人と関わる仕事をしていると、色々なことが見え来る。ただ、単純に仕事をしていれば見えてくるわけではない。ある時、ある人に見えてくるのだが、それは、深い体験として心にも身体にも残っていくような、霊性をともなうような貴重な経験として見えてくる。それは、ヌミノーズと呼ばれる、宗教的体験にも近い、命や存在の根幹をゆさぶる感動的体験として訪れる。人が人と関わるということは、本来そうした事柄を含んでいたに違いない。そして文化は、そうした営みの上に蓄積され、形成されていったのだろうと、現場の経験から、感じつつある昨今である。
行事や、イベントが、どこか偽物じみているのが現代である。それは、施設においては最も先鋭化しており、偽物が偽物を生み出す悪循環をとめられないでいるのではないか。とはいうものの、偽物と本物があってそれを見分けようなどということを言いたいのではさらさらない。問題なのはリアリティである。生きることに現実の輝きを与える、奥深いリアリティが存在するかどうかが問われていると思えてならない。
現代は「乖離」の時代であるといえる。本音と建て前があまりに明確に分離し、それぞれが独立して存在し、別々に生きている。狭間にたって、苦悩し、逡巡し葛藤に生きるといった、統合への苦闘を、便利と豊かさのぬるま湯の中で、逃避してしまう。そういう人は「一丁上がり」で早々に完結させることに躍起になるが、生きるというプロセスを忘れたり感じなくなる。
介護の現場でも、関わりにせよ、デイサービスなどの活動などにせよ、確かにやっているんだが、騒がしいだけで意味を感じなかったり、時には品位がなく、噴飯ものであったりする場面があまりに多く幻滅させられることがしばしばある。
それがどこからくるのかわからなかったが、最近、異界との行き来を失っているからではないかと感じるようになった。異界というと、馴染みのない言葉でとまどう方も多いかもしれないが、人間の存在の多層性からすると異界は重要な意味を持っている。
世界は超越の存在の上に成り立っているともいえる。もしくは、人間は信じるしかない世界を基盤にして生きているともいうことができる。たとえば大地は揺るがないとの信に支えられて、建築物を建てるのである。これは超越の世界に支えられて存在しているということである。そうした超越を現代人は忘れてしまったか、無視してきた。祈りを忘れた。
我々が根源的なリアリティを失う原因はここにある。何とつながっているのかわからないという不安でもある。しかしそのまま元気に生きていこうとすると、ただ騒がしいだけで品位を失っていく。これが現代の日本のおばさん文化とジャリガキ文化を生み出している。
その文化の土壌に、介護や、相談など、いわゆる対人援助の仕事をしていくことはほとんど暴力である。クリスマスも、節句も何かとつながり、宗教的な感情を持って行わるところに意味があった。イベントや行事も、何かとのつながりを失ったまま行くのではリアリティは生まれてこない。
posted by あまのがわ通信 at 00:00|
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