2006年03月15日

つれづれみなみ 弥生 ★高橋【2006年3月号】

 グループホームみなみにとって、大きな転機が訪れます。病院の敷地内にあった住居から、15分ほど離れた一般住宅街に引っ越すのです。
 荷物を早々にまとめ、既に意識が引っ越し先にある人や、日用品をほとんど荷造りしてしまい、何度も段ボールを開け閉めする人など、様子も様々です。
 思い返せば、現在の場所で事業がスタートしたときは、一人一人の生活スタンスの違いに戸惑ったものでした。 今はお互いに慣れて暮らしていますが、また手探りの日々が始まります。
 大きな期待とちょっとの不安と共に、新しい日々が始まろうとしています。
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いよいよ始まる稲作! ★ワークステージ松坂卓【2006年3月号】

 今年も育苗用の土が運ばれきた。1トンの土袋を見ると今年もついに始まるのだなと感じる。フォークリフトで土袋を持ち上げ、下から土を抜いて作業をする。私も3年目を向かえ、利用者にも3年目を迎える人がいる。去年と作業は同じだが、そこにかける思いは毎年強くなっている。その思いは自分の生きようとする力に呼応してきているようにも感じる。里ではスタッフも利用者もどう生きるのかということを常に考えさせられる。生きるといっても人の数だけ存在するものだろう。里には無数の星が煌めいている。その煌めきを感じながら、今年の稲作を進めていきたい。また、銀河の里の中の自分も稲作を通して見ていきたい。        
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「ありのまま」とはどういうことか ★清水【2006年3月号】

 福祉の世界ではよく良いイメージの言葉として、「ありのまま」という言葉が聞かれる。「ありのままの姿…」とか「ありのままの生活…」とか、もっともらしい響きで、その言葉は私たちの耳に入ってくる。しかし、実際はどうか。その言葉だけが多用され、どこか軽い意味で私たちはその「ありのまま」という言葉を使ってはいないだろうか。
 私が在介のソーシャルワーカーとして関わったKさんという方は、長年の独居生活から、サービス利用、そして施設入所へと、その人生の「区切り」とでもいうべき大きな節目を、あくまで自分の意志で決断し、前に進んできた方である。そのKさんが、最近銀河の里のグループホームに入居された。そして、今まさに新たな生活を送り始めている。
 現在Kさんは銀河の里へ入居し、生活しているわけだが、実際は銀河の里へやってくる前、もう一つ別のグループホームへ入居した。しかし、そこでKさんは「ありのまま」の生活をすることができず、結局退居することになった。その理由としては、Kさんが今まで送ってきた独居生活を、そのまま共同生活としてのグループホームに持ち込んだ結果、その生活スタイルが受け入れられないばかりか、他の利用者に迷惑が掛かるという、何とも言葉にしようがない厳しい現実だった。「肌着姿で室内を歩いては共同生活の雰囲気を乱す」「ポータブルトイレの使用は室内に匂いがして困る」「入れ歯を食事中に出し入れするのはいかがなものか」など、Kさんが今まで送ってきた生活は、ほぼ全否定に近い形で目の前に突きつけられた。私はものすごく寂しかった。
 ここで、私たちは考えなければならないと思う。「ありのまま」とは、どういうことか。「ありのまま」とは、実際はそんなに軽いものではなく、本来はものすごく重い意味を含んでいるのではないか。私たちが出会い、関わろうとしている方々は、表面的にも内面的にもまさに千差万別であり、その「ありのまま」を受け入れるということがいかに重く、いかに中途半端ではいけないか。その意味を私たちは考えなければならないと思う。
 「ありのまま」という尺度は、もしかすると個人、あるいは施設によって違うのかもしれない。しかし、その 「ありのまま」を受け入れるこちらのまなざしや態勢が、その後の関係を大きく左右する。その上で、関係を築くことができた時、そこには必ず何かが見える。今まで経験したことのない関係の奥深さ、自分の内面に沸き上がる未知の感情、そういうものが見えてくる。それらを今後も試行錯誤しながら、追求していきたいと思う。 
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一瞬の重み ★及川貴樹【2006年3月号】

 グループホームに、2月7日、3月1日と新しい方が入居された。2月7日は他の利用者の方の誕生会も重なっていたこともあり、「どたばたしないだろうか?」「やり残した準備はないだろうか?」と、いつもより緊張しながら迎えた。結局、緊張したかいもあってか、誕生会は成功に終わり、新しい方の入居も思っていたよりスムーズに行うことが出来た。
 それにしても、新しい入居者の方を迎える時は、何回経験しても、慣れるものではなく、常に激しい緊張感と共に迎えることになる。それは「どんな人なんだろう」とか「どんな出会いになるんだろう」という期待感や不安感だけでなく、「これから始まる出会いの一瞬、一瞬はもう二度と来ないものであり、だからこそ、絶対におざなりにはできない」というプレッシャーからくるものだ。何も知らされないで来る人、家に帰れるものだと思ってくる人、病院だと思ってくる人、色々な想いや、過去、生き方を背負ってきた方々が、ここで新しい生活を始めていくことになる。その始まりとは、その方にとっての始まりであると同時に、グループホームにとって、また、自分にとっての新たな一歩でもある。「そんな始まりの一瞬、一瞬を大切にしていきたい」そんな想いからくる緊張感を忘れることなく、一日、一日を大切に過ごしたいと改めて感じた。
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誕生日を迎えて ★板垣由紀子【2006年3月号】

 グループホームでは、先月Yさんが85歳の誕生日を迎えた。
 2年前、体調を崩し入院してから、車いすの生活を送っておられる。これまで家族を招いて、外出を楽しみながら誕生日をお祝いしてきたが、外出することで体にかかる負担も考え、今回はグループホーム内でお祝いすることになった。一時期、食が細くなり、体重も減り、「この夏の暑さを乗り越えられるだろうか?」「冬の寒さで風邪など引かないだろうか?」と心配される中、元気に迎えた誕生日、スタッフの思いもひとしおである。大きな手作りのケーキに並んだ85本のろうそくに人生を感じる。当日は、スタッフ総出で、隣接するグループホーム第2、デイサービスからもお客様を迎え、和室を紅白の幕で飾り、華やかに会が進んだ。紅白の幕にスタッフのお祝いの気持ちを込め、一人一人舞台に立った。 
“華やか”でもイベントに終わらない何かがそこにあった。それは、85本のろうそくに見るYさんの人生を思う気持ちが、今まで一緒に過ごした日々が、そこに凝縮されているからではないだろうか。誕生会の締めくくりには、普段遠慮がちなYさんが、マイクを向けられて、十八番の『青空の歌』を、止まることなく歌い上げてくれた。
  年に一回、みんなに同じように訪れる誕生日は、個々人それぞれに一度しかない記念日である。その記念日、一回一回 を大切に迎えていきたいと思う。             
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ワークを考えるA ★宮澤健【2006年3月号】


 これまでも事業所間のやりとりに不可解な動きはあった。たとえば引きこもりのケースだったが、朝いきなり、ケースのヘルパーさんから電話があり、「今日そちらに行きますからよろしく。いつ行っても良いことになってるはずですが」という。電話を受けた施設長もなんのことやらわからず、しかもかなりの困難ケースと認識していたのでおどろいた。
 施設長は、私が話も通さず勝手に引き受けたのではないかと疑い、「どうなっているのか」と怒りの電話が私にきた。私も、保健センターから相談は受けてはいたが、本人が一人で来ることなどあり得ず、外出に誘うことさえ困難だろうと認識していた。センターにあわてて電話をかけると、担当者も驚いて「とんでもない」ということだった。しかもその後は、どうなったのか、センターの担当者からも、事業所からも連絡もなく、当然、ケース本人が来ることもなく、なにもなかったかのように音沙汰はなかった。サービスが通じずケースが困難化してくる中で、追いつめられ翻弄される関係者の姿を想像するが、ケース検討会議は行われず、隠しごとをするような怪しい動きがめだった。
 この地域(花巻)で度々見かける、問題を明らかにしようとせず、連携もしないやりとりは私にとって不思議な光景である。ケースに対して、誰がどう考え、どうしようとしているのか、困難なケースほど、見えなくなり、ウラでひそひそ話のような空気になり怪しい動きになっていく。ケース会議に上げようとすると「はやまらない方がいい」などといわれたこともある。面倒な事には関わらずフタをしようとする風土なのだろうか。
現場では、これまで関わっていたケースが困難になっていく場合もあるし、最初から難しいケースとして担当しなければならない場合もある。しかし困難なケースほど、あとから振り返ると、現場のスタッフとして鍛えられたと実感する場合が多い。困難と思われるケースを「引き受ける」には、それなりの覚悟が求められる。それも闇雲な覚悟ではなく、専門家として用意周到な覚悟が必要だろうと思う。
 サービスの提供は、一つの結果であり、表面の事柄であって、一つのサービス提供のウラにはかなりのワークがなされているのが本当だろうと思う。ところが本体のワークがなく、表面のサービスだけが一人歩きしている場合が多いように感じる。
 ケアプランで要求されているのはサービス提供を単に計ることではなく、ケースに対するワークのありよう全体が問われていると考えたい。福祉の場合、困難ケースはいろいろな事情でサービス提供が簡単にできなくなっている場合がほとんどである。そういうケースに出会ったとき、たちまち、目をつむってフタをする専門家では困る。手に負えないケースまで無理をして抱えろと言うのではない。ワークの概念を持って向かい、簡単に逃げたり、ごまかしたりしないで、幅広い対応と、多角的な視点をもったアプローチが可能になれば、そこから思いがけない展開が起こって、新たな生き方が始まったりすることもあるのではないかと思う。
 困難ケースの周囲で見られた、関係機関の怪しい動きは不気味に映る。下手にかっこつけずに、「まいった。どうしようもない」と関係者が本音で語り合うところから新しいケースワークの世界が始まるはずである。
そこに前述のAさんの件で民生委員さんが怒りをぶちまける動きをしていただいたのが、きっかけになった。ウラで動くのではなく、ともかく「関係者が集まって悩みませんか」と伝えられた。やっと念願かなってケース会議に至ったというのが私の実感だった。
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