2005年03月15日

編集後記 ★清水【2005年3月号】

 先日、市内を車で走っていると、花束と卒業証書を持った高校生とすれ違い、改めて3月だと感じました。私が大学を卒業したのは3年前…。考古学を学んでいた私は、あの時主に「過去」に目を向け、思いをはせていた。だが、その後「銀河の里」にやって来て、今私は「過去」だけでなく、多少なりとも自分の「未来」を考えている。 そう考えると、こちらに来てから今までの間に、私も卒業に似た段階を経て成長したと言えるのだろうか。ほんの戯言に過ぎないが、そう思いたい自分がここにいる。結局、未だに未熟者なのだが…(笑)それでは次号もよろしくお願いします。
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1年を振り返って… ★ワークステージ松坂卓【2005年3月号】

 月日が経つのは早いもので、私が銀河の里に来て1年が経とうとしています。この1年は忘れることがない1年でした。稲作と畑を通して自然と向き合いう面と、レストランと大葉ハウスの売り上げを目指す現実的な面、利用者と向き合い、自分自身とも向き合う精神的な面を鍛えられる1年でありました。
 しかし、気がついたらもう年度末…という状況で、この1年何をしてきたの
かゆっくり考える暇がないまま、新年度を迎えそうで少々焦っています。
新年度は10人の定員増で、ワークステージは30名の利用者を抱える大きな
組織になり、これまで以上に様々な出来事が待っているのだと感じています。
それを不安というより、楽しみと感じられる自分が居ることに、この1年が
何らかの形で自分の実になったのだと感じることができます。来年度はもう
一度農業を中心にして動く1年になると思います。これまでのことをしっか
りと振り返り、実りある1年にしたいと思っています。
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デイサービス誕生会 ★瓜田【2005年3月号】

 先日、2月生まれの方々の誕生会を開きました。利用者の中に「ワークステージってどんな所だ。一度行ってみたい」という方がいたのもあり、そこで食事会も兼ねた誕生会となりました。
 その時に出された皿盛りランチの豪華さと、誕生会というめでたい雰囲気もあってか、普段は少食な方もほとんど残さずに食べてくれました。皆で「ハッピーバースディ」を歌い、プレゼントを贈ると手を合わせお礼をしてくれる方もいて、こちらの方も嬉しい気持ちになったり、自分の歳を忘れ「89歳ですよ」と教えると「あいや、そんなに生きたか?明日にでもあちらに行く準備しねえとな(笑)」と何故か聞いていて元気が出て来る言葉をくれる人もいます。この誕生会、私の進行の段取りが少々悪く申し訳なく思っていたのですが、皆さんそれぞれが楽しみ、少々の段取りの悪さは吹き飛ばしてくれ、とても賑やかな時間を過ごすことが出来ました。
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ひな壇の重み ★及川【2005年3月号】

 3月3日、DSとGH1合同で、ひな祭り会を開きました。去年からGH1では、理由があってひな壇を飾っていません。それでも手作りの人形などを作って飾ったおり、それはそれで空間を彩ってくれるのですが、やはり本物のひな壇があると皆さん目の色が変わってきます。会では、ひな壇を眺めながら自分の好みの人形を選ぶ人、いつもより大きな声で歌とならない歌を歌う人。いつもはそれを「うるせ」と怒鳴りつけるくせに、気持ちよさそうにリズムをとっている人。久々に踊りを披露する人も現れたりして、やはり日常とは違う何かがそこには、あるのだなぁと感じさせられました。ところで、私はこの間デパートに行き、ひな壇の値段の高さにびっくりしました。それと共に、すごくひな壇に対して重みを感じました。別にその値段の高さに重みを感じたわけではなく、それを娘に揃えてあげたときの親の想いがつまっており、しかもそれが代々引き継がれているとしたら、いろいろな想いが人形一つ一つに、詰められているような感じがしたからです。そう想うと、日常とは、違う何かを創り出すのも何となく分かる気がします。利用者の方々は、それぞれどんな想いでひな壇を眺めていたのでしょうか。
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白鳥ドライブで感じること ★及川【2005年3月号】

 先日、GH1では白鳥ドライブに行ってきました。久々の遠出ドライブ。しかも、去年よりは少ない気がしたものの、多くの白鳥や、いろいろな種類のカモたちに囲まれ、寒さもそっちのけではしゃいでしまいました。パンを車いすの足置きの上に置いて、出来るだけ近くに鳥たちを、集めようとする人、パンを自分も食べながら白鳥たちに分け与えてあげる人、パンを欲しがるスタッフの口に放り投げてあげる人。一つ不思議に感じたことがある。去年行ったときの光景とさほど変わらないような感じなのに、すごく新鮮なように感じられるのである。多分それは、一人一人の笑顔が、今を確実に楽しんでいるように感じられるからではないだろうかと思う。見えるものや、話すこと、起きることを楽しむのではなく、今そこにある一瞬を楽しめる自分でありたいとあらためて思いました。
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みなみの徒然草 ★高橋【2005年3月号】

 グループホームみなみが始まって、はや1ヶ月が経ちました。
 最初の頃は新しい環境に戸惑って、眠れずにいた人や部屋からなかなか出てこない人もいましたが、今では皆さん新しい生活に慣れ、それぞれに楽しく暮らしているようです。時折いさかいもありますが、それも病院では見られなかった光景なのだろうと感じ、皆さんが「生活」を始めている、と感じる今日この頃です。
 暦の上では春なのですが、雪がまだまだ積もっており、外へ出る意欲を奪います。2月頭に、はりきって近所のスーパーに出かけた人は、憔悴しきって帰ってきて、それ以来出かけようとしません。近所のスーパーに行くことすら重労働になる状況では、グループホームの目的が「地域に出る」こととは言っても、なかなか上手くいかないものです。雪国の生活とは確かにそういうものですが、休日でも車を使わないと外出がままならない状況にはやきもきさせられます。雪が溶けて、本格的に春になってくれれば、また違った様子が見られるでしょう。色々な意味で、春が待ち遠しいものです。
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  出会いから別れ、そこから感じること ★清水【2005年3月号】

 先日、グループホーム第2に入居していたある利用者が退所されました。
私はその方とグループホームで出会い、関わり、別れを迎えました。別れの形も様々あるとは思うのですが、  私の場合、その別れの瞬間にどうしても涙が出てしまうのです。寂しさとかそういう表現しやすい感情とは何かまた別の感情が、自分の胸の中に込み上げてくるのです。
 日々利用者と関わりを持つと、いろいろな関係がそこで築かれます。私個人の思いかもしれませんが、「関係を築く」ということ、それは「お互いにとっていろいろな意味で支えになる」ということと言い換えられるのかも知れません。そう考えると、やはり関係はとても大切なものになってきます。しかも、その関係とは見える関係もあるかもしれませんし、周囲には見えない関係もあるのかもしれません。
 私は、周囲に見えない関係を自分がどうとらえるのかということが、とても大きな意味を持つ気がします。「どこかでつながっている」ということが、ものすごく強固なものとなって、今の自分にとっては大切で、それが支えとなっています。私が別れの瞬間に涙が出てしまうのは、現実的に距離が遠くなってしまうということよりも、その支えが薄れてしまうと思うからなのかもしれません。
 ただ、今の自分はそこでそう思っただけで、とどまりたくはありません。別れの瞬間はいつか訪れます。でも、別れの瞬間、そこからまた自分に課題が提起されます。そこから自分がどう動くのか、どう生きていくのか、そういうことを考えさせてくれる場が、ここなのだと思います。自分が今ここにいること、そのことを振り返られる時が来ることを頭に入れながら、一日一日を大切にしていきたいと思っています。
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異層の物語を開く ★宮澤健【2005年3月号】

 宗教もなく、神秘にも出会わず、たいした困難や悲しみにも遭うことのないまま、ほとんどの人がすごしてしまう社会を、我々は生きていかねばならない。便利とイメージされた大半のことが達成された上に、思いもかけなかった手段が次から次へと提示される。制度が整備され社会は高度に整えられる。その一方で人間は平坦で薄ぺらな存在となり影を失い、リアリティを感じなくなる。表層化した短絡的な思考が、生とは関係のない呼吸の単調なリズムを繰り返す。こころが動かない、感動が起こってこない。今こうした実感のない状態に多くの人が追い込まれている。時代がそうなのだとも言えるかもしれない。
何かが足りないと感じている人は多い。その一方で足りないものなど何もなく、この世は目に見えるものが全てで、あらゆるものが操作できると信じ切っている人たちが存在する。今の社会はこういう空気に支配され動かされている。表面的な良い方法、良い対処さえやればうまくいくものだと思い込んでいる人たちは、生きるという実感からから遠ざかっているし、おうおうにして他の人の「生きた物語」を理解できないでぶち壊すことがある。身近には制度の番人のような役人や、福祉の名を語る騒々しい援助者たちにそれを感じる。私は「イッチョあがり」の人びとと呼んでいるが、全てに片が付くと思っている。それが目的で後は何も無い人たちだ。
 そうした人たちに対し、生々しく挑んでいるのは、障害を持った人達ではなかろうか。例えば認知症高齢者の人にしても、決して簡単にかたをつけさせてはくれない。「だめだ」と言ったって大暴れをしてでも自らの物語を生きていく。イッチョ上がりの人たちには、とても手に負えない存在なはずだ。やっかいこの上ない、手に負えない存在としてしか映るだろう。そうなるとケースであったはずの当事者をいきなり問題として扱いはじめる。ケースワークは消滅し世間様が君臨する。ケースは無くなり問題だけが残る。そして問題を置き去りにしようとさえする。
 一見優しいようなふりをしているが、事が心の核につながらざるを得ない深みを持ってきたとたんにこうした人たちは豹変する。対象としてしか扱わない。自分を絡ませる「関わり」持たない。そして知らないふりをするか逃げ出す。決して心はコミットメントしない。本来はケースが生まれるのはこの瞬間なのだ。逃げ出さなかったその瞬間からケースは生まれるか創造される。関係性において誕生してくるのが本来のケースであろう。そうでなければケースはイコール問題でしかない。
ケースは心の核とつながらざるを得ないその極みを共存した現象と捉えたとき。現実、多くの福祉支援者が問題を扱うだけでケースを生きる力量や能力や覚悟がないと感じる。
 付け焼き刃の研修程度で、世間様の代表でしかない支援者に専門性を求めるのは無理な話かも知れない。しかし里の関わるケースで多くの利用者が頑張ってくれているので頼もしい。彼らは研修会場ではなく現場で、職員スタッフをを鍛え育ててくれる。現実の異層に目を開かせ、新たな世界の物語を開き生きさせてくれる。表面的で浅薄な物語に呪縛された輩に問題行動などと括って捨てられてはたまらない。
参考文献 『思春期をめぐる冒険』 岩宮恵子 日本評論社
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