2012年04月15日

種蒔き ★佐藤万里栄【2012年4月号】

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春の花★ワークステージ 昌子さん(仮名)【2012年4月号】

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春になり、きれいな花が咲き始めます。昌子さんのキャンバスには色々な種類の花が鮮やかに。今年はこんなきれいな花が咲くといいね。
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お花見 ★ワークステージ 村上幸太郎【2012年4月号】

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★4月中旬では、まだ桜は開花していませんので、お花見はまだ先なのですが、こんなお花見がしたい!という希望をこめて描きました。鮮やかな満開の桜の下、桜吹雪を堪能する男子とは対象的に、花より団子でお菓子を食べている女子の姿が・・・今年もきれいな桜が咲きますように。
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里の現場とアートシーンにみる女性原理 ★理事長 宮澤健【2012年4月号】

 先月号で話題にしたピナ・バウシュの映画と松井冬子の展覧会を見てきた。映画「踊り続けるいのち」はピナの作品をオムニバスで紹介しつつ、ダンサーのインタビューで構成している。ブッバタール舞踏団の団員が、ピナとの出会いやピナから学んだ身体表現の哲学などを語り、ピナへのオマージュとしての作品になっている。ピナが彼らに何を伝えたのかが、インタビューから感じられて興味深い。ピナは言葉ではない何かで伝えている。「踊ろう。踊れば見えてくる。感じよう。感じれば自分が現れる」そんな呪文が聞こえてくるようだ。もちろんピナは本も書いているし、たくさん語ったにちがいない。しかし本質は、説明や解説では伝わらない。ピナは身体を通じてたましいを理解し悟りのような境地に至ったのか、透徹した感性やセンスがあったのか、もしくは深い美学を磨き上げたのか。インタビューの語りはピナの存在に触れ、自身の発見のプロセスが起こったことを語っている。それは舞踏の技術でもなければ、舞踏についての能書きでもない。舞踏によって発見した自身の存在と命の語りだ。
 我々の現場も同じだ。ショッカイ(食事介助の略)だのタイコウ(体位交換の略)だの作業や技術に特化して、仕事をかたづけてしまうことは簡単にできてしまう。しかしそれでは出会いも自分の発見も起こらない。作業としてこなせば良いとする人も場合もあるだろうが、感動もない人生で終わるのではないかと思う。企業や工場で車や電気製品を作り利益を上げるための能力が求められる今の社会において、因果論と明確な説明にできる思考が必要とされるのはわかるが、人間が生きていくには、戸惑いやおののきを伴う、答えのない世界も消し去るわけにはいかない。痛みや傷によって開かれる関係の世界は深い実感をともなう世界を提示してくる。震災以降、絆という言葉が氾濫しているが、人と人が切れて、繋がることができなくなっている現状が反映して、震災によって、現代社会の奥底の悲痛な叫びが聞こえてくるようになったのかもしれない。明治以降の近代化のなかで、しがらみという絆を必死で断ち切って自立しようとしたら孤立してしまった。そこから無縁社会が生まれ、孤独死などが社会問題にもなる時代だ。本来の日本らしさは取り戻せるのだろうか。
 エロスの働きの本質は、何かと何かを繋ぐ作用にある。だからこそ、これからの地域社会にはエロスが必要だと思うのだが、実際の地域には形骸化したしがらみが残るだけで、期待する絆とはほど遠い現実がある。しがらみでがんじがらめになりながら、一方で技術や理論で切り刻まれる辛さに若者達は傷ついて育つしかないのではないか。
 ピナの作品は、そうした近代の病理に真っ正面から向き合い、個々を魂の次元から解放する迫力がある。先月の里で行った事例検討会のテーマが「身体と痛み」だったこともあってこの映画はかなり考えさせられた。
 事例検討会は、発表と検討会を合わせて4時間を要したが、それでも時間が足りない感じがするのは、発表者、参加者それぞれの心のなかでうごめくことが、まだまだ語りきれないほどあることが感じられるからだ。もちろん全部はき出せないし、大半は抱えておくことが大切だろう。
 人生には語り得ないものがたくさんある。ピナの仕事も、ほとんど語り得ないことだろう。それらは感じるしかない。だからこそ身体の可能性にピナは賭けたのではないか。語り得ないものは、無いことになってしまうのが近代科学だが、語れない、答えが出ないもののほうが圧倒的に多いのが人生なのだから、銀河の里では、それを特に大切にしようとしてきた。 もう一本同時上映された『夢の教室』は、やはりインタビューを入れた、ドキュメンタリーだが、一般の10代後半の若者を集めて、ピナの1978年の作品『コンタクトホーフ』を上演するプロセスを描いている。生い立ちや環境から、こころに傷を負った若者達に、ピナは踊ることを通して、ひとりひとりの魂に語りかける。初めは「わからないよ」「できない」などと言っていた若者達もやがて役の身体表現を通じて、自らと出会い、自らを開いていく。若者達は、育っていく自分に驚きながら、最後は観客を巻き込み、上演は喝采を浴びて終える。成し遂げ、舞台が成功した感動と同時に、新たな自分が始まっていく予感に若者達の顔は輝く。触れると傷つけたり壊してしまう恐怖で、本当は触れたいし、触れて欲しいのに、触れられず触させもせずにいる葛藤。コンタクト(ふれあい)ホーフ(館)は触れることの中に包含されていた傷も含めて、現代社会のテーマと向きあった作品で30年を経た今も輝きを放つ。ドイツはまた日本とは違う社会事情だろうが、やはり近代のがんじがらめに苦しんでいる若者達に身体表現を通じて迫った、ピナの柔らかくも力強い支えに励まされる。
 やはり先月号に書いた、松井冬子の展覧会を最終日に観に行った。帰り際、ロビーで背の高い女性とすれ違うと、それは冬子氏本人だった。ちょっと挙動不審っぽい様子は私の冬子イメージとぴったりだった。背丈があってハイヒールなので175cmくらいありそうな上に、度派手な化粧と服装で、「頑張っている」という感じだった。見るからに闘争の人、しかも繊細だ。ロビーに立って、お客さんが握手を求めて語りかけるのを丁寧に対応していた。そのうち、ちょっと認知症気味のお婆さんが、冬子氏本人と知ってか知らずか声をかけた。お婆さんは背が低いので、冬子氏は上半身を折り曲げて、口もとに顔をくっつけるようにして話しを聴こうとしていた。それでも何を言っているのかよく解らず、何度も聞き返すのだが、意味が通じず困った様子に人柄が表れていて、画家松井冬子の素顔を垣間みるようだった。やがてお婆さんは一方的に話しを終え冬子氏から離れた。私はそのお婆さんにうなずきながら手を振った。お婆さんが去っていくと、冬子氏がチラッと私の方見て微笑んだ。
 冬子氏には若い女性が多く声をかけていた。話し終わった女性にいかついプロレスラーのような男が丁寧な言葉で、「お客様今度の展覧会のご案内です。どぎつい言葉も入っておりますがよろしければどうぞ。」とパンフレットを渡していた。あの男は誰だ?と気になったが、後で諏訪敦の画集『どうせなにもみえない』を見て、その人は松井冬子を世に出したとも言える画廊のオーナー成山明光氏だったことがわかった。
 松井冬子の仕事については、前号で書いたので省略するが、これからの作品が楽しみだ。男性原理でがちがちになってしまった今の社会を、銀河の里の女性たちも含めて、 若い女性の感覚が社会をどのように変えていくのか期待をしてしまう。抵抗もあり、模索も必要だろうが、なんとしても頑張ってもらいたい。
 ピナは2009年に亡くなったが、没後も作品は上演されているし、すでに生前から同志によって、『夢の教室』に描かれたような取り組みがなされてきた。その精神は継がれていることがありがたい。
 私も里の活動を通じて、結構悩みながら、若者を育てようと奮闘し、女性原理を復権させた実践を進めてきたのだが、ピナや松井冬子のように作品として表せないし、世界的に有名になったり、評価されることはない。それどころか変わり者扱いされ、地域で嫌がらせを受けるのがせいぜいだろう。長年の私の想いは、誰にも継がれることもなく、たわごとで終わってしまう運命のようだ。それでも捨て石のひとつ、裾野の一部にでもなれればと思う。彼女たちに同志を感じながら、行ける所まではひるまず戦い続けたい。

 先月号を含め、おりにつけ、エロスや女性原理の復権の期待を書いてきた。今月号の施設長の文にもあるとおり、未来への光明を見いだす糸口をそこに感じるからだ。里の事例検討もそうした視点での挑戦である。因果論や一直線の説明ではないので、一般にはわかりにくく、全国の発表の場に行っても、里の発表は別次元の語りになってしまい、 逆に他の発表は参加した三浦君たちは違和感を持つ。それは業界にとって新たな次代を開く起爆剤にならないだろうか。最近出会った以下の文は、そうした里の取り組みのベースに極めて近いと感じたので最後に引用したい。
 
 「男性的生き方がひたすらひとつのものを目指すのに対して、女性の生は二つのものに引き裂かれつつ、その間を生きていると言えようか。ここで言う男女の区別は生物学的相異にもとづくものではないが、男なるものと女なるものとは永遠に出会いそこない続けると言ってよいかも知れない。しかしながら、この出会いそこないにおいてこそ人間の生の現実は開かれる。そしてそれは、女性なるものが自らの中に「空」の「場」を持ち続ける限りにおいてであると考えるのは不遜であろうか。
 とはいえ、この「場」は、油断するとすぐさま何かで埋められてしまう。(中略)女性なるものが、もしこの「場」を真に「空」にしておくことができるとするならば、すなわち虚しい空ではなく、充ちたる空にしておくことができるならば、それは女性なるものにおいては、この「場」が同時に命の通路と重なる。「空」であるがゆえにこそ存在へとつなぐこの女性なるものの「場」を媒体として、我々人間は内なる他者と対話し続けるのであろう」
 『今なぜ結婚なのか』鳥影社 伊藤良子 あとがきより (要約 宮澤)
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新年度が始まった! ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2012年4月号】

 昨年度は、私もユニットの現場に入り、チーム作りに力を入れてきた。特養立ち上げに際し、介護職としては最悪と思えるような質の低い職員と組まざるをえず、結果、現場は介護工場化してしまいそうな危機的な状況で、利用者が置き去りにされる悔しさと怒りに震えながらの日々が続いた。3年の間に、90名近い職員が去った事実は、闘いの日々を現す数字でもある。寒々しいユニットをなんとかしなければ!と燃える少数の若いスタッフと共に取り組み、大きく雰囲気も変わってきた3年目の昨年度だった。新人も含め、利用者への深い眼差しをどう育てていけるか、勝負の年だった。利用者と共に在ることに喜びを見出すことのできるメンバーが揃い、チームで取り組んでいく視点も伝わり、やっと何かを育む環境が整ってきた。
 今年度は新たに各ユニット1名ずつの新人が入った。既存のスタッフは1〜2ヶ月前から受け入れ体制を整えてきた。利用者一人ひとりについての介護面での要点を細かく再確認し、業務内容に無駄はないか、もっと工夫して効率よく空間を作っていくことはできないか等、これまでの仕事をモニターしてみた。新人に伝えたいことや、わかって欲しいことは何か、ユニット内で大切にしてきた関係のプロセス、それをどう伝えていけばいいか等にも意識を高める。「ミーティングしよう!」とユニットほくとのスタッフから声があがり、若いスタッフが自分たちで「なんとかしよう!」とやる気になって、どんどん提案や意見が出てきた。こうなれば自然に事は動いてくる。失敗したって、それさえ次の成長の糧になっていくもんだ!
 去年の新人も現場で鍛えられての2年目。一年前はまるでガキンチョで、おどおどビクビクしていた人が、身のこなしや顔つきまでしっかりして、イメージも持って、言葉で意見を言えるようになった。目の前のことで精一杯だったのが、ユニットのチームや特養全体にまで意識が及び、引き受けて考えるようになっている。
 各々の成長の過程に深く関わってくれているのが利用者さんたちだ。「私が変わったのは○○さんがいてくれたから」とか「●●さんに育ててもらった」と明確に“師”と呼べる利用者さんと出会えることの有り難さを改めて強く感じる。
 そういう出会いが、今年の新人のみんなにも起こってくればいいなぁ…と願いながら、採用前の実習を受け入れた。ほくとの新人、角津田さんは、丁寧な接し方をする人で、作業も丁寧にゆっくりやっていくタイプだ。弥生さん(仮名)に「新しい姉っこ来たからよろしくね」と私が声をかけると、角津田さんの顔をまじまじと見つめる。「初めまして」と挨拶する彼女に「オメ、ここで寝てまんま食って大きくなるんだな」と例のごとく、鋭い言葉をくれた。かなりの認知症だからこその、いつも本質を絶対にはずさない弥生さんの言葉が心に響く。
 新年度が始まり、ユニットほくとへ昼食を食べに行った。食後、レスキュー隊長カヨさん(仮名)が動いた! いつものように「小山田に行く」と隣のユニットすばるへ足を向ける。その拍子に私に「行くっか?」と声をかけてくれたので、手を取りあい「よーい、ドンッ!」とかけっこでスタート。すばるでは、ちょうどリビングからお風呂場までを「よいしょヨイショ」と歩いている洋治さん(仮名)と宮さんに遭遇し早速レスキュー、「おんじさん、だいじょぶだ っか?」と手をかすカヨさん。そのまま4人で「それそれ」「よいしょヨイショ」と賑やかにお風呂場まで歩いた。洋治さんが無事に脱衣場のベンチに腰掛けたのを見届けると、そのまま廊下へ出るカヨさん。「あっちにも困ってる人、いたはずだ」とユニットことに向かう。ことではちょうどおやつタイム。「かたって〜」と誘われテーブルで二人でくつろぐ。くつろいでいるといろんな事が見えてくる。ユニットことの新人、川戸道さんが、この日早速コラさん(仮名)の辛口トークに泣かされたようだ。それを新リーダーの山岡さんが丁寧に見てくれており、「さっそく洗礼を受けて泣いちゃって、でも泣くのも大事なことなんだよ、って伝えた」と話してくれる。新人らしい利用者との出会いを、特養に異動したばかりで、まだ勝手もつかめない時期の山岡さんが、しっかりリーダーとしてユニットを見守ってくれている。「コラさんもどこかで新しい人、若い人を受け入れようと頑張ってくれている」と山岡さんには両者へのまなざしがしっかりある。
 山岡さんと私のやりとり「んなんだなさ」とうなずいて聞いていたカヨさん、そろそろ行くっか?と立ち上がると、今度はお隣のユニットオリオンへ向かった。ここでもお茶を出してもらって落ち着く。オリオンはどんなかな?と一緒に腰をおろす。ここでは新人の菊池さんよりも、なんだか新リーダーの三浦くんがモヤモヤしている。今年の春はオリオンで畑をやるぞ!と桃子さん(仮名)と気合いが入ったものの、燃えすぎたのか争いの日々。三浦君の北斗時代の名コンビだったカヨさんの登場にもいまいちパッとせず、なんだかさえない表情…。桃子さんの口撃にやられてユニット全体が見えなくなっている感じの三浦くん。かたや新人も気にかけながらリビング全体の動きを把握してくれている平野さんは、そんな三浦くんに少々苛立っている様子。新人の菊池さんは不安もあるだろうけど、表面は明るく元気いっぱいなので、あまり自分でかかえて頑張らなければいいがと気にかかる。オリオンの利用者は変わらずマイペースでいてくれる。
 カヨさんの散歩に連れられて各ユニットを巡り、ふむふむ…と思っていると「さまざまなんだ」とカヨさんが鋭いセリフ。今年度、事務所に戻った私の手を取り、各ユニットを巡って連れて歩き、まるで「どっこもちゃんと見守って支えてやれよ」と、カヨさんが私の役割を指し示してくれたかのよう!
 私の抜けたユニットほくとでは、代わりに利用者のサエさん(仮名)が全体をみて指揮をとってくれているかのようだとミーティングで話が出た。新リーダーのほなみさんは「助かる、支えてもらってる」と話す。新人の歓迎会で、ユニットですき焼き夕食会を開いた時にも、率先して鍋奉行を買って出たサエさん。サエさんから新人の角津田さんへ花束の贈呈があり、感涙の彼女に「ゆっくり食べましょう!」と言葉をかけてくれた。「ゆっくりでもいい、一緒に大きくなろう!」と励ましてくれたように感じる。2年目の菜摘さんは、弥生さんに「おめ、ここまで来たんだ、逃げ出すなよ」と声をかけられたとのこと。新人を迎えて新たなチームを作っていく気概を真剣な表情で語りながら「私へのエールだと思う」と菜摘さん。
 チームの一人ひとりが、利用者さんたちへの想いやユニットの暮らしをどう作っていくかなどを、自分で考え自分の言葉で語り始めた。利用者さんたちもそんな若者たちを支えてくれている! 立ち上げ4年目、いい感じが出はじめてきた特養! やっとここまで来た。
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神戸の街をつくる料理人から学ぶ ★厨房 小野寺祥【2012年4月号】

【セミナー発表】
 「ユニットケア全国実践者セミナー」で発表することになり、3月9日から12日まで大阪、神戸に出かけてきた。
これまでの厨房の取り組みを『脱・給食〜食事を通じてあなたと生きる』と題して発表した。何年ぶりかのスーツ、皮靴・・・。会場では大きなスクリーンを見つめるたくさんの視線に緊張する。「爆弾落としてこい!」との先輩の言葉がよぎる。これまでの日々の取り組みを、そのまま伝えればいいと自分に言い聞かせる。檀上に立ち、皮靴を脱ぎスイッチオン。ソフト食や行事食の画像に「おぉ!」とどよめきが起こる。発表後、「自分たちもこんなことをやりたいんだ」と共感の声が届く。ソフト食はまだまだ始まったばかり。集団給食ではない、個々に添ったひとりのための食事つくりを目指そうじゃないかと話が膨らむ。
 全体としては、たいしたこともない発表がほとんどだったが、前夜祭でお世話になった博愛の園のスタッフにはどこか銀河の里と同じにおいを感じて、そこの管理栄養士さんとも話しが弾んだ。これからも繋がっていきたいと思う。

【神戸散策】
 セミナーのあいだ3日間、神戸の街を歩いた。『食の街神戸』と言われるだけあって、三ノ宮から元町の間は所狭しとスイーツ、パン屋、イタリアン、フランス料理とお店が並び、中華街もある。異国情緒に溢れ、外国の国旗を掲げている建物が立ち並ぶ。生田神社には『包丁塚』という史跡があり、料理人の魂の籠った庖丁に感謝すると共に、食文化の向上を願い、神戸市内の料理食品関係者によって建立されたという。夕方になると、和を漂わせる料亭の灯りが付き始め、昼間とはまた違った神戸の街が見えてくる。今後の食事作りの上で舌に磨きをかけるべく、私たちも街に繰り出した。

 一日目の夜は、食通が集まるという神戸北野坂の『てんぷら 吟や』に入る。7席のカウンターと4人席のテーブル席がひとつという店だが、目の前で揚げているところを見たくてカウンターの席に座る。一番右の席にはてんぷら屋なのに鍋を食べている、いかにも常連風の叔父様を少し気にしつつ・・・。
  店主は神戸の日本料理屋で修行したあと、このてんぷら屋を開いたという。1発目はエビ、いきなり生きた海老が、慣れた手つきで天ぷらになって出てきた。新鮮そのものだ。揚げたてのてんぷらは天つゆと〈ぬちマース〉という天然塩で頂く。食材は店主さん本人が神戸港の市場や、業者を回り買ってくるそうだ。れんこん、たけのこ、たらの芽、のどぐろ、きす、しらす、そして白子と出てきて、幸せな時間を過ごした。
 洗練された店内の作り、無駄のない動き、きれいに磨き上がられた調理場、厳選された食材を用意し、ひとりひとりのお客と向き合い料理を作り上げている感じに好感がもてる。30代前半の店長は、食材選びからお客さんの口に入るまで1人でやっていると自信に満ち溢れていた。
 そのうち例の右の席でナベをつついていた叔父様と話に花が咲いた。「神戸のここら辺りのいい店はみんな知っている。ただし私がいくところは、高いぞ」とお金持ちらしい。おそるおそる年齢を聞くと、88歳というので、信じられないと言う顔をしていると免許証を見せてくれた。
 二日目は1時間ほど三ノ宮の街をあるき、『すぎなか』という和食屋に入った。店に入るとキッチンの後ろには店主さんが選んだのであろう皿が並べられ、お品書きは手書きだった。たこの煮付けが柔らかかった。たこは固いと思って、今まで里では出せずにいたが、このたこは柔らかく高齢者でも行けそうだ。調理方法を聞くと酒と塩で4,5時間ひたすら煮るという。たこやいかが大好きなすばるの洋治さん(仮名)の顔が頭に浮かび里でも作ってみたいと思う。
 様々な皿に次々と料理が盛りつけられて出てくる。ひとつひとつ店主が選び思い入れもあるのだろう。その皿から料理が生み出されているのではないかと感じるぐらいだった。セミナー発表でも取り上げた料理と器。料理を物語り、引き出す器は食事を考える大きな要素だ。小鉢ひとつにも、その盛り付けにも、食べる相手のことを細かく配慮し、考えぬかれているのが解る。開店したのは去年の8月ということだったが、若い人が復興への情熱を持って活躍していることに感銘を受けた。
 そして最終日の昼食は、出かける前に予約しておいたフレンチレストラン『Sans Filtre』。夫婦でやっている店内にはジャズが流れ、カウンターが10席だけの狭いが落ち着いた雰囲気。シェフの田中さんはフランスで修行してきた方だが、出かける直前に阪神淡路大震災にあい、帰国後、独立開業されたという。料理の説明に料理の物語が始まる。こちらは背筋がピンとなる。狭いカウンターのさらに半分くらいの厨房で料理が作られ、カウンターで盛り付け、ソムリエの奥さんが料理を運んで説明をする。二人の連携で料理と雰囲気を作りあげている感じがいい。前菜からデザートまで心配った盛り付け。温度にまで驚くほど繊細に気持ちが入っているのがストレートに感じられる。料理の世界に吸い込まれてしまったような感覚の中で、ひとくちひとくち料理を味わった。カラフルな彩りも目で料理を楽しませる。昼食だというのに夢を見ているかのような時間を過ごした。

【神戸の息吹】
 東日本大震災からちょうど1年目、そして阪神淡路大震災から17年というところで、私は神戸の街を歩いたのだが、神戸は若い料理人で街が作られて行っていると感じた。私とさほど歳の離れていない人たちが、自信に満ち溢れ店を持ち、活躍している。それは子どもの頃に震災を体験した世代だ。新しい店を切り盛りし、街を自分たちが作っていくという強い志と、それを支える、てんぷら屋で出会った叔父様のよう高齢の大人のバックアップで新しい神戸が生まれようとしているのではないかと感じた。若者の情熱とそれを見守り支える中高年の世代が支え合っている。岩手にそれがあるだろうか、岩手はどのように変わっていくのだろうか。セミナーの参加を通じて、大阪や神戸の街や人には思ってもいなかったような刺激をたくさん受け、興奮は簡単には冷めそうもない。関西の気風なのか自信にあふれ、意欲的にコミュニケーションを行う人々。そこからうまれてくるたくさんの発見と想像。思っていても自分のなかで抱えて、口には出せず、話は始まらず、解決もしないような今までの自分がいる。銀河の里はそんな風土ではなく、どちらかと言えば関西風に開けっぴろげで行けるところだ。今回のセミナー発表や、神戸の街、料理人をみて感じたこと等を大切にし、私は栄養士として料理人として、そして岩手のこれからを作る人間として育って行きたいと思う。
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痛みの多義性 ★施設長 宮澤京子【2012年4月号】

 3/25に法人内で事例検討会を行ったが、その事例『新たな旅のプロセス〜異化の春』は91歳の一人暮らしをしてきた女性Sさんがグループホーム銀河の里への入居後、高熱による入院や転倒を繰り返しながら、奇跡のような変容を遂げた3年間のプロセスが語られたものだ。2時間の発表と2時間の討議ながら、あっという間に過ぎた濃密な時間だった。一緒に暮らすことになった若いスタッフが、特にも入居から10日間にその方向性が集約されていくなかでの様々な心の葛藤や課題は、聞く者を圧倒し、それぞれのこころを揺り動かした。私もSさんのキーワード「痛いです!」が強烈に印象に残り、改めて「痛い」の持つ意味を考えてみた。

 「いたい」という言葉を聞くと、まず心や身体の「痛み」、リンゴの腐敗や屋根の損傷の「傷み」、亡くなった方を偲び悲しむ「悼む」等が浮かぶ。
人は誰しも、痛みを避け、痛みから解放されたいと願い、そのために懸命になる。一方で、人は他者の痛みの除去や緩和のために耳を傾けようともする。この痛みに対する二つの側面はとても重要だと感じる。具体的にSさんと私の「痛み」から考察していきたい。

〔Sさんの場合〕
 Sさんは「先生、足が痛いです」とスタッフを呼ぶ。そして一旦対応がはじまると長時間ジャックされることになる。既往歴には老人性関節症や骨の変形症があり、痛み止めとしてブロック注射や座薬を処方されていた時期もあったようだ。その他尿路結石や胆石、胃潰瘍があり、それぞれ今では完治はしているものの、痛みを伴う病歴がある。激痛を伴ったであろうかつての「身体的痛み」は、入居当初のSさんが「一人で生きていきます!」という「意志」を踏みにじられたことへの怒りや混乱として、つまり「心理的激痛」となって復活してきたのではないかと想像する。
 グループホームで「先生」と呼ばれてもドクターはいない。Sさんのふくらはぎをさすりながら、「ここですか?どんな痛みですか?」と問いかけながら、様子を伺うしかない。そのとき「違います。違います。痛いです。」を連呼し、キョロキョロと他の誰かを目で追うときは「こりゃ、私ではだめかも」と、他のスタッフとチェンジしなければならない場合もある。1時間以上さすっていても「まだ、痛いです。」と許してはくれない。特にも、こちらが忙しいときなどは、見透かすかのように、掴んだ手に力が込められる。
 「良くなりました」という言葉はこの3年間一度も聞いたことがない。良くなればなにもかも終わってしまうのかもしれない。(痛みの終焉は生の終焉か?)眠りに就いたり、気持ちが穏やかになり、しがみついていた手の力がゆるむのを感じとって、スタッフはやっとその場を離れることができた。
 3年の間にSさんの「痛い」の様相は大きく変化した。当初は脅迫的で縋りつくような「痛み」の訴えで、スタッフも翻弄され、慌てて通院もしたのだが、やがて「痛い」という言葉で「私のところに来て下さい。」という呼びかけや、様々な日常の要求にその言葉が使われていることが解ってきた。それは「ここに居たい」「あなたに会いたい」という肯定的な「いたい」として語られるようになっていった。具体的に痛みの部位があり、その痛みが説明されると、聴く側はその訴えられた症状の対処を考えてしまい、Sさんの真意を推し量るイメージは、極端に不活性化させられたであろう。今も「痛いです」と語るSさんだが、下剤以外の薬は処方されていない。Sさんの「痛い」は、他者とのつながりを切らないための訴えだと思えてならない。事例のタイトル「異 化の春」のとおり、自己を外界の状況に適合するように変化させる過程(ユング)を超えて迎えた春へのプロセスは、生命の神秘や躍動を感じさせる。

〔私の場合〕
*身体的な痛みには、とても敏感。
  私は痛みに敏感で、予防注射でもアルコール綿で拭かれただけで「痛い」と声を上げ、「まだ刺していませんよ」と笑われるのが常だ。歯医者では、機械音を聞いただけで脂汗が滲み、「痛いときは手を挙げて教えて下さい」の言葉に、全神経を集中させて手を挙げようと備える。12年前に心臓のカテーテル手術をした時、麻酔が効きにくい体質であることがわかった。手術中の「麻酔薬追加!」との声にホッとした。歯の治療も、心臓の手術も「麻酔をします」と言われると安心する。「無痛化の処置をする麻酔」は痛みに極端に弱い私には救いである。もし治療に「痛み」が伴うと解れば、先延ばしして手遅れになり「生命」を失ってしまうタイプだ。幸い手術は成功し、心臓はさらに強化されたようで、その後、銀河の里の立ち上げに奮闘することができた。

*精神的な痛みには、鈍感かも?
 私は9人兄妹の真ん中、どうやっても「繊細」になりようがない。親は家業の魚屋でなんとか生計を立て、子ども達を食べさせるのに精一杯。兄妹達はそれぞれ勝手に逞しく生きていくしかなかった。だから少々のことではへこたれないし、転んでも何かを握って起き上がり、マイナス要因があればあるほど、絶好のチャンスと逆にバネにしてのし上がっていく。そんな私だが、30代半ばに人生の節目となる大きな選択をした。その選択は、大切な人の人生を狂わせてしまうが、私は自らの「意志」を貫いた。もちろん「後悔」はない。しかし持ち前の精神のタフさは、他人が受ける「痛み」に対して鈍感であった。「意志」を貫いた直後から、髪の毛が周期的あるいは突発的に抜け落ちるようになった。洗髪の度に抜ける大量の頭髪に恐怖を感じた。皮膚科の医師に「無意識に溜まったストレスが身体に出たのでしょう。焦らないでじっくり待ちましょう」といわれ、「案外、デリケートなのかも?」と‘普通の人間’を認定されたような気がした。
 それから20数年を経た今はこう考えている。あの脱毛は、相手が受けた‘抜け落ちるような欠落感’や‘はぎ取られるような痛み’そして不安や恨みさえも混ざった恐怖とシンクロしていたのではないかと・・・。自分が引きおこしたことで、自分がその傷を負うことは当然覚悟していたが、相手の痛みを、自分の身に帯びるという感覚はその時は持ち合わせていなかった。時を経て、相手の心の傷が癒えるにしたがって、私の髪も再生したのかもしれない。

 人は、痛みが何の疾患から来るものかを検査してもらい、診断を受け、治療方法を問う。因果関係がわかると、ずいぶん楽になる。しかしその痛みが「なぜやってきたのか?」病厄の意味を受け止めるには、また別の次元での理解や受容が必要になる。
 事例の「痛み」に触発され、2003年に発行された森岡正博著『無痛文明論』を再度読み直した。現代社会は、今、無痛文明という病理に飲み込まれようとしている という衝撃的な書き出し。人間の「欲望」について掘り下げて考えなければ、快適で長い人生を手に入れることと引き替えに、人生から「生命のよろこび」が奪われ、死にながら生きる化石のような人生に陥ると警告する。
 氏によると、現代社会は快楽と快適さと刺激でみたされ、人生がコントロールできるようにシステム化され、人間は自己家畜化文明からさらにその先の無痛文明の道を歩んでいるという。人間は人工環境や食料の自動供給、自然の驚異から遠ざかるなどの要因で次第に自己家畜化してしまった、その結果、苦痛が少なく快の多い状態を得て、予想した通りに進む安定した人生を手に入れ、多くのしたいことをし、したくない事をしなくてすむ人生を 得た。しかしそれは安楽な世界であると同時に、何か恐るべき圧迫感に迫られ「濃い砂糖水の中で溺れ死ぬような漠然とした不安を感じる世界」だという。さらにその先の無痛文明は、快適、楽、安定のために人生を犠牲にし、自分を変える喜びを失い、直視すべきことを目隠し、苦しみ、痛みを予防的に消してしまう。そこでは無痛化と安定を引き替えに生命の喜びは消え、死んだまま嘘の人生を生きるしかない。一気に見通し、安定と確実を得てしまうと生命のエロスは死んでしまうと指摘し、その克服のために「生命を自分自身に問いただす事だ」として生命学を提唱する。自分を絶えず崩しながら変容させ、生きる意味を追い求め、新たな自己を発見し続けることだと訴える。
 現代は「自分とは何か」との問いかけを迫られる時代だが、人はその問いから逃れるために自閉する傾向があるという。自閉すると、外の声、他者の声が聞こえなくなり、完結した自分だけの世界になり、甘美で心地よい世界に浸れる。この世界は他者と交流できず、その世界を守るために、自分だけの救いや癒しを求めて、他を傷つけ殺してしまうようになる。氏は結論として、今はコミュニケートという闘いが必要で、救いや癒しはむしろいらないと言い切る。
 無痛化の渦を作り、生命の歓喜を奪うのは何か。制度やシステムか、科学や教育、はたまた現代という時代なのか。しかし外に敵はなく、本体は人間の内に棲む「身体的欲望」であるなら、どうそれと闘うのか。はたして身体的欲望は悪なのか?それとの闘いに勝利した「生命のよろこび」とはいかなるものか・・・次々と疑問が沸いてきてグルグルしてくる。(この著書に対して、批判の論文がいくつも出るなど、反響も大きく、注目された。それらの批判に対して、森岡氏は「大いに議論して欲しい」と丁寧なコメントを書く。自分自身をさらけ出し、自分を通してものを考え語ろうとする氏の姿勢には、まさに自ら苦しみを引き受ける誠実さと真摯な姿勢を感じる)

〔私の違和感・・・さらなる追求へ〕
 昨年亡くなられた梅棹忠夫氏が昭和40年代に今西錦司らとともに書こうとしていた幻の著作があったという。それは全27巻に及ぶ世界の歴史シリーズの最終巻『人類の未来』だ。梅棹は人類の未来に対し、どう思索を巡らしても、暗澹たる壁につきあたる。その要因は科学で、科学は人間の「業」であり、欲望と知能が結びくと果てしなく発展しつづけ、それを止める術はなく、ついに環境破壊や、資源の枯渇に至り、人類は滅びる運命に晒(さら)され、未来は極めて悲観的だという。その問題が打開できなかったからか、その他の理由なのか『人類の未来』は完成しなかった。ところが死後、草稿が発見され、中身は詳しくは書かれていないが「光明について」という段落があった。生前の梅棹の講演や著作からその光明の内容を類推する番組や著作が企画されたりした。
 梅棹氏の「暗澹たる未来」と森岡氏の言う「無痛文明」はほとんど同じ視点で見た人類の姿だと思う。その要因を梅棹氏は「科学は人間の業」として捉え、同じ状況を森岡氏は「無痛化」として提示した。問題は、両者とも未来の光明をもたらす糸口を提示していない。確かに原発問題しかり、ばく進する人間の欲望をどう制御するのかは難しい問題だ。梅棹氏でさえその光明を探れず『人類の未来』は刊行されなかったのかもしれない。はたして光 明は本当に無くて人類は終わりなのだろうか。あのホーキング博士も講演で、宇宙の知的生物との遭遇を質問されたとき、「あり得ない」と言い切り、その理由を「知的生命は自らの文明で滅びるからだ」と当然のように語ったという。科学の知見では、人類は自ら滅びるしかないようだ。
  しかしここで、福祉の現場からそうした結論に「待った」と言いたい。人間は傷つく存在であり、釈尊も指摘したように四苦八苦が人生の諸相である。我々の現場には病や老いや障がいによって弱さを抱えた人たちが集まる。個々が運命として引き受けた、障がいや老いや病、さらに誰しも平等に確実に至る「死」という運命も含めて、無痛化に病んでいる人間や社会を転換する糸口が、それらの中にこそあるのではないか。そうなると道は意外と身近なところにあることになる。ただ因果論や心身二元論の「科学の思考」で、科学の克服を考えてはダメで、重要なのは傷や痛みを対象化してはならないと言うことだ。従来の科学の論理でそれらを取り除こうと、対象化し操作的に扱おうとしたとたんに、再び無痛化の永遠のループに呑み込まれてしまう。たとえ薬や手術によって身体的に無痛化しても、心の痛みはそうは行かない。さらに痛みには、身体的・心理的だけでなく社会的・霊的(魂)な痛みがあり、それらは重層的に関連して感受されるものだと思う。「痛み」の「治癒」は本質的には他者との繋がりを必要とする。そこには欲望の肥大とは逆の力動が生じる。これこそ光明を開く可能性そのものではないか。
  今回の事例検討でも明らかなように、「痛み」や「傷」は人と人の出会いを通じて、その両者の言わば「間」、あるいは両者が存在する「場」で生きられる可能性がある。「傷」や「痛み」はそれを背負った当人の中にだけにあるという一元的な前提から解放されると、人は他者の「痛み」を自分のものとして受けることができるし、「間(あいだ)」や「場」を通じて「あなたと私」の両者で生きることができる。人間には想像力と、なにかと繋がる能力がある。そうした能力を発動させて、男性原理の一元的なものの見方ではなく、女性原理的な、両者の間(あいだ)を生きるありようが創造され、そこに未来の光明が現れるものと信じたい。福祉現場にこそ無痛文明打開の糸口があるにも関わらず、そうした認識がされず、貴重な窓口がことごとく抹殺され見捨てられているのは極めて残念なことだ。
 これからは「身体」を「精神」との対立概念で捉えるより、市川浩が『身の構造』で言うように、身体を超えた錯綜体としての「身」を想定することは重要な視点であり、それを日本人は理解できる感覚を持っていると思う。また、西村ユミ氏は、『語りかける身体』や『交流する身体』などの著作で、臨床現場の経験と現象学の知を基盤に、看護者と患者である前に「身体的な存在を持つもの同士」が、触れ合う行為によって、ひとつの「病」を生きる経験ができると述べている。これらはまさに「銀河の里」の実践と重なっていて興味深い。今回の事例も、介護する側とされる側を越えた関係性において、その両者の「痛み」がシンクロし、それぞれが変容していくプロセスの物語が生まれてきた。今後も「銀河の里」では、人類の未来を開く光明としての「痛み」と向き合い、現場からケアを捉えなおす挑戦を続けていきたいと思う。
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神戸研修 ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2012年4月号】

 3月10日に神戸で開催された≪第11回気づきを築くユニットケア全国実施者セミナー≫に参加し、その中のターミナルケアの部門で発表をした。
 現場経験2年の若輩の私が、全国の場で発表するのは怖かったが、里のみんなに支えられ頑張ることに決めた。
新人の私を鍛えて育ててくれた、入居者Tさんとの10ヶ月間のかけがえのない出会いと別れを考えて、できる限りそれを伝えてみたいと思った。20分の制限時間があり、原稿にまとめるのがまず一苦労だった。10ヶ月の出来事を日誌から拾うだけでも膨大な量になり、とても20分にまとめられそうではなかった。理事長や施設長に何度も何度も直してもらってやっと原稿が整った。
 発表の2ヶ月前がTさんの一周忌だった。生前一緒に行ったことのある、今はTさんが眠っているお墓や、自宅の仏壇を拝ませてもらって、Tさんに力をもらった。家族さんにも発表のことを話し、応援してもらって「やってやるぞ!」と腹が決まり意気込みが盛り上がってきた。 それでも、神戸に向かう数日前にはプレッシャーで眠れなくなった。「発表することによってTさんが傷つくのでは…。銀河の里では、普段からケース会議や事例検討会をしてて一緒に悩んだり傷ついたりしてくれるスタッフがたくさんいるから守られているけど、全国の会合で同じ思いで聴いてくれる人間がいるんだろうか…。ただのドキュメンタリーと思われてしまったら私自身も傷つくかもしれない…。良い話だったねと言われて終わったらどーしようか…。だったら発表しないほうがいいかも…。」などと不安がよぎった。前日も、一睡も出来ずに発表当日の朝を迎えた。
 会場の神戸学院大学・有瀬キャンパスはとても広く校舎もきれいだった。こんな会場や大会で発表なんてした事のない自分は、会場に着いたとたん体が震えてきて、緊張はピークに達した。同行していた戸來さんが気遣って緊張をほぐそうとしてくれるが、引きつった苦笑いしかできなかった。
12時から大会がはじまった。私の発表は14時20分からだったので、それまで他の発表を聴いて回った。緊張しながらも「他の施設の発表はどんなんだろう。どんな物語が聴けるのだろうか。」と楽しみでわくわくしていた。ところが、その発表を聴いて唖然とした。全く内容がない。はっきり言って、もの足りなくてくだらない感じなのだ。「え?何の話?は???」と頭の中が混乱した。これ全国レベルの発表でしょ?しかもターミナルという人間の死に関する重要なテーマじゃないか。ついに腹が立ってきた。

■「Drが施設にいるから、いつでも万全の形で送り出せるんです。」
■「お尻の傷は綺麗に治して送り出す。これが出来たから悔いはない。」
■「亡くなったら、利用者やスタッフ一同で玄関から送り出す。そしてみんなで手を合わせましょう。これをやれば、家族さんも泣いて感謝してくれて、今は東京で講演会もしています。」
■「新人研修で数日かけて医療行為について指導しているんです。そこから死についても学べます。」
■「全利用者に、月1回の外出のケアプランを作成しております。その人のQOLの上昇にも繋がりますし、利用者さんの要望を叶えたくて。これが、その時の写真です。良い笑顔でしょ。」
■「介護拒否でこの方に私は苦労しましたが、先輩の指導通りやったらば拒否せず受け入れてくれたんです。」
■「その方への思いやりの一言が大切です。痛くてもがんばっている方にガンバレでなく、痛いですよね。よーく分かります。と、声を掛けることが重要です。」

 「ふざけるなよ!!全国大会での発表内容がこれかい!施設の体制とか医療のこと?人が亡くなるってそんな簡単なことなのか?!バカにしている!!」と暴力さえ感じて、悲しくなるやら、腹が立つやらでたまらなくなった。
 怒りの中で、いつのまにか緊張や不安はすっ飛んでいた。もう1度自分の原稿を読み返すと、「今から俺はまったく違うジャンルの発表をするんだ。できたら今日ここにいる人たちみんなに聴いてもらいたいな…」と感じはじめていた。理事長が「全国で食らわしてこい、度肝を抜いてやれ」と言っていたのが解るような気がした。
 いよいよ私の発表の時間がきた。戸來さんがパソコン担当で横にいてくれて心強かった。声は少し震えたが、聞いてくれているみんなの心に伝わって欲しいと祈るようだった。発表中…会場はやけに静まりかえり、妙に怖かった。制限時間20分を少しオーバーした。司会の人が20分経過のベルが鳴らすことになっているのだが、そのベルはならなかった。私の発表が終わって、考察として戸來さんが会場に言葉を投げかけてくれた。しかし、そのあともまだ 会場は静まりかえっていた…。なんだ。この静けさはと気になった。どう伝わったのだろう。質疑応答の時間がないから会場の反応がわからないまま、発表は終わった。発表の後、何人かの方が私に声を掛けてくれた。聴いてくれた人もいたんだなと、少しほっとした。
 Tさんは私にとってかけがえのない人になった。新人の私に厳しくも深い関心を示してくれた。亡くなる4日前に病院から帰ってきてくれたのは、私やみんなにお別れの儀式をするためだったとしか思えない。私を育てることがTさんがあの世に逝くために必要だったのではないかと理事長は言う。Tさんに請われてお墓参りに行ったことを一昨年の10月号のこの通信に書いた。嵐の中のお墓参りは、私にとって忘れられない大切な思い出だ。亡くなる前日、もうなにも食べられなくなっていたTさんに、なにか食べて欲しいとTさんがいつも言っていた市内で有名なラーメンを店主に頼んで作ってもらった。それをTさんは数口だったが自分で食べてくれた。それはこの世でTさんが自分で食べた最後の食事になった。Tさんがそうして私に示してくれたことはなんだったか。深すぎて今の私にはほとんど理解できてはいないのだが、感じることはできる。その 思いは生涯にわたって私を支え続ける何かがあると里のみんなも言うし私もそう感じる。Tさんとのことだけでも死が終わりではないと確信できる。死者との絆があることも実感できる。それが私のターミナルを考える始まりになっている。神戸で伝えたかったことや、他の発表で聴きたかったことはそんな物語だったと思う。しかし、発表されていた内容は、ほとんどが制度や、体制や、マニュアルに過ぎず感動からはほど遠かった。たましいが震えたTさんとの出会いとお別れの体験とは全く異次元の話しばかりだった。「残念だが、日本の福祉の現状だ。医療の下請けだからね」と帰ってきて憤る私に理事長は言った。「医学にとって死は終わりかも知れないけど、人間にとって死が終わりであったことは歴史上ほとんどない」とも言う。「医療の発展で、近代になって人の死が終わりになってしまった。福祉は人間の死を取り戻す使命を持っているんじゃないか。それをやるのが我々の究極の仕事だろう。Tさんはそれを教えてくれているじゃないか」
  確かにそうかもしれない。はじめて参加した全国大会の発表を通して、あらためてまた考えさせられた。いったい何がターミナルケアなのか自分でも深めて行きたい。
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第11回気づきを築くユニットケア全国実践者セミナーに参加して 〜久しぶりの里からの発信〜 ★副施設長 戸來淳博【2012年4月号】

【経緯】
 先月3月9日〜12日の4日間、特養のスタッフ3名と共に大阪・神戸に研修に出かけた。今回は『第11回気づきを築くユニットケア全国実践者セミナー(以下、実践者セミナー)』に里の特養から2事例を持って参加した。開設当初はグループホームやデイサービスの発表をしていたがここ6,7年はなく、里として全国の場での発表は久しぶりだった。
 去年の9月、施設長から薦められ、名古屋で行われた『第13回ユニットケア全国セミナー』に参加した。里の特養開設以来、全国的に始まったばかりのユニットケアの状況が気になりつつも、これまで介護現場の発表を聴く度に落胆させられて来たのであまり期待はしていなかった。
 ところが大阪の社会福祉法人博愛社の発表は面白かった。「施設の朝食をぶち壊す朝ご飯」とのテーマで旧体制の常識から脱却し、利用者主体の暮らしを取りもどすという取り組みの紹介であった。それは特養開設以来、奮闘してきた私の思いと重なるところを感じ、会場で博愛社の方と名刺交換をした。始まったばかりのユニットケアは手探りの状況で、3年目ながらその里の取り組みは、全国的にも先駆的な取り組みと直感し、こうした場で発表して今後のユニットケアの流れに布石を打ちたいという思いに駆られた。
 名刺交換をした博愛社の喜多さんには、里に戻ってから「あまのがわ通信」を送ったがその感想は帰ってこないままだった。ダメだったかな・・・そんな思いで過ごしていた。ところその2ヶ月後、理事長と施設長で障がい者通所施設の見学と営業を兼ねて関西に出かけたとき神戸の園田苑の理事長が博愛社を紹介してくれた。そういう経緯で訪ねた博愛社であまのがわ通信を抱えた職員が銀河の里知っていますというので驚かされたのだった。そんな妙な縁もあって、今回の神戸での実践者セミナーでは、博愛社での恒例の前夜祭にも参加させてもらった。
 里の視点は、利用者を対象化して問題点を掲げそれを操作的に扱って、結果どうなったかという因果論にとらわれるのではなく、スタッフと利用者が里という場で出会って、どういうことが起こったのかという人生のプロセスを見ていこうとしている。介護が行われる場ではなく、人と人が出会い生きる場でありたい。あくまで人生を豊かに生きることを目指そうとしてきた。それが里流のノーマライゼーションの理解であり実践だとの想いで取り組んできた。グループホームやデイサービスで培ってきたこの方向性は、一般的な福祉施設の考えや視点とは別で、かなりの独自性を持っているようだ。それを特養でも実践したかったのだが、それができるだけの職員の育成に相当苦労したが、4年目を迎えたところで、里らしい取り組みもできてきており、特養から2事例を発表してみたいと思った。

【準備】
 発表事例の一つは、ターミナルケアがテーマで「かけがえのない出会いと別れ」と題し、新人介護スタッフの三浦君のイニシャルケースであったTさんとの出会いから別れまでの10ヶ月を、二人の関係を軸としてプロセスを追った。もう一事例は、食と暮らしをテーマにした部門で、特養栄養士の小野寺さんが、田んぼや畑を耕す所から関 わり、利用者ひとりひとりの個別の食事作りを心がける日々を「脱・給食〜食事を通じてあなたと生きる」と題してまとめた。
 社会人1年生の三浦君は特養でTさんと出会う。初めTさんは若く経験のない三浦君の介護を拒んだ。それでも三浦君は果敢に挑み、Tさんから「おまえを育ててやる」と言われる。Tさんは会社の役員で新人教育を担当していた方だ。死を覚悟しながら、その恐れと闘うTさんは三浦君を育てることを通して死を受け入れていった。三浦君はTさんとの濃密な日々に介護職として人間として育ててもらうことで、生涯Tさんに支えられ続けるであろう関係を築く体験をした。問題をどう解決したかという医療モデルではなく、人と人が出会い生き死ぬその関係のプロセスを描く物語モデルは、全国の大会でも当然異質であることは分かっていたが、ケアの現場における人と人の出会いとその関係のプロセスを追い、その意味を紐解いていくことこそ、暮らしの場である介護の重要な点だということを三浦君とTさんの事例が物語ってくれるとの確信から、思い切って提案のつもりで発表させてもらった。神戸出発前、三浦君は発表の報告も兼ね、Tさんの自宅で一周忌のお線香を上げてきた。発表前、Tさんがしっかりやれとにらんでいると三浦君は話していた。
 小野寺さんは、法人の障害者事業と連携し、農業を基盤に取り組んでいることや、障害者事業で厨房の委託を受けるなど、縦割り福祉に風穴を開ける先進的で、銀河の里方式ともいえる取り組みを紹介した。また、一人一人に合わせた食器選びや献立作成はユニットケアの本来の理想そのものであろうし、斬新なソフト食、厨房のハウスでのトマト作りなど、挑戦する栄養士の3年間の取り組みを発表した。

【前夜祭】
 1日目、花巻を朝6時に出発し、11時間かけて大阪入りし、博愛社の前夜祭に参加した。会場では、震災の支援活動等を機に繋がったネットワークで、大阪周辺の施設関係者と岩手、北海道の施設関係者が参加されていた。懇親会では関西のオープンな人柄と勢いにすっかり圧倒され、自分自身が根っからの東北人であることを改めて自覚させられた。同時に関東にはない気さくさと物事に柔軟で、何かを変えようという情熱も感じた。

【発表】
 研修2日目、神戸学院大学を会場にセミナーは開催され、参加者は約800名。発表事例は134事例で、12会場に分かれ、タイムスケジュールに沿って次々と実践報告の発表がなされていった。当初、大学の教授などがコーディネーターとして参加するのではと期待したが、残念ながら施設関係者のボランティアだった。質疑応答の時間は少なく、事例を深めていくという考えはないようで、守りも薄いと感じた。これでは表面を追うだけで、深い問題には触れられないし、迂闊に発表するとケースや発表者を傷つけてしまう危険もあるだろうと感じた。
 私は三浦君の発表で、考察を話す事になっていたが、里の内部とは訳が違って、理事長施設長の助けもないアウェイの会場で非常に緊張した。里の人の声が聴きたくなり何人かに電話した。発表会場は、30人程度の少なめの聴講者だったが、前夜祭で会った博愛社のスタッフも参加してくれていた。三浦君の発表が始まると会場はす っかり里の雰囲気に変わったようで、聴講者は飲まれるように静かに聞き入っていた。何かは伝わっている感じがしてホッとした。終わると静かに拍手が起こった。時間オーバーの鈴もならず、すっかり聞き入って鳴らし忘れたと言うことだった。会場からの質疑がひとつもなかったのは残念だったが、発表後、数名の方に「(上手く言葉が纏まらないけど)感動しました。」と声をかけて頂いた。異質過ぎて戸惑いはありながらも、心には響いた様子だった。
 その直後、別会場で小野寺さんの発表が始まった。三浦君の発表を聴いて、同じ法人の発表とあって会場を移動してくれた方もあった。発表が始まると、里の全景や農作業の風景のスライド一枚一枚にざわめきが起こった。銀河の里方式ともいえる有機的な組織のあり方や栄養士の戦う想いが会場に伝わったようだった。発表後、大きな拍手をもらい、会場の外で「(組織や姿勢に)すごいですね!」と言葉をかけられ名刺交換を求められた。

【神戸の町】
 3日目、講演で『実践者セミナー』を終えた。その日は、震災1年目の日で、参加者からねぎらいの言葉を頂き、「何かしたいが何をしていいのか分からない」との想いも伝えられた。前夜祭とセミナーでも、震災をテーマにした講演がプログラムされていたし、神戸の町中でも震災の追悼イ ベントが開催されていた。遠く離れた地で多くの方が東北に想いをはせてくれていた。3.11の震災という大きな傷が、社会で希薄化した繋がりや関係性をもう一度見つめ直す機会を与えてくれている。震災から17年を迎えた神戸の町並みにも様々な思いがわいた。

【戻ってきて】
 4日目、帰路につくが、途中北陸で大雪にあい12時間かかって帰ってきた。戻ってきてから様々な思いが沸いてくる。伝えたい、繋がりたいと想いながらの4日間だったが、簡単にはいかないなぁ・・・と思う。全国にある介護現場で介護者は作業をしているだけのはずはない。そこでは日々、出会いもあり、人生の何事かが生まれているにちがいない。その感動や戸惑いを人間として共有することは大事なことだと思うし、福祉現場はそこをやる必要があると思う。介護現場は作業や管理に終始する所であってはならない。そこは暮らしの場であり、人生がある。社会や人間や人生にとって、とても大切なことがあり、大事な事が起こりうる場なのだとの認識を深めたい。
 草創期の10年を駆け抜け、新たな10年に突入している銀河の里、特養もいよいよ4年目を迎え、里らしい取り組みが本格的に始まると思う。新人を含め、若いスタッフに期待したい。
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白寿の祝宴 ★グループホーム第2 鈴木美貴子【2012年4月号】

 ・幾とせの 年月を共に 今日の日は 白寿を迎え バンド奏でる
 ・あなたとは うなずくだけで 繋がれる 誕生日も 普通の日も
 ・いつの間に 踊る宴に みなジャンプ 明日への夢が また開かれて


 グループホーム最長老の豊さん(仮名)の99歳の誕生会が、3月26日の夕方、盛大に催された。これが普通の誕 生会とは相当に次元の違う不思議な宴(うたげ)となった。
 結成したばかりの銀河バンドが初の演奏を披露するところから始まる。「オレは、これ(ギター)で介護やっています。」と、張り切るバンドリーダーの酒井さん。ベースは細身の寛恵さん、ステージで緊張気味だがベースを抱えた姿はさまになっていた。ボーカル担当の二唐さんは、Jポップ風のコスチュームで場を盛り上げた。主役の豊さんは、いつもの定位置でみんなを地平からだけでなく上空からも見守っている。私はその隣に座る。「今日、豊さんの誕生日だよ。 おめでとう。」と言うと、表情は変えず、遠くを睨(にら)みながら 呻(うめ)くように頷く。
 演奏が始まるがなかなか思うように声が出ない二唐さん。時々、声を裏返しながらも、激しく飛び跳ね「東京ブギ」や「ハワイ航路」、「上を向いて歩こう」など懐メロを歌う。音楽が流れる中、豊さんは時々思い出したように手をたたき、「ふぁー」と大きく息を吐く。1部の演奏が終わ るころ、ソファに座って聞いていたメイ子さん(仮名)が突然ステージへ上がった。「えっ!」とスタッフもどよめく。バンドと一緒に足でリズムをとりはじめる。思わず私もステージに上がりメイ子さんの手をとって一緒に踊る。そこに当然のように、歩さん(仮名)やクミさん(仮名)も加わって、みんなで踊るステージになった。銀河バンドのデビュー演奏は会場の老若男女を一体の渦に巻き込み、いつもは「暗い」と不評のリビングのオレンジの灯りのなかでレトロな怪しい雰囲気を醸しだし、昭和初期にタイムスリップさせた。なんてったって、曲の最後は、みんなでジャンプだぜ!
 豊さんは入居以来この8年目で初めて体調を崩し2月に初入院して帰って来たばかりだ。家族さんはグループホームに戻って来られるか心配していたが、私は「豊さんなら大丈夫」と確信していた。退院時病院からの申し送りに3時間ごとの体位交換、エアマット使用とあったので、これからは寝たきりの生活かと覚悟した。しかし今は不安定ながらも歩いているし、着替えや入浴の時には、たんぱ(唾)やパンチが飛んできて、入院前以上に調子がいい。機嫌のいいときは、リビングのテーブルをトントンとリズムよくたたく。ケンカで険悪な雰囲気の時は、仲裁に入ってくれるかのように、バンと大きく1回叩き「終わり」を宣言してくれたりもする。GH2の守り神的存在だ!
 酒井さんとおソロの赤いタオルをプレゼントされると大きな拍手が起こり、頭に巻き付けると、「よっ、親方」と呼ばれた。まんざらでもない表情。まだまだGH2の親方は健在だ。
 暖かいものがジーンと胸にこみ上げてきて、しみじみと感動できた誕生会だった。来年は100歳、さらに盛大な宴にして一緒に迎えたい。
 宴の終了は、また新たな「希望」への一歩だ。


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