2011年04月15日

感謝!おむつ提供 ★ワークステージ 米澤充【2011年4月号】

 3月11日の震災後、燃料不足が深刻な問題となり、物流が滞る日が続いた。そんな中で、紙おむつの目処が立たず、特養ホームでは紙おむつ不足の不安が高まった。
 停電でインターネットやテレビが使えないので、携帯ラジオが情報源として活躍する。13日に開かれた里の災害対策会議の際に、ラジオでおむつ提供のお願いを放送してもらおうということになり、AM、FM両社宛に携帯電話からメールを送信した。
 反応はすぐにあった。メールがラジオで放送され30分も経たないころ、1台の車が真っ暗な銀河の里へ向かって走ってきた。「ラジオ聞いておむつ持ってきたんだけど、ここでいいっか?」と男性の声。「ハイ!そうです!」と嬉しくて大きな声で返答する。「昔、ばあちゃんに使っていて余ったものだ。捨てようか迷っていたけど、取ってでよかったなぁ。」と車からおむつの入った段ボールを降ろしてもらった。お礼にリンゴジュースを渡そうとするが、「そういうつもりで持ってきたんでねぇ。いいからいいから。」とその男性は名前も名乗らず去ってしまわれた。以前もグループホームから出て歩いていた利用者を保護してもらったことのある人だったらしい。
 翌日以降、続々とおむつが集まってきた。ホームページを見て、東京からおむつを送っていただいた方もあった。全体で15組以上の早急な支援があり助かった。ホームセンターの在庫を大量に確保できたりして、おかげでおむつ不足は早々に解消へと向かった。ご提供いただいた皆様に、厚く御礼申し上げます。

 おむつの依頼を通じて、ラジオの電波の威力とともに、多くの方の善意を感じることができた。人々の、震災の現状に対してなにかできることはないだろうかとの思いを丁寧に結実させる方法を模索していきたい。
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震災後1ヶ月間で感じたこと ★ワークステージ 日向菜採【2011年4月号】

 地震の影響で送迎の体制が組めずワークステージは約2週間休業した。
 地震直後、各部署に作業を中断し利用者を集め、送迎車に乗って待機してもらった。泣きだしうずくまる人や、今後の予定を心配して混乱する人など、動揺は大きかった。
 盛岡から電車で通っている4人の利用者は停電で、電車が動かず、信号が点灯していない国道を走るのも厳しかった。そこで夜9時頃になって盛岡に向かった。いつもは照明で明るいコンビニやスーパーなどが真っ暗で、どこを走っているのかまったくわからなかった。利用者を自宅まで送り届けた際、マンションはエレベーターが動かないため、上の階まで階段を上らないといけなかった。普段は便利で不自由なく生活できていた町は、停電によってとても不便なところに思えた。
 無事全員を送り届け、里に戻ってきたのは深夜0時近く。グループホームみつさんちには9名の利用者が暮らしており、今後の見通しが立たず不安だった。私自身、車のガソリンがなく、グループホームに寝泊りして、みつさんちで利用者と生活することになった。
 みつさんちは第一と第二と建物が分かれているが、食事は第2で一緒にとっている。第二の食堂はIHクッキングヒーターのため使用できず、暖房も使えなかった。第一はリビングには暖炉あり、キッチンはガスコンロだったため調理も可能で、食事は第一で摂ることになった。災害時には燃料を多元化しているほうがリスクが分散されるようだ。
 ワークステージが再開するまでの2週間の間、みつさんちの利用者といっしょに過ごしたが、利用者にはなかなか危機的状況が伝わらなかった。
 「盛岡に遊びに行きたいよ!」と怒る人。潔癖?のSくんは、断水なのに、溜めておいた水を大量につかって念入りに歯磨きと洗顔をしている。お風呂も毎日入ろうとする人。自由に外出できなくて不満がたまっていく人。私や職員が泊まり込んでいるので楽しんでいる人もいたが、この危機的状況をどう理解してもらうかばかり考えてしまい、結局理解してもらえないことに疲れてしまった。私自身も24時間途切れることなく常にみつさんちにいたため、気持ちに余裕もなく精一杯だった。
 気分転換にと街のショッピングセンターへ外出を計画。燃料がなかったので他の用事のついでで外出した。買い物と外食で幾分ピリピリしていた雰囲気も和らいだ。また東和温泉に入浴しにいったり、リビングで「ばばぬき」をして盛り上がったりもした。また、ウッドボイラーのおかげで特養で入浴ができるようになり、みつさんちも一日おきに「大騒ぎの入浴」をした。Tさんは、一人でお風呂に入るときよりも大勢での入浴の方が温泉気分で楽しかったようだ。
 震災から約1週間がたち、スタッフの体制が組まれ、みつさんち利用者だけで作業を開始した。ただ1日ずったりと過ごしてきた1週目よりも、時間にメリハリがついたため、気持ちに余裕がでてきた。やはり、職員体制や一日の段取りができていないと、疲労感だけがたまっていく。被災地ではまだこういう状態なのかもしれない。
 ワークステージは3月25日から再開し、現在は通常どおり営業している。この震災のおかげで、「今まで通りの生活」も見直さなければならない。みつさんちは以前から水道・電気・ガスの使いすぎが目立ち、利用者の節約の意識は皆無で、使い放題の自由な生活はどうしたものだろう。

 ワークステージでは、停電で水耕ハウスの水の循環システムは動かず、またハウス内の温度管理もできず、ねぎの生育環境に影響を与えた。ギョーザを製造している食品加工場は、商品を冷凍保存しているため、停電により溶けてしまった商品は売り物にならない。今後、ライフラインが機能しなかった場合の対処や製品の管理など、普段電気などに頼りすぎている部分は考えていく必要がある。そして、利用者や職員の精神面の支えなども大きな課題である。この震災を貴重な体験として、今後に活かしたい。
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行動するちから ★ワークステージ 佐々木哲哉【2011年4月号】

 米同時多発テロの模様をTVで見ていた時以来の感覚だった。
 畑班は、施設周りの木を伐採する作業をしていた。林の中でひどい揺れに立ち往生したあとで顔を見合わせた広一さん(仮名)は「これはシャレにならないな」と、この先に不安を募らせた。
 情報が錯綜するなか、ラジオとスタッフの携帯TVで徐々に戦慄する状況が伝わってきた。地震と津波による自然の力の脅威。福島第一原発の見えない恐怖は世界を揺るがす最悪のシナリオを想起させた。

 地震による建物や関係者に甚大な被害はなかったが、電気が使えず、残りの燃料や食料、おむつなどの生活用品の量を、日々確認しながら、当面どう乗り切るかが、直近の課題となった。物資の調達も車両の燃料をどう確保するか、問題は差し迫っていた。ホワイトボードに車種と燃料残、外出の要件をリストアップしてはにらめっこしながら、使う車両を限定して、他の車両から(耕運機までも!)燃料を抜き取ってストックした。車両を使う時は用事を複数まとめて行くようにお願いし、職員や業者さんから周辺の給油情報を聞き、夜間に給油所へ並ぶなども行ったりしたが‥‥せっかく寒い思いをして車中で一夜を明かして並んでも、たった10ℓしか給油できなかったり空振りなども続いた。
 皆この緊張感とある種の空しさにうんざりして、開き直って施設に泊まり込んだり、自転車で通勤する職員が増えた。新しく自転車を購入して、遠距離を通ってきた職員もいた。
 また震災2日後にデイの利用者の息子さんのFさんが沢山の発電機を届けてくれた。緊急時の酸素発生器を動かすためにセットしたり、携帯の充電に使ったり、ワークではお米の精米などができて大変助かった。


 私は学生の頃、阪神淡路大震災の時に神戸で1週間ボランティア活動に参加した。避難所で救援物資の膨大な衣類の仕分けを担当したが、なかにはとても使えないような汚れや染みのついた衣類などもあって、善意の裏側を見せつけられたり、まとまった数のない衣類をどう配分したらいいのか途方にくれた。
 同時に、「行けば役に立てるだろう」と勢いだけで被災地に入って、ろくに動けない己のなかにも正義という名の欲や自己満足、偽善があることを知り、数が揃わなかったり賞味期限が迫った救援物資としての食料をボランティアスタッフと一緒に食する日々に「ただ糞をするために来たのだろうか‥‥」と激しい無力感や自己嫌悪にとらわれた。「ボランティアとは何ぞや?」と、毎晩のミーティングでいろいろ考えさせられた。
 震災以外にも学生時代は自然保護活動などに参加して、一部のダム建設など必要性が疑わしく自然環境を改変させてしまう公共事業に憤りを感じて反対運動の集会などに参加したが、そこでもある種の限界や距離感を感じていた。それでも、行ってよかったと思う。
 今回、どちらかといえば被災する側に立ったが、以前との違いは、その立場ではなく、自分がその地に足がついているか、当事者としての意識があるかどうかだと少し分かってきたところだと思う。当時は自分のことばかりで、被害を受けた方やその土地と充分向き合っていなかったと思う。いまは守るべき人や場所があり、食料や薪といった資源を生み出す農の暮らし・仕事や対象、思いがはっきりしている。この存在や安心感は、とても大きい。そしてそこに生かされているからこそ、少しでもできることをしたいと思う。

 今回の震災は、石油や電気に依存し過ぎた生活を見つめ直す機会でもあると思う。ライフラインが復活したからといって、果たしてこれまでの生活に戻ってよいものだろうか‥‥被災地で、水を山から引いてきたり廃材から風呂場を作ったりしている一方で、都市部では給油所に長蛇の列ができたり、買いだめに走ったり、放射能に過剰に反応したりしている。
 大なり小なり私もその一人なのだが、こうした姿は、現代文明を拒んで今もアマゾンや極北の地で自然とともに暮らす先住民族やアメリカのアーミッシュなどには、さぞ滑稽な光景に見えることだろう。
 その電気の明るさや使い方は本当に必要なんだろうか?今後も便利で快適な暮らしと引き換えに、日本の3割の電力を担う原発がもたらすリスクを背負っていく覚悟がひとりひとりのなかに本当にあるのだろうか?
 「生きるちから」が退化してしまった私たちだが、今回の節電・節エネルギーを機にもっと本気で3割の電力を減らす努力を多くの人々が行ったら、これまでのエネルギー政策も変えられるのではないだろうか‥‥そこに新しい日本の可能性があるんじゃないだろうか。

 三陸は瓦礫の撤去から町の再建へ、そして海の再生へと先の長い道のりを歩んでいくことになる。神戸の震災での教訓から、ボランティア慎重論や迷惑論も拡がっているようだが、思いを行動に起こすこと、その思いを汲み取って活かす役割を担う場所や人が大事だと思う。私自身も本業に精いっぱい取り組みながら、小さなことでもできることを仲間たちと行動に移してみたいと強く思う。

「あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
気にすることなく、善を行いなさい。」
マザーテレサ
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一期一会 ★特別養護老人ホーム 佐々木広周【2011年4月号】

 11日の地震後、2日断水状態になり3日間電気が来なかった。ライフラインは復旧したものの、燃料がなく、職員も通勤に困って泊まり込みで対応していた真っ只中、マサさん(仮名)が亡くなられた。年末にも体調が悪く、正月を迎えられるかどうかという状況も乗り越えてマサさんはよく頑張ったと思う。12日頃から時々息が荒くなったりしていたマサさんだったが、16日ドクターの回診の時間に合わせたかのように逝かれた。
 マサさんは、平成20年に脳梗塞を発症し、以後、四肢麻痺で、言葉を発せられない状態になった。身体を動かすことも出来ず、食事も胃瘻からとなった。感情を表に出せない、感情を持っていないとの診断もあった。家族さんも“これで、本当に良かったのか“との逡巡もあったという。そんな中、マサさんは開設したばかりの銀河の里の特養に来られた。
 その一年後、私は新人職員として銀河の里に就職した。そして早くも1年が過ぎたのだが、今振り返ると、その変化に自分でも驚く。当初はこの仕事が合っているのか、やっていけるのか全く不安だった。今、この道に確信を持てる自分がいる。それにはマサさんとの出会いが大きい。私は、大学卒業を前に自分が何をしたいのか分からずにいた。そのくせシステム化され、効率や利益ばかりを求める社会には疑問を抱いていた。
 そんな中、知人がある介護施設を紹介してくれた。何の資格もない私だったが、以前その施設でボランティアをした事もあり、“特技のピアノが活かせるかもしれない”と、甘い考えで面接を受けたが結果はだめだった。だが熱意は伝わったのか「君のやりたいことが出来るかもしれない。」「理事長がちょっと変人だけどね。」と銀河の里を紹介された。
 面接をして、2日間の実習をしてみることになった。今思えば、その実習の間、おそらく私は他の職員の方から見れば、とんでもなく空回りしていたのではないだろうか。介護の右も左も分からず、人と人との繋がりなどまるで解らず、ひたすらリビングでピアノを弾いた。
 「(介護の)作業には目もくれず、ピアノを弾き続けるとはおもしろい」と採用になった。理事長が認めてくれたのは、私の純粋さだったのだろうか。それから一年、私は銀河の里で、人が純粋であり続けることの難しさを思い知らされてきた。
 介護の現場は人と人との出会いの場で、相手の事をより知りたいという思いに支えられている。だが、毎日接していると慣れてしまい、相手への関心が薄れてしまいがちだ。そこに落とし穴がある。特養の職員の中でも、その穴に嵌ってしまう者も少なくない。私にそれを気づかせてくれたのはマサさんだった。
 診断では、マサさんは感情を出せないとのことだったが、付き合っているとたくさん伝えてくれるのがわかる。目をキョロキョロと動かしたり、欠伸をしたり、顔色を変えたり、時には溜息で職員に多彩な感情を伝えてくれた。家族さんが面会に来られると、パッと表情が明るくなったし、お気に入りの男性職員が声を掛けると笑顔が返ってくる。新人の私はそれを聞いて、マサさんの笑顔が見たい一心で居室を訪れた。
 初めの頃は、教わるがまま、オムツ交換や、入浴介助などの作業に精いっぱいだったこともあって、日誌には、体温など外面的な様子ばかり書いていた。ところが夏以降、自分の心がマサさんを通じて映し出されるように感じ始めて、日誌の内容も大きく変化した。夏に、私はマサさんの誕生日会を企画した。それをマサさんに伝えたときマサさんが私に初めて笑顔を見せてくれた。誕生日を過ぎてからも、マサさんは毎日、私に笑顔を見せてくれた。“もしかして、これが銀河の里で言う「繋がる」っていう事なのかな?“と感じていた矢先、マサさんは体調を崩し入院になった。
 新しい脳梗塞の痕も発見され、退院後も機能の衰えから脱水症状を引き起こし再び入院。退院してきたマサさんの顔からは、笑顔を見ることは出来なくなっていた。だが、マサさんとのコミュニケーションが失われたわけではない。普段キョロキョロと目を動かしているが、お孫さんの写真にはしばらく見入っていた。手作りのクリスマスカードを作ったが一瞬しか見てくれず、がっくりした。しゃっくりが頻発なとき、声を掛けると、スッと止まった。そこで立ち去ろうとすると再びしゃっくりが始まった。私はマサさんが眠りにつくまでよく一緒に過ごした。オムツ交換にちょっと手間取ると、溜息で叱られた。思わず「申し訳ございません。」と言ってしまうほどマサさんの声が聞こえるかのようだった。

 “私が寝たりきりでも、あなたは私に希望をくれますか? 私が言葉を失っていても、あなたは私と会話してくれますか? ちょっと、あなた。オムツ交換だけしてどこかへ行ってしまうの?“

 そんなマサさんの声が聞こえてくる。それは自分の心の声だったのかもしれないが、マサさんが自分の声を聞かせてくれた人であったことはまちがいない。

 11日の震災で多くの方が犠牲となられた。その5日後、マサさんも、犠牲者と一緒に逝くように旅立たれた。毎日が、一期一会であることや、この仕事を続ける上でかけがえのない思い出をたくさん作ってもらった。マサさんにありがとうと感謝の気持ちを伝えたい。
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震災派遣支援に参加して ★デイサービス 高橋健【2011年4月号】

 大津波で甚大な被害を受け、施設ごと避難している山田町の障がい者福祉施設に、支援職員として2日間行ってきた。水汲み、食事の配膳、食事介助、入浴介助から、その他細々とした作業の補助をしてきたが、利用者の方々との日中のレクリエーションが主だった。
 現地に向かう途中、沿岸一帯の惨憺たる光景に車内にも重苦しい空気が立ちこめる。現在進行形の被災地に足を踏み入れた実感が高まる。身体が強張り、ただ呆然と眺めることしかできない。
 到着すると、避難所の2階の一画を間借りして、施設が引っ越しており、狭い場所に人がごった返していた。震災から3週間経過し、電気が復旧し物資も充実してきているとのことで、緊迫感より、疲れがたまっているように感じた。20数名いるスタッフの半数近くが家屋を失い、利用者には家族を亡くした方もおられるということだった・・・。
 スタッフは疲れが極限にまで達しているようで、指示も出ず、我々はほとんど置き去り状態だった。それに比べて、利用者の方々はエネルギーに満ちていた。胸ぐらを鷲づかみにして、ひっぱりまわさんばかりに歓迎してくれる方もいれば、興味津々にこちらの様子を観察している方、自分の世界に没入して呪文のような言葉を唱える方、漫画のセリフをひたすら書き写している方、それぞれ、思い思いにエネルギーをぶちまけている40人近くの利用者。その凝集されたエネルギーに、僕の身体が感応して不安な気持ちが消えてしまった。
 到着してまもなく夕食の時間になり、配膳を手伝った。ガスがなく、自衛隊の炊き出しだった。おにぎり2個〜3個、おでん、サラダといった内容で震災直後に比べると、食料は充実してきたとのことだった。
 夕食の片付けをして歯磨きを終え、利用者の方々にも手伝ってもらいながら布団を敷き、消灯時間までの間、利用者さんを交えてトランプで遊び始めると、続々と利用者が集まってきた。集まった皆で神経衰弱で楽しんでいるうちに、僕もヒートアップして、狙っていたカードを取られたときは、「なんでだよぉー」と大騒ぎして、利用者と心底トランプを楽しんだ。パズルやぬり絵やおもちゃなどを持参して行ったのだが、利用者の方々には大好評だった。
 ある若い男性の利用者は、避難所に移ってから何回か脱走を図ったということで、スタッフの方から注意していて欲しいとの申し送りがあった。表情が冴えなく、気分が鬱屈しているようだったが、彼は「くろひげ危機一発」を気に入ってくれた。ひたすら樽に刀を突き刺しては、突然、桂三枝の「いらっしゃーい」の両手バージョンで歓喜のポーズを見せてくれた。「いい感じぃー?」と聞くと、「いい感じぃー!」と弾けるような笑みで返してくれた。寝床にまで「くろひげ」を持ち込み、添い寝をしていた。持参したおもちゃは全て寄贈してきた。
 21時に消灯をしたが、狭い空間での雑居寝状態で、なかなか寝つけず、正直夜間は辛かった。トイレ介助が必要な利用者はいないのに、スタッフが多くいて、こんな時こそ休んで欲しかったのだが、それも言い出せず眠りに落ちた。
 コミュニケーションらしいコミュニケーションがスタッフととれず、その状態が最後まで変わらず、何か煮え切らない想いが残った。短期間のボランティアが入れ替わり立ち替わり入ってくると、スタッフが都度説明し指示するのは相当な重荷になるはずだ。
 効果の高い支援のためには、被災地のスタッフに受け入れを丸投げするのではなく、可能な限り現場近辺にボランティアの拠点を設け、現場に被災地の方々とボランティアを架橋する人材が常駐し、そこから指示が出たり、指揮を執る体制が求められる。被災地の方々と緊密な関係を築き、種々の調整を図る人材が「現場」に必須である。
 現場から遠く離れた場所で、中身が空疎な書類だけが行き交い、形式だけを整合しようとする、お役所的支援形態では必要な支援は達成されない。支援に入るこちらとしては、現場でいくら振り回されようが一向に構わない。ただ、スカスカの紙ペラに縛られるのは真っ平だ。何はともあれ現場だ。既成の考え方に囚われない現場中心の支援を展開してもらいたい。
 翌朝は6時から水くみを手伝い、その後は布団の片づけ、掃除、朝食と続いた。午前中、避難所から近くの広場まで散歩をして、そこでサッカーをして遊んだ。普段は歩く時に補助がいる女性が、力強くボールを蹴るので驚いた。空は青く澄んでいて日差しが柔らかく、それだけで気持ちが落ち着いた。そこからは海が一望でき、「何でこんな美しい海が・・・」と思うほど穏やかな海が広がっていた。
 午後からは入浴で、自衛隊が浴槽にお湯を溜めてくれた。介助が必要な方々から入浴が始まったが、これがまた、てんやわんやのお祭り騒ぎになる。「ばっしゃんばっしゃん」かき回したり、洗面器を浴槽に入れてでっかい泡を作って遊ぶ人、浴槽にへばり付いて全く出ようとしない人・・・2日間のうちで最も仕事らしい時間だったが、入浴後は利用者の方々と距離感が縮まったように感じた。
 夕方、入浴介助でへたっていた僕に真由美さん(仮名)が近づいてきた。そして2冊のノートを見せてくれた。ノートの表紙にはローマ字で「SHINSAIPOEM  TSUNAMI」と書いてあった。彼女はずっと詩を創作していて、津波でこれまでの創作ノートは流されてしまったが、震災直後から新しいノートに書き始め、多いときは1日に10篇もの詩を綴っているとのことだった。彼女の生命にとって詩の表現はそのまま生きることなのだろうと感じさせるなにかがある。その詩には彼女自身も統御しきれず意識上には形を結ばない超越的な「何か」を感じ強烈に惹かれるものがあった。
 彼女の詩は、生命を育む豊穣な海への愛と畏怖の念に溢れていた。そして福祉の本質を理解して、そこに愛を見いだそうと希望を抱いている。ユーモアもある。僕は、ただただ感動した。短い時間のなかで、僕を選んで詩を見せてくれたことが嬉しかった。
 翌日、朝食を済ませ、帰る支度を始めた。別れの挨拶をするとき、真由美さんがきて「ありがとう、いい思い出になった」と手を差し伸べてくれた。「必ずまた会いに来るから、まだ思い出にしなくていいよ。今度来た時また詩を読ませてね」と言って握手を交わした。
 高台を降りると、海辺の絶望的な風景が視界を襲ってきた。これからも続く被災地の厳しい現実を想うと気が滅入りそうになったが、別れ際の真由美さんの笑顔が頭をかすめ、また皆に会いに来たいと思った。
 今回のお役所的手配の煮え切らない思いと、現場の惨状と、利用者との感動の出会いをただの感想で終わらせず、これからの自分の行動に結び付けていきたい。危機的事態にこそ奮い立ち、全力で闘いに挑むのが「銀河の里」の精神だと信じている。闘いはこれからだ。
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震災 〜共に生きる〜 ★デイサービス 藤井覚子【2011年4月号】

 3月11日、午後2時46分。突然携帯電話が「ビービー」と鳴る。携帯をみると「緊急地震速報。強い揺れに備えて下さい」と警告があった。地震??と思った瞬間に大きな揺れが始まった。
 この時、デイサービスでは特養の交流ホールで誕生会を行う予定をしており、ちょうど出かける準備をしている真っ只中だった。車への乗り込みも始まっており、移動をしている途中に大きな地震がきたため、そのまま屋外に避難した。これまで経験したことのないあまりの大きな横揺れで、恐怖で歩くこともできないような状態だった。地震発生時にトイレにいた利用者とスタッフは、利用者の体を支えながら揺れのおさまるのを待ち避難した。みんな無事に避難できたが、誰もが驚き、利用者も足が震え腰が抜けてしまったり、「おっかねー」と泣いたり、恐怖心でいっぱいだった。
 避難したものの屋外は寒いので中に入りたかったが、大きな余震が続くので、戻るのも危険と判断し、毛布をかぶり車へ乗り込み待機することにした。建物の破損等はあまりなかったが、あの揺れの後は世界が変わってしまったかのように感じ、ただただ不安な気持ちが強くなった。
 暫く、車で待機した後、利用者を送りに出かけた。停電で信号は止まっていて、コンビニは食べ物を買い込もうとする人で混み合っていた。なんとか無事に利用者さんを送り届け、家族さんの無事も確認でき、ホッと安心したものの、気づけば夕闇が迫っていて、町は真っ暗で電気やガス、水道も止まっていて、まるで町が闇と化してしまったかのようだった。暗闇の中、懐中電灯の明かりで今後のことをスタッフと相談するが、今まで経験したことがない災害で、ライフラインがストップしてしまった状況で、復旧を待つしかない状況だった。
 この日の午前中に、隆さん(仮名)が「地震きたべ?」と何度もスタッフに確認していた。それは数日前の地震のことを気にしての話だったと思うが、何度も何度もスタッフに言ってくるので、気になっていた。そして、もともとこの日はデイで誕生会を予定していたが、急遽交流ホールに変更になり出かける準備をしていた時に地震が来たのも、偶然とは思うが不思議な感じだった。
 翌日、明るくなって建物の状況を細かく観察すると、玄関にひび割れがあったのと、ボイラーや貯水漕の機械が故障し動かなくなっていた。電話も使えないため、利用者宅を回って安否確認と当面のデイサービスの休業を伝えて歩いた。電気もガスも水道も電話も何も使えない状態では何もできなかった。
 電気、ガス、水道はあって当たり前で、それらが使えなくなることは想像もしていなかった。2日後電気が復旧したが、テレビで被害の大きさを知り、ショックを受けた。津波が来る瞬間の映像、家も人ものみ込まれてしまい、壊滅した町の様子は、現実のこととは受け止めがたいことだった。
 自然と共に生きていく、自然に生かされている命であるがゆえに、土地、町を守り、人や暮らしを守っていくことが大切な事なのだろう。生きることは苦しい。だがそれでも人は前を向いて生きていくしかない。大切な人、町、暮らし、つながりをどう紡いでいけるのか、一人一人が考え動き出さなければならない。日々の暮らしに感謝しながら。
 震災後、ガソリンなど燃料が入らなくなり、ボイラーも故障したため、デイの再開までに2週間かかってしまった。利用再開の日キミさん(仮名)は送迎の車の中で「デイに行けなくて寂しかった。こったな地震、生まれて初めてだった。裸足で走って逃げた」と話を聞かせてくれた。私たちの安否を気遣いながらも、デイへ来ることが日常の生活であったキミさんにとっては、やっと普通の生活に戻れたという感じだった。一平さん(仮名)は地震が起きてから、混乱気味になり、その後、体調が急変して亡くなった。「ドクターから宣告うけた」との連絡が奥さんからあり、会いに行くと、一平さんらしく「よっ」と左手を上げて挨拶をし、何度も何度も握手を求めてくれた。今思うと一平さんなりの別れの挨拶だったと思う。何かを託されたような力強い握手だった。銀河の里のデイが開所して以来ずっと利用をしていた一平さんは、親分のようにドンとしていたが、優しく皆を見守ってくれるような存在だった。若い人を育てたいという気持ちも強く、挨拶や礼儀には厳しい面もあったが、変化を敏感に感じ「成長したな」と言葉をかけ、励ましてくれる人でもあった。自己主張が強く、一見強面なイメージがだが、周りにいるみんなはその優しさを知っていて、こだわりの一番風呂、卵粥、コーヒー、将棋は、日課というより「儀式」と思えるほど大事なことで、そのこだわりを決して変えないところが一平さんだった。ドンといてくれる一平さんの存在は、大きくて、私に安心感を持たせてくれていた。亡くなった日、スタッフと打ち合わせをしていると、厨房の水道の蛇口が全開になって「ジャー」と激しく水が流れだした。さっきまでは閉まっていたのに・・・不思議だったが、皆は「一平さんが挨拶にきて驚かそうとしたんだね」と納得した。 一平さんとの別れは悲しいが、最後に見せてくれた精一杯の元気な笑顔と力強い握手は私たちに向けたエールだったと思う。

 3月末で私は里を退職し、新たな道を踏み出した。里での4年間は、出会いがたくさんあり、それぞれの個性をみつめながら、自分らしさも同時に問われていたように思う。多くの人との関わりの中で心と心が通じる喜び、難しさ、温かさを感じる時を過ごし、生きる尊さを教えていただいた。

 被災地では復興に向けての支援の輪が広がっている。個々に生きる現代社会の中で、地域の人とのつながりも希薄になっていたが、共に生きる社会を築くことが求められている今だからこそ、私もその一端を担っていきたい。
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日常の灯火 ★グループホーム第1 山岡睦【2011年4月号】

 その日の勤務は夜勤で、アパートの部屋でそろそろ出かける準備を始めようとしていたところだった。突然携帯から聞き慣れない音がして、その直後に揺れがきた。棚から物が次々と床に落ちる。揺れは長く続き、大きくなるので「もうだめかもしれない」「建物が崩れてしまうかもしれない」と思って、ただただ恐く、冷静ではいられなかった。
 すぐに里、家族、彼氏に連絡を取ろうとするが携帯は繋がらない。揺れが収まってもまたすぐに次の揺れが来る。停電になり、TVはつかず情報が入らない。頭の中は真っ白になり、部屋を出たり入ったりうろうろしながら、家族などにメールで無事を知らせ、とりあえず里に行こうと最低限必要なものをバックに詰め込んで車を走らせた。
 里に着くと、みんないつでもすぐに外に逃げられるように、厚着をしてリビングに待機していた。東北の3月はまだ寒いが、普段使っている暖房は使えない。こうなると、いかに普段の生活が電気に頼っていたものなのかを思い知る。このところあまり活躍していなかった暖炉の出番がやってきた。電気が復旧するまでの間、暖炉は暖かかった。
 どのくらいの被害でこれからどうなっていくのか解らない。電気、水、食料が来るのか来ないのか。この状況がいつまで続くのかわからない不安を抱えながら、今日、一日を乗り切らねばならなかった。お風呂も控え最低限の生活で生き抜いて行くしかないと覚悟した。
 地震の当日は早めに夕食をとり、夜間はろうそくをつけ、暖炉のあるリビングにみんなで集まって寝ることにした。いつもは居室に鍵をかけて休むチヨノさん(仮名)も、リビングに率先して自分の寝床を確保する。利用者9名がリビングで寝るという、過去にない不思議な光景。スタッフも新人スタッフを含め3人が一緒に泊まる緊急体制をとった。真っ暗な夜。怖い。度々やってくる余震。不安を皆が抱えている夜。そんな中、暖炉の火は不思議なあたたかい気持ちにさせてくれた。普段煌々と照らす電気の明かりだと、見えすぎるくらい見えてしまう。明るすぎず、むしろ少し薄暗い感じ。そこにほんのりと暖炉の火がゆらゆらと燃えている。その感じが逆に人と人との距離も近くする。じんわりとしたぬくもりを感じる深みのあるあたたかさを感じた。
 日中も寒いので火を絶やさないように暖炉を燃やし続ける。皆リビングに集まって過ごす。グループホームに流れる日常を、暖炉が守ってくれているようにも思えた。
 グループホームの日常を守りながら、一方で私個人としても気が気でない状況にあった。弟が石巻、彼氏が大槌にいてどちらも地震以降連絡が取れず安否が確認できなかった。時間が経つにつれて不安は増すばかり。繋がらない電話。返ってこないメール。ラジオ情報と携帯のネットでどちらも街は壊滅的な被害を報じていて、情報を知れば知るほど絶望的になる。それでもひたすら可能性を信じて祈り続ける。ただひたすら・・・。夜は怖くて眠りに入れない。一日が本当に長かった。
 そんな耐えきれない不安に苛まれながら、グループホームの日常がそこにあって、皆がいつものように過ごしている現実に支えられていたと思う。日常を守らなければいけないという自分の役目もあった。夜も待機で泊まった。きっと一人でいたら、耐えられなかった。やることがあって、利用者のひとりひとりが変わらず居てくれることに救われたと思う。
 同じ空の下、津波の被害を受け、日常とはかけ離れた事態の真っ只中にいる人達がいる。そのことを思うとどうしようもなく苦しくて、何も出来なくて、憤りを覚えて、ただただ涙を流すしか出来ない。大切な人たちと繋がれず、安否の確認もできないどうしようもない不安の一週間。やがてメールが人づてに繋がりはじめ、安否が確認でき、携帯で直接話せるようになったのはなんと6日目だった。
 自分に与えられた日常を疎ましくさえ感じたが、その日常が私を守ってくれていたのだと後で解る。グループホームで皆といることで私はなんとか自分を保つことが出来た。
 暖炉の前に集まるみんな。人と人とを繋いで日常を守る火。震災の中でその尊さに初めて気付く。本当に必要なものは何なのか、大切なことは何なのか。
 今後、長い復興の闘いが続く。ライフラインが戻り、元の生活に戻るだけでいいのか。これからどうあるべきなのかをしっかりと考えていかなければならないと思う。
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震災を越えた特養 ★副施設長 戸來淳博【2011年4月号】

 銀河の里の特別養護老人ホーム(以下、特養。)では、15時のティータイムの準備をしていた時だった。大きな地震に見舞われた。その揺れは約5分間という長さに加えて、今までにない大きな揺れだった。地震後、すぐに停電となり、内線電話も不通となった。私は各部署の被害状況を確認すべく特養から、法人本部の事務所へ走った。幸い人的被害はなく、建物への大きな被害もなかった。特養とデイサービス(以下、DS。)では、給湯設備が一カ所、グループホームはボイラーが故障し、各部署で食器棚の食器、グラスが割れるなどの被害があった。一次的被害は少なかったものの、停電、断水、物流が止まるなどの二次的被害が大きかった。食料、水、燃料の確保にとどまらず、特養ならではのオムツや経管栄養食、酸素ボンベの確保にも奔走した。通常の家庭とはまた違って、特養特有のライフラインの存在を思い知らされた。
 地震発生直後から携帯電話が繋がらず、職員同士連絡もままならなかった中、大半の職員が自主的に里に駆けつけてくれた。夜勤専属の千葉さんも駆けつけてくれた。開設初年度、無資格未経験で応募されたのだが、とても気配りが細やかで安心感の持てる仕事ぶりでありがたい存在だ。地震直後「心配だから寄ってみた。」と駆けつけ、そのまま夜勤に就いてくれた。また前職が大工だったので棟梁と呼ばれている高橋さんも、すぐに駆けつけてくれ、徹夜で廊下やリビングを照らし、皆が寝静まるまで見守っていてくれた。
 一方で、「地震で行けません」と夜勤をドタキャンする人や、連絡もなくそのまま来なかった人もあった。地震当日から夜勤の3人中2人が欠けてしまい、寮の職員は急な勤務調整に備え、職員の何人かは泊まり込む緊急体制をとった。ガソリンの供給もままならない状況の中で、緊急体制は約2週間続いた。この間、泊まり込み体制を取ってくれた職員が何人もいたり、ガソリンのないなか自転車で通勤するなど職員の努力で乗り切ることができた。
 特養では、長期短期併せて40名の方が入居されている。寝たきりで、医療的な管理が必要な方も多い。そんな状況を抱えて、ライフラインが途絶えるのは不安でしょうがなかった。さらに大事なのは人だ。人手がなければ特養は運営できない。そうした中、自主的に駆けつけ、泊まり込んでくれるスタッフがたくさん居たことは非常に心強く、ありがたかった。
 厨房の職員もよく頑張った。食材が届かず、先行きも不安ななかで、予定の献立はキャンセルになったが、毎食知恵と工夫が盛りこまれた愛情こもる食事を出してくれた。
 また、普段に比べたら明らかに環境は悪く、一見戦々恐々とした野戦病院の様に見えたリビングでは、蝋燭の明かりで集まり、語らいながら、食事を大皿からとりわけて食べる様子や、ベッドを並べ一緒に寝ている姿など、入居者と職員は、一つの家族の様な暖かい雰囲気が感じられた。
 日が変わると、沿岸部の被害が、ラジオや携帯のTVから徐々に分かってきた。銀河の里には、沿岸部出身の職員も多く「壊滅的だ」「町ごとさらわれた」などと情報は飛び交うものの、具体的な情報は何も入らず、不安だけが募った。両親と連絡のとれない職員も多く気にかかる。そんななか被災地からの入居者の受け入れの打診が来た。被災者を受け入れると人手が必要となる。休みもとれなくなるかもしれない。ユニットのリーダー、各スタッフにそのことを伝えると、使命を感じているような強い表情でうなずいてくれたことがうれしかった。
 震災後3日目の深夜電気が復旧した。電気のありがたさを感じながら、皆が寝静まっているなか、テレビを各ユニットから撤去して回った。震災の映像があまりにも生々しすぎると感じ、できるなら入居者に無防備に見せつけたくはなかった。不安だけがあおられるように感じた。
 電気がなく、3日間、吸引器や酸素精製機など医療機器は使えず、酸素ボンベの確保にも奔走した。そんな中、入居者誰一人として体調を崩すことなく元気に過ごしてくれた。それまで毎日のように通院の手配をしたり、救急車を呼んでいたのにである。ガソリンの供給など落ち着くまでに2週間を要したが、入居者含め、里の一人一人がこの困難に立ち向かっていたんだと思う。
 震災を通じて一つの蝋燭の明かりや暖かい物が食べられることなど、一つ一つのことが新たな感動として感じられる。
 振り返れば、銀河の里が開設した年、私も里で新生活をスタートした。早いもので10年経つ。その年、9月11日に世界を揺るがす事件があった。TVから流れる映像を私はリアリティ無く眺めていたように思う。あの頃は何も分かっていなかった。そして新たな10年の今年、未曾有の災害がおこった。銀河の里としても、自分としてもこの困難と立ち向かう形で10年目がスタートすることは大きな意味があるように感じる。これからをどう乗り越えてゆくのか、大きなチャレンジが始まったように感じている。

 ちなみに、引き下げたテレビは今現在もユニットに置いていない。テレビがない分、利用者同士、またスタッフを交えての会話が弾んでいるように感じている。以前から、テレビに意識を持って行かれ、関係が切れたり、ひどい場合は職員がTVに見入ってしまうなどの状況があり、歯がゆい思いがあった。震災の過激な映像を無防備に触れさせたくない思いでテレビを撤去したのだが、ないリビングのほうが心地よい場が作り出せているとの報告が多い。今後、社会と繋がるツールとしてのテレビなど、情報について、考えていかなければならないと感じている。
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震災と覚悟 ★理事長 宮澤健【2011年4月号】

 電気、水が止まり、テレビも電話も使えない。物資が入ってこない。この状況がこの先どのくらい続くのか、いつまで耐えればいいのか情報がなく見通しがたたない。日常に我々はいかに支えられ、守られているかを思い知らされる。
 銀河の里では利用者も職員も無事で、建物も被害は少なかったのだが、停電で暖房が使えず、水も出ないので、デイサービスと通所のワークステージは休業になった。
 日常が失われた状況の中で、重かったのは、特養とグループホームの約60名の高齢者の入居施設を運営できるかどうかだった。食事を出し、介護を継続し、健康を維持するという日常は非常事態といえども崩すわけに行かない。
 食材はいつまであるか、ガスはどのくらい持つか、職員は通勤できるのか、お風呂がいつになったら使えるのかといった問題が、いきなり突きつけられた。反射式ストーブをかき集め、灯油の残量を計算した。おむつは一週間分しかない。酸素生成器が使えず酸素呼吸器の酸素をボンベでまかなうしかない。ボンベをとりに行く燃料をどうするか。楽観的に構えるわけにも行かないが、最悪の状況も想定しつつ、ある程度の読みも持ちながら覚悟を決めるしかない。
 強みもあった。農業をやっているので、米は半年分はある。味噌もそのくらいは持つ。野菜もハウスにいくらかある。食材の供給が止まっても最低半年は生き残れる。水は近くの山から湧き水をくんでこられる。
 断水は2日で回復し、電気も4日目には復旧したのだが、問題は車両の燃料だった。職員が通勤できなければ人手が要の介護現場は回らない。結果、これも覚悟が勝負だった。「家には帰らない」と泊まり込みを決め込んだり、自転車で通う職員に助けられた。徹夜でガソリンスタンドに並んで給油した職員もあった。
 2週間でほぼ日常が戻り、燃料も何とか確保できるようになり、デイサービスとワークの営業を再開した。息が詰まるような苦しく長い2週間だった。
 この間、何人かの職員の家族の安否が確認できなかったことが苦しさを重くした。当初一週間は携帯も電話も使えず、メールも返ってこないなかで、壊滅的な被害の報道に当事者の不安はつのった。無理やり沿岸部まで車を走らせた職員や、どういう状況も運命として受け入れるしかないと腹をくくる人もいた。連絡がとれるようになり、近しい親族の無事は確認されたが、友人や、親戚には犠牲者があり、実家の家を流されたり、育った故郷の街が風景ごと消滅した事実は耐え難いことだった。いたたまれない不安のなかで、利用者の介護など日常の仕事が支えになっていた。日常を取り戻し、日常を守ろうとしながら、日常に守り支えられていた。
 被災した沿岸部の施設からの受け入れの打診が2日目に県からきた。こちらもサバイバル状態ではあったが、沿岸部の状況を考えると受け入れたい。ところが、受け入れ体制は取ったのだが結局依頼は来ず、個人的な繋がりで避難された方の入居に留まった。職員の被災地派遣も2回に留まり、構えた割には、拍子抜けの感がある。どう支援していいのかまるで検討がつかない。ボランティアもまだ本格的には動いていないようで、むしろボランティア迷惑論が前に出ている。
 世界的に支援の機運が盛り上がり、誰もが、東北のためになにかできないかと支援の行動を模索するなかで、どこかスムーズにいかない感じがある。これもある覚悟が必要なのではなかろうか。ホームレス支援で有名な奥田知志氏は、「今こそ他者を生かし、自分を生かすための傷が必要である」と述べている(3月30日朝日新聞)。支援はありがたいことばかりではないし、喜ばれることばかりではないという理解が必要だ。人が人の役に立つことなどほとんど不可能なことだ。不可能だと解った上で、それでもなにかできないかと行動するのが支援だろう。つまり支援には、役に立ち、ありがたいと思われる関係でありながら、同時にどこかで傷つけ、傷つくことだと理解し、行動する覚悟が求められる。
 支援の現場で本気で取り組めば、支援はお互いの傷つきから始まることが解らないはずはない。重要なのは傷によってこそ出会いが始まると言うことだ。人は簡単には出会えない。出会っても簡単にはいかない。支援の現場で自分が傷つこうともしない人は、多くの人を一方的に傷つけてしまう。
 傷つくことを極端に怖れる時代に起こった震災のなかで、我々はどういう出会いを創れるのか。もちろん出会わない支援を模索する人もあっていいだろう。我々は「頑張ろう日本」等というかけ声が大好きな人種だが、そうはいかない時代、世代がある。日本ってどこにあるんだ。それって誰なんだ。結局他人ごとじゃないかと言いたくなる。今は個々がどう考えるか、どう生きるか、傷つきながらも出会いを達成させる覚悟が問われているように思う。この通信の記事でも佐々木哲哉さんが引用したマザーテレサの言葉は、傷つくことを怖れるなと覚悟を問うているように思う。
 派遣職員で行ってきた高橋健君の記事でも、スタッフとは出会えていない。スタッフはこれ以上傷つけない状況にあるのかもしれない。一方で利用者には歓迎してもらっている。利用者は彼と遊んでくれ、ひとりの女性は自作の詩を見せてくれた。無垢の魂を感じさせる詩の作者は、その感性で健君の傷つきやすさを癒そうとしたかのようにさえ感じる。障がい者は、日常が傷つきやすく、多くの傷を背負いやすい現状がある。しかしそれだけに出会うことを怖れないように思う。支援に行った健君は彼らの持つ傷に癒されてきたのではなかろうか。
 巨大な震災を前に、誰もが傷ついている今、さらに傷つけというのは辛いが、生きていくとはそういうことなのではないか。3万人を越える死者、行方不明者が出て多くの理不尽な別れが起こってしまったが、個々が、傷つくことを覚悟して、ひとつひとつの出会いを創り出していくことが、多くの犠牲を無駄にしないことのように思う。
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食を繋いだ炊き出し ★厨房 畑中美紗【2011年4月号】

 3月11日。大根を刻んでいた時だった。白衣のポケットに入れていた携帯が「キュイーン、キュイーン」と鳴った。聞き慣れない音に違和感を感じつつ作業を続けていたら、揺れ始めた。揺れはどんどん強くなる・・。急いで厨房メンバー全員で外に出た。揺れは続いて、駐車してあった車も、前に後ろにグラグラと揺れて、動き出してくるんじゃないかと思うほどだった。
 揺れが収まって厨房に戻ると、厨房機器は位置が動いただけで無傷でホッとした。だが厨房の事務室は、プリンターが落ち、ファイルや書類、本などが棚から落ち足の踏み場もない状態だった。
 問題は夕食をどうするかだった。水は出るが、電気が使えない。ガスも使えない。今日の夕食の献立は鶏肉のレモン蒸しだが、コンベクション(スチームオーブン)が使えない今そんなの作れるわけがない。ワークステージから屋台用のガスコンロを持ってきて、庭で料理をつくることになった。主食はどうする?乾麺があったが、60人分は足りない・・頭がボーっとして、何から手をつけたらいいのか分からない。
 よし、鍋でご飯を炊こうと言うことになった。短大の調理実習ノートを引っ張りした。米を4升といで、30分浸水、強火で沸騰したら中火にして5分、弱火にして15分、火を止めて10分、ノートの通りにやって米が炊けた!!厨房みんなで「おおっ」と感動!!しかもいつもよりおいしい!!
 おかずは肉禁・魚禁(嫌い)の利用者のためにパックしていた冷凍の在庫を各ユニットでカセットコンロでお湯を沸かして温めてもらった。野外の屋台用のガスコンロで大根のきんぴらを調理。味付けを私がやって、事務の充さんが炒めてくれた。イベントでもないのに野外で給食を作るなんて・・・。ガス、電気がないまま、急遽、給食を作ってしまった自分たちの力にも驚いた感じだった。
 なべで炊いたご飯でユニットことでは全ユニット分のおにぎりを握ってくれて、いつもよりも1時間遅れたが夕食を配膳した。続けて、翌日の朝食分も作ろうと、なべで米を炊き、事務をはじめ、各部署からスタッフが集まってきておにぎりを握ってくれた。真っ暗やみの中でろうそくの明かりでワイワイと握った。「あれ?私の握ったのだけおっきい・・」というスタッフ、「この梅干しおいしい」と、つまみ食いしている人も。おにぎりの形もさまざま。厨房も介護員も事務も関係なく、震災の中で、みんなでやろう!!って感じがうれしかったし、心強かった。
 2日目。食材が納品できないとの連絡があった。今ある食材で何とかしなければならない。これがいつまで続くのか。今厨房に残っている食材やワークステージの加工場にある食材など、里中から食材を集めて3食を作っていかなければならない。カロリー計算して作った献立も緊急事態でリセット。今ある食材で献立を考え、計算じゃなく感覚で調理する事態になった。

 銀河の里で田んぼを作っていて、米はたくさんあったこと。自前の味噌も一年分はあること、野菜のハウスがあったこと、ワークで食品加工場があったので在庫の食材があったことなどは頼もしかった。さらにたまたま発注ミスでストックがいっぱいあったこと、またやっちゃった・・・といういつもの発注ミスも今回ばかりは、助かった。
 電気もガスも使えない、寒い・暗い3日間だったが、3食の食事はきちんと出すことができた。震災のなかで、日々の生活の食事の大切さを改めて感じた。
 利用者も支えてくれた。地震直後、弥生さん(仮名)のところに行くと、「あぶねぇがらおめぇはここさいろ」と気遣ってくれた。余震が来ると「誰だ?揺らしてるのは。やめろじゃ。」と怒ってくれた。いつも通り暖かい弥生さんがいてくれてホッとさせられた。
 沿岸では、津波で信じられないような状況になっている。今後の復興にどんな支援ができるのか、今はまだ混乱のなかでなにも見いだせないが、日常を守りながら、しっかり生きていきたい。
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今月の書「信」 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2011年4月号】

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あきらめないこと
信じ続けること

決してたやすくない

でもその力に支えられ、救われる
信じることで繋がっていく

その心は強さに変わる



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里売販売!! ★ワークステージ 村上幸太郎【2011年4月号】

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★惣菜班は週1〜2回、里売りと呼ばれる社内販売を行っています。惣菜班で作った餃子やハンバーグ、コロッケの他、畑班の野菜も販売しています。人気商品は早々と売り切れになってしまうほど。先日は1日で4万円も売り上げました!
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