これまでも事業所間のやりとりに不可解な動きはあった。たとえば引きこもりのケースだったが、朝いきなり、ケースのヘルパーさんから電話があり、「今日そちらに行きますからよろしく。いつ行っても良いことになってるはずですが」という。電話を受けた施設長もなんのことやらわからず、しかもかなりの困難ケースと認識していたのでおどろいた。
施設長は、私が話も通さず勝手に引き受けたのではないかと疑い、「どうなっているのか」と怒りの電話が私にきた。私も、保健センターから相談は受けてはいたが、本人が一人で来ることなどあり得ず、外出に誘うことさえ困難だろうと認識していた。センターにあわてて電話をかけると、担当者も驚いて「とんでもない」ということだった。しかもその後は、どうなったのか、センターの担当者からも、事業所からも連絡もなく、当然、ケース本人が来ることもなく、なにもなかったかのように音沙汰はなかった。サービスが通じずケースが困難化してくる中で、追いつめられ翻弄される関係者の姿を想像するが、ケース検討会議は行われず、隠しごとをするような怪しい動きがめだった。
この地域(花巻)で度々見かける、問題を明らかにしようとせず、連携もしないやりとりは私にとって不思議な光景である。ケースに対して、誰がどう考え、どうしようとしているのか、困難なケースほど、見えなくなり、ウラでひそひそ話のような空気になり怪しい動きになっていく。ケース会議に上げようとすると「はやまらない方がいい」などといわれたこともある。面倒な事には関わらずフタをしようとする風土なのだろうか。
現場では、これまで関わっていたケースが困難になっていく場合もあるし、最初から難しいケースとして担当しなければならない場合もある。しかし困難なケースほど、あとから振り返ると、現場のスタッフとして鍛えられたと実感する場合が多い。困難と思われるケースを「引き受ける」には、それなりの覚悟が求められる。それも闇雲な覚悟ではなく、専門家として用意周到な覚悟が必要だろうと思う。
サービスの提供は、一つの結果であり、表面の事柄であって、一つのサービス提供のウラにはかなりのワークがなされているのが本当だろうと思う。ところが本体のワークがなく、表面のサービスだけが一人歩きしている場合が多いように感じる。
ケアプランで要求されているのはサービス提供を単に計ることではなく、ケースに対するワークのありよう全体が問われていると考えたい。福祉の場合、困難ケースはいろいろな事情でサービス提供が簡単にできなくなっている場合がほとんどである。そういうケースに出会ったとき、たちまち、目をつむってフタをする専門家では困る。手に負えないケースまで無理をして抱えろと言うのではない。ワークの概念を持って向かい、簡単に逃げたり、ごまかしたりしないで、幅広い対応と、多角的な視点をもったアプローチが可能になれば、そこから思いがけない展開が起こって、新たな生き方が始まったりすることもあるのではないかと思う。
困難ケースの周囲で見られた、関係機関の怪しい動きは不気味に映る。下手にかっこつけずに、「まいった。どうしようもない」と関係者が本音で語り合うところから新しいケースワークの世界が始まるはずである。
そこに前述のAさんの件で民生委員さんが怒りをぶちまける動きをしていただいたのが、きっかけになった。ウラで動くのではなく、ともかく「関係者が集まって悩みませんか」と伝えられた。やっと念願かなってケース会議に至ったというのが私の実感だった。
posted by あまのがわ通信 at 00:00|
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