2011年12月15日
ぬかるむ田のなかで ★ワークステージ 佐々木哲哉【2011年12月号】
今年の稲刈りは散々だった。お盆後の長雨や台風の豪雨で、一旦乾いたはずの田んぼは水がたまり、コンバインは至る所でぬかるみにはまって動けず、重機で何度も引っ張りあげながらの作業になった。かなりの面積が手刈りになった。ワークのメンバーさまさまで、人海戦術でなんとかこなせた。
どこか思い上がっていた。稲の生育だけを考えたら中干しをしないほうが分けつして収量があがると実感していたので、理事長や田んぼの貸主さんの声に耳を傾けず、基本的な作業である溝切りをほとんどしなかったことが災いした。稲刈りの様子を見にきたデイサービスの利用者の政雄さん(仮名)が、「欲張ってはダメなんだ」とひと言。我執を見透かされたような気がした。
稲刈り前に、自分が里に何かをもたらすどころかむしろ壊していると理事長から指摘された。これでは誰とも出会えないし、つながれない。言われるまで気がつかないのが危機的で、大きなショックを受けてうろたえた。自分が傷つくことには敏感なのに、他人を傷つけることには恐ろしく鈍感だったり、軽率で心ない言動をしている。
気がつかないまま、利用者や職員に指示し、人を“道具”のように扱い“作業”をこなしている。その上、自分自身が農作業や収穫に、達成感や満足感があればまだしも、むしろ疲れきっている。自分自身も“道具”化しているのでは、と前川さんに言われてその通りだと思った。 いつも作業に追われてゆとりがないから、新人スタッフが主体的につくるもち米の田んぼも自分が動いて「指示待ち」にさせてしまったり、利用者やスタッフが関わるなかで何かが生まれる、手刈りや脱穀の行事もただの「イベント」になってしまうか、作業をこなすだけの場になってしまう。作業の効率を求めて(そのわりには全然効率よくない…)メンバーを分散し、ときにはその場をまかせっきりにしてきた。利用者と一緒に生きる姿勢からはほど遠い…。
今年は音楽祭の実行委員長でもあったが、自分が動けば周りを巻きこめず我執になってしまい、お願いをすればまる投げになり、主体や責任がなくなってしまう。書面でも申し送りでもない伝えかた、他者と向き合い繋がる姿勢が、根本的に欠けている。自信がなく、実行委員長としてのモチベーションは一向にあがらないままだったが、それぞれ取り組んでくれたスタッフや利用者のちから、そして音楽のちからに助けられて何とか乗り切ることはできた。
全く社会経験がなく、新卒で入ってきた若いスタッフたちが利用者と向き合うなかで育ち、活き活き関係や物語を語る一方で、自分は3年もかかってようやくスタートラインにつこうとしている感じだ。
もともと自分の関心は農業で、やってきたのも農業だったので、里に来ても同じ感覚でやっていた。前職でも「人間の都合より、自然の都合に合わせて動く」ことに命賭けで取り組むことを求められていたし、それが農で糧を得ることだと思っていた。自分の役割はそこだとしても、それだけでいいと勘違いしていたかも知れない。
自分の部屋にこもりがちだった10代と、現実逃避のような旅や暮らしを転々とした20代。表面的にはつながったようでも深い部分ではつながってこれなかった気がする。そしてつながれなくても生きられてしまう。朝日新聞の特集記事“孤族の国”が他人事には思えなかった。そうした課題が自分にはあるのだと思う。
物理的な距離の近さを超えて、離れていても切れない関係…それは震災での支援にも求められていることだと思う。
ぬかるみにはまったままの自分が少し見えてきたような気がする。これからどう変わるのか、どうにも変えられない性分のようなものと向き合っていけるのか、正念場だと感じる。とってつけたような関係や、文章の引用、きれいごとや小手先の技術や道具などで表面的飾ったありようから深化して行きたい。
自信はまるでないが、心の底から溢れ、湧きあがってくるものに依って語れるようにいつかなりたいと思う。
どこか思い上がっていた。稲の生育だけを考えたら中干しをしないほうが分けつして収量があがると実感していたので、理事長や田んぼの貸主さんの声に耳を傾けず、基本的な作業である溝切りをほとんどしなかったことが災いした。稲刈りの様子を見にきたデイサービスの利用者の政雄さん(仮名)が、「欲張ってはダメなんだ」とひと言。我執を見透かされたような気がした。
稲刈り前に、自分が里に何かをもたらすどころかむしろ壊していると理事長から指摘された。これでは誰とも出会えないし、つながれない。言われるまで気がつかないのが危機的で、大きなショックを受けてうろたえた。自分が傷つくことには敏感なのに、他人を傷つけることには恐ろしく鈍感だったり、軽率で心ない言動をしている。
気がつかないまま、利用者や職員に指示し、人を“道具”のように扱い“作業”をこなしている。その上、自分自身が農作業や収穫に、達成感や満足感があればまだしも、むしろ疲れきっている。自分自身も“道具”化しているのでは、と前川さんに言われてその通りだと思った。 いつも作業に追われてゆとりがないから、新人スタッフが主体的につくるもち米の田んぼも自分が動いて「指示待ち」にさせてしまったり、利用者やスタッフが関わるなかで何かが生まれる、手刈りや脱穀の行事もただの「イベント」になってしまうか、作業をこなすだけの場になってしまう。作業の効率を求めて(そのわりには全然効率よくない…)メンバーを分散し、ときにはその場をまかせっきりにしてきた。利用者と一緒に生きる姿勢からはほど遠い…。
今年は音楽祭の実行委員長でもあったが、自分が動けば周りを巻きこめず我執になってしまい、お願いをすればまる投げになり、主体や責任がなくなってしまう。書面でも申し送りでもない伝えかた、他者と向き合い繋がる姿勢が、根本的に欠けている。自信がなく、実行委員長としてのモチベーションは一向にあがらないままだったが、それぞれ取り組んでくれたスタッフや利用者のちから、そして音楽のちからに助けられて何とか乗り切ることはできた。
全く社会経験がなく、新卒で入ってきた若いスタッフたちが利用者と向き合うなかで育ち、活き活き関係や物語を語る一方で、自分は3年もかかってようやくスタートラインにつこうとしている感じだ。
もともと自分の関心は農業で、やってきたのも農業だったので、里に来ても同じ感覚でやっていた。前職でも「人間の都合より、自然の都合に合わせて動く」ことに命賭けで取り組むことを求められていたし、それが農で糧を得ることだと思っていた。自分の役割はそこだとしても、それだけでいいと勘違いしていたかも知れない。
自分の部屋にこもりがちだった10代と、現実逃避のような旅や暮らしを転々とした20代。表面的にはつながったようでも深い部分ではつながってこれなかった気がする。そしてつながれなくても生きられてしまう。朝日新聞の特集記事“孤族の国”が他人事には思えなかった。そうした課題が自分にはあるのだと思う。
物理的な距離の近さを超えて、離れていても切れない関係…それは震災での支援にも求められていることだと思う。
ぬかるみにはまったままの自分が少し見えてきたような気がする。これからどう変わるのか、どうにも変えられない性分のようなものと向き合っていけるのか、正念場だと感じる。とってつけたような関係や、文章の引用、きれいごとや小手先の技術や道具などで表面的飾ったありようから深化して行きたい。
自信はまるでないが、心の底から溢れ、湧きあがってくるものに依って語れるようにいつかなりたいと思う。
「銀河の里」の物語・・・その多義性(その1) ★施設長 宮澤京子【2011年12月号】
里では、ケアプラン会議等を通じて事例検討を重視してきた。あまのかわ通信等で、利用者とスタッフの関係のプロセスや、エピソードを「ものがたり」として伝えようともしている。こうした「里の物語」について、現時点でわかる範囲で考えてみたい。物語の結末はその始まりでは全くわからないし、プロセスの途中でも読み切れない。「出会い」で始まり、その関係性がさまざまな出来事や、時々の心の動きによって変化していくのであるから、最終的にどのようなストーリーになるかは、神のみぞ知るということになる。こうしたアプローチは介護計画、支援計画など計画にしばられた枠組みで人間や人生を扱おうという時代精神とは一線を画している。ところがそうした「里の物語」は曖昧すぎて明確な説明がしにくい。直感や知性で理解してくれる人もいるが、ほとんどの人には理解されがたい。我々自身もよくわかっているわけではない。ただ計画などよりも、物語の方が、人間や人生にリアルに迫れると体験的、直感的に感じ実践してきただけのことだ。
何が里の物語なのか考えを巡らしていた矢先、今年の8月に河合俊雄著、『村上春樹の「物語」』が出版された。活動体としての銀河の里にとっては同志的存在である村上春樹の「1Q84」をテーマに、村上が描く世界(「物語」)を、深層心理学の視点から考察し、前近代・プレモダン・ポストモダンといった時代性のそれぞれの意識や無意識(夢)のありように迫り、その限界や可能性などに取り組んだ著作である。帯には、「物語を読むことで満足できる人もいれば、そのなぜかという問いに答えられないと満足できない人もいる。本書の試みは、そのなぜかという問いに答えようとするものである。」とあるように、鋭い視点と探求する姿勢に、仕事の深さを見せられる思いがする。村上春樹自身、その内容や結末を含め、小説を書き始めた時の自分と書き終えた時の自分とでは、何かが変化していると語っている。こうした変化は、里の事例に触れるなかでも深い次元での考察が進むと、しばしば起こる共時的なエピソードや、関係性の変化とともに自分自身のなかで何ものかが変容している実感と近いように思える。
我々は、現場の専門職として、物語を読むことで満足して終われない。そのなぜかという問いに答える必要を感じていたところに、この本が出版された。村上作品を通じて物語の意味を解くように、我々も「里の物語」のなぜかという問いに答えていく必要があるだろう。そうした作業によって、里での「高齢者の発見や老いの価値の発信」ができるのだろう・・・地面を這いつくばって、悪戦苦闘し続けながら、いつかはなぜかとの問いに答えていきたい。
村上がインタビューで比喩した建物の「地下二階」や「隠れた別の空間」の存在は、我々は現場で「異界」や「あの世とこの世」を自在に行き来する不思議な能力を持った認知症高齢者に日々体験させてもらい連れて行って貰っていてなじみ深い。河合俊雄氏の物語の読み解きにはほど遠いが、氏に倣って里の地上1階と地下1階を想定し検討してみたい。
地上1階:出会い
特養やグループホーム、デイサービスは大前提として、高齢者介護施設である。
銀河の里の高齢者施設は、高齢者が疾患・疾病により、要支援や要介護(1〜5のランク)の介護認定を受けた高齢者が利用する施設である。つまり「介護」が第一義的に必要とされる状況にある高齢者のための施設である。この次元では物語は関係のない世界にあるとも言える。ケアマネージャーは食事・排泄・着脱・入浴・移動の5大介助を中心にアセスメントをし、ご本人が何で困っているのか、どこを介助して欲しいか、どんな生活を望んでいるのか、周囲のご家族などからも細かく要望や意見を聞き、現場では、第一義的な「介護」をサービスとして提供する。これがどの施設でもやっている基本である。一般には社会的に福祉現場は信頼度が低く、不正や、虐待など発生しやすいので、指導監査や情報公表・外部評価など受けることが強制、あるいは義務化されている。しかしそれらは、大半マニュアルや経理上の書類整備に終始する。マニュアルや書類を整えてそれらに時間を費やしたところで、利用者ひとりの人間にも人生にも迫ることはできない。また大半の介護施設が介護福祉士やヘルパーなどの有資格者を揃え、配置基準を充たし制度加算をとっている。しかし「介護」を特化し、介護作業を業務の中心にしていくと、多くの施設で見られる風景だが、まさに介護工場と化してしまう。
認知症の高齢者のグループホームでは、徘徊・介護の抵抗・不潔行為・異食といった「問題行動」のみに焦点が当てられ、問題解決や対応のためのカンファレンスが頻繁に行われるが、どう見ても上から目線で「認知症になったらお終いだ」と、どこかで諦めていて、優しそうにふるまいながら馬鹿にしたり子ども扱いしたりが透けて見える。そうした本質的な感覚には極めて敏感なのが認知症の人の特徴でもあるので、たちまち追い込んでしまって手に負えなくなり、医療に丸投げするグループホームも多い。対応が「ものの扱い」のように操作的で、人格をも貶めている現状は少なくない。ケアという人間全体へのアプローチであるはずのことが、介護作業に狭小化されてそれが目的化される傾向は現場に常に働く。少し油断をすれば、現場はたちまちに介護工場に成り下がる。管理者は、よくよく気をつけなければ、高く掲げた理念などは全く通用せず、簡単に足下をすくわれる。
銀河の里では、高く掲げる理念は最初から持たないことにしてきた。「何の御縁でしょうか、ともかくも、よろしくお頼み申します。」といったスタンスで始まる。あくまでも「介護」は出会いのための窓口であり、「介護」は入り口にすぎない。しかしそれは実に大切なとっかかりなので、丁寧に大切に儀式として成り立つくらいに身を正す必要がある。
利用者にとってみれば、人生の最終章に至り「介護が必要」となって、自分が選択したい方向ではなかったところに介護施設はある。「なぜ、こんなところに?」は「なぜ私の人生はこういう運命に」という問いではないか。スタッフや入居者との関係は「なぜ、あなたと?」という問いから始まらざるをえない。
そうしたことをストレートな言葉で問う、カナさん(仮名)のことを語りたい。カナさんは、特養ホームのショートスティを利用されている方だが、「何で私が、ここに連れてこられたかを教えて下さい。だれが、ここに連れてきたかを教えて下さい。」と、理不尽この上ない、憤懣やるかたなしと言った風で、事務所を訪れ、理路整然と、たたみかけるように問いかける。「家族さんにカナさんのことを2日間お願いされて、事務の瀬川というものが連れてきました。」スタッフが理由をどんなに伝えても、全く納得がいかないようで、「そんなことは聞いておりません。家族に電話をして下さい。家に帰らせて下さい。」と堂々巡りになる。さらに「私が望んでもいないのに、なぜここに入れられたのか、訳が知りたいのです。私は、おしっこを漏らすわけでもありません。暴力をふるってきかなくなる訳でもありません。家族を困らせることをした覚えもありません。なのになぜ、家族に捨てられるのか訳がわからないのです。」と・・・。ショートスティの度に毎回、そして1日に何度も繰り返されるこの質問は、カナさんにとって、理不尽な状況への訴えである。
「Why・・・?」[Because・・・!」で了解できない深い、本質的な問いであるからこそ、「捨てられたわけではないんだよ、カナさん!解ってくれよ。」と答えるスタッフも、いっぱいいっぱいになり、疲れ果てる。
地下1階:関係性
ある時「カナさんの旦那さんは、どんな方ですか?」と問いかけてみた。「いい人です。」「カナさんが、ご自分で選んで一緒になったのですか?」「いいえ、あの時代は、親が決めた人と一緒になるのが普通だったのです。」「カナさんの親さんは、カナさんにぴったりの、いい旦那さんを選んでくれて良かったですね。」「はい。・・・?」
今の時代、伴侶者は自分で当然選ぶし、結婚するしないも選択できる。女は嫁に行くものと決められ、一生の伴侶者が親の手に委ねられていたことこそ理不尽に感じる。「何でこの時代に、この日本で、この家に、この親の元に生まれたのか」というところまで「なぜ」を突き詰めていくと、人生は、理不尽だらけを土台に積み上げられている。
そんなことを考えながら質問する私にハナさんは、「なんで、今そんな、しょうもない質問をしてくるのですか」といった附に落ちない様子で、またいつもの質問を繰り返す。私は、「ハナさん、お嫁さんは、ハナさんにぴったりのサービスを選んでくれましたよ」と余裕で微笑みながら、「住み心地はいかがですか?」と調子に乗って尋ねてしまう。すると「ここがいいとか悪いとか、そういうことは関係ないのです。何で私がここに連れてこられたのかが、知りたいのです。」と、ぴしゃりやられた。「負けました、今日はこのくらいで勘弁して下さい。」と深々と頭を下げて退散しながら「次はどんな理不尽を問うてみようか」と頭をひねる私だった。
現場では日常茶飯事のこうしたやりとりは、だいたいがお手上げだったり、難しい宿題になる。「介護施設」で介護される立場にあること自体が、理不尽なことなのだ。人間にとって自立における基本的な部分の障害の受容は、相当に苦しく生やさしいものではない。
20年前、私が勤めていた特養ホームに怒りに固まったようなお婆さんがいた。家族に捨てられたと思った時から、一切喋らず、食べようともしなくなった。経管栄養になり、寝たきりの生活で、言葉をかけてもただ睨みつけられているようで、おむつ交換をしたり入浴介助の時に、作業で関わるだけだった。その方は、私の夜勤の日に、深夜、急変し、私の腕の中で息を引き取った。私にとってその死は死の怖さというより、「恨み・怒り」という感情に向き合えなかった後悔で、その方のぬくもりとともにいまだに残り澱となっていた。銀河の里の特養ホームが開設するにあたって、その方のことを思い出し、「介護」だけの施設にはしたくないと強く思った。感情や思いというこころの次元が我々の現場の建物の地下1階にはあるはずだ。そこに降りていかないわけにはいかない。 つづく
何が里の物語なのか考えを巡らしていた矢先、今年の8月に河合俊雄著、『村上春樹の「物語」』が出版された。活動体としての銀河の里にとっては同志的存在である村上春樹の「1Q84」をテーマに、村上が描く世界(「物語」)を、深層心理学の視点から考察し、前近代・プレモダン・ポストモダンといった時代性のそれぞれの意識や無意識(夢)のありように迫り、その限界や可能性などに取り組んだ著作である。帯には、「物語を読むことで満足できる人もいれば、そのなぜかという問いに答えられないと満足できない人もいる。本書の試みは、そのなぜかという問いに答えようとするものである。」とあるように、鋭い視点と探求する姿勢に、仕事の深さを見せられる思いがする。村上春樹自身、その内容や結末を含め、小説を書き始めた時の自分と書き終えた時の自分とでは、何かが変化していると語っている。こうした変化は、里の事例に触れるなかでも深い次元での考察が進むと、しばしば起こる共時的なエピソードや、関係性の変化とともに自分自身のなかで何ものかが変容している実感と近いように思える。
我々は、現場の専門職として、物語を読むことで満足して終われない。そのなぜかという問いに答える必要を感じていたところに、この本が出版された。村上作品を通じて物語の意味を解くように、我々も「里の物語」のなぜかという問いに答えていく必要があるだろう。そうした作業によって、里での「高齢者の発見や老いの価値の発信」ができるのだろう・・・地面を這いつくばって、悪戦苦闘し続けながら、いつかはなぜかとの問いに答えていきたい。
村上がインタビューで比喩した建物の「地下二階」や「隠れた別の空間」の存在は、我々は現場で「異界」や「あの世とこの世」を自在に行き来する不思議な能力を持った認知症高齢者に日々体験させてもらい連れて行って貰っていてなじみ深い。河合俊雄氏の物語の読み解きにはほど遠いが、氏に倣って里の地上1階と地下1階を想定し検討してみたい。
地上1階:出会い
特養やグループホーム、デイサービスは大前提として、高齢者介護施設である。
銀河の里の高齢者施設は、高齢者が疾患・疾病により、要支援や要介護(1〜5のランク)の介護認定を受けた高齢者が利用する施設である。つまり「介護」が第一義的に必要とされる状況にある高齢者のための施設である。この次元では物語は関係のない世界にあるとも言える。ケアマネージャーは食事・排泄・着脱・入浴・移動の5大介助を中心にアセスメントをし、ご本人が何で困っているのか、どこを介助して欲しいか、どんな生活を望んでいるのか、周囲のご家族などからも細かく要望や意見を聞き、現場では、第一義的な「介護」をサービスとして提供する。これがどの施設でもやっている基本である。一般には社会的に福祉現場は信頼度が低く、不正や、虐待など発生しやすいので、指導監査や情報公表・外部評価など受けることが強制、あるいは義務化されている。しかしそれらは、大半マニュアルや経理上の書類整備に終始する。マニュアルや書類を整えてそれらに時間を費やしたところで、利用者ひとりの人間にも人生にも迫ることはできない。また大半の介護施設が介護福祉士やヘルパーなどの有資格者を揃え、配置基準を充たし制度加算をとっている。しかし「介護」を特化し、介護作業を業務の中心にしていくと、多くの施設で見られる風景だが、まさに介護工場と化してしまう。
認知症の高齢者のグループホームでは、徘徊・介護の抵抗・不潔行為・異食といった「問題行動」のみに焦点が当てられ、問題解決や対応のためのカンファレンスが頻繁に行われるが、どう見ても上から目線で「認知症になったらお終いだ」と、どこかで諦めていて、優しそうにふるまいながら馬鹿にしたり子ども扱いしたりが透けて見える。そうした本質的な感覚には極めて敏感なのが認知症の人の特徴でもあるので、たちまち追い込んでしまって手に負えなくなり、医療に丸投げするグループホームも多い。対応が「ものの扱い」のように操作的で、人格をも貶めている現状は少なくない。ケアという人間全体へのアプローチであるはずのことが、介護作業に狭小化されてそれが目的化される傾向は現場に常に働く。少し油断をすれば、現場はたちまちに介護工場に成り下がる。管理者は、よくよく気をつけなければ、高く掲げた理念などは全く通用せず、簡単に足下をすくわれる。
銀河の里では、高く掲げる理念は最初から持たないことにしてきた。「何の御縁でしょうか、ともかくも、よろしくお頼み申します。」といったスタンスで始まる。あくまでも「介護」は出会いのための窓口であり、「介護」は入り口にすぎない。しかしそれは実に大切なとっかかりなので、丁寧に大切に儀式として成り立つくらいに身を正す必要がある。
利用者にとってみれば、人生の最終章に至り「介護が必要」となって、自分が選択したい方向ではなかったところに介護施設はある。「なぜ、こんなところに?」は「なぜ私の人生はこういう運命に」という問いではないか。スタッフや入居者との関係は「なぜ、あなたと?」という問いから始まらざるをえない。
そうしたことをストレートな言葉で問う、カナさん(仮名)のことを語りたい。カナさんは、特養ホームのショートスティを利用されている方だが、「何で私が、ここに連れてこられたかを教えて下さい。だれが、ここに連れてきたかを教えて下さい。」と、理不尽この上ない、憤懣やるかたなしと言った風で、事務所を訪れ、理路整然と、たたみかけるように問いかける。「家族さんにカナさんのことを2日間お願いされて、事務の瀬川というものが連れてきました。」スタッフが理由をどんなに伝えても、全く納得がいかないようで、「そんなことは聞いておりません。家族に電話をして下さい。家に帰らせて下さい。」と堂々巡りになる。さらに「私が望んでもいないのに、なぜここに入れられたのか、訳が知りたいのです。私は、おしっこを漏らすわけでもありません。暴力をふるってきかなくなる訳でもありません。家族を困らせることをした覚えもありません。なのになぜ、家族に捨てられるのか訳がわからないのです。」と・・・。ショートスティの度に毎回、そして1日に何度も繰り返されるこの質問は、カナさんにとって、理不尽な状況への訴えである。
「Why・・・?」[Because・・・!」で了解できない深い、本質的な問いであるからこそ、「捨てられたわけではないんだよ、カナさん!解ってくれよ。」と答えるスタッフも、いっぱいいっぱいになり、疲れ果てる。
地下1階:関係性
ある時「カナさんの旦那さんは、どんな方ですか?」と問いかけてみた。「いい人です。」「カナさんが、ご自分で選んで一緒になったのですか?」「いいえ、あの時代は、親が決めた人と一緒になるのが普通だったのです。」「カナさんの親さんは、カナさんにぴったりの、いい旦那さんを選んでくれて良かったですね。」「はい。・・・?」
今の時代、伴侶者は自分で当然選ぶし、結婚するしないも選択できる。女は嫁に行くものと決められ、一生の伴侶者が親の手に委ねられていたことこそ理不尽に感じる。「何でこの時代に、この日本で、この家に、この親の元に生まれたのか」というところまで「なぜ」を突き詰めていくと、人生は、理不尽だらけを土台に積み上げられている。
そんなことを考えながら質問する私にハナさんは、「なんで、今そんな、しょうもない質問をしてくるのですか」といった附に落ちない様子で、またいつもの質問を繰り返す。私は、「ハナさん、お嫁さんは、ハナさんにぴったりのサービスを選んでくれましたよ」と余裕で微笑みながら、「住み心地はいかがですか?」と調子に乗って尋ねてしまう。すると「ここがいいとか悪いとか、そういうことは関係ないのです。何で私がここに連れてこられたのかが、知りたいのです。」と、ぴしゃりやられた。「負けました、今日はこのくらいで勘弁して下さい。」と深々と頭を下げて退散しながら「次はどんな理不尽を問うてみようか」と頭をひねる私だった。
現場では日常茶飯事のこうしたやりとりは、だいたいがお手上げだったり、難しい宿題になる。「介護施設」で介護される立場にあること自体が、理不尽なことなのだ。人間にとって自立における基本的な部分の障害の受容は、相当に苦しく生やさしいものではない。
20年前、私が勤めていた特養ホームに怒りに固まったようなお婆さんがいた。家族に捨てられたと思った時から、一切喋らず、食べようともしなくなった。経管栄養になり、寝たきりの生活で、言葉をかけてもただ睨みつけられているようで、おむつ交換をしたり入浴介助の時に、作業で関わるだけだった。その方は、私の夜勤の日に、深夜、急変し、私の腕の中で息を引き取った。私にとってその死は死の怖さというより、「恨み・怒り」という感情に向き合えなかった後悔で、その方のぬくもりとともにいまだに残り澱となっていた。銀河の里の特養ホームが開設するにあたって、その方のことを思い出し、「介護」だけの施設にはしたくないと強く思った。感情や思いというこころの次元が我々の現場の建物の地下1階にはあるはずだ。そこに降りていかないわけにはいかない。 つづく
あなたに食べてほしくて ★厨房 小野寺祥【2011年12月号】
月1回の行事食。このビックイベントに向けて厨房は何度も試作を重ね、その日を迎える。 そんな行事食の中ではいろんな物語が生まれる。普段なかなか食の進まない利用者さんが、「そんなに食べて大丈夫!?」とみんなから心配されるほど食べてくれたり、「明日の寿司のために食べるの控えているの」と前日から食事をセーブしている利用者さんがいたり・・・。そんなことから、行事食って厨房が考えている以上になにか大きなものが動いているのではないかと、感じるようになった。
8月、オリオンの邦恵さん(仮名)は夏の暑さから食の進まない日々が続いていた。そこで邦恵さんの大好きなお寿司を昼食と夕食時に毎日2カンずつ出した。握りたてのお寿司が出ると「今日はお寿司なのねぇー!!」と目をキラキラ輝かせて食べてくれる邦恵さん。そんな日々が1か月半ほど続き、猛暑を乗り越えることができた。そんなことから、9月の敬老会はユニットで寿司を握りたい!!と思い、実現することができた。その日は、どんな料理もお寿司には勝てない!と思うほど、みんな箸が進む進む進む・・・「えびをください。次もえびでお願いします!!」「こんなに食ったってわかねなぁー」と言葉も弾む。
そんな敬老会。私がもう一つ力を入れたのはソフト食、そしてデザート。それは、「すばる」のクニエさん(仮名)に食べてほしかったからだ。どんなものだったら食べてくれるんだろ・・・目がパッチリ開いて自分の手で食べてくれるような食事を考えたい。それに行事食が重なった。行事食でなにか生まれるかもしれない。じゃがいもと甘いものが大好きなクニエさん。そんなことから9月はティラミスをつくることにした。初めて作るティラミスに苦戦し試作をくり返す。予定日ぎりぎりでレシピが完成した。
行事食当日はお寿司のソフト食作りに力を入れた。一般にソフト食は形がなく、ペースト状にしたものにとろみを付けた程度。利用者のお見舞いで行った病院で出されたソフト食に私は唖然とした。こんなの「食べたい!」なんて思えない。食べやすさは大切でそれは欠かせないことだが、食感や見た目のおいしさもかなり大事だ。見て「食べたい」という気持ちにならないとお腹もすかないし、ただ食べさせられているという感じ。そんなソフト食からの脱出として、2年前ほどから厨房はソフト食の研究を続けてきて、その挑戦は現在も続いている。今回の寿司も事前からイメージトレーニングと仕込みを進め、当日は「これ、私が作ってきたソフト食の中で一番のできだ」と思えるほどのものができた。
その自信作はクニエさんに伝わるだろうか。ドキドキしながら届ける。居室から出てきたクニエさん。目をぱっちり開けて!!ばっちりお寿司を見てくれている!なんとクニエさんから口を開けてくれて、どんどん食べてくれるではないか、「やったぁ、いい感じ!!」そしてさらに驚いたのはデザートのティラミス。自分で手を伸ばして食べてくれる。隣のほなみさんの分も食べてしまい「これ私のなのにぃ!!」と泣き顔。スタッフみんなが驚くほど、どんどん口に吸いこまれていくティラミス。昼食で一口サイズのものを9つも食べてくれた。
考えに考えて作った方としては感謝と感動だ。その感動を積み上げようと、さらに、「ばばちゃんのみそぱん」「ばばちゃんのミシソワーズ」「ばばちゃんの芋もち」とあなたのための食事つくりのイメージは次々と湧いてくる。
そして11月の行事食では里のさつま芋を使ったスイートポテトに挑戦した。これも試作を続ける日々。さつま芋の水分の違いに合わせて他の分量を調節するため、作るたびに味や舌触りが違う。かたすぎても、のどごしが悪くなるし、柔らかすぎでも手づかみで食べることができない。試作したものを何度かクニエさんに食べてもらい、スイートポテトを完成させることができた。当日はクニエさんはもちろん、みんなどんどん手が伸びてあっという間に完食!!他にも、旬のいくらと鮭を使った親子丼。ワークステージは豚丼との選択メニューにした。副菜にはかぶの釜蒸し。かぶ1つ1つを六角形の形になるように皮をむき、中身をくり抜き、そこにエビしんじょうを入れ蒸しあげた。これは、かぶもとろけるほどの柔らかさ。刻みも、ソフトもみんな同じものを提供することができた。いくらと鮭の親子丼も大好評!!「毎日このメニューがいい」「最高だったぁ!」と言ってくれた。
あなたに食べてほしい。そんな思いは普段みんなが生活する中でいつも思っていることで、そこから料理は生まれる。そんな1人1人への食事つくりができるのがここ、里だ。みんな好きなもの、嫌いな物は違うし、食が進まないときだってある。そんなの当り前なことで、みんなが毎日同じ食事を食べたって面白くない。
そんな時に、「私のために」つくった、寿司、ラーメン、茶碗蒸し、ひっつみ・・・。「こんなの作ったら食べてくれるかな?喜んでくれるかな?」って思いながらつくる食事って本当に楽しい。そこから私とあなたの関係が始まり、絆が生まれてくるからだ。
これから、クリスマス、正月と続いてくる。「今月はなにをやろう?」と今からわくわくしながら準備を進めている。乞う、ご期待!
8月、オリオンの邦恵さん(仮名)は夏の暑さから食の進まない日々が続いていた。そこで邦恵さんの大好きなお寿司を昼食と夕食時に毎日2カンずつ出した。握りたてのお寿司が出ると「今日はお寿司なのねぇー!!」と目をキラキラ輝かせて食べてくれる邦恵さん。そんな日々が1か月半ほど続き、猛暑を乗り越えることができた。そんなことから、9月の敬老会はユニットで寿司を握りたい!!と思い、実現することができた。その日は、どんな料理もお寿司には勝てない!と思うほど、みんな箸が進む進む進む・・・「えびをください。次もえびでお願いします!!」「こんなに食ったってわかねなぁー」と言葉も弾む。
そんな敬老会。私がもう一つ力を入れたのはソフト食、そしてデザート。それは、「すばる」のクニエさん(仮名)に食べてほしかったからだ。どんなものだったら食べてくれるんだろ・・・目がパッチリ開いて自分の手で食べてくれるような食事を考えたい。それに行事食が重なった。行事食でなにか生まれるかもしれない。じゃがいもと甘いものが大好きなクニエさん。そんなことから9月はティラミスをつくることにした。初めて作るティラミスに苦戦し試作をくり返す。予定日ぎりぎりでレシピが完成した。
行事食当日はお寿司のソフト食作りに力を入れた。一般にソフト食は形がなく、ペースト状にしたものにとろみを付けた程度。利用者のお見舞いで行った病院で出されたソフト食に私は唖然とした。こんなの「食べたい!」なんて思えない。食べやすさは大切でそれは欠かせないことだが、食感や見た目のおいしさもかなり大事だ。見て「食べたい」という気持ちにならないとお腹もすかないし、ただ食べさせられているという感じ。そんなソフト食からの脱出として、2年前ほどから厨房はソフト食の研究を続けてきて、その挑戦は現在も続いている。今回の寿司も事前からイメージトレーニングと仕込みを進め、当日は「これ、私が作ってきたソフト食の中で一番のできだ」と思えるほどのものができた。
その自信作はクニエさんに伝わるだろうか。ドキドキしながら届ける。居室から出てきたクニエさん。目をぱっちり開けて!!ばっちりお寿司を見てくれている!なんとクニエさんから口を開けてくれて、どんどん食べてくれるではないか、「やったぁ、いい感じ!!」そしてさらに驚いたのはデザートのティラミス。自分で手を伸ばして食べてくれる。隣のほなみさんの分も食べてしまい「これ私のなのにぃ!!」と泣き顔。スタッフみんなが驚くほど、どんどん口に吸いこまれていくティラミス。昼食で一口サイズのものを9つも食べてくれた。
考えに考えて作った方としては感謝と感動だ。その感動を積み上げようと、さらに、「ばばちゃんのみそぱん」「ばばちゃんのミシソワーズ」「ばばちゃんの芋もち」とあなたのための食事つくりのイメージは次々と湧いてくる。
そして11月の行事食では里のさつま芋を使ったスイートポテトに挑戦した。これも試作を続ける日々。さつま芋の水分の違いに合わせて他の分量を調節するため、作るたびに味や舌触りが違う。かたすぎても、のどごしが悪くなるし、柔らかすぎでも手づかみで食べることができない。試作したものを何度かクニエさんに食べてもらい、スイートポテトを完成させることができた。当日はクニエさんはもちろん、みんなどんどん手が伸びてあっという間に完食!!他にも、旬のいくらと鮭を使った親子丼。ワークステージは豚丼との選択メニューにした。副菜にはかぶの釜蒸し。かぶ1つ1つを六角形の形になるように皮をむき、中身をくり抜き、そこにエビしんじょうを入れ蒸しあげた。これは、かぶもとろけるほどの柔らかさ。刻みも、ソフトもみんな同じものを提供することができた。いくらと鮭の親子丼も大好評!!「毎日このメニューがいい」「最高だったぁ!」と言ってくれた。
あなたに食べてほしい。そんな思いは普段みんなが生活する中でいつも思っていることで、そこから料理は生まれる。そんな1人1人への食事つくりができるのがここ、里だ。みんな好きなもの、嫌いな物は違うし、食が進まないときだってある。そんなの当り前なことで、みんなが毎日同じ食事を食べたって面白くない。
そんな時に、「私のために」つくった、寿司、ラーメン、茶碗蒸し、ひっつみ・・・。「こんなの作ったら食べてくれるかな?喜んでくれるかな?」って思いながらつくる食事って本当に楽しい。そこから私とあなたの関係が始まり、絆が生まれてくるからだ。
これから、クリスマス、正月と続いてくる。「今月はなにをやろう?」と今からわくわくしながら準備を進めている。乞う、ご期待!
暗闇のリンゴ ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2011年12月号】
ミホさん(仮名)は市内の自宅でひとり暮らし。息子さん娘さんは遠くにいらっしゃり、普段はヘルパーさんの援助も受けながらデイサービスに通っている。今年7月に、初めて銀河の里ショートステイを利用され、それ以来、月に2〜3回お泊まりに来られるようになった。味のあるキャラクターで、たちまち人気者になった。
当初は「自宅ではほぼ寝たきりで過ごしている」との申し送りがあり、ケアマネやヘルパーさんの入らない夜間の様子は誰も知らない…とのことで、ショート中に観察して欲しいと要請があった。昼も夜も、お部屋の中を這って移動し、ほとんどをベッド上で過ごすという生活だった。それがだんだんと立ってつたい歩きをするようになり、今ではすっかりヒョイヒョイと歩いているのでみんな驚いている。
里では“要介護度”も“妖怪度”も高ければ高い方があこがれと尊敬のまなざしを集める傾向にあるのだが、ミホさんの歩き方や登場の仕方は、見事な妖怪っぷりがある。部屋の戸がガラッと開いてもじゃもじゃパーマの頭がニョキッと現れる…。這っているときは床近くにあったお顔が、あるとき突然、取っ手より上に出てきたので「わー、危ない!」みんなで駆け寄って、転ばないように支える。こちらの慌てっぷりとはウラハラに「あやぁ、みなさんお揃いで〜、ほほほ〜♪」
失礼ながら少々下ぶくれの愛嬌のある可愛らしいお顔立ちと、「…でがんすねぇ」という独特の語尾と柔らか〜いしゃべり口も、その人気の理由のひとつ。そしてなんと言ってもミホさんの語りの世界が面白い!
スタッフの田村さんは、なぜだかミホさんの中では「三浦くんの奥さん」ということになっている。「私、何歳ぐらいに見える?」と尋ねると、「40代の妊婦さん」と言われて落ち込み、以来しつこく聞き続け、最近やっと「20代」と言われるようになったとか。三浦くんは初めは「学生さん」だった。「がんばってお勉強なさってくださいね」から、だんだんと「カメラマン」として働く社会人になり、今では「お医者のタマゴ」に昇格!?「俺、できがいいからなぁ♪」と調子にのると「そうでがんすよねぇ!しっかりお勉強して世の中のお役に立ってくださいませね!おほほ〜」と、面白がってさらにおだてるミホさん。
私は「先生」。最初はピアノの先生で、「この間の発表会、たいしたもんでがんしたねぇ!子供たちの才能もあるんでしょうけれども、やはり先生の指導がよろしいんでしょうねぇ!」とくる。戸惑いつつも「え・えぇ…、今度の発表会にもぜひいらしてください…」と言ってみると、「まぁ!ぜひ!」と喜んでくれるのだが、次の日には「いつ連れて行ってくださいますか?今日でしたか?」とイメージの展開がはやいのもミホさんの特徴。そしていつの頃からか「保育園の先生」に変わり、「安代町での初任の頃は、先生も初々しくていらして、ねぇ!それが今ではこんなにベテランになられて、ねぇ先生!頼もしいですよ〜、先生のお声が聞こえると、いつもこちらも元気が出ますんでがんすよ」私の声が大きいのは確かなんだけれど、「安代町時代が懐かしいですねぇ、先生」と具体的なイメージの展開がされると、ついていくのもなかなか大変だ。広周さんは「林業の人」で、お風呂でシャンプーしてくれた加藤さんは「髪屋さん」になり、スタッフのひとりひとりが役をもらって、ミホさんの物語の中の役にハマるのが楽しい感じになっている。
利用者の康子さん(仮名)は、ミホさんとご近所で、顔見知りだったということが判明。康子さんは特養の建物内では落ち着かず、毎日外に出て車いすで散歩するのだが、ミホさんのお泊まり中は、その散歩コースにミホさんのお部屋訪問が加わる。そうして互いにお菓子など出し合ってお茶をしながら昔語りしている。
康子さんはいつも事務所に来ては「帰してください」と訴え、土日になると息子さんの迎えを心待ちにしている。その想いは強く、聞いてくれる人がいれば語りはとつとつと止まることがない。ミホさんにも、想いの丈を聴いてもらっているようだ。康子さんの訪室を快く迎え笑顔で見送った後、ミホさんは柔らかい調子で言った言葉が印象的だった。
「寂しい人なんでがんすねぇ、息子が来ない来ないって、よっぽど悔しいんでがんすよ。できる息子を持つとやっぱりそうなるんでがんすべか?私なんて息子も娘もいますがね、先生。遠くで暮らしてたって、はぁ、元気でやってればよし、ってそう思うくらいのもんで、はぁ」 寂しさや悲しさは微塵もなく、潔さと共に子供さんたちへの愛情も感じる。康子さんの執念の愛情といった感じの母親像とはひと味違った母親像。それでいて康子さんの悲しみもよく捉えたセリフ。
そんなミホさんも、時にはとってもごしゃぐ。送迎でお迎えに行くと、どうしても「行きたくない」「行かない」とじょっぱる。必死に説得、「足が痛いならお医者さんに看てもらいましょう!」と、やっとのことで家から脱出!里に着いた後も「いつになったらお医者さんに看ていただけるんですか?」と一日中言っていることもある。だから看護師さんにじっくり話を聞いてもらうことも結構ある。ある日は、「さっき看護婦さんが言ってました、足がむくんでいるから高くして休みなさいって。ねぇ、先生、どう思いますか?ついでに顔もむくんでるって言うんでがんすよ」最後の方は、もうしゃべっているそばから自分でも笑っているミホさん。笑いながら冗談をかえす、「そうですねぇ、いつもこのようなお顔でいらっしゃいますけれど、ねぇ?」二人で大笑いする。こうなると、じょっぱったミホさんはもういない。粋なやりとりもミホさんの魅力だ。
遅番のある日、21時の巡回で、少しだけ扉を開けてそっと部屋をのぞいてみると…、薄明かりの中、ベッドサイドに腰掛けているミホさん…。ゴソゴソと何かやっている? よくよく見ると、ものすごい形相、両手でリンゴを強く握りしめ割ろうとしている?! その異様な光景に「…ん?」と思わず声が出てしまった。それに気付いてサッとすばやく股の間にリンゴを隠したミホさん、「あぃや、先生!見回りの時間ですか?ご苦労様です〜」と何事もなかったかのように笑顔をこちらに向ける。こちらもなんだか動揺して、とっさに「はい、あぁ、そうなんです〜、で・電気でもつけましょうか?」と言ってしまった。そうしたらミホさん、なんと「いやぁ、つけない方が何かと都合がいいです〜」と! そ・そうだよね〜と二人で「おほほほ〜、じゃ、おやすみなさ〜い…」扉を閉めて退散…。昼間、康子さんにもらったリンゴなんだろうな…。ナイフとか持っていって剥いてあげた方がいいかしら?いやいや、そんな野暮な…。いろいろ考えているうちに、あんなに焦ってたミホさんの姿と、とっさの「つけない方がなにかと都合がいい」のセリフにおかしくて笑ってしまった。
翌日、昨晩の暗闇での会話はなかったことで、部屋を訪室するが、引き出しからカピカピに干からびたリンゴの皮が出てきて…(ついに手でリンゴを割ったんだろうか…?)「あれあれ、これは何でしょう?」「はぁ…、何でしょうねぇ…」敢えて真相には触れず、しかしどこかで“これは内緒にしておこうね”という空気が暗黙のうちに流れる、ぶふふ…と笑いがこみ上げてきて、またもやミホさんの魅力をアップさせるのだった。
当初は「自宅ではほぼ寝たきりで過ごしている」との申し送りがあり、ケアマネやヘルパーさんの入らない夜間の様子は誰も知らない…とのことで、ショート中に観察して欲しいと要請があった。昼も夜も、お部屋の中を這って移動し、ほとんどをベッド上で過ごすという生活だった。それがだんだんと立ってつたい歩きをするようになり、今ではすっかりヒョイヒョイと歩いているのでみんな驚いている。
里では“要介護度”も“妖怪度”も高ければ高い方があこがれと尊敬のまなざしを集める傾向にあるのだが、ミホさんの歩き方や登場の仕方は、見事な妖怪っぷりがある。部屋の戸がガラッと開いてもじゃもじゃパーマの頭がニョキッと現れる…。這っているときは床近くにあったお顔が、あるとき突然、取っ手より上に出てきたので「わー、危ない!」みんなで駆け寄って、転ばないように支える。こちらの慌てっぷりとはウラハラに「あやぁ、みなさんお揃いで〜、ほほほ〜♪」
失礼ながら少々下ぶくれの愛嬌のある可愛らしいお顔立ちと、「…でがんすねぇ」という独特の語尾と柔らか〜いしゃべり口も、その人気の理由のひとつ。そしてなんと言ってもミホさんの語りの世界が面白い!
スタッフの田村さんは、なぜだかミホさんの中では「三浦くんの奥さん」ということになっている。「私、何歳ぐらいに見える?」と尋ねると、「40代の妊婦さん」と言われて落ち込み、以来しつこく聞き続け、最近やっと「20代」と言われるようになったとか。三浦くんは初めは「学生さん」だった。「がんばってお勉強なさってくださいね」から、だんだんと「カメラマン」として働く社会人になり、今では「お医者のタマゴ」に昇格!?「俺、できがいいからなぁ♪」と調子にのると「そうでがんすよねぇ!しっかりお勉強して世の中のお役に立ってくださいませね!おほほ〜」と、面白がってさらにおだてるミホさん。
私は「先生」。最初はピアノの先生で、「この間の発表会、たいしたもんでがんしたねぇ!子供たちの才能もあるんでしょうけれども、やはり先生の指導がよろしいんでしょうねぇ!」とくる。戸惑いつつも「え・えぇ…、今度の発表会にもぜひいらしてください…」と言ってみると、「まぁ!ぜひ!」と喜んでくれるのだが、次の日には「いつ連れて行ってくださいますか?今日でしたか?」とイメージの展開がはやいのもミホさんの特徴。そしていつの頃からか「保育園の先生」に変わり、「安代町での初任の頃は、先生も初々しくていらして、ねぇ!それが今ではこんなにベテランになられて、ねぇ先生!頼もしいですよ〜、先生のお声が聞こえると、いつもこちらも元気が出ますんでがんすよ」私の声が大きいのは確かなんだけれど、「安代町時代が懐かしいですねぇ、先生」と具体的なイメージの展開がされると、ついていくのもなかなか大変だ。広周さんは「林業の人」で、お風呂でシャンプーしてくれた加藤さんは「髪屋さん」になり、スタッフのひとりひとりが役をもらって、ミホさんの物語の中の役にハマるのが楽しい感じになっている。
利用者の康子さん(仮名)は、ミホさんとご近所で、顔見知りだったということが判明。康子さんは特養の建物内では落ち着かず、毎日外に出て車いすで散歩するのだが、ミホさんのお泊まり中は、その散歩コースにミホさんのお部屋訪問が加わる。そうして互いにお菓子など出し合ってお茶をしながら昔語りしている。
康子さんはいつも事務所に来ては「帰してください」と訴え、土日になると息子さんの迎えを心待ちにしている。その想いは強く、聞いてくれる人がいれば語りはとつとつと止まることがない。ミホさんにも、想いの丈を聴いてもらっているようだ。康子さんの訪室を快く迎え笑顔で見送った後、ミホさんは柔らかい調子で言った言葉が印象的だった。
「寂しい人なんでがんすねぇ、息子が来ない来ないって、よっぽど悔しいんでがんすよ。できる息子を持つとやっぱりそうなるんでがんすべか?私なんて息子も娘もいますがね、先生。遠くで暮らしてたって、はぁ、元気でやってればよし、ってそう思うくらいのもんで、はぁ」 寂しさや悲しさは微塵もなく、潔さと共に子供さんたちへの愛情も感じる。康子さんの執念の愛情といった感じの母親像とはひと味違った母親像。それでいて康子さんの悲しみもよく捉えたセリフ。
そんなミホさんも、時にはとってもごしゃぐ。送迎でお迎えに行くと、どうしても「行きたくない」「行かない」とじょっぱる。必死に説得、「足が痛いならお医者さんに看てもらいましょう!」と、やっとのことで家から脱出!里に着いた後も「いつになったらお医者さんに看ていただけるんですか?」と一日中言っていることもある。だから看護師さんにじっくり話を聞いてもらうことも結構ある。ある日は、「さっき看護婦さんが言ってました、足がむくんでいるから高くして休みなさいって。ねぇ、先生、どう思いますか?ついでに顔もむくんでるって言うんでがんすよ」最後の方は、もうしゃべっているそばから自分でも笑っているミホさん。笑いながら冗談をかえす、「そうですねぇ、いつもこのようなお顔でいらっしゃいますけれど、ねぇ?」二人で大笑いする。こうなると、じょっぱったミホさんはもういない。粋なやりとりもミホさんの魅力だ。
遅番のある日、21時の巡回で、少しだけ扉を開けてそっと部屋をのぞいてみると…、薄明かりの中、ベッドサイドに腰掛けているミホさん…。ゴソゴソと何かやっている? よくよく見ると、ものすごい形相、両手でリンゴを強く握りしめ割ろうとしている?! その異様な光景に「…ん?」と思わず声が出てしまった。それに気付いてサッとすばやく股の間にリンゴを隠したミホさん、「あぃや、先生!見回りの時間ですか?ご苦労様です〜」と何事もなかったかのように笑顔をこちらに向ける。こちらもなんだか動揺して、とっさに「はい、あぁ、そうなんです〜、で・電気でもつけましょうか?」と言ってしまった。そうしたらミホさん、なんと「いやぁ、つけない方が何かと都合がいいです〜」と! そ・そうだよね〜と二人で「おほほほ〜、じゃ、おやすみなさ〜い…」扉を閉めて退散…。昼間、康子さんにもらったリンゴなんだろうな…。ナイフとか持っていって剥いてあげた方がいいかしら?いやいや、そんな野暮な…。いろいろ考えているうちに、あんなに焦ってたミホさんの姿と、とっさの「つけない方がなにかと都合がいい」のセリフにおかしくて笑ってしまった。
翌日、昨晩の暗闇での会話はなかったことで、部屋を訪室するが、引き出しからカピカピに干からびたリンゴの皮が出てきて…(ついに手でリンゴを割ったんだろうか…?)「あれあれ、これは何でしょう?」「はぁ…、何でしょうねぇ…」敢えて真相には触れず、しかしどこかで“これは内緒にしておこうね”という空気が暗黙のうちに流れる、ぶふふ…と笑いがこみ上げてきて、またもやミホさんの魅力をアップさせるのだった。
夢の宝塚へ! ★特別養護老人ホーム 田村成美【2011年12月号】
「若いころ、宝塚に入りたかったんだよ〜。」6月の中頃、入浴中に祥子さん(仮名)が昔の夢を私に語ってくれた。「踊りも歌も大好きで…でも家助けなきゃいけなかったから…悔しいよ〜。ほんとに。やりたいことできなかったから。」と悔しそうに話す。「今からでも遅くないかも!」と言う私に「でもね、一回でいいから見に行きたいよ。行けたら死んでもいい〜 (笑)」それくらい強い憧れを祥子さんは抱いていた“宝塚”。それが祥子さんの口から出たのは初めてで、私は語ってくれたことがすごく嬉しかったが、かけ離れた世界にイメージが持てていなかった。でもこの時から祥子さんと私たちは宝塚へ想いを馳せることになった。
祥子さんはすごく働き者だ。炎天下でも畑に草取りにでる。畑もやり家事もやる…とにかく何でもできるユニットすばるのお母さん的な存在。しっかり者の祥子さんではあるが、チョコパフェとバラ好きで、「永遠の17歳!」など不思議な感じもある。誕生日を迎え、みんなに年を聞かれると「15歳になったよ〜(笑)」と冗談を言ったりもした。頻繁に宝塚や、昔の恋の話がでてくるようになり、理事長は「祥子さんは思春期を生きているのかもね」と言った。私はそれか…!!と脳天を打たれた。汗まみれになりながら稼ぐ青春時代の祥子さんの心の内には、恋をしたい!とか、かわいい服を着たい!とか数えきれないくらいやりたいことがあったのにそれは実現できなかった…それを今生きているのかもしれない。そしてその象徴が宝塚。理事長は「是非宝塚に行ったらいい」と言ってくれた。するとちょうど北上のさくらホールで宝塚の全国ツアーがあることを祥子さんが新聞で発見した。これにも驚いた。さらに、宝塚ファンのワークステージ利用者のみずえちゃん(仮名)と出会うことになる。みずえちゃんは、祥子さんと同じように夢みる女の子で、宝塚オタクである。宝塚を語るみずえちゃんの目はキラキラだ。そんなみずえちゃんとの初対話。「わたし全然分からないから教えてちょうだいね〜。(笑)」といいながら祥子さんは楽しそうにみずえちゃんの宝塚のマシンガントークを聞いていた。
ある日、みずえちゃんがどこの席というので「A席だよ!」と応えると「えぇ〜!?私なんかS席だよ〜♪」得意気に自慢したり、また別の日は「当日の服装はどうする?」に「う〜ん…こうふわふわの…笑(ゼスチャーつき)」「宝塚顔負けの真っ赤なドレスを着て行こう!(笑)」とかそんなやりとりで公演が近づくにつれて盛り上がっていった。祥子さんもわたしもワクワクして、祥子さんの部屋の電気が消えるのも遅くなっていった。 前日にタカラジェンヌの唄とトークの集いがあることを一週間ほど前に知り、これは行かねば!と整理券を取る。トークショーの日。私服でナチュラルメイクなのに、遠くからでもスターかきた!とわかってしまう、すごいオーラ!私は、思わずみずえちゃんと手を取り、わ〜きゃ〜☆する。唄とトークだけで私はやられてしまい、すっかりファンになってしまった。明日はどうなるんだろう…とその日は興奮であまり寝られなかった。祥子さんの夢がついに叶うことにも興奮していた。私はきっと祥子さんと同じ気持ちだった。
そして当日!祥子さんも私と祥子さんの居室担当の齋藤さんと3人でビシッと決めて出かけた。会場は大勢の人で賑わっていた。真っ先にパンフレットを買う。席に着くと「…つ、ついに来たね。」とか「緊張するな〜」といいながら、パンフレットを見たりして開演を待った。 第一部は「小さな花がひらいた」という江戸時代のミュージカルであった。一気に引き込まれ、祥子さんは見入っていた。
一部が終わり、「すごいね…」と私は言葉にならない。「いや〜…本当に。まさか本当に来られると思わなかったよ〜。」とこの場にいることを噛みしめている祥子さん。「これでは若い時見たもんなら、誰もが憧れるよな〜(笑)」と昔を思い出しているようだった。
第二部「ル・ポァゾン〜愛の媚薬U〜」 これぞ宝塚!!すごいど迫力で煌びやかで、可憐で、光すごくてまぶしくて、羽もすごく…。会場に響き渡る低音の唄声と、一見違うオーラを感じ、祥子さんと私はバッ!と双眼鏡を手にした。真っ赤な衣装に身を包んだ花組トップの蘭寿トムがそこにはいた。私たちは拍手した。会場がわ〜!となる。華やかな場面から、また別の華やかな場面へ代わる替わるで、第2部は夢見心地のまま終わってしまった。ものすごい拍手で緞帳が降り終演した。
「言っちゃなんだけどやっぱり女役よりも男役のほうがすごいね〜!声もしぐさも全部!声がいいんだな〜本当に…。」と感動した!と祥子さん。余韻に浸りながら「長生きしてていがった〜。見ないままあの世さ行かねばないなと思ってたからさ。本当にありがたいよ〜。」と言う。「いやいやこちらこそ、祥子さんと見に来られなかったら、私、一生こんな素晴らしいものに出会ってなかったよ。連れてきてくれてありがとう。」と祥子さんに感謝した。話を終え「さて行くか!」と席を立った時にはほとんどの人がすでに会場を出ていた。感動で3日分の体力を使った感じであった。
里に帰ってきて、玄関でむかえてくれた、クニエさん(仮名)、中屋さん、ほなみさんに感想を聞かれ、祥子さんは「いがったよ〜!レビューもみられて!」とラインダンスをやってみせて、「30歳若返って帰ってきました!」と目をキラキラさせて話していた。まるで少女の祥子さんがそこにいた。
宝塚を通じて、新たな祥子さんと出会うことができた。そして私も感動した。『みずえちゃんと祥子さん』の新しい、ユニークな出会いもあった。人と人は何がきっかけで出会うか分からないが、誰か (何か)と出会えることができる。いつか兵庫の宝塚へいくぞ!!
祥子さんはすごく働き者だ。炎天下でも畑に草取りにでる。畑もやり家事もやる…とにかく何でもできるユニットすばるのお母さん的な存在。しっかり者の祥子さんではあるが、チョコパフェとバラ好きで、「永遠の17歳!」など不思議な感じもある。誕生日を迎え、みんなに年を聞かれると「15歳になったよ〜(笑)」と冗談を言ったりもした。頻繁に宝塚や、昔の恋の話がでてくるようになり、理事長は「祥子さんは思春期を生きているのかもね」と言った。私はそれか…!!と脳天を打たれた。汗まみれになりながら稼ぐ青春時代の祥子さんの心の内には、恋をしたい!とか、かわいい服を着たい!とか数えきれないくらいやりたいことがあったのにそれは実現できなかった…それを今生きているのかもしれない。そしてその象徴が宝塚。理事長は「是非宝塚に行ったらいい」と言ってくれた。するとちょうど北上のさくらホールで宝塚の全国ツアーがあることを祥子さんが新聞で発見した。これにも驚いた。さらに、宝塚ファンのワークステージ利用者のみずえちゃん(仮名)と出会うことになる。みずえちゃんは、祥子さんと同じように夢みる女の子で、宝塚オタクである。宝塚を語るみずえちゃんの目はキラキラだ。そんなみずえちゃんとの初対話。「わたし全然分からないから教えてちょうだいね〜。(笑)」といいながら祥子さんは楽しそうにみずえちゃんの宝塚のマシンガントークを聞いていた。
ある日、みずえちゃんがどこの席というので「A席だよ!」と応えると「えぇ〜!?私なんかS席だよ〜♪」得意気に自慢したり、また別の日は「当日の服装はどうする?」に「う〜ん…こうふわふわの…笑(ゼスチャーつき)」「宝塚顔負けの真っ赤なドレスを着て行こう!(笑)」とかそんなやりとりで公演が近づくにつれて盛り上がっていった。祥子さんもわたしもワクワクして、祥子さんの部屋の電気が消えるのも遅くなっていった。 前日にタカラジェンヌの唄とトークの集いがあることを一週間ほど前に知り、これは行かねば!と整理券を取る。トークショーの日。私服でナチュラルメイクなのに、遠くからでもスターかきた!とわかってしまう、すごいオーラ!私は、思わずみずえちゃんと手を取り、わ〜きゃ〜☆する。唄とトークだけで私はやられてしまい、すっかりファンになってしまった。明日はどうなるんだろう…とその日は興奮であまり寝られなかった。祥子さんの夢がついに叶うことにも興奮していた。私はきっと祥子さんと同じ気持ちだった。
そして当日!祥子さんも私と祥子さんの居室担当の齋藤さんと3人でビシッと決めて出かけた。会場は大勢の人で賑わっていた。真っ先にパンフレットを買う。席に着くと「…つ、ついに来たね。」とか「緊張するな〜」といいながら、パンフレットを見たりして開演を待った。 第一部は「小さな花がひらいた」という江戸時代のミュージカルであった。一気に引き込まれ、祥子さんは見入っていた。
一部が終わり、「すごいね…」と私は言葉にならない。「いや〜…本当に。まさか本当に来られると思わなかったよ〜。」とこの場にいることを噛みしめている祥子さん。「これでは若い時見たもんなら、誰もが憧れるよな〜(笑)」と昔を思い出しているようだった。
第二部「ル・ポァゾン〜愛の媚薬U〜」 これぞ宝塚!!すごいど迫力で煌びやかで、可憐で、光すごくてまぶしくて、羽もすごく…。会場に響き渡る低音の唄声と、一見違うオーラを感じ、祥子さんと私はバッ!と双眼鏡を手にした。真っ赤な衣装に身を包んだ花組トップの蘭寿トムがそこにはいた。私たちは拍手した。会場がわ〜!となる。華やかな場面から、また別の華やかな場面へ代わる替わるで、第2部は夢見心地のまま終わってしまった。ものすごい拍手で緞帳が降り終演した。
「言っちゃなんだけどやっぱり女役よりも男役のほうがすごいね〜!声もしぐさも全部!声がいいんだな〜本当に…。」と感動した!と祥子さん。余韻に浸りながら「長生きしてていがった〜。見ないままあの世さ行かねばないなと思ってたからさ。本当にありがたいよ〜。」と言う。「いやいやこちらこそ、祥子さんと見に来られなかったら、私、一生こんな素晴らしいものに出会ってなかったよ。連れてきてくれてありがとう。」と祥子さんに感謝した。話を終え「さて行くか!」と席を立った時にはほとんどの人がすでに会場を出ていた。感動で3日分の体力を使った感じであった。
里に帰ってきて、玄関でむかえてくれた、クニエさん(仮名)、中屋さん、ほなみさんに感想を聞かれ、祥子さんは「いがったよ〜!レビューもみられて!」とラインダンスをやってみせて、「30歳若返って帰ってきました!」と目をキラキラさせて話していた。まるで少女の祥子さんがそこにいた。
宝塚を通じて、新たな祥子さんと出会うことができた。そして私も感動した。『みずえちゃんと祥子さん』の新しい、ユニークな出会いもあった。人と人は何がきっかけで出会うか分からないが、誰か (何か)と出会えることができる。いつか兵庫の宝塚へいくぞ!!
背中で悟る、ナースコールで語る ★特別養護老人ホーム 佐々木詩穂美【2011年12月号】
10月号のあまのがわ通信で「こと」の酒井さんの記事になった、ナースコールの鬼の守さん(仮名)が、今度はショートステイでユニット「すばる」に入所された。「またお世話になりまーす」と元気のいい挨拶とは裏腹にクールな表情。久々の今回の利用では守さんとどう出会えるのかワクワクする。
初日ということもあり、久しぶりだね〜から始まる会話に花が咲く。クールな表情を崩さずに言う冗談や照れ隠しの意地悪な言葉が好きで、ナースコールで呼ばれると、次はどんなこと話そうかなと楽しくなり部屋を何度も訪ねた。こちらに気持ちの余裕があるときは、クールな表情の中にも気持ちが開けてくる守さんがよく伝わってくる。
でもそんな時間ばかりを過ごしていられないのが現実‥‥もちろん忙しいことを話せば分ってくれる守さんではあるけど、「今忙しいから」と言う言葉に自分の冷たさや、弱みをみせるような気がしてそれを言いたくない。そして守さんはその私の弱みを知りながら、自分とどこまで付き合ってくれるのか?と駆け引きで試すようなところがある。守さんは寂しさや不安をバックに、おまえはどこまで付き合ってくれるのかと勝負をかけてくるように感じて緊張する。
忙しいときに限って、「今か‥」というタイミングでナースコールが鳴る。「はーい」と笑顔で返事をしてみるが本当は余裕がない。慌ただしい雰囲気を出さないように気持ちを落ち着かせ、部屋に向かい、手早く用を済ませて立ち去ろうとした瞬間、「ちょっと、お姉ちゃん!」と呼び止められる。これが守さんのすごいところ!!私の背中を見て見抜いてくる。守さんとは繋がっていないと語れないところがある。「トイレに行きたい」「背中がかゆい」に対して「はい、やったよ」だけじゃ許さない。寂しい感情が残って舞い上がる。そこにどう入っていくのか?その揺らぐ気持ちも守さんはみのがさない。
「今はゆっくり話せない…」その気持ちの慌ただしさを隠して、ゆっくりと歩きながら、悟られないように‥「また何かあったら呼んでね〜」と明るい声を残して立ち去ろうとする私。悟られなかっただろうかと、気になり振り返ると、守さんと目が合う!その瞬間、すべてを読まれているのが解る。やっぱり悟られていた‥。部屋を出ると同時にナースコールが鳴る。「やっぱりそうだよね」と自分でも思う。 私は立ち去る後ろ姿を悟られるのが怖くなった。部屋を出る最後の瞬間まで背中を見つめられている感じがなんとも言えない。どうやって守さんの部屋から出ていいか解らなくなった私は「また呼んでね〜」と不自然な言葉をかけながら、後ろ向きで後ずさりながらバックオーライで部屋を出た。これは怪しい…。守さんから見ればバレバレだろう。精一杯の笑顔で後ろ向きで立ち去り部屋を出て行く私は何をやってるのだろう。
守さんはハーモニカが得意だ。スタッフの広周さんはピアノが弾ける。よく2人でセッションして聴かせてくれる。その繋がりもあって広周さんと守さんの関係は特別で、ナースコールが鳴り、部屋を訪ねる広周さんとの2人の時間は特別なものだろう。問題は広周さんがリビングの雰囲気をつくってくれていて、他の利用者さんと関係ができているとき‥今この雰囲気を崩したくないと思ったときのナースコールで広周さんが席を立つことだ。「今のこの利用者さんとの関係は広周さんでしかできないのに‥」というところで広周さんがいなくなってしまうと、リビングで繰り広げられていた事柄が切れてしまう感じがしてもったいなかった。組んでいるスタッフがどうフォローに回れるのかもチーム力が試される。守さんのナースコールでチームワークの質やスタッフの力量が露わにされる。今まで見えなかったところも守さんのナースコールが照らし出す。
守さんと初対面だった齋藤さんの夜勤。齋藤さんは戸惑いながら5分おきに鳴るナースコールに答えていた。次の日、齋藤さんが夜勤に来ると、守さんは「国友きたか、国友だべ?」と聞いたことない名前で呼んでいた。斉藤さんが古い友人と似ているようで、本当に国友さんかのように親しく齋藤さんのことを呼んでいた。前日とは違う穏やかな守さんがいて、ナースコールの数も少なかった。齋藤さんは「昨日は試されていたような気がする」と話してくれた。私は守さんが齋藤さんを友人と重ねて親しく呼ぶ感じと、齋藤さんのその言葉にホッとした。初日の夜の付き合いがあって、今日の関係ができていた。
頻回に鳴るナースコールに感情が引き出されることもある。怒りたい人は怒ってもいいだろう。でもそれは守さんが“あなたはどこまでオレと付き合ってくれるんだ?”と、ナースコールの数で突きつけていることも理解していたい。ナースコールが頻回で大変な人にして終わっては、守さんの気持ちが置き去りにされるようで切ない。守さんは静かな夜にいろいろなことが巡るのだろう‥人の手を借りないと動けない状況は不安で、時には恐怖でもあるかもしれない。そうした守さんの気持ちに寄り添いながら試されるのも悪くないと思う。
初日ということもあり、久しぶりだね〜から始まる会話に花が咲く。クールな表情を崩さずに言う冗談や照れ隠しの意地悪な言葉が好きで、ナースコールで呼ばれると、次はどんなこと話そうかなと楽しくなり部屋を何度も訪ねた。こちらに気持ちの余裕があるときは、クールな表情の中にも気持ちが開けてくる守さんがよく伝わってくる。
でもそんな時間ばかりを過ごしていられないのが現実‥‥もちろん忙しいことを話せば分ってくれる守さんではあるけど、「今忙しいから」と言う言葉に自分の冷たさや、弱みをみせるような気がしてそれを言いたくない。そして守さんはその私の弱みを知りながら、自分とどこまで付き合ってくれるのか?と駆け引きで試すようなところがある。守さんは寂しさや不安をバックに、おまえはどこまで付き合ってくれるのかと勝負をかけてくるように感じて緊張する。
忙しいときに限って、「今か‥」というタイミングでナースコールが鳴る。「はーい」と笑顔で返事をしてみるが本当は余裕がない。慌ただしい雰囲気を出さないように気持ちを落ち着かせ、部屋に向かい、手早く用を済ませて立ち去ろうとした瞬間、「ちょっと、お姉ちゃん!」と呼び止められる。これが守さんのすごいところ!!私の背中を見て見抜いてくる。守さんとは繋がっていないと語れないところがある。「トイレに行きたい」「背中がかゆい」に対して「はい、やったよ」だけじゃ許さない。寂しい感情が残って舞い上がる。そこにどう入っていくのか?その揺らぐ気持ちも守さんはみのがさない。
「今はゆっくり話せない…」その気持ちの慌ただしさを隠して、ゆっくりと歩きながら、悟られないように‥「また何かあったら呼んでね〜」と明るい声を残して立ち去ろうとする私。悟られなかっただろうかと、気になり振り返ると、守さんと目が合う!その瞬間、すべてを読まれているのが解る。やっぱり悟られていた‥。部屋を出ると同時にナースコールが鳴る。「やっぱりそうだよね」と自分でも思う。 私は立ち去る後ろ姿を悟られるのが怖くなった。部屋を出る最後の瞬間まで背中を見つめられている感じがなんとも言えない。どうやって守さんの部屋から出ていいか解らなくなった私は「また呼んでね〜」と不自然な言葉をかけながら、後ろ向きで後ずさりながらバックオーライで部屋を出た。これは怪しい…。守さんから見ればバレバレだろう。精一杯の笑顔で後ろ向きで立ち去り部屋を出て行く私は何をやってるのだろう。
守さんはハーモニカが得意だ。スタッフの広周さんはピアノが弾ける。よく2人でセッションして聴かせてくれる。その繋がりもあって広周さんと守さんの関係は特別で、ナースコールが鳴り、部屋を訪ねる広周さんとの2人の時間は特別なものだろう。問題は広周さんがリビングの雰囲気をつくってくれていて、他の利用者さんと関係ができているとき‥今この雰囲気を崩したくないと思ったときのナースコールで広周さんが席を立つことだ。「今のこの利用者さんとの関係は広周さんでしかできないのに‥」というところで広周さんがいなくなってしまうと、リビングで繰り広げられていた事柄が切れてしまう感じがしてもったいなかった。組んでいるスタッフがどうフォローに回れるのかもチーム力が試される。守さんのナースコールでチームワークの質やスタッフの力量が露わにされる。今まで見えなかったところも守さんのナースコールが照らし出す。
守さんと初対面だった齋藤さんの夜勤。齋藤さんは戸惑いながら5分おきに鳴るナースコールに答えていた。次の日、齋藤さんが夜勤に来ると、守さんは「国友きたか、国友だべ?」と聞いたことない名前で呼んでいた。斉藤さんが古い友人と似ているようで、本当に国友さんかのように親しく齋藤さんのことを呼んでいた。前日とは違う穏やかな守さんがいて、ナースコールの数も少なかった。齋藤さんは「昨日は試されていたような気がする」と話してくれた。私は守さんが齋藤さんを友人と重ねて親しく呼ぶ感じと、齋藤さんのその言葉にホッとした。初日の夜の付き合いがあって、今日の関係ができていた。
頻回に鳴るナースコールに感情が引き出されることもある。怒りたい人は怒ってもいいだろう。でもそれは守さんが“あなたはどこまでオレと付き合ってくれるんだ?”と、ナースコールの数で突きつけていることも理解していたい。ナースコールが頻回で大変な人にして終わっては、守さんの気持ちが置き去りにされるようで切ない。守さんは静かな夜にいろいろなことが巡るのだろう‥人の手を借りないと動けない状況は不安で、時には恐怖でもあるかもしれない。そうした守さんの気持ちに寄り添いながら試されるのも悪くないと思う。
古巣で新たな出会い ★特別養護老人ホーム 加藤祥子【2011年12月号】
11月に部署移動になって、担当してきたユリ子さん(仮名)と離れなくてはならなくなったのが辛かった。ユニットで私を支えていてくれた大きな存在であったことを改めて感じた。異動先のユニット「ほくと」は古巣ではあったが、以前のような作業に追われ、人への関心やつながりを考えない空気は浄化され、利用者もスタッフもそれぞれ不思議なオーラを出している「ほくと」・・・というイメージで、不安と楽しみを持ちながらの再スタートとなった。
いざ入いると、やはり勝手がちがって利用者のことが分からない。申し送りの情報ではピンとこない。その人に応じた介助方法は自然と体が覚えるが、その人がどんな人で、どんな生活スタイルなのか、何を思い、何をしたがっているのか、それがわかるには関係ができなければならないので時間がかかる。利用者ひとりひとりにスタッフがどんな思いで関わってるのかも知りたい。利用者は、自分から思いを発信してくれる人もいるが、こちらがアプローチして、そのやりとりから何かを感じ取るしかない人もある。前者は、自分の気持ちを語ってくれるので理解も早く関わりやすいが、後者は、言葉のやりとりだけではなく、行動や表情などから、推測してイメージを作っていく感受性を必要とする。早く把握したいと焦るがそう簡単にいくことではない。
同様にスタッフも、あまり関わったことがない人たちが多く、そちらにも神経を使う。きっと相手もそうだろう・・・その感じが伝わってくる。話したくても、情報が欲しくても、バタバタとする感じに声をかけにくい。目で追ってもつながらない。どう考え、どう感じているのか、それぞれ持っているはずだがうち解けにくい。「ほくと」はショートの入退所が多く、バタバタしやすい。でもそれだからこそ、直接関わっていなくても、意識したり、見守ったりするまなざしが必要だと思う。スタッフ全員がバタバタと動くと、それぞれの視野が狭くなり利用者が置き去りになりやすい。リビングにだれか居て見ていて欲しいな・・・ふと周りを見ると誰かが見ていてくれると安心するのにな・・・と思う。
私自身、人見知りが激しく、すぐに打ち解けられるタイプではないので、時間が必要なのだが、現場はすでに回っている。利用者やスタッフと繋がれない不安は大きな壁になる。このもどかしい気持ちを抱えたまま悩んでいると頭がガンガンと痛くなってしまった。
そんな時、ショート利用のミホさん(仮名)に出会った。ミホさんはほとんど居室で過ごし、食事も居室でとる人だ。夕食を下げに居室にお邪魔した時、「なんだか調子が悪いようですね」と声をかけてくれた。「夕方から頭が痛いんです」と答えると「あなたは考えすぎて頭が痛くなったんですよ。考えてもなるようにしかならないんだから、あんまり考えすぎないの。」と言ってくれた。私のモヤモヤを感じてくれたのか、優しく私に言葉をくれた。その通りだよな・・・不安と緊張ばかりで、自分らしさもない。重くのしかかっていたものが軽くなったようでこの言葉にとても救われた。ミホさんは、居室で過ごしながらも見ていてくれたんだな・・・と思った。
ミホさんの世界に触れて、なんだか楽しくなってきた。どんどん気になる人になっていく。ミホさんは、「ほくと」の中でも会話が豊かで人気のある人だ。始まったばかりで分からないことも多いが、ミホさんとの出会いから始まって行くのだと思う。バタバタしても、それに負けたくはない。利用者に目を向けてスタッフとチームを作りたいと思う。それは簡単なことではなくても、悩み考えながら「ほくと」で私自身も成長していきたい。
いざ入いると、やはり勝手がちがって利用者のことが分からない。申し送りの情報ではピンとこない。その人に応じた介助方法は自然と体が覚えるが、その人がどんな人で、どんな生活スタイルなのか、何を思い、何をしたがっているのか、それがわかるには関係ができなければならないので時間がかかる。利用者ひとりひとりにスタッフがどんな思いで関わってるのかも知りたい。利用者は、自分から思いを発信してくれる人もいるが、こちらがアプローチして、そのやりとりから何かを感じ取るしかない人もある。前者は、自分の気持ちを語ってくれるので理解も早く関わりやすいが、後者は、言葉のやりとりだけではなく、行動や表情などから、推測してイメージを作っていく感受性を必要とする。早く把握したいと焦るがそう簡単にいくことではない。
同様にスタッフも、あまり関わったことがない人たちが多く、そちらにも神経を使う。きっと相手もそうだろう・・・その感じが伝わってくる。話したくても、情報が欲しくても、バタバタとする感じに声をかけにくい。目で追ってもつながらない。どう考え、どう感じているのか、それぞれ持っているはずだがうち解けにくい。「ほくと」はショートの入退所が多く、バタバタしやすい。でもそれだからこそ、直接関わっていなくても、意識したり、見守ったりするまなざしが必要だと思う。スタッフ全員がバタバタと動くと、それぞれの視野が狭くなり利用者が置き去りになりやすい。リビングにだれか居て見ていて欲しいな・・・ふと周りを見ると誰かが見ていてくれると安心するのにな・・・と思う。
私自身、人見知りが激しく、すぐに打ち解けられるタイプではないので、時間が必要なのだが、現場はすでに回っている。利用者やスタッフと繋がれない不安は大きな壁になる。このもどかしい気持ちを抱えたまま悩んでいると頭がガンガンと痛くなってしまった。
そんな時、ショート利用のミホさん(仮名)に出会った。ミホさんはほとんど居室で過ごし、食事も居室でとる人だ。夕食を下げに居室にお邪魔した時、「なんだか調子が悪いようですね」と声をかけてくれた。「夕方から頭が痛いんです」と答えると「あなたは考えすぎて頭が痛くなったんですよ。考えてもなるようにしかならないんだから、あんまり考えすぎないの。」と言ってくれた。私のモヤモヤを感じてくれたのか、優しく私に言葉をくれた。その通りだよな・・・不安と緊張ばかりで、自分らしさもない。重くのしかかっていたものが軽くなったようでこの言葉にとても救われた。ミホさんは、居室で過ごしながらも見ていてくれたんだな・・・と思った。
ミホさんの世界に触れて、なんだか楽しくなってきた。どんどん気になる人になっていく。ミホさんは、「ほくと」の中でも会話が豊かで人気のある人だ。始まったばかりで分からないことも多いが、ミホさんとの出会いから始まって行くのだと思う。バタバタしても、それに負けたくはない。利用者に目を向けてスタッフとチームを作りたいと思う。それは簡単なことではなくても、悩み考えながら「ほくと」で私自身も成長していきたい。
ピアニスト逝く 〜最後まで自分らしく〜 ★特別養護老人ホーム 板垣由紀子【2011年12月号】
西野さん(仮名)は2年前、私がケアマネとして担当していた人だ。当時は市営住宅で二階に寝室があり、訪問で階段から転倒して一階で寝たきりの状態になているのを発見した。レスパイト的に里のショートステイに入り、普通に歩けるまで回復し、それから気まぐれ気味にデイサービスやショートステイを利用しながら一人暮らしを続けていた。
先月、西野さんが肺ガンと診断され、11月28日から検査入院が決まっていた。その矢先、25日にケアマネの田代さんが訪問したところ、様態が急変しており、急遽里のショートステイに保護した。本人は来るのを抵抗したようで、特養に着いても車から降りようとしなかった。部屋には本人こだわりのサイドボード、ピンクの毛布もセットした。久々に会う西野さんはおしゃれな西野さんとはほど遠く、ひげが伸び、すっかりやせ細って別人のようだった。それでも「俺は帰る、絶対に帰る、帰さないなら自殺する。」ゴホゴホ咳しながらわめいている。「まずまず、暖かくしてたから中に入ろう。」と半ば強引に部屋に運んだ。部屋でも「俺は1人でやれるんだ。こんな所に何で連れてきた。」と迫る。「そのままだったら死んでしまうよ。」と言うと、「死んだっていいんだ。関係ないだろう。杖はどこだ。杖持ってきたか。」というので田代さんは杖をとりに車へ、その間に私が「西野さん、何で帰りたいの、何かあるの?」と声を掛けると、「やる事はいっぱいあるんだ。」こんな所に寝ている時間はない、そんな空気だった。好きなコーヒーを勧めるが、コップを持てない。やっと口にしてもむせてしまう。高橋看護師も様子を見に来てくれて、サーチだのバイタルだのという感じではなく「病人にされてしまいたくなくて、家にいようと気を張ってたんじゃないかな。」と理解して見守ってくれた。
杖が届き、帰るという気合いで立とうとするが、やはり無理で、何とか3人がかりで支えて座ってもらい夕食を進めた。しばらく食べてないはずだが「食べたくないんだよ。」と言う。そこに厨房の小野寺栄養士がきて「何なら食べれるの?」と聞いてくれる。「フライドチキン」。から揚げではだめらしい。「骨がついてないなら、帰りに買っていくからいい。」と言い張る。花巻にケンタッキーないよなどとやりとりしていると、小野寺が再びやってきて、「はい。フライドチキン」とスコーンつきで持ってきた。銀河の里の厨房は、ドラえもんのポケットを持ってるのか?びっくりした。西野さんも、早速フライドチキンに挑んでいる。
そうしているところへ、戸来さんと米さんがかけつけた。なじみの顔に囲まれて暖かいものを口にして、少し気持ちがほぐれたのか、米さんとコンサートに出かけたことなど話しが弾みだした。あさっては里でギターのライブがある。それまで泊まってここから中部病院にいけばいいと伝えると、「俺は、楽譜を書かなきゃいけないんだよ。」と言う。
「死んでもいい」などと投げやりな言葉を吐いていたが、やりたいことがある西野さんに、すこし安心した。さらに「それにしても、きかないケアマネだな〜」と田代さんに向ける。田代さんは苦笑いしている。戸来さんが「西野さん、どのケアマネ?」と振る。私も「三人ともきかなかったでしょ」と笑う。3代のケアマネが部屋に集まっていた。「男にはお母さんが必要なんだよ。いくつになってもな。きかなくなきゃ(強くなければ)つとまらない。」と話してくれたことがあった。当時、新米ケアマネで格闘する私を「お母さん」と呼んでくれるようになった。自由で気ままでわがままな西野さんには、きかない(厳しい)お母さんが必要なのだろう。
ほっとした空気の中、西野さんが語りはじめた。「俺は、もう来年まで持たないと思う。」 私が「まだスペインクラブつれててもらってないじゃない」と返すと、「じゃ、明日か?いつ行く戸来さん。」と明日にでも行く勢いだ。「検査して、よくなったら行きましょう。だからまず今日は休んで。」と言うが、「板垣さん、時計いるか?」と、唐突に切り出す。「だってまだ使うでしょ。」と切り返す。「いらないなら瀬川さんか・・。米さんには指輪。」「指輪いっぱいもらったよ。」と米さん。次々と形見わけを語る「財布は戸来さん。茶箪笥は前川君にあげることにしてたから・・・。」再び時計の話に戻り「時計は・・・板垣さん・・・仕事に・・・・いらねなぁ〜」とつぶやいた。この言葉が私の中に響いた。
翌日、体調を取り戻すかと思いきや、昨日の勢いは消えすっかり病人の顔になっていた食が進まない西野さんから「シュワシュワ飲みたい」のリクエストがあった。中屋さんが栄養つくものをと見繕ってきてくれた。「ひげ剃ろう〜」と声をかけた中屋さんに「そんなことより、紙とペン持ってきてほしい。」と頼んだ。形見分けの記録を作りたかったのだ。
午後、小野寺栄養士が西野さんを見守っている中で急変した、たんが絡んで、意識が薄くなり、すぐに高橋看護師が吸引を始め救急車を手配した。吸引して、意識がはっきりしてきた西野さんが高橋さんの吸引する手を払いのけ、「そんなに無理にやったってだめなんだよ。」と西野さんらしい一言、「私の看護婦人生の中に間違いなく残る〜」と高橋看護師、周囲のスタッフも西野さんのわがままマイペースになんとかがんばってくれるだろうと信じていた。
入院直後は、呼吸器をつけなければ危ない状況だったが、翌日は何とかしゃべれる状態にまで回復する。小野寺栄養士も面会し「今は点滴だけど、どんなものが食べれるか看護師さんと相談してきた。いろいろ考えてくれる人だったよ。」と伝えてくれた。私も含め退院後どうするかに思いを巡らせはじめていた。
ところが翌朝、西野さんは息を引き取った。田代ケアマネ、戸来さんが見取った。晩年8年のお付き合いだったが、みんな業務を超えて親しくしてもらった。気ままで個人的な電話攻撃に晒されたけどかわいいところがあった。 今回のショートステイは、西野さんが別れを伝えにきてくれたように思う。
西野さんは、私が銀河の里に来てまもなくの収穫祭で(入って4〜5日目のこと)デイサービスでピアノを弾いていた。プロの生の演奏には世界があって引きつけられた。それだけで銀河の里は「ただの福祉施設じゃない。」と感じさせた。デイホールのライブや、銀河で展開した居酒屋悠和の杜での演奏の夕べがあったり・・・・・、すでに介護度2だったが、ジャズピアノマン西野は活躍してくれた。階段から落ちて頭を打ったときもに「指が動くから大丈夫。」とピアニストの言葉だった。そして最後まで、立つことさえできない状況の中でも「楽譜を書く」と言っていた。
初めて会ったときから、私がケアマネをしているときも、そして今回のショートでも、西野さんはわがままで、そのくせ律儀で、プロとしての誇りを曲げずに持ち続け、自分を貫く自由人であり続けてくれた。形見わけで私に時計をと言いながら「いらないか」と言うのは私への遺言。「お母さん、時に縛られるんじゃないぞ、オレみたいに自由に、そしてプロとして頑張れ。」そんなメッセージを感じる。いま西野さんの魂は更にきままにピアノを弾いて、楽譜をいじっているにちがいない。
先月、西野さんが肺ガンと診断され、11月28日から検査入院が決まっていた。その矢先、25日にケアマネの田代さんが訪問したところ、様態が急変しており、急遽里のショートステイに保護した。本人は来るのを抵抗したようで、特養に着いても車から降りようとしなかった。部屋には本人こだわりのサイドボード、ピンクの毛布もセットした。久々に会う西野さんはおしゃれな西野さんとはほど遠く、ひげが伸び、すっかりやせ細って別人のようだった。それでも「俺は帰る、絶対に帰る、帰さないなら自殺する。」ゴホゴホ咳しながらわめいている。「まずまず、暖かくしてたから中に入ろう。」と半ば強引に部屋に運んだ。部屋でも「俺は1人でやれるんだ。こんな所に何で連れてきた。」と迫る。「そのままだったら死んでしまうよ。」と言うと、「死んだっていいんだ。関係ないだろう。杖はどこだ。杖持ってきたか。」というので田代さんは杖をとりに車へ、その間に私が「西野さん、何で帰りたいの、何かあるの?」と声を掛けると、「やる事はいっぱいあるんだ。」こんな所に寝ている時間はない、そんな空気だった。好きなコーヒーを勧めるが、コップを持てない。やっと口にしてもむせてしまう。高橋看護師も様子を見に来てくれて、サーチだのバイタルだのという感じではなく「病人にされてしまいたくなくて、家にいようと気を張ってたんじゃないかな。」と理解して見守ってくれた。
杖が届き、帰るという気合いで立とうとするが、やはり無理で、何とか3人がかりで支えて座ってもらい夕食を進めた。しばらく食べてないはずだが「食べたくないんだよ。」と言う。そこに厨房の小野寺栄養士がきて「何なら食べれるの?」と聞いてくれる。「フライドチキン」。から揚げではだめらしい。「骨がついてないなら、帰りに買っていくからいい。」と言い張る。花巻にケンタッキーないよなどとやりとりしていると、小野寺が再びやってきて、「はい。フライドチキン」とスコーンつきで持ってきた。銀河の里の厨房は、ドラえもんのポケットを持ってるのか?びっくりした。西野さんも、早速フライドチキンに挑んでいる。
そうしているところへ、戸来さんと米さんがかけつけた。なじみの顔に囲まれて暖かいものを口にして、少し気持ちがほぐれたのか、米さんとコンサートに出かけたことなど話しが弾みだした。あさっては里でギターのライブがある。それまで泊まってここから中部病院にいけばいいと伝えると、「俺は、楽譜を書かなきゃいけないんだよ。」と言う。
「死んでもいい」などと投げやりな言葉を吐いていたが、やりたいことがある西野さんに、すこし安心した。さらに「それにしても、きかないケアマネだな〜」と田代さんに向ける。田代さんは苦笑いしている。戸来さんが「西野さん、どのケアマネ?」と振る。私も「三人ともきかなかったでしょ」と笑う。3代のケアマネが部屋に集まっていた。「男にはお母さんが必要なんだよ。いくつになってもな。きかなくなきゃ(強くなければ)つとまらない。」と話してくれたことがあった。当時、新米ケアマネで格闘する私を「お母さん」と呼んでくれるようになった。自由で気ままでわがままな西野さんには、きかない(厳しい)お母さんが必要なのだろう。
ほっとした空気の中、西野さんが語りはじめた。「俺は、もう来年まで持たないと思う。」 私が「まだスペインクラブつれててもらってないじゃない」と返すと、「じゃ、明日か?いつ行く戸来さん。」と明日にでも行く勢いだ。「検査して、よくなったら行きましょう。だからまず今日は休んで。」と言うが、「板垣さん、時計いるか?」と、唐突に切り出す。「だってまだ使うでしょ。」と切り返す。「いらないなら瀬川さんか・・。米さんには指輪。」「指輪いっぱいもらったよ。」と米さん。次々と形見わけを語る「財布は戸来さん。茶箪笥は前川君にあげることにしてたから・・・。」再び時計の話に戻り「時計は・・・板垣さん・・・仕事に・・・・いらねなぁ〜」とつぶやいた。この言葉が私の中に響いた。
翌日、体調を取り戻すかと思いきや、昨日の勢いは消えすっかり病人の顔になっていた食が進まない西野さんから「シュワシュワ飲みたい」のリクエストがあった。中屋さんが栄養つくものをと見繕ってきてくれた。「ひげ剃ろう〜」と声をかけた中屋さんに「そんなことより、紙とペン持ってきてほしい。」と頼んだ。形見分けの記録を作りたかったのだ。
午後、小野寺栄養士が西野さんを見守っている中で急変した、たんが絡んで、意識が薄くなり、すぐに高橋看護師が吸引を始め救急車を手配した。吸引して、意識がはっきりしてきた西野さんが高橋さんの吸引する手を払いのけ、「そんなに無理にやったってだめなんだよ。」と西野さんらしい一言、「私の看護婦人生の中に間違いなく残る〜」と高橋看護師、周囲のスタッフも西野さんのわがままマイペースになんとかがんばってくれるだろうと信じていた。
入院直後は、呼吸器をつけなければ危ない状況だったが、翌日は何とかしゃべれる状態にまで回復する。小野寺栄養士も面会し「今は点滴だけど、どんなものが食べれるか看護師さんと相談してきた。いろいろ考えてくれる人だったよ。」と伝えてくれた。私も含め退院後どうするかに思いを巡らせはじめていた。
ところが翌朝、西野さんは息を引き取った。田代ケアマネ、戸来さんが見取った。晩年8年のお付き合いだったが、みんな業務を超えて親しくしてもらった。気ままで個人的な電話攻撃に晒されたけどかわいいところがあった。 今回のショートステイは、西野さんが別れを伝えにきてくれたように思う。
西野さんは、私が銀河の里に来てまもなくの収穫祭で(入って4〜5日目のこと)デイサービスでピアノを弾いていた。プロの生の演奏には世界があって引きつけられた。それだけで銀河の里は「ただの福祉施設じゃない。」と感じさせた。デイホールのライブや、銀河で展開した居酒屋悠和の杜での演奏の夕べがあったり・・・・・、すでに介護度2だったが、ジャズピアノマン西野は活躍してくれた。階段から落ちて頭を打ったときもに「指が動くから大丈夫。」とピアニストの言葉だった。そして最後まで、立つことさえできない状況の中でも「楽譜を書く」と言っていた。
初めて会ったときから、私がケアマネをしているときも、そして今回のショートでも、西野さんはわがままで、そのくせ律儀で、プロとしての誇りを曲げずに持ち続け、自分を貫く自由人であり続けてくれた。形見わけで私に時計をと言いながら「いらないか」と言うのは私への遺言。「お母さん、時に縛られるんじゃないぞ、オレみたいに自由に、そしてプロとして頑張れ。」そんなメッセージを感じる。いま西野さんの魂は更にきままにピアノを弾いて、楽譜をいじっているにちがいない。
70年抱えた傷 ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2011年12月号】
銀河の里で働き始めて2年目。先月ユニット「ほくと」から部署移動となり「オリオン」へ移った。各ユニットにはそれぞれ特徴があり、「オリオン」はのんびりと利用者1人1人の時間を大切にしている感じがある。特に個性的な利用者さんたちが揃っていて、利用者さん同士や、スタッフとの間でいつもバトルが展開されている。バトルを横から見ていると、お互いの思いやりや、人生の深い経験が逆に災いして、ねじれて表現されて起こる感じがする。それが分かるので、どっちが悪いだとかおかしいといった判定が出来ず、「うーん難しい」自分も考えさせられてしまうことが多い。なかなか味のあるユニットで、それが面白く感じられてワクワクさせられる。
そんなオリオンの入居者、照美さん(仮名)は、アクのある個性に満ちたオリオンでは目立たない感じの人だ。日中、リビングには出てくるものの、バトルには関わらず、自分なりにゆっくりと過ごしている。居室に戻る時にはスタッフと手を繋いで車椅子を引っ張ってもらい楽しそうだ。ベッドに横になるときニコニコで、必ず手を引き寄せ抱きつこうとしてふざけて遊んでくれる。若い男のスタッフには「一緒に寝るべ。」と誘ってからかう。
しゃれた楽しい感じなのだが、ユニットの空気に《男好きのおばあちゃん》として決めつけられた感じがあって嫌だった。
夜勤の時、ナースコールで呼ばれ、トイレ介助に入った。いつもと同じく「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」と抱きついてきた。この時はいつもとは迫力があって、ものすごい力で引っ張られた。その迫力に身を任せながら私も抱きしめた。いつもとは違う照美さんに戸惑っていると、とても鋭い表情で話し始めた「なんにも出来なくなった。若いお兄ちゃんにも迷惑かけて…オラなんか死んだほういいんだ。」と言うので驚きながら、「大丈夫だ。迷惑じゃないし、死ぬなんて言わないでけで。」と返す。照美さんの力はどんどんと強くなり爪も立てて手を握ってくる。更に私の体を前後に揺さぶりながら涙ぐみ、「死にたい。」を繰り返す。それが何分か続き、私はなにも言えずただ黙っていた。しばらくしてだんだん落ち着いてきた照美さんはぽつぽつと語りはじめた。「オラ若いとき病気ばっかりで、なんもしてこなかったのさ。誰かのためにもなーんもしてこね…昔お兄ちゃんくらいの時には、カッコイイ人もいだったし、優秀で頭のいい同級生もいだった。でも、みーーーんな日本のために戦争さ行って鉛玉で体さ穴あけて死んでしまった。みんなだよ…。わかるっか?それなのに、オラは90になってもこーやって生きている。お兄ちゃんたちみたいなこれからの人たちに迷惑掛けて生きている。オラはなんにもしてあげれてないのに…だから死んだ方がいい…」 照美さんの表情は悔しさや苛立ちが混じったようなものすごい形相だった。照美さんは、その夜はほとんど眠ることができなかったが、それ以上は語らなかった。
照美さんの「重い体験」「その時代の大変さ」はまだまだあるだろうし、この日の夜語ってくれた、70年前の事を今も感情の揺らぎをともなう記憶が凄い。それは照美さんの背負った一生のテーマなのかもしれない。こうした言葉を聴くと決してただの《男好きのおばあちゃん》ではない。その話しは、戦争で散った同世代の若い男達を悼む言葉のようでもあり、その男達と同じ年代の私へのエールでもあるように感じた。鉛玉で死んだ若い男と、自分を介護してくれる若い男は、時代を超えて照美さんの中で重なり、自らの人生の厳しさを感じているのだろうか。鉛玉で死ななくていい私は、どう生きればいいのか。「日本のために」などと考えようもない世代の私も自分と社会を見つめざるを得ないような気がした。照美さんはそれぞれのスタッフに違ったメッセージをくれているようだ。これからオリオンスタッフで照美さんの話に耳を傾け、照美さんの70年間の傷の痛みを一緒に味わえないものだろうか。それは現実的な傷のない世代の私には必要な痛みなのかもしれないと思った。
そんなオリオンの入居者、照美さん(仮名)は、アクのある個性に満ちたオリオンでは目立たない感じの人だ。日中、リビングには出てくるものの、バトルには関わらず、自分なりにゆっくりと過ごしている。居室に戻る時にはスタッフと手を繋いで車椅子を引っ張ってもらい楽しそうだ。ベッドに横になるときニコニコで、必ず手を引き寄せ抱きつこうとしてふざけて遊んでくれる。若い男のスタッフには「一緒に寝るべ。」と誘ってからかう。
しゃれた楽しい感じなのだが、ユニットの空気に《男好きのおばあちゃん》として決めつけられた感じがあって嫌だった。
夜勤の時、ナースコールで呼ばれ、トイレ介助に入った。いつもと同じく「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」と抱きついてきた。この時はいつもとは迫力があって、ものすごい力で引っ張られた。その迫力に身を任せながら私も抱きしめた。いつもとは違う照美さんに戸惑っていると、とても鋭い表情で話し始めた「なんにも出来なくなった。若いお兄ちゃんにも迷惑かけて…オラなんか死んだほういいんだ。」と言うので驚きながら、「大丈夫だ。迷惑じゃないし、死ぬなんて言わないでけで。」と返す。照美さんの力はどんどんと強くなり爪も立てて手を握ってくる。更に私の体を前後に揺さぶりながら涙ぐみ、「死にたい。」を繰り返す。それが何分か続き、私はなにも言えずただ黙っていた。しばらくしてだんだん落ち着いてきた照美さんはぽつぽつと語りはじめた。「オラ若いとき病気ばっかりで、なんもしてこなかったのさ。誰かのためにもなーんもしてこね…昔お兄ちゃんくらいの時には、カッコイイ人もいだったし、優秀で頭のいい同級生もいだった。でも、みーーーんな日本のために戦争さ行って鉛玉で体さ穴あけて死んでしまった。みんなだよ…。わかるっか?それなのに、オラは90になってもこーやって生きている。お兄ちゃんたちみたいなこれからの人たちに迷惑掛けて生きている。オラはなんにもしてあげれてないのに…だから死んだ方がいい…」 照美さんの表情は悔しさや苛立ちが混じったようなものすごい形相だった。照美さんは、その夜はほとんど眠ることができなかったが、それ以上は語らなかった。
照美さんの「重い体験」「その時代の大変さ」はまだまだあるだろうし、この日の夜語ってくれた、70年前の事を今も感情の揺らぎをともなう記憶が凄い。それは照美さんの背負った一生のテーマなのかもしれない。こうした言葉を聴くと決してただの《男好きのおばあちゃん》ではない。その話しは、戦争で散った同世代の若い男達を悼む言葉のようでもあり、その男達と同じ年代の私へのエールでもあるように感じた。鉛玉で死んだ若い男と、自分を介護してくれる若い男は、時代を超えて照美さんの中で重なり、自らの人生の厳しさを感じているのだろうか。鉛玉で死ななくていい私は、どう生きればいいのか。「日本のために」などと考えようもない世代の私も自分と社会を見つめざるを得ないような気がした。照美さんはそれぞれのスタッフに違ったメッセージをくれているようだ。これからオリオンスタッフで照美さんの話に耳を傾け、照美さんの70年間の傷の痛みを一緒に味わえないものだろうか。それは現実的な傷のない世代の私には必要な痛みなのかもしれないと思った。
めざせしっとりパウンドケーキへ!! ★厨房 畑中美紗【2011年12月号】
厨房には、亜美ちゃん(仮名)という、お菓子作りが大好きなワークステージの利用者がいる。毎週木曜日には亜美ちゃんのおやつが特養に出される。自分で作りたいレシピをインターネットなどで調べて、提案してくれる。たまに聞いたことのないような高価な材料のレシピを持ってきて私たちを困惑させたりするが、そのやる気をいつも応援したくなる。
そんな亜美ちゃんがパウンドケーキ作りにはまった。自分で勉強を始めた通信教育のレシピに載っていたパウンドケーキだった。中に何も入らないプレーンのものだったが、素朴でおいしかった。厨房ではおやつに困った時にはパウンドケーキ!とそのレシピを愛用していた。ところがある時見学者にコーヒーセットで出したところ、理事長から「ひどい。出せるものじゃない」と厳しいひと言。分量の計り間違い?混ぜ方?おいしかったのに・・と懲りずに、その次の見学者にもまたパウンドケーキを作って出してみた。レシピ通り、計量も混ぜ方も完ぺきのはず!!しかし理事長、施設長だけでなくいろんな人からちょっと厳しい・・といわれてしまった。
厨房スタッフは負けず嫌いの集まり、そこで火がついた。いろいろパウンドケーキについて研究が始まった。常温でも1週間はもつこと、作ってから2週間くらいがなじんでおいしいことなどいろいろ分かり、焼きたてがおいしい、焼きあがったら日を置かずに食べなければ悪くなる、ということしか考えてなかった私たちは驚かされた。また、材料をただ混ぜればよいというわけではなく、混ぜにコツがいることなど学んだ。よくお菓子作りの本には、「白っぽくクリーム状になるまでよく混ぜる」とか「切るように混ぜる」とかレシピで目にするが、本当にその通りで、やってみると生地の仕上がりからまったく別物だった。
ただの中身のないパウンドケーキで勝負するのは厳しい、中に何か入れて風味を出したい、と思っていた時に亜美ちゃんがオレンジピールのパウンドケーキを作ってみたい、という事で手作りのパウンドケーキ作りがはじまった。給食に出したオレンジの皮の余りを使ってピール作りからの挑戦。厨房でもピールを作るのは初めてだったのだが、亜美ちゃんの勢いに、よしやってみよう、という気持ちにさせられ、時間をかけて手作りピールが完成。特養のおやつでだしてみて、なかなかおいしかったのでどうだ!!と言わんばかりに理事長のところへ持っていくと前よりは良い評価!
私たちの奮闘に理事長が鎌倉でおいしいオレンジのパウンドケーキ見つけたと買ってきてくれた。試食しておどろいた。全然違う。このしっとり感はなんだ?パウンドケーキの奥の深さに打ちのめされた。追求していくにつれてパウンドケーキにのめり込む。鎌倉のパウンドケーキを亜美ちゃんにも食べさせようと持っていくと、負けず嫌いの彼女は、「(私のパウンドケーキを)まずいなんて文句言ったのは誰よ!!私は絶対それ食べないからね!!」ときた。勉強だからと無理やり食べさせるが、怒ったまま。でもどこか気になる感じだった。
それから亜美ちゃんも巻きこんで鎌倉のパウンドケーキに追いつけ追い越せと、あれこれ試作を重ねて、やっと味はいいんじゃない!!といってもらえた。やったぞ!!あとはしっとり感だと、洋酒やシロップを使って、何度も試作を続け、やっと納得できるオレンジパウンドケーキが完成した。
さらに音楽祭をめざして、旬のぶどうやりんごでも挑戦していった。リンゴは里の紅玉で。ぶどうは地元のぶどう園のもの。コンポートにしてみたり煮てみたり、生で入れてみたりと奮闘した。結局リンゴは洋酒を入れ、スライスしたリンゴをコンポート風にして、中には蜜りんごを入れる、それぞれのいいとこ取りで路線は決まった。問題はぶどうだった。干し葡萄のレシピは探せばいくらでも出てくるのに生ブドウのレシピはなかなか見つからなかった。方向性は決まったものの、色合いがどうにかならないか、ブドウから出る水っぽさはどうしたら?など課題はいろいろだった。時期的にもブドウは種なしがなく、ブドウを1粒1粒皮をむいて種をとった。オレンジ・りんごは良かったが、ぶどうがOKがでず、ぶどうは今回は保留にして来年頑張ろうよ、むいたぶどうは冷凍して使おうという話もされたのだが、今この時にあれこれ追及してきた思いが1年後に先延ばしになることがなんだか悔しくなって引き下がれず、今回どうしても出したいんだと、半泣きでお願いし、なんとか3種類のパウンドケーキを完成させた。
音楽祭前日は、最後の仕上げで75本全部を真空袋から出し、ナパージュを塗る作業。苦労を重ねて、明日これが売れるんだと思うとすごくワクワクした。私たちがパウンドケーキの仕上げをしている間に戸来さんが和紙を買ってきてくれ、事務所で、戸来さん、中屋さんと平野さんでパッケージづくりをしていてくれ、みんなでそれを流れ作業で包みながら、今までの想いがこみ上げてきて泣きそうになるくらいうれしかった。中屋さんと平野さんは早番だったのにもかかわらず、深夜1時過ぎまで一緒に手伝ってくれ、みんなの力強いバックアップにもすごく感激して心がじーんとした。頑張って作ったパウンドケーキがさらに商品らしくなった。
当日、パウンドケーキは大好評!!75本完売した。音楽祭が終了してからも「もうないの?!残念」とい声がたくさんあってうれしかった。苦労したぶどうのパウンドケーキも珍しいと好評でほっとした。自分達が愛情を込めて作ったものがお客さんの口に入るところまでを見る。ふだん給食調理で自分達の作ったものをユニットで一緒に食べる、という同じような感じではあるが、今回はいつもよりもダイレクトにそれを感じることができ、すごくわくわくした時間だった。
私自身、里に来て4年目。1年目から今までずっと雅義君(仮名)とのプリン作り、亜美ちゃんとのお菓子作りに携わっているが、それぞれにこだわりというかプライド?譲れないものを二人ともしっかり持っている。作って終わりではなくて雅義君はその日販売した売れ具合だとかを家に帰ってからでも電話で報告してくれたり、亜美ちゃんもその時のお客さんの傾向をしっかりつかんで、クッキーの型さえも子供向けに飛行機にする、などしっかり意識している。厨房メンバーも今回のパウンドケーキ作りを「まずいなんて言わせてたまるか!!」「おいしいパウンドケーキ絶対作ってやる!!」という思いで挑んできた。何かをやりたいと思った時にそういう気持ちって本当に大切だと改めて思った。なんと言っても亜美ちゃんがパウンドケーキ作りにハマっていなかったら、きっとわたしたちもここまでのめり込めなかったと思う。本当にいい経験だった。お菓子作りが苦手でなるべく避けてきたスタッフが一番燃えていたことも不思議で、厨房にとってもいい刺激になった。
本業の給食もレベルアップしつつ、またお菓子作りにも挑戦していきたい。
そんな亜美ちゃんがパウンドケーキ作りにはまった。自分で勉強を始めた通信教育のレシピに載っていたパウンドケーキだった。中に何も入らないプレーンのものだったが、素朴でおいしかった。厨房ではおやつに困った時にはパウンドケーキ!とそのレシピを愛用していた。ところがある時見学者にコーヒーセットで出したところ、理事長から「ひどい。出せるものじゃない」と厳しいひと言。分量の計り間違い?混ぜ方?おいしかったのに・・と懲りずに、その次の見学者にもまたパウンドケーキを作って出してみた。レシピ通り、計量も混ぜ方も完ぺきのはず!!しかし理事長、施設長だけでなくいろんな人からちょっと厳しい・・といわれてしまった。
厨房スタッフは負けず嫌いの集まり、そこで火がついた。いろいろパウンドケーキについて研究が始まった。常温でも1週間はもつこと、作ってから2週間くらいがなじんでおいしいことなどいろいろ分かり、焼きたてがおいしい、焼きあがったら日を置かずに食べなければ悪くなる、ということしか考えてなかった私たちは驚かされた。また、材料をただ混ぜればよいというわけではなく、混ぜにコツがいることなど学んだ。よくお菓子作りの本には、「白っぽくクリーム状になるまでよく混ぜる」とか「切るように混ぜる」とかレシピで目にするが、本当にその通りで、やってみると生地の仕上がりからまったく別物だった。
ただの中身のないパウンドケーキで勝負するのは厳しい、中に何か入れて風味を出したい、と思っていた時に亜美ちゃんがオレンジピールのパウンドケーキを作ってみたい、という事で手作りのパウンドケーキ作りがはじまった。給食に出したオレンジの皮の余りを使ってピール作りからの挑戦。厨房でもピールを作るのは初めてだったのだが、亜美ちゃんの勢いに、よしやってみよう、という気持ちにさせられ、時間をかけて手作りピールが完成。特養のおやつでだしてみて、なかなかおいしかったのでどうだ!!と言わんばかりに理事長のところへ持っていくと前よりは良い評価!
私たちの奮闘に理事長が鎌倉でおいしいオレンジのパウンドケーキ見つけたと買ってきてくれた。試食しておどろいた。全然違う。このしっとり感はなんだ?パウンドケーキの奥の深さに打ちのめされた。追求していくにつれてパウンドケーキにのめり込む。鎌倉のパウンドケーキを亜美ちゃんにも食べさせようと持っていくと、負けず嫌いの彼女は、「(私のパウンドケーキを)まずいなんて文句言ったのは誰よ!!私は絶対それ食べないからね!!」ときた。勉強だからと無理やり食べさせるが、怒ったまま。でもどこか気になる感じだった。
それから亜美ちゃんも巻きこんで鎌倉のパウンドケーキに追いつけ追い越せと、あれこれ試作を重ねて、やっと味はいいんじゃない!!といってもらえた。やったぞ!!あとはしっとり感だと、洋酒やシロップを使って、何度も試作を続け、やっと納得できるオレンジパウンドケーキが完成した。
さらに音楽祭をめざして、旬のぶどうやりんごでも挑戦していった。リンゴは里の紅玉で。ぶどうは地元のぶどう園のもの。コンポートにしてみたり煮てみたり、生で入れてみたりと奮闘した。結局リンゴは洋酒を入れ、スライスしたリンゴをコンポート風にして、中には蜜りんごを入れる、それぞれのいいとこ取りで路線は決まった。問題はぶどうだった。干し葡萄のレシピは探せばいくらでも出てくるのに生ブドウのレシピはなかなか見つからなかった。方向性は決まったものの、色合いがどうにかならないか、ブドウから出る水っぽさはどうしたら?など課題はいろいろだった。時期的にもブドウは種なしがなく、ブドウを1粒1粒皮をむいて種をとった。オレンジ・りんごは良かったが、ぶどうがOKがでず、ぶどうは今回は保留にして来年頑張ろうよ、むいたぶどうは冷凍して使おうという話もされたのだが、今この時にあれこれ追及してきた思いが1年後に先延ばしになることがなんだか悔しくなって引き下がれず、今回どうしても出したいんだと、半泣きでお願いし、なんとか3種類のパウンドケーキを完成させた。
音楽祭前日は、最後の仕上げで75本全部を真空袋から出し、ナパージュを塗る作業。苦労を重ねて、明日これが売れるんだと思うとすごくワクワクした。私たちがパウンドケーキの仕上げをしている間に戸来さんが和紙を買ってきてくれ、事務所で、戸来さん、中屋さんと平野さんでパッケージづくりをしていてくれ、みんなでそれを流れ作業で包みながら、今までの想いがこみ上げてきて泣きそうになるくらいうれしかった。中屋さんと平野さんは早番だったのにもかかわらず、深夜1時過ぎまで一緒に手伝ってくれ、みんなの力強いバックアップにもすごく感激して心がじーんとした。頑張って作ったパウンドケーキがさらに商品らしくなった。
当日、パウンドケーキは大好評!!75本完売した。音楽祭が終了してからも「もうないの?!残念」とい声がたくさんあってうれしかった。苦労したぶどうのパウンドケーキも珍しいと好評でほっとした。自分達が愛情を込めて作ったものがお客さんの口に入るところまでを見る。ふだん給食調理で自分達の作ったものをユニットで一緒に食べる、という同じような感じではあるが、今回はいつもよりもダイレクトにそれを感じることができ、すごくわくわくした時間だった。
私自身、里に来て4年目。1年目から今までずっと雅義君(仮名)とのプリン作り、亜美ちゃんとのお菓子作りに携わっているが、それぞれにこだわりというかプライド?譲れないものを二人ともしっかり持っている。作って終わりではなくて雅義君はその日販売した売れ具合だとかを家に帰ってからでも電話で報告してくれたり、亜美ちゃんもその時のお客さんの傾向をしっかりつかんで、クッキーの型さえも子供向けに飛行機にする、などしっかり意識している。厨房メンバーも今回のパウンドケーキ作りを「まずいなんて言わせてたまるか!!」「おいしいパウンドケーキ絶対作ってやる!!」という思いで挑んできた。何かをやりたいと思った時にそういう気持ちって本当に大切だと改めて思った。なんと言っても亜美ちゃんがパウンドケーキ作りにハマっていなかったら、きっとわたしたちもここまでのめり込めなかったと思う。本当にいい経験だった。お菓子作りが苦手でなるべく避けてきたスタッフが一番燃えていたことも不思議で、厨房にとってもいい刺激になった。
本業の給食もレベルアップしつつ、またお菓子作りにも挑戦していきたい。
ミラクルデイサービス ★デイサービス 米澤里美【2011年12月号】
認知症専門の里のデイサービスには、極めて個性豊かな方々が集まる。その日のスタッフや利用者さんの顔ぶれによって、雰囲気も違えば、起こってくることも違う。お互いの個性のぶつかり合いで、どんな色合いになるのか、その場に居合わせてみなければわからない、即興の演劇舞台に立っているような不思議な感覚がある。
里のデイサービスを利用して2ヶ月程の辰也さん(仮名)は、利用前の申し送りではデイサービスに悪いイメージを持っていて利用拒否が強いと言われていた。そこで相談して、送迎時デイサービスとは言わず、ドライブで音楽の聴けるところへお誘いする、ということにした。送迎の車の中で「あなたは、私に何の用ですか?」と何度か質問されたが、「ドライブです」「音楽を聴く集まりがあるんです」などと答えながらやってきた。初日、特養の交流ホールでレコードを聴いたり、ちょうど50人の見学者に遭遇して、一緒に混ざってコーヒーを飲んだりしながら、何とか一日目を過ごした。
お話ししているうちに辰也さんは、音楽愛好家で、喫茶店の雰囲気やコーヒーが大好きな方だとわかってきた。特養の交流ホールの洒落た雰囲気や、挽きたてのコーヒー、理事長のレコードプレーヤーで聴くクラッシックやジャズのアナログレコードは辰也さんに気に入ってもらえたようだった。おかげでそれから毎週、休みなくデイサービスに通ってくれている。当然イメージは、「喫茶店」や「集う場所」のようで、年配のスタッフを「支配人」と呼んでいる。スタッフが施設っぽく振舞うとそのイメージが総崩れになるので、給食は定食、入浴は温泉、といったぐあいに微妙にニュアンスを変えているがそれがまた里のデイらしくていい。
入浴はすんなりとはいかなかった。半そで短パンの入浴介助姿を見ると「勘弁してください」となるので、男性スタッフが温泉気分で一緒に裸になって風呂に浸かったりしていた。ところが先日、女性スタッフが入浴介助になった。無理だったときは男性スタッフに応援をたのんでいたが、そろそろ2ヶ月なので、何とか女性スタッフでも入れないものかと、あえて挑戦となった。ところが心配をよそに、何と辰也さん自ら脱衣場に入って、「おしょすぅ(恥ずかしい)けれど、入ってもいいのかな?」と声をかけてくれた。驚いて「どうぞ、どうぞ。」と背中も頭も2回ずつ洗ったのだった。
その日の入浴介助の田中さん及川さんは、私のイメージでは妖精っぽい感じで、ガンガンいくタイプではなく、起こることを受け入れ、守ってくれる、柔らかくて芯の強い感じの二人だ。そんな二人の妖精の世界に吸い込まれたのか、とても不思議な瞬間だった。さらに、ついさっきまで「こんな所来ねばいがった。」「おもしろい事なんてひとつもねぇ」と険しく厳しい表情と口調だった政雄さん(仮名)までもが、笑顔で辰也さんと湯船に浸かっている。こんなミラクルが起こるときは竜宮城のように時間が止まる。現実に戻って気がつくと、すでに15時半。16時には送迎の出発時間だ。そのとき一番入浴してもらいたいのに入浴拒否の強いエツさん(仮名)がまだだった。エツさんは、介護者のペースで誘うと、嫌がり、スタッフは頭からお湯をかけられることもしょっちゅうだ。しかも入ると長風呂で一時間もかかったりすることがある。誘うとなると、ある程度の覚悟が必要。今日は無理かも。家族さんに謝るしかないかとあきらめかけた。ところが、またまたミラクル。二人は柔らかい雰囲気でねばって誘い、エツさんは入浴できた。あと30分という都合を背負いながらも、全く強引さはない。耳の聞こえないエツさんのタイミングを待って手を添え、絶妙な間合いと柔らかな雰囲気で入浴を終了。16時にはみんな送迎車に乗り込み出発した。なんという奇跡!一体、二人はどんな魔法を使ったのだろうと後になっても不思議で仕方がない。
決してバタバタせず、あくまで穏やかな雰囲気と柔らかい感じ。妖精パワーが炸裂しても、感じさせるオーラはたなびくそよ風。里の妖精達の醸し出す不思議な世界が、他のデイサービスで受け入れてもらえなかったり断られたり、また本人の拒否がある個性の強すぎる人たちを包み込んで、ミラクルなエピソードを日々生み出している。里のデイサービスでは、実にダイナミックでときめく、不思議な時間が流れている。
里のデイサービスを利用して2ヶ月程の辰也さん(仮名)は、利用前の申し送りではデイサービスに悪いイメージを持っていて利用拒否が強いと言われていた。そこで相談して、送迎時デイサービスとは言わず、ドライブで音楽の聴けるところへお誘いする、ということにした。送迎の車の中で「あなたは、私に何の用ですか?」と何度か質問されたが、「ドライブです」「音楽を聴く集まりがあるんです」などと答えながらやってきた。初日、特養の交流ホールでレコードを聴いたり、ちょうど50人の見学者に遭遇して、一緒に混ざってコーヒーを飲んだりしながら、何とか一日目を過ごした。
お話ししているうちに辰也さんは、音楽愛好家で、喫茶店の雰囲気やコーヒーが大好きな方だとわかってきた。特養の交流ホールの洒落た雰囲気や、挽きたてのコーヒー、理事長のレコードプレーヤーで聴くクラッシックやジャズのアナログレコードは辰也さんに気に入ってもらえたようだった。おかげでそれから毎週、休みなくデイサービスに通ってくれている。当然イメージは、「喫茶店」や「集う場所」のようで、年配のスタッフを「支配人」と呼んでいる。スタッフが施設っぽく振舞うとそのイメージが総崩れになるので、給食は定食、入浴は温泉、といったぐあいに微妙にニュアンスを変えているがそれがまた里のデイらしくていい。
入浴はすんなりとはいかなかった。半そで短パンの入浴介助姿を見ると「勘弁してください」となるので、男性スタッフが温泉気分で一緒に裸になって風呂に浸かったりしていた。ところが先日、女性スタッフが入浴介助になった。無理だったときは男性スタッフに応援をたのんでいたが、そろそろ2ヶ月なので、何とか女性スタッフでも入れないものかと、あえて挑戦となった。ところが心配をよそに、何と辰也さん自ら脱衣場に入って、「おしょすぅ(恥ずかしい)けれど、入ってもいいのかな?」と声をかけてくれた。驚いて「どうぞ、どうぞ。」と背中も頭も2回ずつ洗ったのだった。
その日の入浴介助の田中さん及川さんは、私のイメージでは妖精っぽい感じで、ガンガンいくタイプではなく、起こることを受け入れ、守ってくれる、柔らかくて芯の強い感じの二人だ。そんな二人の妖精の世界に吸い込まれたのか、とても不思議な瞬間だった。さらに、ついさっきまで「こんな所来ねばいがった。」「おもしろい事なんてひとつもねぇ」と険しく厳しい表情と口調だった政雄さん(仮名)までもが、笑顔で辰也さんと湯船に浸かっている。こんなミラクルが起こるときは竜宮城のように時間が止まる。現実に戻って気がつくと、すでに15時半。16時には送迎の出発時間だ。そのとき一番入浴してもらいたいのに入浴拒否の強いエツさん(仮名)がまだだった。エツさんは、介護者のペースで誘うと、嫌がり、スタッフは頭からお湯をかけられることもしょっちゅうだ。しかも入ると長風呂で一時間もかかったりすることがある。誘うとなると、ある程度の覚悟が必要。今日は無理かも。家族さんに謝るしかないかとあきらめかけた。ところが、またまたミラクル。二人は柔らかい雰囲気でねばって誘い、エツさんは入浴できた。あと30分という都合を背負いながらも、全く強引さはない。耳の聞こえないエツさんのタイミングを待って手を添え、絶妙な間合いと柔らかな雰囲気で入浴を終了。16時にはみんな送迎車に乗り込み出発した。なんという奇跡!一体、二人はどんな魔法を使ったのだろうと後になっても不思議で仕方がない。
決してバタバタせず、あくまで穏やかな雰囲気と柔らかい感じ。妖精パワーが炸裂しても、感じさせるオーラはたなびくそよ風。里の妖精達の醸し出す不思議な世界が、他のデイサービスで受け入れてもらえなかったり断られたり、また本人の拒否がある個性の強すぎる人たちを包み込んで、ミラクルなエピソードを日々生み出している。里のデイサービスでは、実にダイナミックでときめく、不思議な時間が流れている。