2012年07月15日

光射す庭 ★佐藤万里栄【2012年7月号】

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今月の書「描」 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2012年7月号】

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頭に浮かぶその景色を
心に宿るその思いを

自由に描こう

そして世界に彩りを


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夏の花 ★ワークステージ 昌子さん(仮名)【2012月号7月号】 

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★今年は梅雨の時期を思わせない、暑い日が続いています。草木や花々も生き生きと伸びはじめ、絵のような「ひまわり、アサガオ、クレマチス」が咲くのが待ち遠しいですね。
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お中元ギフト、製造開始 ★ワークステージ 村上幸太郎【2012年7月号】

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★惣菜班では、お中元ギフト用のギョウザ・シューマイの製造が本格的に開始しました!ギョウザとシューマイは合わせて7種類あります。1日に1種類ずつ作るため、全種類できるまで7日間もかかります。ご注文は8月20日まで受付中です!どうぞよろしくお願いいたします。
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通路 ★理事長 宮澤健【2012年7月号】

  明治大学の弘中先生のご好意で、授業の一部で銀河の里の活動を紹介する機会をいただいた。先生によると学生の反応は悪くはなかったということだったが、私は伝えたり、繋がったりすることの難しさを感じてしまった。都会では人と人が繋がりを持たずに生きていて、それがまた良いところでもあるのだが、ここまで遠いものかという感じに少し戸惑い、驚いた。授業では事例の講読を主に進められているということで、その日はたまたま、乖離と、自閉、アスペルガーのケース論文だった。それだけで通じると思ってしまう私がまちがっているのかもしれない。学生さんからすれば、学びへの関心というよりも、こなすべき一コマの時間でしかないのだろうか。
 ちょうど7月7日の七夕の日で、『銀河鉄道の夜』の作者、宮沢賢治の花巻から、「銀河の里」が、あまのがわ通信を持ってやってきたのだから、何か織り姫、彦星に関連する話でもあるのかと関心を持ってもらいたかったが、100人教室の授業では、都会の切れた人間関係が持ち込まれて、希薄な関係で生きていくしかないのだろうか。
 現代人は神や超越との関係を失って久しい。何ものとも繋がらず、個々が単独で生きていかねばならない。全て個が責任をとらせられる時代の個への重圧は並大抵のものではない。心の深い闇まで自分の責任なのだ。それを抱えきれる個人があるだろうか。耐えきれない重圧に、乖離を使うか、表層だけに留まって薄いペラペラの人生を生きるしかないのかもしれない。下手に自らの闇に挑んだとすれば、特別な力量のあるもの以外は、病理の渦に巻き込まれてしまう。深みに挑むためには、せめて、支えとなる他者の存在や、信じうる超越を存在させる必要がある。ヒルマンが“たましい”を、「あるとかないとかの次元で論じるのではない、たましいというパースペクティブが必要なのだ」と言ったのは、今を生きる個人の支えという観点からも言えることだと思う。
 例のごとく、学生さんの何人かは、携帯をひらき、なかにはユーチューブを見いている人もいた。彼らは教室のこの場ではつながれないけど、どこかとは繋がっているのだろうか。七夕の織り姫と彦星はあまりに仲が良いので仕事が手につかなくなって、あまのがわの対岸に分けられ1年に一度、七夕の日にしか会えなくなったという物語だ。子どもの頃、愛し合っているのに1年にひと晩だけしか会えないのはとてもかわいそうに感じた。雨が降ってその年は会えないとしたら気の毒だと、七夕の天気を気にしたものだった。そのうち、雨や曇りの方がみんなが見ていないから濃密に仲良くできるんじゃないかと考えるようになったのは、大人になったということだったろうか。
 携帯でどこかと常時繋がっている今の学生さんと、1年に一度しか会えない七夕の二人と比べてどうなんだろう。七夕の二人は普段、会えないからこそ相手のことを思い続けることで、二人の間には通路が開かれているように感じる。1年に一度会えるのは、通路を維持する儀式として重要なポイントだ。常時つながれる携帯ははたして通路として機能するだろうか。それは今どきのつながり方なのだろうが、むしろ切れていることの補償として必死に強迫的に繋がろうとするとても辛い通路に感じる。
 先日、あじさいが盛りの鎌倉を歩いた。暑い日で道中にあったお店に入ってくずきりを食べた。庭があって風情のあるお店で暑さをしのいだ。ところがそこに眼鏡を忘れた。岩手に帰ってから電話すると、女性店主が丁寧に応対してくださった。80歳になったというその女性店主は震災のお見舞いと、何もできないことへの謝辞とを語られ、日本人として頑張っていきましょうというような語りをされた。それが自然でこちらも襟を正したくなる。店主と客という不特定多数の関係ではあるのだが縁を大切に感じる日本人の感性がしっかり生きていた。送られてきた荷物には便せん2枚に丁寧な言葉が綴られて小さな商品も添えられていた。
  現代人といっても世代によって、地域によって様々あるのだろう。柳田国男が『山の生活』のなかで紹介している話がある。
  実に落ち着いた表情をしている老人を見かけるのが気になり、あるとき、どうしてあなたはそれほどまでに平穏なのかと聞いてみたという。すると老人はこともなげに「ああ、私は行く先が決まっているのです」と応えたという。つまり、老人はもうすぐあの世に逝く歳だが、亡くなればご先祖様になる、そして一族から敬われることが決まっていると言うわけだ。柳田は深く納得したというのだが、このエピソードを通じて「近代人はどうだ」と問いを投げかけたのだと思う。ご先祖様や世間様など、これまで繋がっていた多くの通路を失ってしまった我々は、今後、何とどう繋がる通路を持つのかということは、時代の課題として重要な問いかけだと思う。
  日本の文化は論理的な解決を求めない傾向を持つ代わりに、いろんな通路を作って世界のバランスをとっていたように思う。家屋も閉じたシェルターとして構成されることはなく、中間領域の縁側や中庭を通して外である自然とつながるようになっている。商家であっても表がお店で仕事の場なら、そこは世間と通じる通路と捉えてもいいだろう。商家の床の間には水墨画が掛けられてそれは自然への通路として開かれ、仏間にはあの世への通路としての仏壇があった。いろんな世界とつながることで豊かな人生を生きる知恵を持っていたと思う。
 銀河の里は、障がいや老いを通じて、異界やあの世への通路を開き、現代の新しい通路を何とか見いだそうと模索し取り組んでいる。大いなるものや異界との通路を持って現実が支えられていないと、こころは辛くなるし追い詰められ、たましいはやせ細ってくる。村上春樹のパラレルワールドもそうした世界のバランスを問いかけるものだと思う。村上の作品が世界中の若者に読まれているのは、そうした希求が若者の心の奥底ではかなりあるということではないだろうか。
 現代においては、個々があらゆる通路を失い、何とも通じていない状況が続く一方で、自己責任や自己決定の圧力が個人に対して限りなく高まる。結局、個々人は何ものとも繋がらないばかりか、誰とも生きていないところにまで追いやれてしまう。そうなると、怒りや暴力が噴出しやすく、収まりもつかないまま暴発し荒れ狂うことになる。そんな追い詰められた心を描いた映画『KOTOKO』が5月に公開された。シングルで赤ん坊を育てる若い琴子は、他者が受け入れられず、他からのアプローチに敏感で“侵入”と受け止めてしまう。田舎や兄妹とはかろうじて繋がれるものの、世界からは分離された世界に生きている。乖離された琴子のか弱い自我は、リストカットと暴力でやっと自分をこの世の現実につなぎ生き延びている。そこには他者が成り立たず、同時に自分が崩壊していく。そんな彼女をかろうじて支えるのは歌だった。歌を歌っているとき彼女は自分を取り戻せそうになる。そんな彼女の前にタナカという男性が現れる。タナカは親身になって彼女と生きようとするのだが、琴子の暴力に引き裂かれて消えてしまう。
 タナカはなぜいなくなってしまったのか。映画を見ているとあそこでいなくなることはないじゃないか、やっと光が見えはじめたところでなんで消えたのかと思う。タナカが踏ん張れば琴子は救われたはずなのにと。でも本当はタナカは琴子に殺されてしまったんだと思う。タナカを殺すことで琴子はやっと光を見た。タナカの殺害は琴子の救いだった。タナカは日常的な暴力に必死で「タイジョウブ」と耐えていたけど、命はもたなかった。タナカは逃げたのではなくて、琴子に殺され消されたんだと思う。その段階で琴子は癒され、いくらか持ち直すが、それは彼女自身の心の殺害でもあった。琴子はさらに深い病理の闇に沈んでいく。自分や大事な人を傷つけることでしか自分が保てない琴子の闇の深さはどこから来るのか。そうした深い闇から彼女の魂は救出されうるのか。
 今月の施設長の文章にもあるように、六車由実さんの本に出会い、感動のあまりお手紙を書いた。彼女の著作2003年のサントリー文芸賞の『神、人を喰う‐人身御供の民俗学』は、おぞましく、異様な暴力の儀礼を「毒抜き」せず、今も共同体のなかにう ごめく暴力として直視する姿勢で挑んだ労作で、現代民俗学の重要な成果として宝のような本だ。共同体に潜みうごめく深い暴力 性を人々はどのように扱い鎮めたのかというのは、遠い昔の課題ではなく、むしろ今日的であり、今後の地域社会を形成していく上でも、国際的な和平を考える上でも重要なテーマではなかろうか。河合隼雄は、日本人の急激な西欧的変化に言及しつつ、モノがありふれる時代になったからには、倫理や、心の問題、宗教などを国民全体で考えるようでないと、21世紀は、なにか面白くない、ギスギスした時代になるんじゃないかと語っている。これから日本人は、個々が自らの内にあるかなりの暴力と向きあう必要に迫られるのだろう。「竹取物語」や「夕鶴」のように「消え去る女性」では物語が完結できない時代になっていて、村上春樹の「ねじ巻き鳥クロニクル」のように、消えた女性を捜さなければならない。河合はその物語を完成するためにはものすごい暴力が要ると言う。凄まじい暴力行為をやり抜く決意のもとに、「消え去った女性」とやっとめぐり会うということがあるのではないか、それは大変困難で危険なことだ、と述べている。それはこの時代に科せられた宿命でもあるように思う。
 人間は人間を喰う存在であることはそれぞれが充分に認識しておく必要がある。現代のように宗教が力を失い、個が全ての責任をとって生きる時代には特に重要なことだ。ところが、個人の力は極めて小さく、まして自身の心の闇などは全く手におえない。暴力は闇の住民であってそれを手なずけることなど、個人の力量では及ぶべくもなく、一個人ではなすすべもない次元の話しになってくる。
 相当な困難な道を我々は歩まねばならない。それでも我々は新たな通路を見いだしていく必要がある。鎌倉の老店主の手紙はこう結ばれている「鎌倉へ行って良かったと心のいやしになれば、私共の頑張る励みになります。日本人としていろいろなかたちで 励まし合える幸せを思っております。一日も早く平和で穏やかな日々が来ますようにご祈念申し上げております」人間として大いなるものとの確たる通路を持って繋がっていなければこんな言葉は紡げない。さすが古都鎌倉の女性だと恐れ入るしかない。深く感動させられるばかりか、なにものかに包み抱かれたような気持ちなる。日本人が本来持っていた心の深みがそこに生きている。
 銀河の里では、利用者がそれこそ日々、いろんな通路を見せてくれる。障がい者の活躍も通路を開くという意味ではすごいものがある。銀河の里は利用者や我々自身の持つ傷や弱さのなかに活路を見いだそうとしてきた。それは、新たな暴力を行使するまでもなく、すでに運命や時間の暴力と戦って生きている姿があるように思う。そこに新たな通路が開かれる可能性を感じる。それを信じていけるところまで行ってみたいと思う。
  【参考文献等】 映画『KOTOKO』
『これからの日本』河合隼雄
『山の生活』柳田国男
『癒しの日本文化誌』藤原成一
『神、人を喰う ‐人身御供の民俗学』六車由実
お店『くずきりみのわ』鎌倉市佐助
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99歳と結婚式へ ★グループホーム第2 佐々木詩穂美【2012年7月号】

 4月末、豊さん(仮名)の娘さんが来里され、豊さんの耳元で「今度、豊さんの孫が結婚することになったよ。豊さんの初孫だった孫!分かる!?」と話しかけられた。「うん、分かるー」とはっきり答えるのはグループホームでも第2番目の大長寿、99歳の豊さんだ。
 今年の2月、体調を崩して入院した豊さんだったが、3月に退院し、めでたく99歳の誕生日を銀河の里で迎え盛大に祝った。入院していた時ははたして帰ってこれるものかとまで家族さんも心配されていたが、それが嘘だったかのように、特に99歳の誕生日以降は前よりも元気なくらいに毎日元気で完全復活している!!
 その豊さんの孫さんの結婚式があるということで、娘さんがどんなものか報告がてら様子を見に来られたのだった。「5月5日に花巻神社でお祝いすることになったんですよ。家族が揃うので本当は豊さんも一緒にって思いますけどね‥でも連れてけば大変でしょー、手がかかるし‥」というお話しだった。
 こうした相談を受けると、戸惑ってしまって、グルグルして何を話して良いかよく解らなくなるのがいつもの私なのだが、このときは何かがピシッときた。「んじゃ、こっちのスタッフがついて一緒に行けば大丈夫ですか?」と私の口からすぐ出てきた。手順として、5月の予定表をみて、ゴールデンウイークの祝日は昼食作りがあったりして、スタッフ1人抜けたら勤務体制が難しいなー‥とゴチャゴチャ考える必要もある。でもこのときは、1回しかないこの日を大事にするしかないという気持ちが最優先で、「なんとしても参加したい」と動じなかった。今は、それを支えてくれるチームもある!相談さえ必要のないチームの後押しが私にとっては大きい。
 神社で孫さんの結婚式に99歳の豊さんが参加する。こんな凄いこと2度とない。豊さんの退院以降の復活はこの為だったのかもしれない!と私には思えた。娘さんは申し訳なさそうに「でも迷惑かけるし、両家が集まる結婚式だからね‥参加してもいいか、あちらのご両親にも相談してみるね。もし参加できるようであればまたすぐ電話するし、ダメだったら電話しませんから」と言って帰って行かれた。娘さんも豊さんに参加してもらいたくてしかたないのだ。それを家族だけでは難しいから、里のスタッフが支えるかどうかだった。許されるなら私だって絶対に豊さんと参加したい。認知症だからおかしなことを言うかも知れないとか、変に思われるかも知れないという意識が入らなければいいなと願った。
 それから何日間か電話がくるのを心待ちにしていた。ところがなかなか電話はこなかった。半分あきらめていた頃、「参加してもいいことになったので連れてきてもらえますか?」と娘さんから連絡が入りスタッフみんなで喜んだ。 それから豊さんに「5月5日は花巻神社で孫さんの結婚式だよ」とスタッフそれぞれが毎日のように声をかけた。豊さんは「分かったー、5月5日いい日だな。大丈夫だー」と言って応えてくれて、良い感じだった。
 5月4日の前日は、スタッフ全員が意識していたせいか、豊さんにその緊張が伝わったらしく、豊さんは朝から気合が入って今日が結婚式だと思いこんでいたるようだった。あまりに気合いが入っているので、「もしかして豊さん1日早く間違えてない?」とスタッフで話していると、やっぱり「あー、間違えた〜」と豊さんは自分で1日早く間違えたことに気付いた。本人もスタッフもかなりの気持ちの入れようだった。
 いよいよ結婚式当日。数日続いていた雨はやんでいて、豊さんが予報した通り天気にも恵まれた。前もって娘さんと孫さんが届けてくれたスーツに着替えた。ところが以前かけて いた眼鏡を出して掛けるとネジが外れていたので応急処置をした。女性スタッフが慣れない手つきで眼鏡のねじを締めた。何とかなった感じで眼鏡をかけ、ネクタイをすると豊さんの貫禄にビシッと決まった。車椅子に座って足を組む姿は、今までにない立派な豊さんで見とれてしまった。堂々とみんなに見送られて出発。車中、豊さんは眼鏡を気にしてなんどもチェックしていた。
 結婚式会場の神社に着くと、孫さんとそのお嫁さんが「豊さんよくきたね〜」と暖かく迎えてくれた。豊さんの周りに家族さんがみんな集まって、今日の主役は豊さんのようだった。娘さんから「99歳になるウチのおじいさんです。今日はせっかくなので施設の方に連れてきてもらいました」と紹介してもらった。
 いよいよ神社での結婚式が始まると、結婚する2人の後姿を静かに見つめ、隣に座っていた末孫さんの手を握る豊さんがいた。厳かに式は進んでいたのだが、なんとその最中に応急処置していた、眼鏡が外れてしまった。振り返った孫さんとお嫁さんが「じいさん眼鏡外れてら」と気が付いて大笑いになった。家族みんなが振り返って注目になった。私は、「あ〜しまった」と思うが、かえって場が和んだ感じになって、みんな笑ってみていてくれる感じで温かい空気があった。
 一難去ったところで、今度はお神酒が回ってきた。豊さんは普通の食事ができず、普段はソフト食で水分もトロミを使ってのどに詰まらないように摂っている。そんな豊さんにお神酒がまわってきたので、無理なんだという雰囲気でまたみんなの注目が集まった。ところが、お神酒徳利が渡されると豊さんは、挨拶が待てずに一気飲みした。その姿にみんな驚きながら笑ってくれた。ほとんどむせずに飲んだのは凄かった。おかげでめでたい席でお酒を飲みすぎたような赤い顔になった。
 太鼓が打ち鳴らされ、式は終盤に入り、神主さんが「これで閉式です」と言ったら、それに豊さんが「はい、ご苦労さーん」と大きな声で応えた。かなり耳が遠い豊さんだから、神主さんの声は聞こえないはずなのだが、やりとりのタイミングがバッチリなのは不思議だ。こうして式を最後の最後に締めたのはやっぱり豊さんだった。まるで結婚式の主役だったかのような豊さんの存在と、それを受け入れてくれるとても和やかな家族さんで、温かい雰囲気の結婚式だった。  式の後は全員揃って記念撮影をした。孫さん達を中心に家族が集まって、孫さんと同じ列の並びに99歳の豊さんもしっかり入っている姿は感動的だった。
 家族さんと、こうした感動を一緒に共有できることへの感謝と仕事への誇り、里の場のありがたさが相まって、貴重な感動の場面に立ち会えて私自身幸せな気持ちになった。 来年100歳の豊さんの元気で、これからも私を引っ張っていってもらいたい。
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いつも新人の気持ちでいたい ★特別養護老人ホーム 川戸道美紗子【2012年7月号】

 3月末に銀河の里に来てもう4カ月目。毎日毎日ダメダメな自分ながら、あっという間に日々が過ぎて行く。 6月30から2日間、新人研修で東京・鎌倉へ行ってきた。東京ではピナ・バウシュ追悼公演と杉本博司展『ハダカから被服へ』を観て、それから大磯のホテルに宿泊し、翌日は鎌倉でそれぞれ自由行動。私は長谷寺、鎌倉大仏などをめぐり、江ノ島水族館を見学した。研修といっていいのか分からないほどはしゃいだ感じで過ごした2日だった。
 研修から帰ってきて翌日、さっそく江ノ島水族館のお土産「深海まんじゅう」(真っ黒のごまのおまんじゅう)をユニットのおやつの時間に食べた。ほぼ昼夜逆転しているが、元気で気性の激しいおばあちゃんのコラさん(仮名)は、いつもはおやつの時間帯は居室でぐっすりなのだが、しかしこの日はタイミング良く「水っこくださーい!」と起きてきた。チャンスとばかり、私はコラさんに「まんじゅう食べない?」と声をかけた。コラさんは来たかとばかりに「・・・まんじゅう?(笑)あなたのまんじゅう食うってか!!(笑)」といつものように下ネタでふってくる。コラさんの下ネタは体調も機嫌もいい証拠!私もテンションがあがり一緒におまんじゅうを食べる。
 「やや、真黒だじゃ〜!どこで買ってきた?」「江ノ島!」「江ノ島?聞いたことあるなあ」「そこさ行って来たんだよ」「なしてや?」「(うーん、研修のことをどう説明しよう?と悩みつつ)・・・社長に、早く独り立ちするように行ってこいって言われて行って来た!」と言ってみると「ほ〜う!」と感心して聞いている。私は、初めて行った鎌倉のこと、江ノ島は、生えている木々も岩手と全然違ったこと、海にたくさん人がいたこと、自分が新鮮に感じたことを次々と伝えた。
 「・・・その社長、本当にいい人だな〜。たとえば『寂しい』とか『大変』とか言ったって、誰かを送り出す時そんなの言ってられなくなる時もあるんだ。社長はあなたをなんとかしたくて連れでったんだよ?難しいと思っても。人は、どこさ行っても寂しいんだよ。その寂しさをどうにかするのは難しいんだ〜。・・・生きるってのは、 難しいんだ。・・・オラだって難しいと思って生きてきた、結婚だって遊びじゃねえ。お互い出世してからでないと結婚してはダメ。生活してかねばいけねんだもの」
 コラさんはたくさん喋ってくれた。それはいつもの世間話やグチではなく、違った語りだった。何というか・・・初めてコラさんから【学ぶ】感じがあった。“生きるって難しい”、とコラさんは語った。荒波に揉まれて生きてきたコラさんの言葉だからこそ、胸に響くものがある。
  コラさんは私に聞いた「あなたは歩きたいと思うか、ここさとどまっていたいと思うか?」と。なんのことか具体的には解らなかったが直感的に「私は、歩きたいと思う!」と応えた「んだば歩くんだ、ここさとどまっていたい人は、それはそれでいいんだ」と返って来た。『歩く』は、きっと物理的な意味だけじゃないだろうな。私はいろんな事を経験したいし、なんでもやってみたい、行ける所まで行ってみたい、場所も自分の成長も含めて。コラさんに『歩く』という言葉を貰ってそう思った。
  「今日は重大な話をしたよ」コラさんはそう言って話をしめた。わたしもコラさんから重大なことを学んだような気がした。普段とは違うコラさんに触れた。
 最近、コラさん本人が「ベッドの柵はずしてけで!でないば歩けないべ!」と“歩く”気持ちになってきている。私の第一印象は怖いおばあちゃんで、顔も中身も鬼のようで、話しの内容は現実で、グチも多く、やや後ろ向きなコラさんからそんな言葉を聞いて、私は何とも表せないキラキラした気持ちになった。最近、怖いのが抜けてコラさんの話は面白いと感じられるようになった。コラさんの怒りからも、元気や勇気や頑張ろう!という気持ちにさせられる。
 言葉は、その人の人生を表すと思う。どんな生き方をしているかで、きっと選ぶ言葉も表現も違う。コラさんからの教えは、コラさん本人から聞かなければ意味がないものだと感じた。新人研修も多くの経験が出来て刺激的だったが、毎日の生活の中にもこうやっていろいろな刺激が潜んでいる。刺激慣れしないで、いろんなことに感動していきたい!
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何かが動き出した・・・!! ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2012年7月号】

 この4月の新体制から3ヶ月、ユニットことをどう作り上げていくか、私自身厳しい戦いを迫られている。まだ先が見えないままあがいている現状だ。新人の川戸道さんと2年目の田村さんが頼みだが、二人がどう育つかが勝負になる。
 最近、利用者のミエさん(仮名)が大きく動き始めた。ミエさんは昨年まで2年くらいの間、事務所の玄関側に座り続けて数時間も誰かを待っていた。耳のかなり遠いミエさんは、こちらからは筆談で伝えるのだが、玄関で待っている時は息子さんのことが気になっているようだった。この4月、ユニットことが新体制を迎えてからその様子が変わった。ミエさんから息子がいなくなった。そして先月ミエさんは妊娠した。子どもは二人で3ヶ月と7ヶ月だという。川戸道さんが3ヶ月目、田村さんが7ヶ月。ユニットことに来てからの月日に合致した数字なので驚いた。それからのミエさんは、様々な形で動き出し、いろんな言葉をくれて、メッセージを送ってくれている。
 この日、私は今までではなかったような夢を見た。銀河の里に来てから面接で“夢”を取り上げて話す時間も持っており、この数年、夢からの示唆を大切にして注目してきた。夢の中で私はひたすら自転車をこいで山を超えて、小さな街に入り、坂を上っていく。途中で雨が降ったり、楽じゃない。でも私は「苦しい」とか「辛い」とは思ってなくて、嫌な感じではなく「晴れてるからいっか」と前向きな私がいる。坂を上っていくその先には木で出来た古ぼけた建物があって、そこに向かって私は進んでいく。その建物に入ると、父がいて、ちょうど食事をとろうとしているところだった。そんな父を見て安心している夢だった。夢に父が出るのはなかなかこれまでなかったので、自分も新たな段階にきているのかなと感じたのだった。
 その日は早番の出勤だったが、ミエさんは前日の夕方からスイッチが入っていて、「下に降りねばね」とどこかへ向う気持ちで事務所に向かい、中屋さんと筆談でやりとりをしていた。そこに私も加わり、ミエさんは気持ちを収めて、今晩は特養に“泊まる”ことにやっとなった感じだった。ミエさんの世界は深く、展開が早すぎてついていけなくなることもある。“泊まる”と決めたのも「本当に納得したのかなぁ?」と思ってしまうような感じだったので、もしかしたら夜も「行く」思いは続いて動くかもしれないな…とも感じていた。
 夜勤の田村さんからの申し送りでは、ミエさんは、あれから動くことなく夜間も眠ったということだった。ただ、早く起きて、自分で立って歩いてカーテンを開けたとのこと。ミエさんは、普段の移動は車椅子で、立ったり歩いたりすることはほとんどない。でも気持ちが動いて思いが強くなると、立ったり、歩いたりする。朝の様子に「今日は動くぞ」と何となく予感があった。
 ミエさんには動く日と、休む日があって、休む日は朝食を食べ終わるとすぐに部屋のベットで眠り姫のように眠りの世界へ入る。この日は、部屋に行ってもベットには向かわず、置いてあった過去の筆談のやりとりが書かれたメモの束を手に取って見ていた。さぁミエさんどう動く?と私も注目して構えていた。
 様子を注目していると、ミエさんは部屋から出て車椅子で廊下へ向った。曲がり角で一旦止まり、その先を見ていたが、なぜか引き返してきた。リビングまで戻ると、ちょうど朝食のために起きてきた遠子さん(仮名)の隣で遠子さんをじーっと見つめる。そのミエさんを見て静かに頷く遠子さん。ミエさんも頷き返す、2人はなにをコミュニケートしたんだろうか。私には見えない世界がある。  
 そのあとまた車椅子で、ユニットと事務所を何度か行き来す る。スギさん(仮名)の洗濯し終えた衣類を持って事務所に向かったこともあった。ミエさんは元教師なのだが、最近、動きのある時は教員になっている時が多い。「1年生の教室さ連れてってけで」「校長室は?」と特養の玄関から出て行く勢いだ。玄関では車椅子を投げ出して立ってしまっている。「若葉小学校の教室までお願いします!」と現実の明確な言葉が出てくる。持ってきたスギさんの衣類を“若葉小学校の乙部キエの机に置いてほしい”と頼む。こんな時のミエさんの勢いはもの凄い。このままならユニットの午前中のお風呂は中止にして、とことん付き合うしかないかとまで思っていたが、事務所の中屋さんや、ワークの美穂子さん(仮名)たちも絡んでくれてお風呂はこなして、ミエさんも一旦“一緒に給食を食べる”ことで落ち着いた。
 昼食が終わると、早速ミエさんはカチッと車椅子のブレーキを外した。「お、行くな?ミエさん!?」と思ったが、なぜか部屋に向かった。そばに寄った川戸道さんに「足りなかったな、ご飯」ときた。「え〜!?」と私も川戸道さんもずっこけて拍子抜けした。  眠って体力温存?今日はこれで終わり?と思いながら、しばらくしておやつに誘い、リビングへ出た。やはり“行く”感じはない。ショートの五七さん(仮名)に「先生は何を教えているのす?」と聞いていたので、“先生”のイメージは続いている感じだ。
 おやつを食べ終えると、一旦部屋に戻って、少しすると出てきた!そして、リビングをぐるり回り、私がサチ子さん(仮名)、スギさんと居たのだが、そのテーブルに近づいてきた。「来た来た・・・」私はドキドキして緊張した。
 ミエさんは私に近づくといきなり「動いたの?」と言った。利用者のこうした言葉は結構重くて難しい。謎解きになっていて、簡単な言葉じゃない。勝負を賭けられたようなものだ。しかもいきなり来る。はずしてしまうともう永遠に関わってもらえないような、大事なチャンスを逸してもう二度と戻ってこないようなそんな瞬間かある。“動いた?うーん、何が動いたんだ?”と私は必死に考えイメージを巡らす。始まったものはそらすことはできない、私はともかく「動いた・・・かなぁ?」とぼんやり答えた。すると「異動したの?今年からこっちに来たの?」「見たことねぇ人だと思ってす」とたたみかけるミエさん。そうか、私が異動して、この4月からユニットリーダーでやってきて、手をこまねいていることとシンクロした。現実は2ヶ月遅れだけど、まさに私の現状と一致してる!「そうそう、動いたんです!」と私は返す。ミエさんの中では私はこの度、異動してきた“新任の先生”のイメージなのだ。
 その時、私の横にいたスギさんの手には、ミエさんが事務所で中屋さんと筆談でやりとりをした紙があった。そこには“先生も生徒もみんな一緒に(給食を)食べます”と書いてあった。ミエさんはそれを読みあげ、「はぁー!いいことだっちゃあ!」とニッコリした。そして私の目を見ながら「いいことここで取り入れてやるべ!」とキラキラの目で言った。これは今の私にはあまりにも響く。“是非お願いします!ミエさんがいると心強いです!”と紙に書いて渡した。するとミエさんは「いんだ、一緒にするべし!楽しくするべし!」とものすごく力強い声とキラキラした表情でスギさん、そして私の顔を見て微笑む。「わ〜!!キエさ〜ん!!」もう私は胸が熱くなり涙が出そうになる。“頑張りますので、ミエさんの力を貸してください”と書くと、「貸す!貸すよ!その代わり、私も借りるよ!」とキラキラの表情で返してくれる。そしてスギさんに向かって「あーいがった!ほら、友達出来たよ」と言う。私はもう感極まって手を合わせて拝んでしまう。ミエさんは「一生懸命やるべしな!」とスギさんと私に語る。さらに、「2人の名前聞かねばね。書いでけで」と言うので2人の名前を書いて渡すと、ミエさんはマジックを持ち“ミエさんの力を貸してください”と書いた横に“私は乙武ミエっていいます と自分の名前をかいた。そして「あーあ、なんとなく先が明るくなった!友達出来て!」と言うので万歳した私。そんな私を見てミエさんも拍手し、スギさんが穏やかな表情で頷いてくれた。
 ミエさんはもう一度フルネームで自分の名前を書いて、「いいっか?登録したよ」とスギさんに確認した。さらに遠子さんを指し、「あの人はなんて言うの?」と尋ねる、どうやら遠子さんも 仲間のようだ。遠子さんも若い二人を育てるのに重要な人になることは間違いない。大事なことを深いところでわかって、ミエさんは動いてくれている。
 なんだかスギさんに支えられながら3人の同盟をスギさんが後見人でいてくれるような構造になっている。若い人材を育てる中心人物のミエさんがいて、全体を見守ってくれるスギさんがい る。私も育てる側の新人教師として入れてもらっている。ユニットことはミエさんに引っ張ってもらって動き出している。遠子さんもいれて、3人の力を借りながら、大事なことをしっかりと受けとめて、それぞれが育っていきたい。そして私自身もこれから新たな段階に入ってどう変わっていくのか、自分自身の変化にも期待したい。
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六車由実氏と出会う ★施設長 宮澤京子【2012年7月号】

 2年ほど前になるが、銀河の里10周年を迎えるにあたり、これまでの取り組みと、その意味をまとめたいと、高齢者ケアについての書籍にあたった。ところが20年も前の内容の繰り返しのような本や、それにいくらか書き加えたようなものばかりでがっかりしたのだった。そんななかでも、医学書院から出ている‘シリーズ ケアをひらく’は興味深く、幾冊かスタッフに割り振って読んでもらい、「銀河の里セミナー」で、各スタッフに感想や意見をまとめて語ってもらったりした。
 一般に介護行為に特化して「科学性」や「専門性」が発揮されると、介護する側される側の役割関係の明確化であったり、問題や課題の解決が因果論で紹介されていたりするだけで、客観的かつ分析的であるものの、現場の生が平板化されてしまって辟易させられることがあまりに多かった。科学性や専門性だけの視点では、現場で起こってくる、日常の出来事や、関係性から引き起こされる出来事は、取り上げられることもなく、ルーティンワークの影に垂れ流しされ、記録もされない。なんともったいないことだろうと、歯?みすることがしばしばだ。
 こうした現状では、暮らしの中で生きている「ことがら」の主体である「個人」や多様性としての「個性」が消される危険にさらされる。そんな違和感や苛立ちに対し、業界の閉塞性に突破口を開く期待を持たせてくれたのがこの「ケアをひらくシリーズ」だった。最先端医療をはじめ、心理・哲学・宗教・社会・文化人類学等に精通した専門家が、科学性や客観性に基づく合理的理論構築の過程で削り落とされた、人間にとって大切なものに焦点を当て拾い上げたところに新鮮さを感じた。
 今年度、持ち回りで県南地域のグループホームの理事になった。県の協会は全国組織の下部組織で、その会合は情報共有に終始し、中央からの意図で物事は決まり、現場の息吹を吸い上げる勢いはなかった。役まわりとして堪え忍ぶつもりでいたが、来年度、全国グループホーム協会の全国大会が岩手で開催の予定になっているという。全国大会はイベント化しており、現場の研究や質を向上させるための実質的なアプローチはほとんどなく、大会は交流会になっているのが実状だ。そうしたことに時間とエネルギーを浪費させられてはたまったものではないと脱会も考えたが、実力者である内出さんに相談をした。震災以後、世界が日本人の生き方を見守っているさなか、生きること、死ぬことに一番間近に関わっている認知症介護の現場から発信する責任が、東北のグループホーム協会にはあるんじゃないだろうか。岩手は宮沢賢治や遠野物語のゆかりの地で、あの世や異界との通路を開こうとした賢治や、遠野物語という民俗学の発想を世界に向かって発信すべき時ではないのか。今、無為に終われば永劫に悔やむことになりはしないか。岩手で大会を開催する以上、そうした意義を持たせなければここでやる意味がない。
 内出さんは二つ返事で、一緒にやってみようと言ってくれたのだが、そうした方向に展開する確証はまだない。しかしどうせやるなら岩手の風土だからこそ培われた「遠野物語の民俗学的視点や宗教、哲学などの深い思想をベースにした大会」を目指したい。3.11の復興への道のりは、近代から戦後を経て現代に至る物質的な豊かさに奔走した日本人の生き方を問うことでもあり、「そこに救いや希望はあるのか」と全世界の人が注目をしている。科学やシステムの奢りから目覚め、人の生き死を真剣に考え深めていくことが求められる今、暮らしの現場である、認知症高齢者グループホームからそうしたテーマを発信することの意味は大きい。
 そんな動きもあって、改めて介護ケア論の出版物をあたっていると、六車由実氏の『驚きの介護民俗学』(2012年3月出版)に出会った。彼女は山形の東北芸術工科大学の准教授だった人 で、民俗学の研究者だ。その彼女が今は大学を辞めて、静岡の特養で介護員として働いているという。それだけでも驚くが、この本は民俗学の視点を持つ彼女が、高齢者介護の現場に身を置いて生まれたのだからすごい。
 理事長が岩手で大会を開く意義として「我々の現場で起こっていることは現代の遠野物語だ」「そうした視点を、グループホームの現場が持って、暮らしの専門家である福祉から発信しなければ福祉の未来はない」「宗教学者で賢治にも詳しい花巻出身の山折哲雄先生、遠野物語研究の赤坂憲男先生、臨床哲学の鷲田清一先生などを招いてシンポジュームはできないか」などと勝手な構想をぶちまけていたその翌日に六車氏のこの著作に出会った。
 「民俗学」とはいうものの、介護現場で利用者と向きあう六車氏の姿勢やまなざしに「学」は感じられない。『驚きの介護民俗学』のいのちは「驚き」であり、しかも驚き続けることだという。一読して、そのまなざしは銀河の里のまなざしと全く違わないと感じた。ついにこういう時代が来たかと震えるほどだった。
 一般に介護施設においては、3大介助として食事・排泄・睡眠それに入浴・移動・着脱が加わり、これが作業としてルーティンワーク化されている。大半の介護現場では「慣れ」て「扱う」ことが要請され「驚き」は許されない。「驚く」ことは、介護技術の問題ではなく、「感性」やセンスであって、クリエイティブの問題だが、そんなものは大半の介護現場には一切求められない。それどころか、むしろ徹底的に排除される構造になっていると言っていいだろう。  その介護現場に、民俗学の「驚き」の視点が入ったことは革命的な事件だ。しかも民俗学の研究として入るのではなく、六車さんが介護員として現場に入ったことが大きい。語る者と聴く者との関係性のなかで紡がれる物語が重要だ。この著作の中でも述べられているが、たとえば「回想法」というメソッドの押しつけや当てはめでは、キーワードの「驚き」が消失し、生きた言葉は出てこない。関係性による相互の変容がないなら、「自分史」の編纂者に過ぎない。また研究のために介護現場に入るなら、その恣意性や対象化によって、利用者に傷を負わせることにもなりかねない。
 ただ現場は忙しい!日常的に人手が足りない。「聞き書きするには、もっと体制を厚くしてくれ!」という声が上がるだろう。また「驚かないように気持ちをセーブしなければ業務が回らない」ので驚かない人のほうが仕事ができると評価される。さらに「驚く」ということは結構難しい。何でも驚いていれば良いわけでもない。単なる感激屋でも困る。言語による表現や感情表出の少ない利用者や、認知症で言語的なやりとりが難しくなると、人間に対する深い関心や知的好奇心がなくては迫れない。つい「素早く、安全・安楽に仕上げる」といった作業に流されてしまう。そこで里では「介護」に特化しないで‘暮らし’や‘関係性’を前提にすることで、利用者に細やかで深い関心を持つことに賭けてきた。 
「民俗学はね、あれは科学なんかじゃないですぞ」と小林秀雄は言っている。科学的な分析では成り立たない学問だということだろう。私は民俗学を暮らしと生の物語だと受け止める。現場の物語が編みあげられる期待を込めて、六車さんの活躍が楽しみだ。そのまなざしは、目に見えない点と点、線と線をつなぎ、人間の暮らしと生を立体的に顕現するのではないか。それはそのまま人間の生きた証であり、あの世とこの世をつなぐ循環をもふくめた人生そのものを描く。他者としての聞き手も巻き込んで、人生を生み出し、お互いの息遣いが感じ取れる濃密な時間の流れや空間が現場にできることは重要なことだ。
 六車さんはこの『驚きの介護民俗学』の前に大著を著している。2003年3月初版の『神、人を喰う』はものすごい本だ。サブタイトルが「人身御供の民俗学」。日本における人身御供という残酷でおぞましい祭祀が持つ「毒」そのものを直視し、毒抜きせずに、つまり自分自身のもつ残虐性として向きあい、鬼気で迫った六車さんの姿勢に敬服すると同時に「戦う同志」を感じた。私が思うには、人間は自身のおぞましい暴力性に恐れをなし、その残忍性を神にゆだねざるを得なかったのではないだろうか。現実において人を喰うのは常に人なのだが、神にその役割を担わせて儀礼化することで、人は自らの残虐から救われようと願ったのではなかろうか。『驚きの介護民俗学』は、介護現場において革命的なアプローチなのだが、『神、人を喰う』に比べれば毒がない感じがする。六車さん自身、福祉施設にやられているのかもしれない。現実の制度や体制はさすがの六車さんをしてもきついにちがいない。毒だらけの現場の物語に期待したい。私も次号の通信で、戦争の持つ「暴力」を、20代で戦争体験をした利用者2人の手記をもとに、自らの暴力性とも向きあいながら真っ向勝負してみたいと『神、人を喰う』に奮い立たされている。
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不思議なオリオンを支える裏方 〜支え、支えられて〜 ★特別養護老人ホーム 平野咲野【2012年7月号】

 ユニットオリオンで私の立場は「怖い姉さん」になっている。自分ではまったくそんな気はなかったのだが、いつの間にかそうなってしまった。それは利用者さんにも伝わり、「あの娘小さいのに力強いのよー。勝てないんだから」とか「偉くなって、乱暴だけっけもんな」などと言われてしまう。
私がこのユニットに来て2年が経つ。その間にリーダーが3人代わり、私は一番古株になってしまった。そうなると、自然に新人が来る度に教える立場になり、熱心に教えれば教えるほど、自分のきつい性格もあり、怖い人と見られるようになり、スタッフから「姉さん」とあだ名されるようになった。
 私は、完璧主義でそれを他人にも求めるところがあるからか、神経質な性格のゆえか、気持ちが顔に出やすいのか、いわゆる『普通の人』になぜか受け入れてもらえず、これまで嫌な目にたくさん合い、傷ついてきた。そんな不思議な私を銀河の里のスタッフは、変に受け取ることもせず、ましていじめることなど全くなく受け入れてくれた。
 私が、ユニットに入っただけでピリッとした空気になるし、私がいるだけでビビるスタッフもいる。それでも私のことを嫌いじゃないと受け入れてくれる。本来なら反発してもおかしくないような状況でも話しを聞いてくれる。そして何より、利用者さんとの関係の中で、鬼が出てくる私を受け入れてくれる利用者さんの懐の大きさに、いつも私の方が支えられてきたと思う。
 銀河の里では、利用者さんの気持ちに依り添った繊細な支援を目指しているのだが、そのためにも、他の施設がやっているような管理は基本的に達成されていなければならないと私は思っている。それが出来ることが前提で、いろいろと出掛けることができたり、おいしいものを食べに行ったり、楽しいことがたくさんできる。だが、体調管理が不十分で脱水になったり、褥瘡、便秘、転倒その他もろもろの事が出てくると、楽しいことどころではなくなり、医療管理に追いかけられることになってしまう。
 私は、3つのことを大事に考え、心がけてきた。それは「守り」「場をつくること」「作業」だ。「守り」とは大げさにいえば利用者さんの命を守ること。誤飲、誤嚥、転倒などの事故が起きないように見守り、体調管理もきちんとする。「場をつくる」は利用者さんが過ごしやすい雰囲気をつくること。スタッフと 利用者さんのやりとりを見守るのもポイントの一つだ。「作業」は日常生活を過ごすための家事などの仕事。だが、これらを完全にこなすことは難しく、常にユニット全ての利用者さん、スタッフにアンテナを張っていなければならず、その中で、自分はどう動けばいいかを瞬時に判断して動き、場の雰囲気を守りながらやっていかなければならない。その上で大量の作業はテキパキとこなしていく必要がある。とても神経と体力を使う仕事だ。  
 それをユニットのスタッフとチームを組んでやっていくのだが、スタッフのレベルが低いと極端に質が落ちてしまいやすいのも事実だ。高いレベルで質を保つのはスタッフで決まると思うので、どこか自分なりに必死になって、他にも求めてしまう。そんな感じで頑張っているうちに、私は自然に怖がられるようになってしまったと思う。決して怖いのを好きでやっているわけではない。
  オリオンの前リーダーであった三浦君は、私とひとまわり以上も年齢が若かったこともあって、私もオニ全開で厳しく接したかもしれない彼は悩みながらも、踏ん張って、驚くぐらい成長していくのが解った。若い人の力は本当にスゴイ。三浦君とは当初はぎくしゃくしたこともあったが、今は他のユニットのリーダーとして、また新たな課題に挑戦している。今でも、相談をしてくれたりするので嬉しい。オニ全開の私だが、そんな私を慕い頼りにしてくれる人もいるのでありがたい。
  ユニットオリオンは、別名「オニオン」と呼ばれるくらい、アクの強い利用者さんばかりで、スタッフもそれに負けないくらい強い気持ちでないと勤まらない。なので、利用者さん同士で徒党を組むようなことはない代わりに「自分は自分、人のことなんて知らない」という、我が道を行く感じの利用者さんが多い。ケンカや言い争いが絶えることはなく、いつも大荒れで事が起こってくる。スタッフは「今日もやっているな」「元気がいいな」と起こってくるもめ事も、それそのものが人生だと味わい楽しんでいる。
 私はスタッフを支える立場になっているが、本当は利用者さんと一緒に楽しみたい気持ちが強い。スタッフそれぞれに気になる利用者さんがいるし、やりたいと思うことも出てきているのでそれを実現していきたい。
  銀河の里は指示管理的な組織ではなく、現場のスタッフのそれぞれの思いがチームワークで動いて、それが支えられていくという感じがある。そういう意味では、今のオリオンは、どこかまとまっているというか、雰囲気ができているように思う。この感じを私はフォローしたりサポートしながら、楽しんでいきたいと思う。
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画伯とお散歩 in 盛岡 ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2012年7月号】

 昨年、美術館デビューを果たしたワークの昌子さん(仮名)は、その後も絵の制作に意欲的だ。去年の夏からワークステージの食堂に飾っていたプリン・シリーズの絵を「ずぅっとおんなじ絵じゃ、つまんないでしょ?たまには替えたらいいかと思ってさ」と意識が高い。そこで新年度になったところで総入れ替えをした。一度に飾れるのは4点までなので、好きな絵を4枚選んで新たに額装して飾った。「なんか雰囲気ちがくなったね♪」とニンマリ満足顔。残りの絵をしまいながら「もっと額がいっぱいあったら、ぜんぶ飾れるのになぁ…」と、額を買うためにお給料を少しずつ貯めているところだ。
 先日、私と日向さんを誘って東和町のギャラリーに行った。ギャラリー“ぷると”の奥様方はプリン展でお世話になった方々で、昌子さんも「久しぶりに会いたい」と積極的。7年前ワークを利用し始めたとき、極度の人見知りで一日泣いて過ごす、今にも消え入りそうな昌子さんだったが、今では別人のように逞しくなった。特に絵描きの人たちとは全く違和感なくやりとりして、初めての人でも自然と打ち解けてしまう。
 “ぷると”の作家さんから「私たちも参加しているから、よかったら行ってみてね」ともらったイベント「モリブロ」のパンフレットを興味深そうに見ていた。昌子さんの目はひとつの絵本に釘付け…「ぐりとぐら!知ってる〜!カステラ♪」盛岡市内のあるイタリア料理のレストランが「ぐりとぐらの絵本に出てくる大きなカステラを再現しました」とコメントしている。「よし!じゃあ、お昼はこのレストランで食べることにしよう!」と一緒に盛岡へ行くことになった。
 当日は、例によって昌子さんが決めた時間と場所で待ち合わせた。車に乗り込んだ昌子さんは、第一声「あ〜、疲れたぁ…」と言う。どうやら、待ち合わせ場所で知らない人に道を尋ねられたらしい。「お婆さんに道きかれて教えたの、ありがとうって言ってたよ。あ〜、疲れちゃった!」知らない人に声をかけられて「怖かった」のではなく、ちゃんとお話できて、しかも道まで教えることができて「嬉しかった」という感じがスゴイ。でもやっぱり「疲れちゃう」くらいのエネルギーは使ってしまうようだ。
  とびきりの晴天、高速道路に乗って一路、盛岡へ!「あっ!飛行船だ!」と昌子さんが指さす。飛行船がひとつ優雅に浮いている。「昨日もおとといも見たんだよ!すごい、3回目だぁ」この日は六魂祭の最終日だったらしく、「お祭りの宣伝かなぁ?」おかげで高速を降りるとそこは大渋滞だった…。
  世間に疎い私は今日がまさか六魂祭とは全く知らず、渋滞の渦と満車の駐車場…。イライラする私とは逆に昌子さんは、「人がいっぱいだねぇ!」とウキウキ感が増している。「いつもは人が多いと具合悪くなるだの嫌だのって言うくせにぃ〜!駐車できなきゃ、ぐりとぐらも見れないんだよ、ぷんぷん!」と怒る私の横でキャハハと笑っている。やっと探した駐車場で「どのくらいで戻るの?」と尋ねる駐車場のおじさんに「2〜3時間くらいかな」とキーを渡すと、「行ってきま〜す」と手を振る昌子さん!…考えられない。
  運良く、目的のレストラン付近に駐車することができた。店が開くランチタイムまでの間、青空の下でソフトクリームを食べ、川の流れを見下ろしながら橋を渡り、駆け足で街並みをぬけ、雑貨屋を見て歩く。大勢の人は祭りの中心部へ向かって行くけれど、「なんかさぁ、うち らだけ反対に歩いてるね!」と昌子さんも楽しそうだ。
 ランチタイムぴったりにレストランへ到着。そして、カウンターのレジ前に立てかけてあったぐりとぐらの絵本を、昌子さんは見逃さなかった。メニューよりもそっちが気になり、注文をきかれてるのに「あの本、見ていいですか?」と言うので、店員さんと私は吹き出して笑ったのだが、お構いなしに絵本を手にしていた。 食後いよいよ、おっきなフライパンが目の前に登場!「わー、ホントにやったんですねぇ!」子供の頃からの憧れ、ふかふかの特大カステラを、ウェイトレスのお姉さんがフライパンから直に切り分けてくれる。両手で口元を覆って言葉もでない昌子さんの目は、真ん丸でキラキラしている。絵本のクライマックス、森の中でたくさんの動物たちがカステラを分け合って食べているページを開きテーブルに立てると「みんなで一緒に食べてるみたいだね♪」と、極上のデザートタイムになった。
 念願のぐりぐらケーキを堪能して大満足の私たちは、気分も上々♪「モリブロ」イベントの他の数ヵ所をまわって食後の散歩をする。そして、車に乗ってそろそろ帰ろうとしていると、昌子さんが「もうひとつだけ、行ってみたいところがあるんだけど…」と切り出した。「盛岡に美術館があるでしょ…?」と!(ほぉ、美術館!ちょうど今日まで松本竣介展やってるはずだったな)「行ってみるっか?!」「うん!」
 日曜日の最終日で大勢のお客さんで混み合っていた。一瞬たじろいだ昌子さんだったが、いったん展示室に入ってしまうと、一気に絵に引きつけられて集中していた。たくさんの絵が掛けられた壁面を一度グルッと見渡すと、ぐんぐん進み出て、一枚一枚なめるように観ていく。ちょっと離れた距離から眺めたり、つつつっと画面に近寄って細部を観察したり。その絵を観る姿勢はまさに絵描きの姿そのものだった。すぐ隣りに知らない人がいても大丈夫、うまく自分のペースをつかんだようで、時々、ニマッとしたり眉を寄せて首をかしげたりしながら集中している。私も安心して作品世界に浸ることができた。
 帰りの車内では、観賞後の感想もしゃべってくれた。「青とか緑の風景の絵が素敵だったなぁ…」と私が呟くと、「私は、人の顔の絵がよかった」と話す昌子さん。「いろんな色の顔があったよ、いっぱいあったよね」「あんなふうに人の顔が描けるの、すごいね」と語り、作品との大切な出会いが起こったことが伝わってくる。さらに「万里栄さん、行ったことあるのかなぁ?」と続く。銀河の里の絵描きさんで、通信の表紙の絵を毎月描いてくれている。「美術館、観に行きたいんじゃないかなぁ」と昌子さんは言う。「万里栄さんの絵、いつも目がないっけよ、どうしてだろうね?目がなきゃ、誰がだれだか分かんないよ〜」と笑っている。万里栄さんの課題を鋭く突いているかもしれない。本気で誰かと向き合えたら目が描けるようになるんじゃないか、との万里栄さんへの私の期待を、昌子さんはサクッとしょってくれている感じ。
 「さっきの絵の人、名前、なんていうの?」「松本竣介だよ」「まつもとしゅんすけ…、会ってみたいな、どこにいる人?」積極的だなと驚きつつ、「そっか、会いたいのかぁ、よっぽど気に入ったんだね。けどね、もう亡くなった人なんだよ」と伝える。「え〜、そうなのぉ?会いに行ってさ、絵描いてるとこ見てみたかったのに〜」絵画作品そのものを観るだけでなく、それを創造した人物にまで関心が向いていること、ひとりの画家が自己表現する姿、その現場を見てみたいという欲求の芽生えに驚かされる。“昌子画伯”もいよいよ本格的になってきたようだ。
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キリさんとのドライブ ★グループホーム第1 鈴木美貴子【2012年7月号】

  ・朝方の こころに残る 居心地を
うなずきながら 味わうあなた
 ・居心地が いいから居れる 場所だから
あなたがいれば 私も居れる
  ・私だけ ひとりでいても 落ち着かず
  私といてね あなたといるよ
 最近のキリさん(仮名)は、どこに行くというわけでもなく、車に乗ってその空間で過ごしたいという感じがある。車は今のキリさんにとってなぜか落ち着ける、自分の守りの場所なのかもしれない。
 ある日、朝食後にキリさんが外に出た。キリさんはこの日も車に乗りたい感じがあったが、どの車も鍵がかかっていて乗れず・・・開かなくて無理だねというような表情で私をみてうなずき、仕方なく歩いてハウスの方に向かった。ハウス前には理事長の車が止まっていた。ハウスに向かうのか車に行くのか・・・きっと車なんだろうな、車はきっとカギはかかっていないんだろうなと私は思いながら、キリさんと一緒に歩いた。
 キリさんはやはり車に向かった。後部座席のドアを開けてキリさんはゆっくりと車に乗る。この日は朝から暑い日だった。キリさんが「入って」と私も誘う。私も一緒にキリさんの守りの空間に入れてもらえた。暑かったので窓を開ける。車に乗っているとワーカーさんやWSのスタッフが声をかけてくれる。声をかけてくれた人に「入って」と優しく声をかけるキリさん。車の中では私とキリさんは特に会話するわけではなくポカンと過ごしている。車においてあった本をキリさんがめくり私に見せるので、うなずくとキリさんもうなずいている。そうこうしていると、ハウスの用事が終わった理事長が帰ってきた。来るなり「よし行くぞ」と乗り込んでドライブモード。キリさんも「みんなで行きましょう」と言って出かけることになった。
  「どこいくの」と言うと「10時だから銀河モール開いてるだ ろ」と理事長。10分ぐらいで銀河モールに到着。キリさんは車から降りない時もあるのでどうなのかなと思ったが、理事長が「ついたよ」とドアを開けるとすんなりと降りて、理事長の後をついてお店の中へ向かう。入り口を入ってすぐの所に赤ちゃん連れの若いお母さんたちが4人おしゃべりをしていた。キリさんは子供好きなので「あら、かわいいね」とその集団にはまってしまった。後ろをふり返った理事長はキリさんがいないのに気がついて慌てて戻ってくる。お母さん達は、にこにこ顔でいきなり乱入して来たキリさんに戸惑ったのか、どう受け止めて良いのか解らずかまわずおしゃべりを続けていた。戻ってきた理事長が間に入って、キリさんの手をとって、奥のテーブルに誘って座った。
  フードコートの店は11時まで開かないとのことだったので、理事長は飲み物を買いにスーパーに行った。その間、私とキリさんは向かい合わせに座って、特に会話はなかったが、気まずい雰囲気にはならず、落ち着いて過ごしていた。理事長が帰ってくるとにっこりして、私をみてうなずくキリさん。理事長が買ってきてくれたモナカアイスを3人で食べる。最近なかなか食べないことが多いキリさんだが、アイスに口を大きくあけてかぶりつき、おいしそうに食べながら、「いいね〜」と、ひとこと。キリさんの「いいね」は満足している時に出る言葉。
 赤ちゃん連れのお母さんたちと私たちしかいない広いフードコートは静かな空間だった。キリさんも落ち着いて立ち上がることもなく過ごした。 20分も過ごして、さあ帰ろうかとなった。キリさんは理事長と手をつないで立ち上がり車に向かう。途中、子ども連れの若奥様のグループに乱入しないように、理事長がエスコートする。
  車に乗ってからも特に会話はなかった。窓から入ってくる風が気持ちよく、隣に座っているキリさんを見るとやんわりした表情でうつむいて目をつぶっている。キリさんも気持ちよさそうだった。何かを話して面白かったとか、なにか食べたからおいしくてよかったとかではなく、ここにこうして居る心地良さがあった。
 グループホームの玄関先に着いて、理事長がドアを開けると、キリさんはすんなりと車から降りた。理事長が差し出した手はつながず、後から車を降りた私を方をみてうなずき、キリさんが先に歩いてグループホームの玄関の戸を開けて入った。
  朝のひととき、さりげない時間と空間で心地よい時間を過ごせた。キリさんも落ち着いて過ごせた時間だったと思う。


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画伯とお散歩 in 盛岡 ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2012年7月号】

 昨年、美術館デビューを果たしたワークの昌子さん(仮名)は、その後も絵の制作に意欲的だ。去年の夏からワークステージの食堂に飾っていたプリン・シリーズの絵を「ずぅっとおんなじ絵じゃ、つまんないでしょ?たまには替えたらいいかと思ってさ」と意識が高い。そこで新年度になったところで総入れ替えをした。一度に飾れるのは4点までなので、好きな絵を4枚選んで新たに額装して飾った。「なんか雰囲気ちがくなったね♪」とニンマリ満足顔。残りの絵をしまいながら「もっと額がいっぱいあったら、ぜんぶ飾れるのになぁ…」と、額を買うためにお給料を少しずつ貯めているところだ。
 先日、私と日向さんを誘って東和町のギャラリーに行った。ギャラリー“ぷると”の奥様方はプリン展でお世話になった方々で、昌子さんも「久しぶりに会いたい」と積極的。7年前ワークを利用し始めたとき、極度の人見知りで一日泣いて過ごす、今にも消え入りそうな昌子さんだったが、今では別人のように逞しくなった。特に絵描きの人たちとは全く違和感なくやりとりして、初めての人でも自然と打ち解けてしまう。
 “ぷると”の作家さんから「私たちも参加しているから、よかったら行ってみてね」ともらったイベント「モリブロ」のパンフレットを興味深そうに見ていた。昌子さんの目はひとつの絵本に釘付け…「ぐりとぐら!知ってる〜!カステラ♪」盛岡市内のあるイタリア料理のレストランが「ぐりとぐらの絵本に出てくる大きなカステラを再現しました」とコメントしている。「よし!じゃあ、お昼はこのレストランで食べることにしよう!」と一緒に盛岡へ行くことになった。
 当日は、例によって昌子さんが決めた時間と場所で待ち合わせた。車に乗り込んだ昌子さんは、第一声「あ〜、疲れたぁ…」と言う。どうやら、待ち合わせ場所で知らない人に道を尋ねられたらしい。「お婆さんに道きかれて教えたの、ありがとうって言ってたよ。あ〜、疲れちゃった!」知らない人に声をかけられて「怖かった」のではなく、ちゃんとお話できて、しかも道まで教えることができて「嬉しかった」という感じがスゴイ。でもやっぱり「疲れちゃう」くらいのエネルギーは使ってしまうようだ。
  とびきりの晴天、高速道路に乗って一路、盛岡へ!「あっ!飛行船だ!」と昌子さんが指さす。飛行船がひとつ優雅に浮いている。「昨日もおとといも見たんだよ!すごい、3回目だぁ」この日は六魂祭の最終日だったらしく、「お祭りの宣伝かなぁ?」おかげで高速を降りるとそこは大渋滞だった…。
  世間に疎い私は今日がまさか六魂祭とは全く知らず、渋滞の渦と満車の駐車場…。イライラする私とは逆に昌子さんは、「人がいっぱいだねぇ!」とウキウキ感が増している。「いつもは人が多いと具合悪くなるだの嫌だのって言うくせにぃ〜!駐車できなきゃ、ぐりとぐらも見れないんだよ、ぷんぷん!」と怒る私の横でキャハハと笑っている。やっと探した駐車場で「どのくらいで戻るの?」と尋ねる駐車場のおじさんに「2〜3時間くらいかな」とキーを渡すと、「行ってきま〜す」と手を振る昌子さん!…考えられない。
  運良く、目的のレストラン付近に駐車することができた。店が開くランチタイムまでの間、青空の下でソフトクリームを食べ、川の流れを見下ろしながら橋を渡り、駆け足で街並みをぬけ、雑貨屋を見て歩く。大勢の人は祭りの中心部へ向かって行くけれど、「なんかさぁ、うち らだけ反対に歩いてるね!」と昌子さんも楽しそうだ。
 ランチタイムぴったりにレストランへ到着。そして、カウンターのレジ前に立てかけてあったぐりとぐらの絵本を、昌子さんは見逃さなかった。メニューよりもそっちが気になり、注文をきかれてるのに「あの本、見ていいですか?」と言うので、店員さんと私は吹き出して笑ったのだが、お構いなしに絵本を手にしていた。 食後いよいよ、おっきなフライパンが目の前に登場!「わー、ホントにやったんですねぇ!」子供の頃からの憧れ、ふかふかの特大カステラを、ウェイトレスのお姉さんがフライパンから直に切り分けてくれる。両手で口元を覆って言葉もでない昌子さんの目は、真ん丸でキラキラしている。絵本のクライマックス、森の中でたくさんの動物たちがカステラを分け合って食べているページを開きテーブルに立てると「みんなで一緒に食べてるみたいだね♪」と、極上のデザートタイムになった。
 念願のぐりぐらケーキを堪能して大満足の私たちは、気分も上々♪「モリブロ」イベントの他の数ヵ所をまわって食後の散歩をする。そして、車に乗ってそろそろ帰ろうとしていると、昌子さんが「もうひとつだけ、行ってみたいところがあるんだけど…」と切り出した。「盛岡に美術館があるでしょ…?」と!(ほぉ、美術館!ちょうど今日まで松本竣介展やってるはずだったな)「行ってみるっか?!」「うん!」
 日曜日の最終日で大勢のお客さんで混み合っていた。一瞬たじろいだ昌子さんだったが、いったん展示室に入ってしまうと、一気に絵に引きつけられて集中していた。たくさんの絵が掛けられた壁面を一度グルッと見渡すと、ぐんぐん進み出て、一枚一枚なめるように観ていく。ちょっと離れた距離から眺めたり、つつつっと画面に近寄って細部を観察したり。その絵を観る姿勢はまさに絵描きの姿そのものだった。すぐ隣りに知らない人がいても大丈夫、うまく自分のペースをつかんだようで、時々、ニマッとしたり眉を寄せて首をかしげたりしながら集中している。私も安心して作品世界に浸ることができた。
 帰りの車内では、観賞後の感想もしゃべってくれた。「青とか緑の風景の絵が素敵だったなぁ…」と私が呟くと、「私は、人の顔の絵がよかった」と話す昌子さん。「いろんな色の顔があったよ、いっぱいあったよね」「あんなふうに人の顔が描けるの、すごいね」と語り、作品との大切な出会いが起こったことが伝わってくる。さらに「万里栄さん、行ったことあるのかなぁ?」と続く。銀河の里の絵描きさんで、通信の表紙の絵を毎月描いてくれている。「美術館、観に行きたいんじゃないかなぁ」と昌子さんは言う。「万里栄さんの絵、いつも目がないっけよ、どうしてだろうね?目がなきゃ、誰がだれだか分かんないよ〜」と笑っている。万里栄さんの課題を鋭く突いているかもしれない。本気で誰かと向き合えたら目が描けるようになるんじゃないか、との万里栄さんへの私の期待を、昌子さんはサクッとしょってくれている感じ。
 「さっきの絵の人、名前、なんていうの?」「松本竣介だよ」「まつもとしゅんすけ…、会ってみたいな、どこにいる人?」積極的だなと驚きつつ、「そっか、会いたいのかぁ、よっぽど気に入ったんだね。けどね、もう亡くなった人なんだよ」と伝える。「え〜、そうなのぉ?会いに行ってさ、絵描いてるとこ見てみたかったのに〜」絵画作品そのものを観るだけでなく、それを創造した人物にまで関心が向いていること、ひとりの画家が自己表現する姿、その現場を見てみたいという欲求の芽生えに驚かされる。“昌子画伯”もいよいよ本格的になってきたようだ。
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作業じゃなく暮らしをやろう ★グループホーム第1 木間智央【2012年7月号】

 私は、これまで大学時代も色々なアルバイトをしてきた。いつも「早く仕事を覚えよう」「てきぱきとこなそう」「みんなに迷惑をかけないようにしよう」そんなことを考えながら仕事をしていた。
 社会人になり銀河の里に就職が決まり、期待や不安、緊張でいっぱいだった。実習期間を経て、3月から仕事が始まった。私はいつもノートを持って仕事に行き、先輩たちから教わったことや、一日の流れを書き取った。部屋に帰ると大きなノートにその日一日のメモをまとめた。「自分がすべき仕事を早く覚えよう」「みんなに迷惑がかからないように動こう」という、一生懸命さだった。出勤前や仕事中でも、大きなノートを見て一日の流れや、自分がすべき仕事を覚えよう(暗記しよう)と努力した。 私は利用者のアヤ子さん(仮名)が苦手だった。 「昼食前にはパットの確認に行かなければ・・・」そう思いアヤ子さんに声をかけるが、いつもつれなくそっぽを向かれてしまう。私は「何とかしないと・・・」と焦りながら何度も声をかける。そしてついにはアヤ子さんに怒られるばかりだった。しかたなく先輩たちに助けてもらって「また迷惑をかけてしまった・・・」と更に焦った。乾いた洗濯物が山のようにあると「いつたたもうかな」と考えて、持っていくと、テーブルに出す前からミサさん(仮名)に「ダメです!」と拒否された。
 5月にゆう子さん(仮名)とスタッフの西川さん、理事長、施設長、そしてワークのスタッフも一緒に沢内まで“かたくりドライブ”に行った。ゆう子さんの昼食後の薬を預かっていた私は、「いつ食べ終わるかな」「そろそろかな」ということばかりしか頭になく、食事が終わると「はいお薬」と慌ただしく薬を出したと思う。一緒のテーブルで食べていた理事長に、「なんで業務にしちゃうの?つまんなくない?」と言われた。何のことか解らなかったが、後で聞くと「出かけて楽しい食事まで、いくら薬だからと言って仕事ですることないでしょ」ということだった。さらに「仕事なんかしなくていいんだよ」というので全く解らなくなった。
 そのころのある日。先輩に「座ってゆったりしよう」と言われ、WゆったりしようキャンペーンWが始まった。しかし私は、意識して座るものの、やはり「次の仕事は何か」「どう動けばいいのか」ということばかり考えてしまっていた。
 このころリーダー美貴子さんに「理事長と面談したら」と言われていたのだが、緊張する私は、なかなか理事長に電話できないでいた。美貴子さんは、面談の日程を知らないうちに決めて、その上、前もって教えると私が緊張するだろうと直前に「今日14時から面談です」とあの笑顔で教えてくれた・・・。その時から14時まで緊張しすぎて何をしていたか全く覚えてないほど、ずっと緊張していた。そして14時。
 初めての面談。いすに座ると同時に「最近どう?ていうか仕事しなくていいんだよ」・・ちょっと固まってしまった。「仕事をしない?どういうことだ?」と頭の中で色々とぐるぐると回 っていた。「先輩たちが、座れる環境を作ってくれただろ」言われてハッとした。私はあのWゆったりしようキャンペーンWの意味を全く理解していなかった。私は「みんなに迷惑をかけないようにしよう」と張り切って利用者の存在を無視していたのだ。作業をこなすことを意識しすぎてバタバタと動き回っていた。気付いた途端、泣きたくなった。もう色んな感情で頭も心もいっぱいだった。利用者はここで暮らしている。そこに私はズカズカと入り込み、バタバタ動き回る。利用者の暮らしも気持ちも無視して、無理に手を引いたり、何度もしつこく誘ったり、怒られれば勝手に苦手意識を持っていたのだ。
 アヤ子さんに申し訳ない気持ちになった。彼女からしてみれば「何だこいつ」という感じだろう。私は「就寝前に交換しなければ」と焦って無理にパット交換をしたことがある。「早く仕事を終わらせなければ」という考えだったそのころの私は、洗濯や風呂掃除など、自分がしなければならない仕事が残っている状況に焦っていた。無理に立ち上がってもらって部屋へ行き、交換に取り掛かかるとアヤ子さんは出て行こうと歩き始めた。私はさらに焦る。私はアヤ子さんの前を塞ぎ、無理やり交換した。あと少しで終わると思った・・・そう思ったとき、アヤ子さんにビンタされた。手の平というより手首で、ものすごい勢いで叩かれた。一瞬頭が真っ白になった。今考えてみれば、私は本当に失礼な事をしていた。私だって知らない人に、行きたくもないのに「部屋に行こう」なんてしつこく言われたら怒るだろうし、いきなりズボンを下ろされたら殴る。
 面談で理事長に「介護するんじゃなく、一緒に暮らせばいいんだ」と言われ、すごく心が楽になった。「○○しなければ・・・」と焦ってばかりいると、知らないうちにどんどん自分が追いつめられていく。「介護はやめようぜ」との言葉に救われた。私はこの日を境に「○○しなければ・・・」と焦らなくなった。利用者とスタッフ、みんなと一緒に、一日一日を大切に過ごしていきたいと思えるようになった。
 そう思うといろんな見方が変わった。特にアヤ子さんとの関わりは全く変わった。いくら頼んでもパット交換のために立ってもらうことが出来なかったのだが、ある日アヤ子さんは何のことなく立ってくれた。すごく嬉しかったのだが、まだ無理かなあと少し落ち込んでいた私は固まってしまった。そんな私を見てアヤ子さんは笑っている。私も緊張がほぐれて一緒になって笑った。アヤ子さんの「立っただけでなにそんなにビックリしてるのよ」という声が聞こえてくるようだった。今でも無視されたり怒られたり、(この前なんかは、みぞおちにキックを受けた。自分の反応の悪さに落ち込んだ)一筋縄ではいかないアヤ子さん。でも最近は楽しめる。「今日は行けるかな?どう返されるかな?」とそのときのでたとこ勝負で行こうと思う。
 私は面談をきっかけに、「○○しなければ」という焦りの中にいては、見えるものも見えなくなるということを、アヤ子さんを通して学んだ。これから利用者と一緒に過ごしていく中で、色々なことを経験するだろう。その度ごとに一歩ずつ成長していきたいと思う。銀河の里で自分がどう育つのか楽しみにしたい。
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音楽人生まっしぐら ★グループホーム第2 酒井隆太郎【2012年7月号】

 俺は、自動車の営業マンとして8年間、勤めたのだが、不況の世の中は凄まじい厳しさだった。俺は、気持ちも体も限界を超えて、営業マンとして戦える状態ではなくなっていた。得意先だった銀河の里に出入りするうちに、何故だか妙に気になった。俺は決心した。ここで働かせてもらえないかと持ちかけた。そして、転職した。35歳。妻があり2人の息子がいた。介護に関しての知識、経験も免許も全く無い、本当にただのおっさんであった。
 銀河の里で、俺はどんどんこれまでの傷が癒され変身していく感じがした。利用者さんとの出会いは壮絶だった。表面だけの人間関係が当然多くなっていた俺には、それが心に突き刺さる。俺は、人間的で新鮮な自分を出すことができた。相手も本気で向かってくる。それにギターだ。俺は音楽をやってきた人間だ。俺の本体は歌だと言ってもいい。理事長に「酒井さんギター離しちゃダメだよ」と言われる。介護現場でどうやってギターを活かすのか解らなかったが、「ギターで全部やったらいい」と理事長はさりげない。ともかく俺はギターを抱えて勝負にいくことにした。これもまた、心に突き刺さる。今まででは考えられない、新鮮で、人間的な驚きの出来事が毎日起こってくる。
 利用者との別れも経験した。それがまた深い体験になった。ギターを必死で弾いて歌った。得も言われぬ、簡単に言葉では言い表せない感情が動いた。
 現在3年目になり、グループホームに異動となって勤務している。俺の家庭には3人目の子どもが産まれた。俺はヘルパー2級を取得した。
 グループホームは特養とは体制は少し違うのだが、認知症の人ばかりなのでさらに壮絶な出会いや、さまざまな感情があふれでてくる。私にとって、ひとりの女性利用者久子さん(仮名)は、インパクトが大きい。どこか違う世界に生きている人で、ちょっと厳しいオーラのある女性である。その人は俺のことを「男」と呼ぶ。そして、俺の年齢は23歳で決まっている。そして、家庭もない子供もいない独身の若者ということになっている。俺がそれほど、ガキだと言うことなのか?ギターでチャラチャラと遊んで いる若造なのか?破天荒な変人なのか?分からない。
 ある日、女性スタッフが、リネン交換で久子さんと部屋で2人きりになったおり、スタッフは、俺が37歳で3人の子持ちだという現実を伝えたらしい。すると久子さんはいきり立って「何を言ってるんだ!!そったなことない!!」ときつい口調で怒ったらしい。 確かに、まわりのスタッフ達はみんな若い連中ばかりだ、そいつに俺も加わっている感じなのか?確かに、今の里バンドを引っ張っている俺に「お前23歳になってもう少し頑張れよ。もっと引っ張って行けよ。」と激励されているともとれる。また、家庭と銀河の里との境界線を引いてくれているような感じもする。
 とにかく俺は、信じてみようと思った。家に帰れば、37歳の家庭のある父親。(おっさん)しかし、銀河の里では23歳の独身で、がむしゃらに走って行くミュージシャンになる。俺は思う。銀河の里での23歳は永遠のことなのではないか。夢のような話しだけどそんな気がする。実際、夢のような話しが銀河の里では幾つも繰り広げられている。久子さんだって、子どもを産んでいないのに、息子がいることになっていて、毎日息子と電話で話しているじゃないか。年齢や世間の枠や常識は簡単に吹っ飛ぶのが銀河の里だ。俺だっていい歳こいて、ギターの弾き語り「おっさん何やってんだ」との声が聞こえて来そうだが、23歳でやっていきたい。久子さんに守られて俺はやってみたい。音楽が俺の人生だ。
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