2006年11月15日

畏敬と尊厳(その1)★宮澤健【2006年11月号】

 認知症は「たましい」への通路として、現代人の我々の前に存在して来るのではないか。しかし、せっかく通路の扉は開かれるのに、たましいと触れた経験が無い我々は、その扉の前で恐れ怯えている。現代社会と現代自我は、その不安に耐えられず、開かれた扉を無理に閉めて、問題を遮蔽するのだが、認知症の威力は我々を揺るがせ続けてくる。
 認知症ケアの現場に立つ我々は、勇気を持ってその扉の向こうに足を踏み入れ、たましいへの通路を進むべきではないか。そうすることで我々は、近代が失った大切な何かを発見することになるに違いない。そしてその体験をもたらしてくれた認知症にも、それぞれの個性にも深い感謝を引き出される事になるはずだ。近代科学に洗脳された薄っぺらの知性に乗っ取られ、生きることへの気迫を持てない現代人とその社会は、そういう大切な経験を根こそぎ奪い去っている。
 たましいの話は、それが有るか無いかという次元の話では愚かすぎる。ヒルマンがいうように、たましいの視点、パースペクティブを持つかどうかが大事なのだ。近代科学の○×主義では、あまりに視野が狭すぎて生命全体を見通すことができない。宗教がその力を失った現代、我々はそれに代わるべき豊かな視点をどう持つかが問われている。介護という、人間が密接に関わり、しかも人生の総仕上という重要な場面に向き合い、そこを同行する現場の我々には、豊かな知性と感性が求められることは間違いない。
 しかし福祉現場はそうした次元からはかけ離れている。最近義務化され、強制的に参加を要求される各種の研修のいかに表面的、機械的なことか。その薄っぺらさは絶望的な気持ちにさせられる。そこでは「こころ」のことは一切触れられる事はなく、そんなものは、否定して抹殺しようという意図に彩られたかのようだ。意識的にか、無意識的にか解らないが、こころを含んだ人間全体を見ようとはしない。現代社会と福祉現場には、そういう人間否定が根幹にある。
 研修で「こころ」のことや、まして「たましい」などは言葉にすることさえはばかられる。少しでもそういう事を匂わした途端に、違和感が走り、緊張が走る。県レベルの大きな会合でも、幾分「こころ」のことに絡んだ発言に対して「夢は無いんだ、夢は」と叫ぶ人が現れ、それに合わせるかのように、会場全体が冷笑に湧いた事があった。その人物は業界ではかなりの大物で、大会1日目の昨晩は厚労省のお偉方と遅くまで飲んでいたと言いながらそういう発言をした。「認知症は社会の迷惑だから、グループホームに隔離しろ」と言いたいのだ。それは見え見えなのだが、ずるがしこい彼らはそうは言わない。「こころ」が在るということを認めると余程困ることがあるのだろうか。
 時代がそうなのか、誰かがそれを計っているのか、いずれにせよ「こころ」や「たましい」は端に追いやられ、抹殺されそうになっている。しかし現場ではそれが主役であり、あらゆる物事の中心にある。なぜこの事実を無視し、関わろうとしないのか解らない。現代が「こころ」や「たましい」を苦手とする時代であって、それが表面的な豊かさを謳歌しながら、どこか大きな不安と、恐れを抱えてしまう現代人の弱点となっている。
 我々は畏敬を失い、同時に尊厳を失ったのではないか。近代、現代のそうした流れのなかでも、芸術の世界は「たましい」に関わり続けながらその次元での仕事をしている。超越や、大いなる存在に関わらないものを我々は真の芸術とは感じられないだろう。尊厳を徹底的に必要とする福祉の現場は、芸術や美学に大いに学び、その感性を積極的に取り入れることに力を注ぐ必要があるのではないかと思う。(続く)
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畏敬と尊厳(その1)★宮澤健【2006年11月号】

 認知症はたましいへの通路として、現代人の我々の前に存在して来ると私は考えている。しかし、せっかく通路の扉は開かれるのに、たましいと触れた経験が無い我々は、その扉の前で恐れ怯えている。現代社会と現代自我は、その不安から開かれた扉を無理に閉めて、問題を遮蔽しようとするのだが、認知症の威力は我々を揺るがせ続けてくる。
 認知症ケアの現場に立つ我々は、勇気を持ってその扉の向こうに足を踏み入れ、たましいへの通路を進むべきではないか。そうすることで我々は、近代が失った大切な何かを発見し驚愕の体験をすることになるに違いない。そしてその体験をもたらしてくれた認知症にも、それぞれの個性にも深い感謝を引き出される事になるだろうという確信がある。そういう大切な経験を根こそぎ奪い去っているのは、ただ我々に勇気がないだけか、近代科学に洗脳された薄っぺらの知性に乗っ取られているからだと思えてならない。
 たましいの話は、それが有るか無いかという次元の話にしてしまっては愚かすぎる。ヒルマンがいうように、たましいの視点、パースペクティブを持つかどうかが大事なのだ。近代科学の○×主義では、あまりに視野が狭すぎて生命全体を見通すことができない。宗教がその力を失った現代、我々はそれに代わるべき豊かな視点をどう持つのかが問われている。介護という、人間が密接に関わり、しかも人生の総仕上という重要な場面に向き合い、そこを同行する現場に在る我々は、豊かな知性と感性が求められることは間違いない。
しかし福祉現場はそうした次元からは遙かにかけ離れている。最近義務化され、強制的に参加せざるを得ない各種の研修が、いかに表面的、機械的なことか。その薄っぺらさは絶望的な気持ちにさせられる。そこでは「こころ」のことは一切触れられる事はない。そんなものは無いかのように、否定して抹殺しようという意図に彩られたかのようだ。意識的にか、無意識的にか解らないが、ともかくこころを持つ人間全体を無視をしようとしている。それが今の社会と福祉現場の実態で、人間否定が根幹にある。
 研修で「こころ」のことや、まして「たましい」などは言葉にすることさえはばかられる。少しでもそういう事を匂わした途端に、違和感が走り、緊張が走る。県レベルの大きな会合でも、幾分「こころ」のことに絡んだ発言があった時、いきなり「夢は無いんだ、夢は」と叫ぶ人が現れて、その発言に合わせるかのように、会場全体が冷笑に湧いた事があった。その人物は業界ではかなりの大物で、大会1日目の昨晩は厚労省のお偉方と遅くまで飲んでいたと言いながらそういう発言をした。「認知症は社会の迷惑だから、グループホームに隔離しろ」と言いたいのだ。それは見え見えなのだが、ずるがしこい彼らはそうは言わない。しかし「たましい」はおろか 「こころ」の話題になど絶対にしてはならないとなぜか気色ばんでいる。余程そこに困ることがあるのだろうか。私には理解ができない。
 時代がそうなのか、誰かがそれを計っているのか、いずれにせよ「こころ」や「たましい」は端に追いやられ、抹殺されそうになっている。しかし現場では厳然とそれが主役であり、あらゆる物事の中心にあることは現実ではないだろうか。なぜこの事実を無視し、ねじ曲げようとするのか解らない。現代が「こころ」や「たましい」を苦手とする時代であることは間違いない。それが表面的な豊かさを謳歌しながら、どこか大きな不安と、恐れを抱えてしまう現代人の弱点なのだ。
 近代、現代のそうした流れのなかでも、芸術はたましいに関わり続けながらその次元での仕事をし続けてきている。超越や、大いなるものといった存在に関わらないものを我々は芸術とは認めないだろう。それらと最も遠くかけ離れている介護や福祉の現場が、現場は芸術や美学に大いに学び、その感性や知見を取り入れるようでなくてはならない。(続く)
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