『共時性(シンクロ二ズム):「現場」とは、同じ時代を生きる他者との関係の場面である。そしてそれは、時間としての視点から規定すれば、シンクロ二ズム(共時性)の世界である。二つの現在がともにというかたちで縒り合わされていること、そしてそれぞれの内部的な時間の中に退却不可能なかたちで同じ現在という場に引きずり出されたままになっているということ。』
(鷲田清一:「聴くことの力」臨床哲学試論,TBSブリタニカ,2000年11月p58)
いつも参加する研修はくだらなくて泣きそうになることも多いのだが、今回はこうした文を引用する講師だったからか、いろいろとこちらの心も動いてイメージも広がった。
この文を読む講師の声を聞きながら、私の中に蘇ったのは、年末にやった桃子さん(仮名)とのしめ縄作りの光景だった。それは私の生まれてはじめてのしめ縄作りだった。毎年玄関で父親がしめ縄作りをしていたその姿はなんとなく記憶の片隅にあったが、憶えているのは父の丸まった背中だけで、しめ縄の作り方はまったく知らなかった。
(やってみると細かいいろんな段取りがある。わらもただ綯うのではなく、なめして、ごみを取り除く作業がいるし、それとは別に飾り用の硬いままのわらも長さをそろえて用意しておく必要があった。どんな道具が必要かもやってみて初めてわかった。)
近所の公民館で地域の人たちに教えてもらいながら、縄ないをするが、簡単には縄にならない。こういう技術って、やっぱり言葉では伝えられないもので、その場で、体を使いながら手が覚えるしかない。縄ができても、三本の縄をより合わせていくのは一人では大変で、一緒に行った 桃子さんと、地域の奥さんと私とで三人がかりでねじり合わせてしめ縄をなんとか完成させたのだった。
共時性の文から浮かんだのはこの三人で三本寄り合わせた光景だった。しめ縄が縒り合わされて、3本の縄がほどけることなくひとつの形になっている様ってまさに共時性?そんな感じがした。そして、それをねじり合わせた私と 桃子さんとの関わりにまで思いが連なっていった。
しめ縄のように、昔からのしきたりや慣わし、季節の行事は、伝え伝えて行かれるものだけど“こうするものだ”ということは教えられても、それがどうしてかというのは結構あいまいだ。どうしてかなんて問われる必要のない、信仰の領域なのかも知れないし、信仰という点で、意味を持ち、力を持っているのかもしれない。
今回、年末の地域でのしめ縄づくりの体験が、ひと月後の東京の研修で、京都から来た講師の共時性の講義にスパークした。その時点では見えなくても、後から自分の中で意味を得ていく経験ができたことは私にとって大きかった。どうしてかなんてはじめの時点でわかっている必要なんかなくて、信じてまず身を投じ、体験する、そのうち腑に落ちるように理解の時がやってきたり、なにか実感を得て納得するプロセスが動いたりすることが、自分自身の生きる力を育むのに大きく関わっているように感じたのだった。