売り上げも順調に下降?していく中、なんとしても歯止めをかけて、閉店廃業は避けたいとランチを開始した。いつもの通り、組織を挙げての総力戦である。プロジェクトスタッフの寝ない、休まないは常識である。日々が戦いだ。
ランチが始まって、大活躍をしたのはワーカー(授産利用者)である。授産施設の店なので、今までも彼らが基盤になって、米や野菜を作り、餃子やシュウマイなどその他の仕込みもやってきていたのだが、夜中の店には直接出ることは難しかった。ランチは昼間で俄然張り切った。歩きや自転車で自分で出勤してくる人もいて、なかなかの社会参加になっている。 心配されたお客さんとのコミュニケーションのぎこちなさも、店ではそのまま押し通してほとんど問題がないレベルでやっていけることが解った。実は私たちには苦い経験がある。去年の桜まつりのイベントで一週間、店舗を借り、それこそ社会参加の第一歩と頑張ったのだが、ワーカーの長所は出せず、苦手なところ、弱いところ、やりとりのぎこちなさなどが、違和感として強調されてしまって、社会的にさらしものにしてしまった感があって、スタッフも仕方なく職員と利用者の関係を演じざるを得ず幾分傷ついたのである。
私たちのやりたいことはこういうことではない。ただやればいいってものでも、社会に出ればいいっていうものでもないと感じたのだった。販売に歩いても、「頑張ってね」と理解をしてくれる人と出会って涙を流すこともあれば、「福祉だってぇ、かわいそうだからかってあげたら」と冷やかされて泣くこともあった。傷ついたり癒されたり、なかなか一筋縄ではいかないことを経験してきた。
「社会参加」「自立」などと支援法は勝手にきれいなことをいうが、現実には、死にもの狂いで戦い生きることなのだ。スタッフの私にとっては、障害者をさらすのか、社会参加を保証するのか実に微妙な瀬戸際でのせめぎ合いの勝負になる。そして何かやると必ず「障害者を利用している」「こき使っている」と非難される。何かやろうとするとその微妙な所をあえて突き進んで行くしかない。なにもしない人は常に正しいことを言うだけで良いから始末が悪い。こういう仕事は確信犯的に悪を引き受けることができなければ、なにも成し遂げることはできないのかも知れない。
いろいろな声も聞こえては来る「市役所の世話になって派手な商売しやがって」と言った酔っぱらい(市役所からは一円の支援も受けていないが)。例のごとく、「障害者をこき使っている」という声もやはり聞こえてきた。障害者は役所の世話になっているんだから 影に隠れておとなしくしていろといった感情もあるだろう。何割かの市民感情を代表する 声としては受けとめたい。
去年のイベントの店と、悠和の杜の違いは枠組みにあるように思う。つまり、花見のイベントにいきなり障害者の店があっても、お客も障害者もとまどうのが当然で、守りの器としては弱すぎたのだと思う。杜は日常に根を下ろした街のなかの店であるし、「障害者の発信の場」として報道もされ、認知もある程度されているという枠がしっかりある。 普通、変だとか、おかしいと思われるようなことがあったとしても、杜の店の中や周辺では結構受け入れてもらえる。それはこちらも傷つくことなく面白い出来事として受けとめることができる。ワーカーが持つ個性、不思議な存在感、優しさ、正直さが何とも絶妙に生きてきてくる。初めて店に来て緊張していても、ワーカーのまっすぐな人間らしさにほっとしたり、気持ちがほぐれたりする。そして、なんだか、和んだりする。
営業部長と呼ばれるマサキさんは、外での呼び込みに気合いが入り、大きな声で、旗振って宣伝している。近くの銀行に飛び込み10人様をお連れしたりする。Sさんが盛るご飯とみそ汁、ミツコさんが盛る小鉢のサラダと煮物、平さんは洗い物に、三股さんはホールに立ち、お冷やの用意や配膳に一生懸命。みんな結構緊張して真剣だ。
今日は何が起こるのか全く予測不可能!そして何かを起こしてくれるからおもしろい!お料理の味はもちろんだが、ワーカーの虜になってまた来てくれるお客さんができたら、もっとおもしろく社会参加だ!
障害者が普段、普通に受け入れられ、個性全開でも変な目で見られない地域社会ができたらいい。お金を稼ぐことが至上命令のようになった自立支援法ではあるが、障害者の価値までがお金に転嫁されて考えなければならない一元的な価値観の社会ではなく、失いつつある、人とふれあい、関わり支え合うことの価値を取り戻す可能性は、彼らの個性の中に秘められているように感じる。