2003年09月15日

銀河の里で恒例の縁日を開催 ★佐藤翼【2003年9月号】

 前日の夕方から雨で「当日は雨かなぁ。」とやきもきしました。
 縁日当日,朝から降ったり止んだり。「“銀河の里のイベントは必ず晴れる!!”という、ジンクスも遂に終わりか?!」と思った矢先、なんと開場30分くらい前から雨はやみ、その後雨は落ちてきませんでした。スタッフの強い想いが、雨雲を消し去った様でもあり、会場の意気も自然ともり上がります。
 私は、イベントを運営側ではなく、入居者の方と楽しむ側にまわり、入居者の弘さんや征司さんと、焼き鳥に焼きそば、たこ焼きにさらにはビールなどたのしみました。アルコールが程良くまわったところで、弘さんお得意の民謡が・・・自分では趣味程度と言ってはいるが、なかなかのもの。ついには輪踊りに飛び込んで、いつもは堅い感じの弘さんが違った人のようにはしゃいでいるのを見て、みんなほのぼのとした気持ちになったのでした。
 私にとっては銀河の里に来て初めてのイベントでしたが、このイベントに自分も関わって成功できたんだと思うと少し自分に自信がついたような気がしました。来年の縁日には授産施設も加わり銀河の里は大きくなっています。それに負けず自分も大きくなって頼りがいのある男になってやろうと心の中で燃えました。
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グループホームに英子さん入居! ★板垣【2003年9月号】

 英子さんは、今まで家を空けたことがなく、家を守ってきた女性。果たしてGHに落ち着いてもらえるだろうか。
 英子さんとの出会いは、デイサービスに来たとき・・・。
私:「初めまして、これからお茶にしようと思っていたところです。よろしかったら一緒に飲みませんか?」
英子さん:「そうしたいのはやまやまですが、お客さんが来るので行かなきゃならないの。またすぐ来るから」
私:「お客さんは何時にいらっしゃるの?お客さんにお茶出しますよ」
英子さん:「いやいや、まず今日は帰るから」
と足早に戻っていく。それから、何日か同じやりとりを繰り返した。そして、何度会っても私はいつも初対面の人なのだ。
 入居当日、スタッフはどう関わるか悩んでいた。
 夕食前、「私、帰ります」(やはり、「帰る」だよな。家空けられない人だもんな。)そんな思いがよぎる。
 予想通りの展開で「帰る」と言って外出となり一緒に歩く。しばらくして別のスタッフが車で迎えに来る。ドライブして戻ると夕食が始まっていて、英子さんも食卓へ。
 今晩、何が何でも帰ると言い張って、寝てくれないんじゃないかと不安がふくらむ。(なんて声かければいいんだよ。訳わからなくなって、頭が真っ白になる)
ところが、「息子さん、明日の昼まで戻らないんだって。」「そう、じゃあここで寝ればいいね。」(えっ、泊まってくれるの?)こんな会話の後、なんとあっさりとあっけなく、泊まることになって、持ってきた荷物をさっさとタンスにしまい、寝てしまった。
 スタッフの不安や、やきもきを解って、泊まることにしてくれたのだろうか?意外な展開に、うれしい拍子抜けの初日となった。
 英子さんは、ジョークがうまく、粋な会話が交わせる。踊りも好きで、どんどん披露してくる。
 人に頼まれると「いや!」と言えない英子さん。自分を「お人好し馬鹿」だといって、話を聞いて、相談にものってくれる。
 始まったばかりの英子さんとの暮らし。「帰りたい」気持ちも大事にしながら、安心してもらえるよう関わっていきたい。英子さんよろしくお願いします。
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「銀河の里」と「農」(2) ★理事長 宮澤健【2003年9月号】

 農が全体性や、関係性、リアリティを取り戻す可能性を持っているとしても、農作業をやれば自動的にそうしたことが復活するという単純なことではないのは当然である。
 例えば、草取りという行為も、お手伝いに終わってしまっては、ただ点を打ったにすぎず、「お疲れさま」で終わってしまう。草を取ったので、日当たりが良くなって、肥料も独り占めしてぐんぐん大きくなる。大きくなるにつれ、葉が茂り、わき芽も出てきたので、摘み取ってやる。点で終わるのではなく、命との関連において、関わりを持ち続けなければ、収穫にはとうてい行き着けない。収穫後も、穫れたものを台所に持ち込み、調理し、おいしいという体感をもたらせ、命につなげていくという具体的な事柄の連続。こうした生命に連なるプロセスが重要なのだ。
 表面では同じことをやっているようで、こなしているのと、創りだしていくのとは生き方が違う。こなすのには自分を関わらせる必要がない。現代人は対象を操作してきれいにまとめ、点を打って終わりといった経験ばかりで育ってしまい、一生そのままである可能性も高い。そうなると生きる事がなかなか難しくなる。生きるということはプロセスなのだ。プロセスは関係を必要とする。
 介護の現場でも「痴呆高齢者」などと、抽象概念でひとくくりにして、困った人として扱い、お世話するなどという感覚では、ただの介護屋になってしまい、百年それを繰り返しても、そこにプロセスは生まれない。
 里では「痴呆」を意識する事はほとんどない。確かに、たいていの人が物忘れは極めて見事だが、そんなことは当然で、別に騒ぐ程の問題ではない。「ご飯たべたっけか?」「さっき食べたよ」「そっか、そう言うならそうなんだ」という会話が成り立つ関係が面白い。一方、「食べてない」と言い張り、一日5食になってしまう人とは外食を楽しめる。食欲のない人や、節約型で遠慮してしまいがちな人では、昼間レストランで、お茶の楽しみを共有することは難しいが、「みんなには内緒ね」と目くばせでほおばる横顔に気持ちがつながる事がある。
 限定した次元での操作ではなく、暮らしの守りの中で、個々と出会い、具体に生きる。自らを全体性の中に投げ込み、関係に生きる。それは、植物の命に繊細に関わりながら、土、水、太陽、風などの世界と深い関係を必要とする農に近い。一昔前なら、わずかな気象の変動などで、その収穫が無となれば、飢えてしまうことになった。我々はそうした時代の緊張感とはほど遠い所に生きているが、そうしたリアリティにいくらか触れることも我々の仕事に必要なことではなかろうか。
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