2012年08月15日

宵宮(よみや)参り ★佐藤万里栄【2012年8月号】

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今月の書「今」 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2012年8月号】

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一瞬一瞬が
かけがえのないもの

過去があって現在(いま)がある
現在(いま)を積み重ねて未来を創る

その時の“今”を見つめていきたい


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花火 ★ワークステージ 昌子さん(仮名)【2012年8月号】 

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★夏の風物詩と言えば、夜空に咲く花火!昌子さんのキャンパスにはかわいらしいカラフルな花火が描かれました。いつかこんな花火が夜空のキャンパスに打ちあがるといいですね。
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大量の梅のたね取り ★ワークステージ 村上幸太郎【2012年8月号】

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★惣菜班では、お中元ギフトの製造が忙しくなる前に、企業からの委託作業として、梅の種取り作業を行いました。
「超難関!大量の梅で大ピンチ!惣菜班危機一髪!」とイラストにも書いてあるとおり、慣れない作業にメンバーも苦戦しましたが、スプーンをうまく使って、100kg以上の梅の種取りをがんばりました。
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六車由実著:『驚きの介護民俗学』に触れて ★理事長 宮澤 健【2012年8月号】

 先月この本に出会って、1回目を読んだとき、著者、六車さんのスタンスが、あまりに銀河の里の向きあい方と近いので、当たり前のように入ってきて、こともなげに読んでしまった。再び読み返してみると、これはものすごい本が介護業界にたたきつけられたのものだと気がつく。さりげない平易な言葉で、介護現場の新たな方向を照らし出した衝撃的な著作だと震えてくる。これは介護業界にとって革命的な著作だ。今後、介護関係におけるあらゆる専門家諸氏はこの本を抜きにして語ることを許したくない。介護関係者は何はともあれ一度この本を読んでから全てを考えてもらいたい。いままで介護関係者、業界関係者は何をやってきたのだろうと、この本の前に恥じ入るべきだとさえ思う。
 当初はそのタイトルから「介護民俗学」にこちらが驚かされるのかと思ったのだが、そうではなくて、「驚き」、つまりおののきやときめきも含めて人間の感情としての「驚き」が介護民族学を成立せしめるのだということが本の終盤に述べられている。介護現場で聞き取りを記録し、原稿を書いてきた著者がある時、全く書けなくなった時期があったという。本人にもその原因は明白で、「驚かなくなった」からだと言う。特養のユニットに配属された著者はその現場の忙しさに「驚けなくなったと言うより驚かないようにしていたと思う」というのだ。つまり驚いていては仕事が回らないから、驚くことに対して禁欲的になってしまったのだ。
 著者、六車さんをして驚きを止め、全く書けなくしてしまう落とし穴が現場にはあるという事実は、現場の厳しい現実を露わにしている。さらにそこでは、介護作業そのものの快感に酔いしれるという誘惑もあることが明かされる。おむつ交換などの介護作業が丁寧にしかも完璧に仕上がることの快感はある種の充実感、達成感として到達点を感じさせる。ところがそこに止まれない理由がある。それは我々が現場で対する相手が生きた人間だということに尽きる。例えばこれがビル清掃の仕事であれば、到達点は作業の仕上がりにあって然るべきで、そこで目的は完璧に達成される。しかし、対人間の場合、そこで止まっていいのかと言われると、そこにとどまることは暴力的であると言わざるを得ない。六車さんも作業を完遂する快感に酔いしれながら、そこに止まることなく、「驚き」を取り戻していく。「技術に酔っていた時には利用者の存在が希薄になった」と言い「驚きのままに聞き書きを進めているときには利用者が立体的に浮かび上がってきて、人としての存在がとてつもなく大きく感じられたのが嘘のようだった。なんだか私は自分が恐ろしくなった」と告白する。我々は驚きに従って記録し書き続けなければならないのだと思う。そこに人間の生きた歴史と脈打つ命があるからには、それを見つめ驚き続けなければならない。
 民俗学がなになのか私には正確な知識はない。『遠野物語』だと言われればなるほどと思うがそれでもわかった訳ではない。ただ「平地人をして戦慄せしめよ」という言葉は好きだ。そこに民俗学の神髄があるとも感じる。柳田からみれば、当時ヨーロッパに留学しているエリート達を平地人と言っているのだから、西洋の学問を学んでいる人たち、もっと言えば近代科学そのものに対して、日本の伝統的な文化の価値を問おうとしているとも言えるのだろう。小林秀雄は民俗学を指して「あれは科学なんかじゃありませんよ」と言っている。
 そして、柳田の若い頃の体験をふまえて、「ああそうかわかったと思った」という。それは柳田が神社のご神体に触れて異界に引き込まれた体験を語る下りがあって、たまたまその時ヒヨドリが鳴いて、その声に我に返るのだが、そこでヒヨドリが鳴かなければそのまま狂っていただろうという話に、「わかった」と小林は言い「そういう感性がなければ民俗学などという学問は生み出せないのだ」と言っている。
 つまり感性の学問だと言っているのだと私は理解する。感性、つまり主観で成り立つ学問だということだ。ここに今日の救いがあるようにさえ私は感じてしまう。なぜならば、介護現場に入る施設監査も第三者評価もマニュアルしか関心がない。我々の社会と時代はそんなものでしかなくなってしまっているということだ。マニュアルと記録しか求められない。何でも操作主義で動かせると勘違いしている。それが人間や生命に対していかに暴力的な態度かということに気がつきもしないでいる。そこでは主観や感性が取りざたされることは一切ない。今の我々の社会は、人間の精神と命に対する、見えない大量殺戮を知らず知らずのうちに進行させているのだ。
  おそらく民俗学という学問は近代科学と対峙して出てきた学問ととらえていいのだろうと思う。私は学問の『陰影礼賛』だと勝手に解釈している。だから、個人の「驚き」が出発点となり、それが許される。そこが最重要視されるところが今どき新しいと感じる。現代において主観の登場は、科学とは全く違う次元を拓く可能性を感じさせて、それが私には新鮮で眩しい。  
 著者の六車さんは現在、出身地、静岡県内の特養で介護職員として勤務している方だ。彼女には経歴として東北芸術工科大学の准教授で東北文化研究センター研究員だった前職がある。専門は民族思想論ということで民族学研究者である。2003年の著作『神、人を喰う 人身御供の民俗学』はサントリー文芸賞を受賞した著作で、研究者としてれっきとした第一級の実力者なのである。その人がその知見をもって、介護現場に入ったこと自体、事件に近くて面白い。実際、今の日本の介護現場にはそうした知性や感性が欠落していて、しかも現場には切実にそうしたことが必要とされている。
 銀河の里では当初から、原則として介護施設経験者と介護資格者を極力敬遠してきた。開設初年度は、経験者と資格者を軸に始めたのだがその両者に痛い目にあった。まったくの介護屋に成り下がってしまう感じがあり、非対称性の強固な位置づけの中で高齢者はモノのように扱われ、こちらはひどい傷つきを覚えるのだが、当人は当たり前として疑問さえなかった。既存の介護現場は介護者養成機関の実習現場でもある。そこを経てきたほとんどの人には、すでに人間を立体的には見えなくなってしまった何かがあった。その人たちと一緒にこれから先仕事ができるわけがなかった。2年目からは、介護職の資格は問わず、採用にはむしろ何らかの専門性か素人性を重視した。つまり、文学でも歴史でも芸術でも何らかの専門を持っていて、その視点から人間を見つめるまなざしや切り込みを期待したのと、技術も知識もないまっさらで、人間として向きあうことを期待した。組織として当初は、資格者配置基準に困ったが、今では生え抜きが資格を持つようになりそれにも困らなくなった。今後もその路線は原則変わらない。その方向がまちがっていないことを、民俗学の視点で切り込んだ六車さんの実践が証明してくれている。
 「女の生き方」の章の中で彼女はかなり自分を語る。「35歳を過ぎたころだったろうか、自分がこれからどう歳を重ねていったらよいのか、ということを考え始め、その見通しががまったく立たないことに大きな不安を持ち始めた」と。結婚して、子どももいてもいい年齢なのに、「まだ私自身は何も将来の人生設計ができていないという現実に直面して愕然とし、突然深い霧の中に迷い込んだような気持ちだった」と述べている。それまで研究の調査では男性に話を聞くことが多かったのだが、「でもその時からは、研究のためというより、むしろ自分がこれから生きていくためのヒントを得たいというより、すがりつくような思いで女性たちに話を聞くようになっていった」
 ここはとても大事なところだろうと思う。彼女の仕事、つまり「聞き取り」は自分のためだということ、しかも「自分がどう生 きるのか」ということに対してすがりつく思いで話を聞くのだ。
  下手にプログラム化された教科書的な回想法メソッドなどとは次元の違う出発点がそこにはある。客観化や対象化が入り込む隙のない次元からのアプローチだと言っていい。当然相手の反応も語りも、全てが生命的なダイナミズムを帯びて動き始める。主観から発せられた他者への関心は、関係を生みだし、相互発見的なやりとりを発現しそこに新たな世界が生まれる。そこには本来繋がるはずのない、他者と他者が、物語を介して繋がっていくような気がする。それが本来、介護現場に起こってくる出会いの凄まじさなのだと思う。この章の最後に、「深い霧の中でさまよっていた私はというと・・・。まだ迷いや不安が完全に払拭できたわけではない。それでも、老人ホームでそれぞれの女性の生き方に深いところまで触れる機会を得ることで、誰かの真似ではなく、自分は自分自身の人生をまっすぐに歩いていっていいのかもしれない、と思えるようになってきた」現場にはこうした人生に対する誠実さがあくまでも必要だと感じる。そこから「多くの利用者たちに励まされて、今、私は生きている」という今が照らされる。そこには人生そのものがある。
 六車さんはこの本の随所に、感動に包まれる瞬間のその思いをあふれさせている。言わば自分の人生を賭けて聞こうとする姿勢でいるのだから、話す方も人生を賭けて話してしまうのではないだろうか。こころやたましいの深い部分から引き出されての語りが紡がれる。そこに感動が走らないわけがない。そうした語りは、いつしか時代や歴史や、個人の経歴の記憶や思い出を超えて深い縦軸へと降下していき、人生や生きることや、存在そのものに肉薄し始める。そして認知症の人など、異界の能力に開けた人ほど、現実や社交から解放され深い次元の言葉を紡いでくれるように感じる。そこにはある種の世界の創造さえあるのではないかといつも思う。
 里では、「場ができる」と言っているのだが、「場」があるかないかで起こってくることが違うし、「場の深さ」によっても起こってくることの内容が違ってくる。この本の至る所に記述される感動の言葉は、六車さんの「驚き」が行き渡ってできていく感応の世界なのだと思う。昔話を語ってもらうだけでも「私はメモをとりながら幸せな気持ちでいっぱいになった」と言い、「子どもの頃の記憶に触れる楽しい時間へと展開していったのだった」と場ができ上がっていく。「利用者たちの子どものころや青年期についての記憶に思わず触れる瞬間は、私に驚きと興奮と、そしてひとときの幸せを与えてくれている」と、彼女の存在によって介護現場は変容し、利用者に囲まれている毎日が「刺激的であり、幸せの日々なのである」という言葉には、新たな「場の創造」がそこにあると感じる。その「場」は利用者にとっても、この世での新たな居場所となり、同時に介護職員個人にとっても深い安らぎの居場所として立ち上がってくるのだと思う。
 民俗学ではフィールドワークが重視されるという。そこには調べる対象の中に入っていくという行為があると思う。それを「参与観察」と言うのだそうだが、参与と観察という対称的なことを同時に両方やるという荒技が必要になる。里で暮らしを重視して きたのは、この参与と観察を農業などは適切に統合して昇華していると思うからだ。暮らしは参与と観察の統合によって成り立っている。ただしそれは専門的に行われる研究とは違うので、記述が乏しいともいえる。参与観察には「分厚い記述」が重要なのだそうだ。つまり参与と観察を繋ぐものは「分厚い記述」なのかもしれない。里では、当初から事例主義でやってきたが、それはつまり「分厚い記述」だった。まとめた当初の荒原稿は読みあげるだけで4時間に及んだりする。それを2時間程度にまとめて発表し、さらに検討が2時間ではまったく足りないようなことを重視してやってきたのは、そこにこそ利用者本人と関係性の深い理解への道筋があると感じるからにほかならない。「とことんつきあい、とことん記録する」という章が置かれているように、そこが基本だということを裏付けてもらったことは、我々の12年の取り組みを裏付けてもらったようで、まさに我が意を得たりだった。
 −「回想法ではない」と言わなければならない訳−、という章がわざわざもうけられているがこれもいい。よく音楽療法や、園芸療法をやっていますなどという施設があるが、どれも「何もないから仕方なく取り入れたんでしょ」と言いたくなる事が多い。だいたいメソッドが必要なんだろうかと思うし、どこか怪しい感じがしてしまう。そんな違和感がこの章を読むとすっきりと晴れる感じがする。つまりメソッドは何か恣意的な目的を持っているし、施行した後の評価を要求するのだ。問題があるからそれを回避か排除しようという文脈で、操作主義的な因果論に絡みとられると、たちまち、生の人間や人生がかき消されてしまう。目の前にいる人は対象化され、私の関与は遠く希薄になる。主観が切り捨てられ、関係が消える。しかもメソッドの適応は非対称性を際だたせる事になる。違和感はそこからやってきていたのだ。
 里では関係性を大事にしてきた。そこにはダイナミックな世界が展開し、多様な世界が顕現する。手を引き、支え、介助している姿も、どちらがどちらを支えているのかは曖昧になり、さらに深い次元になれば関係は簡単に逆転する。手を引いてもらって遠い過去や見知らぬ町や村に旅をさせてもらうこともあるし、人生の霧の中で立ちすくむしかない不安の気持ちを傍らにいることで支えてくれていたりする経験は現場ではしばしば起こりうる。さらに利用者が亡くなってからも、介護者を支え続ける。死者は生者により増して逞しく揺らぐことも、変わることもなく、何処でもいつでも支えてくれる。そうした支える死者を得た若者のいかに逞しいことか。彼らは困難や窮地に追い込まれたとしても、死者達の支えによって乗り越えていくに違いない。そうした関係性を現場は育んでいくところだと私は考えてきた。
 我々は近代科学を超えた新たな物語を必要とする時代を生きている。ところが現実にはその糸口が何処にも見つからない葛藤もある。六車さんの実践と著作は、その端緒が介護現場にあることの可能性の新たな地平を切り開いた。まだ発見されていない人間の可能性が、この拓かれようとしている道の先にこそ発見されると信じる。
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会えなくても繋がっている ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2012年8月号】

 先日、ユニットことの入居者、武雄さん(仮名)の友人の川戸さん(仮名)の自宅を久しぶりに訪ねた。二人はかつて一緒に働いてきた仕事仲間で親友であり、酒飲み友達だ。歳をとって二人は長い間音信不通だったが、武雄さんがまだグループホームに居たころ、ある日偶然、読んでいた新聞の慶弔欄に川戸さんの奥さんの名前を見つけた。武雄さんは、自分で警察や役所に電話をかけて調べ、川戸さんとの縁を手繰り寄せた。そしてそのときから電話や手紙、年賀状などでやりとりを続けてきた。
 ある時の手紙には五つ葉のクローバーが同封されていて『あなたが元気になるように』という言葉が添えられていたり、ちょうど武雄さんの気持ちが落ちていた時に『死ぬことばかり考えないで笑って生きよう。弱い人を助けてあげてください』というメッセージをくれたりしていた。その頃の武雄さんは川戸さんの存在に随分救われていたと思うし川戸さんもそうだったんじゃないかと思う。  
 そのころは川戸さんは、北上市内の養護老人ホームに居た。再開の計画を実行したのが3年前の2月。数10年ぶりの再開に2人は何も言わずに抱き合った。私はその時初めて武雄さんの涙を見た。それから何度かホームを訪ね、武雄さんが特養へ移ってからも、スタッフの酒井さんと出かけるなど、川戸さんとのつきあいは続いていた。その後酒井さんが異動になって、しばらく会いに行っていなかった。私が異動になってからも、訪ねて行こうと思いながらもなかなか動けずにいた。最近になって、武雄さんは体の不調の訴えが続き、モヤモヤしていた。こちらの動けなさとどこかリンクしていたのかもしれない。
 そこで日程を組んで出かけることになった。以前と違い、川戸さんは施設を出て、北上市内の自宅で一人暮らしをしている。電話がないためアポなしでとにかく行ってみるしかない。買い物などで居ないこともあるかもしれない。そうか、“運が良ければ会える”ということか・・・私はそう思いながら、しばらく会っていなかった間の状況もわからないし、川戸さんが今どうしているのか、元気なのかも気になり、まずは行ってみることにした。
 午後に出かけることになり、手みやげも用意して「川戸さんに会いに行くよ」と伝えると、武雄さんは嬉しそうで、そわそわしていて待ちきれない感じだった。場所を知っている酒井さんに書いてもらった地図を片手に車を走らせる。近くまで行けば武雄さんも思い出すかなと思ったが、いざ近くまで来たものの「わげわがらねな。誰かさ聞いだ方がいいんだ」という武雄さんだった。近所の人に道を聞きながらたどり着いた。ところが玄関には“留守 食品買物”と書かれた札がかけられていて、鍵がかかっていた。そうかタイミングが悪かった・・・でも「せっかく来たしね」とちょっと待ってみようと玄関の前に腰を掛けて待った。しばらく待ったが帰ってこないので、ちょっと買い物してこようと、少し時間を潰して戻ってみたが、まだ帰ってきていなかった。時間は16時を過ぎたところ。「来るまで待つべじゃ」という武雄さん。夕飯までにはさすがに帰ってくるだろうし、もうこうなったらとことん待つぞという気持ちになる。
 待ちながら武雄さんは「(川戸さんに)会うの初めてだったか?」と私に聞いてくる。「最初に施設に会いに行った時も私も行ったし、それから何度かお茶飲みに行ったから、よく知ってるよ」というと、「んだったか。んじゃいいんだな」とどこかほっとした様子だった。
 かなり待っても帰ってこないので、武雄さんも時計を何度も見 て気にし始める。そして「なんぼ待ってたっていづ帰ってくるかもわがらねんだもんな。わがねんだ、何か書いで置いて帰るべし」と切り出してきた。万一会えなければ置き手紙とは思っていたけれど、私の中では帰って来るまで待とうと決めていたので「えっ、武雄さんいいの!?」と聞いてしまった。「いいのだ、書いでけろ」ということで書き置きを書いた。武雄さんの字で残したほうがいいと勧めるが「いいんだ、俺が来たってことがわがればいいのだから。書いでけろ」と託してくれた。私はちょっと緊張して手に力が入った。
 手紙を玄関の戸に貼りつけ「本当にいい?今日のところは帰るよ?」と確認すると、「おう、行くべ」と明確だ。「場所もわかったしまた来るべね」と帰る事にする。私の中では、せっかく来たのにと悔しさも残ったし、武雄さんにも悪かったかなぁと思いながら帰ってきた。帰ってきて駐車場に車を止めると武雄さんが「あー、いがったな」と言うので、えっ!?と私は耳を疑って驚く。「えー?会えなかったのに??」と思わず言ってしまった。すると「うん、会えなかったのは残念だどもよ、いいのだ」と平然という武雄さん。私にとっては意外な反応だった。
 でも考えると、会えなかったけど川戸さんの家を私も覚えたし、出かけて留守だったことでむしろ元気で暮らしている感じも伝わってきた。書き置きというのもどこかインパクトがある。
 個々人が携帯を持ちいつでもすぐに連絡がとれて繋がれる時代。メールで即座にメッセージを送ることもできる。インターネット等の通信手段で世界中何処にいても、いつでも簡単に繋がることが出来る便利さの只中で、電話がなく訪ねていく約束も出来ない、行ってみて居なければ待つしかない、いつ帰るかもわからない・・・待っている間、こんなことがあるんだなぁと不思議な感覚になった。でも考えてみれば電話すらなかった時代は、連絡が簡単には出来ないのが当たり前だった、そんな時代のほうが遙かに長かったはずなのだ。
 確かに現代はいつでも、何処でも簡単に“繋がる”ことが出来るけれども、それは本当に繋がれているんだろうか。相手が出ないだけで不安になったり、返信が遅いだけでもイライラしたりする。本当は繋がることにまるで自信がなく、怖くなっているのが実体かもしれない。人の繋がる手段が簡単になればなるほど、かえって不安は増してしまうのかもしれない。そうなると便利になることが必ずしもいいことではない。
 連絡の手段は手紙か直接出向くしかなく、そうした機会はそれほど多くは作れない。だから一回一回会うことが貴重で重みが感じられる。今回も出かける前から、「会えるかな」「元気でいるのかな」と気が気ではない。家を探すのもナビで検索したわけでなく、地元に人に聞きながらだったし、たどり着いたときには「あった」と感情が動く。留守だったおかげで、待つことになったが、ほとんど予定の見えない「待ち」は私にとってある種未体験ゾーンだった。そして「書き置き」。帰ってき友人は、すれ違ったことに感慨を抱きながら、訪ねてきた人がこの場所に居たことを想像するだろう。「居なかったけど、いいのだ」といった武雄さんのすがすがしい感じは、会えないことで、心の豊かなやりとりをしていたのではなかったろうか。現代人の私は、会えなかった事だけに囚われ、残念な気持ちしかなかったが、武雄さんには豊かな心の動きがあったに違いない。携帯やメールなど情報器機を持たない分、心のやりとりがはるかに豊かに行われるのかも知れない。
 3日後、川戸さんから手紙が届いた。やはり繋がっていたと嬉しくなった。こうなると会えなかった方がむしろ繋がった実感があるような気がしてきた。人と繋がると言うことはどういう事か考えさせられた友人宅訪問だった。
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終戦記念日を前に ★施設長 宮澤京子【2012年8月号】

【はじめに】
 里が始まって、高齢者の方々とのおつきあいをさせてもらっていると、「戦争」を抜きにして、その方を理解することは出来ないと痛感させられることがある。太平洋戦争の「敗戦」がもたらした多大な犠牲や深い傷は、個々の人生にどう影響を与えているのだろう。
 Mさんは、戦後、平和運動や社会運動に身を投じてきた方だった。認知症になる前に、自らの戦争体験記を冊子にまとめていた。グループホームに入居になってから、時々スイッチが入ることがあった。そうなると目つきが変わり、裏庭に裸足で出て、南方のジャングルで敵兵と対峙した時にタイムスリップしたかのように、スタッフに襲いかかって来ることがあった。また、宙に向かって格闘したり、箸が武器として腹巻きに幾本も入っていたり、「隠れろ!殺されるぞ!」と叫ぶこともあった。  社交で覆い隠したり、無意識のうちに押し込めてきた強烈な体験や感情が突如立ち現れて来る瞬間に出くわすスタッフはその迫力にたじろぐ。兵士として戦場で勇敢に戦いつつも、「正義」と「殺戮」の狭間で生きた苦しみが想像させられた。
 当時、私の「戦争」への関心は、Mさんの言動を理解するための歴史的事実としての「戦争」であり、Mさんに傷を残した過去の「戦争」に過ぎなかった。ところが最近、戦争という人間社会の暴力は形を変えて、今この時代に、私自身を巻き込んでうごめいており、そこをどう意識し、生きるのかという課題を感じるようになってきた。
  【私の信条】
 中学生の時に映画『ひめゆりの塔』を観て、戦争の悲惨さを強烈に認識した。自分と同年代の女学生が、普段は軍需工場で働き、やがて傷病兵の手当てに戦争にかり出されたうえ、戦局が悪化し沖縄が戦場となると、「生き恥をさらすな」、「玉砕」などという無謀で理不尽なかけ声のもとに、命を落としていった事実に、憤りと悲しみがこみ上げた。今でもその一つ一つのシーンが思い出される。
 それから戦争に関するドキュメンタリーの番組を意識し、戦争を取り扱った書物に触れてきたのは、戦争の悲劇を風化させず、平和のありがたさを忘れないために自らに課してきた信条でもあった。おかげで、心に響く作品にたくさん出会った。一昨年は、倉本聰の『歸國』を、職員の文化研修として30名ほどバスに乗り込んで観に行った。お国のために死んで英霊と奉られた兵士達が、現代の日本に帰還したときその様相はどのように映るのかという問いかけは、他人事ではないリアリティがある。彼らが命を賭けて守った日本を、私たちは誇りに思えるだろうか。それにふさわしい国を築いているだろうか。兵士と現代を生きる私たちとの繋がりを、英霊の目を通して問いかける感動の舞台だった。この舞台を私が『ひめゆりの塔』を観たときと同じ歳の、15歳の息子も一緒に観た。私は戦争の持つ暴力性より悲劇性に痛みを感じたが、彼には『歸國』は、どのように響いただろうか・・・。
 昨年はNHKのドキュメンタリー「兵士の証言シリーズ」をことごとく観た。証言はそのほとんどが痛みを伴って吐き出されるようで、聞いていていたたまれない気持ちになった。戦後66年を経て、語らぬまま、あの世へいくつもりでいた元兵士達は、このまま永久に闇に葬られていくことを避けるために、痛い記憶を語ってくれたのだろう。そして最後まで語らぬ、語れぬ人たちも多くあるに違いない。
 今考えれば馬鹿げたことにしか思えないが、ほんの数十年前、 日本国民の意識が「戦時一色」に染められ、大量の近代兵器に竹槍で挑もうとしていた事実がある。しかし時が流れ、過去となり、当時の体制や政治を悪者にしたり「攻撃しなければ、侵略される」という帝国主義の時代のせいにしたりして、「戦争」を客観化・対象化し、自分とは関係の無い事として生きている。
  戦争」に組み込まれた私を想像する
@ 私が当時20代の男性だったとすると、私は身体を鍛え進んでお国のために生命を捧げる軍国青年になっていたと思う。私は時代の要請に従い疑問を持つことのない一般的な人間だと思う。鋭い感性と意志で体制に抵抗する選ばれた人間にはなれないような気がする。
 しかし選ばれた人であっても、軍隊に入れられれば絶対的な服従を強いられ、感情を殺し、命令で動く駒になるしかない。矛盾だらけの蛮行にも耐えなければならない。「富国強兵」の時代精神から外れた、選ばれた人は、上官の神経に障り、生け贄の犠牲者にされやすい。同僚にとってみれば、犠牲者の存在は、自分自身がとばっちりを受けないための安全パイであって、救いの手をさしのばす事はない。現代のイジメと全く同列の現象がそのままそこにある。自分がそうした下劣な人間になることは、その時の状況にもよるが、可能性は否定できない。
 私は、上官にへつらうことはしないだろうが、目をつけられないように要領よく立ち回り、自分に攻撃が来ないように細心の注意を払う。人間的な魅力も能力もない上官に対しては、心の中では徹底的に馬鹿にし、軽蔑しつばを吐きかける。しかし反抗心をうまく自制し気づかれることなく、卒なく事を処理し、強いこだわりや癖もないので、きっと上官から頼られる存在になる。こうした自分を守り適応させていく構えは、戦時であろうと常に変わらないように思う。
  A 私は想像する・・・体制や時流に迎合しないマイノリティの意味とその価値。
  社会的弱者としての障がい者や高齢者、協調性のとれない個性の強い人、体制に合わない宗教や思想を持っている人は、戦時体制の中では「厄介者」「危険分子」としてはじかれる。また戦地に行けないことで、地域で肩身の狭い思いをしなければならず、戦地に行っても、生きて帰ると肩身は狭かったのだ。しかしマイノリティは、結果から言えば、軍国主義に対して「その存在」を持って反体制ではなかったろうか。それに比べて国や社会に「期待される人間」は、往々にして体制側に利用されやすいのではないか。
 戦時中は、様々な事実が意図的・恣意的あるいは無意識的に情報操作され、国民が集団ヒステリーのような高揚感に浸ることもあり、時代の流れに呑み込まれて生きるしかない。時を経て過去を俯瞰して初めてその時の立ち位置が明らかになる。もう元には戻れない・・・それが歴史であり、人生なのではないかとさえ思える。
 戦後の「豊かさ」の享受は、実態のない砂上の楼閣ではなかったかということを「3.11」の震災で思い知らされることになった。「社会システム」に代表されるように、大いなるものとの「関係性」や、死者を含めた人との「関係性」を奪われ、「孤独」なまま「刹那」を生かされている現代の実態が見透かされたように感じる。それでもなお、「原発」は日本経済を支える大事なエネルギーとして多くの人々が「継続」賛成に傾く状況にある。これもまた、「物質的な豊かさ」を追い続ける時代のうねりに呑み込まれた姿なのか。
  B そして、私は想像する・・・これからの戦争で利用される人々のこと。
 「戦争」は「愛国者」ではなく、むしろ普通の人々が利用される。ロボット兵器の登場で、兵士は戦場から遠く離れた地球の裏側の、攻撃される恐れの全くないオフィスで、画面に向かって任務を果たす。「殺す」ことに実感の伴わないゲーム感覚で行われる「戦争」が登場する。直接的な生の殺し合いではなく、相手の見えない殺し合い。そこでは、「期待される人間」は、「期待されるテクノロジー」に置き換えられる。湾岸戦争では現実に、ミサイル攻撃の様子を世界中の家庭で、テレビで見ながらご飯を食べていた・・・。今の軍隊は「無痛化」の中で人々を殺せる。私も無痛化の軍人になって、知らないうちに、殺戮のボタンを平気で押してしまうかもしれない。
  C 最後に私は、想像する・・・希望について。
  宗教が機能しない現代、個人は「孤独」の中で自ら哲学や宗教に匹敵する生きる支えを模索する必要がある。それはほとんど不可能に近いことだが、可能性は連綿と受け継がれて来た人々の生きる知恵や、大義名分に添えないマイノリティの存在にあるではないかと思う。
 最近、三田善右エ門著の『光陰赤土に流れて』を読んだ。著者は当法人の三田理事の父上だ。善右エ門さんは1938年(昭和13年)に岩手県から満州国に渡り、理想郷建設の夢に純粋に燃えて邁進した。しかし敗戦を迎えその夢は打ち砕かれた。この本は、満州国・吉林から占領軍統治下の日本へ引き揚げる動静を克明に綴ったドキュメントである。
 終戦直後の満州に住む日本人は、敗戦の事実を突きつけられ大混乱となる。五族の共存共栄を掲げていたものの、戦争に負けたとたんに日本人への報復が始まる。立ち退き命令や略奪が日常化し窮地に追い込まれる。手のひらを返したように態度を変える中国人がいたり、日本人も形だけの共産主義者が出たり、反共の国民党(蒋介石軍)勢力と結ぼうとする潜行運動が起こったりと、様々な妄動が露わになる。そんな中「日本人会」を創設し、日本人引き揚げに身命を賭して携わる善右エ門さんの人間としてのブレなさに、私は日本人の誇りを感じる。引き揚げの混乱で日本人が、飢餓、疫病など困難に窮しているなか、彼は軍政府と交渉しつつ、引き揚げの大事業を完遂させていく。窮地に立たされながら、常に彼の中には「死」の覚悟ができている。犬死にはしない・・・だが必要があればいつでも命を投げ出す。そうした覚悟の元においてこそ、偶然という必然が彼を助け、「最善」がそこに実現してきたのではなかろうか。
 【現代を生きる私たちにとっての戦争】
 現代における、あらがいきれない時代の潮流は、森岡正博氏が言うように、家畜化された「無痛奔流」にあるように感じる。このことは、戦争の持つ「暴力性」が、「愛国心」という大義名分に隠され塗り込まれたと同様に、現代の「飽食」や「原発」に代表されるような欲望をエスカレートさせ、大量消費を基盤にした快楽こそが「善」であり「人生の幸せ」であるという刷り込みにやられている。気がつかないうちに「生きる喜び」や「品格」を奪われ、自制がきかない荒れを蓄積し、それが吹き出ようとする「暴力性」に恐々としている。科学技術に支えられて「痛み」を極力排除し、最大限に「快」を享受しているが、一方で「傷つくこと」や「痛み」に対して過敏になり耐性を持っていない。かつてのような「戦争」はもう起こらないかもしれないが、無自覚、無反省な「暴力性」が、無痛奔流の只中で大量殺戮を企てているように感じる。そうした殺戮はかつての戦争のような明確な目的さえ必要がない。
 福祉現場は一般には「善」が実践されているように認識されている。しかし現実は操作主義やマニュアル等による管理によって、生命の営みが最も枯渇させられる状況におかれている。現場の個人が、主体と責任を持って考えるということを止めた途端、関係性や互いの個性は消滅してしまう。現状では介護現場は暴力の巣窟と言っていいくらいだ。もちろん殴る蹴るという直接的な暴行のことではなく、人生最終章で成されるべき個人の課題や、継ぎ残すという人間の本質的な役割を放棄させ、受け継ぐべき多くのことを抹殺することが、個人と人類への「暴力」という意味において・・・。
 また「福祉現場」における「関係性」の希薄さや、逆の共依存的な親密性は、社会問題化している「暴行・虐待」を引き出す危険性を孕んでいる。人間の闇を極限まで引き出しうるエネルギーが人間の関係には渦巻いているということに無自覚でいるわけにはいかない。また、一見正しくて良いことは、同時にかなりの暴力性を併せ持っていることにも自覚が必要だ。
 自らのうちに引き起こされる暴力性に「なぜその行動に、なぜその言葉に、なぜその存在に、私の怒りが引き起こされるのか」を問い、自らの感情を賦活する相手に直接向かうのではなく、その怒りを窓口に深く私という存在に焦点を当て続けていく必要がある。つまり介護現場に立つ者は、修行にも似た、自分との「闘い」を内的作業として求められる。現場の訓練とも言えるこうした闘いは、無痛化の誘惑に打ち勝つ数少ない道であると私は思う。無痛化に翻弄される現代人の欲と快楽への方向を、ケアのもつ本質が方向の転換をなさしめる可能性を持っていると考えたい。それはそのまま、戦争の要因としての人間の持つ暴力性との対峙であり、心の闇との対峙でもある。
 高齢者や障がい者など、今までは「弱さ」として見られていたことの中に人類の希望と可能性が秘められているのではないかと私は感じる。そこにしか希望がない状況にまで我々は追い込まれている。日本人はそのことを世界に先駆けて気がつくべきだと思うし、我々の文化の中にはそうした知恵が古くから育まれてきたように感じる。
 命というのはそうした感性を持っている不思議な存在なのではないだろうか。痛みや悲しみの深みからのみ芽生える言動やまなざしは、パワーや効率の世界とは全く別次元の世界を顕わしてくれる。特にも認知症の高齢者の言動や存在には圧倒的な異次元の魅力を感じさせられてきた。その価値を見失ってはいけないと思う。 
 繰り返されてきた戦争は形をかえて、平和の続く日本人の中に強烈な暴力を蓄積し、あらゆる所に噴出しつつある。戦争の時代よりも、ややこしい暴力に我々は包囲され呑み込まれつつある。その解決の方向性は見いだせないままだが、介護現場つまり、ケ アのなかにそのかすかな道筋があるのではないかと淡い期待を抱いて、終戦記念日を迎えようとしている。
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地域・人・つなぐ 〜ケアマネージャーの孤独と方向性〜 ★ケアマネージャー 板垣由紀子【2012年8月号】

 3年前、新人ケアマネージャーとして初めて新規受け入れのケースを担当したのがAさんだった。認知症で骨折して入院し、その退院時の相談だった。その後私は特養の現場に入り、この4月にケアマネージャーに復帰した。その間、Aさんの環境にはかなり変化があった。今年2月に主介護者であった夫が亡くなり、長女と二人暮らしになったが、長女は無職で、特定疾患もあって通院治療が必要なため、経済的に自立は難しかった。主介護者として長女は、母のAさんを充分に介護する能力はなかった。
 ケアマネージャーとしてはAさんの介護サービスをつなぎたいのだが、経済的に難しかった。そんな状況では認知症の人はたちまち生命の危険にさらされる。なんとかサービスで支えられるような環境を作ろうと苦慮したが、そのためには長女の生活支援と金銭管理が必要だった。とりあえずは長女さんが自分の通院を続けながら母の面倒を見て、ケアマネージャーの私も出来る限り訪問しながら安否確認し、状況を見守った。幸い近所の親類の協力があったのは救いだった。中央包括も、何か困ったことがあれば一緒に行って話を聞くと、ケアマネージャーの後方支援の立場で関わることになった。
  ところが長女の生活支援のための必要な手続きがなかなか進展せず、暗礁に乗り上げた。Aさんへの必要な介護サービスを実現するには、まず長女のケースワークが緊急に必要な状況だった。そのことを中央包括や市に相談をするが、縦割り組織の悪弊から極めて動きは鈍かった。担当者会議を開こうと根回しをするが地域福祉課は会議に出ないというので出端をくじかれた。理事長が市と交渉をしてなんとか開催にこぎつけ、市の長寿福祉課と地域福祉課、中央包括、当事者などが集まってやっと一歩踏み出せた。その会議で、月1回だけ、ヘルパーを入れることが決まった。そうしてヘルパーが生活援助で訪問すると、新たな事実が見えてきた。Aさんの生活の環境が、衛生面からも厳しく、夏を迎えるには清掃が必要な状況だった。そこで2回目の会議を開いた。この会議の後、障害者地域支援センターも加わり、関係者が集まって大掃除する事や、ヘルパー利用を週1回に増やすことなど具体的に動き始めてきた。大掃除では、寝室の環境を整え、その時必要な書類等も見つかるなど一歩ずつ進んでいた。
 ヘルパーが入れるようになったのは大きかったのだが、遅きに失した感もあった。すでにAさんは、やせ衰え食事も全うには取れていない状態が続いていた。長女にあまりに負担と責任がかかりすぎていた。私も訪問の回数をできる限り多くしながら様子を見ていたが、体調の低下を考慮して受診の予定を早めにしようと日程を決める程度しかできなかった。その矢先、Aさんは脱水状態で衰弱し救急車で搬送された。たまたまヘルパーの入る日で、異変に気づいたヘルパーが救急連絡したのだった。週1回のヘルパーに救われたが、まさに危機的状況だった。  
 これを受けて3回目の会議を行った。私は危機的な状況と 対応の緊急性を訴えるのだが集まったメンバーに危機感はなく、厳しい会議になった。なんとか夏場を乗り越えたいと、週3回ヘルパーが食事作りで入れるよう提案したが、行政からは発言がなかった。包括は、「ケアマネさんは、一生懸命考えてくれていると思うけど、どうするかは、家族が決めて・・・経済的なこともあるんだし・・・、救急車で運ばれるリスクは、高齢者のいる家族ならどの家にもあるし、サービスが入っていない家だってあるんだから」と極めて後ろ向きの言葉に怒りを感じた。何を課題として、どういう感覚でこの会議に参加してきたのだろうか・・・?話が通じて仕事もできる、感覚のいい人と組めればどれだけ楽だろう。感度の低い担当者に、ケースに必要な介入の程度を説明し、説得しなければならないような、時間や労力の余裕はこちらにもケースの状況にもない。時間をかけて作った会議の資料もほとんど関心は持たれないし、家族や関係者が追い込まれないような支援をしていきたいのだが、「どこかで線を引かないと、自分を守らないと」などと最前線の担当者から信じられない言葉が返ってきてあきれてしまう。
 先日、訪問先で、障がいのある子どもと夫の介護で長年頑張ってきた方が「(花巻の)体質は絶対に変わりません。その人(やる気のない担当者)がいなくなっても空気みたいなのが残りますもの。」とあきらめがちに言われた。絶望やあきらめしか与えないような行政や福祉関係者では最悪の地域だとしか言えない。だが、ここであきらめる訳にはいかない。変わるのは困難かも知れないが、ここで誰かが動き始めなければ始まらないと逆に熱い思いがこみ上げてくる。
 この夏を何とか乗り切ろうと、やっとサービスが繋げられた矢先、Aさんは心不全で亡くなられた。ここまで来たのに「間に合わなかった」という悔しさで、私の胸は張り裂ける思いだった。
 葬儀には50名ほどの方が参列されていた。日常的にも近所の方の手助けがあり、葬儀にもたくさんの方が参列してくれる。ここには、ご近所さんがある。まだまだ地域の力はあるのだと感じた。30年昔とは社会事情が激変している。行政は昔と同じ申請主義事を固執し、市民一人一人の置かれている状況を知る術もなく、その変化に全く対応できていない。人のつき合いの薄れる現代、この地域のマンパワーを紡いで行政に働きかけ、地域をつくっていくことも私の仕事の一つにちがいない。
 今回、経済的理由によって制度サービスが使えなかったAさんの場合、緊急対応の弱さや関係機関との連携の取りにくさ等を痛感した。しかし今後も、年齢や障がいという縦割り区分だけでなく、多重多問題を抱えたケースが増えていき、地域や関係機関が集まって検討しなければ、サービスをスムーズに繋げない場合が出てくるだろう。フォーマルなサービスが使えない状況の時こそ、ケアマネジメントの力が試される。現場で直接その状況に出くわした時、居宅介護支援事業所の限定された役割を超えて、調整していかなければならないことがあると教えられた。決して、Aさんの死を無駄にしたくないと強く感じた。
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夜這い推進委員会?! ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2012年8月号】

 ある日の夕食時…。ユニット“こと”のリビングに歌声が響いている。コラさん(仮名)のご機嫌な歌だ。コラさんは普段は居室に籠もっていることが多く、食事もベッド上で介助してもらっているのだが、時々こうやって、気分のいいときにはリビングに出てみんなと一緒にテーブルを囲む。ニコニコととびきりの上機嫌で歌ってるもんだから、お向かいに座っていたトメさん(仮名)にもウキウキが伝染、「は〜、ヨイヨイッ♪」なんて手踊りで応えている。
 お、いいぞ、何かよっぽど良いことでもあったのかな?と、こちらもワクワクして声をかける。「コラさん、いいねぇ、歌っこも踊りっこも〜」すると、「本来ならば、年寄り楽しませるために、おめたち職員がやるべきことだがなぁ」と辛口コラさんらしい返事。お、コラさん節も全開だな、とさらに嬉しくなる。私が「歌っこも踊りっこも、何もできねぇの〜」と返すと、「なっさけねぇなぁ、今の若いもんは」と来る。でも表情は柔らかく、トメさんの「いいよ、いいよ、いいですねぇ♪」も加わって、コラさんもニッコリ。これ知ってるか?あれわがるっか?と、演歌から軍歌までレパートリーが豊富!トメさんの手踊りも「ヨイヨイ、よいっと、なぁ〜♪」と調子が上がってくる。「わぁい、祭りが来たみたいだ〜」リビング中が笑顔に包まれる。「そうさ、コラ祭りだよぉ!」とコラさんの声、「はぁ、よかったよぉ、ヨイヨイ♪」とトメさん。こうなってくると、普段は食事がなかなか進まないという人も不思議と食欲が出てくるからビックリ、同じテーブルにいたサチ子さん(仮名)にも「ぐふ♪」と笑顔が見える。
  今までに聴いたことのない歌も出る。
  ♪〜すととん すととんって戸を叩く〜 今さら
イヤだって どうするの〜イヤならイヤだと最初から〜
イヤば すととんで 通わせぬ〜♪
 なんとも不思議な歌詞だが、コラさんも「おめさん、これ、おべたっか?」と、ニヤリと含み笑いを浮かべている。「いやぁ、初めて聴くねぇ…。なんだか夜這いのことを言ってるようにも聞こえるけど…」と返す。すると、「は!おめ、夜這いなんてぇ、よぉぐわがったこど!」とコラさんの顔がパアッとなった。
  「通う方も心を決めて戸を叩くんだが、待ってる方だって、今晩あたり来るべぇとわがってて待ってるもんなんだ。それを、わざとイヤだイヤだと戸を開けねぇんだとさぁ、そういう歌」と、うっとりとして遠い目のコラさん。
  「色気と情緒が感じられて、なんだか素敵な歌だねぇ」
「そうさ、色気もねんば、そこで終わり」
「そうだねぇ…、粋な文化があったのにねぇ」
「おめ、少しは話、わがるみてぇだなぁ。あのね、今は昔のように夜這いなんてぇことしてみろ、それこそ警察沙汰んなる。そうでしょ?」
 “警察沙汰”というワードに思わず笑ってしまったが、
「そうだねぇ、源氏物語の頃なんて、そりゃ〜豊かだったろうねぇ!」
「そうさ!今じゃ、色恋沙汰でピストル、バンッ!…よ」 「考えてみれば、なんだか世知辛い感じになっちゃったのかもねぇ」
「政治家がズルやりゃ、親子で殺し…。日本も色気がねぇんば、終わりさ」
 普段からラジオを熟聴しているコラさんらしいセリフで「なっさけねぇなぁ」と嘆いている。でも、気を取り直したのか、「歌っこだの踊りっこだのして、楽しませてくださいよ!」と、今度は“どんぱん節”が始まった。トメさんの踊りと相まって、食卓にはみんなの笑顔が満開だ。 「仕事、仕事って、今のおなごはきかなくなって(強情になって)わがねぇんだぁ、色気もねんば」
 コラさんの〆のお言葉がザックリ胸に突き刺さる(笑)。
 エロスの力で、鬼も怨念も豊かに育んでいきたい、そんな物語が拡がるといいな。
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利用者さんの思いと歩く ★デイサービス 及川紗代【2012年8月号】

 デイサービスの利用が一年になる政雄さん(仮名)。まだ若くて60歳になったばかりだ。見た目も若く、肉体的にも頑丈でどう見ても高齢者ではない。若年性認知症で働き手でもあった時点での発症は、本人も周囲も混乱をしたことだろう。家では暴力もあり、かなり大変な状況だったという。
政雄さんにとってデイサービスは、“仕事をする所”で、働きに来ているのであって遊びに来ているのではない。高齢者に囲まれてゆったりした時間を過ごすことの多いデイサービスでは「こんな事をしている場合ではない!働かなければ!」という気持ちに駆り立てられるのか、デイホールで過ごさず外に出て歩くことが多い。当初は「俺はこんな所にいれない!」「来なければ良かった」と怒りだすことも度々だった。一年も過ぎて次第に馴染んでくれたのか、怒りが出る回数はかなり減ったし、家での人間関係も良くなった。しかし、土木関係の仕事をしてきた人だけに外で過ごしたいのは変わらない。
 政雄さんは、子供の頃から父親を手伝って田んぼや畑仕事をしてきたという。その後家を出て働き、会社を設立して社員をまとめ、朝から晩まで働いた。一生懸命働くことが、生きがいだったのだと思う。行き帰りの送迎時や、一緒に外を歩く時「この辺りの田んぼは全部俺が作ったんだ」と田んぼの景色を見ながらいつも話してくれる。戦後の引き揚げ者を受け入れる農村開拓の国策事業の一端を、最先端の現場で担ってきたのだ。ほとんどが仕事の話で、とても誇らしげに語ってくれる。
  “仕事がしたい、山に行きたい”という思いが湧いて、毎日デイに来ては外に向かう政雄さんだが、私は政雄さんが心の中に抱えている“何か”が気になって仕方がない。
  最近「あそこで姉が働いている」と遠くの山を見つめ「姉がいるかもしれない…」と話す事が多くなった。彼が見つめている景色は県北の故郷のイメージになっている。奥さんや娘さんの話も、時々出てくる。遠くを見つめる表情や言葉にどこか、寂しさや、もどかしさを感じてしまう。
  私は初め、政雄さんと関わるのが苦手だった。頑固で、怒りや すく、ひとりで怒ってはプイッと出て行くので困った。背丈もあって体格がよく力もあるので、怒って他の利用者さんとぶつかって、事故になったらどうしようと不安で仕方なかった。一方で年齢も若く、自分の父とどこか重ねて見てしまう所もあり、私はどう接していいか悩み、知らず知らずのうちに距離を置いてしまっていた。それでも、一緒に歩いたり話をするうちに、政雄さんが繊細な感覚の持ち主で、仕事に打ち込み、家族に対する思いが強い人だということが感じられるようになった。苦手意識はいつの間にかなくなり、逆に気になる人になっていった。
  怒りやすいのは、繊細でいろんな事に深い感情を投げかける人だからだと思う。家族に対して暴力的だったというのも、認知症が進み、思うようにならない現実と、どうしようもない不安から、荒れるしかなかったのではなかろうか。家族の為に故郷を離れて働きにでなければならなかった事情もあったのかもしれない。切ないほど家族を思う気持ちが暴発し、言葉を荒げ、暴れる結果になったのだと想像するとやるせない気持ちになる。
  外に出て、山や田んぼを見ながら、今まで自分が作り上げてきた仕事の話をする時は、自信に満ちた語り口調になるし、見ていてその姿は凛々しくかっこいい。一生懸命に頑張ってきた思いが伝わってくる。山や田んぼの見える場所は、政雄さんにとって故郷を懐かしく思い出しながら、自分のやってきた仕事に誇りを感じられる、いい場所なのかもしれない。銀河の里の周辺を歩くことが、居場所として心地いい場所なら、いつも一緒に歩いていたいと思う。
  仕事だったり、人との繋がりだったり、人は誰かに、何かに支えられてこそ生きていける存在だと思う。戦後の時代を必死に生きてきた政雄さんは、今、里のこの場所から、生まれ育った故郷や、仕事に賭けてきた農村の景色を眺めつつ、認知症になって失った人生の何かを求めてあがいているような気がする。政雄さんが求めているものが何なのか明確にはわからないし、それが解ったとしても私には何もできないかもしれない。でも、言葉にできない様々な思いを心に秘めながら、遠くの山を見つめる政雄さんに寄り添い、これからも一緒に過ごしていきたいと思う。
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