2008年02月15日

今月の一句 お食事も… ★デイサービス 鈴木美貴子【2008年2月号】

 お食事も 二倍美味しく 味わえる あなたの声と あなたの笑顔
 

 たまさん(仮名)の誕生日に外食。
 いつもなら12時になるとお腹の虫が騒いで気持ちがピリピリなるが・・・今日は、よそ行きモードで、注文して待っている間も上機嫌。「刺身が好きだ」と和食御膳を注文。「おいしいな」「おまえこれ食べるか?」と分けてくれるたまさん 。
 後で「満足した?」と聞くと耳元で「いい誕生日でした。おかげさまでした。」と言う。耳元で言われた言葉は胸にじんときた。来て良かった。
 次の日、大判焼きを3個持って来てくれた。「買ったけど、一人で食べる気しないっけ。食べないで持って来た。ねえちゃんも食べろ 」
 2個レンジで暖める。「熱いな」と言いながらパクパク食べる。「おめもけっ」と、もらって食べた。美味しい。一人で食べるのは味気ない。共に味わう誰かがいる事って大切だ。

 

男でも 女でもいい 手作りの みづきの花に 祈りを込めて
 

 今年もみづき団子をつくった。団子の色を考える。毎年各部署さまざまにみづきに花(団子)を咲かせる。今年、私はDSでケンジさん(仮名)、タマさん(仮名)と共に作った。出来上がったみづき団子をみて、あるスタッフが「男らしい」と一言。・・・・・?。男らしい???大きい手の二人とで作ったからか団子が大きいのは確かだ。男らしい。
 今年は男らしい年なのか・・・。男らしいとか女らしいとかどういう事かなと考えてしまうが、自分の中の女の部分と男の部分、両方咲かせる年に。ん〜男らしい所が出る年になるのかな・・・と思いながらみづき団子をまじまじ眺めた 。
 手で作ることで思いが入る。手から伝わる思い。
 思いが形となり見えた時、何を感じるのだろうか。
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湯けむりの中で ★グループホーム第2 堀中直美【2008年2月号】

 久しぶりの日勤帯での勤務の日。朝食を終え、のんびりと暖炉の前のテーブルでコーヒータイムが始まる。私の前では、明るい日差しに目を細めながらゆっくりとコーヒーを飲んでいる久子さん(仮名)が座っている。
 久子さんはもう半年もお風呂に入っていない。スタッフもデイのお風呂を借りたり温泉に誘ったりあの手この手を使ってアプローチはしてきたのだけど、半年も経ってしまってその間足浴と清拭だけで過ごしている。
 彼女には、独特の久子ワールドがあって、お風呂に関しても「お風呂はバイ菌で汚染されている」と頑なに思い込んでしまっている。スタッフがいくら「大丈夫、掃除して綺麗だ」と説得しても、彼女の作りあげた物語が訂正される事はない。そうはいってもお風呂に何とか入ってもらいたいとみんなで頭を悩ませていたところだった。
 「今日の私の日勤でやるしかない」とどこか決意していたところが私にはあったような気がする。私はコーヒーを飲んでいる久子さんに「日差しが暖かくていいネェ。こんな日は明るいうちに温泉でも入りたいものだネェ。そういえば、隣の銭湯、風呂の水全部流して大掃除してらっけ。さっき覗いてきたら、大勢の人たちでピカピカに磨いてだよ」と、世間話をするようにあくまでも何気なくさりげなく言ってみた。すると意外にも「オレ、頭よ洗いてども、なんじょするがぁと思って……」とボソリと呟くように言うではないか。
「……ん?エッ?もしかして手ごたえあり??」と私は揺り動かせられる。しかしここで慌ててはいけないと、意識して何気なくさりげなく話を続けてみる。
 「私、一番風呂入って来るがなあ」と、だけ言って後は天に(久子さんに)まかせることにした。
 それから2時間も過ぎた、昼ご飯を食べている最中、久子さんが私に話しかけてきた。
 「何時頃行ぐって?」「きたぞー」と私の気持ちは色めき立つが抑えて抑えて・・・。
 「まめから湯?一番風呂だったら2時頃だなあ」と平静を装って応えながら心の中では!「やったやった!」半年振りの豆から湯の復活だ!!と叫んでしまっている。(豆から湯とは、久子さんワールドではデイサービスのお風呂は、豆の殻を燃やして温めている“豆から湯”になっている。本当にイメージの豊かな人だなあ。)
 2時になって、私はうきうきと、久子さんとデイサービスまで歩いていった。彼女は律儀な方だから、千円札を私に渡して、「これ、風呂代と洗濯代」と言って入浴料を払ってくれる。とりあえずそれを受け取り、ともかくお風呂へ。私も一緒に入り肩まで湯に浸かった。湯けむりの中で、久子さんは「あー、いい湯だあ」としみじみ呟やく。湯船から上がると私は半年ぶりのこの時とばかりに、久子さんの背中を思いっきりゴシゴシ洗い、頭をジャブジャブとシャンプーした。
 「オレばっかり洗ってもらって申し訳ないじゃ。オメも洗え!」と気遣ってくれる久子さんに、「裸の付き合いっていいもんだねェ。また一緒に来て入ろう!」と返した。
 今日は“大寒”だったけど、私は身も心も、豆から湯に浸と久子さんのおかげでポッカポカに暖かかった。久子さんも半年振りに目いっぱい手足を伸ばして入ったお風呂で、身の芯まで温まったに違いないと感じた。
 “思いが伝わり納得しあえたこの瞬間に。”感謝。
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ハナさんの認定調査 ★グループホーム第1 山岡睦【2008年2月号】

「自然と大きくおがってくんだ。人間もそうなりてな。空さ届くんだじゃ。」
 窓の外の雪で覆われながらも空へ向かって伸びる木を見て、なんともいえない表情でハナさんは言った。認定調査中の真っ最中のことだった。私はハナさん (仮名)と窓の外を見ながら、しばらく眺めていた。調査の絡まない会話に流れる気まずい空気を払うようにハナさんはそう言ったような気がした。

 

 ハナさんの認定調査の日、調査員の方と、息子さん、ハナさん、そして私はハナさんの居室に入った。私は認定調査の場につきあうのは初めてで、少し緊張していた。
 椅子に座って間もなく、質問が始まる。「名前はなんですか?」耳が遠いハナさんにはなかなか質問が入っていかない。マイペースにお茶をすするハナさん。ひとまず、息子さんと私への質疑応答になる。
 ハナさんはこの半年、ほとんど車椅子で過ごすようになった。調査員はハナさんに「つかまって立てますか?支えずに10秒立てますか?」と質問した。
 お決まりの質問事項はいつも味気ない。10秒立てたからといって何になるんだろう・・・出来ればやって見せてほしいと言われる。「ハナさん、納得しないよな・・・」と思いつつ、声をかけてみる。案の定「何したってや?ごちゃごちゃと・・・ちゃんちゃらおかしぃ〜!こばかたれだな、ヘラヘラって。座りてえから座ってるのよ。」と怒る。そうだよな、失礼しました。調査員も、「あ、無理しなくていいです・・・」となる。
 馬鹿くさいとばかり質問そっちのけでハナさんは外の景色を見ている。自分の家の窓から見ている感じで、「あの小屋はおめが借りたのか?」と息子さんに言う。親子の雰囲気が出る。
 調査は進まない。再度ハナさんへの質問。「名前を教えてください」「何?なまこ?」やはり絡まない。調査員は「う〜ん・・・」と質問をやめてしまう。でもいくらかせっかくハナさんが聞こうとしているのでチャンスではある、ここで迫ってほしい。そこで私がもう一度聞く。調査員も気を取り直し私の後に続いてももう一度聞く。
 「名前?ハナよ」と、ハナさんはぽかんとして答える。「苗字は?」と聞かれ、「苗字?○○(旧姓)よ。おめ、今までこうして話しでてわがんねがったってが?」と笑う。確かに、これだけ話をしながら今更名前を聞かれるってちょっとおかしい。形式的なやりとりに、ハナさんの鋭い突込みが入る。 さらに質問は続く。「何歳ですか?」「生年月日は?」「今は春ですか?夏ですか?・・・」聞かなければならない質問なのだろうけれど、唐突に聞かれるわ、はっきりと聞こえないわで、わけがわからないハナさん。「何?おめ何聞きてのや?はっきり言ったらいがべじゃ!」と堪り兼ねて怒って言い放つ。
 そうだよなぁ。介護認定を受けなきゃ行けないから、調査員も調査をするのだけど、ハナさんの暮らしや人生にとっては、形だけで意味のないものにしか思えない。そんな事より、ハナさんと一緒に外を眺めること、同じものを見ながら語り合うことのがすごく深くて意味のあることに違いない。そこを取り違えると、制度と人生の狭間に認知症高齢者が遺棄されることも起こりうる現実がある。
 もちろん調査の手続きと、臨床現場の姿勢は違って当然としても、介護を受ける対象者として扱うのと、その人と一緒に生きる事は決定的な違いは認識しておく必要がある。私たちは制度の運用のなかでそのことを忘れず、自戒する必要がある。中身のないやりとりは軽くてすぐに消えてしまう。本気で相手に向かい、関わることはお互いの中に何かが生まれてくる。そこにこそ人生が在ると信じる。今回は“相手としっかり向き合う”ことの意味をハナさんに教えられたような気がする。
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ジェンガで見た、生きる色あい ★グループホーム第1 西川光子【2008年2月号】

 ここの所、少々きつい課題を現場で抱えていて、いままでのようにゆとりで遊びたいのになぜか遊べない自分がいた。自分の感情を”動かすことなく地平線のように保つしかない”と無理にがんばり、「何があっても何事も”受けて立つしかない”のよね」とかつて姑さんに教えてもらった信念に自分を奮い立たせる日々が続いていた。
 そんなある日、乗りの良い好子さん、つき合いの良い良子さん(仮名)、研究肌のコメさん(仮名)、遊びなどやりそうにない桃子さん(仮名)がリビングに集まった。なぜかこのとき私の心が”わあ〜”と動いて、ジェンガやろう!!となった。 三本の同じ長さの木を交互に積み重ねてジェンガタワーをつくり、その状態から木を一本ずつタワーを倒さないように抜いていくゲーム。4人が、戦闘的に挑むタイプと、おっとりと自分の世界を楽しむタイプで、立ち組と座り組に分かれたところが面白く、私はこの時点でもうはしゃぎたくてたまらなくなった。
「は〜 トカトカするじゃ〜 血圧上がるようだ。 これ!!手さ汗けえてるじゃ〜」と真剣そのもので、右に左に体を傾けのぞき込む立ち組。「フ〜ン どれにしようかしら・・・・あらダメですね〜 あらあらこれはいいのかしら・・・とればいいの?」と座って慎重な座り組。 手も出さず口も開かず体も動かさず立ってジ−と見つめる。それからあれこれと確かな所を探し当てるこれ又立ち組。そして次には「はい川ね」と三本そろっている所を取りなさいとばかりにコメントをくれる座り組。それぞれのやり方がまたまた私を楽しくさせてくれる。
 いよいよここ一本危ない!!場面。おそるおそる木に指がさしかかった。その瞬間、ガシャ〜ンと 大きな音がしてタワ−が崩れた。「キャ〜 ア〜ア アラ〜 ワ〜」と感嘆の声。声色はちがえど心は一つだったようで「またやろう」とすぐさま積み上げる。
 三度目の時、立ち組のひとりが一本引いたとき崩れたと思ったら、不思議な事に当然崩れ落ちる状態なのに途中で引っかかって止まったのだ。残念!!の「あー」が一変して違う「あー」の歓声に変わった。こうして盛り上がったところで終わりかと思っていたら、「積み上げればいい」と誰かが言い出して、「それはいい」とさらに盛り上がる。認知症のおばあちゃんたちの発想は自由自在で新しい世界を作り出してくる。
「土台が大事 土台が大事」と基礎を決めようとする人。「どうしようかな どうしようかな」と何度も見回し、イメージを作って作業をしようとする人。考えず淡々と大胆な形に積み上げる人。ジェンガを逆に積み上げるゲームにしてしまった人たちは楽しげに、見事なオブジェを作り上げた。
 積み上げる作業にこんなにも個性が出て、しかもその個性が関わり合って作品ができあがったのは感動だった。しかも崩れた後の創造ということで深いものを感じた。日常のひとコマ。『遊び』がこんなにもみんなの心を動かし、一人一人の人生までも写し出してくるようなひとときだった。「 またやろうね」とそっとささやかれ、今まで見えなかったものがすこ〜し見えたようでちょっぴり私の張りつめた地平線が和らいだかな〜。
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関わりに戦いゆく魂 ★グループホーム第2 板垣由紀子【2008年2月号】

 銀河の里では個別のケース会議を頻繁に行う。それは問題解決という視点ではなく、プロセスを捉え、目的論的視点(何のために今これが起きているのか、どんな意味が隠されているのか)で見極めようという姿勢がある。問題とされるような事は、だいたいがその人に迫る“窓”として存在している。そこでエピソードを丁寧に取り上げ、その人に関して見えてくること、テーマ、スタッフとの関係性、全体の流れなどを話し合う。
 最近、桃子さん(仮名)のケース会議に出て印深かったのは、若いスタッフの純粋でひたむきながら、表面に甘く流れない腹の据わった姿勢だった。
 利用者桃子さんは、“世間様”を生きていて、“毒”をはきながら周囲を傷つける言動が目立つ。渋くなったドアに油をつければ、油を撒いて殺そうとしたとか、お風呂がぬるかっ たら、水風呂に入れて殺そうとしたとか話が広がり、周囲の心配りはことごとく仇になって、逆襲されてしまうのだからたまらない。関わった者は深く傷つき、関係はかなりきついものになる。そんなエピソードを客観的に聞きながら、 桃子さんは不器用で、孤独で、他者との関わりも、媚びて繋がったり、はねつけたりと裏腹さをもち、本当は繋がりたい寂しさ、甘えがあると感じたのでそう発言した。
 すると現場で桃子さんと日々向き合っている当事者の前川さんが言う。「とにかくヘロヘロになる。カーッとなる。何か深いところで繋がれるものがあると信じたいけど、今は分からない。とにかくぶつかってしまう。」と言った。
 現場の苦しみと傷つき、それをごまかすことなく受け入れ、正面から向かおうとする姿勢と、その純粋なこころにふれた心地がして感動した。自分を総動員してひとりの人間に向き合っていくありようは、そのまま自分自身との向き合いそのものだろう。
 関わりを失った現代ながら、グループホームではこういうことが起こりうるという希望を感じる。表面的に捉えれば、相手に共感し、ゆったりした言葉と態度でと教科書的な正解が優先しそうだ。私も自分の子どもに正解を押しつけて、心を無視してしまっていることが多々ある。子どもは大泣きしたり、無視したりして訴えてくる。
 現場で真剣勝負に本気で相手に向き合うからこそぶつかったり傷ついたりする。そこで福祉の仮面をかぶって客観的に受け流しても、見透かされてしまって、その場をうまく逃れても、プロセスは何の進展をもたらさない。苦しんだり悩んだりせずに、さらりと、クールに生きることがカッコいいと受ける時代のようだが、薄っぺらでいただけない。
 ここで前川さんが言った、“信じたい”との思いに賭けたい。そこから何かが生まれてくると思う。
 私もこの職場で5年、利用者との出合いに支えられて来た。自分を出すことの難しさ、怖さ、今も日々、自分を賭けた勝負だ。日々奮闘を続ける里のスタッフに、共にがんばろうとエールを送りたい。
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記述と語り ★宮澤健【2008年2月号】

 里のグループホームではケアプラン会議を毎月行う。ケアプランはグループホームに作成が義務づけられているのだが、里のこの会議はかなり特異なありかただと思われる。一般的には9人の入居者のケアプランを介護計画作成者ひとりが短時間で作っているようであるが、里では中心スタッフ4人が集まって話し合う。それぞれ担当を受け持っていて、その人について一ヶ月の動きや、入居から今までのプロセスを把握して、その人のテーマや、課題、今後の方向性、さらにはその人の背後に見えてくる社会や歴史を見つめる作業を、時間をかけて話し合う。

 

 以前はこの会議はエンドレスで行われた。夜7時から始まって、終わりが深夜1時という事がざらだった。しかも終わった後も残って話が続く。草創期の手探り状態では、スタッフも意気が盛んでそうした勢いが違和感なく行われていたのだが、8年も過ぎる今では、勢いばかりではなく、洗練された時間の使い方も必要だと意識して、せめて10時には終わりたいのだが、どうしても11時になってしまうのが現状である。
 なぜそんなに時間をかけるのかということだが、それぞれのスタッフが利用者個々に、かなり深いコミットメントをして、入っているので、客観的な記述では終われないという事情によるのだと思われる。記述は客観的に事実を書き並べる記録だが、一方、自分の感じたこと、心が動いたことも入れていくとそれは物語になってくる。物語は簡潔には語れない。エピソードや感覚、空気、雰囲気が重要な役割を持っているので話が長くなる。長いだけではつまらないので語っているうちに自然に深くなってもくる。時には延々と収拾がつかなくなってしまって、エンドレスになる。それをやっているのが里のケアプラン会議なのである。
 現場は本来葛藤に満ちている所だ。その葛藤をどう捉えるかで、面白いか面白くないか両極端に別れる。つまりときめくか、さめるかに別れてしまう。
 一般的には記述は科学的記述のことであって、そこに語りを持ち込むことは許されない。「個人的な主観は入れないように」という指導がされる。それはそれで普遍性を持つためには必要なことである。しかし現場にはそれで良いのかという思いが残る。

 

 アメリカ在住の写真家、杉本博司は近代、現代を、光の文化−露出オーバーの時代だと言い、視覚の文化で影の消滅が特徴だと分析している。杉本博司の作品にハリウッド映画を二時間露出したままカメラにおさめたのがある。写真は真っ白になる。これが現代と言わんばかりの作品。光が当たりすぎて露出オーバーの時代。立体感のない平板化した時代をつくったのはあまりに強い光。その光は闇を照らすにはよかったが、闇を失うと闇の住人は行き場を失い世界の大半が消滅してしまうと、日本人の感覚で主張している。
 光の文化は目の文化、視覚文化とも言える。そこでは味覚、臭覚、触覚、聴覚が使われにくくなって身体性が失われる。第六感の心は最も使われなくなる。それは人間が目指してきた便利の本質でもあって、表面的に解る、知るといことと、楽をするというのは人間の目指してきた近代化の結論だった。現代はその上澄みの中に生きている。
 記録を書くとき、語りたいが語れず、ほとんど強制的に記述を強いられる現場がほとんどではなかろうか。おそらく福祉現場のほぼ全てが当たり前のように、疑うこともなく、語りを封印し、記述に終始しているのが実態であろう。中には個人的に語りを紡ぎ出してしまう人もいるはずなのだが、それは組織的に抹殺されてしまうのが現状だ。彼らの中には語りの代わりに、記述の文に、苦肉の策としてアンダーラインを引いているという人もいる。笑えない現場の個性の努力と抵抗がある。
 里のケアプラン会議はこのアンダーラインの所を縦横無尽に語り深めあう作業をしているのだと思う。4時間という時間がかかっても、退屈や苦痛はない。入ってしまえば長く感じる事はなく充実の時間が蓄積していく実感がある。時間の短縮は念頭に置くにせよ、これからも語りを大切にしてやっていきたい。
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体験と理解 ★グループホーム第1 前川紗智子【2008年2月号】

 最近参加した研修のテキストにこんな文があった。
 『共時性(シンクロ二ズム):「現場」とは、同じ時代を生きる他者との関係の場面である。そしてそれは、時間としての視点から規定すれば、シンクロ二ズム(共時性)の世界である。二つの現在がともにというかたちで縒り合わされていること、そしてそれぞれの内部的な時間の中に退却不可能なかたちで同じ現在という場に引きずり出されたままになっているということ。』
(鷲田清一:「聴くことの力」臨床哲学試論,TBSブリタニカ,2000年11月p58)

 いつも参加する研修はくだらなくて泣きそうになることも多いのだが、今回はこうした文を引用する講師だったからか、いろいろとこちらの心も動いてイメージも広がった。
 この文を読む講師の声を聞きながら、私の中に蘇ったのは、年末にやった桃子さん(仮名)とのしめ縄作りの光景だった。それは私の生まれてはじめてのしめ縄作りだった。毎年玄関で父親がしめ縄作りをしていたその姿はなんとなく記憶の片隅にあったが、憶えているのは父の丸まった背中だけで、しめ縄の作り方はまったく知らなかった。
 (やってみると細かいいろんな段取りがある。わらもただ綯うのではなく、なめして、ごみを取り除く作業がいるし、それとは別に飾り用の硬いままのわらも長さをそろえて用意しておく必要があった。どんな道具が必要かもやってみて初めてわかった。)
 近所の公民館で地域の人たちに教えてもらいながら、縄ないをするが、簡単には縄にならない。こういう技術って、やっぱり言葉では伝えられないもので、その場で、体を使いながら手が覚えるしかない。縄ができても、三本の縄をより合わせていくのは一人では大変で、一緒に行った 桃子さんと、地域の奥さんと私とで三人がかりでねじり合わせてしめ縄をなんとか完成させたのだった。
 共時性の文から浮かんだのはこの三人で三本寄り合わせた光景だった。しめ縄が縒り合わされて、3本の縄がほどけることなくひとつの形になっている様ってまさに共時性?そんな感じがした。そして、それをねじり合わせた私と 桃子さんとの関わりにまで思いが連なっていった。
 しめ縄のように、昔からのしきたりや慣わし、季節の行事は、伝え伝えて行かれるものだけど“こうするものだ”ということは教えられても、それがどうしてかというのは結構あいまいだ。どうしてかなんて問われる必要のない、信仰の領域なのかも知れないし、信仰という点で、意味を持ち、力を持っているのかもしれない。
 今回、年末の地域でのしめ縄づくりの体験が、ひと月後の東京の研修で、京都から来た講師の共時性の講義にスパークした。その時点では見えなくても、後から自分の中で意味を得ていく経験ができたことは私にとって大きかった。どうしてかなんてはじめの時点でわかっている必要なんかなくて、信じてまず身を投じ、体験する、そのうち腑に落ちるように理解の時がやってきたり、なにか実感を得て納得するプロセスが動いたりすることが、自分自身の生きる力を育むのに大きく関わっているように感じたのだった。
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