2004年11月15日

清水【2004年11月号】

 芋掘りを終え、里に戻った時、自分の手を見てふと思った。これから昼食をとろうとする自分にとって、一見すれば、それは単なる汚い手。今すぐにでも洗ってしまいたい手。だが、今までの自分、そして今の自分、さらにはこれからの自分を考えた時、なぜかその手をずっと見ていたい自分がいた。洗ってしまっては勿体ないと感じる自分がいた。
 それはなぜなのか…。今でもはっきりとはわからない。だが、手を見ただけで、いろいろなことを考えることができた。土が付いている自分の手。そこには今までの自分がいたように思う。なりふり構わず発掘に没頭し、土と向き合ったあの時が一瞬にしてよみがえった。また、土が付いている手を一瞬でも「汚い」と感じた自分。そこには今までとは違った、いろいろな意味で外見を気にする今の自分がいたようにも思う。でも、洗い流したくはないと思った自分もいた。それは今までと今の自分のギャップを感じながらも、なかなか認められない今まさに微妙な状況にいる自分がいたようにも思う。
 日々利用者と共にする活動を、自分は単なる作業としてそう簡単に流したくない。自分を常に意識することで、その場に自分というものを関わらせることで、今まで見たことのない自分が表出してくる時がある。そして、時にそれは本当に小さなことからの時もある。今は自分がその新たに見えてきた自分を、どう感じ、それに対してどう動くのか、それを見ていきたいと思っている。
 自分の好きな言葉に、「life is journey」という言葉がある。自分はどこへたどり着くのか。それは今全く分からない。だが、そこが自分自身の深い意味での楽しみであるようにも思う。今後も自分自身を探求していきたい。
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〜秋期火災予防運動週間〜 ★戸來【2004年11月号】

 11月11日総合防災訓練を行いました。今回はWSも加わり総勢68名の参加者で、花巻消防署の立ち会いのなか、実際の火災を想定し避難訓練を行いました。避難後には、消火器で実際の炎を消す訓練も行いました。GH入居者のYさんやEさんは、非常時にも相変わらない余裕を見せてくれ、動揺するのはスタッフだけ、人生の厚みの違いなのか、感心して良い物かどうか戸惑う場面も多かった様です。
 消防隊員からは「地震であれば避難経路を確保するため扉を開ける。火災が発生し初期消火に当たる際も避難経路を意識する。しかし炎が天井に達した場合は消化器の消火は困難で火元の部屋を閉め切り酸素を遮断しその場を離れる、という相反する判断をしなければならない。」と指導を頂きました。日頃、里でのじっくりと人と関わる、待つ姿勢とも違って、瞬時の判断をし、迅速な行動をとるという事もまた必要とされる。こちらもまた里のスタッフとしてかかせないことと思います。ここで育まれる関係を守る事でもあり、今日の事を一人一人が大切に考えていきたいと思います。
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及川【2004年11月号】

 心配された天気にも恵まれ、先日、11月7日に「収穫祭」を無事開催することが出来ました。
 当日は、用意した駐車場もいっぱいになり、路上に駐車する車も出るほどのにぎわいとなりました。始まる1時間以上も前から来ている方もいたバザー、美しい5つの音色のハーモニーが響き渡ったジャズライブ、季節の食材が並んだレストラン、小寒い季節にほっと温かい一息をくれたあんこう鍋、売り切れの品も出た銀河の里オリジナルのお菓子や手芸品。それぞれに盛り上がりを見せたのですが、一番盛り上がったのが、餅つき。1回目の餅つきをやると行列が出来、あわをくったと思えば2回目の餅つきを待っている方も多く、予定開始時間よりも少し早く始めなければならないほどの盛況をみせました。
 自分にとっては正月のイベントとしてのイメージが強い餅つきですが、農家の方が多い、この地域の人たちにとっては、餅、餅つきというものは特別な意味を持っていたのかも知れません。稲刈りも終わり、一段落といったこの時期に、今年収穫した新しい餅米を使った餅つきをやり、収穫を祝うと共に、来年への力を蓄える。そんなことを考えると、盛り上がったのは当然かなと思いました。
 今年の「収穫祭」も無事成功をおさめることが出来ました。たくさんの方々に支えられ、この「収穫祭」を開催できたことに、改めて感謝したいと思います。ありがとうございました。また、来年もよろしくお願いします。
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リアリティと異界 ★宮澤健【2004年11月号】

 人と関わる仕事をしていると、色々なことが見え来る。ただ、単純に仕事をしていれば見えてくるわけではない。ある時、ある人に見えてくるのだが、それは、深い体験として心にも身体にも残っていくような、霊性をともなうような貴重な経験として見えてくる。それは、ヌミノーズと呼ばれる、宗教的体験にも近い、命や存在の根幹をゆさぶる感動的体験として訪れる。人が人と関わるということは、本来そうした事柄を含んでいたに違いない。そして文化は、そうした営みの上に蓄積され、形成されていったのだろうと、現場の経験から、感じつつある昨今である。
 行事や、イベントが、どこか偽物じみているのが現代である。それは、施設においては最も先鋭化しており、偽物が偽物を生み出す悪循環をとめられないでいるのではないか。とはいうものの、偽物と本物があってそれを見分けようなどということを言いたいのではさらさらない。問題なのはリアリティである。生きることに現実の輝きを与える、奥深いリアリティが存在するかどうかが問われていると思えてならない。
 現代は「乖離」の時代であるといえる。本音と建て前があまりに明確に分離し、それぞれが独立して存在し、別々に生きている。狭間にたって、苦悩し、逡巡し葛藤に生きるといった、統合への苦闘を、便利と豊かさのぬるま湯の中で、逃避してしまう。そういう人は「一丁上がり」で早々に完結させることに躍起になるが、生きるというプロセスを忘れたり感じなくなる。
 介護の現場でも、関わりにせよ、デイサービスなどの活動などにせよ、確かにやっているんだが、騒がしいだけで意味を感じなかったり、時には品位がなく、噴飯ものであったりする場面があまりに多く幻滅させられることがしばしばある。
 それがどこからくるのかわからなかったが、最近、異界との行き来を失っているからではないかと感じるようになった。異界というと、馴染みのない言葉でとまどう方も多いかもしれないが、人間の存在の多層性からすると異界は重要な意味を持っている。
 世界は超越の存在の上に成り立っているともいえる。もしくは、人間は信じるしかない世界を基盤にして生きているともいうことができる。たとえば大地は揺るがないとの信に支えられて、建築物を建てるのである。これは超越の世界に支えられて存在しているということである。そうした超越を現代人は忘れてしまったか、無視してきた。祈りを忘れた。
 我々が根源的なリアリティを失う原因はここにある。何とつながっているのかわからないという不安でもある。しかしそのまま元気に生きていこうとすると、ただ騒がしいだけで品位を失っていく。これが現代の日本のおばさん文化とジャリガキ文化を生み出している。
 その文化の土壌に、介護や、相談など、いわゆる対人援助の仕事をしていくことはほとんど暴力である。クリスマスも、節句も何かとつながり、宗教的な感情を持って行わるところに意味があった。イベントや行事も、何かとのつながりを失ったまま行くのではリアリティは生まれてこない。
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清水【2004年11月号】

 先日、利用者、スタッフで近くの畑に出かけました。その日の目的は里芋とサツマイモの収穫でした。サツマイモと聞くと、昨年の苦い思い出がよみがえります…。でも、今年は里芋もサツマイモもたくさん収穫できました。
 この日、利用者はスタッフ以上に、とても豊かな表情を見せてくれたように思います。
思い入れがあり、気合いいっぱいで里芋の収穫をする利用者。重くなったかごを力一杯運ぶ男衆。皆でわいわいという雰囲気にいつもははまらないはずなのに、この日はうまくはまっている利用者。若いスタッフにげきをとばす利用者もいます。
 単純に里芋とサツマイモがたくさん収穫できたこととは別に、この雰囲気を皆で味わえたことに、ものすごく喜びを感じました。
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