2006年07月15日

大きなカブ ★清水【2006年7月号】

 今年、私は一人特別な思いで、デイサービステラス前畑にカブの種を蒔いた。それが最近ようやく形となって、私の目に飛び込んできた。
 昨年、私の手によって育てられ、収穫時期を迎えたカブ。だが、親指ほどにしかならず、他スタッフから幻滅された。
 野菜を育てるのは難しい。こちらの日々の細かい気配りと操作できない自然とが組み合わさって、初めてそれが実を結ぶ。 今年は美味しいカブが食べられそうだ。なんだか嬉しい。
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ワークステージ゙お中元企画 ★ワークステージ米澤里美【2006年7月号】

 ワークステージではただいまお中元企画を開催中!!餃子と焼売のセットを冷凍販売しています。今回は岩手県花巻市産の白金豚を使用し、ますますじゅわっとジューシー、おいしくなりました。
 障害者自立支援法施行により、4月から手取り収入大幅ダウン。今まで通りには生活できません。非常に厳しい状態ですが、この冷凍餃子販売に勝負を賭けて、工賃アップを目指しています。 
 餃子レンジャーは毎日大忙し。せっせと一つ一つ餃子を手で包んでます。餃子レンジャーの一人S君は餃子を作る道具に愛着が出てきたようです。
 「具をはかるには、僕はやっぱりこの“はかり”が好きだな。」
 餃子を作るには“はかり”が必需品で専用のものが3つあります。里餃子は20g、しそ餃子は17g、エビ餃子は10gにはかります。
 「この“はかり”とは相性がいいよ。だってぴったり20gくるよ!」 とS君。「いいねえ。相性がいいんだね。」と私。
 するとS君は「ねぇ、ぴったり20gくることは、この“はかり”もしかして僕のこと好きなのかなぁ。ちがう?」
ん!?そのS君の発想に私はびっくり!そうか。“はかり”とは友達なんだ。大好きにもなれる友達。道具と一緒に餃子を作ってるんだ。仲良くならなきゃおいしい餃子もできないってもんだ。私も“はかりさん”と仲良くなりたい!S君と“はかりさん”の関係が無性に羨ましく思いました。

 S君は一日の仕事が終わり、道具を片づけるときこう言います。
 「“はかりさん”ありがとね。また明日ね。」
 S君と“はかりさん”の関係があって、餃子レンジャーの奮闘があって、おいしい餃子が生まれています。
みなさま、ぜひご賞味ください!                  
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農業を通して★ワークステージ松坂卓【2006年7月号】

 今年ももうすぐじゃが芋の収穫時期!消毒も追肥も行い、後はその時期を待つのみ…。
 今年の銀河の里のじゃが芋は、農業指導に来てくれている熊谷さんの自宅のじゃが芋よりも立派に成長しているとのこと。しかし、絶対に豊作になるという保証はどこにもない。それよりも、掘ってみなくてはわからないと言った方が正しいだろう。
 目に見える茎や葉の成長と目に見えない土の中の根の成長。見える様で見えない植物の命。農業に関わり、先が見えるようで見えない在り方が人生と同じ要素を持っている様に感じている。
 現代社会は、夢を無くし、リアリティも無くしている。特に若い世代は、最近の事件を見ても、それがよく現れているのではないだろうか。若い世代はすでに人生に疲れている。
 今私は、土に触れ、植物に触れ、生きものを感じている。畑に植えた成長中のキャベツも二日間見ないだけで、虫に食べられ芯だけに・・・。大事に育てているつもりでも、何かが起きてしまう。もっと、リアルに感じていれば、虫に食べられないように何かできただろう。
 ジャガイモは手入れもでき、先日試し掘りをした。その根は大きく成長し、湯がいてバターのみで食べたら・・・旨かった。
 私は農業に触れ、喜びも悲しみもあるが、それが自分のこととしてリアルに感じ始めている。人生は生きてみないとわからない。決まった人生など存在はしない。何が起こるかわからないのが人生だろう。農業に触れることは、現代社会にとって何か大きな意味があるように感じる。 
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写真とまなざし★板垣由紀子【2006年7月号】

 デジタルカメラになったからなのか、銀河の里では膨大な写真が撮影されている。そしてその写真も「はいポーズ」の写真とは明らかに違う、うるおいを感じる写真がたくさんある。元々私は写真を撮るのも撮られるのも苦手であったが、銀河の里に勤めるようになってカメラをよく使うようになった。
 今回、久々に月間ベストショットを自分なりに30枚取り出してみた。撮られるのが苦手で、普段は撮る側に回り自分が撮られることは少ないのだが、改めてみてみると意外とカメラを意識することなく利用者と楽しそうに写っている自分がいた。
 自分が写真を撮りたくなるのは、そこにある関係を捉え、それを留め、伝えたいからだと思う。良い写真には撮り手のメッセージがこもっている。私が写った写真を見ながら、撮影者のメッセージを感じ嬉しくなった。
機械類の苦手な私は、カメラの撮影もうまくはない。ここぞという瞬間が微妙にずれて、悔しい思いをすることも多い。仕事に追われると余裕もなくなりシャッターを切る機会も減ってしまう。
 今回写真を整理しながら、存外に生き生きと写っている写真の自分を発見しながら、写真も一つの創造であり、表現であって、メッセージを伝える有効な方法と改めて感じた。グループホームでは、人と人の関係性へのまなざしの存在が決定的に重要だと思う。そのうえで暮らしのうるおいや、心のみずみずしさを失うことなく、この仕事にたずさわって行きたい。       
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問題と回答 ★グループホーム主任 及川貴樹 【2007年7月号】

 先日、グループホーム関係者の会合で、「おたくでは、表札はどうされていますか?」と、ある管理者の方から問われた。その質問の意を捉えかねながら、「その方によって、手作りのものだったり、全くつけなかったり…様々ですが…。」と、答えた。すると、「プライバシーの問題は、どうされていますか?」と返され、さらに面食らった。
 要は、居室の入り口に表札を掛ける事が、「個人の情報を守る」というプライバシーの原則に反しないか?ということを問われているのだとわかったが、釈然としない思いにかられた。
プライバシーと表札の関係は、私にはよく分からない。だが、現場にいると表札一つ取ってみても個別にいろんなエピソードが生まれ人生がうかびあがる。表札が要らない人もあれば、あった方が良い方もある。一緒に、1ヶ月かけて作った表札もあるし、目立たないようにと小さめに作られたものもある。暗くても見えるようにと蛍光塗料を塗った物もあれば、好きな花を表札代わりにされている方もある。「こんなものいらねぇ!」と投げつけた人、「私の部屋だね」と表札を確認しながら安心する人、飾りの派手な表札に「病院になんでこんなものがあるんだ?」と、いぶかしげに見る人、感動して「帰ったら、家に飾ります。」と、鞄の奥底にしまった人。表札も何もかも、壁に掛けてある全てを部屋に持ち込んだ人等々、いろんな物語が綴られる。
 グループホームは、人が生きる現場である。起こってくる色々がそのまま人生であり、生きることそのものになっているはずである。法的な解釈はその道の専門家がやるべきことで、それに従うとはしても、暮らしに正しい答えを最初から求め、現場で考えようとしないのはあまりに表面的で堅い態度に過ぎると感じられてならない。暮らしに本来答えは無いはずだし、回答が必要であったとしても、それは現場から出していくべきであり、その答えもどんどん変わっていって良いのではないか。
 私が感じた「釈然としない想い」は、現場で起こったことをもとにしてしか、論じられるはずのない事柄が、あたかも最初から正しい答えがあることにされ、それによって利用者も職員自身も縛り、拘束していきそうな感じを受けてしまったからだと思う。「生きること」や「暮らし」は最初から、しかも他から、もっと言えば上から、答えが与えられるものではないはずで、自分自身や関係性の中から沸いてくる創造的でリアリティに満ちたものであると信じているし、そうした生き方をしていきたい。
 昨年度から、義務付けられた外部評価制度は現場の表層化に拍車をかけているように感じる。書類整備、記録用紙作成など、事務的な時間が増大し、利用者との落ち着いた十分な関わりを育む時間を明らかに圧迫している。しかもそこからの問題提起は「記録用紙にリハビリパンツをどういう名称で書くか?」といった類の、どうでもいい枝葉末節の議論に終始している。重要なはずのコミュニケーションに深いまなざしのある評価委員にお目にかからないどころか、官僚的な書類主義ばかりが目立つ。おかげでグループホームの現場が暮らしや命のリアリティからどんどん離れていっているような気がしてならない。
 何でもマニュアルの時代である。予め用意された正しい答えを幻想しているうちに生きる実感や感覚までも奪われてしまいそうで怖い。現代が失った大事な何かがグループホームにはあると数年の現場経験で感じさせられてきた。年齢を超えた人と人の出会いを軸に据えることで、現代人の心の空虚に何かを蘇生させる力を認知症に見る。グループホームはその可能性を育む唯一の場である。それを大切にしていきたい。
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