2011年03月15日
里の栄養士 ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2011年3月号】
里のショートステイを月一回のペースで利用し約一年半になる透さん(仮名)。事故で下半身不随となった透さんは、「こったな身体になって、人の世話になってまで生きてて何になる? 早く死にたい」と訴える。「死にてぇと本人が言ってんだから、国も、介護保険だ何だって言ってねぇで、死ぬ薬、出せばいいのだ。そうすれば、おめたちも国も、もっと楽になるべじゃ?」…グッとつまるものがあって「私は透さんと出会えてよかったよ」と返すのが精一杯。「ふん、そうか? じゃ、おっぱい、もませろじゃ♪ あはは〜」こちらの気持ちも察してか、最後はお得意の下ネタで笑った。
在宅で訪問看護や訪問入浴のサービスも利用している透さんの周りには、優しい美人スタッフが大勢いて、女性が大好きな透さんとしては幸せそうだ。「みんなも透さんを好きなんだなぁ」と担当者会議でも感じた。
銀河の里では何ができるか? ショートステイとしての役割はなんだろう? と考える。自宅で介護を続ける奥さんの休息の時間を確保すること? ショートステイ中も普段の在宅生活のリズムを崩さないようにサービスを提供すること? それらは確かに大切なことだけど、透さんの「死にたい」思いにどう向き合うのかという課題は、関係性をどう生きるかという大きな意味合いを持ちながら、長らく宙に浮いたままだった。
トイレの介助中に透さんが話しかけてきた。「あの姉っこ、なんて名前だったっか?」若い女性スタッフの名前はバッチリ覚える透さんだが、「最近は覚えられなくなった…」と。「誰?」「あのよぉ、そばの姉っこよ」「ん? そば?」詳しく聞くと、前回の利用時に、厨房の祥さんが、透さんの好物の蕎麦を昼食に出してくれたという。食が進まず、ご飯は少なめで、おかずも残している透さんに、なんとか食べてもらおうと蕎麦を特別に用意したのだ。
栄養士の祥さんはヘルパー資格もあり、当初、特養ではユニットの介護職員として働いていた。透さんとはその頃からのお付き合いだ。1年前は車椅子でリビングに出てきてみんなと一緒に食事していたのだが、今は車椅子に座れず、食事は居室のベッドの上で摂っている。ユニットのスタッフはリビングの食事介助に入るため、自力で食べる透さんにはお膳を届けて、食べ終わったら下げるという関わりしか持てずにいた。そこへ、「好きなものなら食べてくれないかなと思って聞いたら、麺類が好きだって言うので・・・。私も部屋で一緒に食べたんです。おかずも全部、残さないで食べてくれたんです!」という祥さんの報告にユニットのスタッフも喜んだ。その人の好きなものを特別に出したいという気持ち。さらに食事の時間を共に過ごす栄養士。里の厨房の本領がここにある!
祥さんに「蕎麦の姉っこ、って言ってたよ」と伝える。「なんとか名前、覚えてほしくて、春・夏・秋・冬のアキだよって言ったんですけど。」と笑う祥さんだが、“蕎麦の姉っこ”と呼んでもらってとても誇らしげだった。ユニットのスタッフも負けてられない。
先月、昼食に刺身が出た。箸が使えず最近は手で食べることが多くなっていた輝明さん(仮名)に祥さんは、キッチンでパパッと、にぎり寿司風にして差し出した。「はい、輝明さん、どうぞ!」と笑顔の祥さん、物静かに過ごしていてほとんど喋らない輝明さんも、思わず「おっ!」と目を大きくして、身体をのけぞり「お〜!」と感嘆のひと声。ぺろりと平らげ、にんまりご満悦だ。その表情を見ながら、ユニットスタッフも厨房スタッフも一緒になって喜べるこの感じがいい!
作業や役割だけで対応していたのでは見えない、人間の関係というものがある。死にたいと時折こぼしつつも「俺の身体がこったにならねかったら、ナツキとも知らねぇ同士だったんだおんなぁ」と言ってくれる透さん。何も役に立てないけど、やはりひとりの人間として真摯に向き合う私でいたいと思う。スタッフのひとりひとりが利用者との出会いに育てられ、役割なんか飛び越えて生きていきたいと思う。ユニットのチームづくりがやっと始まった。厨房や医務も含めた特養のチームが、お互いに刺激し合い力をつけていけるのはとてもありがたいことだ。利用者もスタッフも、その人らしい生き生きした表情が出始めた、これからの特養が楽しみだ。
在宅で訪問看護や訪問入浴のサービスも利用している透さんの周りには、優しい美人スタッフが大勢いて、女性が大好きな透さんとしては幸せそうだ。「みんなも透さんを好きなんだなぁ」と担当者会議でも感じた。
銀河の里では何ができるか? ショートステイとしての役割はなんだろう? と考える。自宅で介護を続ける奥さんの休息の時間を確保すること? ショートステイ中も普段の在宅生活のリズムを崩さないようにサービスを提供すること? それらは確かに大切なことだけど、透さんの「死にたい」思いにどう向き合うのかという課題は、関係性をどう生きるかという大きな意味合いを持ちながら、長らく宙に浮いたままだった。
トイレの介助中に透さんが話しかけてきた。「あの姉っこ、なんて名前だったっか?」若い女性スタッフの名前はバッチリ覚える透さんだが、「最近は覚えられなくなった…」と。「誰?」「あのよぉ、そばの姉っこよ」「ん? そば?」詳しく聞くと、前回の利用時に、厨房の祥さんが、透さんの好物の蕎麦を昼食に出してくれたという。食が進まず、ご飯は少なめで、おかずも残している透さんに、なんとか食べてもらおうと蕎麦を特別に用意したのだ。
栄養士の祥さんはヘルパー資格もあり、当初、特養ではユニットの介護職員として働いていた。透さんとはその頃からのお付き合いだ。1年前は車椅子でリビングに出てきてみんなと一緒に食事していたのだが、今は車椅子に座れず、食事は居室のベッドの上で摂っている。ユニットのスタッフはリビングの食事介助に入るため、自力で食べる透さんにはお膳を届けて、食べ終わったら下げるという関わりしか持てずにいた。そこへ、「好きなものなら食べてくれないかなと思って聞いたら、麺類が好きだって言うので・・・。私も部屋で一緒に食べたんです。おかずも全部、残さないで食べてくれたんです!」という祥さんの報告にユニットのスタッフも喜んだ。その人の好きなものを特別に出したいという気持ち。さらに食事の時間を共に過ごす栄養士。里の厨房の本領がここにある!
祥さんに「蕎麦の姉っこ、って言ってたよ」と伝える。「なんとか名前、覚えてほしくて、春・夏・秋・冬のアキだよって言ったんですけど。」と笑う祥さんだが、“蕎麦の姉っこ”と呼んでもらってとても誇らしげだった。ユニットのスタッフも負けてられない。
先月、昼食に刺身が出た。箸が使えず最近は手で食べることが多くなっていた輝明さん(仮名)に祥さんは、キッチンでパパッと、にぎり寿司風にして差し出した。「はい、輝明さん、どうぞ!」と笑顔の祥さん、物静かに過ごしていてほとんど喋らない輝明さんも、思わず「おっ!」と目を大きくして、身体をのけぞり「お〜!」と感嘆のひと声。ぺろりと平らげ、にんまりご満悦だ。その表情を見ながら、ユニットスタッフも厨房スタッフも一緒になって喜べるこの感じがいい!
作業や役割だけで対応していたのでは見えない、人間の関係というものがある。死にたいと時折こぼしつつも「俺の身体がこったにならねかったら、ナツキとも知らねぇ同士だったんだおんなぁ」と言ってくれる透さん。何も役に立てないけど、やはりひとりの人間として真摯に向き合う私でいたいと思う。スタッフのひとりひとりが利用者との出会いに育てられ、役割なんか飛び越えて生きていきたいと思う。ユニットのチームづくりがやっと始まった。厨房や医務も含めた特養のチームが、お互いに刺激し合い力をつけていけるのはとてもありがたいことだ。利用者もスタッフも、その人らしい生き生きした表情が出始めた、これからの特養が楽しみだ。
特養に響く赤ちゃんの泣き声 ★ワークステージ 米澤充【2011年3月号】
「おらのじいさんは逝ってしまったよぉ…。赤ちゃんはいいなぁ。これからだもの。おらはどんどん弱るばかりだ…」旦那さんが亡くなった翌日、生後5ヶ月の息子を抱いている私にグループホーム入居者のゆう子さん(仮名)が声をかけてくれた。赤ちゃんを見るゆう子さんのまなざしは“希望”を見るかのようだった。
介護度の低いショートステイの修さん(仮名)は、手持ちぶさた気味で特養ホーム内を巡り歩き、交流ホールでコーヒーを飲んだりしている。どこか近寄りがたく声をかけづらい雰囲気もあるのだが、赤ちゃんを見ると、にかぁーっと笑い、抱っこしてあやしはじめた。この時から修さんに会うたびに「今日赤ちゃんは?」と聞かれるようになった。
いきなり“おじいちゃんの顔”を見せてくれたことに驚きながら、以前送迎の車中で話しをしてくれたことも思い出した。修さんは奥さんと二人暮らしなのだが、2人の息子さんとは、年に数回しか会えないらしい。「そんなに遠くでもないんだから、孫を連れて来てくれてもいいのになぁ。平日は仕事、土日は家族サービスで忙しくて仕方ないんだな」と寂しそうだった。
1月の運営推進会議では、ショートステイ利用者の西野さん(仮名)のピアノと米澤里美(私の妻)のフルートが2年ぶりの共演を果たした。演奏の途中大声で泣き始めた。オギャー、オギャーと泣き声が廊下を伝って特養ホーム全体に響き渡る。それを聞きつけて、ものすごい勢いでダッダッダッダっと小走りでやってきたのはカヨさん(仮名)。「赤ちゃん、いい子、いい子。いい子だから泣かないでや〜。よしよし〜。」とおんぶして一緒にあやしてくれる。
演奏の妨げになってはと特養ホームの廊下の奥のほうであやしていたのだが、カヨさんもずっとそばにいてくれ「泣き止まないな〜。どうしたらいいべ。ありゃ〜、困ったなぁ…」と一緒に困ってくれる。いつものカヨさんとは違って、おばあちゃんモードにスイッチが入って、必死に子守りをしてくれるカヨさんだった。
米澤家にとって大きな存在であった祖父は、ひ孫の姿を見ることができず、誕生の3ヶ月前に亡くなってしまってとても残念であった。銀河の里の利用者さんが見せる息子に対する表情を見ながら、生きていれば祖父が見せたであろう表情を思い浮かべる。
昨年から銀河の里ではベビーブームだ。そういう事情もあって、特養ホームに赤ちゃんの泣き声が鳴り響く。普通ならうるさいはずなのだが、どんどん泣いていいよと言いたくなる感じがするのはなんだろう。
介護度の低いショートステイの修さん(仮名)は、手持ちぶさた気味で特養ホーム内を巡り歩き、交流ホールでコーヒーを飲んだりしている。どこか近寄りがたく声をかけづらい雰囲気もあるのだが、赤ちゃんを見ると、にかぁーっと笑い、抱っこしてあやしはじめた。この時から修さんに会うたびに「今日赤ちゃんは?」と聞かれるようになった。
いきなり“おじいちゃんの顔”を見せてくれたことに驚きながら、以前送迎の車中で話しをしてくれたことも思い出した。修さんは奥さんと二人暮らしなのだが、2人の息子さんとは、年に数回しか会えないらしい。「そんなに遠くでもないんだから、孫を連れて来てくれてもいいのになぁ。平日は仕事、土日は家族サービスで忙しくて仕方ないんだな」と寂しそうだった。
1月の運営推進会議では、ショートステイ利用者の西野さん(仮名)のピアノと米澤里美(私の妻)のフルートが2年ぶりの共演を果たした。演奏の途中大声で泣き始めた。オギャー、オギャーと泣き声が廊下を伝って特養ホーム全体に響き渡る。それを聞きつけて、ものすごい勢いでダッダッダッダっと小走りでやってきたのはカヨさん(仮名)。「赤ちゃん、いい子、いい子。いい子だから泣かないでや〜。よしよし〜。」とおんぶして一緒にあやしてくれる。
演奏の妨げになってはと特養ホームの廊下の奥のほうであやしていたのだが、カヨさんもずっとそばにいてくれ「泣き止まないな〜。どうしたらいいべ。ありゃ〜、困ったなぁ…」と一緒に困ってくれる。いつものカヨさんとは違って、おばあちゃんモードにスイッチが入って、必死に子守りをしてくれるカヨさんだった。
米澤家にとって大きな存在であった祖父は、ひ孫の姿を見ることができず、誕生の3ヶ月前に亡くなってしまってとても残念であった。銀河の里の利用者さんが見せる息子に対する表情を見ながら、生きていれば祖父が見せたであろう表情を思い浮かべる。
昨年から銀河の里ではベビーブームだ。そういう事情もあって、特養ホームに赤ちゃんの泣き声が鳴り響く。普通ならうるさいはずなのだが、どんどん泣いていいよと言いたくなる感じがするのはなんだろう。
ユニットケア管理者研修に参加して(前編) ★施設長 宮澤京子【2011年3月号】
この管理者研修は本来開設前に受講しておくべきものだが、全国からの応募が殺到しているようで、2年間抽選に漏れ、今回やっと受講できた。東京研修センターでの3日間にわたる研修には、全国から37名の特養ホーム管理者が集まった。内容は講義一辺倒ではなく、グループ討議などワークショップ形式を取り入れ、参加者が自分で考えていくことを主眼に置いた研修になっていた。
すでに現場を2年経過してからの参加なので、「特養ホーム」立ち上げの経緯や現場の経験と絡み合わせながら、多方面から刺激を受け、あれこれ考えるには適切であった。受講後、管理者研修の内容を思い起こしながら「ユニットケアは、本当にこれでいいのか」という違和感がつのり、疑問が吹き上げてきた。そこで、ユニットケアに関する書籍やDVD・ビデオ等を集め、総ざらい目を通し研修を踏まえたうえで、私の考えをまとめてみた。
− 個室でユニット、そして個別ケア −
ユニットケアの推進が叫ばれる背景には、これまでの日本の高齢者介護の実態が、劣悪な環境と体制のなかで行われているという現実認識とその改革への挑戦がある。
従来型特養ホームは、一般に集団ケアで、1フロアーに30〜50名が集められ、1室に2〜4名が同居し、職員は10〜17名(利用者3人に対して職員1名)の基準によって配置され、施設側の都合優先で日課は一律に決められており、利用者はそれに従うしかない。プライバシーも個別の要求も「施設=集団」の論理で、我慢させられている。
ユニットケアでは、入居者10名前後の生活単位を1ユニットとし、職員配置は約5名(全国平均は入居者1.9人に対して1人)で全室個室を保障している。
ユニットケアの基本的な理論は、グループホームケアにも造詣の深かった、建築学の研究者、京都大学大学院の外山義教授(故人)によって提唱された。教授自身が実際に建物を設計し、建築の側からソフト(介護の意識)を変革させる理論的解説がなされ、従来型の集団介護の概念を打ち破る画期的な考えとして登場してきた。
一方、世界のなかでも長寿・高齢社会のトップを走っている日本でありながら、高齢者施設は現在でも「姥捨て・養老院」のイメージを払拭できず、入所者十把一絡げ、職員優位、業務優先の集団ケアといった、福祉後進国を証明するような介護施設しか存在しない。
この現状に対して、戦後何かと社会に意見をのべ、経済成長に貢献してきたという自負をもつ団塊世代や‘おひとり様の老後’を覚悟せざるを得ないことを知った女性団体などが、自分たちの老後の砦となる介護施設に対し、強く意識しはじめた時期と重なる。
孤独に耐えるしかない老後と、劣悪な終の棲家が自分たちの人生の結論であったと先が見えてきた今、団塊世代や女性たちの焦りと抗議の気持ちが、ユニットケア推進に拍車をかけているのだろうと推察する。
介護施設の劣悪な実態からの脱却のために、行政(厚生労働省)と組み、既存システムのソフト(意識)とハード(施設)を解体していこうとする流れが起こった。ところがその旗頭役であった外山教授が45歳の若さで急逝してしまった。氏の遺志を受け継いだのが、今回の研修の中心人物である、東京研修センターのユニットケア推進室の秋葉女史だ。
もちろん彼らは、解体などという過激な言葉を使ってはいないのだが、日本の高齢者福祉を変革していくには、既存のものを壊して新たなものを生み出すための痛みと、相当なエネルギーを伴う作業になるだろうと予想される。解体にあたって外山教授が建築学の専門家として、ハード面から変革に着手したことに大きな意義を感じる。意識は簡単に変わるものではないからだ。ハードが変われば意識は自然に変わるようなところがある。
今回の研修で感じた私の違和感は、そこらあたりにある。理念が大事だとして、理念、理念と叫ぶのだが、理念がそんなに簡単に掲げられるだろうか。実際、福祉施設の理念は、どこかの既存施設の雛形を多少改変したり、ひどい場合はそのまま持ってきて、監査に通すために使っているのが現状だ。しかもそれを、社会の在り様や人の意識の変化の激しいこの時代に、何年も変わらず掲げて、毎朝唱和して過ごすなど、ものを考えないことを証明するような笑止千万の施設風景さえある。
人生の根幹には避けようのない「苦悩」があり、「死」という避けようのない現実もある。高齢者福祉は、それらに対してどう向きあうのかが問われる現場である。我々の現場は深い哲学を求められており、簡単に理念ができるのが不思議でならない。できあがった答えとしての理念は、一瞬にして形骸化し、なんの力も持たないものになってしまうのが明白ではないか。入居施設として、ホテル業やアパート業とはそこが違うのである。
今回の研修は、人生に対する深い眼差しや哲学を真摯に追求しようとする管理者にとって、成功のための「いけいけ!How to」を伝授されているようで、相当に辛いのではないだろうか。フランチャイズの講習会に参加して店長が鼓舞されているような、また救われるために考えることをやめるような安易な宗教団体に似た、居心地の悪さがあった。研修にあつまった他の管理者がどんな思いで参加していたのかは解らない。しかし、古い施設では潤沢に溜まった資金があり、その運用として、新型特養の新築や増築はもってこいの話だし、個室ユニットの特養を持てば法人のステータスシンボルにもなる。
ユニットケアが既存の介護施設の意識やあり方を変革していく切り札であることは間違いないと思うが、戦略として、建物を人間の生き方のために設計し構想することで現場を変えようとした外山教授の遺志を大切にしたい。
終の棲家である「特養ホーム」で、どのような暮らしを構築していくのか、そこで生活する人々の関係をいかに紡いでいくのかというソフト面に視点をあて、次回の通信では、ユニットケアの基本的理念となっている、以下について考察したい。
■ 貴方らしく「食べて、出して、寝る」
■ 職員は、ユニットに固定配置
■ 24時間シート
すでに現場を2年経過してからの参加なので、「特養ホーム」立ち上げの経緯や現場の経験と絡み合わせながら、多方面から刺激を受け、あれこれ考えるには適切であった。受講後、管理者研修の内容を思い起こしながら「ユニットケアは、本当にこれでいいのか」という違和感がつのり、疑問が吹き上げてきた。そこで、ユニットケアに関する書籍やDVD・ビデオ等を集め、総ざらい目を通し研修を踏まえたうえで、私の考えをまとめてみた。
− 個室でユニット、そして個別ケア −
ユニットケアの推進が叫ばれる背景には、これまでの日本の高齢者介護の実態が、劣悪な環境と体制のなかで行われているという現実認識とその改革への挑戦がある。
従来型特養ホームは、一般に集団ケアで、1フロアーに30〜50名が集められ、1室に2〜4名が同居し、職員は10〜17名(利用者3人に対して職員1名)の基準によって配置され、施設側の都合優先で日課は一律に決められており、利用者はそれに従うしかない。プライバシーも個別の要求も「施設=集団」の論理で、我慢させられている。
ユニットケアでは、入居者10名前後の生活単位を1ユニットとし、職員配置は約5名(全国平均は入居者1.9人に対して1人)で全室個室を保障している。
ユニットケアの基本的な理論は、グループホームケアにも造詣の深かった、建築学の研究者、京都大学大学院の外山義教授(故人)によって提唱された。教授自身が実際に建物を設計し、建築の側からソフト(介護の意識)を変革させる理論的解説がなされ、従来型の集団介護の概念を打ち破る画期的な考えとして登場してきた。
一方、世界のなかでも長寿・高齢社会のトップを走っている日本でありながら、高齢者施設は現在でも「姥捨て・養老院」のイメージを払拭できず、入所者十把一絡げ、職員優位、業務優先の集団ケアといった、福祉後進国を証明するような介護施設しか存在しない。
この現状に対して、戦後何かと社会に意見をのべ、経済成長に貢献してきたという自負をもつ団塊世代や‘おひとり様の老後’を覚悟せざるを得ないことを知った女性団体などが、自分たちの老後の砦となる介護施設に対し、強く意識しはじめた時期と重なる。
孤独に耐えるしかない老後と、劣悪な終の棲家が自分たちの人生の結論であったと先が見えてきた今、団塊世代や女性たちの焦りと抗議の気持ちが、ユニットケア推進に拍車をかけているのだろうと推察する。
介護施設の劣悪な実態からの脱却のために、行政(厚生労働省)と組み、既存システムのソフト(意識)とハード(施設)を解体していこうとする流れが起こった。ところがその旗頭役であった外山教授が45歳の若さで急逝してしまった。氏の遺志を受け継いだのが、今回の研修の中心人物である、東京研修センターのユニットケア推進室の秋葉女史だ。
もちろん彼らは、解体などという過激な言葉を使ってはいないのだが、日本の高齢者福祉を変革していくには、既存のものを壊して新たなものを生み出すための痛みと、相当なエネルギーを伴う作業になるだろうと予想される。解体にあたって外山教授が建築学の専門家として、ハード面から変革に着手したことに大きな意義を感じる。意識は簡単に変わるものではないからだ。ハードが変われば意識は自然に変わるようなところがある。
今回の研修で感じた私の違和感は、そこらあたりにある。理念が大事だとして、理念、理念と叫ぶのだが、理念がそんなに簡単に掲げられるだろうか。実際、福祉施設の理念は、どこかの既存施設の雛形を多少改変したり、ひどい場合はそのまま持ってきて、監査に通すために使っているのが現状だ。しかもそれを、社会の在り様や人の意識の変化の激しいこの時代に、何年も変わらず掲げて、毎朝唱和して過ごすなど、ものを考えないことを証明するような笑止千万の施設風景さえある。
人生の根幹には避けようのない「苦悩」があり、「死」という避けようのない現実もある。高齢者福祉は、それらに対してどう向きあうのかが問われる現場である。我々の現場は深い哲学を求められており、簡単に理念ができるのが不思議でならない。できあがった答えとしての理念は、一瞬にして形骸化し、なんの力も持たないものになってしまうのが明白ではないか。入居施設として、ホテル業やアパート業とはそこが違うのである。
今回の研修は、人生に対する深い眼差しや哲学を真摯に追求しようとする管理者にとって、成功のための「いけいけ!How to」を伝授されているようで、相当に辛いのではないだろうか。フランチャイズの講習会に参加して店長が鼓舞されているような、また救われるために考えることをやめるような安易な宗教団体に似た、居心地の悪さがあった。研修にあつまった他の管理者がどんな思いで参加していたのかは解らない。しかし、古い施設では潤沢に溜まった資金があり、その運用として、新型特養の新築や増築はもってこいの話だし、個室ユニットの特養を持てば法人のステータスシンボルにもなる。
ユニットケアが既存の介護施設の意識やあり方を変革していく切り札であることは間違いないと思うが、戦略として、建物を人間の生き方のために設計し構想することで現場を変えようとした外山教授の遺志を大切にしたい。
終の棲家である「特養ホーム」で、どのような暮らしを構築していくのか、そこで生活する人々の関係をいかに紡いでいくのかというソフト面に視点をあて、次回の通信では、ユニットケアの基本的理念となっている、以下について考察したい。
■ 貴方らしく「食べて、出して、寝る」
■ 職員は、ユニットに固定配置
■ 24時間シート
実習を通じた思索 その3「鍵」 ★デイサービス 千枝悠久【2011年3月号】
現場実習を通じて湧いてきた義憤や疑問に戸惑い、「‘介護’がやりたいのではなく、‘介護福祉’がやりたい。だから福祉を学びたい」と「扉」を開く「鍵」を探りたい一心で語る私に、理事長は「それなら神話を学んだほうがいい」と中沢新一のカイエソバージュという本を渡してくれた。
なんのことかといぶかりながらカイエソバージュ第1巻『人類最古の哲学』を読んだ。全く違った地域で生み出された神話の中にも深い共通性があり、“人間が蓄積してきた知恵と知性が、神話には保存されている”と言う。神話の世界では、自然と人間は一つのものであった。
ところがなかなか「鍵」には繋がってこない。しかしながら、違うものの中に共通性が見いだされることと、違うものとして捉えているもの同士の間の「扉」を開くこと、どこか似ているものを感じ、カイエソバージュの第2巻から第5巻まで続けて読んでみた。その中で出会ったのが「対称性」という考え方であった。神話は、この「対称性」の考え方そのものであるという。
「対称性」とは、端的に言うと「分類上ちがうものの間に深い共通性のあることを見出す能力」である。これは、ただ単に2つのもののここそこが似ているというのではなく、深いところで一つであることを見出す能力である。例としては、北アメリカのトンプソン・インディアン神話で、若者が山羊と結婚する話しが紹介されていた。若者は山羊と結婚することによって山羊の世界に入っていくことになる。そのことによって、山羊の心を知り、山羊も自分たちとまったく人間と同じであることを理解できるという。
話は、どんどん現実から離れ、「鍵」を探す旅からもはるかに遠ざかっているようにも思えた。けれども、ここで「対称性」という考え方を、山羊と人間の関係ではなく、人と人との関係に変換して考えてみよう。私の実習中の経験は、「職員」・「実習生」・「入居者」というように隔てられたものがあり、その隔たりや分断の強さを扉として私は感じて辛かったのだ。一見隔てられているものに共通性を見出すにとどまらず、その奥では一体となっているという「対称性」の見方は全く働いていない。
「対称性」によって、人と人とが向かい合うとき、自分と相手は深いところで共通性に抱かれ一体化する。それはまるで、合わせ鏡を覗き込むかのようである。有限であるはずの物の間に生まれる無限。そこに映っているのは「私」であるのだが「私」ではないようでもある。合わせ鏡の奥、解けあっているところでは、当然「職員」・「実習生」・「入居者」などという区別は消えてしまう。第3巻『愛と経済のロゴス』では、経済の仕組みを捉えるため、交換・贈与・純粋贈与という3つの概念が紹介されている。交換とは心の一部を物質化し、心を物と等価であるものとして扱う。貨幣による交換もこれに含まれ、現代社会の中で最も多く行われている。
贈与とは、心の一部を物に乗せることである。心と物は等価ではなく、心が返されることを求めるため、反対贈与を求める。純粋贈与は、物質化されないものであり、そこには贈った、与えられたという意識すらない。“神様がくれた”とか“自然の恵み”と表現されるようなものがこれである。
実習を終えてクラスの討議で、「‘ありがとう’と言われたことで信頼されていると感じた」という話しがでた。それに対して、「‘ありがとう’は社交辞令ではないか」という意見がでた。こうしたことも純粋贈与の範疇では物を超え、言葉さえ必要なくなっていく。
交換についても贈与についても、いま実際にあるモノを使うため、生産というのは、本当は行われていない。何かを使ってものをつくるという行為には必ず交換もしくは贈与の行為が含まれている。そのため、純粋に生産が行われるのは、純粋贈与があったときだけだという。
現代社会は、交換と贈与の原理でも、特に交換の原理にばかり囚われていて、純粋贈与が遠くなってしまった社会といえるかもしれない。交換は、心の一部をモノに換えてしまうことで、円滑に行うことが可能になる。そこに心があることが、あまり意識されなくなることで、交換する者の間ではしがらみや排他的関係というのは生まれにくくなり、ある意味誰もが平等になった。
ところが、その結果、人それぞれで違うはずの感情や想いといったものまで簡単に同質化されてしまう。実習で入居者の想いについて話した際、「それは高齢者なら誰もが思うことだ。」と職員に軽く扱われたことが思い出される。想いは軽く扱われ、産み出されるものが少ない「安全」という狭い枠の中で、暮らさざるをえない実態があった。実習での開くことのない重い「扉」を感じた経験も、純粋贈与が全く忘れ去られた状況だったと考えると納得がいく。
向かい合い、解けあうところまで行き着こうとすれば、純粋贈与は遠くにあるものではなくなるだろう。これは、私が里の人たちと触れ合って感じたことでもある。里で暮らす人達との触れ合いは、まず向かい合うことから始まる。“背中を向けたまま”ということがない。真っ直ぐに向かい合うと様々なことが起こる。キツいお言葉を頂くこともあれば、会ってまもなく「あなた大好きよ」と言われることもあった。そういったなかで、私の感情は揺さ振られ続ける。そして、出会ったことのない私自身の感情と出会う。笑顔とも泣き顔ともいえないような、それでいて穏やかな表情をしている自分に気づく。そうした時間は意識せずに自然と、私自身を見つめることになっている。このような経験は、向かい合うことによって、どこかから贈られてきた純粋贈与と言えるだろう。
カイエソバージュの中でも紹介されていたが、仏教では純粋贈与である布施を行おうとするものを菩薩と呼ぶのだという。菩薩というのはなじみのない遠くにあるイメージだったが、里で暮らす人達は、菩薩なのだと思うと納得できる気がする。
こうして見えてきた現時点での私なりの「鍵」について考えをまとめてみよう。まず、スタート地点は、そこに共通性があることを認識し、向かい合うことからだ。別次元から見おろしているようでは、合わせ鏡の奥を見ることはできない。向かい合い、解けあう世界では「扉」は開かれ、無数の純粋贈与が生まれてくる。違うもの同士が触れ合うことで生まれる「不安」という名の「錠」は、「対称性」という「鍵」で開けることができるのではないだろうか。
こうして「鍵」がみえてきたのだが、確固としたエビデンス(根拠)はない。学校で学んだ介護の知識や技術というのは、常にエビデンス(根拠)が求められ、曖昧なものは許されない。けれども、人と人とが向き合った時に生まれるものは合わせ鏡の無限であって、そこには根拠を求めにくいものの入る余地がいくらでもあるのではないだろうか。そういったものがあることを認め、そこから生み出されるものを捉えるためにこそ、実践がある。
私が、里で暮らす人達と触れ合って感じたことも、実践の一つだ。「対称性」という考え方のもとに、実践の中から生まれてくるものがあり、それが神話のような物語を生成し、輝きを放つ。
神話の話に触れ、「対称性」の考え方を知ることで、これまで学んできたエビデンスばかりを重視したケアに対する疑問はより強いものになった。最近ではナラティヴケアという概念も提唱されていて、一人一人の物語(ナラティヴ)を重視しようとするケアが模索されている。科学的根拠も重要ではあるが、人にはそれぞれ自分自身の物語があるため、根拠を基にしたケアだけでは個々の思いを満たすことができないこともある。「対称性」によって向かい合うことで、個々の物語の生成と理解にも繋がっていくように思う。
実習で開かれることのない「扉」を感じて始まった私の思索は、神話の持つ知恵である「対称性」という「鍵」を得ることになった。不安ばかりの実習で、なにも得ることができなかったのだが、その後、果てしない思索の旅に出てしまったような気がする。介護という行為は、人間の深い部分に触れざるをえないことであるから、この思索の旅には大切な意味があると信じたい。少々やっかいで理屈っぽくなってしまったが…。
なんのことかといぶかりながらカイエソバージュ第1巻『人類最古の哲学』を読んだ。全く違った地域で生み出された神話の中にも深い共通性があり、“人間が蓄積してきた知恵と知性が、神話には保存されている”と言う。神話の世界では、自然と人間は一つのものであった。
ところがなかなか「鍵」には繋がってこない。しかしながら、違うものの中に共通性が見いだされることと、違うものとして捉えているもの同士の間の「扉」を開くこと、どこか似ているものを感じ、カイエソバージュの第2巻から第5巻まで続けて読んでみた。その中で出会ったのが「対称性」という考え方であった。神話は、この「対称性」の考え方そのものであるという。
「対称性」とは、端的に言うと「分類上ちがうものの間に深い共通性のあることを見出す能力」である。これは、ただ単に2つのもののここそこが似ているというのではなく、深いところで一つであることを見出す能力である。例としては、北アメリカのトンプソン・インディアン神話で、若者が山羊と結婚する話しが紹介されていた。若者は山羊と結婚することによって山羊の世界に入っていくことになる。そのことによって、山羊の心を知り、山羊も自分たちとまったく人間と同じであることを理解できるという。
話は、どんどん現実から離れ、「鍵」を探す旅からもはるかに遠ざかっているようにも思えた。けれども、ここで「対称性」という考え方を、山羊と人間の関係ではなく、人と人との関係に変換して考えてみよう。私の実習中の経験は、「職員」・「実習生」・「入居者」というように隔てられたものがあり、その隔たりや分断の強さを扉として私は感じて辛かったのだ。一見隔てられているものに共通性を見出すにとどまらず、その奥では一体となっているという「対称性」の見方は全く働いていない。
「対称性」によって、人と人とが向かい合うとき、自分と相手は深いところで共通性に抱かれ一体化する。それはまるで、合わせ鏡を覗き込むかのようである。有限であるはずの物の間に生まれる無限。そこに映っているのは「私」であるのだが「私」ではないようでもある。合わせ鏡の奥、解けあっているところでは、当然「職員」・「実習生」・「入居者」などという区別は消えてしまう。第3巻『愛と経済のロゴス』では、経済の仕組みを捉えるため、交換・贈与・純粋贈与という3つの概念が紹介されている。交換とは心の一部を物質化し、心を物と等価であるものとして扱う。貨幣による交換もこれに含まれ、現代社会の中で最も多く行われている。
贈与とは、心の一部を物に乗せることである。心と物は等価ではなく、心が返されることを求めるため、反対贈与を求める。純粋贈与は、物質化されないものであり、そこには贈った、与えられたという意識すらない。“神様がくれた”とか“自然の恵み”と表現されるようなものがこれである。
実習を終えてクラスの討議で、「‘ありがとう’と言われたことで信頼されていると感じた」という話しがでた。それに対して、「‘ありがとう’は社交辞令ではないか」という意見がでた。こうしたことも純粋贈与の範疇では物を超え、言葉さえ必要なくなっていく。
交換についても贈与についても、いま実際にあるモノを使うため、生産というのは、本当は行われていない。何かを使ってものをつくるという行為には必ず交換もしくは贈与の行為が含まれている。そのため、純粋に生産が行われるのは、純粋贈与があったときだけだという。
現代社会は、交換と贈与の原理でも、特に交換の原理にばかり囚われていて、純粋贈与が遠くなってしまった社会といえるかもしれない。交換は、心の一部をモノに換えてしまうことで、円滑に行うことが可能になる。そこに心があることが、あまり意識されなくなることで、交換する者の間ではしがらみや排他的関係というのは生まれにくくなり、ある意味誰もが平等になった。
ところが、その結果、人それぞれで違うはずの感情や想いといったものまで簡単に同質化されてしまう。実習で入居者の想いについて話した際、「それは高齢者なら誰もが思うことだ。」と職員に軽く扱われたことが思い出される。想いは軽く扱われ、産み出されるものが少ない「安全」という狭い枠の中で、暮らさざるをえない実態があった。実習での開くことのない重い「扉」を感じた経験も、純粋贈与が全く忘れ去られた状況だったと考えると納得がいく。
向かい合い、解けあうところまで行き着こうとすれば、純粋贈与は遠くにあるものではなくなるだろう。これは、私が里の人たちと触れ合って感じたことでもある。里で暮らす人達との触れ合いは、まず向かい合うことから始まる。“背中を向けたまま”ということがない。真っ直ぐに向かい合うと様々なことが起こる。キツいお言葉を頂くこともあれば、会ってまもなく「あなた大好きよ」と言われることもあった。そういったなかで、私の感情は揺さ振られ続ける。そして、出会ったことのない私自身の感情と出会う。笑顔とも泣き顔ともいえないような、それでいて穏やかな表情をしている自分に気づく。そうした時間は意識せずに自然と、私自身を見つめることになっている。このような経験は、向かい合うことによって、どこかから贈られてきた純粋贈与と言えるだろう。
カイエソバージュの中でも紹介されていたが、仏教では純粋贈与である布施を行おうとするものを菩薩と呼ぶのだという。菩薩というのはなじみのない遠くにあるイメージだったが、里で暮らす人達は、菩薩なのだと思うと納得できる気がする。
こうして見えてきた現時点での私なりの「鍵」について考えをまとめてみよう。まず、スタート地点は、そこに共通性があることを認識し、向かい合うことからだ。別次元から見おろしているようでは、合わせ鏡の奥を見ることはできない。向かい合い、解けあう世界では「扉」は開かれ、無数の純粋贈与が生まれてくる。違うもの同士が触れ合うことで生まれる「不安」という名の「錠」は、「対称性」という「鍵」で開けることができるのではないだろうか。
こうして「鍵」がみえてきたのだが、確固としたエビデンス(根拠)はない。学校で学んだ介護の知識や技術というのは、常にエビデンス(根拠)が求められ、曖昧なものは許されない。けれども、人と人とが向き合った時に生まれるものは合わせ鏡の無限であって、そこには根拠を求めにくいものの入る余地がいくらでもあるのではないだろうか。そういったものがあることを認め、そこから生み出されるものを捉えるためにこそ、実践がある。
私が、里で暮らす人達と触れ合って感じたことも、実践の一つだ。「対称性」という考え方のもとに、実践の中から生まれてくるものがあり、それが神話のような物語を生成し、輝きを放つ。
神話の話に触れ、「対称性」の考え方を知ることで、これまで学んできたエビデンスばかりを重視したケアに対する疑問はより強いものになった。最近ではナラティヴケアという概念も提唱されていて、一人一人の物語(ナラティヴ)を重視しようとするケアが模索されている。科学的根拠も重要ではあるが、人にはそれぞれ自分自身の物語があるため、根拠を基にしたケアだけでは個々の思いを満たすことができないこともある。「対称性」によって向かい合うことで、個々の物語の生成と理解にも繋がっていくように思う。
実習で開かれることのない「扉」を感じて始まった私の思索は、神話の持つ知恵である「対称性」という「鍵」を得ることになった。不安ばかりの実習で、なにも得ることができなかったのだが、その後、果てしない思索の旅に出てしまったような気がする。介護という行為は、人間の深い部分に触れざるをえないことであるから、この思索の旅には大切な意味があると信じたい。少々やっかいで理屈っぽくなってしまったが…。
新人奮闘記 その2 ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2011年3月号】
龍治さん(仮名)は一日中ナースコールを鳴らし、大声でスタッフを呼んだ。居室へ行くと「俺を寝かせるな」「死にたい」と言い、そこにいても「おーい」と大声で叫んで職員を呼ぶ。それでも収まらず、ベット柵をガンガンと思い切り叩くので手が腫れたりすることもあった。さらに頭を壁に思いっきりアザができるまでたたきつけた。
そんな龍治さんを見ながら、自分はどうしていいのか全くわからなかった。理事長の面談で相談もした。「死が怖くてあがいているんだろうね。その気持ちを理解しないとね」多くの人を見送ってきたはずの龍治さんも、自分自身の死は怖いんだろうか。理事長に「そういうテーマが我々の現場にはあるんだ」と言われてもピンとこなかった。死とか、自分が死んでしまうことなど、考えたことも感じたこともない。
龍治さんが死期を感じての恐怖や苦しみは自分には計り知れないことだった…。21歳のそんな自分が、考えも感じもしない計り知れないところを龍治さんが生きているんだと考えると、解らないなりに、とにかく寄り添っていたかった。
ところが、介護スタッフの雰囲気は最悪だった。「うるさくて迷惑な利用者」「自虐行為や怒ったりして混乱している問題の人」という見方しかされていなかった。一緒に苦しもうとか、できるだけそばにいてあげようという雰囲気は全くなかった。ナースコールの電源は切られ、スイッチは手の届かない所に隠された。居室のドアは閉められ、大声で呼んでも聞こえないふりを決め込んでいた。スタッフがリビングに集まって「夜中からずっとあんなんで大変だよ」と厄介者扱いの会話をしていたり、龍治さんが眠りにつくと「やっと寝たよ」とうんざりした感じで話していた。さらに無理難題のような言葉を次から次にかけてくる龍治さんに切れてしまって、「俺はあんたの召使いじゃねぇ」と怒鳴りつける場面さえあった。そんな雰囲気のユニットにいるのが辛かった。すごく悲しくて泣きたくもなるし、スタッフを殴りたくなるようなことが何度もあった。
スタッフの態度は無視をしながら、龍治さんが苦しみ、もがいているのなら一緒にいようと、解らないまま、どうにかしたいという思いもあって、自分は龍治さんの居室に何度も通った。
そんなある日、いつものように大声で呼ぶ龍治さんの部屋に行った。「俺を寝かせないでくれ。頼む。三浦ダイコン。俺の頬を思いっきりぶん殴れ。手加減するな。早くしろ。」と自分の手をとりグーにさせ、「思いっきりだ。」と龍治さんがむりやり顔に自分の手を近づける。しかし、いくらお願いされても殴ることはできない。
どーすればいいのか分からず隣でただじっと座ったまま時間が経った。龍治さんも少し落ち着き、黙ったままおでこを触っていた。そして、龍治さんがゆっくり感慨深そうに語り始めた。「俺こないだ夢で兄貴をおくってきたんだ。でもそっちにはいけなかったんだ。俺にぶいからよ。そーいうのわからねぇんだよ。怖いな…。母ちゃんに会いてぇよ。俺の母ちゃんはな、すごく優しくていっつも心配ばっかりしてくれるんだよな。寒くねぇって言ってんのにもう1枚かけてくれるんだ。そんな人だったよ…母ちゃんにもう1度会いてぇよ…」と語りながら龍治さんは号泣した。いつの間にか自分も一緒に泣いていた。そして、龍治さんは自分の腕を引き寄せて「三浦ダイコン。お前も母ちゃんは大切にしろよ。なっ。」と、涙を流しながら微笑んでくれた。その後、龍治さんはポカリスエットを飲んでからすぅっと眠りについた。なんか特別の時間だった。今まで以上に龍治さんが自分の中で大切な存在になっていった。
翌日から、めちゃくちゃ自分に厳しい龍治さんがいた。おむつ交換の時に「ケツ上げてちょうだい。」と言うと「ケツじゃねぇだろバカたれ。おしりだろ。」と叩かれた。また、おむつ交換の後に「お前だったらどう思う。」と腕を組みながらアゴで居室のドアを指す。居室のドアは半分以上開いており、外から丸見えだった。「ヤベェ。ごめんごめん。」とすぐドアを閉めた。「お前はいっつもこうやっておむつ交換しているのか。俺はもう恥ずかしがるような歳じゃねえし男だからいいけどもよぉ、女性に対してもやっているのか。」まさに基本だ。「これからは、考えてやれよ。それから、ヤベェはやめろ。ヤベェのは三浦ダイコンだろ。」と言ってくれた。
「お前は歩くラジオだな。」と言われたことがある。「え?」と驚いていると「俺が部屋にいてもお前のでかい声で、今リビングで何をやっていて、だれだれがいるのか。お昼ご飯のメニューまで聞こえてくるぞ。」と話す。自分「それだけが俺の特技だからさ。」と返した。しかし龍治さんは真剣な顔で、「声が大きいのはいいことだ。だけどな、いらない情報までラジオで流すことないんだぞ。○○さんの排便やプライベートのことまで聞きたくなくても情報として入ってきてしまう。時と場合を考えろよ。」と言うことだった。これも基本だ。そんな感じで龍治さんはたくさん指導してくれた。介助時のアドバイスから、髪型や服装のだらしなさなども指摘された。
そういう時はいつもの一方的なもの言いではなく「お前ならどう感じる?」「どう考えているのだ?」など、問いかけが多かった。軽薄でなにも考えて生きてこなかった自分をみすかすように静かに語りかけてくれた。龍治さんは自分の師匠になった。龍治さんは「オレがおまえを育ててやるからな」と言ってくれた。その言葉のとおり、一生懸命自分を育てようとしてくれたのだと思う。
龍治さんと出会ってから約半年が立ち、一緒に稲刈りに出かけたり花火大会へも行った。また、特養内の交流ホールにて挽きたてコーヒーを飲んでくつろいだり、お酒を飲んだりもした。お互い本気でケンカもした。一方的に殴られ、頭に来て怒鳴ったりもした。ケンカした日はお互い口も聞かず、目もあわせなかった。それでも、夜中に謝りにいくと、次の日にはジョークを言いながら許してくれた。
龍治さんが自分の入るお墓を見たいというので一緒に出かけた。(あまのがわ通信2010年11月号参照)そんな日々のなかで、初めは苦手だった龍治さんが大好きになって行った。
夏も終わりに近づくころから龍治さんの身体状況が少しずつ弱っていった。居室で過ごすことが多くなったり、体調を崩すことが増えた。しかし、自分の師匠としては相変わらずバリバリで、ガンガンと鍛えてくれていた。しかし、龍治さんとの別れの時は刻々と近づいていた。つづく
そんな龍治さんを見ながら、自分はどうしていいのか全くわからなかった。理事長の面談で相談もした。「死が怖くてあがいているんだろうね。その気持ちを理解しないとね」多くの人を見送ってきたはずの龍治さんも、自分自身の死は怖いんだろうか。理事長に「そういうテーマが我々の現場にはあるんだ」と言われてもピンとこなかった。死とか、自分が死んでしまうことなど、考えたことも感じたこともない。
龍治さんが死期を感じての恐怖や苦しみは自分には計り知れないことだった…。21歳のそんな自分が、考えも感じもしない計り知れないところを龍治さんが生きているんだと考えると、解らないなりに、とにかく寄り添っていたかった。
ところが、介護スタッフの雰囲気は最悪だった。「うるさくて迷惑な利用者」「自虐行為や怒ったりして混乱している問題の人」という見方しかされていなかった。一緒に苦しもうとか、できるだけそばにいてあげようという雰囲気は全くなかった。ナースコールの電源は切られ、スイッチは手の届かない所に隠された。居室のドアは閉められ、大声で呼んでも聞こえないふりを決め込んでいた。スタッフがリビングに集まって「夜中からずっとあんなんで大変だよ」と厄介者扱いの会話をしていたり、龍治さんが眠りにつくと「やっと寝たよ」とうんざりした感じで話していた。さらに無理難題のような言葉を次から次にかけてくる龍治さんに切れてしまって、「俺はあんたの召使いじゃねぇ」と怒鳴りつける場面さえあった。そんな雰囲気のユニットにいるのが辛かった。すごく悲しくて泣きたくもなるし、スタッフを殴りたくなるようなことが何度もあった。
スタッフの態度は無視をしながら、龍治さんが苦しみ、もがいているのなら一緒にいようと、解らないまま、どうにかしたいという思いもあって、自分は龍治さんの居室に何度も通った。
そんなある日、いつものように大声で呼ぶ龍治さんの部屋に行った。「俺を寝かせないでくれ。頼む。三浦ダイコン。俺の頬を思いっきりぶん殴れ。手加減するな。早くしろ。」と自分の手をとりグーにさせ、「思いっきりだ。」と龍治さんがむりやり顔に自分の手を近づける。しかし、いくらお願いされても殴ることはできない。
どーすればいいのか分からず隣でただじっと座ったまま時間が経った。龍治さんも少し落ち着き、黙ったままおでこを触っていた。そして、龍治さんがゆっくり感慨深そうに語り始めた。「俺こないだ夢で兄貴をおくってきたんだ。でもそっちにはいけなかったんだ。俺にぶいからよ。そーいうのわからねぇんだよ。怖いな…。母ちゃんに会いてぇよ。俺の母ちゃんはな、すごく優しくていっつも心配ばっかりしてくれるんだよな。寒くねぇって言ってんのにもう1枚かけてくれるんだ。そんな人だったよ…母ちゃんにもう1度会いてぇよ…」と語りながら龍治さんは号泣した。いつの間にか自分も一緒に泣いていた。そして、龍治さんは自分の腕を引き寄せて「三浦ダイコン。お前も母ちゃんは大切にしろよ。なっ。」と、涙を流しながら微笑んでくれた。その後、龍治さんはポカリスエットを飲んでからすぅっと眠りについた。なんか特別の時間だった。今まで以上に龍治さんが自分の中で大切な存在になっていった。
翌日から、めちゃくちゃ自分に厳しい龍治さんがいた。おむつ交換の時に「ケツ上げてちょうだい。」と言うと「ケツじゃねぇだろバカたれ。おしりだろ。」と叩かれた。また、おむつ交換の後に「お前だったらどう思う。」と腕を組みながらアゴで居室のドアを指す。居室のドアは半分以上開いており、外から丸見えだった。「ヤベェ。ごめんごめん。」とすぐドアを閉めた。「お前はいっつもこうやっておむつ交換しているのか。俺はもう恥ずかしがるような歳じゃねえし男だからいいけどもよぉ、女性に対してもやっているのか。」まさに基本だ。「これからは、考えてやれよ。それから、ヤベェはやめろ。ヤベェのは三浦ダイコンだろ。」と言ってくれた。
「お前は歩くラジオだな。」と言われたことがある。「え?」と驚いていると「俺が部屋にいてもお前のでかい声で、今リビングで何をやっていて、だれだれがいるのか。お昼ご飯のメニューまで聞こえてくるぞ。」と話す。自分「それだけが俺の特技だからさ。」と返した。しかし龍治さんは真剣な顔で、「声が大きいのはいいことだ。だけどな、いらない情報までラジオで流すことないんだぞ。○○さんの排便やプライベートのことまで聞きたくなくても情報として入ってきてしまう。時と場合を考えろよ。」と言うことだった。これも基本だ。そんな感じで龍治さんはたくさん指導してくれた。介助時のアドバイスから、髪型や服装のだらしなさなども指摘された。
そういう時はいつもの一方的なもの言いではなく「お前ならどう感じる?」「どう考えているのだ?」など、問いかけが多かった。軽薄でなにも考えて生きてこなかった自分をみすかすように静かに語りかけてくれた。龍治さんは自分の師匠になった。龍治さんは「オレがおまえを育ててやるからな」と言ってくれた。その言葉のとおり、一生懸命自分を育てようとしてくれたのだと思う。
龍治さんと出会ってから約半年が立ち、一緒に稲刈りに出かけたり花火大会へも行った。また、特養内の交流ホールにて挽きたてコーヒーを飲んでくつろいだり、お酒を飲んだりもした。お互い本気でケンカもした。一方的に殴られ、頭に来て怒鳴ったりもした。ケンカした日はお互い口も聞かず、目もあわせなかった。それでも、夜中に謝りにいくと、次の日にはジョークを言いながら許してくれた。
龍治さんが自分の入るお墓を見たいというので一緒に出かけた。(あまのがわ通信2010年11月号参照)そんな日々のなかで、初めは苦手だった龍治さんが大好きになって行った。
夏も終わりに近づくころから龍治さんの身体状況が少しずつ弱っていった。居室で過ごすことが多くなったり、体調を崩すことが増えた。しかし、自分の師匠としては相変わらずバリバリで、ガンガンと鍛えてくれていた。しかし、龍治さんとの別れの時は刻々と近づいていた。つづく
銀河の里 − 特養の奮闘(その2) ★理事長 宮澤健【2011年3月号】
ALSの閉じこめ状態における、極限のコミュニケーションに触れながら、我々の現場の利用者はコミュニケーションが充分できるのだから大いにやりとりをしようとの意図で研修をしたつもりだったが、結果は真逆で、職員によって利用者が閉じこめられてしまう事態が次々にでてきた。一端閉じてしまった利用者は、そのあと出てきてもらおうとして頑張っても簡単には出てきてくれない。
そして出てこなくなった利用者をいいことに、職員だけで世間話に花をさかせて、時間を過ごすのが楽でいいと考える人が世間には多いのだから、特養立ち上げの道のりは厳しいものがあった。
夫婦で入居されていた方で旦那さんが亡くなられた。残された奥さんの寂しさは相当なものがあったのだろう。部屋が怖いと、リビングに出てくる機会が増えていった。ところがそれが職員にとってはやっかいと映ったのだろう、面倒くさく扱った。彼女は相手にされないので、トイレを頻繁に訴えるようになった。それが寂しさからの訴えであることを理解しようとしない職員は、「トイレはさっき行ったばかりでしょ」などと相手にせず、トイレの訴えは抹殺された。介護者が対応せざるをえない内容で伝えようとした、救いを求める気持ちを職員は受け止めなかった。究極の訴えが拒否され続けると彼女は閉じこもり、食事を摂らなくなった。
状況を察し、職員の部署移動をして、チームを再編成したが、本人の閉じた気持ちを開くことは難しく、栄養状態は悪化していった。あらたなチームは様々なアプローチを試みるが、なかなか届かなかった。向こうに逝くことを決めたかのようで、胃ろうをつけるために入院しても、手術の予定日になると、原因不明の熱を出して2度も病院から返されてきた。3度目の入院中ついに遠くに逝かれてしまった。頻繁に訴えてくれた時期に、なぜその気持ちを受けとめることができなかったか、無視してしまったのか悔やまれる。
利用者を閉じこめてしまう行為にはいろいろやり口がある。基本はバカにして、話しを適当にしか聞かないことだ。人や言葉に関心がなく、返事もなげやりで、真剣には聞いていない。そうした態度の介護職員がチームにひとりでもいると、利用者本人も周囲も深く傷つく。そういう人は職種の選択を間違えているとしか思えないのだが、3Kの代表の介護現場の求人に人材がなかなか集まらないのも実状だ。
やっかいなのは、正しい事を言っているようで、その実相手を切り捨てるやり方だ。「他の人の迷惑になる」「集団生活になじまない」「利用者の誰々さんが嫌がるので困る」といった切り捨て方は、一見世間的には正しいので、全体の意見になってしまいがちだ。周囲の者も違和感を感じているうちはいいのだが、そのうち一緒になって「ダメダメ」と脅迫的に利用者を制限したり、禁止の言葉を繰り返すようになってしまう。そうなると、ユニットの雰囲気は重くなり、スタッフもゆとりを失い苦しくなっていく。
最もやっかいなのは、職員のペースで完全に利用者を支配して、利用者の動きを閉じこめ、なにもさせなくするやり口だ。仕事を立派にやっているように見えるし、当人もやった気なのだが、利用者は全く個々の世界を消され、従属させられて、なにもできない。こういう状況では「事」が起こってこないし、安全なので、「なにか問題がありますか」と言われれば困るのだが、利用者は閉じこめられて動けなくなってしまう。
こうした閉じこめ介護者の特徴は表情のなさだ。感情を使っていないか、動いている感情は怒りだけだったりするので、顔は暗く怖くなっていく。この特養開設2年間はこうした閉じこめ型の職員に翻弄され続けた。
介護職員は「閉じこめ型」か「引き出し型」かの2つのタイプにきっぱりと別れると思う。引き出し型は、それぞれのタイプや個性で利用者らしさを引き出してくれるので関係に多様な個性が出てくるが、閉じこめタイプは一律で軍隊や収容所のイメージになる。
引き出し型の人は、コミュニケーションが豊かで、ゆとりがあって、フワッとした安定感や安心感がある。力まずフラットで表情がある。押しつけず、閉じてもいないので、利用者の言動に開かれた態度で向かっていて、周囲もそれを自然に共有できるし、そこに「場」ができてくるので、他の人もいつでも入れる感じになる。
コミュニケーションは、単におしゃべりをして時間を過ごすことではない。相手と自分が繋がるという体験があることが大切だ。完全閉じこめ状態における究極のコミュニケーションもいかに繋がるかが問われている。
閉じこめ状態を意識していた矢先、昨年の夏、チリの落盤事故が起こった。鉱山作業員33人が地下700メートルに閉じこめられたこの事故は、その後の救出劇の感動もあって世界中のニュースになった。
落盤で出口への通路が完全にふさがれ、地上との連絡もとれなくなり、暗闇に閉じこめられた人々の恐怖や絶望感は計り知れないものがある。誰もがもう助からないと絶望を感じたという。地上でも絶望的な観測が大半だった。5日目に地上からの捜索のドリルの音が遠くに聞こえたとき、歓声があがり微かな希望が湧いた。ところが何日経ってもその音は遠く聞こえるだけで近づいてこないので、また絶望に突き落とされる。17日目、あきらめかけたとき、ドリルの先端が避難所に届いた。閉じこめられていた作業員は、このとき狂喜に湧いて泣きじゃくったという。その先端にあの「我々33名は全員元気だ」のメッセージがくくりつけられ地上に上がってきた。前向きな気持ちを乗せたメッセージだった。地上では、生存がほとんど絶望視される中でもたらされたこのメッセージに歓喜が湧き、世界中が注目した。やっと繋がった瞬間だった。
それから8pほどの細い管を通じて、食料や物資が届けられるようになり、地下の生活状況は極度に改善したのだが、救出にはまだまだ難題があった。地下700メートルの一点に救出用の穴を正確に掘るには相当な技術が求められる。チリ政府は世界中に掘削技術の支援をもとめ、選ばれた3社が挑戦。4ヶ月かかるとされたところを1社が33日で縦穴を貫通させた。一方では心理的ケアもNASAなどの専門家の助言などを得ながら対策がとられていた。チリ政府はもちろん世界中からの支援が惜しみなく寄せられ続けたという。
掘削はわずかな角度や、方向の違いで700メートル先の地下では大きくずれてしまったり、途中の地盤のゆがみで掘削機が動かなくなったりするなど困難を極める中、数カ所から掘削アプローチが行われた。そしてついに閉じこめられてから70日目に貫通する。作業員達はそのドリルの先端に抱きついて喜んだという。そして、救出カプセルフェニックスが到着し、全員が地上に生還した。
我々の現場では、色々な形で高齢者の気持ちが閉じこめられていることが多い。その原因は病気や障害であったり、喪失であったり、孤独であったり、それぞれがつらい人生落盤事故にみまわれていることもある。施設や在宅で介護を受けていたとしても、厄介者扱いや、無視などの行為で、絶望や、あきらめの世界に沈みきってしまうこともある。生活や暮らしを奪われて、介護されるだけの役割を押しつけられて、その役割に閉じこめられている場合も少なくはない。
我々の現場では、閉じこめられた心に通路を作り、繋がるということを、高度な理論と思索に裏打ちされた、綿密な取り組みで挑戦していくことが求められるように思う。
特養立ち上げの2年目の困難のさなかに、チリで起こった落盤事故の救出劇の報道に触れ、人間にとって「繋がる」ことの大切さを感じながら、高齢者介護現場のコミュニケーション、繋がるということの意味を考えさせられた。
いよいよ特養は3年目に入る。そろそろ立ち上げ段階から、ユニットケアに秘められているであろう可能性を模索するステージに移行していきたい。
そして出てこなくなった利用者をいいことに、職員だけで世間話に花をさかせて、時間を過ごすのが楽でいいと考える人が世間には多いのだから、特養立ち上げの道のりは厳しいものがあった。
夫婦で入居されていた方で旦那さんが亡くなられた。残された奥さんの寂しさは相当なものがあったのだろう。部屋が怖いと、リビングに出てくる機会が増えていった。ところがそれが職員にとってはやっかいと映ったのだろう、面倒くさく扱った。彼女は相手にされないので、トイレを頻繁に訴えるようになった。それが寂しさからの訴えであることを理解しようとしない職員は、「トイレはさっき行ったばかりでしょ」などと相手にせず、トイレの訴えは抹殺された。介護者が対応せざるをえない内容で伝えようとした、救いを求める気持ちを職員は受け止めなかった。究極の訴えが拒否され続けると彼女は閉じこもり、食事を摂らなくなった。
状況を察し、職員の部署移動をして、チームを再編成したが、本人の閉じた気持ちを開くことは難しく、栄養状態は悪化していった。あらたなチームは様々なアプローチを試みるが、なかなか届かなかった。向こうに逝くことを決めたかのようで、胃ろうをつけるために入院しても、手術の予定日になると、原因不明の熱を出して2度も病院から返されてきた。3度目の入院中ついに遠くに逝かれてしまった。頻繁に訴えてくれた時期に、なぜその気持ちを受けとめることができなかったか、無視してしまったのか悔やまれる。
利用者を閉じこめてしまう行為にはいろいろやり口がある。基本はバカにして、話しを適当にしか聞かないことだ。人や言葉に関心がなく、返事もなげやりで、真剣には聞いていない。そうした態度の介護職員がチームにひとりでもいると、利用者本人も周囲も深く傷つく。そういう人は職種の選択を間違えているとしか思えないのだが、3Kの代表の介護現場の求人に人材がなかなか集まらないのも実状だ。
やっかいなのは、正しい事を言っているようで、その実相手を切り捨てるやり方だ。「他の人の迷惑になる」「集団生活になじまない」「利用者の誰々さんが嫌がるので困る」といった切り捨て方は、一見世間的には正しいので、全体の意見になってしまいがちだ。周囲の者も違和感を感じているうちはいいのだが、そのうち一緒になって「ダメダメ」と脅迫的に利用者を制限したり、禁止の言葉を繰り返すようになってしまう。そうなると、ユニットの雰囲気は重くなり、スタッフもゆとりを失い苦しくなっていく。
最もやっかいなのは、職員のペースで完全に利用者を支配して、利用者の動きを閉じこめ、なにもさせなくするやり口だ。仕事を立派にやっているように見えるし、当人もやった気なのだが、利用者は全く個々の世界を消され、従属させられて、なにもできない。こういう状況では「事」が起こってこないし、安全なので、「なにか問題がありますか」と言われれば困るのだが、利用者は閉じこめられて動けなくなってしまう。
こうした閉じこめ介護者の特徴は表情のなさだ。感情を使っていないか、動いている感情は怒りだけだったりするので、顔は暗く怖くなっていく。この特養開設2年間はこうした閉じこめ型の職員に翻弄され続けた。
介護職員は「閉じこめ型」か「引き出し型」かの2つのタイプにきっぱりと別れると思う。引き出し型は、それぞれのタイプや個性で利用者らしさを引き出してくれるので関係に多様な個性が出てくるが、閉じこめタイプは一律で軍隊や収容所のイメージになる。
引き出し型の人は、コミュニケーションが豊かで、ゆとりがあって、フワッとした安定感や安心感がある。力まずフラットで表情がある。押しつけず、閉じてもいないので、利用者の言動に開かれた態度で向かっていて、周囲もそれを自然に共有できるし、そこに「場」ができてくるので、他の人もいつでも入れる感じになる。
コミュニケーションは、単におしゃべりをして時間を過ごすことではない。相手と自分が繋がるという体験があることが大切だ。完全閉じこめ状態における究極のコミュニケーションもいかに繋がるかが問われている。
閉じこめ状態を意識していた矢先、昨年の夏、チリの落盤事故が起こった。鉱山作業員33人が地下700メートルに閉じこめられたこの事故は、その後の救出劇の感動もあって世界中のニュースになった。
落盤で出口への通路が完全にふさがれ、地上との連絡もとれなくなり、暗闇に閉じこめられた人々の恐怖や絶望感は計り知れないものがある。誰もがもう助からないと絶望を感じたという。地上でも絶望的な観測が大半だった。5日目に地上からの捜索のドリルの音が遠くに聞こえたとき、歓声があがり微かな希望が湧いた。ところが何日経ってもその音は遠く聞こえるだけで近づいてこないので、また絶望に突き落とされる。17日目、あきらめかけたとき、ドリルの先端が避難所に届いた。閉じこめられていた作業員は、このとき狂喜に湧いて泣きじゃくったという。その先端にあの「我々33名は全員元気だ」のメッセージがくくりつけられ地上に上がってきた。前向きな気持ちを乗せたメッセージだった。地上では、生存がほとんど絶望視される中でもたらされたこのメッセージに歓喜が湧き、世界中が注目した。やっと繋がった瞬間だった。
それから8pほどの細い管を通じて、食料や物資が届けられるようになり、地下の生活状況は極度に改善したのだが、救出にはまだまだ難題があった。地下700メートルの一点に救出用の穴を正確に掘るには相当な技術が求められる。チリ政府は世界中に掘削技術の支援をもとめ、選ばれた3社が挑戦。4ヶ月かかるとされたところを1社が33日で縦穴を貫通させた。一方では心理的ケアもNASAなどの専門家の助言などを得ながら対策がとられていた。チリ政府はもちろん世界中からの支援が惜しみなく寄せられ続けたという。
掘削はわずかな角度や、方向の違いで700メートル先の地下では大きくずれてしまったり、途中の地盤のゆがみで掘削機が動かなくなったりするなど困難を極める中、数カ所から掘削アプローチが行われた。そしてついに閉じこめられてから70日目に貫通する。作業員達はそのドリルの先端に抱きついて喜んだという。そして、救出カプセルフェニックスが到着し、全員が地上に生還した。
我々の現場では、色々な形で高齢者の気持ちが閉じこめられていることが多い。その原因は病気や障害であったり、喪失であったり、孤独であったり、それぞれがつらい人生落盤事故にみまわれていることもある。施設や在宅で介護を受けていたとしても、厄介者扱いや、無視などの行為で、絶望や、あきらめの世界に沈みきってしまうこともある。生活や暮らしを奪われて、介護されるだけの役割を押しつけられて、その役割に閉じこめられている場合も少なくはない。
我々の現場では、閉じこめられた心に通路を作り、繋がるということを、高度な理論と思索に裏打ちされた、綿密な取り組みで挑戦していくことが求められるように思う。
特養立ち上げの2年目の困難のさなかに、チリで起こった落盤事故の救出劇の報道に触れ、人間にとって「繋がる」ことの大切さを感じながら、高齢者介護現場のコミュニケーション、繋がるということの意味を考えさせられた。
いよいよ特養は3年目に入る。そろそろ立ち上げ段階から、ユニットケアに秘められているであろう可能性を模索するステージに移行していきたい。
里のドクター ★施設長補佐 戸來淳博【2011年3月号】
特養の日々を振り返ると、ほぼ毎日、通院介助が必要で、夜間の通院も度々ある。開設当初はそんな状況に驚かされ、くたくたになった。それくらい入居される方の医療への依存度は高く、日頃より、嘱託医、看護師、医療機関との連携は特養の重要なポイントだと実感する。一方で、銀河の里としては、あくまで暮らしの場、生活の場をつくっていきたいので、病院じみたり、医療機関の処理の感じはできる限り匂わせないでいきたいと願ってきた。
外部の研修会で、ある特養の職員から施設の回診の様子を聞いた。回診日は慌ただしくその準備に追われ、体調不良者を除き、入居者は食堂に並ばせられDr.を待つそうである。その時Dr.の前で入居者は、一人一人が持つ世界を理解されることもなく、一患者でしかなくなるのだろう、その光景を思い浮かべただけでゾッとした。
だいたいの医療機関では、「認知症」と聞くだけでひどく毛嫌いし、受け入れを断ったり、予定の入院期間より早々に帰されたりすることが度々ある。実際GHの入居者が転んで、腰のレントゲンを撮るために横になってもらいたいのだが、じっとしておられず、その様子に、「こら!静かにしなさい!!(おまえら)こんなジサマみてるのか!」と付き添いの私たちが怒られた事もあった。
診察室でのDrとのやりとりも、大体が殺伐とした人間味のないものとなる。現実とは異なる認知症が持つ世界には理解は示されず、本人の心は取り残され、診察はほとんど見てもらえなかったりもする。治療が目的のサービスだから、必要のない世界の理解はしないこともわかるのだが、付き添っていて傷つくことは度々あった。
そんな現状に辟易させられることが日常的ななかで、銀河の里の特養の嘱託医である富塚先生はとても人間的で柔軟な対応をしていただけるので、銀河の里にとってはとても幸運だったとつくづく思う。
先月号でも触れたコラさん(仮名)は、神経症と自分で言うだけあって、体調をことのほか気に掛ける。気にしすぎるから具合が悪くなるんじゃないかと思うくらいだ。そんなだから病院が大好きで、以前は総合病院の全科を一日かけて回り、「全て異常なし」ということもよくあった。
先月から特養に入り、かかりつけ医が富塚先生になってからは、回診の度にあれこれ訴え、先生を独り占めにする勢いだ。「最近クラッと目眩がするんだよ・・・。おしっこ出るところがジリジリづいんだよ。あっちもこっちも・・・」訴えは尽きない。それに対して先生は静かに語りかける。「それはね、年を重ねると老化って起きてくるんだよ。でもね、いい薬があるから出しておくからね。ご飯に混ぜて出すからちゃんと夕飯から食べてね。」ご飯に混ぜるわけはないのだが、コラさんの気持ちはちゃーんと受け止めてやりとりしてくれる。気になりすぎて険しい表情だったコラさんも、回診のあとは安心したようでニコニコ笑顔がこぼれる。
特養が始まった年、ガンの末期の男性が入居され、4月に入居されて9月までの半年をお付き合させていただいたことがあった。ガンの進行と共に、徐々に食べられなくなっていく中で、冨塚先生はその方の生まれ故郷の話や、好きだという野球の話をしながら「何か食べたいものはない?」と声を掛けられた。その方は生まれ故郷を思い出し「八戸のイカの刺し身が食べたいなぁ。」と話された。先生は「じゃ、俺活きのいいやつ持ってくるから。」と回診を終え一旦帰られた後、わざわざイカ刺しをその人のために届けてくださった。
特養では看取りの場面も重要な仕事になってくるのだが、そこでも富塚先生の繊細なやりとりに助けられてきた。御家族と特養での今後の経過の予測や、特養で出来る医療や対応について説明し、何度かに渡って家族の気持ちや考えを確認する。家族とのカンファレンスの中でも先生はその方の生い立ちや生きてきた軌跡などに思いをめぐらせてくれる。
そんな先生の雰囲気に触発されて、ご家族も生い立ちや思い出話などをしてくれた。この方が亡くなられたとき、深夜の呼び出しにもかかわらず応じていただいて、家族全員が揃うのを待って死亡確認をされた。看取りをする上で、本人や家族の思いも受け止め、家族の心情もしっかり受け止めていただいている。
銀河の里らしい特養をつくっていこうとするとき、富塚先生のような先生と巡り会えたことは本当にありがたいことだと思う。
外部の研修会で、ある特養の職員から施設の回診の様子を聞いた。回診日は慌ただしくその準備に追われ、体調不良者を除き、入居者は食堂に並ばせられDr.を待つそうである。その時Dr.の前で入居者は、一人一人が持つ世界を理解されることもなく、一患者でしかなくなるのだろう、その光景を思い浮かべただけでゾッとした。
だいたいの医療機関では、「認知症」と聞くだけでひどく毛嫌いし、受け入れを断ったり、予定の入院期間より早々に帰されたりすることが度々ある。実際GHの入居者が転んで、腰のレントゲンを撮るために横になってもらいたいのだが、じっとしておられず、その様子に、「こら!静かにしなさい!!(おまえら)こんなジサマみてるのか!」と付き添いの私たちが怒られた事もあった。
診察室でのDrとのやりとりも、大体が殺伐とした人間味のないものとなる。現実とは異なる認知症が持つ世界には理解は示されず、本人の心は取り残され、診察はほとんど見てもらえなかったりもする。治療が目的のサービスだから、必要のない世界の理解はしないこともわかるのだが、付き添っていて傷つくことは度々あった。
そんな現状に辟易させられることが日常的ななかで、銀河の里の特養の嘱託医である富塚先生はとても人間的で柔軟な対応をしていただけるので、銀河の里にとってはとても幸運だったとつくづく思う。
先月号でも触れたコラさん(仮名)は、神経症と自分で言うだけあって、体調をことのほか気に掛ける。気にしすぎるから具合が悪くなるんじゃないかと思うくらいだ。そんなだから病院が大好きで、以前は総合病院の全科を一日かけて回り、「全て異常なし」ということもよくあった。
先月から特養に入り、かかりつけ医が富塚先生になってからは、回診の度にあれこれ訴え、先生を独り占めにする勢いだ。「最近クラッと目眩がするんだよ・・・。おしっこ出るところがジリジリづいんだよ。あっちもこっちも・・・」訴えは尽きない。それに対して先生は静かに語りかける。「それはね、年を重ねると老化って起きてくるんだよ。でもね、いい薬があるから出しておくからね。ご飯に混ぜて出すからちゃんと夕飯から食べてね。」ご飯に混ぜるわけはないのだが、コラさんの気持ちはちゃーんと受け止めてやりとりしてくれる。気になりすぎて険しい表情だったコラさんも、回診のあとは安心したようでニコニコ笑顔がこぼれる。
特養が始まった年、ガンの末期の男性が入居され、4月に入居されて9月までの半年をお付き合させていただいたことがあった。ガンの進行と共に、徐々に食べられなくなっていく中で、冨塚先生はその方の生まれ故郷の話や、好きだという野球の話をしながら「何か食べたいものはない?」と声を掛けられた。その方は生まれ故郷を思い出し「八戸のイカの刺し身が食べたいなぁ。」と話された。先生は「じゃ、俺活きのいいやつ持ってくるから。」と回診を終え一旦帰られた後、わざわざイカ刺しをその人のために届けてくださった。
特養では看取りの場面も重要な仕事になってくるのだが、そこでも富塚先生の繊細なやりとりに助けられてきた。御家族と特養での今後の経過の予測や、特養で出来る医療や対応について説明し、何度かに渡って家族の気持ちや考えを確認する。家族とのカンファレンスの中でも先生はその方の生い立ちや生きてきた軌跡などに思いをめぐらせてくれる。
そんな先生の雰囲気に触発されて、ご家族も生い立ちや思い出話などをしてくれた。この方が亡くなられたとき、深夜の呼び出しにもかかわらず応じていただいて、家族全員が揃うのを待って死亡確認をされた。看取りをする上で、本人や家族の思いも受け止め、家族の心情もしっかり受け止めていただいている。
銀河の里らしい特養をつくっていこうとするとき、富塚先生のような先生と巡り会えたことは本当にありがたいことだと思う。