に見に行きたいと思った。
 当日は早めに夕食を食べ、出かける準備をした。そろそろ車に乗り込もうとすると、真知子さんの姿がリビングになかった。もしかして部屋で寝る準備してるかも。あわてて部屋へいくと、すでに寝間着に着替えて布団に入るところだった。私は隣に座り、「真知子さん、今日花巻の花火だよ。今から見に行くよ。行こう!」と誘うと「寝る気でいたし、こったな格好になったもの」ともう寝る気が勝っている。「いや、大丈夫大丈夫、これ羽おればいいから」とやや強引にブラウスを着てもらう。すると嫌がることなく着てくれて「行きましょうか」と言ってくれた。やった ーと部屋からまっすぐ車に向かう。この車には94歳のミサさん(仮名)も乗る予定だった。昼寝をしなかったこともあってか、夕食頃からピリピリした感じが出ていて少し迷ったが、花火初の新 人スタッフ木間さんがミサさんと行きたかったこともあり、会場に行ってしまえば花火を楽しめるだろうととりあえず行くことになった。助手席に乗ったミサさんは「暗くなります」「どこに行くんですか」と不安な感じ。「今から花火見るよ」と言うとうなづいてはくれるが「まだですか」と待ちどうしい感じだった。花火大会が始まる30分前に会場に着いて待った。待ち時間が長く「花火見れるよ」とミサさんに言うと「見だぐありません!」と少々怒り気味になる。そのうちバスも到着して、人数がそろい雰囲気が高まった。私はミサさんと真知子さんの間に座った。
 花火が上がり始めると、ミサさんは「きれいだね」と拍手。真知子さんも「ほー」と驚いてにっこり。各部署で持ち寄った手作りのおやつを食べながら花火見物。車から降りるときには「見だぐありません!」と言っていたミサさんも、調子がいい時の「バンザーイ!!」が何回も出る。カメラを向けると「バンザイ!」をまたまたやってくれる。次の花火が上がるのを待つ時間ミサさんが手拍子をしていたので私も隣で手拍子すると私の隣に居た真知子さんも手拍子していた。一緒の感じが嬉しかった。そろそろ花火が終わるころ、真知子さんが帰りのことを気にし始めた。「大丈夫、私と同じ車で行くから」と言うと「はぁー、んで、いいね」とニッコリ。一緒に帰る人がいることで安心してくれて最後の花火も「ほー!!」と言いながら良い表情で見ていた。
 今年の花巻花火は90代の二人に挟まれながら思いっきり楽しませてもらった。
 これからも誰と何をしたいかという気持ちを大事していきたい!!そしてそこで起こって来ることをこころに残したい。

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祖父とじいちゃん ★特別養護老人ホーム 高橋菜摘【2012年9月号】

 特養ユニットほくとの利用者Tさんに私は「じいちゃん」と呼びかけることがある。すると「なんだぁ?」とデレデレの時もあるが、「うるせぇ!」と怒鳴ることもある。私も甘えたり怒り返したりしながら付き合ってもらっている。Tさんと接しながら、私はいつも亡くなった祖父を思う。祖父を「じいちゃん」と呼んだことは無いし、怒られたことも、甘えた覚えもない。私と祖父は遠慮のある遠い関係だった。
 私が小学校4年生の時自宅を新築し、祖父母と同居生活が始まったが、二人とも元気で日中は働いていたので、時間を共にするのは、食事と夜だけだった。どこか距離があって会話は挨拶程度で、しかも敬語でしか話せず、母も水くさいと感じたのか「なんで?」と言うのだがそれは変わらなかった。
 私の家は兼業農家で、農繁期には家族全員で田んぼの作業を手伝った。父は単身赴任で週末しか居ないため、米作りの中心はずっと祖父だった。鋭く指示を出し、細い身体で、稲を干すホニオの棒をズドンと田んぼに突き刺す姿は、カッコ良かった。でもそれを祖父に言葉にして伝えることはできなかった。
 母は、祖父母を「遠慮しすぎで困る」「もっとわがまま言ってくれたほうがいい」とため息をついた。私も「オラたちはいいよ」とか「何でもいいよ」と引いている姿が切なくてイヤだった。あるとき祖父母の通院のため病院に送って「終わったら電話して」とスーパーで買い物をしていた。30分くらいで父が「そろそろ病院行ってみよう」と言った。「電話ないから、まだじゃない?」と私は言ったが、病院に行くと玄関で祖父母が待っていた。買い物の邪魔にならないよう気を遣って電話をせずにいたのだ。祖父母は遠慮ばかりしていて、私たちもそれに合わせて気を遣った。
 私が大学に入った頃、祖父は力仕事が出来なくなり、田んぼに木を突き刺すのは父の仕事になったが、もう抜けないのではないかというようなあの「ズドン!!」の音は父には出せず、ホニオは不安定で頼りなかった。
 ある日の夕食、いつも一番早く食べ終る祖父がキッチンに食器を下げに私の後ろを通った。私がイスを少しだけ引くと「ありがとうございます・・」と小さな声が聞こえた。その瞬間、走って逃げ出したいような、頭を床につけて謝りたいような気持ちにさせられた。祖父には親しい人付き合いはなく、兄弟とも年が離れ親しい交流はない。親戚が集る席では、いつも角に静かに座っていた。趣味もなく、唯一の贅沢は『現代農業』を購読していることだった。祖父の大好物が餅だったということを、亡くなる数ヶ月前に知り、孫は私たち兄妹二人だけなのに、なんてひどい孫だろうと悔やんだ。
 一時期祖父が歩けなくなったことがあった。田んぼに出られなくなり、一日中リビングのソファに座っていた。何も喋らず、ただじっと座っている祖父にやるせなさを感じた。その夜、祖母の声がするので部屋に行くと「立てないんだから、オムツにオシッコしろって言ってるのに、トイレに行くってきかない」と祖母は怒っていた。見たことのない「祖父のわがまま」だった。私は「おじいちゃんがしたいようにしよう」と祖母と二人でトイレを手伝った。そのとき祖母が「ごめんね、ありがとう」と言った。祖父はたぶん、何も言わなかったと思う。翌日父からも「ありがとう」と言われた。その後、祖父はまた歩けるようになったのだが、私が大学3年生の冬に倒れ、救急車の中で息は吹き返したものの、病院で亡くなった。
 「最後まで、迷惑をかけない人だったね」とみんなが言った。祖母はそれが嬉しいようだった。祖母の日記を見せてもらったことがあるが、「皆に迷惑かけないように早く逝ってほしい」という内容が綴られ、亡くなった日には、ホッとした感じが書かれていた。そして自分も迷惑をかけずに早く逝きたいということも・・。
 祖父は自分の葬式代を蓄えていた。葬儀が終わると通帳には小銭が残った。亡くなるその年まで田んぼに立ち、父や家族に教えながら働いた。葬式で父は「僕が子どもの頃、冬は仕事がなく父は出稼ぎに行っていました。吹雪で、道らしい道も無い中を歩いていく父の後ろ姿を覚えています」と語った。私の知らない話だった。家族のために、ひたすら無口で頑張ってきたのだ。贅沢どころか必要なものすら我慢して。祖父母からもらったお年玉や誕生日プレゼントを、私は何に使ったのだろう。なんでもっと話さなかったのだろう、なんでもっと祖父を知ろうとしなかったのか・・祖父への後悔は山のようにある。
 去年社会人になって、特養ホーム「ほくと」の利用者Tさんと出会った。その頃のTさんは、「まんま持ってこ!」「便所どこだ!」を繰り返し、一食に七杯もご飯を食べ、毎日のようにお腹を下していた。そして「うるせぇ!」「ばか言うな!」「さみーぃ(寒い)!」と怒り散らしていた。なんでも怒っていた。祖父が亡くなって一年ほどだったが、私はその違いに「こんな高齢者が存在するのか!」と衝撃を受けた。私の『おじいちゃん』は、おかわりはしなかったし、私が大皿からおかずを取ろうとすると、皿ごと私にくれた。Tさんは祖父とは真逆で、私にとって新鮮だった。
 Tさんは、他事業所のショートステイやデイサービスでも、怒ってばかりいるためか、「騒ぐ」とか「暴れる」というので昼までもたず、返されてしまったし、利用を断られてきた。でも付き合うとかわいいところもあって、Tさんの中で私が「孫」や「娘」のイメージで入ると「かわいいねぇ」「いい子だねぇ」とデレデレして撫でてくれた。昔、私は友人が「おばあちゃんとケンカした」とか、「じいちゃんがうるさい」などと言う話を聞いて、羨ましかったことを思い出した。Tさんは、私が持っていた願望を満たしてくれたのかも知れない。それから一年やりとりして付き合っているうちに、Tさんはすっかり怒らなくなり、おかわりも減り、さらにかわいいおじいちゃんになっていった。怒ることで自分を守る必要が無くなってきたのかなと思うし、何を守っていたんだろうとも考える。
 私はTさんを「じいちゃん」と呼びたくなって、ある日ふいに口に出た。私はそれから、その場のお互いの気持ちで、「じいちゃん」と呼んだりするようになった。そのうち、いつの間にか他のスタッフも「じいじ」とか「じっちゃん」とか呼ぶようになった。「じいちゃん」と呼ぶようになって、よくケンカをするようになった。それは楽しかったり、逆にとても苦しくなってそばに寄れなくなることもある。私は『じいちゃん』と接する中で、『おじいちゃん』を思い出し、重ね合わせて喜んだり、切なく感じて泣きそうになったりする。
 じいちゃん』ことTさんは、ただ自由にわがままに生きているわけではない。じいちゃんの抱える切なさも日々伝わってくる。じいちゃんは何をしたいんだろう。そして、私のおじいちゃんは遠慮して我慢して満足だったのだろうか。この話を先輩スタッフの真白さんにしたら「おじいさんは、あの夜のトイレのことがあっただけで、救われたと思うよ」と言ってくれた。おじいちゃんが、頑なにトイレに行きたいと言い張ったとき、私がおばあちゃんに同調せずに、トイレに連れて行けたのは、「本人の気持ちを尊重する」という授業で学んだ「知識」が後押ししてくれた事は確かだった。でも、今そのことを考えると、遠慮してばかりだったおじいさんの唯一とも云える「我が儘」をかなえてあげたのかもしれない。とするなら私にとって、唯一の「おじいさん孝行」だったと思う。そのことを真白さんが認めてくれたようで、とても嬉しかった。
 私は、Tさんと居て祖父のことを考え始めると辛くなる。それは、私が祖父と向き合うことであり、自分と対決することでもある。でも、厳しいが逃げたくはない。ユニットの現場で、真白さんをはじめ、ほくとのスタッフに見守ってもらいながら、焦らずじっくりと対峙し自分を育てていきたいと
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誇れる仕事 ★理事長 宮澤健【2012年9月号】

 最近悩んだ末についにハッセルブラッドを手に入れた。噂には知っている程度の世界に名だたる中判カメラで、先日亡くなったアポロ11号のアームストロング船長達が月に持っていき月面の写真を撮ったのがハッセルブラッドだという話を当時中学生の時に聞いた。そのカメラで撮った月面の写真集「フルムーン」は、里の特養の交流ホールにも一冊置いてある。人類にとってやはり大きな出来事であり、フルムーンもそれを記念する意義深い写真集であるにちがいない。私にとって子どもの頃からのあこがれと言うより、手の届くことのない、遠い世界の夢のカメラだったのだが、時代はすっかり移り変わった。12枚撮りのブローニーフィルムで、ややこしくて、面倒なカメラで丁寧に写真を撮るような時代ではなくなった。携帯やスマホで撮られる画像が今やほとんどだろう。
 悩んだというのは、お金もかかり、手間暇かかるからなのだが、だいいちブローニーフィルム自体売っている店がない。以前はいろんな種類のフィルムが売られていたのだが、昨年から生産中止が相継いで、フィルムは消えてなくなってしまいそうな状況にある。手元に届いたハッセルブラッドに、30年くらい前の重厚な交換レンズをつけて、磨いたり、シャッターを切ったりして、しばらくは浸っていたのだが、やはり実際に撮影してみたくなった。自宅の冷蔵庫にブローニーフィルムが数本保管しておいたのを思い出して取り出してきた。それを見て驚いた、品質保証期間の日付が2003年3月になっていた。買ったのはおそらく2001年あたりだろう。今はなきコニカの35mmフィルムも一緒に入っていた。以前、マミヤの645判の中判カメラを持っていたので、フィルムを買い込んでいたのだが、ほとんどそれは使わないまま、デジタルでは撮らないという若い写真家にあげたのだった。
 取り置いていたフィルムが、使わないまま、あっという間に12年も過ぎ去ったのかと思うと、渦中では夢中なのでさほど意識していないのだが、フィルムの日付を見て、この間の凄まじくせわしい怒濤の日々だったことを改めて実感してしまった。ちょっとゆっくりやろうぜという感じなのか、何でもデジタルで手っ取り早くなってしまうのに抵抗しようとしているのか、往時の重厚な精密器機が見捨てられてしまうような値段で売られているのをいいことに、アナログ器機にはまりがちになっていて、今、ハッセルブラッドを磨いていると言うわけだ。
 この数年で、レコードプレーヤ、オープンテープデッキ、フィルムカメラと30年以上前の器機に魅せられている。くだらないことなのだが、それらの古い器機は、ちゃんと作られていると感じる。ちゃんとというのは、作り手の意図が器機ににじみ出ていて、個性が強く、味があって、それらがキチンとこちらに伝わってくるということだ。言い方を変えれば思想があると言えようか。乗り物を含めて今はそうした物作りができなくなっているように感じる。古いこれらの器機の特徴はどれも、使うのにかなり手間暇かかって、面倒だということだ。メンテナンスも日常的に必要とされる。そのぶん、知識と道具があれば、かなりの部分まで分解したりして修理が可能だ。生産から30年以上経って機械としてちゃんと使えるし、それなりに堂々と鎮座して雰囲気を出 しているのだからそれはすごい事なのではないかと思ってしまう。今生産されるデジタル器機のなかで、30年後にいい雰囲気を漂わせながら、実際の使用に耐えうるものがあるだろうか。

 今は音楽の音源媒体はネット配信始め多くの種類があるが、30年前は、家庭のオーディオの音源と言えば、一般にはレコードとチューナーしかなかった。今は両方とも過去のもので、特殊な形でしか生産されていない。そのチューナだが、簡単に言えばラジオの電波受信機なのだが、音楽を聴くために音が良く設計されたものだ。戦前から、通信機の専門メーカーだったトリオ(現ケンウッド)はこのチューナに関しては技術が飛び抜けており、値段も音も良かった。80年代になってデジタルチューナーになっていくのだが、それまでは、バリコン(バリアブルコンデンサー)でチューニングをする仕掛けだったのだが、その鮮明な音は人気があったらしい。それこそ伝説となった機種もあって、そのひとつトリオKT9900というチューナを九州の古物商から手に入れた。デジタルではないので、ダイヤルを回すと、糸で繋がったバリコンに連動し、周波数に合わせる。これがデジタルとはひと味違った生々しい音を伝えてくるので気に入っていた。ところがある日スイッチを入れると、音がする前に焦げ臭い臭いがして煙が出てきた。慌ててスイッチを切ったが焦げた臭いは抜けない。これを修理に出そうと「ケンウッド」に連絡をした。30年以上前の、しかも前身の会社である「トリオ」が作った製品だ。断られるものと思っていた。ところが、品川の白山サービスセンターで、どうなるかわからないがまず見てみるから送ってくれというのだ。それからしばらくすると、担当サービスから電話があって、新潟のサービスセンターで修理をしてみると言う。さらにしばらくすると、新潟の技術者から直接電話があって、今目の前で分解して開いているが、部品がすでにないので、完璧には直せない。ただ音は出るようにはできる。将来的な補償はできないがそれでいいかと聞いてきた。もちろんそれで充分なのでお願いした。数日後、修理後、数時間使ってみたが何とかいいようなので送ると状況を説明してくれた。そして、製品が故障したことに対して迷惑をかけて申し訳ないと謝り、今回の修理費は無料でいいと言うのだ。これには驚いた。いくら自社の製品とはいえ30年前のものだ。直接メーカ補償付きで買ったのではなく、古物商から手に入れた骨董品だ。それを謝罪する必要も本来はないだろうし、修理費を取らないというのはおかしいと言ったのだが、補償をつけて直せたわけではないのでというのでその通り送ってもらった。ケンウッドが音響メーカーとして今、景気がいいわけではないと思う。他のメーカーと同様、危機的な所を踏ん張っているに違いない。そのなかで、技術者は、自社の製品にここまで誇りと責任を持っているということに感動させられた。おそらくデジタル製品ではこういう事は起こりえないだろうと思う。
 手作りに近い、誇れる技術がそこにあるから、30年経った製品に、今の技術者も誇りを持って臨めるのではないだろうか。できあがった時だけきらびやかで、年の経過と共に輝きを失い廃れるものは空しい。日本人のわびさびも廃れるほどに美しくなる何ものかに価値を見いだそうとしたことで出てきた感覚だったのではないだろうか。我々も30年後の後輩達が自分の事として語り、自信を持って誇れるような仕事をしたいものだ。
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繋ぐ ★デイサービス 千枝悠久【2012年9月号】

 先日、柳田国男国際フォーラムがゆかりの地遠野で開催され、私は里の研修として2日目に参加した。「遠野物語」が話の中心だったが、私は物語の持つ「繋ぐ」力を感じた。
 遠野物語の中に、気が狂った息子が、母親を殺す話がある。この話の最後、母親は、自分は息子を恨まずに死んでいくから息子のことは許してくれ、と周りに言い残して死ぬのだが、以前この話を読んだとき、私はなぜだか笑えてきた。笑う要素などかけらもない話なのだが、なぜか笑ってしまった。
 自分でもなぜ笑ったのか不可解であったのだが、今回のフォーラムで、この話の解釈の一つが紹介されて納得できた。最後の母親の言葉は、死んでなお母の愛で息子を縛ろうとするためのもので、だから息子は狂うしかなかった、というものだ。物語の解釈というのは読み手の自由であり、一つに決まっているわけではない。だから物語は、様々な解釈をゆるし、様々な物事を繋ぐことができる。物語の持つ懐の広さに触れ、そこに癒しを感じ、自然と笑いが私の中に生まれたのだと、そう納得することができたのだ。
 里の利用者さん達にも同じような「繋ぐ」力がある。デイの利用者、政雄さん(仮名)は、「ここら一帯は奥中山まで、俺が全部開拓したのだ。」と、1日に何度も話す。私は、初め、何度も話されるこの話に対して、自由な解釈ができず、辟易することがあった。それでもこの話を何度も何度もし続ける政雄さん。そのうちに、私に、この話の持つ「繋ぐ」力が感じられるようになってくる。政雄さんのように開拓をしてくれた人達がいたからこそ、今の私達の暮らしがあり、そういった開拓者達と私とは繋がっているのだと感じると、開拓者達、そして政雄さんに感謝することができるようになった。
 道子さん(仮名)の持つ「繋ぐ」力は、笑顔だ。道子さんは、「アンタのこと嫌い。」と言ったり、なにか頼まれれば「オラやんたよ。」と言ったりと、その言葉自体は、冷たいことが多い。けれども、それらの言葉は、暖かな笑顔とともにあって、そのことによって言葉の自由な解釈をゆるしてくれる。どんな言葉も、笑顔に「繋ぐ」のだ。道子さんの笑顔の前では、それぞれの言葉の持つ意味など本当に小さなものでしかなく、恐れることなく繋がる ことができる。だからか、道子さんの側には、スタッフ・利用者の別なく、自然と誰かしら引き寄せられている。そうして、自然と笑顔を引き出されている。最近、里のデイで流行っているオセロにも、「繋ぐ」力がある。里オセロには、一つ、他にはない決まりがある。それは、「タダ置き」というものである。オセロでは、裏返せるところに置かなければならず、自分の番に裏返せるところが無い場合、パスをして、必ず相手を裏返すか自分が裏返されるかということが起こる筈である。ところが、「タダ置き」は、裏返せるところが無い場合には、自分の好きなところに、ただ、コマを置くのである。この決まりが、いつのまにか始まり、皆のなかでの共通の決まりになっていた。
 「タダ置き」があることによって、面白いことが起こってくる。本来であればパスしなければならず、それによって大差になってしまう筈の勝負も僅差になる。タダ置きが上手く働くと、負ける筈だった勝負でも大逆転が起こる。こうなるともう、白黒はっきりしない勝負になってくる。
 決められたルールがあって、それに従わなければならず、勝ち負けをつけるために必ず自分のコマが裏返されたり、相手のコマを裏返したりしなければならないのがオセロだ。それはまさに、私自身が生きる上で縛られてしまっていたことのようだった。
 「タダ置き」は、相手のことも自分のことも裏返すことなく、自由に自分がそこに在ることができるのだということをイメージさせる。勝ち負けなど簡単に越えられるのだということに、私を繋いでくれたように感じて私は随分救われた気持ちになる。
 柳田国男は晩年、来訪者に対して何度も出身地を確認する質問を繰り返したという。それは、若いころから初めて会った相手に出身地を尋ね、その地名に関連する知識を披露するということをしてきたからだという。出身地を確認する質問が、柳田国男の「繋ぐ」力だったのだろうと思う。そして、遠野物語は、そんな「繋ぐ」力に導かれて書かれたものだったのではないかと思う。
 私は、物語が好きで、多くの物語を見聞きしてきたつもりだった。けれども、物語の持つ「繋ぐ」力をいつの間にか感じられなくなり、縛られてしまっていたようだ。だからこそ、里の利用者さん達の「繋ぐ」力に、私は癒しを感じているのだろう。フォーラムに参加し、里のデイサービスの日々から、そんなことを考えた。
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訪れた秋の春―勝利の秋 ★施設長 宮澤京子【2012年9月号】

 4年前、銀河の里の職員、高橋健君は、岩手医科大学の修士コースに入った。これでドクターになれるかと思ったのだが、医学部の教授には成れるかもしれないが、ドクターになるには医師法からして学部卒業が条件だと言うことだった。勘違いだったが、これは悔しかった。こんなことがなかったら、はたして医学部を受験するなどという暴挙を選んだろうか。ともかくそこから意地になって受験闘争が始まった。1年目、2年目もダメだった。先の見えない厳しい状況に追い込まれる。もういいのではないかとあきらめかけたが、3年目に突入した。そしてこの春もダメだった。さて本気で撤退を迫られるところだが、最後に本格的に東京の医学部受験専門の予備校に行ってみて、ダメだったらあきらめようと、上京して最後の戦いが始まった。
 しかしその時点で私は妙に合格を確信していた。不思議な事が立て続けに起こったからだ。春4度目の挑戦が決まってから、満開の桜が私の行くところ行くところで迎えてくれた。意図せずして、満開の桜にこれほどあたるものだろうかと驚いた。 4/7には研修で出かけた東京で千鳥ヶ淵の満開の桜にあたった。翌日4/8は荒川線神田川沿で、雲一つない青空に満開の桜並木を歩いた。一緒だった友人も「東京で、こんな贅沢な花見が出来たのは、はじめて」と喜んでおり、私は空を見上げて「やったぁー」と「勝利」を確信する気持ちで、一人舞い上がっていた。
 岩手に帰ってきて、4/28の北上展勝地では夜桜が満開だった。翌日はサイクリング道路を自転車で走って、太陽の下で展勝地の桜を満喫した。5/5の遠野サイクリングロードでは、私が来るのを待って迎えてくれたような桜並木が10kmも続く中を走ることができた。そして、ゴールデンウイーク中、我家の山桜と梨の花が例年になく咲き乱れ楽しませてくれた。しかし、何といってもハイライトは、5/21大槌の金糞平(かなくそだいら)にある一本の老木桜だった。震災後の警備の関係なのか、途中で道は通行止めになっていた。それでも気になって、数キロの山道を歩いて老木桜に向かった。5月も後半だか、桜はまだ咲いていた。しかも何ということだろうか、葉の出はじめた桜の木は全体が紅葉のように赤く染まっていた。これで合格は秋だと私は確信をした。金糞平の5月に咲いた紅色の桜は、暴挙のようなこの戦いの全てを象徴する物語のようだった。大槌の山の奥で私はひたすら感動に耽った。ただこれらの一連の出来事は合格までは胸に秘めておき誰にも語らずにいた。語ってしまえば怪しい世界の出来事だからだ。
 上京して半年、受験体制は今までの闇雲で曖昧な感覚を脱して、状況や、位置付けがかなり明確な中で作戦が成り立ち、戦略が明確になっていた。そして、いよいよ、9月3日の受験日が迫ってきた。その前日、朝起きて、2階の窓から外を眺めると、そこにはいつもの梨の木があるのだが、ふと目に入ったのは、なんと梨の花だった。「嘘だろう、季節間違っている!」とつぶやきながら、驚いて窓辺に寄って確認するがどう見ても梨の木に、可憐な花が咲いている。東北に異常な猛暑が続くこの時期に花が咲くものかと目を疑う。でも目の前に実際咲いている。春に、上京しての受験体制を決め、壮行会で飲んだとき、「桜じゃなく、紅葉だ」などと冗談で笑っていたのだが、最後は梨の花とは思いもしなかった。
 試験の翌日、そっと窓辺に寄り、「散っていたら・・・」という不安もありつつ、目を凝らして見ると、何とあっちにもこっちにも花をつけ、ほんのりと梨の木全体が白くなっているではないか。春の芽吹きを越え、残暑の中を蕾のまま、じっとこの日のために待っていたのかと思うと胸が熱くなる。

 ・春の満開の桜のオンパレード
 ・5月、金糞平の桜は紅かった!
 ・猛暑のなか、季節外れの狂い咲きをしている我家の梨の木!

 ここまで起こって、現実で不合格はあり得ないと確信があった。 それは明らかになった!9月6日 午後5時 合格の連絡が入った。
 賭けた4年間・・・苦しみながらも見事に咲いた!
 奇跡は起こる。狂い咲きした我家の梨の木だってそうだ。
 「奇跡じゃない間違いだ。世の中、結構間違いは起こる」と理事長は云うが内心ほっとして喜んでいるに違いない。
 百人一首の在原行平の和歌「立ち別れ 因幡の山の峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来ん」の歌が重なる。(別れて因幡の国に行っても、この山の峰に生えている「松」のようにあなたが待ってくれているのを知って、私は帰ってきた) 我家の梨の精は、「みんなが合格を待っているから、たとえ私は狂った季節であろうと花をつけ、このうれしい知らせを届けましょう」と、精一杯、見事に咲いたように感じてならなかった。
 誰しも、確実な話には飛びつき、群がる。単純で、わかりやすい。海のものとも山のものとも、本人も周囲も、誰にも解らない、理屈ではない何か、勝負に値する何か、命賭けて納得できる勝負。そんな賭けに出るのは勇気が要る。そこにこそ男気を感じる!
 祭りは嫌いな私だが、今年は、感謝を込め「ハレ」の舞台で踊りたい気持ちだ。今こそ、大いなるものに感謝を捧げ、酒を酌み交わし、乾杯しよう! おめでとう!!
 里の未来に一筋の光をもたらす、4年越しの大勝負が終った。ここからまた、新たなステージへ向かって、研鑽を積む厳しい闘いの日々が始まる。一歩ずつ歩を進めて行きたい。
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秋田の海 ★ワークステージ 昌子さん(仮名)【2012年9月号】

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★8月19日に秋田の由利本荘の海へ行ったときに描いたイラストです。「崖の上のポニョ」のラストシーンを思わせるような、海の上にぽっかりと浮かぶ船と灯台がある小島がかわいらしいですね。海の広大さが伝わってきます。
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サルサ・ガムテープ ★ワークステージ 村上幸太郎【2012年9月号】

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★先月の8月9日にバンド「サルサ・ガムテープ」がやってきました!(詳細は先月のあまのがわ通信を参照)バンド演奏に合わせて、ワークのメンバーも即席太鼓で大盛り上がり!その様子を賑やかに表現しました!
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今月の書「証」 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2012年9月号】

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ここにいるということ

確かなものであり
不確かなものでもある
自分という存在を

語り継ぎ
遺していく


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