2012年06月15日

晴天の手植え ★佐藤万里栄【2012年6月号】

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今月の書「続」 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2012年6月号】

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決して楽ではない

それでもあきらめずに進もう

その意味を
その思いを信じて

その先へ


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ぐりとぐらのカステラ ★ワークステージ 昌子さん(仮名)【2012年6月号】 

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★盛岡で開催された本と写真をテーマとしたイベントに行ってきました。そのイベントの期間中、あるイタリア料理店では絵本「ぐりとぐら」のお話に出てくる大きな鍋で作るカステラを再現して出してくれました。カステラの凄い大きさにびっくりしたようです。
今後、昌子さんも自分で作ってみようと、レシピを参考に挑戦する予定です。
ぜひ出来上がったら、みんなで試食したいですね!
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5月の惣菜班 ★ワークステージ 村上幸太郎【2012年6月号】

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★5月の惣菜班は餃子と焼売の製造の他、様々な活動を行いました。草もち用のヨモギやこごみ等の山菜を収穫したり、水耕ハウスでサンチュの収穫に追われるハウス班のヘルプに入ったりと大忙し。さらに田植えの手伝い(手植えをしている人に苗を投げて渡す)もしました。様々な仕事を部署を越えてやれる、オールマイティな惣菜班目指してがんばります!
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新生ワークの抱負 ★ワークステージ 日向菜採【2012年6月号】

 ワークステージの開所当時からの職員が退職し、今年度から新しい体制になった。私は4年目になるが、ワークで自分が置かれる立場も、周囲の状況も大きく変化した。「このままの自分ではいけない」と焦りを感じながらも、今が私にとって転機で大きなチャンスだと思っている。新たなワークに全力を注ぎながら、自分を高める一年にしていきたい。
  惣菜班は、新しく入った調理師と私が、ギョーザとシューマイの製造工程や衛生管理など食品工場部門を引き継いだ。ギョーザとシューマイは、お中元・お歳暮のセット販売で顧客もあり、味や品質を落とす訳にはいかない。プレッシャーもあるが、惣菜班を軸に食品工場を稼働させ、ワークステージの中心戦力に育てあげていくチャンスとして、前向きにとらえて挑戦していきたい。
  銀河の里内での惣菜販売は順調に売上を伸ばしており、週に2回、惣菜や野菜などを持って各部署を回り販売を行っている。特養の厨房メンバーが積極的に協力をしてくれ、給食で人気のメニューを販売したり、新人調理師が里のもち米を使用したおこわを開発したりと、里売りを盛り上げてくれている。作り手から「こんなもの作りたい」、農業の現場から「この食材をつかってほしい」など活発な意見も飛び出し、商品開発も楽しいものとなっている。強力なサポーターが参加してバリエーションが広がりつつある里売りに乞うご期待!
  惣菜班の利用者が、担当が代わることでどんな反応をするか 少々不安だったが、前担当職員が辞めることを告げた日に「休みの連絡をするときに必要なのでメールアドレスを教えてください」と私に聞きに来る人や、「電車が遅れそうなときは日向さんに連絡するね」とメールをくれる人などいて、すんなりと次の担当の私を受け入れようとしているのが伝わってきたし、彼らの逞しさ、頼もしさも感じた。
 工場の作業に入って私が驚いたのは、製造工程で利用者が担当する部門に関してそれぞれがプロフェッショナルな感覚を持って作業していることだった。全員が管理的な指示のもとに一斉に同じ作業を行うような働き方ではなく、調味料の計量、製品のチェック、肉の包み方など、各々が自分の受け持つ工程を極めており、自信を持って取り組んでいる。また、全体の一連の作業を利用者全員が身体感覚を通して捉えているので、指示がなくても、時間や日によって作業内容や製作品目が変わっても、作業工程がイメージできており、流れるように次の作業に取りかかり戸惑うことがない。
  こうした、彼らの仕事ぶりに感心しながら、この頑張りをもっと伝えたり、販売に活かしたりしていかなければならないと感じる。自分たちがつくった商品が、いろいろな人に喜んでもらえることで、さらに作り手の自信や喜びになると思う。現実的にもっと販路を拡大していきたいし、商品だけでなくそれを作る利用者の熱心な姿勢からも、自信をもって世間で戦っていけるはずだ。
  利用者のやる気や協力してくれる人たちのパワーをもらって今年は必ず目標売上を達成したい。私の使命として絶対果たしてみせる!
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探求の構え -暴力への対峙と日本的美について- ★理事長 宮澤健【2012年6月号】

 先月、久々に運営推進会議を開催した。施設が閉鎖的にならないように、利用者さんや利用者さんの家族、行政、地域住人、福祉関係者などが参加して各月で開催するよう厚生労働省が推奨する会議だ。いかにもとってつけたようなお役所的ネーミングのこの会をなんとか楽しく有意義なものにできないか頑張っていたのだが、昨年度は開催できなかった。時間の無駄な会合は許せないたちなので、集まった方々が、来てよかったと思ってもらえるようなものにしたい。運営推進と言うのだから、本来は施設の方向性を考え実践していくための会合でありたい。人間にとって介護とはなにか、介護によって人生は何を得るのかというような、当事者の思索や提言を、運営に活かし、施設の活気に直結していくと理想的なのだが・・・。
  会議でこの通信が話題になった。最近は文章の量が増え、ますます読みづらい内容になっている。内容が難しくて読めないという声もあった。広報誌、社内誌などの専門家は、写真が多くて大きく、文字の少ない形が良いと言う。そうした形式とは真逆なので、読まれない最悪のものと言うことになる。その点についてはかなり迷った時期があり、写真を主体に文章の少ない形を模索したこともあるが、考えた結果、そちらには踏み切らなかった。
  20年以上前、当時私がいた施設は荒れたひどい所だった。時を前後して施設長も別の施設で同じような体験をしている。彼女は「地獄を見た」と言うが、私も職員の利用者に対する暴力がまかり通る現場で傷つきながら、苦闘した経験がある。そうした施設では暴力が恒常的に繰り返され、日々先鋭化していく。福祉施設内での暴力は、実に巧みに実行され隠蔽される。表からは善意の看板しか見えないが、善良の皮の中に隠れて、その下劣な体質が巧妙に隠蔽されているという、恐るべき悪魔の構造がある。
  暴力は行為している当人には全く意識されず、わずかに意識されたとしても、外にも内にも遮蔽が機能するので、自らも善意の皮の中でその気になって生きていく事ができる。これほど怖いことはない。人間が施設の玄関に入ったとたんに、悪魔的人間になり、出ていくときは人間の顔をして社会や家庭に戻っていけるのだ。彼らは人間でなくなっていることに気がついていないし、周囲には極めて善意の人に映っている。そうした構造から自分を守り、人間としての自分を失いたくないと思うが、悪魔的でない施設のほうが実際には少ないということも見えてきた。自分が悪魔にならないためにも、また施設を悪魔的状態に陥れないためにはなにが必要なのか。まず大事なのは自分自身を閉じないで、他者や社会に開いて繋がりを広げ深め続けることだ。そして知的に深化しつつ、自分自身を見つめ、人間の探求を継続していくことが必要だと考えた。
  人間にとって、暴力は隣り合わせと言うより、一体と言える。
 そのことを自覚し、見つめていなければ、知らないうちにそいつにやられてしまう。実際、志を持って福祉大学から来た新人が、数ヶ月で簡単に利用者を殴れるようになる。悪の自覚は当然無い。人間と直接出会う現場では、常に人間を発見して行こうという探求心がないと、いつのまにかよどんでしまって暴力がはびこる危険性がある。暴力は相当な相手なので自分1人では太刀打ちできない。今月号で施設長が論じているように『海辺のカフカ』のような異次元と、そこに生きるナカタさんのような他者を必要とする戦いなのだと思う。
  映画『エス』はアメリカで実際に行われた心理実験、(市民を無作為に抽出し、看守と囚人にクジ引きで別れて一週間過ごしてもらうというもの)を題材に作られたドイツ映画だ。看守役の心 の中にうごめきはじめた暴力がやがて暴走し、実験者も含めて暴力の渦に巻き込まれ悲惨な結果になる。この映画はホラー映画の部門に分類されたりもするのだが、人は誰もが心の奥に暴力を持っており、圧倒的な力関係の環境に置かれれば、暴力が歯止めを失って破壊的に暴発するということが証明される結果になり、実験は中断されて終わる。10年前、イラクにアメリカ軍が進駐したとき、女性将校による囚人虐待が報じられたとき、「すでに証明済みなのになぜそうした教育を行っていなかったのか」とあるジャーナリストが批判していたが、その証明済みというのはこの実験のことを指している。
  特に、他者の目の届きにくいところでは、暴力が引き出されやすく、一旦引き出されると暴発を食い止めるのは難しくなる。学校や集団で単なるいじりが、境界を失い、イジメとなり、暴力にいたる例はいくらでもある。特に福祉現場はこうしたリスクが極めて高い環境にあり、特に、ユニット化や個室化で、関係が近くなれば、暴力も引き出されやすくなるので、細心の注意が必要だということが認識されていなければならない。
   そうした誰もが持っている悪と向き合い、その暴発を避けるには、まず自分自身がそういうものだということを知っておく必要があるが、なかなか自分を客観的に捉えるのは困難で苦しいことでもある。しかも暴力と善意は厳密なところでは線を引きにくく、見分けがつかない場合が多い。たとえばグループホームで楽しい時間を過ごせたとしても、それを外部に伝えたとき、それが“伝え”ではなく“晒す(さらす)”ことになってしまう場合もある。また現場で丁寧な言葉遣いをすれば良いというものでもなく、関係と距離によっては、それさえ暴力になることもある。それならば、最初からやっかいな関係を取っ払って、契約的、機械的になると、ホテルやデパートになり、暮らしとしてはどうなんだろうということになる。このように福祉現場には様々な葛藤が解決されずに残っていると思う。
  銀河の里では、グループホームで認知症の人と向きあっていくなかで、人間が深い次元で生きうる可能性を発見してきたと思う。そこでは現実と異界のパラレルワールドを構成したり、利用者とスタッフの時空を超えた通路が開かれたりする体験を重ねてきた。それは単なる介護の作業を超えて、人間存在のリアリティを実感できる貴重な、深い経験となる。そこで、現場でのこうした体験をどう理解するのか、考えるのか、記録し伝えるのかという課題が出てくる。暮らしのなかで起こって来ることや、その体験は、因果論ではないので、単純に「こうしたらこうなりました」という文脈ではない。通信が解りにくいのは、因果論ではないプロセスを伝えようとするからだと思う。説明では伝わらないので物語になったり、小説や演劇などの芸術作品を通じて理解をしていくというような複雑な形になり、なじまない人にはまるで解らないということになってしまう。
  現場を通じての思索や思考は、自らの中でうごめく暴力に対抗する唯一の手段でもあるし、そうした知的冒険は、組織や人間に新鮮さを失わせない効果がある。新鮮な息吹をなくしたところには、暴力も噴出しやすい。ひとつの組織が何年も新しさを保つことは極めて困難で、数年でよどみ、腐ってしまうのが常だ。
  心理学者のギーゲリッヒはある講演で、「臨床は知的冒険であり、正しい正しくないではなく、新しい理論が必要だ」と言っていた。また、塩糀(しおこうじ)を全国的なブームに仕掛けた、大分の糀屋、浅利妙峰さんが、銀河の里に糀と糀料理の作り方を教えに来てくれたときの「菌はある時点で発酵と腐れに別れる、別れたらそれぞれ後戻りはできない」という話しに感動した。人間や組織もその通りだ。「腐れ」の道を歩まないためには、常に新鮮さが必要で、発酵の道は、次々と新たな出会いを重ね熟成していく。私は発酵型を目指したいので、そのためにも、新たな挑 戦としての思索、探求と、新たな出会いを求める。通信の紙面はそうした役割を持つので、組織としての最先端の探求の構えを保ち続けたい。現場の日常の出来事と、それを支える思索、探求はセットで必要だと考えている。
  
  先日、上野の国立博物館にボストン美術館の日本コーナーの美術品が里帰りして展示されたので観に行った。この展示会のポスターにも使われた『雲龍図』は、明治期の廃仏毀釈運動の渦中で、ある寺院のふすまから剥がされ、紙くずにされていたものという。当時、フェノロサなどの外国人の審美眼がなければ、これらは保存されることなく破棄されていたのかも知れない。これらの日本の美術品が日本ではなく外国にあることは少々残念だが、国外に出ることによって世界に認識された面もある。それにしても一時期ではあったにせよ、自国の伝統文化の芸術的価値を見失ったという歴史は悔やまれる。
  多くの仏像、仏画が並び、その他に有名な平治物語絵巻があり人気を博していた。私は中学生のころ尾形光琳の『燕子花(かきつばた)』に惹かれたが、その光琳が心の師匠と仰いだ俵屋宗達に挑んだという、『松島図屏風』も帰省していた。ついでに『燕子花』が青山の根津美術館で公開されているというのでそれも観た。子どもの頃から美術の教科書で親しんでいた国宝の実物に会えたのは嬉しかった。ただ印刷の方が光線がある感じで明るくきれいな印象だった。
  根津美術館にはインドや中国の仏像なども多数展示してあったので、上野のボストンと会わせて、この日は仏画と仏像をたらふく観る事になった。同行していた息子に感想を聞くと「日本の仏像は抑制的だよね」と言う。確かにそうだ、仏像に限らず、日本の美術は内面的に感じる。単なるリアリズムではなくその奥にある何か、精神的な何かを描こうと挑んでいるのが解る。表面ではなく、その奥にある深さを求めた文化を感じる。
  施設長が数年前、オーストラリアに語学研修に出かけたとき、赤道に近いぎらぎらの光のケアンズで、出発時に私が渡した谷崎潤一郎の『陰影礼賛』を読んだ。それだけでも興味深いことなのだが、夜に雷が鳴って停電になり、ホームステイ先の奥さんが蝋燭を持ってきてくれた。その時、読んでいたのがちょうど、「蝋燭の光」の章だったというおまけがついたエピソードがある。西洋人が大陸のジャングルを切り開いて作った土地には、精霊も住んではいなかっただろう。
  根津美術館の庭園で、息子の感想に思考を巡らせる。中国、イ ンドの仏像のその向こうに、ギリシャ、ローマの彫像をみるとどうだ。巨大で力に満ちていて、威圧的だ。日本のものは大仏でさえどこかユーモラスだったりする。ボストンから来た龍も威厳や圧力といったパワーではない。日本の美術はパワーを極力抜いて、弱さや、老いや、その先にある死を包含した存在のリアリティを美として見つめる精神性を求めて行ったのではないか。そこには、日本人の到達した精神性がある。それは今の世界を席巻しているパワーと効率ではなく、分断の理解や説明ではなく、達観の理解があると感じる。
  実際の光琳の絵をみて、印刷とは違った、光線の弱さを感じるのも同じ理由があるに違いない。物事を分けて、切り刻んで操作しようとする近代的な手法にすっかりなじんでいる時代の只中で、日本の仏画や仏像のように、内へ内へと収束していくような取り組みはできないものかと思ってきた。その挑戦は暴力を乗り越え、人間の存在本質との出会いの可能性を開くと信じている。
  詩人の寺田 操は、深い人間の出会いとしての恋愛における、結晶作用(クリスタルゼイション)をこう語る。「他者との関係を生きること、変容を恐れぬことにある。軋轢を恐れることなく移動と漂流が続けられるとき“愛するものの新しい美点”は発見され関係は更新される。移動と漂流とは、日常の囲い込み(停滞)から生を脱出させるという可能性を求める強い意志とロマンによって支えられている。それは日常の生の現場から目をそらさず、逃げないというやさしさと強さを、その生き身にあえて引き受けていることにある。-中略- 移動とは自らの存在本質にたどり着くことにほかならない。」
  「恋愛は生の現場では、さまざまな制度や世間智や矛盾にさらされる。なによりもそれが自己と他者との関係であることによって、自己自身の生が問われ覚醒をうながされる。対なるエロスを真正面から対座させない恋愛は不毛であり、そこでは、自己も他者も変容してはいかない。」
  長い引用になったが、おそらくこれと同じ現象が、現場では、その関係性を通じて起こってくると思う。暴力は個々人に常につきまとい離れることはない。しかしそれだからこそ、怒りも含めて感情を豊かに生き、それを率直に見つめていくことが大切だ。日本美術がパワーを極限まで排除することで、押さえたり、切ったりすることなく内面化に至ろうとした知恵に学びたい。通信はそうした探求を表現する少ない機会を私に与えてくれているので、お付き合いいただければありがたい。
参考文献:『恋愛の解剖学』寺田操 風琳堂、『エス』DVD映画
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生き返らせるぞユニットすばる ★特別養護老人ホーム 三浦元司 【2012年6月号】

 銀河の里に来てから今年で3年目、ユニットリーダーを任されてから、チーム作りや会議に追われる感じで、自分のやりたいことが里でもプライベートでもなかなか出来ていない状態だった。そんなだから利用者さんに意識がいかなくなり、深められずにいた。そんな自分にイラつき嫌気が差す。スタッフや理事長ともだんだんと離れてしまい、自分でもどうしていいか分からなくなる。里にいれば活き活きしいた自分が、透明人間にでもなってしまったかのような感覚で、つまらない時間が過ぎていく。
 そんな中、5月からオリオンからすばるへとユニットを異動した。すばるでも新しいチームを作ろうとするのだが、これがまたうまくいかず、悩み落ち込む日々が続く。すばるのスタッフは以前と違いそれぞれ個々は良いものを持っており、いろいろやっていけるはずで、利用者さんも開設時からいた方も多く、深めるにはもってこいなのに、チームが動いていかない。1人1人がばらばらで、やりたいことも進まないまま消えてしまい、結局まとまらない。医療面の管理を意識しすぎてか、キチンとやらねばと強迫的な感じになっているので、結局点と点にしかならず、返って抜けてしまう傾向もあり、申し送りもできていない。利用者に関心が向けられると、自然にできていく事だと思うのだが、チームで考えを深めていく事など、まだほど遠い感じだ。スタッフも個々には何とかしようと思ってはいるものの、実際にどうすればいいのかわからない。
  そんな悩みの中だが、利用者さんからは、応援歌のような行動だったり、さまざまな表現でエールをくれて救われる自分がいる
  ユキさん(仮名)はいつもムスッとした表情ながら、1番長くリビングに座っている、なかなかクセのあるばあちゃんだ。
  いつも毒舌で「こんなカスみたいなまんまよこして!」「タダでここさ入っているんでねぇ!」「オレばり部屋さ連れでがれる!1日中寝でろってが!」と愚痴ってくる。実際は厨房スタッフが手の込んだソフト食を作ってくれたり、ユキさんのために特別に柔らかいご飯も炊いてくれたりしている。おむつ交換で居室に行ってもすぐにリビングに戻っているし、夜のユキさんだけの特別な時間も作っているのだから、ユキさんの言葉を表面で聞いているとしんどくなる。でも、言葉の裏のユキさんを理解するとそこには救いがある。
  先日、ユキさんのお風呂を担当した。ユキさんも楽しみにしていたのか、数日前からスタッフ用の予定表をみては「この日お風呂だもんね♪」と声を掛けてくれたりしていた。ユキさんは夕食後、みんなが入床した時間でないとお風呂に入らない。さらにかなりひねくれていて、本当は入りたいのに、入らないとごねたりする。お風呂の当日も「べちょべちょづいの食ったっけば具合いわるぐなった〜。オラ今日風呂さはいらいねぇ。」と始まった。私は「きたきた〜!」と楽しくなってくる。本当は入りたいのは解っているので半ば強引に風呂場に移動すると、さらに「オレのごど殺すつもりだぁ〜。」
  「オラはもう人生に悔いはなんも残ってね!さっと殺してけで!早ぐよ!」と大声で叫び修羅場になる。これがどこか楽しく感じる。「わがったよ!じゃー今がら40度の丁度良いお湯の中に、ユキさんを首まで沈めて暖まるまで殺すがらさ♪」とニコニコで返す。【殺す】という単語が【暖まる】に聞こえるので、私もその意味で殺すと言ってしまえる。すると、「なに〜!このガキ!」と殴る引っかくの大暴れになり、「本当に90過ぎのソフト食対応の車椅子のばあちゃんかよ…」と信じられないほどの暴れっぷりだ。やっとリフトに乗って「これがら、丁度良い温度の湯さ沈めるぞー!」というと「こんな色っこのねぇ湯っこ初めてだ!いっつも赤だの青だの匂いすんのだもん!ぬるい!風邪引いたらどーすんだ!」とよく思い浮かぶなと思うほどいろいろ怒鳴ってくる。ぬるいというので熱いお湯を入れながら笑えてきた。「だって人生に悔い はないんだべ?殺して良いんだべ?なのに風邪引いたらダメなの!」とツッコミを入れてみた。すぐさま「当たり前だべー!」と浴槽のお湯をバシャーっとかけてくる。「なにすんじゃい!俺が風邪引くって!」と大声で怒ると、耳が聞こえないフリをして知らん顔している。お風呂から上がったら「オラ白でねくてピンクの肌着だもん。」「髪さやってだピン11本あるはずだ。探せじゃ。」「オロナミンCも出さね。」と追撃は止まらない。着替え終わって、居室に帰った後に行くと今度は人が変わる。「あんた奥さんは?良い人見つけた?」「釜石がらきたのっか。オラもよぐ行ったったよ♪」「結婚してがら、オラ横須賀さいだったの♪ちょっと都会さ。フフフ♪」とニコニコしている。電気を消すと「また一緒に入るべね♪もとひでさん♪」と、言ってくれる。(もとしなんだけど、間違ってるけど、まぁいいか)
  また、別の日の入浴時には「具合悪い〜。」と言っている。「今日はどんな風呂になるべなぁ。」と楽しみにしていた。すると、「オラに死ねって言ってるのっか?」「みんなにイジメられる〜」「おもしろくねぇなぁ〜」とつぶやきながら、「エーンエーン。」と目に手を当てて泣きまねをして「グスッ。グスッ。」と鼻水をすすっている。それが入浴中ずっと続く。「ユキさーん。オレが悪がった。泣がねぇでけで〜。」とあたふたしいると、チラッとこちらを見てから「…エーン。」と泣きまねを続ける。ガンガンと正面からぶつかって来るのは得意なのだが、ウソでも泣きが入ると調子が崩れる。このときはユキさんの圧勝だった。案の定、風呂から上がり居室に行くと、前回より上機嫌で質問攻めに会う。そして、電気を消そうとすると、「また一緒に入るべしね♪もと美ちゃん♪」となる。(今度はちゃんか。圧勝だからちゃんかよ!)ユキさんのひねくれ少女は私を応援をしてくれる。
  真澄さん(仮名)はしばらく食事が進まず少量しか食べられないでいた。歩行もおぼつかなかったが、ある日、居室で2人で話していると「オラは今こんな体になってしまったから歩けないし働けなぐなってしまったども、ホントはココさいる人間でねぇんだ!こんなんでねがった!」と話してくれた。その話をしたからかどうかはわからないが、その日から食事を完食するようになり、どこかへ出掛ける時にも「車椅子持ってくるっか?」と声を掛けると「やんか!」と断って、自力で歩いくようになった。なんともいえない濃い感情というか、オーラのようなものを感じさせる人だ。
 また、タクヤさん(仮名)は「ちょっとちょっと。」と寝る前に呼んでくれたので、部屋に行くと「オメさん、最近なんか悩んでるべ。まぁー、しょうがねぇんだ。今はオメ力ねぇんだしさ。焦らねくたって大丈夫だ。2,3年後に‘まぁなんとか出来ましたわ’くらいでさ。それにしても、安い給料でよくやるごど。まぁ俺らもあんたがたに生かしてもらってるどもな。んー…お互い様か。ハハッ。さっ。寝るっか。」と、実に適切な言葉をくれた。
 新しいユニットでチーム作りに悩む私は、いろんな利用者さんに助けられ、気合とともに支えてもらっている。やはり、じいちゃん、ばあちゃんの力はすごい。
 利用者もスタッフも良いんだから、絶対いいユニットができる。スタッフが力を合わせ、じいちゃんばあちゃんにも育てられながら、新しいすばるを作っていきたい。
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事例を経て、今の私、これからの私 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2012年6月号】

 3月の末に銀河の里の事例検討会で発表した。テーマは「傷」と「痛み」。3年前、私とミサさん(仮名)が出会い、そして始まった旅。今も続いているその旅の中でも、最も大きく目まぐるしかった最初の一年を振り返った。
  入居した当初から一貫して「足が痛いです」と言い続け、私に挑んできたミサさん。ミサさんにとっての“痛み”とは何だろう?どんな意味があるのだろう?その思いでずっとミサさんと向き合ってきた。そんな日々を振り返っていると、ミサさんの変わっていくプロセスに伴って、自分も変わっていく私のプロセスにもなっていた。不思議なことに、その時の出来事や私に向けられた言葉の一つ一つが、私個人のその時の現状とリンクしていて、私はミサさんに、ミサさんの言葉に考えさせられ、感じ入り、支えられてきた。事例をまとめ、検討することは自分自身を見つめることでもあるのだなと深く感じた。
  「どう生きたらいいでしょう?」「どうやったら幸せになれるんですか?」と、ミサさんは私に問い詰めてきた。生きるって何?幸せって何?それは長い間私が、自分自身へ、また親や社会、世間に対して問い続けてきたことでもある。「生きる」ことに意味を見出すことは決して簡単なことではない。
90年以上生きてきたミサさんが「自分の生き方がわかりません」と私に問う。簡単に答えられる問いではない。人は生きている限り、ずっと自分の生き方を探し続けるのかもしれない。
   ミサさんと出逢わなかったら、“痛み”について考えることはなかったかもしれない。でも、実は“痛み”や“傷”は生きる上でとても重要なものであるということに、ミサさんのおかげで気付くことが出来た。 人は皆、多かれ少なかれ傷を抱えているのではないかと思う。その傷と向き合うよりも、むしろ見ないふりをして生きている人が多いのかもしれない。
  私は今までに自分を思うように出せずに苦しんできた。心を開いたり、自分を出すと傷つくから抑えてしまう。自分を出しても守られる場所がなかったり、受け止めてもらえないような不安と怖さがずっと心のどこかにあった。ずっと、ありのままの自分はどこにも生きていなかったように思う。
  人と関わったり交わったりするためには、きれい事だけじゃなくて少なからず傷つくこともあるのが当然だ。傷つかないように生きることは、人と人の本当の意味での繋がることを諦めてしまうことにもなる。里へ来て6年目。ここには認知症という無限大の力を借りて、自分を最大限に表現し、挑んでくる人たちに囲まれて過ごしてきた。その中で、本当の意味で相手と向き合い、自分とも向き合うことが出来るのだということを少しづつ体験し、身にしみてそれを感じる出会いが何度もあった。そう思えるようになったことで、少しずつ自分の心も拓けた気がしている。誰とも交わらないまま、自分というものもわからないまま生きるってつまらない。傷つくことを恐れて、自分と向き合わずして人生を終えていいの?そう思っている私が居る。自分自身が抱える傷、相手が抱える傷、それらと向き合うことで自分が見えたり、相手が見えたりする。自分を知り、相手を知る、そのために寄り添う。そうやって関係が深まり、自分自身も深まってっていくところに、味わい深い人生が描けるのでないかと思えるようになってきた。
  “痛み”は自分の痛みではあるが、痛いと表現するとき、かなりの力で人を引きつける力を持つ。痛いと言われて、ほ っておけないのが人間である。特に、近しい人が、痛いと訴えて来たときには、それを聞く方がより痛みをもって受け取ってしまうことはよくあるのではないだろうか。それは、辛いけれど、強烈な繋がりを作ってくれるようにも思う。
  「痛いです」と訴え、語りかけるミサさんに、そんなことを考えさせられ、生きるとはどういうことなのかを考えるきっかけをくれたように思う。
  現代人は、目に見えるものや答えがはっきりしているものとしか生きようとしない。見えないものにはあまり価値を与えず、問いかけないように避けている。でも、本当は人は目に見えないものに支えられているのだと思う。感情やたましいといったものが、ないことのように行動することを要請される時代だが、そうしているうちに苦しくなってしまう。肉体としての器があるだけではく、心があり、たましいを感じるからこそ人間といえるのだと思う。その心やたましいをいかに豊に生きるかということが本当は大切なことに違いない。体の“傷”は目に見えてるが、心の“傷”や”痛み“は目に見えない。見えないからこそイメージをつかって想像していくことが大事だ。
  思いは人を動かし、人を支えるということや、思いの強さはすごいということを、私は銀河の里に来てから、幾度となく経験した。目に見えないものが人を動かし創っているのかもしれないとさえ思う。目に見えないものを信じることは簡単ではない。ある意味、自分自身と闘うことでもある。その闘いを諦めないことで、大事な何かを得ることが出来るのだ。
 心と向き合い、心を鍛えるために、大いに心を動かす必要がある。心を動かすということは、自分の感情に正直になるということでもあるだろう。泣いたり笑ったり怒ったり、自分の内側から湧き出てくるものを受け止め、向き合う。それには必ず“傷”や“痛み”が避けられず、傷に依ってしか語れなかったり、解らなかったりすることも多いように感じる。
 “生きる”とは、そういうことなのではないだろうか。
 私は今、“繋がること”についてこれまでになく考えている。新しく異動した部署でのチーム作り、利用者さんとの新たな出会い・・・家族のこと。
 人は独りでは何者にもなれない。“誰か”に向きあって初めて自分が見える。自分というものを照らし出す他者の存在が必須だ。楽を求めて、傷つくことを避けすぎて、繋がりを絶ったり、出会えるチャンスをなくしたりしまうのはもったいない気がする。
 痛みの次元でのやりとりができる関係を持てるのは、実はすごく貴重で幸運なことなのかもしれない。そういう意味でもストレートに「痛いです」と、たくさんの意味が込もった言葉をぶつけ続けてくれたミサさんの存在はとても大きい。
 今回の事例発表を経て、やっと私の自分の人生が始まったような気もする。ミサさんの問いである“人が幸せに生きる”とはどういうことなのかを私も考えながら、挑戦していきたい。
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追跡は巡る 『海辺のカフカ』と『銀河の里』に繋がるもの ★施設長 宮澤京子【2012年6月号】

 この通信でも随時紹介してきたように、昨年DVDで映画『だれも知らない』を観てから、いろいろあった。そしてついにこの映画の主題歌を担当したタテタカコさんを迎えて(6/3)「銀河の里」ライブを開催した。一方、先月5月には、村上春樹の『海辺のカフカ』が蜷川幸雄演出で舞台化され、そのカフカ役に同映画でカンヌ映画祭の最年少主演男優賞を獲得した柳楽優弥が舞台初出演した。映画『だれも知らない』をきっかけにタテ・柳楽を追いかけてきたこの半年、巡り巡って、里と近い感覚があり、注目し続けてきた、村上春樹の『海辺のカフカ』につながった。舞台を見た後、再度小説を読み返しながら、小説のメタファーが、里のワールドと重なり、以前読んだ時とはまた違った感動と畏れを覚えた。小説と同じように、不思議と現実でも繋がるときはいろんなものが繋がってくるものだ。
 『海辺のカフカ』は、2002年に刊行され、以来30を超える各言語に翻訳され、それぞれの翻訳本の装丁から、この作品の何に想像力を刺激されたのかを見比べるてみるという試みもされるほどだ。ちなみに日本の単行本の装丁には、春樹の私物である石と猫の置物が使われている。カフカは、フランツ・カフカ(チェコ出身のドイツ語作家)の借用で、チェコ語でカラスという意味だそうだ。
 この長編小説は、現代が舞台であるが、ギリシャ悲劇のエディプス王の物語や日本の『源氏物語』が重ね合わされたような、幻想的でメタファー的なものがベースに展開されていく。父親から「お前はいつか、その手で父を殺し、いつか母と姉と交わる」という「呪い」をかけられた15歳の少年カフカと、戦時中、幼少期に疎開先で奇妙な事件に巻き込まれ、それ以来すべての記憶と読み書きの能力を失ったナカタ老人のパラレルワールドが、共時的に語られ繋がっていく。
  両世界に低通しているテーマは、破壊的な「暴力」と抗えない「性」である。「戦争の持つ残酷さや非情さ」や「死と背中合わせの生」は、平和ぼけをむさぼる現代の我々には、リアリティを持ちにくい。ところが人々の心のなかには、いつ爆発してもおかしくない荒れ狂う「暴力性」や、内向して自己完結していく「閉塞性」が渦巻いている。村上は「戦争」そのものを描くのではなく、時空を超えた二つのパラレルな世界を展開しつつ、現代人のこころにこそ潜む「暴力性」とそれとの対決を描いていて、小説ならではの構成と展開がある。
  舞台の脚本はフランク・ギャラティで2008年にシカゴで上演されたのを、蜷川幸雄が演出した。かなり長編で複雑な『海辺のカフカ』をどう舞台化するのか、どこを強調して、どこを省くのか、舞台であの不思議なパラレルワールドが描けるものなのか疑心暗鬼でもあった。ところがストーリィは、かなり原作に忠実で、舞台に引き込まれ4時間の上演があっという間に感じるほど面白かった。次々に展開する透明なボックスに入れられた「背景」や「場」を人力で動かすというこの奇抜な?舞台の入れ替え手法は、現実の中にある非現実と、非現実の中にある現実という、少しややこしいパラレルワールドを表現するには有効だったし、キャスティングもとてもよかった。
  
 『海辺のカフカ』の持つメタファーと、銀河の里とのリンク
   ・「世界で一番タフな15歳の少年」→「世界で一番タフな97歳の老少女」 ー 
  カラスと呼ばれる少年(カフカのもう一つの人格?)が、「君はこれから世界で一番タフな15歳の少年になる」と眠ろうとする少年(僕)の耳元で繰り返す。ー
  15歳という年齢は、思春期のまっただ中だ。村上自身が中国版の序文でこう書いている。「心が希望と絶望との間を行き来し、世界が現実性と非現実性との間を行き来し、身体が跳躍と落着との間を行き来する。そこで激しい祝福を受け、同時に激しい呪いを受ける。・・・略・・・カフカは僕自身であり、あなた自身である。」
  子供でも大人でもなく、不安定で弱いからこそ、タフな身体が必要になる。タフでなければ、内側に沸き起こってくる暴力的な誘惑や性的な葛藤を乗り越えていくことができない。そこでパワーが欲しい!と筋トレやボディビルで身体を鍛える。しかし、力でねじ伏せるにはあまりにも相手は巧妙かつ巨大である。現実での「親殺し」や「相姦」を避けなければならない。少年は「旅」で出会う人との触れ合いや支え、「冒険」の魅力と挑戦、神話などメタの世界に助けられながら、危険な時期を乗り越えていく。神話は、時に現実の体験以上に力を持ち、魂の怒りを鎮める役割を持っている。もしこの時期を乗り越え損ねると、犯罪に至ったり、精神の病に陥りやすい危険な時期なので、こうした多くの守りや多義的な支えが重要となる。
 その疾風怒濤の思春期を乗り越えると、次に現れるのは「社会」の中での役割や責任という、「大人」としての現実適応を求められる時期、それが人生の大半で、長く続く。
  しかし、高齢期になると再び社会的「弱者」となる。そこでアンチエイジング!として筋トレやリハビリに励み、弱者から抜けだすためにあがくことになる。ここでもパワーが欲しいのだ。しかし、この時期は、思春期以上に間近に迫る「死」という不可避な現実にも関わらず、極めて非現実な課題がある。
  思春期に立ち向かうタフな少年が小説のカフカであるが、私たちはグループホームの現場で、死思期に立ち向かうタフな97歳の真知子さん(仮名)に出会う。まさに1世紀を生き抜こうとしている彼女が、先月ある日突然、激しい頭痛と嘔吐に襲われ、酸素濃度も下がり、救急車で病院に運ばれた。病院に親族が呼ばれ、危険を宣告される。ところが真知子さんは「まだ死んでいられない!」と叫び息を吹き返し元気になった。97歳の「まだ」に親族も驚いたが、その言葉通り、2週間入院したが、結果所見なしで退院し、グループホームに戻ってきた。入院中はおむつで、ベッド上の生活を余儀なくされていたが、戻ってきて数日で自らおむつを外し、以前のとおりポータブルトイレを使用するようになった。夜間も、習慣になっていた部屋の模様替えの作業を復活させ、小さな身体にどこからそんな力があるのかと思うほど、素早い身のこなしで、椅子や荷物を移動する音を響かせている。おまけに以前は耳が遠いせいもあり、どちらかというと寡黙だったが、なんと退院後は言葉を使ってのやりとりが頻繁になりみんなを驚かせた。
  あまりに元気なので、先日、天気もよく田植えに誘ってみた。
 すると断ることなく「よがんす」と二つ返事で受けてくれた。そしてなんと一番乗りで田んぼに入った。私はその様子に「あぁ今年の田植は、真知子さんのこの姿が見られただけで、十分!」と胸が熱くなる。しかも丁度そこに、お孫さんが「おばあちゃんが紅白の帽子をかぶって運動会に出ている夢を見たので、寄ってみました。」と訪ねてきてくれた。数日前、生死の境をさすらい、病院に親族を集めたおばあちゃんが、田んぼで働いているのは想像もできない光景だったろう。「まだ死んでいられない」というのは、米を作付けする聖なる鍬入れの「儀式」を執り行うためだったかとさえ感じてしまい、手を合わせたくなる。真知子さんの儀式に続いて、新人スタッフが「ワイワイ」と苗を手に、田植えをしたのだった。
  97歳の「死思期」の変容は、15歳の「思春期」の変容に劣らず凄まじくて気迫に満ちていて、それでいて暖かい。まさに世界で一番タフな97歳の老(少)女を垣間見たようなエピソードだった。人間の心やたましいの次元では、どの発達段階においても「死」を背景に、どう生きるのかというテーマが低通していることを感じさせられた。
  『海辺のカフカ』ナカタさん:戦中の不思議な体験と戦後の数奇な運命
  『銀河の里グループホーム』守男さん:戦争の傷とその癒し  
   〜 開閉する通路:「猫」と「石」そして「森」というキーワード
  ナカタさんは、小学校の疎開先で、集団催眠?にかかるという「お椀山事件」に遭遇し、それ以来記憶がなくなり、読み書きも出来ない。その代わり?に猫と話が出来るようになる。その能力を使って行方不明の猫を捜索しているうちに、数奇な運命に遭遇する。「ナカタは・・・であります」という軍隊口調のしゃべり方は戦中がそのまま残っている感じだ。暴力とは無縁のようなピュアな性格のナカタさんが、カフカの父であるジョニー・ウォーカーを殺害するという事件が起こる。返り血を浴びたはずのナカタさんには、一滴の血痕もなく、東京から距離を隔て高松にいた息子カフカのポロシャツに血糊がついていた。父から受けた呪いの一つが、ナカタさんの手によって成就した。(しかし現実には、カフカとナカタさんとの接点はない。)殺害の次のナカタさんの役目は、森の奥深くに‘開く通路’‘塞ぐ通路’の「石」を探し、その「石」をひっくり返す仕事だ。このようなメタとしてのナカタさんの役目(世界秩序のあるべき形や方向に正す?)に、付き合ってくれる青年星野君が現れる、今風でちょっと軽いが、次々に起こる異常な出来事を、とてもナチュラルに受け止める。石を見つけた後、実際に通路をふさぐ仕事を残してナカタさんは息を引き取る。途方に暮れる星野君の前に、黒猫のトロが現れる。なんと星野君は、猫と話が出来る能力をナカタさんから引き継いだようで、トロは星野君に役目を指示する。トロいわく、猫は世界の境いめに立って、共通の言葉をしゃべるという。世界の境いめとは、生と死の世界の間に横たわる中間地点(リンボ)で、ここでの戦いは、「偏見を持たない絶対的な意志(システム)」の象徴としてのジョニーウォーカーと、カフカの影の人格としてのカラスが、「圧倒的な偏見を持って強固に抹殺する」という命令の下での戦いだ。しかしリンボにおける戦いには、「死」は存在しない。
  この中間領域は、銀河の里では特に重要なのだが、舞台では省略されていた。星野君の役目は、ナカタさんの身体を通路として出入りする「邪悪」なものの退治である。星野君には何のためにそれをするのか、全くわかっていない。しかしナカタさんから引き継いだ役目を果たすことに何の疑念を持たず、目的を詳しく詮索もしない。「邪悪」なものは、特定の形は持たないが、一目見ればわかるという。確かにそれが現れた時、一目見て星野君は、それが「圧倒的な偏見を持って強固に抹殺する」‘もの’であると悟った。塞がなければならない「石」は、時を待って入り口の石になり、その石をひっくり返すのは容易なことではない。しかし、邪悪なものをそこから入れてはいけない。トロは、「死んだ気でやれ、そして資格を引き継ぐんだ」と声をかけ、星野君はあらん限りの力をかき集め、命と引き替えの覚悟で石を持ち上げた。それによって入り口が塞がれると、邪悪な白いものは、硬く丸くなって死んでいた。
  こうして星野君は役目を終えるが、ナカタさんと一緒にいることで、自分が変わったことはどんな不思議な出来事よりすごいことで、それはナカタさんの一部を引き継いで生きるってことなんだと自覚する。一方、記憶をなくした空っぽのナカタさんにとって、自分のことを考えてくれる星野君の存在は、心強く、幸せな時間を共有できたに違いない。亡くなったナカタさんに「悪い死に方じゃないよな」と語りかけて立ち去るシーンも印象的だ。
  このナカタさんと青年の関係は、私にはグルーホームの利用者、守男さんとスタッフに重なる。グループホームに入居者している92歳の菊池守男さんは、戦争の傷を今なお心に深く負っている。時折「天皇陛下万歳!守男、お国のために戦ってきます」と敬礼することもあるが、「お国のために、人を・・・」と泣きながら告白することもあった。お国のためという大義名分のもとに戦争が正当化され、男達は戦地に駆り出され、銃後を守る女・子供は食料不足に喘ぎ貧しく暮らしていた時代が映し出される。復員後、守男さんは農家の家長として農業や祭りごとを取り仕切ってきた。しかし高齢になると、母屋の脇に建てた小屋で、薪ストー ブを焚いて、その炎をながめながら瞑想の時を持っていたようである。
  入居3年目になるが、守男さんにはグループホームは「公民館」のイメージがあり、「家に帰るかな」とつぶやいて出て行くこともある。踊りの名手で、地域や里の「祭り」では見事に舞いを納めてくれる。宵宮の神楽やお正月の獅子舞、お盆の迎え火や送り火、どんと焼きといった神事も、守男さんの存在が場に緊張感を与え、「儀式」を守り、滞りなく進めさせてくれているように思える。戦争では多くの殺戮を目にしたのか、負傷した戦友のことを思い出して胸を詰まらせたり、氷のように冷たい表情でどこか遠くを見つめていることもある。生き残った人間として、深い傷を心にかかえながらも、厳かに死者への供養をしているようにも感じる・・・。
   最近、足腰が弱ってきた。リビングのテーブルに伏せていたので、私はソファへ移動しようと「車いすに移りますよ」と声をかけた。にこやかに、「はい」と応えてくれたものの、逆の方向に力が入り、まるで「石」のように重く3人がかりでやっと移動した。
  ちょうどその頃、守男さんが自宅に寄ると井戸を塞ぐという話があった。家から戻ってきた守男さんは、若い男性スタッフを手招きし、「お前に任せるから、いい案配にやってくれ」と語った。守男さんも、ナカタさんのように「世界の秩序のあるべき方向性を指し示す」という、そんな役目を、若者に託しているように感じてしまう。またある朝、守男さんは、鏡を見ながら「ははぁ、まだ埋めてないんだな」と言った。私たちは感覚を研ぎ澄まし、井戸が塞がれる前に「聞き逃していることはないか、見逃していることはないか?」と、日常の暮らしや、自らの生き方に思いを巡らせる。そして願わくは、守男さんの役目を引き継げる資格者でありたい思う。
  ・カフカは?
  世界で一番タフな少年になることを決意し、旅に出たカフカ。
 強くなると言うことは、自分のうちにある影としての恐怖や不安に立ち向かうことであり、カフカにとっては、父親の呪いの傷や、自分を捨てた母を許すことだった。『海辺のカフカ』は思春期に立ち向かう少年を支え守るもう一つの世界を描いているところに特徴がある。カフカとは別の世界で、カフカの代わりに呪いを解き、「邪悪」なものを抹殺するナカタさんという存在が描かれている。そのことによってカフカは、犯罪者になることなく呪いから解放され、激動の思春期を乗り越える。自己がタフさを身につければ大人になれるのではない。何かを乗り越え大人になるには、むしろ自分とは別の世界で、自分に代わって命をかけて戦ってくれる存在が必要だ。自分ひとりでは、相手に比して弱すぎるので惨殺されたり、自らの暴力で世界を破壊してしまう危険がある。しかし逃げては一切が無に帰す。だからこそ、パラレルなもう一つの世界の関係者を動員した戦いが遂行される必要がある。両者の通路を時に開き、時に閉じながら、その行き来を司る者には、村上のよく言う「資格」がもたらされるのかもしれない。
  6月7日、銀河の里のデイホールでタテタカコさんのピアノと 歌を聴きながら、この半年、現場から思索してきた、様々な不思議な繋がりに思いを巡らせていた。  
参考文献:
村上春樹(2002)『海辺
のカフカ』新潮文庫
  舞台「海辺のカフカ」のパンフレットより
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田んぼ歳時記 ★ワークステージ 佐々木哲哉【2012年6月号】

 雪が溶けて春が来ると一気に田植えの準備が始まり、それが終わると大豆や春野菜など畑に蒔くのは梅雨入りまでが勝負なので、この時期は気が休まらず駆け巡る感じの日々だ。

 それでも今年は17歳の渉君が畑班に加わり、ベテラン・広一さん(仮名)とのコンビでトラクターなど機械作業をやってくれるので、僕は全体を見て段取りなどをやれるので助かっている。二人は年齢差こそ3まわりも違うけれど、農業が体に染みついる感じで現場を引っ張ってくれている。生まれ育った土地や訛りは多少違えど、お互いに生活の労苦や「土着」をもっているところが合うのか、二人とも茶目っ気があり、現場が賑やかになるところも功を奏している。
 渉君は、17歳の若さとしては希少種級の働きぶりだ。まだ知り合って間もない頃、彼が自宅で牛の面倒を見ているというので見に行ったときの鮮烈さは忘れられない。自宅の裏山の草地でロープで牛を引っ張る若者の姿は、僕が沖縄の離島で暮らしていたときに見た光景と重なり、働く男の逞しさと優しさが自然や暮らしに溶け込んでいて、都会育ちの僕に欠落しているあこがれの姿を目の当たりにして嫉妬すら覚えるほどだった。
当初は無口で人見知りの強かった彼も、1年たったいまは、働く仲間の中心にいてワーカーさん達と馴染み、いざこざがあったときなどは素早く間に入り、逞しく欠かせない存在となっている。

 もち米の田んぼは、昨年に引き続き特養の若手女性メンバー「もち米ガールズ」が担っている。イベント的になってしまった去年の反省を踏まえて自主的に任せることにしたのだが、本人たちも見守る側もなかなか大変である。

 水尻をとめないで(栓をしないまま)水を入れてだだ漏れになっていたり、プール育苗にも関わらず水が枯れて苗が枯れそうだったり‥‥。すぐに質問してきて、自分たちで考えたり人の作業を見て盗みながら学ぼうという姿勢はない。自分も同年代の頃を思えば、似たようなものだったのだが‥‥。介護の傍ら、やったこともない(もしかしたら関心もなかった)農作業を自分たちでやるのは大変だろうが、種が芽を出し田に植えられて穂を出すその姿や育てる労苦は、生きることやいのちと向き合うことであり、自然の恵みの豊かさに感動や充実感を感じてもらえたらと思わずにはいられない。

今年の田植えは、早朝から20名を超える職員が手伝いに集まってくれた。なかなか発信ができない自分に代わって、先輩たちが若手を誘い、多くの人が自主的に集まってくれた。いつもは早起きが苦手なGHみつさんちのメンバーも、昨年運転免許を取得してワークに復帰した星崎くん(仮名)も遠くから、遅れることもなく集合してくれてビックリした。おかげで稲の苗をハウスからトラックに積んで田んぼ1枚ごとに必要な枚数を置いていく作業は驚くほど速く運び終わった。田んぼ班は早朝から、植える作業に取りかかり、りんご班は午前中のうちにりんごの摘果作業に向かった。夕方になっても東條君(仮名)や拓真さん(仮名)は自分から居残りを志願して、日没まで共に作業に関わってくれた。

 銀河の里の周りでも、耕作が放棄されたような田んぼが至るところにある。
多くの零細農家と同様に銀河の米だって、作るより買ったほうが安いのかもしれない。
それでも田んぼを続けることは、自分たちの糧を得て暮らしやいのちを守るもの、いのちを育みつないでいくこと‥‥それをコトバじゃなく、童心にかえったように、ワクワクしながら共に感じていきたい。
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私を開く −キリさんの支え ★グループホーム第1 中村綾乃【2012年6月号】

 新人の昨年は、先輩スタッフの行動を見よう見まねで、利用者さんと関わっていた一年だったが、今年はいくか自分のスタイルが見えてきたような気がしている。スタイルと言っても、パターンではなく、日々違って新たな出会いがあり、事が起こっていくなかで私自身の構えが違ってきたのだ。以前は正しいやり方があるように考えていたので「あ、こう来たら私はこう返事をしよう」とか「今はきっと、こう感じて居るんだな。それならば、私はこう寄り添おう」とパターンを求めていた。今は、毎日“その日の自分だったからこそ生まれる出来事”を大事にしている。その上で、スタッフとも「今、こういう気持ちで行動した」とか「こういう事を感じた」とか話し合えるようになった。
 座っているかと思うと不意に「行ってくるかな」と言い残して、勢いよく立ち上がり外に出て行くキリさん(仮名)。デイサービスやグループホーム第2にお邪魔することも多く、私がグループホーム第1に戻って欲しいと思えば思うほど、それに反して戻ってくれない。すれ違いを感じて私がモヤモヤしてくるとキリさんは怒りをぶつけてくる。少し前までの私は、他部署に迷惑をかけている気がしてなんとかそこから離れて、グループホームに戻ってもらわなければと、焦ってしまい困り果てていた。 
 ある時、ケアマネージャーの板垣さんに「キリさんは周りの空気読むのが上手いから、キリさんがDSに居れるんなら中村さんもデイに一緒に居ていいんじゃないかな」とアドバイスしてくれた。利用者がやってきて迷惑と思うような里の部署はないから、遠慮せず、いろんな所にキリさんに連れて行ってもらって一緒に過ごしたらいいんだ。他者に心を開けないで、他部署に遠慮な私を、キリさんが連れて行ってくれていると板垣さんは感じたのだと思う。 それからはキリさんを連れ戻さなければとか、困ったことをしないでほしいとか考えずに、キリさんがやるように私も一緒につきあう気持ちに切り替えてみた。キリさんが座ったら座る、歩いたら歩くようにまねをしてみたりもした。渡り廊下で繋がっているデイにお邪魔することが多いが、そうやってキリさんに寄り添って座っていると、今まで見えていなかったことが見えるようになった。デイの利用者さんの動きや、スタッフの関わりや、雰囲気なども感じることができる。すると、今までの私ではあり得なかったことだが、手持ちぶさたにしている利用者さんに「お元気ですか?」と声を掛けてみようとする自分に驚いた。すると「元気よ。最近ね…」と返事が返ってくるではないか。当たり前だが、新鮮な体験だった。さらに不思議なことに、私が他の利用者さんとやりとりをしているときのキリさんは、やりとりが終わるまで立ち歩くことなく、そこにとどまって待っていてくれるのだ。やりとりが一区切りついて私がキリさんの顔を見て様子を伺うと「いいでしょ?」と言って、ピッタリのタイミングで立ち上がり、また別なテーブルに移る。
 移ったそのテーブルでは将棋や囲碁をしている利用者さんが居て、私もそこへお邪魔して一緒に囲碁の対戦の様子を見ていると、囲碁をやっていた男性利用者さんは「やりかた分かるか?」と打つ手を止め私に細かく解説してくれた。自分の殻に籠もって、なかなか人と交わっていけない私のコミュニケートの欠落を感じ取ったキリさんは、何とかしようと私のことを導いてくれているのかもしれない。いずれにせよ、キリさんは私とデイの利用者さんとを結びつける媒介となっている。
 キリさんとそんなやりとりを体験しているおり、5月8日の新人研修に私も参加した。取り上げられた研修教材は『闘う三味線 人間国宝に挑む〜文楽一期一会の舞台〜』というNHKのドキュメンタリーで、現在の文楽の重鎮、浄瑠璃の竹本住大夫に三味線の鶴澤清治がある演目での競演が上演されるまでの稽古の様子を追ったものだ。人間国宝住太夫に、文楽三味線の第一人者鶴澤清治(後2007年7月人間国宝)が挑むという内容で、2007年 5月7日に公演された『文楽出棹 鶴澤清治』の最初の稽古から公演までの二人の対決が細かく丁寧に描かれている。
 共演するのに対決はないだろうと一般の素人には思えるのだが、そこに描かれていたのは明らかに対決で、「三味線と太夫は夫婦みたいなもんでんねや、合わせたらだめでんねん」と当たり前のように語る住太夫の言葉にハッとする。一般の常識とはかけ離れた、人間国宝の世界だけにあるようなプロの話しだ。「上手にやろう思うたら終わりでんねん」とも語る。弟子の人も「上手に弾くのなら誰でもできます」と言う。奥深い芸の世界がそこにある。合わせには行かない。あくまで三味線は三味線、太夫は太夫で自分の芸風を高い次元で発揮しながら、それぞれを活かしながら、調和と言うのか、浄瑠璃が完成する。ドキュメンタリーの映像だけでも、二人のスタイルが違っているのは素人の私でも解った。その二人が、お互い全く妥協などせず、信念と信念をぶつけてひとつの演目を舞台に向けて完成させ行く。お互いの能力を認め合っているからこそできるぶつかり合いが繰り広げられて、とにかく凄かった。
 私にはよくは解らないが、本番当日の舞台は見事なものだったに違いない。観客はその場に居合わせる幸運に酔いしれたことだろう。「またやりますか」との公演後のインタビューに住太夫は「いやもう二度とできません」と言っていた。年齢のこともあるのだろうが、一期一会の命がけの勝負だったのだろうと思う。鶴沢清治は「100パーセントはありません、80点かな。傷はありますが今後に活かしていきます」と晴々と語った。「あの子若いでしゃっろ60でっせ、これからでんがな」4歳から三味線を弾いてきたという鶴沢清治60歳がこれからだという世界。当時83歳の住太夫は全力で後継に胸をかしたのだ。
 「このように仕事に対するプライドを持ちながら、私にしかできない仕事をしたい」と感じさせられた。ただあまりにかけ離れた世界で、感想を聞かれても全く言葉が見つからず「凄い」としか言えない。
  我々の現場もただ“介護行為”をするだけならば誰にだってできる。私がその場に居て私しかできないことではない。利用者さんと一緒に感動する、一緒に泣くといった、生活することで生じてくる“心で繋がる”ことや、私が利用者さんとが関わることで生まれる出来事をどう大切にするかということが問われるように思う。
 私がこの道を選択したのは、人との繋がりが薄い今の時代に疑問を感じていたからだ。私は大学で法学を学んだ。法文があることによって守られる人間の権利があるが、法文は個々の事情・感情・性格等を考慮してくれることは殆ど無く、誰に対しても平等に同じく適用される。学問として理論を追求すればするほど、個々の特性は排除され、実態のない“偶像”が現れるように私は感じた。法律は必要で、それによって社会も成り立ち、秩序も保たれる。しかし、現代はあまりに偶像が大きくなりすぎてそれに縛られ、個人の心が排除され、息苦しさに耐え難く感じることが多い。特に集団の中にそうした空気が蔓延していて、皆と同じにしなければならない強迫的な観念に支配される。常に異質なものを排除しようとする圧力は相当高い。そんな現代社会に私は辟易していた。とりあえず他に合わせることで落ち着くものの、次第に不安が膨らんでくる。
 銀河の里では私の個性が活きるように見守ってくれる。一般社会とは逆に、異質が特徴として歓迎される。私らしさが活きる事で、私にしかできない仕事が見えてくるという考えがある。
 キリさんは、私が人と繋がるきっかけを与え、私の世界を開いてくれているのだと思う。私を連れていろんな世界を案内し旅を続けてくれているに違いない。あとは私の感性の発動次第だ。“介護行為”は私の仕事ほんの一部でしかないと思う。それを通じて私が誰とどう出会い・勝負するのか。コミュニケートの戦いだと感じてきた。真剣勝負でしか生まれようがない、強烈な出会いということが世の中にはあるのだと、二人の人間国宝から教えてもらったような気がする。
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里のバンド発進 ★グループホーム第2 酒井隆太郎【2012年6月号】

 俺は、営業マンから転職して2年が過ぎた。濃密な日々で、とても充実していた。利用者さんとの深い出会いがあり、別れもあった。介護の資格も経験もない俺だったが、周囲からも支えてもらいながら、ギターを抱えて、何とか特養でがむしゃらに走ってきた。
 ところが急に立ち止まった。疲れたわけでもないのだが、心が静止した状態になってしまい何処を走っているのか分からなくなった。そんな俺に、理事長と戸来さんが声をかけてくれた。
 「グループホームに異動しましょう。」そして俺は、修行のつもりでグループホーム第2にやってきた。不安もあったが、次へのきっかけが欲しかった。それが、去年の12月のことである。それから5ヶ月が過ぎようとしている。グループホーム第2は、暗いのか明るいのか分からない感じで、確かに怪しい雰囲気もあった。特養と違い、時が来ると一斉に利用者さんが動き出す。不思議な感じで、特養とはまた別の世界であった。
 転職当初から「酒井さんはギターを離さないように」と理事長が言っていたが、今度は「バンドを結成しましょう。」と言われた。いままで、たった一人で、ギター一本でやってきたのだが、バンドだと楽器やメンバーも多くなり、確かに楽しそうだ。
 「任せて下さい」と即座に返事をした。実は、俺の頭の中でバンドメンバーは決まっていた。グループホーム第2のスタッフ、佐藤寛恵さんは、身長があって、不思議な感じの人だが、吹奏学部でコントラバスを弾いていた。特養のユニットで新人の俺に仕事を教えてくれた人でもある。その時からバンドメンバーとして声をかけようと決めていたが、今回実現した。楽器はエレキベースだ。もうひとりのスタッフ二唐美奈子君は、身長は小柄だが、寛恵さんとはまた違った不思議な雰囲気をもつ、独特のキャラクターだ。銀河の里は、スタッフも個性的な変わった人ばかりでどこか魅力がある。彼女は現役でコーラスクラブに所属しており、全国大会にも出る歌姫である。ヴォーカルは決まった。声をかけると当然2人とも二つ返事で引き受けてくれて、とりあえず3人の出発になった。グループホームで昼間から練習できるし、利用者も自然に参加してくれる。早速、音を出してみるとまあまあではないか。数日練習を重ねて、男性利用者豊さん(仮名)の99才誕生会を初演奏で祝った。曲は、グループホームで日常的に出る“ハワイ航路”や、利用者をイメージして選曲した、昭和のメロディーだ。
 この時の盛り上がりようには俺が驚いた。ひとりのおばあちゃんが立ち上がりステージに流れ込んできた。その後、他の利用者も踊り始め、歩けない人も巻き込んで最高に盛り上がった。こんなことが起こるものなんだなと、俺は改めて音楽の力を感じた。気持ちが繋がった一体感があって大成功だった。熱の入った練習がその後も続いてた。そこにオファーが入り、「5月の運営推進委員会で演奏を」と言われ引き受けた。メンバーはその後2人増えドラムが加わった。デイサービスの新人、高橋さんは長年バンドをやってきた経験者で、ギターも弾ける、かなりの腕前の心強いお兄さんだ。そこに「ドラムを叩きたい」と言って乗り込んで来た川戸道美佐子という新卒の社会人1年生。フワーっと風と一緒に揺らいでいるような感じで、本当にドラムできんのか?と思わせるが、高橋さんの指導もあり、叩いてみると全くの素人ながら、いい感じになった。早速、選曲して、昭和メロディーを中心に練習を始めた。“東京ブギ”“上を向いて歩こう”“憧れのハワイ航路”と3曲に、私のレパートリーである竹原ピストルさんの歌を2曲を加えた。
 練習を開始すると、ドラムのパワーがありすぎたのでアコースティックギターをエレキギターに代えてみた。存在感はバッチリになったが、ゆったりした曲にはなじまない感じもある。そこで試行錯誤しながら一番ゆったりとした曲のハワイ航路のリズムをレゲエのようなリズムで弾いてみるといい感じだった。これをアップテンポにすると、なんと沖縄民謡の雰囲気になった。これにはメンバーも絶賛で、その日の練習は、メンバー全員大笑いだった。俺も長年やってきて、曲がこんなにも変わるものとは驚きだった。練習メンバーやその場のノリや成り行きなのか、そうなって行った。家に帰ってからも思いだし笑いするくらいだった。リズムが決まったので、ギターはアコースティックにもどし、アンプで調整した。
 翌日も、俺はそのリズムが気に入って頭から離れず、グループホームでギターを持ち出して弾いていた。前奏をチャカチャカとならし、ニヤニヤとしていた。二唐さんに「昨日は最高だったな」などと語りかけていた。楽しい気持ちで、“沖縄バージョンハワイ航路”を弾きながら、日勤の片方さんに「この曲なんの曲だかわかる?」と思わせぶりに問いかける。すると「沖縄の曲でしょ。」と言ってくれるので、俺はよしよし、してやったと、したり顔になっていると、女性利用者のクミさんが俺の方を見て、何事もないような顔で、「晴れた空だべ」とニコっと笑った。俺と二唐さんは、唖然とした。俺は、前奏しか弾いてないし、歌もうたっていない。現に片方さんは「沖縄の曲」と言っているにもかかわらずだ。「なんで解るの」と驚いた。
 運営委員会当日は、沖縄バージョンハワイ航路をトリに持ってきて、外部にバンドの初お披露目となった、みんな引くぐらいの大音響で盛り上がった。特に利用者さんは音が出る前から続々と集まってくれた。ドラムの椅子に座ってバンドメンバーになっている人もいた。何で利用者はこんなに関わってくれて、乗ってくれて、支えてくれるんだろう。「晴れた空だべ」と“ハワイ航路”をあててしまったクミさん(仮名)は、いつもは「帰る」と外を歩いているはずの時間だが、このライブでは最前列に座って、途中で自分のスリッパを裸足でやっていた俺に渡してくれた。当然スタッフはクミさんの人柄がわかるから心を打たれる。外部の人には利用者や参加メンバーとの間にどんなやりとりやドラマが起こっているかは解りにくいと思うが、雰囲気は伝わったのではないだろうか。
 その日俺は、家に帰って考えた。バンドは利用者を盛り上げる役のつもりなのだが、里ではバンドも利用者も一直線上にいて、みんなで盛り上がってしまう。音楽を聴かせているのでも、聴いているのでもなくなり、まさに、繋がってしまうのだ。俺達も、ただ歌うだけでなく、ただ演奏するだけでなく、その日あったことや、人の思いや気持ちや祈りを、音楽や歌で表現する感じになって、利用者さんと一体になってしまうんだなと思った。俺達のバンドは支えられている。言葉を越えて、音と歌でもっと表現してみたい。俺に新たな方向が見え始めた。
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久子さん理容院対決 ★グループホーム第2 佐々木詩穂美【2012年6月号】

 いろいろな事にこだわりがある久子さん(仮名)は、昔から行きつけの美容院と理容院を利用している。シャンプーだけの為に美容院に行ったりもする。理容院では顔剃りで、美容院と理容院の2軒を回れば久子さんは満足して帰ってくる。
  しかし‥このところ理容院のおばさんから毛嫌いされている。電話で予約を入れようとすると、「今日は具合が悪いから無理だわ〜」「昨日忙しかったから今日はやらないことにしたの」「これから出かけるから今日はできない」などと断る。「それなら都合のいい日に予約を入れさせてください」と頼んでも「ダメダメ、その日になって体の調子が悪くなることだってあるの」と、とにかく断られてしまう。
  久子さんは独特のイメージの世界を持って生きている、一般にはそれは訳の分からない話しなので、おかしくなった人の話を聞かされると思って辛いのだろうか‥。そのうち、久子さんは我慢の限界がきて、「理容の人、電話すると必ず断るっけから電話しないで行ってみるべ」となった。
  そこで二唐さんが付き添い、飛び込みで行った。店は営業中で、しかもお客さんはいなかった。二唐さんは久子さんをかぶり物のようにして隠れ、久子さんの勢いをかって理容院に入った。おばさんは例のごとく今日は無理だと断ってきたが、久子さんは全く引かず、しぶしぶ顔そりをやってくれた。帰ってきた久子さんは満足気だった。
  久子さんは一緒に出かけるスタッフを選んでくる。どういう所で選ぶのかはよく分からないが、誰が選ばれるかは、スタッフにとってはクジのようで面白い。次に指名を受けたのは私だった。前回、二唐さんと行ったときの話しを聞いていたので、私も飛び込み攻撃をかけた。理容院は営業中で、中にはお客さんが1人いた。私だけで行くと、迷惑そうな表情でおばさんが入り口から顔をだした。「今日来たって無理だから。この間来た時、とっても感じ悪かったのよー。それで私、精神的に病んで寝込んだんだから」とかなり立腹だった。その怒りに「すみません…」としか言えずに追い返されて戻った。
  車の久子さんに「今日はやれないって‥」と伝えると、「なしてやー、ここまで来たのにやってくれたっていいべじゃな。
 オメが先に行ったからわがねんだ。オラが車から降りて直接頼めばやってくれたんだ」と悔しそうに言う。この日はおばさんの剣幕に追い返され、出直そうと仕方なく帰ってきた。
   おばさんの怒りにやられて、私はもう行けない‥と気持ちが萎えていた。ケース会議でその話題になり、久子さんには内緒で菓子折りを持ってお願いしたらどうか?という話もでたが、どこか腑に落ちない。そこで寛恵さんが「これはもう久子さんに任せたらいいんじゃない?」と言った。昔から行きつけの店だし、ここは久子さんしか勝負できない。これは理容院のおばさんと久子さんの対決なんだという。一同納得してそうだと言うことになった。
  次が勝負!久子さんはだれを選んでくるのか?ドキドキしていると、「連れてってけねっ?」と指名してきたのは、また私だった。「えっ!?私?」できれば避けたかった。こういう場面に弱い私。理容院のおばさんの怒りを思い出すとため息がでる。
  寛恵さんはそんな私に「大丈夫、久子さんの仮面をかぶっていけば強いから」と見送ってくれた。それでも私は「今回はダメかも」と頭から戦意喪失状態だった。緊張の頂点で理容院に到着すると、お客さんがひとりいた。“久子さんの仮面をかぶって…” 心の中で呪文のように何度も唱えて、いざ勝負と久子さんを先に、私はその影に隠れ、突撃開始でズンズンと入り口 へ向かった。
  突撃に気がついたおばさんは「今日はこれから次のお客さん来るから出来ないよ」と入り口で応戦してきた。「やばい」と、私は久子さんの影に再び隠れた。久子さんは引かない。「そこをなんとか、お願いしますぅ。せっかくここまで来たのだから」といつもより少し控えめな言葉だが、それでも久子さんの自分中心でドシっとした怖い感じが、心強い。なかなか引き下がらない久子さんに、理容院のおばさんはあきれて、私の方に目線を送る。「なんとかしてちょうだいよ」という感じ‥でもここで私が出てしまうと負け戦になってしまうと、私はあくまで久子さんの仮面をかぶったまま黙っていた。
 (理)「他のお店だってたくさんあるんだから、違うところに行ってみてぇ、そしたら他のところがよくなるんだから」
  (久)「なんたら、やってけだっていいべじゃ、頼むぅ」
  (理)「今日はお客さん来てるから、もし来るなら今度電話で予約してきて。そしたらやってあげるから」
 この同じフレーズの言い合い対決が10分ほど続く。私は聞いているうちに、電話で予約しても断ったくせに、こんなに久子さんが頭を下げてるのに‥とイライラしてきた。
  (私)「んじゃ今、次の予約してってもいいですか?」と、思わず私がちょっと出てしまった。
  (理)「明日の9時頃!でも9時だと施設の朝ご飯の時間で大変でしょう。」
  その時間は来れないだろうと言わんばかりだ。久子さんは「午前中は無理だ。もういい…」とがっくりきている。「なんて意地悪なんだ!くそっ!んじゃ来てやる!!」と私に怒りの火がついた。
  (私)「その時間に来ます!9時に来たらやってくれるんですよね!」
  私の迫力におばさんはびっくりした表情で、「んじゃ10時に来てちょうだい」と呆れたように折れてくれ、1時間遅らせる配慮までしてくれた。
 次の日、その時間に行くと、おばさんは昨日と打って変わっていた。「何回も足運ばせてごめんねぇ」と、コーヒーとお菓子まで出してくれるので調子が狂う。顔そりの最中もずっと喋って、久子さんは聞き役だった。久子さんは実際には子どもはいないのだが、入居前からイメージの中で息子がいる。その久子さんに、理容院のおばちゃんが「息子はダメだ。近所なのに郵便でカーネーションが届いたのよ」などと愚痴っている。久子さんは、穏やかな笑顔で「うんうん」と聞いている。さらに「この歳になると、いつ逝くかわからないから、人に恨みを残さないようにしてるの」などと、これまでの印象とは裏返ったような話しに驚く。さらにお代も、何回も足を運ばせたから半分の500円でいいと言う。
  (久)「そったなこと言わずにとってけで」
(理)「いいから いいから」
「そじゃ」と、持ってきた菓子折を渡そうとすると「そったなことされたら、やりずらい」と受け取ってくれなかった。結果は感じの良い理容になった。帰りの車中、久子さんは「随分、話す人だったな。1人でいるから相手っこほしいんだ」とつぶやいた。
  この日の理容院対決は不思議な感じで終わった。普段は対決どころか、争うことのできない弱気な私だが、久子さんの仮面をかぶると、いつもの自分とは違って強くなったような気がした。こうやって勝負するんだと久子さんが鍛えてくれたのかな。
 少しだけ、私のオニも出た。久子さんに支えてもらって、私のオニは立ち上がれるだろうか。これからも久子さんの理容院対決は続くだろう。次はだれを選ぶだろうと、ドキドキしながらも、次の対決が少しだけ楽しみ!?だ。
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参加者が雪だるま式に増えたこびる届け ★デイサービス 太田代宏子【2012年6月号】

 5月23日水曜日、この日は、ちょっと山奥にある米澤家の田植えだった。こびる(おやつ)を届けに行こうと、グループホームに声をかけると、この日は行かないということだった。デイサービスだけになるとスタッフが少ないので、道がよく解らなかった私は、田んぼまで行きつけるかどうか自信がなかった。ともかく田んぼにたどり着けなかったとしても、一緒にドライブを楽しめる人を2人くらい誘ってでかけようと考えた。そこで、農家だったサチコさん(仮名)と道子さん(仮名)を誘った。車への乗り込みを新人男性スタッフの高橋さんに手伝ってもらい、2人を車に誘うと、その流れに合わせて、フジ子さん(仮名)も靴を履いていた。2人の予定が3人になった。
 3人を送り出して、ホールに戻ると、正雄さん(仮名)が、清さん(仮名)と看護師の畠山さんと暖炉前の席で話し込んでいた。いつも、自分の田んぼを見に行くイメージで外に出る正雄さんなので、この3人が一緒に行ったほうがいいなと思った。これで6人となった。
 よし6人で出かけようと思っていると玄関で、隆二(仮名)さんが私の腕を掴む。「行くどこだっか?」と聞き「いいなぁ若い女性の手は温かい」とニコニコしながら、車に乗って「あなたは私の隣に」と誘ってくれた。「残念ながら私は運転手なんです」というと、隣のサチコさんの手を握って座った。ここで7人になった。
 トヨタグランヴィアは、8人乗りなので運転手の私を含めると、これで定員いっぱい。
 ころがそこへ、車に乗り込む人の動きをしっかり見ていたキミさん(仮名)も、「どこさいくの?オレもいく!!」と玄関に向かう。それではと、もう一台、日産キューブも増やして田んぼに出かけることになった。キミさんはスルリと座席に座った。それを見ていたお風呂上がりの辰也さん(仮名)も、玄関に出てきた。まだ3人乗れるので、辰也さんも一緒に行くことになった。
  辰也さんを送り出すと、ホールは、女性陣のテーブルは貴子さん(仮名)ひとりになってしまった。貴子さんが、車に酔わないか 心配だったが、誘うと、迷わず、行きたいと言うことで、定員はあと1人に。
 そこへ、義男さん(仮名)とグループホームからキリさん(仮名)がやってきて田植えに行くという。最後の一席をめぐり、ふたりにはじゃんけんをしてもらった。義男さんが勝ってキリさんは「くやしいぃ〜」と言いながらもお気に入りの高橋スタッフにエスコートされ、嬉しそうにグループホームへ帰った。
 最初は、今日はサチコさんと道子さんと私の3人くらいでこっそり行こうと思っていたのに、結局気がつけば13人になっていた。雪だるま式に膨れた人数のこびる届けに私はおかしくなって笑ってしまった。 田んぼに到着すると、義男さんは一番先に降りて、開放的に放尿している。とにかくみんな自由そのもの。辰也さんは、自分で歩いてまわり、苗箱を見たり、田植えメンバーに話しかけたりしていた。道子さんとフジ子さんは、草の上に座り、おやつを食べてニコニコ。貴子さんは、義男さんのとなりで一緒におやつを食べ、義男さんの話を聞いて笑っている。
  隆二さんは、田植えとはちがうイメージで出発したが、サチコさんと田植え作業を見ながら楽しそうに話しをして過ごしている。清さんは、ムードメーカーで車内でも田んぼでも話の中心になり、キミさんを中心に女性陣が話を聞いていて盛り上がっていた。
 正雄さんは、最初「よその田んぼなんかみてられねぇ」と不機嫌だったが、そこに、田植えの親方、ワークの哲哉さんが来てくれて、話しこんでいるうちに正雄さんもまるで最初から田植えメンバーの一員だったようにはまっていた。
 5月から、新体制のスタッフで、動いてきた。まだまだ、力不足で、不安な日もたくさんある。でもそんなときには、逆に利用者さんが助けてくれるように感じる。こちらの力量をしっかり見ていて、手加減したり、自然に一緒にすごしてくれたりする。今回の、雪だるま式に増えたこびる届けの人数は、「もっと出来るはずだよ」と背中を押された感じがした。このように利用者さんにおんぶに抱っこで頼り切りの毎日だけれど、そのうち成長して力をつけ、楽しめる時間をたくさん増やしていくことで恩返ししていきたい。
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