ケースを分断化してモノとして扱わないようにと頭で解っていても、便利な社会で、細分化、分断化が十分に進み、個人もその手法に浸りきって生きている中で、自分が人間や命をモノ化しているとはほとんど気がつかないまま、思いっきりそれをやっていることが多々ある。
現代人にとっては、ケースを分断化してモノ化しないとか、解りやすい因果論に囚われないといった事は、よほど意識していないと、陥っていることさえ、気がつくことが難しい。
私のような兼業農家の新規参入者とは違って、長年現場でたたき上げてきた、行政や施設のベテランのケースワーカーが集まった会議が、悪者探しの世間話のレベルになってしまうのはなんとももったいないと感じていた。
前述のAさんのケースでは、東京にいる息子さんにまず会うことが大事だと感じた。担当スタッフが電話をするとすんなりとつながった。面識がないままの連絡だが、電話をした事情を大まかに説明し、今後の事も含めて相談をしたいと伝えた。
印象は会議のなかで得がちだった非常識でいいかげんな感じはなく、むしろ両親が気になりつつ、距離や諸事情でどうしようもない不安や焦りを抱えながら、無理に平静を装おおうとしている様子が感じられた。
担当者は電話のあと東京に会いに行きたいと言い出した。それは明らかにやりすぎなのだが、教科書的に否定すればいい訳でもない。行き詰まったりした、困難なケースの場合、担当者の中から出てくる逸脱が、固まった状況を動かす場合がある。何よりも「行きたい」と感じている事そのものを大切に考えたかった。この時は「よし行ってこい」と即座に日程まで決めてしまった。
施設長にそれを報告すると当然ながら、「やりすぎではないか」とクレームが来た。それは解った上でやろうと思う。そうしたいという気持ちにしたがってみたいと説明すると、施設長は「それはおかしい」という前提は覆さずに、半ばあきれて折れたかたちになった。
現場のケースが教科者通りで全て事が進むわけではない。逸脱も逸脱として重要な展開をもたらすことある。それが逸脱であると理解してやる必要はあるとして、「よしやってみろ」というまなざしと、「逸脱は逸脱と許さない」視点の両方が存在していることも大切なように思う。そうして担当者ばかりではなく、私まで行くぞと逸脱に張り切っていると、出かける直前になって、Aさんの息子さんの方から電話が入った。向こうからこちらに来ると言うのである。こちらの葛藤を誰かが見据えていたのではないかと感じるようなことが起こることがある。行くか行かないかという「部分」を考えると、行かなくて済んだ、ただの話し合いに過ぎないが、Aさんを軸にした息子さんと我々の出会いのプロセスという全体性からみれば、意味ある展開が起こり始めた瞬間であったはずである。
そして、息子さんが我々の事務所にたずねてくれた。ケアマネージャーと担当者と私と4者で、ほぼ2時間の話し合いになった。会議で話題に上ったその人が目の前にいること、打ち解けた話し合いができたこと、今後、連携を密に取りながら、良い方向を探って行こうと確認できた事など、新たな展開軸が見えてきた。担当者も私も少なからず感動があった。
posted by あまのがわ通信 at 00:00|
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