2005年04月15日

グループホーム「みつさんち」いよいよスタート ★戸来【2005年4月号】

 通信32号で紹介していましたが、今年度よりグループホーム「みつさんち」がスタートしました。入居者は5名で日中はワークステージで働き、夕方には「みつさんち」に帰りそれぞれ思い思いの生活をしています。近所への挨拶回りもし幸田地区の新しい顔となっています。
 先日ワークステージで100個近いお弁当の注文を受け、早速入居者は早出をして盛り付けをしたり、日曜日にはハウスへ苗箱を並べにでたり、今まで里のスタッフがカバーしていた時間帯に「みつさんち」の入居者が手伝ってくれる様になりました。振り返れば一昨年、去年と年々違う光景があって、以前苗箱運びを手伝い息を切らしていたSさんも、この日は第2のテラスから悠々と眺めて、走り回る私たちを「遊んでだようだじゃ!」と笑っています。やはり今年も新しい力が銀河の里の風景を創り出しているようです。 
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徒然南 ★高橋【2005年4月号】

  春かと思えば翌日には雪が降るという天気も終わり、ようやく春だと信じられる季節になりました。
 先月は、利用者2名の誕生会がありました。普段より賑やかになると思いきや、普段出ないご馳走にすっかり食べふけってしまい、かえって言葉少なになる場面もありました。ホールのケーキにロウソクを立てて、ハッピーバースデーを歌って火を吹き消す・・・私にとっても、とても久しぶりの光景でした。こういった1ページ1ページも、みなみで「生活」が息づいている事だと感じます。
 今月は、利用者みんなで花見に行きたいと思っています。北国ですのでいつ桜が咲くかは分かりませんが、来月のあまのがわ通信には、花見の席でのことを書ければと思います。 
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いよいよ始まる水稲準備 ★ワークステージ松坂卓【2005年4月号】

 今年も水稲の種まきの時期がやってきました。今年は、新メンバー9人を迎えて、総勢29名の大所帯となり、にぎやかな日々を送っています。4月7日には第1回目の水稲の種まきをしました。苗箱をセットする人、籾を入れる人、覆土を入れる人、水槽に作りためた消毒液を見る人、種まきが完了した苗箱を発芽機に入れる人など、多くの利用者が一つの種まきという作業を完成させようと取り組みました。その頑張りのおかげで、第1回目の種まきを無事に乗り切ることが出来ました。今度は毎日の育苗管理が始まります。苗は毎日少しづつ成長していて見ていると「生」を感じます。
 今年の10月頃には、また、おいしい新米をお届けしようと思っているので是非楽しみにしていてください。
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歩むという事 ★及川【2005年4月号】

 今年度から、部署が変わりGH2で毎日を過ごすこととなった。自分にとっては、銀河の里に入って初めて過ごした場所でもあり、里帰りに近い感覚でもある。福祉や介護というものを全く知らずに、ここに来た自分、 「少しは福祉や介護が分かってきたのかなぁ」という想いと、「そういう言葉にとらわれない一人の人として存在していたい。」という想いが交錯します。岩手に来てから2年8ヶ月、銀河の里に入って、2年5ヶ月、自分はどのような道を、どのように歩んできたのだろうか?GH2では、雪どけが始まり、ばっけなどの春の息吹が芽を出してくると共に、例年通りそれを待っていたかのように外を歩きはじめる利用者の方が、増えてきました。「家に帰る為」、「散歩」、「健康のため」理由も様々なら、歩き方も様々であり、ただ黙々と前に向かって歩く人、犬や近所の人たちに手を振りながら歩く人など、千差万別である。そういう歩きに、どう自分が寄り添っていけるかは、いつも自分に大きな何かを投げかけてくれる。どうしても一緒に歩きたいと思う場合もあるし、どうしても一緒に歩けない場合もある。その歩きを見ることさえしてはいけないのでは、と思う場合もある。何故、そこまで歩くということが自分にいろいろな感情を動かさせるのだろうか。自分が見ているのは、ただ単に歩くという行為だけではなく、その人の歩みなのではないだろうかと思う。それはただ単に、性格が歩き方に表れるとかそういう単純なものではなく、その人の歩んできた道、積み重ねてきた何かが、今歩いている道筋に集約されているようなそんな感覚になる。だから、簡単にはみれないし、一緒に歩くとなるとそれなりの覚悟も必要である。先日、利用者の方と2時間一緒に歩き続けた。日頃の不摂生もたたり、お互いふらふらになりながら帰ってきたのだが、そこには大きな充実感もあった。それは2時間の距離を歩き終えたという充実感ではなく、自分の歩みと、利用者の方の歩みが少しではあるが交わったという感覚が産んだ充実感ではないかと思う。そんな充実感をこれからももっとたくさん味わっていく事が、これからの自分の歩みを、かたちづくっていくのではないかと、本当に思う。 
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制度と内的世界 ★宮澤健【2005年4月号】

 銀河の里も開設して5年目に入った。私自身にとってこの4年間は濃密な時間であった。開設前9年の農業の時代も里の構想や準備に格闘し、かなり濃厚な時間を過ごしたとは思う。しかし利用者との出会いは濃密の内容の質が違う。時間は過ぎ去ってしまえばあっという間なのだが、利用者との出会い、スタッフと利用者の関係のなかで起こってきたこと、動いたことは量をこえて、重さ、かけがえのなさなどその質に圧倒される。振り返っても「まだ4年しか経ってないんだっけ」と感慨深い。
 それは大変とか、辛いとはかけ離れた感覚である。「ありがたい」いうのが一番近いかもしれない。わくわくするし、緊張もするし、頭も使うし、こころのエネルギーもいっぱい使っているはずである。スタッフ共々全身で生きた日々であったように思う。
 スタッフも「たいへんですね」と声をかけられると、「いやそういうんじゃないんです・・・」などと反応しているから、私とあまりかわらない感じだと思う。「大変じゃなくて濃密なんです」といえば近いのだが、それでは相手には伝わらないだろう。言葉は曖昧になり語尾が消える。里は福祉制度を運営しているのではなく、世界をつくっているのだと思う。
 里の世界では世間とは違う時間が流れている。それぞれが十分に実感の持てる、ありがたい時間を過ごさせてもらっているように感じる。これは利用者と出会える現場のありがたさである。いつかはこの内容を世間に伝えて行きたいと思うが、実現はまだ先のことになるだろう。里で起こっていること、自分の関わっていることが何なのか意識し、理解し、言語化し、伝える力は、今はまだ明らかに足りない。今後、感性と共に論理も求められる。
 濃密な時間の正体は、問題として扱わず、ケースとして抱え、引き受けているところにある。里では問題行動という概念がない。徘徊や妄想などの言葉もない。世間とは視点が違う。歩くにせよ語るにせよ、人生の旅の重要な意味があると捉え、それに寄り添い、つき合わせてもらいたいと願う。こうした旅への同行が楽ではないことは明らかであるし、危険も孕んでいるが、それ故に濃密な時間がもたらされる。
里の世界では、我々はそれこそ至福を生きているのかもしれない。しかし一歩世間に出るととたんに苦しい。理解されない。概念が違う。視点が違う。伝えられない。奇異の目で見られる。など散々な目にあってしまう。特に福祉の世界ではこの違和感は厳しい。
 福祉は制度であり、システムである。制度やシステムは論理である。論理には個人のこころや、たましいは入っていけない。故に成熟社会は関係性を喪失する。社会的に感性が必要とされ、個人もそれを希求する時代に、成熟社会は自律的にその成熟を増す方向に動き、感性は抹殺される。社会の成熟の影で大半の人間、特に子ども、若者は傷つきを余儀なくされ、高齢者は排除される。傷つきと排除の表側で、制度としてサービスが提供されると同時に、寂しさ、哀しさが人のこころを覆ってくる。
 中央で高齢者グループホームのマニュアルが発表された。それはそれで効果はあるだろうが、技法や理論が先行するとき、なにかがまたこころやたましいからは遠のく恐れはある。現場では知識はいくらあっても足りないが、同時に我々は利用者からしか学べない。
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