先日、グループホーム関係者の会合で、「おたくでは、表札はどうされていますか?」と、ある管理者の方から問われた。その質問の意を捉えかねながら、「その方によって、手作りのものだったり、全くつけなかったり…様々ですが…。」と、答えた。すると、「プライバシーの問題は、どうされていますか?」と返され、さらに面食らった。
要は、居室の入り口に表札を掛ける事が、「個人の情報を守る」というプライバシーの原則に反しないか?ということを問われているのだとわかったが、釈然としない思いにかられた。
プライバシーと表札の関係は、私にはよく分からない。だが、現場にいると表札一つ取ってみても個別にいろんなエピソードが生まれ人生がうかびあがる。表札が要らない人もあれば、あった方が良い方もある。一緒に、1ヶ月かけて作った表札もあるし、目立たないようにと小さめに作られたものもある。暗くても見えるようにと蛍光塗料を塗った物もあれば、好きな花を表札代わりにされている方もある。「こんなものいらねぇ!」と投げつけた人、「私の部屋だね」と表札を確認しながら安心する人、飾りの派手な表札に「病院になんでこんなものがあるんだ?」と、いぶかしげに見る人、感動して「帰ったら、家に飾ります。」と、鞄の奥底にしまった人。表札も何もかも、壁に掛けてある全てを部屋に持ち込んだ人等々、いろんな物語が綴られる。
グループホームは、人が生きる現場である。起こってくる色々がそのまま人生であり、生きることそのものになっているはずである。法的な解釈はその道の専門家がやるべきことで、それに従うとはしても、暮らしに正しい答えを最初から求め、現場で考えようとしないのはあまりに表面的で堅い態度に過ぎると感じられてならない。暮らしに本来答えは無いはずだし、回答が必要であったとしても、それは現場から出していくべきであり、その答えもどんどん変わっていって良いのではないか。
私が感じた「釈然としない想い」は、現場で起こったことをもとにしてしか、論じられるはずのない事柄が、あたかも最初から正しい答えがあることにされ、それによって利用者も職員自身も縛り、拘束していきそうな感じを受けてしまったからだと思う。「生きること」や「暮らし」は最初から、しかも他から、もっと言えば上から、答えが与えられるものではないはずで、自分自身や関係性の中から沸いてくる創造的でリアリティに満ちたものであると信じているし、そうした生き方をしていきたい。
昨年度から、義務付けられた外部評価制度は現場の表層化に拍車をかけているように感じる。書類整備、記録用紙作成など、事務的な時間が増大し、利用者との落ち着いた十分な関わりを育む時間を明らかに圧迫している。しかもそこからの問題提起は「記録用紙にリハビリパンツをどういう名称で書くか?」といった類の、どうでもいい枝葉末節の議論に終始している。重要なはずのコミュニケーションに深いまなざしのある評価委員にお目にかからないどころか、官僚的な書類主義ばかりが目立つ。おかげでグループホームの現場が暮らしや命のリアリティからどんどん離れていっているような気がしてならない。
何でもマニュアルの時代である。予め用意された正しい答えを幻想しているうちに生きる実感や感覚までも奪われてしまいそうで怖い。現代が失った大事な何かがグループホームにはあると数年の現場経験で感じさせられてきた。年齢を超えた人と人の出会いを軸に据えることで、現代人の心の空虚に何かを蘇生させる力を認知症に見る。グループホームはその可能性を育む唯一の場である。それを大切にしていきたい。
posted by あまのがわ通信 at 00:00|
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