正月1日、今年も恒例になった初詣に出かけた。前日大晦日は、この冬にしては珍しく大雪となり、凍りついた雪道を車で隣町の熊野神社にむかった。
この神社は平場にあって階段がなく、駐車場も整備され、しかもまばらな参拝客なので、グループホームの高齢者と行くには最適なのだ。今年は車もマイクロバス以外は境内の中まで入れさせていただいた。毎年我々が参拝するようになったからではないだろうが、年々境内が整備されており、今年はかがり火も焚かれて、係りの人も数人控えている上に、なんと二人の若い巫女さんがおみくじなどを売っていた。最初の3年前は、誰もいない境内で賽銭を投げて、勝手に箱からおみくじを引くような感じだったので、ずいぶん華やかになり初詣の雰囲気は盛り上がった。みんなで写真を撮ろうとしていると、係りの人も「この角度から撮ったらいいよ」などと声をかけてくれる。朱を塗り替えたばかりの本殿をバックに総勢20名が大騒ぎで記念撮影におさまった。
初詣という一こまにも物語は生まれる。Hさんは、一番に車から降りて参拝をすませたのだが、おみくじを引いている間に参拝をしたことはすっかり忘れてしまい、後から到着したみんなが拝んでいるのを見て「あらお祈りしなくちゃ」と再び賽銭を投げる。その後ももう一回行ったので計3回賽銭を投げた。Eさんはもう歩けないのではないかと思われるくらい体力が衰えてきたのだが、なぜかこの日は元気いっぱいの参加で、記念撮影で久々に会った昔のけんか相手のKさんに、神社で買った運寄せの熊手で殴りかかって健在ぶりをアピールしていた。
例のごとく大騒ぎの初詣となったが、世間の目からはこの集団は何者に映っているのだろう。20代の若者と高齢者の集団。車いすの人や、支えられてやっと歩いている人、さっさと歩いてはいるが何度も賽銭を投げたり、訳のわからない話をしている。それなのに老いも若きも笑ったり、騒いだり妙に表情の豊かな一群。「あなた達は何者なのですか」と聞かれたら、「ああこの人達は神様で我々はつかえている者です」と答えると一番ぴったりくるのではないかと思った。記念撮影の後ろに写っている神社は形式の社で、本物の神様はこの高齢者の人たちですという物語は、笑い話ではなく、スタッフにとってはリアリティのある納得のいく話ではないだろうか。
あの世への旅を重ねたEさん、怒りの神様のHさん等、それぞれがそれぞれの神を生きている。これは本物の神様たちだとスタッフは確信を持って語れるだろう。
ところで新年からNHKで新シルクロードが始まった。音楽担当はあのヨーヨーマである。彼はシルクロードゆかりの楽器とその奏者を集めてヨーヨーマシルクロードアンサンブルをつくった。天才ヨーヨーマのなみなみならぬ身のいれようである。番組に何を期待するかという問いに「こうした悠久の事柄と我々一人一人がつながっているのだということを意識すること、そして自覚することが大切だ」と答えた。そして「それが尊厳につながるのだ」と語るのを聞いてさすが天才と感心した。
現代は個々が大いなる何かにつながって生きるということが極めて難しい時代である。宗教が力を失い機能しなくなり、一人一人が個人でその大仕事をやらなければならない。しかも個は独立し、分断される流れに激しく押しやられている。真の自分自身と出会うには深い他者との出会いが必要であるが、他者とのつながりのボーダーを超えようとしたところでなぜかエラーを出してしまうのが現代のシステムである。
そうした現代において、他者や大いなるものとのつながりの可能性を残しているのは「芸術」である。ユングは自分がやっている仕事は何なのか追求していたとき、「おまえのやっているのは芸術だ」という声が聞こえ、彼は一瞬はっとしたが次にそれを打ち消そうとしたという。フロイトも「私が50年かけてやってきた仕事を芸術家は一瞬にして成し遂げる」と嘆いたらしい。芸術の本質が存在の確認であり、深いところでの癒しの作業と捉えるなら両者の仕事も芸術と低通しているのだろう。
我々もまた、現場で一人一人の神と向き合おうとしている。何かにつながって行こうとする姿勢でなければ、本質的には人には向き合えない。ヨーヨーマの言うように、悠久の何かとつながる自分を意識し自覚するところから尊厳は生まれてくる。
初詣の社の前で写真に収まる我が神々はやはり本物の神々なのである。対人援助の仕事では、仕事を通じて普遍や本質に繋がるようでないと、その仕事は偽物と断じていいと最近は感じる。そうでなければ尊厳は簡単に踏みつぶされてしまうからだ。
posted by あまのがわ通信 at 00:00|
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