2007年09月15日

出雲の出会いB★宮澤健【2007年9月号】

 そのそば屋はかなり奥まった裏通りの更に裏の所にあった。ただの民家で店という感じはない。知らなければそば屋とはわからないぐらいだ。店は60代と70代くらいのおばちゃんが二人でやっている。カウンター席と畳の部屋、全部で10人も入れないこじんまりした客席。畳の部屋の向こうには坪庭があって落ち着いた雰囲気。
 川村さんはNHK松江局に3年いたあいだに、毎日のようにここに通ったというだけあって、おばちゃん達も孫に話しかけるような話し方だ。「あんた元気しとったんか」商売と言うより、自宅でお昼を出す感じなのだろう。私に対しても、レンタカーのキーが壊れていたのでテープを借りたが、「かしてみ、やったげるから」とおばさんは私からキーを取り上げてしまった。「あんた座っとき」と一方的だ。面倒見が良いというか、人なつっこいというか、こんな感覚はあまり味わったことがない。
 松江のそばの食べ方は独特だ。その特徴は割子そばと釜揚げにつきる。ざるに割と濃いめのつゆをかけて食べる。釜揚げはどんぶりにそばを入れ、そば湯をかけてつゆを入れる。ちょっとした違いだが、なんか本当は大きな違いなのかも知れない。出雲のそば通はよくかんで食べろと言う。一茶が詠んだように「そばの花、江戸の奴らがなに知って」くらいの勢いで、かまずにつるっとやるのはよそでやれと言わんばかりだ。江戸にしっぽを振らない誇れる深い文化を感じる。
 前日の夕方松江に着いたので、ホテルにチェックイン後、街に出かけたのだが、結構驚かされる街だった。東北に十数年住んでいると、地方はどこも同じだと思いこんでしまう。国道の周辺はどの街も同じようなフランチャイズが並び、自動車屋、洋服屋、スーパーと街の特色というものはほとんどない。元々の繁華街はすっかりさびれて不気味な静けさが漂っている。そういう地方への思いこみが覆るようなところが松江にはいっぱいあった。
 泊まったのは駅から1分のホテルだがこれは新しい形のスーパーホテル。なぜか1ヶ月前に予約を取ろうとして周辺のほとんどの宿がいっぱいだった。(宿が少ないのではない、観光地で宿だらけなのに。)なにか祭りでもあるのかと思ったがそんな様子もない。それで空いていた宿なので期待はしていなかったが新しくてなかなか、その上朝食もついて一泊4000円しない値段だ。
 土地勘がないので、ホテル前からタクシーを拾って走るがしばらく周りは寺だらけだ。寺町だと運ちゃんが言う。なるほど。一体これほどの寺が必要で、どうやって食っていけるのだろうかと考えてしまう。タクシーの行き先は県立美術館、2分でついた。
これまた立派な美術館。美術館というなら、これくらいのセンスは欲しいと思わされるくらい良い感じだ。宍道湖に面した場所にあり、庭の向こうはすぐ湖だ。そば屋の4畳半の奥にも坪庭があったように、建物には庭がなくてはならないと決められているかのようにどこにも庭がある。その伝統が活かされ、美術館は宍道湖の湖畔を借景した庭造りをねらっているに違いない。ちゃちな公園とは訳が違う。街にこれだけ巨大な散策の場があること自体うらやましい。
 なんと言っても宍道湖は、夕日の名所だ。その夕日を主役に美術館はたたずんでいる。その周辺も夕日を前提に、散策と憩いの場として整備されている。日本人にとって夕日の入りは深い精神的象徴を持つとされる。それを理解した何かがこの町にはあるような気がした。美術館の閉館が日没までという設定がそれを証明している。粋な感覚だ。
 美術館では有本利夫展をやっていた。有本利夫に出会えたのは奇遇だった。明日会うはずの、百姓、佐藤忠吉さんを理解するヒントが有本の作品と思索の中にあろうとはこの時                      は思いもしなかった。
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残したい想い★戸來美貴子【2007年9月号】 残したい想い

 毎年8月13日の早朝、五木田敬子さんとお墓参りに行くのが恒例となっていた。敬子さんは銀河の里のグループホームができた最初の年からの入居者だった。敬子さんは今年4月に亡くなられた。今年は娘さんから「来て下さい」と電話をもらい、敬子さんのアルバムを作ったのでそれを手に五木田家へでかけた。去年までは助手席には敬子さんが居てくれたが今年は私ひとりだ。おうちに着くと敬子さんの娘さん、息子さんが出迎えてくれた。「今年は、母さん居ないから歩いていくべ」とお墓まで3人で歩いていった。お墓に水をかけ、花やお供え物を供えて、ろうそくをつけ、線香をあげ、手を合わせる。(敬子さん、来たよ。元気でやっているよ。見守ってねと心の中で敬子さんに話しかけた。)
 戻り道、娘さんが「本当に世話になったもんね。私の言うことより美貴ちゃんのいうこときくっけもん。そのくらい大事にされたんだ。おらえのあねさんって言ってたもんね。それが、かあさんになったけ、いつからだっけね。」と思い出話。その後、自宅で朝食をごちそうになる。
持って行ったアルバムを開く。3人で入居当初の写真を見ながら「若いな」「髪黒かったな」「いや、染めてたんだ」などと話す。
 7年、それなりにみんな年を重ねた。「いいな、こったに写真たくさん撮ってもらって、おれも撮ってもらいたいな」と息子さん。「まだまだ、あるんですよ。選んできたんです。」と私。
 私はどちらかというと、カメラを向ける方ではなく、撮ってもらうことの方が多い。カメラを向けてもらうと、見てもらっている、支えられている感じがして、利用者さんと関わっている現場で撮ってもらうのは嫌いではない。カメラを向けるのは、撮る人、撮られる人の関係も大事だと思う。心が動く瞬間を撮りたい、残したいという想いがあると、写真によって切り取る作業で何か伝わるものが生まれるのではなかろうか。里の写真はただのスナップや記念写真とは明らかに違う。
 先日の夏祭りの時、カメラを持っていたのだがなかなか撮れなかった。撮りたい!という想いが少なかったのか、ほとんど撮っていなかったのだが、タミコさんと退職した職員との久しぶりの再会があって感動的だった。そこでは無心でタミコさんの表情撮りたい!とシャッターを切った。二人の関係を、そして、自分の今の気持ちを切り取って残したかった。
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出 発 点★板垣由紀子【2007年9月号】

 銀河の里につながるまっすぐな下り道がある。この数年の間に、この道を何度、何人の人と歩いたことだろう。振り返るとこの道は、私にとって、その人への窓であり、その人につながる道であったように思える。
 最近Mさんと、この道を歩きはじめた。Mさんが入居して3日目のことだ。「帰らせてもらいたい」と歩き始めたMさんについていく。Mさんはまもなくへとへとになり、車で迎えにきてもらって里に戻る。しかし戻るとまたすぐ歩いて出て行く。それが日中一日繰り返される。Mさんの歩く距離は日に日に長くなり「あそこまで、あそこまで」とどんどん距離が伸びていく。
私はMさんと、とことん歩きたいと思う。Mさんは今、歩かなければならないのだと感じる。できれば車を使わずに、熱いけど、苦しいけど、簡単に車や人の手をかりないで歩かなければならないように思う。
「どこに行くんですか」と聞いたとき。Mさんは「出発点に戻らなければならない」と答えたことがある。Mさんは、次の人生を歩き出すために、今、出発点に戻ろうとしているのかもしれない。たやすい道のりではないはずだが、自分がその旅の同行人として歩かせてもらえることを願っている。
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土曜デイ、ランチに出かけるの巻 そのA★ 昆里美【2007年9月号】

 いざ出発といっても、ことはそう簡単ではない。それぞれトイレをすます。車に誘導する。そしてみんなが乗り終えて出発するまで、ゆうに1時間はかかる。みんなと言っても9人なのだが、それぞれ豊かに個性満開で、社会的な秩序などくそ食らえ状態だ。誘導の順番も声のかけ方も実に微妙で、わずかでも失敗すると大変なことになる予感は常にある。
 そうはいっても緊張しているのは私達スタッフばかりで、逆にドンと居てくれる利用者さん達に支えられる。辰雄さんは表情が少し強ばっている感じだったが、意外と落ち着いた感じで席につき食事を始める。隣りにいた私がそわそわと落ち着かない様子がおかしかったのか、「ふふふ」と笑う余裕があるほど。
食べ物と見るやいつでも誰のものでも手を伸ばしてしまうので、どうなるか心配していた昭三さんは、脇山さんと共に席につき「食べますか」と食事を始めるが、いつもの勢いがないのが不思議なくらいだった。自分の分を食べてしまうと、他には目もくれず「先生戻りますか」と隣の脇山さんに催促。ゆっくり食事を食べたい脇さんと、慣れない場所で落ち着かない昭三さんとのやりとりに思わず笑ってしまった。
 一番心配していたまりえさんだが、何かあったのかなと思うほど満面の笑顔で店内に入って、そのままスタッフと席につくと用意されていたカレーを食べ始める。「落ち着かなくなるようだったら直ぐに車に行こう」と思っていたが、まりえさんは席を立つことなくなんと小一時間もスタッフや理事長、施設長の声掛けに笑顔で返えしたり、理事長とスタッフのやり取りで、食べていたカレーを吹き出してしまうほど大笑いした。つい先日まで1年以上もテーブルで座って食事ができず、毎日、車の中でしか食事ができなかった人とは思えない、まりえさんの久々の楽しそうな様子にホッとしつつ、なんともいえず嬉しくなった。
 食事もあらかた終わったころ、脇さんが「昭三さんお腹が痛いみたいです…」と。もしかしたらと予想していたので、まずはトイレに誘導。「私達が慌てれば昭三さんも大きな声がでるかも。でもそれだけは避けたい」と思い、脇さんに「落ち着いて行きましょう」と声を掛けたが、私が一番ハラハラしていた。
 昭三さんの協力もあり無事にことが終わり「さあ、あとは帰るだけ」と車への誘導を始めると予想もしていなかったことが!良夫さんが薬を口に入れたまま、なかなか飲み込んでくれない。スタッフが代わる代わる「良夫さん、ごくんと飲んで」と声を掛けるが良夫さんは笑って「うんうん」と頷くが飲んではくれない。「ああ、どうしよう。先に乗っていた人達が待ちきれずに降りてきたら…」と気持ちが焦りはじめたがその時「ごくん」と飲み込んでニヤッと笑い「さあ、行くべ」と一言。一気に気が抜けてしまった。
いろいろありながらも食事を楽しみ、里に戻ると利用者もスタッフも力が抜けてぐったり。まりえさんは車から降りずシートを倒してみたり、マットを後ろに放り投げてみたりと力強く活動していた。
私は昭三さんとソファーでテレビを見ながら過ごす。昭三さんが大きなため息と共に「はあ…、疲れた…」と一言。私と目が合うとニヤッと笑い返してくれた。いつもなら昼寝をしない昭三さんがそのままぐっすりと眠り込む。昭三さんの「疲れた」の一言で「頑張っていたのは私達だけじゃなかったんだ!」と気がつく。利用者、スタッフ一人一人が最大限頑張って、あの時間を過ごしたような気がしてなんだか嬉しくなった。眠っている昭三さんの隣で前日からの出来事を振り返りながら「本当に良く乗り切れたな…」と思わず鳥肌が立ってしまった。
この日のことは、私にとっても、デイサービスにとっても本当の意味でのスタートになったように思う。この日の経験を支えにこれからもさらに頑張っていきたい。
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おすすめの本 ★施設長 宮澤京子【2007年9月号】

 著者は、著名な文化人類学者として活躍していたさなか、脊椎の腫瘍によって神経系が徐々に破壊され、着実に身体の自由がきかなくなっていく死に至る病に冒された。この本はフィールドワーク、ケーススタディという文化人類学の手法を駆使し、自分自身の死に至る運命の病と、動くことのできなくなった自分の体を通して人間と社会に迫った迫力に満ちた著作である。
 著者、マーフィー氏は53歳で治療をはじめるが、麻痺の進行とともに身体が不自由になり、ニュージャージィーの自宅で66歳で死去する。その13年間、大学において「教授」としての社会的役割を精力的に果たした。人類学者の視点で、自らの「麻痺していく身体」を、最後まで徹底的かつ分析的に観察・考察して記述していく作業に強靱な意志を感じさせられる。また障害を持つ前と、持ったあとの職場や友人との人間関係や、細ごまとした日常の動作の不便さや工夫の様子が丁寧に描かれて、その日常性から見えてくる自己、そして家族や社会また文化の闇・タブーを鮮やかに鋭く暴いていく。
 しかしその「語り」はあまりにも淡々としていて、つい本人に起こっている事実であることを忘れてしまいそうになるほどだ。それは自分に起こった「悲劇」を、同志である妻のヨランダさんとの共同作業で事実の本質を見つめる仕事へと昇華させているからだろう。フィールドワークの「自分で体験する」ことと、ケーススタディの「自分を関わらせること」を、自身の「病と障害」に向けるという希有で勇気ある戦いは真に胸を打つものがある。これはすべてを他人事ですまそうとする現代人を打ち砕くほどのすさまじい勇気だ。障害や病、死をあくまで他人事として見ようとする傾向は医療や福祉関係者ほど強い。いちいち自分のこととして見ていたら身が持たないのも解るが、著者は現地にとけ込んで研究をする姿勢を培った真の人類学者であったことがこの仕事を支えたのだろう。我々も真の介護職でありたいと思う。麻痺し動かなくなる自分の体を冷徹に観察しつつ受け入れていく力はどこにあったのか。そしてさらに、受け入れた自身の障害をもう一度突き放し、人間とはなにか、社会とは何かを問い続けた人間の霊力に感嘆せざるをえない。
 この本を読みながら、15年も以前、特別養護老人ホームで出会ったKさんのことを思い出した。脳梗塞後遺症で寝たきりの全面介助のKさんは、食事は取れず鼻腔に管を通して栄養を摂り、尿は膀胱に管を通して排出していた。彼女はいつも、苛立っているような、睨みつけるような表情をしていて気軽に声をかけることもはばかられる感じだった。その表情は寝ている時さえも険しかった。家族とのトラブルで深い絶望を経験してから、食べることも、語ることもせず、表情さえなくなったという。とにかく「不信と絶望」しか感じさせられなかった。私の夜勤の日にKさんは亡くなった。深夜2時の巡回では特別な変化はなかったが、5時のおむつ交換で部屋に行くと息が止まっていた。動揺しながらも緊急連絡で関係処理をこなし、Kさんの枕元に戻った時、穏やかで優しいKさんの表情があった。最期に見せてくれた表情に救われた思いがしたと同時に、Kさんの身体と心が「死」によらなければ「解放」されなかったことが悔しかった。そのアンビバレントな感情は、今も私の中で、リアルに刻印されている。
「人類学というのは、人間の脆さと愚かさについての学問だ。すばらしいじゃないか。」 と言い放つマーフィー氏。「病い」や「障害」や「死」の前で人間は脆く、愚かでしかない。そうした人生の本質的な理不尽を、どう受け止め、それに対する憤りや怒りをどう鎮魂するのか、まさに宗教的な問いの前に、私はやはり立ちすくむしかない。
 人間が生きていくということは、「内側へ倒れ込むこと」つまり、母胎へと回帰すること、あるいは自己の内へ閉じこもることと、「外へ倒れ込むこと」つまり、他者へ社会へと手をさしのべ連なること、との間に「絶妙なバランスを保つ綱渡り的な努力」だと著者は結論づける。さらに、人間は誰しもみな障害者で、人は多かれ少なかれ囚われの身だ。身体障害という肉体の拘束服を着せられているよりも心の拘束服を着せられて文化に隷属している状態の方が本当はずっと悲惨なのではないかと問いかける。人間が心の麻痺を逃れて自由を獲得するためには、障害者の存在がきっと参考になるはずだというメッセージを伝えてこの本は幕を閉じる。
 著者は命をかけて、自身の障害から人間と社会を発見しようと戦ったのだと思う。「死」が解決するのか、「生」で勝負するのか。我々も、そうした瀬戸際の現場に立っているということを忘れず挑戦していきたい。
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ワークステージ物語@★ WS主任 米澤 里美【2007月号9月号】 ワークステージ物語@

                    
 私は学生時代から、日本で自分がやっていける場はないのではないかとおぼろげな不安を感じていた。現代社会の空気にどこか違和感があるのだ。そういうこともあって学部を卒業したあと、韓国に一年留学した。帰国後、遊んでいる訳にもいかず、気の乗らないまま、就職活動をはじめた。
そんな折、自宅のすぐ近くに新しい施設ができたと情報があり、ちょうど職員を募集しているというので応募した。それが銀河の里だった。採用面接で私はピンとくるものがあった。1時間もかけて話し合うなかで、ここなら私の居場所になるかも知れないと直感が働いた。私のそんな感覚も伝わったのか、その場で即決の内定となった。
 社会人一年生の私の配属は知的障害者の授産施設で、私の役割は生活支援員だ。開設1年目の草創期のまっただ中の組織に飛び込み、まさに激動と激務で3年間があっという間にすぎた。支援費、自立支援法と障害者福祉がめまぐるしく変わる時代とも直面してきた。
我々が抱えた使命と課題は、「知的障害者が年金と合わせて自立して生きていける工賃の確保」である。つまり4万円以上の工賃を払える授産施設を目指して戦ってきたのである。現状では開設当初から2万円の工賃を確保してきた。しかしこれが精一杯で更に2万円の道は遠い。全国でも2万円の工賃を払えている授産施設は少ないと思われるので、新設の組織としては頑張っている方だろう。しかし目標は利用者の自立にある。それを達成できないで安穏としてはいられない。多くの授産施設や関係者は現実には無理だとあきらめているのか、障害者の自立など考えなくても良いことに「裏」ではなっているのかそこをどう考えているのか私は不勉強で解らない。
しかし、まさに死ぬ思いで稼ぎ出してきた2万円の工賃は、自立支援法で一気に吹っ飛んだ。受益者負担という、解るような解らないような理由で、利用者の自己負担がちょうど2万円程度となり働いた稼ぎがチャラになった。内訳はいろいろあるにせよ、実質の手取りは消え、自立は遠ざかった。我々はさらに4万円の上乗せを目標値にしなければなくなった。結局計6万円の工賃を払う事業をしなければならない。下請けでも何でもやるつもりだが、東北の地方には仕事がないのが現状である。農業こそ主たる地場産業であるべきと、農業に取り組んできたが、利益を上げるのはかなり難しい。農産加工で、弁当や、総菜の開発販売にも挑戦してきたが、未だに販路を確保し、事業規模に乗るまでには至っていない。しかも自立支援法では、職員の配置が5人から3人に国の基準が下降した。戦力が減り戦いようのないなかで戦わねばならず、玉砕を強いられているかのようだ。
 しかし制度はどうあれ、生き抜いていかねばならない。この春、思い切って街の繁華街に居酒屋を出店した。生き残りの切り札としてカードを切ったのだが、商店街はいずこも同じく、死にかけている状態にあって、これもいまだ利益を出せないでいる。ほとんどの商売が息絶え絶えの地方の現状を考えれば工賃6万円は無謀か。しかしそれが障害者の自立の最低ラインであるとすればどうすればいいのか。これが今、私と私の組織が抱えている現実と課題である。
 6万円の工賃を払うには、30人定員で月180万円の純利益を必要とする。売り上げは最低でもその3倍の600万円は必要だろう。年間売り上げ7000万円以上の事業を、この地方の冷え切った経済のただ中で3人の支援員で、30人の利用者とやっていかねばならないという訳だ。残業が続くだの、休めないだの、目標と課題の達成のために厭うつもりは全くない。なんとしても自立目指して戦い続けたい。しかし、現状はきびしい。厳しいが故にやりがいはあるはずだが、突破口はいまだ見いだせないでいる。
 私は学生時代から社会構造のゆがみや、渇いた世間の裏を感じて、自分の居場所がないと感じていたのだが、障害者の自立への戦いを自分のこととすることで、私は期せずして違和感の元凶そのものと向き合い、挑戦し格闘することになったようだ。私の戦いはまだ3年目と始まったばかりだが、濃密で、過激な日々を過ごしている。この連載で私の職場の日常と、その苦悩を綴り、今後の戦略を探ってみたいと思う。
   (つづく)
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