グループホームをやっていると研修や第三者評価などが義務づけられてくる。研修の機会や外部の視点から話し合うことは、なんとしても多く持ちたいので、ありがたいのではあるが、毎回参加する度に違和感が残る。毎日利用者と付き合っているスタッフに取っては、痴呆や障害ということはほとんど意識されないで過ごしている。関係のなかでそれらは個性の中に取り込まれて、プロセスとして生き始めているからだと思われる。
ところが、研修では「痴呆とは」とくる。外部評価の視点も、「どう扱っていますか」がほとんどだ。我々は果たして「痴呆」の人に出会うことがあるだろうか。痴呆を持ったAさんなり、Bさんに出会うのであって、痴呆そのものの人など存在しない。「問題行動にどう対処していますか」などと聞かれても問題行動などと思っていないのだから答えに困ってしまう。
我々の現場と研修、評価の所では視点が違うのだと感じる。我々は暮らしの中で一人の人と生きていこうとしている。「今日は畑に行こう」とか、「今日は祭りだね」とか「どうやって美味しいおはぎを作ろうか」などとやっている。その上で、人生と死という事柄に真っ向から向き合おうとしている現場である。こうした日々は、実にダイナミックでイメージ豊かで、俗の世界から聖なる世界まで貫く面白さや快感がリアルに存在する。痴呆は深いところで変容し、問題行動は重要な表現形態としてコミュニケーションに昇華されていっていると思われる。暮らしと関係性の器の中でこうした変容や昇華が可能となるので、まさしく器の構成が、我々に要請される仕事の中核にあると捉えていきたい。
一方、研修や評価の視点は、未だに医療モデルに縛られ続けているように感じられる。医療は病因を発見し診断するとそれを取り除くことで目的を達成しようとする。暮らしの中では死は一つの生であるが、医療では死は敗北である。死を見つめないことは人生は扱わないと言うことである。もちろん暮らしや関係性は問題外であろう。痴呆をもったAさんは「痴呆患者」でしかない。ベッドから一歩離れれば徘徊であろうし、イメージの物語が語られようと「妄想」としかとらえられない。縛られるのが嫌で抵抗すれば、暴力行為とされてしまう。
痴呆やそれを取り巻く老いや死は取り除かれたり、ないものとされる事柄ではない。それらは人間の生に取ってあまりにも重要な生きるべき事柄に違いない。
突き詰められ、限界かと追いつめられそうになりながら、揺れ動くところから我々の一歩は始まる。客観的な所で、自分は一切追いつめれる事も、動かされることもなく、操作的に対処する立場には我々はいないはずなのだが、現在の研修や評価はそういう視点を持ち込んでくる。
もちろん、痴呆に対する現時点での知見の最先端は知識として知っておいて悪いことではないし、そうした情報を入れていく努力はすべきとしても、我々現場のスタッフに必要なのは、痴呆の知識を越えて、人間そのものへの感心、こころ、人生、たましい等への深い思索や見識なのではないか。
徘徊だの妄想だの問題視する方が問題だといいたい。痴呆はその人によって生き抜かれるべき事であって、他者によって否定されたり取り除かれるものではない。痴呆の否定はその人の否定にさえ繋がりかねない。そうした事を現在の研修や評価はやっているのではないか。徘徊と呼ばれる事も付き合えばわずかな散歩であったり、遙かな旅路であったりする。そうしたことを受け入れる器のまなざしを持ちたいと願っている。
posted by あまのがわ通信 at 00:00|
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