2006年08月15日

瓢箪?短信 ★清水【2006年8月号】

 先月も紙面で取り上げたこの瓢箪。あっという間にその蔓はさらに伸び、私たちが大慌てで作った棚(蔓が這うことができるように作った支え)を超えんばかりに成育しています。
 そろそろ瓢箪の形もわかるくらいになったかなぁとふと葉を避けながら覗いてみると…そこにはなんと夕顔が!実はこの瓢箪の横には夕顔も植えていて、今ではお互いの蔓と蔓が複雑に絡み合い、ものすごいことになっています。
 夕顔はその形を見せ始めましたが、瓢箪はまだのようです。その生長の状況によっては、このコーナーも『瓢箪短信』改め、『夕顔短信』になるかもしれません。どうぞもう少し見守り下さい。
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汗をかきつつ誕生会 −グループホームみつさんち−★清水【2006年8月号】

 今月初め、グループホームで生活するSくんの誕生会を、利用者、スタッフで行いました。あいにく小雨模様の天気でしたが、その天気さえも吹き飛ばしてしまいそうなぐらいの雰囲気の中、我が銀河の里の料理長が「ちゃんちゃん焼き」をごちそうしてくれ、さらには利用者からの要望もあり、皆でバーベキューをし、お祝いしました。
 今回の主賓であるSくんからは、これからの抱負をもらい、さらには他の利用者もそれぞれこれからの自分について考える良い機会となったようでした。今後もこのような機会を大切にし、関わりを深めていきたいと思います。
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弱さを誇れる社会を作れるか(2回シリーズ第1回)★宮澤健【2006年8月号】


 弱さを誇れる社会があったらいいと思う。しかし実際は、それはほど遠く、現実は全く逆の方向に驀進しつつある現状であろう。強い者が仕切るのだから、強い者の都合よくなるのは仕方ないかもしれないが、それでは人間の価値はないのではないか。そんな人間は滅びてしまってもしかたがないのかもしれない。5年前の9.11はそうしたテーマが我々に突きつけられたと理解している。 
ところで福祉の職場で働く人を「いい人」だと見る一般観念があるように思う。他から何と見られていようとかまわないが、やばいのは、福祉の現場にいる人間自身が「いいこと」をやっている「いい人」だと思いこみやすいことである。もともと人間は「いいこと」なんかそんなに簡単にできるものではない。他に仕事がないからやっている程度の人に限って勘違いしやすいようだ。
 自分自身を厳しく見つめようとする姿勢のある人であれば、勘違いをしたまま、誤った方向に行くことは避けられるかもしれないが、残念ながら滅多にそういう人はいない。ついつい自分はいい人だと思いこみたいのかもしれない。本当は全くの最悪の人間なのに、いいことをやっていると勘違いする人間が、大量に存在しているのが福祉の業界だ。最悪の人間というのは、他の社会と葛藤の少ない甘いところに生息しやすいのだろう。
平気で利用者を見下しているのに、猫なで声で優しい人を演じる「ばけ猫型」。利用者の存在や人生そのものには全く関心もなく、聞く耳もないのに、解ったようなふりをしてうなずいて聞き流している「馬の耳に念仏型」。そこに人間が生きていることを忘れ、自分は関わらないで対象化し、関係を排除して観察、操作に徹して数値を当てはめ、命を物体として扱い自分は偉い、正しいと威張っている「お宅研究者型」。常に自分が癒されているだけで、なんの仕事をしているのかよくわからない「ボランティア系給料ぶったくり型」。問題を片づけるだけで機敏は触れない「官僚一丁あがり型」
 最悪にもいろんなタイプがあるが、各タイプが複層的に融合し、まっとうな人材に滅多にお目にかかれなくなっているのも、この業界とそれを取り巻く関係機関の特徴である。これは福祉に限らず、時代がそうで、お寒い世相の風は我々の現場にも厳しく吹きつけているという事かもしれない。
全国レベルの研修会でさえ、運営に関わる指導的立場の人間が「福祉には優しさが大事よね。」など当たり前のように発言し、「うんうん」とうなずく人たちばかりなのには愕然とした。私はあまりに表面的で浮ついた感じに腹が立って、「優しさなどは一切必要ない」と言い切ったので、一同ドン引きで興ざめだった。他人の弱さを餌に、自分を優位に立たせ、それをごまかすのに優しさをひけらかしている風潮には、薄汚さを感じて気持ち悪くてしかたがない。
 優しさがあってはダメだとは言わないが、そんなものが役に立つような生半可な現場ではないはずだ。だいたい人生の重要な場面である老い、病、障害、恋愛、結婚、子育てなどどれを取っても、優しさなんぞで立ち向かえるものはない。そういう生半可な心がけ自体がまちがっていることに気がつくべきだ。深いところでは、人生の本質は常に対決であり、勝負であり戦いである。我々の現場で目の前に置かれている課題は、そうした人生の深さと直接関わる事柄である。その戦いを引き受け、支え、守る覚悟が求められる。そこには強靱な人間力が求められるはずだ。
 困難な闘いを引き受ける覚悟の姿勢から、自然と生まれる静けさや落ち着きを、真の優しさとして必要だと言うのなら、心から賛同するのだが、そういう人格に出会うことは希である。出会わないから鍛えられないという悪循環になっている。業界では「研修は必須。質の向上。」などと言いながら、「重い話はなしにしましょう」という雰囲気ばかりで、正しい技法と、正しい数値をひけらかして終わりだ。それらは現場での勝負にはほとんど役に立たない。それでは人間は育たないからだ。
 大上段に構えて、正しいことをやろうと言いたいのではない。ただ、人間として生き、育ちたいと願う。そのためには戦いが要る。自分の全存在を賭けるような何かをどこかに持っていないと、福祉の現場でなくとも誰かのために役に立つことなどできないと思う。(続く)
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姿が語る「暮らし」★板垣由紀子【2006年8月号】

 今年の9月で入居1年を迎えるIさん。昨年の野菜の収穫期はジャガイモ掘り、稲刈りと大活躍。長い冬ごもりの時期は、ストーブに薪をくべ火の番をして過ごし、迎えた春、まずはテラス前の畑に豆を蒔いた。次に、ハウスから芽かきしたトマトの枝を持ってきて「植えれば根っこ付くんだ」と所狭しと植え、ポットに入ったままのトウモロコシを「いつ植えるんだがと思ってらけどさっぱり植えねっけ。」と持ってきて畑に植えた。テラス前の畑が活気づき動き出す。 散歩に出ては、「ジャガイモの花咲でらっけな」「ナスまだ小せがっけな」「豆は、後2〜3日で食べれるな」と、畑の様子を伝えてくれる。
 一人ふらっと畑に行き、気付くとトマトの芽かきをしたり、赤くなったトマトを収穫する。そして、収穫したトマトをグループホーム、デイサービスに届けてくれる。一緒に畑に出たり、その後ろ姿を見て、育てること、暮らしそのものがそこにはあると感じる。昔の(と言っていいか解らないが)暮らしには、流れがあったように思う。
 今の自分には、それがあるだろうか?何でもお金を出せば手に入る時代。野菜だって、自分が土まみれにならなくても買える。それどころか、食事は、レンジで“チン”するだけ、いやいや買ってきたものをパックを開けるだけで済む時代。それがいいとか悪いとか言う気はない、確かに便利になって、助かっている。だが、その影で気付かぬうちに失われているものがあるような気がしてならない。Iさんを見て、暮らすと言うことの意味を見つめ直している自分がいる。有難いことだとこの出会いに感謝している。
 このテラス前に最初に植えられた豆は、8月10日、グループとデイサービス合同で収穫し、その晩の花火大会のおつまみに並んだ。何だか特別な味がしたような気がする。       
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Fさんの渡り初め ★牛坂友美 【2006年8月号】

 Fさんの自宅庭には、立派な石畳みが敷かれていた。Fさんは、何もなかった家の庭に、北上川から気に入りの石を自転車に乗せては運んできて、庭に敷いたそうだ。それは雨が降ると、土が水を含んで凸凹になるので、これまでその度に自分で直してきたという。しかし、今では修繕が大変になり、転んでも危ないので、Fさんの了解の下撤去されることになった。
 その日、私はデイサービスの帰りいつも2番目に送るFさんを1番に自宅まで送っていった。家に着くと、Fさんの茶色や白の石はもうすっかり無くなって、そこには黒いアスファルトがまだ湯気を立てていた。それを見て、Fさん「お、大丈夫、こっちを通っていくから」と畑の中を通ろうとした。「いやもう大丈夫ですから、どうぞどうぞ」と業者の方が勧めてくれる。「お、そうか、じゃ・・」とFさんがゆっくり、ゆっくり歩いていく。私は後を付いていく。
「ただいま〜」と普段通り中に入り、Fさんの姿は見えなくなった。そして出てきた娘さんが、興奮した様子で私の腕に触れた。「今ね、おじいちゃんがこの庭を歩いてくるのを中で見ていたの、たった今完成したと業者さんが言いに来てくれたばかりなんですよ。そしたら、おじいちゃんが真っ直ぐ歩いてくるものだから、びっくりして。渡り初めのようだと話していたんですよ。このおじいちゃんの道を最初に渡るのは、やっぱりおじいちゃんなんだね、決まっていたんだねって、そう言って見ていたところでした・・・。」
 「神様は、やっぱり見ているんですね・・。」救われたように娘さんが話してくれる。Fさんは窓からにゅっと顔を出し、また“いや〜どうも”と頭を下げる。私は胸がいっぱいになった。私は何を感じたのだろう?
おじいちゃんの石を残したいけれど・・・そんな家族の複雑な想い、お前達に任せると言ったFさん、たまたまこの時間に到着した送迎車、「どうぞ」と言ってくれた業者さん、娘さんの震える体、その想いと、変わらないFさんの姿。この一時で、娘さんの気持ちがどんなに晴れたことだろう。そして私は、沸き上がってくる感情の強さに一人で驚いた。
 Fさんの大切な石は、庭から姿を消した。けれども、Fさんと娘さん、家族の強固なつながりを感じる。絆と呼んでいいのかわからないが、一人一人の心の中に、どーんと他者が存在しているのだ。石畳みを通じたFさん家族の想い、つながり、それはFさんの石が姿を消したことでより一層、私に生きる事のリアルを伝えてくれたように思う。
 「我が人生悔い無し!」と言ってのけるFさんと、自分の道を切り開こうともがく私達の世代。これから私達は、どんな橋をどんな色の世界に渡して、そこをどのように渡っていけるのだろうか。見ていてくれる人はいるかな。誰と渡るのかな。こんなちっぽけな自分が架ける橋も、誰かを支えて立っていられるだろうか。
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ワークステージ奮闘記 ★ワークステージ米澤里美【2006年8月号】

 ワークステージお中元ギフト企画7月31日をもって終了致しました。
 ご協力頂いた皆様方ありがとうございました。おかげさまで、売上目標であった200セットを上回るご注文を頂き、餃子レンジャーをはじめとする利用者達にわずかながら夏のボーナスを支払うことができました。うれしいことに、お中元ギフトについてたくさんのご意見を頂いています。エビ餃子のエビがまるごとでおいしい!!また食べたい!という声から、こうしたらもっと良くなるのでは?とアイディアを提案してくださるお客様もいます。皆様に支えられて商品が作られるのだと実感しています。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
 お中元ギフトで目標を達成してもワークステージはまだまだ厳しい現状が続いています。先日、少し不安定になった利用者のM君は、こう言いました。「首相はかわるのに、どうして自立支援法はなくならないんですか?僕たちはお金がありません!」授産は福祉的就労の場ですが、自立支援法が施行されてからは、利用者の自己負担金と今まで無料であった昼食費の平均2万円の負担が発生しています。施行後4ヶ月経った現在、利用者達の生活に痛みがリアルに響いています。
  今更決まってしまった法律に嘆いても仕方ない!戦おう!M君!」私はとっさにこう言ってしまいました。なぜいつの時代も社会のしわ寄せはマイノリティからなのだろうと嘆き、被害的に考えがちだった私ですが、ここまでリアルに痛みを実感するともう戦いを挑んでいくしかありません。この戦いは利用者達へより多くの工賃を、という工賃獲得の戦いだけではなく、自分自身へ、そして社会への戦いだと言えます。利用者達を通して日本社会、そして世界が見えてきます。見えるほどに私の中で社会に対する疑問がふつふつと沸いてくるのです。
 この思いを胸に、まずはこつこつ餃子から、そしていろんな事にどんどんチャレンジしていきます。現状は厳しくなっていますが、利用者達は皆勤を目指して毎日出勤しています。利用者達は一歩も引いてはいないのです。
 みんながいるからこそ、やれる!ワークステージ奮闘中です!            
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