あけましておめでとうございます。
「銀河の里」も開設から3年が過ぎ、4回目の新年を迎えることができました。グループホームに入居のかた、デイサービスをご利用のかた、その家族のかた始め多くの関係者の方々に支えられやってこれました。また銀河の里開設以前から、お米を産直でご利用頂いた皆さんには、長い方でもう10年以上も支えていただいたことになります。本当にありがたく感じております。今後とも里の成長を支えて頂きますようお願いいたします。
ともあれ、3年というのは大きな区切りでもあると感じています。経験もなく見よう見まねといった状態でスタートした米作りも今年は12回目に挑戦となります。一度として同じ年はなく、天候というのはこれほど違うものなのかと思い知らされます。何もかも一回限りの貴重な出来事ということは、農業に通じていえる事なのだと感じ始めています。
里の3年間は、農業よりも激しくいろいろな事が濃密に展開していきました。農業だけの時は一人か、休みの日に数人でやっていたことが、里では、各部署32人のスタッフがいて、利用者も常時18人が暮らしていて、平日には10人のデイの利用者がやってくるというにぎやかさです。いくら里が小規模施設とはいえ60名以上の人と人の出会いが起こる訳ですから、すごいことに違いありません。またいくつかの別れもありましたが、それぞれ味わい深く貴重な事として受け取って行きたいと思って来ました。
右も左も分からない状態でのスタートから3年経って、いくらか見えてきた点もあるし、方向も定まってきつつあるのかなという感触もあります。今年はそこらあたりを、文章化したり、研究を初めて行きたいと考えているところです。
グループホームや、小規模のデイサービスでどういうことが起こるのか、どういう可能性があるのか、里なりの独自な視点から、何が見え、何を考えなければならないのか考えて行きたいと思っています。
里には、確かに痴呆のお年寄りが集まっているのですが、スタッフが、普段そうした障害や症状を意識することはほとんどないのではないかと思います。障害を抱えながらも、「どう生きていくのか」ということに視点があると言っていいのだと考えています。
どう「生きていくか」というテーマは、だれにも通じるテーマです。その共通のテーマに、差し出された課題を通じて向き合っていこうということをやっているんだという説明が一番近いような気がします。しかしこれは一般にはなかなか理解されがたい内容だと思います。痴呆の高齢者は社会や家庭では無理なので、我々があずかってお世話しているという次元とは絶対的に違うのです。人は解りやすいストーリーにしがみつきやすいので、単純で安直な物語を示されるとそれにしがみつくようにして理解したつもりになりたがる傾向があります。そしてそれは、自分とは関係のないこととして、新聞の記事のようにひとごととして捨て去る為には必要な安直さのようです。
何とか問題とか、何とか対策等というのはそうした人ごとで安直な物語を作って解決してしまおうとする次元の代表のような気がします。そうした次元を横軸と考えると、里でやろうとしているのは、「人生の縦軸」ではないかと考えています。存在としての縦軸に入っていくということです。ひとりの人がどう生きてきたのか、今、何を思っているのか、これからどうなっていくんだろう。生きるということはなんなんだろう。こうした人間存在に対する真摯かつ謙虚な姿勢が「人生の縦軸」に向かうにとき求められます。
日本の百姓は農業に取り組みながら、天候や自然を含めて、真摯かつ謙虚な向き合いを自然とやってきたのだと思います。日本の文化の基盤にある仕事だけあるなと感じさせられます。一方、福祉の業界は、まるでそうした姿勢がないのではないかと感じるほど、暴力的に感じることがあります。高度な技術と知識に裏付けされているはずの医療にさえ、真摯かつ謙虚に向き合う状況は見あたりません。症状や問題として「私」の部分が扱われる事はあっても存在としての「私」の縦軸には一切関わろうとはしない現状があります。
人生の縦軸とどう向き合いどう生きるのかというテーマを里は持ったのだと思います。それは今後の里の方向でもあります。地域や、社会、もしくは世界とつながりを持ちながら、一人の人と存在の次元から向き合っていく。そうした可能性がグループホームにはあるのだとの発見があったのがこの3年間だったといえるでしょう。
今後はその内容をじっくりと生きる、そしてそれをできうる限り伝えていく努力をするということが、4年目に向かう里の課題であろうと感じています。
posted by あまのがわ通信 at 00:00|
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