2012年05月15日
大忙し!里売り準備 ★ワークステージ 村上幸太郎【2012年5月号】
★銀河の里では、週に2回、ワークステージの惣菜班が作った惣菜を社内販売する『里売り』があります。その里売りでは新たに開発した商品を販売する場でもあり、今回は自家製米で作ったおにぎりと赤飯、餃子の皮の端切れで作ったうどんを販売しました。販売を楽しみにしている職員のため、これからも商品開発は続きます!
そう言うわけで仙台でタテタカコにあった ★理事長 宮澤健【2012年5月号】
「そう言うわけ」というのは、施設長が映画『誰も知らない』を観て、何ものかを追いかけ、結果タテタカコに至ったという昨年10月号の記事のこと。私も映画を観て、彼女のCDも聴いた。現代の宿業を突きつけた映画のその主題歌は、それだけ聞くと刺激が強かった。私自身の日常が、安らぎを期待できない、荒れ狂った日々なのだから、音楽くらいは心静まるものを聴きたいと思った。そのうち、施設長は、どうやらタテタカコのライブに京都まで行ってきたらしい。そこでも神話的時間がもたらされたようで、その感動が記事になった。そして昨年10月18日タテタカコが仙台にきた。そう言うわけでタテタカコにあった。
ライブで本人に触れると、私の抱いていたタテタカコのイメージは覆った。事物の表層を剥ぎとって本質を見通す歌詞に、痛々しく重いイメージを抱いていたのだが、全く違った。こんなピュアーな人間が今どきの世の中にどうやって生きていられるんだろう。妖精が生きて歌っている。その存在に深く癒される感じに浸る。気がつかないうちにこちらまでピュアーになっていく感覚。まさに純でうぶなシャーマンではないか。表層を透過してその深奥の本質に触れざるを得ない感性。それは痛々しい体験でもあるはずだが、彼女はその本質を、音楽を通じて恐れることなくそのまま胸に抱く。激情や、怨念や、世界の崩壊さえ、現実世界の凍り付くようなことごとが体温を与えられ、生き物となって蘇り、深い祈りに包まれ、神話になって蘇る。
我々介護現場の仕事の究極もまさにそうありたい。修羅場の連続。それも当然だろう、利用者ひとりひとりはあまりに大きい人生の課題を抱えている。その本質を避けず恐れず見つめる姿勢がいる。しかしそれらを無防備に受け止めては、激情の嵐に巻き込まれてお互いが崩壊する危険にさらされるので、守りの「器」や「場」が必要になる。タテタカコのライブには里の現場と同質の、創造的な器で生成された、たましいの物語に触れる体験があった。
ライブが終わり、出口の階段を登りかけたところでタテタカコが「遅くまでありがとうございました」と声をかけてくれた。握手する。温かい手を両手で包み、こころのなかでタテタカコをかき抱く。外に出ると表は人混みだ「メチャクチャいいやつじゃん」いいやつというのは失礼だし、言葉としてもちょっと違う。でもそう言いたくなる。今どきピュアーに「ありがとう」と言える相手に出会うことは極めて希なことだ。
ライブ当日の朝、同居している86歳になる母が「早う死にたい。なんで死なせてもらえんのじゃろうか」(母は広島弁100%)とグチを言う。「寿命じゃけん仕方なかろうが。神さんが決めることに文句言うちゃいけんで」と広島弁で返す。年老いて、二人の息子と同居し、恵まれた環境で今どき過ぎた幸運にも、素直には感謝できず、肩身が狭くて早く死にたい母の気持ちは複雑なようだ。
昼には弟(重複障がい者)がワークの食事中ボランティアと利用者の言い合いにパニックを起こし、食器を床に投げつけて割ってしまった。夕方、ライブに出かける間際、弟に「ちょっと反省せにゃいけんの」というが無言でご立腹だ。「ひとの喧嘩に引っかからんようにせんと」とたたみが、彼の気持ちはその通りだろう。私は運命を引き受けることしかできない。 かける私に「じゃけん、わしゃ広島に帰りたいわい」と叫んだ。私の住む岩手に来るしかない事情だったが、彼の気持ちはその通りだろう。私は運命を引き受けることしかできない。
銀河の里が始まって11年、その間必死で人を育てようとしてきた。個人面談にも力を入れて相当の時間とエネルギーを費やしてきた。しかし、多くが去った。情熱を掛け、期待をし、託す気持ちは通じにくい。累々たる見捨てられ感を敷き詰めて来た。それも私の宿命なのだろう。人生の限界が見える。
そんな私にタテタカコの「ありがとう」が浸み、たましいに突き刺さってくる。彼女はこの世に存在するのが不思議なほどアニマ(たましい)な存在だ。見抜くまなざしが、詩となり音楽となり演奏に表現される。それは身体とたましいに直接響くのですっかりやられる。ライブの曲間にとつとつと語る口調は、この世の生きにくさや息苦しさを感じさせる。会場に展示してあった震災応援の作品を、出演者と同じように紹介し拍手を求めた。その絵にこめられた作者の魂魄(こんぱく)が彼女には見えてしまうのだ。彼女は人々の祈りや情念を見抜いて逃さない。彼女はライブハウスの音声さんが3日後に退職すると聞いて、花束を用意していた。その花束を渡すために「お願いがあります。もう二度とこんなことはいいません。いままでも言ったことはありません。でも今日だけはアンコールをください」と笑わせながら引退の花道を用意した。花束を渡しながら「(退職を)言ってくれてよかったよ。今度来て、いきなりいなかったらオレ、メチャクチャさみしいっすよ」とストレートな語り。ワシとかオレとかの一人称でこの世を生きる彼女がいる。
演奏に入る前に彼女は少しのけぞり、息を吸う。そして憑依したかのように演奏を始める。目を見開き、口を裂けんばかりに開き、歌と共に彼女の本体が顕現する。シンセサイザーの弾き語りだが、おそらくメロディとか、リズムとか西欧音楽の域を超えた感覚ではないか。それは能の笛や、鼓のように、静寂を切り裂き、異界とこの世の境界を寸断して魑魅魍魎を跋扈(ばっこ)させる轟きになる。切り裂かれた此彼の境界からタテタカコに呼び覚まされた異界が舞い踊る。
不思議なことに、現れた異界には怖さがない。怖いどころか、深い安心感に包まれる。これが忘れかけていた本当の世界だったと懐かしい感覚に包まれもする。現実にうちひしがれているこころを愛おしく包み込むような柔らかさを感じる。
彼女はその鋭い感性で物事の本質を切ってくる。ぎょっとするような詩に一瞬たじろぐのはそれだ。切り離して繋がりを断つと、心やたましいは死んでしまう。切るのは存在への呪いだ。ところが彼女のアートは、繋ぐために「切れ」を「入れ」ているところが重要だ。鋏で「切る」と言わずに「入れる」というように同じ作業でもまるで違う行為になる。繋ぐ前提があってこそ「入れる」ことができる。我々の現場でも関係性に鋏を「入れる」のか、「切る」のかの違いは創造か暴力的破壊か真逆の結果になるだろう。
そうは言っても「入れる」ことも「切れ」の作業だから、生身の人間としては打ちのめされるしかない。孤独を引き受ける強靱な祈り。そうした深い孤独と勇気がなければク リエイティブは成しとげられない。手塚治虫もブラックジャックに切り刻むメスを持たせて手塚ヒューマニズムの心をつなぐモチーフを描こうとしたのではないか。「切れ」によって「入る」厳しい仕事がタテタカコのアートにも裏打ちされていると感じる。我々もその道を怯えながらも歩み続けたい。打ちのめされ傷つきながら進む以外、なにも成されないのが生命というなのかもしれない。タテタカコの存在とその音楽が共感してくれている。
今年の3月にはスタッフ20名でタテタカコのライブに仙台に出かけた。各々が深く感動したようだった。6月3日、そのタテタカコがついに銀河の里にやってくる。
参考文献:『無痛文明論』森岡正博
『動詞人間学』多田道太郎
『「切れ」の構造』大橋良介
『ブラックジャック』手塚治虫
ライブで本人に触れると、私の抱いていたタテタカコのイメージは覆った。事物の表層を剥ぎとって本質を見通す歌詞に、痛々しく重いイメージを抱いていたのだが、全く違った。こんなピュアーな人間が今どきの世の中にどうやって生きていられるんだろう。妖精が生きて歌っている。その存在に深く癒される感じに浸る。気がつかないうちにこちらまでピュアーになっていく感覚。まさに純でうぶなシャーマンではないか。表層を透過してその深奥の本質に触れざるを得ない感性。それは痛々しい体験でもあるはずだが、彼女はその本質を、音楽を通じて恐れることなくそのまま胸に抱く。激情や、怨念や、世界の崩壊さえ、現実世界の凍り付くようなことごとが体温を与えられ、生き物となって蘇り、深い祈りに包まれ、神話になって蘇る。
我々介護現場の仕事の究極もまさにそうありたい。修羅場の連続。それも当然だろう、利用者ひとりひとりはあまりに大きい人生の課題を抱えている。その本質を避けず恐れず見つめる姿勢がいる。しかしそれらを無防備に受け止めては、激情の嵐に巻き込まれてお互いが崩壊する危険にさらされるので、守りの「器」や「場」が必要になる。タテタカコのライブには里の現場と同質の、創造的な器で生成された、たましいの物語に触れる体験があった。
ライブが終わり、出口の階段を登りかけたところでタテタカコが「遅くまでありがとうございました」と声をかけてくれた。握手する。温かい手を両手で包み、こころのなかでタテタカコをかき抱く。外に出ると表は人混みだ「メチャクチャいいやつじゃん」いいやつというのは失礼だし、言葉としてもちょっと違う。でもそう言いたくなる。今どきピュアーに「ありがとう」と言える相手に出会うことは極めて希なことだ。
ライブ当日の朝、同居している86歳になる母が「早う死にたい。なんで死なせてもらえんのじゃろうか」(母は広島弁100%)とグチを言う。「寿命じゃけん仕方なかろうが。神さんが決めることに文句言うちゃいけんで」と広島弁で返す。年老いて、二人の息子と同居し、恵まれた環境で今どき過ぎた幸運にも、素直には感謝できず、肩身が狭くて早く死にたい母の気持ちは複雑なようだ。
昼には弟(重複障がい者)がワークの食事中ボランティアと利用者の言い合いにパニックを起こし、食器を床に投げつけて割ってしまった。夕方、ライブに出かける間際、弟に「ちょっと反省せにゃいけんの」というが無言でご立腹だ。「ひとの喧嘩に引っかからんようにせんと」とたたみが、彼の気持ちはその通りだろう。私は運命を引き受けることしかできない。 かける私に「じゃけん、わしゃ広島に帰りたいわい」と叫んだ。私の住む岩手に来るしかない事情だったが、彼の気持ちはその通りだろう。私は運命を引き受けることしかできない。
銀河の里が始まって11年、その間必死で人を育てようとしてきた。個人面談にも力を入れて相当の時間とエネルギーを費やしてきた。しかし、多くが去った。情熱を掛け、期待をし、託す気持ちは通じにくい。累々たる見捨てられ感を敷き詰めて来た。それも私の宿命なのだろう。人生の限界が見える。
そんな私にタテタカコの「ありがとう」が浸み、たましいに突き刺さってくる。彼女はこの世に存在するのが不思議なほどアニマ(たましい)な存在だ。見抜くまなざしが、詩となり音楽となり演奏に表現される。それは身体とたましいに直接響くのですっかりやられる。ライブの曲間にとつとつと語る口調は、この世の生きにくさや息苦しさを感じさせる。会場に展示してあった震災応援の作品を、出演者と同じように紹介し拍手を求めた。その絵にこめられた作者の魂魄(こんぱく)が彼女には見えてしまうのだ。彼女は人々の祈りや情念を見抜いて逃さない。彼女はライブハウスの音声さんが3日後に退職すると聞いて、花束を用意していた。その花束を渡すために「お願いがあります。もう二度とこんなことはいいません。いままでも言ったことはありません。でも今日だけはアンコールをください」と笑わせながら引退の花道を用意した。花束を渡しながら「(退職を)言ってくれてよかったよ。今度来て、いきなりいなかったらオレ、メチャクチャさみしいっすよ」とストレートな語り。ワシとかオレとかの一人称でこの世を生きる彼女がいる。
演奏に入る前に彼女は少しのけぞり、息を吸う。そして憑依したかのように演奏を始める。目を見開き、口を裂けんばかりに開き、歌と共に彼女の本体が顕現する。シンセサイザーの弾き語りだが、おそらくメロディとか、リズムとか西欧音楽の域を超えた感覚ではないか。それは能の笛や、鼓のように、静寂を切り裂き、異界とこの世の境界を寸断して魑魅魍魎を跋扈(ばっこ)させる轟きになる。切り裂かれた此彼の境界からタテタカコに呼び覚まされた異界が舞い踊る。
不思議なことに、現れた異界には怖さがない。怖いどころか、深い安心感に包まれる。これが忘れかけていた本当の世界だったと懐かしい感覚に包まれもする。現実にうちひしがれているこころを愛おしく包み込むような柔らかさを感じる。
彼女はその鋭い感性で物事の本質を切ってくる。ぎょっとするような詩に一瞬たじろぐのはそれだ。切り離して繋がりを断つと、心やたましいは死んでしまう。切るのは存在への呪いだ。ところが彼女のアートは、繋ぐために「切れ」を「入れ」ているところが重要だ。鋏で「切る」と言わずに「入れる」というように同じ作業でもまるで違う行為になる。繋ぐ前提があってこそ「入れる」ことができる。我々の現場でも関係性に鋏を「入れる」のか、「切る」のかの違いは創造か暴力的破壊か真逆の結果になるだろう。
そうは言っても「入れる」ことも「切れ」の作業だから、生身の人間としては打ちのめされるしかない。孤独を引き受ける強靱な祈り。そうした深い孤独と勇気がなければク リエイティブは成しとげられない。手塚治虫もブラックジャックに切り刻むメスを持たせて手塚ヒューマニズムの心をつなぐモチーフを描こうとしたのではないか。「切れ」によって「入る」厳しい仕事がタテタカコのアートにも裏打ちされていると感じる。我々もその道を怯えながらも歩み続けたい。打ちのめされ傷つきながら進む以外、なにも成されないのが生命というなのかもしれない。タテタカコの存在とその音楽が共感してくれている。
今年の3月にはスタッフ20名でタテタカコのライブに仙台に出かけた。各々が深く感動したようだった。6月3日、そのタテタカコがついに銀河の里にやってくる。
参考文献:『無痛文明論』森岡正博
『動詞人間学』多田道太郎
『「切れ」の構造』大橋良介
『ブラックジャック』手塚治虫
〜 研修に参加して 〜 仙台タテタカコLIVE「第3ノ金曜日」 ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2012年5月号】
映画『誰も知らない』を観たのは、いつだったろう?10年前になるだろうか、劇場で見た。 観終わった後、なんとも言葉にならない、重いテーマとはかけ離れた、どこか頭も身体も軽くなる感じが残ったのを思い出す。昨年、通信で施設長がこの映画を取り上げ、最終的にタテタカコに辿り着いたという話を読んで、再びDVDで観てみた。今回の注目はストーリー展開よりもタテタカコの歌。澄み渡る歌声と、それに似つかわしくない黒い詩。そう言えば一回目に映画を観たときにも「異臭を放つ宝石」のところのフレーズが妙に耳に残ってはいたが、これは確かに…いったいなんちゅう人なんだ?! それから彼女のCDも聴いた。黒いけど優しい。あの小さい身体から出る力強い澄んだ声。一度聴いたら頭から離れない世界。この3月、仙台に来たタテタカコのライブに銀河の里の職員研修と言うことで出かけた。ライブはDVDの印象を遥かに超える感動の体験となった。
舞台袖から楽譜を抱えて登場した彼女は、小柄ながらも、出てきた瞬間にとてつもない存在感を放っていた。ライブの冒頭挨拶での言葉は独特だった。「今日は、みなさん、それぞれの場所からいらして頂いて、ありがとう。ここでこうして会えて嬉しいです」それを聞いた途端に涙が溢れる。なんなんだ、この人は…! 優しさが満ちあふれている。“それぞれの場所から”のフレーズに、今回、銀河の里の研修として岩手からはるばる出向いた意味合いまで汲み取ってくれているのではないかと驚く。
おそらく施設長が“ホンモノをみんなにも見せたい”と考えてくれただろう今回の研修。参加するメンバーの選出も、特養で“育ってほしい”とユニットの中堅メンバーを選出した戸來さんと私の気持ちがある。そんな気持ちまで全部伝わっていて、一言めからすでに核心にズドンと届いてしまう。そんな感じ。なんなの、この人…! 当然ライブは感じすぎてボロボロになってしまう。音楽ライブなのに結構みんな泣いていたぞ。
そうしてライブを閉める最後の言葉も、「それぞれのお布団まで無事に辿り着いてくださいね」なぁんて、普通、言わねぇよ! いったいどういうんだろう?! 歌の合間に見せるふとした微笑みは、コラボした画家足田メロウさんのペインティング作品や、「タテタカコ 第3ノ金曜日」という大きな文字の書にまで、丁寧に優しく向けられている。
ひとつひとつに手をかざして会場の拍手を促したり、自らもお辞儀をしたり、魂の籠もったモノへの敬意と愛情がたっぷりで、いちいち優しい。ホントに“何”なんだろう、この人…?!
そして、歌。天を仰ぎ、両手を伸ばし、空間から何かをつかみ取ったかと思うと、目をカッと見開き、牙を剥いて歌い出す。あちらの世界から降りてきたモノを歌というカタチに変えて伝えてくる。その声は、耳からだけでなく、空気を伝わって目から口から鼻から入り、私の食道や肺にまで直にすべり込んでくる。澄みきって鋭くて引き裂かれそうな痛みがくる。息ができなくなり、脳味噌の酸素が足りなくなるような感覚。涙と鼻水の嵐で、ちょっと具合が悪くなりそう。ものすごい迫力で、私の心も身体も鷲掴みにされた。
ちょうどそこで歌の合間に「具合悪くなりそうな人、いませんか?大丈夫ですか?」と観客に問う彼女。「具合悪くなって倒れる前に、隣の人にちゃんと言ってくださいね」あぁ、この人、ちゃんとわかってるんだ、とホッとする。彼女の“黒いけど優しい”のは、ここだ。ほとんどあっちに行っちゃってる人で、でも、ちゃんとこっちに帰ってくることの大切さとその方法をきちんとわきまえている。危ないくらいにあっちに親密なのに、オカルト的に行っちゃったっきりにならない力と技を持っている。歌があってよかった。聴く者を鮮やかにあっちに連れて行ってくれる魅力と同時に、ちゃんとこっちに帰してくれる強さも兼ね備えている。プロだな、と思う。手元の楽譜やメモに向き合って「うん、うん」と何かを確認している姿は、自らを“今”とか“ここ”に意識的に繋ぎ止めている様子にも見えた。センダイシロウさんや足田メロウさんを布置させているのも、彼女自身の守りであると同時に、会場全体も守る大切な装置のひとつなんだろう。
あちらとこちらを行き来し見えてくるモノを紡いでいくという才能と使命を背負った存在、超越世界の体現、ホントにこんな人もいるんだなぁ…という感激。そこに命をかけて人として生きる様、こんな世界もあるんだ…という感動。“黒く優しきモノ”と出会えた喜びに身震いがした。
舞台袖から楽譜を抱えて登場した彼女は、小柄ながらも、出てきた瞬間にとてつもない存在感を放っていた。ライブの冒頭挨拶での言葉は独特だった。「今日は、みなさん、それぞれの場所からいらして頂いて、ありがとう。ここでこうして会えて嬉しいです」それを聞いた途端に涙が溢れる。なんなんだ、この人は…! 優しさが満ちあふれている。“それぞれの場所から”のフレーズに、今回、銀河の里の研修として岩手からはるばる出向いた意味合いまで汲み取ってくれているのではないかと驚く。
おそらく施設長が“ホンモノをみんなにも見せたい”と考えてくれただろう今回の研修。参加するメンバーの選出も、特養で“育ってほしい”とユニットの中堅メンバーを選出した戸來さんと私の気持ちがある。そんな気持ちまで全部伝わっていて、一言めからすでに核心にズドンと届いてしまう。そんな感じ。なんなの、この人…! 当然ライブは感じすぎてボロボロになってしまう。音楽ライブなのに結構みんな泣いていたぞ。
そうしてライブを閉める最後の言葉も、「それぞれのお布団まで無事に辿り着いてくださいね」なぁんて、普通、言わねぇよ! いったいどういうんだろう?! 歌の合間に見せるふとした微笑みは、コラボした画家足田メロウさんのペインティング作品や、「タテタカコ 第3ノ金曜日」という大きな文字の書にまで、丁寧に優しく向けられている。
ひとつひとつに手をかざして会場の拍手を促したり、自らもお辞儀をしたり、魂の籠もったモノへの敬意と愛情がたっぷりで、いちいち優しい。ホントに“何”なんだろう、この人…?!
そして、歌。天を仰ぎ、両手を伸ばし、空間から何かをつかみ取ったかと思うと、目をカッと見開き、牙を剥いて歌い出す。あちらの世界から降りてきたモノを歌というカタチに変えて伝えてくる。その声は、耳からだけでなく、空気を伝わって目から口から鼻から入り、私の食道や肺にまで直にすべり込んでくる。澄みきって鋭くて引き裂かれそうな痛みがくる。息ができなくなり、脳味噌の酸素が足りなくなるような感覚。涙と鼻水の嵐で、ちょっと具合が悪くなりそう。ものすごい迫力で、私の心も身体も鷲掴みにされた。
ちょうどそこで歌の合間に「具合悪くなりそうな人、いませんか?大丈夫ですか?」と観客に問う彼女。「具合悪くなって倒れる前に、隣の人にちゃんと言ってくださいね」あぁ、この人、ちゃんとわかってるんだ、とホッとする。彼女の“黒いけど優しい”のは、ここだ。ほとんどあっちに行っちゃってる人で、でも、ちゃんとこっちに帰ってくることの大切さとその方法をきちんとわきまえている。危ないくらいにあっちに親密なのに、オカルト的に行っちゃったっきりにならない力と技を持っている。歌があってよかった。聴く者を鮮やかにあっちに連れて行ってくれる魅力と同時に、ちゃんとこっちに帰してくれる強さも兼ね備えている。プロだな、と思う。手元の楽譜やメモに向き合って「うん、うん」と何かを確認している姿は、自らを“今”とか“ここ”に意識的に繋ぎ止めている様子にも見えた。センダイシロウさんや足田メロウさんを布置させているのも、彼女自身の守りであると同時に、会場全体も守る大切な装置のひとつなんだろう。
あちらとこちらを行き来し見えてくるモノを紡いでいくという才能と使命を背負った存在、超越世界の体現、ホントにこんな人もいるんだなぁ…という感激。そこに命をかけて人として生きる様、こんな世界もあるんだ…という感動。“黒く優しきモノ”と出会えた喜びに身震いがした。
種イモの大事な芽 ★グループホーム第2 鈴木美貴子【2012年5月号】
・芽が大事 大小なんて 構わない なでてさすって 育ってくれよ
・つぶさずに 芽をしっかりと 見守って 雨もふれよと 祈りを込めて
ジャガイモを植える季節がやってきた。今年も各部署で種イモを切って、アクを付けて畑に植えに出かけた。曇り空の中だったが、ワークステージの畑班がトラクターで掘り耕こしたふかふかの畑に、しっかりと畝が立てられている。広い畑にまくのでかなりの種イモを準備しなければならなかったが、グループホーム2ユニットの利用者みんなで作業したので、瞬く間に仕上がった。
GH1では、ゆう子さん(仮名)とチヨノさん(仮名)が種芋を切り、真知子さん(仮名)が灰をつけ、ヨツ子さん(仮名)が箱に並べてくれた。チヨノさんは「私は芽を大事にして切ったよ」と言った。じゃがいもを切ってただ灰をつけるという単純作業ではないのだ。芽を大事にしないと育たない。芽を大事にする人がいるからジャガイモも育つ。
さて、このじゃが芋が大きく育つには、お陽さまや雨の自然の恵み、草取りや病害虫の駆除など人の手がかけられる。みんなで収穫したあとは、それぞれの食卓に調理されて逸品となって登場する。ポテトサラダなのかコロッケか、やっぱりおふくろの味は肉ジャガだ。そんな、おいしい‘ほくほくさ’を夢見ながら、気づくとあっという間に楽しいイモ植えが終っていた。
私は新年度GH1に異動して、新しいスタッフとチームを作っている。スタッフひとりひとりの芽を大事にしながら、大地を耕すファーマーのように、どう育っていくのかを楽しみにやっていきたい。
・つぶさずに 芽をしっかりと 見守って 雨もふれよと 祈りを込めて
ジャガイモを植える季節がやってきた。今年も各部署で種イモを切って、アクを付けて畑に植えに出かけた。曇り空の中だったが、ワークステージの畑班がトラクターで掘り耕こしたふかふかの畑に、しっかりと畝が立てられている。広い畑にまくのでかなりの種イモを準備しなければならなかったが、グループホーム2ユニットの利用者みんなで作業したので、瞬く間に仕上がった。
GH1では、ゆう子さん(仮名)とチヨノさん(仮名)が種芋を切り、真知子さん(仮名)が灰をつけ、ヨツ子さん(仮名)が箱に並べてくれた。チヨノさんは「私は芽を大事にして切ったよ」と言った。じゃがいもを切ってただ灰をつけるという単純作業ではないのだ。芽を大事にしないと育たない。芽を大事にする人がいるからジャガイモも育つ。
さて、このじゃが芋が大きく育つには、お陽さまや雨の自然の恵み、草取りや病害虫の駆除など人の手がかけられる。みんなで収穫したあとは、それぞれの食卓に調理されて逸品となって登場する。ポテトサラダなのかコロッケか、やっぱりおふくろの味は肉ジャガだ。そんな、おいしい‘ほくほくさ’を夢見ながら、気づくとあっという間に楽しいイモ植えが終っていた。
私は新年度GH1に異動して、新しいスタッフとチームを作っている。スタッフひとりひとりの芽を大事にしながら、大地を耕すファーマーのように、どう育っていくのかを楽しみにやっていきたい。
「記憶」を超えて ★施設長 宮澤京子【2012年5月号】
【近代自我の問い】
一昨年の夏からショートステイを利用しているカナさん(仮名)は「どうして私はここに連れてこられたのでしょうか?」「私が頼んだわけでもなく、自分で此処にやってきた覚えもない、誰がどんな理由で私を此処に連れてきたのですか?」と滞在の間じゅう問い続ける。87歳で、かつて教員だったカナさんは、日本の伝統的な部分と、近代自我の両方を持っているような感じがある。ショートステイは「私の意志ではない!」と、不可解や理不尽を質問で追求し続ける。そうしたカナさんの近代自我の問いに、こちらも正論で「(理由)家族さんが出かけて留守になるそうです。カナさんのご飯の用意やお風呂の世話が出来なくなるので、家族さんから頼まれて、(誰が)担当の者が(どんな手段で)車でカナさんを連れてきました。」と説明する。しかし全く納得せず「そのようなことを言うなら、家族に確認しますので、電話をして下さい。本人が納得していないのですから、あなたの言うことを信じるわけにはいきません。」と延々と続く。当初は、スタッフも余裕がなくなり疲れ果てていたが、私はマシンガンのような質問や、理屈に理屈を重ねて突きつけてくる攻撃口調が、キャリアウーマンの鏡として「かっこいい」と感じてしまうのだった。
しかし、最近、雰囲気が変化してずいぶん柔らかくなった。キッとしてゆずらない感じも和らぎ、「いつ帰られますか?まだまだですね。後、何日ですね」と自分で帰る日を計算して納得することもよくある。「家族に会いたいです。おなかの具合が悪いです。電話してもらえませんか。」と弱気な感じになったり、「こんな年寄りになってしまったから、家族も放り出すんだな。」と両手で顔を覆ったりするので、こちらも切なくなって言葉に詰まることもある。
【記憶】
そのカナさんが、何度も語る話しがある。
「小学校の恩師の家で、まんま焚きして掃除して、そうやって、私は女学校に入れてもらった・・・。」ふぁっと天を見上げるように「有難いことです。」「私の初任地は、沢内村の猿橋小学校です。昭和18年のことです。ここと違って、雪が多くて、陸中川尻駅(現在の「ほっと湯田」駅)に着いたら、窓の上まで雪が積もっていました。地域の大人の人が、駅のまわりを雪かきしていました。そのころは小山田から沢内まで行くのは、まるで冒険のようでした。釜石線で花巻に行き、東北本線で黒沢尻(現在の北上)に行き、横黒線(横手と黒沢尻を結ぶ)に乗って川尻駅までは、本当に遠かったです。お父さんは、布団を背負って、鍋カマもって、一緒に行ってくれました。てくてく、てくてく、6里の道程(みちのり)を歩いて行きました。途中でにぎりめしを食べて、また、てくてく、てくてく歩いていきました。小学校は、雪に埋まっていて、PTAの人達が雪かきをしていました。そうやって私は、初任地の猿橋小学校に着いたのです。父親というものは本当に有難いものです。」恩師について語る時と同じように、ふぁっと天を見上げるように一息つく。「小学校には、グランドがありません。野っ原が広がっていて、走るところだけ、土が出ているだけです。」「学校に入ったらすぐ、生徒達みんな‘奉安殿’に向かってお辞儀をします。」
カナさんは大正13年生まれ(87歳)、国民学校を卒業したあと、2年間の高等科を出るが、兄弟も多い農家で、経済的な理由もあり一旦は就職した。戦争で男性が戦地に送り出される中、カナさんは小学校の担任から女学校に行くことを進められ、その先生夫妻の家に住み込んで、女学校を卒業し初任地の猿橋小学校に赴任した。
教師として定年まで勤め上げ、自分の人生は、女学校に通わせてくれた恩師や、遠く離れた雪深い初任地「猿橋小学校」まで送ってくれた父親のおかげであるというこの話しを、スタッフに何回も語った。私は、雪深い山奥の僻地の「小学校」に父親と共に赴いたときの話が大好きで、何度聞いても胸を打たれ、あたたか い気持ちにさせられる。話の内容も結末もわかっていながら、まるで‘昔話’を何度もせがんで聞かせてもらう幼子のように、胸がときめく。方言で、張りのある声とリズム、「先生口調」の語りに引き込まれ、何度聞いても新鮮で、宝のような物語に思える。
私は、カナさんが「呆け」を意識し始めた頃、それに対抗してなのか、決して忘れてはならない人から受けた「恩義」を、自身の人生を支えてきた物語として、繰り返し周囲に語り、伝え残そうとしているのではないかと感じた。
【関係性と場】
カナさんの話を何度も聞いてくれる相手がもう一人いる。利用者の桃子さん(仮名)だ。彼女は辛口の口撃が身上で、理不尽な作り話で攻めたてたりするので、スタッフも振り回され閉口してしまう、なかなかの猛者だ。しかし根は情が深く、気が小さいが優しくて、いろんな人の世話を焼いてくれる。カナさんにも填(はま)って、車いすを押したり、話しに耳を傾けてくれている。
私は、カナさんの語りが心に響くので、その話しをもとに一代記を書いてみたくなった。インタビューは一対一ではなく、桃子さんもいれて3人の場を作ることにした。二人だと息が詰まる場面も出やすいが、桃子さんが加わることでいい感じの場ができる。
桃子さんは「おばあちゃんの話を本にしてくれるよ」と私を紹介する。カナさんは「私は、そんな人間ではありません。地域には立派な人がいっぱいいるのに、恥ずかしいです。」と言うが、おでこをぱちんとたたき、「呆け婆なんだ!」と愛らしく笑い、いつもの語りが始まった。
身振り手振りを入れて語ってくれるカナさん。小さな身体で箒をせわしく動かし、しもやけの素足で雑巾がけをし、カマドでご飯を炊きながら勉強している若きカナさんの姿を思い浮かべながら、私は米問屋で奉公しているテレビ小説‘おしん’のイメージが浮かぶ。桃子さんは「どっこの学校の校庭にも二宮金次郎の銅像があってな、カナさんは、その女版みたいな人だな。」と言う。カナさんの話しから、私も桃子さんもそれぞれイメージが引き出され、記憶も蘇り、今の心情と重さなって、新たな物語がつくり出されていくような創造の時間がもたらされる。
【記憶の支え】
私がカナさんに魅力を感じるのは、87歳の年齢にしては「自分の意志」という近代自我を培いながら、一方で伝統的日本人の浸透的な自我の両方を持ち合わせているからだ。それは私自身と私の世代以降の葛藤でもあるように思う。近代自我は個個人が全ての責任を負うので、「私の意志」が前面に出てくる。それが弱いと「現代」を生きてはいけない。「誰がどういう理由でここに連れて来られたのですか」という執拗で厳しい問いは、カナさんの近代自我が語らせているように感じる。一方で、貧しかったカナさんに目をかけ、進学させてくれた恩師と、初任地の山奥にナベカマを運んでくれた父親への恩義を忘れることなく、大切にして生き社会の役に立とうとして頑張ってきたカナさんがいる。カナさんの人生はそうした思い出に支えられ、先人の恩に報いるための努力を基盤に描かれたものであったと想像する。そこには日本人らしい人生観があり、それに惹かれて私は一代記を書きたいと思ったのではなかろうか。
日本人2世である英国の作家カズオイシグロを、昨年、銀河セミナーで取り上げた。ブッカー賞も受賞した彼の小説は「追憶」や「郷愁」をモチーフにしている。映画化され日本でも公開された『わたしを離さないで』は、臓器提供を目的に生まれてきたクローン人間を題材に重いテーマを描いている。ヘイルシャムという特別な施設で隔離されて育つクローン達は、やがて臓器提供によって命を終わらせる運命を背負っている。この物語の背景には、医療技術の進歩による生命操作や人間の持つエゴや残酷さが秘められているが、あくまでも読みとしては人間存在のメタファーとして捉えるべき作品であると思う。主人公キャシーは、大人になってヘイルシャムが偽りのシェルター(揺籃)であったという衝撃的事実を突きつけられ、多くの親友も臓器提供で失う。彼女は、臓器提供で死ぬという現実よりも、記憶にある鮮明な過去 (へイルシャム)こそが、誰にも奪われることない自らの「存在証明」であると捉え、ノスタルジックな記憶を支えに、死を決意し臓器提供に向かう場面で物語は終わる。記憶の持つ「郷愁性」が、過酷な人生を乗り越え得るという物語は、どこか日本的な潔い死や、逍遙として死に向かう境地を描いているように感じた。
カナさんの人生の原動力は、カナさんが何度も語る、恩師や父親の恩義にまつわる‘記憶’によって支えられてきたにちがいない。認知症は脳の疾患に起因した記憶の障害であると言われている。しかし認知症の方と現場で出会ってきた感触では、そうした記銘・保持・再生という記憶のメカニズムとは違った「記憶」があるように感じさせられる。同じ話を何度も繰り返すその話には、その人の人生が詰め込まれて、「人格・性格」が精鋭化されて顕現してくる。カナさんは自分の人生が何であったのかを忘れないように、また伝え継ぐためにその根幹の物語を何度も何度も語ってくれているように感じる。
【記憶のその向こう】
そんな大切なカナさんの記憶を紡ごうと、桃子さんも加わって3人でお茶飲みをする時間はとても暖かくてかけがえのない時間になり、いろんな話しが湧き上がってくる。3人でおなかをよじらせて大笑いする場面がある。桃子さんも話しの内容はすっかり覚えていて、上手に合いの手を入れてくれる。
カナさんに「立派なお父さんでしたね」言うと「父親は、上等な教育などいっこと受けていない、どん百姓でした。ただ働くだけの人でした。」と言う。女学校の入学式で、お父さんが代表で挨拶をすることになり、カナさんは心配で身を小さくして緊張していたら結構立派でホッとしたエピソードを話してくれる。「短かったけれど、立派に喋ったのでビックリしたぁ!」という。「旦那さんはどんな人?」と聞くと「旦那は小学校からの同級生で、よく知っていた。好きも嫌いもありません、結婚は親が決めるのだから。そりゃ、良いときもあれば、悪いときもあります。夫婦だもの。自分の夫のことを、ここも良いあそこも良いなんて褒める人は、いないんだ。とにかく、私にとっては掛け替えのない、すばらしい人です!わっはっはっ」と大笑いする。私たちの世代の女性では考え難い。結婚相手は親が決め、好きも嫌いもないという伝統的な自我もカナさんの中にしっかりある。「なんでそんなに家に帰りたいのですか」と問うと、「わがままや勝手なことが許されるのが家族です」と本質を突いている。
認知症のため、今までのような対処や理解ができなくなった世界に投げ込まれる。周辺世界が自分の知らないところで動き、納得できない。そんな恐怖の中での拠り所は「家族」だ。その家族の依頼でショーステイに来たと説明を繰り返すと「そっか、家族が自分を捨てたんだな、こんな呆け婆になったから。」と言う。これを聞いていると、家族に捨てられるのではなく、カナさんが家族から離れ、遠くに旅立つ準備をしているのではないかとさえ感じる。
最近、あれほど繰り返し語ってくれた話の内容が断片的になり、「忘れてしまった」と言うこともある。何度も聴いた話しなので、こちらから話すと、「そうそう、あなた、なぜ知ってるの?私が喋ったってか、あきれた呆け婆だな」と大笑いしている。
認知症が進み、記憶が忘れられたとしても、それは悲しいばかりではないと思う。むしろこの世のしがらみから解放され、新たな世界に旅立つプロセスに繋がっているような気がする。カナさんが長年抱き続けてきた記憶は、とても大切で人生そのものであったと思う。記憶を抱え、それに支えられて死に逍遙として向かうという姿勢も見事だが、それをさらに超えた次元もあるように感じる。大切な記憶が消え失せたとしても残るものがある。それは、桃子さんと私を巻き込んでできたこの3人の「場」もそうだ。私は、さらに記憶も消えたその先にある‘何ものか’を信じたい。カナさんの「なぜ」という近代自我の問いは変容しつつあり、記憶も消えるかもしれない。ただそれは「諦め」や「認知症の進行」という因果論でかたづけるのでは、あまりに浅薄だ。近代の自我意識を越えて、カナさんには日本人として浸透する意識が脈打っている。そこは「なぜ」を必要としない世界であり、大いなるものに触れるような、「存在」そのものを支える「生命の記憶」に 繋がるような次元ではないだろうか。そのように思えるのは、これまで里の暮らしの中で、認知症の方達の「生命の記憶」の体現に、私自身が生きる支えを感じさせられてきたからである。
【深い記憶への洞察】
現代美術家の杉本博の活動を記録したドキュメンタリー『はじまりの記憶』のDVDジャケットには、「そこにただ問いだけがある」と記されている。彼は、写真を思考の媒体として用いつつ、現代美術のなすべき役割が、過去から連綿と受け継がれている目に見えない精神を、技術としてのアートによって問いかけ、物質化していくと語っている。現代美術の存在意義は多義的で明確な答えのないものを表現しいく挑戦と言えるだろう。これは銀河の里の挑戦と通じる感覚だ。里のスタッフが、認知症高齢者や障害者と生きていくなかで、何を感じ、何を聞きとり、何を構築して、次の世代に伝えていくのかという、絶え間ない問いの中に日々投げ込まれている状況は、現代美術家の挑戦と変わらないと思う。里において、杉本の「物質化」する行為としてのアートに対応しているのは、変容していく関係性を、「事例」という「かたち」に表現してきたことだと思う。杉本の「太古とつながる記憶」に挑む作品作りの姿勢に、里の存在の意味と方向性を示唆される。杉本のスタンス「ただ問いがあるだけ」は、我々の現場にそのまま通じる衝撃的な指摘だ。
ここまで原稿を書き進めたところで、カナさんへのインタビューとして、3人のお茶のみ時間を持った。これまで繰り返された話しを聞こうと水を向けるが、なぜかカナさんは一向に乗ってこない。「忘れてしまった、呆け婆なんだなぁ」とのんきな様子。ただおきまりの「私は、どうしてここに連れてこられているのでしょうか?いつ帰られるのでしょうか?」という問いが来る。 「毎日、明日明日と言っていつの明日なんだか。」という桃子さんに「明日の来ない今日はないんだな」と余裕で応えるカナさん。
桃子さんが「カナさんいくつ」と聞くと、「おらハ、大正13年」「あれ、大正15年って聞いたよ。」という桃子さんに、「私は、大正13年って、そう思っています。ばか婆になってしまったんだな。」と緩やかな口調で、正誤にこだわらないのも、これまでとはまるで違うカナさんだった。(事実はカナさんのいう大正13年)
「米寿のお祝いだよ。長生きしたね」と私が言う。
「ほぉー、長生きしたもんだ、私も古狸になった。」と派手なジェスチャーで、驚く。「狸や狐は、人を化かすんじゃないの?」と私。「ここにいたら、化かすんだか化かされるんだか?」と頭の回転が速いカナさん・・・どっと3人で大笑。
そこでまた「ところで、私はどうしてここに連れてこられたんでしょうか?」の質問。
「此処にいたから、長生きしたと思わなきゃ。ここで一緒に遊ぶべし」と桃子さん。すると「私は、あの世に行くのを楽しみに生きているの。」と今までにないカナさんのセリフに驚く。「あの世さ行っても、また帰ってきて、一緒に3人で話っこすべしな」と桃子さん。
「その時は、あの世の様子を教えてちょうだいね。」と私が言うと、「あの世に行って、また帰ってきて、こやって笑うべし。おもしろいな。そんなだば、死ぬのもこわくないな。」とカナさん。(このセリフも初めて聞いた。)
「若くなって帰ってきたりして」と茶化す桃子さん、また大笑いになる。
「どうしてここへ連れてこられたんでしょうか」の問いは、いつの間にか「私はどこから来て、どこに行くのか」と、人間存在の根源的な問いに変容している。それを知ったとき、私は言葉では表現できない「生命のよろこび」(『無痛文明論』:森岡正博著)というような高揚感に充たされた。お茶目なカナさんらしく、あの世を楽しみに待つ好奇心と、「こわさ」を同居させながら、「行ったり来たりできるなら怖いことはないのに」とご先祖さまになったら、たまにあの世から帰ってきて一緒に笑おうというわけだ。近代自我を超えた次元に至っているのが凄い!大いなるものと繋がる日本人の文化を基盤に、死生観が息づいているのを感じる。
一昨年の夏からショートステイを利用しているカナさん(仮名)は「どうして私はここに連れてこられたのでしょうか?」「私が頼んだわけでもなく、自分で此処にやってきた覚えもない、誰がどんな理由で私を此処に連れてきたのですか?」と滞在の間じゅう問い続ける。87歳で、かつて教員だったカナさんは、日本の伝統的な部分と、近代自我の両方を持っているような感じがある。ショートステイは「私の意志ではない!」と、不可解や理不尽を質問で追求し続ける。そうしたカナさんの近代自我の問いに、こちらも正論で「(理由)家族さんが出かけて留守になるそうです。カナさんのご飯の用意やお風呂の世話が出来なくなるので、家族さんから頼まれて、(誰が)担当の者が(どんな手段で)車でカナさんを連れてきました。」と説明する。しかし全く納得せず「そのようなことを言うなら、家族に確認しますので、電話をして下さい。本人が納得していないのですから、あなたの言うことを信じるわけにはいきません。」と延々と続く。当初は、スタッフも余裕がなくなり疲れ果てていたが、私はマシンガンのような質問や、理屈に理屈を重ねて突きつけてくる攻撃口調が、キャリアウーマンの鏡として「かっこいい」と感じてしまうのだった。
しかし、最近、雰囲気が変化してずいぶん柔らかくなった。キッとしてゆずらない感じも和らぎ、「いつ帰られますか?まだまだですね。後、何日ですね」と自分で帰る日を計算して納得することもよくある。「家族に会いたいです。おなかの具合が悪いです。電話してもらえませんか。」と弱気な感じになったり、「こんな年寄りになってしまったから、家族も放り出すんだな。」と両手で顔を覆ったりするので、こちらも切なくなって言葉に詰まることもある。
【記憶】
そのカナさんが、何度も語る話しがある。
「小学校の恩師の家で、まんま焚きして掃除して、そうやって、私は女学校に入れてもらった・・・。」ふぁっと天を見上げるように「有難いことです。」「私の初任地は、沢内村の猿橋小学校です。昭和18年のことです。ここと違って、雪が多くて、陸中川尻駅(現在の「ほっと湯田」駅)に着いたら、窓の上まで雪が積もっていました。地域の大人の人が、駅のまわりを雪かきしていました。そのころは小山田から沢内まで行くのは、まるで冒険のようでした。釜石線で花巻に行き、東北本線で黒沢尻(現在の北上)に行き、横黒線(横手と黒沢尻を結ぶ)に乗って川尻駅までは、本当に遠かったです。お父さんは、布団を背負って、鍋カマもって、一緒に行ってくれました。てくてく、てくてく、6里の道程(みちのり)を歩いて行きました。途中でにぎりめしを食べて、また、てくてく、てくてく歩いていきました。小学校は、雪に埋まっていて、PTAの人達が雪かきをしていました。そうやって私は、初任地の猿橋小学校に着いたのです。父親というものは本当に有難いものです。」恩師について語る時と同じように、ふぁっと天を見上げるように一息つく。「小学校には、グランドがありません。野っ原が広がっていて、走るところだけ、土が出ているだけです。」「学校に入ったらすぐ、生徒達みんな‘奉安殿’に向かってお辞儀をします。」
カナさんは大正13年生まれ(87歳)、国民学校を卒業したあと、2年間の高等科を出るが、兄弟も多い農家で、経済的な理由もあり一旦は就職した。戦争で男性が戦地に送り出される中、カナさんは小学校の担任から女学校に行くことを進められ、その先生夫妻の家に住み込んで、女学校を卒業し初任地の猿橋小学校に赴任した。
教師として定年まで勤め上げ、自分の人生は、女学校に通わせてくれた恩師や、遠く離れた雪深い初任地「猿橋小学校」まで送ってくれた父親のおかげであるというこの話しを、スタッフに何回も語った。私は、雪深い山奥の僻地の「小学校」に父親と共に赴いたときの話が大好きで、何度聞いても胸を打たれ、あたたか い気持ちにさせられる。話の内容も結末もわかっていながら、まるで‘昔話’を何度もせがんで聞かせてもらう幼子のように、胸がときめく。方言で、張りのある声とリズム、「先生口調」の語りに引き込まれ、何度聞いても新鮮で、宝のような物語に思える。
私は、カナさんが「呆け」を意識し始めた頃、それに対抗してなのか、決して忘れてはならない人から受けた「恩義」を、自身の人生を支えてきた物語として、繰り返し周囲に語り、伝え残そうとしているのではないかと感じた。
【関係性と場】
カナさんの話を何度も聞いてくれる相手がもう一人いる。利用者の桃子さん(仮名)だ。彼女は辛口の口撃が身上で、理不尽な作り話で攻めたてたりするので、スタッフも振り回され閉口してしまう、なかなかの猛者だ。しかし根は情が深く、気が小さいが優しくて、いろんな人の世話を焼いてくれる。カナさんにも填(はま)って、車いすを押したり、話しに耳を傾けてくれている。
私は、カナさんの語りが心に響くので、その話しをもとに一代記を書いてみたくなった。インタビューは一対一ではなく、桃子さんもいれて3人の場を作ることにした。二人だと息が詰まる場面も出やすいが、桃子さんが加わることでいい感じの場ができる。
桃子さんは「おばあちゃんの話を本にしてくれるよ」と私を紹介する。カナさんは「私は、そんな人間ではありません。地域には立派な人がいっぱいいるのに、恥ずかしいです。」と言うが、おでこをぱちんとたたき、「呆け婆なんだ!」と愛らしく笑い、いつもの語りが始まった。
身振り手振りを入れて語ってくれるカナさん。小さな身体で箒をせわしく動かし、しもやけの素足で雑巾がけをし、カマドでご飯を炊きながら勉強している若きカナさんの姿を思い浮かべながら、私は米問屋で奉公しているテレビ小説‘おしん’のイメージが浮かぶ。桃子さんは「どっこの学校の校庭にも二宮金次郎の銅像があってな、カナさんは、その女版みたいな人だな。」と言う。カナさんの話しから、私も桃子さんもそれぞれイメージが引き出され、記憶も蘇り、今の心情と重さなって、新たな物語がつくり出されていくような創造の時間がもたらされる。
【記憶の支え】
私がカナさんに魅力を感じるのは、87歳の年齢にしては「自分の意志」という近代自我を培いながら、一方で伝統的日本人の浸透的な自我の両方を持ち合わせているからだ。それは私自身と私の世代以降の葛藤でもあるように思う。近代自我は個個人が全ての責任を負うので、「私の意志」が前面に出てくる。それが弱いと「現代」を生きてはいけない。「誰がどういう理由でここに連れて来られたのですか」という執拗で厳しい問いは、カナさんの近代自我が語らせているように感じる。一方で、貧しかったカナさんに目をかけ、進学させてくれた恩師と、初任地の山奥にナベカマを運んでくれた父親への恩義を忘れることなく、大切にして生き社会の役に立とうとして頑張ってきたカナさんがいる。カナさんの人生はそうした思い出に支えられ、先人の恩に報いるための努力を基盤に描かれたものであったと想像する。そこには日本人らしい人生観があり、それに惹かれて私は一代記を書きたいと思ったのではなかろうか。
日本人2世である英国の作家カズオイシグロを、昨年、銀河セミナーで取り上げた。ブッカー賞も受賞した彼の小説は「追憶」や「郷愁」をモチーフにしている。映画化され日本でも公開された『わたしを離さないで』は、臓器提供を目的に生まれてきたクローン人間を題材に重いテーマを描いている。ヘイルシャムという特別な施設で隔離されて育つクローン達は、やがて臓器提供によって命を終わらせる運命を背負っている。この物語の背景には、医療技術の進歩による生命操作や人間の持つエゴや残酷さが秘められているが、あくまでも読みとしては人間存在のメタファーとして捉えるべき作品であると思う。主人公キャシーは、大人になってヘイルシャムが偽りのシェルター(揺籃)であったという衝撃的事実を突きつけられ、多くの親友も臓器提供で失う。彼女は、臓器提供で死ぬという現実よりも、記憶にある鮮明な過去 (へイルシャム)こそが、誰にも奪われることない自らの「存在証明」であると捉え、ノスタルジックな記憶を支えに、死を決意し臓器提供に向かう場面で物語は終わる。記憶の持つ「郷愁性」が、過酷な人生を乗り越え得るという物語は、どこか日本的な潔い死や、逍遙として死に向かう境地を描いているように感じた。
カナさんの人生の原動力は、カナさんが何度も語る、恩師や父親の恩義にまつわる‘記憶’によって支えられてきたにちがいない。認知症は脳の疾患に起因した記憶の障害であると言われている。しかし認知症の方と現場で出会ってきた感触では、そうした記銘・保持・再生という記憶のメカニズムとは違った「記憶」があるように感じさせられる。同じ話を何度も繰り返すその話には、その人の人生が詰め込まれて、「人格・性格」が精鋭化されて顕現してくる。カナさんは自分の人生が何であったのかを忘れないように、また伝え継ぐためにその根幹の物語を何度も何度も語ってくれているように感じる。
【記憶のその向こう】
そんな大切なカナさんの記憶を紡ごうと、桃子さんも加わって3人でお茶飲みをする時間はとても暖かくてかけがえのない時間になり、いろんな話しが湧き上がってくる。3人でおなかをよじらせて大笑いする場面がある。桃子さんも話しの内容はすっかり覚えていて、上手に合いの手を入れてくれる。
カナさんに「立派なお父さんでしたね」言うと「父親は、上等な教育などいっこと受けていない、どん百姓でした。ただ働くだけの人でした。」と言う。女学校の入学式で、お父さんが代表で挨拶をすることになり、カナさんは心配で身を小さくして緊張していたら結構立派でホッとしたエピソードを話してくれる。「短かったけれど、立派に喋ったのでビックリしたぁ!」という。「旦那さんはどんな人?」と聞くと「旦那は小学校からの同級生で、よく知っていた。好きも嫌いもありません、結婚は親が決めるのだから。そりゃ、良いときもあれば、悪いときもあります。夫婦だもの。自分の夫のことを、ここも良いあそこも良いなんて褒める人は、いないんだ。とにかく、私にとっては掛け替えのない、すばらしい人です!わっはっはっ」と大笑いする。私たちの世代の女性では考え難い。結婚相手は親が決め、好きも嫌いもないという伝統的な自我もカナさんの中にしっかりある。「なんでそんなに家に帰りたいのですか」と問うと、「わがままや勝手なことが許されるのが家族です」と本質を突いている。
認知症のため、今までのような対処や理解ができなくなった世界に投げ込まれる。周辺世界が自分の知らないところで動き、納得できない。そんな恐怖の中での拠り所は「家族」だ。その家族の依頼でショーステイに来たと説明を繰り返すと「そっか、家族が自分を捨てたんだな、こんな呆け婆になったから。」と言う。これを聞いていると、家族に捨てられるのではなく、カナさんが家族から離れ、遠くに旅立つ準備をしているのではないかとさえ感じる。
最近、あれほど繰り返し語ってくれた話の内容が断片的になり、「忘れてしまった」と言うこともある。何度も聴いた話しなので、こちらから話すと、「そうそう、あなた、なぜ知ってるの?私が喋ったってか、あきれた呆け婆だな」と大笑いしている。
認知症が進み、記憶が忘れられたとしても、それは悲しいばかりではないと思う。むしろこの世のしがらみから解放され、新たな世界に旅立つプロセスに繋がっているような気がする。カナさんが長年抱き続けてきた記憶は、とても大切で人生そのものであったと思う。記憶を抱え、それに支えられて死に逍遙として向かうという姿勢も見事だが、それをさらに超えた次元もあるように感じる。大切な記憶が消え失せたとしても残るものがある。それは、桃子さんと私を巻き込んでできたこの3人の「場」もそうだ。私は、さらに記憶も消えたその先にある‘何ものか’を信じたい。カナさんの「なぜ」という近代自我の問いは変容しつつあり、記憶も消えるかもしれない。ただそれは「諦め」や「認知症の進行」という因果論でかたづけるのでは、あまりに浅薄だ。近代の自我意識を越えて、カナさんには日本人として浸透する意識が脈打っている。そこは「なぜ」を必要としない世界であり、大いなるものに触れるような、「存在」そのものを支える「生命の記憶」に 繋がるような次元ではないだろうか。そのように思えるのは、これまで里の暮らしの中で、認知症の方達の「生命の記憶」の体現に、私自身が生きる支えを感じさせられてきたからである。
【深い記憶への洞察】
現代美術家の杉本博の活動を記録したドキュメンタリー『はじまりの記憶』のDVDジャケットには、「そこにただ問いだけがある」と記されている。彼は、写真を思考の媒体として用いつつ、現代美術のなすべき役割が、過去から連綿と受け継がれている目に見えない精神を、技術としてのアートによって問いかけ、物質化していくと語っている。現代美術の存在意義は多義的で明確な答えのないものを表現しいく挑戦と言えるだろう。これは銀河の里の挑戦と通じる感覚だ。里のスタッフが、認知症高齢者や障害者と生きていくなかで、何を感じ、何を聞きとり、何を構築して、次の世代に伝えていくのかという、絶え間ない問いの中に日々投げ込まれている状況は、現代美術家の挑戦と変わらないと思う。里において、杉本の「物質化」する行為としてのアートに対応しているのは、変容していく関係性を、「事例」という「かたち」に表現してきたことだと思う。杉本の「太古とつながる記憶」に挑む作品作りの姿勢に、里の存在の意味と方向性を示唆される。杉本のスタンス「ただ問いがあるだけ」は、我々の現場にそのまま通じる衝撃的な指摘だ。
ここまで原稿を書き進めたところで、カナさんへのインタビューとして、3人のお茶のみ時間を持った。これまで繰り返された話しを聞こうと水を向けるが、なぜかカナさんは一向に乗ってこない。「忘れてしまった、呆け婆なんだなぁ」とのんきな様子。ただおきまりの「私は、どうしてここに連れてこられているのでしょうか?いつ帰られるのでしょうか?」という問いが来る。 「毎日、明日明日と言っていつの明日なんだか。」という桃子さんに「明日の来ない今日はないんだな」と余裕で応えるカナさん。
桃子さんが「カナさんいくつ」と聞くと、「おらハ、大正13年」「あれ、大正15年って聞いたよ。」という桃子さんに、「私は、大正13年って、そう思っています。ばか婆になってしまったんだな。」と緩やかな口調で、正誤にこだわらないのも、これまでとはまるで違うカナさんだった。(事実はカナさんのいう大正13年)
「米寿のお祝いだよ。長生きしたね」と私が言う。
「ほぉー、長生きしたもんだ、私も古狸になった。」と派手なジェスチャーで、驚く。「狸や狐は、人を化かすんじゃないの?」と私。「ここにいたら、化かすんだか化かされるんだか?」と頭の回転が速いカナさん・・・どっと3人で大笑。
そこでまた「ところで、私はどうしてここに連れてこられたんでしょうか?」の質問。
「此処にいたから、長生きしたと思わなきゃ。ここで一緒に遊ぶべし」と桃子さん。すると「私は、あの世に行くのを楽しみに生きているの。」と今までにないカナさんのセリフに驚く。「あの世さ行っても、また帰ってきて、一緒に3人で話っこすべしな」と桃子さん。
「その時は、あの世の様子を教えてちょうだいね。」と私が言うと、「あの世に行って、また帰ってきて、こやって笑うべし。おもしろいな。そんなだば、死ぬのもこわくないな。」とカナさん。(このセリフも初めて聞いた。)
「若くなって帰ってきたりして」と茶化す桃子さん、また大笑いになる。
「どうしてここへ連れてこられたんでしょうか」の問いは、いつの間にか「私はどこから来て、どこに行くのか」と、人間存在の根源的な問いに変容している。それを知ったとき、私は言葉では表現できない「生命のよろこび」(『無痛文明論』:森岡正博著)というような高揚感に充たされた。お茶目なカナさんらしく、あの世を楽しみに待つ好奇心と、「こわさ」を同居させながら、「行ったり来たりできるなら怖いことはないのに」とご先祖さまになったら、たまにあの世から帰ってきて一緒に笑おうというわけだ。近代自我を超えた次元に至っているのが凄い!大いなるものと繋がる日本人の文化を基盤に、死生観が息づいているのを感じる。
旅を歩く ★グループホーム第2 佐々木詩穂美【2012年5月号】
新体制がスタートして、異動で私にとって1年ぶりのグループホーム2は、利用者さんそれぞれのイメージで広がっている空間でとても居心地がよくてホッとできた。
そんななか、クミさん(仮名)が片手にバックを持って玄関へ向かう。ドキドキしながらここは私が行きたい!とすぐ思った。玄関でクミさんに「どこ行くの?」と声をかけると、クミさんは「家さ行く〜。今までお世話になりました」と言う。3月末だがやっぱり外の風は冷たい。上着も着ないで出て行こうとしているので、「外寒いから上着着てって」と言うと、クミさんがバックからピロ〜ンと取り出したのは‥ズボン!!「上着じゃないじゃん」と笑う私にクミさんも大笑い。クミさんの帰る気持ちが強いときは入ってしまっていて、こちらの言葉は届かないときもあるが、一緒に笑ってくれる柔らかい雰囲気に、受け入れてくれたようで嬉しかった。このまま一緒に歩いて行こう! 酒井さんに合図し「行ってこい」と送り出してもらったクミさんと私。
歩き始めたクミさんはさっきの柔らかい雰囲気が一変して、前だけを見つめて一心に家に向かう強い気持ちに入ってしまった。背中を丸くして足早にひたすら歩き続ける。こんなにクミさんを動かすものは何なのか?
クミさんは認知症のはずなのだが、自分の住んでいた家まではちゃんと行ける。ところがかなり距離があるので、途中で説得して車に乗ってもらった。家が近づくと「ここで降ろしてけで」と後部座席から身を乗り出す。私は本当に家に帰ってしまっていいかどうか戸惑う。これまで家に帰ったクミさんに対する家族さんの反応は、迷惑そうでウエルカムではなかった。そこで私は説得を試みる。「買い物頼まれてきたからその後にしないっか?」などと言うが、にわかのごまかしはきかず、クミさんの気持ちは揺るがない。
ついに家の前で「ここで降りる」と動いている車のドアを開けておりようとする。仕方なく私も覚悟を決めて車から降りた。そのままクミさんは玄関に向かい「クミ帰ってきたよ〜」とチャイムを鳴らす。迷惑そうに扱われると、クミさんが傷ついてしまう…とハラハラしたが、今回は違った。なんとこの日はちょうどクミさんの弟さんのお彼岸だった。家族さんは「お彼岸って分かってたから来たんでしょ?やっぱり分かるんだね」とクミさんをよく理解してくれて「拝んでってちょうだい」と迎えてくれた。仏壇の前に通されると、しっかりお線香をあげて手を合わせるクミさん。しばらく過ごして帰り際、クミさんが「オラも元気で暮らすから、オメさんも元気でいてや」と涙を流しながら家族さんを抱き寄せたので、私は感動して震えてしまった。今日は帰ってくるしかなかったなと納得した。そしてこの瞬間から、クミさんの旅と私の旅が始まったのだと思った。
4月に入って、私の祖母が亡くなった。小さい頃から母子家庭だったので、働く母の変わりに祖母が私の子守をしてくれ、いつも添い寝をしてくれた。私が小学生のときに 祖母は脳梗塞で倒れ、17年間老人ホームにいた。会いに行くと、「こごさ寝ろ〜」と祖母に誘われて居室のベッドでよく添い寝をした。
3月の末、祖母が体調を崩してから、私は施設に泊まり、最期を看取った。遺体を自宅に運び、納棺される前の一晩は、祖母と枕を並べて最後の添い寝をした。死んだ人と寝るなんて信じられないといった目もあったが、私には自然なことで、朝まで祖母と一緒に添い寝をさせてもらった。私の体温が伝わり、祖母の体は翌朝納棺の時も温かかった。
祖母が亡くなる日、もしかしたら祖母は今日かもしれない‥と伝えにグループホームに顔をだした。そのとき帰ろうとする私をクミさんが玄関まで見送り、ギュッと両手を握り締めて「オメさん、元気でいてや」と声をかけてくれた。不思議だが、クミさんはこんな時、いつも寄り添っていてくれる。
お葬式が終わり、いつもの生活が始まろうとしていたが、私はなんだか気が抜けていた。体も疲れて、こんな状態でクミさんが歩きだしても、一緒に歩く気持ちになれない感じだった。クミさんはそんな私を見抜いていたようで、ソファにゆったり座って、ずっと私の隣にいてくれた。天気がいい日、散歩に誘うと、クミさんから手を握ってくれて「お〜手て〜♪つ〜ないで〜」と歌ってくれた。クミさんが私に、これから一緒に手をとって歩いていこうと言ってくれているように感じた。
夜勤でクミさんの部屋に行くと、布団に枕が2つ並べてあった。どこから枕を持ってきたのかスタッフは誰も知らない。「クミさん、枕2つ並べて誰と寝てるんだろう?」とスタッフの間で話題になる。私は祖母との添い寝を思いうかべていた。私が異動して初めての夜勤のとき、なぜかクミさんはずっとリビングにいて、ソファで一緒に寝てくれた。このところ現実味がなくてボーっとしていることの多かった私なのだが、クミさんは一緒にいて支えてくれているのを感じた。
グループホームの勤務にもなじみ、私の気持ちも体も落ち着いてきた今月に入って、久しぶりに部屋から大荷物を持って「帰ります」とクミさんが動いた。いつも手にはバックだったり、風呂敷だったりするのだが、この日は大きなタオルケットに包んだ荷物。重そうだが、大事に脇に抱えて歩いて行く。クミさんの後ろ姿を追いながら、タオルケットに何を包んであるのか気になり「そんなに大きな荷物持ってどこ行くの?」と声をかけて車に乗ってもらった。グループホームに帰ってくるとクミさんは私に大きなタオルケットの荷物を託してくれた。中身をみたらタオルケットにくるまっていたのは2つの枕だった。クミさんが大事に持って歩いていたのは、私にとっても大事なものだった。
一緒に生きていくってこういうことなんだということをクミさんが教えてくれているように感じた。支え合い、寄り添って生きるとはどういうことだろう。これからもクミさんは歩き続けるだろう。私も私の旅路を歩いて行くしかない。
そんななか、クミさん(仮名)が片手にバックを持って玄関へ向かう。ドキドキしながらここは私が行きたい!とすぐ思った。玄関でクミさんに「どこ行くの?」と声をかけると、クミさんは「家さ行く〜。今までお世話になりました」と言う。3月末だがやっぱり外の風は冷たい。上着も着ないで出て行こうとしているので、「外寒いから上着着てって」と言うと、クミさんがバックからピロ〜ンと取り出したのは‥ズボン!!「上着じゃないじゃん」と笑う私にクミさんも大笑い。クミさんの帰る気持ちが強いときは入ってしまっていて、こちらの言葉は届かないときもあるが、一緒に笑ってくれる柔らかい雰囲気に、受け入れてくれたようで嬉しかった。このまま一緒に歩いて行こう! 酒井さんに合図し「行ってこい」と送り出してもらったクミさんと私。
歩き始めたクミさんはさっきの柔らかい雰囲気が一変して、前だけを見つめて一心に家に向かう強い気持ちに入ってしまった。背中を丸くして足早にひたすら歩き続ける。こんなにクミさんを動かすものは何なのか?
クミさんは認知症のはずなのだが、自分の住んでいた家まではちゃんと行ける。ところがかなり距離があるので、途中で説得して車に乗ってもらった。家が近づくと「ここで降ろしてけで」と後部座席から身を乗り出す。私は本当に家に帰ってしまっていいかどうか戸惑う。これまで家に帰ったクミさんに対する家族さんの反応は、迷惑そうでウエルカムではなかった。そこで私は説得を試みる。「買い物頼まれてきたからその後にしないっか?」などと言うが、にわかのごまかしはきかず、クミさんの気持ちは揺るがない。
ついに家の前で「ここで降りる」と動いている車のドアを開けておりようとする。仕方なく私も覚悟を決めて車から降りた。そのままクミさんは玄関に向かい「クミ帰ってきたよ〜」とチャイムを鳴らす。迷惑そうに扱われると、クミさんが傷ついてしまう…とハラハラしたが、今回は違った。なんとこの日はちょうどクミさんの弟さんのお彼岸だった。家族さんは「お彼岸って分かってたから来たんでしょ?やっぱり分かるんだね」とクミさんをよく理解してくれて「拝んでってちょうだい」と迎えてくれた。仏壇の前に通されると、しっかりお線香をあげて手を合わせるクミさん。しばらく過ごして帰り際、クミさんが「オラも元気で暮らすから、オメさんも元気でいてや」と涙を流しながら家族さんを抱き寄せたので、私は感動して震えてしまった。今日は帰ってくるしかなかったなと納得した。そしてこの瞬間から、クミさんの旅と私の旅が始まったのだと思った。
4月に入って、私の祖母が亡くなった。小さい頃から母子家庭だったので、働く母の変わりに祖母が私の子守をしてくれ、いつも添い寝をしてくれた。私が小学生のときに 祖母は脳梗塞で倒れ、17年間老人ホームにいた。会いに行くと、「こごさ寝ろ〜」と祖母に誘われて居室のベッドでよく添い寝をした。
3月の末、祖母が体調を崩してから、私は施設に泊まり、最期を看取った。遺体を自宅に運び、納棺される前の一晩は、祖母と枕を並べて最後の添い寝をした。死んだ人と寝るなんて信じられないといった目もあったが、私には自然なことで、朝まで祖母と一緒に添い寝をさせてもらった。私の体温が伝わり、祖母の体は翌朝納棺の時も温かかった。
祖母が亡くなる日、もしかしたら祖母は今日かもしれない‥と伝えにグループホームに顔をだした。そのとき帰ろうとする私をクミさんが玄関まで見送り、ギュッと両手を握り締めて「オメさん、元気でいてや」と声をかけてくれた。不思議だが、クミさんはこんな時、いつも寄り添っていてくれる。
お葬式が終わり、いつもの生活が始まろうとしていたが、私はなんだか気が抜けていた。体も疲れて、こんな状態でクミさんが歩きだしても、一緒に歩く気持ちになれない感じだった。クミさんはそんな私を見抜いていたようで、ソファにゆったり座って、ずっと私の隣にいてくれた。天気がいい日、散歩に誘うと、クミさんから手を握ってくれて「お〜手て〜♪つ〜ないで〜」と歌ってくれた。クミさんが私に、これから一緒に手をとって歩いていこうと言ってくれているように感じた。
夜勤でクミさんの部屋に行くと、布団に枕が2つ並べてあった。どこから枕を持ってきたのかスタッフは誰も知らない。「クミさん、枕2つ並べて誰と寝てるんだろう?」とスタッフの間で話題になる。私は祖母との添い寝を思いうかべていた。私が異動して初めての夜勤のとき、なぜかクミさんはずっとリビングにいて、ソファで一緒に寝てくれた。このところ現実味がなくてボーっとしていることの多かった私なのだが、クミさんは一緒にいて支えてくれているのを感じた。
グループホームの勤務にもなじみ、私の気持ちも体も落ち着いてきた今月に入って、久しぶりに部屋から大荷物を持って「帰ります」とクミさんが動いた。いつも手にはバックだったり、風呂敷だったりするのだが、この日は大きなタオルケットに包んだ荷物。重そうだが、大事に脇に抱えて歩いて行く。クミさんの後ろ姿を追いながら、タオルケットに何を包んであるのか気になり「そんなに大きな荷物持ってどこ行くの?」と声をかけて車に乗ってもらった。グループホームに帰ってくるとクミさんは私に大きなタオルケットの荷物を託してくれた。中身をみたらタオルケットにくるまっていたのは2つの枕だった。クミさんが大事に持って歩いていたのは、私にとっても大事なものだった。
一緒に生きていくってこういうことなんだということをクミさんが教えてくれているように感じた。支え合い、寄り添って生きるとはどういうことだろう。これからもクミさんは歩き続けるだろう。私も私の旅路を歩いて行くしかない。
悲鳴 ★特別養護老人ホーム 田村成美【2012年5月号】
ユニット「こと」の強烈な個性の利用者さん面々の中では、普段は隠れがちだが、とても魅力的な遠子さん(仮名)というおばあちゃんがいる。いつもニコニコして愛らしく94歳とはとても思えない。車いすをつかってはいるが、手をとればスッスッと歩けるし、かたいおせんべいも大好きでバリッと食べちゃう。家族さんによると、食べものにはうるさくて高級なものを選んでいたということだ。
ところが、この数ヶ月、「こと」の悪い雰囲気に遠子さんらしさが消されてしまったように私は感じていた。食べる量が減り、「腰が痛いの〜」と痛みを訴え、歩くこともできなくなっていた。高齢による体力の低下もあるとは思うが、「こと」の重い雰囲気が、遠子さんの気持ちを閉じさせているんじゃないか…と感じていた。腕をがっしりと組み、手は袖にしまい込んでしまい…手で強く握って腕にできたアザが痛々しかった。私は聞こえない悲鳴が聞こえてくるようで苦しくなり、遠子さんに寄り添うこともできず逃げ出してしまっていた。
そんな様子を見かねた理事長がミーティングの場をもってくれた。そこで今まで薄々感じながらも、閉じこめていたことに光があてられる感じで、少し開けた。おいしいフルーツを箱買いしていたという遠子さんにとって、食べることはとても大切なことにちがいない。その食べることを『ショッカイ:食介』などという介護作業で、食べることを強要するような状態で追い詰めていたのではないか。
「食べさせる」だけの『ショッカイ:食介』は、食事ではない。やりとりや、おいしく感じているかどうかの感覚や、「食べてほしい」という気持ちがなければ、工夫も何もででこない。「“食介”なんかいらないよ。一緒に食べるでいいじゃないか!」との理事長の言葉に気持ちが支えられた。
「食べてほしい」「一緒に食べたい」という自分の気持ちを大事にしていこうと確認できてホッとした。すると、こうすれば遠子さんが食べてくれるんじゃないかという思いがどんどん出てきた。早速、翌日から実践してみる。決められた場所で、決まった時間に、決まった内容でなくていい、好きな場所で好きな物を!晴れていれば外がよく見える場所に座り、カラフルおにぎりを特別に作ったり、おやつの好きな遠子さんだから、ホットケーキ、ミカンゼリー等も色々並べてみる。びたっりくっついて「食べさせる」じゃなく少し距離も置いてやりとりをしながらならどうだろう。いろいろやってみると、全く違った。あれほど食べなかった遠子さんが、手でおにぎりをつかみパクリと食べてくれたではないか!すごく嬉しくて、もっと食べて!と伝えたくて、私は目の前でモリモリ食べた。いつもの「食べさせられている」ときの苦しそうな表情はなく、自分の ペースで食べている遠子さんをみて私も楽しくなり、感動した。食事ってこういう事だよなぁ…と改めて思った。
次の日もいい雰囲気で食事ができていたのだが、おにぎりには手が伸びるが他のおかずには手が伸びない。何でだろう…と遠子さんの目線の位置から見ると・・ん?器の中にあるものが全く見えない。見えないと食べる気になれないよな…と発見した感じで、新人の川戸道さんも呼んで三人で、同じ目線に6個の目玉を並べて考えた。料理が見えるような浅い食器がいいよね。透明だったら見えるんじゃないかな?とか、気分をもり上げるためにプレートにかわいく盛っちゃう!とか、いろいろ考えるのも楽しくなってきた。
翌日、早番の山岡さんにそれを伝えると、早速プレートにおにぎりやドーナツを乗せて出してくれた。やはり違うようで、遠子さんは自分で手を伸ばしてくれたと言うことだった!山岡さんは、一緒に食べながら、遠子さんと目があったときスプーンを口に運ぶと、口をあけてくれると言う。「こっちが食べると一緒に食べてくれるんだよね」と教えてくれた。川戸道さんは耳の聞こえない遠子さんに、食事中のお手紙作戦を考え、彼女らしく楽しいやりとりを工夫している。厨房のスタッフも、こうした取り組みを理解し、一緒に考えてくれて、遠子さん用の一品を作ってくれたりしている…。みんな遠子さんに食べてほしいという気持ちが動いていてうれしかった。それでも食べれないときは、お菓子を袋のままいっぱい持ってって囲むと「わぁ〜」と目を輝かせ、パクっと食べてくれた事もあった。ちょっとした工夫と気持ちを大事にしたい。
歩くことも以前よりスムーズになっているように感じる。何より表情が出て、笑顔が増えてきている。ユニットの雰囲気は決定的なものがある。
食べられない日もあるが、入れ歯の調子もありそうなので歯医者さんにも行って!まだまだ工夫できることはいっぱいあると思う。家族さんからお肉が大好きだったと聞いたのでやわらか〜く煮た角煮とかクリーム煮とか、果物が好きだからフルーツ盛だとか…厨房とも協力して楽しい食卓を作っていきたい!
歩けるのに安全のため歩かせないとか、歩きたい気持ちに暗に圧力をかけるとか、食べさせるために口に入れるとか、一見正しいようで暴力的で残虐な事がおこりやすい現場だと思う。そんな違和感から逃げているうちに、知らず知らず自分も平気でそれをやってしまうようになるのかも知れない。遠子さんは私に課題を突き付けてくれた。心の中で思ってるだけじゃなく、苦しくなると閉じたり、逃げたりしてしまうんじゃなく、発信しようと思う。「利用者守ろうぜ」と理事長。自分のためにも利用者のためにも強い自分になりたい。
新生ユニットこと!頑張るぞ!!
ところが、この数ヶ月、「こと」の悪い雰囲気に遠子さんらしさが消されてしまったように私は感じていた。食べる量が減り、「腰が痛いの〜」と痛みを訴え、歩くこともできなくなっていた。高齢による体力の低下もあるとは思うが、「こと」の重い雰囲気が、遠子さんの気持ちを閉じさせているんじゃないか…と感じていた。腕をがっしりと組み、手は袖にしまい込んでしまい…手で強く握って腕にできたアザが痛々しかった。私は聞こえない悲鳴が聞こえてくるようで苦しくなり、遠子さんに寄り添うこともできず逃げ出してしまっていた。
そんな様子を見かねた理事長がミーティングの場をもってくれた。そこで今まで薄々感じながらも、閉じこめていたことに光があてられる感じで、少し開けた。おいしいフルーツを箱買いしていたという遠子さんにとって、食べることはとても大切なことにちがいない。その食べることを『ショッカイ:食介』などという介護作業で、食べることを強要するような状態で追い詰めていたのではないか。
「食べさせる」だけの『ショッカイ:食介』は、食事ではない。やりとりや、おいしく感じているかどうかの感覚や、「食べてほしい」という気持ちがなければ、工夫も何もででこない。「“食介”なんかいらないよ。一緒に食べるでいいじゃないか!」との理事長の言葉に気持ちが支えられた。
「食べてほしい」「一緒に食べたい」という自分の気持ちを大事にしていこうと確認できてホッとした。すると、こうすれば遠子さんが食べてくれるんじゃないかという思いがどんどん出てきた。早速、翌日から実践してみる。決められた場所で、決まった時間に、決まった内容でなくていい、好きな場所で好きな物を!晴れていれば外がよく見える場所に座り、カラフルおにぎりを特別に作ったり、おやつの好きな遠子さんだから、ホットケーキ、ミカンゼリー等も色々並べてみる。びたっりくっついて「食べさせる」じゃなく少し距離も置いてやりとりをしながらならどうだろう。いろいろやってみると、全く違った。あれほど食べなかった遠子さんが、手でおにぎりをつかみパクリと食べてくれたではないか!すごく嬉しくて、もっと食べて!と伝えたくて、私は目の前でモリモリ食べた。いつもの「食べさせられている」ときの苦しそうな表情はなく、自分の ペースで食べている遠子さんをみて私も楽しくなり、感動した。食事ってこういう事だよなぁ…と改めて思った。
次の日もいい雰囲気で食事ができていたのだが、おにぎりには手が伸びるが他のおかずには手が伸びない。何でだろう…と遠子さんの目線の位置から見ると・・ん?器の中にあるものが全く見えない。見えないと食べる気になれないよな…と発見した感じで、新人の川戸道さんも呼んで三人で、同じ目線に6個の目玉を並べて考えた。料理が見えるような浅い食器がいいよね。透明だったら見えるんじゃないかな?とか、気分をもり上げるためにプレートにかわいく盛っちゃう!とか、いろいろ考えるのも楽しくなってきた。
翌日、早番の山岡さんにそれを伝えると、早速プレートにおにぎりやドーナツを乗せて出してくれた。やはり違うようで、遠子さんは自分で手を伸ばしてくれたと言うことだった!山岡さんは、一緒に食べながら、遠子さんと目があったときスプーンを口に運ぶと、口をあけてくれると言う。「こっちが食べると一緒に食べてくれるんだよね」と教えてくれた。川戸道さんは耳の聞こえない遠子さんに、食事中のお手紙作戦を考え、彼女らしく楽しいやりとりを工夫している。厨房のスタッフも、こうした取り組みを理解し、一緒に考えてくれて、遠子さん用の一品を作ってくれたりしている…。みんな遠子さんに食べてほしいという気持ちが動いていてうれしかった。それでも食べれないときは、お菓子を袋のままいっぱい持ってって囲むと「わぁ〜」と目を輝かせ、パクっと食べてくれた事もあった。ちょっとした工夫と気持ちを大事にしたい。
歩くことも以前よりスムーズになっているように感じる。何より表情が出て、笑顔が増えてきている。ユニットの雰囲気は決定的なものがある。
食べられない日もあるが、入れ歯の調子もありそうなので歯医者さんにも行って!まだまだ工夫できることはいっぱいあると思う。家族さんからお肉が大好きだったと聞いたのでやわらか〜く煮た角煮とかクリーム煮とか、果物が好きだからフルーツ盛だとか…厨房とも協力して楽しい食卓を作っていきたい!
歩けるのに安全のため歩かせないとか、歩きたい気持ちに暗に圧力をかけるとか、食べさせるために口に入れるとか、一見正しいようで暴力的で残虐な事がおこりやすい現場だと思う。そんな違和感から逃げているうちに、知らず知らず自分も平気でそれをやってしまうようになるのかも知れない。遠子さんは私に課題を突き付けてくれた。心の中で思ってるだけじゃなく、苦しくなると閉じたり、逃げたりしてしまうんじゃなく、発信しようと思う。「利用者守ろうぜ」と理事長。自分のためにも利用者のためにも強い自分になりたい。
新生ユニットこと!頑張るぞ!!
ケアマネ訪問記 認知症と向き合う家族 〜誰が家を回転させた!〜 ★居宅介護支援事業所 板垣由紀子【2012年5月号】
今年度、二年半ぶりに「居宅」を担当することになった。育休明けの鎌田と二人体制で、地域の相談窓口として積極的に出かけて、現場の出会いの中から、いろいろ学び取っていきたいと思う。
トシさん(仮名)とは、デイサービス(DS)の‘マルカンドライブ’に参加したとき、初めてお会いした方だ。トシさんはマルカンで、ジャンバーを買いたいと言うので、みんなより先に出発して、前任者の田代と私と3人で婦人服売り場を見て歩いた。自分で歩行器を押して歩き、服を選ぶ様子は認知症とは思えず、不思議な感じだった。その数日後、DSで会うと私の顔を覚えていて「この間はどうも」と挨拶された。自分で歩けるし、食器も自分で片付け、周囲の人のことも気にかけ、やりとりもしっかりして、物静かな印象。ますます、認知症?と首をかしげる感じだった。
4月の自宅訪問では、お嫁さんから「この間はすみません、ご迷惑をおかけしました。」と言われた。トシさんがデイサービスをずる休みしようとした日、送迎準備が出来ないまま送り出して申し訳なかったというお詫びだった。私は相談員の米澤から、トシさんの話しを聞いていた。どうやらトシさんは「おさぼり計画」を実行したらしい。「休むって昨日から息子にいってたのに、うんって言わないから、目醒めていたけど、寝床から起きねがったおや。そうすれば休むにいいかと思って。」と明かしてくれたという。米澤は、楽しそうにその話をしてくれた。私はその内容をお嫁さんに伝え、「トシさんは、デイサービスでも自分が出せるようになって来ているのかもしれないですね。」と感想も添えた。お嫁さんも笑いながら「家ではまるで駄々っ子のようになるんです。夫とは、5歳児のようだねって話しているんです。よそではしっかりしているから、まるで私たちが詐欺師みたいで・・。」と話された。家では、DSとは違う様子で過ごしているようだ。さらに家の中で、一人で電気もつけないでいた時期があって、家の中をウロウロしたり、台所で突然「誰だ、家を回転させたのは」って怒り出したこともあったという。
家が回転したというのは凄い発想だと感心したが、嫁さんも苦笑いで「その時は、いくら説明しても、受け入れてもらえなくて」と困った様子が伝わってくる。「今はどう ですか?」と尋ねると、DSに通い始めてから、一人閉じこもることはなくなり、いい感じだとのこと。家にいて「ぼーっ」としていると認知症が進んでしまうので、お風呂やデイサービスに通うなど、日課の枠を作っていこうとされていた。
私はグループホーム勤務の経験から、認知症の方の自由奔放さにつき合いながら、寄り添い、こちらの思いだけで操作することなく、自然な流れに任せて支える方が、いい結果につながるように思っている。なんと言っても「理解」が大切で、トシさんの「誰が家を回転させた!」という叫びは、認知症による恐怖と、不安の現れだったように思う。居宅やデイサービスは、「在宅」を支える位置にあり、今までとは違った変化に戸惑う本人や家族と出会う現場だと思う。そして「居宅」は、事業所の顔・玄関でもある。今回、私が引き継いだケースの中にも、認知症で混乱する家族と手探りで、その方向を探し始めたケースがある。現代の医学では、完治されない認知症ではあっても、ケアの現場にはいろんな可能性があるように感じる。
トシさんは私が訪問した日、ちょうど買い物に出かけていた。介護度がついてから初めてのお出かけだったと言う。近所の裏通りにあるお店まで、曲がった腰で、手押し車を押して一人で買い物に出かけた。車の少ない一本道だから割と安全とのことだったが、往復するには結構な距離になる。トシさんがそこまで頑張るには意味があった。おさぼり計画の次の利用日に、綺麗にラッピングされたチョコレートがスタッフの太田代に渡されたというのだ。その日、遅くなって朝食を食べてこなかったトシさんのために、太田代が温かいおにぎりを握って出したらしい。トシさんはそのお礼がしたくて、買い物に行ったのだった。その動機となった温かいおにぎりは、太田代との繋がりでもあった。またトシさんが、悪巧みを打ち明けられる相談員の米澤の存在も大きい。なかなかぐっと来る話だ。現場にはこうした話しがたくさんある。ケアマネージャーである私は、このような大切な物語を家族や事業所から聞き取り、お互いを繋いでいきたい。そこに利用者の人生も、我々の地域社会もあると思う。ただ機械的にサービスを並べるだけの「居宅」にはなりたくないと強く自覚させられた。 味わい深い人生の物語を紡ぐケアマネージメントを目指していきたいと思う。
トシさん(仮名)とは、デイサービス(DS)の‘マルカンドライブ’に参加したとき、初めてお会いした方だ。トシさんはマルカンで、ジャンバーを買いたいと言うので、みんなより先に出発して、前任者の田代と私と3人で婦人服売り場を見て歩いた。自分で歩行器を押して歩き、服を選ぶ様子は認知症とは思えず、不思議な感じだった。その数日後、DSで会うと私の顔を覚えていて「この間はどうも」と挨拶された。自分で歩けるし、食器も自分で片付け、周囲の人のことも気にかけ、やりとりもしっかりして、物静かな印象。ますます、認知症?と首をかしげる感じだった。
4月の自宅訪問では、お嫁さんから「この間はすみません、ご迷惑をおかけしました。」と言われた。トシさんがデイサービスをずる休みしようとした日、送迎準備が出来ないまま送り出して申し訳なかったというお詫びだった。私は相談員の米澤から、トシさんの話しを聞いていた。どうやらトシさんは「おさぼり計画」を実行したらしい。「休むって昨日から息子にいってたのに、うんって言わないから、目醒めていたけど、寝床から起きねがったおや。そうすれば休むにいいかと思って。」と明かしてくれたという。米澤は、楽しそうにその話をしてくれた。私はその内容をお嫁さんに伝え、「トシさんは、デイサービスでも自分が出せるようになって来ているのかもしれないですね。」と感想も添えた。お嫁さんも笑いながら「家ではまるで駄々っ子のようになるんです。夫とは、5歳児のようだねって話しているんです。よそではしっかりしているから、まるで私たちが詐欺師みたいで・・。」と話された。家では、DSとは違う様子で過ごしているようだ。さらに家の中で、一人で電気もつけないでいた時期があって、家の中をウロウロしたり、台所で突然「誰だ、家を回転させたのは」って怒り出したこともあったという。
家が回転したというのは凄い発想だと感心したが、嫁さんも苦笑いで「その時は、いくら説明しても、受け入れてもらえなくて」と困った様子が伝わってくる。「今はどう ですか?」と尋ねると、DSに通い始めてから、一人閉じこもることはなくなり、いい感じだとのこと。家にいて「ぼーっ」としていると認知症が進んでしまうので、お風呂やデイサービスに通うなど、日課の枠を作っていこうとされていた。
私はグループホーム勤務の経験から、認知症の方の自由奔放さにつき合いながら、寄り添い、こちらの思いだけで操作することなく、自然な流れに任せて支える方が、いい結果につながるように思っている。なんと言っても「理解」が大切で、トシさんの「誰が家を回転させた!」という叫びは、認知症による恐怖と、不安の現れだったように思う。居宅やデイサービスは、「在宅」を支える位置にあり、今までとは違った変化に戸惑う本人や家族と出会う現場だと思う。そして「居宅」は、事業所の顔・玄関でもある。今回、私が引き継いだケースの中にも、認知症で混乱する家族と手探りで、その方向を探し始めたケースがある。現代の医学では、完治されない認知症ではあっても、ケアの現場にはいろんな可能性があるように感じる。
トシさんは私が訪問した日、ちょうど買い物に出かけていた。介護度がついてから初めてのお出かけだったと言う。近所の裏通りにあるお店まで、曲がった腰で、手押し車を押して一人で買い物に出かけた。車の少ない一本道だから割と安全とのことだったが、往復するには結構な距離になる。トシさんがそこまで頑張るには意味があった。おさぼり計画の次の利用日に、綺麗にラッピングされたチョコレートがスタッフの太田代に渡されたというのだ。その日、遅くなって朝食を食べてこなかったトシさんのために、太田代が温かいおにぎりを握って出したらしい。トシさんはそのお礼がしたくて、買い物に行ったのだった。その動機となった温かいおにぎりは、太田代との繋がりでもあった。またトシさんが、悪巧みを打ち明けられる相談員の米澤の存在も大きい。なかなかぐっと来る話だ。現場にはこうした話しがたくさんある。ケアマネージャーである私は、このような大切な物語を家族や事業所から聞き取り、お互いを繋いでいきたい。そこに利用者の人生も、我々の地域社会もあると思う。ただ機械的にサービスを並べるだけの「居宅」にはなりたくないと強く自覚させられた。 味わい深い人生の物語を紡ぐケアマネージメントを目指していきたいと思う。