2006年02月15日

「個」と「つながり」★清水【2006年2月号】

 「〜の所へはもう行ったか?」「〜はよく知ってるよ」「〜は元気にしてるんだかねぇ…」これらは、訪問で伺ったある方とのやりとりの一つである。
 やりとりとしては、いつものごく普通のやりとり。だが、私には何か不思議に思える瞬間があった。話をうかがっていると、いつの間にかその方とは別な方の名前が出て話が盛り上がり、さらにはその心配までしている。今、私たちはこれほど「つながり」を実感することがあるだろうか。
 おそらく、昔は現在と比べ「つながり」が強かったのではないかと思う。私は今誰かとつながれているだろうか。私の周りには誰がいるのだろう。家族、友人、職場の同僚、地域の人々…。その人たちとどれだけつながれているのか、そう考えると少し不安な気持ちになる。
 関係作りを苦手とする若い世代。私もその一人であると思う。「個」はあくまで「個」であり、良いときはそれで良いが、別の場面では何かと不都合が生じる。「自分一人で何とか…」とは思いながら、どこかで誰かを必要としている。そして、いざ関係を作ろうとすると、四苦八苦する。相変わらず、私自身関係作りはまだまだ未熟であり、そこで悩んでいる。
 私はこの関係が希薄な世の中、今後しっかり「つながり」を持ちながら生きていけるだろうか。自分のことだけではなく、誰かのことを心配したり、想ったりしながら歳を重ねていけるだろうか。そんなことをふと感じた。今後も、自分自身に問いを投げかけていこうと思う。  
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過ごした時間、支えてくれるスタッフ ★渡辺【2006年2月号】

 私はMさんの退所が決まってから、気にかけていたことがあった。それはMさんの居室を片付けるということ。運よく?Mさんの部屋はショートスティの方が利用するということで、私はなかなか片付けるタイミングをそれまで作れないでいた。というよりもむしろ、どこかで私自身が、タイミングがないように仕向けていたのかもしれない。
 いつか時間がある時に…。そう思いながら半月。新しく入所される方が決まり、いよいよ片付けなければな…と思いながらも、頭の中は別な入居者の誕生会のことでいっぱいだった。誕生会の前、私は次の日から休みということもあり、その前に誕生会の準備を出来る限りしようと、進めていた。ひと区切りがついて帰ろうとしたその時、「Mさんの部屋…」とあるスタッフ。私には何が言いたいのかすぐに分かった。
 私はそれから片付けを始めた。きっとこの位は必要だろうと4つのダンボール箱を用意した。そして、そっとMさんの箪笥をひいた。すごくドキドキした。久しぶりに開いた箪笥にはみっちりと洋服が入っていた。それを私は一枚一枚手にとっては箱につめた。その一枚一枚とは初めて私がMさんに薦めた洋服や、よくかけていた割烹着、夏でも必ず着ていたセーター(寒がりなので)、履いてもすぐ脱いでしまうスカート、重ね着をするには調度いいだふだふのセーターなど思い出深いものばかり。それから、洋服も着物のように一枚一枚丁寧にたたんで、間にティッシュなどをはさみながらしまっていたMさん。ある時、私も同じように衣服をしまったところ、「俺の箪笥をかましたのは誰だ!?」とすぐにばれてしまったことがあったことや、使い古しのカレンダーや服薬後の薬の袋までも綺麗に伸ばして、いつか使える日が来るまでと箪笥に丁寧にしまっていたことなども思い出した。さらには、総理大臣の小泉さんが選挙の応援演説のために来県し、挨拶に来たときにもらった日の丸の旗が出てきたりと、私の目の前にあるものはMさんらしさがたくさんつまった箪笥だった。
いざ片付けが終わると、箪笥の中身はダンボール箱2つに収まってしまった。物は思ったよりも少なかったけれど、Mさん、そして私の思い、Mさんと私が過ごした時が沢山つまった箪笥であったことを実感した。胸が苦しくなった。
 あの時、帰る前にあのスタッフが一言私に問いかけてくれなければ、私はまたごまかそうとしていたのかもしれない。片付けをして気がついた。私がこの自分の手で、片付けをすることが出来てよかった。次私が出勤した時に、もし何もかもが片付いた状態であったら、私はおそらく悔やんでいただろう。
 たかが片付け。されど片付け。始まりがあれば終わりがあるように、準備があれば片付けもある。出会いがあれば別れもある。この片付けで私は自分自身の中の何かを整理できたように思う。心の中の何かを…。
 そのことを察し、そっと気づかせ、感じ、支えてくれるチームがある。言葉だけではない支えがあることは、私にとってとてもありがたいことである。私とMさんの関係を見守ってくれる人がいたということ。そしてこれからも見ていてくれるだろうと思える人が仲間であることを思うと、私は利用者だけではなく、スタッフとの出会いに感謝の気持ちでいっぱいである。     
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つれづれみなみ如月 ★高橋 【2006年2月号】

 花巻市では2月頭に市長選、県議選が行われ、連日演説が響き渡りました。さすがに病院の周りでは自粛した面もあるようですが、それでも選挙ムードはみなみにも伝わり、誰に入れるかを話し合う一幕も見られました。
 数人と共に期日前投票に行ったのですが、以前の衆院選の小沢一郎のようなインパクトがないためか、記入場所から「誰の名前書いたらいいんだ?」と問われて当惑しました。
 この2月で、グループホームみなみが始まって一年が経ちました。全く手探りのスタートでしたが、いつのまにか一年を歩みきっていたようです。これからの一年には、いったい何が待っているのでしょうか。これからも、ひとつひとつ手探りの日々が続いてゆきます。
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平成18年 豆まき 〜 鬼退治 〜 ★戸来美貴子【2006年2月号】

 GH1では、節分のおやつに恵方巻きカステラを作った。「今日カステラ作るよ。」とヤスさんに話すと「覚えなくてもいいんだもんね」と一言。「・・・うん・・本見て作るから」と言う。「今日節分で豆まきするよ」と言うと「雨ふってらんでねっか?土に入る前に芽っこでるんでねっか。豆。」とヤスさん。豆まき・・・???種まき??
 午後、スタッフの佐藤が赤鬼になって登場。「鬼は外、福は内」の声。鬼に近づいていき豆を投げるだけではなくグウでたたこうとする人、「鬼は外」と豆を後ろの方に投げる人、鬼が背を向けると「鬼は外!」と思いっきり鬼の背中に向かって豆を力強く投げる人、ゆっくり豆を手に取り優しく投げる人、手が痛くても鬼に豆を命中させる人、投げるより食べる方がいい人、みんなをみて笑っている人、こたつに横になっていたが和室に正座して見ている人とそれぞれが豆まきの時間を過ごした。
食べられるかな?
 豆まき後、南南東の方を見て恵方巻きカステラを食べ、終わりかな・・・と思っていた頃、好子さんが「ちょっと撮って〜」と部屋から来た。なななんと、耳にはひょうたんが、両方についていた。目に入った瞬間、思わず大爆笑してしまった。「お面ある?」と好子さん。てっきり福の神だと思って、おたふくのお面はないな・・・と思っていたが、鬼のお面を出すと「これこれ」と顔に付けて、鬼に変身。カメラを向けると手も鬼の手の様にし、ポーズをとってくれる。きわめつけは・・・「鬼の目玉ぶっつぶせ!」と自分の目に豆を投げる動作をして、鬼を退治していた。自分の中の鬼退治??「鬼の目玉ぶっつぶせ!」の時の好子さんの目、クリクリしていてかわいらしかった。
 好子さんが鬼になるとは思ってなかった。何かをやってくれる人だなと思った。芸達者??私の中にも鬼はいるかな?いるよな。私は私の鬼を退治出来るだろうか?何をつけて鬼退治へ行こうかな。          
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「ワーク」を考える@ ★宮澤健【2006年2月号】

 地域ケア会議をこの2年間継続してきた。始まりは、奥さんと老夫婦二人暮らしの認知症のAさんだった。近所の人から「夜、出歩いている」との電話が民生委員宅に入った。民生委員は関係機関に相談をした。「夜出歩く認知症のAさんをどうすればいいか」との問いに、「うちは5時までで終わりです」「特にサービスはありません」との冷たい官僚的な答えがあちこちから帰ってきたので腹立たしくなった上に困り果てた。
 そのうち「銀河さんは認知症の専門なんだからあそこに言えばいいんじゃないの」といわれ、里に相談にみえた。「サービスはないが、緊急の場合はデイサービスのホールで過ごしてもらいましょう」と、とりあえず私とデイの主任の携帯の番号を伝えた。
 その後、市からも問い合わせがあったが、詳しい事情もわからず、他の施設のデイサービスを利用している方なので、何はともあれ、関係者が集まりケース会議を開くことが大事だと提案した。地域には介護サービスのワクを越えた様々な事が起こってくる。こういうときできるだけ早く、ケース会議を開催していくことで相当事情は変わってくる。
 しかし届いたのは噂で、「銀河で引き受けるそうだ」というFAXが流れたという。その人に会ったこともない段階である。しかも長年デイサービスを利用してきたAさんにはケアマネージャーもついているはずだが、まだ誰とも何の打ち合わせもしていない。もっと本人の情報を知りたい。いきなりの怪文書に驚いた。
 ともかくケース会議を開いてもらいたいと訴え、関係者一同10名も集まる立派なケース会議になった。このケースの場合、確かにサービス提供の視点では、介護者である旦那さんは、酒を飲んで夕方から寝てしまい、認知症のAさんが夜一人で道を歩いたり、線路を渡ったりしているのをどうするのかという話で単純には解決できないかもしれない。
 それでも民生委員、ヘルパー、ケアマネージャー、デイサービス担当者などみんなで話してみると、問題が立体化して見えてくる。中核的な問題と、周辺の問題と本質的なテーマとに問題も整理整頓される。いざという時の対応も連携の中でイメージされる
結局、ヘルパーの訪問時間を昼から夜の19時にずらすことで、安全確保上はほとんど問題はないことが解っていく。騒ぐほどのことではなかったのだが、騒ぎになったおかげで、ケース会議がもたれ、ケースが新たな器に抱えられるイメージができたことが大きな変化だった。つまりその場しのぎの対応ではなく、このケースを今後に渡って支え続ける器が形成され「ワーク」が始まったところに、意味があったと思う。
 サービスの前にワークが存在することが大切であって、私は対処療法的な一件落着を「イッチョ上がり的対応」と戒めているが、解決を性急に求めすぎると、何か解決したように見えても、実はごまかしにすぎず、後で困難事例に発展する場合もある。
 我々の仕事は対人間の仕事であってモノを扱うのとは本質的な違いがある。我々はあまりにモノの扱いにばかりなれすぎてしまって、人間に対してもそのやり方でしか対応ができなくなっている。人間に接するとき「ワーク」という概念が必須だと考えている。
 そんな事情で集まったこのケース会議を私は継続したかった。その存在自体に地域福祉に取っての大きな意義を感じたからだ。これから数回に渡ってワークの意味を考えながら2年間の地域ケア会議の報告を連載していきたい。
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