2010年12月15日

ゲスト記事 「あまのがわ通信」の愛読者から! ★社会福祉法人カナンの園 カナン牧場 菅生明美【2010年12月号】

 「社会福祉法人」悠和会と印刷された茶封筒を眺めている。
 法人を立ち上げて僅か10年間で整備した事業所名が6箇所印刷されている。
 この現場で毎日どんな暮らし、生きる営みが紡がれてきたか、毎月の「あまのがわ通信」から、ひたひたとその息遣いを聴き取ることが楽しみであった。この通信が100号を迎えるとのこと、驚きである。なぜなら私の生業の場としている法人は事業開始37年で、機関紙100号の特集を組んだからである。「銀河の里」の現場には、安堵と共感と、たまげたエネルギ−が満みちている。その根源はなんだろう、毎月の通信からそれを探り充てようとしてきた。
 この度、「通信に原稿・・」と丁重なお便りを頂いた時、すぐにでも銀河の里をお訪ねしたい欲求に駆られたが、思い留まった。私に内在する、安っぽい価値観や、正義感を振りかざして言葉にしてしまうだろう姿が見えたからである。通信から私がなにを探ったのかをお伝えすることが役割だとおもえた。

・最初に−
 この夏、中央の新聞紙上で東京大学教授経済学者松井明彦氏のコラム「明日を探る」欄に心躍った。これまで福祉と経済は水と油のように扱われてきた。その両者の間の溝を埋めるべく、数年前から一つのプロジェクト、「障がいと経済の研究」に取り組んでいるのだ、との内容である。今、既存の社会でこれが当たり前となっている「社会的事実」を変えることが出来るゲ−ム理論を展開している。「そして、明日の社会的事実は私たちの手によって変えることができるのである」と結んでいる。この時、あまのがわ通信82号で紹介された“今年のもち米手植え”風景を思い浮かべていた。老若男女総勢70名の田植えをしました、と紹介する福祉事業所がどこにあるだろうか。小さな集落が総出で田植えをしている光景そのものではないかと。そうか「社会的事実」を創り上げる実践の場が銀河の里だ、とストンと合点がいった。

・そして−
 今まで福祉事業所と呼ばれる現場の方とお話する際は、線引きされた福祉エリアの“障がい者”のことであり、支援者と呼ばれる仕事のことであった。初めてお会いした理事長の宮澤さんは、今“ここで“生きている方と、これからどう生きていくか、まるで、自分の家族と一緒にどう生きていくかを、悩んでいる人であった。みんなしてこの地域で暮らして行こう、とされている姿、生きる根源の「農」の営みは命を支えることだろうとの主張に深く共感し、ときめきを覚えたことを鮮明に想起できる。人生を走り抜けてきた先達たちと、生活しづらさを抱えている若い当事者が、一緒に農作業されているこの事実は、まさに共に生きる姿そのものなのではないだろうか。生活智を若い世代に伝えていく営みは地域を継承していくことであり、里には地域再生の云々と学者達が論じている範疇を超えている事実があると感じている。

・すると−
 最高責任者の苦悩の一つは職員教育、現場でのお一人お一人の職員の働きが事業所の評価を決めていく。ならば、どのような隣人、同労者、人格であってほしいかを伝え切れないと実践と乖離してしまう。これは組織で仕事をする全ての企業トップがいつの時代でも課題としていることだろう。
 すると、理事長と施設長が職員に対して、なにを求めているのかは、「あまのがわ通信」から充分に汲み取れる。そしてそれに応えようとする職員集団がいることも、又汲み取ることが出来る。
 内部で話し合う、伝え合う、に留めないで、通信・ホームペ−ジ等で公にすることは、事業所がどこへ向かおうしているかを、あからさまにしてしまうことである。そのため往々にして、「こんなことしています」と淡々した行事報告が多くなる。

・しかし−
  「あまのがわ通信」の大きな特徴は、書き手が自分を語ることである。通常は避けたい手法、なぜなら事業所理念から大きく外れていることに気づかない職員が自分を語りだしたら、「なんだこれは!」となる。ところが、あまのがわ通信紙上で展開する職員の皆さんの文筆は実に個性的であり、日常を彷彿とさせる紙面となっている。私は里を訪問させて頂いた時、宮澤さんに聴いてみた「職員はどんな基準で採用となるのですか」応えは明快であった「感受性の豊かな人、絵や音楽などの豊かな感性のある人ですね」と。
 宮澤さんは職員を育て切れていない、と嘆かれるが、他者からみたら、充分に職員集団が出来てきたと思わされる。もちろん日々葛藤がある現場ですから、管理者からみたら“足りない”ことを痛感するのは重々分かる。しかし、83号でワ−クステ−ジ職員佐々木さんが、“混沌のなかで”と題して「そして何より、本質的に「農」は“暮らしであり、人間の生きる根源的なものであるはずだ。それがなければ、市場経済に飲み込まれ田畑は荒れ、伝統芸能や”結“といった助け合いの精神で繋がってきた人間関係も希薄になり崩れていく農村と同じく、銀河の里は”里“でなくなってしまう」と言い切っている。理事長と充分に語り合ってから、働き始めた方なのだろうと感じ、現場で展開されている事実を言い切ったのだろうと推察した。良き人材が活躍している、と思う。人は混沌の中、悩む力を原動力にして成長するのだから、当事者と呼ばれる方々に職員を育てて頂くしかない。

・さて−
 宮澤さんは「社会的事実」は私たちの手で変えられる、と意気込んでいるのだろうか。いやいや、ただひたすら自分はこうだからと、求めてきたし、職員にもそれを伝播してきたのではないだろうか。それに一番呼応してきたのは、人生の先輩である利用者と呼ばれる方々ではないだろうか。まさしく宮澤さんの同労者は支援を受ける立場にあった当事者の皆さんなのではないだろうか。支援者・利用者の枠を取り払う現場を創り上げてきたのではないでしょうか。私どもも当事者の方々に聴きながら現場を創ってきた、との実感があり、知的障がい者と呼ばれる彼らが仲間と共に、なやみ考え、悪口をたたきながらも、互いに支えあい、どうしたらみんなが働ける職場になるかを語り合ってきた。今、自分を語ることが出来るようになってきた従業員は、社会がどうなってほしいのか、と語りだしている。外部のサポ−タにより、発表資料をパワ−ポイントとして準備していただくと、発信ツ−ルを手にした彼らは動き出した。「こうしたら重いといわれる人でも働けるよ」と社会に向かって発信している。弊社への見学者にも「働くこと・暮らすこと」を語り、又外部での講演会等の要請もあり、活躍している。まさに「自分たちの手で社会的事実を創る」活動をしているのだと、気づかされている。その従業員に我々は育てられているのだと。

・だから−
 当法人の機関紙に対して、ある編集者からこうアドバイスされたことがある。「メディアには情報を伝える者と情報を受け取る者との媒体になるという意味と、それらを『つなぐ』という意味も内包され、この二つの意味を常に模索し続けないと、その存在そのものの意味もやがては失われていくものと・・・」謙虚に耳を傾けざるを得ない。「あまのがわ通信」はこれからも人と人を『つなぐ』役割を果たしていくだろうことに期待している。施設長の宮澤京子さんが介護福祉の現場を「ふしぎと謎解き」「深層の時間」「「物語」をキ−ワ−ドに語りだしている。どのように展開していくだろうか、当事者や職員もリレ−ト−クに加わったらこれはおもしろくなりそう!!などと勝手に、物語っている。これからも「社会的事実」を積み上げていくであろう「銀河の里」の20年後はどんな物語が紡がれているだろうか。当事者と呼ばれる立場の皆さんの声が、どんなハ−モニ−で地域に響きわたっているだろうか。我々もワクワクと待っているだけではなく、既存の社会的事実を変えていけるように歩んで生きたいと願いつつ、奥中山からエ−ルを送り続けたい。  感謝して!
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あまのがわ通信とその挑戦 ★理事長 宮澤健【2010年12月号】

 あまのがわ通信が記念の100号を迎えた。銀河の里設立10周年のひとつの歴史として感慨深い。途中で休刊した期間が2度ほどあり、その都度再出発をしたので、正確には3代目の通信が100号になったということになる。
 さらに遡ると、平成5年に稲作を始めて、産直のお便りとしてあまのがわ通信を書き始めたのが源流となっている。かれこれ18年が過ぎるのだから通算では200号になる。
 今回、記念の特別号には、銀河の里の深い理解者である菅生先生から、身に余る励ましの文章をいただいて感激した。常に見守っていただいてきたし、精神的な支えとして、今後の里の挑戦にとって大きな存在である。また、障がい者支援の同志を感じる横井先生も渾身の記事を連載いただいており、頼もしいかぎりだ。永田先生も御多忙の中、原稿をお寄せいただいた。認知症介護のリーダーであり、グループホームの生みの親として、全国を駆け巡り活躍されている。先生のご紹介で里を訪れた関係者は相当数に登る。多忙な先生のご好意に感謝この上ない。銀河の里の10年はこうした全国の深い理解者に支えられてきたと実感する。
 さらに記念号には新人からベテランまで思いの丈を書いた長文の記事が並んだ。普段は語らないまでも、銀河の里では、日々の感動や驚きの積み重ねが、それぞれのスタッフの心を通じて記憶され続けているということが、長文の原稿から感じられて嬉しかった。
 現場では個人的なプライバシーに関する出来事が大半なので、通信に載せられない内容が圧倒的に多く、ほとんどのことが外部には出せないのだが、何らかの形で、出会いと発見の感動を伝えたいという思いがある。
 音楽や絵画など芸術作品として表現できたらいいとも感じるのだが、それも芸術家も現実には難しい。施設長が「アートシーンとしての20年」と将来にむけてスタッフの展望を語っているのは、銀河の里の現場の仕事が、利用者と真剣勝負で向きあいながら、自分自身を見つめていく、芸術家の仕事と近いことを感じてのことと思う。
 銀河の里の取り組みの特徴は、スタッフが利用者と自分の関係を通じて、心のことに深い関心を持って注目をすることにあると思う。この10年を経て感じるのは、そうした心への関心は、制度やシステムで動く今の時代にはその余地が残されていないということだ。特に行政がらみの福祉の現場は、人間からかけ離れた管理とその体制だけが特化して要求される残酷なところがある。県や市の監査はむろん、第三者評価、情報公表といった近年の制度までも、一切人間を無視し、書類の整備にしか焦点は当てられていない。ましてや心のことなどは、存在さえ許されないような現状がある。
 制度やシステムは便利だが、それは人間を疎外し心を傷つけるということを、現場の痛みとして、あまのがわ通信では、かなり以前から訴えてきたように思う。
 人間や命の尊厳という言葉は書類上には溢れているが、現場ではそれが簡単に抹殺される。昨年の特養ホーム開設以来、そのことを我々は改めて思い知らされ、その苦闘はいまだに続いている。
 昨年2月、村上春樹がイスラエル賞を受賞した。イスラエルによるガザ地区攻撃の直後だったこともあり、受賞の拒否を求める声が広がった。苦慮しながらも、村上はイスラエルのその地に立ち、メッセージを伝えることを選んだ。そのメッセージは私にとって、震えが走るような衝撃的なものだった。「制度:システムは人間のたましいを傷つける」と明言したのである。
 文壇など既存社会から離れた所に身を置き、社会的発言はせず、海外で暮らすことも多かった村上は、オウム事件に衝撃を受け、それが転機となって日本社会への「自分の果たす責任」を考えるようになったという。それがなにか「探すだけではだめだ、なにか見つけなければいけない」とまで語り帰国する。そしてオウムを題材に初めてのノンフィクションを出版していくことになる。
 私なりの解釈では、明治以来、我々日本人は、極めて解りやすい答えを求めて生きてきた。富国強兵、立身出世、戦後は経済成長、安保闘争などと言った系譜がそれだ。そしてついにオウム事件で解りやすい答えを求める生き方は終焉したと村上は見たのではないか。彼は、個人の主体性を奪う集団の力をシステムと呼び、その本質が人々に考えることを止めさせるものだ見抜いた。現代は誰もがシステムに対して人格の一部を預けてしまっていて、浅い価値判断が至るところで行われる。それに抵抗する力として彼は物語の力を考えている。「物語の役割は、我々のたましいがシステムに絡み盗られないように常にそこに光をあて警鐘を鳴らすことだ」(1Q84)と言う。
 村上春樹はイスラエルの講演で、有名になった「卵と壁」のたとえを引いた。「私は卵の側に立ち続ける」という作家のメッセージは近年にない国際的にインパクトのある言葉ではなかったかろうか。そして昨年6月に、オウム以降の10年「何ができるか」と問い続けたひとつの結実として、小説「1Q84」が出版され世界的に大ヒットした。
 村上春樹は帰国直前、河合隼雄とアメリカで出会っている。「物語の力」を考える上で互いに大きな支えになっていたであろう二人の巨人の対話を想像するだけでときめく。その河合は「物語は何かと何かを繋ぐものだ」と言っている。切り刻んでくるシステムに抵抗するには、切り離されたものを繋ぐ戦いが必要なのかもしれない。全てが壁側になってしまったような現代にあって、圧倒的な多勢に無勢ではあるが、あくまで銀河の里とそのスタッフも卵の側であり続けたい。
 記念号なので字数制限を設けなかったら長文の原稿が並んだ。これらは利用者とスタッフの関係のなかで紡いだ物語の一端であるように思う。答えの出しようのない人生のプロセスに迫る挑戦が現場に息づいている証のように思う。これからもひとりひとりが、自らの感性と知性を駆使しながら歩むことで新たな道を切り拓いていきたい。立ちはだかる敵の強大さに比して、通信は極めて貧弱で地味ではあるが、銀河の里の戦いの軌跡を描いていくはずだ。
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ゲスト記事 回生 ★認知症介護研究・研修東京センター 永田久美子【2010年12月号】

 東京で働く私の職場の郵便受けには、連日、たくさんの分厚い研究報告書や資料が届く。そんな中で花巻市幸田から届く「あまのがわ通信」は、異彩を放っている。
 封筒そのものが銀河の里の風を運んできてくれるようで、封筒を手にすると、いつも一瞬、深呼吸してしまう。そんなはずはないけど、かつて訪れたことのある銀河の里の畑の地面や日なたのにおいがしてくるような気がする。
 そして封筒を空ける時、『今回はどんな内容かな?』とワクワするとともに、少し冷やりとし、自ずと背筋が伸びる。『自分が日々、そして今の時間、何をし、何をしようとしているのだろう?』。
 そんな自問自答は、「あまのがわ通信」の表紙の写真で木端微塵になる。紙面から写真のご本人が躍り出てきそうだ。漲る力、眩しい笑顔、やさしい目・・・。
 記事を読みたい気持ちを抑えつつ、ページをめくり、まずは写真の上ではあるけれどお年寄りや職員さんに、出会う。一枚一枚、どなたかがカメラのシャッターを押してその瞬間をとどめてくれたおかげで、暮らしに息づくお年寄りと職員さんの姿に触れることができる。
 お一人おひとりの自在な姿に、ひきこまれる。人は、老い、どんなことがあっても、こんな光を宿しているんだ。見ているこちらも、顔がほころび、ふつふつと元気が湧いてくる。
 銀河の里では、日常のあたりまえの光景かもしれない。しかし、そうした姿とあまりにも違うお年寄りや職員の姿を目にすることが多い私にとっては、「あまのがわ通信」の紙面のお年寄りと職員の姿は、とても尊い。
 写真の場面、そして銀河の里の日常の中で、何が起きているのだろうか。本当は飛んでいきたいが、それが叶わぬ私は、紙面の記事につりこまれる(きっとこの通信を手にする多くのご家族もそうなのでは・・・)。
 「あまのがわ通信」の記事は、施設の活動紹介とは似て非なるものだ。「施設の活動」ではなく、お年寄りと職員とが日常の中で、そこで、その時(生)を共にしたからこそ生まれた「人と人との物語」、唯一無二の生の証のように思う。職員が綴った文章は、お年寄りが、どんな風景の中で、どんな姿でどんな内なる思いをいだいているのか、その傍らで職員が何を感じ、どう動き、お年寄りと職員に何が起き、どう変わっていったのか、ありありと伝えてくれる。
 それらは、日常の中でお年寄りと職員との間で生まれては消えていく無数の出来事のほんの一端に過ぎないことだろう。それがこうした記事として表現され、その時間を共にできなかった人にも分かち与えてもらえることを有り難く思う。
 職員の内には、文字に現しきれなかった諸々のこととともに、お年寄りとともに体験した大切な何かがきっと刻まれていることと思う。日々、大地を耕し、種をまき、小さな芽を汗して手入れし続けた、その月々の結実の一つ一つが通信の記事。銀河の里では、林檎や米やねぎなどの新鮮な農産物以上にかけがいのないものが育っているのだと思う。
 かんかん照りの中でも瑞々しい人、風雪の中で凍てついたからだを温めあう人、消えいりそうな灯をひたすら守る人、努力が消し飛ぶような不条理の中でもそれらを生き抜いてきたお年寄りに学びつつ新たな智恵を生み出す人、刻々と変化し視界が曇る天候(世)の中でも進むべき星を見失わない人・・・一緒に暮らさない者にははかり知れない、もっと生々しく豊かな生き者(人)が住まう場が銀河の里であることを、あまのがわ通信のこれまでの100号が伝えてくれている。
 通信は、銀河の里の便りであるだけでなく、これから老いの向かうすべての人や、お年寄りの生が宿る場で働く全国の者にとってのかけがいのない道標だと思う。
 今、介護保険や医療保険の制度改革にむけた審議と作業が急ピッチで進められている。「生活支援」、「地域包括ケア」、「高齢者の尊厳」、「認定」、「介護職員の質の向上」といった言葉が飛び交っている。一人ひとりのかけがいのない暮らしを支え、本来は人に漲っている豊かな生を解放するために重要なはずの制度が、真逆な方向に流れてしまいかねない。お金がないからではない。人の命と暮らし、つながりの実相と可能性のあり方が変わってきている変化に制度と人が追いついていない。野から遠くみえない誰かが作り操る制度のあり方の変わり目にきている。
 これからも大地を踏みしめながら、お年寄り、家族、地域の人、職員が共に土を耕し、智恵と果実を育て、出荷し続けてほしい。貴重な出荷物のひとつ、あまのがわ通信が、1号の原点から100号、101号・・・その先へ。1号1号に記されるお年寄りと家族、職員の幸いを東京の地から祈るとともに、戴いた野の風と恵みをこの場からも出荷し、耕し続けて行きたいと思う。萎えた時は、空の銀河に思いを馳せながら。
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ゲスト記事 あまのがわ通信を読んで〜利用者家族より〜 ★黒澤千代子【2010年12月号】

 まずは、あまのがわ通信100号おめでとうございます。毎号楽しく読ませて頂いております。あまのがわ通信が我が家に届きますと、早速に通信を広げてたくさんの写真の中からやっと主人の写真を探し出し、「あっ、写ってる」と眺めながら、家にいる時の表情とはまた違った様子を見て、銀河での穏やかな日々の眼差しが写真を通して伝わり、家族もホットする場面になり嬉しく思います。
 皆さんの記事を読みますと、仮名で一人一人の様子を細やかに観察しながら、ユーモラスに書かれてとても暖かな気持ちになって癒されます。時には読みながら笑いが止まらないときがあり、とても興味深く読んでおります。記事の終わりに「次号に続く」とありますと、次号が届く翌月まで待ち遠しい気持ちでいっぱいです。

 主人が通うデイサービスのホールにピアノが置かれておりましたので、誰が弾くのかなと思い職員に聞いてみましたら、デイサービスの利用者である西野さん(仮名)が来て弾いていますと教えられ、何時か聴いてみたいと思っていました。先日の運営推進会議の案内にて「ピアノ演奏 西野さん」と書かれてあり、楽しみにしておりました。会議当日は、西野さんのピアノの伴奏のもと、昭和の懐かしい歌を皆で歌うことができ、とても楽しい会議となりました。
 その西野さんですが、当時ケアマネージャーだった職員の板垣さんと西野さんとのやり取りが通信の記事として3回連載で面白く書かれていました。新人ケアマネージャーとして寝たきり寸前の西野さんに病院や役所を巻き込んで奮闘する板垣さんをよそに、自分のスタイルを貫き通すピアニストとのやり取りに笑いが止まりませんでした。
 実物の西野さんを見ますと、記事の中での板垣さんと西野さんとのやり取りを思い出し、また思い出して笑ってしまいました。通信の写真で見るよりもとてもステキな方で、またピアノを聞かせて欲しいなぁと思っています。
 特養ホームの三浦さんの「大雨の墓参り」の記事を読んで、人間の心と心の結びつきに深く感動しました。介護経験の無い三浦さんが龍治さん(仮名)から馬鹿にされながらも、本気で接している姿に心の美しさを感じ、記事を読んだ後も涙が止まりませんでした。“三浦大根”から“三浦さん”に昇格して本当に良かったですね。

 宮澤理事長さんの「ケアと教育の逆転」の記事の中で、「“銀河の里は、表向き介護や障がい者支援の福祉施設だが、その本質は人材育成の教育機関だ”とうそぶいてきた」とありましたが、デイサービス、ショートステイの利用者の家族として長年に渡り職員と接し、日々成長している姿を見ますと、それが嘘ではなく本当のことのように思います。この精神が宮澤理事長さんの常々のお話や通信の記事を通して若い職員の方々に日々受け継がれ、「高齢者施設は若者を教育する場」として、キラッと光る銀河の里でありますようにと願っております。
 最後に、職員の皆様方の御苦労に本当に頭の下がる思いです。心より感謝申し上げます。なお、あまのがわ通信が、これからもますます面白くなって行きます事をご祈念致します。
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MAYAの音楽祭と私の20年 ★施設長 宮澤京子【2010年12月号】

 11月14日、今年で3回目となった「銀河の里音楽祭」は、アンデスの民族音楽フォルクローレを奏でるグループMAYAをお迎えした。
 MAYAに出会ったのは20年ほど前になる。高校卒業後すぐに上京し、がむしゃらに生きてきた18年間の東京生活にそろそろ別れを告げようとしていた時期だった。ひょんな事から参加したコンサートでMAYAの奏でる哀愁を帯びたメロディーに触れ、一気に魅せられた。特に「サリーリ(人の悲しみ)」は心に響き、私自身が長年、不毛の荒野を旅しているイメージと重なり、胸が詰まって涙にむせた。しかし、曲を聞きながら「これが私に与えられた道なら、歩き続けるしかない」とそんな覚悟をさせられた。厳しい現実に立ち向う自分を大きく包んでくれる「母なるもの」を曲と演奏に感じたのだった。
 のめり込むように聴き入っていると、リーダーの橋本さんの作曲による「セレナータ」の甘いメロディーに、日本人としての情緒とシンクロしてなのか、うっとりさせられた。岡田さんのサンポーニャの激しい動きが聞かせどころの「ティブロン」にも魅了された。アンコールの「花祭り」は、とても陽気なリズムで、手拍子と共に足を踏みならし心踊らせていた。初めて聞いたフォルクローレですっかりMAYAにはまり、それからコンサートがあれば欠かさず出かけたのだった。
 岩手に移ることが決まったあたりで、当時のマネージャーに岩手での公演をお願いした。移転後の翌年、公演が実現しその後も何度かMAYAは岩手に来てくれた。「銀河の里」の開所式とグループホーム第2の開所式でも演奏をしてもらい花を添えてもらった。それ以来あっという間に8年の月日が流れ、今年は銀河の里10周年の節となる音楽祭なので、是非ともMAYAを聞きたいということで、久々の再会となった。
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大きなお母さん ★特別養護老人ホーム 前川紗智子【2010年12月号】 

 「お寺の屋根のようになりなさい。」と言ってくれた人がいる。マニュアルだらけの時代に、在り方、居かた、たたずまい、ふるまい、お作法などを語る人にはめったに出会わない。「あなたと私で研究しましょう」その人は私をそう励ましてもくれた。残念ながらこの春、鬼籍に入られてしまったけれど、私はその人の生死を越えて今も支えられ続けていると感じる。いつまでもこの心強さは揺るがないんだろうなぁと思う。

 その人と初めて出会ったのは、昨年の秋。里の稲刈りの田んぼにゴトゴトと車いすでやって来て、みんなの作業の様子を、小さい目をまん丸にし、両手を合わせて見つめていた。私が挨拶をすると、「こんな素晴らしいところへ、連れてきていただいて、みなさんのこうして一生懸命働く姿を見させていただいて、どうもありがとうございます…」とずいぶんと丁寧に言われるので、私も面食らいながら「そんなに言ってくれてありがとうございます。」と互いに手を合わせながら拝みあった。
 深い感慨を持って、稲刈りの風景を味わってくれる人。この稲刈りの風景の何がこの方の心を動かすのか…、その時、私には謎だったが、その人との出会いにワクワクするものを感じた。

 年が明けて私はグループホームから特養に異動になり、その人、ツキコさん(仮名)と再会する。特養のツキコさんは、あの時の田んぼの雰囲気とは違って口数も少なく、居室で過ごすことが多く、私はなんだか残念な感じがした。
 立ち上げ途上の特養は、悪戦苦闘の真っ只中だった。私は、新しい部署で覚えなければならないことが山ほどあるだけでなく、馴染んできた里のグループホームの空気とすべて比較して考えてしまい、それで逆に辛くなった。“一緒に暮らしている感じがしない”とでも言ったらいいか。例えば食事は、場所もタイミングもバラバラ。機械的に片付けられていくような寒々しさ。みんな揃っての食卓という感じが薄い。“家じゃなくて、食堂だと割り切った方がいいのかもしれない…”そう考え方を変えてみても、現実問題、食べ終わった人がいるかと思えば、まだ居室にいる人もいる。食べている人のその横を次の介助に行く人…。私はその間を行き来しながら、心がワサワサして、バタバタと動くしかない。利用者さんの心模様を味わうような余裕はなく、関われないまま放置しているような、それでいてただ忙しく、めまぐるしい。この苦しさや、さみしさをどうすればいいんだろう…とぐるぐるしていた。
 新部署で戸惑い、まいっているそんな私に、あのツキコさんが声をかけてくれた。特養では活力に欠け、口数も少ない様子に見えていたが、その実、内面では心も頭も巡らせていて、思いもかけない鋭い言葉をかけてくれた。その独特の語り口、魔法のような不思議な言葉。ツキコさんは、場面や人を鋭く見ていて、その人に合った言葉をくれる。その言葉はまさに、特養立ち上げの現状と、そこでヘロヘロになっている私の心の奥底まで見抜いていて、重く私に響いてきた。そして、銀河の里や私自身がどこに向かうのか、その方向性さえ指し示してくれるのだった。
 「この家、なんじょにしたらいいがど思って…。ずいぶん、寒がったよ」
 その通りそれが今の現状。今日一日の私のありさまを振り返る。せわしいだけで利用者さんの誰とも繋がれない。確かに…寒いやりとり。
 「やっぱり私は、帳面に書いて残さなければならないと思う。…次の人がしっかりわかるように。それが、何と言ったらいいか…そう、お作法だと思うんだけれども。」
 「あなたはお寺の屋根のようになりなさい。屋根の下で、みんなが雨風しのげるように…」
 「屋根が直ったら、次は皮だ」<壁じゃなくて?>「皮。皮も直していかなきゃ…」
 かわ?皮?川?謎かけだ。相手と隔たる強固な壁じゃなく、皮膚と皮膚が触れあうような距離感ってことなのか…。みんなを包む大きな屋根になって、人と人、触れ合って生きていく、そんなイメージを膨らませる語り。私はツキコさんの一語一語を聞きもらすまい!と強烈に思った。
「今日はよかった。おなごさんたちの底力を見せていただいた。集まったおなごさんたちが、みんなで手に手をとって。・・・そこにどう男を組み込むか…」う〜ん…と一緒に頭をひねる。
「作戦計画を立てなければならない」
「お空の色をなんじょに見るか、誰と誰が喧嘩してるか、ツキコはそんなことまで考えてるの」
「あなたたちのような可愛い娘さんたちを守るのんも、ゆるぐね」
 ツキコさんは、本来は腰痛で辛い状況だったはずだが、自分の事は横に置いて、特養のことや私たちのことを一緒に考え、守ったり、育ててくれようとしていた。以前に、「ここまで大きくしてやったのに、そったな口きく…現代のお母さんは。」と言われ、<じゃあツキコのお母さんは?>と訊ねてみた際には、「大きいお母さんなの」と言って笑っていた。

 ツキコさんの雷が落ちたこともあった。その日は入浴の誘いを「堪忍してけで」と断っていたツキコさんだったが、トイレからの流れでそのまま浴室へと連れて行かれてしまった。「ふざけで!!」「こんなやり方で、それが間違っていないとでも思ってるのか?!」お風呂の後、ツキコさんは、その件には全く関わっていない、通りがかりの男性スタッフを怒鳴ったのだが、なんの事やら解らずスルーされた。そこで私が「どうしたの?」とツキコさんの横に座ると、あふれ出る怒りをぶつけてきた。それはモノの様に扱われたことに対する怒りだった。
 「それでいいとは、見損なった。あなたと私はおんなじように考えているものだと思っていたのに。」「あなたは子どもたちを、みていて、お空の、飛行機のところからみていて、その子が間違った方へ進みそうになったら、それを正してあげる、それがあなたの仕事じゃなかったのか!」
 何事もおおらかに、受け入れてくれるツキコさんだっただけに、信頼を失ったようで、私はショックだった。利用者さんのためにやっているはずの介護が、簡単に形骸化してしまう現実の怖さ。とても大事な部分をついてくれた。その夕方、退勤前にツキコさんのところへ行くと「なるようになったじゃ。ご苦労さん。これで終わりだな」と怒りを納めてくれるのだった。

【立て直し工事】
 それは佳代さん(仮名)の退院祝いの日だった。午前中からケーキを作る人、飾り付けする人、おかえりのメッセージを書く人、プレゼントを用意する人がいて、会を彩るためのピアノの練習の音も流れていた…。入念な打ち合わせをしたわけでもなく、「佳代さんに喜んでもらおう!」「びっくりさせたい!」そんな空気が広がって、北斗とすばるを巻き込んでいい雰囲気ができていた。
 主賓の佳代さんは入浴後、着飾って登場する手はずになっていた。いよいよ、ピアノの演奏とともに佳代さんが登場。「退院おめでとう!」席に着くと、新人スタッフが“ケーキ出していいっすか?!”と目配せをくれる。ケーキが登場すると今度は男性スタッフが、さっと入って佳代さんと一緒にケーキカット。それぞれがはまる場と、それぞれの存在が光る場があった。打ち合わせは無いけど、阿吽の呼吸で、会が進む。佳代さんとスタッフの関係性が、スタッフを主体的に動かして、いい雰囲気で盛り上がった。特養がこんな日々であったらいいと思える時間だった。
 会の終わりに記念写真を撮ろうと、テーブルを寄せた。ツキコさんの前のテーブルをどけたとき、ツキコさんが「よくあなた道を開いたね」と言った。それは今テーブルを動かしたことなのか、今日の雰囲気が良かったことを指しているのか、判然とはしなかったが、私はハッとさせられ、その言葉が深く心に入ってきた。退院祝いの会が終わり、夕方窓からりんご畑を眺めていたツキコさんが、通りかかったスタッフに、「ここの工事はこのままでいいのか?」とたずねた。<大丈夫、やってくれる人いるから>とそのスタッフが応えると、今度は私へ「あ〜、私はこれでもう終わりにする。とってもおもっしぇがった。…んだども私は歩げねし…」と言った。確かにツキコさんは特養の立て直し工事をしてくれたに違いないと思った。ツキコさんの語りが、私達を励まし、気づかせてくれた。私が<見守ってくれる人があって、面白くしたくなる>と言うと、「いい顔だごど。」と私の髪を撫でてくれた。その夜、北斗から帰って行くスタッフ一人ひとりに「どうも、ごくろうさんでした」と大きな声をかけてくれたツキコさん。そしてベットに横になると、呟くように「ひとっつおもしれんば…、おもしろぐなるもんだな…」と言った。ひとつが面白く動き出すと、みんながつながって全体が面白くなっていくと言っているように私には思えた。

 ツキコさんはその後まもなく、抱えていた腰痛も悪化し、食が進まなくなり入院された。お見舞いに行った時、お会いしたお孫さんがユニットのスタッフの一人にそっくりでびっくりした。私たちと家族の様に接してくれたのには、そんな背景もあったのだろう。私もお孫さんと、初めて会ったとは感じられず、ツキコさんの存在に私たちが育ててもらったことや、ツキコさんがくれた支えのまなざしや言葉の数々を語らせていただき伝えることができた。お孫さんからは、ツキコさんが毎日、庭と畑に出て「育てる」ということを実践されていた方だったというお話しを聞かせていただいた。病室のベッドの横には、その庭で育ったお花が活けられていた。
 「お寺の屋根のようになりなさい」という語りは、これから私が一生かけて追っていくものなんだろうと思う。私はその境地にたどり着けるのだろうか、それはわからないけど、追いたいと駆り立てられる大きな一言を残していってくれた。ツキコさんは言葉を越えてその存在がみんなを包む大きな屋根で、大きなお母さんだった。半年足らずの短い間ではあったが、一緒に過ごせたことに感謝したい。
 マニュアルじゃなく、お作法、たたずまい。おなご達の底力、お空の色等々。謎に満ちた大事な言葉と共に、私達を支え見守ってくれたツキコさん。私はツキコさんには恩返しできないが、ツキコさんが私にしてくれたことを、いつか次の世代に返してけるようになりたい…と思う。
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銀河の里として行ったリンゴ収穫 ★ワークステージ 米澤充【2010年12月号】

 ワークステージ銀河の里の新規事業として、今年はリンゴ栽培に取り組んだ。春先の肥料撒きから始まり、花摘み、摘果、葉っぱ取り、そして収穫まで、リンゴ栽培の一通りを終えた。最後の1本の収穫は、高齢者も含めて銀河の里全体で収穫したいと思い、各部署から参加を募った。

 これに是非参加してほしかったのが「リンゴ栽培は大変だよ〜」と苦労話を私に聞かせてくれた、特養ホームの祥子さん(仮名)だ。その祥子さんを“畑の先生”と慕っている一番弟子の三浦君に、リンゴ畑に立つ祥子さんの姿を見てもらいたかった。
 グループホームのより子さん(仮名)は、運営推進会議で「銀河の里の中だけではなく、もっといろんな場所へ連れてってください!」と要望する人だし、テンションがハイとの情報もあり、山の中のリンゴ畑に誘いたかった。声をかけると即答でOKだった。「当日は何時に迎え来てくれるの?」「10時に行くよ」「じゃあ9時30分には出られるように準備しとく。それと米澤さんの赤ちゃんも見せてけでよ!」そのやり取りを聞いていた職員が「あら、より子さん。どこに行くの?」と質問したので、「デートだよ」と私が冗談で答えると、「誰、この60(歳)のばさまとデートして何が楽しいってや!奥さんに申し訳ねぇべ!」と楽しそうに話すより子さんに大笑いした。

 11月27日は天気にも恵まれ、リンゴ畑には全部署から職員・利用者がそれぞれ集まり、総勢24名のイベントとなった。
 祥子さんはリンゴ畑に到着後、実のなったリンゴの木をみるやいなや目つきが変わった。野菜畑で見せる目つきとは違う、きりっとした仕事モードという感じで、まだみんなが集まっていないのに収穫かごを担いで早々と収穫をはじめてしまうほどだった。みんなが集まり、いよいよ収穫が始まると「リンゴを引っ張って取ってはだめだよ!軸を残すように回して取らねば売り物にならないよ!」“畑の先生”の指導がリンゴ畑に響く。収穫後、みんなでもぎたてのリンゴを食べたが、祥子さんはリンゴの選別を一人でもくもくと行い、仕事モードはなかなか止まらなかった。
 より子さんは、外出に満足したのか、収穫は早々と終え、リンゴ畑の落ち葉で焼いた焼き芋を食べながら、ワークステージの若者と嬉しそうに話していた。笑顔のより子さんから、外に出かけるっていうのは、遠くに出かけたり、お金をかけたりしなくても、身近なところで出来ることもあると感じた。

 米澤家の、昨年の収穫作業は雪が降るなか12月中旬までかかったが、今年は銀河の里の事業としてリンゴ班の活躍もあり、収穫作業は半月以上もはやく終了した。りんご園が大勢でにぎやかになった事は、去年までは想像もできなかった光景でとても感慨深かった。
 リンゴ栽培を決意し、婿として米澤家にやってきた2年前、何も分からない私に、祖父はこう言った。「自分で好きなようにやってみていいよ。経験して少しずつ覚えていけばいい。まかせたよ。」その言葉は、リンゴ栽培の作業面の事を言われたのかと思っていたが、今年の皆で行なった収穫のように、今までの仕組みや考え方を超えた、リンゴ栽培の取り組み全体を含んだ言葉だったのかもしれない。今年の5月に亡くなった祖父に、24人の笑顔のこの光景を見せたかった。秋晴れの強い日差しは、祖父からのまなざしのようでとても眩しかった。

 私は里の広報を担当しているが、これからも通信を通じて、銀河の里の取り組みの様子、スタッフや利用者の表情を伝えて行きたいと思う。リンゴ作りや田んぼ作業など、農業は銀河の里の基盤であり続けるだろうし、障がい者、高齢者支援、地域の在り方なども考えなければならない。あまのがわ通信の存在意義や、あり方を常にフレキシブルに捉えつつ、編集委員としても挑戦していきたい。
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風・土・ひと ★ワークステージ 佐々木哲哉【2010年12月号】

 彩りの秋も足早に過ぎ、静寂の冬に入ろうとしている。稲を干すはせ、漬物用に軒下に吊るされた大根、“からんころん”と大豆を脱穀する音、やっとこさ土から掘り出したさつまいもを手にしたときのみんなの歓喜と紫色の輝き、夕暮れとともに鮮明な色を一層輝かす柿やりんご‥‥。銀河の里の田畑の営み自体は毎年とさほど変わらないけれど、今年は暑かったことに加え、昨年以上にスタッフもメンバー達も動きが良くなり、適期に作業ができたことで、収穫物がより豊かとなった。
 「ほんとうに大切なものは 目にみえない」とは、「星の王子さま」の名言だが、農業の場合は「目にも見える」のがよいと思う。作物は正直だ。手をかけた(あるいは手抜きの‥‥)成果がはっきりみえて、節目や区切りがあるから飽きず、達成感がある。野菜や果物の色・かたち・匂い・味、田畑の様子、それらをとりまく里山の季節の移ろい‥‥視覚だけでなく、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五感を揺さぶられる。
 そして、そこにたずさわる人々がいると、農村は「風景」から「情景」に変わる。農作業に汗するワークのメンバーの姿、それを見守るグループホーム・デイサービスや特養のおじいさんおばあさんのまなざし、そこに関わってつながろうと奮闘するスタッフたち‥‥米づくり一つとっても、種も、苗も、穂も、そしておにぎりに至るまで、そこに人と人との関わりがあれば、そこから「ものがたり」が生まれる。苦労したぶんだけ作物も人間同士の関わりも、ただの商品やこなし作業ではなくなり、管理的なケアをも打ち破り、「ものがたり」や魂をもった永遠に未完の芸術になるように思う。「あまのがわ通信」は、その思いの詰まったわたしたちのひとつの表現ではないだろうか。

 風に吹かれ、土にまみれ、目にみえるものをとおして、逆に目にみえない何かが訴えてくる。湧き上がってくる。それは喜びや悲しみなど抑えきれない衝動的なもの、胸にあふれるもの、表現せずにはいられないもの、呻きといった本能的な魂の叫び‥‥もともと芸術とは、人間の営みの根源的なところから生まれてくるものだと思う。作物をつくることは、生きることであり、その姿は誇り高く、美しい。

「農民芸術の産者‥‥われらのなかで芸術家とはどういふことを意味するか‥‥
職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於いて各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である
創作自ら湧き起こり止むなきときは行為は自づと集中される
そのとき恐らく人々はその生活を保証するだろう
創作止めば彼はふたたび土に起つ
ここには多くの解放された天才がある
個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯くて地面も天となる」

宮澤賢治 「農民芸術概論」より

 いま日本の農業や農村は、過疎化や後継者不足によって集落・田畑の維持が厳しい。追い打ちをかけるように「TPP」(農産物輸入の自由貿易)の参加による壊滅的な危機が予想されている。農業が自然の力や地域などの影響を受けざるを得ない以上、拡大やグローバル化には限界があって、小さな農家や兼業農家、都市から離れた農村は淘汰されつつある。
 「ただ作ればいい」という農協との馴れ合いや、国からの補助金に依存した農家・農業の体質にも一因があるが、農業を商品経済の枠のなかだけで捉えて農作物や労働が管理されて不効率なものが切り捨てられていくなかで、自然と共に積み上げてきた農村の暮らしや智恵はどうなってしまうのか‥‥。

 4年前のあまのがわ通信に、理事長は岩手に移住した20年前を振り返り「暮らしは残っていなかった」と語っている。「農に根ざした福祉の実践」とは何か、あらためて問い直したい。「暮らし」も農業も、生きることと直結している。銀河の里の農業は、レクやイベントでもあり、自己完結的な家庭菜園でもあり、収入を得るための兼業農業でもありと、多面的な意味を持っている。しかしその本質は生きることへの深い問いかけと情熱ある挑戦だと思う。「暮らしを大切にすることで、便利で簡単な生き方から脱却し、リアルな人生の可能性を開けないものか」‥‥里において利用者とともに、支援してくれる方々・消費者とも、多くの未知の方とも、もっとつながる関係を意識して、土の上に立ちたい。そんな思いを綴ったこの通信とともに、「ものがたり」をもった農作物や総菜加工品などを、味や品質を追求しつつ、そこに商品を越えた価値や関係を育みながら、長く続けていける農業を志していきたい。
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介護者の条件 ★特別養護老人ホーム 酒井隆太郎【2010年12月号】

 俺は、この春転職し、福祉の世界に入ったばかりだ。営業先として来ていた銀河の里の雰囲気にどこか惹かれ、ここで働いてみたいと思ったのがきっかけだった。なんの経験もないまま飛び込んだので、介護ヘルパー2級のコースを10月から受講しはじめた。順調に座学は終え最後の施設実習に2日間挑戦した。
 実習先は病院と隣接した、設立20年以上の歴史のある老舗施設であった。中に入ると、200人も入れるようなホールがあり、古い蛍光灯が並んで暗くどんよりしていた。そして会社の株主総会でもやるかのごとく整然とテーブルが並んでいた。
 ホールの横にはナースステーションがあり、リハビリの器具が並び、何人かの人がいた。ホールには人はまばらで、皆無言で静まりかえっていた。俺の他にも、専門学校から介護福祉士の実習生が3名来ていたが、ヘルパー2級の俺は格下の感があった。
 10時のおやつが終了してレクリエーション。そこで利用者さんと触れることになった。スタッフは、楽しそうに声を張り上げ丁寧な言葉で一生懸命会を進めているのだが、利用者さんの表情はなかった。実習生のひとりは汗をかきながら必死にやっていたが、誰も乗ってくれない感じで滑りきっていた。騒いではいるのだが誰も乗っていない妙な空気に包まれてレクリエーションは終わった。
 次は入浴の介助の場面に移った。凄まじい現場だった。まさに芋を洗うかのごとく次から次へと流れて製造業のライン作業のごとくだ。このスピードに乗れなかった俺は、邪魔者ヘルパーと思われただろう。これでは時間や業務に追われ、自分を失って感覚が麻痺してしまい、思考回路が断線されてしまう。でも、何故、そうしなきゃならないんだ。何かがおかしい。俺達は人間のはずだ、人間は思い、考え、心で行動するはずだと思っていた俺は、目撃した入浴介助惨劇に完全に打ちのめされた。
 昼食時、俺は見守りをするよう言われた。3人の利用者のテーブルに腰をかけたとき利用者さんと話しをするチャンスができた時はホッとした。会話のなかで俺にも心地よい時間が過ぎたように感じていた。食事が終わったあたりで女性の利用者さんから「あなたも、一緒に食べれば良かったじゃない。」と言われた。俺は監視役になっていたのだ。残したら食べさせられる、早く食べろ、そんなやつになっていたのに違いない。息子の好き嫌いをなくそうと見ていたら、息子は逆に何も食べられなくなったことがある。食事を他者から見られているのは違和感だろう。俺は、それをやってしまった。何か自分が変な人間になったように思えた。
 俺はその日、銀河の里に戻って「2日目の実習は勘弁してもらいたい。キャンセルしてほしい」と泣き言を言った。しかし、「もう一日だけだから我慢して、なかなかできない経験だし」と却下された。

 2日目、10時のおやつに豆乳が出た。昨日の失敗をふまえて、ひとりのおばあちゃんと話しがはずみ、俺とその方のいい時間が流れていた。ところがそこへどこからかもの凄い勢いでスタッフが来て、飲みかけの豆乳を振り「あっ、まだある」とつぶやくやいなや、ストローを利用者の口に入れ、豆乳のパックをジューッと絞って流し込んだ。あまりの出来事に一瞬何が起こったのか理解できず目眩がする思いだった。ゆっくり飲むことも、過ごすことも出来ないのだ。誰もが時間を失い、なにか大切なものを失っている。
 その後、昨日と同じやらせのレクリエーションがあり、そしてまた悲惨な入浴戦争が始まった。邪魔者ヘルパーの俺は浴室に行かず、女性の利用者さんに水分補給を名目に話しかけた。しっかりした受け答えで話しをしてくれて、見知らぬ俺の存在を気にかけてくれているのも伝わった。人と関わるということは本当にありがたい事だと救われるような思いだった。その方が別れ際に「私達、年寄りにとってここは最高の場所なんだよ。」と言われた。俺は何も言えずただ呆然と座り込んだ。
 そして昼食がきた。俺は昨日と同じテーブルに座った。ゆっくりのペースで食べるおばあちゃんがいた。主食を食べ終え、副食は半分くらい残っている。俺は話しかけながら食べるよう勧めていた。そこへ昨日の経験からすると予想通りスタッフが参上した。いつまで食べてんだ!といわんばかりに副食のお皿一つを残して、他はさっさと片づけてしまった。再び現れると、副食の皿を利用者の手にさしだした。すると俺と話しながら笑顔だった表情が急に曇り、仕方なくといった感じで食べ始めた。利用者さんとは会話もせず、介護側の事情と判断をうむも言わさず一方的に押しつける。これは何なんだ。
 昼食が終わると、利用者は部屋へ帰るのだが、その車椅子のスピードが半端じゃない。F1レースのスタート直後の混戦を思い浮かべる感じだった。タイムを争っているのか?何故そんなに時間に追われるのか理解できない。帰るときも出てくるときも、必ず車椅子レースがはじまる。凄いスピードで走り、止まるときはこれまた凄い勢いで停まるので利用者が吹っ飛んでしまうような勢いなのだ。なんでそんなに急ぐんだ。
 夕食前に少し時間があいた。スタッフが俺に「ここでは、コミュニケーションがなかなかできないから、この時間でコミュニケーションをとって」と言った。
 コミュニケーションってなんだ。人間の感情や心や個性に関心を持たないでコミュニケーションが成り立つのか。それともコミュニケーションと言うサービスがあるのか。解らなくなる。コミュニケーションの土台がないではないか。ところがその一方でスタッフ達はナースステーションでおしゃべりしている光景が目についた。ホールに残された利用者は置いてけぼりの感じ。利用者とスタッフの世界は全く別の世界になっていて、関わるのは業務だけで別々に生きている。
 凄惨な現場の実態を見て、俺は柄になくかなり傷ついた。思い出すと非常に切なくなり、怒りの感情が吹き荒れそうになるので、これ以上は書かない。ともかく体と心に重い疲労が残った。

【実習を通じてこんな事を考えた】
 人間は生きている、生きている限り自分の存在を自由に精一杯表現していきたいと思う。
 人間は生きている、生きている限り喜怒哀楽を自由に表現したいと思う。
 人間は生きている、生きている限り好きな事を自由にやって楽しんで行きたいと思う。
 人間は生きている、生きている限り人との関わりや繋がり、絆を大切にしたいと思う。
 人間は生きている、生きている限り学び続けたいと思う。

 いずれにせよ今回の実習はいろんな意味でいい勉強になった。俺はまだなんの資格もなく、言わば無免許で仕事をさせてもらっているが、介護者には何よりも人間の免許が必要なのだと感じた。介護の現場では、人間同士の関係や気持ちのやりとりが大事だ。人のことを考え、自由を感じ、繋がり、絆が芽生える現場でなければ、介護は作業になり疲れるだけでただ辛い現場を作ってしまう。
 人が生きていくことがひとつの旅ならば、俺もみんなも旅人だ。障がいがあっても認知症になっても、生きている限り、人は自分の旅を歩き続ける。その旅を共に歩いて行くことが介護の現場に一番必要な感覚ではないかと思った。
 この実習の経験は、介護の仕事を目指して旅だった俺の原点になったように思う。方向性はまちがっていないと確信できた。俺は銀河の里で俺の道を行く。
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私とあまのがわ通信 〜編集後記に代えて〜 ★デイサービス 小田島鮎美【2010年12月号】

 銀河の里に来てまもなく通信と出会った。1部を手に取り読んでみるとまるで自分もそのことを体験しているかのように心が動き、その世界にひきこまれ、タイムリーに発行されたものから過去のものまでどっさり家に持ち帰り読みこんだ。銀河の里のスタッフと、そこで暮らす利用者さんが、介護者と利用者ではなく「あなた」と「わたし」という関係で出会い、感性豊かに、つながり、ぶつかり、個性を全開にして色濃く過ごしていることがありありと綴られていて、次々と通信を読んだのだった。
 銀河の里で、私はたくさんの人に出会い、その人の人生や思いに触れ、感じ、考えてきた。さらに、農業、昔の暮らし、音楽、芸術、本…今までで触れたことのないものにたくさん出会い、心が動かされ、その出会いを通してこれまで考えもしなかったことを自分の中にテーマとして投げかけ考えるようになっている。
 この秋、私は初めて家族の死を体験した。7年間、一緒に過ごした愛犬の死。布団に横たわっている愛犬は、大事な何か…「あなた」がなくなってしまい、抜け殻のようだった。冷たい体、ぺったりと垂れ下がった耳、血の気のなくなった青白い毛と肉球、硬くなった頬の筋肉。半分開いた、うつろな目。心が通わない、私を感じてくれない。彼はどこへ行ってしまったんだろう。繋がっていたものが、ぷっつりと切れてしまった感覚。
 腎臓の機能が落ち、おしっこが出なくなり、おなかがパンパンに膨れあがっていた。その体をなでながら一晩中涙がとまらなかった。
 翌日、どしゃぶりの雨のなか火葬に向かう。炉の扉がガシャンと閉められたとき、もっと遠くへ行ってしまうんじゃないかといっそうつらい気持ちになって、みんなで名前を呼ぶ。けれど、お骨になって、なぜかスッと気持ちが落ち着いた。死を受け入れている自分。体はなくなって、目には見えない存在になってしまったが、愛犬はいまも見守ってくれていると感じた。火葬が終わって、雨も止んでいた。家に帰って、お線香をあげ、お水とごはんを置き、手を合わせる。その日の夜、私はやっとごはんが食べられるようになった。
 亡くなった体をきれいに整え、明かりを灯し、最後の時間を過ごす。お葬式で別れの挨拶をし、みんなで送り出す。火葬をし、大事に、思い思いにお骨を拾う。お骨を墓におさめる。亡くなったあとも、お線香、お水とごはんを上げ、毎日手を合わせる。死によって切れてしまったものが、またつながる。死の儀式のひとつひとつに意味があり、それはこころと深く結びついていることを知った。死を肌で感じ、自分自身の心の動きを見つめ、動き続け変わり続ける命というもの、生きているとはどういうことなのかいうことについて考えられたのは、銀河の里の土台になっているものに守られ、支えられているからだと感じる。その土台のひとつに、あまのがわ通信があると私は思っている。
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遊びと出会い ★特別養護老人ホーム 板垣由紀子【2010年12月号】

 オリオンの邦恵さん(仮名)と、私はいつもポンポンと言い合う。邦恵さんは江戸っ子を絵に描いたような人でストレートにハッキリものを言う。奥歯に衣を着せたような物言いでは、「何いってんのか分かんないわよ。」とバッサリ切られてしまう。そんな邦恵さんに「江戸っ子だってね〜神田の生まれよ。」と投げかけると、「私?神田じゃないわよ。谷中初音町」上野の裏あたりらしく、小料理屋をやっていたとの話。やはり江戸っ子だ。
 車いすの彼女の介助は大騒ぎだ。始めは「いた〜い。足折ってんだからね〜(もう完治しているけど)優しくしなさいよ。薄情な女ね〜。」ときた。やがて「いた〜い〜。」がなくなり、「上出来!」と合格をもらった。それからは私も「いい?つかまってて踏ん張ってよ、空飛ぶよ〜。ついてきてね〜。」「さぁ〜ダンスするよ。ここに手を回してね。」二人で楽しんでいる。
 パット交換も「止めろ〜。叩くぞ〜」と攻撃があるので、「こっちは拭いてやる」と応戦する。自分の部屋での邦恵さんはこんな感じで遊んでくれるので、こちらも介助する立場を感じないで済む。
 ユニットすばるのもうひとりのクニエさん(仮名)。こちらは言葉が少ない。だが意思表示はハッキリしている。朝食後、暫く車いすで過ごしたが、疲れたようなので、ベッドに移動した。昼食の時間になったので誘うと、首を横に振って断る。食欲も無いのかもしれない。
 少し時間をずらして、ご飯の誘いに行くとやはり首を横に振った。「じゃ何かおいしいもの飲むだけでも私に付き合って」と誘うと、首を小さく縦に振った。飲み物を口にするが、なかなか飲み込めない。クニエさんも冴えない表情をしている。人目が気にならないように、みんなから離れて、窓の外の景色を見ながら、ゆっくり食事をしていた。そのうち、隣のユニットから卓球で遊ぶ歓声が聞こえてきた。その声に「卓球でにぎやかだね。」と言うとこくりと頷く。
 クニエさんの手は冷たかった。「今日寒いから手冷たいね。」とさすりながら手をちょっと握ると、クニエさんが私の親指を抑える。指相撲になった。私は負けずに親指を抜いて上に重ねると、負けじとやり返してくる。結構本気で力が入る。「クニエさん、実は、負けず嫌い??」と言うと、にか〜っと笑う。「あれっ?さっきまで疲れて寝てたのはタヌキ寝入り??」と聞くと、大きな口を開けて笑い出す。二人で大笑いしながら「それじゃ〜この芋食べたらもっと力でるからどうぞ。」とおかずを勧めると、パクリと食べてくれた。「どれどれ、力ついた?」と声をかけると、なかなか指をはずせないくらいの力が加わる。「やるな〜クニエさん。」そのうち負けそうになるとひょいと人差し指を使って勝とうとする。「ええっ反則だ」私の遊び心も全開。
 「おぬしも悪よの〜」と言うと声を上げて笑い出す。その後はさっきまで飲み込めないでいた食事がうそのように進んだ。隣から聞こえてきた遊びの雰囲気に押され、はじめの「食べさせなければ」は、どこかに消えていた。遊びには、不思議な力がある。遊びを介したとき、私と2人のクニエさんの間に介護する人とされる人という縦の関係が、横の対等な関係に変わっていた。遊びの時間は、ゆっくりと流れる、無駄なようでも遊びを失うと、大事な何かも失ってしまうように思う。

 銀河の里で働き始めて気がついたのだが、私は実用主義一辺倒な人間だった。時間も無駄なく有効に使って、技術を磨いてスキルアップしようという考えが強い。その傾向は今も変わらないが、現場で働き始めて分かったのは、今まで無駄だと思ってきたことがとても大事に思えるようになったことだ。
 コンサートで音楽を聴くことや展覧会で絵を見ること、そしてチケットを買って演劇を見ることなどは無駄なことに思っていた。音楽を聴くならCDで十分くらいの感覚だった。絵もどう感じていいのかよくわからないと思っていた。中学の美術で、ピカソのゲルニカを見たがさっぱりわからなかった。でも今はピカソを面白いと感じられる。
 銀河の里で働いて3年目に林英哲の太鼓と出会った。最初はセミナーで紹介されたDVDから、一心に太鼓を打つ英哲のその姿が迫ってきた。翌年、芸術研修で林英哲のコンサート「澪の蓮2006」を聴きに行ったとき、ちょうど私の部署移動と重なり、「舟歌」という演目の勇ましくダイナミックな曲を聞きながら、新しい出会いへの船出のイメージが湧いて自分自身が意気揚々としてくるのが感じられた。
 里の音楽祭では、コンテンポラリーJAZZと出会った。初めて聞いたときは、さすがに戸惑ったが、翌年(2009年)のJAZZは、個性と統合の正にその緊迫したやり取りに興奮した。
 今年の研修では演劇に感動した。同時に美術館も何カ所か見て、クロード・モネの絵に出会い“色の暖かさ”に癒される感じがした。特養ホーム立ち上げの苦戦でへとへとになっていた私に、モネの夕日の暖かさ、朝日のまぶしさ、雨の大聖堂の憂い、色々な質感が心にしみて、パサパサになっていた心が潤う感じだった。
 現場では時間通りに行かなかったり、こちらの都合では進まなかったりすることばかりだ。ともすると、福祉現場では、介護する人とされる人にきっぱりと上下関係をつくって管理し、時間で仕事を終らせる為に“もの”として扱いがちになる危険性をはらんでいる。そうした福祉現場の落とし穴のような危険を回避する為に、“遊び”の持つ役割は大きい。「遊び」は、ふざけることでも、怠けることでも、また甘えることでもない。遊びは人と繋がる最上級のコミュニケーションに違いない。思えば私も、根っからの効率至上主義者ではなかった。子供の頃は、よく空想したりしていて、母からは“スローモー”(行動がトロイこと)と言われていたのを思い出す。
 絵や演劇、音楽などを通じて遊びに繋がる要素を私自身が受け入れていることは大きい。福祉施設でこういう研修を重視している所はおそらく他にはないのではないか。銀河の里には介護作業を越えて「人間」や「生命」を真剣に見つめようという真摯な姿勢が根底に貫かれており、そのことが私を成長させてくれていると思う。
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不思議を感じる感動の日々 ★グループホーム第1 西川光子【2010年12月号】

 A子さん(仮名)は銀河の里のグループホームにきてから7年になる。最初はデイサービスを利用していたが、他のグループホームに入居になった。ところが、聞くところによると、他の部屋から物を持ってきたり、ハンドバックに色んな物を詰めこんでしまうことを問題視されていたという。ある日ホームを出て行方不明になり捜索が行われた。そこで手に負えないと見られたのだろう、病院に送られてしまったのだった。
 デイでA子さんの人柄や感じに触れていた我々は病院送りになったことに落胆し怒りが込み上げる思いだった。確かに一途な感じはあって簡単にはこちらの意図通り動いてはくれないが、色々やっているとA子さんと繋がれる瞬間があって、A子さんもこちらを充分意識して付き合ってくれる。おそらく「集団生活ができない」といった理由で、A子さんの世界を理解しようともせず、管理一辺倒で迫ったのであろう。A子さんが追い込まれた様子が目に浮かぶようだった。
 このままでは、動きのあるA子さんは、病院で薬漬けになり、寝たきりになってしまうと感じて、居ても立ってもいられない思いになり、病院を訪ねた。A子さんは閉鎖病棟から面会室に来るなり、声を出さずに大粒の涙をこぼした。「必ず迎えに来るからね」と心に誓って病院を後にした。それから1ヶ月後ダンナさんは、「A子が人間らしい生活ができる最後のチャンスとしてお願いしたい」と語られ、我々はA子さんの入居を決めた。主治医は「試しですよ、グループホームで過ごせる人じゃありませんから」と否定的な見解だった。我々はなんとかやりたいという思いであったが、当時はまだ駆け出しのグループホームで経験も浅く、大きな挑戦ではあった。
 他のグループホームと入院の4ヶ月の間で、A子さんの様相は一変していた。多飲水、物盗り、収集癖、帰宅願望など多彩な症状名をいただいていた。精神薬も大量に処方されていた。
 隣の居室からほとんどの荷物を自分の部屋に持ちこんだこともあった。確かに大変な状況ではあるのだが、スタッフの誰もがA子さんの行動を、問題とか症状として否定的には見ていなかった。むしろ、「どういう意味があるんだろう」、「なんのためにやっているんだろう」「何を伝えたいのかな」「次はどんな方法で来るのだろう」などと関心と興味を持ち、期待を込めた感じで見つめていたと思う。新聞を集めようとするA子さんに、私は思いのたけ集めてもらおうと新聞を準備した。モノ集めに対しては、バザーで出したぬいぐるみコーナーからペンギンのぬいぐるみ等、数点を選んでいくらでもモノ集めができるよう揃えたりした。
 わずか1ヶ月でA子さんの様子に変化があった。多くの症状はほとんど消え、3ヶ月目には精神薬を全てはずしてもらえるまでになった。お茶目な少女のようになってA子さんは帰ってきてくれた。その帰ってきたA子さんは、自分の部屋で集めた新聞や雑誌を積み上げたり、ぬいぐるみを使ってなにやら表現しているのではないかと感じるような作業を始めた。我々は迂闊にさわることができないのだが、周囲からは「部屋の片付けができていない」と言われて、理解してもらうにはかなりの月日が必要だった。それから我々は5年にわたって、ぬいぐるみの動きに注目をし、こまめに写真にも記録してきた。
 注目していると、ぬいぐるみとグループホーム内の人物がリンクすることも解ってきた。ぬいぐるみの動きでA子さんの感情や思いが理解できるようになっていった。最初は1羽ペンギンと白猫2匹だったが、どんどん増えていき、ぬいぐるみの動きでA子さんの辛さ,要望、現状、さらには予言まで感じさせられるようになった。
 そうした注目と記録が4年ほど続いたろうか、ある日、A子さんはハンドバックの中の物を全て捨てた。ハンドバックは社会人として働いてきたA子さんの人生の象徴であった。デイサービス時代からハンドバッグはA子さんと一体の物だった。そのハンドバッグが離される瞬間が来たのだと我々は感動した。捨てられたハンドバッグの中身が全てゴミだったという事実も考えさせられた。
 それからさらに1年が過ぎた頃、ひとつのぬいぐるみがA子さんの窓の外に捨てられていた。部屋の外に出ることのなかった、大切なはずのぬいぐるみが窓から捨てられるというのはショックではあったが、それも我々は見守る事にした。捨てられるぬいぐるみは増えていき、最初から置いているペンギン他、重要な人物を写していると考えられる数匹のぬいぐるみを残して、大半が窓の外に捨てられた。それでもいつか戻されるのかも知れないと、さわることもできないまま冬が過ぎ夏も終わって1年の日々が過ぎ去った。ぬいぐるみ達は雨、風にさらされ悲惨な姿になった。我々もさすがにもういいのだろうと、捨て去られたままで置く訳にもいかないと、意を決してぬいぐるみ供養をすることに決めた。

【ぬいぐるみ供養】
 10月12日、A子さんの窓の向こう側。その場所で儀式は執り行われることになった。この日は、私の人生を通じても不思議な体験をした一日となった。この儀式はかなり重要な儀式であることは、職員スタッフは十分理解している。ただ、利用者さん達にこのことをどう伝えるかというと、言葉としては伝えようがなかった。そこで、これは密葬とばかりに、なにも伝えず、準備だけ粛々と行った。午後2時から行う予定でいたのだが、なんとここで、誰も何も伝えてはいないのに利用者のミヤさん(仮名)が動いた。
 ミヤさんは親族に不幸や病があるとどこかで解って動きを見せる人だ。最初は信じられなかったが、あまりに符合するので当たり前になった。娘さんも、今では何かあると「動いてるでしょ」と言われる程だ。ミヤさん宅は代々神事を取り仕切る家柄だったようで、座敷全体が大きな神棚のような家の作りになっている。
 そのミヤさんと歩さん(仮名)が、事もあろうに儀式で外に出るまさにその時に、リビングの一角の畳の部屋に祭壇を作っているではないか。そこはいつもは二人が、自分の部屋だといって争いながら、昼寝をしたりしてくつろいでいる場所だ。今日は二人で祭壇を作って、だれも入れない神聖な場所になっているから、スタッフはみんな唖然とした。でもすぐに、「歩さんミヤさんありがとう」とすっかり納得して儀式に向かった。
 先頭を行くのは当然のごとくミヤさんだった。「あんまりいっぺ行ぐ事ねんだよ。何人行ぐ? こっちだ」と全てわかっている様な言葉も吐いている。 特に声かけしないのに、なんと全員が外に出て参加したのだった。用意した椅子が足らず立つ人も出た。行事の外出でも全員が出かける事は至難の技なのに、誘うのに一番苦労するミヤさんが誘いもしないのに先頭だった。
 普段から毎日、仏壇に祈りをかかすことのないヨツ子さん(仮名)は、寸前まで寝間着姿だったが、白い紐をとりだし、いつもより頑丈に襦袢を締めて気合いを入れた。そして帯もしっかり結び、今日の主席であるA子さんの隣に堂々と腰をかけてくれた。
 前日、今日の準備に草取りを手伝ってくれた歩さんは、代表のぬいぐるみを一匹、長いすに座らせている。その儀式の手はずに驚かされた。さらに普段は車いすのミサさん(仮名)は、少し離れた所で座って参加していたのだが、いきなり立ち上がり、なんと最前列にはまりこむ勢いで歩き始めた。あり得ないと言ってられないので慌ててみんなで支える。
 みんなが集まって、いよいよぬいぐるみ達の火葬が始まった。実にうまい具合に火は燃え広がり、絵に描いたように煙が静かに一本のスジを引いて天に昇っていく。それを見て空を見上げ「あれ、あれ!!」と指さしするアヤノさん(仮名)。
 燃えている炎の中から、犬のぬいぐるみの片目がチラリと見えた。A子さんも私と同時にそれに気がついた。私と握っていたA子さんの手に力が入る。その瞬間お互い目を合わせてうなずいた。
 火が消えると,現実に近い人達、つまりあまり認知症が深くない人達は、速やかに家の中へ戻った。そして、我々が異界組と尊敬して呼んでいる、つまり一般には認知症の進んだ人達が、そのまま儀式の場に残った。これがきっぱりと別れたのには驚かされた。認知症の力は偉大だと、今更ながら感じた瞬間だった。残ったみんなで、ぬいぐるみのために掘った穴に土をかける。ミヤさんはスコップでサラサラとふり下ろす。歩さんは、大きな土のかたまりを細かくしてザックザックとかける。そこを主役のA子さんがグルグル回りさりげなく土をかける。
 スタッフはセッティングはしたのだが、儀式を執り行ったのはまさに異界組のメンバーだった。おかげで充実した神聖な供養が執り行われた。
 「計画も予測もできない事が起こり、それを紡いでいくことで発見できるのが生命(いのち)の本質である」それに「畏敬の念を持ち、支えるのが生命の尊厳を守る事だ」と理事長は言うのだが、それを実感した一日だった。
 グループホームでは「認知症の威力」に日々、驚かされる。おかげで数々の感動の体験とともに、私自身の人生も深まっているように思う。
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ナツさんの旅立ち ★特別養護老人ホーム 中屋なつき【2010年12月号】 

 ナツさん(仮名)は、トイレでいろんなことをお話ししてくれた。ある時「あなた、なんぼになったの?」と歳を聞かれた。「女の33歳は大厄だから、必ずお祓いしてもらった方がいいよ」と目を開いて語る。「厄払いって、どうすればいいの?」「神社に行ってお金を納めるの」「神社…」「若い人は馬鹿にする人もいるかもしれないけどね…。あなた、毎朝ちゃんと神様に手を合わせる?」「うーん…、あんまりやらないねぇ…」「私もね、若いときには、年寄りってなんでこんなに信心深いんだろうって思ってた。でも今は、私のおばあちゃんがそうしてきたことを私もやってるの。窓のところから東を向いて、きちんと手を合わせる。お金がないなら神社に行かなくてもいいの。そのかわり、きちんと毎朝拝めばいい。心を込めて手を合わせる」「神様を心においておくだけでいいんだ。神様って、見えないけど確かにあるものなんだよ」普段のにこやかな表情とは違って、真剣な眼差しで語るナツさんだった。

 ナツさんとはデイサービスから始まり、ショートステイ、特養と丸一年を暮らしてきた。
 今年6月、肺炎で入院し、戻ったときには痩せて、食欲もおち、8月からは点滴の日々が続いた。入院前は、「私、まだご飯食べてないんだけど」と、夕食の後の「二の膳」が恒例となっていた。なんとか再び食べてほしい! “栄養摂取”としてではなく、一緒に暮らす仲間との“食事・食卓”を作りたかった。仲良しのトミさん(仮名)とのおしゃべりがおかずになったり、得意な生け花を食卓に飾ったり、ナツさんにとって特別な想いがある“おにぎり”をつくったりした。“関係性を食べる”ということの大切さを教えてもらったと思う。
 それでも徐々に、ターミナルを意識せざるを得ない状況になっていった。車椅子に乗るのも負担になり、ほとんどベッド上で過ごすようになった。
 ナツさんと親しいトミさんは、ナツさんの様子を気にかけていた。私はトミさんを誘ってお部屋に行き「ナツさん、気分はどう?」と声をかける。返事の代わりに、身体のどこかしらが「痛い」とかすかに訴える。手を握ったり身体をさすることしかできなかった。
 毎年夏には、花巻の花火大会を見に行く。当然、「ナツさんと行きたい!」とみんなが思う。念入りに計画を練って準備した。それに応えてくれたナツさんの頑張りにも驚いたけれど、当日の「伊達メガネ紛失事件」のハプニングはほのぼのとした記憶として残った。
 無事に現地に到着し、車いすからクッションチェアに移乗する際、メガネをいったんスタッフが預かった。ふと気づくとメガネがない! 暗がりの中を大捜索! そのうち、花火がドドーン!と上がり始める。「わぁ〜!」とか「きれいだねぇ!」という感嘆の声に混じって「見えな〜い」というナツさん…。「誰かが持ってった〜」「でもさ、ナツさん用のメガネだおん、他の人には合わないから、誰も盗らねぇこったよ」と慰るスタッフに、「だって、あれ、誰がかけても見えるメガネだもん…」えっ?! 伊達メガネだったんスか? 初めて明かされる事実! だったら見えるんじゃん?! それでも「見えない〜」きっとお守りのような大事なメガネなんだろう…。その夜めがねはついに出てこなかった。
 そんなことで花火見物の主役になったナツさんだったが3日後にメガネはひょっこりと車いすの中から出てきた。この後日談もひっくるめて、一緒に行けてよかったなぁ…と思う。それはナツさんにとって人生最後の花火見物となった。

 10月に入り、いよいよ覚悟を迫られる状況になった。新人ばかりの若いチームは重い空気に包まれた。緊急ミーティングを持ち、ナツさんにとって大事な時間だから「重くならなくていい、ナツさんの最後を一緒にすごそう!」と話し合い、そこからチームは吹っ切れたように空気が変わった。ギター弾きの酒井さんがナツさんの部屋でライブをやった時は、ユニットのメンバーが部屋に大集合して歌った。辛くてなかなか部屋に入れなかったトミさんも、このときはみんなと一緒にナツさんを囲んだ。部屋には写真がたくさん貼られ、花やお茶セットも置かれ、気軽に入って行ける雰囲気がつくられた。ナツさんは食べられなくても楽しい雰囲気を味わってもらおうと、ユニットでお茶会や食事会も企画された。たくさんはしゃべれなくなっていたナツさんが、時々ふと発してくれる一言や表情、息遣いが、私たちには何よりの宝物だった。
 10月の初旬の早朝、ナツさんは旅立った。その時、トミさんは空気を察して起きてきて、リビングで見守っていてくれた。最後のお別れは前川さんと一緒に玄関まで出て見送ってくれた。その後しばらくトミさんはどこか沈んだ感じだった。そんなトミさんを見かねて、思わず私はトミさんの膝元に無言で顔を埋めた。私の頭をなでながら、「寂しいなは、こういうときはね…」と言ってくれる。「それでもなは、頑張らねんば残った者は。逝った人は心に残ってるもんだから」
 ナツさんを送った数日後、ひょっこり出てきた一枚のカーディガン。「本当はちゃんと断らなきゃならねんだろうけど…、いいなは、私がもらうよ」と言ってトミさんが羽織ってくれたのにはスタッフ全員が癒された。特養は「終の棲家」であり、我々の仕事は「人生の最大の旅に出るひとりひとりを見送ること」なのだと改めて考えさせられる。いくら頑張っても「もっと何かできたかも…」と悔いが残る。「大切な友人が行ってしまった」という寂しさも感じる。けれども、旅立った人に育てられ、スタッフひとりひとりが、また、チームが、一回り成長していくように感じる。
 それから2ヶ月、今は気落ちして辛かったトミさんと、気を使わずにナツさんの話ができるようになった。花を生けながら、「ナツさんがいたらば上手にやってけたんだなぁ」と笑顔で言うトミさんがいる。「神様を心においておく」と語ってくれたあの日のナツさんを思いだしながら、今もみんなナツさんに支えられているのをしみじみ感じる。
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厨房奮闘紀その壱 器と食事と人間を考える〜いざ合羽橋道具街めぐり〜 ★厨房 畑中美紗、小野寺祥【2010年12月号】

 銀河の里の特養ホームは4ユニット40名の方が暮らしている。何事も施設臭くしたくないという銀河の里なので、各ユニットの食器もそれぞれのカラーがあって、かわいらしい感じのユニットもあれば、和の感じのユニットもあるといった個性を持っている。
 厨房のスタッフも各ユニットに入って、一緒に食事をし、食事介助にも関わったりする。利用者ひとりひとりを把握しつつ、その日の体調を見ながら、個々に合った食事提供ができるよう取り組んできた。
 その中で、「この料理はこんな皿に盛りつけてみたい」とか、「この人はこんな皿だと食べやすいんじゃないかな?」という思いがでてくる。食事は、色、香り、音、温度、感触、形や、食卓の雰囲気、温度、湿度、明るさなどが総体として味が決まってくる。さらに食器の持つ要素は大きなものがあり、大きさや、色などが不釣り合いだと料理が台無しになる事さえある。一品一品が良くても、盛りつけに失敗すると食欲もなくしてしまう事がある。
 料理に合った適切な温度で、優美な盛りつけを目指し、個々にあった食事を出したいと言う想いが高ぶってくるなか、厨房として食器からも料理も攻めて行きたいという思いが強くなっていった。それを厨房会議で提案すると、「研修の一環で合羽橋を歩いてきたら」と理事長。「料理に関わる人間なら一度は合羽橋を見ておいてもいい」と言う。合羽橋は厨房道具や食器類を取り扱っている店が通りの両面2キロにわたって並んでいるという。話を聞くだけでワクワクしてくる。たくさんの食器、道具を見て、肌で感じ選ぶことができるなんて・・・。「…えっ?いいんですか??」と私たち。やりたいことの背中をドンっと押してくれる、これが里のすごいところ!!さらにユニットの現場のスタッフも加わり4人で合羽橋に行くことが決まった。

【あなたのための食器さがし】
 合羽橋に足を踏み入れると、食器、陶器、厨房道具店などが歩いても歩いても続いている。話しには聞いていたが単純に驚く。しかしこっちもプロの端くれ、俄然、のめり込んで、「よっしゃー」と気合いが入り、手当たりしだい店に飛び込む。まずは魚を盛り付けるメインの角皿を!ソフト食もワンプレート盛りではなく、粋な小鉢で組み合わせたい!お椀もほしい!箸もほしいなぁ…と店を眺める。物色しているうちに、「この食器って“オリオン”っぽいね」「“すばる”に合いそう!」とイメージが動き始める。そして、この皿○○さんに似合いそう、○○さんに買ってあげたい!と自然に利用者さんと結びついた選び方になっていった。「あの人にはこんな皿がほしい。」と一人ひとりにあった食器選びは我々にとって極上の時間となった。

 施設給食では、ともすれば、樹脂製の破損しにくく扱いやすさを優先した食器や、洗い物を少なくしたいので皿数を少なくという雰囲気が出がちである。今回の研修をきっかけにそんな効率重視の低次元の給食からはすっかり解放されて、多くのスタッフと食器や食事について話ができたのは、厨房としても大きな収穫だった。
 初めての合羽橋はワクワクしっぱなしだった。なにより種類がたぁくさん!見たこともない厨房用品もあり、包丁も器もいろんな種類がある。歩くだけで刺激的だった。1日くらいじゃ時間がぜんぜん足りない。外国人が和包丁を買っていたりすると、なんか不思議な感じになったりした。厨房に携わっている人がこんなにいるんだなぁと感じながら、同時に自分もその中の一人だと思うとうれしくなり、「もっともっとがんばりたい!」という気持ちにさせられた。
 どんな食器に盛るかで料理はまったく別物になる。その食器を選ぶのは、私たち厨房の技でもある。給食にしたくない。あくまで食事とは何かを突き詰めて行きたい。これが私たち厨房の想いだ。「そこら辺の厨房とは違うぞ!」という気概で挑戦していきたい。
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