2011年01月15日

銀河の里 − 特養の奮闘 その1 「対称性の論理」対「非対称性の論理」 ★理事長 宮澤健【2011年1月号】

 一昨年4月、特養が開設してから、銀河の里はかなり危機的な状況に追い込まれた。10年前の開設当初から、銀河の里は高齢者施設でありながら「介護はしない、やってはならない」とどこかで叫んできたように思う。逆説的な言い回しだが、「介護はやらない、あくまで出会って生きるんだ」という思いを情念のよう持ってきたと思う。
 ところが特養開設で、入居者も職員も一度に大勢の大所帯を抱えて、状況は一変した。早い話人材不足なのだが、銀河の里の雰囲気や想いを持っていない人も大勢職員として現場に入らざるを得なかった。研修はしたのだが、簡単に伝わるものでもなかった。特に他の施設で数年の経験を積んできた女性の介護士は厳しいものがあった。
 開設当初から定時ぴったりに一斉に現場の仕事を上がれるのは驚きだった。そんなにやれているのかと思うが、ただ時間だから上がっているだけだった。利用者に軸が置かれているのではなく、時間にあわせているだけなので、当然、視点は作業に置かれる。作業を時間内こなすことが目的になってしまうと、そのとたんに利用者は消える。そのうち、皆で囲む食卓は、ショッカイ(食事介助)でしかなくなり、食事は、たんなる栄養摂取に陥る。人間にとって食事とはなにか、食卓を囲むとはなにかを問いたくなるような、機械的な乾いた時間がひたひたと銀河の里に押し寄せ、ユニットの場を蝕んでいった。
 システム、マニュアル、制度、プラン、操作といった管理が主流の世の中で、銀河の里では、人が暮らしのなかに生きていく場をつくろうと、田畑を耕し、米を作り、認知症の人と出会い、生きようとしてきた。介護は関わりの窓口として暮らしの中に偏在し、若いスタッフは介護という身体的接触を通じて、個人と出会い、創造的、発見的経験を積むことで、自身も育つ実感を得てきたはずだった。
 ところが介護が作業として、一丁上がりに処理されると、多次元に流動していく人と人の関係の世界から知性が抜け落ち、突然世界が失われる。これは里にとっても個人にとってもかなり危険なことで、一方的な管理と支配に色取られた非対称性の現実が固着すると、利用者と介護者の分断が永遠に繰り返されることになり、そこでは利用者もスタッフもともに個人の内的世界は消去されてしまう。
 そうなると、介護現場は小規模のユニットケアであろうが、まさに介護工場になってしまい、世界が存在しえないので、人間は消え、ショッカイ、ニュウヨクカイジョ、エイヨウセッシュなどが単に作業として無機的に繰りかえされるだけの無意味地獄に飲み込まれてしまう。一方的に管理し支配しようとするのが非対称性の論理とするなら、自然も動物も人間も同じ位置にいて入れ替わり可能な思考が対称性の論理である。(アバウトな説明だが、詳しくは中沢新一のカイエソバージュシリーズ全5巻を参照されたし)
 非対称性の論理では、根底が操作と支配でできているので、現実対応は完璧になるだけに、対称性の論理で流動する心の居場所となる「場」や「世界」は曖昧すぎて蹴散らされてしまいがちだ。中沢新一は人間の心はこの非対称性と対称性の論理のバイロジックだと言っており、両方がうまく組み合わせられていくことが必要なのだが、対称性は現代社会では遙かに分が悪い。ましてや作業を効率よく的確に処理するには対称性の論理は邪魔扱いにされがちだ。
 個々が持つ世界や宇宙は存在するし、それは尊重されるべきだと思う。現場ではそれらが全く無視され抹殺されてしまうか、尊重され、息づくことで、人間の尊厳が守られているのかどうかが勝負になってくると思う。その意味で銀河の里では人間の尊厳を守る戦いを現場で展開しようとしてきたのだと思う。芸術は対象性の論理そのものなので、研修で、演劇や音楽を中心に作品に触れる場を作っては来たのだが、現場では機械的な介護作業が繰り返されやすいのも現実だ。
 昨年、柳田邦男氏がALS患者の閉じこめ状態に対し、どう人間の尊厳を考えるかという番組がNHKで放映された。進行性に体の筋肉が衰えていき、寝たきりになるばかりか、喋ることもできなくなるので、わずかに動く筋肉を使って、センサーを通じてパソコン入力し、コミュニケーションをする。病が進むとセンサーも使えなくなり、自分の意志を全く外に伝えられない「完全閉じこめ状態」になる。それでも生きている意味はあるかどうかを患者自身にインタビューしているのだが、極限の状態において人間の尊厳を問うた興味深い番組だった。特に「取り巻きが良かったから、病を得ても自分の人生は幸福だった」という患者の言葉は、そばにいる介護者がいかに大事かを端的に伝えていて、昨年の新人研修でもこの記録を見たのだった。
 さらにALS関連の書物を読むと、究極のコミュニケーションとも言えるような取り組みが語られていて教えられることがたくさんあった。言葉は消え、何らかのサインさえ送れなくなったとしても、肌の色や、血色で体調や気分を理解しようとしており、発汗コミュニケーション等という発想もあった。
 それに比べて、我々の現場では、認知症や、多少の言語不自由はあってもコミュニケーション豊富な方々ばかりである。大いにやりとりをしようじゃないかと言いたいのだが、現実は難しい。ナースコールは無視され、それでも鳴らし続けると電源を切られる。仕方がないのでベッドを揺らして訴えるとさらに無視されたり、きつく叱られるといった具合だった。コミュニケーションを絶ち、支配し、コントロールに徹しようとする非対称性論理の人が世の中には圧倒的に大多数だ。「関わりをもっと大切に」などと言おうものなら「訳のわからないことをいう変なおじさん」とばかりねたまれる始末だった。
 こうした状態が、昨年の11月あたりまで続いて苦しんだのだが、そのころから徐々に各ユニットに、里らしい感じが生まれはじめる。次回からは特養の具体的な苦闘の惨状とそこからの復活を綴りたい。
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実習を通じた思索 その1「扉」 ★デイサービス 千枝悠久【2011年1月号】

 私は、厚労省の雇用プログラムを利用して、銀河の里デイサービスに所属しながら、介護福祉士の資格習得を目指して専門学校に通っている。先日、学校の介護実習が約1ヶ月間あった。実習で現場に入りながら、考えることがたくさんあった。それらをこれから数回にわたって書いてみたいと思う。
 今回の実習先のグループホームでは、「その人らしく豊かに安心して暮らせる場所を」といったことを理念に掲げ、毎朝のミーティングの時に職員全員でその理念を唱和している。
 私がこの実習で感じた現場の印象は、一言で表すと、息苦しさのようなものだった。色んな意味で厚く重い扉を感じ、今までにない苦しい経験だった。まず、見える「扉」は3箇所。出入り口の扉、同じ建物内のユニットの間を繋ぐ扉、脱衣所の扉。そのどれもが開き難い扉となっていた。どの扉も、入居者が開けようとすると職員が飛んできて止める。「安全のために」ということだったが、それにしてもたまには一緒に行ってその扉を開いても良さそうなものだと思った。
 さらに息苦しさを感じさせたものは、見えない「扉」だった。午後4時頃、入居者は夕食が近いという理由からほぼ全員が食堂に集められる。その後職員は、記録をするという理由で、事務所にこもる。「こもる」といっても特に壁があるところではなく、食堂から見える位置にあるのだが、背中を向けたまま入居者が居る食堂の方へは、ほとんど向かない。そして入居者の方達は、テレビの方を向くかたちで事務所に背を向けている。入居者と職員が、ぱっくり別れ、別々の世界がそこにある。その状態が夕食まで2時間ほど続く。
 その時間帯に、私は入居者Aさんの手の指に傷があることに気づいた。しかしAさんは、「忙しそうにしているから、(職員に)言わなくていい。」と話される。遠慮というよりは、まるで別世界に話しかけることがタブーであるかのように、それが当たり前のように言われるのに驚いた。私が、傷のことを職員に伝えると、「あらぁ〜、全然気がつかなかったわ。」と平然としたものだった。
 私は毎日この時間になると、食堂と事務所の間に見えない開かれることのない「扉」を感じた。本来なら、この時間は入居者と職員が話しをしたりして、関わるのに最適な時間のはずなのだが、目に見えない重い扉がその間にあり、両者が交わることなく隔てられていた。
 実習中、私は一人の入居者の担当になった。その方は、帰宅願望が強い方だということと、厚着をし過ぎるという理由から、施設で衣類を管理している方でもあった。そのためか、「外への出入り口の扉を開けたい、自分の部屋から持ち出された衣類を取り戻すために脱衣所の扉を開けたい」という気持ちが強く働いていたと思う。この施設では、これらの行動は「問題」とされていた。「扉」を開けようとしては職員に注意をされ、その方が暗い表情をされているのを私は実習中に何度も見た。私はその度、その方の不安や苦しさ、そしてやりきれなさを感じた。
 実習のまとめとして、私が担当した方のケア会議を持っていただいた。そこで、実習中「扉」があまりにも開かれないことに疑問を感じていた私は、その入居者の「自由」について話をした。私も幾分安易に「自由」という言葉を使ってしまったと思ったが、職員の方達は、この「自由」という言葉にかなり敏感に反応されたように思う。職員の話されたことは、「認知症の人が自由にやりたいようにしたら、生きていくことはできるかもしれないけれど命が長続きする保障はない」ということだった。それに対して私が、「扉が開かれないことによって入居者の不安が大きくなっているのではないか?」ということを話しても、「認知症だから・・・、認知症の周辺症状だから・・・」と延々と話されるだけで、全く聞いてもらえる感じがなかった。ここに、最も重い「扉」があるのを私は感じた。
 その職員の話しを聞きながら、「命」とは一体何なのだろうか、という問いが心の内で膨らんできたが言葉にはできなかった。安全なのかもしれないが、不安を感じ続けながら生きるのが、「命」の在り方なのだろうか。私には、そうとは思えない。安心して暮らすことができてはじめて「命」は「命」として輝くことができるのではないかと思う。第一、毎朝唱和している「その人らしく豊かに安心して暮らせる場所を」という理念と矛盾しないのだろうか。
 入居者が安心して暮らすことができないという現状があるのならば、それがなぜなのかを深く考え、様々な可能性を検討すべきなのではないだろうか。私の印象や感じたことは、確かに現場を知らない無責任な学生の発言に過ぎない。はっきりとした根拠や、説得力に欠けるものに違いない。それでも、検討するに値する話ではなかったかと思う。職員の方が話された「命」と、それは「命」ではないと感じた私。その私の心と、職員の心の間には、開かれることのない「扉」があったように思う。安全管理のあり方と、人間の命のありようの話しが、扉に閉ざされたまま交わる可能性を失っていた。
 実習で息苦しさを感じたのは、以上のような、建物の扉、空間の扉、心の扉というトリプルの「扉」だった。そして最も重かったのは、心の扉だった。この「心の扉」の存在こそが、他の2つの扉を開かせる可能性を失わせていた。心の「扉」が頑なでは、現実の「扉」が開かれるわけがないと思う。一枚の扉が開かれない息苦しさ。なぜ、「扉」があったのだろう。そして、なぜ開かれることがなかったのだろう。そういった思いを抱えて実習を終えた。

つづく
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“変わる”ってすごい! ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2011年1月号】

 2011年が来た。里として10年目にあたる記念すべき新年が始まった。これまでの「怒りと戦いの10年」を振り返るとともに、気持ちも新たに、これからの10年への決意が湧き起こる。
 年明け、雪かきをしていると、車から降りてグループホーム第2の坂を上っていく一団を見つける。よく見ると歩さん(仮名)の姿がある。あぁ、帰宅して家族と過ごしてきたんだな…と思って、駆け寄り、新年の挨拶を交わす。お嫁さん、孫さんらに囲まれた歩さん、「また面倒してけでね」といつもの極上の笑顔だ。「よかったね、お正月を家族さんと一緒に迎えたの?」と聞くと、「やっぱりなかなかお泊りは難しいですけど、今日、一緒に外出だけでもと思って出かけてきたところです」とお嫁さん。
 二年前は在宅で頑張っていらっしゃったが、里との出会いはDS利用が始まりで、初めてお会いしたときには、介護に疲れ果てているというか途方に暮れているというか、歩さんとの関係にもギクシャクとしたものが感じられ、とても暗く重い表情で辛そうなのが印象的だった。その人が今、とても晴れやかな笑顔で話してくれている。約一年のデイサービスのお付き合いを経てグループホーム入居が決まり、すっかり生活にも馴染んで早一年が経とうとしている歩さん。その傍らに、お嫁さんとの関係の変化やお嫁さん自身の変容も見てとれて、思いがけない新年挨拶になった。
 一方、特養の利用者の中にも何人か、年越しを自宅で迎えた方もいて、その日は続々とホームへ帰ってくる日だった。どなたも久しぶりに家族と過ごし、晴々とした表情で戻ってくる。中でも特に武雄さん(仮名)父子の表情には驚いた。
 昨年、長年住み慣れたグループホームから特養へ引っ越して初めての年越しを、自宅で二泊、家族さんと共に過ごしてきた。戻った時の第一声は「ただいま、また世話になるよ」と満面の笑顔なのだ。さらに送ってきてくださった息子さんにも穏やかな笑顔がこぼれる。「みんなが寝てからも、ひとりで泡盛飲んで、次の日、立って歩かれないくらいだった」と笑いながら武雄さんの家での様子を話してくれる。
 以前には到底考えられない状況だ。「家に帰さないなら火をつけるぞ」とスタッフを脅す武雄さん、「暴れるから絶対に帰さないでください」という家族さん、その間でグループホームでは何度も格闘の日々があった。それが今はどうだ「酒飲んで大変だった、困った」という話ではなく、そのやり取りには余裕さえ感じられる。かつてのいったん家に帰ってしまったら里には戻って来ないのではないかという心配も、今ではまったく感じさせない武雄さんの柔らかさもあった。戻ってからユニットのみんなと一緒に書いた書初めの文句が「ありがとう」という文字だったのにも感激した。格闘のつきあいを経て5年、変われば変わるもんだなぁ…と、驚きと嬉しさいっぱいの出来事だった。

 銀河の里が人とその関係の変容のきっかけとなれば、こんなに嬉しいことはない。「変わりたい、変わらなきゃ」と思い続けて10年が経ってしまったが、振り返ればやっぱり少しは私も変容のプロセスを歩むことができているのでは…と思う(そうであってほしい!し、これからもそうありたい!)。
 かけがえのない「あなた」と「わたし」とが出会って、関係性のプロセスが始まる。利用者もスタッフも家族も、みんなが互いに関わってくる。その関係性がどう動いていくのか、どう変わっていけるのか、里はそうした物語が日々熟成されていく“器”なんだなぁ…と改めて感じた新年だった。
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おばあちゃんの事 ★特別養護老人ホーム 村上ほなみ【2011年1月号】

 今年のお正月は久しぶりに実家に帰った。祖父母と父母に姉、妹と私の7人家族で、久々の家族団らんだったが、そこに祖母の姿はない。祖母は71歳だが病気で認知症もあり数年前から病院で生活している。
 祖母は私をとても可愛がってくれて、私も大好きだった。「みんなには内緒ね!」と特大のカツどんを出前で頼んでくれて、祖父と3人でこたつで食べたこともあった。2階の私の部屋にこっそりと上がってきて「ほれ!」とみかんをくれたり、竹輪が丸ごと1本入ったそばを作って持ってきてくれたりもした。祖母と二人で散歩もしたし、買い物にも出かけた。たくさんの内緒をつくり約束もした。
 しかし、わりと若い時期に認知症になった祖母を、私は受け入れることが出来ず距離をとるようになっていった。会話は減り、祖父母と3人で食事をすることもなくなった。それでも祖母は、私のことを「ほっちゃん、お腹空いてない?」と気にして2階までお菓子を届けてくれたり、私が部屋にこもっていると、心配して寒い中階段に座って待っていたこともあった。親戚が集まると必ず私のことを自慢して「1番優しいのは、ほっちゃん。将来は介護士になるんだって」と話す祖母だった。私が高校生になった頃、祖母は寝たきりになった。

 高校ではクラブで忙しくなり、朝は5時過ぎに家を出て、帰りは22時という生活で、家族と過ごす時間はなくなった。1人暮らしで、家に誰もいない状況とは違い、一緒に暮らしているのに毎日1人ですごす寂しさがあった。私は怒りやすくなり、母に反抗して家を出ることも度々あった。母とはいろんなことで衝突し何週間も会わないことが普通になっていた。高校3年生の大晦日、この日も母とすれ違い、携帯と財布だけを持って家を出て電車に乗り気仙沼の友達の家に逃げた。23時過ぎ、父からのメール「どこ?寒いんだから帰ってきなさい。」も無視して、友達との会話を続ける。何度か父からの着信があるが無視して6回目、やっと電話を受ける。
 父は「ばあちゃんが、“ほっちゃん”って名前呼んでたぞ!」と少し怒ったような、でも優しい声で言った。私は、すでに寝たきりだったばあちゃんの言葉に打たれた。「将来は介護の仕事をするよ!」という祖母との約束。「そうかぁ、おばあちゃんは嬉しいよ。こんな孫をもって」と笑う祖母の顔。いろんなことを思い出し涙が止まらなかった。
 自分勝手な感情で関係を壊し、遠ざけ、見てみない振りをしてきた自分が悔やまれた。次の日、祖母が寝ている部屋で「ばあちゃん、ごめんね…」と祖母の優しさと今までのこと全てに対する精一杯の言葉をかけた。
 先日、仕事中に「男の人は、孫が出来るとすごく可愛がる。ほしいものは買ってあげたくなるらしい。女の人は、孫が出来ると若返るんだって。子育てしなきゃ!って」と言う話しが聞こえてきた。私は祖母の顔が浮かんできて、約束したことや楽しかった思い出を取り戻したいと思った。そして、祖母に会いに行くことに決めた。

 正月、父と祖母の病室を訪ねた。「ただいま。ばあちゃん、ほなみだよ!」と祖母の頬を撫でる。もちろん返事はないが、仕事で楽しかったことや悩んだこと、おばあちゃんも知っている友達が結婚したこと、私が相変わらず食いしん坊で太ったこと、特養におばあちゃんに似ている人がいること…いろんなことを話した。話すうち最初は無表情だった祖母の目から涙がこぼれた。
 寝たきりで、重度の認知症で、言葉でのコミュニケーションはできなくても、どこかで、何かで通じるものなんだということは、銀河の里の現場で実感してきた。医療的処置や、介護的作業で声を掛けただけでは何の反応もないというのは当然だが、心の叫びは通じるという経験を日々積み上げてきた。心の繋がりやふれあいのない、ただのお世話では伝わらない。誰が、どういう姿勢で向きあうのか、そこに意味がある。そんなことを現場で自然のうちに学んできたのだと気づかされた祖母の涙だった。
 殺風景な病院の壁に写真を貼り、「また来るよ」と言って病室を出た。それまで我慢していた涙が溢れ出す。父は私の思いを悟ってか、何も話さないまま家へと帰り、そのまま仕事へ向かった。大雪で、予定よりも早く家を出て花巻に帰ってきた。途中、父から「長かったね(/;_;)でも、安心しました。ありがとう。」というメールが届いた。父は、全部を知っていた。私が祖母と過ごした大切な時間や、近づけなくなって祖母を傷つけていたことも。それでも何も言わずに何年も見ていてくれていた。メールを読んで父の思いにふれてまた涙。私は、本当に家族に愛されて育ってきたんだと実感した。これからどれだけ祖母の心に残ることが出来るか。どれだけ私の心に祖母を残していけるか。祖母との“介護の仕事に就く”という約束は叶えられたが、これからどんな介護士になっていくか、祖母にもずっと見ていてほしいと思う。
 銀河の里に就職して3月で2年になる。里での経験は、私を少しずつ変えてくれている。介護士養成の高校だったので、何カ所もの施設に実習に行ったが、銀河の里は全く別種の場所だった。そこは、他の施設では感じられなかった、人の温かさや場の温もりに満ちていた。「他のところじゃ嫌だ。銀河じゃなきゃだめ」と親の意見を押し切って花巻にきた18歳の決断だった。それはまちがいなかったと今は確信できる。里に来ていなかったら、未だに祖母に会う気持ちになれなかったかもしれない・・・まして、寝たきりで言葉の話せない祖母に語りかける事などできなかったに違いない。祖母のたましいを感じながら、それに向かって語りかける私がいる。
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厨房奮闘記 その弐 給食からの脱却 〜日本一のソフト食に挑む〜 ★厨房 畑中美紗【2011年1月号】

 特養開始と同時に始まったソフト食。通常の食事のほかに、刻み食・そして未知のソフト食へ私たちは足を踏み入れた。
 最初は、ソフト食と呼べるものではなく、常食をただミキサーにかけてとろみ剤を加えただけのものだった。とろみ剤は何を使ったらいい?形のあるものにしたいが何で固めたらいい?これで本当に食べやすい?本当に未知の世界。とろみ剤・ゲル化剤・ゼラチンなどさまざま試してようやくたどり着いたのが理事長が提案してくれた“寒天”だった。寒天は成分のほとんどが食物繊維で、またミネラルやカルシウムも豊富、栄養素的にも高齢者にぴったりだった。
 どろどろソフトから形のあるソフト食へと進化し、さらに今年一年はより常食に近いソフト食になった。味はもちろん、形も常食に近付けたソフト食を意識して開発した。今まではただただバットに流して固めていたソフト食が、完成形を思い描きながら、たとえば、大根の煮物なら大根の形になるように丸いココットに流して固めて、常食の切り方が半月なら半月に、イチョウ切りならイチョウ切りに合わせてカットしてみたり。魚のソフトはちょっとゆるめに固めて魚の型で形作って魚だとわかるように。ハンバーグも手でまとめられる程度に固めてオーブンで焼き目をつけたり。さらにオレンジは、半分に切って中身をくりぬき、ミキサーにかけて寒天を加えて皮の容器に戻す、固まったら常食と同じようにカットすれば、常食と見た目もおんなじのソフト食になる。果物に関しては、寒天よりも“アガー“の方がきれいにできる、などやっていく中での発見もあった。
 厨房では今年2度、研修に行かせてもらい世の中のソフト食も実際に見てきた。夏にはソフト食が進んでいると言われる食品メーカーA社に行った。実際に食べさせていただいたのだが、味では負けていなかった。ただ漬物やみそ汁の具のソフト食などは、私たちはまだまだ手が出せていないところもあった。逆に銀河の手法を伝えて感心されるなど雲の上の存在だと思っていたA社にも案外近いところまで追いついている感じもして、自信を持った。
 秋に出かけた合羽橋は、食器探しが主な目的だった。常食のプレート盛り脱却を機会にソフト食もプレート盛りを卒業しようと決めた。そして改めて思ったのが食器って本当に重要で、食器一つで料理はここまで変わるもんなんだなという事だった。今まで給食っぽかったのが、魚が角皿に入るだけで家庭の雰囲気が出た。今まで皿に口をあてかき込むように食べていた方も、ヘリがあることで食べかたも変わった。そしてなんと言ってもうれしいのはみんなの反応。ソフト食のカボチャの煮物を見て「私もそっちが食べたい。だってそっちの方がおいしそうだもの」と常食よりもソフト食を食べたいという利用者さんも現れた。また職員も食事介助の時どうしてもソフト食がおいしそうでこっそりつまんだら利用者さんに怒られた・・・というエピソードも。その他いろんなところからソフト食を食べてみたいという声が上がってきた。
 ソフト食とは言うが、何でもソフト食にすればいい訳ではなくて、豆腐ならそのままソフトだし、刺身は歯がなくても意外にみんなペロッと食べてしまう。ソフト食には向かない料理だってある。銀河のソフト食はまだまだ発展途上にあり、これからもどんどん進化させていきたい。
 A社の調理員さんは、自分の仕事に誇りを持って取り組んでいる方で、「ただの調理員には絶対なりたくない、大勢いる職員の誰かではなく、自分は自分として利用者と積極的にかかわっていきたい」と話されたのが印象的で心を打たれた。私も、里の職員の中の誰か、厨房の誰か、栄養士の誰かじゃなく、利用者の中に存在する私でありたい。食事を通して利用者とのかかわりをもっともっと広げていきたいと思う。
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今月の書「感」 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2011年1月号】

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心のまま 
感じるまま

思いきり泣いたり、笑ったり

時に傷つき、時に癒され
また進む

誰かと共に感じられるから
歩いてゆける



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介護芸術概論? ★グループホーム第2 佐藤万里栄【2011年1月号】 ]

 私は小さいとき、介護士だった母に連れられて、弟と一緒に母の職場であるケアホームに行ったことがありました。
 そこは一軒家で、何人かの高齢者がいっしょに暮らしているようでした。私と弟を家に置いておけなかった母はその日、私と弟を自分と一緒にケアホームに泊まらせました。私たちが寝る時間になっても母は一人起きてその家の夜を守っていました。
 私はその夜、いままで味わったことのない変な気持ちで「歳を取ったら、こんなふうな家で静かにくらさなくちゃいけないんだろうな」とケアホームの一室で考えていました。そして、布団が違うせいか、そんなことを考えていたせいか、なかなか眠れませんでした。
 また別の日には、ホームを離れられない母の変わりに、外に出て行ってしまうおばあさんを見ているように頼まれました。おばあさんはホームの中を少し歩いてから、すっと玄関にいき、「家に帰る」といって出て行ってしまいます。私はそのおばあさんにこわごわついていき、少し行ったところで母に言われたとおりに「家はこっちだよ」とホームのほうを指差しました。そうすると、おばあさんは何も言わずに今来た道をもどり、ホームの中に入っていきました。
 このとき「この人は家に帰りたいのに、この人の家はここでいいのかな」と思いました。この人の家がここではないかもしれないことを私は知っていたのに、「帰る」と出て行ったこの人を私は同じ場所につれてきてしまいました。私はうそつきの気分でした。しかし、母は「ありがとう」と私を労いました。
 小さい頃こういう経験があったので、私の中では、介護施設はずっと、少し薄暗い静かな場所でした。そして母が時折家に持ち帰ってくる介護施設の話しもまた、あまり明るくはありませんでした。
 私は去年、教育学部の芸術専攻科でほんの少し美術をかじって卒業しました。就活では途方にくれるぐらい迷っていました。純粋な芸術家にはなれないのはわかっています。でもずっと描くこと作ることに楽しさや喜びや憤りやつらさを感じながら自分を見つめる作業を知ってしまった私は、それらを捨て切れない中途半端な自分を、どう守って生きていくのか悩んでいました。私の中の、少しばかりの創作意欲がずっと生きていくにはどうしたらいいのか考えていました。でもいずれ就職すればそれもあきらめるしかないんだろうなとあきらめながら、たいして興味のない会社に申し込んで、だらだらとした就活をしていました。

 そんな中で、私は銀河の里に出会いました。美術などまったくの畑違いだと私は思っていましたが、その考えが畑違いでした。私の中途半端でちっぽけな「描いて作る」気持ちを里では、「いいぞ、もっとやれ」と背中を押してくれます。「介護には、想像の世界と創造がなければならない」と言うし、「介護じゃないだろやってることは芸術だ。」と意味不明ながらものすごく納得できることを言われます。
 里は、私の中にあった薄暗い介護施設のイメージを吹き飛ばしてくれます。小さいときにあのケアホームで感じた気持ちとは全く別の、命のどよめきのようなものが、銀河の里からは感じられるのです。
 入居されている利用者だけを介護するとか、お世話する感じを越えて、親族や、一族やさらには、現代社会全体のダイナミズムに迫ろうとする気迫が銀河の里にはあります。
 里では、帰宅願望などというチャチな専門用語を使う人はいません。家に帰りたいという利用者さんの気持ちを理解しながら、帰る帰らないを超越して家や、親しい人や、果ては遙か過去や、あの世までもつながってしまおうというダイナミックな視点があります。
 利用者のお孫さんが亡くなられたのを本人に伝えるかどうか、親族でもめていたときも、「この世の現実を突きつけてもどうしようもないことです。そんなことは言わなくても認知症のひとは全部解るんです。」と明快で、親族の方達も一気に迷いが吹っ切れたことがありました。人や、場合によって対応は違ってくるのは当然ですが、銀河には表面的なことには左右されない、ひとつ奥や、さらにその向こうの深淵や超越から現実の本質をはずさずに見つめる視点があります。
 その後、ことあるごとにご家族と行き来していますが、死者も生者も含めて変わりなく、家も里もあの世も関係なく全てにつながり、すべてを居場所にして生きていけるような安心感で支えていこうとする里の大胆な視点に感動します。
 現実にも近いけど、異界にも近いといった中間領域、境界領域にいる人たちがいてこそ、現実に張り付いて生きている社会の多くの人に、生きる力や、意欲をもたらせられるんだという確信に満ちています。こう考えると、これって完璧に芸術家の仕事の概念そのものだなって感じます。作品でこれを凌駕するのは結構大変なことだと感じる昨今です。
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クリスマス会2010 ビンゴ大会と豪華な食事 ★ワークステージ 村上幸太郎【2011年1月号】

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★12月25日にワークステージにてクリスマス会を開催しました。職員が準備した豪華商品をかけたビンゴ大会、厨房特製のクリスマスメニュー、
ボーナスも支給され、大盛り上がりの会となりました。
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