2010年08月15日

今月の書「鼓」 ★特別養護老人ホーム 山岡睦【2010年8月号】

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耳ではなく心で聴く
心の奥底まで響き渡るその音を
体全体で感じる

重みのある深い音

自然と溢れ出る涙がその全てを物語る

言葉にならない感動を
目と目で伝える

胸に染み渡る瞬間がそこにある



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里の癒し系☆のりちゃん ★グループホーム第2 米澤里美【2010年8月号】

 里に住むのりちゃん(仮名)は、「どう?いい?まる?」と銀河の里の全部署を回り歩いて、お気に入りのスタッフに質問する。自分の顔色がどうなのか聞いているのだ。ワークステージの仕事の前後に特養、グループホーム、デイサービス、事務所をくまなく渡り歩いて、さっき事務所にいたかと思うと特養ホームに来ていたり、のりちゃんのテリトリーは広くて、すばやい。スタッフの勤務表を熟知しており、今日は誰がどこの勤務かよくわかっている。もしかして里のスタッフよりも全体をよく見ているのかもしれない。
 とにかくのりちゃんは神出鬼没である。朝から夜中まで、気になることがあると、人に問い続ける。「〜していい?」「〜したら迷惑?」と何ともソフトな口調でしつこく聞き続ける。私が車に乗ると、気づけば隣にはのりちゃん。発車してでも追いかけてきて「夜中に電話したら迷惑?」などととにかく質問攻め。私は8月出産予定で産休中なのだが、会えば「車の支払いはいつまで?」「産休中の生活費はどうするの?」など私の生活まで心配してくれて、のりちゃんの気になること、心配事は多岐にわたる。
 のりちゃんとお隣さんである施設長、理事長宅は、夜中に「ピンポーン」とチャイムが鳴るときが多い。あまりに思いつめすぎて、理事長が自宅で入浴中に「帰ればいい?」と浴室にお邪魔してしまったこともある。ここまでくると時間を問わない突然の神出鬼没訪問は勘弁願いたいところだが、そんなのりちゃんに、密かに癒しを感じているスタッフは少なくない。
 突然現れては、お目当ての人が取り込み中であろうと何しようと、肩をもんでくれたり、「かわいい、かわいい○○ちゃん!」と頭をぐしゃぐしゃに撫でてくれる。お腹をすかしていると「〜食べる?」と聞いてきてくれ、ご飯を食べさせてくれたり、コーヒーを淹れてくれたり・・何かと尽くしてくれるのりちゃんだ。
 心底心が疲れているとき、のりちゃんに会うとホッとする。世間に出て渇いた社会を実感したとき、心が擦り切れそうになったとき、会えばかならず近づいて「どう?まる?」と聞いてきてくれるだけで、何か救われた気持ちになるのは何でだろう?
 聞いてくることは自己中心的だし、しつこいし、相手の都合は考えないし(仕事中だし)、迷惑行為と枠にはめてしまったらそれまでなんだけど。そんなのりちゃんになんで癒されちゃうんだろう?
 のりちゃんは、里中を歩き回っては、人を逃さない。人を見ている。人を感じている…
 現代人は、お互い知らんぷりの関係で、「関係ありません」「別に」となるべく、人と関わらないように、感情出さず、迷惑かけないように、付き合っている。ところが、のりちゃんにはそれは通用にしない。のりちゃんとは関わらないわけにはいかない。圧倒的に、そして熱烈に、のりちゃんから関係を求めてきてくるからだ。そんなのりちゃんってすごく潤っているな、と思う。そして、男性でありながらすごく母性的だな、と感じる。のりちゃん流のだれも逃れられないスーパーコミュニケーションがあるのだ。そんなのりちゃんはいつも里を見回していてくれる観音菩薩だと思うのはいきすぎだろうか?!
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北海道ツーリング 〜当麻町かたるべの森を目指して〜 ★ワークステージ 米澤充【2010年8月号】

 7月17日〜7月19日の連休を利用し、同僚の佐々木哲哉さんと北海道まで行ってきた。目的は当麻(とうま)町にある福祉施設を見学するためと、毎日追われている農作業から一旦離れ、日頃の疲れを癒す旅でもあった。北海道上陸まではバイクをフェリーに積み、道内はバイクで移動した。理事長や哲哉さんの影響を受け、昨年の10月に衝動的に中型二輪の免許取得、バイクの購入まで至った。旅行の立案当初はツーリングはやっぱり北海道!というノリだったが、今回の旅行で得た物は予想以上だった。

 小学生時代の夏休み、3年連続で家族と北海道旅行をしたことがある。有名な場所(最北端や水族館、ラベンダー畑など)の記憶が少々あるだけで、細かい記憶がほとんど残っておらず、親からも「行かせた甲斐が無い」と言われる程だ。車で移動した事もあり、目的地から目的地というように点と点を物理的に移動していた感じで、さらに当時にしては珍しく車内にはテレビが付いていたため、移動中は風景を見ずにテレビを見ていたせいだと思う。それに比べバイクは、風やにおい、気温などの自然を肌に感じる事ができ、点と点ではなく、線として移動している感覚がある。歩道に植えてあったラベンダーの香りが、ヘルメット内を良い香りで満たしてくれて感動的だった。また牛舎から香る臭いで北海道にいる実感をさらに強めた。

 北海道を移動中に広大な畑をたくさん目にした。その広さに驚いたのにはもちろんの事、岩手と違い、畑の周りに民家が少なく、畑と畑の間に○○ファームと書かれた建物があるくらいで、ずっと畑なのである。銀河の里で耕作している畑の面積とは比べ物にならない広さを目の当たりにし、私はおせっかいながら後継者問題が気になり、自分の立場と比べながらその大きな畑の間に挟まれた広い道路を移動した。
 私の家では田んぼとリンゴ畑を合わせて2町歩程あるが、万が一何かしらの理由で農業を辞めても、近所から「米澤さんちで辞めたっけじゃ」と言われる程度で、田畑を荒らさないように草刈りをしていれば特に問題がないように思う。しかし広大な面積を抱えている場合“辞めます”の一言で済むような問題ではなく、家族内での問題、周囲への影響、従業員の事、辞めた後の土地の活用などなど…、思わぬ所で農業について考えさせられた。

 さて、今回の目的地である「社会福祉法人 当麻かたるべの森」は旭川町の北東に位置する当麻町にある障がい福祉サービス事業を展開する施設である。今回尋ねる事になった経緯は、15年前、まだ銀河の里が生まれていない頃、理事長と施設長が訪れて意気投合して夢を語り合ったという“かたるべの森構想”が何だか銀河の里と同じような匂いがして興味を持ったためである。(かたるべの森の設立経緯などについては今月号の横井氏のゲスト記事もご参考ください。)
 本体施設“ギャラリーかたるべプラス”では施設長の横井氏に熱っぽく我々を迎えていただいて、経緯など聞かせていただいた。横井氏が抱いていた開設までの構想、それを実現させたエネルギーの凄さに驚き、今の自分の非力を感じた。
 ギャラリーかたるべプラスでは喫茶スペースやパン工房などを備え、利用者の作品が展示されている、とても素敵な空間であった。かたるべの森では週に一日、創作の日が設けられており、利用者が絵を描いたりする芸術活動に力を入れているという。
 その後、ギャラリーかたるべプラスから4,5キロ離れた場所に移動し、山林を購入し得たという22ヘクタールもの広大な土地を見せていただいた。そこは森の中で、木工作業用の建物や陶芸作業用の建物、さらにメモリアルホールと呼ばれている音楽ホールなど、芸術活動をサポートするための環境が整ってあった。
 さらにそこから数キロのところには、廃校を改修し今年5月に完成したばかりの“かたるべの森美術館”があった。ここは利用者が芸術活動で描いた絵や陶芸等の作品が教室や音楽室などをうまく利用し展示されていた。展示作品には銀河の里の利用者が描く絵に雰囲気が似ている作品も多くあり、こういう風に作品として展示できたらいいなぁと、その学校まるごと美術館になっている環境がうらやましく思った。
 ワークステージの利用者の中にも作品を生み出すアーティストがいる。かたるべの森のように芸術活動の日が設けられているわけではないが、自主的に絵を描いては持ってきてくれる。このあまのがわ通信で絵を連載している村上幸太郎君もその一人だ。そんな彼らの作品は、ごく一部であるがワークステージ内や特別養護老人ホーム内に展示されてはいるが、それはほんとに氷山の一角で、展示されていない多数の作品の展示方法に悩んでいたため、かたるべの森美術館というアイディアはとても参考になった。展示作品を購入したいという声もあるらしく、私も欲しくなる作品があった。絵を一目見てファンになってくれる人っているんだと気がついたし、絵と利用者がセットで作品となる事も実感した。利用者が持つキャラクターをどう表現するかは、ワークステージ銀河の里の課題の一つでもある。
 日曜日だったので実際の利用者の作業風景は見ることが出来なかったものの、刺激的でパワーを感じる人物にふれるだけでも感動的なものがあった。また銀河の里の活動を伝え、共有し、話し合う事ができた喜びもあった。私自身、職業指導員として、また広報担当として、貴重な闘志に刺激を得ながら、かたるべの森には“森”があるように、銀河の里には“里”があると実感した。
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「腐れ、ねじれ、よじれ」と「ふしぎ」 ★施設長 宮澤京子【2010年8月号】

 子どもの頃、私の家では兄弟が多かったこともあり、リンゴを木箱買いをしていた。箱は籾殻がクッションとして敷き詰めてあり、子ども達みんなが集まって、籾殻の中に手を入れてリンゴを探り当てる。大きいだの小さいだの、紅いだのシミがあるだの騒ぎながら、くじをひくみたいに盛り上がる。
 リンゴをズボンでこすって艶を出して丸かじりする。今のように、食後のデザートとして1切れ食べるといったお上品な食べ方ではない。取ったリンゴが腐っていても、取り換えは出来ないルール。腐ったリンゴを取った場合は、バッサリとナイフで切り落とし、食べられる所だけ食べる。元に戻して取り替えることは固く禁じられていた。腐ったリンゴは良いリンゴに悪い空気を送って腐らせるから、戻してはいけないのだ。
 緩衝材として使っていた‘籾殻’は、接触を断つという点でなんと智慧のある保存方法だったろう・・・リンゴは、腐った部分をナイフでばさりと捨てられるが、「腐れ」の空気が人の集団に感染すると取り返しはつかなくなる。
 「腐れ」「腐敗」と似て非なるものに、「発酵」・「醸造」がある。腐れとは違って、発酵がうまくいくと、味噌・醤油・酒やヨーグルト・チーズといった有効で有益なものに変身するのはすごいことだ。これもまた智慧に満ちた技だ。里においても「腐れ」の空気が充満するときがある。そうしたとき活躍が期待されるのが、空気を一瞬のうちに変えるトリックスターだ。里では個性全開のフクさん(仮名)や剛さん(仮名)が、意識的・無意識的あるいは脅迫的に、人の気を一心に己に引きつけ、笑いや怒りの渦をつくってしまう。彼らと共に、私という「存在」をかけて、「腐れ空間」を「醸造空間」に変身させる物語の一遍を紡いで行くことができるのではないかと期待している。

「ねじれ・よじれ」
 子どもの頃は、古い毛糸のセーターをほどいて、糸巻きの手伝いを良くやった。必ずどこかで糸を絡めてしまう。複雑になる前にほどけばいいのだが、こんがらがってしまうとやっかいこの上ない。
 「あーだ・こーだ」といろんな人の手に渡り、やっとほどけたときには、歓声が上がる。どうにもならないときには、はさみで切断と言うこともあり、そんなときは、パズルが解けなかったときのような悔しさが残る。ねじれ・よじれという状況に陥った場合、自分の短気さや不器用さも加わり腹立たしくなるが、どこか解く楽しみや一本に繋がった時の爽快さや達成感もあって、糸をほどくのは嫌いではない。
 また、ねじれをアクセントとしてあえて模様に使う場合もある。桃子さん(仮名)のカーディガンのねじれは躍動感があって、実に個性的だ。また、ねじれ花を見つけた武雄さん(仮名)のアイロニーに、職員一同しびれてしまったこともあった。どちらもねじれすぎないのが大事なこと・・のようです。

「ふしぎと謎解き」
 里で起こっている出来事は「謎かけ」に満ちており、利用者、スタッフ入り交じった喜怒哀楽が交錯する豊かな世界に導かれる。認知症の周辺症状に「妄想や作話・虚言」が挙げられるが、その世界から迫ってくる言動に対し、現実に張り付いた頭で、事実や常識、果てには社交を持ち出して正そうとしたりすると、ますます興奮させ、疑心暗鬼にさせて収拾がつかなくなる事がよくある。その方を揺さぶっている、沸き上がるエネルギーに圧倒され、「事実」と「虚構」の境界が崩れるところから、里の舞台は開演となる。
 そしてそこからが、スタッフの現場における専門性が問われる真剣勝負の場となる。その方の語りや謡いから、時代や場所という舞台の場面設定をし、登場人物と自分の役割理解を深めながら「謎解き」ともいえる多様な物語を紡いでいく仕事がはじまる。  昨年来、爆発的な販売量を記録し、日本中が注目した『1Q84』の著者 村上春樹が、雑誌『考える人』のロングインタビューの中で、「謎」に対する正しい答えや解答を求めても無駄で、読者がそれぞれ自分なりに謎を違うかたちに置き換えていき、一つの仮説「そうかもしれない」という、ある種の風景が見えてくることが大切であると語っている。正に里の「謎解き」に共通するまなざしがある。謎を通じて物語を展開し、新たな地平の風景に到達しなければ野暮と罵られても仕方がない。
 また、村上春樹が80年代当時、「物語」の意味を理解してくれたのは河合隼雄氏だけだったと述べている、その河合氏の著書『物語とふしぎ』のなかでは、ふしぎが物語を生み、ふしぎが人を支え、「私」のふしぎを追求していくとたましいのふしぎに突き当たると語っている。物語には「ふしぎ」がキーワードとしてあることや、たましいを見据えた視点は里の「物語」とも通じる。私自身、『物語とふしぎ』で河合氏が語る児童文学の持つ魅力に引き込まれてしまった。
 河合氏が言うように、この世でしか通用しない地位・名誉・財産といったものに執着している姿に、「いったいそれがナンボのことよ」と、たましいの側は語りかけてくるとしたら、あちらに持って行けるものが何なのかを考えてみることは、現実の生き方に深みを持たせてくれるに違いない。
 施設における評価や指導として行政指導監査や情報公表、第三者評価などが取り入れられて久しい。そこで使われるチェック項目に合わせて施設管理の精度をあげ、より平準化していくにつれ、現場で起こっている人と人の出会いや、魂の出来事からリアリティを奪い「物語」を消し去り見えなくしてしまう。魂を揺るがすエピソードに充ち満ちている現場が福祉の現場であるはずなのに、無理に客観的な評価基準を当てはめてしまうから、人間的なことや、こころのこと、ましてや魂の出来事などはたちまち色あせて消滅させられてしまう。実に残念であり、お粗末としか言いようがない。
 そんな憤りにかられるとき、「それがナンボのこと」と言えたら、どんなにすっきりすることだろう。魂は常に、この世の価値に対しそう語りかけているはずなのだが。
 現実社会では、労働や効率そして成果に汲々とせざるを得ないので致し方ないとしても、福祉施設くらいは魂に近い中間領域から、「ナンボのものよ」と語りかけ続ける必要があるのではなかろうか。
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発信・受容する大地 〜夏・北海道〜 ★ワークステージ 佐々木哲哉【2010年8月号】

 10数年ぶりの、夏の北の大地。
 大学2年の夏、初めて一人で北海道をバイクで旅して、その日本離れした広大な風景、温かい地元の人々や風変わりでユニークな旅人達との「一期一会」の出会い‥‥など、非日常の開放感に完全にハマってしまい、以後3年連続で夏休みは北海道で過ごす「北海道病」の重症患者となった。「青春」を語るにはまだ早すぎるが(?!)、その1ページはまぎれもなく北海道を駆け巡った日々だった。北海道は僕を大きく変えてくれた場所だ。

 そんな思い入れ深い大地に今回、福祉というまなざしから注目されている拠点をいくつか訪ねることにした。そのひとつが日高山脈を越えた十勝の玄関先・新得町にある「共働学舎」である。ここは福祉施設ではないが、様々な障害をもったり社会になじめない人々、あるいは酪農や農業に携わりたい人が集まって共に生活をしながら、牛や豚を飼い畑で野菜を育て、チーズやクッキーなどの農産加工、とうもろこしの皮や野の花を使った工芸品づくり、新たな家や牛舎の建設などさまざまな仕事を分担して共に働き、互いに支えあいながら自労自活の生活を送っている。
 32年前に山の麓に町から30haの土地を無償で借りて入植し、水を沢から引き、古いプレハブ小屋や牛舎を自ら建てるところから始まった農場は、徐々に拡大しながら現在約70人のメンバーと120頭の牛、10数頭の豚、250羽の鶏、羊やうさぎ、馬や犬たちの世話をしながら主にチーズの製造販売に力を注ぎ、原料から一貫して作られたそのチーズはいまやモンドセレクションなど国際的な評価を得るまでになり、事業収入の柱となっている。

 福祉的側面やチーズの評判以前に、自給自足や物理学的見地に基づいた自然エネルギーの利用など先進的特徴があり、共同体での暮らしに興味があったので以前から知っていた有名な施設だったが、いつか訪ねたいとは思いつつ、実現していなかった。
 特に興味深いのは、1日の仕事や活動は朝食後の打ち合わせで各自が自らの意思でその日の行動を決めて任せられる、という本人の主体性を尊重する点だ。仕事をしても休んでも自由ということで本当に仕事や生活が成り立つのだろうか‥‥言葉や写真ではなく、実際の作業や生活の場に一緒に入らないと何も分からないはずだ。なので今回、わずかな時間の見学にためらいもあった。
 それでも実際に訪ねてみてよかった。施設に併設してある喫茶・販売、兼交流スペース「ミンタル(アイヌ語で“人の行き交う場所・広場”)」で応対してくれた加藤氏の柔和な表情、彩りと香り豊かなチーズやデザート・珈琲、玄関前で黙々と草取りに汗していた青年、帰る寸前に「儲けを先に考えたらダメだ」「敷地にテント張ってもいいよ」と快活に話してくれた代表の宮島望・京子夫妻、今日から農場体験に来たというモデルのような女性、壁に張られた写真でみるメンバー達の表情・作業の様子‥‥ほんの一瞬を垣間見た程度でも、それはささやかな刺激や発見、そして自分のやってきた仕事やメンバーとの接し方が「これでいいのだろうか」という見直しのきっかけやヒントを与えてくれる。また行きたい、もっと知りたいと思った。

 翌日訪ねた「かたるべの森」でも芸術的創造に刺激を受け、久しぶりに再会した友人の夫も福祉施設を立ち上げていて話は夜遅くまで尽きず‥‥と、北海道からこれまでとはまた異なるかたちでエネルギーをもらった。また初日に、以前自転車で旅をしたときに4日間もお世話になったライダーハウス(家主の善意で部屋を無料〜低額で開放してくれる、寝袋持参の簡易宿泊所)に立ち寄ると、宿は閉じてしまったものの併設する食堂のお姉さん(もうお母さん)が僕を覚えていてくれたことも無性に嬉しかった。
 アイヌの人々にとって大事な沙流川(さるがわ)のダム開発を巡って当時揺れていた場所だったからか、初めて会う宿泊者同士で民族問題や環境問題といったマジメな話にまで及んだことが強く印象に残っている。そこで出会った大阪出身の友人は、アイヌの探求からやがて沖縄に理想の地を求め、今は那覇で木工作家の地元主人とともにガラス工芸に励んでいる。
 僕自身もその後“観光”から、やがて田舎暮らし・自然回帰の願望とともに「自分は何を誇りに生きたいのか」というアイデンティティの模索・内面的な“旅”へと変化していき、今に至っている。

 時には思い切って羽を伸ばして少し遠くへ旅をすると、思ってもいない何かが得られる。いのちの洗濯もできる。様々なきっかけを与えてくれた北海道の雄大さに、あらためて感謝したい気持ちになった。先日観賞した舞台「歸國(きこく)」も倉本聰の率いる「富良野グループ」による上演で、強く心打たれるものがあった。
 北海道から発信されるものは大きく、深いと感じるのは僕だけだろうか‥‥。
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銀河の里22年度研修第2弾 倉本聰「歸國(きこく)」 ★理事長 宮澤健【2010年8月号】

 倉本聰の「歸國」を観た。最上質の演劇だった。
 全国公演の一環で、車で一時間程度の胆沢文化創造センターで上演とされるというので、職員28名で見に行くことになった。東京に出かけるとなると交通費がかかってしまうばかりかチケットも安くはない。チャンスとばかり大挙しておしかけたのだった。この日は、銀河の里の2大イベントのひとつ「夏祭り」の当日でもあったので、体力的にはみんなヘロヘロだったが気合いを入れ直して、会場に入った。
 物語はこの夏、東京駅に幻の軍用列車が到着するところから始まる。列車には太平洋戦争で散った若き英霊達が11名乗っていて、今の日本の繁栄と豊かさを検証する目的で、それぞれの故郷や思い出の人を訪ねるという内容だ。渋谷の街角などで、はじけた若者の大軍とすれ違うとき感じるのは、わずか数十年前、同じ年代の若者達が特攻兵として散った現実のコントラストに対する違和感だった。今の若者をみたならば、太平洋戦争で散った若者達はどう感じるのだろうと思わずにはいられない。
 倉本聰は演劇「歸國」を通じてそうした思いを実現してみせてくれた。劇中、英霊とは死者でもなく生者でもない、言わば逝ききれず、この世に情念を残したいわゆる幽霊たちなのだ。あまりに理不尽な死は、憶劫の理不尽な別れなどの情念をこの世に止めてあちらに行けないまま霊界を漂っているのか。彼らは意志とは関係なく、否応なしに、国のために死地に赴かねばならなかった。そして故郷に帰りたい、恋しい人、愛しい人に会いたいと希いながらかなわず散った。彼らは言う「感謝してほしいとは思わない、しかし忘れないでほしい」確かに忘れるということは彼らの死を犬死にとして捨て去ってしまうことだ。
 現実に現代の我々は彼らのことは全く関係のないこととして生きている。物語上は太平洋戦争で死んだ英霊たちとの関係を描いているが、本質的には我々は死者達とどう生きるのかというテーマを掲げ、命の繋がりをとらえる叡智の欠如について問うていると感じた。
 死が終わりとしてしかとらえられない時代にあって、生への執着が増し、死の敗北感ばかりが強くなる。我々は死の意味に対してあまりに無知で、死の儀式の最も幼稚な時代を生きていると指摘する人もある。
 介護の現場では別れは少なからずやってくる。銀河の里10年、そこで経験した死別は果たして、終わりや、敗北であったかというと、体験としてむしろ全く逆ではなかったか。旅立ちの準備を整える日々に、あがきながらも添わせてもらえたと確信できるケースがある。そうしたとき死は敗北ではなく生の凱歌として響いてくる経験をしてきた。死者ほど揺らがず確かに生者を支えるものはない。
 先月、特養でお一人を見送ったが、チームとしてはまだ途上で立ち上げ段階で苦労しているので、添い切れたとは言い難いく、申し訳ない限りだが、個人としては深い出会いのなかで旅立ちへの準備に同行できたところもある。そうなると生きていても死んでも変わらない境地に達したりする。そうした場合それは、終わりではなく、正に始まりではないのだろうかと感じたりする。そうした関係を生きることができたとき、お互いに生死を超えた関係のなかで、支えられ続けるに違いない。
 このところ全国的に、高齢者の所在未確認者が増えている。孤独死は年々増加し社会問題になっているし、墓を継いで守る人がいないので、自分の代で墓を閉じる閉墓なども一般的になってきた時代だ。我々は死者を初めとして、あの世や、異界や、たましいなど目に見えないものとの繋がりを次から次に失ってしまって、ついに、親子や家族といった、本来切れるはずのなかったものの関係が切れてしまう現実に直面している。
 先日、女性スタッフが、ショートステイの予定のご夫婦をお迎えに行ったところ、おじいさんが「ショートに行かない、誰が決めた」と怒っていて奥さんを殴っていた。間に入った職員も殴られて、ケアマネージャーに連絡するが、休みで現実的な対応はできず、旅行先の息子さんに連絡をした。息子さんは電話の向こうで「なにをやっているんだ。金を払っているんだからちゃんと連れて行け、男の職員にやらせろ」と居丈高な態度だった。おじいちゃんの気持ちや感情、思いは全く取り上げられる事はない社会になっている。
 関係を切ることによって便利は率直に生まれる。つまり今の極めて便利な社会は面倒な関係を切ることの積み重ねでできあがってきたのだ。それを極めて端的に享受できる我々は果たしてそれで幸せなのかと問われることになった。肉親など親しい者の人間関係ほど面倒なことはない。それを全部たたききってしまえば、便利になるのは当然だが、それで良かったのかと問われないわけがない。
 便利の局地が制度やシステムだ。大半の施設やケアマネージャーなどケースワーカーが役所や制度の側にしか立っていないといつも感じさせられてきた。そんななかで銀河の里は個々の関係を繋ごうとしてこの10年やってきたつもりだが、逆風の勢いは増すばかりで関係機関や同業者との隔たりは増すばかりか、違和感が強く、イジメの嵐の中で翻弄されている。無視と陰口と仲間外しが黒魔術の常套手段だが、それらに惑わされずに戦い抜くタフさが要求される。タフの源泉は英霊達の妖力を借りるしかないだろう。あらゆる死者を我らの見方にして戦うしかないと思う。
 劇中、老いた海軍少将と英霊が会う場面があった。元少将は多くの部下を死なせた事を悔やみ、生き恥をさらしていると悔い、自死を考えながらもできなかった自分を責めている。英霊達への供養に送り火をしようとするが、施設の介護者がやってきて「館内は火気厳禁ですから火を燃やすのはダメです」と取り上げられてしまう。施設の介護者にとって、この元少将の「送り火」は認知症の危険行為、問題行動に過ぎないのだ。こうした暴力が日常的に当たり前のように行われているのが施設というところだということを、繊細な作家は見抜いているのだと思う。
 こうした残虐の裏にはいつも紋切り型思考がある。私自身福祉施設で地獄を見た体験があるが、そこには「施設側が絶対的に正しい」という紋切り型の考えがあった。英霊になった兵士達が戦地に送られたのも、鬼畜米英、神国日本などと言った極めて単純な紋切り思考の土壌があった。紋切り思考や割り切り思考は必ず暴力を呼び、残虐行為に至り命や魂を傷つける。人間は本来そう単純ではない。そこが理解されないと一気に正しいことが単純に掲げられて、人の心を抑圧する。暴力や残虐行為はほとんど行為する当人の意識を越えて実現してしまうのが恐ろしいところだ。
 人間の関係を生きる形は、複雑系か混乱系といえるような様相を持っているはずだ。劇中でも扱っていたが「便利」が全てを紋切りの単純系に代えてしまった。それが幸せかと問われると厳しいものがある。便利を深めながら、我々は孤独の深みを掘り続けているようなものだ。
 英霊達は、自分が守ろうとした国や故郷の現代の子孫の生き方を目の当たりにして驚き葛藤する。そうした悔恨に似た英霊の心の苦しみを描き出すのに、「能」に似た構成をうまく使っていると感じた。劇中には能のワキにあたる登場人物が二人いる。能ではワキは諸国一見の僧であったりするのだが、それは単なる俗人ではなく、多少異界や異次元に関わることに親和性のある人物が選ばれる。「歸國」では通信兵と、検閲兵がその役になるのだが、単なる兵士でもなく、民間人でもない中間にいる人物をそこに置くことで、異界の事情や英霊の情念はよりリアルに観客に伝わっていく。
 能では、ワキは問いを発した後、しばらく身じろぎもせずシテの謡と舞が延々と続く場面が多いが、それはワキに現れたイリュージョンを通して観客が異界の情念、幽霊などと接触していくしかけなのだ。歸國のワキ二人はじつによく語るのだが、それにしてもワキとして実によく機能していた。
 異界の情念をそのまま労働を核とした現実世界に持ち込むことははばかられる。そこにワキという中間領域の人物がいることが実に重要ではなかろうか。福祉施設というのは現代の社会においてこうした中間領域の役割を担っていると感じてきた。スタッフはワキで施設は橋がかりということになろうか。あちらとこちらを繋ぐ役割だったり、あるいはあちらでもこちらでもない領域からの視点を持つことは、現代から未来を見通すのに欠かせない仕掛けになってくるはずだ。そうしたまなざしを失って久しいところに、現代の悲惨がある。英霊の情念に思う存分燃えさかってもらいたいし、我々は中間領域の存在として目に見えぬものを見、形なきものを感じて行けるようでなければ、たちまち紋切り型の餌食になって惨殺されかねない。
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今月の一句 『育む』 ★グループホーム第2 鈴木美貴子【2010年8月号】

 ある朝のこと、「大型免許(米澤)で産まれたべが?」とコラさん(仮名)。8月中ごろ出産予定の米澤のことを気にしている。私は9月末出産予定。誕生を楽しみに待っているコラさん。「おれみたいなのでも子供育てた経験あるからいい」「子供育てるのは大変だけどかわいいと思ってるから育てれる」と話す。育てるという経験、育てることで自分自身も育ちたい。
 また別の日には、「女の人はつらいよ」「天候ひんどい、今年は暑いもん」とコラさん。特に今年の夏は暑い。「暑い時に産まれて大成功なんだ」「女の人は強いもんだね」と、暑さに負けていられない思いになる。「丈夫な子供産んでや」「おめさんは倒れねえでや、おれは倒れてもいいどもよ」と気にかけてくれるコラさん。誕生を楽しみにしてくれている人がいることすごく嬉しい。新たな出会いと今出会っていることを自分の中にしっかり重ねて膨らましていきたいと思う。
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志と理念を持って福祉を推進する人たちへ その1 ★北海道当麻かたるべの森,ギャラリーかたるべプラス 施設長 横井寿之【2010年8月号】

 岩手銀河の里の職員が見学にくるという。ひょっとして岩手銀河の里の創設者は私が剣淵という人口5千人の町の施設長だった10年以上も前に、見学に来た人が創設した事業所ではなかったか?東京の施設を辞めて、岩手でやろうしている事、夢を語られた人の施設の職員ではないか。私はその時、地域生活をする障がい者の自活訓練寮を作り、2階に女性の利用者が、1階に管理人として私たちの家族が住み、そんな生活を始めた頃、そこで語り合ったのを覚えているが、この記憶は正しいだろうか。その時の光景は今でも鮮明に覚えている。なぜかと言えば、東京での施設は「地獄のようだった」と表現されたからだった。私が見聞きする東京の施設は一体誰のための施設かと思うところばかりであったので、彼のこの言葉に共感した。
 堕落した巨大な組織にあっては、一人がどんなにあがいても、できることは限られる。ここではもうやれないという思いは日々強くなる。私も似たような経験をした。私が大学を出て最初に勤務した「道立太陽の園」は大規模施設としては、極めて革新的な努力をしてきた施設だと思う。それでも私は、そこでの限界を感じたし、こういう施設にはしたくないという思いが日々つのり、道北の田舎の施設に誘われて、夢を託して大規模施設を辞めた。そんな経験と彼らの思いを重ね合わせることができたから、強く印象に残っている。
 その彼らが岩手銀河の里を設立した。そして、本当に時折、銀河の里の事を耳にする事もあり、また機関誌をみることもあり、「あー、あのときの皆さんはいい仕事をしている」とうらやましくも思っていた。銀河の里の皆さんの見学を受け入れた後、私は平成10年に剣淵の施設を退職し、当麻という人口8千人の町に移り住んだ。浪人暮らしをしながら、20年使われていなかったという、中学校から借りた物置に事務所を構え、ネズミの糞の掃除をしながら、通所授産施設をつくる準備をしていた。施設の名前は考えて、考えて、「ギャラリーかたるべプラス」という名前にすることに決めていた。法人の名前は「当麻かたるべの森」とした。「かたるべ」というのが、基本的な理念である。利用者と語り合い、話し合って決めていくという利用者との関係が基本でなければならない。職員との関係においても、父兄との関係においても、「話し合い」は私たちの基本でなければならない。そして、具体的な通所施設としての建物は「ギャラリーのような建物」ということを設計事務所にお願いをした。設計事務所は東京の有名な事務所である。「お金はありません」という私の言い分に、破格の金額で設計を引き受けてくれた。今考えてみれば、よくあんな厚かましくも図々しいお願いができたものだと思う。
 「ギャラリーかたるべプラス」と名前をつけたのは「創造的に芸術的」に活動するという理念を掲げたかったからに他ならない。私は、障がい者の芸術活動を援助の大きな柱の1つと思って実践してきた。そうした観点から、日本障がい者芸術文化協会の設立にも参画した。従って、かたるべの森の活動の1つの柱は芸術的で、創作的な活動を目標にした。そういう活動をするためには、それらしい環境が必要だ、そう思い、22f(6万6千坪)の森を退職金と借金をして購入した。この森の中に木工、織物、陶芸などの工房を作っていこうと思った。そして、できればコンサートホールも欲しいし、いずれ美術館も作りたいと、かたるべの森の構想を聞かれる度に、夢を語ってきた。
 夢は限りなくつきなかったが、私自身としては、社会福祉法人としての認可がほぼ確定したときに、借金返しのために平成11年から、札幌の近くの大学の福祉学科の教員として「出稼ぎ」に行くことになった。20名の通所授産施設の職員数と人件費では、借金返しができるほどの給与をもらうわけにはいかなかったからである。
 大学の教員をしながら、かたるべの森の施設本体、「ギャラリーかたるべプラス」という通所施設の建設に始まり、木工と織物の工房の建設、コンサートホールの建設、陶芸棟の建設、森林整備の活動をするメンバーのための活動拠点「ビジターセンター」という建物建設した。さらにグループホームの2棟の認可を得、児童デイサービスの事業所も開設した。そして、平成22年5月に、私たちにとって念願であった障がい者の作品を常設展示する美術館「かたるべの森美術館」を開設した。これは閉校になった当麻町の伊香牛(いかうし)という地区の小学校を借り受け、日本財団の助成を得て改修したものである。この建物は障がい者がいつでも創作活動ができるアトリエと、三教室を「常設展示室」として他に、収蔵庫、喫茶店店舗、陶芸の工房と精神障がい者のための作業室も併設した。
 障がい者のための美術館は私の知る限りでは、日本で3ヶ所目、北海道では初めての開設である。この美術館に接することによって、障がい者の絵画創作活動が身近な地域と市民から関心をもたれることができたら、こんなうれしいことはない。先日旭川の美術クラブの先生が生徒20人を連れて見学に来た。「絵を自由に、好きなように楽しんで描く」、障がい者の絵にはそれがあり、それを生徒に伝えたくて、引率してきたという。60才に近い女性が、あるメンバーの絵を涙ぐんで見つめ、「この絵を売ってくれませんか」と言う。女子高生が「ねえ、この絵めっちゃ面白い」と写メを撮っていく。私たちが思った以上に、メンバーの絵画が人々のこころに何かを残していく。
 さて、指定された原稿の字数に近づいてきた。私は10年ぶりに現場に戻り、まさに浦島太郎の心境になっている。この期間の福祉制度は相対的に劣化してきていると思っている。規制緩和から福祉予算の削減を正当化するための様々な改革は、福祉もビジネスという魑魅魍魎の輩が跳梁跋扈する現状を生み出した。困難を抱えた人と地域を良くするという理念は、金にならないと嘲笑され、まじめな若者達が福祉から追いやられる時代をもたらしたように思う。こんな時こそ、理念を語り、夢に向かい実践する現場の有志の活動が一つの糧となるだろう。
 岩手銀河の里の皆さんの活動を励ましとして、私ももう少し若いスタッフの力になろうと思う。 (続く)
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初めての梅漬け ★デイサービス 小田島鮎美【2010年8月号】

 私は、今年初めての梅漬けに挑戦した。今年は梅が不作で、購入しようかとも考えたが、収穫に感謝し、宮澤家と米澤家で収穫した梅をみんなで分けて、梅漬けを作ることにした。
 宮澤家の梅とりでは、誤ってプラムの実を大量に収穫してしまうというハプニングがあった。「ここにもあるよ!」という声に、急いで駆け寄り「待てや!」と枝を掴んで、さぁおめ達採れや!と言わんばかりに力強く枝を引きおろすフジ子さん(仮名)。その生き生きとした姿に、自然とみんなが一体となり、エネルギーが湧き上がる。ものすごい勢いで、どんどんと実をもいでいたのだが、、、実がつるんとして固い手触りなのに気づく。(これは梅じゃない!?)急いで、ワークステージの松坂さんに確認すると、なんと私達がもいでいたのは梅ではなくプラムの実だった!慌ててみんなの所に戻るも、時すでに遅し、、、大量にプラムを収穫してしまったのだった。わたしの準備不足で、こんなことになってしまい落ち込むが、気を取り直して、梅の実を収穫。各部署で、塩漬けにした。
 今度は、塩漬けにした梅をしそと合わせる。しそを洗い、葉を取っていく。ふき採りの手つきで、バヅバヅッと豪快に葉を取る義男さん(仮名)。その枝に残ったこまごました葉を丁寧に摘むのは歩さん(仮名)とモト子さん(仮名)。葉を取り終え、アク取りの作業へ。塩と梅酢を入れ、一生懸命に揉む。みんなの手が、あっという間にピンクに染まった。最後に、それらをボウルに入れて「よいしょっ」と掛け声とともに、均等に混ざるようにボウルを動かす。義男さんは「1、2、3、4」と数を数えながら力強くかましていた。ところどころ、つぶれてしまった梅もあり、今年はうまくできるかな等々話していると「しょっぱいは成功のもと!」(失敗は成功のもと)と義男さんの一言。ささやかな笑いを誘い、無事に梅としそを合わせる作業は終わった。その後、梅漬けは順調に赤紫色に染まり、ふたを開けるたびにいい香りになってきている。「うめぇ〜、食べごろ」を心待ちにしている。
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