2006年09月15日

関わりから生まれる心の動き… ★清水【2006年9月号】

 心が動く。身震いする。そんな体験を私は里で何度経験しただろう。すごく新鮮で、かつ強烈。人と関わるということは、心が動くことだろうと思う。私は、最近そう感じたあるきっかけがあった。
 私の内面で起こること。それが自分のエネルギーであり、支えである。今まで感じたことのない心の動き。それを実感するのとしないのでは、大きく違うと思う。そこで見える自分もまた違う。
 私の周りには、たくさんの人がいる。人と関わるということが、今はものすごく楽しい。そこに今まで感じることがなかった楽しみを感じる自分がいる。
 誰かと出会っていたい。誰かと関わっていたい。そして、心が動く状態で常にありたい。
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ワークステージ奮闘記2 ★ワークステージ米澤里美【2006年9月号】

 9月8・9・10日に花巻まつりが盛大に開催されました。
 毎年観客側だった私たちですが、今年は屋台を2店舗も!出店することができました。毎年盛大に行われる花巻まつりですから、利用者の工賃アップを目指し、売上目標もしっかり掲げて、意気込んで花巻まつりに参加しました。人が集まる場所だから売上は期待できると単純に考えていましたが、やってみて商売の難しさを痛感しました。売上げ目標を立派に掲げたものの、実際の売上はあまり伸びず、目標金額の約1/3の売上げ、これではほとんど商売にならない売上げです。
 私たちが出品する商品と他店の商品との兼合い、そしてお客さんの流れと出会い、いろんな要素が絡み合って屋台の売上につながっているのだと感じました。
 利用者の工賃アップのために、がむしゃらに利益を追求したいという気持ち、そして商人としてド素人の私たちが商売でどう勝負していくのか、この二つの気持ちが複雑に絡まっています。花巻まつりの賑わいを純粋に楽しんでいた去年までとは、明らかに違う気持ちです。これは私が商売を通して戦い始めた一つの表れなのだと思います。
 ワークステージでは商売で勝負していくために様々なアイディアを出して、日夜議論しています。しかし、まだ何も形ができていない状態です。不安定な状態とも言えますが、だからこそ、あれはどう?これは?と、とにかく思いつく事すべてやっていこうと思います。やってみないとわからないことばかり、つまずいて転んだとしても、その傷も痛みもこれからの力になるはずです。これからも進みます!ワークステージまだまだ奮闘中です。                    
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団扇に風鈴、太鼓の音・・・何が聞こえた?何が見えたか?今年の夏祭り ★牛坂友美【2006年9月号】

 今年の夏祭りも面白かった。8月19日、青空と風鈴の音と、それを響かせる風が心地良かった。準備から当日まで、高齢者もワークステージも、部署として、利用者との関わりや自分自身について、こころを動かされたり、頭を悩ませたり、怒ったり、怒れなくて悲しかったり、泣く事しかできなかったり・・様々な物語があった。
  私自身も泣いたり怒ったり悔しかったりした。祭り前日、写真を集めて看板に貼ったはいいが、そこに語られる物語を私は全然知らない事に気が付き、衝撃を受けた。ただ作っても無意味では?と焦った。また、厳しい現実を抱え、売上げを必要とするワークステージと高齢者部門の意識の違いも浮き彫りになった。お互い「何か違う」と思っているだけではなにも生まれない。物語の始まりにも気が付かないから、せっかくの祭り準備もただの作業になってしまう。そんな無味乾燥な、ただのイベントをこなしても意味はない。
 高齢者やワークの利用者は、楽しいイベントにしようとか、売り上げ目標を達成するといったこちらの意図や現実問題を軽く飛び越え物語を展開していく。私は、そんな生への姿勢や揺るがないその人らしさに驚嘆してしまう。やられた!と思う。良いとか悪いとか、正しいとか誤りだとか、凝り固まった自分の思考にがっかり・・・。
 けれども、夏祭りはやはり楽しかった。企画としても個人としても、反省点は勿論ある。しかし、物語は予期せぬ所ではじまり、私達を揺さぶり、本質の世界を見せてくれた。そんな出会いを潰したくない、これからもっともっと感じてみたい。それぞれのあり方を貫きながら共に生きるというのは決してたやすい事ではないだろう。けれども、相違点と共通点を見据えながら、問題やその原因を探すのではなく、色んな視点や考え方を活かしていきたい。夏祭りを終えて、また今日一日がどんな物語の一場面になっていくのか、わくわく感が心地よいこの頃である。                                    
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人生初めての花火大会 ★グループホーム板垣由紀子【2006年9月号】

 毎年夏に花巻で、宮澤賢治の誕生日にちなんで開催される「イーハトーブフォーラム」。銀河の里ではそこで行われる花火大会を鑑賞しに行く。今年はグループホームの利用者とスタッフ、そしてグループホームみつさんちの面々と、総勢36名で出掛けた。
 なんと出がけには激しい雨と雷。皆が車に乗った途端、「帰ったほうがいいんだ。帰るが勝ちなんだ!」と利用者のTさん。「勝ち…?負け…?」と考えていると、今日は花火が上がると連絡が入った。「Tさん花火上がるって!車の中でも良いんだ。行こう!行こう!」スタッフの勢いに押され、車は目的地に向かって走る。すると、花火の打ち上げ場所に近づくにつれ、不思議と雨も小降りになる。
 いざ花火が打ち上げられはじめると、なんと雨が止んだ。それぞれの車内でデイサービスで収穫された枝豆や準備したおやつを広げながらの見物。さっきまで「帰ったほうがいいんだ」と心配そうにしていたTさんも、花火が上がると「ほ〜っ、キレイだなぁ」と笑顔を見せ、他の誰よりも一番楽しんでいる。もう一人、出がけに「行がなくていい!腰痛ぇ!」と厳しい表情で嘆いていたSさんも「ほぉ〜、上がってら。花火は仏さまのためにあげるんだよ。お盆には毎年上げるものなんだよ」と切々と語る。来て良かったと、スタッフも花火とその笑顔に見とれている。それらが自分にとってはものすごく印象的だった。
 数日後、私は地元の花火を見た。にぎやかな屋台、ガンガンと響くDJのけたたましい声…。私は、今年初めてそれらを邪魔と感じた。そして、Sさんの「仏さまのためにあげるんだよ」というあの言葉を一人静かに思い出していた。              
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弱さを誇れる社会を作れるか(2回シリーズ第2回目)★ 宮澤健【2006年9月号】

障害者が生きにくさを感じない社会は、弱さを誇れる社会であると思う。それはすなわち「優しい社会」ということだろう。優しさがいらないというのは優しさを否定しているのではない。そういう社会を実現するには誰かが戦わなくてはならないはずだ。9.11に象徴されるとおり、現実は複雑で、人間は甘いものではないことを認識する必要がある。その上で、誰かが意識して努力していかないと、「優しさ」などは欺瞞でしかなくなる。ましてや福祉の現場で、自分を優位に立たせておいて優しさを言う人は偽善でしかない。福祉の現場にいる人間は、高見に立っているべきではなく、優しい社会を作るために戦う人であって欲しいのだが、現実はそうではないことが大半だ。
9.11の跡地をグランドゼロと爆心地に例えて言うらしいが、その跡地をどうするかというコンペが行われた。日本の建築家、安藤忠雄はそこを祈りの場とすべく、地球の中心点に孤を描くドーム型のマウンドを建設し、世界中から人が集まり、祈り考える場として設計しコンペに提案したという。すばらしいアイデアだと思うのだが、この案は採用されず、結局また巨大な建築物が出現することになるらしい。安藤忠雄の提案は、「優しい社会」への戦いのひとつだと感じる。福祉の現場の人たちが「優しさが必要よね」などといっている次元とはかけ離れたものがある。イメージ力、アイデア、気魄どれを取っても戦いである。
しかし、現実は厳しく、祈ること、考えることを阻んで、さらにそこにものを作らざるを得ない強迫的な時代の流れがある。個人においても、組織においても、勝ち組、負け組などと訳の分からない比較の競争がなぜかしら激しく続き、世界も、身近な地域社会もぎすぎすして喧噪に満ちている。望むべき方向とは真逆に動いているように思えてならない。
「障害者、認知症は地域社会で面倒を見よ。障害者は社会に出て働け」というのがこの4月から出てきた政策だ。唐突以上の早さで法律ができ、施行された。認知症者にとって地域社会は生命線だし、障害者は当然働きたい。しかし現実は、地域の無理解と偏見の中に認知症者を放り込むことだし、認知症者の移動を地域内に体裁よく制限するあり方だ。
パワー重視で効率を求め続ける社会に投げ出されれば、特に知的障害者の傷つきは大きいと思う。すでに彼らは十分傷ついて生きてきた歴史を個人的にも社会的にも持っている。閉じこめ排除する為の施設は当然不要だが、守り支える場はなくてはならない。
効率とパワーに価値ばかりが突出して、憎しみが増大するあり方は、世界の地域社会隅々に潜入しているのかもしれない。そんな時代に認知症や知的障害の価値は大きな意味を持つと信じる。社会的な弱さや動けなさは表面的なことであって実は、大きな価値なのではないか。存在することそのものに意味や価値を見いだす「まなざし」を持っていきたい。
日本の文化は、本来そうした「まなざし」を育ててきたはずだ。パワーと効率偏重のなかで、真の価値を見つめる「まなざし」は風前のともしびで、現代においてそういう方向に進もうとすると相当の抵抗や違和感を持って迎えられることになる。福祉の現場にある人間は、日常の暮らしを通じて、弱さの中に価値を見いだす戦いの先頭に立ち、弱さを誇れる社会の実現に身を投じる覚悟があってもいいのではないか。
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