2003年10月15日

清水【2003年10月号】

 私は征司さんが鍬を振るう姿が好きだ。その姿をただ単純に見ていたくなる。それはどうしてだろう・・・。
 征司さんが鍬を振るうと、その後には真っ直ぐな畝が出来上がり、その畝に私たちは今までいろいろな野菜の種を播いてきた。実際、銀河の里で食卓に上がってくる野菜も、基をたどれば、征司さんが苦労して作った、この真っ直ぐな畝から生まれたものだ。
 征司さんは畑仕事をする際、必ずと言っていいほど「鍬はあるっか?」と聞いてくる。だが、そこで「あれ、どこにあるっけ?」と探し回っている私。そんな姿にしびれを切らしたのか、征司さん自ら鍬を探して、敷地内を歩き回る姿が見られることもあった。
 そんなこともあり、9月のある日、スタッフと共に隣町の金物屋に出かけた征司さん。何を買ってくるのかと思ったら、鍬を買ってきた。私から見れば、何の変哲もない鍬。だが、一緒に買い物に行ったスタッフから話を聞くと、鍬を買うにあたって、店に並ぶいろいろな鍬を店内で実際に試し振り?して買ったとのこと。二つの同じ商品を試し振りして、「あれよりこっちのほうがいいな!」などとも言ってはいたようだが、征司さんが吟味して選んだ鍬は、きっと特別なものなのだろう。
 次の日、裏の畑を見ると、早速畑を耕す姿があった。いとも簡単に鍬を使う征司さん。畝もいつのまにか出来上がってしまっていた。
 私は銀河の里にやってきて、征司さんの鍬裁きを隣で見ながら、見よう見まねで畝を作ったりしてきた。だが、今でも征司さんの作る畝にはかなわない。征司さんは、実際に農業をしてきた人ではないと聞く。でもかなわない。それはどうしてなのだろう?
 征司さんは鍬を使って、自分の今までの人生を表現する力を持っている。だが、今の私には表現するものも、能力もない。そう感じてしまう。だが、私はここで、そんな貴重な人間に出会えている。日々、そんな人と一緒に暮らしている。今、私はものすごく貴重な時間を生きている・・・。
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渡辺【2003年10月号】

 9月15日月曜日(旗日)晴天のもと、利用者、家族、スタッフの15名で手作りのお弁当を持って、ランチドライブへ行ってきました。コースとしては、石鳥谷の道の駅にてお弁当を広げ、木陰でのんびりと過ごし、紫波の産直に寄り、ブドウ園にて、ブドウ狩り!というものでした。さて、ここで一句・・・。

「ブドウ園 やっぱりここでも くしゃがおが」

 GH2の民謡歌手と言えば、この方しかいない!と言われるほど、今ではすっかり知られている弘さん。弘さんの歌声は、今では施設と道路を挟んで新たに建設されたシソハウス、ベランダ、散歩道、浴室、晩酌が行われるリビング、ドライブ中の車内など、ありとあらゆる所で響き渡っています。
 その弘さんの民謡は、歌声だけでなく、歌っている時の顔までもが本当に魅力的なのです。ここぞとばかりに長く息を続けようと頑張るためか、くしゃ〜っとなるのです。その表情と自分流にアレンジされた歌声を止めようとする人は誰一人いません。むしろ、その弘さんの世界に引き込まれるかのように、自然と手拍子がはじまり、さらには歌が苦手だという人も、それにつられて歌を口ずさんでしまうほど・・・。皆を一つにまとめあげてしまう不思議な力を持つ、強くもあり、優しくも感じられるその歌声。その歌が晴天のブドウ園でも、それがいつものように手拍子とかけ声と共に響き渡ったのでした。
別々の人生を送ってきた人たちが、偶然なのか、はたまた運命なのか、里で出会い一緒に出かけ、同じ時を過ごしている・・・。一見不思議なようだが、全く違和感なく笑い合えている。ここでの出会いを大切に、今度はみんなで、紅葉ドライブへ出かけたり、秋野菜の収穫なども堪能していきたいものです。
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及川【2003年10月号】

 先日、小豆の収穫を行いました。まだ殻に包まれた宝石たちは、しばらくテラスで天日干しされます。秋の日差しにゆっくりと乾いていく小豆、そこに集まって豆よりを始める里の面々。
 収穫の後の小春日和の日差しに広げられた小豆。それがそこにあるだけで、一人、また一人とそこに座り、小豆を殻からむく手を休めないまま「私、最近眠れないの」などと、会話が始まります。
 その光景から、私は漁師の帰りを待っている女性達の姿が思い浮かびました。漁に出た漁師達を待ちながら、朝食の準備をしたり、釣ってきた魚を干物にしたりしている姿は沿岸育ちの私には馴染みの光景でした。農家の人たちには農家なりのこうした「暮らし」が営まれて来たに違いありません。それはごく当たり前の、家族の「つながり」であったはずです。こうした「つながり」は切っても切れない「つながり」であり、あるべくしてあったものなのです。
 核家族化が進み、ライフスタイルが多様化していく中で、私たちは「つながり」を感じる機会がほとんどなくなった時代を生きています。仕事、生活、家族全てが断片化され、一つ一つがきれいにフレームの中に収まってしまうような生き方になりがちです。
 私が都会の生活を離れて祖父母の下へ戻ってきたのは、介護のためという表面的な理由の裏で、本当は「つながり」を求めていたのかもしれません。
 福祉を毛嫌いしていた自分が「銀河の里」にはまって、農業にも興味を持ってきたのは、ここに「暮らし」通したリアルな「つながり」を感じるからです。
 小豆選りの空間に職員は何一つ口を挟む必要もありません。入っていくことはおろか、カメラのストロボさえ遠慮しなければならないくらい大事にしたい風景です。小豆が生んだ「つながり」の風景。いつか自分もそんな風景の中に入っていたい。そこで実感出来る「つながり」はどんなものなのだろう。小春日和の日差しの中で、小豆を選る手は休めることなく語らう輪を見守りながら考えさせられたのでした。
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戸來【2003年10月号】

 今年の8月に飯田さんとの別れがやってきました。銀河の里は開所して3年目の施設で、飯田さんとは開所間もなくデイサービスで出会い、2年と3ヶ月おつきあいさせていただきました。そして、家族の方には弔辞まで読ませていただきました。飯田さんが生きてきた年数に比べれば短いけれど、私にとっては濃密な時間となり、貴重な経験をさせて頂きました。
 入院中の飯田さんに面会した時、自分がもはや何もできない無力さを思うと、悔しくて悔しくて申し訳なく、たまらない思いがこみ上げてきました。飯田さんは老いや痴呆と向き合いながら、生きていく姿を私にまざまざと見せつけてくれました。最後は病院のベットの上で横たわっていたわけですが、それでも何か伝えていたような気がします。今、一緒に過ごした2年と3ヶ月を振り返りながら、この時期は飯田さんの人生にとっても、大切な時期だったのではないではないかと感じます。その時期を一緒に過ごせたことは、私にとって、とても重要な事だったと思います。
 よくソファに座って過ごしていました。横に座ると、なぜか包み込まれるような安心感を感じました。ソファの座り心地の問題ではなく、きっと飯田さんの人柄がそう言う雰囲気を作り出していたのだと思います。また、併設されているグループホームによく遊びに行きました。入居されている人が「紳士だねぇ、あの人誰だい?」って言います。人柄はそこにいるだけで伝わって来るようでした。
 私は、そんな飯田さんを「素敵」な人と感じて知らず知らずのうちに尊敬していました。自分もそういう風に生きてみたい(老いたい)とまで思えました。
 一般的に老いや痴呆は切なく、空しいものと思われるかも知れないけれど、そこから学ぶことは多いのだと飯田さんは教えてくれました。大切な出会いをくれた飯田さん、本当にありがとう。
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