2008年05月15日

今年のジャガイモの種まき ★グループホーム第2 板垣由紀子【2008年5月号】

 毎年、冬を越して春のこの時期、畑にジャガイモを植える。グループホームの高齢者とワークステージのワーカー、職員スタッフと揃って畑に立つ。新人は、初の農作業。


 4月9日、天気に恵まれ、新人スタッフもつなぎ姿がさまになっている。グループホーム第2からもリフト車に車いすの人たちも乗って、利用者5名とスタッフ2名で畑に向かった。畑に立つことは難しい人も、ドライブ気分で出かけ声援を送りたい。
 畑では車の中から見る人、ベンチに座って様子を眺める人、頭に手ぬぐいを巻きつけ畑に入る人など、高齢者の動きも様々だ。始めはベンチで見ていた シノさん(仮名)が様子を見ていてたまらず動き出す。スタッフに手を引かせて畑のなかに入っていく。腰の曲がったシノさんだが、畑にしゃがみ込んで、耕した土に残った草を集め始めた。
 それを見て、亡くなったサトコさん(仮名)の一言を思い出した。「わがねちゃんと根っこまで取って土ほろがねばすぐ根張って草だらけだ、こったに実が付くまでおがしたら、草の種こぼれてしまうんだ。」畑に草は大敵なのだ。みんなさすがだ。
 隣ではワーカーさんが種芋を運びながら黙々と作業をしている。その隣で武雄さん(仮名)が棒を持ってサッ、サッーと線を引き始めた。それを見た若いスタッフが「 武雄さんもベラベラとやりたいんだね。」と笑う。“ベラベラ”とはサチさん(仮名)の口癖で、いつも「ベラベラとやるのっす」とゆっくりな人を見ていられず急き立てる言葉だ。
 突っ立ている人の多いのに苛立った武雄さんが。「印つけてるんだから、誰かジャガイモおいてってよ。」と叫ぶ。職員スタッフがそれに応じるが、 武雄さんのスピードについて行けず音を上げている。そこに農家出身のワーカーの司さんが助っ人で入り、武雄さんとペアを組みいい感じで種芋を植えていく。
 今年もジャガイモの種まきが終わり、畑ではにぎやかに順調に作業が進んだ。あっという間に植えられて見事だったのだが、どこかで私は違和感があった。何かが違う。作業は終わったが何かがたりない。
 武雄さんが働いている。しかし若者にはその意味が伝わっていない感じ。新人スタッフは意味がわかっていないと思った。大事なことが伝わらない感じ。一緒にやっているけど解ってはくれない感じ。一緒に何かをすると言うこと。一緒に生きるということ。それを伝えたかった 武雄さんだが、時代は武雄さんを置いていってしまったかのように、若者は忙しく、その気持ちを理解できないどころか疎ましく感じてしまう。理解していたら自分が生きていけなくなってしまうかもしれない。『仕事=効率=成功』という図式が現代社会、そこで加わる高い圧力の中でそだってきた若者達。

 

 生きると言うことはすごいことで、そこには大切な何かがあるはずなのだけど、ジャガイモの定植はただのイベントに堕してしまうのも簡単なことだ。そもそもジャガイモを植えるのは何のためなのか、“生きる”というリアリティを今どこに求めたらいいのか?若くはない私の頭はグルグルしてくる。
 そんな私も、グループホームに戻って救われた気持ちになる。
「ただいま。ジャガイモ植えてきた。」と帰ると、車いすのハルエさん(仮名)が「ごくろ〜さま〜。」と笑顔で迎えてくれる。「やってらな〜もう終わる頃だべ、ご苦労さん」と豊さん (仮名)。サチさんが「わたしゃ〜♪」と歌で応援してくれる。
 すごいなぁ〜畑に入った訳でもないのに一緒に仕事している一体感。高齢者のこの眼差しの力。新年度、始まったばかり、いつかどこかで若者と高齢者の両者が出会ってそして何かが生まれてくるはず。それを信じて、私も深い眼差しで新人を見守っていきたい。
 毎年、新人が入ってきて新しい風が吹く。彼らには今しかない新鮮さがある。この時期だけの緊張感や戸惑いだから、大いに感じ大事にして欲しい、そのドキドキ、ハラハラ、ワクワクを。
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フィリピン散策記2 〜そこに生きる人々〜 ★ワークステージ 高橋健【2008年5月号】

 もちろんカルボン・マーケットにいた全てのフィリピン人が生動感溢れる表情をしていたわけではない。僕が多くの人々でごったがえす小道をふらふらとした足取りで歩いていると、絶望と懇願が入り混じったような双眸で僕を見つめ、金銭を要求する物乞いが数人いた。その物乞いと視線が合った瞬間、僕は哀れみでも悲しみでもない、何か重苦しい澱んだ想いに駆られた。
 僕が意図したわけでもないのに僕と彼の間には瞬時にして金銭を媒介とする支配関係が成立してしまっていたのだ。日常的な空間でも支配関係の網の目が不可視に張り巡らされているが、彼が僕に手を差し伸べ、露骨に金銭を要求する行為によって、その権力関係がより一層顕在化された。

 

 介護の現場では、たびたび自己の持つ「意図しない暴力性」に気づかされる。僕は幸造さんと出会って間もない頃、幸造さんと目を合わせた瞬間に恐ろしくなって、すぐに目をそらせてしまった。僕は幼少時から僕が発する何気ない一言が発端で暴力が猖獗を極めるような、ぎすぎすした緊張感に満ちた家庭環境で育ったこともあり、常に相手の表情を観察して相手の心情を読みながら話しをする癖がある。しかし、この時は幸造さんの眼を見ても幸造さんが何を考えているのか、どんな感情を抱いているのか全く理解できなかったため、どう反応していいか解らず恐ろしくなってしまった。この恐怖心は幸造さんを「理解」したいと思うからこそ生起した感情であるから、何の問題もないかもしれない。僕も初めはそのように思っていた。

 

 しかし、魚の小骨が喉に突き刺さったような腑に落ちない感じがして、性能が悪いポンコツの頭で執拗に問い続けると、果たしてそうなのかと疑問に思うようになった。僕は幸造さんを僕の知によって「包摂」し、「所有」することにより僕の意のままにしようと一種の暴力を行使しようとしたのではないか。他者を「理解」することは、もちろんありうることだろう。とはいえ他者はその理解を踏み越え、他者との「関係は理解をあふれ出して」ゆくのではないだろうか。他者を理解するとは、かえって、他者が私の知の一切から逃れ出る存在であることを理解することなのではないか。そうした包摂の対象となりえないもの、それだからこそ優れて「対話」の相手となる者をこそ、ひとは他者と呼ぶのではないか。私を超越しているからこそ幸造さんなのである。私に理解不能だからこそ幸造さんなのである。その一方で幸造さんと関係を築きたい、繋がりたいと強く欲望する自己がいる。その幸造さんの「固有性」「他者性」を把持したまま、いかに繋がれるのかということが僕に問われているのだと思う。幸造さんと出会ってからはコミュニケーションの本質についても随分考えた。それについてはいずれ稿を改めて書きたいと思う。

 

 だいぶ話しが脱線してしまった。フィリピンに話しを戻そう。フィリピンではタクシーが走っているがタクシーは乗車賃が高いので(とはいっても日本の10分の1ぐらいの値段)利用せず、ジプニーという15人程は座れる座席があり、空いている空間があれば何人でも詰め込み、それでもいっぱいになった時は屋根にまで座らせる何とも逞しい、ジープを改造した乗り物を利用した。ちなみに僕は屋根の上には座らなかったが、何食わぬ顔で人の上に座った。そのジプニーを逃すと寮に戻れない状況だったので寛恕頂きたい。乗車賃は、1時間以上乗っても50円程度である。格安ではあるが、決まった路線は走らないし、停留所はないし、乗車時に恐喝されることもあって観光客には明らかに不向きだ。乗車して、他の乗客の顔ぶれを見ると恐そうなお兄さん達が目を輝かせながら僕を見たので身の危険を感じ、すぐに降車したことが1度だけある。そのジプニーを利用してサンフォード・ペドロという第二次世界大戦中に日本軍の捕虜収容所として使われた建物に行こうとした時のことだ。ジプニーのおっさんに「このジプニーはサンフォード・ペドロに行きますか?」と聞
「乗れ」と言うので、乗車した。30分程乗車して、車どおりの多い道路を走行中に突然車が止まり、おっさんが指を差しながら「こっちの方角に歩いて行けばある」と何とも無責任極まりない言葉を発したのが、「これも何かの縁だ」と怒ることなく降車し、おっさんの指し示した方角に向けて歩を進めた。 (続く)
 
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おすすめの本 『霊的人間 魂のアルケオロジー』 ★宮澤京子【2008年5月号】

『霊的人間』魂のアルケオロジー 鎌田東二著 作品社 2006年


 アルケオロジーとは、始源学・考古学の意味である。宗教性や霊性を鍛える機会が皆無に近い現代であるが、それらを鍛え深め、魂の完成を目指す根源的「知」を探求した霊的人間を発掘する試みとしてこの本は著された。それが未来を照らす意味でいかに重要な仕事か、福祉現場にあるものとして思い知らされる。


 鎌田東二の21世紀の新たなる「モノ学」の構築
「物」から「者」を経て「霊(モノ)」に至る「モノ」感覚の広がりと創造のかたちを丸ごと捉えていく。この本『霊的人間』は、その試みの「モノのはじまり」であるという。混乱を極める21世紀を生き始めた私たちに必要な知と力とは、生の多様の中に息づき立ち現れてくる、「潜在」的で「普遍」的なモノを見透す想像力ではないかとしている。
 本書で取り上げた「霊的人間」9名(ヘッセ・ブレイク・ゲーテ・本居宣長・上田秋成・平田篤胤・稲垣足穂・イエイツ・ラフカディオ.ハーン)は、それぞれの探求と叡智的直感を通じて、そうした想像力を予感し、それぞれの時代と地域の困難を生きぬこうとした。彼らは、人間の「原型」を探求する旅に出た旅人であり、存在の根源としての魂のアルケオロジーを追い求める捜索者だという。
 臨床の現場で認知症の人や、障害者と向き合う我々に必要なのはこうした霊性の可能性の探求であることは論をまたない。我々がどこかで魂の探求者であり、そうした捜索の旅人の側面を失ったとき、支援という美名の裏からたちまち傲慢と暴力が吹き出して荒れ狂うことになる。福祉現場が、管理と扱いに流れ、心やたましいを見いだせないまま荒廃化している現状を見るにつけ、著者の取り組みを我同志として共感してしまうのである。
 先月、京都で行われた河合隼雄先生の追悼シンポジュウムで、河合先生が“うそつきクラブ”の代表であるなら、ぼくは“法螺吹き東二”であると、法螺貝を吹いて追悼した著者の姿をこの目で見て、いっぺんに魅せられてしまい、今まで挑戦しては挫折して読めなかった東二の本がそれから読めるようになったのは不思議なモノである。とはいえここに挙げられた霊的人間9人は、私にはかなり手強いので、そこは直接本書に当たってもらうとして、私は勝手に霊的人間10人目の鎌田東二の「モノ学」の紹介にとどめる。
 彼は子どもの頃「モノのけ」(鬼)を何度も目撃し、10歳で『古事記』の「モノがたり」を読み、 平田篤胤や柳田国男や折口信夫の「モノのけ」研究にインスパイアーした。ここ数年は、本居宣長の「モノのあはれ」論を吟味する。そして柳宗悦の民藝運動などの「モノづくり」伝承の厚みに“驚覚”を重ねているという。
 確かに我々日本人はモノと人の間に隔たりが薄い感じがあり、むしろモノにこそ霊性が宿るととらえる所がある。一昨年文楽を初めてみて、モノである人形に託すことで、より深く情念の湧き上がりを表現することができるということに驚かされた。文楽が他の操り人形と違うのは人形の周囲に黒子も含め多くの人間がうごめいていることだ。さらに太夫の謡いの凄まじさ、その上三味線との駆け引き。本体にまつわる多くの生き霊のうごめきがあってひとつの生があると言わんばかりの構成だ。情念という心の底の動きを描こうとして完成されたひとつの形態だと驚覚したものだ。
 本書でも、日本列島文化においては「モノ」の見方の中に「霊性」の働きがあったと考えるようになって、「モノ」は単なる物質でもなく物体でもなく、「者(モノ)性」も「霊(モノ)性」もともに内在させている。と述べ、この物質・物体から人格的存在(者)を経て霊性的存在にも及ぶ「モノ」の位相とグラデーションの繊細微妙さ。と日本文化の霊性の深さを讃えている。ドナルド・キーンは「モノのあはれ」を、a sensitivity to things :モノへの敏感さと訳したが、著者はthings では違うとしてa sensitivity to spirituality :霊性への敏感さ、を指摘する。
「モノ」に即して思念シ、「モノのけ」を感受し、また「モノがたり」しつつ「モノづくり」に励んできた日本人の生活文化の蓄積があるという東二の「モノ尽くし」は、銀河の里のありようと深くリンクしていると感じながら、私の中に銀河の里「モノまんだら」の発想がわき上がった。翁と童、地方と中央、生産と消費、豊饒と疲弊・飽食と飢餓・聖と俗・天と地、光と影・農と能と脳とNo、個性・多様性・活動体・老・病・障、弱、祈り・芸術・世界全体の幸福といった様々な対比や状況が霊性の源として渦を巻いている。里の若者達と共に、それらと向き合いながら自らの霊性を通して根源的な「知」を受け継ぎ時代の困難を自在に生き抜いていきたいものだ。
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スパークリングスパーク(その2) ★理事長 宮澤健【2008年5月号】

「障害者支援として全国でもトップクラスの戦略だ。」「この店を続けるべきだ。これは良い店だ。」「戦略のコンセプトはまちがっていない、むしろ時代を先取りしている。」「10年早すぎた。」「行政は応援しないのか」等々店に対する継続を願う声がほとんどだった。障害者自立支援の方向としては街に出て社交のまっただ中で人びとの出会いと交流の場を障害者自らが関与することで運営していこうという挑戦的な取り組みだったはずだ。
 さらに、ライブハウスの要素も取り入れ、毎週末には地元アマチュアバンドのライブと元プロのピアニストと我が銀河の里の支援員米澤のフルートライブが続けられた。中年の男の円熟した魅力を歌とギターで奏でる土曜日、祖父と孫のコンビのようなピアノとフルート、それぞれに怪しい魅力と音楽の力がみなぎっていた。それらが毎週開催されること自体、街にとっても意味があったのではないか。音楽がうるさくて話ができないという声もあったが、話がうるさくて音楽が聴けない時代にあってそれも良いのではなかったか。元々考え方としてボックスでしきられて個別になってしまうのが主流の今、オープンな空間で、音で一体になったり、音で遮断したりするねらいがあった。音楽の中で若い恋人同士が語り合ったり、リクエストで相手を誘い踊る中高年の男女もあった。一昔古いようだが、古き良き時代の再来の可能性も見え隠れしていた。ほのかに暖かいひとのこころ、淡いエロスを障害者の店が掘り起こすことこそ我々の目指す所だった。


 ファイナルを通じてアンケートをいただいたが、120通ばかりの回答を得た。おおむねコンセプトは好意的に受けとめられ理解してもらえていたし、そのコンセプトに対する支援の意志で応援したいという人が大半だった。
 ただ、店にお見えにならない福祉関係者や行政のウラでの意見も早くから耳に入ってきていた。そのなかには「福祉は金儲けではない支えの心だ間違えるな」と言ったものがあった。この地域ではだいたい人をけなすのに金に汚いやつだといえばそれで通る所がある。福祉の大先輩の言葉には一応耳は傾けるべきだと思うが、人が人を支えることは簡単なことではない、それはほとんど不可能なことであることを私は知っているつもりだ。障害者に支えられているのはほとんど支えるべき立場にある援助者側だということも体感してきた。しかも制度は金儲けを我々に強要してきている現実がある。「福祉のこころは金儲けではない」という正しすぎる言葉がいかに高慢でうぬぼれに過ぎないか悪人の私にはよく解る。人はなかなか正しくは生きられない。正しく生きている人もいるがその周囲の人は大変だろう。正しいかどうかはほとんど生きることには関係なくて、新しい理論とその挑戦こそが、生きることそのものに直結していると私は考えたい。強いものが生き残るのではない、変化に対応できるものが生き残るのだと誰かが言っていた。確かに生命の進化もその通りだ。
 我々の挑戦は経営的には失敗したかも知れない。しかし「やめるな応援するから」といった声を多くいただいた。ありがたい事だ。挑戦は大きな成果をもたらし意味もあったと思う。「なにもしないやつを信用できない、おまえらはやって見せたんだ」と言ってくれた人もいた。多くの方に支えていただき、多くの出会いをもらった一年だった。(続く)
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朝ご飯 ★デイサービス 中屋なつき【2008年5月号】

 春だ。今年も田植えの準備が進んでいる。ワークステージ(WS)の畑班を中心に種まきした苗が育苗ハウスに並んだ。この時期は朝晩の水やりが重要。毎年シフト表をつくり、職員が交代で水をかける。もう何年もやっているというベテランもいれば、初めて!という人もいる。そうやって里のみんなが見守る中、順調に育ってほしい苗たち…。 当番の朝。普段は出勤時間ギリギリまで寝ている私は、久しぶりの早起きにまだ寝ぼけながらも、「頼む、病気なく、ずんぐりした良い苗になってけで」との思いで、整然と並ぶ苗箱ひとつひとつに水をかける。その日一緒に当番だった今年の新人の三浦さんと、WS利用者の話や農作業の話などしながら小一時間。まだまだ分からない事ばかりだけど、農業は嫌いじゃない、面白いことがいっぱいだ…と。
 そうしてGH1におじゃまする。ちょうど朝ご飯の時間、テーブルに加わわらせてもらってひとこと、「今ね、苗に水っこ、やってきたとこ」
「おぉ、そうか、ごくろうさん」と、すかさず武雄さん(仮名)。
「ハウスの中だべ?育ってらっけな」と、隣りのゆう子さん(仮名)。
 ご飯をいただきながら田んぼ語りに盛り上がる。手元のご飯茶碗を見て、「あぁ、こうして我の口に入るまでに、どれだけの作業工程と、どれだけの人の支えが必要なことか」と改めてありがたく思う。実際の作業はしなくても、こうして当番さんに朝食を用意してくれるスタッフ。たった今作業してきた人のひとことだけで気持ちがパッと繋がって、労をねぎらってくれる利用者。まさに里中のみんなの支えでつくった米、という感じが「おいしい」に繋がっているんだなぁ…と感激していると、
「あぁ〜!うめがった!」
 正面の席に座ってもくもくと食べていたミヤさん(仮名)が、くしゃくしゃの笑みでホントに満足そうにつぶやいた。
 ホントにそう!今ちょうど私もそう思ってたとこ!これって、稼いで体を動かした後のご飯だからかな?みんなと一緒に囲む食卓だからかな?こんなにおいしいご飯はホントに久しぶり、って感じ!いつもは朝ご飯食べることより5分でも長く寝ていたいって思って朝食抜きの生活。「朝、食べねんば、一日、力でねんだよ」と私の体まで気遣ってくれる姿に、「おいしいご飯を食べれたもん、早起きしてみるのもいいもんだぁと思ったよぉ」と感謝して、その日のデイサービス勤務に勇んで出かける。
 なんだか今日は特別がんばれる一日になりそうだ。
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今月の一句 何事も… ★グループホーム第2 鈴木美貴子【2008年5月号】

 何事も 真剣ならば ここちいい 好みの香り 自分の香り
 

 ハルエさん (仮名)に、コーヒーをすすめて「どう?」と聞くと「真剣だばおいしい」と返ってきた。いつもながら鋭い指摘のハルエさん健在。

 

 人生は 別れと出会い 数かぞえ 行く人あれば 来る人もある
 

 あの人はいていてしまった〜♪と歌い、「本当に行ってしまったもんな。4号(及川さん)」 いいながら、「6号までできたもんや」と嬉しそうな表情で語る コラさん(仮名)。新人の男性スタッフが6号になっている。「行く人あれば来る人もあるね」と私が言うと「世の中だ」とコラさん。去る人を思いながら新しい出会いに期待する コラさん。このまま増えるとコラさんのにごうさんは何号さんまでなるのかな???
 コラさんの何号さんは、近くに居なくても、コラさんの心の中で増えていく。誰かが側にいるからではない何かを、自分の中に持っていたいな・・・・。
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運ばれ感体験2編とグループホーム ★グループホーム 前川紗智子【2008年5月号】

「演じる」…「うそをつく」…といった裏には、本体とか真実とか、正しさ、誠などが潜んでいる。この潜んでいることからは離れたマイナスの印象を超えて、演技や、うその中にある変身性そのものに身をゆだねたり、熟考する体験は普段の生活ではなかなかできないものだ。


 先日、小さな劇団のお芝居を見た。タイトルは「HONEY」。公演のチラシには、一人空を仰ぎ見て立ちすくむ青年に、蜜のような雨が降り注いでいる絵が載っていた。涙のような悲しみのような、でも甘い雨にうたれている、そんな感じを持った。
 それはストーリー展開でものを言わせる舞台ではなく、演者に魅せられる、まさに演劇ならでは作品だった。ある出来事を点として、過去と現在を往来するのだけれど、目の前で繰り広げられている場面の位置を見失うことがない。位置がわかるというよりも、役者がたたえているその雰囲気から位置が伝わってくる。ある出来事とは、主人公(チラシの青年)の兄の事故死なのだが、観劇後振り返えっても、その事故シーンや、事故直後、周囲の人々が味わったはずの辛いモーニングのプロセスなどは一切出てこない。
 ところが、すっ飛ばされたそれらは、見終わったあとしっかりと、悲しみや辛さとして私に残っていて、表現されていない部分がしっかり伝えられていることに気づかされた。芝居の最後、死んだ兄の記憶が、オーバーラップして主人公に押し寄せてくるシーンは、チラシのデザインの印象そのものだった。
 舞台にすっかり入り込みながらも、その一方で、あれ?この感じ最近味わった…という感覚があった。それは当日、新幹線と地下鉄を乗り継いで一人見知らぬ会場ついたとき感じたものだった。案内表示を頼りに電車と地下鉄を乗り継ぐと知らず知らず目的地に居る、運ばれ感と、舞台の過去と現在の往来についていきながらエンディングへ向かう運ばれ感が近かったのだ。
 けれど、地下鉄の運ばれ感は、冷たく空っぽで、ブツブツに途切れていて、なんだか現代社会の縮図のよう。どこに自分が位置しているか全体的、空間的な位置関係なんてない。誰とも関わることもなく案内表示に反応するだけで行ける。たどり着いた先と出発地点をつなぐものは、自分の中には残っていなくて、どうやってきたんだっけとか、目的地ですら、ここはどこなんだろ?なんて思うほどリアリティがない。
 仕組みが複雑になりすぎて、そのための説明や案内、マニュアルが必要で、そういったものに頼って生活しているうちになんだか、生き方までマニュアル化してしまいそう。便利で楽だけど、自分の外のツールを使っているにすぎず、それを使うための説明書きしか見えていない。他の手段や回り道など、全体は見えない。そうしているうちにいろんな生きる力が育たず、貧弱になる。自分でわかること、やれることって意外と少ない。
 けれども、同じ運ばれ感でも。舞台の運ばれ感は、運ばれながらも一緒に生きているような感じはあった。お話の中に入り込みながら、自分の中の感情や記憶も動き出して考えさせられて、そして最後には見えなかった部分の補完さえもできてしまう、世界の体験としての充足感。
 グループホームの現場は、まさに舞台、いつもぶっつけ本番の勝負の場。相手が今どんな場面にいて、どんな心境で、私は何を投げかけられているのか、センサーを張り巡らしてイメージを駆使して、自分の変身性をフル稼働…。…とは言ってもなかなかそうできなかったりもするし…、色々あるが…。でも、世界を体験する、そういう全体性の舞台であることはまちがいない。虚偽を超えて、生き生きとした実感が暖かさを持って互いに流れ伝わる舞台。そこでは繋がる力、いろんな生きる力を鍛えていけるはずだ。
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里の毎日、新鮮な日々 ★ワークステージ 畑中美紗【2008年5月号】

 銀河の里に就職して、約1ヶ月が過ぎた。一日一日が新鮮で、あっという間の1ヶ月だったように感じる。
 今まで、障害者とあまり接した事のない私にとって、最初は毎日が本当に驚きの連続で、圧倒される事ばかりだった。ただただ圧倒されるばっかりで、利用者とどういう風に接したらいいか分からずに、これから先ちゃんとやっていけるのかな・・・?と正直すごく不安だったけど、約1ヶ月が過ぎて、ようやく利用者と仕事をする事がだんだん楽しくなってきた。
 最初は利用者さんと会話するのも、私自身何を話そうか困惑して緊張気味、利用者さんも「新しい人だ・・・」という感じでおっかなびっくりで、とてもぎこちなかったのが、徐々に昨日こんな事があったよ、あんな事があったよ、と自然と話しかけてきてくれたり、相談してくれたり、ちょっかいを出してきたり、甘えてきたり・・・とだんだん利用者との距離が縮まっていくのが感じられてすごく嬉しい。先日に体調を崩し、お休みをいただいた時には、翌日に出勤してみると、「昨日何したの?」「もう大丈夫なの?無理しないでね。」などとすれ違う利用者さんがみんな声をかけてくれて、思った以上に利用者さんが気にかけてくれていた事にびっくりしたし、素直に嬉しかった。その声にこれからまた頑張ろう、というパワーをもらう事ができ、励みにもなった。利用者さんの何気ない一言で背中を押される事も多くて、利用者さんのエネルギーはすごいなぁ、と驚かされる。
 まだ、話したことのない利用者さんもたくさんいる。これからまたいろんな利用者さんと接して、いろんな人を知っていきたいと思うし、利用者さんから学ぶこと、教えられる事、考えさせられることもすごく多いので、利用者と共に私自身もこれからどんどん成長していけたらいいなぁ・・と思う。
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心も萌える春 ★グループホーム第1 西川光子【2008年5月号】

 グループホームとデイサービスの間にテラスがあって、その前に畑がある。毎年この畑にジャガイモ、大根、ネギ、なす、トマト・・・といろんな野菜を植え、作業と収穫を楽しんでいる。

 春のある日、その畑にトラクターがやってくることになった。土を耕すのだが、いよいよ今年の農作業が始まると、朝からみんなワクワクしていた。昼過ぎ、戸来ケアマネージャーが運転するトラクターがダッダ・・・・と大きな音をたて畑に入ってくる。すると待ってましたとばかりにデイサービスとグループの人たちがいっせいにテラスに集まった。
 お天気も良く、各々長いすに腰かけたり、テラスにもたれかかったりとくつろいで見ていたが、目の前に大きなトラクターが迫ってくるとその迫力に圧倒され、「わあ〜」と声があがる。いつも広いと思っていた畑が狭く見える。機械の存在感は大きいと改めて驚いた。
 かねてより、畑を気にかけていた桃子さん(仮名)は、畑に降りていきたくてうずうずしている。だが危ないから我慢しているようで、テラスから身を乗り出し、「2回かけねば浅くてわがねんだよ。すぐ草はえでくるんだがら」とトラクターの音に負けぬ大きな声で言う。
 ”はい、わかりました”とトラクターが働く。オーライ、オーライ、まだ大丈夫だ、もう少しいいぞ!!」とギリギリいっぱいまで誘導しようとする 武雄さん(仮名)。ところがオーライの声にかかわらず手前で止めた戸来さん。その訳は、昨年武雄さんが深い思いで植えた植物が小さな柵で囲まれていて、それを配慮してのことであった。「大事なの大丈夫?」と躊躇する戸来さん。「いいのだ」と過去のことにしようと覚悟の返事をする 武雄さん。このやりとりに二人の秘めている思いが伝わり、居合わせた私も”はっ”と胸が熱くなった。
 畑を耕し終わり、誰もが変わりゆく畑の光景に各々の思いを込めて見入った。昨年まで両ひざをついて草取りに夢中になったヨシノさん。今年は車いすになったが、今にも車いすから歩いて行きそうな表情でニコニコである。
 かつて自宅ではヘルパーさんとシルバーカーを押して畑仕事をしたという研究肌のハナさん(仮名)。真剣な顔で車いすから一点集中、じっくり見続ける。いつも横になって休んでいて、いろんな誘いに「いがね、いがね」と断る ミヤさん()仮名が、なんと今回はキラキラした目をしてやってくる。「あだらす機械買ったの?おじさんいいっていったけが−−。あや〜なんたら粉っこまいだみでにきれんにうったごど〜上手にいったな」と笑顔で話しかけてくる。
 あまりに具体的に褒められ照れる戸来さん。その姿にドッと笑いが上がる・・・。
 農作業の親方、デイの利用者の良夫さん(仮名)に戸来さんが声をかけ「次はうね作らねばね。よろしく」と二人が握手する。それを見て、みんなもすっかりその気になる。「さあ〜何を植えようか」と話がはずむ。

 

 昔はすべて手作業で働いた世代の高齢者、この機械の威力をどう受け止め、どう思っているのだろうか。いずれにしても春の農作業の始まりを、誰もが私の想像以上の興味、関心をもって迎えてくれたのは確かだった。農作業はいつもみんなの心を大いに動かしてくれる。現実だけでなく、異界のイメージも動く。尊い”大地”を感じた春のひとときの体験だった。
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