里も6年目を迎えた。右も左もわからないまま無我夢中の手探りの5年間だったが、実に濃密で意義深い時を過ごすことができた。感謝しつつ次の5年に向かいたいと思う。
先日、全国グループホーム協会の会合に参加したが、全国的に、グループホームの質が深刻な状態とのことだった。この5年で全国7000カ所を越えたグループホームはまさに急増で、質の悪い業者が大量に混ざってしまったということらしい。
しかし、質の問題は制度導入当初から取りざたされていたことだし、過渡期というものは、質よりもまず数だから、現段階では致し方ないところと見ていいのではないかと私は思う。大事なのは、次のステージとして、今後グループホームケアがどういう方向に行くのか、どういう成果を出してくるのか、マテリアルがどう積み上げられていくのかが問われる時期に入ったと見るべきであろう。
問題なのは、箱物を作れば終わりという、日本の福祉の伝統的な感覚である。どうも次のステージはやってきそうもない空気に満ちている。長い間の「隔離、収容」の観念からどうしても解放されていない、暗い宿命のような体質を関係者、関係機関が持っている。人間味を感じさせない代表のような、役人や福祉関係者などが「質」を論じてみても、何かが生まれるとは思えない。グループホームにとっての質はまさに「こころ」に関するありようが問われる世界である。ところが現状は「たましいの健康」のためになるべく関わりたくない種類の人間が、その質を管理しようとする立場にあることも実態だ。
自分自身の体質を顧みることもなく、機械的に「質」が悪いのをどうすればいいのかなどと問題をたてて「対策」を考えても始まらない。ことに「人のこころ」に関する資質を求められるグループホームにおいてはdoing(何かをする)ではなく、こちら側のbeing(どうあるか)が問われると私は訴えるのだが、理解されないばかりか煙たがられてしまう。
「自分がどうあるか」などということは、極力避けたいらしい。自分を切り離して客観的に「対策」としている方が気楽なことはわかる。しかしそこを切り替えないと「質」の問題には本質的に迫っていけないはずである。それに気がつかないのか、あるいは気がつくことに抵抗があるのか、ともかく関係者の開かれない「心の頑なさ」に驚かされる。カルマ(宿業)は深いようだ。
他人のカルマはともかく、doingに傾くと、起こってきたこと(happen)を拾えない。どう「扱ってやろうか」とばかり意識していると「起こって来ること」に気がつかない非を犯す。身体介護の作業を主とする現場とは違い、利用者の行動や言葉、表情などに重要なテーマを捉え、そこから関わりが始まっていくグループホームの現場では「起こってくること」は見逃してはならない最重要な事柄である。ケアプランで初めから解るようなふりをして、介護計画の通り成果が出たかどうか評価しろなどと、工場の品質管理のようなことが大手を振ってまかり通るのも「人間のこころ」からみればかなり的外れのお笑い草と思えて仕方がない。
「見立て」はしっかりと持つのは基本である。しかしその「見立て」は必ずと言っていいほど覆される運命にある。この「覆される」ところがhappenなのだ。そこに人間の生命の醍醐味がある。認知症にはそういう人間の威力がより一層充ち満ちている。それを見つめる「まなざし」を育みながら、これからも無我夢中の手探りを続けていきたいと思う。
posted by あまのがわ通信 at 00:00|
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