2005年02月15日

グループホーム建設着々 ★松坂【2005年2月号】

 4月から始まるグループホーム(知的障害者用)の建設も着実に進み、日に日に完成が近づいています。入居予定の人の中には、もう4月からのこと考えている人もいるようです。
 その思いは様々で、家族や住み慣れた施設を出る事に対しての不安を感じている人もいれば、ワークステージの職員の座!?を狙っている人など様々です。ホームではこれまでに出来なかった、早朝や夕方の農作業などを行いながら、週1回のペースで入居者を含めた形での打ち合わせを持つ予定です。このような面を考えると、ワークステージとグループホームは密接な関わりを持つ事になるので、これからどのような関わりになるのか楽しみです。
 街中ではなく、農山村型のグループホームとして、農業や農産加工を通じて、暮らしを作り、地域や地域の産業と関連を持ちながら、生活に実感が持てる活動を展開していきたいと考えています。
posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

サトリさん里で4回目の誕生日 ★清水【2005年2月号】

 先日、グループホーム第2に入居しているサトリさんが誕生日を迎え81歳となり、それを温泉一泊旅行という形で皆で祝ってきました。
 当日までの間、温泉に宿泊する話をすると「本当だべじぇなぁ!?」と疑っていましたが、やはりその日が近づいてくると、自然に表情もほころんでいました。
 いざ当日を迎えると、やっぱり満面の笑顔。手作りのケーキやごちそうを囲み、乾杯すると、サトリさんもその雰囲気に少し酔っているようでした。
 その場にいた私たちスタッフ一人一人にとっては、楽しみながらも、サトリさんから改めていろいろなことを感じることができ、とても意味のある一日になったと思います。
 来年も笑顔でこの日を迎えられるよう、楽しみにしながら、また一日一日の関わりを大切にしていこうと思います。
posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

グループホーム「みなみ」運営開始 ★高橋【2005年2月号】

 銀河の里に、2月1日から新たに グループホーム「みなみ」が始まりました。建物はまるで新築アパートのようで、私ども含め、関係者を驚かせました。場所こそ病院の敷地内ですが、地域での暮らしの第一歩として大きなものだと思います。
 私どもにとっては初めての事業、利用者にとっては数年ぶりの院外での生活で、互いに大きな期待と不安を抱えてのスタートです。これから何が起きるのか、どうなっていくのか、全く分からない手探りの状態ですが、職員一同、新しい気持ちで取り組んでいきたいと思います。
posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ワークステージの来年度 ★松坂【2005年2月号】

 今年は雪が夕方から降り始め、次の日の朝には20p又は30pという日が幾度かありました。こうなるとまず半日は雪かきに追われてしまいます。
 来年度はワークステージの定員が10名増えて、全体で30人となります。その10人の内、何人かが実習に来ています。中にはGHのばあちゃんとすぐに仲良くなる人もました。その他にもいろいろな人たちがいて来年度は楽しみです。
 そういった様々な人が集まり、その一人一人の個性と力で来年度の新しいワークステージが形作られるのだと思います。私自身も、そのうねりの中に飛び込んで、一緒に成長していきたいと思います。
posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自然と私とリズム ★瓜田【2005年2月号】

 銀河の里もすっかり雪に覆われました。朝、部屋を出て周りを見渡せば、ぴんと張りつめた冷たい空気の中に立ちつくす木々があり、眺めているとまるで時が止まってしまったかのような感覚になります。しかし、実際木々は春の芽吹きのその時まで静かに命を燃やし続けています。
 デイサービスでは、中で座布団作りをしたり、節分のための鬼の面作りをしたり、ひな祭りに向けてひな人形作りをしたりと、外に出て、目に見える活動はないのですが、それぞれの人が、その時に向けてゆっくりと過ごしていると感じています。春も冬もなく生きてしまいがちな現代で、自然と同じリズムで生きることの意味を感じたり、考えたりしながら今、私は銀河の里で暮らしています。
posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

クリスマス・正月・旧正月に思う信の力 ★及川【2005年2月号】

 昨年末、受講している資格のスクーリングで、東京まで行ってきました。その中の、社会学の授業で、「サンタクロースの起源」についての話がありました。「クリスマスを恋人同士で過ごすようになったのは雑誌が特集を組んでからである。」、「サンタクロースは本当は痩せていた。」、「サンタクロースの服の色はある飲料会社のCMで決まった。」など、興味深い話に、珍しく居眠りもせず、授業に聞き入ってしまいました。
 ただ、授業が終わった後、クリスマスのイルミネーションが輝く街並みを歩きながら、《子供の頃は、サンタクロースが本当にいるかいないかやその起源》なんて、どうでもよかったんだよなぁ、とふと思いました。実在するかどうかや起源を越えて、目の前にあるサンタクロース、クリスマスというものを、そのまま信じていたような気がします。今の自分は、あまりにも正しい、正しくないといった様な概念にとらわれ過ぎ、いろいろな物を杓子定規に分け、そういった概念に振り回されているような感じにさえ思えてきました。
 銀河の里に帰って、どんと焼き、みずき団子、など正月、小正月の行事がありました。私は、その一つ一つの行事の謂れや、どのような目的で行われてきたのかなどは、知りません。が、真剣に神飾りを扱うまなざし、職員が扮した神主にさえ、畏敬の念を示す利用者さんの姿を見るだけで、それを行う意味を感じさせられます。そういった利用者さんの姿を見ながら、今の自分にとって足りないものは「圧倒的に何かを信じ込む力」なのではないかなと、思えてきました。なにかそういった、自分達を圧倒するようなパワーの存在を、利用者さんの一人一人から感じます。それは、何かの行事に際してだけでなく、日常の場面において何かを信の深さをもった利用者さんの目に出会うことがあります。その強いまなざしに、抵抗感を持ってしまうのは、色々な考え方や、概念に振り回されている、はっきりしない「自分」を見透かされてしまっているような感じになるからではないかと思えます。そういう利用者さんの強い目に鍛えられながら、自分が信ずるべき何かを探していけたらと思います。
posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「させる」という言葉と「背負う」ということ ★宮澤健【2005年2月号】

 銀河の里は、農業を基盤にしているので一年を通じていろんな作業が必要となる。トラクターで田んぼを起こすことから、収穫した豆を選別することまでまさに様々だ。田植えや稲刈りなどの農繁期になり、朝出かけたきり夕方まで帰って来ないような日は、お昼を作ったり届けたり、この地方で「こびる」と呼ばれるおやつを作って届けるようなことも重要な仕事である。
 昨年は減反の田んぼ、約8反歩に大豆を作付けした。ワークステージ銀河の里(知的障害者通所授産施設)が開所して豆腐工場も授産項目として、加工場の営業許可もとったからには、なんとしても自前で大豆を調達したかった。果たして秋には、サヤも枝についたままのもので何台もトラックで運んで来た。しかしこれを脱穀し、選別する調整作業は膨大なものとなった。小屋に積み上げられた枝付きの大豆の山に押しつぶされそうになって、ついに、脱穀機を注文してしまった。以前売り込みに来た機械業者が、ばあちゃん達が作業をしているのを見て「機械はいらねえな」といって帰ったことがあったが、量が増えたのでは致し方無かった。ただ機械がやってしまうと、ばあちゃん達の仕事がなくなってしまうという問題も出てくる。全部機械でやらないでいくらか残しておいてほしいという話も出てきた。
 ところで福祉の業界では「させる」という言葉をよく耳にする。「何々作業をさせています。」「何々療法をやらせています。」という具合に。里ではこの「させる」はまず使われることはない。使われないどころか、聞くだけでも里のスタッフにとってはかなりの違和感や抵抗を感じると思われる。「させる」「やらせる」とはどういうことなのだろうか。一つには上から下という感じがある。もう一つは操作主義を感じさせられる。さらには、因果論で見ているということなどがその抵抗を感じる理由であろう。
 ここで大事なのは、ただ「やらせる」ことがなくなると困るという次元で捉えていてはならないということだ。里の作業は暮らしとして営まれる。それをスタッフも利用者もそれぞれの力や知恵を出し合って支えていく。稲刈りでも、コンバインを操作する若者もいれば、鎌の持ち方もわからない若いスタッフに使い方を教える利用者もある。暮らしから人間が切れて、作業が単独で存在すると意味や価値が違ってくる。暮らしから切れた作業を提示するのは「やらせ」である。提示が「やらせ」に堕したとき、「させる」になる。暮らしを作り、暮らしとつながって生きることで、厳にやらせは慎むのが里のあり方である。
 一方、暮らしには節があり、暮らしから生まれる作業は仕事として片を付けることが求められる。季節や天候を見ながら、いつ耕せばいいか、いつ種をまけばいいか、刈り取りの適期はいつなのか、時は常に重要な意味を持つ。わずか一週間作業の時をはずしただけで、大失敗ということは多々ある。こうした時に合わせて、作業の片を付けるということは仕事をする上で大切な構えである。
 スタッフにはこうした構えが厳しく求められる。作業の節は季節や天候だけでなく、盆であったり正月であったりと社会的なことも絡んでくる場合もある。そうした時を失わず、作業に片を付けることによって仕事として仕上げがおこなわれる。
 こうした仕事や作業に「片を付けて」行くことをスタッフ自身がどう抱え、どう背負っているのかによって利用者と共に暮らしを「生きる」ことができてくると感じる。そうしたスタッフが提示する作業は「やらせる」ことにはならない。利用者からの教えや支えが実感として伝わってくるはずだ。そうした実感のなかで関わりを持つスタッフにとって「やらせる」という言葉は当然あり得ないものになってくる。
posted by あまのがわ通信 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする