2006年05月15日

利用者に支えられるということ ★清水【2006年5月号】

 日々、利用者と関わっていると、私たちはその利用者に支えられているということを実感する。 私たちより利用者の方々は、感覚も鋭く、動きも素早く、まさに私たちの一歩も二歩も先を歩いていて、その動きによって、私たちは自分を見つめ、考え、動いている。
 利用者と関わることができる。それはものすごく貴重なことなのだと思う。関係を育みつつ、そこで私たちが何を感じ、どう動くか。そこに自分の可能性もあると思う。それは今まで体験したことがないことかもしれない。そして、もはや「福祉」という枠の中だけはおさまりきらない壮大なテーマかもしれない。
 だが、それを追い求めること。そこに魅力はないだろうか。利用者との関わりを大切にしながら、そこに自分という存在も絡め、人間として成長できればと思う。         
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花巻温泉 さくらまつり ★ワークステージ米澤里美【2006年5月号】

 4月22日〜5月6日まで、花巻温泉さくらまつりにて期間限定の銀河の里のお店を出店しました。ワークステージの惣菜販売は3年目となり、自分たちのお店をもつステップとしてこのイベントに参加しました。店作りはメニュー板から暖簾やのぼりまですべて手書きの手作り。しかし、いざ開店してみると、さくらが咲くまではなかなかお客さんは来てくれません。また、建物の外装からお客さんがイメージする商品と我々が販売する商品との相違でお客さんを逃してしまったりと、店を始めてから様々な課題点に気付き、商売することの難しさを目の当たりにさせられました。それでも、5月のGWにはたくさんのお客さんに来店いただき感謝の気持ちでいっぱいです。
 ありがとうございました。ワークステージはさらなるステージへ向かって走り続けます!
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いよいよはじまる植え付け作業 ★ワークステージ松坂卓【2006年5月号】

 今年は農業指導の熊谷さんが入り、本格的な指導が始まりました。いい野菜を作り、ワークステージの食材費を助けることが今年の目標です。畝の立て方、肥料の入れ方や量など、今まで自分の中で手探りだったものが、次第に確かなものになっていく感じがしています。
 日本が作り上げてきた農業。今それが失われようとしています。人は土から離れては生きられません。今の時代は危機的な状態にあるのではないでしょうか。世間のほとんどの人が、おそらく「店で物を買うこと」なしには生きられないでしょう。農業を失うということは、生きる力そのものを失うことではないでしょうか。私は農業が持つ意味をもう一度考え直す必要があると感じています。
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小さい春見つけた ★板垣由紀子【2006年5月号】

 「まず行くべ…。」と玄関へ向かう方がいる。時には「来なくていい…。」とつっぱねられたりもするが、思いを巡らせお供する。どこへ行きたいのだろうか。こうして二人の行き先未定の散歩が始まる。
 今年は4月になっても肌寒い日が続いていた。ある日、私をあたかも待っていたかのように「行くべ…」と誘う方がいる。今日はどんな思いを持っての散歩だろうか。家…?それとも親戚の集まり…?それとも…。帰って来られるだろうか。どこまで行くことになるだろうか。覚悟を決め、「行って来ます」と残るスタッフに見送られ、玄関を後にする。
 「さぁ〜、どっちだった?」 「う〜ん、どっちだっけ?」
 「まず、行く。あべ…。」二人で歩き始める。  
 「寒なぁ〜。どっちだべなぁ〜。」迷いながらしばらく歩く。
 「ありゃ、あれ見ろ…。」
 そこには小さいながらもふきのとう。さらに、その横にはよもぎ。二人で摘み摘み歩く。すると、その日の食卓にふきのとう、よもぎの天ぷらが並ぶ。室内にいては感じることができない春の息吹をYさんが私に運んできてくれた。
 「まず、あべ。」「ほれ、行ってみるべ…。」今度は何を見つけて戻ることができるのか。Yさんに寄り添いつつ、散歩を楽しんでいきたいと思う。                
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私が立つ特別な場所 ★清水【2006年5月号】

 思えば、私は昨年の同じ時期もこの場所に立っていた気がする。目の前に広がる棚田。そして、頭上には広い空。ここに立つと私はなぜか目を閉じて、目に見えない何かを感じたくなる。
 デイサービスのテラス前畑。私は、ここである利用者と同じ時間を過ごした。春、夏、そして秋と、共に農作業をしながら、私はその方の背中をずっと追っていた。そして、いつしか私はその姿に惹かれていた。
 しかし、その方は数年前亡くなられた。だが、今も私の中にはその方が生きている。そう言っても過言ではない。この畑に立つと今も、あの時、そしてあの瞬間が鮮明に蘇る。
 私は最近、その畑に再び立った。そして、土を自分の力で掘り起こした。私がその土を掘り起こそうとした時に要した力は、相当なものに感じた。二十代の私がそう感じた土の重さ。そして、そんな土の重さを感じながら、頭には何度も何度も鍬を使い、自らの力だけで土を掘り起こそうとしていたあの方の姿が蘇る。今思うと、ものすごい生き様を見ていた気がする。
 そんなことを考えていた時、トラクターの音が聞こえ、「土、これで起こそうか?」とあるスタッフが私に声をかけてくれた。今後のことを考えると、トラクターで土を効率良く起こそうというその声は正直ありがたかった。だが、それと同時に本当に良いのかと自らに問う自分もいた。だが、そんな私にそのスタッフは一通り土を起こした後、「トラクターでやって良かったかな…?」と声をかけてくれた。そばに感じてくれている人がいた。その一言は私の中にものすごく響いた。その一言が、私と、私とその利用者の世界を守ってくれた気がした。
 私にとって、このデイサービステラス前畑はいつまでも特別な場所である。同じ時を過ごしたその利用者はいないが、今私の周りには新たな利用者、スタッフがいる。今度はその利用者、スタッフと新たな世界を形作ってみたい。そして、今年こそはこの畑をまずは畑らしくしたいと思う。畑らしくしただけではまずいのだが、自分の姿も見つめつつ、支えられながら、着実に歩んでいきたいと思う。                 
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つなぐ花 ★牛坂友美【2006年5月号】

 すっかり春の暖かい空気。銀河の里でも雪の下で冬を越した草花が、青々と葉を茂らせて、その黄色や紫色の花、そしてその匂いを楽しませてくれる。
 4月、私はグループホームに異動となった。それと同時にサテライトデイサービスが開設された。よく晴れた日、グループホームではサテライトへ見学に行こう!いざ出発!と思ったが、手みやげは・・・。その時玄関前の鉢植えを思い付いた。
 ちょうどその数日前、Kさんが外に出られない人も楽しめるようにと、花壇から植えかえたクロッカスだった。Kさんの了解ももらい、E子さんも一緒になって『♪咲いた〜咲いた〜』と歌いながら鉢植えをリボンでラッピングし、いざサテライトに出掛けようとした時!さっきまでつぼみだったはずのクロッカスの花が、なんと咲いた。咲いた、咲いた、本当に咲いた。サテライトに着き、皆さんに喜んでもらったその花は、小さいけれど力強くて凛として、でもちょっとだけ照れていた。
 それから、グループホーム周辺では、Kさんの手によってパンジーが飾られ、袋の中で眠っていた球根が植えられ、雪解けから手付かずだった花壇の整備が行われた。まだぽっかり空いたスペースもあるけれど、今花壇はサクラソウの淡い黄色がとてもきれいだ。
 私にとって花はそれほど身近ではなかったのだけれど、この春、グループホームとデイサービスを、私とKさんを、また誰かと誰かを、そして何かを、つないでくれる存在としてあるように思う。これから、私がKさんや皆さんと共に過ごしていく中で、何を育て、何を選び、何をつないだり、枯らしたり・・・するのかなと考えると、とても楽しみである。   
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ワークを考えるC ★宮澤健【2006年5月号】

 ワークが必要になるのは、人間がモノではないからである。これは極めて当たり前のことであるし、分かり切ったことなのだが、こうした基本的な事にひずみが生じてしまったところに現代のゆがみがあるように感じる。
人間はモノではなく、命を持ったかけがえのない個であるという、重要な原則が生活の現場に置いて、どこかですでに機能しなくなっている。人間を、モノとして扱おうとする時代精神がすでにできてしまっているのかもしれない。
 我々の周りはモノで覆われ、モノに取り囲まれた生活をしている。それ自体が悪いわけではないし、便利や快適や安全はそうやって確保されている。そのために人間は努力を重ね知恵を発揮してきた。そしてそれはかなりの成功を収めたと我々は信じている。そしてそのこと自体は事実で、50年前に比べると我々は格段に便利で豊かな生活を送っている。
 しかし「本当に豊かか」という問いが出されるようになって久しい。生に伴う実感が乏しくなっているとか、内的な空虚さが広がっているとか、心に不安が深く根をおろしていると言われ、どこか危機的な現実が顕わになっているのも現代である。
 こうした「本当に豊かか」というテーマに挑む仕事の一つがワークだと考えている。ここで言う「本当に」というのは「心やたましいといった人間としての本質的なところは豊かなのだろうか」という問いである。
現代人がゴキブリが部屋に現れて大騒ぎするのは、モノに囲まれた現代人が、命ある生き物の出現に恐怖するからだというような事を養老センセイが言っていたが、我々現代人の豊かさ入手法の基本が、命からの逃避か、命の忌避であるように思えてならない。
 モノは扱えるし、操作しやすい。しかしそれに比べると生き物、つまり命は極めて面倒だ。個別性を持ち、揺らぎ、変化し、動き、戸惑い、怒る。心などやっかいこの上ない。
やっかいで扱い難いが故に、命をモノと同じように扱いたいと考えるのは自然かもしれない。それは有力な技法として効果を発揮する。近代科学はそうして出現し発展したのだろう。そして結構うまくいった。現代人はとりあえずそう信じて生きている。しかしそこに「本当に」ということが抜け落ちたことにも気づかざるを得なくなってきた。
 命をモノとして扱うにはそれを切り刻めばいい。簡単にモノになる。つまり、けがをすれば、そのけがをした人間や人生全体など考えず、その部分の故障と考えればいい。同じように、認知症となれば、その定義だけで扱おうとする。本当は寝たきりの人にも、認知症のひとにもそれぞれ個々の心とたましいの発現としての豊かな人生がある。
 やっかいな心などに関わりたくもないというのは人情としては解る。しかし我々の仕事の専門性はそこを引き受けるところにこそある。ワークはその実践であると捉えたい。
 ワークはあくまでその人の人格、人生、心、たましいへの関心から始まる。人生全体、人間全体への関心を閉ざし、扱いやすくするために人間を切り刻みモノ化していては、特に困難事例などでは問題をさらに混乱させてしまうことになりかねない。
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