2007年11月15日

今年の街かど美術館を歩く★グループホーム第1 前川紗智子【2007年11月号】

 まちかど美術館 ― アート@つちざわ〈土澤〉advance。今年もこの時期がやってきた。
 花巻に越してきて2年目。2回目のまちかど美術館だ。このイベント自体は今年で3回目。だが、花巻に越してくるまでこんな素敵な催しがあることを私は知らなかった。もっとも、私がアートに対して興味を持ち始めたのもここ2年くらいのことだからでもある。
 以前はアートはよくわからないなと思って、近づいてみることもなかった。でも、その“わからない”←何かを理解しようと意識で迫るような向き合い方から離れ始めたら、アートがとたんにおもしろくなりだした。面白く感じる契機は、銀河の里との出会いにあった様に思う。里での利用者との関わり方は、操作しようとするのではなくて、まず相手がどんな状態なのかを一緒に過ごして感じたり、味わうようにゆったり構えるゆとりから始まる。そういう味わい方は、アートとぴったりと似合うように思う。どう感じるかに正解があるわけではない。作者の表現は一つの作品になって、あたかも完結して存在するみたいにそこに展示されているけれど、でも「作品」はそれでお終いではなく、その作品を鑑賞に訪れた誰かと出会って、その間の物語につながっていく。向き合う人とその作品との間に、どんな感情が生まれて、その人がどんな思いをその作品に重ねるのか…、それは一人ひとり違って、だから、向き合う人の数だけ、何通りもの世界の広がり方がある。そういう風に考え出したら、気負わなくなった。楽しくなった。でも、このことは、アートに限らずに、全てのことにつながっているとも思う。ホントは1つしかないようで、1つではなくて、どれもほんとう。
 今年は、Advanceということで、以前までの自由参加型ではなく、選抜のアーティスト5名による、また新しいまちかど美術館。色、フォルム、質感、音、動き、リズム、意味としての文字、縛りから開放された地としての字、生々しさ、佇まい……。でも、まち全体が作り出すあの不思議な空気は変わっていない。まちを歩いていても、行き交う人となんとなく会釈して通り過ぎる。子どもたちがいっぱいいて、みんなわくわくしたようないい顔していて、思わずこっちもわくわくする。時には一緒に遊ぶ。ちょうどハロウィンのパレードもあって、仮装姿がかわいかったからお願いして写真を一枚撮らせてもらった。まちを歩いていると、なんだかこう、なつかしいような気持ちになる。別にここで生まれたわけではないのだけれど、きっとこうした人のつながり方がなつかしいんだと思う。まちかど美術館の空気が、まちにより一層一体感を持たせて、訪れた人たちもみんな巻き込んで、近くてあったかかった。
 私が訪れた日には、マリンバのコンサートもあった。料亭「小桜家」さんの二階、昔を感じさせる広間を使って、田中館靖子さんのマリンバ。あのじんわりと満ちてくる音と、窓のそとから風でさらさら言ってる木の葉の 音が重なって,なかなかなか味わいのある体験だった。そして、そのコンサートはプリン同盟のプリン付き!会場でたまたま 会った知り合いや、またまったく見知らぬ人とも机を囲んで、同席の子どものかわいらしい 姿にみんなでわらいながら食べるプリンもまた、おいしかった。
 なにもかもが、他では味わえない新しさ、だけどそれでいて懐かしい。約60箇所の会場、回りきれなかったし、もう一度行きたい場所、見たいステージもある。25日の最終日まで、また何度も足を運びたい。
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より子さんの栗ごはん ★グループホーム第2 牛坂友美【2007年11月号】

 より子さん(仮名)は一人で過ごすことが多い人だ。そのより子さんがリビングにいる。私はこの秋のうちに一度は栗ごはんが食べたいと思い拾っていた栗があったので、より子さんを誘った。拾っただけでは足りなかったので第1グループホームからのお裾分けしてもらって、準備は万端。より子さんは「よしやるか」とのってくれ作りにかかったが、もらった栗が実はゆで栗で、「これじゃあだめよ!!」と栗と私を怒るより子さん。さらに「この栗、甘くもないしさ、おいしくない」とぴしゃりとやられる。・・・おっと・・・雲行きがあやしくなってきた。まずい。せっかくの栗ごはん計画もここまでか・・・と思ったのだが、それでもより子さんはぶつぶつ言いながらも、「少なくてもいいから、この渋皮もとらなきゃだめよ、貸して、私やる」「すりばちある?私は、すりばちで渋皮とったのよ」と作業を進めて行く。しまいには、「私、部屋でやってくるから」とすりばちと栗を持って一人部屋へ行っててしまった。
 先ほどの怒りはどこへ?予想もしない展開。とりあえず、より子さんの怒りは別な方向にむいて楽しそうだったので、やれやれ、これでよかったのかな、とそう思っていた。
 ところが。より子さんの勢いはそれでは終わらなかった。夕方、いつもよりの早い時間に聞きなれたスリッパの音がする。手にすりばちを持ったより子さんが「今日の夕飯、ご飯は私が作るから」と言って部屋から出てきた。それは相談ではなく、もうすでに決定事項だった。
 夜勤の堀中さんも「えぇー!より子さんが作ってくれるの?栗ごはん?嬉しい!楽しみ〜!」と乗ってくれる。より子さんは「ウフフ、別に、普通の栗ごはんよ」と謙遜しながらも、堀中さんと「ゆで栗は炊きあがってから入れるのがいいかもね」と、ああだ、こうだと楽しそうに展開している。いつも居室でごろごろして、主婦は引退しました・・・と宣言しているかのようなより子さんが、急に主婦に見えてきた。それは母のように頼もしく、同時に同級生のように親しみが感じられた。生き生きしたより子さんの感じと、偶然に生み出される生々しい物語の誕生に、私はつい笑ってしまった。
 ご飯が炊きあがって、3人でご飯釜を覗く。ふわぁ〜と栗と秋の香りを感じて、もう十分に栗ごはんを味わえたような気分になる。最初の味見をしたより子さんに私が「どう?」と尋ねると、より子さんは、いきなり栗ごはん一口分を私の方に投げてよこした。機敏なより子さんの動きに「わぁ!」と焦りつつもなんとかキャッチ。味見をする私を見ながら「ウフフフ、美味しいでしょ」と笑うより子さんはお母さんのような、同時にいたずらっ子のような魅力があった。
 今年の栗ご飯も皆のエネルギーとして明日の元気になる。まだ湯気のたつそのあたたかなご飯は、元気の素がつまっているようで美味しかった。
 数日後、部屋で寝転んでいるより子さんに声をかける。「なぁに?」寝転がったまま聞くいつものより子さん。「より子さんの顔を見に寄っただけ。また明日くるね、おやすみなさい」と私が言う。「ウフフフ。」とより子さんは目元と口元で笑い、「ありがとう。おやすみ。」と返してくれる。私がもう一度「おやすみなさい」と言うと「ありがとうね」の返事。より子さんとの距離が近くなった気がしたあの栗ごはんの日を思い出す。この日もまた、より子さんの元気をもらって私は帰路についたのだった。
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ミヤさんの ハセガワシキ ★グループホーム第1  西川光子【2007年11月号】

 入居して二年半になったミヤさん(仮名)。4ヶ月前には表情も気分も軽やかになり、長い間服薬していた安定剤を止めることができた。9月25日は1年に1度の定期検診だったが、ご家族さんの都合がつかず、私とドライブ気分でM病院に受診した。
車中、「おめさべり おねげして もうさげねな〜・・ は〜(今日の病院は)こっちの方だってな!!」などと会話が弾む。待合室でもキラキラとした目で「今日あまり混んでねな。でも出たりへったりする人 いっぺだな。」と鋭く周囲を観察しながらおしゃべり。
 思えば、入居時は火の消えたストーブみたいにすっかり落ち込み、不安に包まれ、時には恐怖で眠れない夜も度々あったミヤさん。比べれば今が嘘のようだ。安定剤を抜きたいと申し入れたとき、ドクターが「ミヤさんは環境と愛情がお薬の人なんですね。では抜いてみましょう」と受け入れてくれたときは嬉しかった。
今日の『定期検査』では長谷川式検査をするとのこと。ドクターから「認知の度合を調べる為」と説明がなされる。日々の生活に張りがあり、生き生きしたミヤさんを目の当たりにして過ごしている私には、それでどうなるんだろうと素朴な疑問を感じた。「なにか役に立ちますか」と尋ねるとドクターは「特に手立てはないですけどね〜、うーん、じゃいいかな」と取りやめの雰囲気。ところがそこへ小脇にカルテをかかえた看護師さんが来て「やる事に決まっているんですよ先生! やらなきゃない決まりです。」ときっぱり。先生も「あ〜そうですか、はい。ということなので薬が変わる時とかの参考になりますし・・・」「はあ」と私も納得するしかなかった。
 検査室に入ると若いドクターがネームプレートを首にさげアタッシュケースのようなカバンを広げ物々しい感じでやってこられた。硬い表情で「これから私が質問しますがあなたは一切何も言わないで下さい」と私に釘をさす。「はい」と少し緊張の空気が流れる。
 最初の質問「上の名前(名字)は何と言いますか?」
 ミヤさん???シーンと静まりかえった時間が流れる。ミヤさんは、耳は聞こるのだが、関心のあることだけ聞こえたり、自分中心に話を聞いてしまうクセがある。こういうシチュエーションでは聞こえてもミヤさんには入って行かないと私は解るが「あなたは喋るな」と釘を刺された手前、何とも動きがたい。ドクターはもう一度大きな声でくり返す。依然としてシーン???が続く。私は思わず助け船。「大きな声で話されても思いが通じないと聞こえない方ですので」と説明すると通訳の許可が出た。ここからは私の方言で気持ちを乗せて伝える。「なぬミヤさんって聞いでるよ」「あ〜そういうごとが・・○○ミヤです」とすぐさま大きな声で答える。
 質問が続く「何年の何月 何日生まれですか?」 「今日は何月何日ですか。」「何曜日ですか。」「今季節はいつですか。」「ここは何地方ですか・・・・」
 質問の度に「あい〜や おらわがらね〜」と私の顔を見るミヤさん。「何才ですか?」「忘れてしまったじゃ〜われの歳なのに ガハハハ・・・・」ほがらかに笑っている。ミヤさんらしさ全開で調子が乗ってきた。よしよしがんばれと心のなかで応援を続ける私。質問は続く。「ここは何県ですか」「岩手県」よし当たり!「ここは何市ですか?」「花巻市」また当たり!よしよしと通訳係の私も力が入る。
 ところが次は「100ひく7はいくらですか」ときた。計算に時間がかかるのかしばらく考えていたミヤさん。間をおいて「930!」と自信たっぷりのデカイ声。私は嬉しくなって心の中で 「”ヤッタ〜” 200点あげたい」とはしゃぎたくなるほど大受け。でも先生は淡々と「ハイ ペケ」。
 次は腕時計を取り出すと、手に持って文字盤を強調した感じで「これは何ですか」と言う。ミヤさんは「2時」と答える。先生は同じ質問をくり返す。ミヤさんも同じ答えをくり返す。「これは」「2時」。確かにその時計の針は2時なのだ。これじゃもう落語の世界だ。半分に折って手に持たないで、テーブルの上でも置いて、「これなに」なら「時計」と答えるのにと私はイライラ。
 さらに鉛筆・はさみ・消しゴム等を早いペースで出し、返事が遅いと「はい いいです」と切られて追いつけない。反応の早さが見たいのか、私にはその意図がわからないのでただの不親切に感じてならない。「うーッ」と悔しがる私。
 そこに覆い被せるような質問 「今から言ったことを反対から言ってみて下さい」「なんだそれ」と私はあきれて怒りたくなる。 質問の意味を必死に説明するが、途中で「はい いいです」と切られてしまってアウト。こんな具合で検査は終わった。
 待合室にもどると、ミヤさん「や〜や 汗けだじゃ。これで終わりでねがべー」という。本当の診察はこれからと思っている。
「診察の結果は次の時にお話できると思います。」と言われ帰って来たが、どのような説明がされるのか、楽しみなような、どうでもいいような。
 普段、暮らしの中で利用者の感情や表情、思い、性格などと触れあい向き合って、関係性を基盤に生きているので、名前がわかろうがわかるまいが、夏が冬になろうが、さほど困ることもない。むしろその人の機嫌や、体調の方が気にかかる。医療では判定の為にある程度、症状を数値化したいのもわかかるような気もするが、現実のミヤさんはそうした数値とは違うところをいきいきと生きているはずなのに・・・。
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薪の重さを感じながら ★グループホーム第1 山岡睦【2007年11月号】

「武雄さん(仮名)が三本道の方に、何か袋を持って歩いて行ったっけよ。」
デイのスタッフから報告を受ける。
いつもフラっと散歩に出掛ける武雄さん。きっとまた何か採りに出掛けたんだなと思ったが、なんだか気になって、後を追った。かなり遠くまで行っているような話と勘違いした私は、まず車で出てみたが、いくら探しても見つからない。車じゃ逆に動けない!そう思い、車を置いて歩いて再度探しに出る。
三本道を歩くが姿はない。「武雄さんのいつもの散歩コースかな?そういえばまだ一緒にゆっくり歩いたことなかったなぁ。」そんなことを思いながら探して歩く。それでもなかなか見つからず、ヘトヘトになる一方の私は一人で空回り。
「よし、もう一回真ん中の道を行ってみよう。」何の気なしに足が向く。すると、寮を過ぎた辺りで「バキッ!」と枝の割れる音がした。「あ、いたっ!」なぜか姿も見えないのにそう思い、音のする方へ向かう。少し斜めになった、道路からはすっかり隠れて見えない草むらの中で、武雄さんは枝を切っていた。
「武雄さ〜ん、探したよ〜。こんな場所があったんだね。」と私が言うと、「よぐわがったな」とニヤリ。「これ袋さ入れてけろ。」と私に頼む。武雄さんが薪を切って投げ、それを私がキャッチして袋に入れる。お昼になるまで夢中になってやった。
 「お昼だから戻ろう。」と言う私の言葉に、「んだな、今日は疲れたからこれで終わりだ。」満足げに言う武雄さん。袋いっぱいの薪を一緒に抱え、グループに戻る。
 午後になると、「まだ行ってくるがらよ、後がら来るか?」と私に聞く。行くことをちゃんと伝えてくれたことも嬉しかったけれど、「来るか?」という言葉に心があったかくなる。体制が薄かったため、行けるかどうかわからない状況だったので、「行ける状況になったら行くから」としか言えなかった。「そうか」とだけ言ってささっと出掛ける武雄さん。
 するとだいぶ時間が経ってからではあったが、行ける状況になり、急いで武雄さんの元へ行く。また同じ作業を黙々とやる二人。物静かな中で、枝を切る音が心地よく響く。
 午前よりも重くなった袋を運ぶ。「何金にもならねごどするべと思うべ?」と武雄さん。「お金にはならないけど、皆感謝するよ。武雄さんのおかげで冬あったかく過ごせるもの。」と私。「んだってか。なーに、ばさまばりいで、誰も感謝なんてしねんだじゃ。・・・人がやらねごどするのよ、俺は。」そう言う、なんとも柔らかい武雄さんの表情が印象的だった。
 「こんなの一日でなぐなってしまうんだ〜」と、当たり前のように話す武雄さん。あんなに大変な思いをして作ったのに、儚く消えてしまうものなんだなぁ。それでも一所懸命作り続ける武雄さんってすごいなぁ。
 グループに灯る火の中に、誰もやらないことをひたむきにやる武雄さんの姿がある。二人で一つの袋を持って歩きながら、右手にズシリと感じる薪の重さを、すごく尊いものに感じたのだった。
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出雲の出会い  最終回★宮澤健【2007年11月号】

 百姓、佐藤忠吉の半生を描いた「自主独立農民という仕事」の出版記念会は、ブドウ畑やワインセラーが点在する、忠吉さん達の活動現場の一角、明治のはじめに立てられた農家の古民家を移築した建物を会場に始まった。100人はゆうに入るほどの農家の座敷は満員になった。その庭先には日露戦争で戦死した地元の若者が、戦地から送ってきた手紙の一節が碑に刻んである。その碑の言葉はおそらく忠吉さんの活動の本質を語る内容と感じた。「ああこの鉄砲が牛蒡だったらナーとにかく兵隊よりも野菜作りのほうがよいヨ」
 国家や体制への反骨であると同時に、人間が生きるうえで守るべき大切なことがさりげなく、しかし重い犠牲の上に、命をかけて訴えられている
のを感じる。まさに忠吉さんのたましいが込められた言葉ではないか。
 会場には著者の森まゆみさんをはじめ、全国的にも有名な蒼々たる著名人が参加しているのに驚く。さらに県内の経済、文化の中心人物も多く参加し、口々にお祝いの挨拶の中で、地元の百姓の生き方を褒め称えるというのはなんという事態だ。加賀乙彦や水上勉などという文化人名前も次々と出てくる。そうした人たちが忠吉を深く理解し賞賛していた話が続く。祝賀会の主人公が褒められるのは当然としても、こんな片田舎の山奥の一百姓が絶賛されるとはどういう現象だろう。信州人の誇りを「そばの花、江戸の奴らは知るまいに」と詠った一茶の句が思い起こされる。本物は田舎にこそ息づいているものなのだ。
 イベントの間、忠吉さんはずっと働いていた。褒め称えられていることなどまるで他人事のようだ。全体に挨拶をして回って、お礼の記念品を配ることに一心で、細々と動く。中心に座ってはいない。お礼の品を「もらってもらえましたか」と私の所だけでも2回も声をかけに来られた。おそらく忠吉さんは会場を5回以上は巡っただろう。
 当然忠吉さんの挨拶はこの会の山場だ。「ただの変人で注目に値しない」と謙遜しながらありがたいことと感謝を述べる。「出版は乗り気ではなかったが周りの情熱にほだされた」といい、出版に当たってはこの本によって「誰一人として傷つけてはならない」と誓ったという。発想の源が違う。
 さらに挨拶では、自分が創設し築いてきた会社からの引退を宣言した。引退宣言の本質は宣戦布告であったように私には思えた。「農民が自立せねばならんのです。食べることができれば戦争して誰かを殺す必要はないのです。これから先は農業で地域が自立する実践をやっていきます」というのだ。人類が争わなくてもいい社会の実現のために、農業自立のモデルを作って世界に示すと言っているのだ。9.11は今世紀の重い現実を突きつけたのだが、まさにその課題を「実践する」と言える人物はそういないだろう。
 「わたしはこれから孔子を読みたいと思います。なにも知らんのです。ニンジンは連作するほど良い色が出ると先日農家のばあさんから教えてもらいました」
 部分で生きざるを得ず、ブツブツに切りちぎれた現代人の哀れを癒すかのようにこの人は全体を繋ごうと存在してくる。中心に座らず、会場を手伝いのボランティア以上に動き回るのもそういう。在りようのひとつだ。
 会場で忠吉さんを見ていると、昨日、島根県立美術館でたまたま出会った有本利夫の絵と言葉が蘇った。「時間に覆われることによってそのものの在り方余計強くなる。時間に耐え風化してそれでも「そこに在る」ものはピカピカのできたてとは較べものにならないくらいの存在感というかリアリティを持っている」絵の額に穴を開け、虫が食った跡を作った有本は風化の重みを知っている。忠吉さんは一人の人間としての風化を生きているのではなく、百姓が千年単位で暮らしを形作ってきた風化のあとに輝くひとつのリアリティそのものだ。
 また有本は現代が失った様式にあこがれ「みんなをまとめて支えるような大きな土台としての様式がないから、仕方ないのでひとりひとりが「個性」とやらいうちっぽけな貧しい足場を作っている」と言う。
 忠吉さんはまさに全体を支える様式を生きている。「食い物があれば殺しあう必要はないんです」とひとつの様式の神髄を現代の個性の危うさに対して語りかけうる人物の存在は強烈だった。「活性化などしちゃいかんのです。むしろ沈静化が必要なんです」真実はそこなのに、そこから遠い所で生きるしかない現代がある。
 田植えを終えて早々に向かった出雲の旅は、岩宮先生、忠吉さん、有本利夫など、個を越えた何かを生きる人と出会う熱い旅となった。この旅で出会った多くの皆さんにも感謝です。
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収穫祭の一コマ 〜コラさんとコタツ〜 ★グルームホーム第2 伊藤洋子【2007年11月号】

 あいにくの霧雨交じりとなった収穫祭。
 その日、私はコラさんとGH1のコタツに潜っていた。
 正午過ぎ、雨がぱらぱらと降り午前のイベントも一段落した頃、外のテントの下でパイプ椅子に腰かけていたコラさんから、寒いという言葉が聞かれた。しかし、GH2に戻りたい訳ではなく、少しの間屋内で暖を取り、また外に出てこよう、といった様子。
 最初はDSの中で過ごそうか、という話が出てみたが、いざDS内に入るとまだまだバザーは盛況でたくさんの人が出入りしている。これじゃあ落ち着けないかと思った私は、「コラさん、GH1に行こうか?」と提案した。コラさんは対して間も空けず「いいよ」と応えた。
 コラさんにとっては、いつぞやのお風呂を借りに来た以来のGH1。(それに気付いていたのかいなかったのかはわからないが)GH1内では、利用者の家族さんらもたくさんいて、私はコラさんとどこにいようかと居場所を探した。そんな時、ふいに和室のコタツが目に入った。以前、コラさんもGH2のコタツに入っていたという話を思い出した。
「コラさん、コタツ潜ってく?」そう訊くと、コラさんも頷き、よいしょと車椅子から立ち上がり、和室の畳の上に両手両膝をついて、ずりずりと這うように、しっかりと目的の場所へ。そしてちょこんと両足をこたつの中へ。
 私もそのコタツに潜る。コラさんと足を暖めながら、しばし休息を取る。外で収穫祭の催し物が行われていることなど忘れてしまうくらいの、のんびりとした時間。私は買ったはいいが忙しくてそれまで食べれなかった昼食を摂り、コラさんは予約しておいて買ったメロンパンを食べる。コラさんが愛する美貴子さんが偶然来たり、メメちゃんと過ごすMさんにコラさんが興味津々になるなど、ちょっとした出会いの場ともなった。
 おそらく、コタツがなかったら、私とコラさんは、暖を取りに来たはいいが、GH1の利用者さんと家族さんがたくさんいるGH1内の中で、どこかいづらさや気まずさを感じながら過ごさざるを得なかったのではないかと思う。コタツがあったからゆったりと過ごせたおよそ1時間弱の時間は、収穫祭自体からとはちょっと離れているかも知れないが、私にとってとても貴重なあの日の一コマになった。

 後日談:ちなみに、GH1のコタツに潜るコラさんの様子はとても自然であったのか、GH1スタッフ曰く、とても違和感なく、コラさんがいると一瞬気付かなかったくらいだったそうな。
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収 穫 祭 を 終 え て★デイサービス 藤井覚子【2007年11月号】

 10月24日、銀河の里の一大イベント「収穫祭」が開催となった。私は担当となったが、初めてのことで、戸惑いもあった。しかし他の担当スタッフと打ち合わせを重ねていくうちに、「収穫祭を成功させたい、楽しみたい」という思いがつのってきた。
 10月に入ると、田んぼでは稲刈りが始まり、畑ではサツマイモや里芋の収穫が行われるなど慌ただしくなった。各部署でそれぞれ収穫祭の準備が進んでいった。準備をしていると不思議とみんな集まり、そこがにぎわっているようにも感じた。
デイサービスでも、「収穫祭に今度出すんだよ」かりん糖作りをしていると、「ほぉ、祭りがあるのか、どれどれ」「いっしょに、やりましょう」と利用者さんも一緒になって手伝ってくれて、一緒の目標に向かっているような気持ちになれた。
 収穫祭の当日は、曇り空で少し肌寒い日だった。開会とともに花巻中学校の学生さんによる吹奏楽の演奏が始まり、寒さが吹き飛ぶくらい爽やかな演奏が響き、続いて毎年恒例の餅つき大会が始まった。雨も降ってきたこともあって、集まりは今ひとつであったが、餅をついているとだんだんと人が集まり、つきたてのおもちを食べながら笑顔がこぼれた。
 餅つきがひと段落すると、鬼剣舞が始まり、踊りに引き寄せられるように収穫祭も盛り上がりを見せていった。
 恒例のバザーにもたくさんのお客さん来ていただき、列ができるほどの大盛況となった。「これもいいな」と言いながらいろんな服を試着し、「はぁ〜いいものいっぱい買えたよ」と言われると、見ていた私も嬉しい気持ちになった。
ワークステージのホールでは今年は展示と喫茶を組み合わせ、ゆっくりと展示を楽しみながら、里で作ったお菓子を味わっていただこうと企画した。
 8回目の里の収穫祭は今回初めて天気にめぐまれなかった。それでも多くの人に足を運んで頂き、大盛況のうちに終えることができた。「毎年、楽しみにしているよ」という声をかけてくれた人もあり、イベントの開催を通して企画立案から、運営実行までいい体験をさせてもらった。
 野菜やお米の収穫までには様々なドラマがあり、自然の恵みに感謝しながら収穫祭を向かえ終えることができた。私にとっては銀河の里に就職して初めての収穫祭だったが、一つのイベントには大きな力があり、エネルギーも必要になるということを感じた。ひとつのイベントの開催、成功の裏には、たくさんの人の力と、協力、努力があるのだということも実感した。また、私自身新しい自分も発見でき、たくさんのことを得ることができたように思う。
 ご協力いただいた皆様方にお礼申し上げます。ありがとうございました。
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