2005年01月15日

それぞれの年末年始【2005年1月号】

 今年のデイは、例年通り4日よりスタートしました。相変わらない初詣に出掛け、書き初めやお餅を焼きながら過ごしました。去年を振り返り、また5年目を迎える銀河の里と自分自身を一つ筆に込めての書き初めは、MさんやTさんにも褒められなかなかの出来。あとは自身の言葉と向き合うだけ、きっとそこには様々な人や物事、自分との出会いが待っている様な気がしています。今年はデイの体制が変わり、ご心配をお掛けした部分が多かったと思いますが、デイに集う利用者の力にも大いに助けられながら、教わりながらの年だったかな思います。今年もよろしくお願い致します。 (戸來)


 昨年末、全部署合同企画としてクリスマス会を盛大に行いました。当日は各部署の隠れたシェフが作った絶品料理あり、楽器の演奏や歌あり、ゲームあり、サンタクロース?の登場ありで、利用者、スタッフ共にとても有意義な時間を過ごしました。
 今回、スタッフからは利用者にそれぞれの最高の表情を撮った写真と共にお祝いの言葉をプレゼントしました。そして、私たちスタッフにはこの日も利用者の様々な表情がプレゼントされました。
 また今年も、日常、行事を通して、利用者そしてスタッフのいろいろな表情を見ていきたいです。(清水)


 1月2日に書き初めをGHのみんなで行いました。やはり、書き初めをすると気持ちが引き締まります。今年も、自分の今の心境を歌にしたためる人、目標を書く人、個性にあふれた書き初めとなりました。去年の書き初めを外し、新しいものを並べながら、一年を振り返り、これから始まる一年に心を馳せます。来年、自分はどんな言葉で一年をはじめるのだろうか。そんな期待を胸にまた一年、一歩づつ歩いていきたいと思います。(及川)


 昨年は、ランチ弁当、仕出し(皿盛り、弁当など)、お惣菜売り、イベント時のレストラン、大葉の栽培、畑の作付け、米作りなどをやってきました。
 最近では、年末に「クリスマスオードブル」、正月には「おせち重」にも挑戦してみました。それぞれまだまだ改善を加えていく必要がありますが、今後も研究して里らしい物を作っていきたいと思っています。        
 2005年はワーカー一人一人の成長と共にスタッフも成長していきたいと思っています。まだまだ未熟な面も多々ありますが、本年もどうぞよろしくお願いします。(松坂)
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清水【2005年1月号】

 今号の表面に、「表情」という言葉をキーワードとして、昨年のクリスマス会の記事を書きました。私はこの「表情」という言葉を日常よく使います。業務日誌に利用者の一日の様子を記入する際に用いたり、スタッフ間で利用者についてのやりとりをする時も、よく使っている気がします。だが、改めて私にとって「表情」とはどんなものなのだろう。ふと、考えてみた。
 私は、表情を表に出すのがうまくないのではないかと思う。もしくは、表情を表に出したとしても、それが確実に相手に伝わっているかというとそうではないように思える。確かに笑ったり、泣いたり、怒ったりと日常的に表情が変わる、あるいは変えなければならない時は必ずある。だが、私の場合、自分の気持ちをどこか一歩手前である程度整理してしまってから、表に出している時があるような気がする。そして、そういう時、本当はあまり必要でない言葉などを変に巧みに使いながら、自分の内に存在する核心部分からどうにかして遠避けようとしている時があるような気がする。そう考えると、自分の表情というものは、もしかすると偽りじみたようなものにさえ感じられてしまう。そんな自分の表情に今も自信がないのは確かである。
 だが、グループホームで日々暮らしていると、なぜかそういうことを考えなくて良くなる瞬間があると思う。例えば、ある瞬間で笑いが起きる。そこに言葉などのやりとりはない。言葉が通じない時もある。言葉を必要としない時もある。そこで自分の感情が表情としてダイレクトに表に出る。そして次の瞬間、それに対して反応が返ってくる。それは笑いだけでなく、怒りでも同じである。私が日々出会っている利用者は、私のそういう部分を何の気なしに、ごく自然な形で鍛錬させてくれているような気がする。自分の表情がそこで伝わって、それに対して返してくれている表情が、今目に入ってきているのだと思うと、知らず知らずのうちに、自分自身に対する妙な自信みたいなものができあがっている。つながっているのだと実感する。自分は自分で良いのだ。そう言われているかのようにも感じられる。
 今の自分は本当の自分なのだろうか。自分はこれからどう生きていくのか。自分のためにも、利用者の表情を大切にしたい。利用者の表情を見つめつつ、常に自分自身を意識し、目を向けていたい。
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初詣と神様 ★宮澤健【2005年1月号】

 正月1日、今年も恒例になった初詣に出かけた。前日大晦日は、この冬にしては珍しく大雪となり、凍りついた雪道を車で隣町の熊野神社にむかった。
 この神社は平場にあって階段がなく、駐車場も整備され、しかもまばらな参拝客なので、グループホームの高齢者と行くには最適なのだ。今年は車もマイクロバス以外は境内の中まで入れさせていただいた。毎年我々が参拝するようになったからではないだろうが、年々境内が整備されており、今年はかがり火も焚かれて、係りの人も数人控えている上に、なんと二人の若い巫女さんがおみくじなどを売っていた。最初の3年前は、誰もいない境内で賽銭を投げて、勝手に箱からおみくじを引くような感じだったので、ずいぶん華やかになり初詣の雰囲気は盛り上がった。みんなで写真を撮ろうとしていると、係りの人も「この角度から撮ったらいいよ」などと声をかけてくれる。朱を塗り替えたばかりの本殿をバックに総勢20名が大騒ぎで記念撮影におさまった。
 初詣という一こまにも物語は生まれる。Hさんは、一番に車から降りて参拝をすませたのだが、おみくじを引いている間に参拝をしたことはすっかり忘れてしまい、後から到着したみんなが拝んでいるのを見て「あらお祈りしなくちゃ」と再び賽銭を投げる。その後ももう一回行ったので計3回賽銭を投げた。Eさんはもう歩けないのではないかと思われるくらい体力が衰えてきたのだが、なぜかこの日は元気いっぱいの参加で、記念撮影で久々に会った昔のけんか相手のKさんに、神社で買った運寄せの熊手で殴りかかって健在ぶりをアピールしていた。
 例のごとく大騒ぎの初詣となったが、世間の目からはこの集団は何者に映っているのだろう。20代の若者と高齢者の集団。車いすの人や、支えられてやっと歩いている人、さっさと歩いてはいるが何度も賽銭を投げたり、訳のわからない話をしている。それなのに老いも若きも笑ったり、騒いだり妙に表情の豊かな一群。「あなた達は何者なのですか」と聞かれたら、「ああこの人達は神様で我々はつかえている者です」と答えると一番ぴったりくるのではないかと思った。記念撮影の後ろに写っている神社は形式の社で、本物の神様はこの高齢者の人たちですという物語は、笑い話ではなく、スタッフにとってはリアリティのある納得のいく話ではないだろうか。
 あの世への旅を重ねたEさん、怒りの神様のHさん等、それぞれがそれぞれの神を生きている。これは本物の神様たちだとスタッフは確信を持って語れるだろう。
 ところで新年からNHKで新シルクロードが始まった。音楽担当はあのヨーヨーマである。彼はシルクロードゆかりの楽器とその奏者を集めてヨーヨーマシルクロードアンサンブルをつくった。天才ヨーヨーマのなみなみならぬ身のいれようである。番組に何を期待するかという問いに「こうした悠久の事柄と我々一人一人がつながっているのだということを意識すること、そして自覚することが大切だ」と答えた。そして「それが尊厳につながるのだ」と語るのを聞いてさすが天才と感心した。
 現代は個々が大いなる何かにつながって生きるということが極めて難しい時代である。宗教が力を失い機能しなくなり、一人一人が個人でその大仕事をやらなければならない。しかも個は独立し、分断される流れに激しく押しやられている。真の自分自身と出会うには深い他者との出会いが必要であるが、他者とのつながりのボーダーを超えようとしたところでなぜかエラーを出してしまうのが現代のシステムである。
 そうした現代において、他者や大いなるものとのつながりの可能性を残しているのは「芸術」である。ユングは自分がやっている仕事は何なのか追求していたとき、「おまえのやっているのは芸術だ」という声が聞こえ、彼は一瞬はっとしたが次にそれを打ち消そうとしたという。フロイトも「私が50年かけてやってきた仕事を芸術家は一瞬にして成し遂げる」と嘆いたらしい。芸術の本質が存在の確認であり、深いところでの癒しの作業と捉えるなら両者の仕事も芸術と低通しているのだろう。
 我々もまた、現場で一人一人の神と向き合おうとしている。何かにつながって行こうとする姿勢でなければ、本質的には人には向き合えない。ヨーヨーマの言うように、悠久の何かとつながる自分を意識し自覚するところから尊厳は生まれてくる。
 初詣の社の前で写真に収まる我が神々はやはり本物の神々なのである。対人援助の仕事では、仕事を通じて普遍や本質に繋がるようでないと、その仕事は偽物と断じていいと最近は感じる。そうでなければ尊厳は簡単に踏みつぶされてしまうからだ。
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松坂【2005年1月号】

 年末を迎え、年越しの準備ということで鏡餅を作るために、ワークステージ(WS)で餅つきを企画しました。
 ワーカー達の中で臼と杵で餅つきを体験したことがある人はほとんどいませんでした。つき方を初めるといつの間にか、周りにはおじいちゃんやおばあちゃんが集まり、その腰つきを見るに見かねた人達が、餅つきはこうするんだという感じで、杵を取り合いつき始め、いつの間にか餅つきの主役になっていました。
 高齢者の体のどこにそんな力があるのだろうと考えこんでしまうくらい、腰の入った杵使いでした。その力をワーカー達も感じたらしく、日頃前に出るタイプのワーカーもその姿に押され、自分がついていたにも関わらず、求められるままに杵を渡していました。そして、いつの間にかたき火に薪をくべたりして、周りを気遣っていました。普段の作業中の表情とはまた違った表情がそこにはありました。
 今の社会はこうした世代間交流を提供する場は少なくなりました。その場は伝統といった本来日本人が持っていた心を継承していく場でもあったのではないでしょうか。そういった貴重な場を私たちは失いつつあるのでしょう。今日のこの出来事を通して、楽しさの中に一種の寂しさも感じてしまいました。
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瓜田【2005年1月号】

 正月も間近に迫った年の瀬、餅つきを行いました。銀河の里では、餅つきは恒例行事で、機械は使わず、毎回臼(うす)と杵(きね)を使って行っています。
 私も実家(青森)で、毎年臼と杵を使って餅つきをしていたので、とても楽しみにしていました。臼と杵などの道具の準備、あの少し慌ただしい雰囲気、餅米をふかしている匂いなど、私はなぜかそれが好きで、そういうことから正月の訪れを感じます。
 銀河の里のスタッフ、利用者それぞれも餅つきに対して、何か思いがあるのでしょう。脇目も触れず黙々と餅をつく方、周りにいる人たちと話をされながら笑顔いっぱいの方、様々な表情がある中で餅つきは進みました。
 さて、いざ私が餅をつこうとするとき、臼の底が楕円形で深いことに驚きました。私の実家の臼は、もっと底が浅く、丸いのです。さらには、「えんどり」(餅をつく間、つく役の傍らにいて、餅をひっくり返したりしながら均等につけるよう常に気を配る役)のやりかたも違いました。私はこれまで餅のつき方は全国どこへ行っても同じものだと思っていたので、それぞれの地域の餅つきがあることへの驚きと同時に、「岩手の餅つき」「銀河の里の餅つき」ができたことへの嬉しさ、楽しさがありました。
 今年は餅米を作る段階から関わってみたいと思っています。ただ餅をつくだけではなく、餅米一粒を作るための農作業に関わること、農機具に触れること、その過程での人との関わりが、次回の餅つきにより深い意味や思いを持たせてくれるのではないかと思います。
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