2003年12月15日

今年を振り返って ★宮澤健【2003年12月号】

 一年が終わる。またすさまじい一年だった。昨年十一月に第2グループホームが開所し、利用者もスタッフも大所帯になっての一年。傍ら来年4月からスタートする授産施設の準備に追われた。5月に授産のハウスが完成し、青じその生産を始め、営業に歩いた。夜中まで葉っぱ取りの日々が続いた。
稲作は今年で十回目、春は天候に恵まれ田植えまでは順調過ぎるくらいだったが、今年は夏がこなかった。稲作を始めた平成5年以来の冷害となる。
 一方、「銀河の里」は、開所して3年目、若いスタッフはたくましく成長しつつあり、各部門はリーダー中心に着実な仕事を進めている。活動報告も各所で行い、里独自の道を切り開きつつあると感じている。
里の2大イベントである縁日と収穫祭は、今年も多くの方にきていただき盛況となった。
 基盤となったのは農業であるものの、里の方がすでに軌道に乗りつつあり、農業は未だ厳しい道を歩みつつある状況がある。今後、授産とのからみで農業をどう展開、打開していくか勝負になってくる。
農業を基盤に障害者の暮らしをつくるというのが銀河の里の根幹にある。そういう営みが様々な形で地域に波及していけば面白くなるだろう。
 農業は知恵の勝負であり、暮らしはクリエイティブな要素を必要とする。知恵で勝負できなくては農業は敗北するし、なにか創造的なことがないと暮らしは続かない。「考え」「知る」努力と取り組みが我々に求められている。
 来年以降は、授産を通じて農業と農産加工を展開し、暮らしの場面では事例発表や研究をそれなりの場で発表できるレベルに高めて行きたい。
 それらは、里のためではなく、個々が個々の課題を生きるために、里の場を利用して力をつけ、やりたい事を実現していく過程であってほしいと思う。人と人が出会い、その中で人が育って行くこと、それこそが里の存在の意味であり目的なのだと信じている。
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今月の句と解説 ★宮澤健【2003年12月号】

にぎられる腕のいたみ彼女のいたみ 板垣

 ふとしたことで腕をつかまれて、それが結構痛くてはっとした。
 なにかいいたいのかな、伝えたいのかな。それがうまく伝わらないんだろうな、
そんな彼女のこころの痛みが私の体の痛みとして伝えられているような気がした。
そんな気持ちを詠んだ句。
 我々の現場では通常のコミュニケーションが取れることはむしろ希である。一般には問題行動と呼ばれる言動、行動の中にその人の心をつかみたいと願いながら関わっているスタッフの姿勢が、腕を握られたという接触を通じてこうしたイメージをもたらした。日誌に「暴力行為あり」と記述して終わりそうな、日常の出来事なのだが、もしかしたら彼女の心の痛みを、今自分は体で伝えてもらったのかも知れないとイメージしたとき、受容、共感などという教科書的な生半可な知識ではないなにかが起こっているような気がする。


 歩みゆく道はそれぞれちがえども我見せらるる姿すさまじ 清水

 詠み手のスタッフと関わる利用者の年齢差は60歳を前後するだろうか。同窓生を指すような書き出しだが、遙かな年代差がある。違うも違いすぎる。しかしその違いすぎる人がいかに自分自身を照らし出し、引き出すか。それはすさまじくて時には耐え難いくらいであろう。そういう関係を生きているのだということがよく伝わる句だと思う。
介護などと言った陳腐な作業に終始したくはない、我々はこうして出会い、向き合い、生きたのだという事実が大事なのだ。作者は暗にそう叫んでいるような気もする。


 あなた誰話す自分に問いかける 及川

 現場にはもう半年も毎日会って生活しおつきあいが続いているのだが、名前どころか顔さえ覚えてもらえない方も当然おられる。初めは「あなた誰」と問われる度にととまどったものだが、最近はさほど驚かなくはなってきた。しかしその問いには新たな意味が乗ってくる。「俺って誰なんだろう」介護者で良いわけはない。それは求められてもいない。誰なら良いのだ。俺は何者なのだ。私は何者としていればあなたと出会えるのだろう。「あなた誰」の問いかけに揺らぎ続けるスタッフがいる。


 茶はいらん里人笑在るそれでいい  鈴木

 いくらか説明がいる言葉遊びのある句。ある日、AさんがBさんの部屋を訪ねた。Bさんはお茶を出そうとしたが、Aさんは笑って話して過ごせればそれで良いといった。Bさんの名前はサトリさん。そこで銀河の里の人とかけて里人(さとり)、「笑居る(わらいる)」はわらえるとかけているが、そのこころは、里では、何かやることではなく、居ること、在ることの価値を見いだして行くんだということをなんとか伝えようとしている。何気ない日常、誰が何をしたというのではない、あなたが在るということ、居てくれること、それがいかにありがたく重要なことなのか、スタッフ自身がどこか癒されながらそれを実感したのではないか。
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「全国宅老所・グループホーム研究交流フォーラム2004」に参加して【2003年12月号】

 なにやら同業者の全国大会があるらしく、一つの分科会のシンポジストの代役を依頼されました。好奇心が強いのでヨシとばかり引き受けてしまいました。発表用レジュメがなんとA4で5枚というので「おお太っ腹」とばかり張り切って書いて送りました。当日、現場の精鋭スタッフ男性3人も良い研修になるのではないかと2泊3日で意気込んで参加しました。
 ところが、会場に着くなり大会要項の大夫な冊子を受け取ってサラとめくった途端にがーんとなりました。
 全く勘違い。誰もグループホーム(GH)で起こっている、人の出会いや、関係性を論じるなど考えてもいない様子です。いきなり帰りたくなりましたが、前もって謝礼も頂いてしまったし、今更帰る事もできず、出番の二日目を迎えました。
 大会の趣旨は、どうやら大規模施設ではダメで小規模が良いのだという事をアピールする事にあるらしく、地元の県知事や他にも二人も県知事が参加しておられ、厚労省の偉い方もたくさん登壇されました。小規模だと安く済むぞというのが売りのようです。それはそれで大事な事ですが、その内容に関して大いなる可能性を語りあえるかと期待したのが外れました。
 大規模で非人間的に扱われがちだ、だから小規模がいい(安いし)とここまではその通りですが、その先、小規模ですでにやっている人たちがすでに6000カ所くらいあって、長いところは10年以上やっていて、3年クラスが大量に経験を重ねている現状で話すことが「小規模がいい」と言った表面的な事柄では弱いはずです。
 我々の分科会は急増する小規模施設つまりGHの質をどうするかだったのですが、ひどいところもあるのでそういうところは認可を取り消してもらおうという結論では話になりません。そういうマイナス思考は現場にいらない。創造的で建設的な発想が必要です。
 だいたい、上から管理して何とかしようとする姿勢が気にくわない。質を確保しようと政策でやっていることは、研修と自己評価、第三者の評価ですが、それこそ大規模の感覚の人物が研修の講師が登壇し、人と出会った経験など一度もないだろうと問いつめたくなるようなレベルの人格にしかお目にかかれない現状です。
 評価システムなどと言って、「理念はちゃんと書いてありますか」、「それを職員は覚えていますか」等と愚かな問いに、○×で答えてチェックする事に何の意味があるのわからない。評価表をチェックしていると、力が抜けてきて、「こんな事に答えたくもない」と怒りがこみ上げてくるのが現状です。
 GHという大家族の暮らしの場では、介護という概念は消えてしまいます。「扱う」と「関わる」の違いがあると思うのですが、これは人の姿勢として世界そのものが違ってくると感じています。一対一で出会ってしまうのがGHなのです。人と人が出会ってその関係性をどう生きたのか、そういうことが現場から、物語として語られる事こそが重要なのだと思います。
 なぜ現場にある者が、現場を知らない人間から現場に関する研修を受けなければならないのか。あまりに無意味な研修や講師が多すぎます。人と出会い、向き合うプロにとっては、いい音楽や演劇、芸術作品等に触れたり、一流の職人の仕事ぶりなどを学んだりする方がよほど力になるはずです。現場にある者は現場に縛られてしまってはおしまいだと言うことが強く印象に残ったのでした。
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