2012年03月15日
2012 新年会 in 志戸平 ★ワークステージ 村上幸太郎【2012年3月号】
★2月10日に開催されました、ワークステージの新年会の様子を表現しました。カラオケで熱唱する仲良しの2人や、温泉でゆったりつかる惣菜班、部屋で携帯ゲームを楽しむハウス班、夜遅くまでゲームコーナーで楽しむなど、それぞれの新年会の楽しみ方がありました。また来年も行きたいですね!
感覚を豊かに‐エロスの復権 ★理事長 宮澤健【2012年3月号】
常々、私が制度やシステムを批判的に語るのは、敵視しているわけではなく、それ一辺倒になってしまうとあまりに何事も概念化されて、つまらなくなるからだ。言葉も使いすぎると生命感を失う。それを「つるつるの言葉」と井上やすしは言ったそうだ。大江健三郎は「異化する」という作業を通じて、言葉に新たな生命感を取り戻すことを言っている。
作家にとっては特に、言葉が概念化し形骸化し、活き活きとした感覚を言葉がうしなうのは恐ろしいことだろう。現代は言葉だけでなく、生きることそのものがつるつるになり、夢や希望、ましてや個々の志などが持てない時代になった。国や社会の未来のためは、これは何とかしなくてはならないだろう。
震災1年を過ぎて、復興の遅れが取りざたされている。神戸の震災の経験ではあり得なかった高台移転など、街づくりの根幹から考えなければならないことがたくさんある。ところが新たな挑戦がなされようとする時に、実際の妨げになっているのは制度だ。迅速な対応がなされなければ、人々の生活や命が関わることだというのに、制度はお構いなしに計画の前に立ちはだかり、手続きや、書類の整備、許認可を巡って嫌がらせのように引き延ばす。人間の命や暮らし、街の存続などの生命線とは、制度は関係ないところにある。
概念化されると、物事を整理して理解しやすくはなるのだが、現実感は失われる。現代人が概念化の最先端で存在しているような所があり、あらかじめ正しい答えを持って行動するので、本来的な自由を生きられない状態になる。それは面白くないばかりか、生きていること自体がかなり辛いのではないだろうか。
我々の現場で問題になるのは、障がい者や高齢者に概念化された制度を押しつけてしまうことだ。つまり、管理に徹して、書類を積み上げて終わりという官僚的管理に終始して仕事をしていると思いこんでいる福祉施設が大半ではないか。そこでは個々の人生も、人間の存在も、命の輝きも苦悩にも光は当てられず、抹殺されてしまう。それが福祉の当然のありようだと居直っているベテランの福祉関係者があまりに多いのは地域の未来にとって不幸そのものだ。
そこで大事なのは、エロスの復権だと言ってきた。大胆過ぎて、理解されないのだが、結論からいえばそういうことだ。社会や世の中が固すぎてつまらなさすぎる。柔らかさも、暖かさもなくなって、どうしようもない。それが我々が夢見た未来だったろうか。本当に生きたかったのはこんな人生だったろうか。誰もがどこか違うと感じているだろうし、この先、未来を暗澹たるものとしてしかとらえれなくなっている。そこに必要なのはエロスだというわけだ。
若い県会議員に、これから地域作りにはエロスが必要だと投げかけた。彼は、かちかちの男性原理で頭がかたまったような男で、消防団を強くしようなどと意味不明の事を口走るやつだ。「消防団じゃねえよ、エロスだって言ってるだろ」といっても「エロスってなんだ」とポ カンとしていた。地域のリーダー達は旧態依然として、過去の遺物のような制度疲労も限界を超えたなかで生きている風景が見てとれる。これでは未来が描けない。余りに理解されないものだから、わかりやすく「キャバレーだよ」などと譬えるものだから、結局エロ親父だと思われて終わりだ。エロスのイメージはプラトン神話が掴みやすい。もともと男女は一体で余りに強大な力を持ったので神が怒って男女の体を分けた。だからお互いに引き合うという。この寓話で大事なのは、現在は人間が個として自己責任とか、自立とか余りに個人が強調され、個がそれ自体で自己完結した存在として考えすぎるということだ。ところがプラトン寓話では個は半分でしかないというところがいい。他者のみならず自然や大いなるものと解け合って自分は成り立つ存在だとするイメージは豊かではないか。切れてしまった繋がりを蘇らせるのがエロスだ。
エロスの基本は感じることだ。考えることではなく感じることが重要視される必要がある。だから里では、研修を、演劇鑑賞や、音楽、能、オペラ、絵画といった芸術鑑賞を多く取り入れてきた。個人レベルの生活感覚でも、感じないやつと生きていく気はしないだろう。今月号にも、ヒントがたくさんある。日向の奈良の「たんぽぽ」の研修では、アートを人間の根源的な表現として価値を持たせ、発信する取り組みで、スタッフの感覚とセンスが問われる。千枝は、研修で能を観ながら、意識と感覚の狭間で自分を失いがちな現代人の苦悩を自らのなかに発見している。及川の文はデイのお風呂で、ひとりの高齢の男性が抱えた性に関わる寂しさと苦悩を、貶めることなく丁寧にチームで受け止めている様子が描かれている。
エロスを生かすには知性とセンスと品位を持って苦闘する必要がある。先月号でとりあげた松井冬子だが、3月18日まで横浜美術館で作品展が行われており、3月に入って映像作品も公開されたらしい。それを見ることはできなかったが、数年前にNHKが制作した特集番組をDVDでみた。先月号で松井冬子の挑戦は、女性性の復権ではないかと書いたが、まさにこの番組で本人が女性には「そうだそうだ、よくやってくれたと理解の声があって嬉しい。」「男性には怖いとか痛いとか言われるので、それみたことか、してやった感じ」と語っているので、まさに私の読み通りだったと納得した。インタビューには、そうそうたるメンバーがあたるのだが、学者がほとんどで、頭と感性のすれ違いが露わになってしまって、痛々しい感じもした。NHKの特集番組でさえ、女性画家の感性を、概念化しようと企画してしまうのかと残念な感じもした。絵を描いているときどういうことを考えて(ねらって)いるのかと聞きたくはなるが、素人じゃあるまいしと思ってしまう。絵を描いている最中は、一本の線や、ひとつの色に集中していて、線のラインとか、発色や画材の載り具合に必死でなにも考えていないだろう。はたして画家は男性原理の意味で作品を「考える」だろうか。モチーフと対峙して「考えて」いるだろうか。画家松井冬子がモチーフを見つめる目は迫力があって呑み込まれるような深さが眼の向こう側にある。それは考えている目ではない。モチーフと自分の 存在が一体になり、そして再度突き放したところから作品は生まれてくるのだろう。男だったら格闘家になりたかったという松井だが、まさに格闘技だ。制作がうまくいかず、うずくまっている映像もあった。それも考えているとは思えない。苦しみもだえながら必要な何かを感じ取ろうとしていると言った方が近いような気がする。4人のインタビュアーのなかで、唯一女性の上野千鶴子は、おそらく社会学者として現代女性の傷を理解していて、松井の作品と活動に痛々しさを感じるのだろう。「幸せになったあなたの作品を見てみたい」と語る。松井はそうなればそれを受け止めると応えながら、幸せに対する希求はあまりないようだった。画家にとっては傷つきと苦悩から、作品を生み出すことが仕事であって、それで充分とも言えるだろう。現代女性の深い傷つきを理解している女性社会学者が、松井に女性としての幸せを望み、その上での作品を期待するのもわかるような気はした。
番組のなかで松井は解剖美術教室でラットの解剖をしている。グロテスクな内蔵を開きながら、命の美しさを語る。最近は医学部の協力で人体にもアプローチしているそうだが、松井の作品にはモチーフとして内蔵は欠かせない。「内蔵をドレスのようにまとって」との作品の解説がされるほどだ。なぜ解剖で、内蔵なのかと問いたくなるところだ。松井は女性の体感から描いていると言っている。男には女性の表面の肉体しか見えないけれども、女性は本来的には肉体内部を生きているのではないだろうか。私の経験だが、農業を開始するにあたりコンバインやトラクター、田植機など農耕機械を手に入れた。はじめて目にすると戸惑うような変な機械だ。それらとつきあいながら、農作業するうちになじんでは来るのだが、一番理解したと感じられるのは機械が故障して分解したときだ。仕組みや、仕掛けも含めて、ああそうだったのかと急に近しい感覚になる。農耕機械と比べるのは気が引けるが、女性は解剖してみなければ理解できないのではないか。深い傷や痛みを伴うことなので簡単には解剖させてもらえない。しかし男女の隔たりはそれをなくしては埋まりようがない。そこを松井冬子の作品はやってくれているのかもしれない。ただし、一見グロ テスクで病的に感じる内容だが、女性の身体感覚からすれば、自然で当たり前の感覚を描いているに過ぎないのだろう。16日に研修を予定しているタテタカコの音楽も過激なようだが、純粋な魂に映った女性性の表現だと思う。その奥にうごめく狂気に襲われそうになる現代の危機に瀕する人たちからみれば、まだまだ生やさしく、この程度は理解してくれよという初心者基礎編を見せてくれている程度のことかも知れない。
2008年にピナバウシュが来日し、上演した舞踏「フルムーン」を観た。彼女の作品は舞踏だが、松井に通じる何かを感じる。感じ、踊り、生きるという女性としてのメッセージが伝わってくる。能と同じように、あらすじではない。怒濤の感覚の中にたたき込まれる感じだ。入場券完売でキャンセル待ちで手に入れた一枚は最後列ながら、幸運にもピナバウシュ監督の付き人ひとりおいて横の席だった。ピナの真横で2時間の上演を並んでみた。今思えば舞台を見つめるピナバウシュの目は、絵を描いている松井の目と同じだ。上演が終わると同時に立ち上がり身を翻して会場を立ち去ったピナの姿はオーラに満ちて存在感があって美しかった。残念ながらピナはこのときすでにガンにかかっていて翌年逝去する。その翌年2010年、ピナ自身が日本での上演演目を決めたという、追悼講演「私と踊って」を里のスタッフで研修として見に行った。
ピナバウシュの舞踏も頭で理解する世界ではない、感覚で感じることが大切な何かがあることを伝えてくる。女性の観客は、上演の始まりから最後まで泣きっぱなしの人も多かった。全く何のことだかわからず最後まで首をかしげる男性も多いと思う。
まず感じよう、深く感じようそれが人間じゃないかということだが、感じた後は考えることが大事になってくる。考えることも人間の大事な要件だ。そしてまた感じ続けて行きたい。ピナバウシュは深い傷を癒す力も備えているように感じる。この春ピナバウシュの映画が2本上演されている。盛岡にもくるらしい。傷ついた現代の若者にダンスを通じて生きる現実感を伝えようとした企画で、タイトルも「生きる教室」となっている。是非見に行きたい。
作家にとっては特に、言葉が概念化し形骸化し、活き活きとした感覚を言葉がうしなうのは恐ろしいことだろう。現代は言葉だけでなく、生きることそのものがつるつるになり、夢や希望、ましてや個々の志などが持てない時代になった。国や社会の未来のためは、これは何とかしなくてはならないだろう。
震災1年を過ぎて、復興の遅れが取りざたされている。神戸の震災の経験ではあり得なかった高台移転など、街づくりの根幹から考えなければならないことがたくさんある。ところが新たな挑戦がなされようとする時に、実際の妨げになっているのは制度だ。迅速な対応がなされなければ、人々の生活や命が関わることだというのに、制度はお構いなしに計画の前に立ちはだかり、手続きや、書類の整備、許認可を巡って嫌がらせのように引き延ばす。人間の命や暮らし、街の存続などの生命線とは、制度は関係ないところにある。
概念化されると、物事を整理して理解しやすくはなるのだが、現実感は失われる。現代人が概念化の最先端で存在しているような所があり、あらかじめ正しい答えを持って行動するので、本来的な自由を生きられない状態になる。それは面白くないばかりか、生きていること自体がかなり辛いのではないだろうか。
我々の現場で問題になるのは、障がい者や高齢者に概念化された制度を押しつけてしまうことだ。つまり、管理に徹して、書類を積み上げて終わりという官僚的管理に終始して仕事をしていると思いこんでいる福祉施設が大半ではないか。そこでは個々の人生も、人間の存在も、命の輝きも苦悩にも光は当てられず、抹殺されてしまう。それが福祉の当然のありようだと居直っているベテランの福祉関係者があまりに多いのは地域の未来にとって不幸そのものだ。
そこで大事なのは、エロスの復権だと言ってきた。大胆過ぎて、理解されないのだが、結論からいえばそういうことだ。社会や世の中が固すぎてつまらなさすぎる。柔らかさも、暖かさもなくなって、どうしようもない。それが我々が夢見た未来だったろうか。本当に生きたかったのはこんな人生だったろうか。誰もがどこか違うと感じているだろうし、この先、未来を暗澹たるものとしてしかとらえれなくなっている。そこに必要なのはエロスだというわけだ。
若い県会議員に、これから地域作りにはエロスが必要だと投げかけた。彼は、かちかちの男性原理で頭がかたまったような男で、消防団を強くしようなどと意味不明の事を口走るやつだ。「消防団じゃねえよ、エロスだって言ってるだろ」といっても「エロスってなんだ」とポ カンとしていた。地域のリーダー達は旧態依然として、過去の遺物のような制度疲労も限界を超えたなかで生きている風景が見てとれる。これでは未来が描けない。余りに理解されないものだから、わかりやすく「キャバレーだよ」などと譬えるものだから、結局エロ親父だと思われて終わりだ。エロスのイメージはプラトン神話が掴みやすい。もともと男女は一体で余りに強大な力を持ったので神が怒って男女の体を分けた。だからお互いに引き合うという。この寓話で大事なのは、現在は人間が個として自己責任とか、自立とか余りに個人が強調され、個がそれ自体で自己完結した存在として考えすぎるということだ。ところがプラトン寓話では個は半分でしかないというところがいい。他者のみならず自然や大いなるものと解け合って自分は成り立つ存在だとするイメージは豊かではないか。切れてしまった繋がりを蘇らせるのがエロスだ。
エロスの基本は感じることだ。考えることではなく感じることが重要視される必要がある。だから里では、研修を、演劇鑑賞や、音楽、能、オペラ、絵画といった芸術鑑賞を多く取り入れてきた。個人レベルの生活感覚でも、感じないやつと生きていく気はしないだろう。今月号にも、ヒントがたくさんある。日向の奈良の「たんぽぽ」の研修では、アートを人間の根源的な表現として価値を持たせ、発信する取り組みで、スタッフの感覚とセンスが問われる。千枝は、研修で能を観ながら、意識と感覚の狭間で自分を失いがちな現代人の苦悩を自らのなかに発見している。及川の文はデイのお風呂で、ひとりの高齢の男性が抱えた性に関わる寂しさと苦悩を、貶めることなく丁寧にチームで受け止めている様子が描かれている。
エロスを生かすには知性とセンスと品位を持って苦闘する必要がある。先月号でとりあげた松井冬子だが、3月18日まで横浜美術館で作品展が行われており、3月に入って映像作品も公開されたらしい。それを見ることはできなかったが、数年前にNHKが制作した特集番組をDVDでみた。先月号で松井冬子の挑戦は、女性性の復権ではないかと書いたが、まさにこの番組で本人が女性には「そうだそうだ、よくやってくれたと理解の声があって嬉しい。」「男性には怖いとか痛いとか言われるので、それみたことか、してやった感じ」と語っているので、まさに私の読み通りだったと納得した。インタビューには、そうそうたるメンバーがあたるのだが、学者がほとんどで、頭と感性のすれ違いが露わになってしまって、痛々しい感じもした。NHKの特集番組でさえ、女性画家の感性を、概念化しようと企画してしまうのかと残念な感じもした。絵を描いているときどういうことを考えて(ねらって)いるのかと聞きたくはなるが、素人じゃあるまいしと思ってしまう。絵を描いている最中は、一本の線や、ひとつの色に集中していて、線のラインとか、発色や画材の載り具合に必死でなにも考えていないだろう。はたして画家は男性原理の意味で作品を「考える」だろうか。モチーフと対峙して「考えて」いるだろうか。画家松井冬子がモチーフを見つめる目は迫力があって呑み込まれるような深さが眼の向こう側にある。それは考えている目ではない。モチーフと自分の 存在が一体になり、そして再度突き放したところから作品は生まれてくるのだろう。男だったら格闘家になりたかったという松井だが、まさに格闘技だ。制作がうまくいかず、うずくまっている映像もあった。それも考えているとは思えない。苦しみもだえながら必要な何かを感じ取ろうとしていると言った方が近いような気がする。4人のインタビュアーのなかで、唯一女性の上野千鶴子は、おそらく社会学者として現代女性の傷を理解していて、松井の作品と活動に痛々しさを感じるのだろう。「幸せになったあなたの作品を見てみたい」と語る。松井はそうなればそれを受け止めると応えながら、幸せに対する希求はあまりないようだった。画家にとっては傷つきと苦悩から、作品を生み出すことが仕事であって、それで充分とも言えるだろう。現代女性の深い傷つきを理解している女性社会学者が、松井に女性としての幸せを望み、その上での作品を期待するのもわかるような気はした。
番組のなかで松井は解剖美術教室でラットの解剖をしている。グロテスクな内蔵を開きながら、命の美しさを語る。最近は医学部の協力で人体にもアプローチしているそうだが、松井の作品にはモチーフとして内蔵は欠かせない。「内蔵をドレスのようにまとって」との作品の解説がされるほどだ。なぜ解剖で、内蔵なのかと問いたくなるところだ。松井は女性の体感から描いていると言っている。男には女性の表面の肉体しか見えないけれども、女性は本来的には肉体内部を生きているのではないだろうか。私の経験だが、農業を開始するにあたりコンバインやトラクター、田植機など農耕機械を手に入れた。はじめて目にすると戸惑うような変な機械だ。それらとつきあいながら、農作業するうちになじんでは来るのだが、一番理解したと感じられるのは機械が故障して分解したときだ。仕組みや、仕掛けも含めて、ああそうだったのかと急に近しい感覚になる。農耕機械と比べるのは気が引けるが、女性は解剖してみなければ理解できないのではないか。深い傷や痛みを伴うことなので簡単には解剖させてもらえない。しかし男女の隔たりはそれをなくしては埋まりようがない。そこを松井冬子の作品はやってくれているのかもしれない。ただし、一見グロ テスクで病的に感じる内容だが、女性の身体感覚からすれば、自然で当たり前の感覚を描いているに過ぎないのだろう。16日に研修を予定しているタテタカコの音楽も過激なようだが、純粋な魂に映った女性性の表現だと思う。その奥にうごめく狂気に襲われそうになる現代の危機に瀕する人たちからみれば、まだまだ生やさしく、この程度は理解してくれよという初心者基礎編を見せてくれている程度のことかも知れない。
2008年にピナバウシュが来日し、上演した舞踏「フルムーン」を観た。彼女の作品は舞踏だが、松井に通じる何かを感じる。感じ、踊り、生きるという女性としてのメッセージが伝わってくる。能と同じように、あらすじではない。怒濤の感覚の中にたたき込まれる感じだ。入場券完売でキャンセル待ちで手に入れた一枚は最後列ながら、幸運にもピナバウシュ監督の付き人ひとりおいて横の席だった。ピナの真横で2時間の上演を並んでみた。今思えば舞台を見つめるピナバウシュの目は、絵を描いている松井の目と同じだ。上演が終わると同時に立ち上がり身を翻して会場を立ち去ったピナの姿はオーラに満ちて存在感があって美しかった。残念ながらピナはこのときすでにガンにかかっていて翌年逝去する。その翌年2010年、ピナ自身が日本での上演演目を決めたという、追悼講演「私と踊って」を里のスタッフで研修として見に行った。
ピナバウシュの舞踏も頭で理解する世界ではない、感覚で感じることが大切な何かがあることを伝えてくる。女性の観客は、上演の始まりから最後まで泣きっぱなしの人も多かった。全く何のことだかわからず最後まで首をかしげる男性も多いと思う。
まず感じよう、深く感じようそれが人間じゃないかということだが、感じた後は考えることが大事になってくる。考えることも人間の大事な要件だ。そしてまた感じ続けて行きたい。ピナバウシュは深い傷を癒す力も備えているように感じる。この春ピナバウシュの映画が2本上演されている。盛岡にもくるらしい。傷ついた現代の若者にダンスを通じて生きる現実感を伝えようとした企画で、タイトルも「生きる教室」となっている。是非見に行きたい。
奈良の「たんぽぽの家」で研修 ★ワークステージ 日向菜採【2012年3月号】
1月28日・29日、私は奈良にある「たんぽぽの家」という施設で開かれた「福祉をかえるアート化セミナー」に参加してきた。
たんぽぽの家は、障害とアートを軸に長年活動している団体で、就労継続支援B型や生活介護事業などの福祉サービスのほかに、アート作品を商品企画し製作・販売をするプロジェクトも行っている。
たんぽぽの家で昨年から、施設で生産した商品を集めてギフト販売を企画した。その企画の担当者と里の職員のつながりもあって、里の焼売と餃子のセットを販売してもらってきた。昨年、営業と見学を兼ねて理事長、施設長、米澤が訪問した。今回たんぽぽの家で主催するこのセミナーに、理事長などの強い勧めもあって私が参加することになった。
セミナーには、全国各地から福祉関係者以外の人たちも大勢が参加していた。私は「これからアート化に取り組む」人のプログラムに参加し、生活介護事業やB型の施設でのアート活動への取り組みを学んだ。福岡市にある社会福祉法人 葦の家という施設の女性スタッフの講演は、もともと芸術関係の大学を卒業した方だが、施設で創作活動に取り組もうとしたところ、最初は画用紙を買うことさえためらわれる状況だったという。理解されない環境ではあったようだが、職場内の女性スタッフを中心に内部販売でファンをつくり、製作に必要な物品の購入資金を集め、今では外部に販売し利益を上げる展開しているという。利用者さんの作品はもちろん個性があって面白いのだが、何よりスタッフのセンスの良さなのか、パンフレットや商品のデザインも洗練されており目をひいた。利用者の作品に、包装やレイアウトなどで少し手を加えて付加価値をつけ、さらに商品価値を高めている。20代30代の女性をターゲットとしており、思わず欲しくなるようなかわいいセンスを大事にしているようだ。
セミナーの開催に合わせ、たんぽぽの家のギャラリーには全国の障害者がつくったアート作品が販売されていた。私は雑貨が大好きなので、販売していた靴下や流行のスマートフォンカバー、アクセサリーなどたくさんかわいい商品があって幸せな気分だった。「かわいい!」と感じるとつい欲しくしなる気持ちは女性ならきっとわかると思うが、そのポイントをはずさない商品が多かった。ターゲットは「女性」だということがわかる。
商品をつくり販売していくとき、誰をターゲットにするかが重要になると感じた。葦の家のように「20代30代の女性」などとターゲットをしぼればしぼれるほど、客のニーズが見えやすくなり、それに答えられる商品がつくれる。そこまでの販売の戦略があることに圧倒されてしまった。
たんぽぽの家の理事長の播磨さんの講演で「福祉は内向きになりがち。社会の変化についていかないと」と話されていた。障害者の置かれた環境は、いまだに周囲や地域が、障害者を社会にだすことに消極的で、「世の中にでてはいけない」「自己主張してはならない」と無言の圧力を一方的にかけている実態がある。そういう障害者に対する意識的、無意識的な圧力は、商品の開発にまで影響を与えてしまっているのではないかと感じた。私は里に就職するまで、福祉施設の商品はどこかデザインもダサくて当たりさわりのないものしかないように感じていた。障害者に対する意識 のありようが、商品も施設も社会からかけはなれたものにしていると思う。今回のセミナーで出会った商品の数々は、それぞれ作者の感性がストレートに自由奔放に表現されていて、それをスタッフがコーディネイトして市場での流通に耐えうる商品として成り立たせていた。「障害者が精一杯頑張ってつくった」とか「障害を乗り越えて」などとよくありがちな、一見美しい言葉の裏で障害者を馬鹿にする姿勢はみじんもない。障害者がアーティストとして社会に出ていく勝負にかける姿に惹かれた。利用者のアートを、たましいや存在の自己表現として受け止め、その価値を社会に伝えていこうとする使命によって社会とつながっているのだと思った。
最終的な目標は、高い工賃をもらうことや個展をひらくことではなく、そこで出会った人たちとの人間関係の広がりそのものが、障がい者自身の人生そのものになるのだ。 セミナーを終わると、たんぽぽのスタッフが街に飲みに連れて行ってくれた。大きなイベントの運営をしながら、見知らぬ客人に過ぎない私を、暖かく歓迎して、気さくに話しかけてくれるスタッフのみなさんの懐の深さにも感動した。何より自分の仕事を熱く語るその熱意と考え方に刺激される。たんぽぽの家も銀河の里も私服での勤務という共通点に話しが及び、あるスタッフさんが「職場にスカーフをしていくと、利用者がそのスカーフを褒めてくれたので、そのスカーフの色は流行の色だということを教えてあげる。施設に入居している利用者さんは、テレビや奈良の街など情報を得る場が限られてしまうから、自分がおしゃれすることも仕事だと思うようになった」とのエピソードを聞かせてくれた。
おしゃれも仕事という意識にとても感動させられた。その方の「仕事」は福祉関係者が口にしがちな自立とか就労といったお仕着せなものではなく、利用者の生活感覚や暮らしに近いものだと思った。働けて自立したとしても、お金がたくさんあっても、イコール幸せとはならないのが人生だ。人間関係が広がったり、好きなものに夢中になれたりすることは心の豊かさにとって重要なことだ。その中に、当然「おしゃれ」もあり、それは本人がおしゃれをすることだけでなく、きれいな物を見たり触れたりすることでもあると思う。
銀河の里でも、利用者それぞれが出会いや経験を通して、心も生活も豊かになることを目指したい。自分たちが作った商品が外部で売れたことで自信につながったり、対人恐怖だった利用者が絵を描くことで関係を広げていったりと、それぞれ成長していく過程をいっしょに歩んできた。たんぽぽの家も銀河の里も、目指しているものや感覚が共通していると強く感じた。
今回の研修でたんぽぽの家や他の施設の方たちに出会えたことで、私自身とても安心させられた。銀河の里でやっていることがことさらおかしなことではないと自信を もってやっていける気がしてきた。花巻に戻って、この感覚をどう発信するか、私自身どう生かしていくか、たくさんの刺激を基に弾けてみたい。
たんぽぽの家は、障害とアートを軸に長年活動している団体で、就労継続支援B型や生活介護事業などの福祉サービスのほかに、アート作品を商品企画し製作・販売をするプロジェクトも行っている。
たんぽぽの家で昨年から、施設で生産した商品を集めてギフト販売を企画した。その企画の担当者と里の職員のつながりもあって、里の焼売と餃子のセットを販売してもらってきた。昨年、営業と見学を兼ねて理事長、施設長、米澤が訪問した。今回たんぽぽの家で主催するこのセミナーに、理事長などの強い勧めもあって私が参加することになった。
セミナーには、全国各地から福祉関係者以外の人たちも大勢が参加していた。私は「これからアート化に取り組む」人のプログラムに参加し、生活介護事業やB型の施設でのアート活動への取り組みを学んだ。福岡市にある社会福祉法人 葦の家という施設の女性スタッフの講演は、もともと芸術関係の大学を卒業した方だが、施設で創作活動に取り組もうとしたところ、最初は画用紙を買うことさえためらわれる状況だったという。理解されない環境ではあったようだが、職場内の女性スタッフを中心に内部販売でファンをつくり、製作に必要な物品の購入資金を集め、今では外部に販売し利益を上げる展開しているという。利用者さんの作品はもちろん個性があって面白いのだが、何よりスタッフのセンスの良さなのか、パンフレットや商品のデザインも洗練されており目をひいた。利用者の作品に、包装やレイアウトなどで少し手を加えて付加価値をつけ、さらに商品価値を高めている。20代30代の女性をターゲットとしており、思わず欲しくなるようなかわいいセンスを大事にしているようだ。
セミナーの開催に合わせ、たんぽぽの家のギャラリーには全国の障害者がつくったアート作品が販売されていた。私は雑貨が大好きなので、販売していた靴下や流行のスマートフォンカバー、アクセサリーなどたくさんかわいい商品があって幸せな気分だった。「かわいい!」と感じるとつい欲しくしなる気持ちは女性ならきっとわかると思うが、そのポイントをはずさない商品が多かった。ターゲットは「女性」だということがわかる。
商品をつくり販売していくとき、誰をターゲットにするかが重要になると感じた。葦の家のように「20代30代の女性」などとターゲットをしぼればしぼれるほど、客のニーズが見えやすくなり、それに答えられる商品がつくれる。そこまでの販売の戦略があることに圧倒されてしまった。
たんぽぽの家の理事長の播磨さんの講演で「福祉は内向きになりがち。社会の変化についていかないと」と話されていた。障害者の置かれた環境は、いまだに周囲や地域が、障害者を社会にだすことに消極的で、「世の中にでてはいけない」「自己主張してはならない」と無言の圧力を一方的にかけている実態がある。そういう障害者に対する意識的、無意識的な圧力は、商品の開発にまで影響を与えてしまっているのではないかと感じた。私は里に就職するまで、福祉施設の商品はどこかデザインもダサくて当たりさわりのないものしかないように感じていた。障害者に対する意識 のありようが、商品も施設も社会からかけはなれたものにしていると思う。今回のセミナーで出会った商品の数々は、それぞれ作者の感性がストレートに自由奔放に表現されていて、それをスタッフがコーディネイトして市場での流通に耐えうる商品として成り立たせていた。「障害者が精一杯頑張ってつくった」とか「障害を乗り越えて」などとよくありがちな、一見美しい言葉の裏で障害者を馬鹿にする姿勢はみじんもない。障害者がアーティストとして社会に出ていく勝負にかける姿に惹かれた。利用者のアートを、たましいや存在の自己表現として受け止め、その価値を社会に伝えていこうとする使命によって社会とつながっているのだと思った。
最終的な目標は、高い工賃をもらうことや個展をひらくことではなく、そこで出会った人たちとの人間関係の広がりそのものが、障がい者自身の人生そのものになるのだ。 セミナーを終わると、たんぽぽのスタッフが街に飲みに連れて行ってくれた。大きなイベントの運営をしながら、見知らぬ客人に過ぎない私を、暖かく歓迎して、気さくに話しかけてくれるスタッフのみなさんの懐の深さにも感動した。何より自分の仕事を熱く語るその熱意と考え方に刺激される。たんぽぽの家も銀河の里も私服での勤務という共通点に話しが及び、あるスタッフさんが「職場にスカーフをしていくと、利用者がそのスカーフを褒めてくれたので、そのスカーフの色は流行の色だということを教えてあげる。施設に入居している利用者さんは、テレビや奈良の街など情報を得る場が限られてしまうから、自分がおしゃれすることも仕事だと思うようになった」とのエピソードを聞かせてくれた。
おしゃれも仕事という意識にとても感動させられた。その方の「仕事」は福祉関係者が口にしがちな自立とか就労といったお仕着せなものではなく、利用者の生活感覚や暮らしに近いものだと思った。働けて自立したとしても、お金がたくさんあっても、イコール幸せとはならないのが人生だ。人間関係が広がったり、好きなものに夢中になれたりすることは心の豊かさにとって重要なことだ。その中に、当然「おしゃれ」もあり、それは本人がおしゃれをすることだけでなく、きれいな物を見たり触れたりすることでもあると思う。
銀河の里でも、利用者それぞれが出会いや経験を通して、心も生活も豊かになることを目指したい。自分たちが作った商品が外部で売れたことで自信につながったり、対人恐怖だった利用者が絵を描くことで関係を広げていったりと、それぞれ成長していく過程をいっしょに歩んできた。たんぽぽの家も銀河の里も、目指しているものや感覚が共通していると強く感じた。
今回の研修でたんぽぽの家や他の施設の方たちに出会えたことで、私自身とても安心させられた。銀河の里でやっていることがことさらおかしなことではないと自信を もってやっていける気がしてきた。花巻に戻って、この感覚をどう発信するか、私自身どう生かしていくか、たくさんの刺激を基に弾けてみたい。
誕生日の夢想 ★施設長 宮澤京子【2012年3月号】
タテタカコの『誕生日』の歌詞は、衝撃的で生々しい!
暗闇に手をかけた からはじまり、
誕生日 嗚呼 哀れむ言葉はない
嗚呼 夢想の悔いなど
溺れる君にあげる 一度きりのチャンスを
後ろ指を指された 一度きりのチャンスを
で締めくくられている。
なぜタテタカコは、Happyで彩られるBirthdayをこうした歌詩で表現したのか。
「溺れる私に与えられたチャンスは、後ろ指を指されたものだった」しかし、「一度きりの人生、暗闇から這い上がって挑む以外ない!」ということか?センチメンタルで薄っぺらい生き方への警鐘のようにも聞こえる。
さて、運動体としての銀河の里は、何かが生まれ来ると きにはその前ぶれとして、青雲が蠢(うごめ)く。まだ海の物とも 山の物とも判別つきがたいうちから、何かが蠢き、時が来てやがて形になって現れてくる。その青雲の蠢きを、遠くぼんやりと感じる。
近年ターミナルケア(終末期医療・介護)やホスピスという言葉がよく聞かれる。最近では介護保険における訪問診療や訪問看護等の在宅医療の普及もあって、特養ホームはもとよりグループホームでも「看取り」が研修会のテーマにあげられる。高度な医療技術の進展は「死」は敗北という医療の伝統的な意識を基盤に「延命」への多くの装置を作りだした。高度医療は「延命」とともに人の死を自宅から「病院」へ移行させ、一般化させた。しかし今は、癌などの末期患者の身体的苦痛を軽減したり、回復の見込みのない疾患の末期に、苦痛をコントロールし精神的な平安を与える医療や高い介護の質が求められている。
先日BSアーカイブスで2006年に放送された『百万回の永訣 柳原和子 ガンを生き抜く』を見た。柳原氏は母親をガンで亡くした経験から、ノンフィクション作家として、多くのがん患者を取材して『がん患者学』を書き上げた。自らもガン初発から6年半を経て再発し、余命半年を宣告された時点で、その闘病の様子をドキュメンタリー番組として撮っていくことを決意した。それは画像とデータの医療的判断で「余命半年」の告知を受けた時の孤独感から、余命(死)を宣告された患者と医者の関係(在り方)に対する問題提起と、彼女自身の「生きることへの叫び」にあったのだろう。彼女には「医者は、闘病者の伴奏者になりえないのか」という問題意識があった。告知後、病状に一喜一憂し、抗ガン剤の副作用に苦しむ姿や、「生きたい」と亡き父母にすがり、京都の修験者の護摩供養に手を合わせる姿も映し出される。それと同時に、日本中のガンの専門医の中から、闘病の伴奏者となってくれる医師を捜し始める。そこで出会う医師達は、彼らの人格を通して医療が果たせる「希望」と「限界」を示し、彼女と共に治療内容を決定していった。固有名詞を持つ医師と固有名詞を持つ患者との対話は、共に病に向き合い闘う‘同志’とな っていった。
彼女は、この番組放送の2年後に亡くなるが、ノンフィ クション作家としての使命を自らの闘病をドキュメントすることで果たし、「生」を全うしたのではないだろうか。
ターミナルという人生の総決算期を、どこで、どんなふうに、誰と迎えるのか、これはほとんど選択がなく難しい問題だ。里でも3年前に特養ホームを開設してから、何人かの方とのお別れがあった。ホームで看取らせていただくこともあり、「死」をともに生きることで、私達自身の死生観を深めさせてもらっていると感じる。
最近、私が意識させられるのは、「煉獄(れんごく)」ともいうべき 天国と地獄の中間領域についてである。(「煉獄」とは、カトリックで、死者が天国に入る前に、その霊が火によって罪を浄化されると信じられている場所。)
特養ユニットのオリオンの朝の風景 98歳のホーム最長老のサチさん(仮名)が起床し、朝ごはんのためにテーブルに着く。お膳が運ばれ、朝食が始まるやいなや、手づかみにされたご飯が宙を舞い、スプーンが放り投げられ、お盆がひっくり返される。いつものことながら他の入居者にも緊張が走る。93歳の紀子さん(仮名)が「まま(ご飯)を粗末にするやつは、ゴンギリ叩いてやれ!」と、怒りから84歳の桃子さん(仮名)に指示する。桃子さんは天井を指さして「半分、上に逝ってる人だよ。俺たちは、サチさんの言葉を聞かねばねんだ。」と、神様になったサチさんを弁護する。さらに怒りの収まらない紀子さんは「分かんなくなったやつは、叩くしかねぇんだ。」と譲らない。「そんなに言うなら、紀子さんが叩けばいい。おらは神様に手上げることは、出来ない。」と桃子さん。紀子さんも「おめぇが出来ないこと、おらがやれるわけがない。」と涼しい顔で収める。その二人のやりとりをワキでじっと見ながら、にやにや笑っている90歳の輝美さん(仮名)。「もー止め!」と江戸っこ訛りで、かっこよく言う邦恵さん(仮名)。「おっかねぇ、」と涙目になって、そそくさと車いすでリビングを離れる康子さん(仮名)。こうした朝の騒動も含めリビング全体を守っているのは寝たきりの‘言葉で旅する’コズエさん(仮名)と、過去に‘24時間歩き続けたという武勇伝を持つ’ハルエさん(仮名)。二人とも、経管栄養のまっ最中。両者に挟まれた守りの中で、日々様々な事が起こっている。
その中心にいるサチさんは、午前中は荒ぶれる神だが、夕方は癒しと守りの神に変身していることが多い。荒ぶれる神になると、この世の言葉は一切入らないが、癒しと守りのサチさんは、目をくりくりさせながら、その人の置かれた心情や状況にぴったりの言葉をくれる。オリオンの利用者は全員女性で、その時々に「鬼」を出したり「仏」になったりと、人間の多層な面を見せてくれる。ここで人生最終章を書き上げていることの意味はただごとでなく大きい。まさに天国に行く前の浄化という「煉獄」をイメージしてしまったという訳だ。(「煉獄」に鬼や仏はいるのか?)
ところが、こうした豊かな日々の風景も、病気の症状が出ると、とたんに医療の「診断」「治療」「処置」という流れに様変わりする。そして、その先に敗北としての「死」がある・・・というのでは、あまりにも寂しすぎる。「ホスピス」や「ターミナルケア」の必要性が語られる背景には、人間存在への配慮が極めて重要になってきたという認 識の広がりであると思うが、欧米の合理主義的なシステム の受け売りになりやすい。もっと日本の文化にあった死生観から検討されていかなければならないだろうと思う。
人は生まれた瞬間から「死」に向かって歩む存在である。そこに人の絶対的な平等があり、救いさえ感じる。現場では、死に向かってどう生きたのか、どうあったのかを関係のなかでしっかりと刻印づけたい。銀河の里では制度福祉の枠を越えて、利用者、スタッフが共に暮らし、出会っていくことを目指してきた。それぞれが「社交の場」や「煉獄の場」・「異界の場」を繰り広げるのは、死への準備でもあり、遙かなる旅路への支度でもあろう。死をどう考えるかは、日常をどう深く生きるかに直結する。人はなぜ「看取り」を行うのか。現場で若いスタッフが死に教えられ、死者に支えられ、鍛えられることが現実に起こる。死に対する答えは永遠に出ないかもしれないが、だからこそ「看 取り」は、不可避の死を深く自分の内に引き受けて生きよ うとする人間の崇高な精神活動といえるのではないか。若者に引き継がれ、生きる力となりうる「命のバトン」としての「死」を見つめて行きたいと願う。
さて、そんな怪しい所に、近代自然科学の雄たる「医療」が関わるのは難しいことにちがいない。だが現代医療は「生きる患者」には有効だが、「死にゆく患者」には弱い。医療も新たな時代の「死」を模索する必要があると思う。
里が目指すのは、医療のone of themという限界を、「死」を通じて超え、生と死が双方向に支え合う関係を可能にする「場」の実現にある・・・と夢想する。
今月、58歳を迎えた誕生日の夢想。
遠くに聞こえる青雲の轟きに時めいた。
暗闇に手をかけた からはじまり、
誕生日 嗚呼 哀れむ言葉はない
嗚呼 夢想の悔いなど
溺れる君にあげる 一度きりのチャンスを
後ろ指を指された 一度きりのチャンスを
で締めくくられている。
なぜタテタカコは、Happyで彩られるBirthdayをこうした歌詩で表現したのか。
「溺れる私に与えられたチャンスは、後ろ指を指されたものだった」しかし、「一度きりの人生、暗闇から這い上がって挑む以外ない!」ということか?センチメンタルで薄っぺらい生き方への警鐘のようにも聞こえる。
さて、運動体としての銀河の里は、何かが生まれ来ると きにはその前ぶれとして、青雲が蠢(うごめ)く。まだ海の物とも 山の物とも判別つきがたいうちから、何かが蠢き、時が来てやがて形になって現れてくる。その青雲の蠢きを、遠くぼんやりと感じる。
近年ターミナルケア(終末期医療・介護)やホスピスという言葉がよく聞かれる。最近では介護保険における訪問診療や訪問看護等の在宅医療の普及もあって、特養ホームはもとよりグループホームでも「看取り」が研修会のテーマにあげられる。高度な医療技術の進展は「死」は敗北という医療の伝統的な意識を基盤に「延命」への多くの装置を作りだした。高度医療は「延命」とともに人の死を自宅から「病院」へ移行させ、一般化させた。しかし今は、癌などの末期患者の身体的苦痛を軽減したり、回復の見込みのない疾患の末期に、苦痛をコントロールし精神的な平安を与える医療や高い介護の質が求められている。
先日BSアーカイブスで2006年に放送された『百万回の永訣 柳原和子 ガンを生き抜く』を見た。柳原氏は母親をガンで亡くした経験から、ノンフィクション作家として、多くのがん患者を取材して『がん患者学』を書き上げた。自らもガン初発から6年半を経て再発し、余命半年を宣告された時点で、その闘病の様子をドキュメンタリー番組として撮っていくことを決意した。それは画像とデータの医療的判断で「余命半年」の告知を受けた時の孤独感から、余命(死)を宣告された患者と医者の関係(在り方)に対する問題提起と、彼女自身の「生きることへの叫び」にあったのだろう。彼女には「医者は、闘病者の伴奏者になりえないのか」という問題意識があった。告知後、病状に一喜一憂し、抗ガン剤の副作用に苦しむ姿や、「生きたい」と亡き父母にすがり、京都の修験者の護摩供養に手を合わせる姿も映し出される。それと同時に、日本中のガンの専門医の中から、闘病の伴奏者となってくれる医師を捜し始める。そこで出会う医師達は、彼らの人格を通して医療が果たせる「希望」と「限界」を示し、彼女と共に治療内容を決定していった。固有名詞を持つ医師と固有名詞を持つ患者との対話は、共に病に向き合い闘う‘同志’とな っていった。
彼女は、この番組放送の2年後に亡くなるが、ノンフィ クション作家としての使命を自らの闘病をドキュメントすることで果たし、「生」を全うしたのではないだろうか。
ターミナルという人生の総決算期を、どこで、どんなふうに、誰と迎えるのか、これはほとんど選択がなく難しい問題だ。里でも3年前に特養ホームを開設してから、何人かの方とのお別れがあった。ホームで看取らせていただくこともあり、「死」をともに生きることで、私達自身の死生観を深めさせてもらっていると感じる。
最近、私が意識させられるのは、「煉獄(れんごく)」ともいうべき 天国と地獄の中間領域についてである。(「煉獄」とは、カトリックで、死者が天国に入る前に、その霊が火によって罪を浄化されると信じられている場所。)
特養ユニットのオリオンの朝の風景 98歳のホーム最長老のサチさん(仮名)が起床し、朝ごはんのためにテーブルに着く。お膳が運ばれ、朝食が始まるやいなや、手づかみにされたご飯が宙を舞い、スプーンが放り投げられ、お盆がひっくり返される。いつものことながら他の入居者にも緊張が走る。93歳の紀子さん(仮名)が「まま(ご飯)を粗末にするやつは、ゴンギリ叩いてやれ!」と、怒りから84歳の桃子さん(仮名)に指示する。桃子さんは天井を指さして「半分、上に逝ってる人だよ。俺たちは、サチさんの言葉を聞かねばねんだ。」と、神様になったサチさんを弁護する。さらに怒りの収まらない紀子さんは「分かんなくなったやつは、叩くしかねぇんだ。」と譲らない。「そんなに言うなら、紀子さんが叩けばいい。おらは神様に手上げることは、出来ない。」と桃子さん。紀子さんも「おめぇが出来ないこと、おらがやれるわけがない。」と涼しい顔で収める。その二人のやりとりをワキでじっと見ながら、にやにや笑っている90歳の輝美さん(仮名)。「もー止め!」と江戸っこ訛りで、かっこよく言う邦恵さん(仮名)。「おっかねぇ、」と涙目になって、そそくさと車いすでリビングを離れる康子さん(仮名)。こうした朝の騒動も含めリビング全体を守っているのは寝たきりの‘言葉で旅する’コズエさん(仮名)と、過去に‘24時間歩き続けたという武勇伝を持つ’ハルエさん(仮名)。二人とも、経管栄養のまっ最中。両者に挟まれた守りの中で、日々様々な事が起こっている。
その中心にいるサチさんは、午前中は荒ぶれる神だが、夕方は癒しと守りの神に変身していることが多い。荒ぶれる神になると、この世の言葉は一切入らないが、癒しと守りのサチさんは、目をくりくりさせながら、その人の置かれた心情や状況にぴったりの言葉をくれる。オリオンの利用者は全員女性で、その時々に「鬼」を出したり「仏」になったりと、人間の多層な面を見せてくれる。ここで人生最終章を書き上げていることの意味はただごとでなく大きい。まさに天国に行く前の浄化という「煉獄」をイメージしてしまったという訳だ。(「煉獄」に鬼や仏はいるのか?)
ところが、こうした豊かな日々の風景も、病気の症状が出ると、とたんに医療の「診断」「治療」「処置」という流れに様変わりする。そして、その先に敗北としての「死」がある・・・というのでは、あまりにも寂しすぎる。「ホスピス」や「ターミナルケア」の必要性が語られる背景には、人間存在への配慮が極めて重要になってきたという認 識の広がりであると思うが、欧米の合理主義的なシステム の受け売りになりやすい。もっと日本の文化にあった死生観から検討されていかなければならないだろうと思う。
人は生まれた瞬間から「死」に向かって歩む存在である。そこに人の絶対的な平等があり、救いさえ感じる。現場では、死に向かってどう生きたのか、どうあったのかを関係のなかでしっかりと刻印づけたい。銀河の里では制度福祉の枠を越えて、利用者、スタッフが共に暮らし、出会っていくことを目指してきた。それぞれが「社交の場」や「煉獄の場」・「異界の場」を繰り広げるのは、死への準備でもあり、遙かなる旅路への支度でもあろう。死をどう考えるかは、日常をどう深く生きるかに直結する。人はなぜ「看取り」を行うのか。現場で若いスタッフが死に教えられ、死者に支えられ、鍛えられることが現実に起こる。死に対する答えは永遠に出ないかもしれないが、だからこそ「看 取り」は、不可避の死を深く自分の内に引き受けて生きよ うとする人間の崇高な精神活動といえるのではないか。若者に引き継がれ、生きる力となりうる「命のバトン」としての「死」を見つめて行きたいと願う。
さて、そんな怪しい所に、近代自然科学の雄たる「医療」が関わるのは難しいことにちがいない。だが現代医療は「生きる患者」には有効だが、「死にゆく患者」には弱い。医療も新たな時代の「死」を模索する必要があると思う。
里が目指すのは、医療のone of themという限界を、「死」を通じて超え、生と死が双方向に支え合う関係を可能にする「場」の実現にある・・・と夢想する。
今月、58歳を迎えた誕生日の夢想。
遠くに聞こえる青雲の轟きに時めいた。
芸術研修に参加して ★デイサービス 千枝悠久【2012年3月号】
2月18日、19日の2日間の研修に参加した。内容は、能「俊寛」を観て、2日目にチェーホフの「三人姉妹」の演劇を観るというものであった。私としては今回のメインである能よりも、演劇の方が楽しみだった。最近は遠ざかってしまったが、子どもの頃演劇を観る度に感じていたあの感覚、なんと表現していいか当時はわからなかったが最近ある本で読んだぴったりの表現“現実に放り出される”という感覚。それを味わえるのを楽しみにしていた。
ところが演劇は、言葉が溢れていた。その言葉を頭で解釈しようとするので、いろいろ考えているうちに台詞を聞き逃したり、場面が変わってしまっていた。言葉が多いとどうしても考えることが多くなる。考えることは、それはそれで楽しいのだが、その分、目の前の演劇から離れて、置いて行かれてしまった。 そんなこともあって“現実に放り出される”感覚は、あまり味わうことができなかった。私自身の心が以前と比べて真っ直ぐではなくなり、演劇を真っ直ぐに受け止められなかったのだろうか。1日目に観た能の影響もあると思う。
1日目の観能は、平家物語を題材にした仕舞と能の2部構成。謡と演舞のみの仕舞は、始まってしばらくは、謡の意味を追いかけようとしていた。ところが、どんなに聞こうとしてもどうしても意味が分からないところが出てくる。だんだんと意味は二の次で観るようになっていった。そうなるとかえってイメージが頭の中に入ってきた。細かい意味は分からないままでも、川の水音や馬の足音、嘶きが聞こえてくる。時おり、意味が分かってスジが読めるとそういったイメージは消えてしまう。そんな体験を繰り返しながら、仕舞いを観ているうちに、気がつくと気持ちが高揚していた。能は心静かに観るものだと思っていたのだが、内側からわき起こってくるイメージと独特な謡のリズムとで、体が動き出しそうになってしまうのに驚いた。
仕舞いで気持ちが高揚したところで能「俊寛」が始まった。事前に、能に関する基本的な知識は入れていた。「俊寛」についても物語の背景やあらすじは読んできていた。仕舞で起こった高揚と、初めて見る能に期待で満ちあふれて俊寛が始まった。ところが、せっかくの高揚と期待は打ち砕かれた。いろいろなことを考えたり、思い出したりしながら観てしまい、慌ただしい私の頭についてきてはくれない能のゆっくりとした展開に、苛立 ち、仕舞いに比べると、囃子も邪魔なものに思えてしまった。
このままでは、せっかく観に来たのに無駄になってし まうと焦ったが、能が始まる前の解説されていた「知識を捨てて観る」という言葉を思い出し、能を観た友人が、能の独特の台詞回しに吹き出しそうになったと話していたことなども思い出した。そこで見方を変えようと思 い切って舞台から視線を外してみた。そうして、意味に囚われることをやめると、だんだん心が静かになり、謡や囃子が自然に感じられるようになった。頭で考えることが癖になっている私には、意味に囚われないで観るように切り替えるのに時間が掛かったが、能のゆったりとした展開に場面はほとんど変わらないまま待っていてくれた。
考えるのではなく、感覚優先になれてきたので舞台に再び視線を向けられるようになった頃、能面をつけた俊寛が登場した。無表情な能面ながら、寂しさのようなものが感じられた。舞台を観ているような観ていないような感覚で観ていると、時々謡も囃子もない静寂の場面が強く感じられた。そこで、囃子は静寂の為の囃子ではないかと気がついた。音もなく、心も静かな中で、物語は進んでいく。静かな心は、少しずつ物語の中へと入っていく。最後の場面、島に一人取り残された俊寛が、舞台を去る時には、みていることができずに舞台から視線を外してしまっていた。私の席は舞台の脇、橋掛の側であったため、すぐ側を俊寛が通る。静まりかえった空間の中を、俊寛の踏む床板の軋む音だけが響き、その音が深く印象に残った。
能を観るということは、対象化して考える態度とは対照的な、その中に入っていくということだった。深く潜っていくと言った方が、より近いかもしれない。流れに身を任せることも、自由に泳ぎ回ることも苦手な私は、何度か溺れそうになりながらも、なんとか潜っていったという感じだった。終わった後、能楽堂を出てからは、やっとのことで水面から顔を出したかのようで、足元が覚束ない感じだった。この感覚は、まさに翌日の演劇に期待していた“現実に放り出される“感覚そのものではなかったか。
演劇だと置いて行かれ、能だと溺れかける自分がいることを研修を通じて発見した。演劇も能も物語であり、その物語は、もっと大きな誰かの物語の一部を切り取ったものだと思う。誰かの物語に触れるとき、このような自分がいるということを、忘れないようにしようと思った。
ところが演劇は、言葉が溢れていた。その言葉を頭で解釈しようとするので、いろいろ考えているうちに台詞を聞き逃したり、場面が変わってしまっていた。言葉が多いとどうしても考えることが多くなる。考えることは、それはそれで楽しいのだが、その分、目の前の演劇から離れて、置いて行かれてしまった。 そんなこともあって“現実に放り出される”感覚は、あまり味わうことができなかった。私自身の心が以前と比べて真っ直ぐではなくなり、演劇を真っ直ぐに受け止められなかったのだろうか。1日目に観た能の影響もあると思う。
1日目の観能は、平家物語を題材にした仕舞と能の2部構成。謡と演舞のみの仕舞は、始まってしばらくは、謡の意味を追いかけようとしていた。ところが、どんなに聞こうとしてもどうしても意味が分からないところが出てくる。だんだんと意味は二の次で観るようになっていった。そうなるとかえってイメージが頭の中に入ってきた。細かい意味は分からないままでも、川の水音や馬の足音、嘶きが聞こえてくる。時おり、意味が分かってスジが読めるとそういったイメージは消えてしまう。そんな体験を繰り返しながら、仕舞いを観ているうちに、気がつくと気持ちが高揚していた。能は心静かに観るものだと思っていたのだが、内側からわき起こってくるイメージと独特な謡のリズムとで、体が動き出しそうになってしまうのに驚いた。
仕舞いで気持ちが高揚したところで能「俊寛」が始まった。事前に、能に関する基本的な知識は入れていた。「俊寛」についても物語の背景やあらすじは読んできていた。仕舞で起こった高揚と、初めて見る能に期待で満ちあふれて俊寛が始まった。ところが、せっかくの高揚と期待は打ち砕かれた。いろいろなことを考えたり、思い出したりしながら観てしまい、慌ただしい私の頭についてきてはくれない能のゆっくりとした展開に、苛立 ち、仕舞いに比べると、囃子も邪魔なものに思えてしまった。
このままでは、せっかく観に来たのに無駄になってし まうと焦ったが、能が始まる前の解説されていた「知識を捨てて観る」という言葉を思い出し、能を観た友人が、能の独特の台詞回しに吹き出しそうになったと話していたことなども思い出した。そこで見方を変えようと思 い切って舞台から視線を外してみた。そうして、意味に囚われることをやめると、だんだん心が静かになり、謡や囃子が自然に感じられるようになった。頭で考えることが癖になっている私には、意味に囚われないで観るように切り替えるのに時間が掛かったが、能のゆったりとした展開に場面はほとんど変わらないまま待っていてくれた。
考えるのではなく、感覚優先になれてきたので舞台に再び視線を向けられるようになった頃、能面をつけた俊寛が登場した。無表情な能面ながら、寂しさのようなものが感じられた。舞台を観ているような観ていないような感覚で観ていると、時々謡も囃子もない静寂の場面が強く感じられた。そこで、囃子は静寂の為の囃子ではないかと気がついた。音もなく、心も静かな中で、物語は進んでいく。静かな心は、少しずつ物語の中へと入っていく。最後の場面、島に一人取り残された俊寛が、舞台を去る時には、みていることができずに舞台から視線を外してしまっていた。私の席は舞台の脇、橋掛の側であったため、すぐ側を俊寛が通る。静まりかえった空間の中を、俊寛の踏む床板の軋む音だけが響き、その音が深く印象に残った。
能を観るということは、対象化して考える態度とは対照的な、その中に入っていくということだった。深く潜っていくと言った方が、より近いかもしれない。流れに身を任せることも、自由に泳ぎ回ることも苦手な私は、何度か溺れそうになりながらも、なんとか潜っていったという感じだった。終わった後、能楽堂を出てからは、やっとのことで水面から顔を出したかのようで、足元が覚束ない感じだった。この感覚は、まさに翌日の演劇に期待していた“現実に放り出される“感覚そのものではなかったか。
演劇だと置いて行かれ、能だと溺れかける自分がいることを研修を通じて発見した。演劇も能も物語であり、その物語は、もっと大きな誰かの物語の一部を切り取ったものだと思う。誰かの物語に触れるとき、このような自分がいるということを、忘れないようにしようと思った。
フユさんの風船 ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2012年3月号】
毎度お馴染み、ソファに横になって大半夢の世界に生きているフユさん(仮名)に、おやつのお誘いで声をかける。やっと目を開けたフユさんの第一声、「ひとりひとっつずつだって言って、ける人、あったった〜♪」…ん、何のこと?と思って「何をもらったの?」と尋ねると「風船よ〜」とのこと。わ〜!風船?! それを聞いて私の脳裏に、幼い頃の思い出が蘇る。まだ私が幼稚園にあがる前だ。母親に連れられ弟たちと一緒に散歩がてらに寄った銀行で風船がもらえた。私にとっては銀行は“風船がもらえる所”だった。色とりどりの風船がたくさんある光景は夢のようで心が躍り、私は赤、弟は青…と好きな色を選んでひとつずつもらう。そのまま風船ごと空に舞い上がっていたのではないかというほど、大はしゃぎで帰ったものだった。 さて、そんな子どもの頃の情景を思い出させてくれたフユさんの風船の夢はどんなのだろう?「誰にもらったの?」とか「どこでもらったの?」と立て続けに問いかける。夢から目覚めるフユさんはいつも、たった今まで行っていた世界を時折語って垣間見せてくれるが、こちらのイメージ力がついていけずに外した質問をしてしまうと、途端に世界はかき消えてしまう。なおかつ、フユさんはいつも真相を明かさない。この時もやっぱり、「誰に?」に対しても「ける人、あったのよ〜」とか「どこで?」にも「すぐそこで」という曖昧な返事で、ちょっとズルい答えについ笑ってしまった。
そんな調子にしかたなく、そのまま私の“銀行の風船”という線で話を進めてみる。「私の分もある?私にもちょうだい」と迫ると、ウンウンと頷きながら「んで、オメには赤いのな〜」とにっこり。通りかかった板垣さんが「私にも〜!」とねだると「おかしねぇな、けだはずだったな…」と返ってきて、「えー?!じゃぁ、えっと…、飛ばしちゃったよ〜、えーん」という展開になった。「あや〜!」と悔しそうな表情をするフユさん。やりとりを見守ってくれていたリビングのみんなが笑いに包まれる。
当の本人フユさんは、その後もひと眠りしたあと、また起きて、「わらしゃんど、なぁんと喜んでらった〜 ♪」と満面の笑顔だ。わ〜、まだストーリーが続いている! 風船、もらってきたぞ〜、オメには赤、オメは黄色…な、いがったなぁ♪ そう言いながらニコニコとわらしゃんどに風船を手渡しているフユさんの姿が目に見えるようだ。「ありがとう、ばぁちゃん!またもらってきてね」と声をかけると、微笑んでうんうん!と応えてくれるフユさん、たくさんの風船につりあげられてソファごと飛んでっちゃうくらいの幸せな画に見えた。
この日の“風船エピソード”は、しばらくの間、私の中でほこほこした暖かみを残していた。どうもあの“銀行の風船”が気にかかる。今どき銀行で風船なんか見かけない、私の思い過ごしかなのか、 そうした時期があったのか、地域的なことなのか? 私が幼少期を過ごしたのは、昭和50年代の盛岡。20代の若いスタッフに聞くと、そんなのは見たことないと言う。同年代の花巻育ちのスタッフは「あった、あった!」と言っていた。フユさんがまだ小さいお孫さんのためにもらって帰ったきた風船は、私の推理では銀行に置いてあった風船にちがいない。フユさんのお孫さんに確認してみよう!と気になって事実を明らかにしたくなった。
ところが今、この文章を書きながらふと思ったのは、“曖昧だからこそ鮮明な世界に行ける”のではないかということだ。フユさんの断片的な言葉と曖昧な言い回しに、こちらのイメージは遠く及ばないことの方が確かに多いが、明確に真相を明かさないでくれるからこそ、逆に、そこに触発されて出てくるこちらの思いが、まるで目の前で再体験しているかのように鮮明に蘇ったのではないか…。フユさんの風船がどんな風船だったのか、その真相は明らかにならずとも、フユさんのイメージ世界そのものには辿り着けないとしても、確かにその時、フユさんには“フユさんの風船”、私には“わたしの風船”が、ハッキリ見えていた!フユさんと私のイメージ世界が別々に、しかも同時に各々が鮮明に立ち現れてくるイマジネーションのシンクロ現象。その時間は、なんだか奇跡みたいなことが起こっていたのかもしれないな…と感じる。そういう奇跡が、日常のバタバタの中に突然にしてポカッと起こる。すごいことだな…と思う。
そんな調子にしかたなく、そのまま私の“銀行の風船”という線で話を進めてみる。「私の分もある?私にもちょうだい」と迫ると、ウンウンと頷きながら「んで、オメには赤いのな〜」とにっこり。通りかかった板垣さんが「私にも〜!」とねだると「おかしねぇな、けだはずだったな…」と返ってきて、「えー?!じゃぁ、えっと…、飛ばしちゃったよ〜、えーん」という展開になった。「あや〜!」と悔しそうな表情をするフユさん。やりとりを見守ってくれていたリビングのみんなが笑いに包まれる。
当の本人フユさんは、その後もひと眠りしたあと、また起きて、「わらしゃんど、なぁんと喜んでらった〜 ♪」と満面の笑顔だ。わ〜、まだストーリーが続いている! 風船、もらってきたぞ〜、オメには赤、オメは黄色…な、いがったなぁ♪ そう言いながらニコニコとわらしゃんどに風船を手渡しているフユさんの姿が目に見えるようだ。「ありがとう、ばぁちゃん!またもらってきてね」と声をかけると、微笑んでうんうん!と応えてくれるフユさん、たくさんの風船につりあげられてソファごと飛んでっちゃうくらいの幸せな画に見えた。
この日の“風船エピソード”は、しばらくの間、私の中でほこほこした暖かみを残していた。どうもあの“銀行の風船”が気にかかる。今どき銀行で風船なんか見かけない、私の思い過ごしかなのか、 そうした時期があったのか、地域的なことなのか? 私が幼少期を過ごしたのは、昭和50年代の盛岡。20代の若いスタッフに聞くと、そんなのは見たことないと言う。同年代の花巻育ちのスタッフは「あった、あった!」と言っていた。フユさんがまだ小さいお孫さんのためにもらって帰ったきた風船は、私の推理では銀行に置いてあった風船にちがいない。フユさんのお孫さんに確認してみよう!と気になって事実を明らかにしたくなった。
ところが今、この文章を書きながらふと思ったのは、“曖昧だからこそ鮮明な世界に行ける”のではないかということだ。フユさんの断片的な言葉と曖昧な言い回しに、こちらのイメージは遠く及ばないことの方が確かに多いが、明確に真相を明かさないでくれるからこそ、逆に、そこに触発されて出てくるこちらの思いが、まるで目の前で再体験しているかのように鮮明に蘇ったのではないか…。フユさんの風船がどんな風船だったのか、その真相は明らかにならずとも、フユさんのイメージ世界そのものには辿り着けないとしても、確かにその時、フユさんには“フユさんの風船”、私には“わたしの風船”が、ハッキリ見えていた!フユさんと私のイメージ世界が別々に、しかも同時に各々が鮮明に立ち現れてくるイマジネーションのシンクロ現象。その時間は、なんだか奇跡みたいなことが起こっていたのかもしれないな…と感じる。そういう奇跡が、日常のバタバタの中に突然にしてポカッと起こる。すごいことだな…と思う。
お風呂で聴く、心の声 ★デイサービス 及川紗代【2012年3月号】
入浴中の利用者さん達は、いろんな表情、個性を見せてくれる。入浴が楽しみな人、嫌で拒否がある人、怒っている人も入浴への思いは様々だが、湯船に浸かると不思議と穏やかな表情になったり、普段は聞けないような話がポロリと出て、その方を知るきっかけになったり、考えさせられたりする。「お風呂」は体も心も裸になれる場所であり、利用者さんの心に触れ合えるとても大切な時間。清潔の保持だけが目的ではない、利用者さんのペースに合わせて、ゆっくりと話に耳を傾けて、入浴=コミュニケーションの場ということが今まさに実感している。
秋から、里のデイサービスを利用している辰也さん(仮名)。初めてデイサービスに来た時の印象は、ハンチング帽にピシッとスーツを着たハンサムな紳士。言葉遣いも丁寧で上品な方。 それだけに取っ付きにくい感じで、デイホールに緊張した空気が流れる。私も話かけてみたいが、どんな風に話したらいいだう?と戸惑う。引っこみ思案で、臆病な私は上手く話もできず、その上品な緊張感のある雰囲気にしばらくは様子を伺うだけだった。特に、利用に当たっての申し送りでは、デイサービスという言葉自体に拒否的で、他の施設の利用を頑なに拒んできた方だということだったので、余計に緊張した。
そんな私が、辰也さんと自然に話ができるようになったのは「お風呂」だった。利用当初、お風呂に誘ってもなかなか乗ってもらえず、拒否も多く、男性スタッフが一緒に入ったりしながら、温泉の雰囲気を出しながらやっとこさっとこ入浴をしてもらう状況だった。ところが、一月も経つと次第に入浴が楽しみの一つにしてもらえたようで、女性スタッフの介助でも「おしょす」と言いながら入浴できるようになった。男性スタッフと入る時とはまた違い、女性スタッフとの入浴では冗談もどんどん飛び出し、下ネタも出るほどになった。「お風呂か。どうしようかなぁ」と迷っている辰也さんに、私と田中さんの女性2人で声をかけると、「2人に洗い殺されるんじゃないか?」とおどけ たり、「一緒に入ってくれるならいいですよ。」と笑ってくれたりするようにもなった。着脱を手伝っていた熟女の高橋さんの胸元にお礼のチップを入れてくれたりもする。「お姉ちゃん達に洗ってもらっていいなぁ」と終始ニコニコだ。刺激的な言葉も多いけれど、聞いていていやらしい感じではない。
「私はね、十何年も前に妻を亡くして、女性のことは我慢して来ました。」と、辰也さんとの会話の中に出てくる言葉なのだが、奥さんを亡くし、女性と関わる事がなかった寂しさや懐かしさ、女性に対する素直な思いが伝わってくる。お風呂では、女性スタッフを誘ってみたり、からかいながら年をとって男性として衰えてしまったことなども冗談混じりに語られる。照れ隠しのようなものもあるのかな?と感じる。
入浴の終わりには、「また会えるかな?」と毎回チップをくれる辰也さん。「ありがとうございます」と受け取ると、満足そうな笑顔。堅苦しくて緊張していた利用当初から比べるとかなり和らいで随分と印象が変わったが、根にある“紳士”は変わらず、品があり、やさしく、周囲への思いやりにあふれている。
社会的な場面で性が語られることははばかられる。デイサービスも当然社会的な場面だが、お風呂という少し解放された個人的な場面では性が解放されて、語りに繋がることも多いと思う。性の表現はかなり個性的で、あからさまに女性スタッフの体をさわろうとする人もあるし、下ネタが好きな人もある。「いやらしい」「女好き」といったマイナスのイメージで括られてしまいがちだが、単純に否定したり、ないことにはできない大切なテーマではあると思う。辰也さんの普段の上品なたたずまいもあり、お風呂という特別な場のみで出てくる奥ゆかしい性の語りや表現は、全くいやらしさを感じさせない。むしろ性に対し純で正直な感覚で生きてこられたんだなということが伝わってくる。性は聖なるものにも通じるし、逆に汚いものにもなる。関係において性にどう向きあうかという姿勢は、介護支援の現場においても、人間性の尊重からしても重要なテーマだと感じた。
秋から、里のデイサービスを利用している辰也さん(仮名)。初めてデイサービスに来た時の印象は、ハンチング帽にピシッとスーツを着たハンサムな紳士。言葉遣いも丁寧で上品な方。 それだけに取っ付きにくい感じで、デイホールに緊張した空気が流れる。私も話かけてみたいが、どんな風に話したらいいだう?と戸惑う。引っこみ思案で、臆病な私は上手く話もできず、その上品な緊張感のある雰囲気にしばらくは様子を伺うだけだった。特に、利用に当たっての申し送りでは、デイサービスという言葉自体に拒否的で、他の施設の利用を頑なに拒んできた方だということだったので、余計に緊張した。
そんな私が、辰也さんと自然に話ができるようになったのは「お風呂」だった。利用当初、お風呂に誘ってもなかなか乗ってもらえず、拒否も多く、男性スタッフが一緒に入ったりしながら、温泉の雰囲気を出しながらやっとこさっとこ入浴をしてもらう状況だった。ところが、一月も経つと次第に入浴が楽しみの一つにしてもらえたようで、女性スタッフの介助でも「おしょす」と言いながら入浴できるようになった。男性スタッフと入る時とはまた違い、女性スタッフとの入浴では冗談もどんどん飛び出し、下ネタも出るほどになった。「お風呂か。どうしようかなぁ」と迷っている辰也さんに、私と田中さんの女性2人で声をかけると、「2人に洗い殺されるんじゃないか?」とおどけ たり、「一緒に入ってくれるならいいですよ。」と笑ってくれたりするようにもなった。着脱を手伝っていた熟女の高橋さんの胸元にお礼のチップを入れてくれたりもする。「お姉ちゃん達に洗ってもらっていいなぁ」と終始ニコニコだ。刺激的な言葉も多いけれど、聞いていていやらしい感じではない。
「私はね、十何年も前に妻を亡くして、女性のことは我慢して来ました。」と、辰也さんとの会話の中に出てくる言葉なのだが、奥さんを亡くし、女性と関わる事がなかった寂しさや懐かしさ、女性に対する素直な思いが伝わってくる。お風呂では、女性スタッフを誘ってみたり、からかいながら年をとって男性として衰えてしまったことなども冗談混じりに語られる。照れ隠しのようなものもあるのかな?と感じる。
入浴の終わりには、「また会えるかな?」と毎回チップをくれる辰也さん。「ありがとうございます」と受け取ると、満足そうな笑顔。堅苦しくて緊張していた利用当初から比べるとかなり和らいで随分と印象が変わったが、根にある“紳士”は変わらず、品があり、やさしく、周囲への思いやりにあふれている。
社会的な場面で性が語られることははばかられる。デイサービスも当然社会的な場面だが、お風呂という少し解放された個人的な場面では性が解放されて、語りに繋がることも多いと思う。性の表現はかなり個性的で、あからさまに女性スタッフの体をさわろうとする人もあるし、下ネタが好きな人もある。「いやらしい」「女好き」といったマイナスのイメージで括られてしまいがちだが、単純に否定したり、ないことにはできない大切なテーマではあると思う。辰也さんの普段の上品なたたずまいもあり、お風呂という特別な場のみで出てくる奥ゆかしい性の語りや表現は、全くいやらしさを感じさせない。むしろ性に対し純で正直な感覚で生きてこられたんだなということが伝わってくる。性は聖なるものにも通じるし、逆に汚いものにもなる。関係において性にどう向きあうかという姿勢は、介護支援の現場においても、人間性の尊重からしても重要なテーマだと感じた。