ワークが必要になるのは、人間がモノではないからである。これは極めて当たり前のことであるし、分かり切ったことなのだが、こうした基本的な事にひずみが生じてしまったところに現代のゆがみがあるように感じる。
人間はモノではなく、命を持ったかけがえのない個であるという、重要な原則が生活の現場に置いて、どこかですでに機能しなくなっている。人間を、モノとして扱おうとする時代精神がすでにできてしまっているのかもしれない。
我々の周りはモノで覆われ、モノに取り囲まれた生活をしている。それ自体が悪いわけではないし、便利や快適や安全はそうやって確保されている。そのために人間は努力を重ね知恵を発揮してきた。そしてそれはかなりの成功を収めたと我々は信じている。そしてそのこと自体は事実で、50年前に比べると我々は格段に便利で豊かな生活を送っている。
しかし「本当に豊かか」という問いが出されるようになって久しい。生に伴う実感が乏しくなっているとか、内的な空虚さが広がっているとか、心に不安が深く根をおろしていると言われ、どこか危機的な現実が顕わになっているのも現代である。
こうした「本当に豊かか」というテーマに挑む仕事の一つがワークだと考えている。ここで言う「本当に」というのは「心やたましいといった人間としての本質的なところは豊かなのだろうか」という問いである。
現代人がゴキブリが部屋に現れて大騒ぎするのは、モノに囲まれた現代人が、命ある生き物の出現に恐怖するからだというような事を養老センセイが言っていたが、我々現代人の豊かさ入手法の基本が、命からの逃避か、命の忌避であるように思えてならない。
モノは扱えるし、操作しやすい。しかしそれに比べると生き物、つまり命は極めて面倒だ。個別性を持ち、揺らぎ、変化し、動き、戸惑い、怒る。心などやっかいこの上ない。
やっかいで扱い難いが故に、命をモノと同じように扱いたいと考えるのは自然かもしれない。それは有力な技法として効果を発揮する。近代科学はそうして出現し発展したのだろう。そして結構うまくいった。現代人はとりあえずそう信じて生きている。しかしそこに「本当に」ということが抜け落ちたことにも気づかざるを得なくなってきた。
命をモノとして扱うにはそれを切り刻めばいい。簡単にモノになる。つまり、けがをすれば、そのけがをした人間や人生全体など考えず、その部分の故障と考えればいい。同じように、認知症となれば、その定義だけで扱おうとする。本当は寝たきりの人にも、認知症のひとにもそれぞれ個々の心とたましいの発現としての豊かな人生がある。
やっかいな心などに関わりたくもないというのは人情としては解る。しかし我々の仕事の専門性はそこを引き受けるところにこそある。ワークはその実践であると捉えたい。
ワークはあくまでその人の人格、人生、心、たましいへの関心から始まる。人生全体、人間全体への関心を閉ざし、扱いやすくするために人間を切り刻みモノ化していては、特に困難事例などでは問題をさらに混乱させてしまうことになりかねない。
posted by あまのがわ通信 at 00:00|
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