2006年01月15日

形のない「こころ」を動かす ★清水【2006年1月号】

 表面上のやりとりだけでは、何も残らない…。在介の業務の中で、そうふと最近感じることがあった。初めて感じたことではなく、今までにもそう感じたことはあったはずだ。ただ、その感じを私はどこか忘れてしまっていたように思う。
 ある方との関わりの中で、一つの決断をする時に立ち会う。私が思っている以上に、その方の中では大きな決断のようだった。関わっていて、その方がその決断の前にいろいろな思いを抱えているのがわかった。不安や家族への思いなど、本当にいろいろだった。
 だが、私たちはその一つ一つを感じ取り、それに対しても関わっていかなくてはならない。しかし、「こころ」とは形がない。本当に繊細で、かついろいろ変化する。形のないものに対して、どう関わっていくか。そして、どう動かしていくか。表面上のやりとりだけでは、やはり何も残らない。深い部分での関わりが必要で、時にはこちらが今まで見せたことのないような厳しい姿を見せることも必要なのかと思う。その真剣なまなざしや姿勢が通じたとき、それこそ形のない新たな何かが、お互いの「こころ」に深く刻まれる。そしてその時、しっかり私も動いているのだということが実感できる。
 在介の業務の中だけでなく、こういうことは日々いろいろな所で起こっているのだと思う。そういう部分を大切にしながら、人間としてまた大きく成長することが出来たらと思う。  
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18年度のワークステージ ★ワークステージ松坂卓【2006年1月号】

 国会で自立支援法が成立し、授産施設は大きな転換を求められています。福祉ではなく、一企業としてどうあるべきかというところを突き詰めて行かなくてはなりません。食費の自己負担の開始や1割負担、一人当たりの単価の見直しなど、その他にもまだ具体的ではない部分も多くあり、その全容ははっきりとは見えていませんが、依然不安は多く残っています。
 生き残っていくためには、危機感を持って物事に当たることが必要でしょう。そして、その危機感をいかに自分の身に迫った事として感じられるかが大事になってきます。あらゆる物があふれ、お金を出せば何でも手には入り、餓えも知らずに生きいている現代人には、危機感が欠けているのだと思います。物事をリアルに、生きたものとして感じられない原因はそこにあるのではないでしょうか。里で働くことは、そのリアルを感じることでもあり、それが私という人間を目覚めさせる事にもつながってきます。
 18年度は、自らの人間としての新たな目覚めと共に、新しい生きる力を持ったワークステージを作っていきたいと思っています。     
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「字」に込められた想い ★及川貴樹【2006年1月号】

 先日、あるグループホーム入居者の方に娘さんから年賀状が届いた。返事を書こうと、その利用者の方が娘さんの住所を白紙の年賀状に書いていた。その二枚の年賀状を見ながら「親子だなぁ」と感じた。二人の字がどこかしら似ていたのである。娘さんの年賀状は行書で書かれていたため、わかりやすいようにと思い、楷書で書いた私の字などには見向きもせず、娘さんの達筆な字をすらすらと読み、書いていく。そこには遠く離れている距離を埋めるかのように、字で会話する二人の姿があるようだった。
 私は以前、くずして書いた母の字に憧れたことがあった。暗号のような字で私にはほとんど読めなかったが、そんな“大人の字”に憧れてわざとくずして書いたこともあった。私が書いた字は“大人の字”というよりはまるで日本語を知らない外国人が書いたようなひどい字だったが…。
 今は人に見せるような書類を書くときはパソコンを使うことが多く、気合いを入れて字を書く機会はめっきり減った。そのせいか“私の字”は一定せず、その日の体調や気分で毎回違う字になってしまう。今はパソコンがあるからと気にもしていなかったが、年賀状に書かれたその方の字を見ていたら、その字には文面通りの意味以上のものが込められたいるような気がし、自分の字を見つめてみようという気になった。       
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グループホームの初詣 ★板垣由紀子【2006年1月号】

 平成18年の幕開け、年末の大雪がうそのように青空が広がった。今年もグループホームでは、総勢17名、車3台で石鳥谷の熊野神社へ初詣に出掛けてきました。
 神社には休みのスタッフも『銀河の里の初詣をしなければ一年が始まらない!』とばかりに駆けつけ、「間に合った」と参加。初詣に行くと連絡を受けた理事長も息子の悠太くんと駆けつけ、とてもにぎやかなお参りになりました。
 途中、圧雪によるガタガタした道に「来ねばいがった!」と言っていたKさんも神社に着き、車椅子が用意されると、「ここさ入ればいっか?」と一言。本殿の前に進むと手を合わせ、深々と頭を下げる姿がありました。普段言葉数の少ないTさんも「お願いします…」と手を合わせる。その中に、“安産”を祈るSさんが…。今年は何を産んでくれるのだろうとスタッフの期待も膨らみます。
 こうして無事一年の幕開けとなりました。本年も昨年同様のお付き合いをよろしくお願いいたします。 
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つれづれみなみ 睦月 ★高橋【2006年1月号】

 新年の初め、みなみの利用者が連れ立って近所の諏訪神社に初詣に行きました。世話人さんに後で聞くと、皆さん一年の無病息災や、一部の方は商売繁盛を祈ってきたそうです。寒いのでパスした人もいたそうですが、よい一年の始まりとなったのではないかと思います。
 私は地元へ帰っていたもので数日遅れとなりましたが、先日諏訪神社へ行ってきました。みなみの利用者さんたちが健やかに暮らせますように、それに追加で、私の健康もお祈りしてきました。
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今年の第一歩 ★熊谷【2006年1月号】

 年も越し、また新たな年の到来となりました。昨年の終わりには餅つきや年越しそば作りなど、年を越す支度が着々?とデイでも進み、無事年越しが出来ました。
 初めてのそば打ちでは、周りからの声が様々飛び交う中Mさんは「大丈夫だ。大丈夫だから!」と力強く声を掛けてくれくれたりと、とても頼もしくその言葉にホッと出来る私がそこにはいました。何気ない一言でも、心に響くような重さやその一言で気持ちが動かされる等大きな存在でもあるように思います。
 昨年は利用者の方から大いに助けられ、教わりながらの年でした。昨年を振り替えりつつ、今年も一年一歩ずつ歩んでいきたいと思います。
 新年の幕開けとして書き初めを行いました。代筆ではありましたが、Tさんに好きな言葉を聞いたところ“大好き”と言う言葉が返ってきました。輝かしい笑顔、スッと躊躇いもなく出た言葉に、自分らしく、自分の中に芯となる物を見つけなさいと言われたような、そんな想いでした。こうした一年の始まりとなり、また今年も利用者や里に集う方々のいろな表情を見ていきたいと思います。
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クリスマス会 ★牛坂友美【2006年1月号】

 青空と膝までの積雪が印象に残る昨年の12月24日、グループホームとデイサービス合同でクリスマス会をしました。料理とデザートは各部署腕によりをかけて準備した他、今年はワークステージのあかねさんにオリジナルデザートを注文しました。あかねさんの作品は「森の妖精」と「ちょこっとチョコケーキ」というケーキで、会に参加したお子さんが沢山のデザートの中から、「森の妖精」が何より食べたいとケーキが切り分けられるのを待っていたのが印象的でした。食事のあとは、里のスライド写真を眺めながら担当スタッフから利用者へカードとクッキーのプレゼントをしました。感動して泣く方、覚えのない写真に不思議そうにする方、カードをぎゅっとつかんでいる方、反応はさまざまでしたが、普段とは違う飛び切りの笑顔が思い出されます。スタッフと利用者がこれまで一緒に過ごした時間の深み、重みを感じつつ、さらにこれから先、いったいどんな物語が生まれるのだろうか、そんな風に考えていると16分の上映はあっという間でした。
 さらに今年は東和町の星鴉宮さんよりお芝居“セロ弾きのゴーシュ”のクリスマスプレゼントを頂きました。お芝居は約1時間、利用者には長時間の企画で少々心配もありましたが、可愛らしい人形や工夫をこらした場面展開に、皆飽きることなく観劇しました。その様子もそれぞれ(ホシガラスの紹介で、Kさんの飛び入りの歌があったり)でしたが、全体としては、お芝居は役者とその場の観客で作るというのか、何ともいえない一体感を感じました。利用者とスタッフの沢山の表情や声、また皆が一体となる時間や空間、そういったものをこのクリスマス会で共有できたことを嬉しく思います。      
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これからも手探りで ★ 宮澤健【2006年1月号】

 里も6年目を迎えた。右も左もわからないまま無我夢中の手探りの5年間だったが、実に濃密で意義深い時を過ごすことができた。感謝しつつ次の5年に向かいたいと思う。
 先日、全国グループホーム協会の会合に参加したが、全国的に、グループホームの質が深刻な状態とのことだった。この5年で全国7000カ所を越えたグループホームはまさに急増で、質の悪い業者が大量に混ざってしまったということらしい。
 しかし、質の問題は制度導入当初から取りざたされていたことだし、過渡期というものは、質よりもまず数だから、現段階では致し方ないところと見ていいのではないかと私は思う。大事なのは、次のステージとして、今後グループホームケアがどういう方向に行くのか、どういう成果を出してくるのか、マテリアルがどう積み上げられていくのかが問われる時期に入ったと見るべきであろう。
 問題なのは、箱物を作れば終わりという、日本の福祉の伝統的な感覚である。どうも次のステージはやってきそうもない空気に満ちている。長い間の「隔離、収容」の観念からどうしても解放されていない、暗い宿命のような体質を関係者、関係機関が持っている。人間味を感じさせない代表のような、役人や福祉関係者などが「質」を論じてみても、何かが生まれるとは思えない。グループホームにとっての質はまさに「こころ」に関するありようが問われる世界である。ところが現状は「たましいの健康」のためになるべく関わりたくない種類の人間が、その質を管理しようとする立場にあることも実態だ。
 自分自身の体質を顧みることもなく、機械的に「質」が悪いのをどうすればいいのかなどと問題をたてて「対策」を考えても始まらない。ことに「人のこころ」に関する資質を求められるグループホームにおいてはdoing(何かをする)ではなく、こちら側のbeing(どうあるか)が問われると私は訴えるのだが、理解されないばかりか煙たがられてしまう。
 「自分がどうあるか」などということは、極力避けたいらしい。自分を切り離して客観的に「対策」としている方が気楽なことはわかる。しかしそこを切り替えないと「質」の問題には本質的に迫っていけないはずである。それに気がつかないのか、あるいは気がつくことに抵抗があるのか、ともかく関係者の開かれない「心の頑なさ」に驚かされる。カルマ(宿業)は深いようだ。
 他人のカルマはともかく、doingに傾くと、起こってきたこと(happen)を拾えない。どう「扱ってやろうか」とばかり意識していると「起こって来ること」に気がつかない非を犯す。身体介護の作業を主とする現場とは違い、利用者の行動や言葉、表情などに重要なテーマを捉え、そこから関わりが始まっていくグループホームの現場では「起こってくること」は見逃してはならない最重要な事柄である。ケアプランで初めから解るようなふりをして、介護計画の通り成果が出たかどうか評価しろなどと、工場の品質管理のようなことが大手を振ってまかり通るのも「人間のこころ」からみればかなり的外れのお笑い草と思えて仕方がない。
 「見立て」はしっかりと持つのは基本である。しかしその「見立て」は必ずと言っていいほど覆される運命にある。この「覆される」ところがhappenなのだ。そこに人間の生命の醍醐味がある。認知症にはそういう人間の威力がより一層充ち満ちている。それを見つめる「まなざし」を育みながら、これからも無我夢中の手探りを続けていきたいと思う。
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