2004年09月15日

今月の短歌・俳句【2004年9月号】

我話す 電話の奥に 声はなく 聞こえてくるは 声となき声  清水
 毎日、時を選ばず出かけるHさん。それに寄り添う私。車内での二人のやりとりの中で自然に生まれた食事の話。その場を作ろうと携帯電話を手に、必死に形のない相手と会話する。その電話から聞こえてくるのは?Hさんの心の声?それとも自分の内からくる声?そんな声に耳を傾け生きていきたい。


オラ知らね。 もっと押して 空気抜け! 声では足らず 手が伸びてくる  渡辺

 朝一番で、胡瓜のぬか漬けを取り出そうと樽に向かうと、そこにいつもより早く起きたMさんが。ぬか漬けのことは知らないとはじめは私がやるのをすぐ横で仏様のように見ていたが、次第にMさんのこだわりが次々と。最終的にふたを閉めたのはMさん。そのとても活き活きとした姿は、寝ぼけ眼の私を起こしてくれた。ぬか漬けの奥の深さ、味の深さを体で感じ、その日の朝食に食べたぬか漬けは、格別に旨かった。この日、Mさんが、早く起きてきたのは、このことを感じさせてくれるためだったのだろうか?


空見上げ 夕日が綺麗 そのことで なぜか三人 微笑んでいる  渡辺

 車内には、ある事で悩んでいるHさん。その相談にのる私。いつまでも悩みが解決しないそのやりとりに、「いいかげんにしなさいっ!」とWさんが一喝。車内は、一気に凍りつく。が、ふと外に目を向けると、そこにはピンク色の空が広がっていた。「わぁ〜」という私に続いて、他の二人も「綺麗ね・綺麗だなぁ」と。さっきまでのドライブとはうって変わって、歌って♪語っての楽しい一時となった。
 あなたが想う空の色って何色ですか?
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松坂【2004年9月号】

 4月から銀河の里で働くことになり、半年が経とうとしています。ここでは主に農業を担当してきました。この半年を振り替えってみても、実に様々なことがありました。すべてが初めて体験することで、これまでの学生生活で得たものなどはほとんど役には立ちませんでした。制度や障害者の現状を知っていても、作業には何の役にも立たず、右往左往するばかりでした。
 米や田圃については知ってはいましが、いざ作るという段階になると、いったい何から手を付けたらいいのか、どんな作業を組めばいいのか分かりませんでした。本を見たり、話を聞きながら、進めてはいったのですがすべてがうまくいきませんでした。
 また、実際に作業してみるとその作業の難しさを実感しました。「農業は自然と向き合うこと」ということを頭では理解していても、それを体現するにはまだまだ、修行が必要だと感じています。
 もうすぐ、稲刈りが始まります。この作業を経ることによって、米作りという一つのサイクルを体験することになります。この米作りを通して、自然と向き合うことはどういったことなのかということをもう一度考えてみようと思っています。
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清水【2004年9月号】

 畑仕事をする私。少し前まで、私はそのどこかに違和感を感じながら、一つ一つの作業をしていたような気がする。でも最近、その私に少し変化が起きた。畑を目の前にし、何かを感じる自分がいる。それを楽しみにしてなのか、畑を気にし、入居者と共に畑を見つめる自分がいる。
 私は、大学時代に考古学を学び、発掘調査を通して土に触れてきた。土を掘るたびに、そして削るたびに、手に伝わってくるあの何とも言えない感触がたまらなかったのを記憶している。また、「ザクザク」、「シャリシャリ」といった一般的に表現されるような、土を掘る時の音、削る時の音とはまた違ったいわば「手から伝わってくる音」とでも表現すべきようなものを感じていた自分がいたことを覚えている。変に聞こえるかも知れないが、私はいつしか、土が自分と近い距離にあることに喜びみたいなものを感じていたような気がする。発掘調査では、たいてい「トレンチ」と呼ばれる細長い小さい調査区を掘ることが多い。「トレンチ」とは、発掘調査区域において、広大な面積を一度に掘ることが不可能なために、あらかじめ遺物などが確認できそうな区域に何カ所かに設けられた試掘を兼ねた小規模な調査区を指す。その調査区で作業をしていると、自分の目の前には土しかなく、その土と本当の意味で真正面から向き合うことが出来た時、単純な発掘調査というものを越えて、いろいろなことが自然に頭に浮かんできた。この土はどんな土なのか、この土がどうしてここに堆積しているのか。さらには、この土の上で生活していたであろう先史時代の人々の暮らし、そして、現代社会やその当時の自分についてさえ考えていることもあった。単なる土なのだが、その目の前にある土と向き合うことで、本当にいろいろなことを考えることが出来た。その時は、考えることが本当に楽しかった。その考えることの楽しさは、自分にまで関わってくるという何か特別なものがあったからこそ、抱いた楽しさではないだろうか。そして、考古学という世界は、遺物や遺構という一見目に見えた確実な答えのようなものがありながら、実際は見えない部分の方が多い気がする。でも、その見えない部分があったからこそ、私は自分に関わってくるという何か特別なものをひしひしと感じながら、考えることを楽しみとして受けとめられていたのではないかと思う。 …つづく            
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戸來【2004年9月号】

 今年の4月は、新しいスタッフが加わり、体制も一新し、あわただしく半年が過ぎようとしています。業務の流れを考えたり、行事や活動の計画を立てたりする傍ら、畑に出て秋野菜を蒔く準備をしたり、利用者とともにジャガイモを掘ったり、それぞれ農に関わり始めたところです。理事長がよく「痴呆をみているのではなく、人間全体をみている。痴呆は人間全体の一部であり、医療は痴呆という主訴を取り除くことによってもとの状態に戻そうとしたり、治そうとする。我々は痴呆と共にこの人がどう生きるのか、人間全体を寄り添いながら見ていく・・・」と話します。
 私自身とても福祉をしている感覚はなく、私の人生も含めその人がどう生きていくのか、その人とどう生きていくのかと言う視点でここにいるような気がするのです。福祉をしようとするのではなく、農作業やワークステージの販売の戦略を練ったりすることで、銀河の里全体、はたまたその人や私自身が見えてくるような気がしています。
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それぞれの祭り ★及川【2004年9月号】

 9月10日(金)11日(土)12日(日)と、花巻祭りが開催されました。銀河の里でも、2日間に分けて出掛け、多くの利用者の方と祭りを楽しむことが出来ました。子供が担ぐ神輿、手が込んでいる山車、大勢の息がそろった踊りをみせてくれる鹿踊り。見るものは違えども、祭りという独特の雰囲気には、利用者の方々それぞれ感じるものがあったように思えました。今年1年分の笑顔を使い尽くしてはしまうのではないか?と思うくらいずーっと笑い続けている方、お祭りそっちのけで食べることに没頭している人、周りの声に後押しされて神輿に負けぬと踊り出す人、それを「みっともないからやめなさい」と、猛烈に怒り出す人。そこにある神輿や、鹿踊りよりも「花巻祭り」という舞台をかりて、それぞれの祭りを楽しんでいるように思えました。Kさんは祭り会場まで行きながら、車からは降りず実際には祭りを目にしませんでした。それでもKさんは「俺はここに連れて来てもらっただけで嬉しいのだ。見なくても目を閉じて、音だけ聞いていれば昔行った祭りの光景が浮かんでくるから、それで充分だ。」と、楽しそうに言いました。実際スタッフと、車の中で二人きりで祭りの音を聞きながら過ごしたその方は、一番楽しそうでもありました。「祭り」というイメージばかりが先行してしまい、中々「祭り」というものの本来の意味が見えにくくなっている今、自分にとっての「祭り」の意味を問うことも必要なのかなと、目を開けてみるのではなく、目を閉じる事で自分の「祭り」を楽しんだKさんに教えてもらった気がします。
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宮澤健【2004年9月号】

 グループホームをやっていると研修や第三者評価などが義務づけられてくる。研修の機会や外部の視点から話し合うことは、なんとしても多く持ちたいので、ありがたいのではあるが、毎回参加する度に違和感が残る。毎日利用者と付き合っているスタッフに取っては、痴呆や障害ということはほとんど意識されないで過ごしている。関係のなかでそれらは個性の中に取り込まれて、プロセスとして生き始めているからだと思われる。
 ところが、研修では「痴呆とは」とくる。外部評価の視点も、「どう扱っていますか」がほとんどだ。我々は果たして「痴呆」の人に出会うことがあるだろうか。痴呆を持ったAさんなり、Bさんに出会うのであって、痴呆そのものの人など存在しない。「問題行動にどう対処していますか」などと聞かれても問題行動などと思っていないのだから答えに困ってしまう。
 我々の現場と研修、評価の所では視点が違うのだと感じる。我々は暮らしの中で一人の人と生きていこうとしている。「今日は畑に行こう」とか、「今日は祭りだね」とか「どうやって美味しいおはぎを作ろうか」などとやっている。その上で、人生と死という事柄に真っ向から向き合おうとしている現場である。こうした日々は、実にダイナミックでイメージ豊かで、俗の世界から聖なる世界まで貫く面白さや快感がリアルに存在する。痴呆は深いところで変容し、問題行動は重要な表現形態としてコミュニケーションに昇華されていっていると思われる。暮らしと関係性の器の中でこうした変容や昇華が可能となるので、まさしく器の構成が、我々に要請される仕事の中核にあると捉えていきたい。
 一方、研修や評価の視点は、未だに医療モデルに縛られ続けているように感じられる。医療は病因を発見し診断するとそれを取り除くことで目的を達成しようとする。暮らしの中では死は一つの生であるが、医療では死は敗北である。死を見つめないことは人生は扱わないと言うことである。もちろん暮らしや関係性は問題外であろう。痴呆をもったAさんは「痴呆患者」でしかない。ベッドから一歩離れれば徘徊であろうし、イメージの物語が語られようと「妄想」としかとらえられない。縛られるのが嫌で抵抗すれば、暴力行為とされてしまう。
 痴呆やそれを取り巻く老いや死は取り除かれたり、ないものとされる事柄ではない。それらは人間の生に取ってあまりにも重要な生きるべき事柄に違いない。
 突き詰められ、限界かと追いつめられそうになりながら、揺れ動くところから我々の一歩は始まる。客観的な所で、自分は一切追いつめれる事も、動かされることもなく、操作的に対処する立場には我々はいないはずなのだが、現在の研修や評価はそういう視点を持ち込んでくる。
 もちろん、痴呆に対する現時点での知見の最先端は知識として知っておいて悪いことではないし、そうした情報を入れていく努力はすべきとしても、我々現場のスタッフに必要なのは、痴呆の知識を越えて、人間そのものへの感心、こころ、人生、たましい等への深い思索や見識なのではないか。
 徘徊だの妄想だの問題視する方が問題だといいたい。痴呆はその人によって生き抜かれるべき事であって、他者によって否定されたり取り除かれるものではない。痴呆の否定はその人の否定にさえ繋がりかねない。そうした事を現在の研修や評価はやっているのではないか。徘徊と呼ばれる事も付き合えばわずかな散歩であったり、遙かな旅路であったりする。そうしたことを受け入れる器のまなざしを持ちたいと願っている。
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