銀河の里は、農業を基盤にしているので一年を通じていろんな作業が必要となる。トラクターで田んぼを起こすことから、収穫した豆を選別することまでまさに様々だ。田植えや稲刈りなどの農繁期になり、朝出かけたきり夕方まで帰って来ないような日は、お昼を作ったり届けたり、この地方で「こびる」と呼ばれるおやつを作って届けるようなことも重要な仕事である。
昨年は減反の田んぼ、約8反歩に大豆を作付けした。ワークステージ銀河の里(知的障害者通所授産施設)が開所して豆腐工場も授産項目として、加工場の営業許可もとったからには、なんとしても自前で大豆を調達したかった。果たして秋には、サヤも枝についたままのもので何台もトラックで運んで来た。しかしこれを脱穀し、選別する調整作業は膨大なものとなった。小屋に積み上げられた枝付きの大豆の山に押しつぶされそうになって、ついに、脱穀機を注文してしまった。以前売り込みに来た機械業者が、ばあちゃん達が作業をしているのを見て「機械はいらねえな」といって帰ったことがあったが、量が増えたのでは致し方無かった。ただ機械がやってしまうと、ばあちゃん達の仕事がなくなってしまうという問題も出てくる。全部機械でやらないでいくらか残しておいてほしいという話も出てきた。
ところで福祉の業界では「させる」という言葉をよく耳にする。「何々作業をさせています。」「何々療法をやらせています。」という具合に。里ではこの「させる」はまず使われることはない。使われないどころか、聞くだけでも里のスタッフにとってはかなりの違和感や抵抗を感じると思われる。「させる」「やらせる」とはどういうことなのだろうか。一つには上から下という感じがある。もう一つは操作主義を感じさせられる。さらには、因果論で見ているということなどがその抵抗を感じる理由であろう。
ここで大事なのは、ただ「やらせる」ことがなくなると困るという次元で捉えていてはならないということだ。里の作業は暮らしとして営まれる。それをスタッフも利用者もそれぞれの力や知恵を出し合って支えていく。稲刈りでも、コンバインを操作する若者もいれば、鎌の持ち方もわからない若いスタッフに使い方を教える利用者もある。暮らしから人間が切れて、作業が単独で存在すると意味や価値が違ってくる。暮らしから切れた作業を提示するのは「やらせ」である。提示が「やらせ」に堕したとき、「させる」になる。暮らしを作り、暮らしとつながって生きることで、厳にやらせは慎むのが里のあり方である。
一方、暮らしには節があり、暮らしから生まれる作業は仕事として片を付けることが求められる。季節や天候を見ながら、いつ耕せばいいか、いつ種をまけばいいか、刈り取りの適期はいつなのか、時は常に重要な意味を持つ。わずか一週間作業の時をはずしただけで、大失敗ということは多々ある。こうした時に合わせて、作業の片を付けるということは仕事をする上で大切な構えである。
スタッフにはこうした構えが厳しく求められる。作業の節は季節や天候だけでなく、盆であったり正月であったりと社会的なことも絡んでくる場合もある。そうした時を失わず、作業に片を付けることによって仕事として仕上げがおこなわれる。
こうした仕事や作業に「片を付けて」行くことをスタッフ自身がどう抱え、どう背負っているのかによって利用者と共に暮らしを「生きる」ことができてくると感じる。そうしたスタッフが提示する作業は「やらせる」ことにはならない。利用者からの教えや支えが実感として伝わってくるはずだ。そうした実感のなかで関わりを持つスタッフにとって「やらせる」という言葉は当然あり得ないものになってくる。
posted by あまのがわ通信 at 00:00|
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