2011年02月15日
正月帰省で考えた事 〜つながりを失った時代〜 ★ワークステージ 佐々木哲哉【2011年2月号】
年明けに神奈川の湘南国際村で福祉主事の受講に行った。横浜の実家から通える場所だったので正月の帰省に合わせて久々に実家で数日を過ごした。
横浜は岩手の寒さに慣れた身には暖かく心身が緩んだが、楽過ぎて居心地が悪くもなった。実家のベッドで横になっていると、かつて部屋にこもりがちだった日々がよみがえり、その後の沖縄での日々や、今の岩手の暮らしが長い夢のように錯覚しそうになって一瞬ゾッとした。自然の厳しさや暮らしの苦労は、気持ちを律してくれているように思う。
目にとまった朝日新聞には「孤族の国」と題して特集を組んでいた。アパートや自家用車の中で人に気づかれず亡くなっていく単身の中高年の孤独死や、就職や対人関係がうまくいかずに引きこもったり、新興宗教やネットにのめりこむ若者、高齢者となった親と息子の老老介護、所在不明高齢者の遺体を放置したまま親の年金を受け取り続けた息子‥‥など、会社や家族に頼ってきた人々が職や伴侶を失ったり、あるいは関係が希薄になって追い込まれていく現代が抱えた生々しい姿を報道している。とりわけ北九州市で起きた39歳の餓死事件や、自らの自殺をネットで予告し動画サイトで中継した事件はショックだった。また、身元が不明の引き取り手のいない「行旅死亡人」、身よりのない遺体の遺品整理する専門の会社の存在、10分が千円という有料の話相手サービス、傾聴ボランティア‥‥等、信じられない思いと同時に「ひとごとではない」現実が重く心に残った。
生きる意欲や生きがい、ひととのつながり、自分が必要とされている手ごたえ‥‥私自身そうしたものを求めていたと思う。10数年前、“生きるちから”を身につけたい、と意気込んで都会でのサラリーマン生活に見切りをつけ、東北の農家で自給自足の暮らしを追求した。しかしそれは私の劣等感の裏返しであって、束縛のない自由はかえって理想の自分と実力のない現実の自分をいやがおうにも見せつけられ、他者との関わりを閉ざしてより自己完結に向かう虚しさを感じ、何を目指しているのか分からなくなり悶々とした日々に追い込まれた。冬に寒さがつのる中、誰ともつながれないような不安に追いつめられて雪の中を逃げるようにオートバイで鹿児島まで走ったあげく、船を乗り継いで日本の最西端の離島、沖縄・与那国島に行き着いた。そこでしばらくサトウキビ刈りの仕事に没頭するのだが、思えば無茶苦茶な旅だった。しかしそれは当時、自分を肯定できる唯一の自己表現だったと思う。
引きこもりの青年が起こした無差別殺人事件も、ネットの世界で繰り広げられる非現実的な殺伐としたコミュニケーションも、現代の若者の心の特性の一端だろう。手にナイフや銃を持つか、筆やギターを持つか、それらを内に向けるのか外に向けるのか、その表現方法も案外紙一重のところにあるように感じる。叫べる場や、つながれる関係を誰もが深いところで求めている時代ではなかろうか。
孤独感や孤立状態は、経済的な豊かさや家族、恋人など身近な存在の有無に関わらず忍び寄ってくる。むしろ表面上の経済的安定や親子や夫婦という体面をまとっているほうが見えにくいぶん深刻な孤立をもたらすのではないか。今回の帰省中に読んだ『“家族”という名の孤独』(斎藤学 著 講談社文庫)では、DVや児童虐待をはじめ、子どもへの過剰な期待や、問題を家族内に閉じ込めようとする、一見「普通」の家族が抱える共依存的な関係を考察している。現代の家族が抱える負の連鎖に滅入ってしまった。
実家では、病弱になった母に代わって、父がなれない手つきで家事をこなしていた。かつてフリーター生活の私の生き方を巡って激しく対立した父の背中が、小さく見えた。その両親と一緒に、97歳の祖母を病院へ見舞いに行った。
祖母は寝て過ごしている時間が長いが、閉じていた目を開けるといきなり私がいたので、一瞬びっくりしたような顔になった。銀河の里にいながら、まだまだ言葉に頼らないコミュニケーションに不慣れな私だが、手足や髪をさすりながら声をかけ、食事の介助も初めてした。
その前日、姉が、かつて祖母が正月に仕込んでいた、サケを大根ではさみ塩麹で漬けたすし漬けを作って病院に届けた。そのすし漬けの香りを嗅いだ祖母は突然言葉を発し反応したと感動してその様子をビデオで見せてくれた。これは私も嬉しかった。
この正月休みは家族だけでなく、小中学、高校、大学、福島、沖縄‥‥と過ごした時代の友達とも再会した。時が流れ、それなりの地位や家庭を得ても、少しお腹が出っ張ってきても、以前と変わらない人柄に再開した。懐かしい話や、たわいのない話、「ほんとうに大事なものって何さ?」というストレートな問いかけを通じて、普段は会うこともかなわず、メールですら滅多にやりとりしない級友と、つながりを確認することができた。身近な存在も大事だけど、血縁や地縁と関係ない友人や知人の存在もまた大きく、自分を冷静に見つめ直したり再発見したりできて有り難いと思う。
孤独は受け入れ付き合っていくしかないが、孤立は避けたい。
面接授業の行われる葉山は、御用邸もあるだけあって、空気が澄んで海も穏やかで相模湾の向こうに富士山が望める景勝地だ。研修中は昼休みには、車で毎日海岸に出ておにぎりなど食べた。ある日、眺めのよい高台にひなびた老夫婦の営む食堂があった。そこで隣の席のおじさんと話をした。たまにこの食堂に来るという地元に住む初老のおじさんは「最近、海のスポーツを始めてね」と活き活きとした表情で語ってくれた。それはウィンドサーフィンで、彼は64歳だというので驚いた。
孤立しがちな時代にあって、壁を作ったり線を引いたりせず、心の扉を開いていけば、人はいろいろ拡がってつながっていけるはずなのだが‥‥温暖な海風と陽光を浴びながら、忙中の間をすごし、色々考えさせられた正月休みだった。
横浜は岩手の寒さに慣れた身には暖かく心身が緩んだが、楽過ぎて居心地が悪くもなった。実家のベッドで横になっていると、かつて部屋にこもりがちだった日々がよみがえり、その後の沖縄での日々や、今の岩手の暮らしが長い夢のように錯覚しそうになって一瞬ゾッとした。自然の厳しさや暮らしの苦労は、気持ちを律してくれているように思う。
目にとまった朝日新聞には「孤族の国」と題して特集を組んでいた。アパートや自家用車の中で人に気づかれず亡くなっていく単身の中高年の孤独死や、就職や対人関係がうまくいかずに引きこもったり、新興宗教やネットにのめりこむ若者、高齢者となった親と息子の老老介護、所在不明高齢者の遺体を放置したまま親の年金を受け取り続けた息子‥‥など、会社や家族に頼ってきた人々が職や伴侶を失ったり、あるいは関係が希薄になって追い込まれていく現代が抱えた生々しい姿を報道している。とりわけ北九州市で起きた39歳の餓死事件や、自らの自殺をネットで予告し動画サイトで中継した事件はショックだった。また、身元が不明の引き取り手のいない「行旅死亡人」、身よりのない遺体の遺品整理する専門の会社の存在、10分が千円という有料の話相手サービス、傾聴ボランティア‥‥等、信じられない思いと同時に「ひとごとではない」現実が重く心に残った。
生きる意欲や生きがい、ひととのつながり、自分が必要とされている手ごたえ‥‥私自身そうしたものを求めていたと思う。10数年前、“生きるちから”を身につけたい、と意気込んで都会でのサラリーマン生活に見切りをつけ、東北の農家で自給自足の暮らしを追求した。しかしそれは私の劣等感の裏返しであって、束縛のない自由はかえって理想の自分と実力のない現実の自分をいやがおうにも見せつけられ、他者との関わりを閉ざしてより自己完結に向かう虚しさを感じ、何を目指しているのか分からなくなり悶々とした日々に追い込まれた。冬に寒さがつのる中、誰ともつながれないような不安に追いつめられて雪の中を逃げるようにオートバイで鹿児島まで走ったあげく、船を乗り継いで日本の最西端の離島、沖縄・与那国島に行き着いた。そこでしばらくサトウキビ刈りの仕事に没頭するのだが、思えば無茶苦茶な旅だった。しかしそれは当時、自分を肯定できる唯一の自己表現だったと思う。
引きこもりの青年が起こした無差別殺人事件も、ネットの世界で繰り広げられる非現実的な殺伐としたコミュニケーションも、現代の若者の心の特性の一端だろう。手にナイフや銃を持つか、筆やギターを持つか、それらを内に向けるのか外に向けるのか、その表現方法も案外紙一重のところにあるように感じる。叫べる場や、つながれる関係を誰もが深いところで求めている時代ではなかろうか。
孤独感や孤立状態は、経済的な豊かさや家族、恋人など身近な存在の有無に関わらず忍び寄ってくる。むしろ表面上の経済的安定や親子や夫婦という体面をまとっているほうが見えにくいぶん深刻な孤立をもたらすのではないか。今回の帰省中に読んだ『“家族”という名の孤独』(斎藤学 著 講談社文庫)では、DVや児童虐待をはじめ、子どもへの過剰な期待や、問題を家族内に閉じ込めようとする、一見「普通」の家族が抱える共依存的な関係を考察している。現代の家族が抱える負の連鎖に滅入ってしまった。
実家では、病弱になった母に代わって、父がなれない手つきで家事をこなしていた。かつてフリーター生活の私の生き方を巡って激しく対立した父の背中が、小さく見えた。その両親と一緒に、97歳の祖母を病院へ見舞いに行った。
祖母は寝て過ごしている時間が長いが、閉じていた目を開けるといきなり私がいたので、一瞬びっくりしたような顔になった。銀河の里にいながら、まだまだ言葉に頼らないコミュニケーションに不慣れな私だが、手足や髪をさすりながら声をかけ、食事の介助も初めてした。
その前日、姉が、かつて祖母が正月に仕込んでいた、サケを大根ではさみ塩麹で漬けたすし漬けを作って病院に届けた。そのすし漬けの香りを嗅いだ祖母は突然言葉を発し反応したと感動してその様子をビデオで見せてくれた。これは私も嬉しかった。
この正月休みは家族だけでなく、小中学、高校、大学、福島、沖縄‥‥と過ごした時代の友達とも再会した。時が流れ、それなりの地位や家庭を得ても、少しお腹が出っ張ってきても、以前と変わらない人柄に再開した。懐かしい話や、たわいのない話、「ほんとうに大事なものって何さ?」というストレートな問いかけを通じて、普段は会うこともかなわず、メールですら滅多にやりとりしない級友と、つながりを確認することができた。身近な存在も大事だけど、血縁や地縁と関係ない友人や知人の存在もまた大きく、自分を冷静に見つめ直したり再発見したりできて有り難いと思う。
孤独は受け入れ付き合っていくしかないが、孤立は避けたい。
面接授業の行われる葉山は、御用邸もあるだけあって、空気が澄んで海も穏やかで相模湾の向こうに富士山が望める景勝地だ。研修中は昼休みには、車で毎日海岸に出ておにぎりなど食べた。ある日、眺めのよい高台にひなびた老夫婦の営む食堂があった。そこで隣の席のおじさんと話をした。たまにこの食堂に来るという地元に住む初老のおじさんは「最近、海のスポーツを始めてね」と活き活きとした表情で語ってくれた。それはウィンドサーフィンで、彼は64歳だというので驚いた。
孤立しがちな時代にあって、壁を作ったり線を引いたりせず、心の扉を開いていけば、人はいろいろ拡がってつながっていけるはずなのだが‥‥温暖な海風と陽光を浴びながら、忙中の間をすごし、色々考えさせられた正月休みだった。
特養で大活躍 その1 ★ワークステージ 日向菜採【2011年2月号】
一昨年に開設した特別養護老人ホームは、ワークステージの利用者の活躍する場ともなっており、現在特養のユニット・厨房で7人の利用者が働いている。その活躍ぶりは周囲の目を見張るものがあり、本人たちも自信に満ちていて、以前とは全く違った顔つきに変化しているのが見て取れる。そうした活躍の一端のレポートとして、第一回目は、ユニットの北斗とすばるを担当している冬美さん(仮名)と祥くん(仮名)を紹介したい。
二人のポイントは、それぞれお気に入りのエプロンと三角巾をつけて、バッチリ格好をきめて仕事にはいるところだ。主に、食事の盛りつけと食器洗い、おやつづくり、シーツ交換、掃除などなど、介護スタッフに負けないほど仕事は盛りだくさんだが、そのほかにも高齢者といっしょに場を盛り上げる雰囲気づくりも大切な役割になっている。本人たちは、その役割はまったく感じていないと思うが、自然に場を盛り上げてくれたり、雰囲気を作ってくれたりするその力に、いつも感心させられる。
特養のユニットにワークの利用者が入ったのは、ちょうど昨年の今頃で1年になる。最初は、立ち上げ1年を経ても、なかなか里らしい雰囲気が出てこない特養に業を煮やしてしていた理事長が、ワークの活発で元気な感じを特養に活かせないかということになり、北斗の和室を借りて4人の利用者で箱折りや大葉の結束作業を始めた。
そのときのメンバーに冬美さんがいたのだが、集中力が続かず、箱折り作業もペースが保てず、すぐに疲れ果てた感じになって、へとへととうずくまってしまい、一緒に組んでいる仲間からも心配をしてもらうような状態が続いた。そこで以前、冬美さんが、祥くんと組んでやっていたデイサービスの盛りつけと食後の洗いものがいい感じだったのを思いだし、そのふたりに再びタックを組んでもらい、北斗・すばるでも、洗いものや盛りつけを中心にユニットの手伝いに入ってもらうことになった。
その初日、様子を見に行くと、10時のお茶の時間なのだが、高齢者といっしょのテーブルでふたりは肩身が狭いような感じで身を丸めてうつむき加減でコーヒーを飲んでいた。私は内心大丈夫かな、やっていけるかなと心配になった。 1年前のその時のふたりの印象は今でもよく覚えている。
ところが今は打って変わって自信にみちた表情をした二人がユニットにいる。先日、私がすばるに行ったら、冬美さんが利用者のおばあさん達とコーヒーを飲みながら笑って話をしていた。私はその姿にとても驚かされた。もともと冬美さんはあまり社交的なタイプではない。積極的に人と話す方ではないし、どうしても一人でいるか特定の相手と過ごすことが多かった。けれども、すばるの冬美さんはとても良い表情をしていて自然と周りに馴染んでいた。それを見て私は、この1年、仕事を通じて冬美さんは大きな変化をしたなと実感した。先日、冬美さんの相棒の祥くんが通院で休んだ日、冬美さんは少し体調が悪かったのだが「祥くんがいないから自分がやらないと」と思い、出勤したことがあった。 こうした責任感が出てくる裏には、仕事を通じた自信や誇りが育ったのだと思う。わずか1年前、なかなか集中力が続かず、仕事にはまれず泣いていた冬美さんが、今はきりっとした表情をして、堂々としている。
祥くんは、半年前「おやつづくりに挑戦してみたい」と取り組んで、今では、おやつ作りをすっかり担当する役割にはまっている。おやつ作りは自分仕事で、腕の見せ所という感じで、どんなおやつを作るか、材料は何が必要かまで自分で考え、特養のスタッフに提案している。もとのレシピを自分でアレンジして、工夫したりして、おやつづくりに賭けている感じだ。相棒の冬美さんのことも気遣ってくれ、体調が悪そうだとすぐにスタッフに連絡をくれるなど、リーダー的存在でもある。
夕方、仕事を終え特養から戻ってくると、「今度あのお菓子作ってみたいんだよね」と祥くん。「今日ロールケーキ失敗しちゃった」と冬美さん。ふたりはいつも笑顔でその日あったことを話してくれる。ふたりの表情を見ていると仕事が楽しそうだし、仕事に自信を持っている。おっかなびっくりで仕事をこなしていた以前とは違って、今は心から湧き上がってくる意欲や楽しさなどを二人から感じさせられ、人間ってこんなに変われるんだという感動をもらっている。これから特養でどんな活躍をしていくのか楽しみだ。
二人のポイントは、それぞれお気に入りのエプロンと三角巾をつけて、バッチリ格好をきめて仕事にはいるところだ。主に、食事の盛りつけと食器洗い、おやつづくり、シーツ交換、掃除などなど、介護スタッフに負けないほど仕事は盛りだくさんだが、そのほかにも高齢者といっしょに場を盛り上げる雰囲気づくりも大切な役割になっている。本人たちは、その役割はまったく感じていないと思うが、自然に場を盛り上げてくれたり、雰囲気を作ってくれたりするその力に、いつも感心させられる。
特養のユニットにワークの利用者が入ったのは、ちょうど昨年の今頃で1年になる。最初は、立ち上げ1年を経ても、なかなか里らしい雰囲気が出てこない特養に業を煮やしてしていた理事長が、ワークの活発で元気な感じを特養に活かせないかということになり、北斗の和室を借りて4人の利用者で箱折りや大葉の結束作業を始めた。
そのときのメンバーに冬美さんがいたのだが、集中力が続かず、箱折り作業もペースが保てず、すぐに疲れ果てた感じになって、へとへととうずくまってしまい、一緒に組んでいる仲間からも心配をしてもらうような状態が続いた。そこで以前、冬美さんが、祥くんと組んでやっていたデイサービスの盛りつけと食後の洗いものがいい感じだったのを思いだし、そのふたりに再びタックを組んでもらい、北斗・すばるでも、洗いものや盛りつけを中心にユニットの手伝いに入ってもらうことになった。
その初日、様子を見に行くと、10時のお茶の時間なのだが、高齢者といっしょのテーブルでふたりは肩身が狭いような感じで身を丸めてうつむき加減でコーヒーを飲んでいた。私は内心大丈夫かな、やっていけるかなと心配になった。 1年前のその時のふたりの印象は今でもよく覚えている。
ところが今は打って変わって自信にみちた表情をした二人がユニットにいる。先日、私がすばるに行ったら、冬美さんが利用者のおばあさん達とコーヒーを飲みながら笑って話をしていた。私はその姿にとても驚かされた。もともと冬美さんはあまり社交的なタイプではない。積極的に人と話す方ではないし、どうしても一人でいるか特定の相手と過ごすことが多かった。けれども、すばるの冬美さんはとても良い表情をしていて自然と周りに馴染んでいた。それを見て私は、この1年、仕事を通じて冬美さんは大きな変化をしたなと実感した。先日、冬美さんの相棒の祥くんが通院で休んだ日、冬美さんは少し体調が悪かったのだが「祥くんがいないから自分がやらないと」と思い、出勤したことがあった。 こうした責任感が出てくる裏には、仕事を通じた自信や誇りが育ったのだと思う。わずか1年前、なかなか集中力が続かず、仕事にはまれず泣いていた冬美さんが、今はきりっとした表情をして、堂々としている。
祥くんは、半年前「おやつづくりに挑戦してみたい」と取り組んで、今では、おやつ作りをすっかり担当する役割にはまっている。おやつ作りは自分仕事で、腕の見せ所という感じで、どんなおやつを作るか、材料は何が必要かまで自分で考え、特養のスタッフに提案している。もとのレシピを自分でアレンジして、工夫したりして、おやつづくりに賭けている感じだ。相棒の冬美さんのことも気遣ってくれ、体調が悪そうだとすぐにスタッフに連絡をくれるなど、リーダー的存在でもある。
夕方、仕事を終え特養から戻ってくると、「今度あのお菓子作ってみたいんだよね」と祥くん。「今日ロールケーキ失敗しちゃった」と冬美さん。ふたりはいつも笑顔でその日あったことを話してくれる。ふたりの表情を見ていると仕事が楽しそうだし、仕事に自信を持っている。おっかなびっくりで仕事をこなしていた以前とは違って、今は心から湧き上がってくる意欲や楽しさなどを二人から感じさせられ、人間ってこんなに変われるんだという感動をもらっている。これから特養でどんな活躍をしていくのか楽しみだ。
実習を通じた思索 その2「錠」 ★デイサービス 千枝悠久【2011年2月号】
実習を終えた直後には、無力感と疑問と憤りに似た感情で、冷静に考えることができなかったが、しばらく時間が過ぎる中で、いろいろ考え、今になって気づくことも出てきた。前回、現場の「扉」の存在を感じそれを書いたのだが、どうやらそれには大きく重い「錠」がかけられていることに気がついた。「扉」があってもそれを開ければいいことだ。しかしその扉には「錠」がかけられているのがさらに大きな問題なのだ。
「扉」を開こうとしていた入居者と、その扉を開けたいと感じた私。そして「扉」を開けるつもりのない職員。その「心の扉」にかかった「錠」が何かを考えるためには、もう一度実習先の職員の言葉や、入居者の言葉を思い出してみよう。
まず、施設で衣類を管理されている入居者は、「物を持っていかれるので私の部屋には何も無い。」と話し、「服もさっぱり無い。」と空っぽのタンスを見せながら、寂しそうな表情だった。
利用者と職員の世界がぱっくりと割れる時間帯。あの魔の時間。(その時間は、外へ出る扉を開けようとする行動が多くみられる時間帯でもある。)私はその方に何がしたいのか尋ねてみた。するとその人は「そういうことを話すと、『なんであの人だけ?』と思われるから話したくない・・・。」と答えられた。
そこには認知症だから何を言ってもだめで、問題行動しか起こさない存在として分けてしまう重い扉と、認知症に歩み寄る姿勢をもたず、人間の心を全く理解しようとしない固い錠がそこに存在している。閉じられ、自由を奪われた空間から外に出たいとは認知症だからではなく誰でも思うことではないか。
実習の最終日のケース会議で私は、安心ということについて実習で感じたことを話した。それに対して現場の主任は、「不安というものは、その人の価値観と現実との間にズレが生じたときに起こるものだと考えている。そのため、ズレが起きないよう、いつも同じようなケアができることが必要だ。」と言われた。さらに「認知症の方と接しているとこちらの価値観がズレてくる。」と話されていた。そして「私たちも将来あのようになるのかもしれない。」と笑っていた。どこか既存の価値観にズレが生じることは避けるという固い姿勢と、認知症をズレを生じさせる怖い存在として捉えているのを感じた。
職員は認知症の人と接することによって自分たちの価値観がずれることを怖がって不安を持っている。だから扉の向こうに別れて過ごすのだろう。入居者と接すると価値観がずれるので危ないという不安がそこにあるなら、それが錠になって「扉」が開けられる可能性はなくなる。
知識も技術も経験も不足している学生の実習は不安に満ちている。自分の価値観は揺さぶられ続ける。その立場の私は現場で認知症に怯えて扉を開けようとしない職員の不安を目の当たりにして、さらに揺さぶられた。だから、実習中にはこの「錠」を見つけることができなかった。職員が自分の心の錠を見ないようにしているように、私も、私自身の「錠」と向きあうことを避け職員の「錠」を見ないようにしてしまったのかもしれない。
自分と違うものや、異質ななにかと出会うと人は不安を感じるものだ。職員は、自分が揺るがされないように「認知症」の入居者を、自分とは違う異物として排除したうえで介護しようとしているのだ。それではさらに不安が増大し、「心の扉」に「錠」が固く掛けられることになる。
私は、「学生」として、職員の方のことを「指導者」の位置に置いていた。それゆえに不安が生まれ、「錠」に気づくことができなかった。そのような中でも、入居者は、「入居者」でも「認知症」でもなく、一人の「人」としていてくれたことに今気がつく。
実習が終わってしばらく経った今になって私にも「錠」が見えてきた。そしてその錠を開ける「鍵」を見つけたい。錠をはずし扉を開き両者を繋ぐ鍵はどこにあるのか。それを探す旅が私の中で始まった。
実習後、他の実習施設から戻ってきた学校の級友達と話した。私が感じた分かれた扉を感じた学生も多くいた。学校の実習報告会で「あんな職員にはなりたくない」と明言する学生も少なくなかった。福祉の現場には私の感じたあの思い「扉」が確かに存在するのだ。しかし、「あんな職員になりたくない」という攻撃だけでは、現場の不安を取り除き、隔たれた両者を繋ぐための「鍵」とは成り得ない。
実習後、私は、銀河の里の理事長と面談を始めた。「私は介護をやりたいのではなく介護福祉をやりたいのだ」だから福祉を勉強したいと言った。すると理事長は、「そこには鍵はないね」と即座に明言するので戸惑う私に「神話を学ぶといい。おそらくそこに鍵はあるよ」という。あまりにかけ離れた話しに驚いていると、中沢新一のカイエソバージュの第1巻を本棚から取り出してきて差し出された。
「人間や社会への本質的なまなざしを持ってアプローチしないと、対処療法しかできなくなって目に見えない大切ななにかを損なってしまう。」というのだが、ピンとは来なかった。しかしだまされたつもりで「鍵」を見つけたい足掻きもありその本を読んでみた。それは、鍵を探る旅に出たばかりの私には、新鮮でまばゆいものとして感じられた。ほのかな一条の光を見いだしたようなその内容を、次回に紹介したい。 続く
「扉」を開こうとしていた入居者と、その扉を開けたいと感じた私。そして「扉」を開けるつもりのない職員。その「心の扉」にかかった「錠」が何かを考えるためには、もう一度実習先の職員の言葉や、入居者の言葉を思い出してみよう。
まず、施設で衣類を管理されている入居者は、「物を持っていかれるので私の部屋には何も無い。」と話し、「服もさっぱり無い。」と空っぽのタンスを見せながら、寂しそうな表情だった。
利用者と職員の世界がぱっくりと割れる時間帯。あの魔の時間。(その時間は、外へ出る扉を開けようとする行動が多くみられる時間帯でもある。)私はその方に何がしたいのか尋ねてみた。するとその人は「そういうことを話すと、『なんであの人だけ?』と思われるから話したくない・・・。」と答えられた。
そこには認知症だから何を言ってもだめで、問題行動しか起こさない存在として分けてしまう重い扉と、認知症に歩み寄る姿勢をもたず、人間の心を全く理解しようとしない固い錠がそこに存在している。閉じられ、自由を奪われた空間から外に出たいとは認知症だからではなく誰でも思うことではないか。
実習の最終日のケース会議で私は、安心ということについて実習で感じたことを話した。それに対して現場の主任は、「不安というものは、その人の価値観と現実との間にズレが生じたときに起こるものだと考えている。そのため、ズレが起きないよう、いつも同じようなケアができることが必要だ。」と言われた。さらに「認知症の方と接しているとこちらの価値観がズレてくる。」と話されていた。そして「私たちも将来あのようになるのかもしれない。」と笑っていた。どこか既存の価値観にズレが生じることは避けるという固い姿勢と、認知症をズレを生じさせる怖い存在として捉えているのを感じた。
職員は認知症の人と接することによって自分たちの価値観がずれることを怖がって不安を持っている。だから扉の向こうに別れて過ごすのだろう。入居者と接すると価値観がずれるので危ないという不安がそこにあるなら、それが錠になって「扉」が開けられる可能性はなくなる。
知識も技術も経験も不足している学生の実習は不安に満ちている。自分の価値観は揺さぶられ続ける。その立場の私は現場で認知症に怯えて扉を開けようとしない職員の不安を目の当たりにして、さらに揺さぶられた。だから、実習中にはこの「錠」を見つけることができなかった。職員が自分の心の錠を見ないようにしているように、私も、私自身の「錠」と向きあうことを避け職員の「錠」を見ないようにしてしまったのかもしれない。
自分と違うものや、異質ななにかと出会うと人は不安を感じるものだ。職員は、自分が揺るがされないように「認知症」の入居者を、自分とは違う異物として排除したうえで介護しようとしているのだ。それではさらに不安が増大し、「心の扉」に「錠」が固く掛けられることになる。
私は、「学生」として、職員の方のことを「指導者」の位置に置いていた。それゆえに不安が生まれ、「錠」に気づくことができなかった。そのような中でも、入居者は、「入居者」でも「認知症」でもなく、一人の「人」としていてくれたことに今気がつく。
実習が終わってしばらく経った今になって私にも「錠」が見えてきた。そしてその錠を開ける「鍵」を見つけたい。錠をはずし扉を開き両者を繋ぐ鍵はどこにあるのか。それを探す旅が私の中で始まった。
実習後、他の実習施設から戻ってきた学校の級友達と話した。私が感じた分かれた扉を感じた学生も多くいた。学校の実習報告会で「あんな職員にはなりたくない」と明言する学生も少なくなかった。福祉の現場には私の感じたあの思い「扉」が確かに存在するのだ。しかし、「あんな職員になりたくない」という攻撃だけでは、現場の不安を取り除き、隔たれた両者を繋ぐための「鍵」とは成り得ない。
実習後、私は、銀河の里の理事長と面談を始めた。「私は介護をやりたいのではなく介護福祉をやりたいのだ」だから福祉を勉強したいと言った。すると理事長は、「そこには鍵はないね」と即座に明言するので戸惑う私に「神話を学ぶといい。おそらくそこに鍵はあるよ」という。あまりにかけ離れた話しに驚いていると、中沢新一のカイエソバージュの第1巻を本棚から取り出してきて差し出された。
「人間や社会への本質的なまなざしを持ってアプローチしないと、対処療法しかできなくなって目に見えない大切ななにかを損なってしまう。」というのだが、ピンとは来なかった。しかしだまされたつもりで「鍵」を見つけたい足掻きもありその本を読んでみた。それは、鍵を探る旅に出たばかりの私には、新鮮でまばゆいものとして感じられた。ほのかな一条の光を見いだしたようなその内容を、次回に紹介したい。 続く
育つと言うこと ★施設長補佐 戸來淳博【2011年2月号】
銀河の里に特養が開設して2年を過ぎようとしている。この間、立ち上げに苦闘してきた。今までにない悪戦苦闘だったと思う。銀河の里に必要なのは「人」だと思う。何よりも人が重要なのだが、その人がいないというのが苦闘の中身だ。つまりどんな人でもいいというわけにはいかない、誰でもいいわけではない。むしろ選りすぐりのセンスと資質を持ち、情熱に満ちた優秀な人材が欲しいのだが、そういう人はほとんどいないと言う現状がある。特養のスタートは、今思えば、ユニットケアの意味さえ理解できない、そういうことに興味も関心もない人が大半といったなかでの始まりだった。
介護現場では集団介護の管理と支配が基本で、人間に対する処理と扱いが荒れ狂う。そこを考えようと言うと「ストレスになる」と言われ、教えようとすると反発がきた。結果利用者の個性も人生も見えてこない。利用者が作業をされる対象としてしか存在できない状況が続くのはいたたまれないものがあった。
二年目は初年度の反省もふまえ、新卒や介護の未経験者の職員を受け入れ、集団介護の経験者の意識を変えるよりは、まっさらの人が育ちやすいのではないかという期待を込めた。これはいくらか功を奏したのだがそれでも達成率は30パーセント程度だろうか。
介護作業は誰でもやれるようにはなるのだが、問題はその先にある。人間や人生への深いまなざしが持てるかどうかが決め手になってくる。その上でコミュニケーション能力や危機管理能力など、統合的な人間の能力が求められる。
初年度の大混乱を越え、二年目の期待の新人のひとりに三浦君がいた。専門学校卒業の20歳。やや小柄だがイケメンで意見もしっかり言えるので期待は高かった。ところが、現場に入ってみるとなんだこりゃの連続だった。
グループホームの利用者コラさん(仮名)は、職員の人柄で自分の運命が決まるとばかり、新人をみる目は鋭い。そのコラさんが三浦君を評して言ったのは「育たねんでねえっか」だった。人間の器を見抜く目利きのコラさんに言わせると、彼は若さの勢いはあるものの、軽薄で、内容に深みがないと言うわけだ。
やる気も、情熱もあるので、なんとか育って欲しいと個人的に飲みに誘ったら、「キャバクラですか」などと言うので、クビを絞めたくなる感じだった。現場でもいろいろ食い違うので話しをするのも嫌になるほどだった。
どうなるんだろうかと不安だったが、そこに利用者龍治さん(仮名)86歳、元は会社の幹部で、社員教育の担当者だったという方の活躍があった。その龍治さんが三浦君をとらえた。龍治さんはナースコールの帝王だった。一日中なん100回と部屋からコールがあるため、「俺はあんたの奴隷じゃない」などと暴言を吐く職員もいたらしい。ナースコールの線を引き抜く暴挙も行われていたという。そんな中で、三浦君は呼ばれる度に部屋に行った。「おまえじゃだめだ」とさらにナースコールを鳴らすなど結構きつかった。傷つきながらも、へこたれないでアプローチを繰り返していった。
この頃、「どうすればいいでしょう」と困惑する三浦君に、理事長は「龍治さんがあなたを育ててくれるんだ。食らいついていけ」と言った。そして「自分の死期が近いことを知っていて、その寂しさや怖さから、そうやってあがいているんじゃないんだろうか」と話し合っている。
三浦君はどこか龍治さんのことが好きだったのか、罵倒されたり、ときには殴られたりしながらも、食らいついていった。やがて龍治さんも、頼りにならない若輩者の三浦君を、小馬鹿にしながらも受け入れてくれるようになった。
月日が過ぎるにしたがって、二人の関係は深まっていった。「いいか、俺がおまえを育ててやるからな」とはっきり語ったのである。次第に龍治さんも、三浦君に甘えたり、弱音を吐いたりしてくれるようになる。そして11月の通信の三浦君の記事のとおり、「自分の入る墓を見ておきたい」という龍治さんと嵐の墓参りが実現したのだった。
その墓参りから一ヶ月が過ぎた頃、急に様態を崩し救急車で入院となった。三浦君は救急車の後を追って車で病院に行った。その後も病状は予断を許さず、2ヶ月の入院が続いた。三浦君は元気が無く、「龍治さんがいないとだめだ」と理事長にこぼしたという。病院のお見舞いに毎週行っていたが、病状は一進一退を繰り返していた。
もしかしたらもう戻ってこれないかも知れないと不安がつのっていた矢先、娘さんから退院の許可がでたという連絡が入った。龍治さん本人も、御家族も退院を望んでいたので、この期を逃さないように病院側も「今しかない」との判断があったのだろう。
急遽の退院に、ちょうどその日、休みだった三浦君が迎えに行くことになった。迎えを待ちながら「来るのは戸來さんじゃないか?」と言う娘さんに、「いや三浦ダイコンが来る!」と確信に満ちて語っていたそうだ。
ギリギリの状態ながら銀河の里に戻ってきてくれた。しかし龍治さんの食事は進まなかった。「もう食べたくない」「体が痛い」とベットで寝ている時間が長かった。このままではまた入院になるので、なんとか食べてもらえるよう祈るような気持ちだった。
その日の夕方、三浦君が、辛い表情で話しかけてきた。「龍治さんの退院祝いをしたいんですけど、食事があまり進まなくて、無理やり口に入れても、食べさせられている感じだし、どうしたらいいのか解らない」と悩んでいる。しかし、今の状態で栄養が摂れないと、死と直結してくる。
「何か、食べたい!っていってくれるもの、おいしいって言ってくれるものを用意しよう。龍治さんに『おいしい!』って言わせたいだろ。まだここでやっていきたいだろ!」と私もハッパをかける。そこにいた前川さんが「よく“高権(たかごん)ラーメン”が食べたいって言ってたよね。」と言う。三浦君は「・・・ちょっと色々用意してみます。」と事務所を出て行った。彼はその足で高権ラーメンに向かい、「ラーメンを作ってほしい。どうしても食べさせたい人がいる」とお店の人に頼んだのだった。もちろん高権ラーメンでもそんな注文はいままでなかっただろう。彼は、食事が摂れなくなった入居者さんがいて、その人は以前から高権のラーメンをもう一度食べてみたいと言っていた事を話した。すると高権の親父さんは、そういうことかと「解った、お金はいらないから持って行け!」とすぐに準備をしてくれた。
親父さんの粋な計らいに感激しながらお礼を言って立ち去ろうとすると、親父さんは「うちのラーメンを食べたいと言ってくれたその人の名前を教えてくれないか。」と言う。「龍治さんという人です。」と伝えると、「おお龍治さんか!よく知っている」と言うのでその繋がりに驚き再び感動した。
こうして念願の高権ラーメンが届けられ、退院祝いが催された。三浦君がゆでた高権ラーメンが目の前に運ばれ「退院おめでとう。」の声が上がる。龍治さんは言葉はないが、手でありがとうの仕草。三浦君が手を伸ばすと握手をしてくれた。そして皆が注目する中、自分で箸を持ち、麺を口に運んでくれたではないか。周りからどよめきがあがる中、龍治さんは無言で頑張っている。二口目を口に入れたいのだが、力がなく麺を持ち上げられない。三浦君がどんぶりを持って手伝うと、一口、一口ゆっくりと食べてくれる。そして無言のまま、目を閉じ首を横に振る。そこで「俺も食べていい?」と聞くと龍治さんはうなずく。一口たべて「うまい!!」と叫ぶ。その時だった、ずっと無言だった龍治さんが三浦君に向かって「うまいか!!!!?」と迫力の声と形相で声を発した。凄い迫力だった。
翌日も龍治さんは食事を摂れないでいた。三浦君はベットの横で食事をとっていた。「隣で自分が食べたら、食べてくれるかと思って・・・。」と残念そう。寝ている時間が多くなり、口に入れれば飲み込んでくれるのだがおいしいとは言ってくれない。「どうしていいかわからない・・・」とまた悩んでいた。
その日の夕方、笑顔満面で「龍治さん、食べてくれました。」と伝えに来た。「もぉ〜、食べたくないよぉ〜」と奥さんと娘さんの名前を呼んで甘えた感じで語ってくれたと言う。「そんなところも龍治さんらしくて嬉しいな。」と語る三浦君に、たくましさを感じた。
翌日の昼、龍治さんの呼吸が荒くなり再入院となった。入院の数時間後、急変の連絡が入り夕方亡くなられた。
三浦君は病院にかけつけお別れをした。死の直前の4日前によくぞ退院して帰って来てくれたものだと思う。後から考えると、まさに三浦君の為に帰ってきてくれたとしか思えない。スタッフの「お帰り」の声かけにも、一切無言の龍治さんが、三浦君の名前を出したとたんに反応した。「俺がおまえを育ててやる」と明言していた龍治さんは彼になにかを伝える必要があったのだろう。三浦君は一生支え続けられるなにかを龍治さんから受け取ったはずだ。また、人生の最後に、育てるべき若者を得た龍治さんも幸せだったに違いない。
葬儀には三浦君に参加してもらった。里の代表としてはちょっと若すぎて場違いではあったかも知れないが、ここは彼でしかあり得なかった。
理事長は、銀河の里は本質的には「教育機関」だという。「我々は利用者からしか学べないのだ」とも。銀河の里では利用者を対象化して、介護を作業としてこなす非人間的な立場に立つのではなく、一人一人との関係性に真摯に向き合い、そこに起こってくるプロセスを丁寧に生きることが大切だと考えてきた。その中で、「生きる」と言うことを学び、人間や人生について発見したり、考えていく仕事をしていきたい。
「面倒を見る」じゃなくて「学ぶんだ」というのだから、考えや、まなざしは既存の介護業界の常識とは真逆である。かなり異端に感じられるだろうが、この方向にしか未来への希望や夢は見いだし得ないと思う。今時の軽薄な少年を龍治さんが育ててくれた過程を目の当たりにしてきた。そこには三浦君にとって介護者になるためのイニシエーションがあったと思う。そして彼はこの先の人生の節々に、龍治さんが伝えてくれた大切なものをかみしめるのではないだろうか。
介護現場では集団介護の管理と支配が基本で、人間に対する処理と扱いが荒れ狂う。そこを考えようと言うと「ストレスになる」と言われ、教えようとすると反発がきた。結果利用者の個性も人生も見えてこない。利用者が作業をされる対象としてしか存在できない状況が続くのはいたたまれないものがあった。
二年目は初年度の反省もふまえ、新卒や介護の未経験者の職員を受け入れ、集団介護の経験者の意識を変えるよりは、まっさらの人が育ちやすいのではないかという期待を込めた。これはいくらか功を奏したのだがそれでも達成率は30パーセント程度だろうか。
介護作業は誰でもやれるようにはなるのだが、問題はその先にある。人間や人生への深いまなざしが持てるかどうかが決め手になってくる。その上でコミュニケーション能力や危機管理能力など、統合的な人間の能力が求められる。
初年度の大混乱を越え、二年目の期待の新人のひとりに三浦君がいた。専門学校卒業の20歳。やや小柄だがイケメンで意見もしっかり言えるので期待は高かった。ところが、現場に入ってみるとなんだこりゃの連続だった。
グループホームの利用者コラさん(仮名)は、職員の人柄で自分の運命が決まるとばかり、新人をみる目は鋭い。そのコラさんが三浦君を評して言ったのは「育たねんでねえっか」だった。人間の器を見抜く目利きのコラさんに言わせると、彼は若さの勢いはあるものの、軽薄で、内容に深みがないと言うわけだ。
やる気も、情熱もあるので、なんとか育って欲しいと個人的に飲みに誘ったら、「キャバクラですか」などと言うので、クビを絞めたくなる感じだった。現場でもいろいろ食い違うので話しをするのも嫌になるほどだった。
どうなるんだろうかと不安だったが、そこに利用者龍治さん(仮名)86歳、元は会社の幹部で、社員教育の担当者だったという方の活躍があった。その龍治さんが三浦君をとらえた。龍治さんはナースコールの帝王だった。一日中なん100回と部屋からコールがあるため、「俺はあんたの奴隷じゃない」などと暴言を吐く職員もいたらしい。ナースコールの線を引き抜く暴挙も行われていたという。そんな中で、三浦君は呼ばれる度に部屋に行った。「おまえじゃだめだ」とさらにナースコールを鳴らすなど結構きつかった。傷つきながらも、へこたれないでアプローチを繰り返していった。
この頃、「どうすればいいでしょう」と困惑する三浦君に、理事長は「龍治さんがあなたを育ててくれるんだ。食らいついていけ」と言った。そして「自分の死期が近いことを知っていて、その寂しさや怖さから、そうやってあがいているんじゃないんだろうか」と話し合っている。
三浦君はどこか龍治さんのことが好きだったのか、罵倒されたり、ときには殴られたりしながらも、食らいついていった。やがて龍治さんも、頼りにならない若輩者の三浦君を、小馬鹿にしながらも受け入れてくれるようになった。
月日が過ぎるにしたがって、二人の関係は深まっていった。「いいか、俺がおまえを育ててやるからな」とはっきり語ったのである。次第に龍治さんも、三浦君に甘えたり、弱音を吐いたりしてくれるようになる。そして11月の通信の三浦君の記事のとおり、「自分の入る墓を見ておきたい」という龍治さんと嵐の墓参りが実現したのだった。
その墓参りから一ヶ月が過ぎた頃、急に様態を崩し救急車で入院となった。三浦君は救急車の後を追って車で病院に行った。その後も病状は予断を許さず、2ヶ月の入院が続いた。三浦君は元気が無く、「龍治さんがいないとだめだ」と理事長にこぼしたという。病院のお見舞いに毎週行っていたが、病状は一進一退を繰り返していた。
もしかしたらもう戻ってこれないかも知れないと不安がつのっていた矢先、娘さんから退院の許可がでたという連絡が入った。龍治さん本人も、御家族も退院を望んでいたので、この期を逃さないように病院側も「今しかない」との判断があったのだろう。
急遽の退院に、ちょうどその日、休みだった三浦君が迎えに行くことになった。迎えを待ちながら「来るのは戸來さんじゃないか?」と言う娘さんに、「いや三浦ダイコンが来る!」と確信に満ちて語っていたそうだ。
ギリギリの状態ながら銀河の里に戻ってきてくれた。しかし龍治さんの食事は進まなかった。「もう食べたくない」「体が痛い」とベットで寝ている時間が長かった。このままではまた入院になるので、なんとか食べてもらえるよう祈るような気持ちだった。
その日の夕方、三浦君が、辛い表情で話しかけてきた。「龍治さんの退院祝いをしたいんですけど、食事があまり進まなくて、無理やり口に入れても、食べさせられている感じだし、どうしたらいいのか解らない」と悩んでいる。しかし、今の状態で栄養が摂れないと、死と直結してくる。
「何か、食べたい!っていってくれるもの、おいしいって言ってくれるものを用意しよう。龍治さんに『おいしい!』って言わせたいだろ。まだここでやっていきたいだろ!」と私もハッパをかける。そこにいた前川さんが「よく“高権(たかごん)ラーメン”が食べたいって言ってたよね。」と言う。三浦君は「・・・ちょっと色々用意してみます。」と事務所を出て行った。彼はその足で高権ラーメンに向かい、「ラーメンを作ってほしい。どうしても食べさせたい人がいる」とお店の人に頼んだのだった。もちろん高権ラーメンでもそんな注文はいままでなかっただろう。彼は、食事が摂れなくなった入居者さんがいて、その人は以前から高権のラーメンをもう一度食べてみたいと言っていた事を話した。すると高権の親父さんは、そういうことかと「解った、お金はいらないから持って行け!」とすぐに準備をしてくれた。
親父さんの粋な計らいに感激しながらお礼を言って立ち去ろうとすると、親父さんは「うちのラーメンを食べたいと言ってくれたその人の名前を教えてくれないか。」と言う。「龍治さんという人です。」と伝えると、「おお龍治さんか!よく知っている」と言うのでその繋がりに驚き再び感動した。
こうして念願の高権ラーメンが届けられ、退院祝いが催された。三浦君がゆでた高権ラーメンが目の前に運ばれ「退院おめでとう。」の声が上がる。龍治さんは言葉はないが、手でありがとうの仕草。三浦君が手を伸ばすと握手をしてくれた。そして皆が注目する中、自分で箸を持ち、麺を口に運んでくれたではないか。周りからどよめきがあがる中、龍治さんは無言で頑張っている。二口目を口に入れたいのだが、力がなく麺を持ち上げられない。三浦君がどんぶりを持って手伝うと、一口、一口ゆっくりと食べてくれる。そして無言のまま、目を閉じ首を横に振る。そこで「俺も食べていい?」と聞くと龍治さんはうなずく。一口たべて「うまい!!」と叫ぶ。その時だった、ずっと無言だった龍治さんが三浦君に向かって「うまいか!!!!?」と迫力の声と形相で声を発した。凄い迫力だった。
翌日も龍治さんは食事を摂れないでいた。三浦君はベットの横で食事をとっていた。「隣で自分が食べたら、食べてくれるかと思って・・・。」と残念そう。寝ている時間が多くなり、口に入れれば飲み込んでくれるのだがおいしいとは言ってくれない。「どうしていいかわからない・・・」とまた悩んでいた。
その日の夕方、笑顔満面で「龍治さん、食べてくれました。」と伝えに来た。「もぉ〜、食べたくないよぉ〜」と奥さんと娘さんの名前を呼んで甘えた感じで語ってくれたと言う。「そんなところも龍治さんらしくて嬉しいな。」と語る三浦君に、たくましさを感じた。
翌日の昼、龍治さんの呼吸が荒くなり再入院となった。入院の数時間後、急変の連絡が入り夕方亡くなられた。
三浦君は病院にかけつけお別れをした。死の直前の4日前によくぞ退院して帰って来てくれたものだと思う。後から考えると、まさに三浦君の為に帰ってきてくれたとしか思えない。スタッフの「お帰り」の声かけにも、一切無言の龍治さんが、三浦君の名前を出したとたんに反応した。「俺がおまえを育ててやる」と明言していた龍治さんは彼になにかを伝える必要があったのだろう。三浦君は一生支え続けられるなにかを龍治さんから受け取ったはずだ。また、人生の最後に、育てるべき若者を得た龍治さんも幸せだったに違いない。
葬儀には三浦君に参加してもらった。里の代表としてはちょっと若すぎて場違いではあったかも知れないが、ここは彼でしかあり得なかった。
理事長は、銀河の里は本質的には「教育機関」だという。「我々は利用者からしか学べないのだ」とも。銀河の里では利用者を対象化して、介護を作業としてこなす非人間的な立場に立つのではなく、一人一人との関係性に真摯に向き合い、そこに起こってくるプロセスを丁寧に生きることが大切だと考えてきた。その中で、「生きる」と言うことを学び、人間や人生について発見したり、考えていく仕事をしていきたい。
「面倒を見る」じゃなくて「学ぶんだ」というのだから、考えや、まなざしは既存の介護業界の常識とは真逆である。かなり異端に感じられるだろうが、この方向にしか未来への希望や夢は見いだし得ないと思う。今時の軽薄な少年を龍治さんが育ててくれた過程を目の当たりにしてきた。そこには三浦君にとって介護者になるためのイニシエーションがあったと思う。そして彼はこの先の人生の節々に、龍治さんが伝えてくれた大切なものをかみしめるのではないだろうか。
新人奮闘記 その1 ★特別養護老人ホーム 三浦元司【2011年2月号】
学生時代は、友達、先輩、先生と会話ができていることで繋がっていると思っていた。携帯電話でメールしていれば良き相談者、良き理解者だと思っていた。しかし、社会人になって銀河の里で働くようになって今までの考えがずいぶん浅かったと感じるようになった。
スタッフとなかなか気持ちが通じない。日々、人と“繋がる”ことがこれほどまでに難しいのかと思い知った。なんとか自分からアクションを起こすことで場を凌いでいたのだが、苦しくて、思い悩む日も少なくなかった。
救われたのは利用者の存在だった。ユニット北斗にはめちゃくちゃにちぎってきて「バカ!」と怒鳴るおばあちゃんや、いつも大声で笑ってくれるおじいちゃん、オリジナルの歌を完璧に覚えるまでレクチャーしてくれるおばあちゃんなど、個性豊かでアクションを起こしてくれる利用者さんに救われた。
今ふり返ると、着任当初の自分は、利用者さんの動き・言葉・表情を表面的に見ているだけで、浅い見方と考えでしかなかったように思う。
仕事を始めて1ヶ月も経つと、作業や利用者さんの特徴などは覚えてくるので、余計な緊張や戸惑いが消えて動きは良くなっていく。自分もだいたいの利用者さんとは楽しく話すことができるようになったが、龍治さん(仮名)は他の利用者さんとは違って、なかなかなじめず戸惑っていた。龍治さんは無口で、話しても冷たい口調だった。いつも腕を組み、リビングの動きをジッと見ていた。そして、居室にいるときは、朝から晩まで何回となく「おーい、おーい!!」と職員を呼ぶ。呼ばれて行っても何を言いたいのか、何で怒鳴っているかが分からず、正直、戸惑うばかりだった。
そんなある日、龍治さんが呼ぶので居室に行くと「換えてくれ!」と初めて要件を頼んでもらえた。よしとばかり、オムツ交換の準備をし、いざ交換しようとすると手を払いのけられた。そして、「お前じゃない。違う人に頼んでくれ!」と言われた。「なんでオレじゃ駄目なの!?おれも出来るから!」と思わず龍治さんにぶつけたのだが聞いてはもらえなかった。龍治さんは怒り狂って「早くしろ!」と大声で他のスタッフを呼んだ。情けない思いで、しかたなくベテランのスタッフに任せるしかなかった。
こんな事もあって、自分の中では龍治さんとの距離を感じたのだが、なぜか龍治さんはその日から、呼ぶ回数がさらに増えて、行く度に泣いたり、怒鳴ったりしてくるので…喜怒哀楽が激しい人だと戸惑うばかりだった。ところがそうした戸惑いと同時に、自分は龍治さんにどこか惹かれ興味を持っていったように思う。
呼ばれる度に部屋に行くようにしているうちに、龍治さんも色々と話しをしてくれるようになった。龍治さんは政治や経済から、音楽や、果ては女性とのつきあい方まで色々と話してくれるようになり、2人で居室で話し込む時間が多くなった。
ある日龍治さんが「桜の時期か…。富士大の桜並木、描けなかったな…。」と呟いた。どういうことかよくよく聞いてみると、退職後、花巻の風景画を描いてきたらしく、一端の絵かきだということが解った。
自分はそれを聞いてすぐ“描いてほしい!!”と思い、富士大の桜の写真を撮ってきた。これで龍治さんが、絵を描くに違いないと思っていたが、写真を持って行っても目を閉じたままで見てくれない。居室にこもり、「今、忙しいから。」とリビングに出てくることも減っていった。思いこみが外れた自分は焦った。“絵を描き始めるきっかけがないのかな”と思い、ぬり絵帳を龍治さんの部屋に持っていって渡した。龍治さんはフッと不敵な感じの笑いを浮かべて塗り絵帳をとろうともせず「お前がやってみろ。」と言った。言われた通りに自分が色をぬって見せると「なかなか、うまいじゃないか。」と言われ、褒められた気でいた。理事長にそのことを話すと「オイオイ絵描きに対して、ぬり絵をはないだろ。」と自分の浅はかさを突かれてしまった。「写真じゃ描かないだろう」とも。自分は相当場違いなことをやっているらしいと気づかされて、申し訳なく思い、翌日、龍治さんに謝りに行った。龍治さんは「いいよ、いいよ。」と笑って言ってくれたが、どこか怒っていたようにも見えた。その日ちょうど龍治さんの描いた作品が届いて北斗に飾られた。その絵を見て改めて自分のトンチンカンを思い知らされるようだった。
「オレは、まず鉛筆で下書きをしてから色を入れる。絵には絶対に紫を使うのが特徴だな…。」と龍治さんは語ってくれる。そんな話しを聞きながら、よかれと思ってやったことだが、すごい失礼なことで、侮辱に近いことだったかも知れないとようやく気がついた。
介護士としてお世話してあげようなどという浅はかで傲慢な自分が見透かされ、砕け散ったような気がした。
そんなある日、いつものように龍治さんに呼ばれて部屋で話し込んでいると、龍治さんが言った「いいか俺がおまえを育ててやるからな」その言葉に驚いたがとても嬉しかった。そして素直に「この人について行きたい」と思える自分がいた。 次回に続く
スタッフとなかなか気持ちが通じない。日々、人と“繋がる”ことがこれほどまでに難しいのかと思い知った。なんとか自分からアクションを起こすことで場を凌いでいたのだが、苦しくて、思い悩む日も少なくなかった。
救われたのは利用者の存在だった。ユニット北斗にはめちゃくちゃにちぎってきて「バカ!」と怒鳴るおばあちゃんや、いつも大声で笑ってくれるおじいちゃん、オリジナルの歌を完璧に覚えるまでレクチャーしてくれるおばあちゃんなど、個性豊かでアクションを起こしてくれる利用者さんに救われた。
今ふり返ると、着任当初の自分は、利用者さんの動き・言葉・表情を表面的に見ているだけで、浅い見方と考えでしかなかったように思う。
仕事を始めて1ヶ月も経つと、作業や利用者さんの特徴などは覚えてくるので、余計な緊張や戸惑いが消えて動きは良くなっていく。自分もだいたいの利用者さんとは楽しく話すことができるようになったが、龍治さん(仮名)は他の利用者さんとは違って、なかなかなじめず戸惑っていた。龍治さんは無口で、話しても冷たい口調だった。いつも腕を組み、リビングの動きをジッと見ていた。そして、居室にいるときは、朝から晩まで何回となく「おーい、おーい!!」と職員を呼ぶ。呼ばれて行っても何を言いたいのか、何で怒鳴っているかが分からず、正直、戸惑うばかりだった。
そんなある日、龍治さんが呼ぶので居室に行くと「換えてくれ!」と初めて要件を頼んでもらえた。よしとばかり、オムツ交換の準備をし、いざ交換しようとすると手を払いのけられた。そして、「お前じゃない。違う人に頼んでくれ!」と言われた。「なんでオレじゃ駄目なの!?おれも出来るから!」と思わず龍治さんにぶつけたのだが聞いてはもらえなかった。龍治さんは怒り狂って「早くしろ!」と大声で他のスタッフを呼んだ。情けない思いで、しかたなくベテランのスタッフに任せるしかなかった。
こんな事もあって、自分の中では龍治さんとの距離を感じたのだが、なぜか龍治さんはその日から、呼ぶ回数がさらに増えて、行く度に泣いたり、怒鳴ったりしてくるので…喜怒哀楽が激しい人だと戸惑うばかりだった。ところがそうした戸惑いと同時に、自分は龍治さんにどこか惹かれ興味を持っていったように思う。
呼ばれる度に部屋に行くようにしているうちに、龍治さんも色々と話しをしてくれるようになった。龍治さんは政治や経済から、音楽や、果ては女性とのつきあい方まで色々と話してくれるようになり、2人で居室で話し込む時間が多くなった。
ある日龍治さんが「桜の時期か…。富士大の桜並木、描けなかったな…。」と呟いた。どういうことかよくよく聞いてみると、退職後、花巻の風景画を描いてきたらしく、一端の絵かきだということが解った。
自分はそれを聞いてすぐ“描いてほしい!!”と思い、富士大の桜の写真を撮ってきた。これで龍治さんが、絵を描くに違いないと思っていたが、写真を持って行っても目を閉じたままで見てくれない。居室にこもり、「今、忙しいから。」とリビングに出てくることも減っていった。思いこみが外れた自分は焦った。“絵を描き始めるきっかけがないのかな”と思い、ぬり絵帳を龍治さんの部屋に持っていって渡した。龍治さんはフッと不敵な感じの笑いを浮かべて塗り絵帳をとろうともせず「お前がやってみろ。」と言った。言われた通りに自分が色をぬって見せると「なかなか、うまいじゃないか。」と言われ、褒められた気でいた。理事長にそのことを話すと「オイオイ絵描きに対して、ぬり絵をはないだろ。」と自分の浅はかさを突かれてしまった。「写真じゃ描かないだろう」とも。自分は相当場違いなことをやっているらしいと気づかされて、申し訳なく思い、翌日、龍治さんに謝りに行った。龍治さんは「いいよ、いいよ。」と笑って言ってくれたが、どこか怒っていたようにも見えた。その日ちょうど龍治さんの描いた作品が届いて北斗に飾られた。その絵を見て改めて自分のトンチンカンを思い知らされるようだった。
「オレは、まず鉛筆で下書きをしてから色を入れる。絵には絶対に紫を使うのが特徴だな…。」と龍治さんは語ってくれる。そんな話しを聞きながら、よかれと思ってやったことだが、すごい失礼なことで、侮辱に近いことだったかも知れないとようやく気がついた。
介護士としてお世話してあげようなどという浅はかで傲慢な自分が見透かされ、砕け散ったような気がした。
そんなある日、いつものように龍治さんに呼ばれて部屋で話し込んでいると、龍治さんが言った「いいか俺がおまえを育ててやるからな」その言葉に驚いたがとても嬉しかった。そして素直に「この人について行きたい」と思える自分がいた。 次回に続く
厨房奮闘紀 その参 里の田んぼから食卓まで ★厨房 小野寺祥【2011年2月号】
【食の起承転結全てを体験】 “作詞+作曲+演奏”
世間一般的には、栄養士は献立を作り、厨房の調理員が給食を作り、盛り付け、そして介護士が食事を担当する。
そうした縦割り的な役割分担は里にはない。みんなで田んぼで米を作るぞと言うところから始まる。畑では野菜を育てる。そこから我々栄養士が献立をたてる。その献立を自分でも調理し、盛りつける。そしてユニットに入り一緒に食卓を囲む。利用者の喫食状況を実際に見るし、食事介助にも入る。
大変なように思われるかも知れないが、この全体をやれるのが面白い。自分が作る献立を中心に田んぼや畑があり、耕し、育て収穫し、調理して、利用者と一緒に食べて、直接聞いて見て、そして献立に活かす。分断作業じゃないから、自分が社会の歯車のひとつなんて寂しさがない。こんな貴重な経験は他ではあり得ないだろう。“作詞+作曲+演奏”と音楽でいえばそんな感じだろうか。
一日一日の食事は一種の作品だ。その作品は栄養士が献立作りだけに留まっていてはできない。役割は果たせても自分自身の作品という実感は持てないだろう。献立に対する想い、形、色、におい、温度が自分のなかにあり、それらひとつひとつに自分のプライドをにじませたい。自分オリジナルの作品づくりが里ではできる。最初から最後まで自分が加わることで自信と誇りを持って食事を提供することができる。
スーパーには一年中何でもある。真冬に真っ赤なトマトが手に入る。異様だけどそれが今は普通だ。でもトマトは真夏の暑い日にギンギンに冷やしたものをかぶりつくのが一番おいしい。里は、田植えから稲刈りまでみんなやって、秋には新米をいただく。起承転結の全部を体験する、現代ではこれって貴重なことだと思う。
里の厨房は就労支援事業所ワークステージ利用者との切り盛りで出来上がっている。「これ、私が採ったんだよ」と笑顔で厨房に大葉や葉ねぎを持ってきてくれる昌子ちゃん(仮名)。いつも自分が切ったものは「これ、何になるの?」ときいてくれる瑞枝ちゃん(仮名)。自分が作ったものが給食にでるのがとても嬉しいに違いない。亜美ちゃん(仮名)もデザートのゼリーを作ってくれて分けるときに、一個一個計り、一緒にやると「59gから61gまでね」と細かい指示をしている。最近は「これならソフト食の人も食べれると思うんだけど・・・」とソフト食の人のことも考えておやつ作りをしている。
厨房で唯一の男性の大原くん(仮名)。食器洗いも、野菜の切り方も丁寧。あんまんの包み方もみんなの指導役。ユニットの盛り付けにも入り、セイ子さん(仮名)の横にそっと座って、こくこく眠ってしまいそうなセイ子さんに怒られないように肩をちょんちょん叩いて起こしてくれる。そんなワークステージのひとりひとりの活躍で厨房は動いている。
【食卓を囲んで、“おいしい”でつながる】
食事の時間は、大切な時間だ。他の時間とは違う雰囲気、違う表情が見られる。みんなでおかずを盛りつけて、こっちが多い、こっちが少ないで諍いがあったり、ご飯の量も繊細だ。「べっこはいでけで」とすばるのユキさん(仮名)はいつも言う。そう言うのを聞きたくていつもちょっと多めに盛る。「べっこはいでけで」。「盛りすぎた」「んだ、おめぇいっつもいっぱい盛ってくるもの」とそのやり取りが楽しい。カレーや、シチューは机の上にどんっ!!と置き、カセットコンロで温めて、セルフに。みんなちょっといつもよりも食べすぎ気味になる。
先日、厨房を出てユニットのキッチンで、昼食を作った。野菜を切る音がリビングに広がる。食事の準備の音や香りは、本当はすごく意味があるんじゃないだろうか。違った利用者さんの表情が見られる。オリオンの紀子さん(仮名)が完食してくれた。「紀子さん全部食べてくれたの!?」と驚いて言う。「うめぇもの全部食べちゃだめだってか?」と笑いながら答えてくれる。みんなでごはんを作ってみんなで食べる。そこには大きな力があり、そこには思いがけない色んなことが動いているようだ。
「給食じゃない食事」を目指そうと銀河の里の厨房は、駆け出しの我々を中心に挑戦をしている。食卓を囲んで、みんなが料理を味わいながら話に花をさかせたり、のんびりしたり。「あんたぎっちょなの?だめねぇ」と言われむきになって時間をかけて右手で食べてみたり・・・。毎日毎日違う何かが起こる。それを発見するのが楽しくてしょうがない。食事は、食べるだけじゃないことが徐々に解ってきた。栄養摂取という言葉もあるけれど、そんなことだけに特化して作業をして終わってはもったいないような気がする。そんなことを感じ始めたばかりだが、食へのこだわりと情熱を持って厨房からさまざまなことに挑戦していきたい。
世間一般的には、栄養士は献立を作り、厨房の調理員が給食を作り、盛り付け、そして介護士が食事を担当する。
そうした縦割り的な役割分担は里にはない。みんなで田んぼで米を作るぞと言うところから始まる。畑では野菜を育てる。そこから我々栄養士が献立をたてる。その献立を自分でも調理し、盛りつける。そしてユニットに入り一緒に食卓を囲む。利用者の喫食状況を実際に見るし、食事介助にも入る。
大変なように思われるかも知れないが、この全体をやれるのが面白い。自分が作る献立を中心に田んぼや畑があり、耕し、育て収穫し、調理して、利用者と一緒に食べて、直接聞いて見て、そして献立に活かす。分断作業じゃないから、自分が社会の歯車のひとつなんて寂しさがない。こんな貴重な経験は他ではあり得ないだろう。“作詞+作曲+演奏”と音楽でいえばそんな感じだろうか。
一日一日の食事は一種の作品だ。その作品は栄養士が献立作りだけに留まっていてはできない。役割は果たせても自分自身の作品という実感は持てないだろう。献立に対する想い、形、色、におい、温度が自分のなかにあり、それらひとつひとつに自分のプライドをにじませたい。自分オリジナルの作品づくりが里ではできる。最初から最後まで自分が加わることで自信と誇りを持って食事を提供することができる。
スーパーには一年中何でもある。真冬に真っ赤なトマトが手に入る。異様だけどそれが今は普通だ。でもトマトは真夏の暑い日にギンギンに冷やしたものをかぶりつくのが一番おいしい。里は、田植えから稲刈りまでみんなやって、秋には新米をいただく。起承転結の全部を体験する、現代ではこれって貴重なことだと思う。
里の厨房は就労支援事業所ワークステージ利用者との切り盛りで出来上がっている。「これ、私が採ったんだよ」と笑顔で厨房に大葉や葉ねぎを持ってきてくれる昌子ちゃん(仮名)。いつも自分が切ったものは「これ、何になるの?」ときいてくれる瑞枝ちゃん(仮名)。自分が作ったものが給食にでるのがとても嬉しいに違いない。亜美ちゃん(仮名)もデザートのゼリーを作ってくれて分けるときに、一個一個計り、一緒にやると「59gから61gまでね」と細かい指示をしている。最近は「これならソフト食の人も食べれると思うんだけど・・・」とソフト食の人のことも考えておやつ作りをしている。
厨房で唯一の男性の大原くん(仮名)。食器洗いも、野菜の切り方も丁寧。あんまんの包み方もみんなの指導役。ユニットの盛り付けにも入り、セイ子さん(仮名)の横にそっと座って、こくこく眠ってしまいそうなセイ子さんに怒られないように肩をちょんちょん叩いて起こしてくれる。そんなワークステージのひとりひとりの活躍で厨房は動いている。
【食卓を囲んで、“おいしい”でつながる】
食事の時間は、大切な時間だ。他の時間とは違う雰囲気、違う表情が見られる。みんなでおかずを盛りつけて、こっちが多い、こっちが少ないで諍いがあったり、ご飯の量も繊細だ。「べっこはいでけで」とすばるのユキさん(仮名)はいつも言う。そう言うのを聞きたくていつもちょっと多めに盛る。「べっこはいでけで」。「盛りすぎた」「んだ、おめぇいっつもいっぱい盛ってくるもの」とそのやり取りが楽しい。カレーや、シチューは机の上にどんっ!!と置き、カセットコンロで温めて、セルフに。みんなちょっといつもよりも食べすぎ気味になる。
先日、厨房を出てユニットのキッチンで、昼食を作った。野菜を切る音がリビングに広がる。食事の準備の音や香りは、本当はすごく意味があるんじゃないだろうか。違った利用者さんの表情が見られる。オリオンの紀子さん(仮名)が完食してくれた。「紀子さん全部食べてくれたの!?」と驚いて言う。「うめぇもの全部食べちゃだめだってか?」と笑いながら答えてくれる。みんなでごはんを作ってみんなで食べる。そこには大きな力があり、そこには思いがけない色んなことが動いているようだ。
「給食じゃない食事」を目指そうと銀河の里の厨房は、駆け出しの我々を中心に挑戦をしている。食卓を囲んで、みんなが料理を味わいながら話に花をさかせたり、のんびりしたり。「あんたぎっちょなの?だめねぇ」と言われむきになって時間をかけて右手で食べてみたり・・・。毎日毎日違う何かが起こる。それを発見するのが楽しくてしょうがない。食事は、食べるだけじゃないことが徐々に解ってきた。栄養摂取という言葉もあるけれど、そんなことだけに特化して作業をして終わってはもったいないような気がする。そんなことを感じ始めたばかりだが、食へのこだわりと情熱を持って厨房からさまざまなことに挑戦していきたい。
わやわや北斗 ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2011年2月号】
忙しい特養にも昼下がりにポカッとあいた時間ができる。だいたいの高齢者施設ではこの時間は、職員と利用者がぱっかりと別々の世界に別れて、職員は世間話に盛り上がる時間、つまり利用者にとっては見捨てられる魔の時間帯になりがちだが、銀河の里では、ここを黄金の時間にしたい。
ある日の昼下がり、テーブルを囲んでセイ子さん(仮名)と歌を歌う。結構な音痴で、おまけにだみ声だが、高らかに歌ってくれるセイ子さんとすごす時間は至福の時だ。こちらの目をじっと見て、ときにリードして、ときに後から、一緒に歌ってくれる。セイ子さんのおおらかさにすっぽりと包まれているような感じになる。
数年前から銀河の里のデイサービスの頃から、辛口トークのわがままお姫様としてスター的存在だったセイ子さんだったが、特養に来てから利用者無関心派の職員から、やっかいな人として見られるのが腹立たしかった。新人を中心にセイ子さんの“らしさ”を解ってくれるチームができてきたときは嬉しかった! セイ子さんのユーモアあふれるセリフを聞き逃すまいと辛口トークに挑む。最近は口数が減ってきたので、久しぶりに、お得意の「バカ!」や「ろくでなし!」が出ると「やったー!」とスタッフから拍手が巻き起こって盛り上がって喜ぶ。
スタッフの関心が入居者に向くチームになると、笑いのない固いだけのリビングの雰囲気は一変する。利用者ひとりひとりの表情にスタッフの心が動き、利用者もスタッフもお互いの関係性が動き、いろんな動きを見せてくれるようになる。
おやつの時間、童謡や歌謡曲など次々と歌うセイ子さん。その隣にいたカヨさん(仮名)がセイ子さんの歌に合わせて口笛を吹いてくれる。その向かいにいたフユさん(仮名)がテーブルを指で叩いてトントンと拍子をとり始める。次から次に出てくる歌詞に「どこまでも覚えているねぇ!」と驚きながらニコニコ。その後ろで「はぁ、このお婆ちゃん、97歳だってなぁ! たいしたもんだ」と賢吾さん(仮名)が感心して言葉を口にする。
少し離れたところでこの様子を見ていた97歳のフミさん(仮名)は、ものすごく好奇心のある方で、気持ちはすっかり参加していて、声は出さずに口パクで歌っている。フミさんの隣にいたスタッフが「なんたら、フミさんも声出して歌えばいいのに〜」とつつくと、「えへへ」と照れ笑い。それでも恥ずかしがってか口元を隠そうとしたのだろうけど、なぜか鼻をつまんで歌い出したフミさんに、みんなが可笑しくなって笑いが起きる。そこに追い打ちをかけるように「ぽんぽこぽん、の、ポンッ!」とセイ子さんのだみ声が軽やかに宙を舞う。少し離れた自分の居室で寝ているはずの葵さん(仮名)までが「あ〜い!」と掛け声を入れてきてさらに盛り上がる。こうして、やらせのリクリエーションなどではなく、自然と雰囲気ができて昼下がりの歌会が続いていく。
そこへ「あはははぁ〜!!」と玄関から怪しい大声が響いてくる。デイサービスから帰ってきた剛さん(仮名)だ。「あ、おらえの父さん、帰ってきた!」。
剛さんの登場でさらにユニットは賑やかになる。外から見れば錯乱状態にしか見えないかも知れないが、それぞれ自分らしさ全開になっているので、楽しくてほほえましいのが凄い! 大声で動き回る剛さんの参加で、動きが出て、また違った盛り上がりになる。みんなの座っていた歌会テーブルの間を「ご飯、あと何分だ〜?!」と歩き回って、「どこさ座ったらいい〜?」と叫んでいる剛さんに「ここさ、おんで」とイスを勧めてくれるカヨさん。剛さんに「今日はどこまで行ってきたの?」と声をかけてくれる賢吾さん。歌会のあまりの盛り上がりの迫力がツボにはまって笑いが止まらなくなっているフユさん…。ひとしきり歌い続けて一息ついたのか、代わって騒いでいる剛さんに譲った形で歌を終えたセイ子さんはキョトンという表情をして、ウン、ウンとうなずきながら剛さんを見つめている。
ユニットの雰囲気やチーム作りは始まったばかりだ。利用者さんひとりひとりのまなざしに支えられて、職員のひとりひとりがどう育っていけるか、特養としても3年目は勝負の年だ。課題はまだまだあるけれど、寒々しかったリビングにやっと笑顔の花が咲くようになって利用者もスタッフも表情が出始めた。やっといい感じがでるようになってきた。
昼下がりの一騒ぎの時間が過ぎて、そのまま雰囲気を残しながらワイワイがやがやの夕食タイムへと移っていく。さて夕食の準備にとりかかるとしようと、カヨさんに声をかける。
「カヨさん、盛り付け手伝ってぇ〜♪」
「はいよ!」と元気な声が返ってくる。
ある日の昼下がり、テーブルを囲んでセイ子さん(仮名)と歌を歌う。結構な音痴で、おまけにだみ声だが、高らかに歌ってくれるセイ子さんとすごす時間は至福の時だ。こちらの目をじっと見て、ときにリードして、ときに後から、一緒に歌ってくれる。セイ子さんのおおらかさにすっぽりと包まれているような感じになる。
数年前から銀河の里のデイサービスの頃から、辛口トークのわがままお姫様としてスター的存在だったセイ子さんだったが、特養に来てから利用者無関心派の職員から、やっかいな人として見られるのが腹立たしかった。新人を中心にセイ子さんの“らしさ”を解ってくれるチームができてきたときは嬉しかった! セイ子さんのユーモアあふれるセリフを聞き逃すまいと辛口トークに挑む。最近は口数が減ってきたので、久しぶりに、お得意の「バカ!」や「ろくでなし!」が出ると「やったー!」とスタッフから拍手が巻き起こって盛り上がって喜ぶ。
スタッフの関心が入居者に向くチームになると、笑いのない固いだけのリビングの雰囲気は一変する。利用者ひとりひとりの表情にスタッフの心が動き、利用者もスタッフもお互いの関係性が動き、いろんな動きを見せてくれるようになる。
おやつの時間、童謡や歌謡曲など次々と歌うセイ子さん。その隣にいたカヨさん(仮名)がセイ子さんの歌に合わせて口笛を吹いてくれる。その向かいにいたフユさん(仮名)がテーブルを指で叩いてトントンと拍子をとり始める。次から次に出てくる歌詞に「どこまでも覚えているねぇ!」と驚きながらニコニコ。その後ろで「はぁ、このお婆ちゃん、97歳だってなぁ! たいしたもんだ」と賢吾さん(仮名)が感心して言葉を口にする。
少し離れたところでこの様子を見ていた97歳のフミさん(仮名)は、ものすごく好奇心のある方で、気持ちはすっかり参加していて、声は出さずに口パクで歌っている。フミさんの隣にいたスタッフが「なんたら、フミさんも声出して歌えばいいのに〜」とつつくと、「えへへ」と照れ笑い。それでも恥ずかしがってか口元を隠そうとしたのだろうけど、なぜか鼻をつまんで歌い出したフミさんに、みんなが可笑しくなって笑いが起きる。そこに追い打ちをかけるように「ぽんぽこぽん、の、ポンッ!」とセイ子さんのだみ声が軽やかに宙を舞う。少し離れた自分の居室で寝ているはずの葵さん(仮名)までが「あ〜い!」と掛け声を入れてきてさらに盛り上がる。こうして、やらせのリクリエーションなどではなく、自然と雰囲気ができて昼下がりの歌会が続いていく。
そこへ「あはははぁ〜!!」と玄関から怪しい大声が響いてくる。デイサービスから帰ってきた剛さん(仮名)だ。「あ、おらえの父さん、帰ってきた!」。
剛さんの登場でさらにユニットは賑やかになる。外から見れば錯乱状態にしか見えないかも知れないが、それぞれ自分らしさ全開になっているので、楽しくてほほえましいのが凄い! 大声で動き回る剛さんの参加で、動きが出て、また違った盛り上がりになる。みんなの座っていた歌会テーブルの間を「ご飯、あと何分だ〜?!」と歩き回って、「どこさ座ったらいい〜?」と叫んでいる剛さんに「ここさ、おんで」とイスを勧めてくれるカヨさん。剛さんに「今日はどこまで行ってきたの?」と声をかけてくれる賢吾さん。歌会のあまりの盛り上がりの迫力がツボにはまって笑いが止まらなくなっているフユさん…。ひとしきり歌い続けて一息ついたのか、代わって騒いでいる剛さんに譲った形で歌を終えたセイ子さんはキョトンという表情をして、ウン、ウンとうなずきながら剛さんを見つめている。
ユニットの雰囲気やチーム作りは始まったばかりだ。利用者さんひとりひとりのまなざしに支えられて、職員のひとりひとりがどう育っていけるか、特養としても3年目は勝負の年だ。課題はまだまだあるけれど、寒々しかったリビングにやっと笑顔の花が咲くようになって利用者もスタッフも表情が出始めた。やっといい感じがでるようになってきた。
昼下がりの一騒ぎの時間が過ぎて、そのまま雰囲気を残しながらワイワイがやがやの夕食タイムへと移っていく。さて夕食の準備にとりかかるとしようと、カヨさんに声をかける。
「カヨさん、盛り付け手伝ってぇ〜♪」
「はいよ!」と元気な声が返ってくる。