2010年11月15日

今月の書「遊」 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2010年11月号】

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心に余裕が欲しいとき

ほんの少しの“遊び心”を持つことで
救われることもある

私とあなたで
そんな時間を
そんな関係を
繋いでいきたい

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変容、魂、銀河の里 ★ワークステージ 米澤充【2010年11月号】

 自宅にマルク・シャガールの「私と村」という作品が表紙に載った雑誌があった。大きく描かれた牛のような動物の頭部と緑色の大きな顔、カラフルに描かれた街、牛の乳搾り、大きな鎌を持った農夫から逃れる女性。その独特で鮮やかな色彩と幻想的な絵がなんだか不思議な絵という程度だが、ずっと気になっていた。
 8月の東京研修の自由時間を利用し、上野の東京藝術大学美術館で開催されていたシャガールの展示会を見てきた。
 これがすばらしい展示会で、展示方法のうまさもあってか、はじめて目にする本物のシャガールの作品に、何点か見ただけで画家に対して抱いていた思いや印象、絵画の見かたが変わるほどの衝撃だった。
 シャガールの絵にはいくつかの要素があるようで、@作品の随所に故郷を描く望郷の念、A最愛の妻とシャガール自身が投影された恋人たちの愛のイメージ、B旧約聖書からの逸話をモチーフにした作品、C牛や鶏などの動物、Dパリに対する憧れなどである。特に@とAの故郷を大切に思い、一途に妻を愛し、現代人が忘れかけている人間性に迫るシャガールに感銘を受けた。今回、その画家が生きた時代背景や画家自身の人柄や性格といった個性を重ね合わせて見ることで、鑑賞の楽しみ方が膨らんだように思えた。

 展示会では約50分におよぶシャガールの人生を追ったドキュメンタリービデオが上映されていたのだが、そのビデオにはシャガール本人が出演しており、その言葉の一つ一つが強烈だった。売店で売っていた5000円もするそのDVDを感動のあまり衝動買いしてしまったほどだ。

(どう描いたかという質問に対して):『何度も言うが、どう描いたか見るのではない。その変容を見るんだ。』
(他の画家らが提唱してきた既存の表現方法に対し):『敵意を常に持ち続けた』
『感動がなければ、仕事を辞めたほうがいい』
『全ては魂に書かれている。我々はそれを写しているにすぎない。見ているものではなく、内にあるものを写すんだ。内にあるものとは、我々の現実だ。』

 取り組んでいる仕事がどうしても作業的になってしまい、忙しさにかまけて変化させる事を面倒に感じ、現状をキープしよう(楽をしよう)という考えになりがちの私にとって、“変容” や“既存方法への敵意”という言葉は、シャガールからのメッセージをもらったようで、強く胸に響いた。
 また、“魂”というワードが頻繁に出てきたが、戦争という時代背景にもかかわらず、自分の中に揺らがない信念“魂”をもち続ける事が出来たため、97歳で亡くなるまで挑戦し続け、絵を描く事が出来たのだろうと思う。

 幻想的な作風と“全ては魂だ”というような発言から、おそらくシャガールは奇妙がられたように思うのだが、それが顕著に現れているのが1958年、シカゴで行われた記者会見での質疑応答での一コマである。

質問:「夢を“転写”することもありますか?」
シャガール: 『私は夢をみません。私が描くのは夢ではなく、生命です。』

質問:「他の巨匠で手本にする人は?そこから何を学び取りたいですか?」
シャガール: 『私が求めるもの、それは人生の意味としての製作です』

質問:「絵画の中で、構成が最も重要ですか?」
シャガール:『絵画の中では、すべてが重要です。』

質問:「風景を描くとき、より強く感じるのは光ですか、それとも線ですか?」
シャガール:『どの風景を前にしても私は感動します。でも人物や人生の出来事にも、同じくらい感動を受けるのです。』

 この質問者らの質問のズレ具合が何ともおかしい。質問者らはシャガールの描き方や方法論を探り出そうと質問するが、自らの信条や自分の内にあるもの、いわゆる魂だと言い切るシャガールが、私には“銀河の里”と“世間”の関係とリンクして見えた。
 目には見えにくく伝わりにくい“魂”だったり“祈り”だったり、そういうのは怪しまれる対象になる現代だが、そこが本質的に見直される時代なんだと思う。

 「俺が銀河の里を立ち上げる前には、建物も機械もなにも無かったが熱い思いはあった。しかし今、何でもあるのに、おまえには熱い思いがない。」との理事長の言葉が、シャガールの言葉と重なった。夢をもって変容し続ける、それを魂に刻み、銀河の里と共に成長していきたい。
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ケアと教育の逆転 ★理事長 宮澤健【2010年11月号】

 銀河の里では、昨年の特養開設以来、立ち上げに苦労している。苦し紛れにくだらないことが思い浮かんだ。それは、福祉施設と学校の目的を逆転させてみたらどうかということだ。少子化もあり、小中高等学校は統廃合が進み大型化してその数は減り続けている。一方、高齢者の介護施設は急増し両者の増減は対照的だ。その両者はそれぞれに様々な重い問題を抱えており、学校は心を病み、介護施設は予算がなくて人材不足に喘いでいる。これは、現代の社会の端的な反映に感じる。
 思いついたのは、この際「学校はケアをする場」、「高齢者施設は若者を教育する場」としてみたら面白くならないかと言うことだ。確かに教育の本質はこころのケアにあり、介護の本質は人間の教育であってしかるべきだ。
 現実には、それぞれが本質からずれた表面的な運営になって苦しんでいる。両者とも文明開化の時代とは違った上質性が求められるはずで、進化が求められる。数学者岡潔は、孔子の「最初は学を努め、次に学を好み、最後に学を楽しむ」の三段階説を上げ、孔子が「楽しむまではいけなかった」としているのを引き、孔子が楽しむまで行けなかったのを、自分が軽々とやれたのは、学問が進化しているからだと言う。
 20メートル空に浮かぶことが革命であったライト兄弟の時代から、ハヤブサがいかに完璧に他の天体に行って返ってくるかを求められるような進化は、教育や介護の現場にはないように思う。逆にますます機械的になり作業をこなすだけで叡智や感性が働かなくなるつつある。こうした仕事は職人や専門職でなければできない種類の仕事で、労働者が賃金の対価でのみ考える事ではない。叡智が必要な現場に叡智がもたらされないのでは進化も止まる。
 現在、介護の仕事は3Kの代表として君臨し、それは国会でも認証済みだ。低賃金ばかりか、社会的評価も低い割の合わない忌み嫌われる職業になっている。就職難で職安がごった返していても、介護現場は常時人手不足だし、介護福祉士の専門学校では生徒が定員を割り続け、卒業生もほとんど介護職には就職しない。
 一方、学校ではイジメが日常化し複雑化している。大半の人が、その被害に遭わざるを得ない状況で、ひどい場合、小学校3、4年から高校まで、さらには大学までも、10数年をイジメ地獄を味わいながら育たねばならない現状がある。社会に出たときはぼろぼろで、コミュニケーションは怖くてできず、分厚い殻をかぶって閉じこもらざるを得ない。
 学校は、「子どもや家族をケアする場」として位置づけられると救われる人は多いに違いない。そして介護施設は、「介護を通じて人間を発見し、学ぶ、教育の場」として位置づけるなら、介護の評価も上がるだろう。学校で子どもやその家族、ないしは地域のケアが行われるとしたらありがたいし、社会的費用対効果としてその成果はかなり大きいはずだ。
 介護が教育となれば、低賃金とはいえ、お金をもらいながら教育が受けられる訳で、一挙両得だ。人間の生死を含んだ、生きることへの深い知見を持った職業として、介護職の社会的評価が高くなればそれだけでも、人間の存在とその尊厳にとって大きな意味があるはずだ。
 苦し紛れに、「銀河の里は、表向き介護や障害者支援の福祉施設だが、その本質は人材育成の教育機関だ」だとうそぶいてきたが、その方向は間違っていないとの確信はある。こうした異質性は、行政など一般には違和感があるらしく、大いに煙たがられているが、受ける偏見や起こる摩擦は、創造的な戦いをやっていることの証拠だと自分に言い聞かせながら、なんとか耐えている。
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久子さんの紅葉ドライブ ★グループホーム第2 佐々木詩穂美【2010年11月号】

 外出に久子さん(仮名)を誘うのは難しい。誘うタイミングが微妙で、いつも久子さんの顔色をみながら、「久子さん、○○に行くんだけど一緒に行かない?」とドキドキで声をかける。
 「行かない。行ってきて〜私行かなくても楽しんだから」と‥久子さん。
 「お願い!久子さんと一緒に行きたいの!」と一押しする私。
 すると「今日は腹あんべ悪いもの、トイレさいってもわねっけ」とくる。
 「そっか〜腹あんべ悪いのか‥でもトイレなら行く途中寄ってくよ」と私も粘る。
 「オメだって調子悪いときは行きたくないべ?だから行ってきて」
 いつもこんな感じで断られてしまう。

 今年7月、私が担当になって初めての久子さんの誕生日。久子さんは海鮮ものが好きなので、大船渡の海辺へのツアーを企画した。私は大船渡まで下見に2回も出かけた。(大船渡までは片道100km)
 当日、久子さんは「行かない。私が行きたいのは美容院だもの」とあっけなく断られてしまった。あの手この手で誘ったけれど、結局、みんなは出かけたのに、主役の久子さんだけ行かない誕生日ツアーになった。
 久子さんは美容院を優先するので、この秋の紅葉ドライブでは、まず美容院を済ませておいて出かけるという作戦を考えた。その腹で「今度紅葉ドライブに行くんだけど一緒にいこうね」と誘ってみた。すると「紅葉みに行く前に美容院さ行かねばねーよ」ときた。
 よし!んじゃ美容院に行こう!と前日、美容院へ行った。その帰り道に久子さんから「山さ行くのはもう終わったんだべ?」と紅葉ドライブの話題が出た。
 意識してくれてるんだなって思って「紅葉ドライブは明後日だよ。今日、美容院にも行ったし一緒に紅葉みにいこうね」と言うと、ちょっと笑って「ふ〜ん、もう行ったのかと思ってらったよ。私は今日出かけたからいいかな、疲れるし」とやんわり断られたような、どこか誘ってほしいような受け答えだった。やることはやった!!そして当日、「今日の紅葉ドライブは10時出発だよ」と伝えた。ドキドキ‥
 答えは「腹あんべ悪いからいかね〜」 だった‥。「あ〜・・・ダメだった。」でも行かないながら、わざわざ部屋から出てきて紅葉ドライブに出発するみんなを「はい、いってらっしゃい」と温かく見送ってくれた。
 10月21日は、紅葉にはまだちょっと早かったけれど、遠野の町並みを一望できる南部神社でお弁当を広げ、昔話村で語りべさんの昔話を聞いたりして楽しんだ。
 紅葉ドライブから帰ってくると久子さんが待っていてくれた。私達が出かけた後も気にかけてくれて、「もう遠野さ着いた頃だべか?」「雨降ってないべか?」と心配してくれていたそうだ。
 次回のお出かけは久子さんをも一緒に行きたいな。挑戦はまだまだ続きそう。でもこの距離があるからこそ久子さんとの繋がりがあるようにも感じる。
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念願の里帰り・より子さん ★グループホーム第2 北舘貞子【2010年11月号】

 九月の初め、より子さん(仮名)と私と私の娘との三人で食事に出かけた。
 素敵なワンピース姿でメイクもバッチリ決め、明るくお茶目なより子さんだった。腹がでてきたのを気にしながらも中華料理を楽しんでいた時、「来月、釜石の家に帽子とバックを取りに行きたいから連れてって。家に泊まって欲しいけど、電気もガスも止まってるから何処かに泊まってもいいね」と笑顔で提案してきた。
 私が「日帰りでもいいんじゃない?」と言うと「あんたのお母さん、つめたい人ね」と娘に向かって不満げな顔を向けていた。
 より子さんは、夫を亡くしてひとり暮らしをしていたが、息子さん娘さんが彼女を心配して銀河の里に入居となった。里ではいろいろと楽しみを見つけ、ディケアに出向いたり、美味しいものを食べたり、気分転換の外出、外泊をしているが、釜石の家はご主人と暮らした思い出がいっぱいの街で、思い入れは並大抵ではないはずだ。この時、彼女のこころは釜石にワープしていたに違いない。

 その思いを叶えようとより子さん、新人スタッフの万里栄さん、私の三人で釜石の民宿を予約した。当日、十月七日、朝からより子さんはピンクのスーツにベージュのブラウスで待っていた。「素敵だね、凄く若く見えるよ」と言うと「フフフ・・・口が上手いんだから〜 まったく〜。準備できたから早くいくべ」と満面の笑顔だった。本当に楽しみにしていたんだな・・と感じた。
 途中、遠野で紅葉狩りの下見をして釜石に向う。車の中は楽しい雰囲気。ああだこうだと女三人の口は休まらずおしゃべり大爆発。

 より子さんの家に行く予定だったが「家に寄るの明日でいいよ。せっかくだから海に行こうよ。釣するんでしょ?」と言ってくれる。釣り好きの私は嬉しくて、花呂部漁港に向かい釣りを楽しんだ。より子さんと万里栄さんは初めての釣り(?)で小鯵が沢山泳いでるのが見えると「あっ居る居る!」と大喜び。けど、餌は食うけどなかなか釣れない。「なんでよ。こんなに居るのに」と飽きて、椅子にデンと座って「監督してっから、あんた達やってて」 と 他の釣り客と話をする、社交的で明るいより子さんだった。ふと「海、眺めたったな・・・」と語ったのが印象的だった。
 民宿の食事は品数も多くボリューム満点でヘルシー。大満足。「次くる時も此処でいいな」と言うより子さんに、我々二人は言葉に詰まりながら、目を合わせてにっこりした。

 翌朝、5時により子さんと私は市場に行った。市場で「あれぇ、より子さんじゃないの?」と女性に声をかけられた。「あら。久しぶり〜〜」息子さんと同じ部活だった人のお母さんらしい。「元気してるの?」「今何処に居るの?」「息子さんは?」のやり取り。思わぬところで出会った昔の知人、とてもうれしそうに話し込むより子さん。彼女が生活してきた町なんだと改めて感じた。買い物を済ませ知人に「じゃあ、元気でね」と挨拶しながら少し寂しそう。「もっと話してもいいんだよ」といってあげればよかったなと後で後悔・・・・

 宿を出て向かった彼女の家。
 長年誰も住んでいない家。二階建て庭付き、多少草は伸びてはいるが綺麗に整理されている。家に入ると誰も住んでいないとは思えないほど生活感が残っていたのに驚く。キッチンユニットは新品で最新式。 壁の写真は、着物姿の素敵な女性、若い時の彼女とご主人の写真だった。
 家を後に、近所の市場へ。 そこで、また知人に合う。「元気だった、今何処に居るの」と世間話。でも、朝と違い話がはずまない。ご近所さんには、逢いたくなかったのかな?

 帰りの車中・・思いを残して釜石から遠ざかるより子さんの気持ちは計り知れないけど、今回の小さな旅が、少しでもいい思い出として心に留まるといいなと、後部座席で窓の外を眺める彼女の横顔を見ながら思った。
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大雨の墓参り ★特養 三浦元司【2010年11月号】

 私は、この春、専門学校を卒業し社会人1年生として銀河の里に就職した。介護の勉強をしたわけでもなく、全くの手探りでのスタートで、当初は自分が何をやっているのか、何をすればいいのかまるで検討もつかない状態で、周囲の人たちにも迷惑のかけどうしだったと思う。でもやる気や、情熱は持っていた。
 そんな私はスゴイ利用者さんと出会うことになった。龍治さん(仮名)は職員を一日中呼び続ける。呼ばれて部屋に行っても、さらに呼んだり、悪態をついて困らせるので、介護現場の経験の長い職員などは、無視したり、ナースコールを切ったり隠したりすることもあった。私はそれに対して、意地悪にしか思えなくて違和感を感じた。銀河の里で育った職員は、私の違和感を理解してくれて、支えてくれた。
 私は龍治さんの部屋にできるだけ足を運ぶようにしていた。龍治さんは会社の幹部として、多くの社員を育て、指揮してきた方らしい。龍治さんは社会人1年のヒヨッコの私に厳しかった。でも、なにもできないけど頑張る意志はあることを伝え続けた。ある時、龍治さんはおまえを育ててやると言ってくれた。三浦ダイコンと軽くバカにして私を呼び、本気で怒鳴ってくれることも度々ある。理事長からは「よかったな、本当に龍治さんに育ててもらえるんだよ」と言われた。龍治さんは、厳しいけど冗談を言ったりモノマネをして笑わせてくれたりなど、調子のいい一面もある。自分にとって龍治さんは大きい存在となっていった。
 ある日、龍治さんが、「墓を見に行きたい」と言った。その墓は、自分が建てた、自分が入る墓だという。その墓を生きているうちに見ておきたというのだ。私は即座に一緒に行きたいと思った。そして日程を決めた。

 前日の夜、部屋に行くと龍治さんは心の内を語ってくれた。ひとつは“自分が入る墓くれぇこの眼で見て焼きつけておかねぇとな”といういつもの龍治さん。もうひとつは“怖くてよぉ。寝れねぇなぁ”というはじめて見せてくれた龍治さんの本音だった。
 当日となり、龍治さんは車いすに乗り、やたら厚着をして玄関へと向かった。その間、ずっと目をつぶりなにひとつ語らず、腕を組んでいた。お墓へ向かう車中も私は息苦しかった。後ろに乗っている龍治さんがなにを考え、感じているのか。時々目を開け、何を見ているのか。その咳払いや手の動き、鼻をすする音までが繊細に聞こえて息苦しかった。
 お墓へ着くと、娘さんとお孫さんが先に到着していた。娘さんと会話をしながら、龍治さんが車から降りる準備をしていると、急に雲行きが怪しくなり今にも雨が降りそうになった。「こりゃ急がないと」と娘さんと、お墓の前に向かおうと車椅子を押すが、砂利道のためなかなか進まない。そうこうしているうちにとうとう土砂降りの雨が降り出した。龍治さんも娘さんもお孫さんも、ずぶ濡れになりながらも、なんとかお墓の前に到着する。そして、お線香に火をつけ龍治さんに渡す。ところがなぜか龍治さんはうけとらず、まったく動こうともしない。我々が戸惑っていると次の瞬間、龍治さんがいきなり腕と足にグッと力を入れ車いすから立ち上がった。慌てて私と娘さんとで支えるが、それを振り払うように前に向かって行く。その時には、風が強く吹き、雨が横殴りの雨へと変わって、目も開けられない状態になった。そんな嵐の中で、薄目を向けて龍治さんを見ると、瞬きもせずに立ったままお墓を見続けている龍治さんの姿があった。迫力のある鋭い目つきで、お墓を睨んでいるようだった、、、。
 その後、急いで車に戻り、体や顔を拭いて、墓所を離れた。娘さんとも挨拶を交わして別れ、銀河の里へと車を走らせた。帰りの車内でも龍治さんは何も語らず、目を閉じて寝ているようだった。里に着く頃には雨も上がり、また晴れ間が広がっていた。
 その日の夜、部屋に行くと、昼間あれだけ口を閉ざしていた龍治さんが普通に話してくれた。「今日はどうもありがとな。俺がずっと眠れるお墓が、目が見えるうちに見れて良かったし、隣にあった古いお墓に眠っている親父とお袋にも会えたしな。感謝してるぞ」と、言ってくれた。
 この日の事は、龍治さんにとってどういう意味があったのか、自分が龍治さんと同じ歳で同じ立場になるまではわかり得ないのだろう。けれど、その日まで、この日のあの感覚や目つきは絶対に忘れないでいたい!
 この夜、私は龍治さんが寝付くまでベッドの横にいた。眠りにつく直前「三浦さんありがとや」と言ってくれた。三浦ダイコンがこの日初めて「三浦さん」になった。
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豊に暮らすということ 価値観と美術館設立 ★北海道当麻かたるべの森,ギャラリーかたるべプラス施設長 横井寿之【2010年11月号】    

 福祉施設の運営には理念が必要だと思っている。銀河の里に集結した人達は、銀河の里の理念に共鳴して参加したことと思う。単に障がい者の支援をしたいと言うことであったらなにも銀河の里でなくてもいい。当麻かたるべの森の理念は一つには、入所施設によらない福祉と言うことである。さらには障がい者が自己実現できる創作的な活動を日中活動の一つの柱とすること、そして自然と共生して生きるということである。
 障がい者施設に於いては、日中活動の作業でさえ、創作的な活動であり、芸術的な活動であると思っている。難しいことかもしれないが、農作業といえども私は芸術的でありたいと思っている。そう意識して活動すべきだと思っている。
 当麻かたるべの森を設立するまでの30年間、私は沢山の障がい者施設を見てきた。そして、片手で数えられる程度のほんのいくつかの施設以外、共感することはできなかった。通所授産施設は一人あたりの基準面積も少ないため、多くの施設は小さく仕切られ、仕事場は、狭くて、作業場のようなものであった。下請け製品が山のように廊下まで積まれていたりしていた。そうした建物は、作業をするための作りであって、人が豊に過ごすための建物とは思えなかった。こんな建物では、一般の人や地域の人達が決して足を踏み入れたいとは思わないだろう。働くことばかりが強調される援助の考え方では、それは当然であったかもしれない。しかし、通所授産施設といえども、私たちはどんなに豊かな生活を援助できるかということが理念でなければならないと思っている。障がいの重たい人もないがしろにされることなく、一人一人が尊重され、多様な活動を保障される豊かな人生を支援することが福祉の理念でなければならない。
 かたるべの森の最初の本体施設である20人の通所授産施設をどのように設計するか、どのような施設の名前にするか、それすらも私にとって、重要なことであった。お金もないのに東京でも有名な設計事務所に設計を依頼した。そして、「障がい者施設のイメージでなく、ギャラリーのような施設を設計してください」とお願いをした。そして、施設の名称も「ギャラリーかたるべプラス」とした。利用者の絵画作品を展示しても違和感の無いようなギャラリーのような施設としたかったからである。そして、地域の人達が、この施設で講演会を開催したいとか、自分の絵画を展示したいとかそんなふうに気軽に訪れることができる建物をまずはベースにしたいと思ったからである。さらに日中活動の一つに創作活動の日を設けた。それは主に絵画制作が中心になり、週一日の絵画制作の日で利用者が描き貯めた絵画は6千点にも及ぶようになった。かたるべがスタートした当初から私は、コンサートホールと美術館が欲しいと思っていた。自前で美術館を建てるというのはあまりにも途方もない夢だから、現実的には学校が閉校になったら、それを借りて美術館に改修して、利用者の創作作品、芸術作品といっても良いと思うが、それらを常設展示することができる美術館が欲しいと思っていた。3年前に当麻町の小学校が2校閉校になっているのを知って、ただちに教育委員会に借用を願い出た。そして、この5月、念願であった「かたるべの森美術館」が完成した。それは当麻かたるべの森にとって極めて大きな意味を持つものである。「絵を描く」という活動が、障がい者の一つの自己表現の方法であり、自己実現の方法でもあるにもかかわらず、「絵なんか描いて何になるんだ」という考えが、圧倒的であった時代の価値観を変えることができたからである。そして、美術館を創ることに確信を持たせてくれた担当者の10年に渡る着実な取組があったからである。このことの意義がわからないものに創作活動の持つ意味がわかるはずがない。
 私たちが取り組む障がい者福祉の実践は、新たな価値観の創造なのだとつくづく思うのである。
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大葉ハウスからネギハウスへ ★ワークステージ 関脩【2010年11月号】

 10月初め、ハウスでは大葉の伐採作業が始まった。今回の伐採は大葉の植え替えの伐採ではなく、大葉最後の伐採となった。普段と変わらず淡々と伐採を進めながらも、寂しさや不安を感じている人もあり、新しい仕事を楽しみにしている人もありの、様々な感情が入り混じった伐採作業となった。

 銀河の里の大葉栽培は今年で8年目だ。今年は野菜の価格高騰のなか、こと大葉だけは逆の下落を続けてきた。特に、高値になるはずの夏に値段が上がらず、注文数も例年よりも少なく売上が伸びないばかりか、歯止めがきかない程の下落が続き頭を痛めた。
 景気の悪いなか、旅館業や、飲食業界の営業の低迷が続き、年々、高級食材の大葉は致命的な底値を記録し続けて来た。取引をしてきた市場からも「大葉を初めとするツマ物の時代はもう終わりました。」とまで言われ、厳しい現実をたたきつけられた。
 大葉の栽培は今まで長く手がけてきたことだし、働いている利用者もずいぶん慣れて、それぞれの作業のプロが育ってきていたため、栽培品目を変更するのはかなり悩んだ。
 しかし、これ以上、赤字を抱えながら栽培していくわけに行かず、何種類かの野菜を考えた結果、年間を通して値段と出荷量が安定している万能ネギに転換することを決めた。
 万能ネギはその名の通りどんな料理にも活躍できる野菜で、全国に6大ブランドが存在する。東北地方では宮城の仙台小ネギというブランドが一つだけで、生産者として東北に産地が少ない点で、有利だろうと考えた。
 実際に売り込みをかけると、引き合いもあり大手スーパーや市場での取引が決まり、11月より出荷も始まった。

 大葉と違って、万能ネギは長期の栽培ではなく、剪定や下葉取りといった細かな作業が無いため、誰でも作業に参加しやすく栽培管理もし易くなった。ただ、回転数が早いため、種蒔きの量の調整や苗植えのタイミングに難しさがある。
 万能ネギの栽培は始まったばかりで、天候による影響や、虫や病気に関して分からない点が多い。日々の作業の中で万能ネギを学んで行きたいと思っている。

 利用者にとっては8年もやってきた大葉栽培が終わるということは大きな変化で、大葉の結束のプロに育ってきた昌子さん(仮名)や秋子さん(仮名)は大きく心が揺れた。何度か「ネギの作業はやったことがないから、出来ません。不安です。」と話もしてきた。しかし作業を始めると、一気に仕事を覚えて、それが自信に変わり今では周りのメンバーに指示を出す程までになっている。

 これまでハウスを作って8年、大葉栽培で、単月での黒字はあるが、年間で黒になったことはない。万能ネギでは、これまでの赤字を何とか黒字に変えたい。来年度には、年間での黒字をめざし赤字経営から脱したい。この目標達成に向けて利用者と一緒に挑んで行きたい。
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