2012年01月15日
2012年 めおと辰に乗って ★ワークステージ 村上幸太郎【2012年1月号】
★惣菜班の職員とメンバーが、めおとの辰に乗って、大空を駆け抜けます!その行き先は・・・?おいしい餃子・焼売と夢が詰まったギフトボックスを手に、お客様の元へお届けします。
今年も、惣菜班が作る、おいしい手作りのお惣菜をどうぞよろしくお願いいたします!
今年も、惣菜班が作る、おいしい手作りのお惣菜をどうぞよろしくお願いいたします!
3年越しの賑やかな里の冬 ★みつさんち支援員 日向菜採【2012年1月号】
グループホームみつさんちに住んで3年目の広一さん(仮名)は、50代で仕事真面目なユーモアのある性格。実家が農家なので、畑や田んぼの作業が身についていて頼りになる存在だ。入居理由は特殊で、治療上の環境調整のためだった。入居当初から、気持ちに何か抱えている様子で、細かいことを見つけては文句をつけ、理不尽なことで怒りを向けられた。私が就労支援事業所ワークステージに新卒で赴任すると同時に、広一さんが入居したのでいわば同期だが、担当の私に向けられる文句や苦情、長々と続く言い訳などを受け止めるのはかなり苦しかった。仕事は真面目で、人当たりも良いのだが、どこか影を抱えているようなところを感じた。飲酒して入院を繰り返しながら、それでも徐々に感触が変化していき、特に昨年の夏あたりからは、苛立つこともほとんどなくなり、本来の人柄なのか、穏やかなでやわらかい雰囲気が出てきた。通院に付き添うと「お礼にごちそうしたい」とお寿司を食べさせてくれたりして、以前は「診断結果を本人以外が知るのは法律違反だ」などと絡んでいたことを思うと別人のようだ。あれこれゴタゴタを重ねながら生きてきた3年の月日によって関係が変化したと信じたい。
広一さんは、2年連続で秋の収穫後に飲酒して入院になっていたので、里にきて始めての年越しを迎える。本人は「なんたって初めての12月なんでね」とおちゃらけながら、どこか嬉しそうで「忘年会をやりたい」と提案して張り切った。
12月中旬、誕生日会があり、グループホームみつさんちでパーティーを開いた。ワークステージ以外に事務スタッフも参加し20人も集まった。広一さんは密かに「誕生日おめでとう」という看板をつくっていた。色鉛筆でカラフルに仕上げた看板は、広一さんの隠れた才能が発揮されていた。2週間かけてカレンダーの裏紙に描いたという力作だった。会は広一さんが進行し、さらには自慢の歌声で一曲披露し盛りあげてくれた。3年目にして、大活躍の広一さんの一面だった。 広一さんの提案の忘年会は、居酒屋で宴会の後、ボーリングをしようということになった。さらに施設長からの提案で「しめはラーメンかアイス」となり、なんと3次会コースまである、フルコースの忘年会となった。
忘年会も職員を含め20数名の大宴会になった。ほとんどソフトドリンクのノンアルコールなのだが、最初からみんな気分上々で、完全な酔っぱらいのような盛り上がりだったのがすごい。用意されたご馳走もかなりの量だったが、あっという間になくなってしまった。物足りない胃袋には、3次会のラーメンに期待してもらって、ボーリング場へ向かう。ボーリングはいつも盛り上がって笑い転げる。ピンが倒れる前からガッツポーズをしているキヨくん、自分の足の真横にドスンとボールを落とす危険な投球ホームのナベちゃんなど、特徴が激しすぎで面白い。そんななか、やはり広一さんは格が違った。今回のゲームでは、スコアは軽く180!もちろん誰もそのスコアに及ばず、ぶっちぎりで優勝だった。
昨年の暮れの誕生日会も忘年会も、広一さんが企画の中心にいたが、どこか広一さんのためのイベントだったように私には思える。初めての冬を乗り越えられるのか私も心配だったが、広一さん自身がどこかで切り開いて行ったように感じる。また他の利用者も広一さんを後押ししてくれていたように思う。
豪雪地域出身の広一さんは、「夏は苦手だが雪かきは任せろ」と毎年言うのだが、ふた冬は入院していて雪かきはできなかった。今年は、大雪だった昨年、一昨年と打って変わって雪が少なく、まだ広一さんの雪かきの活躍は見ていない。どこか雪を楽しみにしている私がいる。
広一さんは、2年連続で秋の収穫後に飲酒して入院になっていたので、里にきて始めての年越しを迎える。本人は「なんたって初めての12月なんでね」とおちゃらけながら、どこか嬉しそうで「忘年会をやりたい」と提案して張り切った。
12月中旬、誕生日会があり、グループホームみつさんちでパーティーを開いた。ワークステージ以外に事務スタッフも参加し20人も集まった。広一さんは密かに「誕生日おめでとう」という看板をつくっていた。色鉛筆でカラフルに仕上げた看板は、広一さんの隠れた才能が発揮されていた。2週間かけてカレンダーの裏紙に描いたという力作だった。会は広一さんが進行し、さらには自慢の歌声で一曲披露し盛りあげてくれた。3年目にして、大活躍の広一さんの一面だった。 広一さんの提案の忘年会は、居酒屋で宴会の後、ボーリングをしようということになった。さらに施設長からの提案で「しめはラーメンかアイス」となり、なんと3次会コースまである、フルコースの忘年会となった。
忘年会も職員を含め20数名の大宴会になった。ほとんどソフトドリンクのノンアルコールなのだが、最初からみんな気分上々で、完全な酔っぱらいのような盛り上がりだったのがすごい。用意されたご馳走もかなりの量だったが、あっという間になくなってしまった。物足りない胃袋には、3次会のラーメンに期待してもらって、ボーリング場へ向かう。ボーリングはいつも盛り上がって笑い転げる。ピンが倒れる前からガッツポーズをしているキヨくん、自分の足の真横にドスンとボールを落とす危険な投球ホームのナベちゃんなど、特徴が激しすぎで面白い。そんななか、やはり広一さんは格が違った。今回のゲームでは、スコアは軽く180!もちろん誰もそのスコアに及ばず、ぶっちぎりで優勝だった。
昨年の暮れの誕生日会も忘年会も、広一さんが企画の中心にいたが、どこか広一さんのためのイベントだったように私には思える。初めての冬を乗り越えられるのか私も心配だったが、広一さん自身がどこかで切り開いて行ったように感じる。また他の利用者も広一さんを後押ししてくれていたように思う。
豪雪地域出身の広一さんは、「夏は苦手だが雪かきは任せろ」と毎年言うのだが、ふた冬は入院していて雪かきはできなかった。今年は、大雪だった昨年、一昨年と打って変わって雪が少なく、まだ広一さんの雪かきの活躍は見ていない。どこか雪を楽しみにしている私がいる。
嫌われる高齢者 「そうそうたる男の面々 〜 好きか?嫌いか?」 ★副施設長 戸來淳博【2012年1月号】
『介護現場は、なぜ辛いのか − 特養老人ホームの終わらない日常』(新潮社)という本を読むと、極めて一般的な特養の日常が描写されていた。ヘルパー2級を取得し、自らも特別養護老人ホームで数ヶ月間勤務された体験もあるこの著者なら、「銀河の里」をどう感じてくれるのだろうと理事長が手紙を送った。早速返事をいただき、上京の折にお会いした。昨年の11月には、著者の本岡類さんの来里が実現した。
本岡さんは各部署を見学され、特養の入居者と夕食をともにし、その後のユニット会議にも参加された。会議の最後に感想をうかがうと「一般に介護施設では、男性利用者は嫌われることが多い。それはなぜなのか」という質問が出た。
僕は「会合や飲み会やら、世の中の大人と関わる機会はたくさん有るけれど、そういう場は大の苦手。嫌な男性ばかりと感じて、できれば関わりたくない。ところが、銀河の里という場で出会う利用者とはどこか繋がれるし、深く関わりたくなる。」と応えた。一般社会では肩書や所属が表に出て、本音とか、人間そのものには出会えない。本当の姿は見えないようになっているのが社会だと痛いほど感じさせられるので不安になるのだ。しかし、里という場は全く違う出会い方ができることを体験してきた。里にやってくる利用者さんは、どこか人生の課題や、何らかの傷を背負っていると言える。銀河の里は特に認知症の施設中心なので、認知症によって、家庭や地域では生活が困難になったり、時には手を焼かれて手に負えない状況にある人も少なくない。老いや障害、死という普遍的なテーマを否応なしに背負った人として出会うことの意味は大きいと思う。それは私自身の持つテーマでもある。世間ではそうした課題を共有できないばかりか、語ることさえ憚られる。銀河の里は、人間普遍の課題に共に向かい合える場なのだと思う。里は、個人の高齢者の「好き嫌い」を超えた関係に入っていける場だと言えるだろう。そこでの仕事はおそらくプロの領域に属することではないだろうか。かつて介護は、育児と同様、家庭内で主に女性がその役を担っていた。近年それらは社会的にアウトソーシングされ、サービス業として立ち上がり、かなりの規模の産業ともなった。もともとは誰でもできる、専門性を問われることのない仕事だったのだが、それが社会化されると資格制度もでき、専門性が問われることになる。ところが現実には、介護現場の専門性はかなり低く社会的評価も高くはない。現実にも就職難の時代に厳しい人手不足が続いている職種である。介護現場では、主婦のパートレベルの労働力で大半がまかなわれている現状もあり、世間話レベルの次元で「男性利用者は嫌われる」ということが起こってくるのではないだろうか。
銀河の里では、他の施設で利用を断られたり、拒まれた方の利用がよくある。これまで「集団生活になじめない、周囲に迷惑をかける、手がかかる」となると、少し利用料は高いけど、致し方なく里を紹介されるというケースが多かった。そこではスタッフも世間の感覚で「好き嫌い」を言っていては仕事にならなかった。暴力行為があり他の利用者に危害を及ぼす恐れがあるとして、他のデイサービスの利用を断られたYさん。障がいで会話が困難となったのだが、人なつっこい性格や、豊かな感情が災いしてか、身振り手振りが派手になってしまうのだ。表面上その通りで、周囲の利用者も嫌がったかも知れないが、それを暴力行為と捉ていいものかどうか。介護現場の人間理解の専門性が問われるところではないかと思う。この方は里で11年デイサービスを利用され、8年目あたりから、かなりの会話ができるようになり、周囲との関係も激変したという、まるで奇蹟のようなケースになった。
一般に嫌われる人は、男女に関わらず、個性が強く、その個性を覆い隠すこともなく前面に押し出し、他者にこれでもかと押しつけてくるようなエネルギーのある人だ。認知症や障がいによってそうした傾向が強くなった場合もあれば、もともとの性格の場合もある。地域や福祉関係者からも厄介者扱いされがちである。市の包括支援の担当者から「大変な人がいるのよ」と言われ実際会ってみると、むしろ人間的な魅力に満ちていて、人間の普遍的課題を背負って格闘し、向きあっているという場合が多い。日本の世間様はこうした方々の秘められた真の魅力を理解できにくいようだ。
権威に対して抵抗が強く、役所や病院などが大嫌いなケースがあった。在宅でひとり暮らしなのだが、訪問や調査を頑として受け入れず介護認定もなく福祉サービスをつなげられないでいた。市の担当者や保健所、社会福祉協議会の職員、民生委員など様々な担当者が訪問するのだが、怒り散らされ、嫌みや時には罵詈雑言で追い払われた。私が訪問したところ、割とすんなりと受け入れてくれて、数回目の訪問では家に上げてくれて、「飯を食っていけ」となった。つまり親しい人間関係への切望があり、役割でこられると深く傷つく心情があるのだ。「人としてつきあえるか」と問い詰めるように語られることもあった。しばらくして私はその方を車に乗せて介護認定のための受診をした。雰囲気の柔らかいドクターを選び、あらかじめこの方の性格も伝えておいた。「悪い医者じゃないな」と帰りの車で言ってくれた。役所からは「相談員が車に乗せるのはいかがなものか」とクレームがあった。それでもなんとか介護認定を受け、いざとなればサービスに繋げられるように整えたが、それから5年間サービスを使うことは一度もなく、自宅で亡くなられた。それはそれで見事な生き方ではなかったかと思う。
地域では長年、変人で鼻つまみ者でとおっていた一人暮らしの女性Kさんがいた。見守りや介護が必要になり、デイサービスを利用していたが、デイでもわがままで嫌われがちだった。特徴は、時間や職員を独り占めしてしまうところで、迎えに行っても、車に乗るまで30分以上かかったりする。ヘルパーを一日独占し、総合病院の全診療科を巡り、どこも異常なしと言われて帰ってくることを繰り返した。冬は寒いからと頑としてデイサービス利用を拒むので、ケアマネは配食弁当を手配したが、生活環境は劣悪で、トイレもなく、動ける時は近くの用水路に排便を捨てるので近所から苦情が出ていた。しかし歩行が困難になると、それもできなくなり、部屋はゴミと排便だらけで、訪問ヘルパーは排便を庭に埋めることが主な仕事になった。こうした状況で、冬期間を生き延びられるかと心配されたが、ふた冬を越し、やっと生活保護が通り、あるグループホームに入居になった。グループホームでは「今まで通りの生活をしてもらっていいですからね」と教科書通りの入居時の説明をしたが、それが裏目に出た。下着姿で過ごし、部屋での排便では、グループホームはたまらなかった。1ヶ月で退所となった。致し方なく、特例として里のグループホームで受け入れることになり5年目になる。時間ジャック、スタッフジャック、わがまま放題は変わらないが、なかなかの人気者で、通信への登場回数も多く、語録も豊富だ。辞めた職員もたまに訪ねてくる。彼女の不思議な魅力は、里の守りの中でこそ発揮され、受け入れられているのだと思う。
嫌われる行為の主なものは、暴力、怒り、わがまま、ひねくれ、騒音、セクハラといったところだろう。普通は社会的にも許されない。しかしそれを抑えて生きることができる場合とできない場合がある。それらは無しにはできず、人間の業として強いエネルギーをもって蠢いている。そうした鬼を外からの力で抑えこむと、返って暴発し収拾がつかなくなる。里にはそれらを一旦、受け入れる器があると思う。鬼をなだめ鎮めるには、ある種の理解と祈りが大切なのだ。
本岡さんは、手紙で、「銀河の里の若いスタッフは世の中の爺さんを知らないのではないか、閉ざされた里で出会う年寄りしか見ていないのではないか」と懸念を示された。マスとしての高齢者を見る目は必要だが、それはイリュージョンであって現実には存在しない。我々は、あくまでも目の前にいるひとりの利用者、高齢者と出会い、深く向きあっていくことで、そのひとりの人を通してその向こう側に時代や、歴史や、人間が見えてくるように思う。ひとりを深めることで普遍に至る道筋を歩むしかないと思う。研究者や行政がマスとして扱う高齢者をいくら考えても、一人の高齢者にも出会えないのではないだろうか。
日本は少女が重宝される時代で、女性の20代が化石、墓石とイメージされてしまうほどジャリ文化に汚染されて、成熟というものがない。それは男性や年寄りに成熟の魅力が欠けていることにも大きな責任があるように思う。特に男性は、老賢者やもしくは老愚者としてのイメージを実現する役割をもっと意識してもいいように思う。
使い捨ての時代だからこそ、捨て去られた老人ではなく、あらたな魅力を社会に提示していく老人の生き方や存在の仕方が求められるようにも感じる。私が出会った嫌われる高齢者の多くの方に、そうした奥深い人間の魅力や、苦悩が見て取れた。その存在こそが、多くの若者を真の意味で育て成熟へとむかわせる姿として映るからこそ、好き嫌いを超えて輝くように私には思える。
本岡さんは各部署を見学され、特養の入居者と夕食をともにし、その後のユニット会議にも参加された。会議の最後に感想をうかがうと「一般に介護施設では、男性利用者は嫌われることが多い。それはなぜなのか」という質問が出た。
僕は「会合や飲み会やら、世の中の大人と関わる機会はたくさん有るけれど、そういう場は大の苦手。嫌な男性ばかりと感じて、できれば関わりたくない。ところが、銀河の里という場で出会う利用者とはどこか繋がれるし、深く関わりたくなる。」と応えた。一般社会では肩書や所属が表に出て、本音とか、人間そのものには出会えない。本当の姿は見えないようになっているのが社会だと痛いほど感じさせられるので不安になるのだ。しかし、里という場は全く違う出会い方ができることを体験してきた。里にやってくる利用者さんは、どこか人生の課題や、何らかの傷を背負っていると言える。銀河の里は特に認知症の施設中心なので、認知症によって、家庭や地域では生活が困難になったり、時には手を焼かれて手に負えない状況にある人も少なくない。老いや障害、死という普遍的なテーマを否応なしに背負った人として出会うことの意味は大きいと思う。それは私自身の持つテーマでもある。世間ではそうした課題を共有できないばかりか、語ることさえ憚られる。銀河の里は、人間普遍の課題に共に向かい合える場なのだと思う。里は、個人の高齢者の「好き嫌い」を超えた関係に入っていける場だと言えるだろう。そこでの仕事はおそらくプロの領域に属することではないだろうか。かつて介護は、育児と同様、家庭内で主に女性がその役を担っていた。近年それらは社会的にアウトソーシングされ、サービス業として立ち上がり、かなりの規模の産業ともなった。もともとは誰でもできる、専門性を問われることのない仕事だったのだが、それが社会化されると資格制度もでき、専門性が問われることになる。ところが現実には、介護現場の専門性はかなり低く社会的評価も高くはない。現実にも就職難の時代に厳しい人手不足が続いている職種である。介護現場では、主婦のパートレベルの労働力で大半がまかなわれている現状もあり、世間話レベルの次元で「男性利用者は嫌われる」ということが起こってくるのではないだろうか。
銀河の里では、他の施設で利用を断られたり、拒まれた方の利用がよくある。これまで「集団生活になじめない、周囲に迷惑をかける、手がかかる」となると、少し利用料は高いけど、致し方なく里を紹介されるというケースが多かった。そこではスタッフも世間の感覚で「好き嫌い」を言っていては仕事にならなかった。暴力行為があり他の利用者に危害を及ぼす恐れがあるとして、他のデイサービスの利用を断られたYさん。障がいで会話が困難となったのだが、人なつっこい性格や、豊かな感情が災いしてか、身振り手振りが派手になってしまうのだ。表面上その通りで、周囲の利用者も嫌がったかも知れないが、それを暴力行為と捉ていいものかどうか。介護現場の人間理解の専門性が問われるところではないかと思う。この方は里で11年デイサービスを利用され、8年目あたりから、かなりの会話ができるようになり、周囲との関係も激変したという、まるで奇蹟のようなケースになった。
一般に嫌われる人は、男女に関わらず、個性が強く、その個性を覆い隠すこともなく前面に押し出し、他者にこれでもかと押しつけてくるようなエネルギーのある人だ。認知症や障がいによってそうした傾向が強くなった場合もあれば、もともとの性格の場合もある。地域や福祉関係者からも厄介者扱いされがちである。市の包括支援の担当者から「大変な人がいるのよ」と言われ実際会ってみると、むしろ人間的な魅力に満ちていて、人間の普遍的課題を背負って格闘し、向きあっているという場合が多い。日本の世間様はこうした方々の秘められた真の魅力を理解できにくいようだ。
権威に対して抵抗が強く、役所や病院などが大嫌いなケースがあった。在宅でひとり暮らしなのだが、訪問や調査を頑として受け入れず介護認定もなく福祉サービスをつなげられないでいた。市の担当者や保健所、社会福祉協議会の職員、民生委員など様々な担当者が訪問するのだが、怒り散らされ、嫌みや時には罵詈雑言で追い払われた。私が訪問したところ、割とすんなりと受け入れてくれて、数回目の訪問では家に上げてくれて、「飯を食っていけ」となった。つまり親しい人間関係への切望があり、役割でこられると深く傷つく心情があるのだ。「人としてつきあえるか」と問い詰めるように語られることもあった。しばらくして私はその方を車に乗せて介護認定のための受診をした。雰囲気の柔らかいドクターを選び、あらかじめこの方の性格も伝えておいた。「悪い医者じゃないな」と帰りの車で言ってくれた。役所からは「相談員が車に乗せるのはいかがなものか」とクレームがあった。それでもなんとか介護認定を受け、いざとなればサービスに繋げられるように整えたが、それから5年間サービスを使うことは一度もなく、自宅で亡くなられた。それはそれで見事な生き方ではなかったかと思う。
地域では長年、変人で鼻つまみ者でとおっていた一人暮らしの女性Kさんがいた。見守りや介護が必要になり、デイサービスを利用していたが、デイでもわがままで嫌われがちだった。特徴は、時間や職員を独り占めしてしまうところで、迎えに行っても、車に乗るまで30分以上かかったりする。ヘルパーを一日独占し、総合病院の全診療科を巡り、どこも異常なしと言われて帰ってくることを繰り返した。冬は寒いからと頑としてデイサービス利用を拒むので、ケアマネは配食弁当を手配したが、生活環境は劣悪で、トイレもなく、動ける時は近くの用水路に排便を捨てるので近所から苦情が出ていた。しかし歩行が困難になると、それもできなくなり、部屋はゴミと排便だらけで、訪問ヘルパーは排便を庭に埋めることが主な仕事になった。こうした状況で、冬期間を生き延びられるかと心配されたが、ふた冬を越し、やっと生活保護が通り、あるグループホームに入居になった。グループホームでは「今まで通りの生活をしてもらっていいですからね」と教科書通りの入居時の説明をしたが、それが裏目に出た。下着姿で過ごし、部屋での排便では、グループホームはたまらなかった。1ヶ月で退所となった。致し方なく、特例として里のグループホームで受け入れることになり5年目になる。時間ジャック、スタッフジャック、わがまま放題は変わらないが、なかなかの人気者で、通信への登場回数も多く、語録も豊富だ。辞めた職員もたまに訪ねてくる。彼女の不思議な魅力は、里の守りの中でこそ発揮され、受け入れられているのだと思う。
嫌われる行為の主なものは、暴力、怒り、わがまま、ひねくれ、騒音、セクハラといったところだろう。普通は社会的にも許されない。しかしそれを抑えて生きることができる場合とできない場合がある。それらは無しにはできず、人間の業として強いエネルギーをもって蠢いている。そうした鬼を外からの力で抑えこむと、返って暴発し収拾がつかなくなる。里にはそれらを一旦、受け入れる器があると思う。鬼をなだめ鎮めるには、ある種の理解と祈りが大切なのだ。
本岡さんは、手紙で、「銀河の里の若いスタッフは世の中の爺さんを知らないのではないか、閉ざされた里で出会う年寄りしか見ていないのではないか」と懸念を示された。マスとしての高齢者を見る目は必要だが、それはイリュージョンであって現実には存在しない。我々は、あくまでも目の前にいるひとりの利用者、高齢者と出会い、深く向きあっていくことで、そのひとりの人を通してその向こう側に時代や、歴史や、人間が見えてくるように思う。ひとりを深めることで普遍に至る道筋を歩むしかないと思う。研究者や行政がマスとして扱う高齢者をいくら考えても、一人の高齢者にも出会えないのではないだろうか。
日本は少女が重宝される時代で、女性の20代が化石、墓石とイメージされてしまうほどジャリ文化に汚染されて、成熟というものがない。それは男性や年寄りに成熟の魅力が欠けていることにも大きな責任があるように思う。特に男性は、老賢者やもしくは老愚者としてのイメージを実現する役割をもっと意識してもいいように思う。
使い捨ての時代だからこそ、捨て去られた老人ではなく、あらたな魅力を社会に提示していく老人の生き方や存在の仕方が求められるようにも感じる。私が出会った嫌われる高齢者の多くの方に、そうした奥深い人間の魅力や、苦悩が見て取れた。その存在こそが、多くの若者を真の意味で育て成熟へとむかわせる姿として映るからこそ、好き嫌いを超えて輝くように私には思える。
「銀河の里」の物語・・・その多義性 (その2) ―――― 河合俊雄著:『村上春樹の「物語」』から ★施設長 宮澤京子【2012年1月号】
前回は、村上春樹が述べた建物の「地下1階」とか「別な空間」という比喩から、銀河の里での人間理解はこうした異界次元の存在に支えられて成り立っていることが見えてきた。しかし、いきなり地下空間にふれることはまずないので、「出会い」の入り口である建物1階がそれなりに重要であることを強調しておきたい。
誰の目にも見ることができる1階部分は、ハードとしては、建物の構造やデザイン・間取り・備品・調度品など、使い勝手の善し悪し等、「施設管理」志向でいくのか「暮らし」志向なのかセンスも露わになるだろう。またソフトでは、職員の配置や介護技術のレベルの質が問われる。その他、立地場所(都市か郊外)や地域性(商業地域か住宅街が農漁村等)も、どう生かすか大切な要素となるだろう。
これら1階部分は、客観的に数字で表すことができたり、目で見てわかるので、評価事業の対象にされやすい。福祉施設管理者は、一般的に建物の整備をしたり、書類に整合性を持たせるよう管理を強化していく事に、神経の大半を使うことになる。そうして評価基準に合わせて書類を積み上げ、重箱の隅をつつくような枝葉末節に振り回され始めると、利用者の人間や人生そのものが遮蔽され「誰のための、何のための」と言った本末転倒ぶりが甚だしくなり、人生や人間の生命の次元からすればアホらしいことに終始しまいがちだ。そして外部評価・情報公表・指導監査等々には、そうしたアホらしさをさらに上塗りするような1階部分に限定した、しかも書類を整えるという世界しか持たない役人や調査員がやってくる。これが数十年繰り返されると、現場も表面を整え、彼らの求める書類や要望に素速く応えることが福祉だと勘違いし、次第に一丁上がりの「ちゃんちゃん福祉」に陥って、指摘がないことで仕事ができていると思い込むようになる。そうなると、決まって人間としての表情が失われ、間抜け面をさらし、皮肉や嫌がらせをするくらいが生きる楽しみでしかない人間に成り下がるから怖い。人生や人間が書類や管理におさまるものではないという当たり前のことが見事にわからなくなる。残念ながら大切な事柄は、隠されている。地下に降りていく知性と勇気によって、そこにちりばめられた物語と出会い、人間の深奥を生きる通路の入り口としての地上1階部分の役割を忘れたくない。
余談だが、里の小規模特養ホームの平屋木造の土台には、なんと1200本の杭が入っている。埋め立て地に建てたわけでもないのに、「安全性の担保」ということで、この杭に想定外の多額な出費となった。災害で上物が崩壊しても、確実に1200本の杭は残るだろう。弱小法人が、見えないところに杭を打ったもの「里」らしいということだろうか・・・。
さて本題であるが、この本の最終章の「再び物語へ」の内容を要約しながら、考察していきたい。村上春樹の小説は、一つの筋で完結するのではなく、いくつかの視点や物語が入りまざる。『1Q84』にも、二種類の物語があり、青豆と天吾の物語と小説『空気さなぎ』という新興宗教団体「さきがけ」の超越性に関わる物語が入っている。
ところが『1Q84』のBook3では、青豆と天吾の愛という人間の物語の方が全面に展開する。それは、読むものには分かり易いが、より深層な物語が隠蔽されてしまうことでもある。村上作品には、全体の物語よりそこに組み込まれた小さな物語によって、中核的なことが示される事が多く、その小さな物語は、奧の深層から浮かび上がって、得難く隠されているからこそ重要に思えるという。
大きな物語と小さな物語の関係を人類の物語の歴史から考えていくと、神話や儀式が部族に共有されていたプレモダンな世界においては、全体を包む大きな物語の方が深層にふれており、個々人の生活やその物語は、取るに足らない小さな物語にすぎなかった。ところが村上春樹の小説の場合には、大きな物語と小さな物語との関係が完全に反転して、『空気さなぎ』に代表されるような小さな物語は、プレモダンの世界や、超越的なものを感じさせてくれ、物語の要になっている。さて『1Q84』の中では、『空気さなぎ』が小説として世に出版されて以来、「声」が聴かれなくなってしまう。つまり死の世界、超越の世界が描き出されることによって、むしろあちら側とこちら側との関係が絶たれるのである。村上春樹は、小説の中でポストモダンという喪失の世界を描きながら、プレモダンのパワーを感じさせ、独自な構造で物語を展開させる。今後『1Q84』Book3で消えていった『空気さなぎ』の物語は、天吾によって新たな物語として完成されるのかもしれないという期待を持たせる。
銀河の里という大きな物語の中にも、いくつもの小さな物語が重層し、かつ点在し、それぞれが布置している。それらの物語は現代人が失ってしまったプレモダン的な霊性の力を秘めており、あらゆる霊的なエネルギーを喪失した現代社会において宝のような存在として感じる。それらを発見し、守る挑戦が銀河の里の本態ではないかと思う。
グループホームの利用者クミさん(仮名)は、時折「お声」が聞こえる。お声が入ると誰が声をかけようと現実の声はまるで届かなくなる。お声が来る度にクミさんは、「来いと呼ばれた」「待ってるから行かねばねぇ」と荷物を抱えて出かけていく。その都度、職員が一緒に歩いたり、車で迎えに行ったりするのだが、日に7,8回出かけることもある。里から7kmほど離れたところにある実家に向かうことが多いのだが、かなり確実に実家への道をたどる。私も何度かクミさんのそんな旅につきあったことがあるが、クミさんの「ここさ曲がれ、あっちさ行け」との案内で実家に着く。実家は、稲荷神社の入り口を入った奥にあり、日中でも薄暗く、こんもりした立木の中を通り抜ける時に、なぜかヒンヤリした感触が肌に残り、異界に案内されたような気持ちになる。
ある日、深夜3時、クミさんがいないと夜勤者から緊急連絡が入った。寒い夜で降っていたみぞれが雪に変わっていた。理事長や数人の職員で、離ホーム捜索マニュアルに従って各方面の捜索を開始したが、私の中では「あそこだ」という確信めいたものがあった。稲荷神社の奥の実家。草木も眠る丑三つ時の深夜、あの場所へ向かうには、いくらか勇気を必要とした。しかし、そんなことは言っておられない。夜勤者が不在を確認してから1時間以上経っているし、この寒さ。何としても発見しなければ。北上川にかかる橋を渡り、田舎道に入ると、稲荷神社の入り口を過ぎた。「どうか、クミさんと会えますように」と祈りの言葉が口に出る。木立の道を過ぎると家の前で、ぼぉーっと立ちすくむクミさんを見つけた。「良かった!」と一安心。車から降り、「クミさーん」と抱きしめると身体が冷たい。まだ「お声」があるようで「行かねばねぇー」とただならぬ目をして、力が入っている。まだあっちの世界にいる。でも濡れた衣服でこの気温のなか戸惑ってもいられない。「クミさん帰ろう、温かい所に行こう」と強引に助手席に乗せる。多少抵抗はあったが、車に乗ってからは、疲れもあってか、前屈みでぐったりした様子だった。とても話しかけられなかったが、「良かった!いてくれてありがとう!」と涙がこぼれてきて道路の先が滲んで見える。
クミさんを呼ぶ声は、一体どこからやってくるのか?なぜ、みぞれの夜中に、上着も羽織らずに出かけていくのか?クミさんを駆り立てる見えない世界が存在する。夜中に非常口から塀をくぐり抜けて出たり、窓から自分の荷物を全部放り出したり、「お声」は彼女を突き動かす。幻聴、妄想と言ってしまえばそれだけのことだが、クミさんのお声や行動は不思議なことに、クミさんや一族が抱えた現実の出来事や問題と直接に絡んで動いている。親戚の誰かが亡くなられたときには、その前後からお声が激しく、動きが頻繁になる。この夜の外出の時は、クミさんの身元引受人だった弟さんが亡くなり、経済的な問題が持ち上がっていた。クミさんは、弟さんの葬儀に参列はしたものの、クミさんのなかでは弟さんはまだ生きていて、その弟さんの嫁探しをしなければならない。「お声」は、その若い頃に帰る能力とそこを生きる力を感じる。「本家」「カマド」「嫁・姑」といったしがらみと、農家の働き手として頼りにされた、よき時代が併せ被さる。そこはクミさんの人生の「居場所」そのものだったところだ。
一方、現実にいるときのクミさんはめっぽう修羅場に強い。救急車が来たりすると、冷静に準備などを手伝ったり、諍いごとでもめているときには静かに間に入って収めたりもする。「お声」がかかったときの旅は、あらがえない何ものかに誘われているのだろう。スタッフはその都度、知恵を絞りながらクミさんに同行し、その世界に触れさせてもらう。
人間は地上1階に普段は住んでいるが、1階だけではない。地下1階もあるし、さらに地下2階や、その奥もあるらしい。現代は地上1階しかないという前提で世の中が回っている。そこでは人間の持つ全体性は確実に損なわれ、傷つき、癒されることはない。現代人は1階部分に閉じこめられ、自らの階層を自由に行き来することができない状況に追い込まれている。特に若い人たちのこうした状況による傷つきは、暴発的な暴力に至る危険を孕んでいるように思われる。
地上1階にいる介護が必要とアセスメントされたクミさんだけではなく、地下で出会う時空を超えたクミさんも含めて、クミさん本体とも言うべき全体像が浮かび上がってくる。人間の全体像は階層構造を持っており、クミさんの全体像に触れることによって、1階に幽閉された呪縛を解き、そこに関わるスタッフも自らの階層を経験することになる。こうした体感による出会いや経験こそ、たましいの行き交う新たな地平に立つことを可能にし、若い人たちの新たな世界を切り開く「希望」へつながるのではないか。
問題は、時と場所を間違えてこうした「物語」を公にするわけにはいかないということだ。「1Q84」のbook3のように『空気さなぎ』の出版によって、声が聞こえなくなることは起こりうる。深層の物語が隠されて、全体性が損なわれる危険性は自覚しなければならない。
誰の目にも見ることができる1階部分は、ハードとしては、建物の構造やデザイン・間取り・備品・調度品など、使い勝手の善し悪し等、「施設管理」志向でいくのか「暮らし」志向なのかセンスも露わになるだろう。またソフトでは、職員の配置や介護技術のレベルの質が問われる。その他、立地場所(都市か郊外)や地域性(商業地域か住宅街が農漁村等)も、どう生かすか大切な要素となるだろう。
これら1階部分は、客観的に数字で表すことができたり、目で見てわかるので、評価事業の対象にされやすい。福祉施設管理者は、一般的に建物の整備をしたり、書類に整合性を持たせるよう管理を強化していく事に、神経の大半を使うことになる。そうして評価基準に合わせて書類を積み上げ、重箱の隅をつつくような枝葉末節に振り回され始めると、利用者の人間や人生そのものが遮蔽され「誰のための、何のための」と言った本末転倒ぶりが甚だしくなり、人生や人間の生命の次元からすればアホらしいことに終始しまいがちだ。そして外部評価・情報公表・指導監査等々には、そうしたアホらしさをさらに上塗りするような1階部分に限定した、しかも書類を整えるという世界しか持たない役人や調査員がやってくる。これが数十年繰り返されると、現場も表面を整え、彼らの求める書類や要望に素速く応えることが福祉だと勘違いし、次第に一丁上がりの「ちゃんちゃん福祉」に陥って、指摘がないことで仕事ができていると思い込むようになる。そうなると、決まって人間としての表情が失われ、間抜け面をさらし、皮肉や嫌がらせをするくらいが生きる楽しみでしかない人間に成り下がるから怖い。人生や人間が書類や管理におさまるものではないという当たり前のことが見事にわからなくなる。残念ながら大切な事柄は、隠されている。地下に降りていく知性と勇気によって、そこにちりばめられた物語と出会い、人間の深奥を生きる通路の入り口としての地上1階部分の役割を忘れたくない。
余談だが、里の小規模特養ホームの平屋木造の土台には、なんと1200本の杭が入っている。埋め立て地に建てたわけでもないのに、「安全性の担保」ということで、この杭に想定外の多額な出費となった。災害で上物が崩壊しても、確実に1200本の杭は残るだろう。弱小法人が、見えないところに杭を打ったもの「里」らしいということだろうか・・・。
さて本題であるが、この本の最終章の「再び物語へ」の内容を要約しながら、考察していきたい。村上春樹の小説は、一つの筋で完結するのではなく、いくつかの視点や物語が入りまざる。『1Q84』にも、二種類の物語があり、青豆と天吾の物語と小説『空気さなぎ』という新興宗教団体「さきがけ」の超越性に関わる物語が入っている。
ところが『1Q84』のBook3では、青豆と天吾の愛という人間の物語の方が全面に展開する。それは、読むものには分かり易いが、より深層な物語が隠蔽されてしまうことでもある。村上作品には、全体の物語よりそこに組み込まれた小さな物語によって、中核的なことが示される事が多く、その小さな物語は、奧の深層から浮かび上がって、得難く隠されているからこそ重要に思えるという。
大きな物語と小さな物語の関係を人類の物語の歴史から考えていくと、神話や儀式が部族に共有されていたプレモダンな世界においては、全体を包む大きな物語の方が深層にふれており、個々人の生活やその物語は、取るに足らない小さな物語にすぎなかった。ところが村上春樹の小説の場合には、大きな物語と小さな物語との関係が完全に反転して、『空気さなぎ』に代表されるような小さな物語は、プレモダンの世界や、超越的なものを感じさせてくれ、物語の要になっている。さて『1Q84』の中では、『空気さなぎ』が小説として世に出版されて以来、「声」が聴かれなくなってしまう。つまり死の世界、超越の世界が描き出されることによって、むしろあちら側とこちら側との関係が絶たれるのである。村上春樹は、小説の中でポストモダンという喪失の世界を描きながら、プレモダンのパワーを感じさせ、独自な構造で物語を展開させる。今後『1Q84』Book3で消えていった『空気さなぎ』の物語は、天吾によって新たな物語として完成されるのかもしれないという期待を持たせる。
銀河の里という大きな物語の中にも、いくつもの小さな物語が重層し、かつ点在し、それぞれが布置している。それらの物語は現代人が失ってしまったプレモダン的な霊性の力を秘めており、あらゆる霊的なエネルギーを喪失した現代社会において宝のような存在として感じる。それらを発見し、守る挑戦が銀河の里の本態ではないかと思う。
グループホームの利用者クミさん(仮名)は、時折「お声」が聞こえる。お声が入ると誰が声をかけようと現実の声はまるで届かなくなる。お声が来る度にクミさんは、「来いと呼ばれた」「待ってるから行かねばねぇ」と荷物を抱えて出かけていく。その都度、職員が一緒に歩いたり、車で迎えに行ったりするのだが、日に7,8回出かけることもある。里から7kmほど離れたところにある実家に向かうことが多いのだが、かなり確実に実家への道をたどる。私も何度かクミさんのそんな旅につきあったことがあるが、クミさんの「ここさ曲がれ、あっちさ行け」との案内で実家に着く。実家は、稲荷神社の入り口を入った奥にあり、日中でも薄暗く、こんもりした立木の中を通り抜ける時に、なぜかヒンヤリした感触が肌に残り、異界に案内されたような気持ちになる。
ある日、深夜3時、クミさんがいないと夜勤者から緊急連絡が入った。寒い夜で降っていたみぞれが雪に変わっていた。理事長や数人の職員で、離ホーム捜索マニュアルに従って各方面の捜索を開始したが、私の中では「あそこだ」という確信めいたものがあった。稲荷神社の奥の実家。草木も眠る丑三つ時の深夜、あの場所へ向かうには、いくらか勇気を必要とした。しかし、そんなことは言っておられない。夜勤者が不在を確認してから1時間以上経っているし、この寒さ。何としても発見しなければ。北上川にかかる橋を渡り、田舎道に入ると、稲荷神社の入り口を過ぎた。「どうか、クミさんと会えますように」と祈りの言葉が口に出る。木立の道を過ぎると家の前で、ぼぉーっと立ちすくむクミさんを見つけた。「良かった!」と一安心。車から降り、「クミさーん」と抱きしめると身体が冷たい。まだ「お声」があるようで「行かねばねぇー」とただならぬ目をして、力が入っている。まだあっちの世界にいる。でも濡れた衣服でこの気温のなか戸惑ってもいられない。「クミさん帰ろう、温かい所に行こう」と強引に助手席に乗せる。多少抵抗はあったが、車に乗ってからは、疲れもあってか、前屈みでぐったりした様子だった。とても話しかけられなかったが、「良かった!いてくれてありがとう!」と涙がこぼれてきて道路の先が滲んで見える。
クミさんを呼ぶ声は、一体どこからやってくるのか?なぜ、みぞれの夜中に、上着も羽織らずに出かけていくのか?クミさんを駆り立てる見えない世界が存在する。夜中に非常口から塀をくぐり抜けて出たり、窓から自分の荷物を全部放り出したり、「お声」は彼女を突き動かす。幻聴、妄想と言ってしまえばそれだけのことだが、クミさんのお声や行動は不思議なことに、クミさんや一族が抱えた現実の出来事や問題と直接に絡んで動いている。親戚の誰かが亡くなられたときには、その前後からお声が激しく、動きが頻繁になる。この夜の外出の時は、クミさんの身元引受人だった弟さんが亡くなり、経済的な問題が持ち上がっていた。クミさんは、弟さんの葬儀に参列はしたものの、クミさんのなかでは弟さんはまだ生きていて、その弟さんの嫁探しをしなければならない。「お声」は、その若い頃に帰る能力とそこを生きる力を感じる。「本家」「カマド」「嫁・姑」といったしがらみと、農家の働き手として頼りにされた、よき時代が併せ被さる。そこはクミさんの人生の「居場所」そのものだったところだ。
一方、現実にいるときのクミさんはめっぽう修羅場に強い。救急車が来たりすると、冷静に準備などを手伝ったり、諍いごとでもめているときには静かに間に入って収めたりもする。「お声」がかかったときの旅は、あらがえない何ものかに誘われているのだろう。スタッフはその都度、知恵を絞りながらクミさんに同行し、その世界に触れさせてもらう。
人間は地上1階に普段は住んでいるが、1階だけではない。地下1階もあるし、さらに地下2階や、その奥もあるらしい。現代は地上1階しかないという前提で世の中が回っている。そこでは人間の持つ全体性は確実に損なわれ、傷つき、癒されることはない。現代人は1階部分に閉じこめられ、自らの階層を自由に行き来することができない状況に追い込まれている。特に若い人たちのこうした状況による傷つきは、暴発的な暴力に至る危険を孕んでいるように思われる。
地上1階にいる介護が必要とアセスメントされたクミさんだけではなく、地下で出会う時空を超えたクミさんも含めて、クミさん本体とも言うべき全体像が浮かび上がってくる。人間の全体像は階層構造を持っており、クミさんの全体像に触れることによって、1階に幽閉された呪縛を解き、そこに関わるスタッフも自らの階層を経験することになる。こうした体感による出会いや経験こそ、たましいの行き交う新たな地平に立つことを可能にし、若い人たちの新たな世界を切り開く「希望」へつながるのではないか。
問題は、時と場所を間違えてこうした「物語」を公にするわけにはいかないということだ。「1Q84」のbook3のように『空気さなぎ』の出版によって、声が聞こえなくなることは起こりうる。深層の物語が隠されて、全体性が損なわれる危険性は自覚しなければならない。
事例に向けて ★特別養護老人ホーム 村上ほなみ【2012年1月号】
「将来は介護の仕事に就く」そう心に決めたのは小学生の頃だった。迷うことなく福祉科のある高校に入った。現場の実習に行き、介護士の仕事を見たり、聞いたりできると期待した。しかし、実際の現場はイメージとかけ離れていて、違和感と苛立ちがつのった。食事を美味しそうに食べている人がいない。自由を奪われたように、言いたいことも言えず、行きたい所にも行けない利用者。トイレに行く時間さえ決められていて「トイレに行きたい」との訴えにため息をつく職員もいた。“これが介護現場の実態なのか…”とうちひしがれる思いだった。入浴介助では、大勢の利用者さんの衣服をどれだけ速く脱がせることができるかとか、時間内に何人の髪を洗えるかということが求められた。入浴後もスイブンセッシュの作業が続き、人と関わることのできない環境だった。“私がやりたいのはこんなことではない”と思った。それでもレポートには「勉強になった」「見習いたい」などと仕方なく書いた。
そんな折り、担任の先生から「この施設、ほなみさんにどうかな…」と、銀河の里を紹介され里のホームページを見た。あまのがわ通信には利用者さんとスタッフのやりとりが細かく書かれ、生き生きした人間関係を感じた。利用者さんだけでなく、スタッフのドキドキやモヤモヤも書かれていて読んでいて面白い。写真には笑顔があふれ、暮らしに満ちた雰囲気が伝わってくる。直感で“私が探していたのはここだ!”と思った。そして実習をお願いした。実際の銀河の里は私がホームページでイメージした以上に人間味にあふれていて、私にとってまさに理想の介護施設だった。柔らかくて温かい雰囲気に満ちていて、利用者さんもそれぞれ好きなことをして活き活きしている。今までの実習での記録は“食事量、排泄チェック、入浴時間”に限られていたが、里のケース記録には、会話や表情、エピソードなどびっしりと書かれているので驚いた。利用者さんの人生に迫ろうとしている。“これだ!私が求めていたところだ”と感激した。
両親は実家から通える沿岸の就職先を望んでいたが、私は反対を押し切って銀河の里に来た。ところが、銀河の里では特養を開設した年で、私はその特養に配属になり、特養立ち上げの緊張感があり、やる気に満ちていた。「牛いるか〜!?」と夜に起きてくる畜産をやっていたという利用者さんなどと出会ってワクワクした。しかし、その頃の特養は他の特養での現場経験のある人達がしきっていて、利用者さんに対する里らしい眼差しは全くなかった。仕事は時間で区切られ、作業をこなすばかりで、高校の時に辟易した実習と同じだった。私としては意欲はあるのだが、高卒の最年少で右も左も解らないまま翻弄されてしまっていた。当初から理事長は個人面談をしてくれていたが、私がつぶれると感じたのか、1ヶ月後グループホームに移動になった。
グループホームは、別天地でやりたいことを思い切りやらせてもらえた。利用者さん一人ひとりとじっくり向き合うことができた。それを支え深めてくれるスタッフがいた。その一方で、特養は益々たいへんなことになっていた。特養を何とかしたいと、半年で私は特養に戻る。
驚いたことに、元いたユニットはさらにひどくなり、すっかり荒んでいた。利用者さんとスタッフの間にきっぱりと線があって、利用者さんと関わろうものなら、たちまち、「話しばかりして仕事をしない」と後ろ指を指されて、嫌がらせをされた。嫌でも時間通りに帰らなければならず、残っていると冷たい視線を浴びた。次第に、何も考えられなくなり、すっかりふさぎ込んでしまった。そんな時、利用者のタクヤさん(仮名)が「いいのか。じっくり考えなさい」といつも私に言葉をくれた。「人と比べられたっていいんです。なんと言われてもやるの!負けるな!!」「ここで終わりと思ったらそこで終わり。上にも下にも人は居ないの。尊重して、付き合うの。やるんだ。」などなど。いつも利用者さんに教えられてきた。
すさんだユニットでは利用者さんもおどおどした感じで、自分を出さず、押し黙って、部屋に閉じこもり続けた。中でもユキさん(仮名)は、以前と全く変わってしまっていた。ユキさんは花や綺麗なものが好きで、生け花や塗り絵など楽しいことをいっぱいしたいと話してくれて、“優しくてかわいいおばあちゃん”という印象で、これからユキさんの暮らしをどう作って行こうか楽しみだった。ところが半年ぶりに特養に戻った時、ユキさんは、心を閉ざし、リビングで笑うこともなくなって、介助に入るスタッフに「殺される!」を連発した。そう言われるスタッフも何とも言えない気持ちだったと思うが、その時期のユニットの雰囲気を考えると、ユキさんの追い詰められた状況に心が痛む。ユキさんらしさが消え、お尻には大きな褥瘡ができていた。寂しがり屋で甘えん坊のユキさんは、関わってもらえず、理解もされない状況に、ひねくれ、荒れていったのだと思う。
お風呂に誘うと「オレばりバカにして!殺す気か!?オレだってタダでここに居るわけでね!みんなと同じようにコーヒー飲ませろ!」と抵抗するユキさん。ビンタを食らったり、引っかかれたりしながらの入浴で、お風呂に入る意味を見失しないそうになったが、そこまで追い込んでしまったのは当時のユニットの雰囲気だった。ユキさんに迫ってユニットを変える挑戦をしようと「ユキさんノート」を作ったが、それは1週間で行方不明になった。「利用者さんと心を開いて気持ちを通わせながら一緒に生きていく」という当たり前のことの実現が、これほど困難なことなのかと信じられない思いだった。当時のスタッフは、時間通りに帰れないとか、余計な仕事をさせられるのではないか等々、裏で噂が飛び交い疑心暗鬼が蔓延し、組織に対する警戒感を募らせていた。私の理想は甘チョロいものでしかなく、私を支えてくれる先輩もたくさんいたのだが、私は立ち向かう力も術も持っていなかった。
どうせアウェイで話しを聞いてもらう人もいないので、私は徹底して居室に入り、利用者さんと付き合うことにした。特にユキさんは手強かったので、ユキさんに関わっていても、スタッフから文句や後ろ指は指されなかった。そのうち、ユキさんのひねくれながらも可愛い性格が見えてきた。すんなりは行かないものの我々の関係は動き始めた。手紙で「今日、一緒にお風呂入ろうね」とイラスト付きで書いて渡すと「オレ、夜入るもん!」とむつくれながらも、その手紙を丁寧にたたんで枕元に置いてくれた。その手紙は2年経った今でもユキさんは持ってくれている。
当時は、私とユキさんとのそんなやりとりを見守ってくれるスタッフは少なく、利用者さんと向き合う前に、スタッフとの戦いがあり、介護にかなりの抵抗をともなうユキさんと向き合うのが辛くなることもあった。
そんな時に私を支えてくれたのが利用者のクニエさん(仮名)だった。クニエさんは寝たきりでほとんどしゃべれないが、心で話せる人だ。リビングでもいつも遠くから私を見ていてくれた。スタッフが気づかないこともクニエさんは解っていてくれた。居室に行くと手を伸ばし私の手を握ってくれて、話を聞いてくれる。その頃から、私はクニエさんの居室で数え切れないほど泣き、笑い、支えてもらった。ユキさんノートが無くなった時も、再びノートを作って戦うべきだったが、さすがに戦意を失っていた。そんな私をクニエさんはかくまってくれた。1人で居ると不安で、クニエさんのところに行った。大きな敵に立ち向かうだけの力は当時の私はなかった。
私はユニットのスタッフとの戦いは組織に任せて、クニエさんに守られながら、ひたすらユキさんに向かった。何度、格闘しても、怒鳴り合って関係がギクシャクしても、いつも最後には繋がってきてくれるのがユキさんで、それが分かるから挑戦することができた。花火大会も2年続けてユキさんとクニエさんの3人で手を繋いで見た。ユキさんの誕生日には旦那さんと住んでいた自宅に行った。大好きなお寿司も食べに行ったし、マルカンドライブにも行った。こうして2年半の間にいろんな物語ができたが、特養2年目はまだまだ厳しい状況が続いた。10月にはたまらず同僚と二人で「みんな辞めさせてください。二人で休み無しでやります」と理事長に訴えたこともあった。無謀な話しだが、幾分私も自信が出てきたのかも知れない。3年目に入って、ユニットのスタッフが一新し、雰囲気は一変した。
そんなユニットの変化と同時に、ユキさんの態度も激変する。男性スタッフの広周さんを恋人兼息子にしてラブラブになった。「広ちゃん、ユキちゃん」で呼び合い、いつも「広ちゃん」が気になるようで、ほとんど動かなくっていたユキさんが自分で車椅子を動かして隣のユニットまで会いに行ったりもした。ある時、ドライブで広周さんの家に遊びに行って家族と一緒に写真をとってきた。本当の家族のように並んで写ったこの写真をユキさんはずっと大切にしている。そしてここに来て二人の関係は少しずつ変わってきている。お互いの“大切” な人という思いは変わらないのだが、ずっとくっついていなくても心は繋がっている感じになってきた。広周さんを遠くから見守っているユキさんがいて、入浴に誘うスタッフが「お風呂から上がるまで広ちゃん待ってるから!」と言うと「広ちゃんは関係ない!広ちゃんとは別!!」と言えるのだ。遠くから息子が頑張る姿を見守る母のように。これから、お互い自分の道を歩もうとしているのだろうか…。
私も今、クニエさんとそれぞれの道を歩み始めた。一体感の中に閉じこもって一緒に居ないと不安になっていた時期を乗り越え、私もクニエさんも違う場所で自分らしさを取り戻しつつある。そこを経験させてくれたユキさんや私の居場所をつくってくれるフキさん(仮名)にも感謝したい。
銀河の里と出会い、特養の立ち上げの濃密な日々を過ごしてきた。その間、たくさんの人と出会い、たくさんの人との別れもあった。3,11の震災では、故郷の町が津波に呑み込まれ、多くの知人が亡くなった。家族とも1週間連絡がつかず不安な日々を過ごした。情報は「沿岸部は壊滅状態」ということばかりで、絶望的な思いに駆られていた。母校の高校は遺体安置所となった。2年後に廃校が決まった。震災直後は不安を抱えながら仕事に打ち込み、利用者さんや業務に向かうことで自身を支えられたと思う。震災は個人的体験を超えて傷が深すぎてまだまだ納めきれない。それでも現場に立ち、利用者さんと向き合う中からしか私の答えは出てこないと思う。この2年半の多くの出会いと別れ、その全てに意味があり、鍛えられてきた感覚を今年は特に身をもって実感した。ふとした瞬間に思い出して心が和んだり、我慢しないで涙を流せたりする私がいる。関係に支えられ、頑張ることができる。利用者さんと語りあったり、大声で怒鳴りあったり、些細なことで笑いあったり…。その一瞬一瞬が感動として思い出として私の心の中に残っていく。
関係性を大切にしようとする里の仕事のありように私は魅力を感じる。銀河の里10周年記念事例集に、私はユキさんとのことを書きたいと思っている。全くの子どもで甘ったれの私が、多くの人に守られながら課題に向きあい、泣きながら挑戦してきたこの2年半。そこにいてくれたクニエさんやユキさんとの人生の一コマに迫ってみたい。ユキさんの変化、ユキさんとのやりとり・格闘。そのなかで自分の感情がどう動いたか、苦闘、辛さ、喜び、感動を書いてみることで、また違うユキさんと出会えると思う。そして、そこに新たな自分を発見していきたい。
そんな折り、担任の先生から「この施設、ほなみさんにどうかな…」と、銀河の里を紹介され里のホームページを見た。あまのがわ通信には利用者さんとスタッフのやりとりが細かく書かれ、生き生きした人間関係を感じた。利用者さんだけでなく、スタッフのドキドキやモヤモヤも書かれていて読んでいて面白い。写真には笑顔があふれ、暮らしに満ちた雰囲気が伝わってくる。直感で“私が探していたのはここだ!”と思った。そして実習をお願いした。実際の銀河の里は私がホームページでイメージした以上に人間味にあふれていて、私にとってまさに理想の介護施設だった。柔らかくて温かい雰囲気に満ちていて、利用者さんもそれぞれ好きなことをして活き活きしている。今までの実習での記録は“食事量、排泄チェック、入浴時間”に限られていたが、里のケース記録には、会話や表情、エピソードなどびっしりと書かれているので驚いた。利用者さんの人生に迫ろうとしている。“これだ!私が求めていたところだ”と感激した。
両親は実家から通える沿岸の就職先を望んでいたが、私は反対を押し切って銀河の里に来た。ところが、銀河の里では特養を開設した年で、私はその特養に配属になり、特養立ち上げの緊張感があり、やる気に満ちていた。「牛いるか〜!?」と夜に起きてくる畜産をやっていたという利用者さんなどと出会ってワクワクした。しかし、その頃の特養は他の特養での現場経験のある人達がしきっていて、利用者さんに対する里らしい眼差しは全くなかった。仕事は時間で区切られ、作業をこなすばかりで、高校の時に辟易した実習と同じだった。私としては意欲はあるのだが、高卒の最年少で右も左も解らないまま翻弄されてしまっていた。当初から理事長は個人面談をしてくれていたが、私がつぶれると感じたのか、1ヶ月後グループホームに移動になった。
グループホームは、別天地でやりたいことを思い切りやらせてもらえた。利用者さん一人ひとりとじっくり向き合うことができた。それを支え深めてくれるスタッフがいた。その一方で、特養は益々たいへんなことになっていた。特養を何とかしたいと、半年で私は特養に戻る。
驚いたことに、元いたユニットはさらにひどくなり、すっかり荒んでいた。利用者さんとスタッフの間にきっぱりと線があって、利用者さんと関わろうものなら、たちまち、「話しばかりして仕事をしない」と後ろ指を指されて、嫌がらせをされた。嫌でも時間通りに帰らなければならず、残っていると冷たい視線を浴びた。次第に、何も考えられなくなり、すっかりふさぎ込んでしまった。そんな時、利用者のタクヤさん(仮名)が「いいのか。じっくり考えなさい」といつも私に言葉をくれた。「人と比べられたっていいんです。なんと言われてもやるの!負けるな!!」「ここで終わりと思ったらそこで終わり。上にも下にも人は居ないの。尊重して、付き合うの。やるんだ。」などなど。いつも利用者さんに教えられてきた。
すさんだユニットでは利用者さんもおどおどした感じで、自分を出さず、押し黙って、部屋に閉じこもり続けた。中でもユキさん(仮名)は、以前と全く変わってしまっていた。ユキさんは花や綺麗なものが好きで、生け花や塗り絵など楽しいことをいっぱいしたいと話してくれて、“優しくてかわいいおばあちゃん”という印象で、これからユキさんの暮らしをどう作って行こうか楽しみだった。ところが半年ぶりに特養に戻った時、ユキさんは、心を閉ざし、リビングで笑うこともなくなって、介助に入るスタッフに「殺される!」を連発した。そう言われるスタッフも何とも言えない気持ちだったと思うが、その時期のユニットの雰囲気を考えると、ユキさんの追い詰められた状況に心が痛む。ユキさんらしさが消え、お尻には大きな褥瘡ができていた。寂しがり屋で甘えん坊のユキさんは、関わってもらえず、理解もされない状況に、ひねくれ、荒れていったのだと思う。
お風呂に誘うと「オレばりバカにして!殺す気か!?オレだってタダでここに居るわけでね!みんなと同じようにコーヒー飲ませろ!」と抵抗するユキさん。ビンタを食らったり、引っかかれたりしながらの入浴で、お風呂に入る意味を見失しないそうになったが、そこまで追い込んでしまったのは当時のユニットの雰囲気だった。ユキさんに迫ってユニットを変える挑戦をしようと「ユキさんノート」を作ったが、それは1週間で行方不明になった。「利用者さんと心を開いて気持ちを通わせながら一緒に生きていく」という当たり前のことの実現が、これほど困難なことなのかと信じられない思いだった。当時のスタッフは、時間通りに帰れないとか、余計な仕事をさせられるのではないか等々、裏で噂が飛び交い疑心暗鬼が蔓延し、組織に対する警戒感を募らせていた。私の理想は甘チョロいものでしかなく、私を支えてくれる先輩もたくさんいたのだが、私は立ち向かう力も術も持っていなかった。
どうせアウェイで話しを聞いてもらう人もいないので、私は徹底して居室に入り、利用者さんと付き合うことにした。特にユキさんは手強かったので、ユキさんに関わっていても、スタッフから文句や後ろ指は指されなかった。そのうち、ユキさんのひねくれながらも可愛い性格が見えてきた。すんなりは行かないものの我々の関係は動き始めた。手紙で「今日、一緒にお風呂入ろうね」とイラスト付きで書いて渡すと「オレ、夜入るもん!」とむつくれながらも、その手紙を丁寧にたたんで枕元に置いてくれた。その手紙は2年経った今でもユキさんは持ってくれている。
当時は、私とユキさんとのそんなやりとりを見守ってくれるスタッフは少なく、利用者さんと向き合う前に、スタッフとの戦いがあり、介護にかなりの抵抗をともなうユキさんと向き合うのが辛くなることもあった。
そんな時に私を支えてくれたのが利用者のクニエさん(仮名)だった。クニエさんは寝たきりでほとんどしゃべれないが、心で話せる人だ。リビングでもいつも遠くから私を見ていてくれた。スタッフが気づかないこともクニエさんは解っていてくれた。居室に行くと手を伸ばし私の手を握ってくれて、話を聞いてくれる。その頃から、私はクニエさんの居室で数え切れないほど泣き、笑い、支えてもらった。ユキさんノートが無くなった時も、再びノートを作って戦うべきだったが、さすがに戦意を失っていた。そんな私をクニエさんはかくまってくれた。1人で居ると不安で、クニエさんのところに行った。大きな敵に立ち向かうだけの力は当時の私はなかった。
私はユニットのスタッフとの戦いは組織に任せて、クニエさんに守られながら、ひたすらユキさんに向かった。何度、格闘しても、怒鳴り合って関係がギクシャクしても、いつも最後には繋がってきてくれるのがユキさんで、それが分かるから挑戦することができた。花火大会も2年続けてユキさんとクニエさんの3人で手を繋いで見た。ユキさんの誕生日には旦那さんと住んでいた自宅に行った。大好きなお寿司も食べに行ったし、マルカンドライブにも行った。こうして2年半の間にいろんな物語ができたが、特養2年目はまだまだ厳しい状況が続いた。10月にはたまらず同僚と二人で「みんな辞めさせてください。二人で休み無しでやります」と理事長に訴えたこともあった。無謀な話しだが、幾分私も自信が出てきたのかも知れない。3年目に入って、ユニットのスタッフが一新し、雰囲気は一変した。
そんなユニットの変化と同時に、ユキさんの態度も激変する。男性スタッフの広周さんを恋人兼息子にしてラブラブになった。「広ちゃん、ユキちゃん」で呼び合い、いつも「広ちゃん」が気になるようで、ほとんど動かなくっていたユキさんが自分で車椅子を動かして隣のユニットまで会いに行ったりもした。ある時、ドライブで広周さんの家に遊びに行って家族と一緒に写真をとってきた。本当の家族のように並んで写ったこの写真をユキさんはずっと大切にしている。そしてここに来て二人の関係は少しずつ変わってきている。お互いの“大切” な人という思いは変わらないのだが、ずっとくっついていなくても心は繋がっている感じになってきた。広周さんを遠くから見守っているユキさんがいて、入浴に誘うスタッフが「お風呂から上がるまで広ちゃん待ってるから!」と言うと「広ちゃんは関係ない!広ちゃんとは別!!」と言えるのだ。遠くから息子が頑張る姿を見守る母のように。これから、お互い自分の道を歩もうとしているのだろうか…。
私も今、クニエさんとそれぞれの道を歩み始めた。一体感の中に閉じこもって一緒に居ないと不安になっていた時期を乗り越え、私もクニエさんも違う場所で自分らしさを取り戻しつつある。そこを経験させてくれたユキさんや私の居場所をつくってくれるフキさん(仮名)にも感謝したい。
銀河の里と出会い、特養の立ち上げの濃密な日々を過ごしてきた。その間、たくさんの人と出会い、たくさんの人との別れもあった。3,11の震災では、故郷の町が津波に呑み込まれ、多くの知人が亡くなった。家族とも1週間連絡がつかず不安な日々を過ごした。情報は「沿岸部は壊滅状態」ということばかりで、絶望的な思いに駆られていた。母校の高校は遺体安置所となった。2年後に廃校が決まった。震災直後は不安を抱えながら仕事に打ち込み、利用者さんや業務に向かうことで自身を支えられたと思う。震災は個人的体験を超えて傷が深すぎてまだまだ納めきれない。それでも現場に立ち、利用者さんと向き合う中からしか私の答えは出てこないと思う。この2年半の多くの出会いと別れ、その全てに意味があり、鍛えられてきた感覚を今年は特に身をもって実感した。ふとした瞬間に思い出して心が和んだり、我慢しないで涙を流せたりする私がいる。関係に支えられ、頑張ることができる。利用者さんと語りあったり、大声で怒鳴りあったり、些細なことで笑いあったり…。その一瞬一瞬が感動として思い出として私の心の中に残っていく。
関係性を大切にしようとする里の仕事のありように私は魅力を感じる。銀河の里10周年記念事例集に、私はユキさんとのことを書きたいと思っている。全くの子どもで甘ったれの私が、多くの人に守られながら課題に向きあい、泣きながら挑戦してきたこの2年半。そこにいてくれたクニエさんやユキさんとの人生の一コマに迫ってみたい。ユキさんの変化、ユキさんとのやりとり・格闘。そのなかで自分の感情がどう動いたか、苦闘、辛さ、喜び、感動を書いてみることで、また違うユキさんと出会えると思う。そして、そこに新たな自分を発見していきたい。
聖なる夜に ★特別養護老人ホーム 田村成美【2012年1月号】
11月の「里の音楽祭」がきっかけで、私は以前弾いていたエレクトーンを無性に触りたくなった。特養で弾いたらどうなるのだろう。利用者のトヨミさん(仮名)や康子さん(仮名)は音楽が大好きだから喜んでくれるんじゃないかな…。緊張するだろうな・・・。などいろいろ思い浮かぶ。施設長、理事長に気持ちを伝えると、即座に家でほこりをかぶっていたエレクトーンの搬送費用を出してくれて「盛り上げてくださいね」と背中を押してくれた。
テレビより先にキーボードを買ってしまったことや、音楽を再開したいことなど相談していたギター弾きの酒井さんも、エレクトーンが届く話しをすると、「よし!じゃあ、クリスマスにはライブだ!!」と応えてくれた。こうして私のデビューが決まり、約5年ぶりにエレクトーンに向かった。
ところがいざはじめて見ると指も足も全く動かない…。“クリスマス酒井・田村ライブ!”と称したものの不安と焦りのなか、必死に練習をした。エレクトーンなので、音を消してヘッドホンで練習できる。交流ホールのクリスマスツリーの陰に隠れて密かに練習していると利用者の康子さんに見つかった。ヘッドホンから漏れる小さな音にニコニコと耳を傾けてくれている。合間に「孫っこみたいだ。ありがとう。もう少し。」と練習に付き合ってくれた。あまりの出来の悪さにへこみながらの練習だったが、康子さんはありがたかった。
おかげで何とか2曲仕上げ、いよいよ本番のクリスマスの夜がやってきた。三浦さんが正装したバーテンダーになりカクテルを出す。鎌倉欧林洞(おうりんどう)の味を凌駕したと厨房スタッフが豪語する自慢のパウンドケーキと里のリンゴで作ったフルーツなど、里ならではの料理が並ぶ。ライブハウス風の交流ホールは雰囲気バッチリで、集まった満員のお客さんで賑わっていた。ライブを数々こなしてきた酒井さんのギターで、ノリノリの演奏がはじまった。
しかし私は余裕などない。「やば、やば、やばーい!」と心の中で叫び続ける。あまりの緊張にお酒の力を借りようと梅酒を少々飲むつもりが、実はガブッといってしまったようだ。自分の出番では、アルコールがまわったのと緊張でグルグル、頭は真っ白。演奏中の記憶はない。たった3分の演奏なのにいっぱい間違った。それでも演奏が終わった途端、わっとたくさんの拍手がやってきたので感動して照れた。嬉しいアンコールをもらったが、持ち駒は2曲だけなので応えられなかった。 (次こそは!)
ライブ後の拍手でまだ緊張も興奮も冷めないなか、酒井さんが私に「コラさん(仮名)、何か言ってるぞ〜。」と伝えてくれた。我に返りコラさんの傍らに向かう。
コラさんは、銀河の里6年目の利用者だが、在宅の頃からのお付き合いがあり、なかなかの猛者で、強烈な個性のパワフルな91歳のばあちゃんだ。9月にユニット「こと」に移ったとき、私はこの大物コラさんとつきあっていけるのかと、たじろいだ。でも最初の戸惑いはすぐに消え、コラさんの世界に入れてもらえた感じで、唄ったり一緒に叫んだり、冗談を言ったりしながら、毎日ケンカをする過激な関わりをさせてもらっている。コラさんは人をよく見ている。見抜く感じだ。私はいつも痛いとこをつかれて怒られる。色んな言葉をもらう。そんなコラさんに私はクリスマス会のことをサラッと誘っていた。コラさんは演歌とか民謡とかが好きで、私はエレクトーンとコラさんは結びつかず、あまり楽しめないのではないかと思っていた。
ところが意外にコラさんはとても楽しみにしてくれたようで、「今日は柔道の姉っこ(私は柔道をやっていたのでコラさんからそう呼ばれている)のピアノを聴くまで寝ません。それ聴くまで寝ません!」と何度も言っていたと後で聞いてびっくりした。
いつもコラさんのもとへ行くと何を言われるかドキドキする。ところが、このときは興奮気味に「柔道の姉っこ、本当にいがったよ〜!生きてる感じがした!見直した。大好きだーっ!」と言ってくれた。声を震わせ、涙を浮かべて、今までに見たことない表情で言うので心に響いた。「生きてる感じがした」という言葉に私は思わず涙がでた。「そんなこと言ってもらって…私もコラさん大好きだ〜い!(涙)」と抱き合った。まさかコラさんが私なんかのエレクトーンで感動してくれるとは思わなかった。コラさんに初めてほめてもらった!と感激した。翌日になっても絶賛して褒めてくれるので、今日は怒られないですむのかな!?と思ったが、それは甘く、あとでガッツリ怒られた。99パーセント怒られ、たまに褒められるのがコラさんと私の距離なのかな。でも嬉しいことに、いつも入浴は移乗の不安のためか「男の人としか入らん!」と言っていたのに、「柔道の姉っこ」と指名してくれた。私もコラさんのもとで成長できているということだろうか…。エレクトーンの腕を磨き、弾ける曲を増やして、コラさんを楽しませたい。
テレビより先にキーボードを買ってしまったことや、音楽を再開したいことなど相談していたギター弾きの酒井さんも、エレクトーンが届く話しをすると、「よし!じゃあ、クリスマスにはライブだ!!」と応えてくれた。こうして私のデビューが決まり、約5年ぶりにエレクトーンに向かった。
ところがいざはじめて見ると指も足も全く動かない…。“クリスマス酒井・田村ライブ!”と称したものの不安と焦りのなか、必死に練習をした。エレクトーンなので、音を消してヘッドホンで練習できる。交流ホールのクリスマスツリーの陰に隠れて密かに練習していると利用者の康子さんに見つかった。ヘッドホンから漏れる小さな音にニコニコと耳を傾けてくれている。合間に「孫っこみたいだ。ありがとう。もう少し。」と練習に付き合ってくれた。あまりの出来の悪さにへこみながらの練習だったが、康子さんはありがたかった。
おかげで何とか2曲仕上げ、いよいよ本番のクリスマスの夜がやってきた。三浦さんが正装したバーテンダーになりカクテルを出す。鎌倉欧林洞(おうりんどう)の味を凌駕したと厨房スタッフが豪語する自慢のパウンドケーキと里のリンゴで作ったフルーツなど、里ならではの料理が並ぶ。ライブハウス風の交流ホールは雰囲気バッチリで、集まった満員のお客さんで賑わっていた。ライブを数々こなしてきた酒井さんのギターで、ノリノリの演奏がはじまった。
しかし私は余裕などない。「やば、やば、やばーい!」と心の中で叫び続ける。あまりの緊張にお酒の力を借りようと梅酒を少々飲むつもりが、実はガブッといってしまったようだ。自分の出番では、アルコールがまわったのと緊張でグルグル、頭は真っ白。演奏中の記憶はない。たった3分の演奏なのにいっぱい間違った。それでも演奏が終わった途端、わっとたくさんの拍手がやってきたので感動して照れた。嬉しいアンコールをもらったが、持ち駒は2曲だけなので応えられなかった。 (次こそは!)
ライブ後の拍手でまだ緊張も興奮も冷めないなか、酒井さんが私に「コラさん(仮名)、何か言ってるぞ〜。」と伝えてくれた。我に返りコラさんの傍らに向かう。
コラさんは、銀河の里6年目の利用者だが、在宅の頃からのお付き合いがあり、なかなかの猛者で、強烈な個性のパワフルな91歳のばあちゃんだ。9月にユニット「こと」に移ったとき、私はこの大物コラさんとつきあっていけるのかと、たじろいだ。でも最初の戸惑いはすぐに消え、コラさんの世界に入れてもらえた感じで、唄ったり一緒に叫んだり、冗談を言ったりしながら、毎日ケンカをする過激な関わりをさせてもらっている。コラさんは人をよく見ている。見抜く感じだ。私はいつも痛いとこをつかれて怒られる。色んな言葉をもらう。そんなコラさんに私はクリスマス会のことをサラッと誘っていた。コラさんは演歌とか民謡とかが好きで、私はエレクトーンとコラさんは結びつかず、あまり楽しめないのではないかと思っていた。
ところが意外にコラさんはとても楽しみにしてくれたようで、「今日は柔道の姉っこ(私は柔道をやっていたのでコラさんからそう呼ばれている)のピアノを聴くまで寝ません。それ聴くまで寝ません!」と何度も言っていたと後で聞いてびっくりした。
いつもコラさんのもとへ行くと何を言われるかドキドキする。ところが、このときは興奮気味に「柔道の姉っこ、本当にいがったよ〜!生きてる感じがした!見直した。大好きだーっ!」と言ってくれた。声を震わせ、涙を浮かべて、今までに見たことない表情で言うので心に響いた。「生きてる感じがした」という言葉に私は思わず涙がでた。「そんなこと言ってもらって…私もコラさん大好きだ〜い!(涙)」と抱き合った。まさかコラさんが私なんかのエレクトーンで感動してくれるとは思わなかった。コラさんに初めてほめてもらった!と感激した。翌日になっても絶賛して褒めてくれるので、今日は怒られないですむのかな!?と思ったが、それは甘く、あとでガッツリ怒られた。99パーセント怒られ、たまに褒められるのがコラさんと私の距離なのかな。でも嬉しいことに、いつも入浴は移乗の不安のためか「男の人としか入らん!」と言っていたのに、「柔道の姉っこ」と指名してくれた。私もコラさんのもとで成長できているということだろうか…。エレクトーンの腕を磨き、弾ける曲を増やして、コラさんを楽しませたい。
フユさんとの年越し ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2012年1月号】
以前オーストラリアで経験した年越しは、ファミリーやフレンドが集まってクリスマスやニューイヤーのパーティーするのだが、文化的な“時節”や“節目”は感じられず、大騒ぎするだけでどこか物足りなさを感じたのを思い出す。日本では、クリスマスが終わると一気にお正月ムードになり、新年を迎える。餅つきをし、大掃除をして家中を清め、しめ縄を飾る。準備が進んでくるほどに「あぁ、今年もまた一年が終わるのかぁ」という実感が湧いてくる。子どもも大晦日だけは夜更かしが許されて、こたつを囲んでみかんを食べながら紅白歌合戦を鑑賞。いろいろあった一年だったなぁ…と振り返りながら年越しそばを味わう。年が明けると神社に初詣に行き、親戚の家をまわって新年のご挨拶。お年玉をもらって大人よりも金持ちになった気分。書き初めをして新年の抱負を掲げ、あとは宿題に追われつつもお雑煮など食べながら寝正月を決め込んでのらりくらり…。
こうした子供の頃から親兄弟と過ごしてきたお正月は、今は銀河の里で“じいちゃんばあちゃんとの正月”になった。しめ縄を飾り付けるのは「不浄のおなごではなく男さんの仕事」と言われたり、おせち料理は「まめまめしく稼ぐための黒豆、縁起の良いよろこんぶ、腰が曲がるまで長生きするようにと海老」…等々、料理にまつわるいわれが語られる。一緒に年賀状を書き、遠くに暮らす娘さんや息子さんに「元気で、好きにやって暮らせ」とのメッセージを記す姿に感動。神社の神様よりもリアリティのある生き神様たちとの初詣。権現舞の獅子よりも神々しい雄叫び?!…etc. 毎年いろんな物語がうまれる。今年で三度目となる特養の年末年始、今年はどんな年越しになるのか楽しみにしていた。
クリスマスは田村さんが酒井さんと初ユニットを組んでデビューした。おまけに利用者さんからのリクエストで急遽決まった“冬さんさ”も加わり盛会となった。日常ほとんど眠りの世界にいて、たまにこちらに帰ってきて話をしてくれる感じのフユさん(仮名)も、クリスマス会では音楽に合わせてヒラヒラと手を揺らしていた。さんさのかけ声「えんやっさ、えんやっさ〜♪」に「よいっとな〜、よいっとな♪」とちょっと場違いな独自のリズムを刻んでいる!そしてギターやエレクトンの演奏が一曲終わるごとに「いいじょ〜!」と満面の笑みで合いの手を入れてくれる!いつも眠りの世界に生きているフユさんが、この日は主役でしっかりこちらにいて参加してくれたのが嬉しい。部屋に帰って横になってもウトウト眠りながら、手だけはヒラヒラと踊り続けていた。
朝、起こすと「おかげさんだった〜、家の中、掃除してもらったった〜」と夢の話を語ってくれたり、リビングにしめ縄飾りがかけられると一番に手を合わせたり、フユさんが正月気分を盛り上げてくれる。 大晦日の夜は、ほくと,すばるの2ユニット合同で夜更 かしの計画だった。こたつを並べ、お菓子やお酒も準備して、紅白歌合戦を見ながら、利用者もスタッフもまったりする。テレビの歌に食い入って見ている祥子さん(仮名)。目の前のお菓子を片っ端から食べているカヨさん(仮名)。普段は歌など歌う人ではない茂樹さん(仮名)がニコニコで「北国の春」を熱唱。寝たきりでいつもあっちの世界にいるような葵さん(仮名)は、さぶちゃんで拳が上がり、津軽海峡で一筋の涙を流した。「我が家のこたつでくつろいでます」といった雰囲気のミズホさん(仮名)が「先生、今日はうちに泊まってってくださいねぇ」と誘ってくれたり。それぞれがそれぞれに“らしさ”満開だ。
フユさんとフキさん(仮名)はソファに並んで座っている。二人は隣同士別のユニットにいるのだが、フキさんは普段から「フユちゃん、可愛い」と慕っている。そんなツーショットをほほえましく感じていると、例のごとくウトウト気味なフユさんが、お酒も呑んでいないのに「家さ行っていっぺぇ呑んできた〜♪」と酔った陽気な雰囲気を語る。フキさんも肩にもたれかかってくるフユさんを受け止めて「とってもニコニコだよ〜」と笑っている。時々ふわぁっと目を開け、「どこでも好きなところさ連れて行け〜」とか「好きなもの、なんでもけ〜(食べろ)」などと語るフユさんに、「そんだそんだ、どっこさでも連れてけ〜♪」「なぁに食ったった?うめかったぞ〜い♪」と柔らかく返すフキさん。そう言われたフユさんも「うわっはははぁ〜い♪」と大笑いするので、傍らにいる私もフキさんもすごぉく幸せな気持ちになる。とうとう三人で大笑いになった。テレビを見ていた祥子さんやカナさん(仮名)も「何事?」とこちらを見る。「あ〜あ、笑った笑った(涙)」とフキさん、「んだなぁ、好きなもの、腹いっぺぇ食ったっくらい、笑ったなぁ」とフユさん。そのセリフにまたもや幸せな笑いが込み上げる三人だった。
カウントダウンの頃にはすっかり寝入ってしまったフユさんを、最後まで肩に抱いてくれていたフキさんに「今年もよろしくね」と新年のご挨拶。年越しを大笑いで一緒に過ごせてよかったねと、枕元でフユさんの寝顔を見ながらしみじみ思う。大変なことがあった一年だったけど、こうやって利用者さんに支えられて里の毎日がある…、今年も一日いちにちを大切にして、生まれてくる物語を紡いでいこう…、「フユさん、ありがとね。」と語りかけると、うわごとで「…ありがとや〜」が返ってきた。
こうした子供の頃から親兄弟と過ごしてきたお正月は、今は銀河の里で“じいちゃんばあちゃんとの正月”になった。しめ縄を飾り付けるのは「不浄のおなごではなく男さんの仕事」と言われたり、おせち料理は「まめまめしく稼ぐための黒豆、縁起の良いよろこんぶ、腰が曲がるまで長生きするようにと海老」…等々、料理にまつわるいわれが語られる。一緒に年賀状を書き、遠くに暮らす娘さんや息子さんに「元気で、好きにやって暮らせ」とのメッセージを記す姿に感動。神社の神様よりもリアリティのある生き神様たちとの初詣。権現舞の獅子よりも神々しい雄叫び?!…etc. 毎年いろんな物語がうまれる。今年で三度目となる特養の年末年始、今年はどんな年越しになるのか楽しみにしていた。
クリスマスは田村さんが酒井さんと初ユニットを組んでデビューした。おまけに利用者さんからのリクエストで急遽決まった“冬さんさ”も加わり盛会となった。日常ほとんど眠りの世界にいて、たまにこちらに帰ってきて話をしてくれる感じのフユさん(仮名)も、クリスマス会では音楽に合わせてヒラヒラと手を揺らしていた。さんさのかけ声「えんやっさ、えんやっさ〜♪」に「よいっとな〜、よいっとな♪」とちょっと場違いな独自のリズムを刻んでいる!そしてギターやエレクトンの演奏が一曲終わるごとに「いいじょ〜!」と満面の笑みで合いの手を入れてくれる!いつも眠りの世界に生きているフユさんが、この日は主役でしっかりこちらにいて参加してくれたのが嬉しい。部屋に帰って横になってもウトウト眠りながら、手だけはヒラヒラと踊り続けていた。
朝、起こすと「おかげさんだった〜、家の中、掃除してもらったった〜」と夢の話を語ってくれたり、リビングにしめ縄飾りがかけられると一番に手を合わせたり、フユさんが正月気分を盛り上げてくれる。 大晦日の夜は、ほくと,すばるの2ユニット合同で夜更 かしの計画だった。こたつを並べ、お菓子やお酒も準備して、紅白歌合戦を見ながら、利用者もスタッフもまったりする。テレビの歌に食い入って見ている祥子さん(仮名)。目の前のお菓子を片っ端から食べているカヨさん(仮名)。普段は歌など歌う人ではない茂樹さん(仮名)がニコニコで「北国の春」を熱唱。寝たきりでいつもあっちの世界にいるような葵さん(仮名)は、さぶちゃんで拳が上がり、津軽海峡で一筋の涙を流した。「我が家のこたつでくつろいでます」といった雰囲気のミズホさん(仮名)が「先生、今日はうちに泊まってってくださいねぇ」と誘ってくれたり。それぞれがそれぞれに“らしさ”満開だ。
フユさんとフキさん(仮名)はソファに並んで座っている。二人は隣同士別のユニットにいるのだが、フキさんは普段から「フユちゃん、可愛い」と慕っている。そんなツーショットをほほえましく感じていると、例のごとくウトウト気味なフユさんが、お酒も呑んでいないのに「家さ行っていっぺぇ呑んできた〜♪」と酔った陽気な雰囲気を語る。フキさんも肩にもたれかかってくるフユさんを受け止めて「とってもニコニコだよ〜」と笑っている。時々ふわぁっと目を開け、「どこでも好きなところさ連れて行け〜」とか「好きなもの、なんでもけ〜(食べろ)」などと語るフユさんに、「そんだそんだ、どっこさでも連れてけ〜♪」「なぁに食ったった?うめかったぞ〜い♪」と柔らかく返すフキさん。そう言われたフユさんも「うわっはははぁ〜い♪」と大笑いするので、傍らにいる私もフキさんもすごぉく幸せな気持ちになる。とうとう三人で大笑いになった。テレビを見ていた祥子さんやカナさん(仮名)も「何事?」とこちらを見る。「あ〜あ、笑った笑った(涙)」とフキさん、「んだなぁ、好きなもの、腹いっぺぇ食ったっくらい、笑ったなぁ」とフユさん。そのセリフにまたもや幸せな笑いが込み上げる三人だった。
カウントダウンの頃にはすっかり寝入ってしまったフユさんを、最後まで肩に抱いてくれていたフキさんに「今年もよろしくね」と新年のご挨拶。年越しを大笑いで一緒に過ごせてよかったねと、枕元でフユさんの寝顔を見ながらしみじみ思う。大変なことがあった一年だったけど、こうやって利用者さんに支えられて里の毎日がある…、今年も一日いちにちを大切にして、生まれてくる物語を紡いでいこう…、「フユさん、ありがとね。」と語りかけると、うわごとで「…ありがとや〜」が返ってきた。
カナさんパワーとコーヒーブレイク ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2012年1月号】
月に数回、ショートステイを利用されるカナさん(仮名)は、もと小学校の先生で、丁寧な言葉使いで、誰にも敬語で話をされる。小柄なおばあさんなのだが、ものすごいパワーで圧倒される。その中核は質問攻めだ。何度も同じ質問が一日中繰り返される。こちらはヘロヘロになるのだが、カナさんは全く疲れた様子もなくさらに質問してくる。「どのような理由でここに連れてこられたのですか?」「私1人で来る訳がないし、歩いてきた覚えも爪のかけらほども頭には残っておりません。誰に連れてこられたのですか?」「家族と話がしたいです。電話を繋いでください。」と一日中質問してくる。それに対して、スタッフも現実的に説明したり少し話をずらしたりしてみるが、その場では納得したようでもまたすぐ、リセットされ同じ質問がとんでくる。どうやってもおさまらず「事務所へ行って聞いてきます。」と、小さな体で車椅子を凄いスピードで飛ばして事務所に向かう。その迫力は誰もが驚くが、実際出くわして見てみなければその圧倒感はわからないだろう。
12月も4泊5日でショートステイを利用された。初日は、ニコニコで他の利用者さんとも話が弾みゆったりと過ごしていたカナさんだった。しかし、2日目からは例のごとく理由や説明を求める質問で一日中過ごした。3日目も、お昼過ぎから夕方まで質問が続き、日が暮れるにつれて、さらにヒートアップしていった。「帰れないのはとっくに分かっている。でも、今はその気持ちをとうに超えてます!今日のことは今日のうちにやるのです!明日ではないのです!家に電話を繋いでください!!」と大きな声で言うカナさん。もうカナさん自身もしんどいだろうなと感じ、自分もいっぱいいっぱいになり逃げ出したくなる。そんな気持ちは同じように1日中それを見ていた利用者さんたちにもあったようで「オラもうだめだ!オメの話ばり聞いていたけども疲れた。風呂さ入って来る!」とカナさんと一緒にいた桃子さん(仮名)が席を立つ。桃子さんはカナさんの事をいつも気にかけてくれていたが、カナさんの気持ちに感情移入しすぎて辛くなってしまったようだ。「いい加減にしなさいよ!なに言ったってしょうがないことだってあるのよ!」と、江戸っ子の邦恵さん(仮名)が言い放つ。「オメばりでねぇ。オラだってホントは電話したいんだ。孫さ電話してけろ!」と、いつも無口の紀子さん(仮名)も、お孫さんに電話をかける。「ちょっと!オレのこと部屋さ連れてって寝かせてけろ!」と、リビングでぐっすりだったサチさん(仮名)が言う。サチさんは、独特の世界にいつもいる人で、ここまでハッキリと現実的なことを言うのはめずらしい。常時リビングから出て、車いす散歩をしている康子さん(仮名)は、夕食に帰ってきたもののリビングから賑やかなバトルに入って来れず、散歩コースを何周もしていた。経管栄養で寝たきりのコズエさん(仮名)は、いつもは言葉をハッキリと言えないのだが、この日はハッキリと「オラも帰りたい〜!」と声を出す。カナさんに刺激されてみんな動いた。その後、カナさんは1度居室に戻り、5分後に再びリビングに出てきて「なぜここに連れてこられたんでしょうか。」と再開した。あげくに「タクシーで帰りますので。」と玄関へ向かう。「外は大雪だよ。凍えてしまうんだよ。明るくなってからの方がいいんじゃない?」と止めると、「あなたはひどい人です。あなたの仕事の都合には合わせられません。」とピシャリ!私はむきになって「今のはカナさんの事を思って言ったんだ。仕事だからとかじゃない!」と強めに抗議する。すると、少し考えてから「じゃあ私に出て行けと言ってください。そして外に放り投げてください。」と返してきた。「そんなことしたらカナさんはどうなるの?」と問い返すと、「私は凍え死にます。ただし、あなたにも罪はあると思います。だから裁判になるでしょうね。」と言い残し玄関へ向かう。もうどうしていいのかわからなくなりながら玄関までついていった。カナさんは玄関の自動ドアを開けた。「カナさん出て行くんだね?俺はここまで着いて来たけど、ココから先は犯罪者になってしまうので何もしません。俺にはまだまだやりたいこともあるし、夢もあります。だからここで犯罪者になったらば困ります。」と突き放す感じで言った。このとき自分でもひどいなぁと思いながら限界だった。数秒の沈黙のあと。カナさんはケロッとした顔で「何のことですか?ところで、ここを開けていると寒いです。閉めてなにか暖かい飲み物でも飲みたいですね♪」と笑顔で言うではないか。一気に力が抜けた。「…じゃあ甘くて暖かいコーヒーでも飲みますか。」と言うと「わぁ!嬉しいです♪」とUターンをして、またものすごいスピードでユニットに帰って行った。
この後も、また「誰にここに連れてこられたんだっけ」と何回か問いただしてはいたが、「今日はもう暗いので泊まっていきます。」と自分でちゃんと落ち着くカナさんだった。
カナさんが毎回、「誰に連れてこられたのか」と問いただすのはなぜなのか、何が引っかかっているのか、私も現実を突きつけるだけでなく、一緒に考えてみようと思う。
そして、今回感じたのは、他の利用者さんたちのまなざしだ。こんなにいろいろと起こるのは、知らん顔や他人事ではなく、自分のことのように気持ちを入れて見守っている利用者さんたちのまなざしの鋭さだ。カナさんのみんなを引きつける力と、それを受け止めての利用者さんたちのこころの動きがユニットのダイナミズムとして動くのを感じた。みんな介護度の高い人で体は動けないのに、パワーは凄い。里では「介護度ではなく妖怪度が大事」と言われるのがわかるような気がした。
12月も4泊5日でショートステイを利用された。初日は、ニコニコで他の利用者さんとも話が弾みゆったりと過ごしていたカナさんだった。しかし、2日目からは例のごとく理由や説明を求める質問で一日中過ごした。3日目も、お昼過ぎから夕方まで質問が続き、日が暮れるにつれて、さらにヒートアップしていった。「帰れないのはとっくに分かっている。でも、今はその気持ちをとうに超えてます!今日のことは今日のうちにやるのです!明日ではないのです!家に電話を繋いでください!!」と大きな声で言うカナさん。もうカナさん自身もしんどいだろうなと感じ、自分もいっぱいいっぱいになり逃げ出したくなる。そんな気持ちは同じように1日中それを見ていた利用者さんたちにもあったようで「オラもうだめだ!オメの話ばり聞いていたけども疲れた。風呂さ入って来る!」とカナさんと一緒にいた桃子さん(仮名)が席を立つ。桃子さんはカナさんの事をいつも気にかけてくれていたが、カナさんの気持ちに感情移入しすぎて辛くなってしまったようだ。「いい加減にしなさいよ!なに言ったってしょうがないことだってあるのよ!」と、江戸っ子の邦恵さん(仮名)が言い放つ。「オメばりでねぇ。オラだってホントは電話したいんだ。孫さ電話してけろ!」と、いつも無口の紀子さん(仮名)も、お孫さんに電話をかける。「ちょっと!オレのこと部屋さ連れてって寝かせてけろ!」と、リビングでぐっすりだったサチさん(仮名)が言う。サチさんは、独特の世界にいつもいる人で、ここまでハッキリと現実的なことを言うのはめずらしい。常時リビングから出て、車いす散歩をしている康子さん(仮名)は、夕食に帰ってきたもののリビングから賑やかなバトルに入って来れず、散歩コースを何周もしていた。経管栄養で寝たきりのコズエさん(仮名)は、いつもは言葉をハッキリと言えないのだが、この日はハッキリと「オラも帰りたい〜!」と声を出す。カナさんに刺激されてみんな動いた。その後、カナさんは1度居室に戻り、5分後に再びリビングに出てきて「なぜここに連れてこられたんでしょうか。」と再開した。あげくに「タクシーで帰りますので。」と玄関へ向かう。「外は大雪だよ。凍えてしまうんだよ。明るくなってからの方がいいんじゃない?」と止めると、「あなたはひどい人です。あなたの仕事の都合には合わせられません。」とピシャリ!私はむきになって「今のはカナさんの事を思って言ったんだ。仕事だからとかじゃない!」と強めに抗議する。すると、少し考えてから「じゃあ私に出て行けと言ってください。そして外に放り投げてください。」と返してきた。「そんなことしたらカナさんはどうなるの?」と問い返すと、「私は凍え死にます。ただし、あなたにも罪はあると思います。だから裁判になるでしょうね。」と言い残し玄関へ向かう。もうどうしていいのかわからなくなりながら玄関までついていった。カナさんは玄関の自動ドアを開けた。「カナさん出て行くんだね?俺はここまで着いて来たけど、ココから先は犯罪者になってしまうので何もしません。俺にはまだまだやりたいこともあるし、夢もあります。だからここで犯罪者になったらば困ります。」と突き放す感じで言った。このとき自分でもひどいなぁと思いながら限界だった。数秒の沈黙のあと。カナさんはケロッとした顔で「何のことですか?ところで、ここを開けていると寒いです。閉めてなにか暖かい飲み物でも飲みたいですね♪」と笑顔で言うではないか。一気に力が抜けた。「…じゃあ甘くて暖かいコーヒーでも飲みますか。」と言うと「わぁ!嬉しいです♪」とUターンをして、またものすごいスピードでユニットに帰って行った。
この後も、また「誰にここに連れてこられたんだっけ」と何回か問いただしてはいたが、「今日はもう暗いので泊まっていきます。」と自分でちゃんと落ち着くカナさんだった。
カナさんが毎回、「誰に連れてこられたのか」と問いただすのはなぜなのか、何が引っかかっているのか、私も現実を突きつけるだけでなく、一緒に考えてみようと思う。
そして、今回感じたのは、他の利用者さんたちのまなざしだ。こんなにいろいろと起こるのは、知らん顔や他人事ではなく、自分のことのように気持ちを入れて見守っている利用者さんたちのまなざしの鋭さだ。カナさんのみんなを引きつける力と、それを受け止めての利用者さんたちのこころの動きがユニットのダイナミズムとして動くのを感じた。みんな介護度の高い人で体は動けないのに、パワーは凄い。里では「介護度ではなく妖怪度が大事」と言われるのがわかるような気がした。
一歩を踏み出す ★理事長 宮澤健【2012年1月号】
暮れの28日、銀河セミナーを開催した。2001年に作られたドキュメンタリー「ロシア小さき人々の記録」をスタッフと観た。この作品はソビエト崩壊後10年目に製作されたもので、ロシアのドキュメンタリー作家スベトラーナ・アレクシェイビッチの作品をもとに作られたものだ。彼女はソビエト時代から、国家に翻弄されながら、国策の影にその運命を生きた個人への聞き取りという手法で、作品を編み上げてきた。映画はナチスとの戦いにかり出された女性兵士達の戦場で、凄惨な証言をもとに作られた「戦場は女の顔をしていない」の演劇の上演の場面から始まる。彼女は「人々は今、国家の歴史ではなく、自分自身の歴史を語ろうとしている」と言う。
ソビエト崩壊から20年の昨年、その歴史をふり返る意味で、NHKがシリーズで放映したもののひとつだが、まだロシアの経済的混乱が続く、連邦崩壊後10年目の状況のなかで、人々が国家の影でどのような運命を生きたのか、人々はどう生きようとしているのかを問うた作品だ。
彼女が取り上げたテーマはどれも深刻で重い。「最後の生き証人」は目の前で親を殺された戦争孤児のこころの傷に向き合い、「アフガン帰還兵の証言」は帰還した少年兵達の狂気にせまり、自殺や殺人を犯した少年兵の母の運命をたどる「チェルノブイリの祈り」では被爆や汚染の、見えない敵と終わりのない戦いを続けながらロシアの大地に生きようとする人々の聞き取りで構成されている。
彼女は「私は人々の運命について書いてきた」と言い、「その声は記録されない限り永遠に闇の中に消えていく。これらの人々の代わりに語りたい」と自らの仕事の使命を述べている。彼女自身ベラルーシの出身で、チェルノブイリ原発事故で生家は所を追われて避難し、医師だった妹をガンで失っている。「この物語は過去のことではない未来の話しなのだ」という10年前の言葉は、3.11の震災後の今、我々日本人に真に未来の話として突き刺さってくる。我々は今こそ未来に向かってどう生きるのかを、国家の戦略を超えて、人々のたどった運命の中から模索し発見していかなければならない。
チェルノブイリ原発事故で消防士だった夫と娘を被爆で亡くし、自身も被爆した女性を母に持つ12歳の少年は、肝臓と心臓に欠陥を持ちながら生き抜こうとしている。アレクシェイビッチは少年に聞く「怖くないの?」、少年は答える「怖い。でもわかっている。逃げるところはない。勇気を持つしかないんだ。」12歳の子どもの言葉ではない。気高い精神がそこにある。 我々にとって勇気とはなにか。アレクシェイビッチは言う「忘れること、それは欺瞞のひとつだ。忘れようとすることは、忘却という犯罪に荷担することになる。」
人々のたどった運命や言葉、それらを我々は闇に葬ってはならない。そのために聞き、語り、書く必要がある。怖くて忘れたくても、抱え続けていくしかない。戦争も原爆も我々日本人は忘れてしまって、それを思い出し抱える勇気を持っていなかったと言うことなのかも知れない。忘れてはならない記憶を我々は背負っている。
これまでの体制は、崩壊したと見るべきだろう。「資本主義、民主主義が崩壊したのが3.11の震災だった」とマイケル・ダワーは語っている。次の時代は人間が何ものにも支配されない世界をつくり出す必要があるだろう。
このドキュメンタリーの解説をした、ロシア文学者の亀山郁夫氏は、国家や人間の欲望など圧倒的ななにものかに翻弄された小さな人々をどう救済するのかというテーマに向かうとき、「どうしようもない」という諦めでニヒリズムに陥りそうになる。ドフトエフスキーも、アレクシェイビッチも、現実を見さだめる中で、ニヒリズムに陥りそうになるギリギリのところで耐えながら、革命か神かという2者選択の救済から離れて、「生命への信頼」に希望を託したのではないかと語っている。
アレクシェイビッチの作品はどれも、ほとんど女性の言葉とまなざしによって綴られている。生みだし、育む存在としての母性性や女性性、生命そのものの息吹がこれからの時代は意識され、尊重されることが大切になってくるように思う。それらもエネルギーとしては常に善に働くとは限らないが、我々の方向性がそこにあることは間違いない。「どんな時代でも、すべては人間次第だった。本当に大事なことは、一人ひとりのこころの中で起こってきたのです」と彼女は信念として語る。まさに銀河の里の取り組みもその一点、「一人ひとりのこころのなかで起こること」を追い続けてきたように思う。
年末に、島根大学の岩宮先生からメールをいただいた。「経済とか効率という化け物に人間がコントロールされてしまっている状態から、どうしたら少しずつでも変わっていけるのか・・・。」と嘆かれながら、「銀河の里の取り組みにその大事な一歩があると信じる」と励ましていただいた。「日本人の霊性が深くなっていく方向へと向かう年でありますように・・・。」と結ばれた言葉に勇気をもらいながら、困難な時代の真っ只中で次の一歩を踏み出して行きたいと思う。災害や危機に見舞われる度に、日本人はその霊性を深め、柔らかく生きる道を探ってきたのではないかと思う。あの世とこの世の行き来や、死者との絆を持ち得た日本人の感性に立ち返りながら、新たな地平の探求を続けていきたい。
ソビエト崩壊から20年の昨年、その歴史をふり返る意味で、NHKがシリーズで放映したもののひとつだが、まだロシアの経済的混乱が続く、連邦崩壊後10年目の状況のなかで、人々が国家の影でどのような運命を生きたのか、人々はどう生きようとしているのかを問うた作品だ。
彼女が取り上げたテーマはどれも深刻で重い。「最後の生き証人」は目の前で親を殺された戦争孤児のこころの傷に向き合い、「アフガン帰還兵の証言」は帰還した少年兵達の狂気にせまり、自殺や殺人を犯した少年兵の母の運命をたどる「チェルノブイリの祈り」では被爆や汚染の、見えない敵と終わりのない戦いを続けながらロシアの大地に生きようとする人々の聞き取りで構成されている。
彼女は「私は人々の運命について書いてきた」と言い、「その声は記録されない限り永遠に闇の中に消えていく。これらの人々の代わりに語りたい」と自らの仕事の使命を述べている。彼女自身ベラルーシの出身で、チェルノブイリ原発事故で生家は所を追われて避難し、医師だった妹をガンで失っている。「この物語は過去のことではない未来の話しなのだ」という10年前の言葉は、3.11の震災後の今、我々日本人に真に未来の話として突き刺さってくる。我々は今こそ未来に向かってどう生きるのかを、国家の戦略を超えて、人々のたどった運命の中から模索し発見していかなければならない。
チェルノブイリ原発事故で消防士だった夫と娘を被爆で亡くし、自身も被爆した女性を母に持つ12歳の少年は、肝臓と心臓に欠陥を持ちながら生き抜こうとしている。アレクシェイビッチは少年に聞く「怖くないの?」、少年は答える「怖い。でもわかっている。逃げるところはない。勇気を持つしかないんだ。」12歳の子どもの言葉ではない。気高い精神がそこにある。 我々にとって勇気とはなにか。アレクシェイビッチは言う「忘れること、それは欺瞞のひとつだ。忘れようとすることは、忘却という犯罪に荷担することになる。」
人々のたどった運命や言葉、それらを我々は闇に葬ってはならない。そのために聞き、語り、書く必要がある。怖くて忘れたくても、抱え続けていくしかない。戦争も原爆も我々日本人は忘れてしまって、それを思い出し抱える勇気を持っていなかったと言うことなのかも知れない。忘れてはならない記憶を我々は背負っている。
これまでの体制は、崩壊したと見るべきだろう。「資本主義、民主主義が崩壊したのが3.11の震災だった」とマイケル・ダワーは語っている。次の時代は人間が何ものにも支配されない世界をつくり出す必要があるだろう。
このドキュメンタリーの解説をした、ロシア文学者の亀山郁夫氏は、国家や人間の欲望など圧倒的ななにものかに翻弄された小さな人々をどう救済するのかというテーマに向かうとき、「どうしようもない」という諦めでニヒリズムに陥りそうになる。ドフトエフスキーも、アレクシェイビッチも、現実を見さだめる中で、ニヒリズムに陥りそうになるギリギリのところで耐えながら、革命か神かという2者選択の救済から離れて、「生命への信頼」に希望を託したのではないかと語っている。
アレクシェイビッチの作品はどれも、ほとんど女性の言葉とまなざしによって綴られている。生みだし、育む存在としての母性性や女性性、生命そのものの息吹がこれからの時代は意識され、尊重されることが大切になってくるように思う。それらもエネルギーとしては常に善に働くとは限らないが、我々の方向性がそこにあることは間違いない。「どんな時代でも、すべては人間次第だった。本当に大事なことは、一人ひとりのこころの中で起こってきたのです」と彼女は信念として語る。まさに銀河の里の取り組みもその一点、「一人ひとりのこころのなかで起こること」を追い続けてきたように思う。
年末に、島根大学の岩宮先生からメールをいただいた。「経済とか効率という化け物に人間がコントロールされてしまっている状態から、どうしたら少しずつでも変わっていけるのか・・・。」と嘆かれながら、「銀河の里の取り組みにその大事な一歩があると信じる」と励ましていただいた。「日本人の霊性が深くなっていく方向へと向かう年でありますように・・・。」と結ばれた言葉に勇気をもらいながら、困難な時代の真っ只中で次の一歩を踏み出して行きたいと思う。災害や危機に見舞われる度に、日本人はその霊性を深め、柔らかく生きる道を探ってきたのではないかと思う。あの世とこの世の行き来や、死者との絆を持ち得た日本人の感性に立ち返りながら、新たな地平の探求を続けていきたい。