長年、米を送っていた人からのクレームの電話だった。あろうことか、玄米と白米を間違って送ってしまっていた。「15年間ではじめての事だわ。」
調べてみると、伝票の単純な書き間違いだった。帰りの車の中、このことが頭から離れず一人で考えていた。「15年かぁ・・・」ふいにぞくっとした。自分が15年間も付き合ってきた友人に名前を間違えられたら・・・自分にとっては、初めてで、半年に過ぎない仕事。でも、その方にとっては15年も付き合ってきた銀河の里なのである。そんなことを感じもせず、何の気なしに出荷作業をしてきた自分が情けなかった。伝票ばかりを見て、そこに書いてある名前に、どれくらいの重みがあるのか、そういうことに思いをめぐらせずにただ単純作業でやってきた自分が悔しかった。その15年間の中で私が携わったのはほんのわずかな時間である。だからこそ、大事にしなければならないはずだった。
介護の現場で、私たちが関われる時間は、その方の人生の中でほんの微々たる時間である。そんな微々たる時間の付き合いの中で、その方の集大成にも近い時間を共に過ごさせてもらうのだから、心してかからなければならない。その方がどんな生活をしてきたのか、どんな想いで生きてきたのか、いろいろな事に思いを馳せなければ、その方の全体像は見えて来ない。全体を無視して、その場その場で起きていることだけに、目を向けられた介護は拷問に近い。だから、目の前で起きていることだけではなく、常にいろいろな事に想いを馳せながら仕事していかなければならない。そういう意味でクリエイティブな能力が求められる現場だと思う。
私は、大学時代、人に何かを伝えていく仕事がしたいと思っていた。介護の仕事を始めて、3年経った頃、この仕事もあながちその路線から外れていないと確信した。視えないものをみる力・・・。情報社会では世界中で起こったことが、瞬時に伝わる。私が伝えるべきものは他にある。そう強く感じた。その事に気付かせてくれ、そして大きなミスをしてしまった自分を温かい言葉で励ましてくれた電話の主に心から感謝したい。